手繋ぎ蝶

楠丸

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20章

~五時までは一緒にいて~

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 稲毛の浜と海浜公園沿いの通りには、食べ物屋などの各種の露店が出て、磯部方面まで並んでいた。どこかに設置されたステージから、旧いロックと思われる演奏とボーカルが聴こえてくる。工業地帯の煙突が遠くに立つ。人は、老若幼とたくさんいた。千葉市開催の冬の浜祭りだった。

 村瀬と菜実は手を取って砂を踏み、浜の店を覗いて回った。二人の言葉数は少なかったが、それはあの一件の後日に電話で「もう菜実ちゃんの所にあいつらが来たり、連絡してくることはなくなったから」と伝えたことが影響しているか、また別の心境があってのことなのかは計れなかった。だいぶ引きはしたが、殴打の傷跡が残る村瀬の顔と、村瀬が伝えたことを、菜実の想像がどれくらい及んでいるかも分からない。あの取り立てで、村瀬がどんな世界を目の前に視ることになり、自分の手をどう汚したかは、どうあっても菜実には話せない。それでも、彼女は察しているだろう。村瀬が自分のために、「お参り」の暴力代行部門と関わったことは。いくら「話をした」と説明したところで。

 浜は賑わっていた。祭りは土曜に続いて二日目で、髪のトップとサイドにカールを巻いた、注意欠陥多動の主婦が織り成すほんわかしたホームコメディアニメのタイトルを被せた症候群を夕方には解消したいと願うばかりの人々で溢れている。

 遠くから聴こえる、ロックのベースのリズムが村瀬の鼓膜をくすぐっている。

 十一時を回ったところで、昼食にしようと村瀬が言うと、菜実は浜の砂を目で掃いて、頷きを返した。

 地元の知的障害者支援施設が出店している、焼きそばとたこ焼きを売る店があり、赤い頭巾にエプロン姿の女の子の利用者が声高く「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、おいしい焼きそば、いかがですか、ジュースもあるよ」と客を呼び込んでいた。村瀬と菜実はその列に並び、村瀬がお茶と、焼きそばの大盛を、菜実は普通盛とコーラを買った。利用者に着いている職員は、愛想良く「ありがとうございました」と礼を返した。

 浜のベンチに二人で座り、焼きそばを食べ始めた。菜実の食べ進みは早くなかった。焼きそばを一瞬で食べ終えた村瀬は、菜実が食べ終わるのを待った。菜実は時折箸を止め、何かを考えているような顔をして、海に目を馳せたが、村瀬は先週に自分が自分で下した選択に誤りはないと信じていた。だが菜実は、自分が母親の出所に希望を繋ぐ、たった一つのものであったお参りを断たれ、奪われた衝撃の中に、まだいる。その菜実に、これから叔母のことも話をしなくてはいけない。罪の思いが村瀬の中に沸き起こっていたが、はっきりと話さないことのほうが罪が大きい。村瀬は、焼きそばを遅く食む菜実の横顔を見ながら、彼女のため、と言える鬼を心に据えようと思った。それは菜実だけではなく、村瀬自身の覚悟でもあった。

 村瀬は、菜実が食べ終わった発泡スチロールの皿と割箸と自分のそれをベンチの隅に片づけ、二人で波打際を見た。同じ方向を見たまま、五分ほどの時間が過ぎた。

 食べ物の容器や生ビールの紙コップを持って歩き交わる人達にも、人混みの浜を鞣すように響くクラシック・ロックにも、村瀬と菜実が背負うものとは無縁の平和の享受感が満ちている。

「菜実ちゃん。電話でも話したけど、純法とは、俺が話をつけたよ。それと、実は叔母さんにも会ってきたんだ」村瀬が切り出すと、菜実は浜の砂に向いていた目を村瀬に向け、彼を隣から掬い見た。

「よく聞いて。叔母さんに、もうお金を送っちゃ駄目だ。その旨は、もう叔母さんにも話してきた」村瀬の言葉に菜実は、言わんとする旨を一生懸命に探ろうとする表情を顔に浮かせた。

「菜実ちゃんは騙されてたんだ。叔母さんが毎月菜実ちゃんに送らせてたお金は、お母さんを出所させるための弁護士費用なんかを目的とはしてなかったんだ。あの叔母さんは、菜実ちゃんのことをちゃんと思ってなんかいない。利用出来るものは何でも利用する人だよ。俺の目から見たあの人はね。だから、菜実ちゃんが言いづらいんだったら、俺が代わりに言ってあげて、話をつけるよ」最後のセンテンスにアクセントを込めると、菜実の瞼が落ち、視線が海へ戻った。

 村瀬は束の間の安堵を覚えた。自分の打ち明けに、菜実が乱心することを予想していたが、彼女の様子には悟りのようなものが見える。それでも心中は分からない。今が先日の船橋と同じような取り乱しの前段階かもしれない。取り乱したら、抱きしめて、自分が調べて知った無期刑囚の処遇を説明するまでだ。

 菜実の肩と背中が震え始め、横顔に涙が伝った。「菜実ちゃん‥」村瀬が肩を抱こうとすると、菜実の口が大きく開かれ、高音域の声が発せられた。

 村瀬は菜実の肩を抱き、手の甲に自分の手を添えた。泣き止むのを待って話そうと思った。

 菜実は海風に前髪を吹かれながら項を落とし、食いしばった歯の間から低い泣き声を絞った。

 今、自分の中に在る感情を、彼女は悲しい、か、悔しい、か、どう充てて表現するだろう。それが何故悲しいか、悔しいかを、まとめて話すことは厳しい。菜実が泣くだけ泣いたら、彼女に分かりやすいように話すしかない。

「村瀬さん、私のせいで、お怪我した‥私が悪いんだ‥」菜実の口から出たものは、心を支えていたものが村瀬によって失われた悲しみや、恨みの言葉はではなかった。それは言葉は拙いなりの、村瀬を案じ、自分を責める言葉だった。

「私のせいなんだ‥私が悪いんだ‥」菜実は同じ言葉を繰り返し、大きな涙の粒をピンクのチェスターコートの裾に落とし、腹から押し出すような嗚咽を漏らし続けていた。

「菜実ちゃんは悪くないよ。これは俺が、自分でこれが当たり前だって判断してやったことなんだ」村瀬の優しさに感応したか、菜実の呻き泣きが強まった。菜実の肩を抱く力を強め、彼女の手を甲から握りながら、矛盾を質す念も涌いた。今、綺麗な言葉を吐いている自分は、先週の木曜の夜、菜実のためというかこつけの元、抵抗出来ない相手を暴力で制裁して私怨を晴らし、その復讐の矛先を力無い相手の母親にまで及ばせたことは、動かざる事実だ。

 あんたは羅刹にも夜叉にも劣らない極悪人なんだよ。李が別れ際に投げかけた言葉がリフレインし、思考が闇へ堕ちる感覚に苛まれた。

 賑やかな浜の風景は、村瀬の中に不意に挿した暗黒と、今、菜実が流している涙とは何ら関係もなさげに、祭りに華やいでいるだけだった。ロックは、村瀬にも聞き覚えのあるナンバーを流していた。

「菜実ちゃんは、あと九年でお母さんに会えるかもしれないんだよ」村瀬が言うと、菜実が項を起こして、濡れた顔を村瀬に向けた。

「お母さんの事情は叔母さんから聞いたよ。お母さんは、無期懲役っていう罰を受けて、栃木刑務所にいるんだよね。だけど無期懲役でも、模範囚っていって、服役中の態度が良ければ、入って三十年で仮釈放審査っていうのを受けられて、出てこられることがあるんだよ」

「九年?」「そうだよ。あと九年で、お母さんが刑務所に入ってから三十年が経つんだ」

 菜実の咽びが少し収まったように思えた。だが、彼女には、これからのその時間で、世の中、社会がどう移り変わっていくかを想像することは難しいだろう。自分がまだ幼く、母親が強盗殺人事件を起こし、刑務所に収監された平成後期の世の中と、社会情勢などが大きく変動した令和の世の中の厳密な違いが分からないはずの菜実には。

「そんな時間はあっという間だよ。その時は、俺と一緒にお母さんを迎えに行こうよ」「本当?」菜実は洟を啜り上げながら問い返してきた。

「本当だよ、菜実ちゃん」村瀬は菜実の手の甲に置いていた手を、彼女の頬に移し、流れている涙を指で拭った。熱を含んだ、火の涙だった。

 そこへ一匹のスピッツの仔犬がリールを引きずって、村瀬達の所へとことことやってきた。飼い主の手を離れてしまったらしい。スピッツは菜実の膝に前脚を預け、赤い舌を出して懐いた。

「可愛い‥」菜実は垂れた瞼のままを笑んで、スピッツの頭と背中を撫でた。

 村瀬の中に、菜実を愛しく思う気持ちが臨界にまで達した。

 自分は菜実のために命が危険にさらされ、体と心に傷を負い、私的な怨みの思いもあったにせよ、人の道に外れたことを行い、その手を汚した。

 菜実の言う「私のせい」とは、あながち間違ってはいないはずだが、それでも彼女に恨みめいた思いを覚えず、自分の中に愛が存続する動機は、やはり詫びなのだと思える。これは一つの愛の在りようか、あるいはそれと類似した別物かは、村瀬には判別し難いが、自分が信じた相手を守るためにやることはやったと思いたかった。

 尻尾を振って菜実に甘えるスピッツを見て、お前を犬の餌にする、という李の脅迫が蘇り、寒気を覚えた。李の持つ、一度睨んだ捕食対象は絶対に逃がさないという執念は、眼と人相にはっきりと出ているし、行川も、外観的には見劣りのする小兵だが、自分が定めた標的は必ず仕留めると天に誓うような、信念と言ってもいい性質を持った男で、自分など足許にも及ばない実力がある。

 報酬の受け取りを拒否して家の前で解放された先週の木曜で終わり、とは、やはり考えづらいものがある。それを思うと、濃い影のような不安が心に挿してくる。足音を不気味に忍ばせて、あのマフィア達は必ずまた来るだろう。平穏、平和に、菜実のいる暮らしを送れたら、という自分の祈りが退けられて。

「チャッピー‥」犬の名前を呼んで飼い主が来た。初老の年齢程をした男だった。「ほら、駄目だろう、行っちゃ」飼い主の男は犬を窘め、抱き上げた。チャッピーは名残惜しそうな目で菜実を見ている。「すいません‥」チャッピーを抱いた男は丸い背中を向けて、村瀬達の元から去った。
「私、もう村瀬さんと会えらんないかもしれない‥」菜実は低くビブラートする声で呟くように言うと、悔しそうに唇を歪めて、また体を震わせて、拳で涙を押し拭った。
「私悪くて、村瀬さん、怖い思いした。私が一緒だと、村瀬さん、死んじゃうかもしれない‥」菜実は涙を拳で拭いながら、詰まった声を押し出した。

「菜実ちゃん‥」村瀬は菜実の右手を、互いの指を重ねる形に握った。握って、力を込めた。

「純法のことはもう大丈夫だよ。でも、これから少し、距離を置いてみる?」言った村瀬の顔を、菜実は涙に歪んだ顔で見た。

「さっきも言ったように、菜実ちゃんは何も悪くないよ。だけど、もしも菜実ちゃんなりに思うことがあるんだったら、一ヶ月くらい連絡したりとか、会うのを控えてみるのはどうかな」村瀬は濡れた菜実の目に誠実な目線を送り、案を提示した。

「これは俺と菜実ちゃんがずっと離れるっていう意味じゃないんだ。お互い一人になって、今は整理がついていないことを整理して、菜実ちゃん次第で、気持ちが落ち着いた頃にまた会おうっていうことなんだよ。今日はまだ時間があるから、ゆっくり考えるのがいいよ」隣から村瀬を見上げる菜実の目には、今の自分にとって最も必須の課題を村瀬から示され、それが自分の中に落ちたという心境が現れていた。
「少し離れてる間も、俺は菜実ちゃんのことをずっと思ってるよ。今、俺の中にいる女の人は、菜実ちゃん一人だからね」「私も、村瀬さんだけ‥」返した菜実は、瞼を垂らしたまま、涙の顔に少しの笑みを湛えた。

 村瀬がその距離置き案を振り出した心中の理由には、菜実と愛し合う関係になったがために、自分の命が的になったという事実も確かにあった。しかしながら、今の村瀬は、彼女の叔母である孝子に言ったように、「誰よりも綺麗」な菜実を、自分の元から離したくはない。

 まさに離さないがために、一時の整理期間を設けるのだ。
「村瀬さんが言ったので、私、いいよ」「うん。これで俺と君は、それからもずっと一つになることが出来るよ」「はい」村瀬はハンカチを出し、頷きの返事をした菜実の頬の涙を拭った。涙でファンデーションが落ちていた。

「そうだ。お母さんの名前は何っていうの?」「私のお母さん、健康な子って書いて、康子っていうの」

 菜実は村瀬と互いの手を結びながら、彼の肩に頬を寄せてきた。

「でも、今日の五時までは一緒にいて‥」滑舌のはっきりとした訴えを受けた村瀬は、彼女の後頭部を抱きしめて、額同士をつけた。

 稲毛の浜に流れるロックは、大学時代の村瀬が軽音楽部の練習を見に行き、アーティスト名と曲名を知ったレッドツェッペリンの「限りなき戦い」に変わっていた。

 それからも互いの言葉は少なかったが、夕方に菜実を恵みの家へ送った時、彼女は涙の気が残る顔で村瀬に手を振って、二人で「整理がついたら、また必ず会おう」という約束を目で交わした。ドアの向こうへ消える菜実を見送り、大久保駅のほうに歩き出した村瀬の胸には、「ひとまずはこれでいい」という思いが落ち着いていた。黒の族車は停まっていなかった。
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