手繋ぎ蝶

楠丸

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21章

~無情と希望~

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 家に帰りつくと、ポストには息子の博人からの手紙があり、封を切って読むと、「電話をください」と何かを訴え、知らせたげな一行の下に家電の電話番号が書かれていた。

 元妻、娘はすでにあの有様だが、唯一愛しさを覚えた息子からの手紙であることが気になった村瀬は家に入り、食卓椅子に深く座り、気持ちを準備してから、書かれている電話番号をプッシュした。

「もしもし‥」向こうの受話器が外れる音のあとで声を送ったが、応答がない。

「もしもし。恵梨香か? 博人か? 応えなさい。お父さんだ」村瀬が呼びかけると、若い男の声を含む弱い呼吸が聴こえ始めた。

「博人だな」混じる声で博人と分かる通話相手は、切羽詰まった様子が分かる呼吸音を漏らすだけで、村瀬に応答しない。

「何が言いたくてこっちに手紙をよこしてきたんだ。黙ってちゃ分からないぞ。はっきり言いなさい」「お父さん‥」弱い応答がようやく返ってきた。

「お母さんが、万引きで捕まったんだ‥」

 博人が打ち明けた事柄自体に、村瀬はそれほどの驚きは覚えなかった。遂に行き着くところまで来た、とだけ思ったが、二人揃って精神的な発達に遅滞をきたし、実年齢と社会性が一致しない子供達は、それでこれからどう生きていくのかというところが気になる念が起こるばかりだった。

「それはいつ頃なんだ」「あの時、あの人達と一緒にお父さん来てから、すぐ‥」博人の言うことが本当なら、それは一週間前になる。

「今、お前達はどうやって暮らしてるんだ。電気と水道は通ってるのか。冷蔵庫の中に食べ物はあるのか?」博人は答えず、彼の呼吸だけがまた通話口の向こうから流れるだけになった。

 博人のはっきりしない態度と、ありありと想像が及んだ惨態に怒鳴りつけたい気持ちになったが、これは彼の意思で起こったことではない。怒鳴る対象がいるとすれば、それは後先を考えずに愚行を犯した美咲であり、博人を怒るのは筋違いだ。

「博人、お前は携帯持ってるのか」「俺、持ってない。お母さんとお姉ちゃんは持ってるけど、俺、番号分かんない‥」村瀬が訊くと、博人はより声を弱く沈ませて答えた。

「お母さんの万引き、ずっと前からだったみたいなんだ。万引きの仲間と一緒にやってたんだって。国選弁護人の人が言ってるんだ。被害総額がもう弁済出来ない額なんだって。質屋さんで、高い腕輪とか、宝石の指輪とかもやってたみたいだから。あと、服とか‥」起訴は間違いない。村瀬は小さな溜息をついた。

「今日の夕ご飯と、明日の朝ご飯はあるのか?」「納豆と、卵とパンが少しあるよ。お金も、お弁当買えるぐらいだったらある‥」「恵梨香は今、そこにいるのか?」「いないよ。ユニオンとかの人達と一緒だと思う。多分、今日、帰ってこないよ」「よく聞きなさい」村瀬は捺した。

「お父さんは、明日、上手い具合に公休だ。明日の午前中にそっちへ行くから、必ず家にいて、待ってなさい。もしも恵梨香が朝に帰ってきたら、家で待ってるように言うんだ。分かったな」村瀬は捺しながら、さらに続けた。「それと、お母さん宛てに来てる、借金の督促状、まとめておいて、明日、お父さんに見せなさい」博人は答えなかった。

「分かったな。明日の朝、十時くらいにお父さん、行くぞ」父親の捺しに、博人は時間を置いて「うん‥」と弱い返事を送ってきた。彼の泣かんばかりの顔が思い浮かんだ。
「じゃあな。明日な」村瀬が言うと、博人が数秒の間押し黙ったのち、「叔父さんが来たよ」と言い、受話器をフックに置く音がして電話が切れた。

 スマホを持つ手を腰まで下ろした村瀬は、深く息を吸って吐き出し、天井のあみだを睨んだ。義毅が家に行ったようだが、何の用件だったのか。何故、彼があの家を知っていたのか。いや、あの弟は旧実家の施錠を破って侵入し、指紋認証システムも破れるとうそぶいていただけのこともあり、その力を持ってすれば、住所などはたやすく調べ上げることも出来ると思える。

 美咲から手紙が来たひと月半まえまで、自分にはもう死んだも同じの縁だと思っていたものが、数奇な巡りで、また自分の許へやってきた。それは妻と子供だった三人の人間を、何らかの形で看ろ、あるいは医師的な要素を持って診ろ、という、形容するところ神仏のようなものが導き合わせた因縁だろう。もっとも、村瀬はその存在を信じていないにせよ。
 切ろうにも切れないもの、断てないものがある。

 今の村瀬が愛を与える対象の人は、菜実一人だ。その他に注ぐだけのそれは、今の自分は持ち得ない。だが、やらなくてはいけない。誰のためかと問われたら、博人のためだろう。

 子供には負い目がある。だが、美咲などは無論、今や親を親とも思わない異様な風体の暴力阿婆擦れに堕ちた恵梨香には、その負い目はそれほど感じず、あの家で誰よりも苦しんでいる博人には、親として、救いの手を差し伸べなくてはいけない。

 村瀬は昨日の夜に買った缶酎ハイの350ml缶を冷蔵庫から出し、プルタブを引いて、七秒ほど飲み口を見つめてから、三々九度のようなリズムで呷り飲んだ。それから缶を片手に柱に手を添え、窓の向こうの星の空を仰ぎ見た。

 舵灯を点滅させたヘリコプターが、南南西へと飛び去っていくのを追いつつ、村瀬は缶酎ハイを食道へ流し、胃に落とした。舵灯を見ながら、義毅が美咲の世帯を訪問した意図を思った。

 古和釜の住宅地一角にある、株式会社ラポールウッドの本社と言える、男性グループホーム「合歓」のリビングには、昏く静まり返った雰囲気が落ちていた。

 部屋の一角には、社長の増渕がここを興した時に後援者の町会会長から送られた観葉植物の鉢が置かれ、壁には「利用者は我が子」という旨の何箇条かの社訓が墨書きされた額縁が、二点ほどの絵画に囲まれて掲げられているが、清掃器具や雑多な荷物などが造作なくその辺に置かれ放しになっており、整頓状態は悪い。床にも、小さな塵のようなゴミが目立つ。

 リビングのテーブル椅子には、心労の白髪を浮かせた増渕と、赤く厚い唇に笑いを刻ませた義毅が向き合って座り、増渕の後ろには一人の利用者が、ここで行われていることなど知らないし、そもそも関心外というような笑顔で、腰を屈めた姿勢で、短い距離を行ったり来たりを繰り返している。それが彼のコーピング行動らしい。

 義毅はテーブルに置かれた二百万円の金額が記された小切手を拾うように取ると、グレーの編み上げジャケットの懐に入れた。

「くれるんならもらっとくよ」彫りの深い顔一杯に重い憂いを籠めた増渕に、義毅は言葉を投げた。

 船橋市の障害者支援施設の関係者が懇談する立食パーティーに紛れ込んだ義毅が、「人を見る事業をしている人間相手のコンサルティング業をやっている」と触れ込んで、「荒川佳樹」名義の名刺を増渕に渡したのは、二カ月前のことだった。

 義毅は合歓を訪問し、「ここには防災、防犯上の重大な欠陥がある」と指摘し、かつ、壁の間に防火材が入っていないことを挙げ、「これでグループホームと称していることが監督機関や他の同業関係者に知れたら、大変だ」と警告し、「もしもこれがどこかに漏れた時には自分が間に入り、事情を釈明するための保証金」として、ひとまず二十万円の手付を受け取って以後、顧問料、相談料の名目で、増渕はこれまで計百五十万円の金を支払い続け、今日の分を入れて三百五十万になる。

 たった今、増渕が自分から差し出した小切手の意味に何が含まれているかは、彼の顔色、態度で明らかだった。

「でも、これでいいのかね」義毅の問いかけに、増渕は彼に視線を合わせず、憂うる顔のまま言葉をつぐむだけだった。
「これは要するに、俺にはもう来てくれるなってことなんだろうけど、一端に組織率いる立場張ってるわりには詰めが甘えぜ、物事の解決手段ってやつがさ」義毅の声は、ボリュームを落としたテレビの音声と、後ろで行ったり来たりしている利用者の声が交差するリビングの空間に低く這った。

「あんたには、自分にはともかく、自分の外部への毅然がねえよ。これが土壇場だとすりゃ、土壇場で最後に信じられるもんが金だってこれまで思ってやってきたんだとしたら、生きた人を預かってる立場の人間として、あまりにさもしいんじゃねえか、代表取締役の増渕さん‥」義毅の対面コメントに、増渕は掬い上げるように彼とようやく視線を合わせた。

「向上心に溢れる野心家はたくさんいるんだ。いろいろな名目にかこつけて、合法的な乗っ取りを仕掛けるような輩がね。商売ってもんの、そんな基本原理も弁えねえで社長なんかやってるんじゃ全く世話ねえよ。恥だと思わねえのか。俺みてえな人間にこんなして上がり込まれて、挙句に銭金で解決しようなんてさ」義毅は言って椅子を立ち、増渕の後ろで決まった距離を徘徊している利用者の頭をぽんと撫でた。利用者は、物事を全く把握していない笑顔を義毅に向けた。増渕は肩と目線を落として座ったきりだった。

「興して八年も経ってんなら、いい加減に気づけよ。組織を補強しろよ。一度会社を興した以上は、何代にも渡って存続させる義務があるはずだろうが。それが社長から従業員に至るまで素人づくしじゃ、一代も続くかどうかも疑わしいぜ。本当だぜ、こいつは」振り返った義毅に、増渕はただうなだれるだけだった。

 壁に花の絵画の額縁が掛かった玄関の上がり待ちに座り、ブーツを履く義毅の後ろに小走りの足音が迫った。肩越しに見ると、憔悴に顔を歪めた増渕がいた。

 彼はマットの上に跪いて、両掌と額を床に着け、土下座をした。

「は? 何やってんだ。お前、馬鹿じゃねえのか」「お願いです!」呆れきった義毅の言葉かけに、増渕は高く裏返った声を上げた。リビングからは、何が楽しいのか分からない利用者の笑い声が聞こえ続けている。

「そいつは仏教で言う六道の畜生道だ。簡単に軽々しくやるもんじゃねえぞ。何のお願いだ。面ぁ上げて、筋道通して、はっきり話せ」ブーツを捻じり履いた義毅は増渕に向き直った。

「女子のホームの、恵みの家を何とかして下さい」言った増渕は床から額を離さなかった。こめかみには汗が見える。

「面、上げろ」義毅が静かな声色で言うと、増渕は冷や汗の光る顔を上げた。

「ギャル達のホームがあることは聞いて知ってるよ。そこが今、どうにかなってんのか?」義毅はとぼけて訊いた。

 実は彼は、とあるつてですでに掴んでいる。恵みの家にどんな人間が配置され、誰が出入りし、何が行われており、どんな状態を呈しているかの一切を。

「半年ほど前から、うちの従業員ではない、変な男が来て、頻繁に泊まってるんです。前に一度注意したら、逆に居直られて、凄まれて」「何だ、そりゃ。そいつを招き入れてんのは、そこの世話人だろ。あんたがちゃんと社員教育しねえからそんなことになるんだ。そんなことだから従業員に舐められて好き勝手やられるんだよ。あんた、社長の責務を放棄すんなよ。俺はこの会社の用心棒までやるとは言ってねえぞ」義毅は冷たく言い放って、這いつくばったままの増渕に背中を向けて、合歓の玄関を出た。

「荒川さん!」背中に増渕の声を浴びて、義毅は玄関を出た。ホーム前に停めたソアラに乗り込み、エンジンをかけると、カーナビを三山方面に設定し、運転席で高い自嘲の笑いを上げた。

 魔力の波動でモンスター達を何匹倒しても、心が満たされることはなかった。母親も姉もいない独りの家に、波動を放ち、モンスターにダメージを与える効果音と、古城を舞台とした戦闘を盛り立てる音楽が空虚に響いた。

 エリアのボスキャラを魔法エネルギーで粉砕し、コンティニューをセットして自室からリビングルームに出た。

 体のべたつきも、べたつく体から立ち昇る臭気も、自分の人生のある時期からの馴染みだった。入浴も、食事も煩わしい。自分が酸素を吸い、二酸化炭素を排出して呼吸をし、生きている意味が掴めない。

 母親は今、千葉の拘置所に勾留されている。半年以上前から、仲間の女と一緒に、スーパーでは酒やつまみ、家電量販店では小型の電子機器、質店ではアクセサリー類を窃盗し、転売していたが、商品の型番と防犯カメラの映像から足がついたのだ。

 父親は自分達を捨てて人生を振り出し、母親は、親として機能していなかった。夜通しゲームの世界だけに思考を埋没させ、朝から夕方まで眠るという日常が始まったのは、中学に籍だけがあった頃からだった。

 小学校中学年から不登校になり、小学校の卒業式にも参加せず、中学時代というものは存在しなかった。入学式から卒業式まで、一日も出席しなかったからだ。だから、学力を含む知の成長が、小学校低学年程度で止まっている。二十歳の今に至るまで。

 実父が離婚届に捺印して家を出て、「お母さんの友達」と称して家に出入りしていた男が、母親と入籍して新しい父親になり、自分達が「江中」姓になったのは、自分が五歳で、年子の姉が六歳の時だった。実父がいなくなった寂しさは、二人目の父親の、子供を笑わせるユーモアセンスとノリの良さ、土日にはドライブに連れていってくれて、美味しいものを食べさせてくれる気前の良さに解消されたが、継父が朝になっても仕事に出る様子がないことが不思議だった。「僕、お金はたくさん持ってるんだよ」とは、彼が母親と再婚する前から聞かされていたが、働かなくても潤沢に金を持っていることの理由は詳しく話されることはなかったし、幼い自分はそれを深く考えて追おうとも思わなかった。継父が必要以上に姉に距離近く接し、いつも姉と二人で風呂に入ることも含めて。

 自分の目に視える世界の色が幼くして変わったのは、自分が小学校三年で、姉が四年の夏休み、時間は昼間だった。それまで、母親はぞんざいな言動と態度で愛想のない女ではあっても、幼稚園や学校には友達もいて、それなりに楽しさもある子供の時間を過ごしてはいた。姉も、子供らしい子供だった。

 八月の昼下がり、家で姉弟でレゴブロックで遊んでいた時、顔も見たことのない大人の男が二人やってきて、家に上がった。風采の上がらない顔をし、金のかかっていない服装をした四十男達だったが、二人揃って目にあさましい光が宿っており、それに厭な予感がした。男の一人が、手にアイスクリームを提げていた。男の一人が顔に薄笑いを貼りつけ、きょとんとしている姉を見遣り「これはいい。旬だ」と言ったが、子供だった自分にはその言葉の意味が分からなかった。

 四時まで外で遊んでなさい。継父は言って、自分に千円を渡した。どうして、と訊きたくなったが、どうにも抗えない大人の圧力を感じて、言われるがままに家を出た。

 渡された千円でジュースや菓子を買って、適当に時間を潰して、言われた時刻に帰ると、着衣と髪が乱れた姉が、呆然と床に座っていた。顔は、泣いたあとのものだった。床に置かれたカップのバニラアイスは、内容を残したまま溶けていた。

 継父の目は「黙っていろ」という、非力な子供が太刀打ちするべくもない、大人の立場を行使するような圧を発していた。

 姉の顔から、表情と呼べるものの一切が消えたのはそれからだった。言葉もなくなり、笑うこともなくなった。その一方で、自分の身に降りかかったことを、肚を据えて背負う人間の顔にもなった。

 その姉は、それでも学校へは行っていた。だが、これまでのように友達と遊ぶようなこともなくなった。

 土日には、夏休みに来た者達と、また違う顔ぶれの男達が来た。そういう時、母親は決まってと言っていいほど出かけていた。男達が来るたびに金を渡されて出ろと言われ、その額が次第に大きくなり、しまいに一万円にもなり、それでゲームソフトを買った。姉を案じる心がないわけではなかった。子供の身でどう使っていいのか分からない金額であり、額的に思いつく使い方が、それしかなかったからだった。

 そのまま、自分は姉に続いて中学生の年齢になり、男達の出入りは変わらなかったが、ある時、家の箪笥から数枚の写真を発見し、向けようにも向けられない怒りと、誰に吐露する術もない悲しみに、心ごと押し流されることになった。

 PC印刷された写真の中で、姉は顔一杯をほとばしらせた涙と洟、唾液で濡らして口を大きく開けて泣き叫び、裸の体を大人達の大きな手で組み敷かれ、幼い女性器、肛門までもが剥き出しにされていた。束の写真をめくり、肛門と膣の両方を勃起した大人の陰茎で塞がれているもの、口に何本もの陰茎を突き込まれているもの、小さな体を担がれて大きく股を開かされて性器を露出させられ、Ⅴサインをしている男達の顎と手が写り込んでいるもの、他、様々なアングルから撮られた、大の男達が年端も行かない姉を惨たらしく輪姦している写真を見ることになった。乳房が膨らみ始めた姉が、四つ這いの姿勢で、後ろから貫かれながら、口に性器を咥えさせられているもの、薄い陰毛も露わに、座って膣孔を指で拡げている当時からして最近のものもあったが、その写真に写る姉の顔は、すでに全てを諦めたものになっていた。

 母親が再離婚したのは、姉が中学を出た頃だった。継父が小学校の女子トイレを盗撮したこと、公園で小学生女児のスカートをまくった二重の罪状で逮捕され、近所に噂が広まったことに怒った母親が離婚を突きつけたのだった。その際、「外ではやらないでって、あれほど‥」という母の言葉を拾っている。

 これまで口と表情をつぐんでいた姉の言葉、態度が変わったのは、それからすぐのことだった。

 作山博人は、荒れた家のリビングを眺め見て、明日訪ねてくる父親に打ち明けようと思った。今の状況に対して、やっと頼ることが出来るのは、葛藤の末にこの家族から離れていった、実の父親以外の他が分からないからだ。少なくとも豊文は、母親にも自分にも出来るべくもないことを、阿修羅のようになった娘に、ぴしりと行った。動機はともかくとして。親として、また、娘になくて自分にはある社会経験、人生経験を持つ先輩の威厳を見せたことは間違いない。

 博人は思いながら、母の美咲が飲みっ放しにし、一週間前から放置されていた発泡酒の空き缶と、食べ残したサラミの残る小皿を片付けた。それから、シンクに積まれたままの食器類を、ぎこちない手つきで洗い始めた。時計の秒針が音を刻む空間で、不登校になる以前の、朝に起きて、夜に眠る暮らしに戻れたら戻りたい、という思いをよぎらせた。また、いつかは、衛生の行き届いた綺麗な環境に住みたい、とも思った。だから、まず、洗い物から始めてみたのだ。

 恵みの家の前には、車高を落とした改造のされた黒い族車が停まっていた。義毅はその真後ろにソアラを停めると、エンジンを切ってアイドリングを止め、運転席から出、族車の運転席側に立ち、ジャケットのポケットから、小さな釘を出した。人差し指と親指につまんだ釘の先端を、サイドドアにこつんと当てた。

 きき、という耳障りな音とともに、サイドドア一面に達筆な字体の「阿呆ん陀羅」という傷文字が大書きされて出来上がるまで、時間はかからなかった。さらにボンネットには、茶のスプレーで、コミックフルな、いわゆる「ナルトウンコ」の人糞が描かれた。

 義毅は外門を潜り、チャイムのボタンに指を載せて押した。すぐに応答がないことから、世話人が出たがっていないことが分かる。

「どちら様でしょうか」三十秒ほどして、来訪者の素性を穿ったような女の声がインターホンから返ってきた。

「通りがかりの者なんだけど」義毅の送った声に、インターホン向こうの相手が気色ばむ気配が伝わってきた。

「前に停めてんの、お宅の車かな」「そうだけど、何ですか?」女が不快そうに訊き返してきた。

「いたずらされてるよ。犯人、まだそんなに遠くへ行ってないっぽいから、ちょっと見たほうがいいんじゃないの?」舌打ちが聞こえ、鍵が開けられた。

 よろりと出てきたのは、サンダルを突っかけ、寝間着の黒いトレーナー上下を着た、顔立ちは端正で若い造りをしているが、髪のセンスでいくらか年齢がいっていることの分かる、アップの金髪の髪をした男だった。寝間着の生地が余る、さながら鶏がらのような体つきで、男としての平均的な筋力があるかどうかも疑わしいが、目つきばかりをそれらしく鋭くし、決めている。

「ほら‥」義毅は肩を揺する男の先を誘導するように歩き、族車を指した。

 男の目が大きく見開かれ、それから動揺を隠すように怒りを作った顔になり、肩を浮かせて拳を握ったが、その顔と体の恰好はB級物の大根俳優のようにチープに見える。眉間に皺を寄せ、下唇を突き出した顔の、読心も容易なアウトロー気取りは、ある意味健気な感じもする。阿呆ん陀羅の傷大書きと、ボンネットの人糞のグラフィティに、相当自尊心を傷つけられたと見えた。

「誰だ、舐めた真似しやがったのは! 出てこい、おらぁ! 柄さらって銚子の沖に沈めんぞ、この野郎!」男は四方に睨みの目を飛ばしながら巻き舌を交えて凄み、怒鳴ったが、恐い内容の言葉のわりに、腹から声が出ていないため、まるで迫力がない。

 そこへ世話人の女が、門から顔を出した。

「誰だよ、その馬鹿! そんな奴、やっちゃいなよ、タツ君!」下顎前突症の女がバブリーな調子の発声で高く叫んだ。義毅は目の前の男のここでの呼び名と、この女の氏名を、仕事の一環ですでに掴んでいる。ここでこの二人が耽っていることは勿論知っているし、何をここに持ち込んでいるかの要領も得ている。それらは無修正ハードコアポルノや、極道物ⅤシネマのDⅤDだけではない。

「出てくるも何も、そいつはお前の目の前だよ」義毅がからからとした笑いの表情で言うと、タツの顔に不審の色が浮かんだ。

「これ、やったのは俺だよ。お前が自分でやらねえ自己紹介と、お前の面を代わりに書いてやったのはさ。銚子の沖に沈めるとかって、格好いいな。なら、今、ここでやってみな、ほれ」義毅が鱈子の唇から舌を覗かせて言うと、タツの柳眉がより上がった。

「てめえ、俺を誰だと思ってやがんだ、この野郎!」「誰と訊かれても、お前の生い立ちとかまで詳しくは知らねえし、興味もねえよ。でもな、ろくでもねえ動機でここに上がり込んでることぐれえははっきり分かんぜ」言った義毅の顔には、かすかに悲しげな色が挿していた。

 タツの体勢が崩れ、逃げる足恰好になった。顔からは強面の装いが消え、面一杯にたちまち狼狽が満ちた。

 義毅が一歩前に出ると、タツが女の悲鳴のような声を張り上げ、義毅に殴りかかった。大きく腕を振り上げ、握った拳の小指側で、ぽかぽかと義毅の肩を打ち始めた。ヒステリーを起こした女と同じ反応だった。義毅はすかさず襟首を掴んでタツの体を固定し、軽いパチキと浅い膝蹴りを一呼吸のうちに入れて、動けなくした。

「いけてる中年ヤンキー君、中で話そうぜ」義毅はうずくまったタツの襟首を掴んで、脚をがくつかせる彼を玄関へ引いた。

 ドアを閉めると、義毅はブーツの踵でしたたかにタツの尻を蹴った。タツは床に這った。

 すでに氏名をどう発音するかも知っている下顎の出た女ホーム長は、白いシースルードレスの下に萎えて垂れた乳房と束子のような陰毛を梳けさせながら、ただ立ちすくむだけだった。

 ブーツを脱いで、豚を引くようにタツの耳を引き、リビングに引っ張り込むと、ふるやちずこ、という氏名を知っている女がのろまな足取りでついてきた。義毅の蛮行を止めたり、タツを案じるなどというような様子もない。

 時間はまだ十九時過ぎだが、リビングに利用者の女の子達の姿はなく、テレビ画面の中では、少女のように小さな乳房をしたショッキングピンクのスキャンティ一枚の女が、乳牛のように大きな乳房をした女の乳首をローターで責めているレズビアンのポルノ映像が映り、ローターの振動音と女の喘ぎがスピーカーから漏れていた。

 テーブルには、食べかけたデリバリーのピザが何斤か残り、ビールの瓶が二本と、その脇には、銀のアルミホイルに載った白い結晶と、それの入った破れた袋、透明のアルコールランプが置かれている。いわゆる「炙り」のSであることが義毅には分かった。

「おい、拍手もんだな、こいつは」義毅はテレビのポルノ映像とテーブルの上の覚醒剤吸引セットを見渡して言い、棒立ちのタツの耳を強く引いた。タツは鼻血を滲ませた顔を歪めて呻いた。

 それを見ていた古谷千津子が、媚びた笑いを顔に浮かせ、科の足つきで義毅の許へ詰めてきた。「ねえ‥」古谷が義毅の首に腕を回し、重ねた掌を項に巻いた。

「気のせいかな。何だか、あなたとどこかで会ったような気がするんだけど」古谷は義毅に額を接近させながら、甘い媚声を囁き落とした。

「さあな。そんな面、俺の記憶にはねえよ。会ったとすれば、縄文時代じゃねえのか」義毅が言い捨てると、古谷はまた媚びた笑いを漏らした。

「あのね、私達のラポールウッドは、利用者の子達を頭ごなしに叱らないで、伸び伸びと生活させる支援をモットーにして、二軒のホームを運営してるの。ここは利用者同士、職員同士、外部の人達ともども、仲良くする場所なの。だから、あなたさえよかったら、私と仲良くしない?」古谷が義毅の額に自分の額を当てた。

「ね、私のこと、気が済むまで抱いていいから、暴力的なことはやめにしない? ちなみにテーブルにあるの、合法的なやつなのよ。でも、誤解されてもいけないから、外には黙ってて」古谷は言うと、義毅の股間に指を這わせた。

 義毅に耳をつままれたタツの怯えた犬のような声と、ポルノ映像の粘膜音が重なった。画面の中では、スキャンティを脱ぎ捨てた小さな胸の女が下になり、胸が大きいほうの女が上になり、互いの性器を舐めずる女同士のシックスナインが始まっていた。その映像にモザイクは入っておらず、乳房の大きな女の肛門と、指で押し拡げられたラビアが画面一杯に映し出されている。

「その汚え手、俺の首から離せ」義毅が言うと、古谷はくすりと笑い、唇を彼の頬に這わせた。

「強がることは何もないの。伸び伸びと楽しんだ者勝ちなのよ、人生は。だから、利用者の子達にも、私はね‥」言いかけた古谷の腕を、義毅の両腕が払った。媚びた笑いをまだ浮かべている古谷の下腹を、義毅は蹴った。古谷は踏まれた蛙を思わせる潰れた声を短く上げ、壁際に飛び、背中を壁に打ちつけて尻から滑り落ちた。シースルードレスの裾がめくれ上がり、大きく開かれた腿の間から、色素が黒く沈殿した性器が歪んだ姿をさらした。

 タツが反転した声を喉から上げ、二歩、後ずさって尻から転げた。目尻に涙が滲んでいた。

 腰が抜けたタツの鼠径部に、義毅の踵が落ちた。睾丸を圧迫されたタツが苦痛の悲鳴を発した。タツは苦悶の顔で海老反りになり、後頭部を床に着けた。義毅はタツの股間から踵を離し、彼の腰を両脚で跨いで体を屈め、毛量の過多な金髪の髪を左掌に握って引き、タツの半身を起こした。

「吐けよ。お前はここの職員と利用者の何で、どういう立場でここに出入りしてんだ」義毅は語尾の語気を強め、広背筋を絞ってタツの髪を引いた。

 金髪の髪が、全部、そのまま外れた。義毅は自分の左手に持たれた髪全体と、それを剥奪されたタツの頭を交互に見て、ありゃ‥という声を小さくこぼした。

 細く痩せた毛髪がサイドに申し訳程度に生え、頭頂部にひよこのような産毛が煙るタツの素の頭が、義毅の目の下に晒されていた。

 義毅は合点が行ったとばかりに短い失笑を吹いて、西瓜を叩くようにタツの頭を掌ではたいた。タツはか細い嘆声を喉から吐いて、禿げた頭を両掌で抱えて俯いた。

「お前が吐かねえなら、俺が代わりに言ってやろうか。これが本業か副業かは知らねえけど、あらかじめ用意してたもんと、思いつきの出任せを織り交ぜた嘘八百で、精神的にガキか病んでる女をSNSで引っかけて睦言ほざいて、金のなる木にすることがお前が鎬ぐためのゴトなんだろう? 俺から見りゃ、珍しくも何ともねえけどな、お前みてえな奴は。ちょうど、同業まがいの団体も知ってることだしな」義毅はタツの半身を跨いだまま彼の顔と対面にしゃがんで言いながら、両耳のピアスに指を掛けた。義毅の指が、そのピアスを外側へ引いた。タツの耳朶がゴムのように伸び、ひっと金切りが上がり、涙が筋を引いて落ちた。壁際では、義毅に蹴り飛ばされた古谷が下腹を押さえて呻いている。

「お前の昼の仕事、何だ?」「バイト‥交通誘導警備の‥」義毅が問うと、涙をこぼしたタツは唇を震わせて答えた。

「てめえの身の丈弁えて、分相応に生きるこったな。それをしねえで伸び上がって、てめえを大きく見せようとするようなことやってっと、いつかは誰かに見透かされんだよ。分かったら、もう二度とここに出入りすんな。このヅラは預かる。そのひよこちゃん頭、丸晒しにしてお家に帰れ。分かったか」義毅が左手の金髪ウィッグを掲げて命じると、タツは弱く啜り上げながら、はい‥と答えて頷いた。

 義毅が離れると、タツは真冬の台所にさまよい出てきた瀕死のゴキブリという感じの動作で寝間着を脱ぎ、壁に掛けていたゼブラ柄のジャージ上下を身に着け始めた。その口からはまだ、弱い悲鳴が流れている。

 先まで呻いていた古谷が箪笥を支えに辛うじて立つなり、怒りの顔をタツに向けた。

「何なんだよ、お前」古谷は顔を歪めながら、高い詰りをタツに投げかけた。

「お前、ビーブリューアー所属のトップアーティストで、長谷部絵理奈の元旦那で、加賀谷ベティと宇田川真紀の元彼で、百万人組手とか制覇した実戦空手の剛道会館の支部長候補で、関東中の裏社会束ねる裏総長とかじゃなかっけ。それが何だよ、こんなひいひい泣いてさ。これまで私に言ってたこと、全部嘘だったのかよ。おまけに禿げでさ」

 タツは返す言葉もないという風に、不様な怯え顔、震える手と足で身繕いをするばかりで、その姿は恐妻に詰められて平身平頭する小心な夫のようだった。

「情けねえのはしょうがねえよ。出任せで吐く吹かしがいつかばれることも想像も出来ねえダボなんだからな。ある意味、ここの子達のほうが賢いはずだよ。ここの助成金と、寄付金と、女の子達の基礎年金とか生活保護費が入ってる金を、こんなチンピラにもなれねえシャブカスのチン毛野郎に流してたお前みたいな女ともどもな」

 どこか悲しげな面持ちに抑揚を帯びた義毅の述べに、一寸、古谷は疚しげな顔をしたが、おもねる笑いをまたその顔にへばりつかせた。

 古谷がシースルードレスの肩紐を一本づつ指で外してドレスを足許へ落とし、下垂した乳房、黒ずんだ乳輪、濃く茂る陰毛の全裸の体を露わにし、床に膝を着いて、義毅に尻を向けて四つ這いになった。尻頬と大陰唇が割れ、周辺に毛を茂らせた濃茶色の肛門と、傷んで黒ずんだ食用貝の剝き身のような膣孔と、勃起したクリトリスが露出した。

 タツは禿げた頭部を隠すこともせず、怯えた顔のまま立ち尽くしているだけだった。

「財布出せ」義毅に命じられたタツは、尻ポケットから鰐革の財布を抜いた。

「抜いたら渡せ」義毅が言うと、タツは項を落としたまま、財布を差し出した。

 義毅が受け取り、開いた財布には十五万と数千円が入っていた。義毅にはもらったところでしょうのない額だった。免許証を抜き、拝見すると、名前は宮田辰昭、とあり、生年は昭和の後期だった。

 義毅はタツこと宮田の顔写真、生年月日、住所の記された免許証の表面を、「業務用」のポケットタブレットで撮影した。

「とっとと出てけ。また来たことが分かったら、その時はただじゃ済まねえ」義毅は静かな気迫を声に込めると、宮田の財布から千円だけを残して有り金を抜いた。

「これだけ、ここに返せ。これまで吸い上げてた分の足しには足らねえけどな」義毅は言い、十五万数千円の札をテーブルに置いた。宮田は筋肉のない肩を落とし、ミリ数の少ない毛髪の残る頭を垂れて立っているだけだった。

 テレビ画面の中では、ペニスバンドを履いた微乳の女が、豊胸の女に後ろから挿入し、豊胸女は体を前後に揺すりながら甘い声を上げている。

「火が点いちゃったの。お願い! 姦って! 挿れて!」古谷は股に差し入れた指で縁の黒いラビアを拡げ、叫ぶような声を撒いた。

 義毅は足を進めて古谷の体の脇に立つと、その後頭部を土踏まずで踏みつけた。ぎゃっという醜く潰れた声が上がった。

「おい、この痰壷雌」古谷の頭を踵で押しながら、義毅は低い声を落とした。

「勘違いすんな。俺には地底怪獣何ちゃらラーの雌とやる趣味はねえし、これでも糞と花の見分けぐれえはつくんだ。てめえが何年前とかにどんな矜持立ててこの道に入ったんだかは知らねえけどな、腐ってブラックになっちまった奴は、憚って身を引かなきゃいけねえんだ。いい歳のみそらで、それを分かれ」言って、古谷の頭部を踵で踏み離した。顔の下の床には鼻血が垂れていた。

「おい、茶瓶、お前はとっとと失せろ」義毅は言い、タツこと宮田に顔を向けた。「明日から、監督にどやされて、とっぽいダンプの運ちゃんとか荒い鳶の奴らに縮こまって、身の程相応に生きてけよ。スピードなんぞで誇大妄想に耽ったとこで、そんなもんは一時のもんでしかねえんだ。分かったか」

 宮田はわずかな金の残る財布を持って、顔を伏せて玄関口へ向かった。その瘦せこけた背中には悲しみが見えた。「阿呆ん陀羅」と傷書きされ、人糞のグラフィティが描かれた車に乗って帰るか、免許証にあった駿河台の住所まで交通機関を利用して帰るかは分からないが、彼の心身は今日、生涯残るような傷みを受けている。ペナルティとしては充分以上のはずだ。

「来年の二月までに二百万納めねえと、親子で殺されるんだ‥」宮田は深くうなだれたまま、誰にともなくという様子でこぼした。

「四六時中、その奴らから見張られて、女を引いて金に換える見返りに薬を回してもらってるんだよ。母ちゃんと二人で中毒だってことにつけこまれて。そいつらは無認可の宗教団体なんだけど、ヌマの女を使った売春のサロン持ってて、県警の偉いさんとか、与党の代議士とか、特別支援学校の先生とか、大きな福祉施設の施設長クラスの人間も、そこの女、買ってるんだ。交通誘導警備の仕事だけじゃ、俺一人だけならまだしも、母ちゃんまで養いきれない。それで飯が買えないから、薬を飯の代わりにしてるんだ。街金からの借金も背負ってるんだよ。そうでなきゃ、車も借家も維持出来ねえしさ」宮田はひとしきり自分の身の上と、自分を囲む状況の話を打ち明けて、屈めた背中を向けて玄関口へと消えた。

 それを目で追った義毅が、テレビ画面のポルノ映像とテーブルの上の覚醒剤を見渡した時、角の部屋の襖が静かに開き、利用者の一人が出てきた。そろそろ老齢の年齢をしたその利用者は、歯の抜け落ちた口を何かを言いたげに開けた顔で、音声でしか分からない先しがたのことを確認するように義毅を見ていた。その目には、義毅への感謝と、かすかに差した希望への期待が見えた。

 二階からも、扉の開く音が聞こえ始め、続いて階段を降りてくる足音が続いた。

 五人の利用者が降りてリビングへ来て、義毅を囲むように立った。寝るには早い時間のパジャマを着せられた女の子達の中に、菜実がいた。義毅の偽名を発音する形に唇を開いた菜実に、彼は口に人差し指を当て、「しっ」のジェスチャーをし、二人で頷いた。

 半年前、初夏の頃の日曜の午後だった。飲食店が立ち並ぶ柏の裏通りで、居酒屋の店名ロゴ入りのTシャツを着た四人の若い女達に囲まれ、「謝れよ」などと凄まれて絡まれている、まだ氏名を知らなかった菜実を、たまたま通りかかった義毅は助けた。他の通行人はみんな見て見ぬふりか、遠巻きに興味の視線を送り、笑いながら見ているかのどちらかだった。

 人数を頼りに、「うちらが誰と付き合ってるか知ってんの?」などと凄むその娘達を追い払ったのは、義毅による、「店のロゴが入ったユニフォーム着てこんなことやって、お前らのほうこそ大丈夫なのか?」という問いの返しだった。
 底辺の教育環境で体ばかりが一端に養育された娘達が蜘蛛の子になって去ったあと、それをただ見ていた、ジャージ姿の大学の運動部員らしい体格のいい男達などにこってり説教をぶった義毅は、絡まれていた時の反応などで菜実が何かしら健常の人ではないことを察したが、大丈夫かと声かけして何言かを交わした時に、彼女が知的障害者だとはっきりと分かった。

 生業の嗅覚が騒いだ義毅は、「メルクスドーナツ柏店」に菜実を誘ってアイスショコラとドーナツを奢り、かまをかけて彼女の簡単なプロフィールと通所先、入居先を訊き出し、電話番号を交換し、洗いを進めつつも、何度か食事やお茶、カラオケのデートをした。その中で何度か催淫してみたが、かなり堅いものを持っていると見え、それに落ちることはなかった。なお、話を聞く限り交際の縁が出来たという男の氏名の苗字、職業も、時折連絡を取り合う中で掴んでいる。東習志野に住むと聞くその男は、だいぶ年長だという。

「何やってんだよ、馬鹿! 部屋、戻れよ!」鼻血を流した古谷が一糸まとわぬ姿のまま立ち上がって甲高く怒鳴った。だが、菜実を除いて障害が外から見てもよく分かる、十代から六十代の五人の女子は、古谷の怒声にも裸姿にも、流れているポルノ映像、音声にも見向きもせず、感謝と、解放の喜びが湛えられた顔で、義毅の顔に視線を集中させていた。古谷の顔のおろつきが、より濃くなった。

「こいつらの誰一人として、もうお前の言うことなんか聞かねえよ。お前がこれまでやってきた、支援もどきに従う子もいねえ」義毅が言うと、全裸で立ったままの古谷の顔に義毅への殺意めいた色が浮き出したが、言葉は出なかった。

 義毅はリモコンを取り、ポルノ映像を切って、民放のチャンネルに変えた。女性タレントが、アフリカのマラウイで少林寺拳法を教える日本人の師範をリポートしていた。

 菜実を含む利用者達に目で「じゃあな」と送った義毅が玄関でブーツを履いていると、一人の女の子がとことことやってきた。赤いパジャマを着た、身長が120cmに満たない、小さな子だった。女の子はしばらく下から掬うように義毅の顔を見上げたのち、紅葉のような手を差し出してきた。義毅はその手を握った。

「明日からは変な時間に部屋へ追いやられることもねえし、月九のドラマも、歌も観れるぞ」女の子の手を握った義毅が言うと、女の子が「うん‥」という声を返した。

 義毅が手を振ると、名前の分からない女の子も小さな手を振った。そこへ菜実が来て、女の子の肩を両手で持って、明けの星が瞬く目で義毅を見た。「彼氏、大事にしろよ」義毅は菜実に残してドアを開け、出た。

 外門から路地に出ると、50CCのバイクを停めた中年の警邏隊員がいて、目が合った。

「この辺で、喧嘩みたいな声を聞いたっていう通報があったんですけど、それらしいものを見たり聞いたりしてないですか?」警官に問われた義毅は、小さな笑いにとぼけを混ぜた。

「ああ、二十分ちょい前だったかな。窓から見たんだけど、五十ぐらいの酔っ払いみたいなのが二人、揉めてたよ。公園でけち着けようぜ、とか何とか言って、あっちのほうへ行ったみたいだね」「そうですか‥」義毅が述べると、警官の顔に若干の疑いが見て取れた。

「こちらの家の方ですか?」「いや、ここは障害持ってる子達のグループホームで、俺は用足しで来たんだ。そら、恵みの家ってんだ。ここの社長と知り合いでさ」義毅は言って壁面の看板を手で差した。

「分かりました。ご協力ありがとうございました。自分はあっちの児童公園へ行ってみますんで、何か見たら連絡して下さい」警官はバイクに跨って言うと、リアボックス付きのバイクを千葉市方面へ走らせ、去った。

 傷の自己紹介書き、大便が描かれた黒の族車は、すでにない。ウィッグを剥ぎ取られた頭と、あの様相になった愛車で帰るのはかなりの羞恥だろうが、行きがかり上、いたしかたない。

「俺だ。今、恵みの家の前だ‥」義毅は業務用飛ばし携帯の通話口に、溜息の混じった声を送った。骨を折ったあとの、疲れた声だった。電話の向こうからは、増渕のびくついた様子が伝わってきた。

「俺にもう来られたくねえなら、必須の条件があるぜ。一回しか言わねえから、聞き洩らすなよ」増渕が息を呑んだ。義毅は低い笑いを通話口に響かせた。

「恵みの家のホーム長格のあの女を、今日付けで馘にしろ。臨時の人間を送り込んで一週間ぐれえ泊まらせて、その間に、少しでもまともな仕事が出来る奴を雇え。それが出来なきゃ、あんた、駄目だぜ。あの出入りの男は叩き出したよ。もう二度と来れねえようにした。いいか、あんたもこれからは社長らしい仕事をしゃんとしろ。分かったな」義毅は言い捨てて、通話終了ボタンを押した。

 全く柄にもなく、一銭の儲けにもならないことをやったが、懐にしまった二百万円の小切手は、それの手付金のようなものだと思えば。

 義毅は笑って、オートキーのボタンを押してソアラのドアを開け、恵みの家の灯りと曇った夜の空を見た。その時、懐のスマホがバイブした。ショートメールのようだった。

「キットで検査しました。妊娠陽性です!」と、まどかが赤ちゃんの顔とクラッカーの絵文字入りのメールを届けていた。

 小さな驚きのあとで、喜びのようなものを確かに感じたが、こんなものが自分に似合うかという葛藤めいた思いも起こった。だが、自分がこれからやろうとしていることは、およそ二十年の長きに渡って自分が紡いできた、世の中の掟、一般倫理から大幅に外れた生き方に楔を打ち、けじめをつける意味もある。

 大雨の降りしきる夏の夜、わずかなバイト料を頼りにひとまず東京へ逃がれ、寿司割烹で板前見習いの仕事にありついたが、パワハラの嵐を吹かせる先輩板前を頭突きですっ飛ばして飛び出すようにして辞め、大阪へ出て、西成で盗品を捌く香具師の店番をして生活の糧を得ていた。その時期に彫りも入れ、背中には天女がいる。食べ物の屋台を任された時期もあったが、黒子があり、黒い毛を生やす黄色い皮膚を付けた肉を調理し、客に提供したこともあった。その客達は、「何やねん、この肉。何か酸っぱい味がするやんか」などと言いながら、そこそこ美味しそうに、たれを付けたその肉の串焼きを食って、ビールを酌み交わしていた。

 盗難車両の軽トラックを改造して屋台にし、「ヘアーギャルうどん」と名打ち、拾ってきた阿婆擦れの女を立たせて、仲間が引いてきた客にノーパンでスカートをたくし上げたその女の陰部を触らせ、指を入れさせ、時には舐めさせ、乳房を吸わせ、半裸の女がふーふー、あーんして、と言って客に食べさせるサービスを行い、市販のうどん玉一杯で一万円を取った。その請求にごねて抗議する客は、彫物と、「いい歳なんだから‥」という唸りで大人しくさせ、金をせしめ、ほんの一時期の風流だったが、百万円近く稼いだものだった。
 
 それから催眠商法の販売員、法的にグレーな営業実態を持つ貸金業者に雇われた不良債権の取り立て屋、ガールズバーの用心棒、機関誌を強制購読させる似非同和運動ゴロなどを経て、企業や個人の恐喝、時に強盗も行う今の稼業に入った。

 自分の生まれた家は、自分には合わないと思っていた。煙草は好きだが酒は飲めず、真面目だが冗談というものを概念から知らないとも思える、ほとんど笑わない父親、その父親がぶつ一般論の正論にいつも従い、仕えるように寄り添う母親、その両親に従順な兄。物心ついた時から、自分の周りに出来上がっていたその型組への破壊衝動を覚え、幼稚園では積木で他の子供を殴り回し、園長先生に悪態をついて蹴りを入れ、早々と問題児のレッテルを貼られた。また、この頃、昼食の時にみんなが先生のピアノに合わせて「おべんと、おべんと、嬉しいな」と唄っている間に自分の弁当の蓋を開け、一瞬でたいらげるという早弁のスキルも覚えた。

 喧嘩のこつは小学校低学年で掴み、騒ぎを起こさなければ気が済まない性格がその頃すでに形成されていた。高学年の時には、親がこれが更生のようなもののきっかけになればと儚い望みを託してのものだったか、私立中学受験を強いて入れられた学習塾を喧嘩でやめさせられている。

 それでも分かりやすいヤンキーにはならなかった。中学に入ったばかりの頃、幼稚園時代から馴染んだ喧嘩友達に付き合って、実籾から大久保の駅前周辺にたむろしていた、「ファミリー」の溜まり場へ行ったが、そこに集まっていた連中の、揃いも揃って、ぐにゃっ、ぐでっ、としていて、体力や根性、物事への意欲が感じられないばかりか、経済面でも親に庇護されながら、半端に煙草を吸って酒を飲み、バタフライナイフを玩びながら暴力やセックスへの羨望ばかりを語っている様を見て、これは自分の道ではないと思った。少なくとも、自らが働く各種の悪事に自腹切りという考えがなく、親の庇護を受けながら不良などと称している連中には、しょぼしょぼとした情けなさ以外のものが感じられなかったからだった。

 それからは、しこしこと勉強に勤しみ、部活はサッカー部でレギュラーのフォワードとして活躍して県大会にも出場、高校は偏差値レベルそこそこの県立に進学し、中学から引き続きサッカー部に在籍しながら、ガソリンスタンドや海の家でバイト、高校三年で普通免許を取得、大学は二流どころの文化系に進学した。そんな青春の中、自分の親と同じタイプの大人達や、教育委員会の偉い人やPTAの仕切り屋が説く品格や常識を綺麗に転覆させてやろうという意気が天を突くように沸き起こっていた。

 二流文化系大学を親に無断で中退した心的動機は、父親からの「自分達の子らしく何をしろ。どう在れ」という固定的な価値観の押しつけに反発したことだった。それが今歩んでいる道の始点だった。

 十歳年上の兄は好きだ。品格や、他者に協調する上での優しさが大切だと世の中で言われるなら、それを大事にして、ありのままの自分に自信を持って生きることを、いつも兄に勧めていた。だが、その自信を欠いたから、一緒に家庭を作る相手の人選を誤った。子供だった頃から苛立たしく、今も憤然たる思いがあるが、その結婚で出来た姪、甥に罪はないと思っている。

 今の兄が一緒に歩んでいるらしい相手とは、ついさっき会ったばかりだが、これがいいのか悪いのかは何とも言い難い。それでも、あの相手との不幸な結婚、離婚の経緯を思えば、いくらかはましかもしれないと思わないこともない。

 自分は長い間、結婚という制度に憧れたことはなく、そもそも人間の親などというものを務める柄ではないと思ってきたが、女の出入りはそれなりにあり、特に不自由を感じたことはなかった。だが、まどかはこれまで自分がベッドをともにしたどの女とも、ハンデの露わなその外見ともども違う。これまで自分が抱いてきたどの女とも比べるべくもなく、知性、感性が優れ、強くはきとしていながら、優しく、広い心を持つ。その真面目な内面と、社会福祉士という職業も自分のような性分の者とはでこぼこだが、一緒にいる時の心地が、最高、と呼べるかどうかは分からないにせよ、悪くない。だから、あの市議会議員候補で剣道師範の学習塾オーナーとの離婚にも、彼が昔に犯した罪の証拠を持参して、自分の仕事も兼ね、協力したのだ。

 僚者の松前から指摘されたように、自分は変わったのだろう。先日取っかかりを仕掛け、これから行おうとしていることに、何かの食指が動いているわけでは全くない。漁夫の利を追うわけでもない。これも強いて分類するところ、ヘアーギャル屋台と同じ、風流だろう。しかし、これからそれに臨む自分の気持ちが、不思議に柄にもなく真面目なものであることの自覚もある。

 そんな具合の己の過去と今の気持ちを、義毅はほんの短い時間のうちに思考の中に掃いて、鱈子唇の端を緩く吊りながら、ソアラの運転席に腰を載せた。

 株式会社ラポールウッドは自分の手にかかって少なくない額の金を失ったが、なるようになるだろう。あの暗愚な代表取締役社長も、そうなるように持っていかざるを得ない。

 そんな思いをよぎらせながら、エンジンとギアを入れ、クリープで進んだ車をそっと踏んだブレーキで止めて、片手のスマホからまどかに電話を入れた。ワンコールで、まどかは出た。

「俺の柄じゃねえけど、おめでとさんか」義毅は冷めた口ぶりを作った。

「いくら柄じゃねえ、なんて言っても、あなたの子よ」まどかの声は喜びの震えを帯びており、鼻も啜って鳴らしている。頬に喜びの涙を伝わせているようだ。

「俺は特定の女は奥さんにはしないぜ」「だから、言ったでしょう? たとえあなたがどう思ってたって、私、産む」「産んでからも、続けるんだろう? 社福士の仕事‥」「続けるよ」まどかは小さく笑った。「私の命があるうちに、助けなきゃいけない人達が、まだまだいるから。私のあとに続く人にも、その引き継ぎをする義務があるから」「そうか。実はさ、こないだの一件に俺が協力したのと同じように、お前に協力を仰ぎたいことがあるんだ」「社会福祉士らしいことだったら、何でもいいよ」「俺の兄貴の子供だ。詳しくはまた話す。とりあえず、今度の土曜だ」「うん‥」

 まどかとの通話を終了させた義毅は、ブレーキから足を離し、ゆっくりと大学沿いの車道へ進み出た。ウインドウの脇にそびえる日大の校舎に短く横目を遣った時、人間の成長、生育というものへの興味が初めて心に滲みだしていることを感じた。

 習志野の夜空には、オリオンが見事な姿を連ねていた。義毅は前方に注意しながらオリオンをウインドウ越しに視て、カーライターを押し、咥えた洋煙草に点火した。

 煙を肺深くまで吸い込み、心地よい眩暈を覚えながら、片や善、片や脱法の渡世に生きる自分とまどかが、妙にも相通じる気性向きをしていると思った。

 十時に家を出た村瀬は、八千代台で降車してロータリー前の乗り場からバスに乗って、団地入口で降り、団地内のスーパーで食料品を買った。子供達が料理を出来るかどうかが分からないため、出来合いの総菜類、弁当、パン、インスタントラーメンやレトルトカレー、冷凍食品が中心になった。五千円超の買物だった。

 号棟と部屋は覚えていた。間違えることなく着いた棟の階段を上がり、三階の部屋のチャイムを鳴らした。沈んだ声で応答したのは博人だった。

 入った部屋は、人例研究企画部の一員として取り立てに来た時と比べて、いくらかは整頓が進んでいた。食卓椅子にはスキンヘッドの頭に白のバンダナを巻いた恵梨香が反り返って座り、煙草を吹かしている。父親を部屋に入れた博人は、怖ずとした顔でテーブルの脇に立ち、村瀬と目を合わせなかった。

「食べ物を買ってきた」村瀬は言い、大きな買物袋をテーブルに置いた。「弁当もラーメンも、パンもある。それと‥」村瀬の手で、一通の茶封筒も置かれた。恵梨香が煙草を咥えてそれを注視した。博人は不安げな顔色を変えることなく、テーブルの向こうに立っているだけだった。

「この中に三万円入ってる。だけど、これはお前達が遊ぶための金じゃない。食べ物や、他の生活上必要な物を買うためのお金だ。それを忘れるな」

 片手に煙草の恵梨香が、村瀬を横目で見て、へっ、という嘲笑を投げてきた。村瀬の胸に怒りが灯ったが、その感情は押し込み、抑えた。

 博人の目により激しい怯えが走っている。それはこれから自分の目の前で起こることの予期不安によるものだろう。その気持ちはよく分かるにせよ、言うことは言わなくてはいけない。

 血が繋がった者同士のこの分断には、自分に責任がある。それは自分が恋人時代から、男の立場で美咲を教育出来なかったことにある。だが、その頃の自分にそれは無理だった。寂しさと前途への不安から体の関係を持ったことへの自責も、自分の性格と原因を二分している。今、自分の前にいる子供二人も、それの結果だ。

「博人、昨日言った督促状を出しなさい」村瀬が命じると、博人は居間へ歩いた。箪笥の引き出しを開ける音がし、戻ってきた博人の手には、数枚の紙束が持たれていた。

 テーブルに置かれた束を、村瀬は手に取り、一枚づつ並べ、見た。きつく脅すような言葉が打たれた督促状は七通あった。テレビCMを流すメジャーな消費者金融のものと、銀行系カードローン、名前も聞いたことがないような金融会社のものもあったが、貸金業者として登録されているとあることから、これは街金のようだった。返済が出来ず、膨れ上がった金額は、総額九百万円超だが、闇金からは借りていないらしいことが不幸中の幸いか。

 その数字の打刻を追った村瀬の心には、怒りも呆れもなかった。よく知る人の、この人はこういうもの、という達観だけがその胸にあった。

 これらの業者から借り入れた金は、純法にいくら流れたか。それは、これらの督促状にある請求額の相当の割合を占めているだろうが、高い割率の何割かが、溺れていた酒と煙草、店屋物などの値の張る食事、ギャンブル代に消えたはずだった。しかし、今さらそれを悲憤したところでどうなるものでもない。これから何が出来るかだ。凋落した様を見ても、詫びの思いからの情を捨てきれない自分がいることの分かっている、娘と息子に。

 債務は基本、債務者本人の家族からは取り立てることは出来ない。美咲が勾留から服役になるかはまだ分からないが、債権者から民事訴訟を起こされる可能性もある。窃盗程度では長期の服役にはならず、債務消滅時効の対象にはならないからだ。

 だが、常習的に犯行を繰り返し、弁済などの和解交渉が不可能な以上、起訴は免れない。自己破産などの債務整理は代理人を立てられない。弁護士を同行させて拘置所へ行くことを、今の村瀬は考えていた。なお、刑事事件担当の弁護士を立てて執行猶予を得たとしても、美咲自身と子供達双方のためにも、距離を離す必要がある。

「博人、座りなさい」村瀬が促すと、落とした瞼を瞬かせる博人は椅子に腰を下ろした。恵梨香は煙草を揉み消した。

「お前達、これからどうする?」村瀬はテーブルに掌を載せて言うと、恵梨香と博人の二人を見回した。

「これまでお母さんのお金をあてにして暮らしてきたはずだろうが、もうそのあてがなくなったんだぞ。どうする?」恵梨香は煙草の箱とライターを軽く握り、向かいの壁を睨んでいる。博人も瞼を伏せて、貝のように黙っているだけで、答えは返ってこない。

「これからどうするつもりでいるんだ! 恵梨香!」村瀬は恵梨香を見て、同じ意味の言葉を強く繰り返した。

「生活保護があんじゃん。あれでいいよ」恵梨香は村瀬と視線を合わさず、軽い口調で呟いた。

「お前、本気で言ってるのか」「あれがあれば、仕事しなくて飯が食えるし、医療費もただになるし、何時まで寝てたっていいし、今、考えてるとこなんだよ」「お前‥」「あれだって、権利だろ?」開き直って、しれっと言う娘への呆れに、村瀬は息を吸い込んだ。

「あれは病災の頃は、仕事を失った人達の支度金のようなものとして自治体が勧めるケースもあったよ。だけど今はノーマスクの世の中になって、仕事に腰を上げることを政府が後押ししてることは、お前達も知ってるはずだろう? それに勘違いしてる人も多いけど、あれは仕事に就くことを前提に支給されるもので、もらっている間、ずっと遊んでいられるっていうものじゃないんだ。対象になるのは、疾患、障害とかで、働きたくても働けない人とか、無年金の高齢の人、他、やむを得ない事情があるけど、就職する意思をちゃんと持ってる人だけなんだ。そうでないと不公平が出るからな。いつまでも働かないで遊んで暮らそうなんていう意図を持って申請したところで、ケースワーカーにも民生委員にも、すぐに見透かされるんだぞ」村瀬の諭しに、恵梨香はまた笑った。村瀬を嘲弄するような笑いだった。

「じゃあ、お前が毎月こっちに金送ってくんねえ? 二十万でいいからさ」恵梨香は笑いを交えて言い、背中を反らせて村瀬を見た。

「俺の給料は、社会保険が引かれて手取り十九万だ。その金を残して、毎年六万円の固定資産税も支払ってる」「じゃあ、あの家売り叩いて金作れよ」「お前は何を言ってるんだ」村瀬は怒りと呆れが交わった思いに、次ごうとしていた語句を失った。

「今さら親面すんじゃねえよ!」恵梨香の声が荒く響いた。
「お前、自分の都合で家捨ててったんだろ? こうなったのは、みんなお前とあの婆あのせいなんだよ! お前、これまでどの程度の責任の感覚持って、一人でお気楽にやってきたんだよ! 分かってんだよ、お前がうちらのことなんか露ほども心配してねえってことはよ! お前は自分の体が傷つかなきゃそれでいいんだろうけど、こっちは大変だったんだかんな!」

 一ヶ月前の手紙にあったものと同じ句を織り交ぜた怒声が、村瀬の胸に刺さった。自分があの時目の前の二人を捨てて逃げを打った理由は、恵梨香の言うことが全くの遠からずだ。だが、あの頃の自分は、男としての骨、を含む自分に自信がなかったのだ。

 それでも、十日前にここへ来た時の自分の顔にあった痕跡を確かに見た恵梨香は、何を思ったのだろう。命を握られた上で受けた暴力の創が刻まれた、あの顔を見て、それが何によって付けられたものなのかをちゃんと考察したか。

 博人は肩をすくめ、垂れた瞼もそのままに小太りの体を震わせている。恵梨香に怯えていることがよく分かる。

「じゃあ、逆に訊くぞ」村瀬の声に父性の迫力が入った。恵梨香は柳眉の顔のまま、村瀬を睨み据えた。

「今、お前が言ったことは部分的にはそう通りだ。それは認めるしかない。お前達には詫びの気持ちもある。だけど、お前達自身は、成人の年齢になった今、お父さんに言った責任の感覚っていうものをどれだけ持ってるんだ。お前達がこれまでたかってたお金の中には、お母さんのパートの給料だけじゃなくて、お母さんが貸金から借りた分も相当入ってたはずじゃないのか」

「関係ねえんだよ」「関係ねえで埒が明くと思ってるのか、恵梨香」村瀬の語勢に、恵梨香の顔に一瞬だけ怯みが見えた。

「恵梨香、お前の手紙は読んだ。喧嘩相手の骨を折って、バックの男が出てきて金を請求されたとか、お前はいつからああいう嘘をつくようになったんだ」父親に問われた恵梨香は、口吻を尖らせて横っちょを向いた。その仕草に、図星の後ろめたさが出ている。

「もう子供じゃないだろう。いい加減、恥を知れ。それをちゃんと弁えた上でこれから頑張っていくなら、お父さんも出来る援助はするぞ。現実を見ろ。お母さんは、実刑になるかもしれない。お前達が雨風をしのげる住居を維持して、食事に困らない暮らしを送れるかどうかは、お前達次第なんだぞ。これはごく当たり前のことだ。これを理解しないと、お前達の終の住処は、本当に路上か刑務所になっちまうんだぞ。恵梨香、博人。もうこの辺りでちゃんと分からなきゃ駄目だぞ。じゃあ、お前達の様子を見に、また来るからな。いいか、ちゃんとやれよ」

 瞼を垂れる博人と、嘲笑めいた笑いを顔に浮かべた恵梨香を前に、村瀬は椅子を立ち、督促状の束を取り、ボディバッグのチャックを開けて入れた。

「お父さんは、これから法律事務所に掛け合って、この債務を整理するための段取りをする。多分、弁護士と一緒に拘置所へ行くことになると思う。自己破産は、代理人じゃ出来ないからな」村瀬は二人の我が子を交互に見て言い、玄関へ足を向けた。

「ふざけんじゃねえよ!」靴を履く村瀬の背中を、恵梨香の罵倒が打った。振り向くと、恵梨香は肩と目に心底からの怒りを表した仁王立ちに立っていた。

「もう間に合わねえんだよ! てめえが今さらそんな偉そうに上から物言ったって、響かねえんだよ、私には! そもそもこうなったわけが元々誰にあると思ってんだよ! てめえなんかに分かるかよ! てめえがうちら捨てて離婚に逃げてから、私がどんな思いでこれまでいたのかが分かるのかよ!」

 恵梨香の目に燃える怒りの中には、確かな悲しみの光が見えた。村瀬は十日前に彼女を掌底打ちで吹き飛ばした時も、同じ色をその目に視ている。

「もう、遅えんだよ、全部。何もかもがよ‥」恵梨香の呟きに、村瀬は「また来る」と残して、号室を出た。公団の、思い鉄のドアが閉まる音が、悲しく階段に鳴った。そこへ、急ぎ足で階段を昇ってくるサンダルの足音が聞こえてきた。
 ドアノブを握った村瀬と、やってきたエプロン姿の壮年の女が目を合わせた。

「すいません、作山さんのご主人でしょうか?」女は憤慨した顔と声で村瀬に訊いてきた。「私ですか? 私は元の夫ですが、何かありましたでしょうか?」「そうですか。じゃあ、娘さんか息子さんに言うしかないですね」「どうされましたか?」村瀬の問いかけに、女の顔色が険しさを増した。
「私はこの近くの志まだ、っていう、うどん、蕎麦屋の者なんですけど、奥さんが出前で注文して食べた物の代金をまだもらってないんですよ! もう、三回分です!」女はかなり腹に据えかねているという風の声を張り上げた。

「そうですか。大変ご迷惑をおかけしたようで、どうもすみませんでした。息子と娘はわけありで払えないので、代わりに私がお支払いいたします。おいくらでしょうか」「鍋焼きうどん、かつ丼、海老天丼、月見蕎麦と合わせて、四千七百五十一円になりますけど‥」代金を回収出来る当てが偶然見つかったことで、女の顔から少し憤怒が引くのが覗えた。

 村瀬がボディバッグから財布を出し、請求の額をちょうど渡すと、女は一息のつけた顔になった。村瀬は何も思わなかった。この先、美咲のどんなぼろがどこから出て、それを何度耳に入れても、驚きはしない。支払った約五千円の金が痛いとも、特段感じない。これが自分という人間だ。李のような人間が何と言おうと。

「家族の問題は、いろいろ大変ですよね」女は村瀬と肩を並べて階段を降りながら、事情に少しの理解を示したように言い、村瀬は頷きを返した。

「うちの息子は十代の時に喧嘩の刑事事件起こして、鑑別所に入ってたんです。出てからは、うちの蕎麦屋の家業を手伝わせて、調理から出前までやらせてるんですけど、人を威嚇するような物腰が変わらなくて、この辺で、志まだの喧嘩売り兄ちゃん、なんて仇名で呼ばれてるみたいだから、心配で‥」女は階段を降り切った所で立ち止まり、半分愚痴の入った家族の話を振ってきた。

「大丈夫ですよ」村瀬は女と並んで足を止め、励ました。「人は変わらなくちゃ生きてはいけないものなんですよ。息子さんだって、ご家業の仕事をぴしっと勤め上げるうちに、すぐではないかもしれないけれど、少しづつ変わっていくはずです。自分はこれで損をしているんだなって気がついた時に、人間はそれを正す努力を始めるものじゃないですか。どうか、まだお若くて将来のある息子さんを信じてあげて下さい。私の子供もわけがありますけどね」「そうですか‥」
 道を折れて緑ヶ丘方面へ去った蕎麦屋の女将を見送り、村瀬は反対のバス停の方向へ歩き出した。

 バス停に来た時、後ろから走る足音と、「お父さん!」と自分を呼ぶ声がした。振り返ると、博人が足を止め、焦燥の顔で村瀬を見ていた。

「どうした?」村瀬が訊くと、博人の口が、溜まっているものを吐き出したげな開き方をした。

「さっき訊きそびれたけど、義毅叔父さんが来たんだろう?」「来たよ。四日ぐらい前。ちょっと話して、すぐに帰ってったけど。また来るって言ってたよ」「どんな話したんだ?」「お姉ちゃんのこととか、いろいろ‥」博人は答えて、下を向いた。

「ねえ、お父さん‥」短い双方の沈黙を破るようにして、博人が呼びかけの声を発した。

「何だ。まだ何か言いたかったのか?」村瀬は優しく訊き返した。

「こないだ、あの人達と一緒だったのは何でなの?」「事情を抱えた、ある人をやむなく助けるためだったんだ。このことは追々話すよ」村瀬の説明に、博人はそれを呑み込みきれない顔をした。

「お姉ちゃんのことなんだけど」村瀬は、言った博人にゆっくりと二歩近づいた。

 人の通行は多くなかった。着ているものと顔に年輪を刻んだ男女が、まばらに来ては去っていく。そこへ八千代台行きのバスが来て、運転席側の降り口からごく少数の乗客が降り、乗り口のドアが開いた。

「お父さんがお母さんと離婚して出てってから、あの新しいお父さんと、その友達みたいな奴らに、お姉ちゃんはずっと変なことされてたんだ」村瀬は自分の目が大きく見開かれるのが分かった。

 頭の中に白濁が広がる感覚を覚えた。目に視える景色までが白くアウトし、その景色自体が失われた感じがした。
「あの男の居場所は、お前、分かるか」村瀬が博人に訊いた心の趣きは、怒りに基づくものであることが自分で分かった。

「分からない。俺とお姉ちゃんが中学の時、痴漢の事件起こして、お母さんと同じ拘留っていうのされて、また離婚になってから、どこにいるのか分からないんだ。お姉ちゃん、写真も撮られてたんだよ」

 八木ヶ谷の家に上がり、さも自分の家のようにくつろいでいた江中の姿と、堪りかねて家の前で向かい合った時に見せた狡い顔が思い出された。同時に思い出したものは、大学時代、学友の家でAⅤを何本か観た時、胸も陰毛もない九歳くらいに見える女児を、太鼓腹の中年男が剥き出しにされた幼い女性器をバイブレーターで弄び、黒ずんだ醜いペニスを口に押し込んでフェラチオをさせ、アナルセックスまで強いる裏物があり、暗い欲望の籠った男の息遣いに吐き気をもよおし、目に涙を溜めた、苦痛に歪んだ女の子の顔に目を覆った記憶だった。画面の隅からは、「もっとお尻を上げて」「開きなさい」と聞き取れる、母親らしい女の指示の声が飛んでいた。聞いた話では、そのビデオに映っている男、やはり撮影者であった母親は逮捕されたという。 

 白濁が爆ぜ、怒りの赤と憎しみの黒が交わった。体が震え、吐く息を荒らげた。  

「乗るんですか?」降り口から中年の運転手が半身を出し、不愛想な苛立った声を村瀬に投げた。

「いいです。行っちゃって下さい」村瀬が言うと、運転手は憮然と体を車内に引っ込め、程なくして乗降口扉を閉めたバスが走り出した。

「お父さん、お願い!」父親の上体を揺すって叫んだ博人の顔が、濁流の涙と洟で濡れ始めた。

「お姉ちゃんを助けてあげてよ! お姉ちゃんがあんな風に頭剃って、お母さん殴って、家のお金持ってくようになったのは、一昨年ぐらいからなんだよ! お姉ちゃんは今も苦しんでるんだよ! だから、お願い! お姉ちゃんを助けてよ! お父さん!」博人は村瀬の肩を掴み、体を揺さぶって、号泣をほとばしらせ、村瀬の胸に崩れた。

 冬服越しに、その涙の熱は村瀬の心身に伝わった。ありったけに横隔膜を絞ってせり出される涙の声は、心の底からの悲しみと悔しさを含んでいた。

 村瀬の目と鼻からも、たちまち、熱いものがどろどろと噴いた。村瀬は博人の体を抱きしめた。自分で意識することもなく、風鳴りのような咽びの声が喉から鳴いた。

 切れなかった。今、自分の体に頽れているのは、血を分けた我が子だ。何よりも分かるのは、その我が子が負った心の傷だった。それが親である自分の魂を切り立てていた。

「ごめんな、博人‥」村瀬の詫びに、腕の中の博人は一層烈しい泣哭を上げた。「お前も、ずっと独りだったんだな。でも、今日俺が来た以上、これからは違う。これからは‥」その先の言葉は出なかった。

 一組の父子が、しばらくの時間、体を抱いて、涙で互いの思いを交換した。誰がそれを見ているかは、二人は気にしなかった。曇った空が、二人と少ない通行人をじとっと見下ろしていた。

 二本目のバスに乗り、終点の八千代台に降り立った時、時間は十三時前になっていた。昼食時の後半だが、食欲を感じなかった。あのロリコンビデオを見せられた時に覚えた吐き気に似た感覚を覚え、鳩尾に痛みさえあった。

 裸に剥かれた、幼く、平坦な恵梨香の体に、何人もの男達の手がかかり、その体を弄り、嬲り回す絵面が頭を占拠し、離れなかった。衆目の中も構わず怒りの声を撒き散らしたくなる思いを、むかつく胸に押し込みながら、駅から百貨店へ直結した通路を歩いた。歩きながら、江中を筆頭とする、その男達の生首を一つづつ脊椎ごと引き抜く想像を焼いた。

 出口を塞がれた怒りとむかつきに思考の全土を冒されながら、小水族館と通路を挟んで向かいにあるフードコートに遅い足を進めた。平日ということがあり、先客は多くなかった。

 注文した牛丼の箸は進まず、中身を半分残した丼を、村瀬は返却口に出してフードコートを離れた。

 そのまま、自分の意識の外にある何かに引かれるように、エスカレーターに乗り、テレビが並ぶ電化製品店に体が吸い入れられた。

 インチの大きなテレビはそれぞれ、サッカーの試合や囲碁番組などを映し出していた。接客ブースでは、店員が書類のバインダーを持ち、中年の夫婦らしい男女に何かの説明をし、黒いベストの制服の胸に店内通信用のマイクをつけた店員が往来していた。

 その時、「速報」の字が挿入されたニュース画面に、村瀬の目が留まった。

「千葉・手賀川の男性水死体の身元が判明」と出て、女性キャスターが緊迫した面持ちでニュースタイトルを読み上げている。

 読み上げは、他のテレビ音声に搔き消されてよくは聞こえないが、河川で捜索作業を行う鑑識課員達の姿が映し出され、画面の端に、プライバシーと個人情報保護のために背景を赤く画像処理された男の写真が出た。

 陰険な一重瞼の三白眼に、大きな鼻孔が正面に開く中年男の顔を見た村瀬は、頭を殴りつけられる衝撃を感じた。それに追い打ちをかけるように、「我孫子市の職業不詳 金沢直人さん(53)」というテロップが添えられていた。

 テロップはさらに、「解剖の結果、金沢さんの体内から大量のアルコール分を検出、自殺、他殺両面から捜査の方針」と出た。

 渦巻いていた江中への怒りと憎しみが、奥へ引くように、しん、と消えた。代わりに心の芯をさらうように涌いてきたものが、自分の周りに広がる世界を黒く、暗く反転させるような恐怖だった。膝からの震えが上体に伝播した。頭の中で、目の笑っていない義毅が、赤い鱈子唇に舌を載せて笑っていた。

 村瀬は目を伏せて、テレビの前から早歩きで逃亡した。

 純法主催の手繋ぎ式を経た一カ月半前のあの日、夜中の家に侵入してきた義毅が、三十年以上前の若い金沢が犯した愚かしい犯罪のニュースを記録したUSBを何故「身を助けることになる」と言って置いていったかは、村瀬には今だに分からない。

 素性の知れない人間となって十八年ぶりに兄の前に現れた彼と、暴力代行部門を持ち、知的障害者を利用して金蔓にする純法との間にどういう関わりがあるのか。「騙した者勝ち」を言わんとするうそぶきのコメントを残して、深夜の闇へ颯爽と姿を溶け込ませて去った弟は、やはり菜実のような女や、自分のような人間を標的にし、食い物にする側に与する犯罪人でいいのだろう。

 駅で周りを見回して、自分を尾行している風の者の有無を窺い、背後に警戒を払いながら、快速に乗った。列車の車内には怪しげな者はおらず、むしろ隠しようもない恐怖を顔と挙措に出した村瀬に、おかしな人間を見るような目が注がれた。

 動悸が収まらなかった。動悸の中で、吐き気ももよおした。黒い汚物の塊が胸にせり上がる感覚があった。

 電車はいつものように、すっと次の駅に着いた。ドアから降りる際に、乗ってきた男と肩がぶつかった。その男のほうがぶつかってきた感じだった。不機嫌な顔をした、長髪に革ジャンパー、機材の入ったケースを手に提げたミュージシャン風の同年代の男だった。男の舌打ちが聞こえた。

「おい、待てよ、親爺! 謝ってけよ!」男が村瀬の背中に向かって、枯れたドスを効かせた声で怒鳴った。自分は親爺じゃないつもりでいるのか、男はさらに「おい、親爺!」と加えた。

 村瀬は構わなかった。体格のいい、ごつい顔をした男だが、命のかかった経験の場数を持ち、今も臓腑をそのまま戻す思いでいる村瀬を、「あんな大人になんかなりたくねえ」とかに同調しながら、「汚い大人達」のやることを全部履行していた昔を引きずって、勝手にストレスを溜めている男の怒号などが丸め込めはしない。

 震える手でスイカをタッチすると、残高不足の表示が出てバーが閉まった。後ろに並ぶ人の戸惑った顔が見ずとも分かった。

 村瀬は券売機へ行き、チャージする千円を出した。北里柴三郎の顔がぶれて震えていた。チャージを済ませたスイカで改札を抜け、階段から転げ落ちんばかりに足を引きずるようにして南口を降りた。

 左右を住宅に囲まれた広い道を歩いて家を目指していると、後ろから車が来た。車は速度を落とし、村瀬の隣でゆっくりと遅く並走を始めた。黒のソアラだった。義毅だ。村瀬の額から冷たい汗が滲み出した。

 ソアラは緩やかに加速し、左ウインカーを出して家に続く角へ入った。徹底的に問い詰める。村瀬は肚を据えた。
 角を曲がって家に続く道に入ると、数メーター先の家前にソアラを停めた義毅が立ち、据わった瞼と口端を上げた顔で村瀬に挙手した。村瀬は表情と足取りを硬直させたまま、挨拶は返さずに進んだ。

「話がある。入れ」村瀬が言い、玄関に向かうと、義毅の狡く笑った顔が視界の端に捉えられた。 

「そうか。俺も話があんだよ。ちょうどいいや」義毅はしらばくれたように言って、村瀬のあとについてきた。

 村瀬を追うようにして家に入った義毅は、適当に取ったマグカップにキッチンの瓶のコーヒーを淹れ、魔法瓶から湯を注いで、勝手に飲み出した。「ぷえ、これ、百均のやつだ‥」と言って顔をしかめた義毅を、村瀬は大きな息継ぎをしながら見た。

「こないだ訊いたことをもう一回訊くぞ。お前は本当は、何をやって食ってる人間なんだ」村瀬は食卓の椅子に腰を下ろして訊いた。

「だから言ったろ。テレワークの、浄水器の卸しと販売の自営だよ」義毅は黄色いマグカップを手にシンクの縁に腰をもたれて、けろりと答えた。

「そら、これがそいつを証明する名刺だ」義毅は茶の革ジャンパーの懐から出した名刺入れから一枚抜いて、「卸売業 村瀬義毅」と書かれた名刺をテーブルに載せたが、それの信憑度などはもはやどうでもいい。

「これの他に、フリーで泡(あぶく)も稼いでっけどな。けど、本業はこっちだ」  
  
 家の中には、空一面に厚い雲が垂れた冬の午後の静寂が落ち、時計の秒針と、エアコンの送風音がその静けさを浮き出させている。

「あのニュースが記録されたUSBは、何の意図があって置いてったんだ」村瀬は肘を着いた手を組みながら、素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる義毅に問いかけた。

「参考だ」「参考?」「俺が弟の立場で昔から知ってるトヨニイは、自分がこの道を選んだらここへ行き着くってことを考える処理速度が遅えんだ。そいつを分かってもらうために置いてったんだよ」「俺の身を助けるとかって言ってたけど、あれがそれと何の関係があるんだ」「それは物のたとえだ」「抽象的な言い方で誤魔化すな。はっきりと答えろ」兄の静かな問い詰めに、義毅はマグカップを手にして壁の隅を見つめるだけだった。

「お前は、やくざなのか?」村瀬は組んでいた手を解いて、義毅を見上げた。

「これまでずっと、俺のことを探ってて、全部掴んでるんだろう? 金沢が教祖に祀り上げられた宗教に俺が絡め取られて、そこのハニートラップ要員だった障害者の女の子と付き合ってることも。それは何の目的があってやってることなんだ。俺やあの子を利用して金を引っ張る魂胆なのか? それとも、自分が鎬ぐための別の利用なのか?」義毅は無答だった。秒針が十数秒、時間を刻んだ。

「金沢殺ったのはお前らだな!」村瀬が怒りの声を投げると、義毅は冷たく醒めた横目を送った。赤い鱈子唇には、とぼけた笑いがかすかに浮いていた。

 村瀬は椅子の脚を鳴らして立ち上がった。義毅は百均のコーヒーを啜り、声を出さずに笑った。一つの悪びれもないその態度に、憤怒がさらに激した。

「俺にも俺の人生も生活もあるんだ。お前らがやってることに、俺は一切合切関わりたくない。こういう後ろ暗い生き方をこれからも続ける気でいるなら、もう来るな」

 これは菜実のために三途川の縁を歩くような目に遭った時の恐怖、罪や直接の恨みがあるわけでもない相手に手を掛け、自らの手も悪事に濡れることになった悔恨を基にした、切な懇願だった。忘れられはしない。柄から手に伝わった、傘の石突が眼球を潰す感触。行川の拳が顔面に食い込み、頬の中の肉が切れる痛み。おそらく茨城であろう山林に連れ去られ、犬があなたを、と脅迫した李の声と、闇に光っていたその眼、人間を人間と見なさない人間が発する声。無力な、老いた女の頭を滑るバリカンの刃。実の息子の裸の体を愛撫し、その肛門に陰茎を捻じ込む父親と、泣く息子の「嫌だぁ!」と連呼された叫び。どれも生涯に渡って村瀬の心から消えることはない。物の分別と情緒が未形成の年齢の頃に、助けを求める叫びがどこへも届かないままに、まだ幼い体を、薄汚い男達から寄ってたかって蹂躙され続けた恵梨香の疵と同じように。

「待てよ。俺が今日持ってきた話は、トヨニイを助ける話だぜ」「何だか知らんが、お前みたいな奴の助けなんか俺は要らない。お前らなんかと関わるのは、もう御免被る。こっちのことは、全部こっちでやる。帰れ。もう来るな」村瀬は叩きつけるように言い、玄関のほうへ腕を払った。

「早とちりは人間のタイプ上しょうがねえ。ま、俺を追ん出す前に俺の話を聞いてくれ。とりあえずだな、あいつを殺した、殺してねえは今は棚の上だ」義毅はカップを持ったまま、テーブルへ歩んで寄った。

「ついこないだ、元の奥さんの世帯に行ったんだ。博人の奴、入れてくれたよ。何だか、いろいろ大変なことになってるみてえだけど、あの奥さん、拘留だって?」「そうだ。俺もあそこへ行った。子供に食べ物と少しの金を届けるためだ。でも、お前には関係ないはずだろう」「確かにそうだな。あの奥さんはトヨニイが自分で選んだ相手だからさ。けどさ、そいつはあくまで直接的にはって話だ」言葉に意味を含めた義毅は、指をマグカップの取っ手からボディへ移して、カップを軽く握った。

「どうしてあの家が分かったんだ」「八木ケ谷の家を管理する不動産屋から、転居先の情報を抜いたんだ。これも人脈の働きさ」何でもない日常のことを話すように、他者のプライバシーを抜いたという話を語る弟に、村瀬はあの夜半の侵入の時以来の脅威感を覚えた。

 脅威の心地のまま、村瀬は秒針の音を耳で数えた。その間、二十秒ほどの時間が過ぎ、村瀬のほうが口を開いた。

「お前、純法のことは、どこまで掴んでるんだ」「食い詰めた犯罪者連中が二年くれえ前に興したんだ。木っ端を含めて、幹部、兵隊は総勢まだ二百かそこらで、拠点を移動しながら活動してるけど、トップは婆あだよ。宗教は隠れ蓑だ。想像力、判断力が人並みにねえ奴らを囲い込むためのな。この辺は、もうトヨニイもある程度分かってんだろう? 組織としちゃ小粒だけど、荒っぽいことは軒並みやる。警察の幹部の中にも、奴らが斡旋する女の顧客がいる。けど、奴らはもうじき割れる。派閥闘争、金の取り分を巡って、互いに疑心暗鬼を募らせてな。これから事件が起こってくよ。それでも、加害者、被害者の素性は発表されねえ。威信に傷がつくことを恐れる警察庁が、報道機関に圧かけっからな」義毅はコーヒーを二口啜った。

「さて、ここからが今日の本題だ。親として、トヨニイはこれからどうする気でいるんだ。あいつらをさ」マグカップに指を添えながら村瀬を見る義毅の目は、真面目なものだった。

「今日、言うことはみんな言った。母親が残した借金の問題もある。これからその処理もしなくちゃいけない」「そうか。やることはそれなりにちゃんとやってるわけだな」

 義毅は腕を組み、一寸の間、何かを思う顔になった。秒針と送風音が間を取っていた。

「なあ、トヨニイ。今から俺が言うことは参考だぜ」義毅が鱈子の唇をぽつぽつと動かして、村瀬の落胆が敷いた沈黙に言葉を差した。

「俺は世間一般の常識から見りゃ、確かにならず者かもしれねえよ。でもな、外国マフィアもそうだけど、本筋の入墨者とか、昨今台頭してやがるグレーとかって呼ばれてる奴らには、まるで情け容赦ってもんがねえ。だから俺は奴らとは距離を置いてきたんだ。けどさ、たとえどんなに鬼とか夜叉とかって呼ばれてる人間でも、誰かの目も当てられねえ様を見て、そいつをどうにかしてやろうって気持ちを持ったら、その気持ちに戸は建てられねえものだと俺は思うわけだ。もしも神がこの世にいるとすりゃ、その神が定めた人間の領分ってもんがあるんだよ」「それは何だ。必要悪云々か」村瀬は義毅に向かって身を乗り出した。

「それこそ他人を泣かせて飯を食ってる、やくざの常套句じゃないか。お前みたいな奴が、自分を正当化するためにあらかじめ用意してる定番文句だよ」「聞けよ。俺の話を最後まで」言葉が重なり、義毅の目と声が凄味を帯びた。

「俺は今日、必要悪がどうとかの議論をするためにここに来たわけじゃねえよ。今、そっちにゃ協力が要るわけだ。薄っぺらな常識なんかに捉われてたら、解決なんて夢のまた夢ってことを解決するための協力がな」

 義毅は腕組みを解いた。

「俺があそこへ行ったのは、あの奥さんの下で育った子供がどうなってるか、偏に心配だったからだよ。博人から聞いた話じゃ、恵梨香の奴、だいぶ酷え目に遭ってたみてえじゃねえか。それで今、すげえことになってる。博人もゲーム漬けの引き籠りだ。もう何年先だけじゃなくて、何日か先のことも分かりはしねえ。これ、トヨニイ一人だけでどうにか出来っと思うか」「やるしかないだろう。曲がりなりにも俺は親だ。美咲はともかく、あいつらのことは俺に責任がある」「その責任感は評価出来るよ。だけどこういうことは、親以外の人間の力が要る場合がたくさんあるんだ。親以外のな」義毅はふっと息を吐いて天井を仰いだ。

 陸自のチヌークのプロペラの振動が、薄い壁と窓枠を激しく揺すり立て、けたたましい音を鳴らした。今日も降下訓練を実施しているようだ。

「俺に任せちゃもらえねえか。何つうか、あいつらの後見、面倒見みてえなことをさ」兄の目を据え見て言った義毅に、村瀬は救いを得た気持ちと戸惑いを五割づつ覚えた。

「おい、お前がそういうことをする動機は何だ」ヘリの振動の中で村瀬が問うと、義毅はどこか滑稽そうに鼻から息を吹いて笑った。助け船を出している弟の自分に対し、まだ突っかかる姿勢を崩さない兄に笑いを隠せないという風に見える。

「あの時大学やめて、雨ん中、トヨニイが追っかけてくんのを振り切って、この町飛び出してってから、俺はそれこそ星を数えるぐれえの人間と関わったよ。揉めなきゃ人と話が出来ねえような、会話のたびに手が出る男、やることしか知らねえ女、行動のハンデ持ってて、懲役の縁、歩くみてえに生きてる奴とかな。その中には、生まれの持ち物、抱えた奴がたくさんいたんだ。そいつらがその世界に好んで棲み続けてんのは、その外、上ってもんが理解出来ねえからだ。それはそいつによって、頭のせいだったり、そいつの心が拒んでるせいもあったよ。どうして拒むかってと、そいつらには眩しすぎるからだ。煌々とした太陽の光、輝きがな。それで自分が慣れて親しんだ、光のねえ闇が一生物の居場所になるわけだ。そのいいことなしの暗闇に依存するようにな。俺は福祉の人間でもなきゃ警察でもねえわけだから、そいつらには何の差し伸べもしなかったよ。何もな」

 義毅の顔に悲しみが翳るのを、確かに村瀬は見た。その翳りの中に、生まれた家が敷いたレールを親が望むままに歩み、常識的な遵法者として生成されてきた自分には想像もつかない、生き馬の目を抜く世界に、目の前の弟が生きてきたことを窺い知らなくてはいけなかった。

 ヘリのプロペラ音が少しづつ遠ざかり、家の振動も引いた。義毅の貌は、人物画の油絵になっても様になる感じがした。村瀬はこれを愛美が人物画として描いたらどういう画風の作品になるだろうかと、ふと思った。ここのところいつも、何かを見るたびに気になり、巡る思いだった。

「トヨニイも自分で認めてるはずだろうけど、早由美ちゃんの気持ちを反故にしたあの結婚はてめえの人生、てめえで取り上げるような散々な選択だったわけで、俺も今だにいいことなしって烙印を押してるよ。それが今、あいつらをどうにかしようとしてんのは、生まれてきたガキをむげには扱えねえからだろう? 俺も同じことを思うんだ。元々罪がなかったものが、生きてるうちに罪を背負っちまうことのもどかしさだ。ガキの頃を知ってる人間で、まして兄弟の子供となっちゃな」

 床目線から上がった義毅の顔は涼しいものになっていた。

「あの問題をトヨニイが一人で肩にしょってどうにかしようとしたとこで、どうにもなりやしねえぞ。博人はまだ素直さが残ってっけど、これからは分からねえ。恵梨香は、トヨニイの言うことはもう一切聞きはしねえよ。トヨニイが今さら何を言おうが、あいつの心には届きやしねえんだ。それで恵梨香は懲役花子、博人は浮浪者になる。トヨニイだって、そもそもこうはなってほしくねえから、行ったんだろう?」

 村瀬がやり込められたように顔を俯かせた時、玄関のチャイムが鳴った。村瀬は顔と目を伏せたまま玄関へ歩いた。

「こんにちは。恩正啓生会(おんしょうけいせいかい)船橋布教エリアの者です。御仏様の心を普くお伝えする冊子をお配りさせていただいております」インターホンから老齢の男の声が流れてきた。善良そのものの、優しく、聞く者の心に染み通って、安心感を与える声だった。

 名乗った教団名、その評判的なものも、ある程度、村瀬は知っている。三鷹に本部を構えており、新宗教としては日本で三番手の会員数を誇り、知名度も高いが、若い信者を獲得出来ないことから「緩やかな崩壊」へ向かっていると宗教ジャーナリズムは報じている。信者は穏やかな人が多く、勧誘は強引ではない。また、高額な会費などを要求することもない。謙虚な姿勢が特徴的だ。

「お帰り願えますか。私は、宗教はもうこりごりですから」村瀬がインターホンへ声を送ると、そうですか、という声が応えた。

「承知いたしました。どうかご自分のお心を大切になさって下さい。一応、冊子を置いて行きますので、気が向かれた時に目を通していただけると、私どもにも幸です。それでは、またご縁がありましたら、その時はよろしくお願いいたします。それでは失礼いたします」

 ドアポストの郵便受けが音を立て、憚って静かに去っていく足音が聞こえた。

 郵便受けを開けると、ビニール袋に入った「恩正」という小さな機関誌が入っていた。サンタクロース帽を被り、マフラーを巻いた雪ダルマのイラストの下には「怒りの克服 赦す心」と印字されている。村瀬はページをめくった。二代目だという壮年の紳士が笑顔で大きく写り、「会長講話」という文が打たれ、連ねられていた。早読みすると、王であった父親を敵対国に殺された古代インドの王子が仏に諭されて復讐心を捨て去る話の下り、また、かつての日本の世の中で発生、庶民の怒りを一身に浴びた凶悪な少年事件何点かの内容を挙げ、「彼らをもっと早くに抱きしめてあげたなら、こんなことは起きなかった。今からでも抱きしめることは遅くない。彼らは誰かの優しい心に飢えていたのだから」と結んでいた。

 冷徹な現実として「こういうもの」とそれを見切った村瀬は、今月号の講話のテーマである怒りも、憤りらしいものも覚えはしなかったが、某野党が主張してやまない「軍事力増強ではなく対話の姿勢が平和を作る」同様、効果の有無が謎であることにこだわって、無意味なことをさえずっているとしか思えない。

 李のような男や、知的障害者の父子にホモ行為を強いる波島、中尾のような者、たまたまそのトイレを利用した女の子を個人情報を押さえて盗撮映像で脅して言いなりにさせ、自殺へ追いやったことをかけらほども反省しない柳場のような人間や、ひいては子供の恵梨香を犯し、仲間の男達に輪姦させていた江中が、抱きしめでお釈迦様になるのか。物事の当事者でなければ、物事は分からない。物事の現場を知らない人間に、現場のことなど理解出来るはずがない。

「今週の土曜に、また行く。ちなみに言っとくけど、金沢殺ったのは俺じゃねえ」機関誌を手にリビングに戻った村瀬に義毅は言い、玄関へ足を向けた。

「お前をもっと問い詰めたいよ。腹が立ってやり切れない。だけど、子供のことはありがたい」村瀬が言うと、義毅は小さく笑った。

「一番の動機は何だ」「俺も親父になるんだ。ただし、相手の女には、まだ親父をやるとは言ってねえけどな」「じゃあ、今の稼業からは足を洗うのか」義毅はコメントを返すことなくブーツを履き、家を出た。村瀬はスマホを持って外へ追った。

「待て。連絡先の交換だ。ラインでいい」村瀬がスマホを差し出すと、義毅もジャケットの懐から最新機種のスマホを出した。ラインのQRコード読み取りで、連絡先交換はすぐに終わった。

 オートキーのボタンを押し、ソアラのサイドドアを開けた義毅の目と肩には、言動とは裏腹に、自分の身に降りたことを買い切るという相が出ていた。厚い雲の下、その姿を遠ざけていく黒のソアラを見ながら、村瀬は諸行の無常を思った。現在の弟が身を埋没させていると薄ら分かるソサエティの影は依然として心に慄きを落とすが、自分にはその心というものまでどうにか出来る見通しのない子供を見てくれることには、確かな感謝を覚えていた。

 その週は早番だった。ⅠDカードのケース前で小谷真由美と顔を合わせた村瀬は、一ヶ月ぶりに笑顔を交わした。
「心配かけてすみませんでした」真弓は村瀬と香川に同時礼で腰を折った。

「いやいや‥」香川が言い、村瀬は優しい目を向けた。「まだ辛どいんだったら、言って下さい。大変なほうの仕事はこちらでやりますんで」「ありがとうございます。まだしばらくは週三日の勤務なので、ご迷惑をおかけしてしまいますが」村瀬の言葉に、真由美は涙が落ちるのを堪えた顔になった。

 あの時は、母娘で習っているという薙刀仕込みの毅然で吉富を退散させたが、愛情に囲まれて大切に育成された真由美の心にかかった負担は、仕事を一ヶ月もの間休まなくてはいけなくなるまでのものだった。村瀬は今も、自分が吉富に対して始めからきっぱりとした態度を取らなかったことによるものとして、それを深く反省している。

 開店準備の作業を、真由美はいじらしいまでに懸命に行っていた。村瀬はその姿を見ながら、二度と同じ轍は踏むまいと心に宣誓していた。

 吉富が現れたのは、レジ待ちに余裕のある十五時過ぎのことだった。娘のじゅりあ、息子のけんとを連れ、後ろには派手な髪に服を着た、鍛えた筋肉の盛り上がりが服を通してよく分かる男を引き連れて、乾物類のラベリングを行っている自分を見ながらゆらりと歩いてくる吉富の姿を捉えた村瀬の肚は、自然と決まっていた。言うこと、取る対応も、はっきりと自分の中に在り、迷いはない。それは恵梨香のことを知ったからに他ならなかった。

「いらっしゃいませ」村瀬は差別なく接客の声を掛けた。一ヶ月前近くぶりにやってきた吉富は、裾に二本の白い線が入ったジャージタイプのパンツに、咆哮する龍神の刺繍が胸元にされたブルゾン、左手首には十八金のブレスレットという姿で、革の手提げバックを持っている。金髪の短髪をした頭も変わらない。けんとは、前回と同じく襟足を背中まで伸ばした金髪で、安物の子供用服の上に所々のほつれた薄物のジャンパーだった。連れの男は見た感じもう四十代のようだが、金髪で、サイドを2ミリの短さに刈り、前髪から後ろ髪まで編み込んだ、聞いた話ではコーンロウというらしい髪型をし、吉富同様の悪羅系の黒を基調とするジャージ風の服に、黒のジャンパーという姿だった。その男が吉富の飲み友達か、兄弟かは分からない。

 じゅりあの服装を見た村瀬は、あのハロウィン時に自分が甘い判断の下、目撃者としての義務を怠っていたと痛感、反省せざるを得なかった。

 彼女の服装は半袖のTシャツ姿で、小さな腕には鳥肌が浮いている。黒い垢の浮いた小さな顔の表情は、寒さと、体のどこかの痛みを必死で堪えるように歪んでいた。

 児童虐待防止法に則った通報義務。季節の変化に合わせた被服をさせないということも、食事を与えない、入浴をさせないことと同じ、歴然としたチャイルド・アビューズに該当する。

 村瀬の胸に激しい自責の思いが満ちた。やはり、吉富の世帯では具体的意味のある虐待が行われており、それが見過ごされ、あるいは世帯主怖さから見て見ぬふりをされてきたのだ。

 法整備が進んでも、こういったことは依然として、あちこちにある。その時、村瀬の中に「他人事を自分事に」という言葉が挿すようにして思い浮かんだ。その発信元は、肉体の力としての視力には捉え難い場所と思えた。

「ねえ、これ、ちょっと見てよ」吉富は馴れ馴れしく語りかける口調で、イミテーションとも本物とも村瀬には見分けがつけ難いバッグから、一枚の茶封筒と、小さなビニール袋を出し、村瀬に手渡した。吉富の顔は笑っている。

 ビニールの中には、J字型の釣り針が入っている。村瀬には、これから吉富が言わんとしていることが分かった。村瀬の目は、吉富の心を見るようにして、ビニールの中に納まっている釣り針に注がれた。けんとはすでに熟した卑しさの籠った目で、下から村瀬を睨め上げている。じゅりあは、痛みを押し殺す顔で、吉富の腿の高さの身長の体を彼の右隣に立てている。

 痛みを訴えたら、それで泣きでもしたら、殴られるだけではない折檻が、その小さな体に加えられる。じゅりあが心の内で、今、村瀬と周りに言葉を殺して発している信号が、村瀬には手に取るように分かった。彼女は今、村瀬に助けを求めているのだ。

「その中身、見ろよ」吉富がへらついた笑顔をその顔にへばりつかせて言い、顎をしゃくった。

 村瀬が引き出した茶封筒の中身は、船橋市ではよく知られた病院の名前と、医師名が記された診断書だった。胃内軽度損傷につき三日程度の入院、一ヶ月程度の加療、経過観察が必要、と書かれている。

「こないだここで挽肉買って、うちの奥さんがオムレツ作って、こいつらに食わせたら、こいつがさ‥」吉富はじゅりあを指した。

「腹押さえてのたうち回って、戻してさ、それで病院連れてって、腹を切開してもらったら、胃袋からその釣り針が出てきたってわけだよ。それでさ、かかった治療費の分、そっちに請求したいんだわ」吉富はしゃあしゃあと述べた。

「これが腸まで落ちてたら、うちの娘、死ぬとこだったんだぜ。こんぐれえのこと、当然だべ? ねえ、どう思うかな、村瀬さん」

 退屈なBGMが流れる中、主に中年以上の年齢恰好をした客達が、その様子をちらちらと見ながらコーナーを通り過ぎるが、誰も関わろうとはしない。その一つ一つの顔に、恐れが刻まれている。

 吉富の顔に、娘を心配する親の気持ちのようなものは全く出ていない。これから多額の金を揺さぶり取れるという期待の籠った薄笑いが、その顔一杯にへばりついている。連れの男は、低い威嚇の言葉を出すことをスタンバイさせるように、唇を半開きにして、垂らした拳を軽く握り、顔を突き出した体勢で立ち、村瀬を睨んでいる。

 村瀬は万一に備えるようにして、相手に気づかれないように前屈の足を調えた。

「そうですか。治療費は、おいくらかかったんですか?」訊いた村瀬の声は、いたって沈着で平静だった。

「そうですかって、何だ、てめえ! 胃ぃ切開すんのに特殊な手術器具使ったかんな、それが保険適用外で、ざっと五百万だぜ、五百万。これを補填しろって話なんだよ。言っとくけどな、これの六割、俺は実費で支払ったんだぜ」吉富の吐いた言葉の端に笑いが混じった。

 じゅりあのTシャツの裾が吉富の手でまくられた。彼女の鳩尾部分から臍にかけて、十センチ程の縫合跡が確かにある。

「診断書が偽造で、俺の言ってることが嘘だって言いてえ面してっから、証拠見せてやったよ。これ見ても嘘だっつうのか、おい」吉富は反り返った。

「言っとくけどな、俺は今、こないだあの眼鏡女が言ったみてえに、法に触れることなんか何もやってねえんだよ。ここで買ったもんにおっかねえ異物が混入してて、子供が死にかけたんだ。ごく当たりめえの文句言って、当たりめえの賠償求めてるだけだろうが!」

 吉富が巻き舌で言ってじゅりあの頭にぽんと手を置いた時、コーナーの角から真由美が来た。彼女の手にはスマホが握りしめられている。その顔は意を決したものだった。口許はきりりと結ばれ、眦のあがった眼鏡越しの目は、緊張による瞬きを繰り返していた。

 村瀬は真由美を手で制した。「任せて」と言った形に唇を動かすと、真由美は読唇したようで、その場に立ち止まった。

「奥、通せよ。俺も鬼じゃねえからさ、このチェーンがこれからも営業出来るようにするための示談をしようっつってるだけだからさ。な、樹里亜‥」吉富の作った猫撫で声がじゅりあの頭上に落ちた時、村瀬は「あの‥」という声を送った。

「あの、じゃねえんだよ、このキモ爺い!」村瀬の足許から耳に障る高い罵声が上がり、腿を蹴られた。けんとが眉間に皺を寄せた顔で、下から村瀬を見上げ、睨んでいる。

「てめえの手ぇ、宇宙忍者の二本指にしてやろうか? それとも竿無しの、女とやれねえ体になんのがいいか? どっちでも好きなほう選べよ、このガイジ店員野郎」

 けんとは村瀬を睨み見上げながら村瀬を嚇し立てたが、昭和の子役の一生懸命な棒読み台詞風ではなく、語彙、抑揚の遣い方が上手く、その幼さにして、すでにチンピラとしての型が出来ている。村瀬はけんとの目をじっと見ながら、「弱い者に弱かった」これまでの自分の心の在りようを改めようと思った。

 村瀬がけんとの胸倉を渾身の力で掴み上げ、汚れたキッズスニーカーの踵が浮いた時、唖然となった吉富と用心棒まがいの男の顔が、視界の外に映った。

「おい、馬鹿の豆チンピラ、よく聞け」丹田から声を絞った時、けんとの顔に、子供の身では対処出来ない事象が降りかかったことへの恐慌が満ちた。目は大きく剥かれ、口はOの形に開かれた。自分のような子供に目を伏せるばかりの大人だとばかり思っていた人間が、自分に本気で怒ったことの驚きが大きいらしい。

「お前が子供の甘い考えで夢見てる世界の話をしてやるよ。暴力とか、恐怖の力で人を動かして金を作る、法律の外にある業界っていうのはな、浮き沈みが激しいなんて、そんなものじゃないんだ。トップや幹部の座から支配する側、支配されて、監視されながら休みもなく駆けずり回る下っ端の両方とも、心が休まる時間なんか何時もないんだ。上はいつ、同格の連中から自分の座を狙われるかも分からない。下はいつ上の怒りに触れて殺されるか、かたわの体にされるか分からない。だけど、上か下、どっちが大変かって言うと、上のほうなんだ。自分の命を質にして作った、豪華な住処、大きな車、上玉の女、唸る金、手下を顎で使う地位と名誉が、明日、いや、生きている次の瞬間にある保証がどこにもないんだ。自分が苦労して手に入れたそういう立場を、死ぬような思いをして守りながら生きていくことになるんだぞ。来る日も来る日も神経を尖らせて、生きた心地もしない思いをして、怯えながらな。それがお前に分かるか。一日八時間働いて税金納めて、そうすることで明日を迎えられる俺なんかからすれば、ある意味労いたくなる、大変な世界なんだぞ」

 村瀬の腕にぶら下がったけんとの目に、たちまち涙が溢れ出した。鼻水も流れ出した。村瀬が純法の暴力代行部門と関わって、窮乏の中で息子の尻拭いに奔走する老いた組長や、飼い殺し同然の人例研究企画部の構成員達を見、自身の命を削り、その手を罪に汚した経験をベースにした説諭には、子供のけんとには難しい言い回し、言葉がだいぶ混じったが、込めに込めた気魄が「ここだけは絶対に」という所を伝えたと信じたかった。

「お前は何年だ」村瀬はけんとの体を吊ったまま問うた。顔を濡らしたけんとは体を震わせ、弱々しいしゃくり上げを刻み始めていた。

「今、小学何年生なんだ」「三年‥」震える唇を懸命に動かして、けんとは答えた。

「まだ小さくて弱い妹を守ろうっていう気持ちは、お前はこれまで一度も持ったことがないのか」村瀬は言って、泣き顔で立っているじゅりあを手で指した。

「あの時やってたようなことを毎日妹にやってるんだったら、将来、それが何十倍にもなってお前の身に帰ってくるぞ。人生っていうものは、自分の持つ心そのものに導かれるものなんだ。幸せになるのも、不幸になるのもな」「ごめんなさい‥」「謝る相手は俺じゃないだろう」鼻水を啜り上げるけんとの胸倉から村瀬が手を離すと、けんとは転びそうによろめいた。

「てめえ、食品に異物混入させた店側の人間の分際で、客の子供の胸倉掴んで嚇すってのは、どういう根性だ、この野郎‥」吉富が声色を変えて凄み始めた。だが、村瀬に機先を制された衝撃を覚えていることが傍目越しにも分かり、著しく迫力を欠いている。

「精肉部では、パック詰めする前の作業手順で、肉を金属探知機に通してる。作動検査もちゃんと行ってな。うちは確かに上が上の支店だけど、俺を含むスタッフ一人一人は、至って真面目に仕事をしてるんだ。釣り針なんてものが混入することは、作業手順上、あり得ないんだ。ミートセンターから受け渡しされた肉をこっちが異物探知検査をして、店に並ぶどの過程で釣り針が入るのかを、お前に説明出来るのか。お前みたいな奴ほど、いつも馬鹿みたいにこだわって執着する、筋、とかを通して」

 吉富に向き直った村瀬は、彼の目の奥に一本の鋭い視線を送りながら、ゆっくりと言葉を出した。

「うちの商品に釣り針を故意に入れたのは、お前だ。それを子供に無理やり食べさせて、子供を死なせるようなことをして、金を強請ろうとしてるんだろう? そういう真似をして、大人として、人の親として恥ずかしいと思う気持ちを、お前は少しも持たないのか、吉富」

 吉富の顔と体の恰好に動揺が出た。それから彼は、空の威勢を籠めた笑いを撒き始め、コーナーにベビーカーを押して入ってきた若い母親に歩き寄り、醜猥な笑顔をベビーカーの中の嬰児と母親に交互に向けた。母親の顔に怯えが走った。まだ可愛い面差しが残る顔をした、子供のいる子供のような母親で、身長が小柄なこともあって、明治、大正から戦前の子守り少女のような雰囲気さえある。

「奥さん、このマスオマートはね、客の子供、魚みたいに釣り針飲ませて謝罪もしねえし、客をタメ語で、お前呼ばわりするんだよ。それだけじゃなくて、客の子供に暴力振るって嚇すんだよ。だから、ここは儲けさせないほうがいいよ。それよりさ、俺らと遊ぼうよ」

 吉富は息がかかるほど若い主婦の顔に自分の顔をつけて言い、声を沈めた笑いを吐くなり、幼い母親の乳房に片手を掛けた。「嫌!」母親が恐怖と恥辱に顔を歪めて叫んだ。ベビーカーの赤ん坊が激しく泣き出した。

 その瞬間、村瀬の胸に涌いた思いは、嫌悪と怒り以上に吉富への深い同情だった。

 この男は、生まれ落ちてから死ぬ瞬間まで愚かなことだけを頭に詰め、愚かな汚い行為、行動ばかりを取り続ける人生が遺伝子に書き込まれている。

 今、彼が村瀬の目の前でまだいたいけな母親に行っていることは、マスオマートへの恐喝が、あのハロウィン時とは別人のような村瀬のぴしゃりとした対応によって挫かれたことによる自棄と言える行為だが、この触法行為が人の目に触れることで警察沙汰になれば、これまで自分が寄生して甘い汁を吸ってきたセーフティーネットは強制廃止となる。そろそろ中年域に入る年齢のはずだというのに、それを微塵も判断出来ない。

 この男は、つい先日、おそらくは用済みになって始末された金沢と同じ、発達の知的寄りあるいは知的の発達寄りの人間であり、放置された障害者の一つのパターンだ。村瀬の中で、これまで思ってきたことがまた改められた。それよりもだいぶ軽い発達が、若い昔に国道で非業の死を遂げた兼田であり、津田沼の「特攻拉麵」の若者達だ。こういう人間はたくさんいる。それこそ星の数以上に、かもしれない。同情が悲しみに変わり、悲しみの底から、また火玉のような怒りが突き上げた。その怒りは、吉富本人以上に、傍観と放置で彼の体ばかりを一人前に養育した環境と、そこに棲む人間達のほうを向いていた。

 若い、いや、幼い母親の乳房を揉み、スカートに手を差し入れて陰部をまさぐっている吉富は、背面部の急所をさらけだしていた。コーンロウの男が、その脇で、周囲に「通報なんかしないほうが身のためだぞ」という言わんを込めた睨みを飛ばしている。

 赤ん坊の泣き叫びが店内BGMを掻き消す中、吉富の尻に村瀬の革靴の爪先が唸って吸い込まれた。急所の肛門に前蹴りを叩き込まれた吉富は、背中を弓なりにのけ反らせて、ひしゃげた声の号を上げた。若い母親の体にすがりつくようにして崩れかけたところを、襟首を掴んで引き、鳩尾に縦拳をめり込ませた。あるだけの空気を吐き出した吉富は、体を折って、村瀬の足許に崩れ臥した。

 背後に風圧を感じ、型の一動作を応用したように振り向いた。コーンロウの男が村瀬の制服ブルゾンの襟を掴もうと腕を伸ばしてきたところだった。

 村瀬はその手を左の手刀で払い、一歩下がって、右を準備して男に向き直った。

 腰が入っていない、肩に力の入った鈍いパンチが顔面に来た。この男は飾りの筋肉だけだと察した村瀬は、体を屈めてそれをかわした。男のワンツーが空を切るより早く、腰の回転が乗った村瀬の中段が男のストマックに正確に突き刺さった。男は顎を突き出して、肺臓の中の酸素をありったけに吐き出し、体を折って床に崩れ伏した。

 構えを解かず、残心を取りながら周りを見ると、両サイドの通路入口に人垣が出来ていた。赤ん坊はまだ泣いている。レイプ寸前の強制猥褻行為を受けた恐怖とショックで泣く若い母親を真由美が抱き、背中をさすっている。通路入口には香川と増本が立っているが、香川の顔は、ここで起こった物事の筋道をきちんと理解したもので、手にビール券の束を持った増本は、ただただ狼狽だけを顔と体勢に出している。

 コーンロウの男は床に額を着けてうずくまり胃液を吐き、吉富は尺取虫のように床に這いつくばり、尻を突き出した恰好で、泣き声混じりの呻きを発し続けている。けんとはただ立って啜り泣いている。

 成敗した二人の男に残心の睨みを落とす村瀬に向かって、じゅりあが泣き顔で歩いてきた。

「歯が痛い‥」じゅりあは村瀬のブルゾンの裾を小さな手で掴み、訴えかけてきた。それを聞き取った村瀬は、構えを解いて、彼女の顔の高さに自分の顔を合わせてしゃがみ、お口を開けて、と声かけした。

 じゅりあは両目から涙を溢れさせて、大きく口を開けた。

 じゅりあの口の中を見た村瀬は、胸を抉られる思いになった。永久歯を含む彼女の歯は、ほぼ全てが黒く虫食まれていた。実か義理かは村瀬には分からないにせよ、養育者の吉富とその妻は、彼女の虫歯がここまで進行し、末期状態になっていることを知りながら、夜も眠れないであろう七転八倒の激痛に苦しみ続ける幼い彼女を歯科受診もさせず、毎日、エンゲルの贅沢とセックスを愉しんでいたのだ。その小さな体と心に、各種の虐待を加えながら。

 どれだけ痛かっただろう。どれだけ苦しかっただろう。それでも彼女は、両親に痛みを訴えることが出来なかった。痛みもさることながら、その訴えをうるさいものとして、怒鳴り、罵り、殴る父親と兄が怖かったからだ。恋しい母親は、それを助けず、見て見ぬふりの無視、傍観。

 どれだけ怖かったのだろう。どれだけ悲しかったことだろう。

 体が震えた。肚からの底震えだった。肩が振動し、握りしめた拳にも怒りの震えが及んだ。

 真由美が、抱いた幼い母親の背中を優しく叩き続けている。母親は真由美の胸に顔を埋めて、まだ泣いている。真由美の優しさが浸みているようだ。

 客の老齢の女が、ベビーカーの赤ん坊に「大丈夫だからね、よしよし‥」と話しかけ、あやしている。赤ん坊はいつの間にか泣き止んでいた。

「村瀬さん!」店長の増本が走り寄ってきて、非難の声を村瀬にぶつけた。香川がそのあとに着いて歩いてくる。

「どういうことなんだよ、これ! 大切なお客様相手にこんなことやってくれて!」数枚のビール券を持った増本は、両手を振り回し、大声で村瀬を詰った。村瀬はその詰りを無視し、香川を見た。

「香川君。この子達をスタッフルームに連れていってくれ。それからすぐに110番通報だ。君がどこまで見たかは分からないけど、こいつらは今、ここで脅迫と強要、暴行とレイプ未遂までやった。この女の子は、虐待と呼べるものを全て受けてる。この子の歯は酷い虫歯に冒されてて、今すぐにでも歯科医院の応急処置が必要だ。警察が来たら、その旨を話してくれ。頼むぞ」

 村瀬がけんと、じゅりあを手でさっと指して言うと、香川は、行こう、と二人の子供に声をかけ、小さな肩を押した。

「今からなら全然遅くない。この親とは、一生縁を切れ」憤懣やるせない顔をした増本を背に、村瀬は、しゃくり上げて泣いているけんとに言葉をかけた。

「それが今のお前に出来る、こんな人間になり下がって不幸な人生を送ることを避けるための、ただ一つのやり方だぞ。分かったら、自分から希望を出して、まともな人間性を持つ里親の所へ行け。この親は、お前が生まれるきっかけになっただけの人間で、戸籍の上だけの血縁者に過ぎないんだ」

 村瀬の言葉に、けんとはしばらく睫毛の濡れた目を向けるだけだったが、やがて、じゅりあと一緒に香川の手で肩を押されて、スタッフルームへ向かい、コーナーの角に消えた。

「店長。いかなるご処断もお受けします。ただし、私はこの店を守るため、お客様を助けるためにこれをやったまでのことです。それをご理解願えますでしょうか」

 吉富と氏名不詳のコーンロウの男を介抱するわけでもなく突っ立っている店長に村瀬は言ったが、増本の顔はただ利己的な憤慨にわななき、村瀬を責める言葉がもう何言も今にも出そうに口が開かれている。

 どこかから、小さな拍手が聞こえた。その拍手の音が、一つ、二つ、三つと重なり、大きくなっていった。拍手は出入口側、鮮魚精肉側の両方から打ち鳴らされていた。手を打ち鳴らしている壮年、老年の客達は、みんな、村瀬を称える目を向けている。

 拍手が鳴り響く中、コーンロウの男はうずくまったきりで、吉富は床に手を着いて、小さな泣き声を漏らしていた。

 通常通り支店が営業する中、店前にパトカーと護送車が停まり、張られたロープの内側に立たされた吉富とコーンロウの男が、私服警察官に脇を抱えられて、一人づつ写真を撮影されていた。吉富の顔からはすっかり威勢が削がれ、体は小さく萎縮している。コーンロウの男も、沈痛な顔で撮影を受けていた。

 じゅりあはまず、店のスタッフに付き添われて最寄りの歯科医院へ行き、けんとはスタッフルームに身柄を預けられている。二人はこれから児童相談所へ緊急送致され、一時保護された上で、ここが適切と判断を下された場所へ送られることだろう。吉富の行いには執行猶予がつくだろうが、生活保護は失われる。その後の彼がどこかの救貧シェルターの世話になるか、路上の暮らしへ追われるかは彼次第だ。

 村瀬も事件当事者として事情を聴取されたが、真由美や香川、客達と、被害者の主婦という証人がいたこともあり、彼が行ったことは人を助けるためのこと、防衛のための正当行為とされて咎めはなかった。

 それから不機嫌な顔も露わに店長業務を行っていた増本は、十七時で早番勤務を終えた村瀬をバックヤードで捕まえて、猛然と詰りの言葉を浴びせてきたが、香川が「さっきも言ったように、これは村瀬さんが悪いわけではない」と弁じてくれ、納得し難い表情を崩さないなりに、解雇のような沙汰はとりあえずは避けられたようだった。そればかりか、今後は増本を始め、周りのスタッフから頼られそうな気配がする。

 言ってみれば自宅謹慎の意味を持つ有給を採ることも考えたが、これからクリスマス時に差しかかり、店は繫忙する。真由美もまだ完全には回復しておらず、少ない勤務日数で様子を見ている状況の中、同僚達を駆けずり回らせることは申し訳ない。

 弁当など何点かの食品を買って店を出ると、真由美が待っていた。彼女は十六時で退勤していたが、住所が地元で、簡単に行き来出来る距離に家がある。

「本当に立派でした。一緒に働く仲間として、今、感謝してます」「いやあ‥」真由美は前原駅へ向かう村瀬と並んで歩き、眼をきらめかせて言ったが、村瀬は謙遜した。
「レジ講習、受けようと思ってるところなんですよ」駅の方向へ目を据えながら言った村瀬に、真由美は振り返り、口を柔らかく結んだ顔を向けた。

「知っての通り、俺は一人で暮らしてるわけだけど、安くないんだ、いろいろ。ちょっと一身上のことで、これからお金がかかることになりそうだからね。これまではこれで満足してたけど、月収を増やす必要が出てきたと思ったから‥」「いいですね。そうしたら、お店もかなり助かるし、村瀬さんも余裕が出るし」

 真由美は既婚者だが、先に退勤した彼女が店前で自分を待ち、駅までの道をともにする行動には、「少しでも長い時間を一緒にいたい」という意思を確かに感じる。

「改めてだけど、あの時は、小谷さんにあんな負担をかけてしまって、本当にごめん」「いいんです。私のほうこそ、村瀬さんに心配をおかけしてごめんなさい」

 村瀬の脇で靴音を忍ばせる真由美を見ると、ほんのりと頬が染まっているのが捉えられた。

「今日の村瀬さんは、ご自分の在職と、命までかけて、あの若いお母さんと、あいつの子供達を助けましたよね。私は前から分かってたから。そういう村瀬さんの、本当の姿を‥」「大人げないことをしちゃったと思うよ」「いや、前からああいうことをしても誰にも叱ってもらえなかった、あの男の子を、助けることになったと思います。妹の女の子も救い出したし」「それはあの時、小谷さんのことを助けられなかったから」「そんなことは‥」

 人通りまばらな道を歩ききって、アナウンスが流れる駅舎の前に来た時、真由美が村瀬の両肩に手を載せてきた。
「既婚だって、誰かを好きになることはあってもいいはずでしょう? 告白します。私は村瀬さんが好きです」真由美は眼鏡の奥の丸い目に光を湛えて、村瀬に打ち明けた。

「ありがとうございます。その気持ちはお受けいたします。でも、どうかご主人と、ご自分の家庭生活を大切にして下さい」「ありがとうございます。でも、出来ればこれから、家庭の人の立場を維持しながら、村瀬さんのことをお慕いすることをお許し願えますでしょうか。村瀬さんにも、思う方がいらっしゃることは、香川さんからお話を聞いて存じていますので」「はい」村瀬は両方の意味を込めて返答した。

 今、あの恵みの家で、菜実はどう過ごしているだろうと、村瀬は気になった。次に会う時は、ホーム名負けで恵みがない彼女を、思いきり抱きしめ、また、一つに溶け合おう。だが、真由美や愛美の気持ちも汲む。

「お疲れ様です」残して雑踏の中を去っていく真由美の背中を労りの目で見送り、一度目を伏せた時、同じ方向から自分を見る視線を感じた。

 顔を上げて、その視線の方角を見ると、数十メーター離れた電柱を背にして、行川が立っていた。

 視線を交えた時間は数秒程度だったが、今日の行川は個人行動のように見えた。「の」の字の目に街の灯りを反射させて村瀬を射った行川は、少し肩を落とし加減に背中を向け、薬園台方面へ歩み去ったが、その姿は、村瀬に何かを教えたげにも見えた。

 村瀬は行川の姿が消えるのを見送って、前原駅の改札を潜った。心に自信が据わっていた。それは昔の自分がいくら求めても得られなかったものだった。
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