妖精王の住処

穴澤空

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「安い、って言うから行ったお店、千円だったのよ。信じられる? オル」

 仕事を終えて川崎駅から家に向かう途中。人通りもほとんどない道で憤る私に、オルはあくびをしながら右肩から左肩に、はためきながら移動した。

「ちょっと。あくびしながら人の話聞かないでよ」
「いや、それなら行かなければ良いだろう」
「私も断れるなら断りたいよ。でも、会社の人付き合いってもんがあるじゃない」
「別にあの赤尾とかいう女性は、弥生が断ったところで文句も言わなさそうだが」
「そりゃね。でも、不要な波風なんて、立てない方が良いでしょ」

 私の言葉を聞いているのかいないのか、オルはひらひらとその羽を羽ばたかせて、近くのスーパーマーケットに近付いていった。

「ちょっとオル!」
「夕飯の買い物が先だ」
「今日は買い出しの日じゃないからダメ!」

 他の人には見えず、触れることのできないオルの足を引っ張り、仕事用のトートバッグの中に突っ込む。

「ぶはっ。扱いが雑だぞ」
「飛んでいっちゃうんだから、このくらいでちょうど良い」

 オルは何が楽しいのか、目を細め笑う。

「まぁ良い。今夜はなんだ。夕飯にしろと言われたおにぎりは、会社で冷蔵庫に入れてただろう」

 そう。赤尾さんに夕飯にスライドすれば良いと言われたおにぎりは、そのまま会社の冷蔵庫にしまったのだ。明日のお昼にする。夜はおにぎりではなくて、ちゃんとおかず付きのご飯を食べたい。

「鶏肉を解凍しておいたから、カレーにするよ」
「ほう、そのカレーとやらはどんなものなんだ」

 カレーを口で説明しろというのか。思わず首を傾けながら、口を開く。

「鶏肉が入っていて、ニンジンとタマネギとジャガイモを一口大から少し大きめに切って、カレー粉で煮込んだもの」
「そのカレー粉とはなんだ」
「カレー粉とはなんだ?」

 まるで禅問答だ。

「オル、ヴィクトリア女王の時代まではイギリスにいたんでしょ? インドの料理だから、その頃にはイギリスにも入ってきてたんじゃないの?」
「確かに、その女王の少し前の王の頃に、新しいにおいがするものが、たくさん入ってきていたな。だが──」
「だが?」
「あの国は、いまいち飯が旨くない」

 ため息と共に吐き出された言葉に、思わず笑ってしまった。

「えぇ、イギリスはご飯が美味しくないって、本当なの?」

 イギリス旅行してきた赤尾さんは「言うほどじゃないわよぉ。日本が異常なだけ」だなんて言ってたけれど。

「花の蜜は格別だったが、こっそり口に入れた飯は、食えたもんじゃなかった」

 それはイギリスの人に失礼だろう。しかも、こっそり食べるんじゃないわよ、こっそり食べるんじゃ。

「どんなもの食べたの?」
「ジェリードイールズと人は呼んでいたな」

 言われた料理名に聞き覚えがない。スマートフォンで検索すると、一発で出てきたが、その画像に絶句してしまった。

「これ……うなぎのゼリー寄せってこと?」

 うなぎのゼリー寄せ。日本語的に言えばうなぎの煮こごりなのだろうが、私の知っているうなぎの煮こごりとは雲泥の差がある。そこにはレシピも書かれていたのだけれど、うなぎをぶつ切りにして、酢水とレモン汁、ナツメグで煮込み、その煮汁ごと冷やすものらしい。

「いや、生臭い汁をそのままって、やばさしか感じないんだけど」

 とはいえ、十八世紀に生まれたイギリスの伝統料理だ。他国の伝統料理を悪し様に言うべきではない。言うべきではないのだが──。

「いや、オル。多分、食べた料理が悪かったのよ」

 この他の料理は美味しいかもしれないのだ。あと、日本のうなぎ料理って、やはり考えられているのだなぁなんて思ってしまった。あ、うなぎ食べたくなる。高くて食べられないけど。

「とりあえず、カレーは美味しいから安心して」

 赤尾さんもロンドンで、カレーが一番美味しかったと言っていたな。あれ、欧風カレーとインドのカレー、どっちだったんだろう。
 アルミでできた小さな門を開ける。右手に鉄の階段、そのすぐ裏側が我が家だ。

「その階段、昨日の夜やたらと元気よく上がっていく奴がいたな。カンカンカンカンうるさかったぞ」
「仕方ないよねぇ。二階、大学生が住んでるから」

 大学生の男の子たちが二人で住んでいるらしい二階は、週末になるとお友達がたくさん集まり、週末ごとに騒がしくなる。それでもきちんと学生らしく、一定の時期になると、窓からレポートに関する話題が聞こえてくるので、微笑ましい気持ちになるのだ。
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