手繋ぎ蝶

楠丸

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5章

~愕然の確信~

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 連絡がありませんが、いつ頃になればこちらに援助をしていただけるのでしょうか。私は今、毎日のご飯もちゃんと食べられていません。毎月の光熱費を支払うと、ほとんどお金は手元に残りません。生活のために借りたお金の返済もあります。恵梨香、博人は、もう私だけの手に負えなくなっています。その辺のことも含めて、あなたがいるだけでだいぶ違うと思います。分かっていただけると幸いです。復縁のことなども話し合いたいので、出来れば今月中には電話かメールを下さい。前回の手紙にも書きましたが、私達が離婚することになった経緯は、心から反省しております。連絡をお待ちしています。作山美咲 

 これをスルーすることによって次に、どんな文面が送りつけられてくるかということなど考えれば考えるほどしかたのないことだ。文面にある詫び、反省などが、我が身のことだけを慮った形だけのものであることは分かりきっている思いがする。押しても引いても、村瀬が知るあれは、そういう女だ。一昨日来たこの二通目の文面にある復縁という言葉を読み、若い時分に悪しきはやりをした「中指おっ立て」のポーズを、昔が見る影もないまでに老けているとリアルに予想出来る元妻に対して、心の中で一瞬取った。金の無心にも、ほぼ同じような感情向きになる。

 ただし、「子供が手に負えない」というくだりにばかり、心を揺らされる思いがする。それは、そのくだりによって、吉富の子供達が村瀬にとり他人事ではないと改めて思わされたからだ。

 偏に不快で苛立たしく、はっきりとした策が思い浮かばない問題だが、それは店に来る客は勿論のこと、同僚などの前でも、村瀬は決して顔と態度に出すことはなかった。それが自分という人間だ。

 心に言い聞かせながら、「こちらの商品、全品半額となります。どうぞお買い上げ下さい」と声出しして、消費期限の近づいた豚カツ、コロッケ、天ぷらなどの総菜に半額引きのシールを貼っていた。時間は十六時過ぎだった。ハロウィンの飾りつけは華々しいが、衛生管理が行き届いていない店内を主に齢の行った客が往来し、退屈な音楽が流れる風景はいつもと変わらずだ。

 半額品ゲットの順番を争うように手を伸ばす小さな黒山を離れ、シールの束を手に持ち、刺身などの海産物のコーナーへ早歩きで移動した。その間、周囲の客に、いらっしゃいませ、の声かけをすることを忘れなかった。今日は水曜で、あの手繋ぎ式から三日経っている。愛美か菜実、連絡するとすれば、どちらかはもうはっきりと決めている。あの茜、蝶を、胸のむかつきを押し込むようにしながら、筋が良いとは言えない客をあしらいながらの八時間労働に勤しむ己の支えにしたい心境だった。

 鮮度が落ちた刺身のパックにシールを張っていると、男が脇に立った。体温が感じられるほどの距離だった。いらっしゃいませ、どうぞご利用下さい、と声をかけるや、「おい」という声が村瀬の頭上に落ちてきて、目の前に木箱が差し出された。税込四千八百七十四円のバフンウニだった。それが誰なのかは、すでに声と発声の感じで判別出来ていた。

「これに半額引きのシール貼ってくんねえ?」吉富はわりと機嫌のよさげな口調で言い、木箱のバフンウニを突き出した。

 今日の吉富は子供と一緒ではなく、寸法の大きな黒のスーツに、竜が刺繍された赤のネクタイを締めた服装で、空いたほうの手に小さなバッグを指に突っかけるように提げている。そのバッグが本物のブランド品なのか、イミテーションかは、村瀬が一目見ただけでは分からない。だが、今日の吉富の身なりは、生保で赤字に悩む暮らしを送る人間のそれではない。

「急いでっからさ、早く貼ってくれよ。これから連れと飲みなんだよ」吉富は上機嫌の調子で急かした。シールをさっさと貼り、レジへやってしまうことは楽だ。だが、そのあとで、少々お待ち下さい、と言って商品を確認、説明するレジ係が絡まれる被害を受ける。勿論その時、あの店長の増本などが頼りになるはずなどない。自分は押っつけられているわけだが、その押っつけられ手当が出るわけでもない。大変だが、自分がいかにして、目の前に立つこの悪質な男に対して、自分自身と店の立場を、出来る限り筋を通して説明出来るかに賭けてみようという思いが、辛くも立ち始めている。村瀬は吉富に気づかれないように、すっと短く深呼吸をした。

「お客様。申し訳ございませんが、こちらは、半額引きの対象外商品となっております。私としても、なるべく多くの商品をお安くしたいのですが、こちらのウニは、原価でお買い上げいただくしかありません。ご了承願います」「じゃあ、こないだくれたビール券、もうねえの?」「ああいったサービスは、普段は致していないんですよ。ただ、前回は、私どもの接客上のミスで、お客様にご迷惑をおかけしたお詫びの印として、店長の判断でお客様に差し上げたものです。ですので、今回は」

 村瀬はスマイルを作って言うと、目の前の吉富に同時礼で腰を折った。

 村瀬と吉富、二人の周りでは、その様子がまるで目に入っていない風に、年齢の行った男女達が、籠を提げてコーナーに陳列された商品を眺めたり、手に取りまじまじと見て籠に入れたりと、全く普通に買い物をしている。どこのスタジオ楽団が演奏しているかも分からない、くだらない店内BGMが、その覇気も活気もない景観に滑稽なほどマッチしている。

「ごちゃごちゃ言ってんなよ。じゃあ、このウニ諦めっからさ、こないだのビール券出すように、おめえから店長に言ってくれる?」吉富は徐々に口調に凄む調子を強めながらウニを置いたが、村瀬の説明は完全に無視されている。

「コンタクトレンズ屋とか眼鏡屋だってさ、お安くなるクーポン、チラシにつけて配ってんべ? 店っつうのは、そういうことが出来て、初めて店って呼べるもんじゃねえ? 違えかな」「そのコンタクト屋さんや眼鏡屋さんにもよると思いますよ。すみませんが、当店では、そのようなサービスは致してはおりません。お客様方へのサービス向上案は、本社での会議で決まって、私ども支店にも通達されるものでして、私みたいな平のスタッフは口を出せないんですよ」村瀬は吉富の目を見て言うと、当たり前の接客用スマイルを作り直した。
 
 気楽なものだ、と村瀬は思った。自分が四十後半の今まで走ってきた道は、学びの過程を修了し、家庭生活があり、仕事に勤しんできた。上の言う黒い鴉と白い鴉、自分を殺して上を立てることなど、社会経験と呼べるものはきっちり積んできた。吉富の職歴などは、そもそも他人だから知るよしもない。だが、推測するには、周りに対して自分の言いたいことを言うだけ言い、衝動、欲望の赴くままにやりたい放題の行為をしてきて、今、事情は知らないが生活保護を受けながら、酒も飲み放題で高いものを食いたいだけ食う、恵まれた暮らしを送っている。それに感謝する慎ましい心など、彼はかけらも持ってはいないだろう。何故なら、自分が着る服には金をかけているが、子供達には放出品のような衣類をあてがい、そればかりか、その子供の栄養状態につく「劣」は、傍目越しに見ても分かる。 数日前、真由美の言ったことがそのままで間違いないのだろう。

 一体何が、彼を贅沢三昧の生保暮らしに駆り立てているのか。何が自分と、多分妻だけが酒をたらふく飲み、ステーキや鰻や刺身、寿司を貪り食う暮らしをさせているのだろう。いや、考えることは無駄だ。彼は自分の行く店の店員を自分の下僕だと本気で思い、その店を自分のものだと思うばかりか、我が子が下の兄弟に凄惨な暴力を振るうことを「筋」「決まり」と正当化し、それをごく常識的に諫める人間に牙を剥き出して、怒りを露わにする思考の造りをした男だ。つまり、日本語を話し、被服も知っていて、法律行為も出来るが、中身は「有尾」同然なのだ。

「じゃあ、俺が店長に直接言うからさ、ちょっと呼べよ。おい、呼べんだろ?」吉富が小さく体を揺すって言った時、店長に彼の相手を押しつけて自分は難を逃れようかという考えが一瞬涌いた。だが、それはしまいと決めた。愛美がくれた言葉を信じたい気持ちもあり、昔から天敵としてきた類いの人間との折衝にすくんでいる自分も確かにいるが、自分がどこまで出来るかに賭けてみたい思いもある。それに、今、相手役を店長にシフトするのは、あの店長が常日頃からやっていることと同じだ。

「はっきりと申し上げてしまうと、それは出来かねます。ビール券はレジカウンターで取り扱っておりますので、そちらでお求め下さい。これからご友人のお宅で飲み会のご予定でしたら、こちらのお刺身がお安くなっておりますので、よろしければいかがでしょうか」村瀬は客向けの誠実な話しぶりと笑顔を崩さなかった。その時、吉富の眦と口の端が吊り上がった。

「何勝手に客の話反らしてんだ、こらぁ、てめえ!」吉富は巻き舌の甲高くしゃがれた声を張り上げて詰めてきた。村瀬は、足をさっとスライドさせ、間合を取った。気がついた時には、正中線守りの左構えを取っていた。全くの無意識というか、自分が怯えた時の反応と同じ、不随意だった。だが、吉富は村瀬の前に眉間、鼻、顎、水月、金的、膝の急所をさらして棒立ちになっている。

「何、おめえ、空手やんの?」吉富が棒立ちのまま、怒りの中にも意外そうな顔で呟いた時、村瀬は周りの客から視線を注がれていることに気づき、構えた拳を下ろした。仮に吉富が暴行を仕掛けてきて、村瀬が正当に護身したとしても、空手が凶器と解釈されて過剰防衛に問われる可能性もあるし、その場合、いくら正当性が証明されたとしても、村瀬は退職しなければならなくなることもあり得るからだった。

「踊りみてえな寸止めの、色帯の何級ぐれえ持ってんだか知らねえけどさ、俺みてえなの相手にあんましイキんねえほうがいいよ。俺は喧嘩じゃ小学校で中学潰して、中学中退で駒込入って、毎日毎日、来る日も来る日も喧嘩なんてもんじゃねえタマの取り合いで、空手だのムエタイだの少林寺だの、何百人ぶっ潰したか覚えてねえくれえなんだよ。それに、こないだも言ったべ、呼べば来んのが大勢いるってさ」吉富はそこまで言うと、他の客の目を気にするようにぐるりと振り返ったが、その姿を見て覚えた感情は、憐れみだった。

人間に自信を与えるものは、学んで得た知識と、それによって開花させた、あるいは元から持つ才覚としての取柄のはずだが、おそらく彼は、何も持っていない。

 努力と才能は別質のものじゃない、本来才能があるから努力というものは出来るのだ、と、三日前の手繋ぎ式の帰り、愛美は言ったが、吉富は、努力のあとにやってくる充足や、その頑張りによって才能に磨きがかかる喜びを知ることがなく、また、そのきっかけを渡してくれるような人的資源も恵みがないまま、見た目で推定するところ、だいたい三十数年、中年の声を聞くのもそろそろという今の年齢まで来てしまったのだ。だから、今の世の中では一部にしか相手にされないようなことに執着して、あとは自分だけの快楽ばかりを追い求めて、自分だけがそれを誰に分けるでもなくどっぷり首まで浸かって、本能的欲求だけを満たすことを最大の関心事として生きている。当然、反省、内省する心も持たない。いや、それを求めたとしても得られない。

 村瀬には一切がはっきりと分かった。それは「性格」のせいではない。つまり先週の木曜、村瀬に向かって吐いた「身体障害者野郎」とは、自己紹介だ。自分の子供を愛し、守るという感情が根本から無い。だから、自分だけの快感を貪る行為で作った子供が何をしようが、何をされようが関心も持たず、頭の中の第一は、自分だけが愉しみ、悦ぶこと。もう誰が何を働きかけても無駄だ。

 それはそんな良心、好意の差し伸べに感謝し、それを受け入れるだけのⅠQが、彼には、実際にないからだ。相手を追い詰める理屈をこねることには頭が回るが、それ以外のことには全くの無能力で、何も出来ない。現に、ごく普通レベルに子供を躾けることさえ出来ない。生保を受けて暮らしているのも、一端に社会で金を稼ぎ出す力がないからだ。

「俺が穏やかに話してるうちに言うこと聞くほうが身のためだぜ。さっきのなんか、俺が本気で怒ったうちに入んねえんだからさ。俺は上総夏谷連合会の若頭張ってる健司さんと兄弟付き合いなんだよ。俺を怒らせるってことは、夏谷に戦争弾くってことになんだよ。おめえ、年頃の娘とかいんの?」

 吉富の口許に薄汚い笑いがへばりついた時、全体重が載りに載った村瀬の右正拳が、彼の脳髄まで破壊せんばかりに、鼻を狙い、しなって、顔面に吸い込まれた。堰を切ったように流れ出す鼻血に赤く濡れた吉富の驚愕の顔が、村瀬の頭に閃いた時、小谷真由美がさっと吉富の真横に詰めて立った。

「すみません。後ろで聞いてました。これ、強要と脅迫ですよね。それにカスハラです」真由美は吉富をきっと睨んで、いつも村瀬などの同僚達と話す時とは違うトーン、発声で問い質した。振り返って真由美を見た吉富の肩がびくりと小さく動いたのを、村瀬の目は見逃さなかった。

「うちは、確かにたいした規模のスーパーではありません。だけど、全部が全部ではないかもしれませんけれど、合わせて三店舗の支店で働く多くのスタッフは、大切なお客様に楽しくお買い物をしていただく接客を心がけて、仕事にあたっています。そのお客様方のおかげで、私達は生活を営むことが出来ています。そんな多くの大切なお客様が怖い思い、不快な思いをすることは、あってはいけないんです。さっきあなたがここで、周りのお客様方にわざと聞こえるように言っていたことは、刑法に接触しています。先週、あなたがこちらの村瀬に言ったことも、侮辱罪に当たります。このお店は、お客様方にとって、楽しい場所でなければなりません。それを分かっていただけるのであれば、これからも当店のご愛顧をお願いいたします。分かっていただけないのであれば、もう二度と来ないで下さい!」聞いている村瀬の横隔膜もぶるぶると震わせるような、真由美の喝だった。

 普段の真由美は、両親の愛情をたっぷり受けて育ったと思われる天然系の女性で、怒る姿、声というものが村瀬には想像しづらかった。それだけにひとしおの迫力を感じるが、やはりこれは、娘と母子で習っているという薙刀の成果だと思われた。

「何だ、それを言やぁ俺だって客だろうが。俺が言ってっことは、客としての要請だよ。強要じゃねえよ。その客の、もし出来たらっつう要請に、そんな説教なんてありなのかよ。おい、そっちのほうが刑法振りかざした脅迫になるんじゃねえのか?」吉富が体を真由美のほうへ向けて、目一杯凄んで言い放った。

「私はこの店と、ここで働く従業員の立場、お客様が第一の理念を一スタッフとして説明したまでです。どこの店舗でも、他のお客様やお店に迷惑をかける恐れのある方は、お帰りいただくことが常識ですよ」「俺がおめえらに何の迷惑かけたっつうんだよ。こないだは、うちの子供の何てことねえただの喧嘩に、この馬鹿が気取ってしゃしゃり出てきやがってよ、俺が並ぼうとした列に、ばんばん他の客が並びやがって、俺の買い物が遅れたから、当たりめえの文句言っただけだろうが。違えのかよ。違えんだったら、どう違えのか言ってみろよ」吉富は村瀬に顎をしゃくり、自分主観の身勝手な言い分を、真由美に顔をぐいと寄せて並べ立てた。

 コーナー付近を通り過ぎる客達は、前回と同じように、そのやり取りにちらりと目を遣り、すぐに俯き出すか、非ぬ方向へ視線を首ごと反らして、足早にいなくなる。延々と流れ続ける陳腐な曲が、その風景を彩っている。

「何だったら、夏谷の健司さん、今からここに呼んで、健司さんから直接話してもらおうか? あの人は、俺が呼びゃ、すぐ来るぜ」吉富は身を反り返らせて得意げに言うと、村瀬と真由美の顔を順繰りに見回した。

「お帰り下さい」真由美はより声を低くした。「そういう人が、あなたの頭の中だけなのか、本当にいるのかとかは、どうでもいいんです。でも、私なりに思うには、たとえそういう道に生きている人達だって、その世界で、若い人達を何人も束ねるような立場の人が、あなたのような人をまともに相手にするはずがないと思うんですけど、違いますでしょうか」

 一瞬、吉富の体がぴくりと震えたように見えた。「繰り返します。あなたはもう刑法に接触しています。お帰りいただくか、110番通報されて警察のお世話になるか、どちらでも好きなほうをお選び下さい」吉富の言葉がつぐまれた。瞼の垂れ具合と口許、足元の様子から、彼の心理状態にあるおろつきを、村瀬は見切った。

「覚えてろよ。このままじゃ済まねえかんな」吉富は、村瀬と真由美から二歩ほどバックステップしてから、細く剃った眉毛に皺を刻んだ力無いメンチと、漫画的なまでにありがちな紋切りを二人のどちらにともなく投げて、心なしか丸く見える背中を向けて、去っていった。その背中を、村瀬と真由美でゆっくりと見送った。

 肩をいからせた吉富の姿が、牛乳やヨーグルト、チーズなど、乳製品のコーナーの角に消えた。斜め脇の乾物売り場では、増本がバインダーとボールペンを手に、在庫チェックを行っている。先までのやり取りに関することはおろか、村瀬と真由美を心配する様子もなかった。

「ありがとうございました。助かったよ」村瀬の礼の言葉に真由美は短い時間微笑んだが、微笑みが消えると、彼女は下を向き、色白の頬を痙攣させ始めた。

「ごめんね。無理させちゃって、本当に申し訳ない」村瀬が言うと、真由美は体を震わせて、鮮魚コーナーの前にしゃがみ込み、眼鏡に指を下から差し入れるようにして顔を両手で覆った。村瀬の胸に、彼女への詫びと、自責の思いがひしひしと満ちた。仕事に厳しいしっかり者の前任店長が異動することがなかったら、吉富のような人間があそこまで図に乗ることはなかった、と、村瀬は思った。

 始めに自分がもっとぴしゃりとしなければいけなかったのにも関わらず、他の安い商品を代わりにと薦めるなどして、体よく吉富に媚びたことにより、本来自分がやらなければならなかったことを、女の真由美にやらせることになり、心に傷を負わせてしまった。先週に確かに激しく覚え、一度は自分で収めた怒りが、また村瀬の中にこんこんと涌き出してきた。

 そう思った時、先まで裏方の入出庫を手伝っていた、村瀬よりも年長の石原加寿子が出てきて、しゃがんでいる真由美を見て、目を丸くした。

「休憩室に連れていってあげて下さい。今、すごくショックを受けてるから。店長には、私が説明しておくんで」加寿子は、おおよそ何が起こったかを吞み込んだ表情で、真由美の前にしゃがみ、短い言葉かけをすると、彼女の手を取ってゆっくりと立たせると、肩を抱いて、村瀬に見守られながら、観音開きの錠無し扉の向こうへ消えた。

 吉富はどうしようもない小物の類いだが、粘着質で執拗だ。これこそがまさしく彼のたちの悪さだが、もうひと、ふた悶着にしばらくは気をつけようという思いを抱きながら、村瀬は半額引きシール貼りに戻った。吉富の弱みはすでに分かっているが、そこを突かれて、居直って行き掛けの、という可能性は大いにある。それはその性質をよく覚えている兼田のこと、行員時代、やくざに絡まれた経験から言えることだった。やがて怒りは、どれだけ年齢を重ねても厚かましさが変わることのない美咲にも向き始めた。

 吉富を撃退した真由美は、カーディガンを肩にかけてもらい、事務室のデスクに突っ伏していた。女性の同僚が時折、大丈夫? と声かけをしても、顔を伏せたまま、声なく小さな頷きを返すだけだった。増本はそんな真由美に声をかけるばかりか目も当てることなく、離れたデスクで事務仕事を行っている。その顔には、さも真由美が余計なことをしたと言いたげな不機嫌の色が漂っている。

「小谷さん、本当に申し訳ない」村瀬は、真由美の伏せた顔の高さに腰をかがめて詫びた。

「俺があいつに対してもっと毅然と出来なかったから、こんな負担を小谷さんにかけちゃったんだね。だけど、小谷さんに言われたことが、今回あの男にもだいぶ効いただろうから、多分、当面あいつは来ないと思うんだ。だけど、いつかあいつがまた来たら、今度は俺が責任持って追い払うよ。だから、すぐには無理だろうけれど、元気出して」村瀬の言葉に、真由美は二の腕の上に載せた肩までのショートカットをした頭をずらして、洟を啜った。村瀬は肩と顔を落として、売り場のほうへ向き直った。

「しょうがないですよ。うちは資本金七百万程度の零細で、運営の連中は顧問料出すのも渋ってるし、この支店は店長が店長だし、それで今回はたまたま小谷さんがババを引くことになっただけですから。先週の時は自分は休みでしたけど、その時は、村瀬さんのほうが災難でしたね」五分刈りの頭をし、背のひょろんとした同僚の香川は、退勤打刻を済ませて私服に着替えた村瀬がレジカウンターに持ってきたあんかけ焼きそばと牛乳をスキャンしながら、下を向いて呟いた。

「村瀬さんが、やることをちゃんとやった上で起こったことじゃないですか。だから、そんなに気に病むこともないと思いますよ」「そうかな」「そうですよ」

 香川は村瀬を見て、励ますように微笑した。「四百一円です」「はい」村瀬はスイカをタッチした。会計が済んだことを知らせる電子音が流れた。「お先に失礼します」「お疲れ様です。ずっと接客やってきた村瀬さんにはお分かりでしょうけど、不特定多数の人間を相手する以上、こういうことは普通にあることですよ。頑張りましょう」「ああ」香川の顔を見ずに軽く頷いた村瀬は、購入したあんかけ焼きそばと「牧場の恵み」牛乳をトートバッグに入れて、自動ドアへ向かった。彼の体重に反応して開いたドアの開閉音は、心なしかいつもよりも重く思えた。自分の体も重く感じる。

 店を出て、足取りも重く、前原駅の津田沼方面西口を目指した。自分の体重を引きずるようにして歩きながら、経済的援助も復縁も断る連絡を美咲にしようと思った。一階に接骨院、美容室のあるマンション前に来て、踏切が前方に遠く見え始めた時、どんどん、ずんずん、というリズムに、語るように唄う若者の声が載るラップ曲の音量が後ろから迫り、煽るようなエンジンの空ぶかしが、村瀬の真横に来た。村瀬が体ごと振り返り、足を止めると、黒のアルファードが路側に停まっていた。腸に氷を差し込まれた感覚を覚えた。だが、体は即応体制を取っている。

 リアシートのウィンドウが全開になっており、吉富の息子であるけんとが、そこから村瀬を睨み上げている。それはいたいけな児童の顔ではない。まだ十歳になるかならないかの年齢にして、すでに一端のチンピラの風格だ。先週には黒かった、後ろ髪を伸ばした髪が、父親と同じ金髪に染まっている。齢幼くして「決まった」その顔のバックに、TURBOで掻き切れ、頸動脈、(ICE!)JETでぶち込め、IRONSTICK、(RAPE!) 俺ら、最強愚連隊、という歌詞がスクラッチに載ったジャパニーズ・ギャングスタラップが流れ続けている。

 しばらく、けんとからの嬲るような視線を浴びたのち、運転席のドアがゆっくりと開き、吉富が降りた。ボンネットを回り込んで村瀬の真ん前に立った彼の手には、白木の杖のような棒が持たれている。 
 
 吉富がしゃらんと鞘を抜くと、長い刃身が現れた。村瀬はその時、凍りつく思いの中で、自分の体が気持ち右前構えの前傾姿勢で、足の踵が程好く浮いていることに気がついた。向かって左からの長得物の攻撃に対応する体勢だった。

「おい、こら、てめえ。この段びら、滅茶苦茶血ぃ吸ってんだかんな。てめえ、そのうちぜってえぶっ殺してやっかんな、この野郎。てめえは東京湾送りで、年頃の娘はビデオ撮られてピー屋に売り飛ばされんだかんな。覚えとけよ、このシンチャン野郎」吉富は長ドスの先端を村瀬の胸元に向け、眉間を歪めて村瀬を睨み据え、所々巻き舌を加えて、潰した声を絞り出して言うと、白鞘の長ドスを鞘に納めて、運転席に乗り込んだ。おそらく遊び仲間あたりからの借り物と思われるアルファードは、派手にタイヤを鳴らしてUターンし、元来た方向へ走り去ったが、リアウィンドウから村瀬を見上げるけんとの、たっぷりとした嚇しを込めた顔が焼きついた。その様子を、自分だけが難を避けたいという表情もあからさまに遠巻きに見ていた老若が、自分が行こうとしていた方向に向き直って歩き出した。

村瀬と吉富の間を縫って、蹂躙、輪姦、制覇、制圧、という日本語単語を英語風発語でシャウトするJ―ギャングスタラップは流れ続けていた。

 吉富が車内に引っ込むまで残心を解かなかった自分がいることに、村瀬は気づいていた。右前構えをさっと元の体勢に戻した時、髪の生え際からぼとぼとと汗が滴った。とくとくという心臓の音を、頭蓋の中から聞いていた。唇を尖らせて息を吸い吐きし、呼吸を整えた。

 あいつと体と体で戦う分には、身体能力、技術的には尋常に戦える。必ずしも負ける気もしない。だが、やはりああいう言葉を聞くと生きた心地がしなくなるのが、血の気が少ない俺の性質的特徴だ。そんな思いを胸にしながら、   実籾駅のプラットホームに降りた。

 いつもの道をたどって家に帰り着くと、心と体に刻印されてまだ残る緊張に震える手で、レンジで温めたあんかけ焼きそばを掻き込んで食った。食欲はないが、食べなければ体が持たない。あんかけ焼きそばを食い終えた時、また怒りが噴き出してきた。

 シャワー浴を済ませ、寝間着に着替えると、箪笥の引き出しにしまっていた、美咲からの一通目の手紙を出した。その手紙には、連絡先が書かれている。村瀬はスマホを手に取り、発信元非通知の操作をしてから、書かれている電話番号を直接入力し、発信ボタンを押した。

 十回ほどのコールののち、通話が始まったことを知らせる音がした。受話器の向こうはばかに静かだったが、何テンポか遅れて、はい、という女の応答が流れた。疲弊した、沈んだ声だが、それは確かに美咲の声だった。

「美咲か。俺だ、豊文だ」「豊文さん‥」村瀬が送った声に、美咲がはっとなったような声を返してきた。

「手紙を読んだ。復縁とかって、何の意図があるんだ。それを聞きたくて電話したんだ」村瀬が言うと、美咲は黙りこくった。村瀬は彼女の沈黙に合わせ、言葉出しを控えた。美咲の吐息が、スマホの通話口に響いた。しばらくして、だから…という弱い語気の言葉が沈黙を破った。

「決まってるでしょ。手紙に書いた通りの意味よ」「だから、何のために復縁なんかする考えでいるんだ。あの頃と同じように、また俺の稼ぎにぶら下がるためか」口が立ち、夫を瞬時にやりこめていた婚姻時代が嘘かと思えるほどに歯切れの悪い応対だが、今、通話口向こうにいる元妻が抱えているものが窺い知れる。

「恵梨香と博人は、今、どうしてるんだ。学生なのか。それともふらふらしてるのか」「恵梨香も博人も、働いてないのよ。だから私が、家賃溜めて、それで浮いたお金で食べる物を買って、何とか光熱費も払ってるの。そうでなきゃ、私、本当に飢え死にだよ‥」「いいか」村瀬は両親の遺影に目を走らせながら、念押しの語句を絞った。

「俺と君は、昔に戸籍上の夫婦だったっていうだけで、今は関係ない。あの子供も、君の子ではあっても俺の子じゃない。心にもないすみませんだの、反省してますなんて言葉を並べることは誰にだって出来る。今さら君にそういうことを言われても、俺は腹が立つだけなんだ。借金があるなら、任意整理か自己破産で何とかするんだ。あの離婚は、君が俺を追い出したのも同じなんだからな」「豊文さん、そのことで話が」「聞きたくないよ」美咲が事情の理解を乞うのを拒絶したが、マイクにリバーブする自分の声が優しいことに、村瀬は自分の持つ気性がよく分かる思いがした。

「トラウマっていうものが、女だけが負うものじゃないことを分かってくれ。それを分かった上で、本当に反省する心を養ってくれ。今の俺には、これしか君に言える言葉はないんだ」「だから、そのことは‥」美咲が泣くような声を発した。

「さようなら」村瀬は言って、通話終了ボタンに人差し指を当てた。耳を離した通話口から、悲鳴めいた美咲の声が響いた。待って、今、私、学んでるの、と言っているらしい声が聞き取れたが、村瀬は一寸躊躇してからボタンを押した。電話を切り際、豊文さん! と美咲が叫んだ。通話終了の白い文字が表示され、電話が終わった。学んでいる、とは何のことかと一瞬思ったが、すぐにさほど気にならなくなった。意味の分からないたわ言であり、その意味を深追いする気分にも、今はなれない。少なくとも、健常とされる人間に抗う力のない障害者の女の子を、その母親と公衆の目の前で「見ると目が腐る」などと嚇し罵り、今、それを反省しているかどうかも疑わしく、または「やりすぎた」程度にしか思っていないような女の言うことなどは。

 言うことは言った。香川がくれた気休めに倣って、そんな思いを抱いた。ようやくリモコンを取ってテレビを点けると、「うたのわ」の三時間スペシャルが映し出された。

 愛美は自分に、自分の趣味、嗜好を訊いてきた。自分はそれに対して、噓偽りのないありのままを答えた。

 そう言えば、あの娘は歌番組が好きだと言っていた。淡白な手繋ぎの愛美とは違う、何かを自分に訴えかけるような握力と、何とも形容し難い感情を、掌を通して伝えてくる菜実は。

 一難去ってまた一難 だけど気合と根性さ 来るなら来てみろ龍神工業 今日も飛ぶ飛ぶ涙のフニャパン‥

リズミカルなダンスビートに載せた奇抜な歌詞を唄っているのは、ロマンフルドキュンという紅一点の四人組ユニットで、剃り込み入りのリーゼントにパンチパーマ、蜂の巣パーマに踝まで飲み込むロングスカート、スカジャンなどの昭和風ツッパリヘアにファッションを決めて、数々の試練に遭うことなど突っ張ることのリスクをコミカルに唄い、ダンス、アクション、ショートなコントのパフォーマンスを観せる。若者達は普通に受け、年配の層からは「教育にいい」という評価を得て歌番組、バラエティに露出し、CDも売り上げて、動画の再生回数も順調に増やしている。

 真面目な恋愛したくても 寄ってくるのはとっぽいのばかり 玉砕覚悟のラブレター、とメインボーカルが唄うと、じゃあ突っ張んな! という突っ込みの台詞が飛び、観衆の笑いが巻き起こった。村瀬はその歌詞テロップを一瞥すると、調子のいい詫びが書かれた美咲の手紙を、一通目、二通目を重ねて、縦に二つに割るようにして破った。さらに横に破って四等分すると、丸めて、窓際のごみ箱に投げた。丸まった手紙は、ごみ箱の縁に当たって床に落ちた。

 娘と息子、二人の子供がどういう人間として醸成されているかが、「そういうもの」感を伴って、思い浮かんだ。村瀬はロマンフルドキュンの歌を右から左へ流すように聴きながら、椅子を立ち、床の屑をごみ箱に捨て直した。言うべきことは言った。もう関わるまい、と堅く思った。その成り立ち自体に、愛という要素のない結婚と、惰性同然の出産、子育てだった。それで養育された人間にまっとうに育てというほうがおかしい。吉富の子供と同じように。

 選局ボタンを無造作に押し、「うたのわ」からチャンネルを変えると、幕末維新をテーマにした歴史特集が映った。それから囲碁番組、爽やかな木琴演奏の主題曲で親しまれる料理番組などチャンネルをサーフィンしてから、歯を磨いて布団に入り、消灯した。今日、吉富が突きつけてきた青白い長ドスの刃身が、頭にちらついた。何度も寝返りを打ち、午前の時間になってからようやく浅い眠りに吸い込まれた。

 短い夢を見た。短いが、音声も色合も現実めいて鮮明だった。夢の中で、村瀬はクラブのような店にいた。ブースでターンテーブルを回すDJがいて、もはや自分とは生きている文化の違う若者達が、鳴り響くテクノに合わせて体を揺らしている。彼らの親のような自分が何故入店を許されたかは、そもそも夢ということもあって不明だった。毒々とした暗い照明に照らされ、レーザー光線が走る席に、一人の女子が座っている。その娘の前には、ジュースにもカクテルにも見えるドリンクが置かれている。人目を引くほどの美人でもないが、若い女ならではの華がある顔立ちをしたその女子は、夏服の、濃い青のフリルつきシャツに黒っぽいスカートの姿をしていた。髪は、紺のリボンで結んだポニーテールだった。夢の中の村瀬には、それが吉富の娘であるじゅりあの、二十代に成長した姿だということが分かった。

 村瀬が、分かってほしいんだ、という語彙の声をかけて、寂しげに落ちた彼女の肩にそっと手を置いて、何かの説明、説得を試みるが、ほっといて、と聞き取れる、悲しげで投げやりな返事を返される。やがてじゅりあはドリンクを取って一気に飲み干し、席を立ち、フロアで踊る男に色目を送って笑い、体の距離も露骨に、テクノに合わせてステップを取り始める。村瀬はなす術なく、立ち尽くしてそれを見ているという内容だった。

 立ち尽くしている時の気分そのままに目が覚めた時、部屋はまだ暗かった。目覚まし時計の液晶を見ると、四時十三分と出ていた。

 先までの夢の中にいたじゅりあの様子は、村瀬の持つ人生観に忠実なものに留まっていた。都合のいいお伽話があるかないかはさておき、分別のない頃に身を置いた環境が、有無の選択権のない世界から与えられたものだとすると、それに抗うことは出来ないものだと思う。つまり、「そういうもの」というばっさりとした答えばかりが想起される。二階寝室の暗い天井を見上げていると、昨日の夕方、スカイラインのリアシートから村瀬にメンチを飛ばしていた兄のけんとが、彼女の背中をスニーカーの底で踏みつける音、子供を嚇す吉富の怒声が甦り始めた。

 夢の中の自分がじゅりあに切と言っていた、分かってほしい、とは何だろう。まさかあの毒父を理解し、受け入れてやれという意味ではあるまいということは言える。だが、強いて言えば。

 堂々巡りの思考を巡らせている間に、部屋が少しづつ白み出した。その時、木曜の今日が公休だということを、村瀬は思い出した。

 県道六十九号を走る送迎のマイクロバスは、いつもと同じく、吐息が静かに響き、時折喃語の声が上がっていた。自分が座っているのは、二列目シートの窓際だった。窓外を習志野の街路樹が通り過ぎ、車は船橋の宮本へ向かっている。今日の運転手は定年の年齢をとうに越した男だが、毎度のように愛想はない。バックミラーを見ると、どこか陰険な感じのする目が、自分の目と合う。

 三山から宮本まで、だいたい二十分と少しだが、月曜から金曜までの行き帰りの時間、胸の中には、白々とした虚無がもやのように立ち込める。窓から見える景色は物言わず、九時から十五時半まで作業を行う室の風景も変わらない。支援員がしばしば飛ばす、きつい注意の声も日課だ。月の工賃は一応九万円前後ほどだが、これは自分の喜びを買うための金にはならない。それと呼べるものがあるとすれば、男達が自分に握らせる金だった。籍を置く団体からの不定期的な歩合報酬は、受け取った分は基本的に自分のものにはならない。工賃以外には月七万円程度の障害基礎年金だが、合わせて十六万の収入は、その九割が住居の維持費に変わる。

 通所先は船橋市の、港の近くにある「NPO法人ダブルシービー」、「せいかつかいご」「しゅうろうけいぞく」というふたつのグループが併設された施設で、自分は、しゅうろうけいぞく、に配属されており、利用者は自分を含めて、男子女子合わせて三十人ほどいる。

 それぞれ別施設へ行く同乗の男女がその通所先で降ろされると、いつもと変わらず、グループホームを別にする、自分よりもいくらか年少の男子と二人で、ダブルシービーに送られた。この男子は在宅の人で、自分と違って「せいかつかいご」の部門を利用しており、足に装具をつけて、くるり、くるりと体をよじって歩いている。

 ネームプレートを首から下げた、男二人、女一人の支援員が、自分とその男子を出迎えたが、みんな、朝からにこりともしない。ここの職員はこういうものだ。男子のリュックサックを一人の支援員が持ち、もう一人が彼の手を引いて、鉄筋コンクリート造りの平屋建ての母屋へ誘導した。濃い緑のフェンスに囲まれた敷地はさほど広くはなく、何台かの乗用車、バイクが停まっている。

 支援員の女に付き添われて屋内に入ると、女子更衣室が空くまでということで、ピロティ近くの背もたれなしのソファで、他二人の利用者と一緒に座らされ、待たされた。灰色の壁に囲まれた廊下には、作業用の着替えを時間はかかりながらも一人で、または支援員の介助を受けて済ませた男女が、おぼつかない足運びで、または支援者に手を引かれたり、車椅子を押されたりしながら出てきて、これから着替える人達と行き交う。主に、急いで、という旨のぴりぴりした声の指示と、声質は大人のものだが、乳児の喃語のような言葉になっていない声が、その空間に交差する。

「どいて」身障者トイレの前に立つ男性利用者に手を払うしぐさをし、苛立ちを隠さない顔と声で言ったのは、重心の男性利用者を乗せた車椅子のグリップを握った、まだ二十代の顔をした支援員の男だった。「白木さん、どいて。そこに立ってられると入れないんだよ」その口調はまさに詰るそれだが、白木という利用者は、両腕を垂らした前のめりの姿勢で立ち、焦点の空ろな目線をどこへともなく投げて口を縦長の形に開けた顔で、動こうとする様子が全く見えない。

 どこかからは、高齢の女性利用者が発する、金切り声の叫びが聞こえ、男子更衣室からは、「‥だぁ、こらぁ! ‥だ、この野郎! 」といういいドスの啖呵も響いてくるが、これを発しているのは職員ではなく、利用者だ。

 自分がちらりと聞いた話では、やくざ映画の大ファンだという四十代の、自分と「しゅうろうけいぞく」部門を同じくする男だが、少なくとも装飾品というものを彼よりは知っている自分には、ワンコインで買ったものと見てすぐに分かるサングラスをかけ、同額らしいネックレスやイヤリング、指輪をいつもちゃらちゃらとつけて見せびらかし、自慢のつもりか、「これ、百円ショップのやつだぜ」と得意になって話す。休憩時間などには、他のもっと能力的に低い人を捕まえて、二言目には喧嘩、またはやくざ、愚連隊がというワードで始まる話題を振ってきて、訳の分からないことを延々と話し続ける。

「邪魔だっつってんのに!」支援員は感情を露わに大声を張り上げると、車椅子の前にどかどかとした足取りで歩み出て、利用者の右腕を力任せに掴み、引いた。利用者はたたらを踏んで、足をもつれさせて尻から床に引き倒された。

「だから嫌なんだよ、こいつよぉ!」車椅子を押して身障者トイレに入っていく支援員の詰りに、利用者は何を言われているのかも分からない面持ちで、床から支援員の顔を見上げている。支援員は身障者トイレに車椅子の利用者を入れ、扉を、ばんとラフに閉めて消えた。尻餅をついた利用者を介助し、立たせようとする者はいない。唸り声と叫び声、高圧的な口調の注意、利用者を急かし立てるような職員達の声が響く中、見ていられない思いに駆られ、椅子から腰を上げ、座り込んだままの男性利用者に歩み寄った。

「立てる?」言って異性の利用者の前にしゃがみ、両手を取って引いて立とうとした時、女がやってきた。

「余計なことしなくていい。君じゃ危ない」利用者の両二の腕を持って言ったのは、自分よりも数歳上に見える年恰好の吉内叶恵(よしうちかなえ)という支援員だった。項を刈り上げ、アシンメトリーと呼ぶらしい、垂らした左右の前髪の長さが非対称な髪型をし、小柄でぽちゃっとしているが、何かの意を決したように鋭い眼差しを持った女で、男言葉を遣う。だが、男のようなその言葉つきには、その辺のヤンキーガール的な下品さがなく、嫌味がない。むしろ男装の麗人的な凛然がある。自分はこの支援員に、他の支援員が持っていない温かさを感じる。自分をしても楽に仕事をしているように思える、施設長の他、その下に就くスタッフから、いつも、自分達利用者の目の前で、棘の立った言葉つきの叱責を受けている。それに対し、何の反論もすることなく、黙って忍従している姿を、自分は紅白と「ゆく年くる年」の数を数える年数見ている。それが、彼女がひたすらに我慢強く根性があるからなのか、別の理由をもってなのか、自分の知的な力などでは、とても計れる気がしない。ここが職員の出入りが激しいからこそだった。

 叶恵は、若い職員に引き倒されて尻餅をついた利用者の足甲を踏んで、彼を立たせながら、いつもと変わらない怜悧な横顔を見せていた。

 村瀬は、鮭茶漬け一杯の簡単な朝食を済ませてから、両親の遺影に見下ろされる狭い居間で、昔に習った空手の型を繰り返して舞っていた。点け放しのテレビからは、夜の新ドラマの紹介や、人を助ける立場の人間がしばしば犯す、よく「容疑を否認しているということです」で終わる、なくならない類いの情けない事件報道のニュースが流れていた。平安を三段まで舞ってみた。動きの意味は、正直、今もよくは分からない。だが、これを昔の時分に体に覚え込ませたからこそ、昨日のようなことに対処しようと出来るのだと思えてきた。動画を検索し、動きをチェックすると、細かい箇所は作ってしまっているが、おおかた覚えていることが分かった。だが、動きはかなり固くなっている。

 黒のジャージに着替えて、車道を挟んで裏手にある、図書館脇の公園へ行った。道着は、教室を退会してから廃棄したため、今はない。

 常緑樹に囲まれた土の上で突き蹴りの移動を繰り返した。動きの切れはだいぶ落ちていると感じた。そこへ村瀬よりもだいぶ若い世代の母親が、ブレザーに半ズボン、黄色い肩掛けカバンの男児の手を引いて通りかかった。これから幼稚園に遅れて登園するところらしい。男児は、前蹴りの移動を行う村瀬を興味深い目で追い、「ジャッキー・チェンだ」と歓声を上げた。村瀬は振り返って、その男児に小さな笑みを送った。三十代の母親は何の関心も示さず、ただ男児を引いて、幼稚園の方角へと歩を進めるだけだった。頭上はるかな空は、やや晴れたり、曇ったりと落ち着かなく色を変えていた。空挺団員を演習場にばら撒いたあとの陸自の輸送機が、西の方角へ飛び去った。


 テンポは早くはないが、慣れている。ソフトプラスチック製の、赤いチューリップを模した造花を、一本のテープで三本一組にまとめ、「高級レプリカフラワー」とラベルが貼られた袋に詰め、まとまった数の袋を、支援員と一緒の別利用者が台車で回収、角に設けられたデスクで、また別の利用者が、品名のロゴがついた上部分の厚紙を芯のサイズが大きいオートホチキスで留めていき、ケース積みされたそれが出荷の仮置き場に運ばれていく。「スピード上げて。そんなんじゃ、明日の出荷に間に合わないよ!」ボールペンの箱詰めを行う一角から、女の支援員が注意の声を飛ばした。

 今日、この作業室には、自分を含めて十二人の男女が造花、文房具、アクセサリー、園芸用品にセクション分けされて、割り当てられた仕事に従事している。受注元は、規模としては中くらいの百均ショップチェーンだが、増築工事で隣に建てられた工房では手作り弁当、菓子類が製造され、近場の駅ビルや病院などで出張販売されている。

 今、自分が紡ぐ生の世界が辛いかと訊かれたら、答えることは難しい。反対に楽しいのかと問われたら、それこそ答えようがない。自分が若い年齢の女に相応しい外観を与えられ、一時的な承認の歓びを味わうことが出来ているのは、所属する団体の「法徒」として、不特定の男に自分を販ぐことの代償だからだ。生まれた時から置かれてきた境遇に抗議の感情があるか。それらしきものを抽出してみれば、自分が何故たまたま、この荷物を背負って生まれてきたのかと、これまで関わってきた一般とされる人々と、土日祝日に歩く雑踏の景色を見て思うことに集約される。そこから先は考えが及ばない以上、言うなればこれを買い切るしかないのだろうという思いに行き着くだけだった。

 私は石。底のない闇を垂直に落ちていく、私の生。それは今、「無期」で獄に繋がれている親のため。自分が「ほうぎょう」と呼ばれる行いを団体から割りつけられ、団体から受け取る「おふせがえし」の報酬を密かに貯めているのは、いつになるか分からない仮釈放を得た母親と、前よりも幸せな暮らしを送るためだが、その時が来たとしても、その頃、母娘で何歳になっているかは分からない。

 未包装の造花が入った段ボール箱が三つ、自分の脇に置かれている。一箱目が空になり、空箱をカートに置いて、二箱目の中身を出した。造花の三本セットをこつこつと作っていると、これまで、いや、これからも続くはずの事象が、映像と音声になって再生され始めた。

 貧相な、あるいは贅を詰めた体をした年長の男達が、偏執の目で自分の体をねめ廻し、その体に手をかけ、弄り回し、のしかかってくる時の、ベッドのスプリングが軋む音。口に押し込まれた性器の苦みと、劣化したビニールを思わせるそれの臭み。汗と唾液、精液の臭気が漂う、低く押し殺した吐息。顔にかかる、歯槽膿漏の口臭。カフェやカラオケの時は優しく、どこか自信なさげだが、ホテルや、連れ込んだアパートで突如居丈高になり、レイプのように自分を抱く男達。その中には、複数の男を相手にしなければいけなかった時もあった。その一方で、本気の愛を、時に泣いて訴えてくる男。ほとんどが、自分よりも二回り以上年嵩の者だが、その中には、顔や表情の動き、挙措、言葉などから、自分と同じ匂いのする者が、数えて何人かいる。それを持って生まれたから、団体の集金システムに組み込まれたわけだが、物事の筋合という意味でも、それは自分などがどうにか出来ることではない。自分が彼らに玩弄され、欲望を胎内に放たれてきた理由は、庇い、慕う母親のためだけにある。

 いつかは二人で、困窮のない暮らしをどこかで送る。思えば思うほど、頭の中に虚しく木霊する願いを心に持ち、毎日、月曜から金曜まで、工賃をもらうため、製品の仕分け、検品で日が暮れる。それが終われば、あそこに帰るしかない。同居者がみんな息を殺し、肩をすくめて暮らすあのグループホームに。

「終わった?」向かいで、銅で鋳造されたイミテーションの指輪を小さな透明アクリルのケースに入れ、積み上げる作業を行っていた男の利用者に、中年だが、長い髪を後ろで結った男の支援員が声をかけた。隣の班室からは、やくざ映画ファンの利用者が発する「いちいちうるせんだよ! てめえ、家族ごと皆殺しにすんぞ、こらぁ!」という暴言が漏れてきた。「終わったら、梱包入って」長髪の支援員は角の梱包機を指し、気だるい口調で命じた。

 目の前のそんな様子を見やり、隣の室から響いてくる、支援員か同じ利用者相手ともつかない怒声を聞きながら、三日前、自分が参加者を装った「手繋ぎ式」で、元々の仕掛けの下に同じ鳳凰コインを引いた、むらせ、と名乗った男のことが、また頭に浮かんだ。会場の多目的室と公園に差した茜の光の中で自分の身を抱いて寄せた、打ち明けてきた年齢と見た目の追齢感がそのままの、彫り深い顔立ちだが自己アピールは控えめで、優しく誠実な眼差しをした元銀行員という中年の紳士だが、この男には、これまで自分を抱いてきた連中との決定的な違いを感じていた。

 奏の杜での道中に握った掌からは、隣の自分を守ろうという堅い意志を、あの茜の中で彼の腕と胸に入った時、自分が「支援区分3」と認定された人間であることを知ってか知らずか、過去に何があったのかは分からないにせよ、彼の心から切々と滲む、自分のような人への抑えようもない詫びを感じ取ったからだ。

 年齢は、自分よりもだいぶ行っている。だが、「会いたい」と思った。それが団体の「ほうぎょう」の枠の中で望むものなのか、そうでない何かが根底にある思いなのかは、自分でもまだ分かりかねている。だが、もしも彼の中に「詫び」があるとすると、過去に何を経ての詫びなのかを知りたい気持ちもあり、今は、そちらが優勢かもしれない。

 電話をするのもいいけれど、息を詰めながら寝泊りするあのホームに、花を抱いたむらせさんが、ひょっこりと訪ねてきたら。空想をよぎらせた時、昼食休憩の声がかかった。隣の棟で製造している弁当が二百五十円で食べられるので、それを利用しようと思った。テーブルの上の造花をまとめて椅子から立ち上がると、別の女性利用者の段ボール解体を補助していた叶恵と目が合った。お互い特に言いたいことはないけれど、という風に意味はなく数秒間見つめ合い、どちらからともなく視線を外した。


 村瀬は、昼までの時間を、思い出したり、動画などで確認したりの空手の一人稽古に費やしたのち、宛てなく散策に出た。やってはみたが、勤務時間との兼ね合いなどもあり、まだ本格的に再開しようと思うまでの気持ちは立ち上がってはいない。それにかつて自分が通っていた教室は、すでにない。あの時の先生も、もし存命だとしても、かなり高齢だろう。いや、入会の時に「私は今、六十四なんですが」という年齢明かし、予科練に在籍していて特攻隊員に選出されかけた時に玉音放送が、という話では、存命の可能性は決して濃くはない。時間の都合がつく道場があったとしても、指導者との相性もある。いかにも武闘派な色を押し出していて、横暴な指導員が罵声を飛ばしながら教えているような所には、そういう人間を師と仰げないという意味で、行きたくはない。昼食は、地元のコンビニで買ったお握り二つを緑茶で流し込んだ。実籾駅脇の、神社を擁する道をずっと大久保方面に向かって歩きながら、これからどうする、と自分に問いかけた。そこで、たとえてみれば、「休む」という考えが思い浮かんだ。子供の頃から青年期まで、がむしゃらにペンを持って勉強し、ある時期まであの健康空手道をやったが、そのあとは、大変な仕事に埋没してきた。そんな過去を経た上で、これからどうする、とは、今の村瀬の中で、他に意味はない。

 愛美は、自分に興味と、アバンチュール的な好意を持っていることは分かるが、現実に既婚者で、子持ちで、手を出す時は厄介事を覚悟しなくてはいけなくなる。確かに今は別居と言っていたが、先のことは分からない。

 消去法を採って考えれば、菜実をどうするか、になる。それが分かって、昨日から心に張っていた、表には出せない怒りと、いつまでも昔に足を引かれる苛立ちの思いに晴れ間が見えた時、村瀬は日大から大久保駅まで伸びる商店街にいた。神社、昔からの小レストランや喫茶店の間に新興飲食店が立ち並ぶ通りで、華やぐ講義帰りの若い男女の姿を見遣りながら、「取り戻せるかな」という思いが胸の中に立った。

 菜実が、軽度の発達障害のようなものを抱えた子であってもいいと思った。手繋ぎで二番目に組んだゆきは、社会の中でまず普通には生きてはいけないレベルのハンディキャップが、人によっては見るだけで分かるだろう。彼女だけでなく、いきなり村瀬をホテルに誘ってきた、月子も。だが、スマホを通話専用にしており、ラインというものも知らないことが分かった菜実も、範囲は不明だが、「それなりに軽くはない」とも思えた。だが、再び胸の中に拡がった四日前の茜、その中で、髪飾りのように前髪に蝶を留めて微笑む菜実の姿、彼女を抱いて寄せた時の体の触感が、現実に見て知ったそれらを曖昧化した。腕時計を確認すると、時刻は十五時を過ぎていた。

 そのまま、習志野警察署の前を通るようにして、時折ベンチで休憩しながら、津田沼近くまで足を伸ばし、来た道を引き返した。薬園台方面の車線がえらく渋滞していることに気がついたのは、交差点を挟む日大前に差しかかった時だった。泉町から三山へ続く車の列が、のろのろ運転の自転車のような速度で移動しており、運転者の苛立ちがよく伝わってくる感じがする。「‥メートル先で排水管の埋蔵工事を」その他という看板が立っていないことから、原因は事故だろうと思われる。

 車は数珠繋ぎになっている。その眺めを、反対車線側から眺めた村瀬には、渉外担当時代に自らがハンドルを取る支店の車が渋滞に巻き込まれた時のことを思い出した。社有のPHS越しに顧客から怒鳴られて、ひたすら謝り倒した日のことだった。

 停まったきりになった車群の中に、(株)ヤマショウピックアップサービスという社名が車体に描かれたマイクロバスが目に留まった。その社名に関心をそそられることはなかった。だが、横顔を見せて、マイクロバスに乗っている何名かの人達の姿が気になった。

 考えていることの計り難い表情の顔を外に向け、こちらを見ている男、その後ろには、横顔だけでダウン症候群と分かる女の子が乗っている。

 その後ろ、最後部シートの窓際に座って横顔を見せている女の子は、外見にはまるでと言っていいほどハンディキャップを感じさせていない。後ろで束ねた栗色の髪、白い肌に豊かな頬、下垂した目元の顔立ちが、距離を越えて村瀬の目に捉えられた。全体を動物にたとえれば、キタキツネ。

 寸分見まごうことなく、その女の子は、菜実だった。

 村瀬は驚きをさほど覚えない思いの中、ウィンドウの向こうにある菜実の横顔を見据えた。自分の持つ権利の一切を、村瀬には分からない何かに喜捨しているような、諦めを刻んだ目と口許をしている。

 村瀬は、船橋方向の車列が途切れたところで、道路を渡った。薬園台方面に縦列する、車と車の間を抜けて、大学側の通路へ出たが、アクセルを踏みかけた後ろの中型トラックに乗る男が、「危ねえな、馬鹿! 何考えてんだよ!」と車内から怒鳴る声が聞こえた。クラクションは鳴らなかった。声色などから、一本気だが粗暴な気風を持つ職人気質の男であることが想像されたが、村瀬は気にならなかったし、悪いと思う気持ちもなかった。ヤマショウピックアップサービスのマイクロバスは、その四台前にタイヤを留めていた。菜実の住所は、三山だと言った。三山へ彼女を送り届けるマイクロバスを、村瀬は運転者にも菜実にも気づかれないように追おうと決めた。

 ただのぶらつきを装い、車列の動きに合わせて、とろとろと歩いた。黒のナイロンヤッケにジャージのズボンという姿をした村瀬に関心を払う者は、車列のドライバーにも、すれ違う老若の通行人にも誰一人としていなかった。
 マイクロバスをそれとなく目でちらちらと追って、遅れて角を曲がった時、数十メーター先に、バイクを停めた警察官が、事故の事情を聴取している。軽トラックが、若夫婦の乗る軽ワゴンに追突したこと、反対側車線で交通課員が交通整理を行っているらしいことが分かった。塗料やライト、テールランプの破片が歩道にまで盛大にばら撒かれ、巻き尺を持った課員がしゃがんで、尺を伸ばし、距離の測定らしきことをしている。若夫婦は落ちついた態度で聴取に応じているが、軽トラドライバーの、どこかの農家の主と思われる長靴を履いた初老の男は、さながらミュージカル俳優のように両腕を振り上げて、何やらかなり感情的に自分の正当性を主張している様子が見て取れた。

 マイクロバスは、ウインカーを出して左の道に入った。ここからは通常速度になるので、せめて方向を見失わないように注意しようと思った。村瀬を背にして三十キロほどに速度を上げた車が、左右に密集する古い家並に囲まれ、まっすぐに走った。百メーターほど走ってから、さらに左の小道を左折した。そこで村瀬も走った。普通にジョギングを行っている走り方だった。マウンテンバイクタイプの自転車に乗った、まだ少年の域の年齢をした若者が前から来て、走る村瀬に何故か一瞬ちらりと目を向けた。斜め前には、買物袋を提げた、後ろ姿を見る限りではそう若くはないらしい女が一人歩いていた。

 マイクロバスが左折した住宅街の通りを曲がると、車はテールランプを点滅させ、向かって五軒ほど先に停まっていた。村瀬は電柱の陰に体を潜めて、陰から顔半分を出して、注意深く車を見た。エプロンにネームプレートを首から提げた姿をした女が先に降りた。女はタラップに向き直り、車の中から伸びた手を取った。女に介助されて、村瀬の持つ知識で表現を充てるところの「ヘッドギア」のようなものを被った、手を取られてやっと歩いている感じのする女の子が降り、門から歩み出てきた、若いと言えるか微妙な年恰好をした別の女に、その子の身柄が渡された。続いて、菜実が降りた。今日の彼女は、黒のジャンパースカートを着ていた。菜実の姿が門の中へ消えると、エプロンの女と、ヘッドギアの女の子を隣に立たせた女が短い言葉のやり取りをし、エプロンのほうが頭を下げてマイクロバスに乗り込んだ。方角としては薬園台のほうへ走り去るバスを、女が見送った。

 村瀬は、電柱から出て、その家のほうへ歩き出した。歩き方は、ウォーキングのそれを意識した。村瀬がほんの数メーターの距離まで近づいた時、女が、ヘッドギアを被った子の背中を強く押して、開いたドアまで彼女の体を進めた。村瀬がさりげなく見た女は、対象物を常に値踏みするような眼差しの一重瞼の目に、下顎の突き出た顔つきをしており、だらしなく半開きになった口がいかにも節操のない感じがした。齢は、四十を少し過ぎたところに見えた。
 ドアが閉まる音を背中で聞いた村瀬は、数歩ウォーキングを進めてから引き返して、家の前に立った。

 白い外壁の、屋根の平らなテラスハウスタイプの二階建てで、敷地の広さは五十坪ほどの家だった。ブロックの門壁には、黄色地の壁面看板が打ち張られている。

 株式会社ラポールウッド 知的障害者共同生活援助 グループホーム恵みの家、と、黒文字で書かれていた。

 軽い脱力のあとで、悟りの念が胸に涌いた。やはり、と自分の中の声が言っていた。あの手繋ぎ式の際、自分が自分の中に渦巻く情念に任せた、傍から見れば恥を知るべしと言ってもおかしくない行いをした時、菜実からの抵抗は全く感じなかったが、そんな光景自体が、尋常にはないものだということは、不惑をとうに過ぎた年齢上分かる。もしもそれがこの世にあるとすれば、こういう事情でもなければ。

 だが、そう思えば思うほど惹かれていく自分がいることを、今、確かに感じ取っている。その気持ちに何かの正体があるとすればそれは、と考えかけたが、やめた。

 村瀬は、マイクロバスを追った道を向いた。何を正体とするものか、分かるようで分からない、分からないようで分かる思いに思考中枢を揉まれながら、実籾のほうへ歩き出した。空は晴れていた。彼の心の、分かるか、分からないかの重きがどちらに傾いているかを天がほのめかしているような夕晴れだった。それを思った時、その晴れた空に疎ましさを覚えている自分がいることに、村瀬は気づいていた。
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