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労災調査士『ファイル22 墜落(レッコ)』 9

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「それは織田ちゃんに聞いてよ洋ちゃん、全部織田ちゃんの手配なんだから、織田ちゃんも苦労するな。さて行くかな、安全帯の完全使用宜しくね。レッドカード三枚で退場だからね。はいご安全に」
 洋二の質問をはぐらかして休憩室を出て言った。大竹建設では新たな制度としてレッドカード退場制度を導入していた。現場規則、特に安全帯未使用者に罰則を科す制度である。三回監督から違反を指摘されると退場となる。ヘルメットに細工されたシールを張る。捲るごとに黄色、赤、退場となる。バブル崩壊後、職人余りが続いている。元受けサイドの強気の制度でもある。
「あの野郎、ふざけやがって」
 田中が長井の後ろ姿に言い放った。二和建設のテーブルは白けていた。期待していた長倉はへっぴり腰だった。織田も少しは意見するかと思ったが黙って頷いていた。
「織田さん、高品さんと瀬田の兄貴呼んであげてよ。はっきり言って岡田、瀬田舎弟コンビよりずっと技術がある。安全廻りしてもらえばいいんだ、巧いし早いし。そうすれば外部足場の俺達も専念出来るから遅れたりしない。岡田瀬田舎弟コンビの安全廻りに時間が掛かり過ぎるから足場本体が呼ばれてしまう。安全廻りなら還暦過ぎたって全然問題ないじゃない」
 田中が本人達の前ではっきりと言った。岡田も瀬田武も笑っていた。笑って誤魔化していればすぐに時間が過ぎる。そうやって生きて来た。
「齢だよ齢、この不景気に若いの使うように言われてんだよ。岡田さんも武ちゃんもまだ六十まで二つ三つある。その先は分からないからね。景気が戻ればこんな話もでないだろうけど、まだ先は見えない、増々不景気になるって予想だからな。俺に出来るのはそれぐらいだよ。そうやって二和建設はやってきたんだ。文句があるなら止めればいいんだ。誰かが止めれば誰かが入れる。いいよ俺は誰だって、だけど俺の付き合い優先して今のメンバーになっているんだよ。高品さんだって瀬田さんだって入れられるものならとっくに入れてるよ。世の中がそうなってるんだからしょうがないだろ」
 この話になると織田の締め括りはこの内容になる。そうするとそれ以上は口出ししなくなる。下手に口出して辞めなければならないことになっては自分の生活がままならなくなる。岡田は齢の話になると弱い。既に六十一を過ぎている。今年六十二になる。それは本人だけが知る。自分の保身のためには嘘をつき通す。就労カードと言う業界のパスポートがある。一度作成すれば一年ごとに健診に合わせ更新していくだけ。内容は年齢がひとつずつ嵩む、健診の日時が変更されるだけで他の確認作業は何もない。岡田はもう二つぐらいサバを読んでいればよかったと悔やんだ。それなら五年は鳶として雇用してくれる。五年辛抱していれば景気も持ち直して来るかも知れない。齢の嵩んだ職人達の嘆きが聞こえる。
 働き手がいなくなればまた風向きが変わる。暇なら元受けが主導権を取る、逆に忙しければ職人達が威張り腐る。こういう関係で続いて来た業界である。ただバブルの時はお互いがウインウインだった。そして弾けて職人達の地獄が続いている。

 仕事帰りに洋二の誘いで田中と関野が高品の行きつけ酒場に寄った。
「おう、元気か、今日も暑かったろう」
 高品は座敷席で出迎えた。
「ご無沙汰してます」
 関野が調子よく挨拶した。
「親方は?」
 山崎は洋二の誘いを断った。間に入るのが面倒だった。
「今日は俺の奢りだから好きなもん頼んでくれ」
 関野がメニューを見て選んでいる。
「織田さんは親父のこと使いたくねえようだ」
 飲食が一段落して洋二が本題を切り出した。
「織田さんの頭には還暦の二文字しかない。法律で高所作業は六十歳までなんて決められていない。藤木さんの事故とその悲しい結末に池田所長が拘っているだけだ。職人に齢なんか関係ねえだろう。それに一つか二つの違いできっちり線引きするのはおかしいだろう。人を見ずに齢だけで判断してんだ。馬鹿野郎どもだよ」
 田中が言い放った。それをどうして織田の前で言ってくれないのかと洋二は言いたかった。田中自身もそれを分っている。しかし自身の首を掛けてまでは無理だった。飲んだ時、酔って愚痴で発散するしかなかった。
「岡田さんが親父の悪口言ってんだ。調子いい事言って織田さんの機嫌取りだ」
 洋二がこぼした。
「僕も聞きました。鳶は還暦までだよな、俺もあと二年だ。順番だから仕方ないよ織田さんて、織田さんが長井部長から注意された後に言ってました」
 関野の話が火を点けた。
「あの野郎そんなこと言ってんのか。ろくな仕事も出来ねえくせに偉そうに。岡田と武の二人で安全廻りなんてどうにもならないぞ。間に合わないから俺等が途中で抜けて間に合わせんだ、それが毎日だ。あいつ等の仕事量は俺等の三分の一もないぞ。それに間違いだらけですぐに邪魔になるしクランプの閉め忘れも多い」
 田中がぶちまけた。
「ええ、今日も親方と二人で直しに行きました。監督の話を理解してないんですよ。だから大工さんが型枠建てるのに当たって建てられない。大工さんお帰りだって監督から叱られました」
 関野が言った。
「岡田さんは保土ヶ谷の現場からそうだった。親父の仕事を貶していた。自分も訛ってるのに親父の津軽弁を馬鹿にしてた。そう言う人なんだよ」
 洋二は岡田が嫌いだった。二子新地の現場でもあまり口を聞かない。しかし織田にコンビを組まされることが多い。織田が安全廻りをするときには武を相棒に連れて行く。その時岡田は一人になり洋二の下に付けることにしている。二子新地の現場では洋二が職長、田中が復職長を務めている。そして災害当日2003年8月12日もその段取りで動いていた。

 2003年8月12日13:25分。洋二と岡田は織田から指示された通りに足場の解体作業をしていた。大竹建設の鳶担当倉田から指示された急ぎ仕事である。

作業内容:足場解体
作業場所:C棟南面
解体方法:大ばらし
 大ばらしとはクレーンを使用して足場をワンブロックにして吊り上げ、下ろしてから下で解体する方法である。枠組み足場で利用される解体方法で今回2段4スパンで吊り上げることになっている。岡田と洋二は織田から作業手順の説明を受けている。しかし二人での打ち合わせはしていない。
玉掛合図者:高品洋二
玉掛合番者:岡田健吾
作業指揮者:高品洋二
 南側は妻側でセットバックした下層、足場の段数は9段と低い。9段9スパン。二段ずつのブロックにすると下部三段は手渡し解体になるので6段9スパン、ブロック数にすると6回である。二回を無事下ろし終えて三回目だった。
「はい、Goヘイ Goヘイ」
「ゴーヘイ ゴーヘイ」
 洋二の巻き上げ合図をオペレーターが復唱しながら巻き上げる。オペレーターから足場は目視出来ない西面からの操作である。
「ストップ」
 洋二が一旦停止する。大ばらしは玉掛ワイヤーを四点で吊り上がる。ワイヤーが軽く張った機を見て確認する。足場の東側に洋二、西側に岡田のポジション。洋二が岡田側まで点検に行く。
「大丈夫だよ、こっちは、自分の方心配しろ」
 岡田は吐き捨てるように言った。
「確認する様に言われてんだよ。それに信用出来ねえし」
 売り言葉に買い言葉。とび職において高所作業では『あ・うん』の呼吸、それに加えて声掛けでの再確認が必須である。元々仲が悪い二人である。一言出れば二言返す最悪の状況だった。
「はい、Goヘイ」
「ゴウヘイ」
「ストップ、親を下げます。親スラー」
「はい、親スラー」
 Goヘイは巻き上げ、スラーは巻き下げ。職人達の隠語である。
「親、ストップ」
「はい親ストップ」
「ちょい右旋回、30センチぐらい、はい右」
「はい右旋回」
「旋回ストップ」
「はいストップ」
 洋二は岡田の顔を見た。
「いいのか、巻き上げるぞ」
「早くしろ下手糞」
 岡田がイラついていた。
 オペレータにも会話が聞こえる。危険作業で上がこれでは不安が広がる。
「はいGoヘイ」
「ゴウヘイ」
 ワイヤーが張った。枠組み足場の建枠ジョイント部がなかなか抜けない時がある。ワイヤーの長さを左右僅かに変えることにより片側から上がる。だが砂塵が詰まって抜けない時もある。長い間には現場から出るコンクリートカスや埃が建枠ジョイント部にたまりそれが雨で染み込み固まる。糊で張り付いたような状態になることもある。洋二はそのジョイント部をラジェットで叩いた。
「オペさん、重量どれくらいかかってますか?」
「1トン200」
 吊り上げ荷重が一目で分る。この重量だと既に切り離されていておかしくない。むしろ張り過ぎ。
「ちょいスラー」
「はいスラー」
 洋二はもう一度ジョイント部を叩いて回った。
「上げちゃえよ一気に、終わらねえぞいつまで経っても」
 技術も経験も岡田に引けを取る。
「うるせいな、黙ってろよ」
 洋二は足場解体が終えたら二度と岡田とのコンビは組みたくないと織田に懇願しようと思った。
「巻け巻け」
 岡田が煽る。
「はいGoヘイ Goヘイ」
「ゴウヘイ ゴウヘイ。1トン400」
 オペレーターが重量を知らせた。このブロックの重量は700キロ、倍の力がワイヤーに掛かっている。ジョイント部が悲鳴を上げているのが分かる。
「ほら巻け巻け」
 岡田が腕を回している。洋二ももしかした力任せで抜けるのかと思った。その時一気に跳ね上がった。洋二側だけが浮いてジョイント部から50センチも離れた。岡田がジョイント部を叩くと岡田側も切り離された。
「旋回、旋回」
 岡田が得意になっている。山崎や田中は切り離し方に色々な技術を持っている。それが洋二にはまだ経験不足だった。それ故に岡田に急かされ力任せの切り離しをしてしまった。
「はい、切り離し、右旋回、右旋回」
「はい右旋回、右旋回」
 洋二の合図にオペレーターの復唱。
「ちょっと待て」
岡田の声は洋二の耳には入らなかった。無線合図者は無線機をヘルメットに装着している、イヤホンからオペレーターの声、それに雑音がザッーと流れ続けている。岡田の喋り声は元々小さい。悪口のように怒鳴れば耳に入るが「ちょっと待て」は普段の喋りだった。切り離したブロックが洋二の方だけ旋回して岡田の方は遅れている。
「ちょっと待て」
 岡田の声と洋二の合図。
「はい右旋回」
「右旋回」
 ほぼ同時だった。岡田の皮手袋が建枠の筋交いピンに引っ掛かっていたのである。岡田は一瞬のうちに墜落した。13:59.だった。高さは足場7段、12メーターである。
「落ちた、落ちた」
 洋二の叫び声。どうしていいか分からない。足場の階段を駆け下りる。
「落ちたぞ、事故だ」
 オペレーターが運転席から半身出して近くにいる監督に叫んだ。すぐに織田の元にも事務所にも連絡が入る。洋二は頭から血を流して虫の息の岡田を見下ろした。こっちを見ている。何か言っているが音にならない。事務所から駆け付けた倉田が「救急車」と叫んだ。池田所長が駆け寄った。
「だいじょぶだ、だいじょうだ、助かるからな、助かるからな」
 命だけは助けて欲しいと池田は神に祈った。洋二は頭上に吊り下げられているブロックを合図して地に下した。織田他二和建設鳶グループが全員駆け寄った。
「どしたんだい?」
 織田が岡田の横に屈んで言った。おかしな言い方だった。場違いな他人事のような話し掛けに違和感があった。岡田は助かり数日入院すれば復帰するだろう、今までずっとそうだったように。織田はそうなるような気がした。
「織田さん、会社に連絡、それから家族にも、早く」
 倉田から急かされて戸惑っている。いつもとは違うと感じた。これからどうなるんだという不安が先に立っていた。
 
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