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6章
~昏い海~
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JR千葉駅で蘇我行を降車し、東口の階段を降りる男がいた。齢の頃四十半、痩せた撫で肩には疲れが滲み出ている。服装は、ノーネクタイのグレーのスーツに、黒の手提げ鞄を持っていた。銀縁の眼鏡をかけた細面の顔を伏せたまま、重く路面を踏みしめる足取りで、飲食店が灯りをともす一角へ姿を吸い込ませた。
男は路地角の「焼きトン」と看板にある立ち飲み屋の暖簾を潜った。一人角打ちなら、そう長居はしないだろう。在店三十分ほどで、やや急ぎ加減で立ち飲み屋を出た男は、栄町のほうへ歩を向けた。
栄町の歩道には、平日サービス目当ての男達の連れが目立った。煽情的な原色、あるいは落ち着きとくつろぎをアピールする色合の看板を掲げる、何種類かの趣きを持つ店から、ちらほらと男が出入りする様子が見える。遠目から見えるその年恰好に、それほどの若さは感じられず、これから女を抱くんだという意気揚揚、抱いたあとの満足の様子も覗えない。
銀縁眼鏡の男の姿は、奥まった所にある「シャレード」という屋号のソープランドに吸い込まれた。男が四十分のコースを選んだことは、時間的な勘でほぼ見当がつく。
予想通り、四十五分程度の時間で、男は店から出てきた。そこへ、予約の客を乗せた送迎車が到着し、太った者と貧弱な体つきをした者、二人の男を吐き出した。体形が大きく違う二人の男とすれ違うようにして、銀縁眼鏡の男が歩道に向かった。
そこへどこからか涌いて出たように現れ、並んで歩き始めた男の顔を一瞬だけちらりと振り返り見て、また俯き加減になった。条例違反の、潜りのキャッチマン程度にしか思っていないという風だった。
「恩田さんですね」弁天町方面に足を向けて歩く銀縁眼鏡の男に、ショートブーツの籠った足音を立てて併歩する男が声をかけた。おんだ、と呼ばれた銀縁眼鏡の男は、その声かけを無視するように、今、背負っている事柄を噛んで締めた表情で、歩を速くした。
「どなた様でしょうか」顔を上げた恩田が誰何したのは、栄町の区域を出て、十字路向こうに歩道橋を臨む、飲食店や書店がシャッターを下ろして佇む通りだった。人通りは拡散とし、車両の通行音と、どこかからカーステレオから流れるダンスビートが聞こえていた。恩田の表情と声には疲労が濃く出ているが、その誰何の発声は、肚の据わった感じがした。恩田が足を止めるのに合わせて、隣の男も立ち止まった。
「もしお持ちでしたら、お名刺を頂戴してもよろしいでしょうか。そうでないと、お話に応じるわけには」「一般常識じゃそうだ。けど、時間がねえんだ」恩田の要請を遮り言った、外灯と車のヘッドライトの光を受けてポマードが艶めく刈り込んだリーゼント風の髪、ぷっくらとした輪郭に鱈子唇の愛嬌豊かな童顔だが、目線の配りと、立ち、歩きに微塵の隙もない三十代風の男が、黒のレザージャケットの懐から、小さなタブレット端末を取り出した。恩田の表情に、慄きを込めた静まりが広がった。
男がかざしたタブレットの画面に、少女の姿が映し出された。ライブ送信の動画だった。その少女は、中学校の制服姿で顔を俯かせ、口を真一文字に結んで、瞬きを繰り返している。食卓の椅子に座る、まだ発育が途上な体つきをした少女の前には、小さなサイズの寿司桶とジョッキに入ったジュースが置かれ、何個かの寿司を彼女が食べた形跡が見て取れた。恩田の顔の慄きがまるで爆発したように増したのは、その画面に映る部屋が自分の家ではないこと、また、その少女、つまり自分の娘の身柄が、自分の知らない人間達の手に落ちていると分かったことによるものと、はっきりと分かった。恩田は叫ばんばかりに口を大きく開けて息を吸い込み、刈り込んだリーゼントの男を見た。
「娘をどうするつもりだ!」恩田は叫ぶと、男のレザージャケットの裾に掴みかかった。
「どうするとかっつうのは、今の時点じゃ俺には何とも言えねえんだ。だけど、これからこっちが問うことに、あんたがちゃんと答えてくれるかどうかで、早くに娘が無事にあんたの元に帰れるかが決まるとだけ言っとくよ。俺は帰してえ。けど、俺のれつの奴らは、それなりに容赦がねえ」「娘に手を出したらただじゃ済まない!」「そんなことをやってただで済むなんて、はなから思っちゃいねえさ。それより、今はこんな街中でじゃなくて、どこか人っ子のいねえ所で俺と話をするほうが、娘の安全がより守られるってことだけは堅く約束出来んぜ。俺がこれから話してえことは、立ち話で埒が明くこっちゃねえからな」男が静かに言った時、裾を掴んだ手から徐々に力が抜け始めた。
「乗りな」男は言って、路肩に停めた品川ナンバーのソアラを指した。
ソアラは、市道を南へ下った。コンビニや民家が窓外に通り過ぎた。県庁脇に差しかかった時、警察車両のランプが前面に見えた。蛍光ベストを着た警察官が誘導の警棒を振っている。検問だった。千葉県警、と車体にあるマイクロバスタイプの警察車両が停まり、ヘルメットを被った巡査が数えて三人立っていた。ホイッスルを鳴らして警棒を下ろした警察官に従うようにして、男がソアラを停めた。男がとぼけた口調で、何かあったんですか、と、助手席に座る恩田と同年代の警官に尋ねると、パーラーの景品交換所が強盗に遭って、犯人の車が南の方角へ逃走したという通報を受けた、と言葉つきは敬語だがどこか権柄づくな声色で答えた。男が免許証を提示している間、恩田は背筋を伸ばし直して、フロントガラスの向こうを見据えるような姿勢を取っていた。感情に任せた行動を取らないところに聡明さが出ていた。
男のソアラは免許証の提示と、トランクとダッシュボードを簡単に調べられただけで検問を通った。それから県庁前交差点を右折、寒川大橋を渡りきって、倉庫街に入った。船の汽笛が物悲しく八方に響きを撒いている。
ソアラが埠頭に停まった。男がウインドウを開けてエンジンを切った時、恩田は早く要件を話してくれ、と言いたげに男を見た。
「吸いたかったら吸えよ。電子か紙巻、どっちなのかは匂いで分かるよ」男が言うと、恩田は落ち着きのない手つきで鞄のチャックを開け、煙草を取り出した。男は銀のジッポーを出して、その煙草の先に、かきんと蓋の音を鳴らして点火した。ちりちりと葉の燃える音がし、恩田が吸い込んだ煙を小刻みに吐いた。
「あんたの名前は恩田敦(あつし)。今の職業肩書は、社長ってことになってる」
男が囁くように言うと、恩田は煙草を手に男を見た。
「けど、その会社には、営業、販売の実態はねえ。何故かっていうと、トンネルだからだ。やってることは、いわゆる金の洗いだ。横浜で結成されて、ここ二年の間に、こっちは元より西にも勢力を伸ばしてる、あの奴らのな」恩田の咥えた煙草の先が震え、荒い息使いとともに煙が立った。
「恩田さん、あんたは、ほんの二年前まで交通会社の経理部に勤めてた。それが、癌で長患いしてた奥さんに死なれて、仕事に身が入らなくなって退職した。一人娘は幼くして、そのあんたを、よく支えた。治療のために重ねた莫大な借金の返済分は、退職金だけじゃ賄えなかった。定期預金も解約して、長期入院費と治療代につぎ込んでたからな。だけど、偏った真面目さがしばしば周りを巻き込むものだってことを、大事にされて育ったあんたには分からなかったんだな」恩田は男の言葉を受けながら、身を屈めて煙を吐き出しているばかりだった。
「あんたが法の助けを借りて、自己破産や任意整理に着手するってことに対してどういう目を向けてたかは、ある程度分かる。だから、それをしねえで、心の悲しみに鞭打って、働いて返していく道を選んだわけだ。あの頃はひでえ病災禍の世の中で、その上、年齢的にも仕事なんて選ぶ余地はなかったはずだよな。それで、ハラスメントの啓蒙も行き渡ってねえ底辺企業の倉庫会社で、時給九百五十円かそこらで、自分の子供みたいな奴らに毎日怒鳴られて嚇かされながら積み込みやって、返済しようとした。それで娘をちゃんと養育してたことには、俺も頭が下がるさ。でも、あんたが借入した街金は、違法の悪どい利息上げをしたんだ。返済が遅れるうちに、債務はどんどん膨れ上がった。その時に声をかけてきて、借金を丸ごと肩代わりしてくれたのが、今、宗教団体を隠れ蓑にしてるあいつらだった‥」
男が低く囁くようにそこまで言うと、恩田は男に顔を向けた。知られたくないことの一切を知られ、突かれたくないことを突かれたことによる焦燥が、その顔に満ちていた。
「奴らからすりゃ、その恩をあんたに着せねえ手はねえだろう。そこで会計仕事に明るいあんたを組織に組み込んだ。それからあんたは言いなりになって、あいつらが、銀行から大口の融資を引き出す担保になる動産、不動産、金塊、銀塊の買いつけ、それの管理、それに銀行との交渉役を、月二十万程度の報酬でやらされて、今に至ってる。これからも、奴らはあんたを使い続ける。警察の捜査が及んだ時の逮捕要員として置いとく目的もあってな」
目の前の昏い東京湾は、二人をたちまち吞み込もうとするような、底が知れない闇を湛えて広がっている。ごうお、と鳴る海風が、遠い過去からその底へ沈んでいった亡者達の、もはや巷には届くべくもない哭きに聞こえる。その慟哭には、非業の最期を遂げたことへの、何故俺が、という抗議、または巷で作った罪業への懺悔のようなものも含まれているように思える。
「まあ、ここまでの俺の話にゃ、さほどの意味はねえよ」男はフロントガラス向こうの東京湾に向き直り、一度しまったポケットタブレットをまた懐から出し、スイッチを押した。そのスイッチが、きちんと「REC」となっているかを確認してから、また恩田を見た。
「教えちゃもらえねえか。担保物件を買いつけるための現生の保管場所だ。あんたが管理を任されてる、関東エリアのマネーデポだ」
恩田はリアドアに据えつけられている灰皿に煙草をなすって消すと、東京湾の海面を見て、何かを考えるように押し黙り始めた。男は、懐から洋煙草をまさぐり出して、赤く分厚い鱈子唇の口に一本咥えて、ジッポーで火を点けた。
「決まった保管場所は、ない」恩田は湾と、ダッシュボードのほうに交互に視線を遣りながら、トーンの落ちた声を絞り出した。「現金は、万一の家宅捜索に備えて定期的に移動してる。今は都内の公団の一室に、二億を置いてある。他の場所にも分散してある。来週、それを、代表の自宅へ移すことになってる」「代表ってのは、あの大法裁って男だな」「そうだ。だけど、あの男は」「知ってるよ」男が魄圧の籠った声で呟いた時、恩田はひゅっと息を吸い込んで男を見た。男の口角は上がり、鱈子の唇からは石でも岩でもと言わんばかりの、手入れがよく行き届いた頑丈そうな歯が並んで覗いている。だが、目は笑っていない。
「代表の名前は金沢だな。家はどこの市町村だ?」「同じ千葉の我孫子の、新木だ。親が残した家に一人で住んでる」「そうか。本名のフルネームはもう分かってる。あとはこっちで調べる。時間はそんなにかからねえだろう」倉庫街の外灯に薄い光を照らされたソアラの車内に、男が旨そうに吐いた厚い紫煙が揺れた。
「娘を返してくれ」恩田は弱々しく言うと、すがるように男の腕を掴んだ。
「それだけじゃない。あんた達の目的は金を奪うことだろうが、情報の出所が俺だと分かったら、俺は嬲り殺しにされて、娘は間違いなく手をかけられる。これまで、もう何人も始末されてるんだ。息がかかった火葬場へ送られて、生きたまま骨にされた奴もいるんだ」「そのあたりは心配すんな」男は煙草を指で叩いて、灰皿に灰を落としながら、肚からの低声で囁きを投げた。
「あんた、今から一年以上の四年未満ぐらい、娘と離れて暮らすことは出来るかい?」男の問いに、恩田は眼鏡の奥の目を丸く剥いた。
「俺が知ってる人間で、六十代なんだが、前に進行性筋ジストロフィーで中学生の娘を亡くして、養子を育ててみたいなんて言ってるのがいるんだ。出来りゃ女の子がいいってね。その人間は鉄工所の専務で、残った子供は、もう結婚して所帯を持ってるその娘の姉ちゃんがいる。その家は、子供を亡くした悲しみと寂しさは抱えてるけど、そこの親爺も奥さんも人間的に篤実で、財政的にはそこそこ裕福だ。戸籍謄本を操作して、名前も変えて、期間限定で、そこの養女に出すんだ。山口の下関なんだが、地元の中学へ転入させればいい。娘が希望すりゃ、高校にだってやれる」「そんなことが出来るのか」「これぐらいのことはやってのけなきゃ、飯が食えない渡世なんでね」恩田は黙して、男の腕からゆっくりと手を離した。
「あんたは、住民票を移動しねえで、最近また営業の規模を拡大し始めた寮つきに人材登録して、瞬間湯沸かし器みてえな荒くれ者とか、どうにもならねえ箸棒人間とか、ダボに紛れりゃいい。彫物入れたようなのと、ガチャ目で一+一が五とかってどやで答える奴が、同じ部屋で寝てんだ。あんたも聡明とは言えねえけど、根性はあっから、そんな糞臭え下水に浸かりながら命を繋ぐことは出来ると俺は見るよ。もっとも俺も、明日の朝にあるかどうかも分からねえてめえの命をさ、何が何でも繋いでいかなきゃなきゃいけねえ立場だけどね」
「もし差し支えなかったら教えて下さい」恩田は両掌を祈るように組んで、痩せた背中と声を波打たせた。目は、フロントガラス越しの東京湾に向いている。
「あなたは、暴力団の人なんですか?」恩田の問いに、男は笑いを漏らした。「俺か」男はフィルターの根本まで吸った煙草を揉み消した。
「あくまで俺個人は、一般にそういう反社とかって呼ばれてる連中よりは情け容赦ってもんは知ってる人間じゃねえかなって、てめえじゃ思わねえこともねえよ。けど、仕事上、そこそこ酷なことをやる時もあるさ。何故なら、日本の至る所に無駄に余ってっけど、有益な使われ道がまるでねえ銭の持ち主をとことん揺さぶって、しまいにぶん奪るのが俺の稼業だからさ」
言った男は、先に見せた目だけが笑わない笑いを、愛嬌の豊富な顔にまた刻んでいた。恩田は顔と全身を痙攣させ、男の顔を心許なげに見つめた。
「実は俺の卑近な人間が、あんたんとこの宗教カルテルに鴨葱にされかけてんだよ。そいつを早急に何とかしなきゃいけねえもんでね」
昏い水がさざ波を立てる東京湾は、すでに二人の命を吞んだように、どこまでも広がっていた。
男は路地角の「焼きトン」と看板にある立ち飲み屋の暖簾を潜った。一人角打ちなら、そう長居はしないだろう。在店三十分ほどで、やや急ぎ加減で立ち飲み屋を出た男は、栄町のほうへ歩を向けた。
栄町の歩道には、平日サービス目当ての男達の連れが目立った。煽情的な原色、あるいは落ち着きとくつろぎをアピールする色合の看板を掲げる、何種類かの趣きを持つ店から、ちらほらと男が出入りする様子が見える。遠目から見えるその年恰好に、それほどの若さは感じられず、これから女を抱くんだという意気揚揚、抱いたあとの満足の様子も覗えない。
銀縁眼鏡の男の姿は、奥まった所にある「シャレード」という屋号のソープランドに吸い込まれた。男が四十分のコースを選んだことは、時間的な勘でほぼ見当がつく。
予想通り、四十五分程度の時間で、男は店から出てきた。そこへ、予約の客を乗せた送迎車が到着し、太った者と貧弱な体つきをした者、二人の男を吐き出した。体形が大きく違う二人の男とすれ違うようにして、銀縁眼鏡の男が歩道に向かった。
そこへどこからか涌いて出たように現れ、並んで歩き始めた男の顔を一瞬だけちらりと振り返り見て、また俯き加減になった。条例違反の、潜りのキャッチマン程度にしか思っていないという風だった。
「恩田さんですね」弁天町方面に足を向けて歩く銀縁眼鏡の男に、ショートブーツの籠った足音を立てて併歩する男が声をかけた。おんだ、と呼ばれた銀縁眼鏡の男は、その声かけを無視するように、今、背負っている事柄を噛んで締めた表情で、歩を速くした。
「どなた様でしょうか」顔を上げた恩田が誰何したのは、栄町の区域を出て、十字路向こうに歩道橋を臨む、飲食店や書店がシャッターを下ろして佇む通りだった。人通りは拡散とし、車両の通行音と、どこかからカーステレオから流れるダンスビートが聞こえていた。恩田の表情と声には疲労が濃く出ているが、その誰何の発声は、肚の据わった感じがした。恩田が足を止めるのに合わせて、隣の男も立ち止まった。
「もしお持ちでしたら、お名刺を頂戴してもよろしいでしょうか。そうでないと、お話に応じるわけには」「一般常識じゃそうだ。けど、時間がねえんだ」恩田の要請を遮り言った、外灯と車のヘッドライトの光を受けてポマードが艶めく刈り込んだリーゼント風の髪、ぷっくらとした輪郭に鱈子唇の愛嬌豊かな童顔だが、目線の配りと、立ち、歩きに微塵の隙もない三十代風の男が、黒のレザージャケットの懐から、小さなタブレット端末を取り出した。恩田の表情に、慄きを込めた静まりが広がった。
男がかざしたタブレットの画面に、少女の姿が映し出された。ライブ送信の動画だった。その少女は、中学校の制服姿で顔を俯かせ、口を真一文字に結んで、瞬きを繰り返している。食卓の椅子に座る、まだ発育が途上な体つきをした少女の前には、小さなサイズの寿司桶とジョッキに入ったジュースが置かれ、何個かの寿司を彼女が食べた形跡が見て取れた。恩田の顔の慄きがまるで爆発したように増したのは、その画面に映る部屋が自分の家ではないこと、また、その少女、つまり自分の娘の身柄が、自分の知らない人間達の手に落ちていると分かったことによるものと、はっきりと分かった。恩田は叫ばんばかりに口を大きく開けて息を吸い込み、刈り込んだリーゼントの男を見た。
「娘をどうするつもりだ!」恩田は叫ぶと、男のレザージャケットの裾に掴みかかった。
「どうするとかっつうのは、今の時点じゃ俺には何とも言えねえんだ。だけど、これからこっちが問うことに、あんたがちゃんと答えてくれるかどうかで、早くに娘が無事にあんたの元に帰れるかが決まるとだけ言っとくよ。俺は帰してえ。けど、俺のれつの奴らは、それなりに容赦がねえ」「娘に手を出したらただじゃ済まない!」「そんなことをやってただで済むなんて、はなから思っちゃいねえさ。それより、今はこんな街中でじゃなくて、どこか人っ子のいねえ所で俺と話をするほうが、娘の安全がより守られるってことだけは堅く約束出来んぜ。俺がこれから話してえことは、立ち話で埒が明くこっちゃねえからな」男が静かに言った時、裾を掴んだ手から徐々に力が抜け始めた。
「乗りな」男は言って、路肩に停めた品川ナンバーのソアラを指した。
ソアラは、市道を南へ下った。コンビニや民家が窓外に通り過ぎた。県庁脇に差しかかった時、警察車両のランプが前面に見えた。蛍光ベストを着た警察官が誘導の警棒を振っている。検問だった。千葉県警、と車体にあるマイクロバスタイプの警察車両が停まり、ヘルメットを被った巡査が数えて三人立っていた。ホイッスルを鳴らして警棒を下ろした警察官に従うようにして、男がソアラを停めた。男がとぼけた口調で、何かあったんですか、と、助手席に座る恩田と同年代の警官に尋ねると、パーラーの景品交換所が強盗に遭って、犯人の車が南の方角へ逃走したという通報を受けた、と言葉つきは敬語だがどこか権柄づくな声色で答えた。男が免許証を提示している間、恩田は背筋を伸ばし直して、フロントガラスの向こうを見据えるような姿勢を取っていた。感情に任せた行動を取らないところに聡明さが出ていた。
男のソアラは免許証の提示と、トランクとダッシュボードを簡単に調べられただけで検問を通った。それから県庁前交差点を右折、寒川大橋を渡りきって、倉庫街に入った。船の汽笛が物悲しく八方に響きを撒いている。
ソアラが埠頭に停まった。男がウインドウを開けてエンジンを切った時、恩田は早く要件を話してくれ、と言いたげに男を見た。
「吸いたかったら吸えよ。電子か紙巻、どっちなのかは匂いで分かるよ」男が言うと、恩田は落ち着きのない手つきで鞄のチャックを開け、煙草を取り出した。男は銀のジッポーを出して、その煙草の先に、かきんと蓋の音を鳴らして点火した。ちりちりと葉の燃える音がし、恩田が吸い込んだ煙を小刻みに吐いた。
「あんたの名前は恩田敦(あつし)。今の職業肩書は、社長ってことになってる」
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「けど、その会社には、営業、販売の実態はねえ。何故かっていうと、トンネルだからだ。やってることは、いわゆる金の洗いだ。横浜で結成されて、ここ二年の間に、こっちは元より西にも勢力を伸ばしてる、あの奴らのな」恩田の咥えた煙草の先が震え、荒い息使いとともに煙が立った。
「恩田さん、あんたは、ほんの二年前まで交通会社の経理部に勤めてた。それが、癌で長患いしてた奥さんに死なれて、仕事に身が入らなくなって退職した。一人娘は幼くして、そのあんたを、よく支えた。治療のために重ねた莫大な借金の返済分は、退職金だけじゃ賄えなかった。定期預金も解約して、長期入院費と治療代につぎ込んでたからな。だけど、偏った真面目さがしばしば周りを巻き込むものだってことを、大事にされて育ったあんたには分からなかったんだな」恩田は男の言葉を受けながら、身を屈めて煙を吐き出しているばかりだった。
「あんたが法の助けを借りて、自己破産や任意整理に着手するってことに対してどういう目を向けてたかは、ある程度分かる。だから、それをしねえで、心の悲しみに鞭打って、働いて返していく道を選んだわけだ。あの頃はひでえ病災禍の世の中で、その上、年齢的にも仕事なんて選ぶ余地はなかったはずだよな。それで、ハラスメントの啓蒙も行き渡ってねえ底辺企業の倉庫会社で、時給九百五十円かそこらで、自分の子供みたいな奴らに毎日怒鳴られて嚇かされながら積み込みやって、返済しようとした。それで娘をちゃんと養育してたことには、俺も頭が下がるさ。でも、あんたが借入した街金は、違法の悪どい利息上げをしたんだ。返済が遅れるうちに、債務はどんどん膨れ上がった。その時に声をかけてきて、借金を丸ごと肩代わりしてくれたのが、今、宗教団体を隠れ蓑にしてるあいつらだった‥」
男が低く囁くようにそこまで言うと、恩田は男に顔を向けた。知られたくないことの一切を知られ、突かれたくないことを突かれたことによる焦燥が、その顔に満ちていた。
「奴らからすりゃ、その恩をあんたに着せねえ手はねえだろう。そこで会計仕事に明るいあんたを組織に組み込んだ。それからあんたは言いなりになって、あいつらが、銀行から大口の融資を引き出す担保になる動産、不動産、金塊、銀塊の買いつけ、それの管理、それに銀行との交渉役を、月二十万程度の報酬でやらされて、今に至ってる。これからも、奴らはあんたを使い続ける。警察の捜査が及んだ時の逮捕要員として置いとく目的もあってな」
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「教えちゃもらえねえか。担保物件を買いつけるための現生の保管場所だ。あんたが管理を任されてる、関東エリアのマネーデポだ」
恩田はリアドアに据えつけられている灰皿に煙草をなすって消すと、東京湾の海面を見て、何かを考えるように押し黙り始めた。男は、懐から洋煙草をまさぐり出して、赤く分厚い鱈子唇の口に一本咥えて、ジッポーで火を点けた。
「決まった保管場所は、ない」恩田は湾と、ダッシュボードのほうに交互に視線を遣りながら、トーンの落ちた声を絞り出した。「現金は、万一の家宅捜索に備えて定期的に移動してる。今は都内の公団の一室に、二億を置いてある。他の場所にも分散してある。来週、それを、代表の自宅へ移すことになってる」「代表ってのは、あの大法裁って男だな」「そうだ。だけど、あの男は」「知ってるよ」男が魄圧の籠った声で呟いた時、恩田はひゅっと息を吸い込んで男を見た。男の口角は上がり、鱈子の唇からは石でも岩でもと言わんばかりの、手入れがよく行き届いた頑丈そうな歯が並んで覗いている。だが、目は笑っていない。
「代表の名前は金沢だな。家はどこの市町村だ?」「同じ千葉の我孫子の、新木だ。親が残した家に一人で住んでる」「そうか。本名のフルネームはもう分かってる。あとはこっちで調べる。時間はそんなにかからねえだろう」倉庫街の外灯に薄い光を照らされたソアラの車内に、男が旨そうに吐いた厚い紫煙が揺れた。
「娘を返してくれ」恩田は弱々しく言うと、すがるように男の腕を掴んだ。
「それだけじゃない。あんた達の目的は金を奪うことだろうが、情報の出所が俺だと分かったら、俺は嬲り殺しにされて、娘は間違いなく手をかけられる。これまで、もう何人も始末されてるんだ。息がかかった火葬場へ送られて、生きたまま骨にされた奴もいるんだ」「そのあたりは心配すんな」男は煙草を指で叩いて、灰皿に灰を落としながら、肚からの低声で囁きを投げた。
「あんた、今から一年以上の四年未満ぐらい、娘と離れて暮らすことは出来るかい?」男の問いに、恩田は眼鏡の奥の目を丸く剥いた。
「俺が知ってる人間で、六十代なんだが、前に進行性筋ジストロフィーで中学生の娘を亡くして、養子を育ててみたいなんて言ってるのがいるんだ。出来りゃ女の子がいいってね。その人間は鉄工所の専務で、残った子供は、もう結婚して所帯を持ってるその娘の姉ちゃんがいる。その家は、子供を亡くした悲しみと寂しさは抱えてるけど、そこの親爺も奥さんも人間的に篤実で、財政的にはそこそこ裕福だ。戸籍謄本を操作して、名前も変えて、期間限定で、そこの養女に出すんだ。山口の下関なんだが、地元の中学へ転入させればいい。娘が希望すりゃ、高校にだってやれる」「そんなことが出来るのか」「これぐらいのことはやってのけなきゃ、飯が食えない渡世なんでね」恩田は黙して、男の腕からゆっくりと手を離した。
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「もし差し支えなかったら教えて下さい」恩田は両掌を祈るように組んで、痩せた背中と声を波打たせた。目は、フロントガラス越しの東京湾に向いている。
「あなたは、暴力団の人なんですか?」恩田の問いに、男は笑いを漏らした。「俺か」男はフィルターの根本まで吸った煙草を揉み消した。
「あくまで俺個人は、一般にそういう反社とかって呼ばれてる連中よりは情け容赦ってもんは知ってる人間じゃねえかなって、てめえじゃ思わねえこともねえよ。けど、仕事上、そこそこ酷なことをやる時もあるさ。何故なら、日本の至る所に無駄に余ってっけど、有益な使われ道がまるでねえ銭の持ち主をとことん揺さぶって、しまいにぶん奪るのが俺の稼業だからさ」
言った男は、先に見せた目だけが笑わない笑いを、愛嬌の豊富な顔にまた刻んでいた。恩田は顔と全身を痙攣させ、男の顔を心許なげに見つめた。
「実は俺の卑近な人間が、あんたんとこの宗教カルテルに鴨葱にされかけてんだよ。そいつを早急に何とかしなきゃいけねえもんでね」
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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