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タイム・ハズ・カム
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~タイム・ハズ・カム~
義毅がその店の前に立った時、扉と壁を越して感じたものは、浅く、薄っぺらい思考の気だった。
壁は光沢消しの黒に塗装され、ステンレス製で木製の枠で固められたドアには、「SS」という赤い暴力的な字体の店名があり、ハーケンクロイツを模った銀の真鍮が壁に埋め込まれていた。店前の路地に置かれたスタンド看板には店名と、アーミーベレーを被った髑髏のイラストが描かれている。それが「俺達は骨になっても戦う」という意味の連合国への宣言であったことを、義毅は知識の上で知っていた。窓はなく、外部から中は見えない。ドアの脇には、アクリルケースに入ったカクテルとミートソーススパゲティの模造見本が飾られているが、経営目的は飲食ではないはずだ。
厚いドアを押すと、セピア色の店の照明が目に入り、中くらいに抑えたボリュームのハードコアが聴こえてきた。三十坪ほどのフロアにはカウンターとテーブルの席があり、スキンヘッドを含む極端に短い髪をして主に黒系の服を着た若い男女が生ビールやカクテルを傾けている。
フロアに足を踏み入れて見回すと、行進するナチス突撃隊や、拳を振り上げて演説するヒトラーのモノクローム写真がでかでかと掛かり、ロンギヌスの槍の模造品が飾られていた。
カウンターの奥から、黒の長袖シャツに黒のスラックス、黒い腰エプロンを巻いた男が出てきて、義毅の前に立った。客達の中にも目立つスキンヘッドで、潰れ気味の鼻頭に格闘技経験が覗える、大きな体躯の男だった。客を迎える声はかからず、その目の色にはかすかな威嚇と警戒があった。
「会員証はお持ちでしょうか」声低く、男が訊いてきた。「いや‥」義毅が軽く手を振って答えると、男の顔色の訝りが強くなった。
「登録されますか? そうすれば、今から当店をご利用いただけますが」「いや、いいんだ。今日、ここに来てる女に用があってな。連れて帰らなきゃいけねえんだよ」「困りますよ」男の声と顔に威圧が込められた。
「みんな会員登録した上で、今日の夜を楽しんでるんですから。登録もしてない上に物騒な用件で入ってくる人なんて、帰ってもらうしかないですよ」「あんた、オーナー?」「いや、オーナーは今日はいません。自分は雇われてる立場なんで」義毅は男が軽い食事やドリンク、つまみを提供する店員と用心棒を兼ねていると見た。
席に目を注ぐと、店名、装飾同様にラディカルな外見をした客達の中には、まだ子供と言ってもいい年齢の者も混じっている。
「作山恵梨香はどこだ」義毅が席を見回して声を落とすと、過激な頭と服の客達が、びくりとなって振り向いた。客達が会話をやめて、恐れをなしたような目を義毅に向ける中、角の三人掛けテーブルに着いている若い女二人のうち、一人が一人の胸を手の甲で叩いているのを見た。席には白いパウダーを盛った紙が敷かれ、女二人は短いストローを手につまんでいた。コカインだった。
「私だけど」胸を叩かれていたスキンヘッドに黒ニット、ハーケンクロイツのバッジをつけた黒の革ジャンパー姿で、鼻梁にピアスをした女が口を開いた。
義毅が十五年ぶりに見る姪は、体はよく女としての発育を見せているが、目鼻立ちを含む顔の造りは、最後に会った五歳の時と比べてもさほど変わらず、名乗らなくとも見れば分かる。ルックスを評価すれば、美人と言っていい。頭はともかく、顔立ちも体にも、男を惹きつける魅力があるが、その両目には、劫火の憎しみが燃えている。異様な頭と、その目が、普通の男を引き離してしまう。その憎悪を刻んだ顔が、すでに地のものとなっている。
「恵梨香だよな。俺が分かるか」義毅に問われた恵梨香は、見覚えはあるがすぐには思い出せずにいるという風の表情を顔に固めた。
「大きくなったな、恵梨香。よく顔を見ろ。お前の叔父さんだ。義毅だよ。お前の父ちゃんの弟のな」義毅が言うと、恵梨香の顔にしばしの間浮かんでいたはてなが、笑いに変わった。その笑いには、嘲りが含まれていた。
「知ってるし、覚えてるよ。うちに昔撮った一緒の写真もあるからさ。お前も家、出てったんだろ?」挑戦的な口調で恵梨香は訊き返した。「何で私がここにいんの分かったのかは知らないけどさ、あの親父の回し者で来たの?」
テーブル席が静まり返る中、低く潰れた声のボーカルががなるハードコアが妙に虚しく流れ続けている。ボーカルは「ラィニグング!」という言葉を繰り返しがなり立て、その間に「OⅠ!」という掛け声が挟まれていた。大学在学時にドイツ語を専攻していた義毅には、それが「浄化」を意味する言葉だと分かる。
「今から家、帰んぞ。席、立て」「は? いきなり押しかけてきて、何言ってんの? お前、何しに来たんだよ!」義毅の促しに、恵梨香は怒りを表した。
「お前も博人も、プー太郎とプー子でふらふらしてんだよな。これから場所を改めて俺が話してえことは、そんなことよりも重要なことだ。来い」「うるせえな! 家出したお前なんか他人じゃねえのかよ!」恵梨香は高く怒号して椅子を立ち、義毅に歩を詰めた。
「仕事してねえから何だっつうんだよ。会社勤めなんかしてる奴らよりも、こっちは日本にとってずっと有益な活動やってんだよ」「何の活動だ」義毅が訊くと、恵梨香の口許にまた嘲笑めいた笑いが薄く浮き出した。
「血税と国庫資金食い散らかす寄生虫、日本から叩き出す活動だよ。あいつらがいっから、この国に必要な金が、必要な所へ行き渡らねえんだからさ」「あいつらとは?」「決まってんだろ。自分らが被害者だと思ってる汚えジジババと、気持ち悪いシンチャンどもだよ」「シンチャン?」「ヌマの奴らだよ! たまたま知能が低く生まれてきただけで、何をやってもちやほやされてよ、何かやるごとに特別に素晴らしい、素晴らしいとかって持ち上げられて、自分らがこっちよりも優れてるみたいに思い込んで、いい気になってやがってよ。自分のそういうガキ、動画にアップして、うちの子は特別だみたいなアピールしてる親もいんだろ?」
席は静まり返ったままだ。義毅は分かっている。その活動というやつも基本一人では出来ず、集団に加わることで酔う、子供の域を出ていない弱者の集まりであることに変わりはない。恵梨香の精神的発育も、幼いレベルに留まっている。それは子供の昔に受けた惨い傷が、社会経験を始めとする成長に欠かせないステージを踏ませなかったからだ。しかし、義毅は、その社会経験というものを思った時、自分のことも苦笑するしかない心持ちになる。だが、今はそんなものはどうでもいい。
「ヌマで絵だとかダンスが上手いとか、性格がいいとか、仕事を一生懸命やる働き者とか、そんなもんが何なんだよ。それが取柄だか何だか知らねえけど、そんなもんを親切にしろとか、優しくしろとかって押しつけも虫唾が走んだよ。だって、大人でも頭が幼稚園生レベルで止まってる、何の役にも立たねえ白痴なんだからさ。だから今、特学とか、施設の奴ら片っ端から捕まえて、警告与えてるとこなんだよ。うちらと同じ道歩くな、同じ店入んな、それ見たら殺すぞ、てめえみたいな、見ると目が腐る気持ち悪い馬鹿生んだ、てめえの親も殺すぞってさ。何、あのプレシャスTⅤとかって番組。ヌマ同士がくっついて、遺伝のヌマ産んで、周りに助けてもらいながら育ててるとか、人が飯食ってる時にあんな気持ち悪いもん映すんじゃねえよ。ああいうのほど、馬鹿の一つ覚えみたいに、馬鹿の分際でいっちょ前に頑張るから、あんなものが最高、みたいな風潮が出来んだよ。だから、日本にも、ああいう奴らぶち込むガス室か竈、作ればいいんだよ。ダウン症のガキが生まれたら、即効、焼却炉に投げ込んでやりゃいいんだよ。そうすりゃ、日本はもっと豊かになるし、治安も良くなるよ。特に軽いほうの奴らなんて、一般の人間の中に混じってるから、怖えよ。全部、犯罪予備軍なんだからさ。しかも人殺しても罪にならねえんだよ、あいつら。だから、ちやほやされて調子づいてるあの奴らを、うちらのユニオンが、今、取り締まってんだよ」恵梨香は吐き捨てた。
「磯子りんどう学園で、あいつがうちらの先陣切ってくれたからさ。あの松下(まつした)がさ‥」数年前、神奈川で発生した、知的障害者入所施設に元職員の男が夜間に侵入、就寝中の利用者を包丁で襲い、二十名あまりを殺害した事件。護送車の中で開き直った愉悦の笑いを浮かべる犯人の男は今も東京拘置所で刑の執行を待っている身だが、ネット上では、若いユーザーが絵のセンスや文章力をリスペクトし、「英雄」と称えるファンクラブまでが結成され、「職員や家族の負担解消を代行してくれた」「自分が何者かも分からない動物以下の奴らの無意味な生に幕を引き、解放した」などという書き込みに、平均10から30の「いいね」が集まっている。
「お前、正気なのか」「正気でなきゃ言うわけねえだろ」恵梨香が返した時、義毅の右掌が頭上高く振り上げられた。
左頬に掌、右頬に甲の往復平手を受けた恵梨香がもんどり打ってフロアに転がった時、席の方々から子供染みた小さな悲鳴が上がった。倒れた恵梨香の腹部に、義毅は急所を外したキックも入れた。
「勘違いすんじゃねえぞ、てめえ‥」体を海老のように折って横たわる恵梨香の体の上から、義毅のドスが降った。
それに関わろうとする者は誰一人としていない。客達は誰もが息を詰めた顔で、フロアに体を横たえた恵梨香と、その前に立って怒りの目線を降り注がせる男を見ているだけだ。スキンヘッドの店員兼用心棒の男も、何の干渉もする様子がない。
「ヌマとかシンチャンとか、俺には興味もねえことだし、そんなものに必要以上の憐みも持たねえよ。けどな、やることもやらねえ奴が、やることちゃんとやってる奴を蔑むってのは、物事の順番が違えはずだぜ。てめえは屁の理屈でてめえをもっともらしく正当化してっけどな、そんなもんが通用するようには出来てねえぜ、世の中は‥」義毅は一語づつを区切るようにして、目の下にいる姪に言葉を下した。
床に頬を着けた恵梨香は、歯を噛み縛って、憎しみの目を下から義毅に送った。
「関係ねえだろ、てめえには! うちらガキじゃねえんだよ!」転げたままの恵梨香が泣きかけの声で吠えた。目には涙が見える。
「俺が今日ここにお前を迎えに来たのは、お前らがガキだからだ。少なくとも、障害者は人殺しても罪に問われねえとか、今時小学生でも信じねえような間違ったことを信じてそれを疑わねえうちは、お前はいつまでもガキの域に留まり続けんだよ。そんなお前よりもはるかにしっかりしてる幼稚園児とか小学生はごまんといるぞ。いっぺん姿見で、てめえの姿をよく見て、自分がどんな面にどんな姿して、何をやってんのか、牛の胃袋みてえに反芻してみろよ。言っとくけど、お前が思い込んでる、つもりってやつほどは、恰好よくはねえぜ。思想、表現は、他人を泣かせねえうちは勝手だよ。けどな、何かにぶら下がって、てめえの手も汚さねえで、リスクの爆弾抱える覚悟もねえくせに、たかってのうのうと生きてる奴が、さも一端張ってる面すんのは、俺は一番気に食わねえんだ!」義毅は両手で革ジャンの襟を掴んで恵梨香の半身を引きずり起こし、流れるハードコアのボリュームを遮るような低い喝を、彼女の臓腑に抉り込むように押し出した。
「立て」鼻血を滲ませた恵梨香の体を両腕で立位にした義毅は、彼女を掴んだまま、テーブル席の一つ一つを覗き込むように見た。過激な装いをまとった会員の客はみんな、肩を撫でさせ、項を垂れているばかりだ。
「一種の宗教だよな、こいつも‥」義毅は壁に装飾されている突撃隊やヒトラーの写真、ロンギヌスの槍、鉤十字の旗に目を遣り、ぽつりと言うと、恵梨香と同じテーブルに着いて、コカイン吸入用のストローを持って弱々しく顔を伏せている、幼さが残る女に目を留めた。可愛い顔立ちだが、何点かの傷がある、帽子無しの坊主刈りの頭が痛々しく、かつ痛ましい。
「崇めるもんが神や仏じゃなくて、ヒトラーやゲッペルスとか、ジョセフ・メンゲレなわけだけど、これで何が満たされるのかね。まあ、何を信じるとかは自由だけど、せいぜい人生摘まねえようにやれや」義毅の語りかけに、まだ十代と分かる、恵梨香の仲間らしい女は、口をつぐんでいるだけだった。
「暴行で通報するかい?」恵梨香を片手でドアへ引く義毅が、190超の体をフロアに突き立てたきりの用心棒の男に言った時、男の顔には苦虫が浮き出ていた。
「それをやれば、そっちも相当都合悪いよ。見て未成年だと分かる人間を店に入れて、酒飲ませて、煙草も吸わせるばかりか違法ドラッグまでやらせてるわけだから、経営者は後ろ手で、店は取り潰しで済みゃめっけもんだ。でもな、俺はどこにもしゃべらねえよ。お互い、クロブタにしようや」義毅は用心棒の男に囁き言って、また客達を順繰りに目で圧した。
「肝に銘じろよ。さっきこいつが言ったことだ。もしもお前らの誰かが、障害持った奴を囲んで嚇したり、殴る蹴るとか働いてるとこ俺に見られたら、五、六発ぶん殴られるだけじゃ済まねえと思いな。その時は、お前らだけじゃねえぞ。お前らの親も殴るからな」肩を固く畳んで縮こまる客達に睨みを配りながら、義毅は腹の底からの低声を絞った。
恵梨香は飲食物をオーダーしていなかったようで、代金請求の声はかからなかった。恵梨香を引きながら、雇われ用心棒の男をちらりと見ると、一見怒っているように見えるその目には、一本筋の通ったものへの尊敬を表す色と光があった。
「乗れ」開いたリアドアを指した義毅が言うと、まだひと悪態つきたげな顔の恵梨香は、重々と助手席に腰を載せた。乗った恵梨香に、義毅がシートベルトを掛けてやった。西船橋から八千代方面へ車首を返したソアラのリアシートで、不承不承たる表情の恵梨香の体が傾いだ。義毅が横目に捉えたその姿には、幼かった頃の面影が挿していた。
恵みの家は見違える内観になっていた。以前は、掃除機など各種用具が出し放しになって辺りに置かれていたものが今はきちんと収納され、毛髪その他の細かいゴミが散らばっていた床は清掃されている。シンク、トイレ、浴室もよくスポンジが入り、至る所に光沢が出ている。
壁には「習志野台 二井原愛美さん寄贈」とある、「賜希」というタイトルの、ドレス姿で花を胸に抱いた少女の姿絵が飾られ、棚には可愛い動物の縫いぐるみ、食卓にはクロッカスが花瓶に生けられていた。小庭には小さな柵が立ち、先日、その中には、チューリップの種を皆で一緒に植えたばかりだった。
そのガーデニング用の柵も、花の種も、スタッフと利用者達で、ホームセンターへ買いに行った。その時、みんな、笑顔だった。
急激な変化が、最初、菜実の目と心には眩しく、少しの戸惑いを覚えないこともなかった。古谷と王がいなくなったことについて、社長の増渕からは何の説明もされなかった。それから一週間が経過しているが、初め、社長の知人だという愛想がいいとは言えない女が二人、代わりばんこで宿直勤務に入り、それから、五十代の佐々木(ささき)紅(く)美子(みこ)と二十代前半の清水夕(しみずゆう)夏(か)が来た。ネット広告の急募に応じて面接を受けて入職したと、夕夏は言っていた。
今、五人の利用者は入浴を終え、佳代子、詩織と向かい合った菜実の隣に、一週間前に義毅と握手をした小さな身長の辰巳(たつみ)小百合(さゆり)、上座の折り畳み椅子にダウン症の高橋(たかはし)千尋(ちひろ)が座っている。テレビにはニュース番組が映り、エプロン姿の夕夏が立って、千尋の肩に手を置いて、画面を見ている。
キッチンの縁にはトレーにプチサラダが載り、紅美子の作るカレーが香っているが、こんなことは、古谷がいた頃には全く考えられなかったことだった。朝、夕、土日祝日の昼にはカップラーメンが置かれ、消費期限の切れかけた菓子パンや総菜パン、お握りが投げられていたのだ。
「あと、六、七分待ってな」ボブの髪に赤のメッシュを入れ、耳には剃刀のピアス、菜実には漠然と「ロック」のものらしいと察せられる、肩から袖に数本の安全ピンをずらりと刺した派手な柄のトレーナーに、尻に髑髏がプリントされたグレーのスパッツというウエアをまとった紅美子が、テーブルのほうを向いて声をかけた。
彼女は五十一歳で、津田沼の鷺沼台に一人息子と二人で住んでいるという。若い頃が名残る、とっぽい髪と服をし、関西気っ風の話し方をして利用者をよく𠮟り飛ばすが、その𠮟り方にはユーモアがあり、叱られたあとの利用者は、いつも笑顔になる。
一方、夕夏も見た目は地味ではなく、茶金色に染めた背中までのロングの髪、日焼けサロンで焼いた褐色の肌をし、小鼻には玉ピアス、長い付け睫毛を施した目にはブルーのカラーコンタクトを入れた分かりやすいギャルで、背中には小さなアゲハ蝶のタトゥーが彫られていることを菜実は知っているが、その性格は面倒見がよく、優しく、いつも献身的な仕事をする。
ハーフカットした茹で卵と、軽くタルタルソースがかかったエビフライの載った甘口のカレーライスが五皿、それに、ほうれん草と溶き卵の味噌汁を、紅美子と夕夏が手分けしてテーブルに配膳し、利用者達が待ちかねたように今日の夕食に落とす目と、ほくほくとした薄い湯気が交わった。
「い‥いただきます‥」佳代子が手を合わせて言い、スプーンを持つと、千尋も続いて、ダウン症者独特の少し掠れた声で同じ食前挨拶の言葉を言ってフォークを取り、まずエビフライをおちょぼ口でかじった。それに詩織、小百合、菜実が続いた。
静かな咀嚼と食器類の合わさる音、紅美子が鍋類を洗う水の音、ボリュームを適度に落としたテレビの音声を小耳に聴きながら一口目を口に入れた菜実は、目の下のカレーに、どこかからの思念伝心を受けたような既視感を覚えて、スプーンを持つ手を止めた。
今の私は幸せな心地でこのカレーを食べている。だけど、どこかに悲しいカレーを食べているか、食べたことのある人がいる。そのカレーの味と色と、その日の天気を、私の大切な人が、痛いほどよく知っているような気がする。見たわけではないが、その中の一人が分かる思いがする。
自分が生まれる前の遠い昔、どこかのお店で、子供のようなお下げの髪をした女の人が、怖さと悲しさを臍のように噛んだ顔でカレーを食べながら、涙を流していた。今、私の中に視えているこの光景は、あの人の。
思った時、自分の想像に過ぎないかもしれないその女の子と気持ちを共有したかのように、激しい哀れみが菜実の胸を急襲し、鼻の奥に熱が涌いた。
「どうしたの!」素っ頓狂な夕夏の声に、キッチンの紅美子も振り返った。
菜実はスプーンを固く握ったまま、結んだ唇を震わせて、頬を濡らしていた。小百合はそれに特段驚くでもなく食べているが、佳代子が手を止め、眼差しに情を籠め、泣く菜実を見つめている。詩織と千尋も止まっている。
「どうしたん」紅美子が濡れた手をさっと拭いて、菜実の許へ寄った。意味は同じだが、夕夏のものと比べて落ち着いた調子だった。
「涙と洟汁がカレーに入ってまうがな」言って、自分のハンカチで菜実の顔を強く拭った。
「何かの思い出しかいな」紅美子に問われた菜実は、顔を彼女に向けた。「自分のことで泣いとんか? それとも誰か、人のことかいな」
無答の菜実に、紅美子は何かを察知した風に、小さな息を吐いた。
「あんなぁ、池ちゃん‥」紅美子は腰を屈めた。「あんたの性格やったら、誰かを案じてのことやろ。せやけどな、誰かを思うて、それを助けるにしてもな、自分が救われてへんとそれはでけへんのや。だからな、まず、自分自身のことをしっかりやらなあかんで」
菜実は紅美子のその言葉に、自身の身を省みることなく自分を助けた村瀬を思い出した。彼には余裕があったわけではない。本来的に、自分のことで手一杯だったはずであり、何の後ろ盾もあるはずもなかった。だが、自分のために命を張ってくれた。それを思うと、やはり彼が過去に負った傷と、それに伴う贖罪の思いが、菜実の中に想起される。
涙がまた、こみ上げてきた。それをまた、紅美子が拭った。
「あとな、池ちゃんが通とる、あのダブルシービーか、あそこはちょっと見た感じ、良うないわ。あの施設長とサビ管、何か、いやらしい感じがするで。まあ、これも池ちゃん次第やけど、社長の増渕さんと話して、通所先、変えてもらうんがいい思うねんけどな‥」紅美子が言った時、船橋警察署は、同市のスーパーマーケットで恐喝未遂の業務威力妨害及び暴行、店内で強制猥褻を行った、市内に住む無職と自称解体業の二人の男を逮捕すると同時に、一緒にいた無職の男の長男と連れ子の女児を育児放棄と虐待の可能性があるとして保護、無職の吉富栄一容疑者、三十九歳を児童虐待防止法違反、また生活保護法違反の疑いで現在も取調を行っているが、共犯の男ともども容疑を否認、というニュースを女性キャスターが読み上げていた。
眼を見開いて大きく口を開けた恵梨香の表情は、ネオナチに足を突っ込んでいるような荒んだ娘のそれではなく、まだあどけなさの残る、普通の女子のものだった。その人相に深く刻み込まれた憎しみさえも消す、純粋な驚きだけがあった。
住人の心の荒廃を表していた部屋が、嘘のように綺麗に破損個所が修繕され、整理整頓されていること以上に、一ヶ月ほど前に西船で出会った女が、自分の家にいることが大きいようだった。
電動車椅子に乗った初老の男に仲間とともに絡んだ自分を諫め、自分達の人数ばかりか刃物にも動じず、「心が貧困で愚かな人達を見て見ぬふりを出来ない」と胸を張ってきりりと言った、顔半分が骨までが覗くケロイドに覆われた、鳶代まどかと名乗った、社会福祉士だという女。
黒のスーツ姿で、涼しげな顔をしてリビング前に立っているまどかを見た恵梨香の顔に、また、憎しみが戻った。
「お前、こないだの広島の被爆者婆あじゃん。何でお前がうちらの家にいんの?」義毅に革ジャンパーの腕を掴まれたままの恵梨香は余裕ぶった口調を作って言ったが、引き攣った目と唇に心の揺らぎが出ている。
「あの時、あなたとは、また会うことになりそうな予感がしてたの。西船で会った鳶代です。以後、お見知りおきをお願いします」「はぁ?」頭を下げ、持っていた名刺を差し出したまどかに、恵梨香は眉をしかめた。
「何でこいつがここにいんだよ。第一そもそも、こいつ、お前の何なんだよ!」恵梨香はまどかを指差し、義毅を隣から睨んで見上げ、吠えた。義毅は、それには答えなかった。
「今、私のお腹に、彼と分けた命が宿ってるのよ。だから、私とあなた達は、これからは他人じゃないの」まどかは言って、自分の下腹に掌をそっと置いて、優しく笑んだ。その隣では、ジャージ姿の博人が、姉に何かを訴えたげな顔をして立っている。
「今日、ここで見せてもらったよ。あなた達の幼い頃の写真。あなた達のお父さん、お母さんのことも聞いたよ。勿論、あなた達がどんな怖くて酷い目に遭って、辛い思いをしてきたかもね。それで、私には、あなた達のために出来ることが絶対に、たくさんあると思ったの。社福士の立場からも、インフォーマルな立場からもね。だから、これから私は、彼と一緒にあなた達に寄り添って、あなた達に必ず備わってるはずの、自分で自分を助ける力を引き出すことに協力するからね」
恵梨香の顔と体勢に、隠しようもないうろたえが出た。投げる言葉が見つからない様子だった。
「この部屋を見ろよ」義毅が壁を指した。
「今日、業者を呼んで、ガラスを四枚、この壁の穴を埋めて、便所の便器、真っ黒く汚れた風呂釜も丸ごと取り換えさせた。あらかた、お前が壊したやつだ‥」義毅の述べに、恵梨香は驚きを新たにした目で部屋を見回した。
「そら、これだ」義毅は食卓の上に載る一枚の領収書を取り、つまんで、恵梨香の目の前にかざした。
それは「総合リフォーム工務店」という業種と、リンカイサービスなる社名、その下に¥479782、と金額が走り書きされている。恵梨香は口をぽっかりと開き、眉間に皺を刻んだ顔で、その書面と義毅の顔を見た。
「家の中を全部直すのに、これだけかかった。この費用は、俺が一括払いしたんだ。けど、こいつはあくまで立替だ。かかった分だけきっちり、端数も含めて耳揃えて、お前らに支払ってもらうぞ。さて、どうやって払うかね」
恵梨香は領収書の金額に慄いたように、ニ、三歩後ずさりし、作ったような怒りの目で義毅を睨み放した。その唇は震えている。虚勢の睨みだった。
「こんなことしろなんて誰が頼んだんだよ」床に目を伏せる恵梨香の文句の声に、まるで力はなかった。
「確かにお前らには頼まれちゃいねえさ。こっちの姉さんと話し合って決めたことだよ」義毅はまどかを掌で指して言うと、修繕され、クリーンナップされた部屋を見渡した。
「今朝までのあの部屋が人間のすむ部屋かよ。あんな大地震のあとの豚小屋みてえな部屋がさ。あの状態の家に住んでいられる人間なんて、神経がよほどぶっ飛んでる奴ぐれえだぜ。だから、こっちもお前らへの良心をもって直したまでのことさ」義毅が鱈子唇を笑ませて言った時、博人が恵梨香の前に進み出た。言いたいことが、心で堰を切った表情をしている。
「お姉ちゃん‥」博人はうろたえきっている姉に呼びかけた。
「さっきまで、こっちのまどかさんと話してたことなんだけど、まず、生活保護受けながら、心療内科っていう所に二人で通って、それからゆっくり就職探さない? 生きづらさ、感じてる人には、障害枠っていう就職のしかたがあるんだって」
「は? しんりょうないか? 障害?」恵梨香は強がった口ぶりで博人に訊き返したが、目からはすでに往年のものとなった憎しみの眼力は失せきっている。
「不安とか、心の傷、取り除いてくれるお医者さんだって。先生が話聞いてくれて、患者さんに合った薬も出してくれるんだよ。俺らには、それが必要なんだって、まどかさんが‥」 「冗談じゃねえよ! うちらがヌマの奴らと同じだっつうのかよ!」恵梨香は弟の言葉を遮るようにして叫んだが、その語気には泣き声めいた響きがあった。
「あなたは間違ったことを刷り込まれて、教えられてきてるの」まどかが静かに恵梨香に寄り、振り上げた拳を取った。
「私は社会福祉士ではあっても医師ではないから、あなたと博人君のことを障害だとか、健常だとかって診断を下す権限はないの。だけど、暗がりの中で迷ってる人の手を取って、人の輪の光へ導くことが、私の重要な仕事なのよ。ここで障害っていうもののことを説明するとね、社会生活を営む上での制限なのよ」まどかの述べに、恵梨香は少しばかり、きちんと人の話を聞く目をした。
「だけどね、その制限っていうのは、その人が全くの無能力っていうことじゃないのよ。得意なことと不得意なことの差が激しいけれど、好きなことには、私達には想像もつかない能力を発揮する人だってたくさんいるの。そうでなければ、私達を楽しませる芸能とか創作とか、歴史上の革新的な出来事も、偉業もないのよ。体の動く人ばかりじゃない。自分では自分の体を動かすことが出来ない、ベッドで生活してるような人だって、人の優しい心を引き出して、人を和ませることもあるのよ。それだって、一つの能力なの。でも、そういう能力を開花させたり、普通の生活が出来るようになるための巡り合わせに、まだたどり着いていない人もたくさんいるの。そういう人達を支援に繋げていく仕事を、私はしているのよ」
「だから何だよ」恵梨香の目に、また憎しみが挿した。
「小六と中二ん時、二回、腹のガキ、便所と風呂場で、自分で始末したんだよ、私は」恵梨香の告白に、しんと冷えた空気が2LDの部屋に張った。
「どっちも、あそこにバール突っ込んで掻き出したんだ。二回目は、もう人間の形してたよ。下が血だらけで、のたうち回ったよ。小四で輪姦(まわ)されて、それから写真とムービーで脅されて、土日が来るたんびに何人もの汚えおっさんの相手させられてよ、それでも、だれも私のことなんか助けてくれなかったんだかんな。今、ビキマンで拘置所にぶち込まれてるあの婆あは、それが分かってて見て見ぬふりだったんだ。そんな私にさ、そんな苦しみも知らねえ奴が高みから物言ったって、何も響きはしねえんだよ。ヌマとか身体とか、自分第一のジジババなんかに優しくする余裕なんてもんが、私にあったと思ってんのかよ。どこの誰がどんな余計な世話焼いたって、もう間に合いはしねえんだよ。もう遅えんだよ。何もかもがさ。こないだもっともらしい親面して、のこのこ来たあの親父も、それが全然分かってねえんだよ」
博人が嗚咽を始めた。姉が幼い身で子供を処理したことは、彼も知り得なかったようだ。義毅の目の色もかすかに改まったものになっていた。
まどかは恵梨香にそっと歩み寄ると、片手で彼女の手を取り、顔半分に垂れる前髪をもう片手でたくし上げ、一部が骨になっているケロイドの顔を露出させた。
「私がこの姿になったのは、五歳の時なの」まどかが言うと、恵梨香は顔を上げて彼女の目を見た。まどかの手を振り払う様子は見せない。
「商売人だった私の父を良く思わない人が、人を使って家に火を点けたのよ。それで私と父は命は助かったけど、私の祖父母と母と、まだ赤ちゃんだった妹の命は失われたのね。思い出の写真も、みんな焼けてなくなっちゃったんだ。妹は小さな炭の塊になって、母は肉も内臓も全部焼けて、骨だけの死体になった。それから私は、自分の幸せを殺して、同じように大火傷を負って、働く意思がなくなった父を支えて働き続けた。定時制に通いながらね。それで養成所に通って、高卒で社福士になったんだ。父との二人の暮らしが、闇の中にいる人を導く仕事のヒントになったのね。父を助けるために、お金はたくさん持ってて頭脳と腕力はあるけど、心がない人の家に、お金で買われて、その人の奥さんになったの。その間に父は死んだ。それは私にとっては解放でもあった。心っていうものがない家から私が出て、自分の幸せを求める権利が出来たっていう意味でね。それでついこないだ、その夫に離婚届を突きつけたの。もしも彼と出逢わなかったら、出来なかったことなのよ、これは‥」まどかは言って、義毅を手で指した。
博人の泣きじゃくりが激しくなった。それはまだ抵抗力のない年齢の頃に大の男達から惨い目に遭わされ、不意の妊娠で子供を始末するという地獄まで見なくてはいけなかった姉を、幼く非力な自分がどうにも出来なかったことの悔しさ、悲しさが込められたものだったが、これまで自分達姉弟が棲んでいた無明の世界に、自分達をそこから引き上げてくれる人間達が来た喜びの涙でもあるだろう。
「だから、あなた達にも、どんな人にも、その巡り合わせを求める権利があるのよ。まず、私が取っかかりになって、これまで長い間、夜の世界に棲んでたあなた達を陽の光の下を堂々と歩くことが出来るようにしたいの。西船であなたに会った時、あなたの目にある憎しみの中には、悲しみと悔しさと不安が見えたから。親が駄目なら、他人だって、その人を後見する資格があるのよ。制度の上でもね」
その時、おっ、と義毅が声を上げた。珍しいものを見た、軽い驚きの声だった。博人の咽びはまだ続いている。
「蛾じゃねえ。蝶々だぜ。この寒いのにな」言った義毅の顔の前を、黄色い羽に斑点を散らした姿の一羽の蝶がはためいていた。浴室の窓から入ってきたようだ。蝶は義毅の顔前から、まどかに手を握られた恵梨香に向かい、彼女の革ジャンパーの肩に、羽を立てて止まった。それから恵梨香、まどかを囲むようにして、二人の肩の高さの位置をしばらく舞い、まどかの胸に止まり、授乳中の赤子のように、数秒間留まった。
まどかの乳房を離れた蝶は、恵梨香と彼女の間をホバリングしたのち、まどかの手に繋がれた恵梨香の手の甲に止まった。恵梨香はそれを微動もせずに目線を落とし、見ている。その目からは、憎しみは消え、慈しみの光だけがあった。
まどかが博人を見ると、彼は涙に濡れた顔で彼女と目を合わせた。これまで自分達を苦しめてきた全てが終わる道筋がやっと見えた、と、その目が言っている。
「今日は名刺を置いていきます。私は仕事であなた達を助ける。それで私が市の生活支援課との間に立って、あなた達の生活保護を申請する手伝いをしてあげる。心療内科も一緒に探そうよ。だから、近いうちにまた会おう」
まどかが言い終えるタイミングに合わせたように、蝶が彼女の手から飛び立った。
おい、行くぞ、と義毅から小さく声かけされたまどかが彼とともに玄関に向かうと、恵梨香がついてきた。
「お前も身体なんだろ?」「そうだよ。身体障害者手帳の二級が交付されてるよ」陰惨な声で問う恵梨香に、まどかはさらりと答えた。
「お前みたいな奴がいくらあんな陶酔したご高説垂れたって、私はお前の仲間の身体とか、気色悪い社会のガンのヌマが、いつかまとめてガス室か焼却炉へ送られる日が来るのを心待ちにして、ぜってえ日本の社会がそうなるように活動続けるよ。それに、あの親父と婆あに、私が味わった思いを何倍にもして返してやることも諦めねえよ」恵梨香は言い、嗤った。
「大丈夫だよ。あなたはもうじき、そういう考えを持たなければ死んじゃうような青春から解き放たれるから。こうして縁が設けられて出会った以上、私はあなた達を最後まで見る。さっきも言ったけれど、もう私達は他人じゃないのよ」
ドアのほうを向いたまどかの背中に、「へっ」という嘲笑が浴びせられたが、先までの威勢は感じられず、いかにも力無い感じがした。
国道へ続く八千代一号線を走るソアラの助手席に座るまどかは、困難事例という用語を繰り返し思い出していた。
それでも、恵梨香が傲然とした態度と言葉の間にごく一寸覗かせた素直な顔に、まだ希望を繋ぐ余地はあるとまどかは思っていた。それはまどかの手の上に止まった蝶を払い落さなかったこと、彼女と繋いだ手を振りほどかなかったこともあった。
社福士である以前に、他とは大幅に違う人生経験から、酷い境遇が人の良心を奪い、その人間を人の道を踏み外した悪の道へ流しさらい、更生を手遅れにさせることもあることを知っている。
だが、私は社福士として手を抜く仕事はしないし、縁者となった二人の若人をフォーマル、インフォーマル両面から、職業上、または地獄を潜った一人の人間として、最後まで支援しなければならない。
「買おうぜ」ソアラのハンドルを取る間中、ゆっくり考えろと言いたげに唇を閉じていた義毅が言ったのは、まどかが離婚後の仮住まいとしている、勝田台北のウイークリーマンションの前に停車した時だった。
「家だよ。お前の住まいも、俺のヤサも、三人、四人で棲むにゃ狭え。船橋か習志野に買おう。予定日に間に合うようにさ」待っていた言葉に顔を向けたまどかに言った義毅は、これまでとは違う収入のある人生を見つめるように、フロントガラスの向こうに建つ家並に据えた目を送っていた。
まどかは喜びの驚きに満ちた目で義毅をシートから振り返ったまま見つめ、溢れ出た小粒の涙を小指で拭った。
そのまま、義毅の肩に頬を載せ、泣いた。ただ前を向き、街灯に照らされ、家庭の灯りが輝く新興住宅街の軒を見ている義毅の口から、アメリカンジョークを発したあとのもののような軽妙な笑いが小さく吐き出された。自分のバニシング・ポイントは何処かと考えながら、日本の法律が及ばない境地で命を質にした博打を張る渡世の落ちがようやく見えたことにより、人並みの安らぎというものが想像がついた。そんな思いが入った笑いだった。
「指輪も追々渡すから、待ってろよ。最後のゴトも、もう終わったしな」「特定の女はめとらねえとかじゃなかったの?」洟を啜りながら問うまどかに、義毅は何も答えなかった。
「おい、爺い。私だよ、恵梨香だよ」通話口が響いてきたのは、低く潰した声だった。着信音が鳴り、未登録の電話番号が表示された時、村瀬は入浴を終え、夕食の鮭を焼きながら、ツルゲーネフの詩集を読んでいた。
「何だ、恵梨香か。こないだ買ってったおかずはまだあるのか」「今日、てめえの回し者が来たよ」「回し者?」村瀬は訊き返しがてら、詩集をシンクの上に置き、ガスを止めた。
「あいつだよ。昔、家出した、お前の弟だよ」「義毅か」「そうだよ。社会福祉士だか何だか知んねえけど、広島の原爆写真みてえな気持ち悪い化け物のおばさん連れてきやがってよ。酔い痴れた綺麗事、長々聞かされて、うんざりしたよ。馬鹿みてえに巡り合わせだの、縁だのって、訊いてもいねえのに延々とぬかしやがってよ。おい、てめえがあいつら、こっちに差し向けたんだろ? 何の意図なんだよ!」恵梨香は潰した声で凄み立てた。
「覚悟しとけよ。今、拘留とかのあの婆あもろとも、お前の人生も潰してやんよ。お前らのせいで私が受けることになった苦しみ、何倍にもして返してやっかんな。どうせこっちが出来ねえと思って笑ってんだろ? でもな、私はやるっつったら何が何でもやるよ。お前と婆あが、地獄ん中で、泣きながら死ぬことになんの、心待ちにしてるよ」恵梨香は言葉の終わりに、サディスティックな笑いを含めた。
「覚悟ってものは、逆にお前に訊きたいよ。人を呪わば穴二つって知ってるか。やれるならやってみろ。その代わり、そのあとのお前の人生もないぞ」通話口に反響する村瀬の声は、租界のような世界で、わずかな時間にせよ自らを悪鬼にさえ変えた修羅を経、それが心に与えた自信によって、長らく「自分の上」だと思っていた種類の人間を討伐、排除した経験で得た気当たりが込められていた。
「そのあとの人生はあるよ。ユニオンの幹部になって、経済的にもお前の優位に立ってやる気でいるかんな」「そんなものこそ終わりだぞ、恵梨香。そのユニオンとかがどういう手段で金を徴収しているのかお父さんは知らないけど、暴力の威力を使って、悪銭、汚い金を身に着けて羽振りのいい暮らしを送れる人間は、ほんの一握りに過ぎないんだ。それが分かってて言ってるなら、やってみろ。そうすれば、お前だってその現実が学べる。そのあとでお父さんがお前にしてやれることは、何もない」「オセアン・パトリオット・ユニオンの組織挙げて、てめえの人生、てめえの命ごとぶっ潰すっつってんだよ、この我が身第一の偽善者!」
村瀬の胸が痛み、心が揺れた。恵梨香が叫んだその最後のセンテンスには、どこへも当てようもない悲しみが浸みていたが、恵梨香が自分に当てた表現は、過去の自分がそのものであるにせよ、あの時のことを言えば、事実としか言いようがない。
「いい加減、自分の本当の心にないことを言うのはやめたらどうだ、恵梨香‥」落ち着いた村瀬の声が通話口に浸透した。
「お前達は今日、義毅と、その相方の人に助けてもらったんじゃないのか。本当は、ありがたいっていう感謝の念を持ってるはずだろう。それをどうして、そんな言葉遣いのそんな口調で汚すんだ。そういう心が、お前を幸せから引き離してるってことを、お前は実はちゃんと分かってるはずじゃないのか。あの時、お前達を捨てるようにして離婚したことには、俺は今もお前達に深い詫びの気持ちを持ってるよ。そのあと、お前がどういう酷い目に遭ったかも、博人が話してくれて、知ってる。その責任は、義毅叔父さんの力も借りて、しっかり取っていこうと思ってる」「出来もしねえこと言ってんじゃねえよ! 私は子供の体で、ただレイプされただけじゃねえんだよ! もう人の形した自分の腹のガキ、私が生ゴミに出した時の気持ちまで、お前に想像出来んのかよ! いくらもっともらしいこと言ったって、てめえなんかに分かりはしねえんだよ! てめえなんかによ! 今日来たあいつらだって同じだよ! みんな同じなんだよ! 誰だって同じなんだよ!」
恵梨香はひとしきり叫び、電話を切った。
妊娠したことは、やられたことを鑑みれば、充分に想像の範囲内だ。しかし、それを自分で処理するという経験をしていたことは、実は村瀬には想像が及びながらも、認めることを拒んでいたのかもしれない。
恵梨香が人間に不信を抱き、他者を信じることが出来ずにいるのは、全くもって当然だ。だから、彼女の言葉や態度を村瀬が怒ることは出来ない。
美咲を殴りながら浴びせた自業自得というワードも、あながち滅茶苦茶な暴言ではない。美咲は元々、母親の愛が必要な年齢の子供が愛情の飢餓感を覚えたり、不安になった時、当たり前に自分の胸に包むという母の機能を備えた人間ではない。だから、親であることを棄てて女になり、それによって、恵梨香の人生からは普通の女子としての幸せは根こそぎ奪われた。華やぐ青春は、これまで恵梨香、博人の二人の子供にはなかった。
村瀬はスマホを円卓に置き、調理の続きを始めた。前回、博人から恵梨香の境遇を聞いた時は、食欲をなくした。だが、食うものは食わないと、体力、気力の維持、コンディショニングに支障が出る。
青海苔をまぶした鮭のマヨネーズ焼き、わかめと葱の味噌汁、ポテトサラダと柴漬けが円卓に並んだ。
村瀬は胡坐の腿に手を置いてそれらを見つめたあとで、重い手つきで、まず、味噌汁の具を啜り込み、それからポテトサラダ、鮭、飯の順に箸を通した。
シンプルな独り身飯を食べながら、これから協力し、子供二人のために骨を折ってくれるらしい義毅の相方は、先月中旬に本人が仄めかしたところによれば彼の子供を身籠っており、恵梨香によると社会福祉士だとのことだが、ごろつきの義毅とはどういう所が共鳴し合って、そういったプロセスに行き着いたのか。ホワイトカラーの堅い職業を勤め上げながら、無法者の男に惹かれたその女は、どのような人生を歩んできた人間なのかというところに興味の火が点いていた。しかしそういうことはあるものだという思いを改めながら、スマホを見ると、未成年者を使って障害児者への恫喝や暴行を行わせ、放課後等デイサービスや障害者支援施設周辺で「ガイジ死ね」などのシュプレヒコールを叫ばせるなどの業務妨害をやらせていた、ネオナチを名乗る政治団体の代表者が逮捕されたというニュース速報が表示されていた。
恵梨香が口にした「オセアン・パトリオット・ユニオン」という団体名のテロップが出た時、村瀬は、娘を立ち直らせるきっかけが大きく動き出したと思った。かつ、これに乗じる、ではないが、理屈の立つ傲岸不遜な女だったものが、分かりやすい弱者の非力な中年女になり果てた美咲にも、何かの手を打ってやろうという気持ちが立ち上がっていた。そこで速報が入り、小金井の中央アジア料理店で発砲事件が発生し、客として来店していたパキスタン人男性二名が撃たれ、一人が死亡、一人が重傷、外国人と思われる目出し帽の男二人が逃走、警察当局では外国人犯罪組織による抗争事件の可能性があると見て捜査を開始する方針、とキャスターが読んでいた。
村瀬はそのニュースにちらりとだけ目を向けて、今の問題を早急に落ち着けて、また菜実を抱きたいと思いながら、鮭とポテトサラダ、漬物に味噌汁の食事をよく噛み、嚥下した。テレビは、頭上から巨大なタライが落ちてきて頭を打ち、メンバー達が揃って昭和めいた「こけ」ポーズを取る、ロマンフルドキュンによる損害保険のCMを映し出していた。
土曜の夕食時、海鮮料理を売りにする「フィリップ百次郎千葉中央店」は、二百五十坪の広さを擁する店内を、主として若年者の熱気でむせ返らせていた。時折、メートルを上げた男達の蛮声が上がり、それを尻目に聞く、黒い法被に店名の染め抜かれた前掛けの姿をした若い女子店員が、ドリンクのジョッキや料理を載せたトレーを持って席の間、座敷席の間の通路を急ぐ足取りで行き交っている。
見渡される席には、カジュアルウエアの男女、刈った髪をし、鍛えた体をブランド物のジャージに包んだ男達の姿が目立った。
入口近くの座敷席で上がった、わっという声は、店の喧騒に掻き消された。
その席にいるのは、ガールズマガジンをかじったウエア、髪、メイクをした、それぞれ目鼻立ちの整った若い女達だった。いずれも、いかにも金のある家に育っているらしいことが分かる。四人の女子は、その表情を、小さな驚きから、瞬時に蔑みと威嚇のものに変えた。
「何、こいつ、気持ち悪‥」白のカチューシャをした女が不快を顔に刻ませて言うと、金髪の髪をツインに編んだ女が、用ありげに通路に立ち、飲んでいる自分達を言わんとすることの分からない目で見つめている男に向かって、顎を突き出した。
「てめえ、気持ち悪いんだよ。あっち行けよ、この馬鹿!」女が嚇すと、手に小さな紙袋を提げた小柄で痩せた男は、薄手のナイロンジャンパーの肩を落としたまま、反応鈍く体を反転させて消えた。
髪は白く、水分の少ない肌をした、年齢の分かりづらい男は、一つ一つの座敷、テーブル席を覗き、そのたびに場違いな人間を見る目が向けられた。男が席から去り際、ヌマじゃね? という声も聞こえた。
「おい、海老原ぁ。ここだ。来いよ」角のテーブル席から奸悪な声がかかった時は、マネージャーらしい人物が、席を覗き歩く男を呼び止めあぐねていた。
テーブル席には、安物のスーツ姿だが、居ずまい、顔の相に暴力性が浮き出た、細長型と中背でかっしりした体つきをした二人の男が座っており、運ばれてきたばかりらしい生ビールとお通しが二つ置かれている。
「まあ、座れよ。お前のほうから話あって来たんだろ? 月串の一括払いが出来そうだとかって話‥」痩身で背のある中尾が言った時、男、海老原孝彦(えびはらたかひこ)の片手がおもむろに紙袋に差し込まれた。波島は海老原のほうを向かず、生ビールの泡を啜っている。
これは下部構成員の彼らが、ダミーの店子に借りさせたワンルームマンションや同じく単身者用アパートに三人から四人の人数で押し込められて、半軟禁状態で同居生活を送る中のほんの時々、小遣い銭をもらって与えられる、わずかな時間の楽しみだった。外飲み程度はともかく、女が男にセクシャルなサービスを施す類いの店に行けるまでの金と時間は与えられない。
純法の人例研究企画部の上座にいる者達は、彼らのような立場の者達を、生かさず、殺さず、身柄と心までを管理している。粗相や逃亡の企てには、恐ろしい始末が待っている。一人一人が、誰がどんな死に方を遂げたかを教えられ、叩き込まれて知っている。だから、誰も上には逆らわず、極めて従順に、拉致、拷問、殺人を含む人例の業務に日々、身を埋没させている。
7・62mmの口径を持つ自動拳銃の銃口が自分に向いているのを見た中尾の顔は、ぼわんとして、目の前にある絵に現実味を捉えていなかった。
金属同士がかち合って打ち鳴らされるような銃声が、店の喧騒を割った。中尾の頭部が躍り、茶髪の髪の間に大きな穴が開いた。目を見開いたままの彼の体が通路側へ横のめりに倒れると、黄色い脳漿をまとわりつかせた脳が、頭頂部を舐めるように流れ出した。
その金属音のような銃声の方向に、周りの客達が一斉に振り返るや、視線と体を固めた。
あらぬ運動をする波島の手が、生ビールのジョッキを倒し、中身がテーブルの上に撒かれた。彼の目は、瞬く間の時間に死体に変わり果てた仲間と、トカレフ自動拳銃の銃口を自分に向けている、つい二十日程前に実の父親とのホモ行為を強要した軽度知的障害者の男の顔を交互にさまよわせている。
波島は命乞いの言葉を発する形に口を開き、つい数秒前まで「怖いものなど何もない」と言いたげだった顔を不様に歪め、震える右掌を孝彦に向けた。極限の恐怖のあまり、それで弾を防げるという思考になっているようだった。
さらに二回の銃声とともに、波島の右手の小指、中指、鼻から上の顔が吹き飛んだ。頭部の上半分を失い、粉砕された脳を撒き散らした波島の体が、半身がテーブル下に引かれるようにして四人掛けソファーの上に崩れ倒れた。
BGMのスイング・ジャズは、怒涛のような悲鳴の合唱に掻き消された。孝彦が銃身を下げて体の向きを変えると、客達が、ある者は頭を抱えて突っ伏して、ある者は壁に張りつき、自分だけが助かりたいという思いを露わな態度を表した。
厨房からは「出るな」という声が聞こえ、座敷席からは女の泣き声が漏れていた。店員達は一目散に奥へ逃げたようで、孝彦のいるテーブル席のスペースには、トレーが落ち、ジョッキの酒と魚料理が床にばら撒かれている。
異様なブザー音が店内に鳴り響いた。緊急通報装置の警報音だった。稲毛の家では、孝彦の父親がすでにそのトカレフによって亡骸となり、夕食に取った出前のラーメンは、食卓の上で冷めて伸びきっているはずだった。父一人、息子一人の家の経済は以前から慢性的に追われているが、それでも父親が食事を高値の外食や店屋物にする理由は、息子の自分にも故の分からない執着と、調理がほぼ全く出来ないことにあった。
職に就くたびに解雇が常だった父親は、普通自動車免許を二年かけて取得し、ローンを組んで軽自動車を購入したが、その車を、購入後一週間で廃車にしていた。母親は、出入りしていた小さな新興宗教団体で知り合った男と男女仲になり、自分と夫を置いて逃げ、今も行方が分からない。
自分は成長するにつれ、周りの遣う言葉が分からなくなった。体育の授業で行う球技では、ルールを理解出来ず、級友達から罵声が飛んだ。授業の内容は全く分からず、級友連中は元より、教師からも蔑まれ、馬鹿にされながら、不良達の玩具とサンドバッグにされた。周囲の悪意を一身に浴びながら中卒者になり、人が働く理由も漠然としか知れないまま、職場を転々としたが、何故上司が自分を叱責し、同僚達から恐い言葉遣いで怒鳴られ、罵られるのかも分からなかった。
自分を庇ったり、助ける人間は、他人、身内の中に誰一人としていなかった。父親が親類筋から疎まれながら、金銭面で利用されているらしいことは、自分にも薄々と分かっていた。その父親との暮らしというループから抜け出す術は、自分の知恵では思いつかなかった。それは、自分の生きづらさを解消する手段にしても同じだった。父親が死んだのちのこと、自分が老いた時のことなどは想像出来ない。保険という言葉は、自分には遠い世界のもののように、意味の拾得を自分に与えない。
淀み、腐った水の中を漂うような人生をどう変えるかということに、拙い思考を巡らせた時、世間で彼女と呼ばれるものを作ればいいのでは、という結論らしいものが出た。そんなある時、その日も自分よりも年若の同僚達から散々怒鳴られ、嚇された物流センターのアルバイトの帰り、JR西千葉近くの裏路地で、アイドルと言っても遜色のないルックスをした、まだ幼さの残る娘から「食事会」のチラシを受け取った。その娘は、「絶対来て下さい」と言い、孝彦と掌を合わせた。
西船橋駅近くのビストロレストランを借りきって開催されたその食事会は、「お代は半分を主催法人が負担」というもので、男女半分づつが同じテーブルに座るように促された。孝彦は、寂しく、暗い翳を横顔に落とす、いかにも社会に適応出来ていない感じのする中年の男と隣り合わせになり、向かいの椅子には、さながらアイドル雑誌から抜け出してきたような女子が二人、座った。他のテーブルも同様に、精彩や格好良さとは無縁の男と、整った顔立ちの上に綺麗な髪と服の女が向かい合っており、奇妙な集団お見合いのようなものを思わせた。
それでも、向き合って座る女達が、隣の男は元より自分を差別するような顔色や態度、言葉がなく、受け入れるように、可愛い声で会話を楽しくリードし、盛り上げてくれることが楽しく、嬉しかった。
その日、二人の女と、スマホと首に下げたガラケーで電話番号を交換し、女二人が同意の上で、スリーピースの交際が始まった。デートの食事代、カラオケや映画館や博物館の料金、交通費はみんな女達が奢ってくれたが、怪しさのようなものは感じなかったというよりは、分からなかった。
ラブホテルでは、二人の女が孝彦の体に夢心地の奉仕をしてくれた。四十手前になって初めて知った、セックスの喜びだった。
常軌を外れたそんな幸せが一ヶ月ほど続いたのち、孝彦の携帯に「おめでとうございます! あなた様は本日、私ども、尊教純法の忠犬と呼ばれる法徒の候補者として登録されました!」という男の声の電話がかかってきた。それから女の一人からまた電話があり、支部へ行こうと誘われた。
実印を持ってきて、とまで言われたが、それでも彼は、自分が騙されていたことにはっきりとは気づかなかった。いや、分からなかった。
二人の女に連れていかれた千葉市内のマンションに設けられた支部というらしい一室の密室で、腕力でも弁でも絶対に敵わない複数名の威圧感のある男達に囲まれ、エリアの広報主任だという男から、はなから何を言っているのか自分には分からない長い説明を聞かされる中、二人の女は、先までとは態度、口調がうって変わり、「早くしろよ、苛つくんだよ。あんましぐずぐずされっと、うちら困んだわ」「お前、まじ使えない。決断が遅えよ。ちょっと馬鹿なのは最初から知ってたけどさ」などと孝彦に凄み、侮辱し、嚇し立てた。広報部主任だという男が言うには、あなたは大本尊様、大法裁様に見込まれた縁で今日ここに来ることになったのだから、この時点でお断りするということは、大本尊様の尊い慈意を土足で踏むことと同じ、ということだった。そこで、さっさと入信誓約書に捺印したほうが解放が早くなるという思考になった。
男達の圧を浴び、女達に嚇されるがまま誓約書に個人情報を書き込み、捺印したところで、壁際に立たされて顔写真を撮影され、その時になって初めて屈辱を感じたが、これを何かの手段をもってどうにかするという考えは浮かばなかった。携帯を出せと言われ、それに従って手渡すと、自分には分からない何かの設定をされた。
支部のマンション一室を出際、広報部主任は「クーリングオフなどをすることは、大本尊様のお怒りに触れることを意味します。生きながら無間地獄へ堕とされますよ」と喝するように言ったが、クーリングオフとは、聞いたことは少々あれど、元より何を表しているのかが分からない言葉だった。
何をどうするべきかもまるで分からない状態のまま、自分には読めない漢字を用いた、法外な額が打たれた請求書が何通も、また、ジンレイ、と名乗る複数名の男達も来て、穏やかな中に有無を言わせない裂帛を含んだ口調で催促した。父親は、その男達の言うことを半分も理解出来ていないことが息子の自分にもありありと分かる表情、態度で、「はい」という生返事ばかりを繰り返していた。
それから、消費者金融の自動契約機から金を借り、親子でビジネスホテルを転々とする短い逃亡生活を経、親子で、どこへ行くとはっきりと決めることもなく千葉駅から遠くへ行こうとしているところを捕えられた。
拉致された人里離れのコンテナの中で醜鼻の凌辱を受けた時、やめろと叫んで立ち塞がった、殴打の跡がある彫りの深い顔をした中年の男は、ジンレイの一員には変わりないのだろうが、自分が棲む世界で、やっと一人いるかいないかの味方に思えた。だが、その男も多勢無勢故か、自分達を救うことは出来なかった。
それから、街金や、どうみても違法な経営をしている金融をジンレイ付き添いで回らされて金を作らされ、こちらの恐ろしい男達も家に来るようになった。男達は、自分達父子を正座させ、死なない程度のキックやパンチを入れ、父親の頭に「ハゲ」とマジックで落書きして遊んだ。父親は特に怯えているとか、屈辱を忍んでいるという風の様子を表情や態度の様子もなく、考えていることが窺い知れない、いつもの顔で、それらの恥辱を受け入れていた。
拳銃を手に入れたのは、ひょんなことからだった。そんな日々から逃げたいという思いから、あてもなく松戸へ行った。「家に戻れ。今、お前がどこにいるのかは分かってるぞ」というジンレイからの電話には、力無い反射的な返事をした。
夜の松戸の裏道をうろついていると、褐色の肌をした外国人の男が寄ってきて、片言の日本語と簡単な英語を織り交ぜて話しかけてきた。小汚い身なりをし、小さな紙袋を抱え、手にウイスキーのボトルを提げた男は、ジミーという通り名らしい名前を名乗った。
「あなた、ピストル欲しいか」ジミーに訊かれた時、孝彦はただ返答に困り、返す言葉がなかったが、微弱な興味の火が心に灯るのを感じた。それはこれまで自分を取り巻いてきた環境と、そこに生息している人間達に、もしもそういうものを手にした時、それで何かの物が申せるか、という期待に根ざした思いだった。それが日本では違法のものであること程度は知っているが、興味と期待が、その拙い知識がもたらす抵抗を押し戻していた。
孝彦の無言をイエスの返事と解釈したか、ジミーは孝彦の手を取り、掌に吸いつくように重い紙袋を握らせると、どこか覚悟を刻んだ顔と、酔っておぼつかない足取りで、裏道の奥へ姿をフェイドさせた。
人通りのない裏道で、紙袋の中身を出すと、それはまぎれもない拳銃だった。勿論詳しくなく、種類もよくは知らないが、シリンダーの弾倉が回って弾を撃ち出すものと、弾倉のないものの、形状上の二種類があることは、テレビドラマなどを観て知っている。
ジミーの素性などに好奇心は持たなかったが、自分の掌に落ちた重く冷えた鉄の武器の感触と、その眺めに、これで自分は何かをやる、という意思が涌き出してくるのを感じた。
それが、ほんの三日前のことだった。
今日、家で父親の体に二発の銃弾を撃ち込んだ時、親を殺すという呵責はさほどは感じなかった。だが、解放感もなかった。暗く、じめついた自分の人生を創造し、それを命じられるままに自分の体にのしかかって破壊した人間が自分の手にかかって、血の池に体を浸して死んだ。それで自分は、生まれながら摘んでいた人生を自分で終わらせたという事実だけが胸に押し寄せただけだった。
緊急通報装置のブザーが、不快な響きを立てて鳴り続ける中、客達の悲鳴は声を殺した怯え泣きに変わり、そのしじまを怒号が裂き、無力感に煽られるように拳銃を提げて立っている孝彦の体を、フックが先端についた二本の鉄の棒が拘束し、体が床に引き倒された。刺股だった。防弾か防刃か分からないチョッキを着用し、緊迫した顔の警察官が二名、孝彦の体の上で、確保、と聞こえる怒声めいた声を発していた。警官達の促しで、客達が店外へ避難を始めたことも分かった。
身柄を警察に捕われたという圧倒的な現実は、空虚に孝彦の中を梳いただけだった。右手で銃把を握ったトカレフが、警察官の手で指を一本づつ剥がされ、もぎ取られた。白のヘルメットに青い防菌服を着た救急隊員達が、担架と遺体収容袋を携え、なだれ込むようにして入ってきた。
刺股が体から外され、後ろに回された手首に手錠がかかったことを感触と音で気づきながら、孝彦はどこか快然とした脱力を覚えていた。それは、これから自分の身が送られる世界は、これまで自分が棲んできた場所よりは、自分が守られる所だろうという瞭然としない見立てによるものだった。
「俺だ。そろそろ弁護士んとこ行く頃合だろ」村瀬の携帯に義毅からライン通話の電話が入ったのは、遅番勤務を終えてロッカールームで着替えを終えた時だった。
「月曜の午後に法テラスの予約が入ってる‥」村瀬はリュックを肩に背負い直しながら答えた。
「あの有様の、あの家。壁からガラスから何から何まで、俺が業者呼んで修繕したんだ。朝から詰めて、夕方までの長丁場だったよ」「待て。本当か。いくらかかった」「飲代以上、国家予算未満だ」義毅は言い、電話の向こうで笑った。
「それから、恵梨香の奴を西船橋のナチ・バーでヤキ入れて、車に押し込んで、八千代の家に連れ帰ったんだ。ま、トヨニイの想像にも難しくねえだろうけどさ、あれこれ理屈こねて、何だかんだと吠えくさったよ。だけど、俺の奥さんになる女が、あいつらに、ひとまずの生活保護と、それと心療内科を勧めて、市との間に立ってやると声をかけたんだ。それも刑事担当弁護士を付ける意思がねえ以上、元奥さんの起訴と実刑が、多分は避けられねえだろうからこそだよな。それにはまず、世帯主の名義変更もやらなきゃいけねえし、向こうもそっちもいろいろ忙しくなりそうだよな」義毅の声には村瀬を労う響きがあった。
増本がロッカールームに入ってきた。村瀬が通話口から口を離して、お疲れ様です、と声かけすると、増本は満面の笑みで頷いて同じ言葉を返し、ロッカーの扉を開けて制服のブルゾンを脱ぎ始めた。十日前、村瀬が実力行使で吉富を出入り禁止へ追いやって以来、増本は異常に彼に対して愛想が良くなり、機嫌取りのような態度で接している。レジ講習受講の意思を伝えた時などは、小躍りせんばかりに喜んだ。増本が情けないのは変わらないが、これはこれで別にいいと今の村瀬は思っている。
「実はそのあと、恵梨香が電話かけてきて、俺にも嚙みついてきたよ。これもお前の想像に難しくないよな。お前と、お前の相方さんは俺の回し者っていう認識みたいだ。あいつの話だと、相方さん、社会福祉士だって?」「そうだよ」「物好きな人だな。お前みたいな男と一緒になるってことは、一生はらはらし通しだって分かってて‥」「物好き同士でってとこだ。重てえもんをしょってきた女でな、姿がそいつを刻んでんだ。追々、紹介するよ」「そうか。何かは知らないけど、よろしく。親父になったお前も早く見てみたいものだな」村瀬が言った時、会話に間が出来た。
「元奥さんの再婚相手は、江中って男だったよな」義毅の声が間を裂いた。
「親父の莫大な遺産、それにお袋の遺産も相続して、働かねえで、金に飽かせて何台もの高級車だの大型バイクだのを気分でセレクトして乗り回して暮らしてた、新京成の高根に住んでた男だ。こっちで制裁しといたよ。俺があの家に行ってすぐのことだ」
村瀬は目を剥き、大きく息を吸い込んだ。
「財産と呼べるもんは、俺が全部処分させたよ。とことん狡くて要領がいいから、女のつてで、その女の親父がやってた会社の二代目に収まって、これから結婚しようとしてたとこだったみてえだけどな、隠してた犯歴と性癖を相手とその親筋、それに従業員にばらすっつったら、面白えようにこっちに従ったぜ。ま、もっともそれでセミ逆玉の結婚も失くした恰好にしてやったわけだけどな。こいつが、俺が生業としてきた稼業の最後のゴトになったんだ。お分かりかな」
先を越された。これは江中の現住所を義毅に探らせた上で、村瀬が自身で執り行おうと胸に密かに決めていたことだった。それを義毅が先回りするようにして、村瀬の手を汚すことなく、自分に身についた方法で村瀬の報復を代行した。
改めての驚きのあまり、感謝の気持ちが顕在化しない。それは義毅の取った手段が法を脱したものであることからもたらされた感情の具合だった。だが、それでも因果の巡りというものを確かに感じ、心に取り、つかえていたものがすとんと腹の中に落ちた思いがする。
「お前のやり方には微塵も感心しない。だけど、恩に着る。いろいろとな」「今の女を、許される限りの最後まで一緒にいて、きっちり見てやることが、俺が使った労力への返済になるってことを忘れんなよ。じゃあな」
義毅からの電話が切れたあと、村瀬は彼が菜実を知っているらしいことについて、穿った思いになった。菜実とはどこで知り合い、それから彼女との間にどういうやり取りがされたのか。義毅は自分と彼女のことを掴んでいるが、義毅のような男が多く持つ女癖も気になる。だが、子供のことなど、自分の身辺にまつわることを、今の村瀬は彼に任せるしかない状態に落ちている。
シャッターの降りたマスオマート前原店を裏口から出、商店街へ歩みを進めた時、後ろから増本が追ってきた。
「ねえ、村瀬さん‥」「何でしょう‥」増本の顔は、村瀬に何かを嘆願したげだった。
「本社で制度改革の会議があったことは聞いて知ってると思うけど、副店長っていうポジション、各店に設けることが決定したんだ。これまでうちにはなかった役職だけどね」「はあ‥」増本が笑顔になった。
「是非、村瀬さんに候補してもらいたいんだ。これからレジ講習も受けてくれるみたいだし、こないだのこともあったし、村瀬さんが俺の右腕としてパートさんを指揮して、勤怠管理もやってもらって、それを香川君が補佐するっていうチームが形になってくれたら、俺、助かるんだけどな」「ありがとうございます。でも、まだ自信がない部分もありますので、現時点では、検討ということでよろしいでしょうか」「そう言わないで‥」増本の顔がシリアスなものになった。
「あの時、あんなことを言っちゃたけど、村瀬さんのお陰で助かったんだ。うちみたいな吹けば飛ぶような、潰しが効かない、条件も悪い零細で、十年以上も文句も言わないで働いてくれて、小谷さんともども、相当の勇気がなけりゃ出来ないことをやってくれて、おかげで集客も増えて、売り上げも伸び始めてて、これは多分、本社から表影されること間違いなしだと思うんだ。是非とも前向きに検討をお願いします。この支店には、役職者としての村瀬さんが必要なんだ」「ありがとうございます。検討しますけれど、少し気持ちの準備をさせていただけたらと思います」「頼むよ」
増本は言って前から去ったが、村瀬はその背中を見送りながら、いろいろなことがなるべき方向へ動き出したことを感じていた。駅に向かって歩を踏み出した時、もうじきのクリスマス時にでも菜実との距離置きを解き、彼女を抱こうと思った。
家に帰り、テレビを点けるなり、急遽組まれた報道番組が目に飛び込んできた。それによると、千葉市のチェーン店居酒屋で射殺事件が発生し、犯行に使用された自動拳銃が、三日前の中央アジア料理店で起こった事件で使われたものと同一であることが緊急的に実施された線条痕検査で判明、警視庁では全容解明を急いでいるが、現行犯逮捕された犯人は身分を証明するものを持っておらず黙秘、被害者の男性二人はそれぞれ東京都、神奈川に住民票があるが、職業、因果関係は調査中とのことだった。
~愚かな静物~
県道が鴨川にまで抜ける、南部の市だった。二車線の県道に沿って鬱蒼とした杉林が広がる一地点に、赤いカルプ文字で「チロル」という号名が表示されるラブホテルはあった。元々白かったらしい号名ロゴ入りの懸垂幕は黄色くくすみ、半円形の号室の出窓が並ぶ、中欧の城郭を模した外観をしている。駐車場を含む三階建ての屋の白壁は長年雨風に打たれたことで所々が薄い黒の縦縞模様に汚れ、苔が張っている。十年、二十年前では効かない昔の字体で、宿泊、休憩の料金が書かれた壁面看板も、色があせきっている。
そのラブホテルの駐車場に、ミラーシールドを貼った一台の黒のワゴンが吸い寄せられるように入ったのは、哺時が近づいた時刻だった。関東南部の空には、黒ずんだ雲が低く垂れていた。変哲ない安物のスーツ姿だが、人間から離れた畜生、または異界から這い出してきた小魔のような相が出た男二人に前と後ろを囲まれて、ワゴンから数人の男が降りた。その男達はいずれも中年か壮年、そろそろ中年の声を聞く年恰好で、女の関心を引く外見をした者はいない。
懸垂幕の入口を男達が潜ると、料金を支払うフロントには、さらに二人の男がいた。小さなサイズのホワイトボードが立ち、そこに数枚の写真がマグネットで貼られている。
「法徒の皆様、今日はよくぞいらっしゃいました。時間は一回四十分ですが、追加料金をお支払いされると延長も可能です。今日は七人いますが、タイプ、個性はばらばらで、技術のある子もいれば、うぶなのもいます。全員、十代から二十代を揃えています。どうぞ、ご自身のお眼鏡に合った子をお選びになって、楽しんでいって下さい」男の一人が事務的に言うと、客の男達の中から生唾を呑む音が聞こえた。「さ‥」男はホワイトボードを進めた。
男達が欲望を帯電させて目を這わせるボードには、乳房と陰毛を露わにした全裸の女達の写真が貼りつけられている。女達はみんな体はともかく、整容をされていない髪をしていたり、顔つきが普通と違っていたりで、持つハンデがあからさまだった。
世の中には馬鹿が余って唸っている。手下が前に進めたボードの後ろに立つ神辺久弥は、心の中でほくそ笑んだ。
今日ここに来ている、こいつらのほとんどはみんな欠陥があるから、一般的な恋愛、結婚、子供を持つという世間並のライフステージを踏んでいない。何故、自分が金で買える女以外の女から相手にされないのかが分かっておらず、その反省も出来ない。自分の身の丈も識らない。だから、金を払って罠に引き寄せられる。その欠陥とは、「知る恵み」がないことだ。
だが、今日は頭一つ抜けた上客が、この中に一人いる。それは自分達の組織の存続に関わる情報を持った人間だ。この男を絡めたからこそ、宗教の看板を掲げたこの組織が在った。感謝の念を送ることもほどほどに、これからも徹底的にしゃぶり尽くす。骨の髄まで。
同じ職業の同ランクの人間、それ以上の社会的な肩書を持つ者も、何人かを子飼い同然に取り込んでいる。このまま行けば、官憲の威力などまるで恐れることなく、自分達が築いてきたマーケットが日本中、さらにアジア全域、世界にまで拡大すると言いたいところだが、それを脅かす事態が、内部に起こり始めている。
一ヶ月と少し前の、金の強奪をむざむざ許したことによる内部の粛清、それに次いで、自分達に絡められていた人間が数奇な因縁で道具を手にしたことで、貴重な勢力の一部には変わらない人間の命が奪われた。
だが、神辺はある自信を持って、それら内部の出来事を俯瞰している。
「この女でいい。早く通せ」白髪の頭に心労が顔に出た、潰れた柔道耳をした体格のいい壮年の男が、一枚の写真を指して苛立ちを滲ませた口調で言うと、神辺は笑った。
指した写真には、ポニーテールの髪をした、丸い目に少し頬骨の出た顔をした女が全裸で写っている。縁無しの写真には、赤いカラーペンで「月子」いう名前が走り書きされていた。
「さすが石井さん、お目が高いですね。この子はうちで徹底的に仕込んでありますが、特にオーラルが絶品です。忌憚のないご満足が保証出来ることと思いますが、もし石井さんさえよろしければ、こちらの女の子と、ツーピース・プレイなどはいかがでしょうか。この子はお初ですから‥」神辺は二段に並んだ写真のうち、上段の左から二番目を指で叩いた。
その写真に同じく全裸で収まっている地味な髪のまとめ方をした娘は、卵のような体つきに、十人並みよりも少し劣る顔をしている。ペンの名前書きによると「ゆき」とある。
「それでいい。早くしろ」「了解です。お請けいたしました。ご案内いたしますので、どうぞ」神辺ともう一人の男がエレベーターへ向かい、後ろに石井ともう一人が着いた。
「石井さんはもう延長分の料金も先にお納めになっておりますので、ごゆっくり、何なりとお楽しみ下さい。なお、本会で設定させていただいております規則で施錠は不可ですので、その辺りだけご了承いただけたらと思います」
神辺を白壁にペルシャ絨毯の廊下に残して202号室に入ると、胸元露わなピンクのノースリーブのドレスを着た月子とゆきが、正座をして出迎えた。部屋はいかにも旧いラブホテルの号室といった、不愛想で殺風景なレイアウトだった。月子はこれから稼ぐという期待に目をきらめかせ、ゆきは恐怖のようなものを顔に浮かせ、瞼を伏せて瞬きを繰り返している。「さっさと立って脱げ‥」石井が命じると、月子は立ち、ノースリーブドレスの肩紐をぎこちなく外した。ドレスが足の踝に落ちると、ブラジャー、パンティを着けていない、乳輪の大きな豊胸と、束の厚い濃い陰毛を持つ全裸の体が石井の目前にさらされた。
「お前もだ。立って脱げ」石井の低い喝に、座ったままのゆきはその顔を硬直させ、体を震わせた。
石井はゆきの髪を両手で鷲掴みに掴み、体を引いた。苦痛の悲鳴が上がった。ダブルベッドの前まで引きずった体から、ドレスを剥いだ。それを抜いて投げると、髪を握ったまま、彼女の乳房を荒くこねるように揉み立て、陰部に手を挿し入れた。
「痛い!」ゆきは叫び、身をよじって顔をしかめた。
「嫌だ! お家帰る!」泣き叫び始めたゆきの頬を、容赦のない石井の平手が二回打ち、彼女の体がカーペットの上に転がった。
「お家も嫌もへったくれもねえんだよ、この大飯食らいの薄のろの社会不適応者が!」大きく口を開けて、鼻血を流し、体を波打たせて激しく泣くゆきの髪を引きながら、石井は罵声を落とした。
「俺が警察に入職したのは、およそ四十年前だ。高卒で、努力に努力重ねて、自転車で街を巡回する巡査から始まって、苦労に揉まれながら齢重ねて、警視正の資格を取って、警察庁の本部詰めにのし上がったんだ。一介の巡査部長だった頃は毎日ストレス漬けだったんだよ。お前らみたいな知的と、準知的の奴らが犯す事件の処理に追われて、来る日も来る日もそればっかだ。今も行きつけにしてる南千住の木賃でビールを飲むことだけが、俺に許されたただ一つの楽しみだったよ。それでやっと高い椅子に座れたと思ったら、警察大学生の息子の裏での犯罪行為を恐喝屋に掴まれたんだ。それで五百万だぞ、五百万‥」
石井の言っていることが難しすぎて分からないらしいゆきは天井に顔を向け、あああ! あああ! と泣き声を振り絞っている。月子は涎の光る口許に指を当て、全裸のまま立ってそれを眺めているだけだった。
「いいか、お前ら。今日はお前らで、俺のその苦しみとストレスを全部吸い取れよ。手を抜かずに俺を悦ばせるんだぞ」石井はゆきの髪から手を離し、懐から財布を取り出し、二十枚余りの一万円札を抜き、床に置いた。
「今日はこの金をお前らに落とすぞ。この金の分だけ、俺を愉しませろ。分かったか。どうせ非課税世帯育ちのお前らは、ほんのはした金でも、それをちらつかせりゃ何でもやるんだもんな。おら、咥えろ」石井はベルトを外してスラックスとパンツを下ろし、黒く色素の沈殿した陰茎を出し、泣き続けるゆきの口に押し込んだ。ゆきの声が陰茎に塞がれ、彼女の体をまたぐようにして月子が立ち、両手の指で陰毛を掻き分けてクリトリスと小陰唇を露出させた。そこに石井が顔を寄せ、月子の性器を舌でせせり、尻に手を回して肛門に指を埋めた。
ゆきは、今、自分の身が落ちている所に諦めを覚えたようで、石井の性器を口で受けながら、泣き声を、懸命に押し殺した啜り泣きに変えていた。
客の男達が全員女の当たりをつけて客室へ引いた一階フロント前で、行川を携えて現れた李に、神辺は頭を下げた。
「首尾よくやってるみてえだな」貼り出された女達の写真を目で掃いて李が言い、神辺は小さく頷いた。
「二代目はもう決まってる。今度は総法正って肩書だ。こいつだ。救貧屋の世話になって、無年金の年寄りに混じって、台東区のぼろアパートでタコ部屋暮らししてるのを柄抜きしたんだ。今、横浜の本部で生活させてんだがな、先代の奴よりも扱いやすい。あれと違って犯歴もねえしな」
行川がポケットサイズのタブレットの画面を、神辺の目の前に掲げた。画面一杯に写し出された写真の中には、伸びかけて乱れた五分刈りの頭をし、垂れた目と頬の中年男がいるが、自分を囲んでいる状況に判断が及んでいないといった顔をしている。この男が持っているものは明らかだ。
「マネージャー、小耳程度でいいので」「何だ」神辺の問いかけに、李が顔を向けた。
「あれを名誉にしたのは何故ですか」「てめえからこっちに言ってきたんだ。市役所行くから、こっちとはもう手を切るってな。それ自体は別に構わねえがな、いろいろしゃべられる可能性があるだろ。それでこっちのことが漏れねえうちにと思って、ウイスキーとブランデーとポン酒のチャンポンで眠らせて、服剥いて、手賀川に流したのよ。あいつの家に置いてたものは、全部処分した」「そうですか‥」神辺の合いの手に、李は這うような笑いを吹いた。
フロント空間には、山間を吹き抜ける風の号溟が響き渡っていた。神辺の指示で動く男達は余計な口をつぐみ、李の隣に立つ行川は、目と体は動かさずとも、射るような迫圧を周りに配っている。ここにいる神辺の手下達はみんな、それに留められている。
神辺が会うたびに、いつも李がこの男を常に身のそばに置いている理由は、自身の用心刀、用心銃としてでもあるが、突発的な不測の謀反への備えでもあることは充分以上に察しがつく。組織の基盤が揺らいでいることは、幹部級の立場にある神辺にもよく分かっている。
「ここんとこいろいろあって、基盤固めってやつをもういっぺんやり直さなきゃならねえとこに差しかかってるけどな、今、山上に仕切らせてる兵隊と道具の買いつけはそこそこ上手く行ってる。信者の取り込みも進んでるしな。他の宗教に出張して信者を引き抜いてることは、前にお前にも話して知ってんだろ。特にあの、まあ、素晴らしいわね、の、三鷹の恩正啓生の奴は、馬鹿素直で引き込みやすい‥」「組織の力的な優劣は数だけじゃないですよ」「ああ。基盤を固め直して、販路を拡げて、使える奴らを勢力の端々にまで行き渡らせて、その数に見合うだけの道具が揃えば、まず、東で一廉になれる」李が言った時、行川が画面を指でスライドさせた。下半身裸の姿にされ、揃いも揃って覇気のない、あるいは怯えた顔と萎びた陰茎を下げて立つ、風采の上がらない男達の写真が何枚も続いて現れた。数枚がスクロールされると、今、ホワイトボードに貼られているものと同様、全裸で立たされた女達の写真画像が出てきた。ぼさついた髪をし、目や鼻の形に変形が見られたり、目の奥に無想、何かへの気力や意欲が覗えない虚無を湛えており、それが立ち姿勢にも出ている女達だった。それは先に写し出された不様な姿の男達も同じだ。
尊教誓いの儀と名打たれた入信式の一環。一生涯に渡り、御教えへの背きを持たないという意思を示すための、命と名誉を差し出す強要。拒む者は人数で囲み、「大本尊様のお怒り」のワードと、刃物をちらつかせ、またはスタンガンを帯電させて脅し込む。それに対し、泣いて、または怒って拒否する者は、「火葬場」の言葉で大人しくさせる。この威嚇脅迫の強要を行う側の信者も必死だ。取り込みの失敗も、教えを尊ぶ上での失態となり、制裁を受けることになるからだ。
それは、惨鼻を極める拷問の果ての死だ。一例、底辺の寮つき人材派遣会社で働く独りの中壮年の男が身の回りのものをそのままにして行方をくらましても、ありがちな仕事苦しさからの逃亡と見なされ、詮索されることはない。たとえその行先が、視、聴、感、の存在しない闇、その闇の識別すら無い世界であるとしても。
「こいつらはみんな、うちを潤してくれる法徒と、俺達に金を運んでくれるお客なんだよ。だから大切に扱わなきゃいけねえんだ。法徒ってもんをたとえりゃ、栄養の豊かな餌を与えられて、風光明媚な環境で愛情深く飼育された養牛、養豚、養鶏は、肉の締まりも柔らかみも違え。それが食卓に載って、俺達の味覚を楽しませてくれるだろ。そういうハートフルな畜産をすることが、組織を盤石化する第一歩だ」「まあ、そうですね」神辺が気のない相槌を打った時、不意のように、どこかの商店街を歩く男の写真が表示された。至近距離の、斜め前から写されたものだった。次に、その男が赤いブルゾンに紺のスラックスの制服姿で、スーパーの店内で品出しに勤しんでいる様子を横から捉えたものが写った。
「どうだ。知ってんのは共通だろ」「はい。ハロウィン前の手繋ぎに来た奴です。池内がこいつの担当で、こいつなら引く相手として確実だと踏んでたんですけど、マネージャーはお認めになったんですよね、池内の脱会‥」「馬鹿野郎、そうやすやすと離すか、この俺が。池内も、この男もだ」李は言って、ジャケットから銀のシガレットケースとライター、高級な仕様の携帯灰皿をまさぐり出し、ケースから抜いた一本を薄い唇に咥えた。自分のライターを出したわけは、神辺には部下というよりも僚友に近い意識を持っているからだ。
「この写真見ただけで、そこいら歩いてるおっさんと同じだと思うなよ」李は音を鳴らして煙草に点火し、遠くを見るような眼差しをして、ゆっくりとした調子で煙を吐いた。
「これはお前の指示の功績でもあって、池内の実績でもあるんだ。こいつが支部で入信を拒んだからこそ、広法何とやらで、これからの拡大には絶好の逸材を発掘することになったわけだ。なあ、何が幸いするか分からねえもんだよな、神辺よ」李の顔に、上機嫌の笑みが浮かんだ。爬虫の眼の瞳孔には、きらきらとした光が見える。恋心の相手を想う眼だった。
「元地銀の行員で、今はスーパーの店舗スタッフで、どこかに息子と娘がいるとかいう話を拾ってますけど、何の取柄があるんですか」「空手だ」「空手?」神辺が問い返すと、煙草を燻らせる李の細い目が、より細められて、ぎらりと底光りした。
「ああいうものをやってる人間はごまんといるじゃないですか。俺が三年前まで指導員やってた流派の道場にも、切実な動機持って入門したけど、白帯のまま潰れてくのが何人もいましたよ。ああいうものになりたいとどれほど望んで求めても、才覚の差はいかんともし難いんです。遺伝的な知的要素でも腕力でも、運動神経でも、みんな才能じゃないですか。それが生来携えられてない奴は、いくら泣いて喚いて指咥えて、ないものを欲しがっても、そうはなれないものですよ」「聞け」李が声を圧した。
「いくら零細スーパーの店員に身をやつしてるっつっても、こいつの空手に限っちゃ本物だ。うちの人例ん中でも腕の立つ奴を人選したんだがな、丸腰じゃねえそいつらが綺麗に畳まれるまで、ほんの秒だったんだ。俺は目の当たりにしたんだよ。支部でも腕利きが一人、やられてるんだ。目をぶっ潰されてな。こいつが身につけてるもんはな、胸倉がどうしたとか、手を掴まれたらどうするとか、あんな複数や刃物の捌きが考え抜かれてねえ低レベルの護身術とかとは違え。それでいて、剝ぎ取りも上手くて、おかげで必要分、きっちり取り立てることが出来たんだ。勢力の補強として、喉から手だ。他に言いようがねえだろう」「そうですか。けど、ここぞ一気にって時に、お人好しが命取りになるんじゃ‥」「それがな‥」李が言いかけた時、男が非常階段から走り降りてきた。神辺の部下だった。
二階の一室で何かが起こったことは、男の顔色で分かった。神辺は男のあとに着いて、非常階段を急いでよじ上がった。
202号室の扉は開け放しになっていた。部下の男に続いて部屋に入ると、隅でゆきが顔を覆ってしゃがんでいた。ツインベッドの上に、大きく脚を拡げて赤い膣孔を剥き出しにした月子が、目を見開いたままの顔を横に向けて、微動だにしなくなっている。
月子はこと切れていた。目は涙で赤く充血し、洟と、口からの唾液が垂れてシーツに染み込み、死の際に放出した大便が尻と腿を茶色く汚し、部屋に便臭を漂わせている。
行為の最中、石井が頸を締め上げたことは、説明などはなくとも分かる。
石井は全裸で窓際に立ち、肩を上下させながら、歯を結んだ顔で、慌てふためいた目線を部屋の四方にさまよわせている。
神辺はベッドに寄り歩み、月子の亡骸を検めるように覗き見ると、石井に目向きを戻した。
ゆきに目を遣ると、彼女は顔を覆っている手を外し、すがる目で神辺を見た。神辺は洋風ステンドグラス仕様のシールが貼られた出窓に視線を移し、はは、と短く嗤った。
朝から関東に注意報が出ている強風に、洋窓が笑っていた。神辺と合った石井の目に、助けを求める色が濃く出ている。
「これは何だと訊きたいところですが、そんなものは愚問ですよね、石井さん」月子の死体を顎で指した神辺の声は笑気を含んでいた。
「これをどうすることを私達にお望みでしょうか。どうすれば始末がつくとお思いですか。お考えになるお時間を与えますが、その時間はそんなにありませんよ」神辺の言葉に、石井は部屋の隅々を見回し、我が身を庇ううろたえをその姿に刻んだ。
「だから何だっていうんだ」石井は言って、顔と体勢を整え直した。
「お前らのやってることは、不法な斡旋だろう‥」石井は顔に汗を光らせながら、脱ぎ捨てていたトランクスとズボンを着け始めた。
「そもそも判断力不全の女を略取して、軟禁して、売春をさせてるわけだ。こんなことが知れたら、お前らは一網打尽だ。跡形もなくだ。知った風な口を聞くな、宗教絡みの売春組織風情が」
「それではどうぞ、ここから署に連絡して、緊急捜査を要請なさるのがいいでしょう。だけど、黙秘権はあくまで自分を刑事的制裁から守るためにあるものです。今のあなたも、ご自分の身を守ることをお考えになったほうがいい」
ゆきが白い床に伏して、呻くような泣き声を絞り始めた。神辺はそれを打見すると、浮いた上唇から前歯を覗かせて笑った。
「で、溜まるものを持て余した挙句に、とうとうやってしまわれたわけですけど、どうしますか、石井さん」
ゆきの泣き声が、風の音を迎えて響いていた。石井は捨て鉢の弁駁の勢いを、瞬く間に失っていた。
「頼む。何でもする。これを表に出さないでくれ!」瞼を伏せた石井の懇願が、ゆきの泣き声と風鳴りを割った。
「俺が今の地位を築くまでしてきた苦労は半端なものじゃないんだ。こんなことが世間に知られたら、俺はもう終わりだ。本当に終わりだよ。だから、頼む‥」瞼を瞬かせ、洟を啜り上げながら、石井は哀願した。
「大丈夫ですよ。そんなにお泣きになることはありません。実績に基づくあなたの名誉と地位と、何年か先に控えてる定年後の悠々自適とした暮らしが完全に保証される選択が、ただの一つだけあります。こちらが薦めるその方法に従っていただけるのであれば、憂うことは何もないですよ」神辺が言った時、開け放しのドアから、李と行川がその姿を挿すように歩み入ってきた。生命の途絶えた月子と、泣いているばかりのゆき、しゃくる石井を、表情のない李の目が梳いた。
「参加登録の際、職業欄には公務員とありましたけれど、組織のセキュリティ上のこともあって、調べさせていただいております。あなたは本庁詰めの警備部勤務で、左翼政党、極左セクト、極右政治団体を監視することをメインの仕事にしていて、あなた達の司令で動く捜査員は全国におよそ一万人います。可能な限りでいい。あなたの下で働く捜査員の方々の名前、住所、その他の情報が記載されたリストを、私どもに送っていただきたい」
涙に濡れた石井の目が見開かれた。神辺をすがりつく藁とする目だった。
「大丈夫です。そのリストはこちらで厳重保管させていただいて、よそにばら撒かれることはないですし、報酬も、しっかりと保証しますよ。その報酬は、あなたの言い値を呑みますから。ざっとおいくら欲しいですか」
「八‥」石井の唇が動き、曖昧な数字を発音した。
「八百万でしょうか」「八千万‥」石井は消え入る声で金額を口にした。
「分かりました。それでは今日中に八千万円を口座に振り込ませていただきますので、後ほどご確認下さい。だけど、その金の重さに誓って、先に私が提示した条件は必ずお守りになっていただきます。そこで今のうちに言っておきますが、それをあなたが反故にされた場合、こちらにも考えがあります。そこのところはよろしくお願いいたしますよ」
神辺が発した警告には冷徹な語圧が含まれていた。「頼みますよ」神辺がつけ加えると、石井は顔を両掌に包み、上半身裸の姿のまましゃがみ込み、肩を震わせ始めた。顔を覆った指の間から、唄うような嗚咽が漏れた。
神辺とともに石井を囲んで立つ李の針の目は、石井の値を踏んでいる。行川は、その小さな体を、今ここで何が起こっても即応可能な足の配りを整えた体制でぴたりと立ち、特徴的な童顔の表情をきりりと締め、射すくめる視線を部屋の外に遣りつつ警戒を払い続けており、石井のことなどはまるで関心もない様子を見せている。
「おい」入ってきた部下の男に声かけした神辺は、月子の亡骸に顎をしゃくった。
「富津に運んで、ナトリウムで溶かせ。骨は砕いて川と山に撒け」神辺に命じられた男は、運び出しの協力要員を呼ぶために出た。
「神辺よ。さっき言いかけたことの続きだ」ゆきのか細い泣き声に石井の嗚咽が交わる中、李が口を開いた。
「俺はあの男を、人例で俺の右腕的なポジションにまで持ってくビジョンがある。何故なら、空手の腕は言わずもがな、必要に応じて、てめえの体ん中に流れてる血の色を、赤から青にも緑にも、金にも銀にも変えられっからだ。こうして口に出して言ったからには、俺は必ずやるぞ。こないだ揃っておめおめ殺られた波島と中尾は、抜擢の上じゃ失敗品だったがな、あの村瀬を取り込みゃ‥」「鬼に金棒ですか」「そんなもんじゃねえぞ」
三人の男の間が黙した。
「マネージャー、意見するってわけじゃないですが」神辺は言い、李の顔を見た。
「俺は、あいつは引っ張りに留めとくのがいいと思いますよ。何故かっていうと、いくら火事場の力を持ってるったって、こちらからすれば素人には変わりないからですよ。そんな人間を人例に引き込んだところで、いかにも素人らしいぼろを出して、それがこっちの命取りになることが大いにあり得ます。実働の補強なら、既存勢力の買収のほうが効果的ではと」
「俺が言いてえのは、惜しくも埋もれてる人材の発掘って話だ」李は神辺に向き直った。
「うちが面倒見てる法徒の女の九割が、頭はともかく、人を悦ばす体の機能には問題がねえ。そいつらが、くだらねえ特定非営利法人から掘り出されて、安くねえ施設の利用料を搾取される前に、俺達で見つけてやって、その体を使って出来る有償の奉仕労働を卸してやってるわけだよな。それと同じことじゃねえか、言ってみりゃな」「長年素人で飯食ってきた人間が、あの年齢から兵隊として開花することなんてないですよ。現場で使える年数にも将来性がないじゃないですか」「聞けよ。俺の話を最後まで‥」李の声に迫力が籠った。
「いいか。お前が言う将来性ってもんは解釈次第でどうにもなるんだ。うちは今後五年が伸びの正念場だ。そのスパンに、藪を切り拓くための一員として機能する人間が、俺はただの一人でも二人でも多く欲しいんだ。その気持ちが、お前に分かるか。あいつは間違いねえ。命を保ったまま、うちに多くの益をもたらしてくれる。俺の目には寸分の狂いもねえ。この俺が、全くぶれのねえ自信を持って言えることだ」「そうですか」「そうだよ」
神辺は溜息を腹の中に呑み下した。先日、千葉の居酒屋で二人の人例構成員が、元々は追い込んでいた軽度知的の男の手にかかって、まとめて瞬時に死んだことについて、手下の管理体制に不備があって起こったことであり、それが自分の責任であることをどこまで自覚しているのか。だが、上はその李に何も言えなくなっている。今、純法の司令体系を乗っ取って、組織を実質的に廻し、利益を運んでいるのは人例研究企画部だからだ。
そこに二重の乗っ取りを仕掛けて、五年以内に俺がこの地下宗教組織を牛耳ってやる。今はリンカーンコンチネンタルのリアシートでふんぞり返っている李を追い落として。その算段の青写真は、もう俺の頭の中にある。その時、行川が護衛する対象も、李から俺に変わる。李の椅子が俺のものになるのだ。頭蓋の内部に溢れる静かな宣言の思念を、神辺は顔にはおくびにも出さなかった。
「マネージャーがそこまであの村瀬にこだわる理由は何ですか」表情を無にした神辺が問うと、李は細い目をより細め、口許をにんまりとほころばせた。
「愛だ」「愛、ですか」神辺の訊き返しには、若干の呆れが出ていた。
「惚れてんだ。あいつが池内を愛してるくれえのエネルギー、注いでな。優しい顔して、血気ってものを表立って見せねえけど、恐ろしい腕立ちで、回収力もピカイチ、行川には負けたにせよ、どう脅そうがすかそうが屈しねえ根性持ちと来りゃ、この俺が惚れねえはずがねえだろう。俺は落とすよ、あの男を。その結果を、お前も何ヶ月か以内に知ることになるぞ」
李は意中の相手を想う目を宙に遣り、笑った。神辺の下に就く男達が三人、部屋にやってきて、まだ死後硬直が始まっていない月子の骸を運び出した。座り込んだきりのゆきは、顔を濡らしたまま泣き止み、全てを諦めた面持ちで床を見つめている。
吹き荒む強風が、ホテルの周辺に密生する杉の木々をしなわせる音が部屋をざわつかせている。ベッドの脇には、石井が叩きつけて置いた金が、黒い物気を立ち昇らせる静物となって置かれたままになっていた。
「これで自己破産の契約手続きは終わりましたが、本当に最後にご意思を確認させていただきますよ」通話穴の開いた透明アクリルの向こうで、よれたトレーナーの姿で肩を落とし、顔を伏せたきりの美咲に、そろそろ老齢の弁護士が優しく声を投げた。
「あなたは今、とても厳しい状況にいます。だけど逮捕拘留されてからまだ十日未満です。刑事担当の弁護士をつけることで、執行が猶予になる可能性はまだあるんですよ。本当にこのままでいいんですか?」
月曜の午前だった。今、村瀬を伴って美咲と接見している弁護士は、自己破産担当だが、彼女を釈放に持っていく担当は専門が違う。
面会が始まってから十分の時間が経過しているが、美咲の態度は無言一徹だ。その態度に村瀬は、彼女が望んでいる身柄の行先をはっきりと見出していた。
「君はどこまで分かってるんだ‥」村瀬はアクリルボードの向こうの美咲に、静かな声を送った。
「このまま行けば間違いなく実刑で、数ヶ月くらいの間、刑務所で暮らすことになるんだ。それでいいのか。その選択でいいのか。どっちでもいい。言葉にして話してくれ」元夫の言葉に、美咲は俯くだけだった。
「あなた次第で、息子さん、娘さんに、刑事担当を引き会わせて契約を結ばせることが出来るんですよ。だけどあなたは当番弁護士も呼ばなかったし、まるで最初からご自分で実刑をお望みになっているように見える。お家も大変だったことはお話に伺っていますが、刑に服すると、その最中も、そのあとも大変ですよ。執行猶予を得て、お子さん達と世帯を分けるということも出来ないことではありません。娘さんの暴力が怖いのであれば、低料金で短期利用の可能な女性用のシェルターもございます。どうお考えなんですか。私がこうしてお話の出来る時間は限られていますよ」
美咲の態度は変わらなかった。だが、落ちた肩と伏せた瞼に、ある種の解放を望んでいるような気持ちが浮いて出ているように村瀬の目には見える。その行先が、粗末な食事があてがわれ、楽しみもなく、一切の自由を奪われた、規則づくめの環境だとしても。
面会時間はまだ二十分残っている。だが、任せようと思う気持ちが、村瀬の体を椅子から立たせた。弁護士はいささか怪訝な顔で、立ち上がった村瀬を見上げた。
そんな変な目で俺を見ないでくれ。今、あなたは俺を無責任な元夫だと思っているのだろうが、アクリルボードの中に座るこの女がどういう人生の選択をしようが、それも権利の一つだ。
任せる以外にない。出たあとのことは、またこちらで考えてやってもいい。
「いいんですか?」切羽の声で弁護士が問うてきた。村瀬は何秒か言葉を呑んでから頷いた。
美咲には別れの挨拶をすることなく、千葉刑務所の拘置区を出た。弁護士は背中を丸めて隣を歩き、ついてきた。
「惜しいですけど、こういうものだという感が拒めないですよ」拘置区の高い壁の前で、弁護士は言い、小さく息を吐き出した。
「私は若い時分には刑事専門だったんですけど、同じようなケースはたくさんありました。あなた様もご存じでしょうけれど、居場所や逃げ場所に刑務所を選んでしまう、あるいは選ばざるを得ない事情を抱えた人は、世の中には溢れてるんです。その多くが、いわゆる‥」
弁護士の言いたいことは、村瀬にはよく分かる。同じハンデを持つ友達の唆しで、子供におもちゃを買ってやりたいという動機を胸に最重罰の適用される罪を犯すことになり、今も栃木の塀に収監されている菜実の母親がいる。
そういう彼ら、彼女達に対し、自分がしてやれることは何もない。自分が出来ることは、菜実との関係がこれからも維持され、結婚までこぎ着けた時には二人で栃木刑務所へ挨拶に行き、九年後に審査が通って仮釈放の運びになった時は、引き取って一緒に暮らすことだ。
「なし崩しの起訴まであと六日あります。それまでご子息とお会いになって、ご意思を確認されたら、また法テラスに来られて下さい。手配いたしますので」京成千葉駅の前で、老弁護士は寂しげに言ったが、村瀬の意思も決まっていた。それは美咲を、本人の思いに任せた自由の道へ解き放ってやることだった。
「待っていますから‥」残して、紺の背広の姿を遠ざけていく弁護士を見送った村瀬は、喉の渇きを覚えて、千葉中央を始点に千葉駅まで伸びる通路型のショッピング・プロムナード脇の自動販売機へ歩き出した。平日日中の、周辺の通行人は平均年齢が高かった。
居酒屋などの飲食店、リラクゼーションサロンの壁面看板が貼られたプロムナードの壁の前に、みすぼらしい姿をした一人の男が体育座りで座っている姿が目に留まった。自販機でペットボトルのスポーツドリンクを買い、それとなく見たその姿に、忌まわしさを感じた。
男の髪は薄いが、その生え方と、横顔の造りに鮮烈な見覚えがあった。服装は上がセーター、下が黒いジャージのズボンで、裸足の足にサンダルを履いている。体からは筋肉が落ちていることが冬服越しにも分かり、せわしなく瞬く、眦の落ちた目はおどおどと左右、上下をさまよい、端の垂れた口は悲しげにつぐまれている。
見覚えを確信に変えた村瀬は、買ったドリンクを手に、敷いたビニールシートの上に座る男の前に立った。残忍な気持ちが胸に沸き起こっていた。
男の前には、色で十円、五円と分かる硬貨がほんの何枚か入った佃煮瓶と、ブックスタンドで立たされた紙の挟まれたバインダーが置かれていた。
生活に困っています。電気、ガス、水道が止まり、お金がもうなくて、ご飯が食べられません。少しでもいいので、恵んで下さい。お願いします。と、黒のマジックで書かれた文が、惨状と言っていい窮状を訴えている。
「あの、お金‥」十六年の時を経て、村瀬と奇遇な再会をした江中は、目の前に立つ男が、あの時、自分があの家から追い出した主人と知ってか知らずか、足許の小瓶を取って差し出してきた。
「久しぶりだな、江中。俺が誰だか分かるか」村瀬が言うと、力無く弛緩していた江中の顔に、少しづつ驚きが拡がっていった。
「すぐに思い出せないなら、こっちから名乗るぞ。俺はあの時、お前に嚇されて、あの八木ケ谷の家と、奥さんと子供をお前に明け渡して逃げた村瀬だ。お前が忘れても、俺は忘れはしない」
村瀬の名乗りと顔見せを受けた江中は、ああ、と小さな声を喉から上げ、座った体を後ろへいざらせた。
「俺の顔なんかはともかくとして、あの家で俺の子供にやったことまで忘れたとは言わせないぞ。俺の娘は、お前と、お前の遊び友達に犯され続けて、お前も、息子も、俺の妻も知らない所で、子供を自分で堕胎したんだ。幼い子供の体でな。その地獄が、娘の人格形成を普通じゃない道へ追いやった。それで道を踏み外していったんだ。今、これを聞いてどう思う。これを聞いても、今のお前の頭にあるのは、目先の金のことだけか。どう思う、江中」
村瀬の問い詰めに引きつった江中の顔に、やがて追従するような笑いが浮かんだ。
「その、あの時のことですよね。家の前で言い合いになった‥」江中はおもね笑いのまま、ずれた弁明を試み始めた。
「すみませんでした。あの時は、ちょっと言い過ぎたと思ってますから」村瀬は自分の眉が急な角度に吊り上がったことが分かった。
「それだけか」村瀬が問いを投げると、江中の顔から笑いが引き、言われていることが分からない、という体の表情になった。
「それだけなのか! てめえに言える詫びは!」怒号した村瀬のキックが江中の胸に飛んだ。江中は空えずきのような声を上げて後ろへ転倒した。コンクリートに打ちつけられた後頭部が鳴った。
裏声の悲鳴を撒いて、体をよじって逃れようとする江中の背中と脇腹に、さらに一発づつのキックが抉り込まれた。重く籠った肋骨の鳴る音と、火が点いたように起こった江中の泣き声が交差した。
内臓を庇うように体を丸め、高く伸びる泣き声を漏らす江中の顔に、村瀬は革靴の踵を踏み当てた。
「安心しろ。殺しはしない。それは俺が仏やキリスト様だからじゃなくて、お前みたいなボウフラには、あっさりと死ぬことは似合わないことが分かってるからだ」江中の顔を踏みながら言葉を落とす村瀬の周りに、人の集まる気配がした。立ち去るまでの短い時間に、言うことを言わなければならない。
「その貧相な命を、物を食うことで繋ぎたければ、市役所の総合案内所へ行け。そこで、水も飲めないと言って泣けば、ボウフラや蛆虫や、糞にたかる金蠅にも最低限の文化的生活を送る権利があるという考えを崩さない職業的考えに基づいてやってる課に案内される。そこの審査が通れば、あらかじめ贅沢が出来ないように設定された額の金が毎月支給されて、税金は免除で、医療費もかからないけど、担当の窓口の職員から、働け、働けとせっつかれる日々が始まる。それで毎月赤字に悩む暮らしを送れば、金っていうものを一つの威力だと思って疑わなかったお前みたいな奴でも、何かを学べるはずだ。何かをな」村瀬は言って、泣く江中の頬から踵を離した。
「それ以後のお前の人生がどうなるかは、一切がお前次第だよ。ボウフラらしく、不様な姿と顔を提げて、これからもその無駄な命を虚しく消費しながらおめおめ生き恥晒して、一人でよぼよぼ老いていけ。それで独りで死ね。今の俺がお前に言えることはそれだけだ」
歪んだシートの上で体をすくめて女々しく泣き喚く江中を見下ろしてから、村瀬は背後、周りを振り返った。何人かの通行人が足を止めて遠巻きに見ている。お互いに公休日を合わせているらしい、手を繋いだ、美しいルックスにお洒落な服装をした若いカップルが不安の視線を送っている。
村瀬はそれらの人々をさっと見遣ると、ボディバッグから財布を出し、千円札を一枚抜いてしゃがみ、二つ折りにした札を小瓶に入れた。
やがて村瀬は、泣き続ける江中、不安を顔に浮かべた通行人達を振り返ることなく、千葉駅の改札へ歩を向けた。
後ろから背中を打つ江中の号泣が、絶望に満ちたこれからの人生を思ってのものなのか、被害を与えた相手から温情を受けたことによる感激からなのかは村瀬には分からなかったが、どちらでもいいことだった。憑物が落ちたように、江中のその後などへの関心的なものが取り払われた気分で、駅へ足を踏み出した。一瞬だけ振り返ると、小銭に続いて、村瀬の手で一枚の千円札の入った小瓶が、ただ静物画のような印象を残しているだけだった。
義毅のお陰もあり、全てを返礼出来たという思いだけが静かに胸に染みていた。それだけだった。
~剥離する爪~
江戸川区の市川寄り、橋の掛かった河沿いの一角に、身を隠すように点と建つ木造家屋だった。タイル張りの門柱には「パンダ事業所」という小さな看板が接着されて貼られている。脇の駐車スペースに義毅がソアラを停めたのは、十四時前だった。
停めてある車両には、派手な装飾とペイントが施された中型スクータータイプのバイク、黒のワゴンが目立った。
ソアラを降りた義毅の顔には、半分の覚悟と、半分の余裕が滲み出ている。玄関へ向かう足取りは軽かった。
チャイムに指を当てて鳴らすと、三十秒ほどして木製ドアが開き、小山のような体躯を持つ、目の大きな男が出た。男は愛想なく小さく頷いて、義毅の通る空間を開けた。
曇りガラスの嵌め込まれた室内扉の向こうからは、昭和、平成と続いたが最終回を迎えて久しい昔話アニメの、動物の子供が人間の子供を羨望するエンディングテーマが流れている。
ここへ直に呼ばれるということは、重大な指令を受けるか、あるいは処罰かのどちらかを意味する符牒だが、義毅は肚を決めている。
小山のような男は多田(ただ)と呼ばれているが、本名は、少なくとも義毅には知らされていない。
短い通り廊下の壁には、カレンダーと、スタッフと利用者が収まった集合写真が掛かっており、義毅はそれを何ということなしに眺めた。利用者が作成した布製品なども飾りつけられている。
建付の悪い扉を多田が開けると、四人程度の、男ばかりの利用者達がアニメソングをバックに、テーブルに盛られた缶のプルタブを剥がす立ち作業を行い、それを三人の、同じく男のスタッフが監督している様子が目に入った。
スタッフ達はいずれも傲岸な目つきと態度で、まだ幼さが残る年齢程の利用者達は萎縮し、作業の手つきもぎこちない。手の動きには震えが見える。
テーブルの上座に立っている、脊柱側弯で背中の曲がった壮年男が、入ってきた義毅を見て、おう、と発語する形に口を開き、義毅は軽く頭を下げた。
「かくしかじかの事情は堀川(ほりかわ)の奴から聞いてるよ。おめえは頭の切れも腕もピカイチの稼ぎ手で、うちにはなくちゃならねえ人間だったけど、そうあっちゃ、引き止めるに引き止められねえからな。けど、ちょっくら呑んでもらいてえ条件があるんだ」木島(きじま)という脊柱の曲がった男は言って、隣の部屋に歩き出し、義毅と多田が追った。
カーテンが閉められた物置のような隣の四畳では、若者が正座で座らされ、一人の男が後ろに立ってその髪を軽く掴んでいた。小柄なその若者は、薄いウールのセーターに膝上までのスカートにストッキング、顔にファンデーションにルージュを挽いた女装姿で、剥ぎ取られたロングヘアのウィッグがそばに落ちている。若者はタオルらしい白布の猿ぐつわを噛まされて声を封じられている。
義毅はその若者を知っている。自分の所属する「東京グループ」の正式なメンバーではないが、詰所に出入りし、内部の仕事を手伝って小遣いを稼いでいる自称大学生。人懐こく、与えられた小間使い仕事はいじらしいまでに一生懸命にやるが、称する在籍大学の校名がころころ変わることから、どうも天婦羅らしい。
「こいつがどうかしたんですか」「どうもこうもねえよ」木島は舌打ちした。
「今朝早くに、沖縄のチケット持って羽田にいるとこを、安田と中村がふん捕まえたんだ。見ての通り、こんな白々しい女の恰好なんかしやがってな、上がりを猫糞して飛ぼうとしてたんだ。こんなもんがまかり通ったら、示しがつかねえってもんだろ」木島の声が這うように低くなった。
「こんな奴、一発クンロクぶっ込んで叩き出しゃそれでいいんじゃないすか」義毅が言うと、木島の眉がぴくりと吊った。
「馬鹿言うな。うちの掟は下々にまで行き渡らせなきゃならねえはずだ」「そうですかね」「決まってんだろ。言っとくがな、今の時点じゃ、お前はまだうちの人間なんだぞ」木島は言葉を強調して、瞼の落ちた目で義毅を睨んだ。
隣の作業部屋から聴こえるBGMは、いつの間にか国民的猫型ロボットのオープニングテーマに変わっていた。よく知られたサビに、ちんたらこいてんじゃねえぞ、こらぁ! ぶっ殺されたくなきゃ、とっとと進めろ、こらぁ! という怒声が交わった。
「じゃあ、どうすりゃいいって話ですか」義毅はとぼけて尋ねたが、木島、多田、若者の髪を掴んでいる男の目と、口の結び具合で、命じられようとしていることは充分に察していた。
多田が隅の小箪笥に歩み、二番目の引き出しから、先端の尖った小さな道具を取り出した。
義毅に差し出されたそれは、一本のアイスピックだった。
「肋の間から心臓だ。それなら返り血も浴びねえからな」さも日常のことのように木島が言い捨てると、女装の若者は、ひい! という悲鳴を放った。
「俺がばらしの働きはやらねえことは知ってるはずじゃないすか」「四の五の言うな、荒川‥」木島の目に酷薄な光が灯った。
「俺にもガキはいる。フィリピンの女との間に出来たんだがな、遅くに生まれた奴で、目に入れても痛くねえぐれえ可愛い。その気持ちが分かっからこそ、おめえが足抜けすんのを応援してえまでよ。けどな、抜ける奴ってのは爆弾なんだ。お前の口が堅えことは分かってる。さらわれて拷問(ぶり)食らっても、警察(デコ)の柔道場でも音を上げねえで、俺達の掟を守り抜いたんだもんな。それに感謝してっからこそなんだよ。言ってみりゃこの相互不可侵条約に調印してもらいてえのはな、何があっても、この組織のことは外部には漏らさねえ。それを忠誠したって証が見てえんだ。出来るか。出来なきゃ‥」
木島の言葉は、隣室からの「本当に殺すぞ、このヌマ野郎」という声に搔き消された。
「‥ペンチかニッパーありますか」沈黙を先に破ったのは義毅だった。その問いを聴き取ったらしい女装の若者が上体をがたがたと大きく痙攣させ、やめて! と聞こえる声を猿ぐつわの奥から上げた。
「ペンチかニッパーありますか」義毅は同じ問いの言葉を、声量を上げて繰り返した。多田が作業場へ引っ込み、やがてののち、銅製の工具を持って戻ってきた。彼が一切の惨い事象を達観した顔で義毅の目下に出した道具は、柄の部分に滑り止めの黄色いビニールテープが巻かれたペンチだった。
それを受け取った義毅が女装の若者を見ると、彼は体の震えを激しくし、ぎゃあ、と泣き喚き始めた。義毅が手にしているペンチが、自分の体のどこをどう破壊するのかという恐怖を生々しく覚えたようだった。
木島も多田も、若者を留めている男も何も言わない。ここで今から展開される光景は、その絵、音、声の全てが身の毛がよだつそれのはずだ。それをごく静かに呑み込んだ顔で立っているだけだ。
薄壁越しに、作業場からの罵声、ただ威張り散らすだけの高圧的な指示が、場違いな児童向けアニメソングに混じって響いてくる。利用者達の声は全く聞こえない。みんな、かすかな声も出せないまでに萎縮しきっているのだ。ここの職員の誰一人として、福祉の倫理は元より、その知識もない。木島が拾った根からの怠け者や、ごろつき達があてがわれて、都が定めた最低賃金以下の給与で使役されている。利用者に渡す工賃などは小遣いにもならないような雀涙だが、助成金などはしかと受給している。
義毅は正座の形で膝を降ろすと、右手のペンチで、己の左手小指の爪を挟み、ほぼためらうこともなく、一気にその爪をこじ起こした。それから天井に向かって起きた小指の爪を、力任せに左右に揺すり、生え際からちぎった。
それから薬指、中指、人差し指の生爪がめりめりと剥がされてちぎられ、一枚づつが畳に舞い撒かれた。義毅が呻きとともに滴らせる脂汗が、量も粒も大きく畳に落ちて吸い込まれた。
親指の爪を剥離させ、ぶちりと引き抜いた義毅は、重く枯れた唸りを発し、右手からペンチを取り落として、血の涌き出す左手を押さえながら、畳の上に頽れ臥した。五枚の生爪は、レッドマーブルの貝殻のように畳に撒かれて散っていた。
若者の泣き叫びは、静かな啼泣に変わっていた。
体を丸めてうずくまり、顔を畳につけて唸り続ける義毅に、元締がどこか憤然とした視線を注いでいる。多田と、氏名不詳の男も無言のまま、あたかも日常生活の延線上にあるものを見るような目で彼を見ている中、木島が歩み寄り、脇に立った。
「さっさと出てけ。お前にはもう用はねえ」顔と体を脂汗で濡らし、波打つ背中から苦痛の熱を立ち昇らせる義毅に、木島が声を落とした。
義毅の呻きと唸りは続いた。秒、分がいくらか過ぎた時、目を赤く充血させ、汗で顔を光らせた義毅が、ゆっくりと顔を上げて木島を見上げた。
「‥木島さん‥いいっすか‥」義毅の喉から、がらがらとした震えを帯びた低声が懸命に絞り出された。
「‥こいつは‥何の考えもなしに‥憧れだけでこの道に足、踏み入れた‥ダボのガキっすよ‥」損傷していない義毅の右手の指が、顔を涙で濡らして洟を啜り上げている若者を差した。
「俺の‥この左手の痛みと引き換えに‥この馬鹿、助けてやっちゃくれねえすかね‥こんな奴‥ヤキ入れて追ん出す程度が妥当ですよ‥ばらしたとこで‥グループには何の恵みもないはずっす‥むしろ抱え込みことになんのは、り‥リスクじゃないすかね‥」
木島の頬が震えている。表情から読み取れる感情は怒りだった。
「これで‥勘弁してやって下さいよ‥人、ばらした手じゃ‥これから生まれてくる俺のガキ‥抱けなくなっちまうんで‥グル‥グループのことは‥この痛みに誓って‥一生どこにも、誰にも‥口外しねえっすから‥」
左手を押さえる右手の指の間から血を湧きたたせ、震える低声をひり出した義毅は、片膝を上げて、体を震顫させながら立ち上がった。畳に血が滴って落ちた。
「‥特に‥見送らなくていいっすから‥」腰を曲げた姿勢の義毅は振り返って言ったが、木島を始めとする男達は黙して、昏然とした怒気を溜めた視線を義毅に当てるだけだった。
血にまみれた左手を右手に握った中腰の義毅は、四畳の部屋を出ると、変わらずアニメソングが流れている隣の作業場へ行った。
おどおどとした顔に諦念を刻んだ利用者達の間に立っている職員達が、一斉にじろりと義毅を見た。
「‥物が言えねえ奴ら虐める根性持ってっと、いつか必ず、てめえが同じことされる立場になんぞ‥」三人の職員の顔を順繰りに見て残した義毅は、体を返して玄関へ向かった。
運転席に潜り乗り、握ったソアラのハンドルも血に汚れ始めた。白濁した思考の奥から、すでに博人を通して耳に入っているであろう恵梨香の出奔に、父親である兄はどういう反応をきたしているかという思いが涌いていた。
~命の役割~
津田沼へ向かう昇り線の中で、ボディバッグの中に収まった村瀬の携帯が何度もバイブした。確認すると、急を要している相手は八千代の家であり、博人で間違いない。
津田沼で降りた村瀬は、駅の騒音を避けるために、スイカをタッチして構外へ出て、喫茶店や中華料理店の並ぶプロムナードの一角へ移動して折り返した。
博人の応対は思ったよりも落ち着いたものだった。落ち着いた口ぶりで、恵梨香が家を出奔したことを淡々と伝えてきた。先日置いてきた金は、まだいくらか残っているとのことだった。村瀬は今からそちらへ行く、とだけ言って通話終了ボタンを押した。
綺麗に整理整頓がされた高津の家で父親を出迎えた博人の顔色に動揺はなかったが、昨日までいた人間がいなくなったことによる若干の落ち込みは覗えた。それは叔父の縁で生活と人生に希望が挿した矢先に、それを自ら振り落とす選択をした姉への落胆と見えた。リビングのテレビは、主婦向けのエンタメ午後番組をボリューム低めに流している。
博人が、見て、と言って、一冊の便箋の切り取りを村瀬に渡してきた。
お父さん、博人、それとお母さん。私はここを出ます。どうしてかは、そっちも知らないはずがないと思います。ここにいる人達の中には、私が心で望むものを与えられる人が、誰もいないからです。だから、私を知ってる人がいないところへ一人で行きたい。何年か後に連絡するかどうかは分かりません。それは私の心次第です。恵梨香
置手紙を手に取って文面を読んだ村瀬は、行動はともかく、家族に向けて普通レベルに礼節を払っているその内容に救いのようなものを見出した。態度として、先日の女チンピラ然としたものからは考えられない。字が上手いことも相俟って、心の変化が感じ取れるが、わずかな金を持ち、これからどこへ行ってどうするつもりでいるのか、こればかりが心配の念を抱かせる。
読み終えた手紙を置いた村瀬は恵梨香の部屋に入った。エンブレム、ナチ式敬礼をするドイツの群衆の天然色写真が額縁に入って掛かった部屋には、鉤十字のバッジ、ヒトラーの横顔がプリントされたワッペンが付いた黒の革ジャンパーが、ハンガーでカーテンレールから吊るされていた。自分が染まっていた思想を主張する服は着けていかなかったと見えた。
「お金はいくらくらい持っていったか分かるか?」リビングに戻った村瀬に問われた博人は、きょとんとした表情を変えなかった。
「今残ってるお金、一万円とちょっとだから、何千円とかしか持ってかなかったんだと思うよ。朝起きたらもういなくて、この手紙が置いてあったんだ」答えた博人の顔には落ち込みが見えたが、彼の昼夜逆転の生活が改善されたらしいことが見て取れたことが、村瀬には嬉しかった。
自分を知る人のいない所へ行く。これは祖父母が存命かも分からない母方実家や、友人類の許へは行かないということを表している。この先どうやって金を得て、宿を確保する気でいるのか。それとも路上か。それらを選んだ先に、命そのものがあるのか。
心配の念が起こる中、見出せる救いがあるとすれば、ナチの恰好で出ていかなかったことか。
「まどかさんにも連絡したよ。だから、義毅叔父さんもこのこと知ってると思う‥」「まどかさん?」「叔父さんの、これから奥さんになる人。社会福祉士なんだ。叔父さんから聞いてない?」「聞いてるよ」村瀬は言って、博人の頭を撫でた。博人ははにかむこともなく、それを受けた。
義毅に依頼し、彼の情報網で探し出そうという考えがよぎったが、村瀬はそれを打ち消した。恵梨香は子供の時分にその身を襲った忌まわしいことに翻弄されるがままに、ネオナチに居場所を求めたが、今の彼女はそれを棄て、自分で考えて足を踏み出した。その善し悪しは、自分で判断するしかない。
心配の気持ちがないと言ったら嘘になる。だが、それでも長い目で見て、想ってやるしかないという思いに、村瀬の心が傾いた。
「博人。もう一つ、大事なことを話さなくちゃいけないんだ。聞きなさい」父親の言葉に、博人はあらかじめ分かっていることを聞く準備が出来ている、という風の表情を見せた。
「今日は弁護士と一緒に、千葉の拘置所へ行った帰りなんだ。お母さんの、借金の自己破産手続きは終わった。それで借金はなくなる。だけど、お母さんは、刑事担当の弁護士をつける意思はない。つまり、これから刑務所に収監されることになるんだ。刑期は半年以上、一年未満だ。お母さんが出てきた時、お前は受け入れて、迎える気持ちにはなれるか?」
父親から問われた博人は、目を伏せて黙り込んだ。まだ答えられない。落ちた瞼にはそんな思いが見取れた。
「恵梨香がいつか戻ってくるか、それとももう戻らないかは、まだ分からないよな。だけどどっちにしろ、あのお母さんはお前達とは離さなくちゃいけないとお父さんは思うんだ。何故なら、女ではあっても親ではない人だからだ。その辺りは、お前も長く一緒に暮らしてきたから、分かってるよな。母親としての自分を持つことなく、子供よりも男を選んだわけだから。それでお前達に地獄のような苦しみと悲しみを与えて、傷を負わせたことを今も反省する様子も見せない。戸籍上はお前達の親だけど、そういう人じゃないか、あの人は」
村瀬が博人の肩を抱いた時、テレビ画面上部にニュース速報のテロップが表示され、九日に千葉市内の居酒屋チェーンで発生した射殺事件、氏名不詳の容疑者黙秘のため、捜査に進展なし、と出た。
「またもう一つ、知らせることがある‥」村瀬が言うと、父親に肩を抱かれた息子は、何かの奇跡を期待する顔で見上げた。
「恵梨香をレイプして、お前を悲しませて苦しめたあの男が、千葉で物乞いをしてた。お父さんは今日、奴をしっかり成敗した」村瀬の肩に収まっている博人の目が驚愕に見開かれた。
「親から相続した財産に飽かせて無職で暮らしていたあのボウフラ野郎は今、その金を根こそぎ失って、電気もガスも水も止まった家で、闇に怯える生活を独りで送ってるんだ。博人、これが本当の因果応報、自業自得だ。こういうものなんだよ。お前達が強いられた悲しみと苦しみと、それと悔しさを、今日、あいつの体に返してきたよ。あいつはこの先、普通の人生は送れない。子供というものを守るものではなく、自分の欲望を満たすためだけにあるものだっていう狂った糞野郎の考えの在りようが、全部返ってきたんだ。全部な」村瀬は抱いた博人の肩を叩いた。
「籍を戻して、お父さんと暮らさないか」村瀬は、肩の中の息子に優しく言葉をかけた。
「恵梨香の携帯にその旨の伝言を入れておく。あいつが戻る気になった時には呼び寄せればいい。それでお前は、お前に無理のない職場なり、就労継続支援事業所なりを見つけて、実籾の俺の家から通えばいい。この家は義毅が自腹で直してくれたから、原状回復費を取られることもない。だから、安心して次の店子さんに譲れる。不安な一人の暮らしより、こっちのほうが断然いいだろう?」
村瀬の腕に抱かれた博人の肩が上下に震え始め、声を殺した泣き声が上がった。長く自分を苦しめていたことがようやく終わりを見、心に負った傷がゆっくりと癒えていく日々を迎えることが出来た喜びに哭く博人の背中を抱きながら、今、お互い同意の上でディスタンスを置いている菜実のことを想った。クリスマスイブに会い、また肌を重ねようと決めた。
上着は、母親のピンクのジャケット、下は紫色をした幅広のパンツ、頭にはニットという恰好で、巾着バッグの中には何枚かの下着類、間に合わせの生理用品を詰めて、朝に家を出た。所持金は一万円と少しだった。
まず、船橋に出て、コンビニのお握りとお茶の昼食を交え、あてなく街をぶらついた。どこへ行くと決めて出たわけではなかった。
街を行き交う個性雑多な人を見て、自分との違いというものを考えた時、自分はなるべくしてこうなった、という思いばかりに結論が落ちた。そこから虚無が生まれ、晴れた空の下にいながら、その昏迷とした虚無に体ごと引かれていく思いになった。
陽が落ちた頃、あたかも身の回りの時間が停まったように、しんと静まり返った虚無の心地のまま、JRに乗った。
西船橋、下総中山、市川、小岩を過ぎ、新小岩で降りた。新小岩にあてがあるわけではない。下車駅を適当に選んだだけだった。
街の灯りが毒々しく感じられる駅前に立った時、辻の端々から暴力の気配を含んだ存在の気を感じた。だが、それは自分には全く馴染みのないものではなく、怯む気持ちも特に起こらなかった。
古めかしいアーケード街の近くにあるゲームセンターの入口を潜ると、別々のゲーム台が吐き出すプレイ音楽が不協和音となって耳に迫ってきた。客入りは多くないが、煙草の匂いが立ち込めている。煙草の脂に黄ばんだ壁には、新しいゲーム台の入荷を知らせるポスターが貼られ、世界各国の国旗が、壁を壁を結んで吊るされ、垂れている。外も中も、昔ながらのゲームセンターだった。
周りの客に何の関心も持つことなく、未来戦車を操作して、月面のようなフィールドでエイリアンの大群と戦うシューティングゲームの台に座った。
とりあえず、コインシャワーのあるネカフェに泊まろう。お金が尽きたら、路上で寝泊りしよう。自分のような者が、まっとうに働いて金を稼ぐことなど出来ないのだから。その手段があるとすれば、ウィッグを被って売春か、ポルノに出演することだけ。だから、それで行く。エイリアン達がビームに粉砕されていく画面を見ながら決めた時、限りない先行きへの絶望感が胸を覆った。
慣用句として使われる、信頼、信用とは何だろう。友情と呼ばれるもの、親子、男女間に芽生える愛情とはどんなものなのだろう。これまでの人生で、自分のそばに確かなそれらがあると感じたことは皆無だし、それがこれからの自分にあるとも到底思えない。
だから、本当の友達、また、恋人、家族を作ることが前提にある結婚生活というものも、自分には分からない。心のどこかでは、確実に手を伸ばしているそれらの「人並み」を確かに求めている自分がいたが、想えば想うほど遠ざかる。
その飢餓感を怒りに変え、弱い者達にぶつけてきた。母親へのそれは、復讐だった‥
それを認めたのは、プレイ画面がステージ2に変わった時だった。
エイリアン群が放つ光弾や槍状の発出物の攻撃をかわし、現れる敵達を倒し、ボスキャラと対面した。
よく見ていないために年齢程や容貌がよく分からない少数の客が、言葉もなく場当たり的な快感に身を任せる店内に、極めて若いが品のない高笑いが挿すように沸いた。若い女の声だった。
それに不快を感じて顔を上げて声のほうを見ると、幼く愛らしい面影を残す顔をわざわざ汚すような化粧をした少女達が三人、いた。原色を基調とした服のセンスは、激安量販店で調達した風なものをごてごてとまとい、ちぐはぐな印象がある。首から下がるチェーンが、さらに下品さを強調していた。
その中の、生え際の黒い金髪をした、ラインパーカー姿の少女と視線が合い、瞬のうちに威嚇と、半ばの訝しみの目線が宙で交わった。
目を画面に戻し、触手をゆらゆらと伸ばしながら、甲羅と口から吐いた光弾を漂わせるボスキャラをビームで攻撃した。
蟹とクラゲを足した外観をしたエリアボスが体中から爆炎を噴いて倒された時、もう一度目を上げてその少女達を見た理由的なものは、つい二週間ほど前の自分と通じるものを感じたからだった。
「あいつ、マジ超馬鹿。さっきから、うちらのことめっちゃちらちら見てるよ」人の蔑み方、嚇し方が、幼くしてすでに堂に入った早口の囁きが耳に入った。
「何か文句あんの?」囁きに横目を上げると、濃いファンデーションに頬紅、紫のルージュ、農茶の丸いゴーグルに紫のスーツ風上下を着た女がゲーム台の脇に立っていた。
無視して目を画面に戻し、ステージ3のプレイを始めると、ジャケットの襟首を掴まれ、引かれた。
「文句あんなら言ってみろよ。てめえ、何さっきから汚えもんでも見るみてえに、うちらのことじろじろ見てんだよ」女は恵梨香の襟を持って揺さぶりながら凄み立てた。
未来戦車が三面の敵の攻撃を食らって破壊された。満杯になったアルミの灰皿を両手に持った、赤いベストに蝶ネクタイの制服を着た店員が通り過ぎたが、暗く愛想のない顔をしたその男は、関することなく通り過ぎただけだった。
「ねえ、お前、身元どこ?」ゲーム台に片手を着いている、豹柄のジャージ上下を着、ライトブラウンの髪に長い付け睫毛をした少女が問うた。
「うちら、ここいら喧嘩で締めてんだわ。張るんだったら、うちらに納めるもん納めて、筋通してくんねえ? でねえと、目障りだからさ」
自分を棚上げし、この娘達を安臭く愚かしいと思う気持ちが沸き、それが無視という態度になった。相手は複数名だが、場合によっては己の手による死という選択も持って出てきた身で、さほどの怯みもない。血がしぶき、歯がすっ飛ぶ殴り合いの末に凶器が出てきて、それが自分に死をもたらすことも、もはやそれほどは怖くはないというその場の気持ちがあった。
自分の心は、十一年前、大人の男達の手で下着を剥かれ、口に何本もの、異様な臭いのする不潔な男根を捻じ込まれたあの時から、黒府へさらわれたままなのだ。
「こいつ、むかついたわ。表出ろよ。半殺しにすっから」少女達にジャケットの裾を掴まれて、引き立たされた。
恵梨香は三人の、中学生から高校一年くらいの年代顔をした少女チンピラ達に、アーケード街の奥にある、ポリバケツが三個並び、収納しきれていない生ゴミの袋と、出す場所を違えた酒の瓶や缶が転がるコンクリート打ちっ放しの空間に引きずられた。近くのパチスロ店からの音声が、鞣すように聞こえている。
「子宮と卵巣潰して、一生もんの女廃業の体にしてやんよ」真前に立った、最年長風のゴーグルの女が言った時、機先の先手を切った。
恵梨香の右ストレートが、びき、と音を立てて女の鼻柱に食い込んでいた。女は鼻を押さえて、大きく股を開いて転げた。外れたゴーグルが、コンクリートの路面に落ちた。
恵梨香は、女としてはわりと腕力はあり、喧嘩にまるで自信がないわけではない。仲の悪いユニオンの女メンバーと一対一で勝負し、先陣を切って蹴りを入れたこともある。だが、相手もゲットー育ちで、年齢こそ幼いながら暴力の数を踏み、嚇しも達者な者が複数揃っている。分がいいとは言えない。
豹柄ジャージの少女が、恵梨香の鳩尾にパンチを抉り上げ、体を折った彼女の顔面に、黄色いラインパーカー姿の少女が、キックボクシングをかじっている動きの蹴りをしなわせた。
恵梨香の体が、生ゴミ袋を載せたポリバケツの上に叩きつけられた。彼女の体に押されたポリバケツが二つ、ドミノ倒しになり、内容物がぶちまけられた。腐敗したゴミの汁でジャケットが汚れた。
「立てよ、こらぁ!」怒声とともにジャケットの襟を掴んで立たされ、ラインパーカーの少女から頬に肘を入れられ、豹柄が首相撲を取って、恥骨に膝を打ち上げた。
痛みに、全身から力が抜けた。大粒の鼻血が滴っていることが分かった。
組んだ両手の小指側を数回背中に叩きつけられ、息が詰まって膝から崩れ臥した。ゴーグルに紫ルージュの女がよろと立ち上がり、にじって寄ってきた。ルージュの唇を鼻血で縫った女は、憎しみを燃やした鬼相で、恵梨香の乳房を蹴った。たまらず、悲鳴が吐き出された。
仰向けに倒れた体に、幾発ものキックが入った。恵梨香は堅く閉じた目から涙を流し、泣き叫ぶ恰好に口を開け、それを受けた。顔を前腕で覆い、体を丸めて内臓を守った。
助けて! 恵梨香は自分の心が叫んでいることが分かった。
こんな所で、こんな年下の奴らに嬲り殺しにされる形で、まだ始まって二十年と少ししか経っていない人生が終わるなんて嫌だ! 私はこれまでの人生で、本当に嬉しかったこと、楽しかったことなんか、ただの一つもなかったんだ! それがどういうものなのか、経験的に、いや、概念的に朧としかにしか分からないからこそ、その気持ちというものを見てみたい、感じたいんだ! それを一度も味わうこともなく死ぬなんて嫌だ! お父さん! 義毅叔父さん! 西船で、電動車椅子のおじさんに絡んだ私を見て見ぬふりしなかったまどかさん! 私を助けて‥
その心の救難信号が、振り絞る号泣に変わった。誰かが助けに入る、または警察が来る気配もない。
三人が蹴り疲れたか、キックの暴風雨が止み、半身を引き起こされた。恵梨香は涙と鼻血を顔に交えて、大声で泣いていた。
「今さら泣いたって遅えよ。てめえ、うちらに喧嘩弾いたんだからよ」紫ルージュの女が鼻血を拳で拭いながら言い、懐から煙草を取り出し、咥えてライターで火を点けた。
「目ん玉焼き潰して、めくらにするだけで勘弁してやるよ」女が薄笑いを浮かべて言って、恵梨香の右目にオレンジ色の火が灯った先端を近づけた。顔を背けると、頭を持たれて正面を向かされ、指で目をこじ開けられた。熱が瞳孔に迫った時、恵梨香の口から父の名が叫ばれた。
「てめえの親父なんか来ねえよ」右目の視界がオレンジに染まったと思った時、その背後に、女が一人立った。
「やめなさい」優しく諭す声で女が言うと、少女達が我に返ったように振り返った。
グリーン色をした冬物のブルゾン上着に、紺のズボンを履き、手にトートバッグを提げた女が、後ろからゆっくりと少女達に歩み寄った。泣く恵梨香の目には、ブルゾンの胸元に刺繍された「(株)ケアプランニングユカワ」という勤務先の介護業者らしい社名、首から下がったネームプレートにある裕子、というセカンドネーム、自分の両親よりは少し行った女の齢顔だった。
「何だよ、婆あ‥」豹柄ジャージの少女が女ににじり詰め寄り、顔を突き寄せて凄んだ。
「相手はもう泣いてるのよ。数を頼んで、これ以上苛めるようなことは、人の道に外れることよ」「てめえに関係ねえんだよ、このタコ!」少女は女の下腹に前蹴りを入れた。女は腰を引いて、脚をがくつかせた。
「ここいらでうちらの気分害する奴は、みんなぐちゃぐちゃになって死ぬんだかんな! 長生きしたきゃとっとと消えろよ、この糞婆あ!」ラインパーカーの少女が、女の腿にローキックを入れ、腿の肉がぴしりと鳴った。
「邪魔だよ、てめえ!」ラインパーカーの少女が、悲しいものを見た顔で俯く女の頬に拳を入れ、かんと頬骨が鳴って女は大きくよろめいた。
「おばさんには関係ねえんだよ。こいつ、うちらの縄張(しま)で、うちらに許可なく粋って弾いてっからさ、今、けじめ取ってるとこなんだよ」紫ルージュが、殴られても倒れることなく辛く立っている女に向き直って言い、女は切とした顔で見上げた。
紫ルージュの手には、吸口の灰が伸びた煙草がまだ持たれている。女の目が、何かの意を決したように、その煙草に注がれた。
女が、紫ルージュの手から、煙草をつまみ取った。
「けじめとかだったら、私が取るよ。だから、この子を離してあげて‥」女は言いばな、火の点いた煙草の先端を、自分の左掌に押し当て、ぎゅっと握った。皮膚の焦げる音が、恵梨香の耳にも生々しく届いた。
今の自分は、西船で自分が仲間を従えて絡んだ、電動車椅子の人と同じ立場になっている。まどかさんもそうだけど、通りがかりで出会っただけの人間のために、ここまでのことをする人というものは。まだ恐怖が覚めない中、恵梨香は畏れて驚いていた。
女は口の端を縛り、眦を決めて、恵梨香の知識では計れない度数の熱を掌で受けている。こめかみに、汗が光っている。苦痛の呻きを腹の中に落としながら。
掌の皮膚で消した煙草を片手につまみ、脂汗に濡れた顔で、女は視線を移し移し、少女達の目を見、大きな息継ぎをした。
少女達は一人、また一人と後退した。全員女の目を正面から見ることが出来なくなっており、顔を横に、あるいは下に背けている。
ケロイドの、まどかの顔半分を目の当たりにした、あの時の自分そのものだった。
「人生には、あとからどんなにごめんなさいって謝っても、もう遅いっていうことがあるのよ。あなた達の若さだったら、それがまだ学べるよ。だから、そんな年齢で何もかもを諦めて、投げやりに生きるのはやめなさい」裕子(ゆうこ)というヘルパーの女は、激痛の中でも優しい口調を崩すことなく少女達に訴えた。
紫ルージュの女が顔を裕子に向けたまま、小走りに平井方面へと駆け出した。豹柄ジャージとラインパーカーが、後ろを振り返ることもなく続き、三人の荒み果てた少女の姿が消えた。
「大丈夫?」裕子は座り込んだままの恵梨香に寄り、両手を取った。濡れた顔でしゃくり上げる恵梨香の顔に、額をつけるようにして、顔を寄せた。
「ないんだ‥」恵梨香は言い、涙の筋の上に、また涙を伝わせた。
「私、帰る所がないんだよ。行く所もないんだ‥」涙と鼻血、涎でぬかるんだ顔を歪めて、恵梨香はまた泣いた。
曇った葛飾の夜空を仰ぐようにして、心底からの悲しさを搾り上げて呻き泣く彼女の肩を、隣に回った裕子がそっと抱いた。
「私の家、市川なの」やり切れない絶望と悲しみの中に、恵梨香の耳元で囁かれた言葉が、計り知れないまでに温かく響いた。
「娘と二人暮らしだけど、私の家、部屋が一つ空いてるの。あなたがよかったら、今日からしばらく、そこで寝る?」
初めて聞くような言葉かけに、恵梨香は哭きながら、裕子の顔を見た。小太りで、頬の肉が多い福々とした輪郭だが、至近距離で見る目には、過去に修羅を踏んだ者ならではの、鋭い威圧感があった。それに圧倒されながら、恵梨香は一寸のちに頷いた。近くのパチスロ店からは、ラッキーセブンを叩き出した台のアナウンスと、メロコア系ロックのBGMが、裕子と恵梨香の光景などまるで他所のこと、といった風に流れ、聴こえ続けていた。
痛みは依然としてあるが、薬局で「薬剤師」のネームプレートを下げた男の店員を急かして買ったロキソニンにより、いくらかは、と言える程度には引いていた。こんこんと沸き出す鮮血をハンカチで押さえながら、パンダ事業所から最も近い薬局で調達した消毒液、ガーゼ、包帯、メディカルテープで、五枚の爪を自ら剥いだ左手を車の中で自力で手当てし、二時間ほど唸った。
そののち、東京外環自動車道を飛ばして江戸川区から古和釜町を目指し、蛇行加減のソアラを走らせた。
なお、リアシートには、耳の揃った三百五十万円の入ったトランクが置かれている。
船堀で二時間呻いたことに加え、駐車可能路側帯で時折ソアラを停めて休んだため、古和釜町には十八時過ぎの到着となった。
グループホーム合歓の外壁沿いにソアラを停め、損傷していない右手にトランクを提げ、足を引きずるようにして外門前まで移動、チャイムのボタンに指を載せた時、ドアが開いた。出てきたのは、顔を知る利用者だった。
トレーナー上下姿の利用者は泣き顔で、高い悲鳴のような声を上げていた。
「どうした‥」義毅は言って、利用者の小さな体を抱き留めた。開いたドアの向こうからは、何かの断末魔のような叫び声と、内容の聞き取れない怒号めいた声が聞こえた。
義毅は、自分の肩までの身長をした利用者の背中を腕に抱きながら、屋内に入った。叫びと怒声は、リビングから聞こえる。
曇りガラスの嵌め込まれた引戸の前に立つと、床に寝た一人の利用者の上に、社長の増渕が馬乗りにのしかかり、その青年の首を両手で締め上げている光景が目に飛び込んだ。その周りには別の男の利用者が二人立ち、自分達にはどうにもしようのないものを見るように、それを眺めている。
テーブルの上には、肉の炒め物らしい食事が並んでいるが、麦茶のポットが横倒しになり、中身が流れ出して、食器の底を浸している。利用者が間違えてこぼしたのか、それとも故意にやったいたずらなのかは、義毅には分からない。
「死ね! お前なんか死ね、この野郎、畜生!」増渕の口から罵声が撒かれ、利用者は赤く染まった顔をしかめて苦悶している。
「てめえ、何やってんだ!」義毅は駆け寄り、増渕の襟を掴んで、彼を利用者から引き剝がした。義毅を見上げた増渕の顔に、水を打たれたような驚きが刻まれた。
「馬鹿野郎!」義毅の右拳が、座位の増渕の頬を打った。増渕は義毅の姿が目にも入っていないような様子で上体が床に薙ぎ倒され、やがて、心ここに在らずといった顔で、下から義毅の顔を見た。
増渕の手が喉から外れた利用者の青年は、先までのことがなかったかのような顔で天井を仰いで見ている。増渕は倒れた体を起こすと、先の非態はいずこへ、といった虚無感の漂う表情で、リビングの隅に視線を投げ遣った。
「今、てめえがやってたことが、どういうことだか、お前分かっか‥」義毅は精魂尽きたように座ったままの増渕の脇に回り、ゆっくりと言葉を落とした。
「金を返しに来た‥」義毅は足許のトランクを右手で開けると、フローリング床の上に、左手を使用せずに、右手のみを使って、中身の三百五十万の札束を一つづつ置いていった。
「耳は揃えたつもりだ。足りなきゃ、電話で文句言ってくれ」義毅が札束を右手で指して言うと、増渕の驚いた目が、札束と義毅の顔、所々血が滲む包帯の左手に順番に注がれた。
「お前、こいつらを可愛いって思う心、これまでいっぺんでも持ったこと、あっか?」義毅は、床に横たわったままの青年から、今だ呆然と立っている三人の利用者を見回しながら、座り込んだ増渕に問いかけた。
「あの女の子のホームは、俺との約束守って、人を入れ替えたんだよな。こいつは陰から確かめたよ。けど、このホームと、お前自身は何も変わっちゃいねえ。こいつが麦茶こぼしたことに、そんなに腹が立ったのか。こいつらに普通の人間並みのことをやらせようとしても出来ねえのも、こういう奴らが言うこと聞かねえのも当たりめえだろ。昨日今日この道に入った人間じゃあるめえし、そんなことが分からねえはずもねえはずじゃねえか。こんな真似して、あとがあると思うのか」「あんたなんかに分からないよ!」座って項を垂れていた増渕が顔を上げ、荒らげた声と言葉を義毅にぶつけた。
「俺はこの二年間、一日も休みが採れてないんだ! 二年前、右腕としてきた人に辞められてから、ずっとここに泊まりっ放しで、ホームの環境整備も、身体介助も、服薬管理も、感染対策も、クレーム処理も、何から何までずっと一人でやってきたんだ! 俺のやったことが外れたことだったら、あんたは何だ。あんただって、ウェルビーイング・トータル・コンサルティングなんていう嘘の看板掲げて、他人の弱みにつけ込んで、それを飯の種にしてるやくざじゃないのか!」
「そら、大丈夫か‥」義毅は増渕の言葉には答えず、自分のされたことも分からないような顔で天井を仰いでいる利用者の青年の手を取り、背中を腕に抱いて抱え起こした。体が座位になると、口から唾液が一本の筋を引いて垂れた。
「物事を全部一人で抱え込もうとすっから、こういうことになるんだ。お前は分かってねえ。会社を回すってことも、こういう障害者って呼ばれる連中のことも。ここを立ち上げてから八年とかって言ってっけど、はなから何を考えてこれを始めたんだ。余計なことを外でしゃべらねえ重い奴らを商品の陳列みてえにただ置いて、社長、社長って持ち上げられて、いい顔がしてえって動機だったのか。それとも、こういう奴らを金に換わる商品にしようと思ったのか。こんなことになったのは、そもそもその中身が最初から馬鹿げてっからだろうが。それじゃ人が離れてくのも当然だろう。違えのか」
ただ座って俯いているだけの増渕の肩と背中は、荒い吐息とともに震え、上下している。最も見られたくなかった醜態を、一番見られたくない人間に見られたことの焦燥が、その姿に滲んでいた。
「お前はこれをやりたくて始めたわけじゃねえし、これまでだって、好きでこれをやってきたわけじゃねえんだろ。本当のこと、話せよ。場合によっちゃ助言もどきも出来っから。返した金ん中から、相談料とかを取る気もねえよ」義毅の言葉には若干の優しさがあるが、声、口調は枯れた迫力を帯びていた。増渕が伏せていた顔をゆっくりと上げた。その顔には、まだ怒りの気があった。それが数寸の時間ののちに悲しみのものになり、彼はまた目を伏せた。
「聞いてくれ。俺は大卒だって言ってたけど、本当は高校中退なんだ。それも二ツ橋付属。あの、偏差値七十台の進学校‥」増渕はぽつぽつと話し始めた。
「二ツ橋へエスカレーター進学して、あそこで生物の研究をやりたかったんだ。やるはずだったんだよ。それが二年の初めに、存在しない人間が自分をからかう声が聴こえるようになって、いないはずの動物の姿が見えたりするようになってね。それで精神科病院を受診したら、統合失調症だって。古い病名の精神分裂症‥」
増渕の横顔には、これまで誰にも打ち明けるべくもなかったことをようやく打ち明けることの出来たことによる、心の晴れ間のようなものが覗い見えた。
「それのために、小学校から付き合ってきたような友達もみんな離れていったよ。お袋は、ただ家の評判に傷がつくことだけを恐れるだけだった。兄貴は無関心だった。親父は怒って、俺が精神科から処方された薬を捨てたんだ。こんな病気は精神の弱い奴、怠け者がなるものなんだ。こんな人間はうちの血筋からでたことはないんだ。うちの男児だったら、根性一つでそれを蹴散らしてみろ、とかって言われてさ‥」
義毅は増渕に目を据え、腕を組んだ。
「親父は高校、大学と空手部で鳴らして、大学じゃ主将だったんだ。そこから体育会乗りの不動産会社に就職して、飛ぶ鳥を落とす勢いで営業成績を伸ばして、二十代で課長に上り詰めた人だった。それで正義感が強くてね。だから、物事ってものは、基本的に根性、精神で埒が明くっていう考え方に凝り固まってた。去年にガンで死ぬまで。精神じゃ、ガンには勝てないことが分からなかったわけでもないはずなのにね‥」増渕は瞼を瞬かせ、洟を啜った。
それをぼんやりと見ている二人の利用者、座ったままの青年には、今、自分達の世話人が語っていることの半分も理解出来ていないだろう。
「そんな親父に認めてもらおうと思って、俺は高校をやめて、まず、百貨店の電化製品屋に就職したんだ。だけど、薬がなくて、症状が日に日に悪化する中で、ケアレスミスを繰り返して、上司や同僚から罵声を浴びせられながら頑張ったんだ。半年目に解雇されるまで」 増渕の声色には恨みが籠っていた。
「そのあとは、休む間もなく、二百人あまりを収容する特養に就職したんだよ。働きながら、介護福祉士の資格も取ったんだけど、そこでも仕事がなかなか覚えられなくて、入居者を危険にさらすようなミスを連発して、毎日施設長や主任から怒鳴られて罵られたよ。それでも、やっと親父から飲むことを許された薬を飲みながら、十四年勤めた。十四年だよ。一生みたいな長い時間だったよ。本当に‥」増渕はこぼれた涙を手の甲で拭った。
「さっきも訊いたことかもしんねえけど、ここを立ち上げた時の初心は何だったんだよ」義毅の問いかけに振り向いた増渕の赤らんだ鼻が鳴った。
「雇われて、他人に使われる仕事でものにならないんだったら、自分で事業を始めようと思ったんだ。だけど、自分以上に一人前の人間を雇って使うような自信がなかったんだよ。だから、知り合いのつてで集めた人だけを、これまで雇ってきた‥」「おい、その自信がないなんてのは、今のお前の立場じゃ禁句の言葉だぜ」義毅の投げに、増渕はその顔にはっと何かに気がついた色が浮いた。
「いきさつとか、お前が抱えてる事情がどうあっても、今のお前はこいつらの命そのもんを預かってんだぞ。それの意味を、この先何度でも考えていかなくちゃいけねえはずだろう。今、ここにいるこいつらの誰一人として、てめえだけじゃてめえの身の安全、権利や財産を守れねえんだ。お前の仕事は、そのこいつらの命や尊厳を守り抜くことのはずだろう。そいつが出来なきゃ、この立場がお前のかっこつけだって言われても何も言えねえはずなんだ。そんなことで、この先もこいつらを守っていけるのか! お前が定年の齢になる頃、この会社を残して、後進に引き継ぐことが出来んのか! いい加減に分かったらどうなんだ!」
増渕は顔を俯け、流れ出る涙を拭い続けた。万年のように続いた冬の雪がようやく溶け出したという涙だった。
「いいか、命だ」義毅がアクセントを強めると、増渕が声を呑み込んだ涙の顔を上げた。
「初心がどうだって、ここを興した以上は、お前の命はこいつらのためにあるものなんだ。その命は、常日頃からてめえでメンテナンスしてねえと、命がある意味を失うんだ。だから、金を惜しんでる場合じゃねえ。使い物になる人間を雇え。それでそいつらを経営者の立場からしっかり仕切って、お前の週休もきっちり採れるようにしろ。それが出来なきゃ、お前は駄目なんだ。本当に駄目だぞ‥」
義毅は刺して、空のトランクを右手に持つと、まだ座り込んでいる青年の頭を撫でて、玄関へ踵を返した。
「これまでは、ここには何の中身もなかったはずだ。でも、今、俺が言ったことをちゃんと受け入れりゃ、ここにも命が宿るようになるよ。そうなりゃ、変わるんだ。明日の景色ってもんが‥」
残して、玄関でブーツを履く義毅を、増渕がゆっくりと追ってきた。「教えてくれ」増渕は義毅の背中に声を投げた。
「うちから巻き上げた金を返してくれたのは、どうしてなんだ」「一時預かりの保証金を返したようなもんだと思ってくれ」義毅の答えに、増渕は濡れた目を丸くした。
「通院と服薬をやめるな。それで、医者から言われたことは守れ。それで落ち着いた頃に婚活でも始めりゃいいだろう」義毅は言い、玄関を出た。増渕の左右には、先まで義毅とのやり取りを見ていた二人の利用者がやってきて、立っていた。
合歓を出、とっぷりと暗くなった古和釜の空を見ると、雲の間に星が見えた。
目の前の歩道を、母親に手を引かれて歩く小さな未就園児の女児をそれとなく目で追いながら、自分の発した虚無、という言葉を、頭の中で虚業と言い換え、よじった笑いを吹いた。
長く続けてきた恐喝師という渡世に、今日の日に自分で幕を引いたが、これからどうするかについては、さしたる憂いも感じてはいない。浄水器の卸売業を拡大させることもありだが、別の商売を興す算段もある。それはこれまでの収入源を資本とするが、そうすれば、裏道で稼いだ金にも命が吹き込まれると思う。
スマホには、「天ぷらとまぜご飯作って待ってます。あと、妊婦にも性欲あるので、今日はお情けをいただきたいんですけど、いいですか?」というまどかからのメールが入っていた。それをチェックした義毅は、J―POPの「オリオン」を口ずさみながら、雲間の星を仰ぎ、これからまどかと住む家のことを想った。
左手の痛みはまだ疼いている。まどかはワンコールで応答した。
「糞、まだ痛え‥」「どうしたの!」義毅の送った第一声に、まどかは心配の反応を返してきた。
「今日、稼業、抜けてきた。土曜、不動産屋行こうぜ。それから指輪買って、籍入れて、結婚式の真似事みてえなことやろう。出来りゃ、五十くれえの広い坪の家がいいよな。何匹生まれっか、まだ分からねえし」「落とし前つけられたの?」「つけられたんじゃねえ。てめえでつけたんだよ。ニ、三日は痛えと思う。けど、お前がしてえんだったら、頑張っちゃみるさ‥」「義毅さん!」「今、用あって船橋の古和釜だ。これから行くから待ってろよ。腹減ってんなら、先に食っててもいいから。俺の分は残しといてくれ‥」「義毅さん‥」「じゃあ、あとでな。うお、糞‥」「待ってる‥」「待ってろ。それと、恵梨香のことは過剰な心配はいらねえ。あいつは誰かに拾われるはずだからな。寺の厄介になって、何年かあとに尼さんになって現れるかもしれねえ。博人は、これからお前が世話すっか、親父がどうにかすっかに分かれる。でなきゃ、自分で何かを考えるかもしれねえ‥」
痛みがぶり返してきた。通話を切った義毅は、血の滲み出している包帯の左手を押さえて屈んだ。痛みは、左手全体に染みるように広がり、手と半身が震え出した。義毅は奥歯を噛んでそれに耐えながら、ソアラへ足でいざるように歩いた。オートキーのボタンを押し、鍵の開く音を聞いた時、力を失った体がサイドドアに崩れてもたれた。痛みは頭蓋の内側でもがんがんと鳴り響いていたが、気分、心地は悪くなかった。
また噴き出してきた脂汗に顔を濡らし、唸りながら、子供は誰に名付けてもらおうかと考えた。同時に、自分が手を貸した吉内叶恵の父親の復讐が成就することを切に祈っていた。なお、あれだけのことを掴んでいながらダブルシービーを強請らなかったわけは、すでにまどかとの間に、利害を超えた思いが深まっていたからだった。
~叶恵の回想~
その日の朝、ぺスパを駆って出勤した叶恵が門の前で見たものは、リアとサイドにスモークを貼ったリンカーンコンチネンタルが停まり、車の前に二人の男が立っている光景だった。目の細い扁平な顔をした四十代と、子供のような外観をした男が、いかにも施設に用がありげに静かな威圧感を立ち昇らせていた。
朝礼で、施設長であり会長の文岡は、いつもよりも低く落ちた声と歯切れの悪い活舌で、製品の出荷を遅らせないよう仕事に臨めという旨のことをやや噛み加減に全体に言い、何かを隠したげにそそくさと引っ込んだ。それを実弟のサービス管理者が追った。
ここ何日か、顔色が悪く、表情に暗みが挿し、目と体の動きに落ち着きを欠いている。
その男達が社屋に入ってきたのは、午前の作業が始まった時だった。叶恵は幼児雑誌の付録付け作業を、菜実を始めとする四人の利用者とともに行っていた。菜実は、見たことのある人間を見る目で、扁平顔の男を見ていた。彼女とその男達の関わりは叶恵には分からないが、男達が穏やかな用件でここを訪ねているわけではないことは充分に察知していた。目の細い男は、タブレット端末が入っていると思われるソフトケースを提げていた。
文岡と和馬は、李と行川を利用者や職員の目に触れる時間を短くするようにして、応接室へ通した。
「こうして二回も顔出しで訪問したのは、疚しいことが何もないからですよ。社会人同士、堂々とお話しましょう」設立時にリベラル系の市議会議員から贈呈された「慈愛心」という墨字の下にどかっと深く座った李が言い、射るような眼差しをした童顔の男、行川は、李の据わるソファの脇に立った。
「こちらの事業所に通われている、十四、五人あたりの若い女性の利用者様方の将来的な幸せについて、彼女達を見る側として、常日頃からどうお考えになっていますか、文岡さん」李の話口は丁寧な商談口調だが、ロックした相手に有無を言わせない気迫が溢れている。
「かねてよりお話しさせていただいているように、私ども尊教純法では、前途の時間という無形の資源には恵まれていながら、未来の幸せの獲得しづらさをお抱えになっている男性、女性や、または、とても性格は良いのに、人並みの幸福という機縁に触れる機会がないまま中齢や高齢域に入ってしまわれた方々の手を取って幸せに導くお手伝いをさせていただく活動に挺身しております。これを私どもは社会愛、と呼んでおります」
李の述べを、サビ管の弟はいくらか気丈な顔で構えるように聞いているが、文岡は、普段の威風がいずこかへいってしまったように、落ち着きが失われた表情と態度になり果てている。弟とは反対に、蛇に睨まれた蛙だった。
「どうですか。報酬は保証いたしますので、こちら様法人の経営を私どもに譲渡されて、今後、あなた方はオーナーとして、ゆったりと法人の発展をお見守りになるという選択肢はいかがでしょうか」「無茶苦茶じゃありませんか」返したのは和馬だった。
「私達が楽してここを興したと思ってるんですか。ここは私達が裸一貫から苦労して立ち上げた城なんですよ。土地の買いつけだって一筋縄では行かなかったし、保護者の信頼だって年数かけて築いてきたんですよ。それを何であなた達みたいな宗教屋に売り叩かなきゃいけないんですか。どうせ支払われる金は、中古車一台分に毛が生えた程度の金でしょう?」「高級車数十台分を保証すると言ったらどうされますか」李は和馬の目を据えて見ながら訊き返した。
「代価については、別途交渉させていただきましょう。ここで本題に入りますと、あなた方も、こちらの法人で働くスタッフ様方も、こちらを利用されている方々の幸せを一心に念じながら、日々の業務を行っていらっしゃることは、私どももよく存じ上げております。それでも、ご多忙であるということもあって、異性への強い欲求に根ざした、幸せな恋愛、結婚というというところまでは、思うように相談に乗ってやれない、繋げてはやれないというところが、おおかたのの支援者が抱えている課題であるという考えに基づいたものとして、私どもの活動意義が存在しているのです。この辺りで、お互いの気持ちを汲み取りませんか? 悪いようにはしませんので‥」「帰って下さいよ」和馬が放った。「社会人同士とかいう能書き使うんだったら、私達の立場が一般職員とは比べものにならないぐらい忙しいことは知っておいででしょう。帰らないと‥」和馬が言いかけた時、李が笑った。嘲るような笑いだった。
「先月に最初の訪問をさせていただいた時、言いましたよね。あなた方の昔はすでに掴んでいると‥」李は爬虫の笑いを口許に刻み込んだ顔で、膝に抱えていたタブレットをケースから出し、オンのボタンを押し、画面を文岡と和馬へ向けた。
タブレットの画面にまず映ったカットは、前後二列に並んだ若い男達の集合写真だった。ファインダー内に収まっている若者達は、それぞれしてやったりな笑顔を浮かべていたり、バンダナで顔の下半分を隠していたりしており、前列中央の二人が、拳を握った筋肉質の腕を鉤状の形を作って振り上げている。
「前列中央でガッツポーズを取っているのがあなた方です。この写真は、今から二十六年前のものですね。大田区のほうで、兄弟でだいぶぶいぶい言わせてたようですが‥」
文岡と和馬の顔と体の恰好が、ぎくりと硬直した。李は薄い唇に酷な笑みを浮かせ、画面をさらにタップした。次に現れたのは、髪を掴まれ、喉元にサバイバルナイフと、昔懐かしいバタフライナイフの刃身を当てられ、まさにその身がグループの手に落ちている男の写真だった。全身の写っているその男は、数人の少年チンピラに体を拘束され、チノパンとパンツを足首まで下ろされ、陰毛に覆われた性器をあからさまにされている。顔には表情はない。恐怖のうちに全てを諦め悟ってしまった顔だった。
次のタップで表示された写真は、草叢の上に組み敷かれた全裸の女の体に、大勢の男の手が伸びて、乳房と性器を力任せに弄んでいる写真だった。リングを嵌めた男の手で陰部が押し広げられ、真っ赤な膣孔が露わになっている。パンティを猿ぐつわに口に押し込まれた女は、恐怖と屈辱に紅潮した顔の、堅く閉じられた瞼から頬に涙が伝わせている。
「地元の河川敷で語らってた婚約者同士を分けた時のものですよね。カップルを襲ったり、拉致したりして、彼氏の目の前で女を輪姦して、男が遮断機とかをおっ起てるか起てないかで金を賭け合うのが、あなた達が率いてたチームでブームだった。この夕方、あなた方とその子分達で、この女性にアナルレイプまでやったんですよね。恋人の名前を呼んで泣き叫ぶ彼氏の目の前でね」
文岡の顔がより蒼白味を増した。和馬の顔にも青味が挿していた。これらの写真データを、何故こいつらが持っているのかとどこかへ問う顔だった。
「知りたいですか?」李が訊いて、背中をソファに倒した。行川は、体を硬直させた経営者兄弟を惨いまでに静かに「の」の字の目で射り続け、何かの言葉を発する気配はない。だが、頭脳、運動神経、筋肉の全てを、彼らの肉体的抵抗を瞬時に粉砕するためにスタンバイさせていることは、目と足の配り、立つ体勢ではっきりと分かる。
「あなた方のチーム、“京浜殺戮会”で戦闘隊長とかのポジションにいた、延島(のぶしま)さんという方です。東京を離れて、地方の町の土建屋で入寮して働いているところを、私どもで追跡させていただいて、このポラロイド写真を買わせていただいたんですよ。だけど、金のことで、ぎゃぎゃ、ぎゃぎゃと言ってきたので、こちらで適当に処理させてもらいました。その土建屋の社長さんも同僚の方々も、ありがちなトンズラだと思って詮索はしませんよ。それがあなた方の身の、来週のことになるかもしれないんですよ。お分かりですか」李は腸に異物を割り入れるような発声で述べると、凄惨な笑いを顔一杯に満ちさせた。行川の射りの光も強まった。
「そして、あなた方の蛮行は、これだけに留まりませんでした‥」李は言い、タブレットのアイコンを叩いた。動画が表れた。映し出されたのは、画質の粗いニュース映像だった。
「速報です。去年十二月に東京都大田区東糀谷一丁目の路上で親子連れの男性が殺害された事件で、少年六人が傷害、及び暴行致死容疑で糀谷警察署に逮捕されたという情報が入ってきました。この事件は去年の十二月二十日午後八時二十分頃、当時四歳の長女と歩いていた、東糀谷二丁目に住む会社員の吉内(よしうち)潔(きよし)さん、四十三歳が、通りがかりの若い男数人に言いがかりをつけられて金品を要求され、断ったところ、殴る蹴るの集団暴行を受け、内臓損傷、外傷性クモ膜下出血で死亡したものです。逮捕された容疑者は区内に住む区立高校生やアルバイト、無職の十五歳から十八歳の少年らで、事件の悪質さから警察は、供述の内容によっては殺人容疑に切り替えて捜査を進める方針とのことです」男のキャスターが読み上げたところで、映像が静止し、李はタブレットのスイッチを切った。
「古くて、今回見つけて仕入れたのはこれだけですが、地裁の裁判で検察の問いに対して、まさか死ぬとは思わなかった、などと答えたそうですね、若いあなた方は。でも、一番のりのりで男性を暴行したのは、あなた達のグループに出入りしていた、少し足りない使いパの少年だった。あなたがやれやれ、と扇動した。それは命令でもあった。自分の罪を軽くして、言い逃れが出来るようにするためのね。それでその少年は、あなた方に承認されたいがために、積極的に暴行に参加したわけです。この無職の少年の家は、母親のパート収入だけで生活を回していた課税されない世帯で、弁護士料が捻出できなかったんです。だから少年刑務所から成人刑務所に移送されて、七年間、満期の服役をしましたが、あなた方兄弟は、ほんの二年の収監で仮出所です。子どもの人権の論理に陶酔しきったヒューマニストの弁護士から、検察側の心証を良くする答弁の方法を吹き込まれましたからね。それでいてあなた方は、母親に自殺されて、現在三十歳と少しになる、今もどこかで暮らしてるその娘に、賠償金をびた一文たりとも支払っていません。その人から父親を奪っておきながらね。あなた方のそういう過去を、こちらで働くスタッフさん方も、関係者も、利用者は元より保護者も知らない。だけど、我々は握っているんだ‥」
李が文岡と和馬の顔を見回していい、二人は言葉さえも封じられたという風に、一層顔と体を石のように固めるばかりになった。
「それでは、来年の二月初旬頃までにゆっくりとお考えになって、お決めになったら、前回お渡しした名刺の電話かメールアドレスに連絡を下さい。あなた方の立場上、今すぐにというわけにも行かないでしょうからね」李がソファを立つと、行川は様もなく固まっている兄弟を射すくめ、李の歩みに合わせて足を応接室の出入口へ向けた。李が二人に背を向けても、射る視線を離さない。
「邪魔しましたね。特に見送らなくて結構ですから。私どもは、今、着実に名士の道を歩んでおられるあなた方の名誉を、是非ともお守りすることをお助けしたい気持ちを持っているのでね」李が残し、行川が文岡と和馬から焦点を外すことなく、後ろに続いて室を出た。
黒革ハーフコートの背中をいからせた目の細い男と、後方に警戒の流し目を送りつつ、その男をガードするように続く子供のような男の姿を、叶恵は、菜実と一緒の入出庫ヤードから目で追った。菜実も、顔を知る人間を見る目でそれを追っていたが、その顔に不安の色などは特になかった。
今、父親の仇は、あの男達によって追い詰められていることは間違いない。男達が何者であっても、それが、これから自分が執り行おうとしている復讐の追い風になれば、と天に願った。
十七時の定時で今日の勤務を終えた叶恵は、ぺスパを走らせて下宿する谷津の家にまっすぐ帰った。親代わりと言っていい不動産オーナー夫妻は、いつもと変わらず優しく叶恵を迎えた。今の自分は恵まれているという思いを噛みしめながら、入浴し、自然を描写した絵画と、ゴルフの入賞トロフィー、メダルが飾られた居間に隣接するリビングで、提供された天婦羅の食事を摂った。
「叶恵ちゃんは、今、いくつだったっけ‥」天つゆをつけたシシトウの天婦羅を口に入れ、ウイスキーのオンザロックをちびちびと啜りながら、銀の髪をした主人が、無心に食べる叶恵に訊いた。孫娘を見る目だった。夫人は用あって、二軒隣の家に行っている。
「三十二です」「三十二か。まだ遅くはないね」叶恵の正直な答えに主人が言うことの意味は分かる。
「縁談、ですか?」箸を止めた叶恵が訊き返すと、主人は遠くを見る目で彼女の後ろの空間を見つめながら頷いた。
「うん、そんなところだね。お年寄りのヘルパーの仕事をしてる人で、今、四十前なんだ。真面目で、とても性格も良くて、よく働く人だけど、なかなか縁に恵まれなかったみたいなんだ。僕が昔から知ってる仲介人の、そのまた知人の息子さんなんだけど、同じように人を見る仕事をしている女性が、出来ればいいって言ってるみたいでね。どうかな、もし叶恵ちゃんがよければ、今度、顔合わせだけでも‥」
シネマスクリーンのようなインチのテレビでは、習志野市に住む知的障害を持つ山田月子さん二十二歳が十日から行方不明という顔写真出のニュースに続き、警察庁警備局課長の五十八歳の警視正が奥多摩の山中で服毒自殺、遺書のようなものはなし、という速報が流れていた。そのニュースを、主人と叶恵が一寸だけ振り返って見て、すぐに互いの顔に目を戻した。
「最近多いね。嫌なニュースが‥」主人は呟いて、サントリーローヤルの四角いボトルに手を添え、片手に軽く、草花の模様が加工刻印されたバカラグラスを握った。叶恵はそれには答えず、口をすぼめて海老天をかじった。
「僕は叶恵ちゃんのことが心配なんだ‥」主人はぽそっと言って、瓶の蓋を開けて、グラスにローヤルをつぎ足しながら、ニュースの映るテレビにまた目を向けた。
「親御さんを早くに亡くして、ひたすら自分だけを信じて、女の子の身で時としていかつい男衆の中に混じって、社会的な実力、生きる力を懸命に磨いてきたんだよね。でも、何だか今の叶恵ちゃんは、自分の身を何か危険なものに晒して、何かを果たそうとしているような相が顔に浮き出ているように見えてならないんだよ。僕は叶恵ちゃんには、自分を大切にしてほしい。だから、もしも心だけに留め置きかねることがあったら、僕でも、うちのにでもいいから、遠慮なく相談してほしいんだ‥」
テレビから目を戻して言った主人に、叶恵は小さく微笑した。
「ありがとうございます」頭を下げ、声のトーン低く礼を述べた叶恵を、主人は優しい眼差しを注いで見た。
「先のことはまだ分かりません。でも、今の自分が目標として、必要としてることは、世間一般の寿とは別のところにあります。自分は今の職場に入って、こちらで厄介の縁を持たせていただくまで、女としては冒険と言っていい環境を選んでやってきました。その中で確実に学んできたものを、これからますます社会へ向けていこうと考えているところです。だけど、いつか考えが変わった時に、自分も所帯を持つことなどを考え始めるかもしれないです。人並みの寿にありつけた時は、晩婚でも全然構いませんので。自分は‥」
「そうか‥」叶恵の凛然とした述べに、主人は目を細めた。叶恵はこくりと頷いて、食べかけの天婦羅に目を落とした。
「余計なことを言っちゃってごめん。ただ、早くにご両親を亡くして、それこそ僕達なんかには想像も及ばないような苦労をしてきた叶恵ちゃんが、これからも人並みの幸せを得る機会もなしに一人でいなきゃいけないのかって思えば思うほど、居たたまれない気持ちになるのを、僕は抑えられなかったんだよ。でも、君が言う通り、それは確かに今すぐじゃなくていいよね。叶恵ちゃんは自分に厳しくてしっかりしてるから、いつか必ず、叶恵ちゃん自身が望むような幸せが降ってくるよ」「ありがとうございます‥」「でも、これは僕達からの、心からのお願いだよ。自分の体や心に、これ以上の傷をつけないで、自愛することを忘れないでほしいんだ」
主人の目には、心から叶恵を想う優しさが満ちていた。
食事を終えた叶恵は二階の自室に入ると、折り畳みデスクの上のPCをオープンし、軌道させると、アイコンをクリックしてムービーを出した。ウインドウの枠内に、三人の男の姿が映し出されている。
プロパンガスボンベが設置された白い壁の建物の前で、二人の男が一人の小さな男を前後に囲み、掴んでいる。
ウインドウ画面の中で、文岡が阿部の腹に膝蹴りを入れ、頬を執拗に軽い平手で打ちながら、恩を着せながら侮蔑する言葉を浴びせている。
“生まれつきの分際が”という言葉を文岡が吐いたところで、叶恵はムービーを切り、隣に置かれた、額縁に入った写真に目を移した。
幼稚園年中の叶恵を、ベンチに座った父が膝に乗せ、隣に母が立っている。シャッターは、通りがかりの人に押してもらった。ゴールデンウイークたけなわの日、親子三人、日帰りで行った長瀞での一葉。父の膝に乗る幼い叶恵は泣き顔だが、その理由は、売店で買ってもらったソフトクリームを落としてしまったことにあった。このあと、売店に引き返し、新しいソフトクリームを手にしたことも覚えている。
これは父が衆目の中での暴力で死ぬ七カ月前の写真だった。それを造作もなく行ったのは、少年の姿をした悪鬼の群れ。
自分を責める気持ちが、今も抜けない。あの夜の、自分の我儘がなければ、父はあの男達の手にかかることはなかった。
父親が帰宅した時、時刻は二十時過ぎだった。叶恵はパジャマを着ていた。コートとジャケットを脱いだ背広姿で食卓椅子に座る父親は、脇に立つ母に「クレーム処理が長引いた」と言っていた。当時の叶恵には、その言葉の意味は理解し得なかったが、帰宅時間、父の横顔に浮く疲労から、大変な仕事に追われていたらしいことだけは察した。
その時、食卓で缶ビールを飲んでいた父に、「ビデオが観たい」と言ったことは、子供ならではの、その場の気まぐれだった。そのビデオは、当時民放で金曜の夜に放映されていた、擬人化された動物達が棲む異世界を舞台に、魔法を使う兎の女の子が活躍するという内容のアニメだった。その「マジックラビちゃんリッキー」を、叶恵は毎週ウォッチしていた。
“こんな時間に我儘言うんじゃないの。パパはお仕事で疲れてるのよ。もう寝なさい”母親に叱られた叶恵は、泣いた。泣きながら、リッキーちゃん観たいの、観たいの、と繰り返した。
“いいよ、叶恵。パパと一緒に借りに行こう、リッキーさん”父は缶を片手に言い、椅子を立った。
“まだお店がやってるからね。でも、観たら寝るんだよ。明日も幼稚園だからね”優しく言って、Yシャツの上に通勤着のコートを羽織り、娘に上着を着るように促した。
ピンクの上着を着て、父と手を繋いで、家を出た。会社の入った階数の低いビルの中にまばらに商店や飲食店のある一丁目を歩ききり、交差点脇のレンタルショップに向かった。羽田を発った旅客機が、80に近いデシベルのエンジン音を夜の空と地に撒いて、いずこかの方角へ飛び去った。蒲田駅から空港まで路線を繋ぐ急行バスが、地響きを立てて車道を通行していた。
いつもと変わらない夜だった。この時までは。
交差点を渡り、信号機から臨んで斜め向かいに当時軒を構えていた、のちに大手に買収される中規模チェーンの「CD ビデオレンタル ¥250より」という文字が青いテント看板に打たれた店に向かおうとした時、店の前を横切って、二丁目方面から、胸を反り返らせた十人ほどの男達が歩いてきた。彼らが自分達父娘に道を譲ろうとする様子はなかった。
さらっと長く伸ばした髪を金や茶にブリーチし、耳にはピアスを光らせ、思い思いの上着を着ているが、全体的にぶかっとした服装で、揃って「+」の模様が染め抜かれた黒のバンダナを巻いていた。竜の刺繡がされたスカジャンを着ている者、青チェックの長袖シャツを着膨れさせている者もいた。
まだ幼さを留める顔をした者もいたが、皆の人相は、人というよりは有尾のもののそれをしていた。知る言葉は少なかったが、それが五歳の叶恵が受けた印象だった。
すでに恐怖を覚えていた叶恵の手を引く父の脛を、先頭を歩いていた男が「おらぁ!」という声を発して蹴飛ばした。あっと声を上げて脛を抱えてうずくまった父を囲んで、男達がひゃらひゃらと愉快そうに笑った。
“何の真似だ、これは! どうして理由もないのにこういうことをするんだ!”
“おっさんの顔がむかつくからだよ”怒った父の抗議に、薄笑いを浮かべた男が答えた。
睫毛の長い一重瞼の三白眼に、細く高い鼻と、薄い唇。色白の肌。その瞬間に、この男の人相その他の特徴が幼い脳機能に刻み込まれた。
隣の男は、ぎょろりと大きな目に頑丈そうな顎、筋肉膨れの体をしていた。向かって前に、比較的地味な夏服を着ているが、皆と同じ柄の黒バンダナを巻き、四角い輪郭に埋もれるような小さな目をした男がいた。この男だけが短い黒髪だった。その男の阿諛追従する笑い顔と、ダサいという表現の充てようがある服装を見て、幼いなりにこの男達の力関係が分かったような思いがした。
“ねえ、ここで俺らに罰金納めてってくれない? 今日は気分良かったのに、お前の顔見て吐きそうになっちゃったからさ”“何を馬鹿なこと言ってるんだ!”
“何、俺らが馬鹿⁈”三白眼の男が凄んで、父に顔を寄せた。
罵声とともに、何本もの若者の腕が、父の髪、コートの襟、襟首を掴み、体を揺らし、やがて、父の鼻に二回、容赦のないパンチが叩き込まれた。
鼻血を流れさせてのけ反った父の腹に、目の大きな鍛えた体の男が三回、拳をめり込ませた。呻く父の尻を後ろの男が蹴り、膝を崩して男達の腕にぶら下がった父の胸と腹部に、ダメージのストライクが計算されたタイミングの蹴り込みが順番に、どかっ、すぱっと音を立てて入り、肋骨が重い音を立てた。その一撃づつのたびに、父の口から呻きが漏れた。
叶恵は「パパ! 」と叫んで泣き喚いた。だが、この若者達には、行きがかりの暴力衝動をぶつける餌食が連れている幼い娘は全くの関心外のようだった。
男達の誰かが“‥すんべ”という短い言葉を早口で発すると、父の全身が持たれ、天に向かって高く抱え上げられた。叶恵はより激しく泣き叫んだ。それに振り返る者はいなかった。
“わっしょい、わっしょい!”男達は笑いながら、父を高々と胴上げした。数回、胴を宙へ弾ませて、そらぁ! という誰かの声のあとで、父の体が2メーター半の高さから落下した。後頭部と背中、腰がコンクリートの歩道に叩きつけられ、籠った爆発音のような音が鳴った。
人事不省の顔で痙攣する四肢を伸ばした父の腹、顔面に、キックの雨が降り注いだ。男達は躁状態に入ったようにはしゃぎ笑っていた。一人がバタフライナイフを出し、銀の柄を回転させて、ストリート・ギャングを気取ったポージングを決めていた。叶恵は肘を曲げた両手を垂らして、父の名を叫んで泣き続けた。まばら、と言うには多めの通行人が、顔を伏せて足早に歩み去った。関わろうとするものは誰もいない。
あどけない年齢の人間達を指す名称を冠した保護法の下で、群れて行う無軌道に酔い、ブレーキが破損した精神状態になった法的被保護者達の恐ろしさが連日のように報道され、明日は自分が惨たらしい死を迎えるか、あるいは一生涯物の障害を背負わされるか、という恐怖が、市井の中でごく小さな立場にある人々の心に刷り込まれていたのだ。それで誰もが目を伏せ、背中を見せていた。こうした未成年者暴力団に。
“おい、長田”筋肉膨れの男が、阿諛の笑いを漏らし続けている、四角い顔に小さな目の男をさっと手招きして、自分のそばへ呼んだ。
“お前、殺戮の幹部になりたくねえか?”“え?幹部?”長田の目が歓喜の輝きを見せた。
“おっさんの脳天でサッカーだよ。稲妻シュート、決めろよ。そうすりゃ、お前、明日から兵隊持てんぞ。これから喧嘩にも呼んでやっからよ、一緒に俺らの敵の、糞生意気な蒲田ソルジャーズ、ぶっ潰そうぜ。兵隊指揮してさ”
“おら、この野郎! 舐めてんのか、こらぁ!”今の叶恵が、三白眼の文岡丈二と弟の和馬と並んで、すでに氏名、居住地などの個人情報を握っている長田(ながた)隆(たか)弘(ひろ)が、甲高い怒声を張り上げて、横たわる父の頭部を蹴り込み始めた。頭部が音を立てて弾み、体が断続的な痙攣のように反った。
“パパ! パパ!”父の名を叫び続ける叶恵の声が響いた。
長田が力に任せて、十数回ほど父の頭部を蹴り、顔を踏みつけたあと、男達に見下ろされる父が、ウー! という声を上げ、路面に横たえた体を震わせ始めた。目を白く剥き、口からは泡を溢れさせていた。
“パパ! パパ!”叶恵は父の体にむしゃぶりついてすがった。だが、父は目を白転させ、口の端から泡を噴出させ、言葉にならない声を上げるだけだった。
“何、この顔! 超面白え!”叶恵の頭上で誰かが弾けた声で言うと、笑いが沸いた。
“ウー! ウー!”父の呻き声を声帯模写する声とともに、“あ、似てる、似てる”という声と、心底可笑しそうな爆笑が降ってきた。
在ったものは恐怖と悲しみだけだった。自分などが矛を取るべくもない男達に左右、前後を囲われる中、怒りという感情は、悲しみに呑み込まれていた。
“どけよ、ガキ!”男が怒号して、叶恵の襟首を引いた。小さな体が転がった。
三白眼の男が、呻き続ける父の懐に手を差し入れ、財布を取り出し、おもむろに二万円数千円の現金を抜いた。
“給料前のリーマンにしちゃそこそこだな”三白眼が言うと、筋肉膨れの男が、ああ、と頷いた。
“兄貴、一万で、ダンディフェドーラで適当に遊んで、残り一万何千円、町村さんの上納の足しにすんべ”その会話で、この二人が兄弟らしいことが分かった。弟が口にした店の名前は、当時、蒲田の一角にあったゲームセンターだった。
泣きながら、後ろの距離ある所から視線のようなものを感じ、半ば助けを求める思いで振り返り見ると、車道の反対車線側ガードレール向こうに三人の若い男が立ち、こちらを見ていた。見物、という体だった。
若者の一人が、白い歯を見せていた。
やりきれない、という語彙は知らなかった。だが、父親を目の前で嬲りものにされて泣く子供を見て笑う人間がこの世にいるという現実をこの時に知り、それがさらに肚を震わせた。
男達が下卑た高笑いを撒きながらぞろぞろと二丁目方面へ去った時、父はぴくりとも動かなくなっていた。泡を頬に伝わせた顔を横に向け、白く剥いた目もそのままに、命の灯が消えた亡骸と化していた。
車は何の関心も見せる様子もなく走り去り、羽田を離陸した旅客機の轟としたエンジン音が街を慣らしていた。
空の財布を投げ捨てた男達が去ってから周りに老年の人だかりが出来、叶恵が泣き疲れた頃に警察が来た。「マジックラビちゃんリッキー」をオープニングから観て、クライマックスに差しかかるまでくらいの時間になってやってきた。
二台のリアボックス付き警邏バイク、一台のパトカーと、消防局と車体に書かれた救急車が停まった。ヘルメットの救急隊員達は父の瞳孔にペンライトを当てて短い言葉を発し、青い遺体袋に父を収容し、担架に乗せて、仕事に徹した動作で救急車に運び込んだ。
“泣いてちゃ分からないでしょう! ちゃんと説明しなさい!”
空を仰いで、パパ!と叫んで泣く叶恵に𠮟りつけるような口調で言ったのは、冷たい顔をした制服の婦人警官だった。
“いい加減にしてよ! 話さなきゃ進まないじゃないの!”三十代の婦警は、泣く叶恵に畳みかけた。現場に来た他の警察官達も、全く気のない顔と態度で、無線連絡などの仕事を行っていた。
遺留された財布の中にあった免許証などから被害者の氏名、住所番地が分かり、叶恵はパトカーに乗せられて、家まで送られた。文岡達が交わしていた会話の語彙同様、覚えている。
ご主人はすでに死亡していました、という事務的な制服警官の説明に、大きく目と口を見開き、まず、鼻水をどろりと流した母の顔、その鼻水を顎下まで垂らし、震えながら膝まづいたパジャマの姿。忘れ得ぬ像。
父は大学病院の遺体安置所で横たわっていた。立ち合いの私服警官、泣く叶恵の前で、母は骸となった夫の頬を震える手でさすり、どこか赤子めいて、ぴぎゃあ! と聞こえる号哭を振り撒いた。
“適当なお時間にお帰り下さい。明日早くに、ご遺体を司法解剖いたします。それに伴って聞き込みも行います。それと明日にでも、お子さんから加害者の特徴などを聴取させていただくことになりますので、こちらも同意願えますか”
私服警官の言葉は、叶恵には酷く冷たく聞こえた。
それから一時間ほどして、母は病院職員と看護師に遺体から引き剝がされ、叶恵を置くようにしてふらふらと病院を出た。叶恵はそれを、ママ! と泣きながら追った。
皮膚を冷たく刺すような冬の雨が降っていた。母娘で傘もなくそれに打たれ、おそらく午前と思われる時間に家に着いた。
その夜は眠ることが出来なかった。母親が眠らず、夜通し髪を掻きむしって、床に頭を打ちつけていたからだった。叶恵はその母のそばで、ただ泣き続けることしか出来なかった。
翌日朝、母はようやく気を失ったように眠り、まだ自分で調理をすることの出来ない叶恵は、冷蔵庫の中のキャベツとトマトをかじった。その日の午前は呆然とすることと泣き叫ぶことを、眠る母のそばで繰り返した。
昨日とは別の人物の私服警官が来たのは、午後のことだった。
“鉢巻したお兄さんがたくさん来て、パパ、いっぱいぶって、蹴っ飛ばしたの‥”二人の男性私服警官に、叶恵は拙い語彙を搾って説明した。言えたことはそれだけだった。
警官達が去って何時間かが経過してから、母はやっと目を覚ました。ママ、と声かけすると、やっといくらか正気を取り戻した様子を見せた。
それから母は、親類筋に電話、夫が死んだ旨を伝えた。
夜になり、隣の江東区に住む叔母、叔父が来た。食事は叔母が作ってくれた。叔父は怒りと悲しみ、動揺を隠しようもなく見せながら、叶恵を慰め、励ましてくれた。
皆で囲んだテレビのニュースで、事件が報道された。父の名前と年齢がテロップ表示され、そのバックに事件現場の歩道で作業する鑑識課員の姿が映った。また泣き崩れた母を、叔母が抱きしめた。抱きしめながら、“警察に任せれば大丈夫だから”と言っていた。
その夜遅く、司法解剖を終えた遺骸が帰ってきて、急ぎで通夜と葬儀を行うことになった。
父は埼玉の墓に埋葬されたが、警察の聞き込み調査などがどの程度進んでいるかが分からなかった。
一月の正月明け、刑事がまた訪ねてきて、数枚の男の写真を叶恵に見せた。
“この写真の中に、覚えてる顔があったら教えて”中年の刑事が言った。
並んだ数枚の写真はみんな、夜の辻やコンビニ前に見かけるような類いの、世を拗ね、社会を斜眼で見る顔をした、派手な髪と服をした若者ばかりが収まっていた。
刑事が母に話したところによると、現在“任意”で聴取している者達とのことだった。
その中に、色白の肌をした三白眼の男と、大きな目にがっしりした顎の男、四角い輪郭に小さな目の男の顔があった。
“この二人のお兄ちゃんに言われて、このお兄ちゃんがパパの頭とお顔、蹴った‥”叶恵が写真を順番に指して言ったことで、捜査が動いた。
その日のうちに、現在署に身柄を押さえられている、叶恵が指した三人がそれぞれ犯行を自供したという連絡が警察から入った。
男達は暴行致死で逮捕され、のち、殺人罪に切り替えられた。検察は彼らを起訴し、蒲田を根城に活動していた「京浜殺戮会」メンバー六人が、叶恵が遺族として母と出廷した地裁の裁判で、自分達の目の前で実刑判決を受けた。
その後日、いかにも小金を持っている風な中年女が三人、家に来た。女の一人が持っていたものは菓子折だった。女達は揃って、紙に書いた言葉を棒読みするような詫びを言い、頭を下げた。母は、部屋に行ってなさい、と言い、叶恵はそれに従った。
“私は納得していないんです。うちの子は優しい子なんですよ!”襖からこっそり顔を出していた叶恵の耳に、女の金切り声が刺さった。
女の言葉は難しかったが、うちの子は悪くない、という言わんは分かった。
“小さい時から欲しい物は何でも買ってあげてましたし、お洋服だって、赤ちゃんの頃からよその子と同じものを着せたことはないんです。愛情をたっぷり注いで育ててきたんですよ。だから、今回のことは、元々はご主人にも非があったはずなんです。うちの子に限って、理由もなくああいうことをするはずがないんですから”
まだ人生の黎明期を何年か過ぎたばかりで、女の言うことも、社会のルールなども分かるはずもなかった。だが、女のまくしたてる言葉と、別の女が持ってきた菓子折に激しい違和感を覚えた。
かけがえのない父は、もういない。もう、永久に会えはしない。菓子折が、自分の目の前であの男達に奪われた父の命の賠償になるのか。幼稚園で、先生が園生に店員役、お客役を割り当て、お店屋さんごっこをやった。商品に見立てた園所有の物品は、一円から、0がいくつかつく値段が設定されたものまであった。先生が外のコンビニに、もなかの詰め合わせを買いに行き、それがx000円というプライスで模擬販売された。お世話になっている人へのギフトという設定のようだった。
父の命を、それがあたかも粗品にもならないようなものを損壊させるように抹消させたのがあの若者達なら、それを頭の中で数千円程度の物品と同じラックに並べ、これを正しいと言い張って一歩も引かないのが、彼らの母親であるこの中年女達だ。
庭へ行き、父が日曜大工で作ってくれた小さな砂場の砂を両手に握り、居間へ戻ると、女達が一斉に叶恵を見た。育ちの賤しい子供を見るような、蔑視の目だった。
“パパ、悪くないよ! 叶恵のパパ、悪くないもん!”叶恵は叫んで、まず右手の砂を女達に撒きぶつけた。
“ちょっと、何!”女の一人が金切り声を上げ、腕を上げて砂をガードし、残り二人の女は体を反らせて避けた。三人とも、露骨な不快の顔をしていた。
“あのお兄さん達が悪いんだ! あの人達が叶恵のパパ取ったんだ!”さらに叫んで、左手の砂をぶつけた。砂は女達の顔と体に均等に当たり、ばらばらと音をたてて畳の上に撒かれた。
“躾の悪い子ね!”体にかかった砂を払いながら言ったのは、欲しがるものを際限なく買い与えていたこと、乳幼児の頃からベビーブランドを着せていたことが「うちの子は良い子」という主張の根拠だと信じて微塵たりとも疑っていない女だということが、発せられた声で分かった。
“相当甘やかしてるのね。お客に向かってこういうことするなんて。こんな子、将来ろくな人間にならないに決まってるわよ”あなた、ちゃんと躾なさいよ“女は母に投げた。
“子供を見れば親が分かるっていうのは本当ね”女は吐き捨てて座布団を立ち、玄関へ向かい、他二人の女がそれに続いた。
もしも語彙があったなら、「素敵な自己紹介をありがとうございます」と返したことだろうが、その時の叶恵には、砂をぶつけ、両足を踏みしばって立ち、荒い呼吸を鼻から漏らしながら、この母親達を睨むことしか出来なかった。
“親子で本当に失礼ですね。蛙の子ですよ。こちらは手ぶらで来たわけじゃないのに”玄関で女は言い捨てた。後ろの二人の女は眉をひそめて顔を見合わせ、頷き合った。
“お金なんか、一銭も払う気ありませんから。そちら様の態度によっては考えてさしあげてもいいと思っていたところなんですけどね。うちの子だけが悪いなんて判決はそもそも、官憲の横暴なんだから”残して、女達は去った。
その夜、寝る前、父の遺影が置かれた仏壇に母子で手を合わせた時、母が叶恵を抱きしめた。パジャマの肩に、熱を含んだ母の涙が落ちた。
“叶恵、大きくなったら、パパの仇、取ってくれない?”母は声を震わせた。
“今のお前には、知恵も力もまだないよね。だけど、これからどんどん体も大きくなって、知恵もついてくるのよ。お前は女の子だから、力は男の人には敵わない。だけど、知恵があれば‥”言って、抱く力を強めて母は哭いた。母に抱かれながら、優しく微笑する遺影を見つめた。叶恵は泣かなかった。
これからの自分の時間には、もう泣いている暇などない。幼い思考のなかから、語彙を成していない思いが涌くのを感じた。
それから、主を喪ってひっそりと暮らす母子に、報道関係者が付きまとい始めた。娘の手を引いて幼稚園バスの乗り場まで送ろうとする母子の前に、テレビカメラを背後にした男が立ち塞がり、“今回の判決をどう思われますか”などと訊き、乗り場までまとわりついた。母はそれを無視したが、幼稚園の帰りには、また別の男がメモ帳とペンを持ち、乗り場で待っているということが多々あった。
マスコミの付きまといは、時間が経ってから落ち着いた。暮らしの糧は、保険会社から支払われた死亡保険金と、わずかな犯罪被害者給付金と、母のファミリーレストランでのパート収入だった。
小学校高学年になった叶恵は、勉強の出来る子供になっていた。中学では、偏差値が65以下に落ちることはなかった。
自分に必要なものは、知恵と、意志の力。これを信念とした。部活には入らなかった。部で運動を行う時間も、自分の知的能力向上のために在る時間と考えた。それでも、進学校へ進むことの出来る成績を保持していた。
勉強、勉強、勉強の時間の合間にはストレッチとジョギングを行った。知恵と意志を補強するものは体力だと考えていた。
個人的に恰好いいと思う男子はいた。だが、恋愛への憧れを持つことはなかった。自分はあの男達に父を奪われてから、人並みという人生コースを自分で外したのだ。
そんな頃、二軒隣に家を新築し、川崎から越してきたという初老の女が、母と友人の縁になった。叶恵は会釈をするだけに留めたが、女は柔和な笑顔で一冊の本を勧めてきた。タイトルに「邁進」とあるその冊子が新宗教の出版社から発刊されたものであることは、一瞥しただけで分かった。
その機関誌には、会祖だという、眼鏡をかけた優しげな老人の、海のような包容力に満ちた、見ただけで惹きつけられそうな笑顔の写真と生前の講話、「御仏様の教えの下に」苦しみを喜びに変えたという信者達の体験談が掲載されていた。三鷹に「佛聖堂」という本部を構えているという。叶恵はそれに何の関心も持つことなく、ぱら読みだけをし、本棚に置いた。
これも人のリバティ、悪いものだとは思わなかったが、自分は信用しない。何故なら、性善説を前面に押し出しているからだ。
それから、その女と同信らしい女が何人も家に来て、母を交えて車座になって話をするようになった。
悪くはない。でも、自分はその中には入らない。だが、その否定も肯定もしないという気持ちに揺らぎがでたのは、車座の女の一人が、父を殺した男達を挙げて「抱きしめてあげたい」と言うのを聞いた時だった。
部屋を通りがてら、疑った耳をそばだてると、女はなおも酔ったような口調で述べた。
“その子達も本来は仏様の子なの。だから、優しく手を取ってあげれば、必ず仏性を輝かせて、元のいい子に立ち返らせることが出来るのよ。だから、どう? 吉内さんが叶恵ちゃんと一緒に、御法の縁にお導きしてあげるのは‥”“いいわね、すごく感動的! 映画みたいじゃないの!”別の女が同調した。
この時に叶恵が吹いた失笑のような笑いが、女達の耳に入ったかどうかは分からないが、物事の現場を知る人間と知らない人間の差だと若くして思った。
この女達は五十年と少し前に生まれてから、たっぷりとした愛情に包まれて養育され、時として物事に疑念を持ち、それを自分の頭で解くという成長作業がなおざりになる育ち方をしてきたのだ。だから、ふわふわと現実から遊離した思考の下、すでに常識を踏み外した発言をし、他人を傷つける。
一人の会祖や導師を崇拝の対象とする宗教の信仰は、臨時的な一時の安らぎを与えるが、人間から正常な判断力を奪ってしまう。
信じるものは、己一人。一人で立ち、一人で目標の道を歩むのみ。感情には流されない。叶恵は中学二年の時点で堅い信念を立てていた。
母が自殺したのは、叶恵が中学の卒業を控えた二月の日だった。母は浴室で一人、洗濯ロープで首を吊っていた。第一発見者は、江東区から車を飛ばし、夕食にと作ったカレーを持ってきた叔父と叔母だった。
葬儀の席で一切涙を見せない叶恵を、親戚筋の人達は「気丈だね」と言ったが、自分の感情が自分に流させる涙というものは、叶恵には否定の対象だった。泣く時間があるのなら、思考の中で算段、段取りを練り、心と体を鍛える。母は哀れだが、心を立たせ、目的を持って生きていく勇気を持ち得なかった。
母は敗けてしまったのだ。
もしも自分が自らの手で生に幕を引く日が来ることがあるとすれば、本懐を遂げ上げ、残った時間が余生のようになった時だろう。
安らぎを享受して、腑を抜かれたようになって酸素を吸い込み、二酸化炭素を吐いて、飲んで食って、それを排出するだけの生など、自分には意味がない。老いてまで生きようという気持ちはなかった。
死ぬよりも惨いことが世の中にはある。それは周囲、社会から不信の目で見られ、尊敬も得られず、精神的な島流しのような人生へ追いやられることだ。
それを考えた時、彼らが父にやったように命を奪うのではなく、名誉を剥奪し、社会的な失墜を被らせることがベストだという結論に達した。
余裕で進学校へ進むことの出来る成績を持ちながら、高校は、通信制を選んでいた。通信制高校で学びながら、一人で暮らし、下水のような、あるいは荒くれ者が集まる職場で働き、生活の糧を得ながら、こつこつと情報を採取することを決意していた。
愚連者だった人間が少なくない現場で働きながら、時間をかけ、父を奪った者達の主犯格達の個人情報を握り、その身に近づくことに成功し、今に至る。
叶恵は長瀞での一葉を見つめ、写真の中にいる父と母に、報告の念を送った。決行の日は、クリスマス過ぎの年末前の土曜日、と。
義毅がその店の前に立った時、扉と壁を越して感じたものは、浅く、薄っぺらい思考の気だった。
壁は光沢消しの黒に塗装され、ステンレス製で木製の枠で固められたドアには、「SS」という赤い暴力的な字体の店名があり、ハーケンクロイツを模った銀の真鍮が壁に埋め込まれていた。店前の路地に置かれたスタンド看板には店名と、アーミーベレーを被った髑髏のイラストが描かれている。それが「俺達は骨になっても戦う」という意味の連合国への宣言であったことを、義毅は知識の上で知っていた。窓はなく、外部から中は見えない。ドアの脇には、アクリルケースに入ったカクテルとミートソーススパゲティの模造見本が飾られているが、経営目的は飲食ではないはずだ。
厚いドアを押すと、セピア色の店の照明が目に入り、中くらいに抑えたボリュームのハードコアが聴こえてきた。三十坪ほどのフロアにはカウンターとテーブルの席があり、スキンヘッドを含む極端に短い髪をして主に黒系の服を着た若い男女が生ビールやカクテルを傾けている。
フロアに足を踏み入れて見回すと、行進するナチス突撃隊や、拳を振り上げて演説するヒトラーのモノクローム写真がでかでかと掛かり、ロンギヌスの槍の模造品が飾られていた。
カウンターの奥から、黒の長袖シャツに黒のスラックス、黒い腰エプロンを巻いた男が出てきて、義毅の前に立った。客達の中にも目立つスキンヘッドで、潰れ気味の鼻頭に格闘技経験が覗える、大きな体躯の男だった。客を迎える声はかからず、その目の色にはかすかな威嚇と警戒があった。
「会員証はお持ちでしょうか」声低く、男が訊いてきた。「いや‥」義毅が軽く手を振って答えると、男の顔色の訝りが強くなった。
「登録されますか? そうすれば、今から当店をご利用いただけますが」「いや、いいんだ。今日、ここに来てる女に用があってな。連れて帰らなきゃいけねえんだよ」「困りますよ」男の声と顔に威圧が込められた。
「みんな会員登録した上で、今日の夜を楽しんでるんですから。登録もしてない上に物騒な用件で入ってくる人なんて、帰ってもらうしかないですよ」「あんた、オーナー?」「いや、オーナーは今日はいません。自分は雇われてる立場なんで」義毅は男が軽い食事やドリンク、つまみを提供する店員と用心棒を兼ねていると見た。
席に目を注ぐと、店名、装飾同様にラディカルな外見をした客達の中には、まだ子供と言ってもいい年齢の者も混じっている。
「作山恵梨香はどこだ」義毅が席を見回して声を落とすと、過激な頭と服の客達が、びくりとなって振り向いた。客達が会話をやめて、恐れをなしたような目を義毅に向ける中、角の三人掛けテーブルに着いている若い女二人のうち、一人が一人の胸を手の甲で叩いているのを見た。席には白いパウダーを盛った紙が敷かれ、女二人は短いストローを手につまんでいた。コカインだった。
「私だけど」胸を叩かれていたスキンヘッドに黒ニット、ハーケンクロイツのバッジをつけた黒の革ジャンパー姿で、鼻梁にピアスをした女が口を開いた。
義毅が十五年ぶりに見る姪は、体はよく女としての発育を見せているが、目鼻立ちを含む顔の造りは、最後に会った五歳の時と比べてもさほど変わらず、名乗らなくとも見れば分かる。ルックスを評価すれば、美人と言っていい。頭はともかく、顔立ちも体にも、男を惹きつける魅力があるが、その両目には、劫火の憎しみが燃えている。異様な頭と、その目が、普通の男を引き離してしまう。その憎悪を刻んだ顔が、すでに地のものとなっている。
「恵梨香だよな。俺が分かるか」義毅に問われた恵梨香は、見覚えはあるがすぐには思い出せずにいるという風の表情を顔に固めた。
「大きくなったな、恵梨香。よく顔を見ろ。お前の叔父さんだ。義毅だよ。お前の父ちゃんの弟のな」義毅が言うと、恵梨香の顔にしばしの間浮かんでいたはてなが、笑いに変わった。その笑いには、嘲りが含まれていた。
「知ってるし、覚えてるよ。うちに昔撮った一緒の写真もあるからさ。お前も家、出てったんだろ?」挑戦的な口調で恵梨香は訊き返した。「何で私がここにいんの分かったのかは知らないけどさ、あの親父の回し者で来たの?」
テーブル席が静まり返る中、低く潰れた声のボーカルががなるハードコアが妙に虚しく流れ続けている。ボーカルは「ラィニグング!」という言葉を繰り返しがなり立て、その間に「OⅠ!」という掛け声が挟まれていた。大学在学時にドイツ語を専攻していた義毅には、それが「浄化」を意味する言葉だと分かる。
「今から家、帰んぞ。席、立て」「は? いきなり押しかけてきて、何言ってんの? お前、何しに来たんだよ!」義毅の促しに、恵梨香は怒りを表した。
「お前も博人も、プー太郎とプー子でふらふらしてんだよな。これから場所を改めて俺が話してえことは、そんなことよりも重要なことだ。来い」「うるせえな! 家出したお前なんか他人じゃねえのかよ!」恵梨香は高く怒号して椅子を立ち、義毅に歩を詰めた。
「仕事してねえから何だっつうんだよ。会社勤めなんかしてる奴らよりも、こっちは日本にとってずっと有益な活動やってんだよ」「何の活動だ」義毅が訊くと、恵梨香の口許にまた嘲笑めいた笑いが薄く浮き出した。
「血税と国庫資金食い散らかす寄生虫、日本から叩き出す活動だよ。あいつらがいっから、この国に必要な金が、必要な所へ行き渡らねえんだからさ」「あいつらとは?」「決まってんだろ。自分らが被害者だと思ってる汚えジジババと、気持ち悪いシンチャンどもだよ」「シンチャン?」「ヌマの奴らだよ! たまたま知能が低く生まれてきただけで、何をやってもちやほやされてよ、何かやるごとに特別に素晴らしい、素晴らしいとかって持ち上げられて、自分らがこっちよりも優れてるみたいに思い込んで、いい気になってやがってよ。自分のそういうガキ、動画にアップして、うちの子は特別だみたいなアピールしてる親もいんだろ?」
席は静まり返ったままだ。義毅は分かっている。その活動というやつも基本一人では出来ず、集団に加わることで酔う、子供の域を出ていない弱者の集まりであることに変わりはない。恵梨香の精神的発育も、幼いレベルに留まっている。それは子供の昔に受けた惨い傷が、社会経験を始めとする成長に欠かせないステージを踏ませなかったからだ。しかし、義毅は、その社会経験というものを思った時、自分のことも苦笑するしかない心持ちになる。だが、今はそんなものはどうでもいい。
「ヌマで絵だとかダンスが上手いとか、性格がいいとか、仕事を一生懸命やる働き者とか、そんなもんが何なんだよ。それが取柄だか何だか知らねえけど、そんなもんを親切にしろとか、優しくしろとかって押しつけも虫唾が走んだよ。だって、大人でも頭が幼稚園生レベルで止まってる、何の役にも立たねえ白痴なんだからさ。だから今、特学とか、施設の奴ら片っ端から捕まえて、警告与えてるとこなんだよ。うちらと同じ道歩くな、同じ店入んな、それ見たら殺すぞ、てめえみたいな、見ると目が腐る気持ち悪い馬鹿生んだ、てめえの親も殺すぞってさ。何、あのプレシャスTⅤとかって番組。ヌマ同士がくっついて、遺伝のヌマ産んで、周りに助けてもらいながら育ててるとか、人が飯食ってる時にあんな気持ち悪いもん映すんじゃねえよ。ああいうのほど、馬鹿の一つ覚えみたいに、馬鹿の分際でいっちょ前に頑張るから、あんなものが最高、みたいな風潮が出来んだよ。だから、日本にも、ああいう奴らぶち込むガス室か竈、作ればいいんだよ。ダウン症のガキが生まれたら、即効、焼却炉に投げ込んでやりゃいいんだよ。そうすりゃ、日本はもっと豊かになるし、治安も良くなるよ。特に軽いほうの奴らなんて、一般の人間の中に混じってるから、怖えよ。全部、犯罪予備軍なんだからさ。しかも人殺しても罪にならねえんだよ、あいつら。だから、ちやほやされて調子づいてるあの奴らを、うちらのユニオンが、今、取り締まってんだよ」恵梨香は吐き捨てた。
「磯子りんどう学園で、あいつがうちらの先陣切ってくれたからさ。あの松下(まつした)がさ‥」数年前、神奈川で発生した、知的障害者入所施設に元職員の男が夜間に侵入、就寝中の利用者を包丁で襲い、二十名あまりを殺害した事件。護送車の中で開き直った愉悦の笑いを浮かべる犯人の男は今も東京拘置所で刑の執行を待っている身だが、ネット上では、若いユーザーが絵のセンスや文章力をリスペクトし、「英雄」と称えるファンクラブまでが結成され、「職員や家族の負担解消を代行してくれた」「自分が何者かも分からない動物以下の奴らの無意味な生に幕を引き、解放した」などという書き込みに、平均10から30の「いいね」が集まっている。
「お前、正気なのか」「正気でなきゃ言うわけねえだろ」恵梨香が返した時、義毅の右掌が頭上高く振り上げられた。
左頬に掌、右頬に甲の往復平手を受けた恵梨香がもんどり打ってフロアに転がった時、席の方々から子供染みた小さな悲鳴が上がった。倒れた恵梨香の腹部に、義毅は急所を外したキックも入れた。
「勘違いすんじゃねえぞ、てめえ‥」体を海老のように折って横たわる恵梨香の体の上から、義毅のドスが降った。
それに関わろうとする者は誰一人としていない。客達は誰もが息を詰めた顔で、フロアに体を横たえた恵梨香と、その前に立って怒りの目線を降り注がせる男を見ているだけだ。スキンヘッドの店員兼用心棒の男も、何の干渉もする様子がない。
「ヌマとかシンチャンとか、俺には興味もねえことだし、そんなものに必要以上の憐みも持たねえよ。けどな、やることもやらねえ奴が、やることちゃんとやってる奴を蔑むってのは、物事の順番が違えはずだぜ。てめえは屁の理屈でてめえをもっともらしく正当化してっけどな、そんなもんが通用するようには出来てねえぜ、世の中は‥」義毅は一語づつを区切るようにして、目の下にいる姪に言葉を下した。
床に頬を着けた恵梨香は、歯を噛み縛って、憎しみの目を下から義毅に送った。
「関係ねえだろ、てめえには! うちらガキじゃねえんだよ!」転げたままの恵梨香が泣きかけの声で吠えた。目には涙が見える。
「俺が今日ここにお前を迎えに来たのは、お前らがガキだからだ。少なくとも、障害者は人殺しても罪に問われねえとか、今時小学生でも信じねえような間違ったことを信じてそれを疑わねえうちは、お前はいつまでもガキの域に留まり続けんだよ。そんなお前よりもはるかにしっかりしてる幼稚園児とか小学生はごまんといるぞ。いっぺん姿見で、てめえの姿をよく見て、自分がどんな面にどんな姿して、何をやってんのか、牛の胃袋みてえに反芻してみろよ。言っとくけど、お前が思い込んでる、つもりってやつほどは、恰好よくはねえぜ。思想、表現は、他人を泣かせねえうちは勝手だよ。けどな、何かにぶら下がって、てめえの手も汚さねえで、リスクの爆弾抱える覚悟もねえくせに、たかってのうのうと生きてる奴が、さも一端張ってる面すんのは、俺は一番気に食わねえんだ!」義毅は両手で革ジャンの襟を掴んで恵梨香の半身を引きずり起こし、流れるハードコアのボリュームを遮るような低い喝を、彼女の臓腑に抉り込むように押し出した。
「立て」鼻血を滲ませた恵梨香の体を両腕で立位にした義毅は、彼女を掴んだまま、テーブル席の一つ一つを覗き込むように見た。過激な装いをまとった会員の客はみんな、肩を撫でさせ、項を垂れているばかりだ。
「一種の宗教だよな、こいつも‥」義毅は壁に装飾されている突撃隊やヒトラーの写真、ロンギヌスの槍、鉤十字の旗に目を遣り、ぽつりと言うと、恵梨香と同じテーブルに着いて、コカイン吸入用のストローを持って弱々しく顔を伏せている、幼さが残る女に目を留めた。可愛い顔立ちだが、何点かの傷がある、帽子無しの坊主刈りの頭が痛々しく、かつ痛ましい。
「崇めるもんが神や仏じゃなくて、ヒトラーやゲッペルスとか、ジョセフ・メンゲレなわけだけど、これで何が満たされるのかね。まあ、何を信じるとかは自由だけど、せいぜい人生摘まねえようにやれや」義毅の語りかけに、まだ十代と分かる、恵梨香の仲間らしい女は、口をつぐんでいるだけだった。
「暴行で通報するかい?」恵梨香を片手でドアへ引く義毅が、190超の体をフロアに突き立てたきりの用心棒の男に言った時、男の顔には苦虫が浮き出ていた。
「それをやれば、そっちも相当都合悪いよ。見て未成年だと分かる人間を店に入れて、酒飲ませて、煙草も吸わせるばかりか違法ドラッグまでやらせてるわけだから、経営者は後ろ手で、店は取り潰しで済みゃめっけもんだ。でもな、俺はどこにもしゃべらねえよ。お互い、クロブタにしようや」義毅は用心棒の男に囁き言って、また客達を順繰りに目で圧した。
「肝に銘じろよ。さっきこいつが言ったことだ。もしもお前らの誰かが、障害持った奴を囲んで嚇したり、殴る蹴るとか働いてるとこ俺に見られたら、五、六発ぶん殴られるだけじゃ済まねえと思いな。その時は、お前らだけじゃねえぞ。お前らの親も殴るからな」肩を固く畳んで縮こまる客達に睨みを配りながら、義毅は腹の底からの低声を絞った。
恵梨香は飲食物をオーダーしていなかったようで、代金請求の声はかからなかった。恵梨香を引きながら、雇われ用心棒の男をちらりと見ると、一見怒っているように見えるその目には、一本筋の通ったものへの尊敬を表す色と光があった。
「乗れ」開いたリアドアを指した義毅が言うと、まだひと悪態つきたげな顔の恵梨香は、重々と助手席に腰を載せた。乗った恵梨香に、義毅がシートベルトを掛けてやった。西船橋から八千代方面へ車首を返したソアラのリアシートで、不承不承たる表情の恵梨香の体が傾いだ。義毅が横目に捉えたその姿には、幼かった頃の面影が挿していた。
恵みの家は見違える内観になっていた。以前は、掃除機など各種用具が出し放しになって辺りに置かれていたものが今はきちんと収納され、毛髪その他の細かいゴミが散らばっていた床は清掃されている。シンク、トイレ、浴室もよくスポンジが入り、至る所に光沢が出ている。
壁には「習志野台 二井原愛美さん寄贈」とある、「賜希」というタイトルの、ドレス姿で花を胸に抱いた少女の姿絵が飾られ、棚には可愛い動物の縫いぐるみ、食卓にはクロッカスが花瓶に生けられていた。小庭には小さな柵が立ち、先日、その中には、チューリップの種を皆で一緒に植えたばかりだった。
そのガーデニング用の柵も、花の種も、スタッフと利用者達で、ホームセンターへ買いに行った。その時、みんな、笑顔だった。
急激な変化が、最初、菜実の目と心には眩しく、少しの戸惑いを覚えないこともなかった。古谷と王がいなくなったことについて、社長の増渕からは何の説明もされなかった。それから一週間が経過しているが、初め、社長の知人だという愛想がいいとは言えない女が二人、代わりばんこで宿直勤務に入り、それから、五十代の佐々木(ささき)紅(く)美子(みこ)と二十代前半の清水夕(しみずゆう)夏(か)が来た。ネット広告の急募に応じて面接を受けて入職したと、夕夏は言っていた。
今、五人の利用者は入浴を終え、佳代子、詩織と向かい合った菜実の隣に、一週間前に義毅と握手をした小さな身長の辰巳(たつみ)小百合(さゆり)、上座の折り畳み椅子にダウン症の高橋(たかはし)千尋(ちひろ)が座っている。テレビにはニュース番組が映り、エプロン姿の夕夏が立って、千尋の肩に手を置いて、画面を見ている。
キッチンの縁にはトレーにプチサラダが載り、紅美子の作るカレーが香っているが、こんなことは、古谷がいた頃には全く考えられなかったことだった。朝、夕、土日祝日の昼にはカップラーメンが置かれ、消費期限の切れかけた菓子パンや総菜パン、お握りが投げられていたのだ。
「あと、六、七分待ってな」ボブの髪に赤のメッシュを入れ、耳には剃刀のピアス、菜実には漠然と「ロック」のものらしいと察せられる、肩から袖に数本の安全ピンをずらりと刺した派手な柄のトレーナーに、尻に髑髏がプリントされたグレーのスパッツというウエアをまとった紅美子が、テーブルのほうを向いて声をかけた。
彼女は五十一歳で、津田沼の鷺沼台に一人息子と二人で住んでいるという。若い頃が名残る、とっぽい髪と服をし、関西気っ風の話し方をして利用者をよく𠮟り飛ばすが、その𠮟り方にはユーモアがあり、叱られたあとの利用者は、いつも笑顔になる。
一方、夕夏も見た目は地味ではなく、茶金色に染めた背中までのロングの髪、日焼けサロンで焼いた褐色の肌をし、小鼻には玉ピアス、長い付け睫毛を施した目にはブルーのカラーコンタクトを入れた分かりやすいギャルで、背中には小さなアゲハ蝶のタトゥーが彫られていることを菜実は知っているが、その性格は面倒見がよく、優しく、いつも献身的な仕事をする。
ハーフカットした茹で卵と、軽くタルタルソースがかかったエビフライの載った甘口のカレーライスが五皿、それに、ほうれん草と溶き卵の味噌汁を、紅美子と夕夏が手分けしてテーブルに配膳し、利用者達が待ちかねたように今日の夕食に落とす目と、ほくほくとした薄い湯気が交わった。
「い‥いただきます‥」佳代子が手を合わせて言い、スプーンを持つと、千尋も続いて、ダウン症者独特の少し掠れた声で同じ食前挨拶の言葉を言ってフォークを取り、まずエビフライをおちょぼ口でかじった。それに詩織、小百合、菜実が続いた。
静かな咀嚼と食器類の合わさる音、紅美子が鍋類を洗う水の音、ボリュームを適度に落としたテレビの音声を小耳に聴きながら一口目を口に入れた菜実は、目の下のカレーに、どこかからの思念伝心を受けたような既視感を覚えて、スプーンを持つ手を止めた。
今の私は幸せな心地でこのカレーを食べている。だけど、どこかに悲しいカレーを食べているか、食べたことのある人がいる。そのカレーの味と色と、その日の天気を、私の大切な人が、痛いほどよく知っているような気がする。見たわけではないが、その中の一人が分かる思いがする。
自分が生まれる前の遠い昔、どこかのお店で、子供のようなお下げの髪をした女の人が、怖さと悲しさを臍のように噛んだ顔でカレーを食べながら、涙を流していた。今、私の中に視えているこの光景は、あの人の。
思った時、自分の想像に過ぎないかもしれないその女の子と気持ちを共有したかのように、激しい哀れみが菜実の胸を急襲し、鼻の奥に熱が涌いた。
「どうしたの!」素っ頓狂な夕夏の声に、キッチンの紅美子も振り返った。
菜実はスプーンを固く握ったまま、結んだ唇を震わせて、頬を濡らしていた。小百合はそれに特段驚くでもなく食べているが、佳代子が手を止め、眼差しに情を籠め、泣く菜実を見つめている。詩織と千尋も止まっている。
「どうしたん」紅美子が濡れた手をさっと拭いて、菜実の許へ寄った。意味は同じだが、夕夏のものと比べて落ち着いた調子だった。
「涙と洟汁がカレーに入ってまうがな」言って、自分のハンカチで菜実の顔を強く拭った。
「何かの思い出しかいな」紅美子に問われた菜実は、顔を彼女に向けた。「自分のことで泣いとんか? それとも誰か、人のことかいな」
無答の菜実に、紅美子は何かを察知した風に、小さな息を吐いた。
「あんなぁ、池ちゃん‥」紅美子は腰を屈めた。「あんたの性格やったら、誰かを案じてのことやろ。せやけどな、誰かを思うて、それを助けるにしてもな、自分が救われてへんとそれはでけへんのや。だからな、まず、自分自身のことをしっかりやらなあかんで」
菜実は紅美子のその言葉に、自身の身を省みることなく自分を助けた村瀬を思い出した。彼には余裕があったわけではない。本来的に、自分のことで手一杯だったはずであり、何の後ろ盾もあるはずもなかった。だが、自分のために命を張ってくれた。それを思うと、やはり彼が過去に負った傷と、それに伴う贖罪の思いが、菜実の中に想起される。
涙がまた、こみ上げてきた。それをまた、紅美子が拭った。
「あとな、池ちゃんが通とる、あのダブルシービーか、あそこはちょっと見た感じ、良うないわ。あの施設長とサビ管、何か、いやらしい感じがするで。まあ、これも池ちゃん次第やけど、社長の増渕さんと話して、通所先、変えてもらうんがいい思うねんけどな‥」紅美子が言った時、船橋警察署は、同市のスーパーマーケットで恐喝未遂の業務威力妨害及び暴行、店内で強制猥褻を行った、市内に住む無職と自称解体業の二人の男を逮捕すると同時に、一緒にいた無職の男の長男と連れ子の女児を育児放棄と虐待の可能性があるとして保護、無職の吉富栄一容疑者、三十九歳を児童虐待防止法違反、また生活保護法違反の疑いで現在も取調を行っているが、共犯の男ともども容疑を否認、というニュースを女性キャスターが読み上げていた。
眼を見開いて大きく口を開けた恵梨香の表情は、ネオナチに足を突っ込んでいるような荒んだ娘のそれではなく、まだあどけなさの残る、普通の女子のものだった。その人相に深く刻み込まれた憎しみさえも消す、純粋な驚きだけがあった。
住人の心の荒廃を表していた部屋が、嘘のように綺麗に破損個所が修繕され、整理整頓されていること以上に、一ヶ月ほど前に西船で出会った女が、自分の家にいることが大きいようだった。
電動車椅子に乗った初老の男に仲間とともに絡んだ自分を諫め、自分達の人数ばかりか刃物にも動じず、「心が貧困で愚かな人達を見て見ぬふりを出来ない」と胸を張ってきりりと言った、顔半分が骨までが覗くケロイドに覆われた、鳶代まどかと名乗った、社会福祉士だという女。
黒のスーツ姿で、涼しげな顔をしてリビング前に立っているまどかを見た恵梨香の顔に、また、憎しみが戻った。
「お前、こないだの広島の被爆者婆あじゃん。何でお前がうちらの家にいんの?」義毅に革ジャンパーの腕を掴まれたままの恵梨香は余裕ぶった口調を作って言ったが、引き攣った目と唇に心の揺らぎが出ている。
「あの時、あなたとは、また会うことになりそうな予感がしてたの。西船で会った鳶代です。以後、お見知りおきをお願いします」「はぁ?」頭を下げ、持っていた名刺を差し出したまどかに、恵梨香は眉をしかめた。
「何でこいつがここにいんだよ。第一そもそも、こいつ、お前の何なんだよ!」恵梨香はまどかを指差し、義毅を隣から睨んで見上げ、吠えた。義毅は、それには答えなかった。
「今、私のお腹に、彼と分けた命が宿ってるのよ。だから、私とあなた達は、これからは他人じゃないの」まどかは言って、自分の下腹に掌をそっと置いて、優しく笑んだ。その隣では、ジャージ姿の博人が、姉に何かを訴えたげな顔をして立っている。
「今日、ここで見せてもらったよ。あなた達の幼い頃の写真。あなた達のお父さん、お母さんのことも聞いたよ。勿論、あなた達がどんな怖くて酷い目に遭って、辛い思いをしてきたかもね。それで、私には、あなた達のために出来ることが絶対に、たくさんあると思ったの。社福士の立場からも、インフォーマルな立場からもね。だから、これから私は、彼と一緒にあなた達に寄り添って、あなた達に必ず備わってるはずの、自分で自分を助ける力を引き出すことに協力するからね」
恵梨香の顔と体勢に、隠しようもないうろたえが出た。投げる言葉が見つからない様子だった。
「この部屋を見ろよ」義毅が壁を指した。
「今日、業者を呼んで、ガラスを四枚、この壁の穴を埋めて、便所の便器、真っ黒く汚れた風呂釜も丸ごと取り換えさせた。あらかた、お前が壊したやつだ‥」義毅の述べに、恵梨香は驚きを新たにした目で部屋を見回した。
「そら、これだ」義毅は食卓の上に載る一枚の領収書を取り、つまんで、恵梨香の目の前にかざした。
それは「総合リフォーム工務店」という業種と、リンカイサービスなる社名、その下に¥479782、と金額が走り書きされている。恵梨香は口をぽっかりと開き、眉間に皺を刻んだ顔で、その書面と義毅の顔を見た。
「家の中を全部直すのに、これだけかかった。この費用は、俺が一括払いしたんだ。けど、こいつはあくまで立替だ。かかった分だけきっちり、端数も含めて耳揃えて、お前らに支払ってもらうぞ。さて、どうやって払うかね」
恵梨香は領収書の金額に慄いたように、ニ、三歩後ずさりし、作ったような怒りの目で義毅を睨み放した。その唇は震えている。虚勢の睨みだった。
「こんなことしろなんて誰が頼んだんだよ」床に目を伏せる恵梨香の文句の声に、まるで力はなかった。
「確かにお前らには頼まれちゃいねえさ。こっちの姉さんと話し合って決めたことだよ」義毅はまどかを掌で指して言うと、修繕され、クリーンナップされた部屋を見渡した。
「今朝までのあの部屋が人間のすむ部屋かよ。あんな大地震のあとの豚小屋みてえな部屋がさ。あの状態の家に住んでいられる人間なんて、神経がよほどぶっ飛んでる奴ぐれえだぜ。だから、こっちもお前らへの良心をもって直したまでのことさ」義毅が鱈子唇を笑ませて言った時、博人が恵梨香の前に進み出た。言いたいことが、心で堰を切った表情をしている。
「お姉ちゃん‥」博人はうろたえきっている姉に呼びかけた。
「さっきまで、こっちのまどかさんと話してたことなんだけど、まず、生活保護受けながら、心療内科っていう所に二人で通って、それからゆっくり就職探さない? 生きづらさ、感じてる人には、障害枠っていう就職のしかたがあるんだって」
「は? しんりょうないか? 障害?」恵梨香は強がった口ぶりで博人に訊き返したが、目からはすでに往年のものとなった憎しみの眼力は失せきっている。
「不安とか、心の傷、取り除いてくれるお医者さんだって。先生が話聞いてくれて、患者さんに合った薬も出してくれるんだよ。俺らには、それが必要なんだって、まどかさんが‥」 「冗談じゃねえよ! うちらがヌマの奴らと同じだっつうのかよ!」恵梨香は弟の言葉を遮るようにして叫んだが、その語気には泣き声めいた響きがあった。
「あなたは間違ったことを刷り込まれて、教えられてきてるの」まどかが静かに恵梨香に寄り、振り上げた拳を取った。
「私は社会福祉士ではあっても医師ではないから、あなたと博人君のことを障害だとか、健常だとかって診断を下す権限はないの。だけど、暗がりの中で迷ってる人の手を取って、人の輪の光へ導くことが、私の重要な仕事なのよ。ここで障害っていうもののことを説明するとね、社会生活を営む上での制限なのよ」まどかの述べに、恵梨香は少しばかり、きちんと人の話を聞く目をした。
「だけどね、その制限っていうのは、その人が全くの無能力っていうことじゃないのよ。得意なことと不得意なことの差が激しいけれど、好きなことには、私達には想像もつかない能力を発揮する人だってたくさんいるの。そうでなければ、私達を楽しませる芸能とか創作とか、歴史上の革新的な出来事も、偉業もないのよ。体の動く人ばかりじゃない。自分では自分の体を動かすことが出来ない、ベッドで生活してるような人だって、人の優しい心を引き出して、人を和ませることもあるのよ。それだって、一つの能力なの。でも、そういう能力を開花させたり、普通の生活が出来るようになるための巡り合わせに、まだたどり着いていない人もたくさんいるの。そういう人達を支援に繋げていく仕事を、私はしているのよ」
「だから何だよ」恵梨香の目に、また憎しみが挿した。
「小六と中二ん時、二回、腹のガキ、便所と風呂場で、自分で始末したんだよ、私は」恵梨香の告白に、しんと冷えた空気が2LDの部屋に張った。
「どっちも、あそこにバール突っ込んで掻き出したんだ。二回目は、もう人間の形してたよ。下が血だらけで、のたうち回ったよ。小四で輪姦(まわ)されて、それから写真とムービーで脅されて、土日が来るたんびに何人もの汚えおっさんの相手させられてよ、それでも、だれも私のことなんか助けてくれなかったんだかんな。今、ビキマンで拘置所にぶち込まれてるあの婆あは、それが分かってて見て見ぬふりだったんだ。そんな私にさ、そんな苦しみも知らねえ奴が高みから物言ったって、何も響きはしねえんだよ。ヌマとか身体とか、自分第一のジジババなんかに優しくする余裕なんてもんが、私にあったと思ってんのかよ。どこの誰がどんな余計な世話焼いたって、もう間に合いはしねえんだよ。もう遅えんだよ。何もかもがさ。こないだもっともらしい親面して、のこのこ来たあの親父も、それが全然分かってねえんだよ」
博人が嗚咽を始めた。姉が幼い身で子供を処理したことは、彼も知り得なかったようだ。義毅の目の色もかすかに改まったものになっていた。
まどかは恵梨香にそっと歩み寄ると、片手で彼女の手を取り、顔半分に垂れる前髪をもう片手でたくし上げ、一部が骨になっているケロイドの顔を露出させた。
「私がこの姿になったのは、五歳の時なの」まどかが言うと、恵梨香は顔を上げて彼女の目を見た。まどかの手を振り払う様子は見せない。
「商売人だった私の父を良く思わない人が、人を使って家に火を点けたのよ。それで私と父は命は助かったけど、私の祖父母と母と、まだ赤ちゃんだった妹の命は失われたのね。思い出の写真も、みんな焼けてなくなっちゃったんだ。妹は小さな炭の塊になって、母は肉も内臓も全部焼けて、骨だけの死体になった。それから私は、自分の幸せを殺して、同じように大火傷を負って、働く意思がなくなった父を支えて働き続けた。定時制に通いながらね。それで養成所に通って、高卒で社福士になったんだ。父との二人の暮らしが、闇の中にいる人を導く仕事のヒントになったのね。父を助けるために、お金はたくさん持ってて頭脳と腕力はあるけど、心がない人の家に、お金で買われて、その人の奥さんになったの。その間に父は死んだ。それは私にとっては解放でもあった。心っていうものがない家から私が出て、自分の幸せを求める権利が出来たっていう意味でね。それでついこないだ、その夫に離婚届を突きつけたの。もしも彼と出逢わなかったら、出来なかったことなのよ、これは‥」まどかは言って、義毅を手で指した。
博人の泣きじゃくりが激しくなった。それはまだ抵抗力のない年齢の頃に大の男達から惨い目に遭わされ、不意の妊娠で子供を始末するという地獄まで見なくてはいけなかった姉を、幼く非力な自分がどうにも出来なかったことの悔しさ、悲しさが込められたものだったが、これまで自分達姉弟が棲んでいた無明の世界に、自分達をそこから引き上げてくれる人間達が来た喜びの涙でもあるだろう。
「だから、あなた達にも、どんな人にも、その巡り合わせを求める権利があるのよ。まず、私が取っかかりになって、これまで長い間、夜の世界に棲んでたあなた達を陽の光の下を堂々と歩くことが出来るようにしたいの。西船であなたに会った時、あなたの目にある憎しみの中には、悲しみと悔しさと不安が見えたから。親が駄目なら、他人だって、その人を後見する資格があるのよ。制度の上でもね」
その時、おっ、と義毅が声を上げた。珍しいものを見た、軽い驚きの声だった。博人の咽びはまだ続いている。
「蛾じゃねえ。蝶々だぜ。この寒いのにな」言った義毅の顔の前を、黄色い羽に斑点を散らした姿の一羽の蝶がはためいていた。浴室の窓から入ってきたようだ。蝶は義毅の顔前から、まどかに手を握られた恵梨香に向かい、彼女の革ジャンパーの肩に、羽を立てて止まった。それから恵梨香、まどかを囲むようにして、二人の肩の高さの位置をしばらく舞い、まどかの胸に止まり、授乳中の赤子のように、数秒間留まった。
まどかの乳房を離れた蝶は、恵梨香と彼女の間をホバリングしたのち、まどかの手に繋がれた恵梨香の手の甲に止まった。恵梨香はそれを微動もせずに目線を落とし、見ている。その目からは、憎しみは消え、慈しみの光だけがあった。
まどかが博人を見ると、彼は涙に濡れた顔で彼女と目を合わせた。これまで自分達を苦しめてきた全てが終わる道筋がやっと見えた、と、その目が言っている。
「今日は名刺を置いていきます。私は仕事であなた達を助ける。それで私が市の生活支援課との間に立って、あなた達の生活保護を申請する手伝いをしてあげる。心療内科も一緒に探そうよ。だから、近いうちにまた会おう」
まどかが言い終えるタイミングに合わせたように、蝶が彼女の手から飛び立った。
おい、行くぞ、と義毅から小さく声かけされたまどかが彼とともに玄関に向かうと、恵梨香がついてきた。
「お前も身体なんだろ?」「そうだよ。身体障害者手帳の二級が交付されてるよ」陰惨な声で問う恵梨香に、まどかはさらりと答えた。
「お前みたいな奴がいくらあんな陶酔したご高説垂れたって、私はお前の仲間の身体とか、気色悪い社会のガンのヌマが、いつかまとめてガス室か焼却炉へ送られる日が来るのを心待ちにして、ぜってえ日本の社会がそうなるように活動続けるよ。それに、あの親父と婆あに、私が味わった思いを何倍にもして返してやることも諦めねえよ」恵梨香は言い、嗤った。
「大丈夫だよ。あなたはもうじき、そういう考えを持たなければ死んじゃうような青春から解き放たれるから。こうして縁が設けられて出会った以上、私はあなた達を最後まで見る。さっきも言ったけれど、もう私達は他人じゃないのよ」
ドアのほうを向いたまどかの背中に、「へっ」という嘲笑が浴びせられたが、先までの威勢は感じられず、いかにも力無い感じがした。
国道へ続く八千代一号線を走るソアラの助手席に座るまどかは、困難事例という用語を繰り返し思い出していた。
それでも、恵梨香が傲然とした態度と言葉の間にごく一寸覗かせた素直な顔に、まだ希望を繋ぐ余地はあるとまどかは思っていた。それはまどかの手の上に止まった蝶を払い落さなかったこと、彼女と繋いだ手を振りほどかなかったこともあった。
社福士である以前に、他とは大幅に違う人生経験から、酷い境遇が人の良心を奪い、その人間を人の道を踏み外した悪の道へ流しさらい、更生を手遅れにさせることもあることを知っている。
だが、私は社福士として手を抜く仕事はしないし、縁者となった二人の若人をフォーマル、インフォーマル両面から、職業上、または地獄を潜った一人の人間として、最後まで支援しなければならない。
「買おうぜ」ソアラのハンドルを取る間中、ゆっくり考えろと言いたげに唇を閉じていた義毅が言ったのは、まどかが離婚後の仮住まいとしている、勝田台北のウイークリーマンションの前に停車した時だった。
「家だよ。お前の住まいも、俺のヤサも、三人、四人で棲むにゃ狭え。船橋か習志野に買おう。予定日に間に合うようにさ」待っていた言葉に顔を向けたまどかに言った義毅は、これまでとは違う収入のある人生を見つめるように、フロントガラスの向こうに建つ家並に据えた目を送っていた。
まどかは喜びの驚きに満ちた目で義毅をシートから振り返ったまま見つめ、溢れ出た小粒の涙を小指で拭った。
そのまま、義毅の肩に頬を載せ、泣いた。ただ前を向き、街灯に照らされ、家庭の灯りが輝く新興住宅街の軒を見ている義毅の口から、アメリカンジョークを発したあとのもののような軽妙な笑いが小さく吐き出された。自分のバニシング・ポイントは何処かと考えながら、日本の法律が及ばない境地で命を質にした博打を張る渡世の落ちがようやく見えたことにより、人並みの安らぎというものが想像がついた。そんな思いが入った笑いだった。
「指輪も追々渡すから、待ってろよ。最後のゴトも、もう終わったしな」「特定の女はめとらねえとかじゃなかったの?」洟を啜りながら問うまどかに、義毅は何も答えなかった。
「おい、爺い。私だよ、恵梨香だよ」通話口が響いてきたのは、低く潰した声だった。着信音が鳴り、未登録の電話番号が表示された時、村瀬は入浴を終え、夕食の鮭を焼きながら、ツルゲーネフの詩集を読んでいた。
「何だ、恵梨香か。こないだ買ってったおかずはまだあるのか」「今日、てめえの回し者が来たよ」「回し者?」村瀬は訊き返しがてら、詩集をシンクの上に置き、ガスを止めた。
「あいつだよ。昔、家出した、お前の弟だよ」「義毅か」「そうだよ。社会福祉士だか何だか知んねえけど、広島の原爆写真みてえな気持ち悪い化け物のおばさん連れてきやがってよ。酔い痴れた綺麗事、長々聞かされて、うんざりしたよ。馬鹿みてえに巡り合わせだの、縁だのって、訊いてもいねえのに延々とぬかしやがってよ。おい、てめえがあいつら、こっちに差し向けたんだろ? 何の意図なんだよ!」恵梨香は潰した声で凄み立てた。
「覚悟しとけよ。今、拘留とかのあの婆あもろとも、お前の人生も潰してやんよ。お前らのせいで私が受けることになった苦しみ、何倍にもして返してやっかんな。どうせこっちが出来ねえと思って笑ってんだろ? でもな、私はやるっつったら何が何でもやるよ。お前と婆あが、地獄ん中で、泣きながら死ぬことになんの、心待ちにしてるよ」恵梨香は言葉の終わりに、サディスティックな笑いを含めた。
「覚悟ってものは、逆にお前に訊きたいよ。人を呪わば穴二つって知ってるか。やれるならやってみろ。その代わり、そのあとのお前の人生もないぞ」通話口に反響する村瀬の声は、租界のような世界で、わずかな時間にせよ自らを悪鬼にさえ変えた修羅を経、それが心に与えた自信によって、長らく「自分の上」だと思っていた種類の人間を討伐、排除した経験で得た気当たりが込められていた。
「そのあとの人生はあるよ。ユニオンの幹部になって、経済的にもお前の優位に立ってやる気でいるかんな」「そんなものこそ終わりだぞ、恵梨香。そのユニオンとかがどういう手段で金を徴収しているのかお父さんは知らないけど、暴力の威力を使って、悪銭、汚い金を身に着けて羽振りのいい暮らしを送れる人間は、ほんの一握りに過ぎないんだ。それが分かってて言ってるなら、やってみろ。そうすれば、お前だってその現実が学べる。そのあとでお父さんがお前にしてやれることは、何もない」「オセアン・パトリオット・ユニオンの組織挙げて、てめえの人生、てめえの命ごとぶっ潰すっつってんだよ、この我が身第一の偽善者!」
村瀬の胸が痛み、心が揺れた。恵梨香が叫んだその最後のセンテンスには、どこへも当てようもない悲しみが浸みていたが、恵梨香が自分に当てた表現は、過去の自分がそのものであるにせよ、あの時のことを言えば、事実としか言いようがない。
「いい加減、自分の本当の心にないことを言うのはやめたらどうだ、恵梨香‥」落ち着いた村瀬の声が通話口に浸透した。
「お前達は今日、義毅と、その相方の人に助けてもらったんじゃないのか。本当は、ありがたいっていう感謝の念を持ってるはずだろう。それをどうして、そんな言葉遣いのそんな口調で汚すんだ。そういう心が、お前を幸せから引き離してるってことを、お前は実はちゃんと分かってるはずじゃないのか。あの時、お前達を捨てるようにして離婚したことには、俺は今もお前達に深い詫びの気持ちを持ってるよ。そのあと、お前がどういう酷い目に遭ったかも、博人が話してくれて、知ってる。その責任は、義毅叔父さんの力も借りて、しっかり取っていこうと思ってる」「出来もしねえこと言ってんじゃねえよ! 私は子供の体で、ただレイプされただけじゃねえんだよ! もう人の形した自分の腹のガキ、私が生ゴミに出した時の気持ちまで、お前に想像出来んのかよ! いくらもっともらしいこと言ったって、てめえなんかに分かりはしねえんだよ! てめえなんかによ! 今日来たあいつらだって同じだよ! みんな同じなんだよ! 誰だって同じなんだよ!」
恵梨香はひとしきり叫び、電話を切った。
妊娠したことは、やられたことを鑑みれば、充分に想像の範囲内だ。しかし、それを自分で処理するという経験をしていたことは、実は村瀬には想像が及びながらも、認めることを拒んでいたのかもしれない。
恵梨香が人間に不信を抱き、他者を信じることが出来ずにいるのは、全くもって当然だ。だから、彼女の言葉や態度を村瀬が怒ることは出来ない。
美咲を殴りながら浴びせた自業自得というワードも、あながち滅茶苦茶な暴言ではない。美咲は元々、母親の愛が必要な年齢の子供が愛情の飢餓感を覚えたり、不安になった時、当たり前に自分の胸に包むという母の機能を備えた人間ではない。だから、親であることを棄てて女になり、それによって、恵梨香の人生からは普通の女子としての幸せは根こそぎ奪われた。華やぐ青春は、これまで恵梨香、博人の二人の子供にはなかった。
村瀬はスマホを円卓に置き、調理の続きを始めた。前回、博人から恵梨香の境遇を聞いた時は、食欲をなくした。だが、食うものは食わないと、体力、気力の維持、コンディショニングに支障が出る。
青海苔をまぶした鮭のマヨネーズ焼き、わかめと葱の味噌汁、ポテトサラダと柴漬けが円卓に並んだ。
村瀬は胡坐の腿に手を置いてそれらを見つめたあとで、重い手つきで、まず、味噌汁の具を啜り込み、それからポテトサラダ、鮭、飯の順に箸を通した。
シンプルな独り身飯を食べながら、これから協力し、子供二人のために骨を折ってくれるらしい義毅の相方は、先月中旬に本人が仄めかしたところによれば彼の子供を身籠っており、恵梨香によると社会福祉士だとのことだが、ごろつきの義毅とはどういう所が共鳴し合って、そういったプロセスに行き着いたのか。ホワイトカラーの堅い職業を勤め上げながら、無法者の男に惹かれたその女は、どのような人生を歩んできた人間なのかというところに興味の火が点いていた。しかしそういうことはあるものだという思いを改めながら、スマホを見ると、未成年者を使って障害児者への恫喝や暴行を行わせ、放課後等デイサービスや障害者支援施設周辺で「ガイジ死ね」などのシュプレヒコールを叫ばせるなどの業務妨害をやらせていた、ネオナチを名乗る政治団体の代表者が逮捕されたというニュース速報が表示されていた。
恵梨香が口にした「オセアン・パトリオット・ユニオン」という団体名のテロップが出た時、村瀬は、娘を立ち直らせるきっかけが大きく動き出したと思った。かつ、これに乗じる、ではないが、理屈の立つ傲岸不遜な女だったものが、分かりやすい弱者の非力な中年女になり果てた美咲にも、何かの手を打ってやろうという気持ちが立ち上がっていた。そこで速報が入り、小金井の中央アジア料理店で発砲事件が発生し、客として来店していたパキスタン人男性二名が撃たれ、一人が死亡、一人が重傷、外国人と思われる目出し帽の男二人が逃走、警察当局では外国人犯罪組織による抗争事件の可能性があると見て捜査を開始する方針、とキャスターが読んでいた。
村瀬はそのニュースにちらりとだけ目を向けて、今の問題を早急に落ち着けて、また菜実を抱きたいと思いながら、鮭とポテトサラダ、漬物に味噌汁の食事をよく噛み、嚥下した。テレビは、頭上から巨大なタライが落ちてきて頭を打ち、メンバー達が揃って昭和めいた「こけ」ポーズを取る、ロマンフルドキュンによる損害保険のCMを映し出していた。
土曜の夕食時、海鮮料理を売りにする「フィリップ百次郎千葉中央店」は、二百五十坪の広さを擁する店内を、主として若年者の熱気でむせ返らせていた。時折、メートルを上げた男達の蛮声が上がり、それを尻目に聞く、黒い法被に店名の染め抜かれた前掛けの姿をした若い女子店員が、ドリンクのジョッキや料理を載せたトレーを持って席の間、座敷席の間の通路を急ぐ足取りで行き交っている。
見渡される席には、カジュアルウエアの男女、刈った髪をし、鍛えた体をブランド物のジャージに包んだ男達の姿が目立った。
入口近くの座敷席で上がった、わっという声は、店の喧騒に掻き消された。
その席にいるのは、ガールズマガジンをかじったウエア、髪、メイクをした、それぞれ目鼻立ちの整った若い女達だった。いずれも、いかにも金のある家に育っているらしいことが分かる。四人の女子は、その表情を、小さな驚きから、瞬時に蔑みと威嚇のものに変えた。
「何、こいつ、気持ち悪‥」白のカチューシャをした女が不快を顔に刻ませて言うと、金髪の髪をツインに編んだ女が、用ありげに通路に立ち、飲んでいる自分達を言わんとすることの分からない目で見つめている男に向かって、顎を突き出した。
「てめえ、気持ち悪いんだよ。あっち行けよ、この馬鹿!」女が嚇すと、手に小さな紙袋を提げた小柄で痩せた男は、薄手のナイロンジャンパーの肩を落としたまま、反応鈍く体を反転させて消えた。
髪は白く、水分の少ない肌をした、年齢の分かりづらい男は、一つ一つの座敷、テーブル席を覗き、そのたびに場違いな人間を見る目が向けられた。男が席から去り際、ヌマじゃね? という声も聞こえた。
「おい、海老原ぁ。ここだ。来いよ」角のテーブル席から奸悪な声がかかった時は、マネージャーらしい人物が、席を覗き歩く男を呼び止めあぐねていた。
テーブル席には、安物のスーツ姿だが、居ずまい、顔の相に暴力性が浮き出た、細長型と中背でかっしりした体つきをした二人の男が座っており、運ばれてきたばかりらしい生ビールとお通しが二つ置かれている。
「まあ、座れよ。お前のほうから話あって来たんだろ? 月串の一括払いが出来そうだとかって話‥」痩身で背のある中尾が言った時、男、海老原孝彦(えびはらたかひこ)の片手がおもむろに紙袋に差し込まれた。波島は海老原のほうを向かず、生ビールの泡を啜っている。
これは下部構成員の彼らが、ダミーの店子に借りさせたワンルームマンションや同じく単身者用アパートに三人から四人の人数で押し込められて、半軟禁状態で同居生活を送る中のほんの時々、小遣い銭をもらって与えられる、わずかな時間の楽しみだった。外飲み程度はともかく、女が男にセクシャルなサービスを施す類いの店に行けるまでの金と時間は与えられない。
純法の人例研究企画部の上座にいる者達は、彼らのような立場の者達を、生かさず、殺さず、身柄と心までを管理している。粗相や逃亡の企てには、恐ろしい始末が待っている。一人一人が、誰がどんな死に方を遂げたかを教えられ、叩き込まれて知っている。だから、誰も上には逆らわず、極めて従順に、拉致、拷問、殺人を含む人例の業務に日々、身を埋没させている。
7・62mmの口径を持つ自動拳銃の銃口が自分に向いているのを見た中尾の顔は、ぼわんとして、目の前にある絵に現実味を捉えていなかった。
金属同士がかち合って打ち鳴らされるような銃声が、店の喧騒を割った。中尾の頭部が躍り、茶髪の髪の間に大きな穴が開いた。目を見開いたままの彼の体が通路側へ横のめりに倒れると、黄色い脳漿をまとわりつかせた脳が、頭頂部を舐めるように流れ出した。
その金属音のような銃声の方向に、周りの客達が一斉に振り返るや、視線と体を固めた。
あらぬ運動をする波島の手が、生ビールのジョッキを倒し、中身がテーブルの上に撒かれた。彼の目は、瞬く間の時間に死体に変わり果てた仲間と、トカレフ自動拳銃の銃口を自分に向けている、つい二十日程前に実の父親とのホモ行為を強要した軽度知的障害者の男の顔を交互にさまよわせている。
波島は命乞いの言葉を発する形に口を開き、つい数秒前まで「怖いものなど何もない」と言いたげだった顔を不様に歪め、震える右掌を孝彦に向けた。極限の恐怖のあまり、それで弾を防げるという思考になっているようだった。
さらに二回の銃声とともに、波島の右手の小指、中指、鼻から上の顔が吹き飛んだ。頭部の上半分を失い、粉砕された脳を撒き散らした波島の体が、半身がテーブル下に引かれるようにして四人掛けソファーの上に崩れ倒れた。
BGMのスイング・ジャズは、怒涛のような悲鳴の合唱に掻き消された。孝彦が銃身を下げて体の向きを変えると、客達が、ある者は頭を抱えて突っ伏して、ある者は壁に張りつき、自分だけが助かりたいという思いを露わな態度を表した。
厨房からは「出るな」という声が聞こえ、座敷席からは女の泣き声が漏れていた。店員達は一目散に奥へ逃げたようで、孝彦のいるテーブル席のスペースには、トレーが落ち、ジョッキの酒と魚料理が床にばら撒かれている。
異様なブザー音が店内に鳴り響いた。緊急通報装置の警報音だった。稲毛の家では、孝彦の父親がすでにそのトカレフによって亡骸となり、夕食に取った出前のラーメンは、食卓の上で冷めて伸びきっているはずだった。父一人、息子一人の家の経済は以前から慢性的に追われているが、それでも父親が食事を高値の外食や店屋物にする理由は、息子の自分にも故の分からない執着と、調理がほぼ全く出来ないことにあった。
職に就くたびに解雇が常だった父親は、普通自動車免許を二年かけて取得し、ローンを組んで軽自動車を購入したが、その車を、購入後一週間で廃車にしていた。母親は、出入りしていた小さな新興宗教団体で知り合った男と男女仲になり、自分と夫を置いて逃げ、今も行方が分からない。
自分は成長するにつれ、周りの遣う言葉が分からなくなった。体育の授業で行う球技では、ルールを理解出来ず、級友達から罵声が飛んだ。授業の内容は全く分からず、級友連中は元より、教師からも蔑まれ、馬鹿にされながら、不良達の玩具とサンドバッグにされた。周囲の悪意を一身に浴びながら中卒者になり、人が働く理由も漠然としか知れないまま、職場を転々としたが、何故上司が自分を叱責し、同僚達から恐い言葉遣いで怒鳴られ、罵られるのかも分からなかった。
自分を庇ったり、助ける人間は、他人、身内の中に誰一人としていなかった。父親が親類筋から疎まれながら、金銭面で利用されているらしいことは、自分にも薄々と分かっていた。その父親との暮らしというループから抜け出す術は、自分の知恵では思いつかなかった。それは、自分の生きづらさを解消する手段にしても同じだった。父親が死んだのちのこと、自分が老いた時のことなどは想像出来ない。保険という言葉は、自分には遠い世界のもののように、意味の拾得を自分に与えない。
淀み、腐った水の中を漂うような人生をどう変えるかということに、拙い思考を巡らせた時、世間で彼女と呼ばれるものを作ればいいのでは、という結論らしいものが出た。そんなある時、その日も自分よりも年若の同僚達から散々怒鳴られ、嚇された物流センターのアルバイトの帰り、JR西千葉近くの裏路地で、アイドルと言っても遜色のないルックスをした、まだ幼さの残る娘から「食事会」のチラシを受け取った。その娘は、「絶対来て下さい」と言い、孝彦と掌を合わせた。
西船橋駅近くのビストロレストランを借りきって開催されたその食事会は、「お代は半分を主催法人が負担」というもので、男女半分づつが同じテーブルに座るように促された。孝彦は、寂しく、暗い翳を横顔に落とす、いかにも社会に適応出来ていない感じのする中年の男と隣り合わせになり、向かいの椅子には、さながらアイドル雑誌から抜け出してきたような女子が二人、座った。他のテーブルも同様に、精彩や格好良さとは無縁の男と、整った顔立ちの上に綺麗な髪と服の女が向かい合っており、奇妙な集団お見合いのようなものを思わせた。
それでも、向き合って座る女達が、隣の男は元より自分を差別するような顔色や態度、言葉がなく、受け入れるように、可愛い声で会話を楽しくリードし、盛り上げてくれることが楽しく、嬉しかった。
その日、二人の女と、スマホと首に下げたガラケーで電話番号を交換し、女二人が同意の上で、スリーピースの交際が始まった。デートの食事代、カラオケや映画館や博物館の料金、交通費はみんな女達が奢ってくれたが、怪しさのようなものは感じなかったというよりは、分からなかった。
ラブホテルでは、二人の女が孝彦の体に夢心地の奉仕をしてくれた。四十手前になって初めて知った、セックスの喜びだった。
常軌を外れたそんな幸せが一ヶ月ほど続いたのち、孝彦の携帯に「おめでとうございます! あなた様は本日、私ども、尊教純法の忠犬と呼ばれる法徒の候補者として登録されました!」という男の声の電話がかかってきた。それから女の一人からまた電話があり、支部へ行こうと誘われた。
実印を持ってきて、とまで言われたが、それでも彼は、自分が騙されていたことにはっきりとは気づかなかった。いや、分からなかった。
二人の女に連れていかれた千葉市内のマンションに設けられた支部というらしい一室の密室で、腕力でも弁でも絶対に敵わない複数名の威圧感のある男達に囲まれ、エリアの広報主任だという男から、はなから何を言っているのか自分には分からない長い説明を聞かされる中、二人の女は、先までとは態度、口調がうって変わり、「早くしろよ、苛つくんだよ。あんましぐずぐずされっと、うちら困んだわ」「お前、まじ使えない。決断が遅えよ。ちょっと馬鹿なのは最初から知ってたけどさ」などと孝彦に凄み、侮辱し、嚇し立てた。広報部主任だという男が言うには、あなたは大本尊様、大法裁様に見込まれた縁で今日ここに来ることになったのだから、この時点でお断りするということは、大本尊様の尊い慈意を土足で踏むことと同じ、ということだった。そこで、さっさと入信誓約書に捺印したほうが解放が早くなるという思考になった。
男達の圧を浴び、女達に嚇されるがまま誓約書に個人情報を書き込み、捺印したところで、壁際に立たされて顔写真を撮影され、その時になって初めて屈辱を感じたが、これを何かの手段をもってどうにかするという考えは浮かばなかった。携帯を出せと言われ、それに従って手渡すと、自分には分からない何かの設定をされた。
支部のマンション一室を出際、広報部主任は「クーリングオフなどをすることは、大本尊様のお怒りに触れることを意味します。生きながら無間地獄へ堕とされますよ」と喝するように言ったが、クーリングオフとは、聞いたことは少々あれど、元より何を表しているのかが分からない言葉だった。
何をどうするべきかもまるで分からない状態のまま、自分には読めない漢字を用いた、法外な額が打たれた請求書が何通も、また、ジンレイ、と名乗る複数名の男達も来て、穏やかな中に有無を言わせない裂帛を含んだ口調で催促した。父親は、その男達の言うことを半分も理解出来ていないことが息子の自分にもありありと分かる表情、態度で、「はい」という生返事ばかりを繰り返していた。
それから、消費者金融の自動契約機から金を借り、親子でビジネスホテルを転々とする短い逃亡生活を経、親子で、どこへ行くとはっきりと決めることもなく千葉駅から遠くへ行こうとしているところを捕えられた。
拉致された人里離れのコンテナの中で醜鼻の凌辱を受けた時、やめろと叫んで立ち塞がった、殴打の跡がある彫りの深い顔をした中年の男は、ジンレイの一員には変わりないのだろうが、自分が棲む世界で、やっと一人いるかいないかの味方に思えた。だが、その男も多勢無勢故か、自分達を救うことは出来なかった。
それから、街金や、どうみても違法な経営をしている金融をジンレイ付き添いで回らされて金を作らされ、こちらの恐ろしい男達も家に来るようになった。男達は、自分達父子を正座させ、死なない程度のキックやパンチを入れ、父親の頭に「ハゲ」とマジックで落書きして遊んだ。父親は特に怯えているとか、屈辱を忍んでいるという風の様子を表情や態度の様子もなく、考えていることが窺い知れない、いつもの顔で、それらの恥辱を受け入れていた。
拳銃を手に入れたのは、ひょんなことからだった。そんな日々から逃げたいという思いから、あてもなく松戸へ行った。「家に戻れ。今、お前がどこにいるのかは分かってるぞ」というジンレイからの電話には、力無い反射的な返事をした。
夜の松戸の裏道をうろついていると、褐色の肌をした外国人の男が寄ってきて、片言の日本語と簡単な英語を織り交ぜて話しかけてきた。小汚い身なりをし、小さな紙袋を抱え、手にウイスキーのボトルを提げた男は、ジミーという通り名らしい名前を名乗った。
「あなた、ピストル欲しいか」ジミーに訊かれた時、孝彦はただ返答に困り、返す言葉がなかったが、微弱な興味の火が心に灯るのを感じた。それはこれまで自分を取り巻いてきた環境と、そこに生息している人間達に、もしもそういうものを手にした時、それで何かの物が申せるか、という期待に根ざした思いだった。それが日本では違法のものであること程度は知っているが、興味と期待が、その拙い知識がもたらす抵抗を押し戻していた。
孝彦の無言をイエスの返事と解釈したか、ジミーは孝彦の手を取り、掌に吸いつくように重い紙袋を握らせると、どこか覚悟を刻んだ顔と、酔っておぼつかない足取りで、裏道の奥へ姿をフェイドさせた。
人通りのない裏道で、紙袋の中身を出すと、それはまぎれもない拳銃だった。勿論詳しくなく、種類もよくは知らないが、シリンダーの弾倉が回って弾を撃ち出すものと、弾倉のないものの、形状上の二種類があることは、テレビドラマなどを観て知っている。
ジミーの素性などに好奇心は持たなかったが、自分の掌に落ちた重く冷えた鉄の武器の感触と、その眺めに、これで自分は何かをやる、という意思が涌き出してくるのを感じた。
それが、ほんの三日前のことだった。
今日、家で父親の体に二発の銃弾を撃ち込んだ時、親を殺すという呵責はさほどは感じなかった。だが、解放感もなかった。暗く、じめついた自分の人生を創造し、それを命じられるままに自分の体にのしかかって破壊した人間が自分の手にかかって、血の池に体を浸して死んだ。それで自分は、生まれながら摘んでいた人生を自分で終わらせたという事実だけが胸に押し寄せただけだった。
緊急通報装置のブザーが、不快な響きを立てて鳴り続ける中、客達の悲鳴は声を殺した怯え泣きに変わり、そのしじまを怒号が裂き、無力感に煽られるように拳銃を提げて立っている孝彦の体を、フックが先端についた二本の鉄の棒が拘束し、体が床に引き倒された。刺股だった。防弾か防刃か分からないチョッキを着用し、緊迫した顔の警察官が二名、孝彦の体の上で、確保、と聞こえる怒声めいた声を発していた。警官達の促しで、客達が店外へ避難を始めたことも分かった。
身柄を警察に捕われたという圧倒的な現実は、空虚に孝彦の中を梳いただけだった。右手で銃把を握ったトカレフが、警察官の手で指を一本づつ剥がされ、もぎ取られた。白のヘルメットに青い防菌服を着た救急隊員達が、担架と遺体収容袋を携え、なだれ込むようにして入ってきた。
刺股が体から外され、後ろに回された手首に手錠がかかったことを感触と音で気づきながら、孝彦はどこか快然とした脱力を覚えていた。それは、これから自分の身が送られる世界は、これまで自分が棲んできた場所よりは、自分が守られる所だろうという瞭然としない見立てによるものだった。
「俺だ。そろそろ弁護士んとこ行く頃合だろ」村瀬の携帯に義毅からライン通話の電話が入ったのは、遅番勤務を終えてロッカールームで着替えを終えた時だった。
「月曜の午後に法テラスの予約が入ってる‥」村瀬はリュックを肩に背負い直しながら答えた。
「あの有様の、あの家。壁からガラスから何から何まで、俺が業者呼んで修繕したんだ。朝から詰めて、夕方までの長丁場だったよ」「待て。本当か。いくらかかった」「飲代以上、国家予算未満だ」義毅は言い、電話の向こうで笑った。
「それから、恵梨香の奴を西船橋のナチ・バーでヤキ入れて、車に押し込んで、八千代の家に連れ帰ったんだ。ま、トヨニイの想像にも難しくねえだろうけどさ、あれこれ理屈こねて、何だかんだと吠えくさったよ。だけど、俺の奥さんになる女が、あいつらに、ひとまずの生活保護と、それと心療内科を勧めて、市との間に立ってやると声をかけたんだ。それも刑事担当弁護士を付ける意思がねえ以上、元奥さんの起訴と実刑が、多分は避けられねえだろうからこそだよな。それにはまず、世帯主の名義変更もやらなきゃいけねえし、向こうもそっちもいろいろ忙しくなりそうだよな」義毅の声には村瀬を労う響きがあった。
増本がロッカールームに入ってきた。村瀬が通話口から口を離して、お疲れ様です、と声かけすると、増本は満面の笑みで頷いて同じ言葉を返し、ロッカーの扉を開けて制服のブルゾンを脱ぎ始めた。十日前、村瀬が実力行使で吉富を出入り禁止へ追いやって以来、増本は異常に彼に対して愛想が良くなり、機嫌取りのような態度で接している。レジ講習受講の意思を伝えた時などは、小躍りせんばかりに喜んだ。増本が情けないのは変わらないが、これはこれで別にいいと今の村瀬は思っている。
「実はそのあと、恵梨香が電話かけてきて、俺にも嚙みついてきたよ。これもお前の想像に難しくないよな。お前と、お前の相方さんは俺の回し者っていう認識みたいだ。あいつの話だと、相方さん、社会福祉士だって?」「そうだよ」「物好きな人だな。お前みたいな男と一緒になるってことは、一生はらはらし通しだって分かってて‥」「物好き同士でってとこだ。重てえもんをしょってきた女でな、姿がそいつを刻んでんだ。追々、紹介するよ」「そうか。何かは知らないけど、よろしく。親父になったお前も早く見てみたいものだな」村瀬が言った時、会話に間が出来た。
「元奥さんの再婚相手は、江中って男だったよな」義毅の声が間を裂いた。
「親父の莫大な遺産、それにお袋の遺産も相続して、働かねえで、金に飽かせて何台もの高級車だの大型バイクだのを気分でセレクトして乗り回して暮らしてた、新京成の高根に住んでた男だ。こっちで制裁しといたよ。俺があの家に行ってすぐのことだ」
村瀬は目を剥き、大きく息を吸い込んだ。
「財産と呼べるもんは、俺が全部処分させたよ。とことん狡くて要領がいいから、女のつてで、その女の親父がやってた会社の二代目に収まって、これから結婚しようとしてたとこだったみてえだけどな、隠してた犯歴と性癖を相手とその親筋、それに従業員にばらすっつったら、面白えようにこっちに従ったぜ。ま、もっともそれでセミ逆玉の結婚も失くした恰好にしてやったわけだけどな。こいつが、俺が生業としてきた稼業の最後のゴトになったんだ。お分かりかな」
先を越された。これは江中の現住所を義毅に探らせた上で、村瀬が自身で執り行おうと胸に密かに決めていたことだった。それを義毅が先回りするようにして、村瀬の手を汚すことなく、自分に身についた方法で村瀬の報復を代行した。
改めての驚きのあまり、感謝の気持ちが顕在化しない。それは義毅の取った手段が法を脱したものであることからもたらされた感情の具合だった。だが、それでも因果の巡りというものを確かに感じ、心に取り、つかえていたものがすとんと腹の中に落ちた思いがする。
「お前のやり方には微塵も感心しない。だけど、恩に着る。いろいろとな」「今の女を、許される限りの最後まで一緒にいて、きっちり見てやることが、俺が使った労力への返済になるってことを忘れんなよ。じゃあな」
義毅からの電話が切れたあと、村瀬は彼が菜実を知っているらしいことについて、穿った思いになった。菜実とはどこで知り合い、それから彼女との間にどういうやり取りがされたのか。義毅は自分と彼女のことを掴んでいるが、義毅のような男が多く持つ女癖も気になる。だが、子供のことなど、自分の身辺にまつわることを、今の村瀬は彼に任せるしかない状態に落ちている。
シャッターの降りたマスオマート前原店を裏口から出、商店街へ歩みを進めた時、後ろから増本が追ってきた。
「ねえ、村瀬さん‥」「何でしょう‥」増本の顔は、村瀬に何かを嘆願したげだった。
「本社で制度改革の会議があったことは聞いて知ってると思うけど、副店長っていうポジション、各店に設けることが決定したんだ。これまでうちにはなかった役職だけどね」「はあ‥」増本が笑顔になった。
「是非、村瀬さんに候補してもらいたいんだ。これからレジ講習も受けてくれるみたいだし、こないだのこともあったし、村瀬さんが俺の右腕としてパートさんを指揮して、勤怠管理もやってもらって、それを香川君が補佐するっていうチームが形になってくれたら、俺、助かるんだけどな」「ありがとうございます。でも、まだ自信がない部分もありますので、現時点では、検討ということでよろしいでしょうか」「そう言わないで‥」増本の顔がシリアスなものになった。
「あの時、あんなことを言っちゃたけど、村瀬さんのお陰で助かったんだ。うちみたいな吹けば飛ぶような、潰しが効かない、条件も悪い零細で、十年以上も文句も言わないで働いてくれて、小谷さんともども、相当の勇気がなけりゃ出来ないことをやってくれて、おかげで集客も増えて、売り上げも伸び始めてて、これは多分、本社から表影されること間違いなしだと思うんだ。是非とも前向きに検討をお願いします。この支店には、役職者としての村瀬さんが必要なんだ」「ありがとうございます。検討しますけれど、少し気持ちの準備をさせていただけたらと思います」「頼むよ」
増本は言って前から去ったが、村瀬はその背中を見送りながら、いろいろなことがなるべき方向へ動き出したことを感じていた。駅に向かって歩を踏み出した時、もうじきのクリスマス時にでも菜実との距離置きを解き、彼女を抱こうと思った。
家に帰り、テレビを点けるなり、急遽組まれた報道番組が目に飛び込んできた。それによると、千葉市のチェーン店居酒屋で射殺事件が発生し、犯行に使用された自動拳銃が、三日前の中央アジア料理店で起こった事件で使われたものと同一であることが緊急的に実施された線条痕検査で判明、警視庁では全容解明を急いでいるが、現行犯逮捕された犯人は身分を証明するものを持っておらず黙秘、被害者の男性二人はそれぞれ東京都、神奈川に住民票があるが、職業、因果関係は調査中とのことだった。
~愚かな静物~
県道が鴨川にまで抜ける、南部の市だった。二車線の県道に沿って鬱蒼とした杉林が広がる一地点に、赤いカルプ文字で「チロル」という号名が表示されるラブホテルはあった。元々白かったらしい号名ロゴ入りの懸垂幕は黄色くくすみ、半円形の号室の出窓が並ぶ、中欧の城郭を模した外観をしている。駐車場を含む三階建ての屋の白壁は長年雨風に打たれたことで所々が薄い黒の縦縞模様に汚れ、苔が張っている。十年、二十年前では効かない昔の字体で、宿泊、休憩の料金が書かれた壁面看板も、色があせきっている。
そのラブホテルの駐車場に、ミラーシールドを貼った一台の黒のワゴンが吸い寄せられるように入ったのは、哺時が近づいた時刻だった。関東南部の空には、黒ずんだ雲が低く垂れていた。変哲ない安物のスーツ姿だが、人間から離れた畜生、または異界から這い出してきた小魔のような相が出た男二人に前と後ろを囲まれて、ワゴンから数人の男が降りた。その男達はいずれも中年か壮年、そろそろ中年の声を聞く年恰好で、女の関心を引く外見をした者はいない。
懸垂幕の入口を男達が潜ると、料金を支払うフロントには、さらに二人の男がいた。小さなサイズのホワイトボードが立ち、そこに数枚の写真がマグネットで貼られている。
「法徒の皆様、今日はよくぞいらっしゃいました。時間は一回四十分ですが、追加料金をお支払いされると延長も可能です。今日は七人いますが、タイプ、個性はばらばらで、技術のある子もいれば、うぶなのもいます。全員、十代から二十代を揃えています。どうぞ、ご自身のお眼鏡に合った子をお選びになって、楽しんでいって下さい」男の一人が事務的に言うと、客の男達の中から生唾を呑む音が聞こえた。「さ‥」男はホワイトボードを進めた。
男達が欲望を帯電させて目を這わせるボードには、乳房と陰毛を露わにした全裸の女達の写真が貼りつけられている。女達はみんな体はともかく、整容をされていない髪をしていたり、顔つきが普通と違っていたりで、持つハンデがあからさまだった。
世の中には馬鹿が余って唸っている。手下が前に進めたボードの後ろに立つ神辺久弥は、心の中でほくそ笑んだ。
今日ここに来ている、こいつらのほとんどはみんな欠陥があるから、一般的な恋愛、結婚、子供を持つという世間並のライフステージを踏んでいない。何故、自分が金で買える女以外の女から相手にされないのかが分かっておらず、その反省も出来ない。自分の身の丈も識らない。だから、金を払って罠に引き寄せられる。その欠陥とは、「知る恵み」がないことだ。
だが、今日は頭一つ抜けた上客が、この中に一人いる。それは自分達の組織の存続に関わる情報を持った人間だ。この男を絡めたからこそ、宗教の看板を掲げたこの組織が在った。感謝の念を送ることもほどほどに、これからも徹底的にしゃぶり尽くす。骨の髄まで。
同じ職業の同ランクの人間、それ以上の社会的な肩書を持つ者も、何人かを子飼い同然に取り込んでいる。このまま行けば、官憲の威力などまるで恐れることなく、自分達が築いてきたマーケットが日本中、さらにアジア全域、世界にまで拡大すると言いたいところだが、それを脅かす事態が、内部に起こり始めている。
一ヶ月と少し前の、金の強奪をむざむざ許したことによる内部の粛清、それに次いで、自分達に絡められていた人間が数奇な因縁で道具を手にしたことで、貴重な勢力の一部には変わらない人間の命が奪われた。
だが、神辺はある自信を持って、それら内部の出来事を俯瞰している。
「この女でいい。早く通せ」白髪の頭に心労が顔に出た、潰れた柔道耳をした体格のいい壮年の男が、一枚の写真を指して苛立ちを滲ませた口調で言うと、神辺は笑った。
指した写真には、ポニーテールの髪をした、丸い目に少し頬骨の出た顔をした女が全裸で写っている。縁無しの写真には、赤いカラーペンで「月子」いう名前が走り書きされていた。
「さすが石井さん、お目が高いですね。この子はうちで徹底的に仕込んでありますが、特にオーラルが絶品です。忌憚のないご満足が保証出来ることと思いますが、もし石井さんさえよろしければ、こちらの女の子と、ツーピース・プレイなどはいかがでしょうか。この子はお初ですから‥」神辺は二段に並んだ写真のうち、上段の左から二番目を指で叩いた。
その写真に同じく全裸で収まっている地味な髪のまとめ方をした娘は、卵のような体つきに、十人並みよりも少し劣る顔をしている。ペンの名前書きによると「ゆき」とある。
「それでいい。早くしろ」「了解です。お請けいたしました。ご案内いたしますので、どうぞ」神辺ともう一人の男がエレベーターへ向かい、後ろに石井ともう一人が着いた。
「石井さんはもう延長分の料金も先にお納めになっておりますので、ごゆっくり、何なりとお楽しみ下さい。なお、本会で設定させていただいております規則で施錠は不可ですので、その辺りだけご了承いただけたらと思います」
神辺を白壁にペルシャ絨毯の廊下に残して202号室に入ると、胸元露わなピンクのノースリーブのドレスを着た月子とゆきが、正座をして出迎えた。部屋はいかにも旧いラブホテルの号室といった、不愛想で殺風景なレイアウトだった。月子はこれから稼ぐという期待に目をきらめかせ、ゆきは恐怖のようなものを顔に浮かせ、瞼を伏せて瞬きを繰り返している。「さっさと立って脱げ‥」石井が命じると、月子は立ち、ノースリーブドレスの肩紐をぎこちなく外した。ドレスが足の踝に落ちると、ブラジャー、パンティを着けていない、乳輪の大きな豊胸と、束の厚い濃い陰毛を持つ全裸の体が石井の目前にさらされた。
「お前もだ。立って脱げ」石井の低い喝に、座ったままのゆきはその顔を硬直させ、体を震わせた。
石井はゆきの髪を両手で鷲掴みに掴み、体を引いた。苦痛の悲鳴が上がった。ダブルベッドの前まで引きずった体から、ドレスを剥いだ。それを抜いて投げると、髪を握ったまま、彼女の乳房を荒くこねるように揉み立て、陰部に手を挿し入れた。
「痛い!」ゆきは叫び、身をよじって顔をしかめた。
「嫌だ! お家帰る!」泣き叫び始めたゆきの頬を、容赦のない石井の平手が二回打ち、彼女の体がカーペットの上に転がった。
「お家も嫌もへったくれもねえんだよ、この大飯食らいの薄のろの社会不適応者が!」大きく口を開けて、鼻血を流し、体を波打たせて激しく泣くゆきの髪を引きながら、石井は罵声を落とした。
「俺が警察に入職したのは、およそ四十年前だ。高卒で、努力に努力重ねて、自転車で街を巡回する巡査から始まって、苦労に揉まれながら齢重ねて、警視正の資格を取って、警察庁の本部詰めにのし上がったんだ。一介の巡査部長だった頃は毎日ストレス漬けだったんだよ。お前らみたいな知的と、準知的の奴らが犯す事件の処理に追われて、来る日も来る日もそればっかだ。今も行きつけにしてる南千住の木賃でビールを飲むことだけが、俺に許されたただ一つの楽しみだったよ。それでやっと高い椅子に座れたと思ったら、警察大学生の息子の裏での犯罪行為を恐喝屋に掴まれたんだ。それで五百万だぞ、五百万‥」
石井の言っていることが難しすぎて分からないらしいゆきは天井に顔を向け、あああ! あああ! と泣き声を振り絞っている。月子は涎の光る口許に指を当て、全裸のまま立ってそれを眺めているだけだった。
「いいか、お前ら。今日はお前らで、俺のその苦しみとストレスを全部吸い取れよ。手を抜かずに俺を悦ばせるんだぞ」石井はゆきの髪から手を離し、懐から財布を取り出し、二十枚余りの一万円札を抜き、床に置いた。
「今日はこの金をお前らに落とすぞ。この金の分だけ、俺を愉しませろ。分かったか。どうせ非課税世帯育ちのお前らは、ほんのはした金でも、それをちらつかせりゃ何でもやるんだもんな。おら、咥えろ」石井はベルトを外してスラックスとパンツを下ろし、黒く色素の沈殿した陰茎を出し、泣き続けるゆきの口に押し込んだ。ゆきの声が陰茎に塞がれ、彼女の体をまたぐようにして月子が立ち、両手の指で陰毛を掻き分けてクリトリスと小陰唇を露出させた。そこに石井が顔を寄せ、月子の性器を舌でせせり、尻に手を回して肛門に指を埋めた。
ゆきは、今、自分の身が落ちている所に諦めを覚えたようで、石井の性器を口で受けながら、泣き声を、懸命に押し殺した啜り泣きに変えていた。
客の男達が全員女の当たりをつけて客室へ引いた一階フロント前で、行川を携えて現れた李に、神辺は頭を下げた。
「首尾よくやってるみてえだな」貼り出された女達の写真を目で掃いて李が言い、神辺は小さく頷いた。
「二代目はもう決まってる。今度は総法正って肩書だ。こいつだ。救貧屋の世話になって、無年金の年寄りに混じって、台東区のぼろアパートでタコ部屋暮らししてるのを柄抜きしたんだ。今、横浜の本部で生活させてんだがな、先代の奴よりも扱いやすい。あれと違って犯歴もねえしな」
行川がポケットサイズのタブレットの画面を、神辺の目の前に掲げた。画面一杯に写し出された写真の中には、伸びかけて乱れた五分刈りの頭をし、垂れた目と頬の中年男がいるが、自分を囲んでいる状況に判断が及んでいないといった顔をしている。この男が持っているものは明らかだ。
「マネージャー、小耳程度でいいので」「何だ」神辺の問いかけに、李が顔を向けた。
「あれを名誉にしたのは何故ですか」「てめえからこっちに言ってきたんだ。市役所行くから、こっちとはもう手を切るってな。それ自体は別に構わねえがな、いろいろしゃべられる可能性があるだろ。それでこっちのことが漏れねえうちにと思って、ウイスキーとブランデーとポン酒のチャンポンで眠らせて、服剥いて、手賀川に流したのよ。あいつの家に置いてたものは、全部処分した」「そうですか‥」神辺の合いの手に、李は這うような笑いを吹いた。
フロント空間には、山間を吹き抜ける風の号溟が響き渡っていた。神辺の指示で動く男達は余計な口をつぐみ、李の隣に立つ行川は、目と体は動かさずとも、射るような迫圧を周りに配っている。ここにいる神辺の手下達はみんな、それに留められている。
神辺が会うたびに、いつも李がこの男を常に身のそばに置いている理由は、自身の用心刀、用心銃としてでもあるが、突発的な不測の謀反への備えでもあることは充分以上に察しがつく。組織の基盤が揺らいでいることは、幹部級の立場にある神辺にもよく分かっている。
「ここんとこいろいろあって、基盤固めってやつをもういっぺんやり直さなきゃならねえとこに差しかかってるけどな、今、山上に仕切らせてる兵隊と道具の買いつけはそこそこ上手く行ってる。信者の取り込みも進んでるしな。他の宗教に出張して信者を引き抜いてることは、前にお前にも話して知ってんだろ。特にあの、まあ、素晴らしいわね、の、三鷹の恩正啓生の奴は、馬鹿素直で引き込みやすい‥」「組織の力的な優劣は数だけじゃないですよ」「ああ。基盤を固め直して、販路を拡げて、使える奴らを勢力の端々にまで行き渡らせて、その数に見合うだけの道具が揃えば、まず、東で一廉になれる」李が言った時、行川が画面を指でスライドさせた。下半身裸の姿にされ、揃いも揃って覇気のない、あるいは怯えた顔と萎びた陰茎を下げて立つ、風采の上がらない男達の写真が何枚も続いて現れた。数枚がスクロールされると、今、ホワイトボードに貼られているものと同様、全裸で立たされた女達の写真画像が出てきた。ぼさついた髪をし、目や鼻の形に変形が見られたり、目の奥に無想、何かへの気力や意欲が覗えない虚無を湛えており、それが立ち姿勢にも出ている女達だった。それは先に写し出された不様な姿の男達も同じだ。
尊教誓いの儀と名打たれた入信式の一環。一生涯に渡り、御教えへの背きを持たないという意思を示すための、命と名誉を差し出す強要。拒む者は人数で囲み、「大本尊様のお怒り」のワードと、刃物をちらつかせ、またはスタンガンを帯電させて脅し込む。それに対し、泣いて、または怒って拒否する者は、「火葬場」の言葉で大人しくさせる。この威嚇脅迫の強要を行う側の信者も必死だ。取り込みの失敗も、教えを尊ぶ上での失態となり、制裁を受けることになるからだ。
それは、惨鼻を極める拷問の果ての死だ。一例、底辺の寮つき人材派遣会社で働く独りの中壮年の男が身の回りのものをそのままにして行方をくらましても、ありがちな仕事苦しさからの逃亡と見なされ、詮索されることはない。たとえその行先が、視、聴、感、の存在しない闇、その闇の識別すら無い世界であるとしても。
「こいつらはみんな、うちを潤してくれる法徒と、俺達に金を運んでくれるお客なんだよ。だから大切に扱わなきゃいけねえんだ。法徒ってもんをたとえりゃ、栄養の豊かな餌を与えられて、風光明媚な環境で愛情深く飼育された養牛、養豚、養鶏は、肉の締まりも柔らかみも違え。それが食卓に載って、俺達の味覚を楽しませてくれるだろ。そういうハートフルな畜産をすることが、組織を盤石化する第一歩だ」「まあ、そうですね」神辺が気のない相槌を打った時、不意のように、どこかの商店街を歩く男の写真が表示された。至近距離の、斜め前から写されたものだった。次に、その男が赤いブルゾンに紺のスラックスの制服姿で、スーパーの店内で品出しに勤しんでいる様子を横から捉えたものが写った。
「どうだ。知ってんのは共通だろ」「はい。ハロウィン前の手繋ぎに来た奴です。池内がこいつの担当で、こいつなら引く相手として確実だと踏んでたんですけど、マネージャーはお認めになったんですよね、池内の脱会‥」「馬鹿野郎、そうやすやすと離すか、この俺が。池内も、この男もだ」李は言って、ジャケットから銀のシガレットケースとライター、高級な仕様の携帯灰皿をまさぐり出し、ケースから抜いた一本を薄い唇に咥えた。自分のライターを出したわけは、神辺には部下というよりも僚友に近い意識を持っているからだ。
「この写真見ただけで、そこいら歩いてるおっさんと同じだと思うなよ」李は音を鳴らして煙草に点火し、遠くを見るような眼差しをして、ゆっくりとした調子で煙を吐いた。
「これはお前の指示の功績でもあって、池内の実績でもあるんだ。こいつが支部で入信を拒んだからこそ、広法何とやらで、これからの拡大には絶好の逸材を発掘することになったわけだ。なあ、何が幸いするか分からねえもんだよな、神辺よ」李の顔に、上機嫌の笑みが浮かんだ。爬虫の眼の瞳孔には、きらきらとした光が見える。恋心の相手を想う眼だった。
「元地銀の行員で、今はスーパーの店舗スタッフで、どこかに息子と娘がいるとかいう話を拾ってますけど、何の取柄があるんですか」「空手だ」「空手?」神辺が問い返すと、煙草を燻らせる李の細い目が、より細められて、ぎらりと底光りした。
「ああいうものをやってる人間はごまんといるじゃないですか。俺が三年前まで指導員やってた流派の道場にも、切実な動機持って入門したけど、白帯のまま潰れてくのが何人もいましたよ。ああいうものになりたいとどれほど望んで求めても、才覚の差はいかんともし難いんです。遺伝的な知的要素でも腕力でも、運動神経でも、みんな才能じゃないですか。それが生来携えられてない奴は、いくら泣いて喚いて指咥えて、ないものを欲しがっても、そうはなれないものですよ」「聞け」李が声を圧した。
「いくら零細スーパーの店員に身をやつしてるっつっても、こいつの空手に限っちゃ本物だ。うちの人例ん中でも腕の立つ奴を人選したんだがな、丸腰じゃねえそいつらが綺麗に畳まれるまで、ほんの秒だったんだ。俺は目の当たりにしたんだよ。支部でも腕利きが一人、やられてるんだ。目をぶっ潰されてな。こいつが身につけてるもんはな、胸倉がどうしたとか、手を掴まれたらどうするとか、あんな複数や刃物の捌きが考え抜かれてねえ低レベルの護身術とかとは違え。それでいて、剝ぎ取りも上手くて、おかげで必要分、きっちり取り立てることが出来たんだ。勢力の補強として、喉から手だ。他に言いようがねえだろう」「そうですか。けど、ここぞ一気にって時に、お人好しが命取りになるんじゃ‥」「それがな‥」李が言いかけた時、男が非常階段から走り降りてきた。神辺の部下だった。
二階の一室で何かが起こったことは、男の顔色で分かった。神辺は男のあとに着いて、非常階段を急いでよじ上がった。
202号室の扉は開け放しになっていた。部下の男に続いて部屋に入ると、隅でゆきが顔を覆ってしゃがんでいた。ツインベッドの上に、大きく脚を拡げて赤い膣孔を剥き出しにした月子が、目を見開いたままの顔を横に向けて、微動だにしなくなっている。
月子はこと切れていた。目は涙で赤く充血し、洟と、口からの唾液が垂れてシーツに染み込み、死の際に放出した大便が尻と腿を茶色く汚し、部屋に便臭を漂わせている。
行為の最中、石井が頸を締め上げたことは、説明などはなくとも分かる。
石井は全裸で窓際に立ち、肩を上下させながら、歯を結んだ顔で、慌てふためいた目線を部屋の四方にさまよわせている。
神辺はベッドに寄り歩み、月子の亡骸を検めるように覗き見ると、石井に目向きを戻した。
ゆきに目を遣ると、彼女は顔を覆っている手を外し、すがる目で神辺を見た。神辺は洋風ステンドグラス仕様のシールが貼られた出窓に視線を移し、はは、と短く嗤った。
朝から関東に注意報が出ている強風に、洋窓が笑っていた。神辺と合った石井の目に、助けを求める色が濃く出ている。
「これは何だと訊きたいところですが、そんなものは愚問ですよね、石井さん」月子の死体を顎で指した神辺の声は笑気を含んでいた。
「これをどうすることを私達にお望みでしょうか。どうすれば始末がつくとお思いですか。お考えになるお時間を与えますが、その時間はそんなにありませんよ」神辺の言葉に、石井は部屋の隅々を見回し、我が身を庇ううろたえをその姿に刻んだ。
「だから何だっていうんだ」石井は言って、顔と体勢を整え直した。
「お前らのやってることは、不法な斡旋だろう‥」石井は顔に汗を光らせながら、脱ぎ捨てていたトランクスとズボンを着け始めた。
「そもそも判断力不全の女を略取して、軟禁して、売春をさせてるわけだ。こんなことが知れたら、お前らは一網打尽だ。跡形もなくだ。知った風な口を聞くな、宗教絡みの売春組織風情が」
「それではどうぞ、ここから署に連絡して、緊急捜査を要請なさるのがいいでしょう。だけど、黙秘権はあくまで自分を刑事的制裁から守るためにあるものです。今のあなたも、ご自分の身を守ることをお考えになったほうがいい」
ゆきが白い床に伏して、呻くような泣き声を絞り始めた。神辺はそれを打見すると、浮いた上唇から前歯を覗かせて笑った。
「で、溜まるものを持て余した挙句に、とうとうやってしまわれたわけですけど、どうしますか、石井さん」
ゆきの泣き声が、風の音を迎えて響いていた。石井は捨て鉢の弁駁の勢いを、瞬く間に失っていた。
「頼む。何でもする。これを表に出さないでくれ!」瞼を伏せた石井の懇願が、ゆきの泣き声と風鳴りを割った。
「俺が今の地位を築くまでしてきた苦労は半端なものじゃないんだ。こんなことが世間に知られたら、俺はもう終わりだ。本当に終わりだよ。だから、頼む‥」瞼を瞬かせ、洟を啜り上げながら、石井は哀願した。
「大丈夫ですよ。そんなにお泣きになることはありません。実績に基づくあなたの名誉と地位と、何年か先に控えてる定年後の悠々自適とした暮らしが完全に保証される選択が、ただの一つだけあります。こちらが薦めるその方法に従っていただけるのであれば、憂うことは何もないですよ」神辺が言った時、開け放しのドアから、李と行川がその姿を挿すように歩み入ってきた。生命の途絶えた月子と、泣いているばかりのゆき、しゃくる石井を、表情のない李の目が梳いた。
「参加登録の際、職業欄には公務員とありましたけれど、組織のセキュリティ上のこともあって、調べさせていただいております。あなたは本庁詰めの警備部勤務で、左翼政党、極左セクト、極右政治団体を監視することをメインの仕事にしていて、あなた達の司令で動く捜査員は全国におよそ一万人います。可能な限りでいい。あなたの下で働く捜査員の方々の名前、住所、その他の情報が記載されたリストを、私どもに送っていただきたい」
涙に濡れた石井の目が見開かれた。神辺をすがりつく藁とする目だった。
「大丈夫です。そのリストはこちらで厳重保管させていただいて、よそにばら撒かれることはないですし、報酬も、しっかりと保証しますよ。その報酬は、あなたの言い値を呑みますから。ざっとおいくら欲しいですか」
「八‥」石井の唇が動き、曖昧な数字を発音した。
「八百万でしょうか」「八千万‥」石井は消え入る声で金額を口にした。
「分かりました。それでは今日中に八千万円を口座に振り込ませていただきますので、後ほどご確認下さい。だけど、その金の重さに誓って、先に私が提示した条件は必ずお守りになっていただきます。そこで今のうちに言っておきますが、それをあなたが反故にされた場合、こちらにも考えがあります。そこのところはよろしくお願いいたしますよ」
神辺が発した警告には冷徹な語圧が含まれていた。「頼みますよ」神辺がつけ加えると、石井は顔を両掌に包み、上半身裸の姿のまましゃがみ込み、肩を震わせ始めた。顔を覆った指の間から、唄うような嗚咽が漏れた。
神辺とともに石井を囲んで立つ李の針の目は、石井の値を踏んでいる。行川は、その小さな体を、今ここで何が起こっても即応可能な足の配りを整えた体制でぴたりと立ち、特徴的な童顔の表情をきりりと締め、射すくめる視線を部屋の外に遣りつつ警戒を払い続けており、石井のことなどはまるで関心もない様子を見せている。
「おい」入ってきた部下の男に声かけした神辺は、月子の亡骸に顎をしゃくった。
「富津に運んで、ナトリウムで溶かせ。骨は砕いて川と山に撒け」神辺に命じられた男は、運び出しの協力要員を呼ぶために出た。
「神辺よ。さっき言いかけたことの続きだ」ゆきのか細い泣き声に石井の嗚咽が交わる中、李が口を開いた。
「俺はあの男を、人例で俺の右腕的なポジションにまで持ってくビジョンがある。何故なら、空手の腕は言わずもがな、必要に応じて、てめえの体ん中に流れてる血の色を、赤から青にも緑にも、金にも銀にも変えられっからだ。こうして口に出して言ったからには、俺は必ずやるぞ。こないだ揃っておめおめ殺られた波島と中尾は、抜擢の上じゃ失敗品だったがな、あの村瀬を取り込みゃ‥」「鬼に金棒ですか」「そんなもんじゃねえぞ」
三人の男の間が黙した。
「マネージャー、意見するってわけじゃないですが」神辺は言い、李の顔を見た。
「俺は、あいつは引っ張りに留めとくのがいいと思いますよ。何故かっていうと、いくら火事場の力を持ってるったって、こちらからすれば素人には変わりないからですよ。そんな人間を人例に引き込んだところで、いかにも素人らしいぼろを出して、それがこっちの命取りになることが大いにあり得ます。実働の補強なら、既存勢力の買収のほうが効果的ではと」
「俺が言いてえのは、惜しくも埋もれてる人材の発掘って話だ」李は神辺に向き直った。
「うちが面倒見てる法徒の女の九割が、頭はともかく、人を悦ばす体の機能には問題がねえ。そいつらが、くだらねえ特定非営利法人から掘り出されて、安くねえ施設の利用料を搾取される前に、俺達で見つけてやって、その体を使って出来る有償の奉仕労働を卸してやってるわけだよな。それと同じことじゃねえか、言ってみりゃな」「長年素人で飯食ってきた人間が、あの年齢から兵隊として開花することなんてないですよ。現場で使える年数にも将来性がないじゃないですか」「聞けよ。俺の話を最後まで‥」李の声に迫力が籠った。
「いいか。お前が言う将来性ってもんは解釈次第でどうにもなるんだ。うちは今後五年が伸びの正念場だ。そのスパンに、藪を切り拓くための一員として機能する人間が、俺はただの一人でも二人でも多く欲しいんだ。その気持ちが、お前に分かるか。あいつは間違いねえ。命を保ったまま、うちに多くの益をもたらしてくれる。俺の目には寸分の狂いもねえ。この俺が、全くぶれのねえ自信を持って言えることだ」「そうですか」「そうだよ」
神辺は溜息を腹の中に呑み下した。先日、千葉の居酒屋で二人の人例構成員が、元々は追い込んでいた軽度知的の男の手にかかって、まとめて瞬時に死んだことについて、手下の管理体制に不備があって起こったことであり、それが自分の責任であることをどこまで自覚しているのか。だが、上はその李に何も言えなくなっている。今、純法の司令体系を乗っ取って、組織を実質的に廻し、利益を運んでいるのは人例研究企画部だからだ。
そこに二重の乗っ取りを仕掛けて、五年以内に俺がこの地下宗教組織を牛耳ってやる。今はリンカーンコンチネンタルのリアシートでふんぞり返っている李を追い落として。その算段の青写真は、もう俺の頭の中にある。その時、行川が護衛する対象も、李から俺に変わる。李の椅子が俺のものになるのだ。頭蓋の内部に溢れる静かな宣言の思念を、神辺は顔にはおくびにも出さなかった。
「マネージャーがそこまであの村瀬にこだわる理由は何ですか」表情を無にした神辺が問うと、李は細い目をより細め、口許をにんまりとほころばせた。
「愛だ」「愛、ですか」神辺の訊き返しには、若干の呆れが出ていた。
「惚れてんだ。あいつが池内を愛してるくれえのエネルギー、注いでな。優しい顔して、血気ってものを表立って見せねえけど、恐ろしい腕立ちで、回収力もピカイチ、行川には負けたにせよ、どう脅そうがすかそうが屈しねえ根性持ちと来りゃ、この俺が惚れねえはずがねえだろう。俺は落とすよ、あの男を。その結果を、お前も何ヶ月か以内に知ることになるぞ」
李は意中の相手を想う目を宙に遣り、笑った。神辺の下に就く男達が三人、部屋にやってきて、まだ死後硬直が始まっていない月子の骸を運び出した。座り込んだきりのゆきは、顔を濡らしたまま泣き止み、全てを諦めた面持ちで床を見つめている。
吹き荒む強風が、ホテルの周辺に密生する杉の木々をしなわせる音が部屋をざわつかせている。ベッドの脇には、石井が叩きつけて置いた金が、黒い物気を立ち昇らせる静物となって置かれたままになっていた。
「これで自己破産の契約手続きは終わりましたが、本当に最後にご意思を確認させていただきますよ」通話穴の開いた透明アクリルの向こうで、よれたトレーナーの姿で肩を落とし、顔を伏せたきりの美咲に、そろそろ老齢の弁護士が優しく声を投げた。
「あなたは今、とても厳しい状況にいます。だけど逮捕拘留されてからまだ十日未満です。刑事担当の弁護士をつけることで、執行が猶予になる可能性はまだあるんですよ。本当にこのままでいいんですか?」
月曜の午前だった。今、村瀬を伴って美咲と接見している弁護士は、自己破産担当だが、彼女を釈放に持っていく担当は専門が違う。
面会が始まってから十分の時間が経過しているが、美咲の態度は無言一徹だ。その態度に村瀬は、彼女が望んでいる身柄の行先をはっきりと見出していた。
「君はどこまで分かってるんだ‥」村瀬はアクリルボードの向こうの美咲に、静かな声を送った。
「このまま行けば間違いなく実刑で、数ヶ月くらいの間、刑務所で暮らすことになるんだ。それでいいのか。その選択でいいのか。どっちでもいい。言葉にして話してくれ」元夫の言葉に、美咲は俯くだけだった。
「あなた次第で、息子さん、娘さんに、刑事担当を引き会わせて契約を結ばせることが出来るんですよ。だけどあなたは当番弁護士も呼ばなかったし、まるで最初からご自分で実刑をお望みになっているように見える。お家も大変だったことはお話に伺っていますが、刑に服すると、その最中も、そのあとも大変ですよ。執行猶予を得て、お子さん達と世帯を分けるということも出来ないことではありません。娘さんの暴力が怖いのであれば、低料金で短期利用の可能な女性用のシェルターもございます。どうお考えなんですか。私がこうしてお話の出来る時間は限られていますよ」
美咲の態度は変わらなかった。だが、落ちた肩と伏せた瞼に、ある種の解放を望んでいるような気持ちが浮いて出ているように村瀬の目には見える。その行先が、粗末な食事があてがわれ、楽しみもなく、一切の自由を奪われた、規則づくめの環境だとしても。
面会時間はまだ二十分残っている。だが、任せようと思う気持ちが、村瀬の体を椅子から立たせた。弁護士はいささか怪訝な顔で、立ち上がった村瀬を見上げた。
そんな変な目で俺を見ないでくれ。今、あなたは俺を無責任な元夫だと思っているのだろうが、アクリルボードの中に座るこの女がどういう人生の選択をしようが、それも権利の一つだ。
任せる以外にない。出たあとのことは、またこちらで考えてやってもいい。
「いいんですか?」切羽の声で弁護士が問うてきた。村瀬は何秒か言葉を呑んでから頷いた。
美咲には別れの挨拶をすることなく、千葉刑務所の拘置区を出た。弁護士は背中を丸めて隣を歩き、ついてきた。
「惜しいですけど、こういうものだという感が拒めないですよ」拘置区の高い壁の前で、弁護士は言い、小さく息を吐き出した。
「私は若い時分には刑事専門だったんですけど、同じようなケースはたくさんありました。あなた様もご存じでしょうけれど、居場所や逃げ場所に刑務所を選んでしまう、あるいは選ばざるを得ない事情を抱えた人は、世の中には溢れてるんです。その多くが、いわゆる‥」
弁護士の言いたいことは、村瀬にはよく分かる。同じハンデを持つ友達の唆しで、子供におもちゃを買ってやりたいという動機を胸に最重罰の適用される罪を犯すことになり、今も栃木の塀に収監されている菜実の母親がいる。
そういう彼ら、彼女達に対し、自分がしてやれることは何もない。自分が出来ることは、菜実との関係がこれからも維持され、結婚までこぎ着けた時には二人で栃木刑務所へ挨拶に行き、九年後に審査が通って仮釈放の運びになった時は、引き取って一緒に暮らすことだ。
「なし崩しの起訴まであと六日あります。それまでご子息とお会いになって、ご意思を確認されたら、また法テラスに来られて下さい。手配いたしますので」京成千葉駅の前で、老弁護士は寂しげに言ったが、村瀬の意思も決まっていた。それは美咲を、本人の思いに任せた自由の道へ解き放ってやることだった。
「待っていますから‥」残して、紺の背広の姿を遠ざけていく弁護士を見送った村瀬は、喉の渇きを覚えて、千葉中央を始点に千葉駅まで伸びる通路型のショッピング・プロムナード脇の自動販売機へ歩き出した。平日日中の、周辺の通行人は平均年齢が高かった。
居酒屋などの飲食店、リラクゼーションサロンの壁面看板が貼られたプロムナードの壁の前に、みすぼらしい姿をした一人の男が体育座りで座っている姿が目に留まった。自販機でペットボトルのスポーツドリンクを買い、それとなく見たその姿に、忌まわしさを感じた。
男の髪は薄いが、その生え方と、横顔の造りに鮮烈な見覚えがあった。服装は上がセーター、下が黒いジャージのズボンで、裸足の足にサンダルを履いている。体からは筋肉が落ちていることが冬服越しにも分かり、せわしなく瞬く、眦の落ちた目はおどおどと左右、上下をさまよい、端の垂れた口は悲しげにつぐまれている。
見覚えを確信に変えた村瀬は、買ったドリンクを手に、敷いたビニールシートの上に座る男の前に立った。残忍な気持ちが胸に沸き起こっていた。
男の前には、色で十円、五円と分かる硬貨がほんの何枚か入った佃煮瓶と、ブックスタンドで立たされた紙の挟まれたバインダーが置かれていた。
生活に困っています。電気、ガス、水道が止まり、お金がもうなくて、ご飯が食べられません。少しでもいいので、恵んで下さい。お願いします。と、黒のマジックで書かれた文が、惨状と言っていい窮状を訴えている。
「あの、お金‥」十六年の時を経て、村瀬と奇遇な再会をした江中は、目の前に立つ男が、あの時、自分があの家から追い出した主人と知ってか知らずか、足許の小瓶を取って差し出してきた。
「久しぶりだな、江中。俺が誰だか分かるか」村瀬が言うと、力無く弛緩していた江中の顔に、少しづつ驚きが拡がっていった。
「すぐに思い出せないなら、こっちから名乗るぞ。俺はあの時、お前に嚇されて、あの八木ケ谷の家と、奥さんと子供をお前に明け渡して逃げた村瀬だ。お前が忘れても、俺は忘れはしない」
村瀬の名乗りと顔見せを受けた江中は、ああ、と小さな声を喉から上げ、座った体を後ろへいざらせた。
「俺の顔なんかはともかくとして、あの家で俺の子供にやったことまで忘れたとは言わせないぞ。俺の娘は、お前と、お前の遊び友達に犯され続けて、お前も、息子も、俺の妻も知らない所で、子供を自分で堕胎したんだ。幼い子供の体でな。その地獄が、娘の人格形成を普通じゃない道へ追いやった。それで道を踏み外していったんだ。今、これを聞いてどう思う。これを聞いても、今のお前の頭にあるのは、目先の金のことだけか。どう思う、江中」
村瀬の問い詰めに引きつった江中の顔に、やがて追従するような笑いが浮かんだ。
「その、あの時のことですよね。家の前で言い合いになった‥」江中はおもね笑いのまま、ずれた弁明を試み始めた。
「すみませんでした。あの時は、ちょっと言い過ぎたと思ってますから」村瀬は自分の眉が急な角度に吊り上がったことが分かった。
「それだけか」村瀬が問いを投げると、江中の顔から笑いが引き、言われていることが分からない、という体の表情になった。
「それだけなのか! てめえに言える詫びは!」怒号した村瀬のキックが江中の胸に飛んだ。江中は空えずきのような声を上げて後ろへ転倒した。コンクリートに打ちつけられた後頭部が鳴った。
裏声の悲鳴を撒いて、体をよじって逃れようとする江中の背中と脇腹に、さらに一発づつのキックが抉り込まれた。重く籠った肋骨の鳴る音と、火が点いたように起こった江中の泣き声が交差した。
内臓を庇うように体を丸め、高く伸びる泣き声を漏らす江中の顔に、村瀬は革靴の踵を踏み当てた。
「安心しろ。殺しはしない。それは俺が仏やキリスト様だからじゃなくて、お前みたいなボウフラには、あっさりと死ぬことは似合わないことが分かってるからだ」江中の顔を踏みながら言葉を落とす村瀬の周りに、人の集まる気配がした。立ち去るまでの短い時間に、言うことを言わなければならない。
「その貧相な命を、物を食うことで繋ぎたければ、市役所の総合案内所へ行け。そこで、水も飲めないと言って泣けば、ボウフラや蛆虫や、糞にたかる金蠅にも最低限の文化的生活を送る権利があるという考えを崩さない職業的考えに基づいてやってる課に案内される。そこの審査が通れば、あらかじめ贅沢が出来ないように設定された額の金が毎月支給されて、税金は免除で、医療費もかからないけど、担当の窓口の職員から、働け、働けとせっつかれる日々が始まる。それで毎月赤字に悩む暮らしを送れば、金っていうものを一つの威力だと思って疑わなかったお前みたいな奴でも、何かを学べるはずだ。何かをな」村瀬は言って、泣く江中の頬から踵を離した。
「それ以後のお前の人生がどうなるかは、一切がお前次第だよ。ボウフラらしく、不様な姿と顔を提げて、これからもその無駄な命を虚しく消費しながらおめおめ生き恥晒して、一人でよぼよぼ老いていけ。それで独りで死ね。今の俺がお前に言えることはそれだけだ」
歪んだシートの上で体をすくめて女々しく泣き喚く江中を見下ろしてから、村瀬は背後、周りを振り返った。何人かの通行人が足を止めて遠巻きに見ている。お互いに公休日を合わせているらしい、手を繋いだ、美しいルックスにお洒落な服装をした若いカップルが不安の視線を送っている。
村瀬はそれらの人々をさっと見遣ると、ボディバッグから財布を出し、千円札を一枚抜いてしゃがみ、二つ折りにした札を小瓶に入れた。
やがて村瀬は、泣き続ける江中、不安を顔に浮かべた通行人達を振り返ることなく、千葉駅の改札へ歩を向けた。
後ろから背中を打つ江中の号泣が、絶望に満ちたこれからの人生を思ってのものなのか、被害を与えた相手から温情を受けたことによる感激からなのかは村瀬には分からなかったが、どちらでもいいことだった。憑物が落ちたように、江中のその後などへの関心的なものが取り払われた気分で、駅へ足を踏み出した。一瞬だけ振り返ると、小銭に続いて、村瀬の手で一枚の千円札の入った小瓶が、ただ静物画のような印象を残しているだけだった。
義毅のお陰もあり、全てを返礼出来たという思いだけが静かに胸に染みていた。それだけだった。
~剥離する爪~
江戸川区の市川寄り、橋の掛かった河沿いの一角に、身を隠すように点と建つ木造家屋だった。タイル張りの門柱には「パンダ事業所」という小さな看板が接着されて貼られている。脇の駐車スペースに義毅がソアラを停めたのは、十四時前だった。
停めてある車両には、派手な装飾とペイントが施された中型スクータータイプのバイク、黒のワゴンが目立った。
ソアラを降りた義毅の顔には、半分の覚悟と、半分の余裕が滲み出ている。玄関へ向かう足取りは軽かった。
チャイムに指を当てて鳴らすと、三十秒ほどして木製ドアが開き、小山のような体躯を持つ、目の大きな男が出た。男は愛想なく小さく頷いて、義毅の通る空間を開けた。
曇りガラスの嵌め込まれた室内扉の向こうからは、昭和、平成と続いたが最終回を迎えて久しい昔話アニメの、動物の子供が人間の子供を羨望するエンディングテーマが流れている。
ここへ直に呼ばれるということは、重大な指令を受けるか、あるいは処罰かのどちらかを意味する符牒だが、義毅は肚を決めている。
小山のような男は多田(ただ)と呼ばれているが、本名は、少なくとも義毅には知らされていない。
短い通り廊下の壁には、カレンダーと、スタッフと利用者が収まった集合写真が掛かっており、義毅はそれを何ということなしに眺めた。利用者が作成した布製品なども飾りつけられている。
建付の悪い扉を多田が開けると、四人程度の、男ばかりの利用者達がアニメソングをバックに、テーブルに盛られた缶のプルタブを剥がす立ち作業を行い、それを三人の、同じく男のスタッフが監督している様子が目に入った。
スタッフ達はいずれも傲岸な目つきと態度で、まだ幼さが残る年齢程の利用者達は萎縮し、作業の手つきもぎこちない。手の動きには震えが見える。
テーブルの上座に立っている、脊柱側弯で背中の曲がった壮年男が、入ってきた義毅を見て、おう、と発語する形に口を開き、義毅は軽く頭を下げた。
「かくしかじかの事情は堀川(ほりかわ)の奴から聞いてるよ。おめえは頭の切れも腕もピカイチの稼ぎ手で、うちにはなくちゃならねえ人間だったけど、そうあっちゃ、引き止めるに引き止められねえからな。けど、ちょっくら呑んでもらいてえ条件があるんだ」木島(きじま)という脊柱の曲がった男は言って、隣の部屋に歩き出し、義毅と多田が追った。
カーテンが閉められた物置のような隣の四畳では、若者が正座で座らされ、一人の男が後ろに立ってその髪を軽く掴んでいた。小柄なその若者は、薄いウールのセーターに膝上までのスカートにストッキング、顔にファンデーションにルージュを挽いた女装姿で、剥ぎ取られたロングヘアのウィッグがそばに落ちている。若者はタオルらしい白布の猿ぐつわを噛まされて声を封じられている。
義毅はその若者を知っている。自分の所属する「東京グループ」の正式なメンバーではないが、詰所に出入りし、内部の仕事を手伝って小遣いを稼いでいる自称大学生。人懐こく、与えられた小間使い仕事はいじらしいまでに一生懸命にやるが、称する在籍大学の校名がころころ変わることから、どうも天婦羅らしい。
「こいつがどうかしたんですか」「どうもこうもねえよ」木島は舌打ちした。
「今朝早くに、沖縄のチケット持って羽田にいるとこを、安田と中村がふん捕まえたんだ。見ての通り、こんな白々しい女の恰好なんかしやがってな、上がりを猫糞して飛ぼうとしてたんだ。こんなもんがまかり通ったら、示しがつかねえってもんだろ」木島の声が這うように低くなった。
「こんな奴、一発クンロクぶっ込んで叩き出しゃそれでいいんじゃないすか」義毅が言うと、木島の眉がぴくりと吊った。
「馬鹿言うな。うちの掟は下々にまで行き渡らせなきゃならねえはずだ」「そうですかね」「決まってんだろ。言っとくがな、今の時点じゃ、お前はまだうちの人間なんだぞ」木島は言葉を強調して、瞼の落ちた目で義毅を睨んだ。
隣の作業部屋から聴こえるBGMは、いつの間にか国民的猫型ロボットのオープニングテーマに変わっていた。よく知られたサビに、ちんたらこいてんじゃねえぞ、こらぁ! ぶっ殺されたくなきゃ、とっとと進めろ、こらぁ! という怒声が交わった。
「じゃあ、どうすりゃいいって話ですか」義毅はとぼけて尋ねたが、木島、多田、若者の髪を掴んでいる男の目と、口の結び具合で、命じられようとしていることは充分に察していた。
多田が隅の小箪笥に歩み、二番目の引き出しから、先端の尖った小さな道具を取り出した。
義毅に差し出されたそれは、一本のアイスピックだった。
「肋の間から心臓だ。それなら返り血も浴びねえからな」さも日常のことのように木島が言い捨てると、女装の若者は、ひい! という悲鳴を放った。
「俺がばらしの働きはやらねえことは知ってるはずじゃないすか」「四の五の言うな、荒川‥」木島の目に酷薄な光が灯った。
「俺にもガキはいる。フィリピンの女との間に出来たんだがな、遅くに生まれた奴で、目に入れても痛くねえぐれえ可愛い。その気持ちが分かっからこそ、おめえが足抜けすんのを応援してえまでよ。けどな、抜ける奴ってのは爆弾なんだ。お前の口が堅えことは分かってる。さらわれて拷問(ぶり)食らっても、警察(デコ)の柔道場でも音を上げねえで、俺達の掟を守り抜いたんだもんな。それに感謝してっからこそなんだよ。言ってみりゃこの相互不可侵条約に調印してもらいてえのはな、何があっても、この組織のことは外部には漏らさねえ。それを忠誠したって証が見てえんだ。出来るか。出来なきゃ‥」
木島の言葉は、隣室からの「本当に殺すぞ、このヌマ野郎」という声に搔き消された。
「‥ペンチかニッパーありますか」沈黙を先に破ったのは義毅だった。その問いを聴き取ったらしい女装の若者が上体をがたがたと大きく痙攣させ、やめて! と聞こえる声を猿ぐつわの奥から上げた。
「ペンチかニッパーありますか」義毅は同じ問いの言葉を、声量を上げて繰り返した。多田が作業場へ引っ込み、やがてののち、銅製の工具を持って戻ってきた。彼が一切の惨い事象を達観した顔で義毅の目下に出した道具は、柄の部分に滑り止めの黄色いビニールテープが巻かれたペンチだった。
それを受け取った義毅が女装の若者を見ると、彼は体の震えを激しくし、ぎゃあ、と泣き喚き始めた。義毅が手にしているペンチが、自分の体のどこをどう破壊するのかという恐怖を生々しく覚えたようだった。
木島も多田も、若者を留めている男も何も言わない。ここで今から展開される光景は、その絵、音、声の全てが身の毛がよだつそれのはずだ。それをごく静かに呑み込んだ顔で立っているだけだ。
薄壁越しに、作業場からの罵声、ただ威張り散らすだけの高圧的な指示が、場違いな児童向けアニメソングに混じって響いてくる。利用者達の声は全く聞こえない。みんな、かすかな声も出せないまでに萎縮しきっているのだ。ここの職員の誰一人として、福祉の倫理は元より、その知識もない。木島が拾った根からの怠け者や、ごろつき達があてがわれて、都が定めた最低賃金以下の給与で使役されている。利用者に渡す工賃などは小遣いにもならないような雀涙だが、助成金などはしかと受給している。
義毅は正座の形で膝を降ろすと、右手のペンチで、己の左手小指の爪を挟み、ほぼためらうこともなく、一気にその爪をこじ起こした。それから天井に向かって起きた小指の爪を、力任せに左右に揺すり、生え際からちぎった。
それから薬指、中指、人差し指の生爪がめりめりと剥がされてちぎられ、一枚づつが畳に舞い撒かれた。義毅が呻きとともに滴らせる脂汗が、量も粒も大きく畳に落ちて吸い込まれた。
親指の爪を剥離させ、ぶちりと引き抜いた義毅は、重く枯れた唸りを発し、右手からペンチを取り落として、血の涌き出す左手を押さえながら、畳の上に頽れ臥した。五枚の生爪は、レッドマーブルの貝殻のように畳に撒かれて散っていた。
若者の泣き叫びは、静かな啼泣に変わっていた。
体を丸めてうずくまり、顔を畳につけて唸り続ける義毅に、元締がどこか憤然とした視線を注いでいる。多田と、氏名不詳の男も無言のまま、あたかも日常生活の延線上にあるものを見るような目で彼を見ている中、木島が歩み寄り、脇に立った。
「さっさと出てけ。お前にはもう用はねえ」顔と体を脂汗で濡らし、波打つ背中から苦痛の熱を立ち昇らせる義毅に、木島が声を落とした。
義毅の呻きと唸りは続いた。秒、分がいくらか過ぎた時、目を赤く充血させ、汗で顔を光らせた義毅が、ゆっくりと顔を上げて木島を見上げた。
「‥木島さん‥いいっすか‥」義毅の喉から、がらがらとした震えを帯びた低声が懸命に絞り出された。
「‥こいつは‥何の考えもなしに‥憧れだけでこの道に足、踏み入れた‥ダボのガキっすよ‥」損傷していない義毅の右手の指が、顔を涙で濡らして洟を啜り上げている若者を差した。
「俺の‥この左手の痛みと引き換えに‥この馬鹿、助けてやっちゃくれねえすかね‥こんな奴‥ヤキ入れて追ん出す程度が妥当ですよ‥ばらしたとこで‥グループには何の恵みもないはずっす‥むしろ抱え込みことになんのは、り‥リスクじゃないすかね‥」
木島の頬が震えている。表情から読み取れる感情は怒りだった。
「これで‥勘弁してやって下さいよ‥人、ばらした手じゃ‥これから生まれてくる俺のガキ‥抱けなくなっちまうんで‥グル‥グループのことは‥この痛みに誓って‥一生どこにも、誰にも‥口外しねえっすから‥」
左手を押さえる右手の指の間から血を湧きたたせ、震える低声をひり出した義毅は、片膝を上げて、体を震顫させながら立ち上がった。畳に血が滴って落ちた。
「‥特に‥見送らなくていいっすから‥」腰を曲げた姿勢の義毅は振り返って言ったが、木島を始めとする男達は黙して、昏然とした怒気を溜めた視線を義毅に当てるだけだった。
血にまみれた左手を右手に握った中腰の義毅は、四畳の部屋を出ると、変わらずアニメソングが流れている隣の作業場へ行った。
おどおどとした顔に諦念を刻んだ利用者達の間に立っている職員達が、一斉にじろりと義毅を見た。
「‥物が言えねえ奴ら虐める根性持ってっと、いつか必ず、てめえが同じことされる立場になんぞ‥」三人の職員の顔を順繰りに見て残した義毅は、体を返して玄関へ向かった。
運転席に潜り乗り、握ったソアラのハンドルも血に汚れ始めた。白濁した思考の奥から、すでに博人を通して耳に入っているであろう恵梨香の出奔に、父親である兄はどういう反応をきたしているかという思いが涌いていた。
~命の役割~
津田沼へ向かう昇り線の中で、ボディバッグの中に収まった村瀬の携帯が何度もバイブした。確認すると、急を要している相手は八千代の家であり、博人で間違いない。
津田沼で降りた村瀬は、駅の騒音を避けるために、スイカをタッチして構外へ出て、喫茶店や中華料理店の並ぶプロムナードの一角へ移動して折り返した。
博人の応対は思ったよりも落ち着いたものだった。落ち着いた口ぶりで、恵梨香が家を出奔したことを淡々と伝えてきた。先日置いてきた金は、まだいくらか残っているとのことだった。村瀬は今からそちらへ行く、とだけ言って通話終了ボタンを押した。
綺麗に整理整頓がされた高津の家で父親を出迎えた博人の顔色に動揺はなかったが、昨日までいた人間がいなくなったことによる若干の落ち込みは覗えた。それは叔父の縁で生活と人生に希望が挿した矢先に、それを自ら振り落とす選択をした姉への落胆と見えた。リビングのテレビは、主婦向けのエンタメ午後番組をボリューム低めに流している。
博人が、見て、と言って、一冊の便箋の切り取りを村瀬に渡してきた。
お父さん、博人、それとお母さん。私はここを出ます。どうしてかは、そっちも知らないはずがないと思います。ここにいる人達の中には、私が心で望むものを与えられる人が、誰もいないからです。だから、私を知ってる人がいないところへ一人で行きたい。何年か後に連絡するかどうかは分かりません。それは私の心次第です。恵梨香
置手紙を手に取って文面を読んだ村瀬は、行動はともかく、家族に向けて普通レベルに礼節を払っているその内容に救いのようなものを見出した。態度として、先日の女チンピラ然としたものからは考えられない。字が上手いことも相俟って、心の変化が感じ取れるが、わずかな金を持ち、これからどこへ行ってどうするつもりでいるのか、こればかりが心配の念を抱かせる。
読み終えた手紙を置いた村瀬は恵梨香の部屋に入った。エンブレム、ナチ式敬礼をするドイツの群衆の天然色写真が額縁に入って掛かった部屋には、鉤十字のバッジ、ヒトラーの横顔がプリントされたワッペンが付いた黒の革ジャンパーが、ハンガーでカーテンレールから吊るされていた。自分が染まっていた思想を主張する服は着けていかなかったと見えた。
「お金はいくらくらい持っていったか分かるか?」リビングに戻った村瀬に問われた博人は、きょとんとした表情を変えなかった。
「今残ってるお金、一万円とちょっとだから、何千円とかしか持ってかなかったんだと思うよ。朝起きたらもういなくて、この手紙が置いてあったんだ」答えた博人の顔には落ち込みが見えたが、彼の昼夜逆転の生活が改善されたらしいことが見て取れたことが、村瀬には嬉しかった。
自分を知る人のいない所へ行く。これは祖父母が存命かも分からない母方実家や、友人類の許へは行かないということを表している。この先どうやって金を得て、宿を確保する気でいるのか。それとも路上か。それらを選んだ先に、命そのものがあるのか。
心配の念が起こる中、見出せる救いがあるとすれば、ナチの恰好で出ていかなかったことか。
「まどかさんにも連絡したよ。だから、義毅叔父さんもこのこと知ってると思う‥」「まどかさん?」「叔父さんの、これから奥さんになる人。社会福祉士なんだ。叔父さんから聞いてない?」「聞いてるよ」村瀬は言って、博人の頭を撫でた。博人ははにかむこともなく、それを受けた。
義毅に依頼し、彼の情報網で探し出そうという考えがよぎったが、村瀬はそれを打ち消した。恵梨香は子供の時分にその身を襲った忌まわしいことに翻弄されるがままに、ネオナチに居場所を求めたが、今の彼女はそれを棄て、自分で考えて足を踏み出した。その善し悪しは、自分で判断するしかない。
心配の気持ちがないと言ったら嘘になる。だが、それでも長い目で見て、想ってやるしかないという思いに、村瀬の心が傾いた。
「博人。もう一つ、大事なことを話さなくちゃいけないんだ。聞きなさい」父親の言葉に、博人はあらかじめ分かっていることを聞く準備が出来ている、という風の表情を見せた。
「今日は弁護士と一緒に、千葉の拘置所へ行った帰りなんだ。お母さんの、借金の自己破産手続きは終わった。それで借金はなくなる。だけど、お母さんは、刑事担当の弁護士をつける意思はない。つまり、これから刑務所に収監されることになるんだ。刑期は半年以上、一年未満だ。お母さんが出てきた時、お前は受け入れて、迎える気持ちにはなれるか?」
父親から問われた博人は、目を伏せて黙り込んだ。まだ答えられない。落ちた瞼にはそんな思いが見取れた。
「恵梨香がいつか戻ってくるか、それとももう戻らないかは、まだ分からないよな。だけどどっちにしろ、あのお母さんはお前達とは離さなくちゃいけないとお父さんは思うんだ。何故なら、女ではあっても親ではない人だからだ。その辺りは、お前も長く一緒に暮らしてきたから、分かってるよな。母親としての自分を持つことなく、子供よりも男を選んだわけだから。それでお前達に地獄のような苦しみと悲しみを与えて、傷を負わせたことを今も反省する様子も見せない。戸籍上はお前達の親だけど、そういう人じゃないか、あの人は」
村瀬が博人の肩を抱いた時、テレビ画面上部にニュース速報のテロップが表示され、九日に千葉市内の居酒屋チェーンで発生した射殺事件、氏名不詳の容疑者黙秘のため、捜査に進展なし、と出た。
「またもう一つ、知らせることがある‥」村瀬が言うと、父親に肩を抱かれた息子は、何かの奇跡を期待する顔で見上げた。
「恵梨香をレイプして、お前を悲しませて苦しめたあの男が、千葉で物乞いをしてた。お父さんは今日、奴をしっかり成敗した」村瀬の肩に収まっている博人の目が驚愕に見開かれた。
「親から相続した財産に飽かせて無職で暮らしていたあのボウフラ野郎は今、その金を根こそぎ失って、電気もガスも水も止まった家で、闇に怯える生活を独りで送ってるんだ。博人、これが本当の因果応報、自業自得だ。こういうものなんだよ。お前達が強いられた悲しみと苦しみと、それと悔しさを、今日、あいつの体に返してきたよ。あいつはこの先、普通の人生は送れない。子供というものを守るものではなく、自分の欲望を満たすためだけにあるものだっていう狂った糞野郎の考えの在りようが、全部返ってきたんだ。全部な」村瀬は抱いた博人の肩を叩いた。
「籍を戻して、お父さんと暮らさないか」村瀬は、肩の中の息子に優しく言葉をかけた。
「恵梨香の携帯にその旨の伝言を入れておく。あいつが戻る気になった時には呼び寄せればいい。それでお前は、お前に無理のない職場なり、就労継続支援事業所なりを見つけて、実籾の俺の家から通えばいい。この家は義毅が自腹で直してくれたから、原状回復費を取られることもない。だから、安心して次の店子さんに譲れる。不安な一人の暮らしより、こっちのほうが断然いいだろう?」
村瀬の腕に抱かれた博人の肩が上下に震え始め、声を殺した泣き声が上がった。長く自分を苦しめていたことがようやく終わりを見、心に負った傷がゆっくりと癒えていく日々を迎えることが出来た喜びに哭く博人の背中を抱きながら、今、お互い同意の上でディスタンスを置いている菜実のことを想った。クリスマスイブに会い、また肌を重ねようと決めた。
上着は、母親のピンクのジャケット、下は紫色をした幅広のパンツ、頭にはニットという恰好で、巾着バッグの中には何枚かの下着類、間に合わせの生理用品を詰めて、朝に家を出た。所持金は一万円と少しだった。
まず、船橋に出て、コンビニのお握りとお茶の昼食を交え、あてなく街をぶらついた。どこへ行くと決めて出たわけではなかった。
街を行き交う個性雑多な人を見て、自分との違いというものを考えた時、自分はなるべくしてこうなった、という思いばかりに結論が落ちた。そこから虚無が生まれ、晴れた空の下にいながら、その昏迷とした虚無に体ごと引かれていく思いになった。
陽が落ちた頃、あたかも身の回りの時間が停まったように、しんと静まり返った虚無の心地のまま、JRに乗った。
西船橋、下総中山、市川、小岩を過ぎ、新小岩で降りた。新小岩にあてがあるわけではない。下車駅を適当に選んだだけだった。
街の灯りが毒々しく感じられる駅前に立った時、辻の端々から暴力の気配を含んだ存在の気を感じた。だが、それは自分には全く馴染みのないものではなく、怯む気持ちも特に起こらなかった。
古めかしいアーケード街の近くにあるゲームセンターの入口を潜ると、別々のゲーム台が吐き出すプレイ音楽が不協和音となって耳に迫ってきた。客入りは多くないが、煙草の匂いが立ち込めている。煙草の脂に黄ばんだ壁には、新しいゲーム台の入荷を知らせるポスターが貼られ、世界各国の国旗が、壁を壁を結んで吊るされ、垂れている。外も中も、昔ながらのゲームセンターだった。
周りの客に何の関心も持つことなく、未来戦車を操作して、月面のようなフィールドでエイリアンの大群と戦うシューティングゲームの台に座った。
とりあえず、コインシャワーのあるネカフェに泊まろう。お金が尽きたら、路上で寝泊りしよう。自分のような者が、まっとうに働いて金を稼ぐことなど出来ないのだから。その手段があるとすれば、ウィッグを被って売春か、ポルノに出演することだけ。だから、それで行く。エイリアン達がビームに粉砕されていく画面を見ながら決めた時、限りない先行きへの絶望感が胸を覆った。
慣用句として使われる、信頼、信用とは何だろう。友情と呼ばれるもの、親子、男女間に芽生える愛情とはどんなものなのだろう。これまでの人生で、自分のそばに確かなそれらがあると感じたことは皆無だし、それがこれからの自分にあるとも到底思えない。
だから、本当の友達、また、恋人、家族を作ることが前提にある結婚生活というものも、自分には分からない。心のどこかでは、確実に手を伸ばしているそれらの「人並み」を確かに求めている自分がいたが、想えば想うほど遠ざかる。
その飢餓感を怒りに変え、弱い者達にぶつけてきた。母親へのそれは、復讐だった‥
それを認めたのは、プレイ画面がステージ2に変わった時だった。
エイリアン群が放つ光弾や槍状の発出物の攻撃をかわし、現れる敵達を倒し、ボスキャラと対面した。
よく見ていないために年齢程や容貌がよく分からない少数の客が、言葉もなく場当たり的な快感に身を任せる店内に、極めて若いが品のない高笑いが挿すように沸いた。若い女の声だった。
それに不快を感じて顔を上げて声のほうを見ると、幼く愛らしい面影を残す顔をわざわざ汚すような化粧をした少女達が三人、いた。原色を基調とした服のセンスは、激安量販店で調達した風なものをごてごてとまとい、ちぐはぐな印象がある。首から下がるチェーンが、さらに下品さを強調していた。
その中の、生え際の黒い金髪をした、ラインパーカー姿の少女と視線が合い、瞬のうちに威嚇と、半ばの訝しみの目線が宙で交わった。
目を画面に戻し、触手をゆらゆらと伸ばしながら、甲羅と口から吐いた光弾を漂わせるボスキャラをビームで攻撃した。
蟹とクラゲを足した外観をしたエリアボスが体中から爆炎を噴いて倒された時、もう一度目を上げてその少女達を見た理由的なものは、つい二週間ほど前の自分と通じるものを感じたからだった。
「あいつ、マジ超馬鹿。さっきから、うちらのことめっちゃちらちら見てるよ」人の蔑み方、嚇し方が、幼くしてすでに堂に入った早口の囁きが耳に入った。
「何か文句あんの?」囁きに横目を上げると、濃いファンデーションに頬紅、紫のルージュ、農茶の丸いゴーグルに紫のスーツ風上下を着た女がゲーム台の脇に立っていた。
無視して目を画面に戻し、ステージ3のプレイを始めると、ジャケットの襟首を掴まれ、引かれた。
「文句あんなら言ってみろよ。てめえ、何さっきから汚えもんでも見るみてえに、うちらのことじろじろ見てんだよ」女は恵梨香の襟を持って揺さぶりながら凄み立てた。
未来戦車が三面の敵の攻撃を食らって破壊された。満杯になったアルミの灰皿を両手に持った、赤いベストに蝶ネクタイの制服を着た店員が通り過ぎたが、暗く愛想のない顔をしたその男は、関することなく通り過ぎただけだった。
「ねえ、お前、身元どこ?」ゲーム台に片手を着いている、豹柄のジャージ上下を着、ライトブラウンの髪に長い付け睫毛をした少女が問うた。
「うちら、ここいら喧嘩で締めてんだわ。張るんだったら、うちらに納めるもん納めて、筋通してくんねえ? でねえと、目障りだからさ」
自分を棚上げし、この娘達を安臭く愚かしいと思う気持ちが沸き、それが無視という態度になった。相手は複数名だが、場合によっては己の手による死という選択も持って出てきた身で、さほどの怯みもない。血がしぶき、歯がすっ飛ぶ殴り合いの末に凶器が出てきて、それが自分に死をもたらすことも、もはやそれほどは怖くはないというその場の気持ちがあった。
自分の心は、十一年前、大人の男達の手で下着を剥かれ、口に何本もの、異様な臭いのする不潔な男根を捻じ込まれたあの時から、黒府へさらわれたままなのだ。
「こいつ、むかついたわ。表出ろよ。半殺しにすっから」少女達にジャケットの裾を掴まれて、引き立たされた。
恵梨香は三人の、中学生から高校一年くらいの年代顔をした少女チンピラ達に、アーケード街の奥にある、ポリバケツが三個並び、収納しきれていない生ゴミの袋と、出す場所を違えた酒の瓶や缶が転がるコンクリート打ちっ放しの空間に引きずられた。近くのパチスロ店からの音声が、鞣すように聞こえている。
「子宮と卵巣潰して、一生もんの女廃業の体にしてやんよ」真前に立った、最年長風のゴーグルの女が言った時、機先の先手を切った。
恵梨香の右ストレートが、びき、と音を立てて女の鼻柱に食い込んでいた。女は鼻を押さえて、大きく股を開いて転げた。外れたゴーグルが、コンクリートの路面に落ちた。
恵梨香は、女としてはわりと腕力はあり、喧嘩にまるで自信がないわけではない。仲の悪いユニオンの女メンバーと一対一で勝負し、先陣を切って蹴りを入れたこともある。だが、相手もゲットー育ちで、年齢こそ幼いながら暴力の数を踏み、嚇しも達者な者が複数揃っている。分がいいとは言えない。
豹柄ジャージの少女が、恵梨香の鳩尾にパンチを抉り上げ、体を折った彼女の顔面に、黄色いラインパーカー姿の少女が、キックボクシングをかじっている動きの蹴りをしなわせた。
恵梨香の体が、生ゴミ袋を載せたポリバケツの上に叩きつけられた。彼女の体に押されたポリバケツが二つ、ドミノ倒しになり、内容物がぶちまけられた。腐敗したゴミの汁でジャケットが汚れた。
「立てよ、こらぁ!」怒声とともにジャケットの襟を掴んで立たされ、ラインパーカーの少女から頬に肘を入れられ、豹柄が首相撲を取って、恥骨に膝を打ち上げた。
痛みに、全身から力が抜けた。大粒の鼻血が滴っていることが分かった。
組んだ両手の小指側を数回背中に叩きつけられ、息が詰まって膝から崩れ臥した。ゴーグルに紫ルージュの女がよろと立ち上がり、にじって寄ってきた。ルージュの唇を鼻血で縫った女は、憎しみを燃やした鬼相で、恵梨香の乳房を蹴った。たまらず、悲鳴が吐き出された。
仰向けに倒れた体に、幾発ものキックが入った。恵梨香は堅く閉じた目から涙を流し、泣き叫ぶ恰好に口を開け、それを受けた。顔を前腕で覆い、体を丸めて内臓を守った。
助けて! 恵梨香は自分の心が叫んでいることが分かった。
こんな所で、こんな年下の奴らに嬲り殺しにされる形で、まだ始まって二十年と少ししか経っていない人生が終わるなんて嫌だ! 私はこれまでの人生で、本当に嬉しかったこと、楽しかったことなんか、ただの一つもなかったんだ! それがどういうものなのか、経験的に、いや、概念的に朧としかにしか分からないからこそ、その気持ちというものを見てみたい、感じたいんだ! それを一度も味わうこともなく死ぬなんて嫌だ! お父さん! 義毅叔父さん! 西船で、電動車椅子のおじさんに絡んだ私を見て見ぬふりしなかったまどかさん! 私を助けて‥
その心の救難信号が、振り絞る号泣に変わった。誰かが助けに入る、または警察が来る気配もない。
三人が蹴り疲れたか、キックの暴風雨が止み、半身を引き起こされた。恵梨香は涙と鼻血を顔に交えて、大声で泣いていた。
「今さら泣いたって遅えよ。てめえ、うちらに喧嘩弾いたんだからよ」紫ルージュの女が鼻血を拳で拭いながら言い、懐から煙草を取り出し、咥えてライターで火を点けた。
「目ん玉焼き潰して、めくらにするだけで勘弁してやるよ」女が薄笑いを浮かべて言って、恵梨香の右目にオレンジ色の火が灯った先端を近づけた。顔を背けると、頭を持たれて正面を向かされ、指で目をこじ開けられた。熱が瞳孔に迫った時、恵梨香の口から父の名が叫ばれた。
「てめえの親父なんか来ねえよ」右目の視界がオレンジに染まったと思った時、その背後に、女が一人立った。
「やめなさい」優しく諭す声で女が言うと、少女達が我に返ったように振り返った。
グリーン色をした冬物のブルゾン上着に、紺のズボンを履き、手にトートバッグを提げた女が、後ろからゆっくりと少女達に歩み寄った。泣く恵梨香の目には、ブルゾンの胸元に刺繍された「(株)ケアプランニングユカワ」という勤務先の介護業者らしい社名、首から下がったネームプレートにある裕子、というセカンドネーム、自分の両親よりは少し行った女の齢顔だった。
「何だよ、婆あ‥」豹柄ジャージの少女が女ににじり詰め寄り、顔を突き寄せて凄んだ。
「相手はもう泣いてるのよ。数を頼んで、これ以上苛めるようなことは、人の道に外れることよ」「てめえに関係ねえんだよ、このタコ!」少女は女の下腹に前蹴りを入れた。女は腰を引いて、脚をがくつかせた。
「ここいらでうちらの気分害する奴は、みんなぐちゃぐちゃになって死ぬんだかんな! 長生きしたきゃとっとと消えろよ、この糞婆あ!」ラインパーカーの少女が、女の腿にローキックを入れ、腿の肉がぴしりと鳴った。
「邪魔だよ、てめえ!」ラインパーカーの少女が、悲しいものを見た顔で俯く女の頬に拳を入れ、かんと頬骨が鳴って女は大きくよろめいた。
「おばさんには関係ねえんだよ。こいつ、うちらの縄張(しま)で、うちらに許可なく粋って弾いてっからさ、今、けじめ取ってるとこなんだよ」紫ルージュが、殴られても倒れることなく辛く立っている女に向き直って言い、女は切とした顔で見上げた。
紫ルージュの手には、吸口の灰が伸びた煙草がまだ持たれている。女の目が、何かの意を決したように、その煙草に注がれた。
女が、紫ルージュの手から、煙草をつまみ取った。
「けじめとかだったら、私が取るよ。だから、この子を離してあげて‥」女は言いばな、火の点いた煙草の先端を、自分の左掌に押し当て、ぎゅっと握った。皮膚の焦げる音が、恵梨香の耳にも生々しく届いた。
今の自分は、西船で自分が仲間を従えて絡んだ、電動車椅子の人と同じ立場になっている。まどかさんもそうだけど、通りがかりで出会っただけの人間のために、ここまでのことをする人というものは。まだ恐怖が覚めない中、恵梨香は畏れて驚いていた。
女は口の端を縛り、眦を決めて、恵梨香の知識では計れない度数の熱を掌で受けている。こめかみに、汗が光っている。苦痛の呻きを腹の中に落としながら。
掌の皮膚で消した煙草を片手につまみ、脂汗に濡れた顔で、女は視線を移し移し、少女達の目を見、大きな息継ぎをした。
少女達は一人、また一人と後退した。全員女の目を正面から見ることが出来なくなっており、顔を横に、あるいは下に背けている。
ケロイドの、まどかの顔半分を目の当たりにした、あの時の自分そのものだった。
「人生には、あとからどんなにごめんなさいって謝っても、もう遅いっていうことがあるのよ。あなた達の若さだったら、それがまだ学べるよ。だから、そんな年齢で何もかもを諦めて、投げやりに生きるのはやめなさい」裕子(ゆうこ)というヘルパーの女は、激痛の中でも優しい口調を崩すことなく少女達に訴えた。
紫ルージュの女が顔を裕子に向けたまま、小走りに平井方面へと駆け出した。豹柄ジャージとラインパーカーが、後ろを振り返ることもなく続き、三人の荒み果てた少女の姿が消えた。
「大丈夫?」裕子は座り込んだままの恵梨香に寄り、両手を取った。濡れた顔でしゃくり上げる恵梨香の顔に、額をつけるようにして、顔を寄せた。
「ないんだ‥」恵梨香は言い、涙の筋の上に、また涙を伝わせた。
「私、帰る所がないんだよ。行く所もないんだ‥」涙と鼻血、涎でぬかるんだ顔を歪めて、恵梨香はまた泣いた。
曇った葛飾の夜空を仰ぐようにして、心底からの悲しさを搾り上げて呻き泣く彼女の肩を、隣に回った裕子がそっと抱いた。
「私の家、市川なの」やり切れない絶望と悲しみの中に、恵梨香の耳元で囁かれた言葉が、計り知れないまでに温かく響いた。
「娘と二人暮らしだけど、私の家、部屋が一つ空いてるの。あなたがよかったら、今日からしばらく、そこで寝る?」
初めて聞くような言葉かけに、恵梨香は哭きながら、裕子の顔を見た。小太りで、頬の肉が多い福々とした輪郭だが、至近距離で見る目には、過去に修羅を踏んだ者ならではの、鋭い威圧感があった。それに圧倒されながら、恵梨香は一寸のちに頷いた。近くのパチスロ店からは、ラッキーセブンを叩き出した台のアナウンスと、メロコア系ロックのBGMが、裕子と恵梨香の光景などまるで他所のこと、といった風に流れ、聴こえ続けていた。
痛みは依然としてあるが、薬局で「薬剤師」のネームプレートを下げた男の店員を急かして買ったロキソニンにより、いくらかは、と言える程度には引いていた。こんこんと沸き出す鮮血をハンカチで押さえながら、パンダ事業所から最も近い薬局で調達した消毒液、ガーゼ、包帯、メディカルテープで、五枚の爪を自ら剥いだ左手を車の中で自力で手当てし、二時間ほど唸った。
そののち、東京外環自動車道を飛ばして江戸川区から古和釜町を目指し、蛇行加減のソアラを走らせた。
なお、リアシートには、耳の揃った三百五十万円の入ったトランクが置かれている。
船堀で二時間呻いたことに加え、駐車可能路側帯で時折ソアラを停めて休んだため、古和釜町には十八時過ぎの到着となった。
グループホーム合歓の外壁沿いにソアラを停め、損傷していない右手にトランクを提げ、足を引きずるようにして外門前まで移動、チャイムのボタンに指を載せた時、ドアが開いた。出てきたのは、顔を知る利用者だった。
トレーナー上下姿の利用者は泣き顔で、高い悲鳴のような声を上げていた。
「どうした‥」義毅は言って、利用者の小さな体を抱き留めた。開いたドアの向こうからは、何かの断末魔のような叫び声と、内容の聞き取れない怒号めいた声が聞こえた。
義毅は、自分の肩までの身長をした利用者の背中を腕に抱きながら、屋内に入った。叫びと怒声は、リビングから聞こえる。
曇りガラスの嵌め込まれた引戸の前に立つと、床に寝た一人の利用者の上に、社長の増渕が馬乗りにのしかかり、その青年の首を両手で締め上げている光景が目に飛び込んだ。その周りには別の男の利用者が二人立ち、自分達にはどうにもしようのないものを見るように、それを眺めている。
テーブルの上には、肉の炒め物らしい食事が並んでいるが、麦茶のポットが横倒しになり、中身が流れ出して、食器の底を浸している。利用者が間違えてこぼしたのか、それとも故意にやったいたずらなのかは、義毅には分からない。
「死ね! お前なんか死ね、この野郎、畜生!」増渕の口から罵声が撒かれ、利用者は赤く染まった顔をしかめて苦悶している。
「てめえ、何やってんだ!」義毅は駆け寄り、増渕の襟を掴んで、彼を利用者から引き剝がした。義毅を見上げた増渕の顔に、水を打たれたような驚きが刻まれた。
「馬鹿野郎!」義毅の右拳が、座位の増渕の頬を打った。増渕は義毅の姿が目にも入っていないような様子で上体が床に薙ぎ倒され、やがて、心ここに在らずといった顔で、下から義毅の顔を見た。
増渕の手が喉から外れた利用者の青年は、先までのことがなかったかのような顔で天井を仰いで見ている。増渕は倒れた体を起こすと、先の非態はいずこへ、といった虚無感の漂う表情で、リビングの隅に視線を投げ遣った。
「今、てめえがやってたことが、どういうことだか、お前分かっか‥」義毅は精魂尽きたように座ったままの増渕の脇に回り、ゆっくりと言葉を落とした。
「金を返しに来た‥」義毅は足許のトランクを右手で開けると、フローリング床の上に、左手を使用せずに、右手のみを使って、中身の三百五十万の札束を一つづつ置いていった。
「耳は揃えたつもりだ。足りなきゃ、電話で文句言ってくれ」義毅が札束を右手で指して言うと、増渕の驚いた目が、札束と義毅の顔、所々血が滲む包帯の左手に順番に注がれた。
「お前、こいつらを可愛いって思う心、これまでいっぺんでも持ったこと、あっか?」義毅は、床に横たわったままの青年から、今だ呆然と立っている三人の利用者を見回しながら、座り込んだ増渕に問いかけた。
「あの女の子のホームは、俺との約束守って、人を入れ替えたんだよな。こいつは陰から確かめたよ。けど、このホームと、お前自身は何も変わっちゃいねえ。こいつが麦茶こぼしたことに、そんなに腹が立ったのか。こいつらに普通の人間並みのことをやらせようとしても出来ねえのも、こういう奴らが言うこと聞かねえのも当たりめえだろ。昨日今日この道に入った人間じゃあるめえし、そんなことが分からねえはずもねえはずじゃねえか。こんな真似して、あとがあると思うのか」「あんたなんかに分からないよ!」座って項を垂れていた増渕が顔を上げ、荒らげた声と言葉を義毅にぶつけた。
「俺はこの二年間、一日も休みが採れてないんだ! 二年前、右腕としてきた人に辞められてから、ずっとここに泊まりっ放しで、ホームの環境整備も、身体介助も、服薬管理も、感染対策も、クレーム処理も、何から何までずっと一人でやってきたんだ! 俺のやったことが外れたことだったら、あんたは何だ。あんただって、ウェルビーイング・トータル・コンサルティングなんていう嘘の看板掲げて、他人の弱みにつけ込んで、それを飯の種にしてるやくざじゃないのか!」
「そら、大丈夫か‥」義毅は増渕の言葉には答えず、自分のされたことも分からないような顔で天井を仰いでいる利用者の青年の手を取り、背中を腕に抱いて抱え起こした。体が座位になると、口から唾液が一本の筋を引いて垂れた。
「物事を全部一人で抱え込もうとすっから、こういうことになるんだ。お前は分かってねえ。会社を回すってことも、こういう障害者って呼ばれる連中のことも。ここを立ち上げてから八年とかって言ってっけど、はなから何を考えてこれを始めたんだ。余計なことを外でしゃべらねえ重い奴らを商品の陳列みてえにただ置いて、社長、社長って持ち上げられて、いい顔がしてえって動機だったのか。それとも、こういう奴らを金に換わる商品にしようと思ったのか。こんなことになったのは、そもそもその中身が最初から馬鹿げてっからだろうが。それじゃ人が離れてくのも当然だろう。違えのか」
ただ座って俯いているだけの増渕の肩と背中は、荒い吐息とともに震え、上下している。最も見られたくなかった醜態を、一番見られたくない人間に見られたことの焦燥が、その姿に滲んでいた。
「お前はこれをやりたくて始めたわけじゃねえし、これまでだって、好きでこれをやってきたわけじゃねえんだろ。本当のこと、話せよ。場合によっちゃ助言もどきも出来っから。返した金ん中から、相談料とかを取る気もねえよ」義毅の言葉には若干の優しさがあるが、声、口調は枯れた迫力を帯びていた。増渕が伏せていた顔をゆっくりと上げた。その顔には、まだ怒りの気があった。それが数寸の時間ののちに悲しみのものになり、彼はまた目を伏せた。
「聞いてくれ。俺は大卒だって言ってたけど、本当は高校中退なんだ。それも二ツ橋付属。あの、偏差値七十台の進学校‥」増渕はぽつぽつと話し始めた。
「二ツ橋へエスカレーター進学して、あそこで生物の研究をやりたかったんだ。やるはずだったんだよ。それが二年の初めに、存在しない人間が自分をからかう声が聴こえるようになって、いないはずの動物の姿が見えたりするようになってね。それで精神科病院を受診したら、統合失調症だって。古い病名の精神分裂症‥」
増渕の横顔には、これまで誰にも打ち明けるべくもなかったことをようやく打ち明けることの出来たことによる、心の晴れ間のようなものが覗い見えた。
「それのために、小学校から付き合ってきたような友達もみんな離れていったよ。お袋は、ただ家の評判に傷がつくことだけを恐れるだけだった。兄貴は無関心だった。親父は怒って、俺が精神科から処方された薬を捨てたんだ。こんな病気は精神の弱い奴、怠け者がなるものなんだ。こんな人間はうちの血筋からでたことはないんだ。うちの男児だったら、根性一つでそれを蹴散らしてみろ、とかって言われてさ‥」
義毅は増渕に目を据え、腕を組んだ。
「親父は高校、大学と空手部で鳴らして、大学じゃ主将だったんだ。そこから体育会乗りの不動産会社に就職して、飛ぶ鳥を落とす勢いで営業成績を伸ばして、二十代で課長に上り詰めた人だった。それで正義感が強くてね。だから、物事ってものは、基本的に根性、精神で埒が明くっていう考え方に凝り固まってた。去年にガンで死ぬまで。精神じゃ、ガンには勝てないことが分からなかったわけでもないはずなのにね‥」増渕は瞼を瞬かせ、洟を啜った。
それをぼんやりと見ている二人の利用者、座ったままの青年には、今、自分達の世話人が語っていることの半分も理解出来ていないだろう。
「そんな親父に認めてもらおうと思って、俺は高校をやめて、まず、百貨店の電化製品屋に就職したんだ。だけど、薬がなくて、症状が日に日に悪化する中で、ケアレスミスを繰り返して、上司や同僚から罵声を浴びせられながら頑張ったんだ。半年目に解雇されるまで」 増渕の声色には恨みが籠っていた。
「そのあとは、休む間もなく、二百人あまりを収容する特養に就職したんだよ。働きながら、介護福祉士の資格も取ったんだけど、そこでも仕事がなかなか覚えられなくて、入居者を危険にさらすようなミスを連発して、毎日施設長や主任から怒鳴られて罵られたよ。それでも、やっと親父から飲むことを許された薬を飲みながら、十四年勤めた。十四年だよ。一生みたいな長い時間だったよ。本当に‥」増渕はこぼれた涙を手の甲で拭った。
「さっきも訊いたことかもしんねえけど、ここを立ち上げた時の初心は何だったんだよ」義毅の問いかけに振り向いた増渕の赤らんだ鼻が鳴った。
「雇われて、他人に使われる仕事でものにならないんだったら、自分で事業を始めようと思ったんだ。だけど、自分以上に一人前の人間を雇って使うような自信がなかったんだよ。だから、知り合いのつてで集めた人だけを、これまで雇ってきた‥」「おい、その自信がないなんてのは、今のお前の立場じゃ禁句の言葉だぜ」義毅の投げに、増渕はその顔にはっと何かに気がついた色が浮いた。
「いきさつとか、お前が抱えてる事情がどうあっても、今のお前はこいつらの命そのもんを預かってんだぞ。それの意味を、この先何度でも考えていかなくちゃいけねえはずだろう。今、ここにいるこいつらの誰一人として、てめえだけじゃてめえの身の安全、権利や財産を守れねえんだ。お前の仕事は、そのこいつらの命や尊厳を守り抜くことのはずだろう。そいつが出来なきゃ、この立場がお前のかっこつけだって言われても何も言えねえはずなんだ。そんなことで、この先もこいつらを守っていけるのか! お前が定年の齢になる頃、この会社を残して、後進に引き継ぐことが出来んのか! いい加減に分かったらどうなんだ!」
増渕は顔を俯け、流れ出る涙を拭い続けた。万年のように続いた冬の雪がようやく溶け出したという涙だった。
「いいか、命だ」義毅がアクセントを強めると、増渕が声を呑み込んだ涙の顔を上げた。
「初心がどうだって、ここを興した以上は、お前の命はこいつらのためにあるものなんだ。その命は、常日頃からてめえでメンテナンスしてねえと、命がある意味を失うんだ。だから、金を惜しんでる場合じゃねえ。使い物になる人間を雇え。それでそいつらを経営者の立場からしっかり仕切って、お前の週休もきっちり採れるようにしろ。それが出来なきゃ、お前は駄目なんだ。本当に駄目だぞ‥」
義毅は刺して、空のトランクを右手に持つと、まだ座り込んでいる青年の頭を撫でて、玄関へ踵を返した。
「これまでは、ここには何の中身もなかったはずだ。でも、今、俺が言ったことをちゃんと受け入れりゃ、ここにも命が宿るようになるよ。そうなりゃ、変わるんだ。明日の景色ってもんが‥」
残して、玄関でブーツを履く義毅を、増渕がゆっくりと追ってきた。「教えてくれ」増渕は義毅の背中に声を投げた。
「うちから巻き上げた金を返してくれたのは、どうしてなんだ」「一時預かりの保証金を返したようなもんだと思ってくれ」義毅の答えに、増渕は濡れた目を丸くした。
「通院と服薬をやめるな。それで、医者から言われたことは守れ。それで落ち着いた頃に婚活でも始めりゃいいだろう」義毅は言い、玄関を出た。増渕の左右には、先まで義毅とのやり取りを見ていた二人の利用者がやってきて、立っていた。
合歓を出、とっぷりと暗くなった古和釜の空を見ると、雲の間に星が見えた。
目の前の歩道を、母親に手を引かれて歩く小さな未就園児の女児をそれとなく目で追いながら、自分の発した虚無、という言葉を、頭の中で虚業と言い換え、よじった笑いを吹いた。
長く続けてきた恐喝師という渡世に、今日の日に自分で幕を引いたが、これからどうするかについては、さしたる憂いも感じてはいない。浄水器の卸売業を拡大させることもありだが、別の商売を興す算段もある。それはこれまでの収入源を資本とするが、そうすれば、裏道で稼いだ金にも命が吹き込まれると思う。
スマホには、「天ぷらとまぜご飯作って待ってます。あと、妊婦にも性欲あるので、今日はお情けをいただきたいんですけど、いいですか?」というまどかからのメールが入っていた。それをチェックした義毅は、J―POPの「オリオン」を口ずさみながら、雲間の星を仰ぎ、これからまどかと住む家のことを想った。
左手の痛みはまだ疼いている。まどかはワンコールで応答した。
「糞、まだ痛え‥」「どうしたの!」義毅の送った第一声に、まどかは心配の反応を返してきた。
「今日、稼業、抜けてきた。土曜、不動産屋行こうぜ。それから指輪買って、籍入れて、結婚式の真似事みてえなことやろう。出来りゃ、五十くれえの広い坪の家がいいよな。何匹生まれっか、まだ分からねえし」「落とし前つけられたの?」「つけられたんじゃねえ。てめえでつけたんだよ。ニ、三日は痛えと思う。けど、お前がしてえんだったら、頑張っちゃみるさ‥」「義毅さん!」「今、用あって船橋の古和釜だ。これから行くから待ってろよ。腹減ってんなら、先に食っててもいいから。俺の分は残しといてくれ‥」「義毅さん‥」「じゃあ、あとでな。うお、糞‥」「待ってる‥」「待ってろ。それと、恵梨香のことは過剰な心配はいらねえ。あいつは誰かに拾われるはずだからな。寺の厄介になって、何年かあとに尼さんになって現れるかもしれねえ。博人は、これからお前が世話すっか、親父がどうにかすっかに分かれる。でなきゃ、自分で何かを考えるかもしれねえ‥」
痛みがぶり返してきた。通話を切った義毅は、血の滲み出している包帯の左手を押さえて屈んだ。痛みは、左手全体に染みるように広がり、手と半身が震え出した。義毅は奥歯を噛んでそれに耐えながら、ソアラへ足でいざるように歩いた。オートキーのボタンを押し、鍵の開く音を聞いた時、力を失った体がサイドドアに崩れてもたれた。痛みは頭蓋の内側でもがんがんと鳴り響いていたが、気分、心地は悪くなかった。
また噴き出してきた脂汗に顔を濡らし、唸りながら、子供は誰に名付けてもらおうかと考えた。同時に、自分が手を貸した吉内叶恵の父親の復讐が成就することを切に祈っていた。なお、あれだけのことを掴んでいながらダブルシービーを強請らなかったわけは、すでにまどかとの間に、利害を超えた思いが深まっていたからだった。
~叶恵の回想~
その日の朝、ぺスパを駆って出勤した叶恵が門の前で見たものは、リアとサイドにスモークを貼ったリンカーンコンチネンタルが停まり、車の前に二人の男が立っている光景だった。目の細い扁平な顔をした四十代と、子供のような外観をした男が、いかにも施設に用がありげに静かな威圧感を立ち昇らせていた。
朝礼で、施設長であり会長の文岡は、いつもよりも低く落ちた声と歯切れの悪い活舌で、製品の出荷を遅らせないよう仕事に臨めという旨のことをやや噛み加減に全体に言い、何かを隠したげにそそくさと引っ込んだ。それを実弟のサービス管理者が追った。
ここ何日か、顔色が悪く、表情に暗みが挿し、目と体の動きに落ち着きを欠いている。
その男達が社屋に入ってきたのは、午前の作業が始まった時だった。叶恵は幼児雑誌の付録付け作業を、菜実を始めとする四人の利用者とともに行っていた。菜実は、見たことのある人間を見る目で、扁平顔の男を見ていた。彼女とその男達の関わりは叶恵には分からないが、男達が穏やかな用件でここを訪ねているわけではないことは充分に察知していた。目の細い男は、タブレット端末が入っていると思われるソフトケースを提げていた。
文岡と和馬は、李と行川を利用者や職員の目に触れる時間を短くするようにして、応接室へ通した。
「こうして二回も顔出しで訪問したのは、疚しいことが何もないからですよ。社会人同士、堂々とお話しましょう」設立時にリベラル系の市議会議員から贈呈された「慈愛心」という墨字の下にどかっと深く座った李が言い、射るような眼差しをした童顔の男、行川は、李の据わるソファの脇に立った。
「こちらの事業所に通われている、十四、五人あたりの若い女性の利用者様方の将来的な幸せについて、彼女達を見る側として、常日頃からどうお考えになっていますか、文岡さん」李の話口は丁寧な商談口調だが、ロックした相手に有無を言わせない気迫が溢れている。
「かねてよりお話しさせていただいているように、私ども尊教純法では、前途の時間という無形の資源には恵まれていながら、未来の幸せの獲得しづらさをお抱えになっている男性、女性や、または、とても性格は良いのに、人並みの幸福という機縁に触れる機会がないまま中齢や高齢域に入ってしまわれた方々の手を取って幸せに導くお手伝いをさせていただく活動に挺身しております。これを私どもは社会愛、と呼んでおります」
李の述べを、サビ管の弟はいくらか気丈な顔で構えるように聞いているが、文岡は、普段の威風がいずこかへいってしまったように、落ち着きが失われた表情と態度になり果てている。弟とは反対に、蛇に睨まれた蛙だった。
「どうですか。報酬は保証いたしますので、こちら様法人の経営を私どもに譲渡されて、今後、あなた方はオーナーとして、ゆったりと法人の発展をお見守りになるという選択肢はいかがでしょうか」「無茶苦茶じゃありませんか」返したのは和馬だった。
「私達が楽してここを興したと思ってるんですか。ここは私達が裸一貫から苦労して立ち上げた城なんですよ。土地の買いつけだって一筋縄では行かなかったし、保護者の信頼だって年数かけて築いてきたんですよ。それを何であなた達みたいな宗教屋に売り叩かなきゃいけないんですか。どうせ支払われる金は、中古車一台分に毛が生えた程度の金でしょう?」「高級車数十台分を保証すると言ったらどうされますか」李は和馬の目を据えて見ながら訊き返した。
「代価については、別途交渉させていただきましょう。ここで本題に入りますと、あなた方も、こちらの法人で働くスタッフ様方も、こちらを利用されている方々の幸せを一心に念じながら、日々の業務を行っていらっしゃることは、私どももよく存じ上げております。それでも、ご多忙であるということもあって、異性への強い欲求に根ざした、幸せな恋愛、結婚というというところまでは、思うように相談に乗ってやれない、繋げてはやれないというところが、おおかたのの支援者が抱えている課題であるという考えに基づいたものとして、私どもの活動意義が存在しているのです。この辺りで、お互いの気持ちを汲み取りませんか? 悪いようにはしませんので‥」「帰って下さいよ」和馬が放った。「社会人同士とかいう能書き使うんだったら、私達の立場が一般職員とは比べものにならないぐらい忙しいことは知っておいででしょう。帰らないと‥」和馬が言いかけた時、李が笑った。嘲るような笑いだった。
「先月に最初の訪問をさせていただいた時、言いましたよね。あなた方の昔はすでに掴んでいると‥」李は爬虫の笑いを口許に刻み込んだ顔で、膝に抱えていたタブレットをケースから出し、オンのボタンを押し、画面を文岡と和馬へ向けた。
タブレットの画面にまず映ったカットは、前後二列に並んだ若い男達の集合写真だった。ファインダー内に収まっている若者達は、それぞれしてやったりな笑顔を浮かべていたり、バンダナで顔の下半分を隠していたりしており、前列中央の二人が、拳を握った筋肉質の腕を鉤状の形を作って振り上げている。
「前列中央でガッツポーズを取っているのがあなた方です。この写真は、今から二十六年前のものですね。大田区のほうで、兄弟でだいぶぶいぶい言わせてたようですが‥」
文岡と和馬の顔と体の恰好が、ぎくりと硬直した。李は薄い唇に酷な笑みを浮かせ、画面をさらにタップした。次に現れたのは、髪を掴まれ、喉元にサバイバルナイフと、昔懐かしいバタフライナイフの刃身を当てられ、まさにその身がグループの手に落ちている男の写真だった。全身の写っているその男は、数人の少年チンピラに体を拘束され、チノパンとパンツを足首まで下ろされ、陰毛に覆われた性器をあからさまにされている。顔には表情はない。恐怖のうちに全てを諦め悟ってしまった顔だった。
次のタップで表示された写真は、草叢の上に組み敷かれた全裸の女の体に、大勢の男の手が伸びて、乳房と性器を力任せに弄んでいる写真だった。リングを嵌めた男の手で陰部が押し広げられ、真っ赤な膣孔が露わになっている。パンティを猿ぐつわに口に押し込まれた女は、恐怖と屈辱に紅潮した顔の、堅く閉じられた瞼から頬に涙が伝わせている。
「地元の河川敷で語らってた婚約者同士を分けた時のものですよね。カップルを襲ったり、拉致したりして、彼氏の目の前で女を輪姦して、男が遮断機とかをおっ起てるか起てないかで金を賭け合うのが、あなた達が率いてたチームでブームだった。この夕方、あなた方とその子分達で、この女性にアナルレイプまでやったんですよね。恋人の名前を呼んで泣き叫ぶ彼氏の目の前でね」
文岡の顔がより蒼白味を増した。和馬の顔にも青味が挿していた。これらの写真データを、何故こいつらが持っているのかとどこかへ問う顔だった。
「知りたいですか?」李が訊いて、背中をソファに倒した。行川は、体を硬直させた経営者兄弟を惨いまでに静かに「の」の字の目で射り続け、何かの言葉を発する気配はない。だが、頭脳、運動神経、筋肉の全てを、彼らの肉体的抵抗を瞬時に粉砕するためにスタンバイさせていることは、目と足の配り、立つ体勢ではっきりと分かる。
「あなた方のチーム、“京浜殺戮会”で戦闘隊長とかのポジションにいた、延島(のぶしま)さんという方です。東京を離れて、地方の町の土建屋で入寮して働いているところを、私どもで追跡させていただいて、このポラロイド写真を買わせていただいたんですよ。だけど、金のことで、ぎゃぎゃ、ぎゃぎゃと言ってきたので、こちらで適当に処理させてもらいました。その土建屋の社長さんも同僚の方々も、ありがちなトンズラだと思って詮索はしませんよ。それがあなた方の身の、来週のことになるかもしれないんですよ。お分かりですか」李は腸に異物を割り入れるような発声で述べると、凄惨な笑いを顔一杯に満ちさせた。行川の射りの光も強まった。
「そして、あなた方の蛮行は、これだけに留まりませんでした‥」李は言い、タブレットのアイコンを叩いた。動画が表れた。映し出されたのは、画質の粗いニュース映像だった。
「速報です。去年十二月に東京都大田区東糀谷一丁目の路上で親子連れの男性が殺害された事件で、少年六人が傷害、及び暴行致死容疑で糀谷警察署に逮捕されたという情報が入ってきました。この事件は去年の十二月二十日午後八時二十分頃、当時四歳の長女と歩いていた、東糀谷二丁目に住む会社員の吉内(よしうち)潔(きよし)さん、四十三歳が、通りがかりの若い男数人に言いがかりをつけられて金品を要求され、断ったところ、殴る蹴るの集団暴行を受け、内臓損傷、外傷性クモ膜下出血で死亡したものです。逮捕された容疑者は区内に住む区立高校生やアルバイト、無職の十五歳から十八歳の少年らで、事件の悪質さから警察は、供述の内容によっては殺人容疑に切り替えて捜査を進める方針とのことです」男のキャスターが読み上げたところで、映像が静止し、李はタブレットのスイッチを切った。
「古くて、今回見つけて仕入れたのはこれだけですが、地裁の裁判で検察の問いに対して、まさか死ぬとは思わなかった、などと答えたそうですね、若いあなた方は。でも、一番のりのりで男性を暴行したのは、あなた達のグループに出入りしていた、少し足りない使いパの少年だった。あなたがやれやれ、と扇動した。それは命令でもあった。自分の罪を軽くして、言い逃れが出来るようにするためのね。それでその少年は、あなた方に承認されたいがために、積極的に暴行に参加したわけです。この無職の少年の家は、母親のパート収入だけで生活を回していた課税されない世帯で、弁護士料が捻出できなかったんです。だから少年刑務所から成人刑務所に移送されて、七年間、満期の服役をしましたが、あなた方兄弟は、ほんの二年の収監で仮出所です。子どもの人権の論理に陶酔しきったヒューマニストの弁護士から、検察側の心証を良くする答弁の方法を吹き込まれましたからね。それでいてあなた方は、母親に自殺されて、現在三十歳と少しになる、今もどこかで暮らしてるその娘に、賠償金をびた一文たりとも支払っていません。その人から父親を奪っておきながらね。あなた方のそういう過去を、こちらで働くスタッフさん方も、関係者も、利用者は元より保護者も知らない。だけど、我々は握っているんだ‥」
李が文岡と和馬の顔を見回していい、二人は言葉さえも封じられたという風に、一層顔と体を石のように固めるばかりになった。
「それでは、来年の二月初旬頃までにゆっくりとお考えになって、お決めになったら、前回お渡しした名刺の電話かメールアドレスに連絡を下さい。あなた方の立場上、今すぐにというわけにも行かないでしょうからね」李がソファを立つと、行川は様もなく固まっている兄弟を射すくめ、李の歩みに合わせて足を応接室の出入口へ向けた。李が二人に背を向けても、射る視線を離さない。
「邪魔しましたね。特に見送らなくて結構ですから。私どもは、今、着実に名士の道を歩んでおられるあなた方の名誉を、是非ともお守りすることをお助けしたい気持ちを持っているのでね」李が残し、行川が文岡と和馬から焦点を外すことなく、後ろに続いて室を出た。
黒革ハーフコートの背中をいからせた目の細い男と、後方に警戒の流し目を送りつつ、その男をガードするように続く子供のような男の姿を、叶恵は、菜実と一緒の入出庫ヤードから目で追った。菜実も、顔を知る人間を見る目でそれを追っていたが、その顔に不安の色などは特になかった。
今、父親の仇は、あの男達によって追い詰められていることは間違いない。男達が何者であっても、それが、これから自分が執り行おうとしている復讐の追い風になれば、と天に願った。
十七時の定時で今日の勤務を終えた叶恵は、ぺスパを走らせて下宿する谷津の家にまっすぐ帰った。親代わりと言っていい不動産オーナー夫妻は、いつもと変わらず優しく叶恵を迎えた。今の自分は恵まれているという思いを噛みしめながら、入浴し、自然を描写した絵画と、ゴルフの入賞トロフィー、メダルが飾られた居間に隣接するリビングで、提供された天婦羅の食事を摂った。
「叶恵ちゃんは、今、いくつだったっけ‥」天つゆをつけたシシトウの天婦羅を口に入れ、ウイスキーのオンザロックをちびちびと啜りながら、銀の髪をした主人が、無心に食べる叶恵に訊いた。孫娘を見る目だった。夫人は用あって、二軒隣の家に行っている。
「三十二です」「三十二か。まだ遅くはないね」叶恵の正直な答えに主人が言うことの意味は分かる。
「縁談、ですか?」箸を止めた叶恵が訊き返すと、主人は遠くを見る目で彼女の後ろの空間を見つめながら頷いた。
「うん、そんなところだね。お年寄りのヘルパーの仕事をしてる人で、今、四十前なんだ。真面目で、とても性格も良くて、よく働く人だけど、なかなか縁に恵まれなかったみたいなんだ。僕が昔から知ってる仲介人の、そのまた知人の息子さんなんだけど、同じように人を見る仕事をしている女性が、出来ればいいって言ってるみたいでね。どうかな、もし叶恵ちゃんがよければ、今度、顔合わせだけでも‥」
シネマスクリーンのようなインチのテレビでは、習志野市に住む知的障害を持つ山田月子さん二十二歳が十日から行方不明という顔写真出のニュースに続き、警察庁警備局課長の五十八歳の警視正が奥多摩の山中で服毒自殺、遺書のようなものはなし、という速報が流れていた。そのニュースを、主人と叶恵が一寸だけ振り返って見て、すぐに互いの顔に目を戻した。
「最近多いね。嫌なニュースが‥」主人は呟いて、サントリーローヤルの四角いボトルに手を添え、片手に軽く、草花の模様が加工刻印されたバカラグラスを握った。叶恵はそれには答えず、口をすぼめて海老天をかじった。
「僕は叶恵ちゃんのことが心配なんだ‥」主人はぽそっと言って、瓶の蓋を開けて、グラスにローヤルをつぎ足しながら、ニュースの映るテレビにまた目を向けた。
「親御さんを早くに亡くして、ひたすら自分だけを信じて、女の子の身で時としていかつい男衆の中に混じって、社会的な実力、生きる力を懸命に磨いてきたんだよね。でも、何だか今の叶恵ちゃんは、自分の身を何か危険なものに晒して、何かを果たそうとしているような相が顔に浮き出ているように見えてならないんだよ。僕は叶恵ちゃんには、自分を大切にしてほしい。だから、もしも心だけに留め置きかねることがあったら、僕でも、うちのにでもいいから、遠慮なく相談してほしいんだ‥」
テレビから目を戻して言った主人に、叶恵は小さく微笑した。
「ありがとうございます」頭を下げ、声のトーン低く礼を述べた叶恵を、主人は優しい眼差しを注いで見た。
「先のことはまだ分かりません。でも、今の自分が目標として、必要としてることは、世間一般の寿とは別のところにあります。自分は今の職場に入って、こちらで厄介の縁を持たせていただくまで、女としては冒険と言っていい環境を選んでやってきました。その中で確実に学んできたものを、これからますます社会へ向けていこうと考えているところです。だけど、いつか考えが変わった時に、自分も所帯を持つことなどを考え始めるかもしれないです。人並みの寿にありつけた時は、晩婚でも全然構いませんので。自分は‥」
「そうか‥」叶恵の凛然とした述べに、主人は目を細めた。叶恵はこくりと頷いて、食べかけの天婦羅に目を落とした。
「余計なことを言っちゃってごめん。ただ、早くにご両親を亡くして、それこそ僕達なんかには想像も及ばないような苦労をしてきた叶恵ちゃんが、これからも人並みの幸せを得る機会もなしに一人でいなきゃいけないのかって思えば思うほど、居たたまれない気持ちになるのを、僕は抑えられなかったんだよ。でも、君が言う通り、それは確かに今すぐじゃなくていいよね。叶恵ちゃんは自分に厳しくてしっかりしてるから、いつか必ず、叶恵ちゃん自身が望むような幸せが降ってくるよ」「ありがとうございます‥」「でも、これは僕達からの、心からのお願いだよ。自分の体や心に、これ以上の傷をつけないで、自愛することを忘れないでほしいんだ」
主人の目には、心から叶恵を想う優しさが満ちていた。
食事を終えた叶恵は二階の自室に入ると、折り畳みデスクの上のPCをオープンし、軌道させると、アイコンをクリックしてムービーを出した。ウインドウの枠内に、三人の男の姿が映し出されている。
プロパンガスボンベが設置された白い壁の建物の前で、二人の男が一人の小さな男を前後に囲み、掴んでいる。
ウインドウ画面の中で、文岡が阿部の腹に膝蹴りを入れ、頬を執拗に軽い平手で打ちながら、恩を着せながら侮蔑する言葉を浴びせている。
“生まれつきの分際が”という言葉を文岡が吐いたところで、叶恵はムービーを切り、隣に置かれた、額縁に入った写真に目を移した。
幼稚園年中の叶恵を、ベンチに座った父が膝に乗せ、隣に母が立っている。シャッターは、通りがかりの人に押してもらった。ゴールデンウイークたけなわの日、親子三人、日帰りで行った長瀞での一葉。父の膝に乗る幼い叶恵は泣き顔だが、その理由は、売店で買ってもらったソフトクリームを落としてしまったことにあった。このあと、売店に引き返し、新しいソフトクリームを手にしたことも覚えている。
これは父が衆目の中での暴力で死ぬ七カ月前の写真だった。それを造作もなく行ったのは、少年の姿をした悪鬼の群れ。
自分を責める気持ちが、今も抜けない。あの夜の、自分の我儘がなければ、父はあの男達の手にかかることはなかった。
父親が帰宅した時、時刻は二十時過ぎだった。叶恵はパジャマを着ていた。コートとジャケットを脱いだ背広姿で食卓椅子に座る父親は、脇に立つ母に「クレーム処理が長引いた」と言っていた。当時の叶恵には、その言葉の意味は理解し得なかったが、帰宅時間、父の横顔に浮く疲労から、大変な仕事に追われていたらしいことだけは察した。
その時、食卓で缶ビールを飲んでいた父に、「ビデオが観たい」と言ったことは、子供ならではの、その場の気まぐれだった。そのビデオは、当時民放で金曜の夜に放映されていた、擬人化された動物達が棲む異世界を舞台に、魔法を使う兎の女の子が活躍するという内容のアニメだった。その「マジックラビちゃんリッキー」を、叶恵は毎週ウォッチしていた。
“こんな時間に我儘言うんじゃないの。パパはお仕事で疲れてるのよ。もう寝なさい”母親に叱られた叶恵は、泣いた。泣きながら、リッキーちゃん観たいの、観たいの、と繰り返した。
“いいよ、叶恵。パパと一緒に借りに行こう、リッキーさん”父は缶を片手に言い、椅子を立った。
“まだお店がやってるからね。でも、観たら寝るんだよ。明日も幼稚園だからね”優しく言って、Yシャツの上に通勤着のコートを羽織り、娘に上着を着るように促した。
ピンクの上着を着て、父と手を繋いで、家を出た。会社の入った階数の低いビルの中にまばらに商店や飲食店のある一丁目を歩ききり、交差点脇のレンタルショップに向かった。羽田を発った旅客機が、80に近いデシベルのエンジン音を夜の空と地に撒いて、いずこかの方角へ飛び去った。蒲田駅から空港まで路線を繋ぐ急行バスが、地響きを立てて車道を通行していた。
いつもと変わらない夜だった。この時までは。
交差点を渡り、信号機から臨んで斜め向かいに当時軒を構えていた、のちに大手に買収される中規模チェーンの「CD ビデオレンタル ¥250より」という文字が青いテント看板に打たれた店に向かおうとした時、店の前を横切って、二丁目方面から、胸を反り返らせた十人ほどの男達が歩いてきた。彼らが自分達父娘に道を譲ろうとする様子はなかった。
さらっと長く伸ばした髪を金や茶にブリーチし、耳にはピアスを光らせ、思い思いの上着を着ているが、全体的にぶかっとした服装で、揃って「+」の模様が染め抜かれた黒のバンダナを巻いていた。竜の刺繡がされたスカジャンを着ている者、青チェックの長袖シャツを着膨れさせている者もいた。
まだ幼さを留める顔をした者もいたが、皆の人相は、人というよりは有尾のもののそれをしていた。知る言葉は少なかったが、それが五歳の叶恵が受けた印象だった。
すでに恐怖を覚えていた叶恵の手を引く父の脛を、先頭を歩いていた男が「おらぁ!」という声を発して蹴飛ばした。あっと声を上げて脛を抱えてうずくまった父を囲んで、男達がひゃらひゃらと愉快そうに笑った。
“何の真似だ、これは! どうして理由もないのにこういうことをするんだ!”
“おっさんの顔がむかつくからだよ”怒った父の抗議に、薄笑いを浮かべた男が答えた。
睫毛の長い一重瞼の三白眼に、細く高い鼻と、薄い唇。色白の肌。その瞬間に、この男の人相その他の特徴が幼い脳機能に刻み込まれた。
隣の男は、ぎょろりと大きな目に頑丈そうな顎、筋肉膨れの体をしていた。向かって前に、比較的地味な夏服を着ているが、皆と同じ柄の黒バンダナを巻き、四角い輪郭に埋もれるような小さな目をした男がいた。この男だけが短い黒髪だった。その男の阿諛追従する笑い顔と、ダサいという表現の充てようがある服装を見て、幼いなりにこの男達の力関係が分かったような思いがした。
“ねえ、ここで俺らに罰金納めてってくれない? 今日は気分良かったのに、お前の顔見て吐きそうになっちゃったからさ”“何を馬鹿なこと言ってるんだ!”
“何、俺らが馬鹿⁈”三白眼の男が凄んで、父に顔を寄せた。
罵声とともに、何本もの若者の腕が、父の髪、コートの襟、襟首を掴み、体を揺らし、やがて、父の鼻に二回、容赦のないパンチが叩き込まれた。
鼻血を流れさせてのけ反った父の腹に、目の大きな鍛えた体の男が三回、拳をめり込ませた。呻く父の尻を後ろの男が蹴り、膝を崩して男達の腕にぶら下がった父の胸と腹部に、ダメージのストライクが計算されたタイミングの蹴り込みが順番に、どかっ、すぱっと音を立てて入り、肋骨が重い音を立てた。その一撃づつのたびに、父の口から呻きが漏れた。
叶恵は「パパ! 」と叫んで泣き喚いた。だが、この若者達には、行きがかりの暴力衝動をぶつける餌食が連れている幼い娘は全くの関心外のようだった。
男達の誰かが“‥すんべ”という短い言葉を早口で発すると、父の全身が持たれ、天に向かって高く抱え上げられた。叶恵はより激しく泣き叫んだ。それに振り返る者はいなかった。
“わっしょい、わっしょい!”男達は笑いながら、父を高々と胴上げした。数回、胴を宙へ弾ませて、そらぁ! という誰かの声のあとで、父の体が2メーター半の高さから落下した。後頭部と背中、腰がコンクリートの歩道に叩きつけられ、籠った爆発音のような音が鳴った。
人事不省の顔で痙攣する四肢を伸ばした父の腹、顔面に、キックの雨が降り注いだ。男達は躁状態に入ったようにはしゃぎ笑っていた。一人がバタフライナイフを出し、銀の柄を回転させて、ストリート・ギャングを気取ったポージングを決めていた。叶恵は肘を曲げた両手を垂らして、父の名を叫んで泣き続けた。まばら、と言うには多めの通行人が、顔を伏せて足早に歩み去った。関わろうとするものは誰もいない。
あどけない年齢の人間達を指す名称を冠した保護法の下で、群れて行う無軌道に酔い、ブレーキが破損した精神状態になった法的被保護者達の恐ろしさが連日のように報道され、明日は自分が惨たらしい死を迎えるか、あるいは一生涯物の障害を背負わされるか、という恐怖が、市井の中でごく小さな立場にある人々の心に刷り込まれていたのだ。それで誰もが目を伏せ、背中を見せていた。こうした未成年者暴力団に。
“おい、長田”筋肉膨れの男が、阿諛の笑いを漏らし続けている、四角い顔に小さな目の男をさっと手招きして、自分のそばへ呼んだ。
“お前、殺戮の幹部になりたくねえか?”“え?幹部?”長田の目が歓喜の輝きを見せた。
“おっさんの脳天でサッカーだよ。稲妻シュート、決めろよ。そうすりゃ、お前、明日から兵隊持てんぞ。これから喧嘩にも呼んでやっからよ、一緒に俺らの敵の、糞生意気な蒲田ソルジャーズ、ぶっ潰そうぜ。兵隊指揮してさ”
“おら、この野郎! 舐めてんのか、こらぁ!”今の叶恵が、三白眼の文岡丈二と弟の和馬と並んで、すでに氏名、居住地などの個人情報を握っている長田(ながた)隆(たか)弘(ひろ)が、甲高い怒声を張り上げて、横たわる父の頭部を蹴り込み始めた。頭部が音を立てて弾み、体が断続的な痙攣のように反った。
“パパ! パパ!”父の名を叫び続ける叶恵の声が響いた。
長田が力に任せて、十数回ほど父の頭部を蹴り、顔を踏みつけたあと、男達に見下ろされる父が、ウー! という声を上げ、路面に横たえた体を震わせ始めた。目を白く剥き、口からは泡を溢れさせていた。
“パパ! パパ!”叶恵は父の体にむしゃぶりついてすがった。だが、父は目を白転させ、口の端から泡を噴出させ、言葉にならない声を上げるだけだった。
“何、この顔! 超面白え!”叶恵の頭上で誰かが弾けた声で言うと、笑いが沸いた。
“ウー! ウー!”父の呻き声を声帯模写する声とともに、“あ、似てる、似てる”という声と、心底可笑しそうな爆笑が降ってきた。
在ったものは恐怖と悲しみだけだった。自分などが矛を取るべくもない男達に左右、前後を囲われる中、怒りという感情は、悲しみに呑み込まれていた。
“どけよ、ガキ!”男が怒号して、叶恵の襟首を引いた。小さな体が転がった。
三白眼の男が、呻き続ける父の懐に手を差し入れ、財布を取り出し、おもむろに二万円数千円の現金を抜いた。
“給料前のリーマンにしちゃそこそこだな”三白眼が言うと、筋肉膨れの男が、ああ、と頷いた。
“兄貴、一万で、ダンディフェドーラで適当に遊んで、残り一万何千円、町村さんの上納の足しにすんべ”その会話で、この二人が兄弟らしいことが分かった。弟が口にした店の名前は、当時、蒲田の一角にあったゲームセンターだった。
泣きながら、後ろの距離ある所から視線のようなものを感じ、半ば助けを求める思いで振り返り見ると、車道の反対車線側ガードレール向こうに三人の若い男が立ち、こちらを見ていた。見物、という体だった。
若者の一人が、白い歯を見せていた。
やりきれない、という語彙は知らなかった。だが、父親を目の前で嬲りものにされて泣く子供を見て笑う人間がこの世にいるという現実をこの時に知り、それがさらに肚を震わせた。
男達が下卑た高笑いを撒きながらぞろぞろと二丁目方面へ去った時、父はぴくりとも動かなくなっていた。泡を頬に伝わせた顔を横に向け、白く剥いた目もそのままに、命の灯が消えた亡骸と化していた。
車は何の関心も見せる様子もなく走り去り、羽田を離陸した旅客機の轟としたエンジン音が街を慣らしていた。
空の財布を投げ捨てた男達が去ってから周りに老年の人だかりが出来、叶恵が泣き疲れた頃に警察が来た。「マジックラビちゃんリッキー」をオープニングから観て、クライマックスに差しかかるまでくらいの時間になってやってきた。
二台のリアボックス付き警邏バイク、一台のパトカーと、消防局と車体に書かれた救急車が停まった。ヘルメットの救急隊員達は父の瞳孔にペンライトを当てて短い言葉を発し、青い遺体袋に父を収容し、担架に乗せて、仕事に徹した動作で救急車に運び込んだ。
“泣いてちゃ分からないでしょう! ちゃんと説明しなさい!”
空を仰いで、パパ!と叫んで泣く叶恵に𠮟りつけるような口調で言ったのは、冷たい顔をした制服の婦人警官だった。
“いい加減にしてよ! 話さなきゃ進まないじゃないの!”三十代の婦警は、泣く叶恵に畳みかけた。現場に来た他の警察官達も、全く気のない顔と態度で、無線連絡などの仕事を行っていた。
遺留された財布の中にあった免許証などから被害者の氏名、住所番地が分かり、叶恵はパトカーに乗せられて、家まで送られた。文岡達が交わしていた会話の語彙同様、覚えている。
ご主人はすでに死亡していました、という事務的な制服警官の説明に、大きく目と口を見開き、まず、鼻水をどろりと流した母の顔、その鼻水を顎下まで垂らし、震えながら膝まづいたパジャマの姿。忘れ得ぬ像。
父は大学病院の遺体安置所で横たわっていた。立ち合いの私服警官、泣く叶恵の前で、母は骸となった夫の頬を震える手でさすり、どこか赤子めいて、ぴぎゃあ! と聞こえる号哭を振り撒いた。
“適当なお時間にお帰り下さい。明日早くに、ご遺体を司法解剖いたします。それに伴って聞き込みも行います。それと明日にでも、お子さんから加害者の特徴などを聴取させていただくことになりますので、こちらも同意願えますか”
私服警官の言葉は、叶恵には酷く冷たく聞こえた。
それから一時間ほどして、母は病院職員と看護師に遺体から引き剝がされ、叶恵を置くようにしてふらふらと病院を出た。叶恵はそれを、ママ! と泣きながら追った。
皮膚を冷たく刺すような冬の雨が降っていた。母娘で傘もなくそれに打たれ、おそらく午前と思われる時間に家に着いた。
その夜は眠ることが出来なかった。母親が眠らず、夜通し髪を掻きむしって、床に頭を打ちつけていたからだった。叶恵はその母のそばで、ただ泣き続けることしか出来なかった。
翌日朝、母はようやく気を失ったように眠り、まだ自分で調理をすることの出来ない叶恵は、冷蔵庫の中のキャベツとトマトをかじった。その日の午前は呆然とすることと泣き叫ぶことを、眠る母のそばで繰り返した。
昨日とは別の人物の私服警官が来たのは、午後のことだった。
“鉢巻したお兄さんがたくさん来て、パパ、いっぱいぶって、蹴っ飛ばしたの‥”二人の男性私服警官に、叶恵は拙い語彙を搾って説明した。言えたことはそれだけだった。
警官達が去って何時間かが経過してから、母はやっと目を覚ました。ママ、と声かけすると、やっといくらか正気を取り戻した様子を見せた。
それから母は、親類筋に電話、夫が死んだ旨を伝えた。
夜になり、隣の江東区に住む叔母、叔父が来た。食事は叔母が作ってくれた。叔父は怒りと悲しみ、動揺を隠しようもなく見せながら、叶恵を慰め、励ましてくれた。
皆で囲んだテレビのニュースで、事件が報道された。父の名前と年齢がテロップ表示され、そのバックに事件現場の歩道で作業する鑑識課員の姿が映った。また泣き崩れた母を、叔母が抱きしめた。抱きしめながら、“警察に任せれば大丈夫だから”と言っていた。
その夜遅く、司法解剖を終えた遺骸が帰ってきて、急ぎで通夜と葬儀を行うことになった。
父は埼玉の墓に埋葬されたが、警察の聞き込み調査などがどの程度進んでいるかが分からなかった。
一月の正月明け、刑事がまた訪ねてきて、数枚の男の写真を叶恵に見せた。
“この写真の中に、覚えてる顔があったら教えて”中年の刑事が言った。
並んだ数枚の写真はみんな、夜の辻やコンビニ前に見かけるような類いの、世を拗ね、社会を斜眼で見る顔をした、派手な髪と服をした若者ばかりが収まっていた。
刑事が母に話したところによると、現在“任意”で聴取している者達とのことだった。
その中に、色白の肌をした三白眼の男と、大きな目にがっしりした顎の男、四角い輪郭に小さな目の男の顔があった。
“この二人のお兄ちゃんに言われて、このお兄ちゃんがパパの頭とお顔、蹴った‥”叶恵が写真を順番に指して言ったことで、捜査が動いた。
その日のうちに、現在署に身柄を押さえられている、叶恵が指した三人がそれぞれ犯行を自供したという連絡が警察から入った。
男達は暴行致死で逮捕され、のち、殺人罪に切り替えられた。検察は彼らを起訴し、蒲田を根城に活動していた「京浜殺戮会」メンバー六人が、叶恵が遺族として母と出廷した地裁の裁判で、自分達の目の前で実刑判決を受けた。
その後日、いかにも小金を持っている風な中年女が三人、家に来た。女の一人が持っていたものは菓子折だった。女達は揃って、紙に書いた言葉を棒読みするような詫びを言い、頭を下げた。母は、部屋に行ってなさい、と言い、叶恵はそれに従った。
“私は納得していないんです。うちの子は優しい子なんですよ!”襖からこっそり顔を出していた叶恵の耳に、女の金切り声が刺さった。
女の言葉は難しかったが、うちの子は悪くない、という言わんは分かった。
“小さい時から欲しい物は何でも買ってあげてましたし、お洋服だって、赤ちゃんの頃からよその子と同じものを着せたことはないんです。愛情をたっぷり注いで育ててきたんですよ。だから、今回のことは、元々はご主人にも非があったはずなんです。うちの子に限って、理由もなくああいうことをするはずがないんですから”
まだ人生の黎明期を何年か過ぎたばかりで、女の言うことも、社会のルールなども分かるはずもなかった。だが、女のまくしたてる言葉と、別の女が持ってきた菓子折に激しい違和感を覚えた。
かけがえのない父は、もういない。もう、永久に会えはしない。菓子折が、自分の目の前であの男達に奪われた父の命の賠償になるのか。幼稚園で、先生が園生に店員役、お客役を割り当て、お店屋さんごっこをやった。商品に見立てた園所有の物品は、一円から、0がいくつかつく値段が設定されたものまであった。先生が外のコンビニに、もなかの詰め合わせを買いに行き、それがx000円というプライスで模擬販売された。お世話になっている人へのギフトという設定のようだった。
父の命を、それがあたかも粗品にもならないようなものを損壊させるように抹消させたのがあの若者達なら、それを頭の中で数千円程度の物品と同じラックに並べ、これを正しいと言い張って一歩も引かないのが、彼らの母親であるこの中年女達だ。
庭へ行き、父が日曜大工で作ってくれた小さな砂場の砂を両手に握り、居間へ戻ると、女達が一斉に叶恵を見た。育ちの賤しい子供を見るような、蔑視の目だった。
“パパ、悪くないよ! 叶恵のパパ、悪くないもん!”叶恵は叫んで、まず右手の砂を女達に撒きぶつけた。
“ちょっと、何!”女の一人が金切り声を上げ、腕を上げて砂をガードし、残り二人の女は体を反らせて避けた。三人とも、露骨な不快の顔をしていた。
“あのお兄さん達が悪いんだ! あの人達が叶恵のパパ取ったんだ!”さらに叫んで、左手の砂をぶつけた。砂は女達の顔と体に均等に当たり、ばらばらと音をたてて畳の上に撒かれた。
“躾の悪い子ね!”体にかかった砂を払いながら言ったのは、欲しがるものを際限なく買い与えていたこと、乳幼児の頃からベビーブランドを着せていたことが「うちの子は良い子」という主張の根拠だと信じて微塵たりとも疑っていない女だということが、発せられた声で分かった。
“相当甘やかしてるのね。お客に向かってこういうことするなんて。こんな子、将来ろくな人間にならないに決まってるわよ”あなた、ちゃんと躾なさいよ“女は母に投げた。
“子供を見れば親が分かるっていうのは本当ね”女は吐き捨てて座布団を立ち、玄関へ向かい、他二人の女がそれに続いた。
もしも語彙があったなら、「素敵な自己紹介をありがとうございます」と返したことだろうが、その時の叶恵には、砂をぶつけ、両足を踏みしばって立ち、荒い呼吸を鼻から漏らしながら、この母親達を睨むことしか出来なかった。
“親子で本当に失礼ですね。蛙の子ですよ。こちらは手ぶらで来たわけじゃないのに”玄関で女は言い捨てた。後ろの二人の女は眉をひそめて顔を見合わせ、頷き合った。
“お金なんか、一銭も払う気ありませんから。そちら様の態度によっては考えてさしあげてもいいと思っていたところなんですけどね。うちの子だけが悪いなんて判決はそもそも、官憲の横暴なんだから”残して、女達は去った。
その夜、寝る前、父の遺影が置かれた仏壇に母子で手を合わせた時、母が叶恵を抱きしめた。パジャマの肩に、熱を含んだ母の涙が落ちた。
“叶恵、大きくなったら、パパの仇、取ってくれない?”母は声を震わせた。
“今のお前には、知恵も力もまだないよね。だけど、これからどんどん体も大きくなって、知恵もついてくるのよ。お前は女の子だから、力は男の人には敵わない。だけど、知恵があれば‥”言って、抱く力を強めて母は哭いた。母に抱かれながら、優しく微笑する遺影を見つめた。叶恵は泣かなかった。
これからの自分の時間には、もう泣いている暇などない。幼い思考のなかから、語彙を成していない思いが涌くのを感じた。
それから、主を喪ってひっそりと暮らす母子に、報道関係者が付きまとい始めた。娘の手を引いて幼稚園バスの乗り場まで送ろうとする母子の前に、テレビカメラを背後にした男が立ち塞がり、“今回の判決をどう思われますか”などと訊き、乗り場までまとわりついた。母はそれを無視したが、幼稚園の帰りには、また別の男がメモ帳とペンを持ち、乗り場で待っているということが多々あった。
マスコミの付きまといは、時間が経ってから落ち着いた。暮らしの糧は、保険会社から支払われた死亡保険金と、わずかな犯罪被害者給付金と、母のファミリーレストランでのパート収入だった。
小学校高学年になった叶恵は、勉強の出来る子供になっていた。中学では、偏差値が65以下に落ちることはなかった。
自分に必要なものは、知恵と、意志の力。これを信念とした。部活には入らなかった。部で運動を行う時間も、自分の知的能力向上のために在る時間と考えた。それでも、進学校へ進むことの出来る成績を保持していた。
勉強、勉強、勉強の時間の合間にはストレッチとジョギングを行った。知恵と意志を補強するものは体力だと考えていた。
個人的に恰好いいと思う男子はいた。だが、恋愛への憧れを持つことはなかった。自分はあの男達に父を奪われてから、人並みという人生コースを自分で外したのだ。
そんな頃、二軒隣に家を新築し、川崎から越してきたという初老の女が、母と友人の縁になった。叶恵は会釈をするだけに留めたが、女は柔和な笑顔で一冊の本を勧めてきた。タイトルに「邁進」とあるその冊子が新宗教の出版社から発刊されたものであることは、一瞥しただけで分かった。
その機関誌には、会祖だという、眼鏡をかけた優しげな老人の、海のような包容力に満ちた、見ただけで惹きつけられそうな笑顔の写真と生前の講話、「御仏様の教えの下に」苦しみを喜びに変えたという信者達の体験談が掲載されていた。三鷹に「佛聖堂」という本部を構えているという。叶恵はそれに何の関心も持つことなく、ぱら読みだけをし、本棚に置いた。
これも人のリバティ、悪いものだとは思わなかったが、自分は信用しない。何故なら、性善説を前面に押し出しているからだ。
それから、その女と同信らしい女が何人も家に来て、母を交えて車座になって話をするようになった。
悪くはない。でも、自分はその中には入らない。だが、その否定も肯定もしないという気持ちに揺らぎがでたのは、車座の女の一人が、父を殺した男達を挙げて「抱きしめてあげたい」と言うのを聞いた時だった。
部屋を通りがてら、疑った耳をそばだてると、女はなおも酔ったような口調で述べた。
“その子達も本来は仏様の子なの。だから、優しく手を取ってあげれば、必ず仏性を輝かせて、元のいい子に立ち返らせることが出来るのよ。だから、どう? 吉内さんが叶恵ちゃんと一緒に、御法の縁にお導きしてあげるのは‥”“いいわね、すごく感動的! 映画みたいじゃないの!”別の女が同調した。
この時に叶恵が吹いた失笑のような笑いが、女達の耳に入ったかどうかは分からないが、物事の現場を知る人間と知らない人間の差だと若くして思った。
この女達は五十年と少し前に生まれてから、たっぷりとした愛情に包まれて養育され、時として物事に疑念を持ち、それを自分の頭で解くという成長作業がなおざりになる育ち方をしてきたのだ。だから、ふわふわと現実から遊離した思考の下、すでに常識を踏み外した発言をし、他人を傷つける。
一人の会祖や導師を崇拝の対象とする宗教の信仰は、臨時的な一時の安らぎを与えるが、人間から正常な判断力を奪ってしまう。
信じるものは、己一人。一人で立ち、一人で目標の道を歩むのみ。感情には流されない。叶恵は中学二年の時点で堅い信念を立てていた。
母が自殺したのは、叶恵が中学の卒業を控えた二月の日だった。母は浴室で一人、洗濯ロープで首を吊っていた。第一発見者は、江東区から車を飛ばし、夕食にと作ったカレーを持ってきた叔父と叔母だった。
葬儀の席で一切涙を見せない叶恵を、親戚筋の人達は「気丈だね」と言ったが、自分の感情が自分に流させる涙というものは、叶恵には否定の対象だった。泣く時間があるのなら、思考の中で算段、段取りを練り、心と体を鍛える。母は哀れだが、心を立たせ、目的を持って生きていく勇気を持ち得なかった。
母は敗けてしまったのだ。
もしも自分が自らの手で生に幕を引く日が来ることがあるとすれば、本懐を遂げ上げ、残った時間が余生のようになった時だろう。
安らぎを享受して、腑を抜かれたようになって酸素を吸い込み、二酸化炭素を吐いて、飲んで食って、それを排出するだけの生など、自分には意味がない。老いてまで生きようという気持ちはなかった。
死ぬよりも惨いことが世の中にはある。それは周囲、社会から不信の目で見られ、尊敬も得られず、精神的な島流しのような人生へ追いやられることだ。
それを考えた時、彼らが父にやったように命を奪うのではなく、名誉を剥奪し、社会的な失墜を被らせることがベストだという結論に達した。
余裕で進学校へ進むことの出来る成績を持ちながら、高校は、通信制を選んでいた。通信制高校で学びながら、一人で暮らし、下水のような、あるいは荒くれ者が集まる職場で働き、生活の糧を得ながら、こつこつと情報を採取することを決意していた。
愚連者だった人間が少なくない現場で働きながら、時間をかけ、父を奪った者達の主犯格達の個人情報を握り、その身に近づくことに成功し、今に至る。
叶恵は長瀞での一葉を見つめ、写真の中にいる父と母に、報告の念を送った。決行の日は、クリスマス過ぎの年末前の土曜日、と。
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