手繋ぎ蝶

楠丸

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11章

~黒い族車の男~

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 目覚めの朝も菜実をたっぷりと抱いた村瀬は、彼女の朝シャンにも付き合い、自分もシャワーを浴びた。朝食にレタスを添えたハムエッグとトーストを、前日のラーメンと同じく二人で手分けして作って食べたあとは、ラジオの音楽番組をかけ、ロマンフルドキュンの「パリツー音頭」に合わせて、振付を再現するように踊った。村瀬がおどけて、空手の型を取り入れると、菜実は弾けて笑った。Maybeの「silent nocturne」では、村瀬がリードしてチークを踊った。

「よかったら、今日一日ずっといていいよ」村瀬が菜実と手を重ね、腕を腰に巻きながら、寄せた顔の耳元に囁いたが、「明日の準備、しなくちゃいけないから」ということで、今日はお昼ご飯を食べたら解散ということになった。それでも、菜実の顔と、村瀬に体を委ねる甘えぶりには、彼と二人溶け入った喜びと充足があり、村瀬を見つめる瞳孔にはきらきらした光の瞬きがあった。

 それからクッションに座った村瀬が菜実を膝に乗せ、体を揺らしながら、ハイネとバイロンの詩を朗読して菜実に聴かせると、彼女は陽射しに輝く庭側のガラス戸をじっと見ていた。そうしているうちに、村瀬はまた疼くような勃起を覚えた。「二階、行かない?」村瀬が言うと、菜実は「はい」という小声を返してきた。

 メイクをしたままで、全裸の体に銀のネックレスをした菜実のクリーム色をした体は、村瀬の欲望に、昨夜以上の火を灯した。いくらか憚りが見えた昨日と違い、村瀬の体の上、下での動きが、どこかアクロバティックなものになっている。村瀬もそれに合わせるように、積極的に菜実の体に前戯を施した。褥の上に寝た菜実の頬と首元に唇を這わせ、それを彼女の乳房に移行させ、強く吸いながら、膣に浅く指を埋めた。菜実の掌が村瀬の陰茎を優しく包んでいた。それが上下に擦られると、半身を起こした菜実が、むしゃぶりつくように、村瀬の陰茎を喉深くにまで含んだ。菜実の瞼と睫毛と、朝に挽いたルージュの唇が分身の上を滑るのを見ながら、両掌で両方の乳房を絞るように揉んだ。その強い愛撫に呼応したように、陰茎がより激しく吸われた。

 白い西日の部屋の中央に敷かれた布団に両掌と膝を着いた菜実の、村瀬の求めを読んだような、愛らしくすぼまった肛門と、小陰唇の間に大きく屹立したクリトリス、受け入れが整った、開いた桃色の大陰唇の間に、程よくよれて息づく膣の景観が、昨日の夜にも増して村瀬の胸を欲情に焼いた。


“‥他の奴は当面はいい。あいつを離すな。場合によっちゃガキを仕込んでもいい” 後ろから村瀬に抱かれる菜実は、手繋ぎ式のあとに山田月子と二人で参加者達が引き上げた文化ホールに残された際に、神辺から命じられたことを思い出していた。

 “お前が首尾よくやった暁には、こっちで後援者会を結成させて、マスコミも動かして、再審請求まで持ってって、出してやるよ、お前の母ちゃんを。お前にも、これまでやったのとは比べものにならない布施返しを支払ってやる。馬鹿のお前にも出来るやり方で、あのおっさんを徹底的に引け。また母ちゃんと親子仲良く暮らしたきゃやるしかないぞ。会いたくなきゃ、やらなくていい”

 神辺の言葉は難しいが、命じられたことをこなせば、いつになるかはまだ分からないにせよ、自分が保育園児の頃に官憲の手で引き離され、長く獄に繋がれている母親に会うことが出来、二人で暮らせるようになるかもしれない。それを思った時、神辺の冷たい司令に、一筋の希望を見出した気持ちになった。

 だがそれは、ある意味心ならずに自分の中に愛の思いを持った村瀬を地獄へ引くことの代償としての幸せに他ならない。

 頭の中で文章として成立させようにも成立出来ない思いに胸中を揉まれる中、射精した村瀬が、菜実の肩を掴み、背中に頽れてきた。年齢外れに若く、爽とした吐息が耳元で鳴った。菜実はクッションタイプの枕に指を食い込ませて掴み、その枕に額を埋めた。これからも村瀬の愛を一心に受けながらそれを精一杯に返すか、あるいは神辺の命に従うことで、ひたすら優しいことだけを取柄としていた母と、幼かった日々を取り戻すか。

 それは神辺からあれほど命じられていながら、今の時点では決めようがなかった。

 射精を終えた村瀬が脇から腕を差し入れて、体を抱きすくめてきた。菜実は村瀬の体重を背中で受けながら、枕に指を立てて、とりとめをつけようにもつけられない思いがよぎるのをやり過ごそうとしていた。窓からの晩秋の日差しが、二人の肌を暖めている。

 デリバリーのピザでランチ、掌を繋いで家を出たのは十三時過ぎだった。村瀬は菜実をホーム前まで送ることにした。交わす言葉少なめに手を取って歩き、実籾から快速に乗り、隣の大久保で降り、三山まで歩を進めた。恵みの家の前に立った時、やはり拭えない静かな荒みの雰囲気を感じた。それは昨日に知ることになった実情の一端もまさにさることながら、ホームの前に停まっている一台の車によってより強まった印象だった。

 車体の下部が路面すれすれに下がった、サイドガラスがスモークに覆われた黒の改造車で、同じくスモークのリアガラスには日章旗のステッカーが貼られている。年式、センスから、持ち主の年代程度が分かる気がするが、外壁ブロックに沿うようにして停車しているところに、ホームとの浅からぬ関係が分かる。

「ありがとう」菜実が、これまで村瀬が聞かなかった、しっかりした発音で礼を述べた。その活舌、姿は、健常の可愛い女の子そのもののそれだった。口許の微笑と目の光に、村瀬への心からの感謝が込められていた。その姿を見る限りでは、「どこが悪いのかが分からない」と誰もが口を揃えて言うかもしれない、と村瀬は思った。そんな思いの中、ホームにどかっと横付けされて停まる車に胸が騒ぐ。

「いやあ、俺のほうが本当にありがとうだよ」村瀬はホームの中に菜実を戻したくない思いを抑えながら礼を返した。「一人で暮らしてると、いつもやることが決まりきっちゃうんだ。だけど、菜実ちゃんが来てくれて、泊まってくれたおかげで、最高の時間を過ごすことが出来て。また有休、いつでも取るし、早上がりのあとで会うのもいいしね‥」「うん」「菜実ちゃん」

 村瀬は繋いだ掌を菜実の手の甲に移してそっと握り、肩に腕を巻いて顔を寄せ、右の頬を菜実の同じ右頬に当てた。軽く煮沸したミルクのような温かみを感じ、髪が香った。

 繋いだ掌と掌が、次の確実な逢瀬の約束を交わしたという風にするりとほどけ、菜実は外門から入り、ドアを開けた。ドアノブを握っているほうと別の手を、キタキツネの笑顔で振り、村瀬も手を振った。

 日大方面へ歩き出した時、ドアの開く音がした。村瀬は菜実が言い忘れていたことを言おうとして開けたか、あるいはあの下顎の突き出した世話人の女が利用者を連れ回したことへの文句を言うために出てきたのかと思い、足を止めて振り返った。

 出てきたのは男だった。男は長めの金髪の髪をメンズカチューシャで留め、ぴったりしたサイズの上下ゼブラ柄のジャージタイプの悪羅ついた服を着ている。
 中背で瘦せた男はクラウンにキーを差し込みばな、村瀬からの視線を察知して、彼のほうに顔を向けた。細面で、モデルやアイドルばりに整った顔立ちをしているが、眼差しは優しいとは言えない。

 男は眦の吊り上がった目を細め、村瀬に向かってあからさまな威嚇のランゲージを送ってきた。両耳にリングタイプのピアスが複数輪光っている。村瀬は目を伏せて日大のほうへ向き直り、歩き出した。背後から、路面を震わせるエンジン音が追ってきた。振り返らずに大通りに足を進める村瀬を追い越した車が、目視確認に任せたか、ウインカーも出さずにラフなハンドリングで右折し、八千代台方面へと走り去った。村瀬は違反加減の速度で遠ざかる族車を目で追いながら、また落ち着かない気分を胸に涌き上がらせた。

 昨今、高齢、障害、孤立者、困窮者問わず、各地の福祉施設と分類される場所で事件沙汰が頻発している。その中には多々、「不適切」どころに留まらない出来事も起こっている。特養では介護士が入居者を投げ殺し、どこかの障害者支援施設では支援員達が同性の利用者同士にホモ行為を強制してそれを撮影し、どこかの県の更生寮では世話人が利用者を殴り殺し、成年後見人と呼ばれる立場の人間による、被後見者の私財着服なども、最近ぽつぽつと報道されている。それに、川崎のNPO法人施設での暴行致死事件。ただし、昔の時代にも、ハンデを持つ人を看る法人施設も、そういった人達にとって過ごしやすい環境だったかと言えば、そうとも言い難かったらしいことは、詳しくない村瀬にも想像がつく。

 学校でも、教育にはしばしば高圧があった。村瀬が一生徒だった頃は、体罰は当たり前だった。それは物事の理解、判断が幼いレベルに留まっている、または視力、聴力に困難を持つ子供を預かる学校、施設でも、多分例外ではなかったことだろう。当時は保護者も、利用者、生徒自身もそれに合わせることで、その成り立ちが保たれていたはずだった。それが良かったのか悪かったのかは、村瀬にはよくは分からない。暴力を使って子供を圧する大人達が、子供に対して「暴力はいけないことです」などと説く資格などあるはずもなかった。だから、子供の間には暴力が溢れていた。

 だが、昨今年から今のそれらの子供、大人達を囲む教育、支援の環境は、そんな昔とは違った色をまとい始めている。

 確かに全部が全部そうだというわけでは決してない。だが、その手の報道を目耳にするたびに、昔にはなかった「胸がむかつくような汚なさ」が見える心地になるのは自分だけではないだろう、と村瀬は思う。元の原因を手繰れば、現場の慢性的な人手不足、それにより、その道のキャリアを持つ人間も余裕を失うことで初心の志を跡形もなく失い、心、というところで資質に乏しい者を雇い入れることで人手の不足を補わなければならなくなり、それに伴って同業施設の粗製濫造が進んだ。それによる荒みと廃れは、無関係ではない。支援者側に少なからず混ざる、自覚のない‥。

 閃くような気づきを胸に、村瀬は十字路左の道を行き、ハミングロードの方角へ進んだ。
 ‥恵みの家に出入りしているらしい先の族車の男が株式会社ラポールウッドの支援員だったとしても、あそこでは無理もないだろうが、多分、あの男は職員ではないという勘が騒ぐ。もし入居者の親族だったとしても、あの虚栄心を丸出しにした外見、威圧的な居ずまいは、デリケートな心を持つ彼女達に近づくのはふさわしくない。

 菜実をどうしよう。鈍いと自負さえ出来る頭に、風俗営業法などというものなど施行される気配もなかった時代の「身請け」という言葉が思い浮かんだ。

 ハミングロードを、親子四人のジョガーが、親同士が雑談、小学生の兄妹が真剣な顔で前を向いて腕を振り、津田沼方向へ、硬い薄茶色の土をたったと踏み、走って去った。

 菜実がいなくなった家へ、足取り遅く歩いた。家前の近くの歩道では、顔を知る近所の女児が縄跳びをしていた。アコーディオン門を力任せに開いた時、言葉を成さない大声を張り上げたくなったが、堪えて開錠し、自分独りの家に入った。女児のツインテールの髪が、義毅が置いていったUSBのニュース映像に映っていた、金沢に命を奪われた幼女に重なっていた。当てる宛てが分からない憤りが、村瀬の胸を焼いていた。
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