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23章
~愚かな静物~
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県道が鴨川にまで抜ける、南部の市だった。二車線の県道に沿って鬱蒼とした杉林が広がる一地点に、赤いカルプ文字で「チロル」という号名が表示されるラブホテルはあった。元々白かったらしい号名ロゴ入りの懸垂幕は黄色くくすみ、半円形の号室の出窓が並ぶ、中欧の城郭を模した外観をしている。駐車場を含む三階建ての屋の白壁は長年雨風に打たれたことで所々が薄い黒の縦縞模様に汚れ、苔が張っている。十年、二十年前では効かない昔の字体で、宿泊、休憩の料金が書かれた壁面看板も、色があせきっている。
そのラブホテルの駐車場に、ミラーシールドを貼った一台の黒のワゴンが吸い寄せられるように入ったのは、哺時が近づいた時刻だった。関東南部の空には、黒ずんだ雲が低く垂れていた。変哲ない安物のスーツ姿だが、人間から離れた畜生、または異界から這い出してきた小魔のような相が出た男二人に前と後ろを囲まれて、ワゴンから数人の男が降りた。その男達はいずれも中年か壮年、そろそろ中年の声を聞く年恰好で、女の関心を引く外見をした者はいない。
懸垂幕の入口を男達が潜ると、料金を支払うフロントには、さらに二人の男がいた。小さなサイズのホワイトボードが立ち、そこに数枚の写真がマグネットで貼られている。
「今日はよくぞいらっしゃいました。時間は一回四十分ですが、追加料金をお支払いされると延長も可能です。今日は七人いますが、タイプ、個性はばらばらで、技術のある子もいれば、うぶなのもいます。全員、十代から二十代を揃えています。どうぞ、ご自身のお眼鏡に合った子をお選びになって、楽しんでいって下さい」男の一人が事務的に言うと、客の男達の中から生唾を呑む音が聞こえた。「さ‥」男はホワイトボードを進めた。
男達が欲望を帯電させて目を這わせるボードには、乳房と陰毛を露わにした全裸の女達の写真が貼りつけられている。女達はみんな体はともかく、整容をされていない髪をしていたり、顔つきが普通と違っていたりで、持つハンデがあからさまだった。
世の中には馬鹿が余って唸っている。手下が前に進めたボードの後ろに立つ神辺久弥は、心の中でほくそ笑んだ。
今日ここに来ている、こいつらのほとんどはみんな欠陥があるから、一般的な恋愛、結婚、子供を持つという世間並のライフステージを踏んでいない。何故、自分が金で買える女以外の女から相手にされないのかが分かっておらず、その反省も出来ない。自分の身の丈も識らない。だから、まんまと金を払って罠に引き寄せられる。
だが、今日は頭一つ抜けた上客が、この中に一人いる。それは自分達の組織の存続に関わる情報を持った人間だ。この男を絡めたからこそ、宗教の看板を掲げたこの組織が在った。感謝の念を送ることもほどほどに、これからも徹底的にしゃぶり尽くす。骨の髄まで。
同じ職業の同ランクの人間、それ以上の社会的な肩書を持つ者も、何人かを子飼い同然に取り込んでいる。このまま行けば、官憲の威力などまるで恐れることなく、自分達が築いてきたマーケットが日本中、さらにアジア全域、世界にまで拡大すると言いたいところだが、それを脅かす事態が、内部に起こり始めている。
一ヶ月と少し前の、金の強奪をむざむざ許したことによる内部の粛清、それに次いで、自分達に絡められていた人間が数奇な因縁で道具を手にしたことで、貴重な勢力の一部には変わらない人間の命が奪われた。
だが、神辺はある自信を持って、それら内部の出来事を俯瞰している。
「この女でいい。早く通せ」白髪の頭に心労が顔に出た、寝た柔道耳をした体格のいい壮年の男が、一枚の写真を指して苛立ちを滲ませた口調で言うと、神辺は笑った。
指した写真には、ポニーテールの髪をした、丸い目に少し頬骨の出た顔をした女が全裸で写っている。縁無しの写真には、赤いカラーペンで「月子」いう名前が走り書きされていた。
「さすが石井さん、お目が高いですね。この子はうちで徹底的に仕込んでありますが、特にオーラルが絶品です。忌憚のないご満足が保証出来ることと思いますが、もし石井さんさえよろしければ、こちらの女の子と、ツーピース・プレイなどはいかがでしょうか。この子はお初ですから。顔はちょっと落ちますけどね」神辺は二段に並んだ写真のうち、上段の左から二番目を指で叩いた。
その写真に同じく全裸で収まっている地味な髪のまとめ方をした娘は、卵のような体つきに、十人並みよりも少し劣る顔をしている。ペンの名前書きによると「ゆき」とある。
「それでいい。早くしろ」「了解です。お請けいたしました。ご案内いたしますので、どうぞ」神辺ともう一人の男がエレベーターへ向かい、後ろに石井ともう一人が着いた。
「石井さんはもう延長分の料金も先にお納めになっておりますので、ごゆっくり、何なりとお楽しみ下さい。なお、本会で設定させていただいております規則で施錠は不可ですので、その辺りだけご了承いただけたらと思います」
神辺を白壁にペルシャ絨毯の廊下に残して202号室に入ると、胸元露わなピンクのノースリーブのドレスを着た月子とゆきが、正座をして出迎えた。部屋はいかにも旧いラブホテルの号室といった、不愛想で殺風景なレイアウトだった。月子はこれから稼ぐという期待に目をきらめかせ、ゆきは恐怖のようなものを顔に浮かせ、瞼を伏せて瞬きを繰り返している。
「さっさと立って脱げ」石井が命じると、月子は立ち、ノースリーブドレスの肩紐をぎこちなく外した。ドレスが足の踝に落ちると、ブラジャー、パンティを着けていない、乳輪の大きな豊胸と、束の厚い濃い陰毛を持つ全裸の体が石井の目前に晒された。
「お前もだ。脱げ」石井の低い喝に、座ったままのゆきはその顔を硬直させ、体を震わせた。
石井はゆきの髪を両手で鷲掴みに掴み、体を引いた。苦痛の悲鳴が上がった。ダブルベッドの前まで引きずった体から、ドレスを剥いだ。それを抜いて投げると、髪を握ったまま、彼女の乳房を荒くこねるように揉み立て、陰部に手を挿し入れた。
「痛い!」ゆきは叫び、身をよじって顔をしかめた。
「嫌だ! お家帰る!」叫んだゆきの頬を、容赦のない石井の平手が二回打ち、彼女の体がカーペットの上に転がった。
「お家も嫌もへったくれもねえんだよ、この薄のろの社会不適応者が!」大きく口を開けて、鼻血を流し、体を波打たせるゆきの髪を引きながら、石井は罵声を落とした。
「俺が警察に入職したのは、およそ四十年前だ。高卒で、努力に努力重ねて、自転車で街を巡回する巡査から始まって、苦労に揉まれながら齢重ねて、警視正の資格を取って、警察庁の本部詰めにのし上がったんだ。一介の巡査部長だった頃は毎日ストレス漬けだったんだよ。お前らみたいな知的と、準知的の奴らが犯す事件の処理に追われて、来る日も来る日もそればっかだ。今も行きつけにしてる南千住の木賃でビールを飲むことだけが、俺に許されたただ一つの楽しみだったよ。それでやっと高い椅子に座れたと思ったら、警察大学生の息子の、裏での犯罪行為を恐喝屋に掴まれたんだ。それで五百万だぞ、五百万‥」
石井の言っていることが難しすぎて分からないらしいゆきは天井に顔を向け、あああ! あああ! と泣き声を振り絞っている。月子は涎の光る口許に指を当て、全裸のまま立ってそれを眺めているだけだった。
「いいか、お前ら。今日はお前らで、俺のその苦しみとストレスを全部吸い取れよ。手を抜かずに俺を悦ばせるんだぞ」石井はゆきの髪から手を離し、懐から財布を取り出し、二十枚余りの一万円札を抜き、床に置いた。
「今日はこの金をお前らに落とすぞ。この金の分だけ、俺を愉しませろ。分かったか。どうせ非課税世帯育ちのお前らは、ほんのはした金でも、それをちらつかせりゃ何でもやるんだもんな。おら、咥えろ」
石井はベルトを外してスラックスとパンツを下ろし、また、ゆきの髪を片手に掴み、勃起した陰茎を出し、泣き続けるゆきの口に押し込んだ。ゆきの声が陰茎に塞がれ、その後ろに月子が立ち、両手の指で陰毛を掻き分けてクリトリスと小陰唇を露出させた。そこに石井が顔を寄せ、月子の性器を舌でせせり、尻に手を回して肛門に指を埋めた。
ゆきは、今、自分の身が落ちている所に諦めを覚えたようで、石井の性器を口で受けながら、泣き声を、懸命に押し殺した啜り泣きに変えていた。
客の男達が全員女の当たりをつけて客室へ引いた一階フロント前で、行川を携えて現れた僧帽の李に、神辺は頭を下げた。
「首尾よくやってるみてえだな」貼り出された女達の写真を目で掃いて李が言い、神辺は小さく頷いた。
「二代目はもう決まってる。今度は総法正って肩書だ。こいつだ。救貧屋の世話になって、無年金の年寄りに混じって、台東区のぼろアパートでタコ部屋暮らししてるのを柄抜きしたんだ。今、横浜の本部で生活させてんだがな、先代の奴よりも扱いやすい。あれと違って犯歴もねえしな」
行川がポケットサイズのタブレットの画面を、神辺の目の前に掲げた。画面一杯に写し出された写真の中には、伸びかけて乱れた五分刈りの頭をし、垂れた目と頬の中年男がいるが、自分を囲んでいる状況に判断が及んでいないといった顔をしている。この男が持っているものは明らかだ。
「マネージャー、小耳程度でいいので」「何だ」神辺の問いかけに、李が顔を向けた。
「あれを名誉にしたのは何故ですか」「てめえからこっちに言ってきたんだ。市役所行くから、こっちとはもう手を切るってな。それ自体は別に構わねえがな、いろいろしゃべられる可能性があるだろ。それでこっちのことが漏れねえうちにと思って、ウイスキーとブランデーとポン酒のチャンポンで眠らせて、服剥いて、手賀川に流したのよ。あいつの家に置いてたものは、全部処分した」「そうですか‥」神辺の合いの手に、李は這うような笑いを吹いた。
フロント空間には、山間を吹き抜ける風の号溟が響き渡っていた。神辺の指示で動く男達は余計な口をつぐみ、李の隣に立つ行川は、目と体は動かさずとも、射るような迫圧を周りに配っている。ここにいる神辺の手下達はみんな、それに留められている。
神辺が会うたびに、いつも李がこの男を常に身のそばに置いている理由は、自身の用心刀、用心銃としてでもあるが、突発的な不測の謀反への備えでもあることは充分以上に察しがつく。組織の基盤が揺らいでいることは、幹部の立場にある神辺にもよく分かっている。
「ここんとこいろいろあって、基盤固めってやつをもういっぺんやり直さなきゃならねえとこに差しかかってるけどな、今、山上に仕切らせてる兵隊と道具の買いつけは順調に行ってる。信者の取り込みも進んでるしな。他の団体に出張して信者を引き抜いてることは、前にお前にも話して知ってんだろ。特にあの、まあ、素晴らしいわね、の、三鷹の恩正啓生の奴は、馬鹿素直で引き込みやすい」「組織の力的な優劣は数だけじゃないですよ」「ああ。基盤を固め直して、販路を拡げて、使える奴らを勢力の端々にまで行き渡らせて、その数に見合うだけの道具が揃えば、まず、東でひとかどになれる」
李が言った時、行川が画面を指でスライドさせた。下半身裸の姿にされ、揃いも揃って覇気のない、あるいは怯えたような顔と萎びた陰茎を下げて立つ、風采の上がらない男達の写真が何枚も続いて現れた。数枚がスクロールされると、今、ホワイトボードに貼られているものと同様、全裸で立たされた女達の写真画像が出てきた。ぼさついた髪をし、目や鼻の形に変形が見られたり、目の奥に無想、何かへの気力や意欲が覗えない虚無を湛えており、それが立ち姿勢にも出ている女達だった。それは先に写し出された不様な姿の男達も同じだ。
尊教誓いの儀と名打たれた入信式の一環。一生涯に渡り、御教えへの背きを持たないという意思を示すための、命と名誉を差し出す強要。拒む者は人数で囲み、「大本尊様のお怒り」のワードと、刃物をちらつかせ、またはスタンガンを帯電させて脅し込む。それに対し、泣いて、または怒って拒否する者は、「火葬場」の言葉で大人しくさせる。この威嚇脅迫の強要を行う側の信者も必死だ。取り込みの失敗も、教えを尊ぶ上での失態となり、制裁を受けることになるからだ。
それは、惨鼻を極める拷問の果ての死だ。一例、寮付き人材派遣会社で働く独りの中壮年の男が身の回りのものをそのままにして行方をくらましても、ありがちな仕事苦しさからの逃亡と見なされ、詮索されることはない。たとえその行先が、視、聴、感、の存在しない闇、その闇の識別すら無い世界であるとしても。
「こいつらはみんな、うちを潤してくれる法徒と、俺達に金を運んでくれるお客なんだよ。だから大切に扱わなきゃいけねえんだ。法徒ってもんをたとえりゃ、栄養の豊かな餌を与えられて、風光明媚な環境で愛情深く飼育された養牛、養豚、養鶏は、肉の締まりも柔らかみも違え。それが食卓に載って、俺達の味覚を楽しませてくれるだろ。そういうハートフルな畜産をすることが、組織を盤石化する第一歩だ」「まあ、それは確かに」神辺が気のない相槌を打った時、不意のように、どこかの商店街を歩く男の写真が表示された。至近距離の、斜め前から写されたものだった。次に、その男が赤いブルゾンに紺のスラックスの制服姿で、スーパーの店内で品出しに勤しんでいる様子を横から捉えたものが写った。
「どうだ。知ってんのは共通だろ」「はい。ハロウィン前の手繋ぎに来た奴です。池内がこいつの担当で、こいつなら引く相手として確実だと踏んでたんですけど、マネージャーはお認めになったんですよね、池内の脱会‥」「馬鹿野郎、そうやすやすと離すか、この俺が。池内も、この男もだ」李は言って、ジャケットから銀のシガレットケースとライター、高級な仕様の携帯灰皿をまさぐり出し、ケースから抜いた一本を薄い唇に咥えた。自分のライターを出したわけは、神辺には部下というよりも僚友に近い意識を持っているからだ。
「この写真見ただけで、そこいら歩いてるおっさんと同じだと思うなよ」
李は音を鳴らして煙草に点火し、遠くを見るような眼差しをして、ゆっくりとした調子で煙を吐いた。
「これはお前の指示の功績でもあって、池内の実績でもあるんだ。こいつが支部で入信を拒んで暴れたからこそ、広法何とやらで、これからの拡大には絶好の逸材を発掘することになったわけだ。なあ、何が幸いするか分からねえもんだよな、神辺よ」李の顔に、上機嫌の笑みが浮かんだ。爬虫の眼の瞳孔には、きらきらとした光が見える。恋心の相手を想う眼だった。
「元地銀の行員で、今はスーパーの店舗スタッフで、どこかに息子と娘がいるとかいう話を拾ってますけど、何の取り柄があるんですか」「空手だ」「空手?」神辺が問い返すと、煙草を燻らせる李の細い目が、より細められて、ぎらりと底光りした。
「ああいうものをやってる人間はごまんといるじゃないですか。俺が三年前まで指導員やってた流派の道場にも、切実な動機持って入門したけど、白帯のまま潰れてくのが何人もいましたよ。ああいうものになりたいとどれほど望んで求めても、才覚の差はいかんともし難いんです。遺伝的な知的要素でも腕力でも、運動神経でも、みんな才能じゃないですか。それが生来携えられてない奴は、いくら泣いて喚いて指咥えて、ないものを欲しがっても、そうはなれないものですよ」「聞け」李が声を圧した。
「いくら零細スーパーの店員に身をやつしてるっつっても、こいつの空手に限っちゃ本物だ。うちの人例ん中でも腕の立つ奴を人選したんだがな、丸腰じゃねえそいつらが綺麗に畳まれるまで、ほんの秒だったんだ。俺は目の当たりにしたんだよ。支部でも腕利きが一人、やられてるんだ。目をぶっ潰されてな。こいつが身につけてるもんはな、胸倉がどうしたとか、手を掴まれたらどうするとか、あんな複数や刃物の捌きが考え抜かれてねえ低レベルの護身術とかとは違え。それでいて、剝ぎ取りも上手くて、おかげで必要分、きっちり取り立てることが出来たんだ。勢力の補強として、喉から手だ。他に言いようがねえだろう」「そうですか。けど、ここぞ一気にって時に、お人好しが命取りになるんじゃ」「それがな‥」李が言いかけた時、男が非常階段から走り降りてきた。神辺の部下だった。
二階の一室で何かが起こったことは、男の顔色で分かった。神辺は男のあとに着いて、非常階段を急いでよじ上がった。
202号室の扉は開け放しになっていた。部下の男に続いて部屋に入ると、隅でゆきが顔を覆ってしゃがんでいた。ツインベッドの上に、大きく脚を拡げて赤い膣孔を剥き出しにした月子が、目を見開いたままの顔を横に向けて、微動だにしなくなっている。
月子はこと切れていた。目は涙で赤く充血し、洟と、口からの唾液が垂れてシーツに染み込み、死の際に放出した大便が尻と腿を茶色く汚し、部屋に便臭を漂わせている。
行為の最中、石井が頸を締め上げたことは、説明などはなくとも分かる。
石井は全裸で窓際に立ち、肩を上下させながら、歯を結んだ顔で、慌てふためいた目線を部屋の四方にさまよわせている。
神辺はベッドに寄り歩み、月子の亡骸を検めるように覗き見ると、石井に目向きを戻した。
ゆきに目を遣ると、彼女は顔を覆っている手を外し、すがる目で神辺を見た。神辺は洋風ステンドグラス仕様のシールが貼られた出窓に視線を移し、はは、と短く嗤った。
朝から関東に注意報が出ている強風に、洋窓が笑っていた。神辺と合った石井の目に、助けを求める色が濃く出ている。
「これは何だと訊きたいところですが、そんなものは愚問ですよね、石井さん」月子の死体を顎で指した神辺の声は笑気を含んでいた。
「これをどうすることを私達にお望みでしょうか。どうすれば始末がつくとお思いですか。お考えになるお時間を与えますが、その時間はそんなにありませんよ」神辺の言葉に、石井は部屋の隅々を見回し、我が身を庇ううろたえをその姿に刻んだ。
「だから何だっていうんだ」石井は言って、顔と体勢を整え直した。
「お前らのやってることは、不法な斡旋だろう」石井は顔に汗を光らせながら、脱ぎ捨てていたトランクスとズボンを着け始めた。
「そもそも判断力不全の女を略取して、軟禁して、売春をさせてるわけだ。こんなことが知れたら、お前らは一網打尽だ。跡形もなくだ。知った風な口を聞くな、宗教絡みの売春組織風情が」「それではどうぞ、ここから署に連絡して、緊急捜査を要請なさるのがいいでしょう。だけど、黙秘権はあくまで自分を刑事的制裁から守るためにあるものです。今のあなたも、ご自分の身を守ることをお考えになったほうがいい」
ゆきが白い床に伏して、呻くような泣き声を絞り始めた。神辺はそれを打見すると、浮いた上唇から前歯を覗かせて笑った。
「で、溜まるものを持て余した挙句に、とうとうやってしまわれたわけですけど、どうしますか、石井さん」
ゆきの泣き声が、風の音を迎えて響いていた。石井は捨て鉢の弁駁の勢いを、瞬く間に失っていた。
「頼む。何でもする。これを表に出さないでくれ!」瞼を伏せた石井の懇願が、ゆきの泣き声と風鳴りを割った。
「俺が今の地位を築くまでしてきた苦労は半端なものじゃないんだ。こんなことが世間に知られたら、俺はもう終わりだ。本当に終わりだよ。だから、頼む‥」瞼を瞬かせ、洟を啜り上げながら、石井は哀願した。
「大丈夫ですよ。そんなにお泣きになることはありません。実績に基づくあなたの名誉と地位と、何年か先に控えてる定年後の悠々自適とした暮らしが完全に保証される選択が、ただの一つだけあります。こちらが薦めるその方法に従っていただけるのであれば、憂うことは何もないですよ」神辺が言った時、開け放しのドアから、李と行川がその姿を挿すように歩み入ってきた。生命の途絶えた月子と、泣いているばかりのゆき、しゃくる石井を、表情のない李の目が梳いた。
「参加登録の際、職業欄には公務員とありましたけれど、組織のセキュリティ上のこともあって、調べさせていただいております。あなたは本庁詰めの警備部勤務で、左翼政党、極左セクト、極右政治団体を監視することをメインの仕事にしていて、あなた達の司令で動く捜査員は全国におよそ一万人います。可能な限りでいい。あなたの下で働く捜査員の方々の名前、住所、その他の情報が記載されたリストを、私どもに送っていただきたい」
涙に濡れた石井の目が見開かれた。神辺をすがりつく藁とする目だった。
「大丈夫です。そのリストはこちらで厳重保管させていただいて、よそにばら撒かれることはないですし、報酬も、しっかりと保証しますよ。その報酬は、あなたの言い値を呑みますから。ざっとおいくら欲しいですか」
「八‥」石井の唇が動き、曖昧な数字を発音した。
「八百万でしょうか」「八千万‥」石井は消え入る声で金額を口にした。
「分かりました。それでは今日中に八千万円を口座に振り込ませていただきますので、後ほどご確認下さい。だけど、その金の重さに誓って、先に私が提示した条件は必ずお守りになっていただきます。そこで今のうちに言っておきますが、それをあなたが反故にされた場合、こちらにも考えがあります。そこのところはよろしくお願いいたしますよ」
神辺が発した警告には冷徹な語圧が含まれていた。
「頼みますよ」神辺がつけ加えると、石井は顔を両掌に包み、上半身裸の姿のまましゃがみ込み、肩を震わせ始めた。顔を覆った指の間から、唄うような嗚咽が漏れた。
神辺とともに石井を囲んで立つ李の針の目は、石井の値を踏んでいる。行川は、その小さな体を、今ここで何が起こっても即時に対応可能な足の配りを整えた体制でぴたりと立ち、特徴的な童顔の表情をきりりと締め、射すくめる視線を部屋の外に遣りつつ警戒を払い続けており、石井のことなどはまるで関心もない様子を見せている。
「おい」入ってきた部下の男に声かけした神辺は、月子の亡骸に顎をしゃくった。
「富津に運んで、ナトリウムで溶かせ。骨は砕いて川と山に撒け」神辺に命じられた男は、運び出しの協力要員を呼ぶために出た。
「神辺よ。さっき言いかけたことの続きだ」ゆきのか細い泣き声に石井の嗚咽が交わる中、李が口を開いた。
「俺はあの男を、人例で俺の右腕的なポジションにまで持ってくビジョンがある。何故なら、空手の腕は言わずもがな、必要に応じて、てめえの体ん中に流れてる血の色を、赤から青にも緑にも、金にも銀にも変えられっからだ。こうして口に出して言ったからには、俺は必ずやるぞ。こないだ揃っておめおめ殺られた波島と中尾は、抜擢の上じゃ失敗品だったがな、あの村瀬を取り込みゃ‥」「鬼に金棒ですか」「そんなもんじゃねえぞ」
三人の男の間が黙した。
「マネージャー、意見するってわけじゃないですが」神辺は言い、李の顔を見た。
「俺は、あいつは引っ張りに留めとくのがいいと思いますよ。何故かっていうと、いくら火事場の力を持ってるったって、こちらからすれば素人には変わりないからですよ。そんな人間を人例に引き込んだところで、いかにも素人らしいぼろを出して、それがこっちの命取りになることが大いにあり得ます。実働の補強なら、既存勢力の買収のほうが効果的ではと」
「俺が言いてえのは、惜しくも埋もれてる人材の発掘って話だ」李は神辺に向き直った。
「うちが面倒見てる法徒の女の九割が、頭はともかく、人を悦ばす体の機能には問題がねえ。そいつらが、くだらねえ特定非営利法人から掘り出されて、安くねえ施設の利用料を搾取される前に、俺達で見つけてやって、その体を使って出来る有償の奉仕労働を卸してやってるわけだよな。それと同じことじゃねえか、言ってみりゃな」「長年素人で飯食ってきた人間が、あの年齢から兵隊として開花することなんてないですよ。現場で使える年数にも将来性がないじゃないですか」「聞けよ。俺の話を最後まで」李の声に迫力が籠った。
「いいか。お前が言う将来性ってもんは解釈次第でどうにもなるんだ。うちは今後五年が伸びの正念場だ。そのスパンに、藪を切り拓くための一員として機能する人間が、俺はただの一人でも二人でも多く欲しいんだ。その気持ちが、お前に分かるか。あいつは間違いねえ。命を保ったまま、うちに多くの益をもたらしてくれる。俺の目には寸分の狂いもねえ。この俺が、全くぶれのねえ自信を持って言えることだ」「そうですか」「そうだよ」
神辺は溜息を腹の中に呑み下した。先日、千葉のセクシュアルパブで二人の人例構成員が、元々は追い込んでいた軽度知的の男の手にかかって、まとめて瞬時に死んだことについて、手下の管理体制に不備があって起こったことであり、それが自分の責任であることをどこまで自覚しているのか。だが、上はその李に何も言えなくなっている。今、純法の司令体系を乗っ取って、組織を実質的に廻し、利益を運んでいるのは人例研究企画部だからだ。
そこに二重の乗っ取りを仕掛けて、正念場だという五年以内に俺がこの地下宗教組織を牛耳ってやる。今はリンカーンコンチネンタルのリアシートでふんぞり返っている李を追い落として。その算段の青写真は、もう俺の頭の中にある。その時、行川が護衛する対象も、李から俺に変わる。李の椅子が俺のものになるのだ。頭蓋の内部に溢れる静かな宣言の思念を、神辺は顔にはおくびにも出さなかった。
「マネージャーがそこまであの村瀬にこだわる理由は何ですか」表情を無にした神辺が問うと、李は細い目をより細め、口許をにんまりとほころばせた。
「愛だ」「愛、ですか」神辺の訊き返しには、若干の呆れが出ていた。
「惚れてんだ。あいつが池内を愛してるくれえのエネルギー、注いでな。優しい顔して、血気ってものを表立って見せねえけど、恐ろしい腕立ちで、回収力もピカイチ、行川には負けたにせよ、どう脅そうがすかそうが屈しねえ根性持ちと来りゃ、この俺が惚れねえはずがねえだろう。俺は落とすよ、あの男を。その結果を、お前も何ヶ月か以内に知ることになるぞ。冗談抜きの話、ケツの穴、シェアしたって構わねえよ」
李は意中の相手を想う目を宙に遣り、笑った。神辺の下に就く男達が三人、部屋にやってきて、死後硬直が始まった月子の骸を運び出した。座り込んだきりのゆきは、顔を濡らしたまま泣き止み、全てを諦めた面持ちで床を見つめている。
吹き荒む強風が、ホテルの周辺に密生する杉の木々をしなわせる音が部屋をざわつかせている。ベッドの脇には、石井が叩きつけて置いた金が、黒い物気を立ち昇らせる静物となって置かれたままになっていた。
「これで自己破産の契約手続きは終わりましたが、本当に最後にご意思を確認させていただきますよ」通話穴の開いた透明アクリルの向こうで、よれたトレーナーの姿で肩を落とし、顔を伏せたきりの美咲に、そろそろ老齢の弁護士が優しく声を投げた。
「あなたは今、とても厳しい状況にいます。だけど逮捕拘留されてからまだ十日未満です。刑事担当の弁護士をつけることで、執行が猶予になる可能性はまだあるんですよ。本当にこのままでいいんですか?」
月曜の午前だった。今、村瀬を伴って美咲と接見している弁護士は、自己破産担当だが、彼女を釈放に持っていく担当は専門が違う。
面会が始まってから十分の時間が経過しているが、美咲の態度は無言一徹だ。その態度に村瀬は、彼女が望んでいる身柄の行先をはっきりと見出していた。
「君はどこまで分かってるんだ」村瀬はアクリルボードの向こうの美咲に、静かな声を送った。
「このまま行けば間違いなく実刑で、数ヶ月くらいの間、刑務所で暮らすことになるんだ。それでいいのか。その選択でいいのか。どっちでもいい。言葉にして話してくれ」元夫の言葉に、美咲は俯くだけだった。
「あなた次第で、息子さん、娘さんに、刑事担当を引き会わせて契約を結ばせることが出来るんですよ。だけどあなたは当番弁護士も呼ばなかったし、まるで最初からご自分で実刑をお望みになっているように見える。お家も大変だったことはお話に伺っていますが、刑に服すると、その最中も、そのあとも大変ですよ。執行猶予を得て、お子さん達と世帯を分けるということも出来ないことではありません。娘さんの暴力が怖いのであれば、低料金で短期利用の可能な女性用のシェルターもございます。どうお考えなんですか。私がこうしてお話の出来る時間は限られていますよ」
美咲の態度は変わらなかった。だが、落ちた肩と伏せた瞼に、ある種の解放を望んでいるような気持ちが浮いて出ているように村瀬の目には見える。その行先が、粗末な食事があてがわれ、楽しみもなく、一切の自由を奪われた、規則づくめの環境だとしても。
面会時間はまだ二十分残っている。だが、任せようと思う気持ちが、村瀬の体を椅子から立たせた。弁護士はいささか怪訝な顔で、立ち上がった村瀬を見上げた。
そんな変な目で俺を見ないでくれ。今、あなたは俺を無責任な元夫だと思っているのだろうが、アクリルボードの中に座るこの女がどういう人生の選択をしようが、それも権利の一つだ。
任せる以外にない。出たあとのことは、またこちらで考えてやってもいい。
「いいんですか?」切羽の声で弁護士が問うてきた。村瀬は何秒か言葉を呑んでから頷いた。
美咲には別れの挨拶をすることなく、千葉刑務所の拘置区を出た。弁護士は背中を丸めて隣を歩き、ついてきた。
「惜しいですけど、こういうものだという感が拒めないですよ」拘置区の高い壁の前で、弁護士は言い、小さく息を吐き出した。
「私は若い時分には刑事専門だったんですけど、同じようなケースはたくさんありました。あなた様もご存じでしょうけれど、居場所や逃げ場所に刑務所を選んでしまう、あるいは選ばざるを得ない事情を抱えた人は、世の中には溢れてるんです。その多くが、いわゆる‥」
弁護士の言いたいことは、村瀬にはよく分かる。同じハンデを持つ友達の唆しで、子供におもちゃを買ってやりたいという動機を胸に最重罰の適用される罪を犯すことになり、今も栃木の塀に収監されている菜実の母親がいる。
そういう彼ら、彼女達に対し、自分がしてやれることは何もない。自分が出来ることは、菜実との関係がこれからも維持され、結婚までこぎ着けた時には二人で栃木刑務所へ挨拶に行き、九年後に審査が通って仮釈放の運びになった時は、引き取って一緒に暮らすことだ。
「なし崩しの起訴まであと六日あります。それまでご子息とお会いになって、ご意思を確認されたら、また法テラスに来られて下さい。手配いたしますので」京成千葉駅の前で、老弁護士は寂しげに言ったが、村瀬の意思も決まっていた。それは美咲を、本人の思いに任せた自由の道へ解き放ってやることだった。
「待っていますから」残して、紺の背広の姿を遠ざけていく弁護士を見送った村瀬は、喉の渇きを覚えて、千葉中央を始点に千葉駅まで伸びる通路型のショッピング・プロムナード脇の自動販売機へ歩き出した。平日日中の、周辺の通行人は平均年齢が高かった。
居酒屋などの飲食店、リラクゼーションサロンの壁面看板が貼られたプロムナードの壁の前に、みすぼらしい姿をした一人の男が体育座りで座っている姿が目に留まった。自販機でペットボトルのスポーツドリンクを買い、それとなく見たその姿に、忌まわしさを感じた。
男の髪は薄いが、その生え方と、横顔の造りに鮮烈な見覚えがあった。服装は上がセーター、下が黒いジャージのズボンで、靴下を履いていない足にサンダルを履いている。体からは筋肉が落ちていることが冬服越しにも分かり、せわしなく瞬く、眦の落ちた目はおどおどと左右、上下をさまよい、端の垂れた口は悲しげにつぐまれている。
見覚えを確信に変えた村瀬は、買ったドリンクを手に、敷いたビニールシートの上に座る男の前に立った。残忍な気持ちが胸に沸き起こっていた。
男の前には、色で十円、五円と分かる硬貨がほんの何枚か入った佃煮瓶と、ブックスタンドで立たされた紙の挟まれたバインダーが置かれていた。
生活に困っています。電気、ガス、水道が止まり、お金がもうなくて、ご飯が食べられません。少しでもいいので、恵んで下さい。お願いします。と、黒のマジックで書かれた文が、惨状と言っていい窮状を訴えている。
「あの、お金‥」十六年の時を経て、村瀬と奇遇な再会をした江中は、目の前に立つ男が、あの時、自分があの家から追い出した主人と知ってか知らずか、足許の小瓶を取って差し出してきた。
「久しぶりだな、江中。俺が誰だか分かるか」村瀬が言うと、力無く弛緩していた江中の顔に、少しづつ驚きが拡がっていった。
「すぐに思い出せないなら、こっちから名乗るぞ。俺はあの時、お前に嚇されて、あの八木ケ谷の家と、奥さんと子供をお前に明け渡して逃げた村瀬だ。お前が忘れても、俺は忘れはしない」
村瀬の名乗りと顔見せを受けた江中は、ああ、と小さな声を喉から上げ、座った体を後ろへいざらせた。
「俺の顔なんかはともかくとして、あの家で俺の子供にやったことまで忘れたとは言わせないぞ。俺の娘は、お前と、お前の遊び友達に犯され続けて、お前も、息子も、俺の妻も知らない所で、子供を自分で堕胎したんだ。幼い子供の体でな。その地獄が、娘の人格形成を普通じゃない道へ追いやった。それで道を踏み外していったんだ。今、これを聞いてどう思う。これを聞いても、今のお前の頭にあるのは、目先の金のことだけか。どう思う、江中」
村瀬の問い詰めに引きつった江中の顔に、やがて追従するような笑いが浮かんだ。
「その、あの時のことですよね。家の前で言い合いになった‥」江中はおもね笑いのまま、ずれた弁明を試み始めた。
「すみませんでした。あの時は、ちょっと言い過ぎたと思ってますから」村瀬は自分の眉が急な角度に吊り上がったことが分かった。
「それだけか」村瀬が問いを投げると、江中の顔から笑いが引き、言われていることが分からない、という体の表情になった。
「それだけなのか! てめえに言える詫びは!」怒号した村瀬のキックが江中の胸に飛んだ。江中は空えずきのような声を上げて後ろへ転倒した。コンクリートに打ちつけられた後頭部が鳴った。
裏声の悲鳴を撒いて、体をよじって逃れようとする江中の背中と脇腹に、さらに一発づつのキックが抉り込まれた。重く籠った肋骨の鳴る音と、火が点いたように起こった江中の泣き声が交差した。
内臓を庇うように体を丸め、高く伸びる泣き声を漏らす江中の顔に、村瀬は革靴の踵を踏み当てた。
「安心しろ。殺しはしない。それは俺が仏やキリスト様だからじゃなくて、お前みたいなボウフラ野郎には、あっさりと死ぬことは似合わないことが分かってるからだ」
江中の顔を踏みながら言葉を落とす村瀬の周りに、人の集まる気配がした。警察が来ないうちの立ち去るまでの短い時間に、言うことを言わなければならない。
「その貧相な命を、物を食うことで繋ぎたければ、市役所の総合案内所へ行け。そこで、水も飲めないと言って泣けば、ボウフラや蛆虫や、糞にたかる金蠅と同じ値打ちの命しか持たない野郎にも最低限の文化的生活を送る権利があるという考えを崩さない職業的考えに基づいてやってる課に案内される。そこの審査が通れば、あらかじめ贅沢が出来ないように設定された額の金が毎月支給されて、税金は免除で、医療費もかからないけど、担当の窓口の職員から、働け、働けとせっつかれる日々が始まる。それで毎月赤字に悩む暮らしを送れば、金っていうものを一つの威力だと思って疑わなかったお前みたいな奴でも、何かを学べるはずだ。何かをな」
村瀬は言って、泣く江中の頬から踵を離した。
「それ以後のお前の人生がどうなるかは、一切がお前次第だよ。ボウフラらしく、不様な姿と顔を提げて、これからもその無駄な命を虚しく消費しながらおめおめ生き恥晒して、一人でよぼよぼ老いていけ。それで独りで死ね。今の俺がお前に言えることはそれだけだ」
歪んだシートの上で体をすくめて女々しく泣き喚く江中を見下ろしてから、村瀬は背後、周りを振り返った。何人かの通行人が足を止めて遠巻きに見ている。お互いに公休日を合わせているらしい、手を繋いだ、美しいルックスにお洒落な服装をした若いカップルが不安の視線を送っている。
村瀬はそれらの人々をさっと見遣ると、ボディバッグから財布を出し、千円札を一枚抜いてしゃがみ、二つ折りにした札を小瓶に入れた。視線の合ったカップルの男が、怯えを湛えた目を背けた。
やがて村瀬は、泣き続ける江中、不安を顔に浮かべた通行人達を振り返ることなく、千葉駅の改札へ歩を向けた。
後ろから背中を打つ江中の号泣が、絶望に満ちたこれからの人生を思ってのものなのか、被害を与えた相手から温情を受けたことによる感激からなのかは村瀬には分からなかったが、どちらでもいいことだった。憑物が落ちたように、江中のその後などへの関心的なものが取り払われた気分で、駅へ足を踏み出した。一瞬だけ振り返ると、小銭に続いて、村瀬の手で一枚の千円札の入った小瓶が、ただ静物画のような印象を残しているだけだった。
義毅のお陰もあり、全てを返礼出来たという思いだけが静かに胸に染みていた。それだけだった。
そのラブホテルの駐車場に、ミラーシールドを貼った一台の黒のワゴンが吸い寄せられるように入ったのは、哺時が近づいた時刻だった。関東南部の空には、黒ずんだ雲が低く垂れていた。変哲ない安物のスーツ姿だが、人間から離れた畜生、または異界から這い出してきた小魔のような相が出た男二人に前と後ろを囲まれて、ワゴンから数人の男が降りた。その男達はいずれも中年か壮年、そろそろ中年の声を聞く年恰好で、女の関心を引く外見をした者はいない。
懸垂幕の入口を男達が潜ると、料金を支払うフロントには、さらに二人の男がいた。小さなサイズのホワイトボードが立ち、そこに数枚の写真がマグネットで貼られている。
「今日はよくぞいらっしゃいました。時間は一回四十分ですが、追加料金をお支払いされると延長も可能です。今日は七人いますが、タイプ、個性はばらばらで、技術のある子もいれば、うぶなのもいます。全員、十代から二十代を揃えています。どうぞ、ご自身のお眼鏡に合った子をお選びになって、楽しんでいって下さい」男の一人が事務的に言うと、客の男達の中から生唾を呑む音が聞こえた。「さ‥」男はホワイトボードを進めた。
男達が欲望を帯電させて目を這わせるボードには、乳房と陰毛を露わにした全裸の女達の写真が貼りつけられている。女達はみんな体はともかく、整容をされていない髪をしていたり、顔つきが普通と違っていたりで、持つハンデがあからさまだった。
世の中には馬鹿が余って唸っている。手下が前に進めたボードの後ろに立つ神辺久弥は、心の中でほくそ笑んだ。
今日ここに来ている、こいつらのほとんどはみんな欠陥があるから、一般的な恋愛、結婚、子供を持つという世間並のライフステージを踏んでいない。何故、自分が金で買える女以外の女から相手にされないのかが分かっておらず、その反省も出来ない。自分の身の丈も識らない。だから、まんまと金を払って罠に引き寄せられる。
だが、今日は頭一つ抜けた上客が、この中に一人いる。それは自分達の組織の存続に関わる情報を持った人間だ。この男を絡めたからこそ、宗教の看板を掲げたこの組織が在った。感謝の念を送ることもほどほどに、これからも徹底的にしゃぶり尽くす。骨の髄まで。
同じ職業の同ランクの人間、それ以上の社会的な肩書を持つ者も、何人かを子飼い同然に取り込んでいる。このまま行けば、官憲の威力などまるで恐れることなく、自分達が築いてきたマーケットが日本中、さらにアジア全域、世界にまで拡大すると言いたいところだが、それを脅かす事態が、内部に起こり始めている。
一ヶ月と少し前の、金の強奪をむざむざ許したことによる内部の粛清、それに次いで、自分達に絡められていた人間が数奇な因縁で道具を手にしたことで、貴重な勢力の一部には変わらない人間の命が奪われた。
だが、神辺はある自信を持って、それら内部の出来事を俯瞰している。
「この女でいい。早く通せ」白髪の頭に心労が顔に出た、寝た柔道耳をした体格のいい壮年の男が、一枚の写真を指して苛立ちを滲ませた口調で言うと、神辺は笑った。
指した写真には、ポニーテールの髪をした、丸い目に少し頬骨の出た顔をした女が全裸で写っている。縁無しの写真には、赤いカラーペンで「月子」いう名前が走り書きされていた。
「さすが石井さん、お目が高いですね。この子はうちで徹底的に仕込んでありますが、特にオーラルが絶品です。忌憚のないご満足が保証出来ることと思いますが、もし石井さんさえよろしければ、こちらの女の子と、ツーピース・プレイなどはいかがでしょうか。この子はお初ですから。顔はちょっと落ちますけどね」神辺は二段に並んだ写真のうち、上段の左から二番目を指で叩いた。
その写真に同じく全裸で収まっている地味な髪のまとめ方をした娘は、卵のような体つきに、十人並みよりも少し劣る顔をしている。ペンの名前書きによると「ゆき」とある。
「それでいい。早くしろ」「了解です。お請けいたしました。ご案内いたしますので、どうぞ」神辺ともう一人の男がエレベーターへ向かい、後ろに石井ともう一人が着いた。
「石井さんはもう延長分の料金も先にお納めになっておりますので、ごゆっくり、何なりとお楽しみ下さい。なお、本会で設定させていただいております規則で施錠は不可ですので、その辺りだけご了承いただけたらと思います」
神辺を白壁にペルシャ絨毯の廊下に残して202号室に入ると、胸元露わなピンクのノースリーブのドレスを着た月子とゆきが、正座をして出迎えた。部屋はいかにも旧いラブホテルの号室といった、不愛想で殺風景なレイアウトだった。月子はこれから稼ぐという期待に目をきらめかせ、ゆきは恐怖のようなものを顔に浮かせ、瞼を伏せて瞬きを繰り返している。
「さっさと立って脱げ」石井が命じると、月子は立ち、ノースリーブドレスの肩紐をぎこちなく外した。ドレスが足の踝に落ちると、ブラジャー、パンティを着けていない、乳輪の大きな豊胸と、束の厚い濃い陰毛を持つ全裸の体が石井の目前に晒された。
「お前もだ。脱げ」石井の低い喝に、座ったままのゆきはその顔を硬直させ、体を震わせた。
石井はゆきの髪を両手で鷲掴みに掴み、体を引いた。苦痛の悲鳴が上がった。ダブルベッドの前まで引きずった体から、ドレスを剥いだ。それを抜いて投げると、髪を握ったまま、彼女の乳房を荒くこねるように揉み立て、陰部に手を挿し入れた。
「痛い!」ゆきは叫び、身をよじって顔をしかめた。
「嫌だ! お家帰る!」叫んだゆきの頬を、容赦のない石井の平手が二回打ち、彼女の体がカーペットの上に転がった。
「お家も嫌もへったくれもねえんだよ、この薄のろの社会不適応者が!」大きく口を開けて、鼻血を流し、体を波打たせるゆきの髪を引きながら、石井は罵声を落とした。
「俺が警察に入職したのは、およそ四十年前だ。高卒で、努力に努力重ねて、自転車で街を巡回する巡査から始まって、苦労に揉まれながら齢重ねて、警視正の資格を取って、警察庁の本部詰めにのし上がったんだ。一介の巡査部長だった頃は毎日ストレス漬けだったんだよ。お前らみたいな知的と、準知的の奴らが犯す事件の処理に追われて、来る日も来る日もそればっかだ。今も行きつけにしてる南千住の木賃でビールを飲むことだけが、俺に許されたただ一つの楽しみだったよ。それでやっと高い椅子に座れたと思ったら、警察大学生の息子の、裏での犯罪行為を恐喝屋に掴まれたんだ。それで五百万だぞ、五百万‥」
石井の言っていることが難しすぎて分からないらしいゆきは天井に顔を向け、あああ! あああ! と泣き声を振り絞っている。月子は涎の光る口許に指を当て、全裸のまま立ってそれを眺めているだけだった。
「いいか、お前ら。今日はお前らで、俺のその苦しみとストレスを全部吸い取れよ。手を抜かずに俺を悦ばせるんだぞ」石井はゆきの髪から手を離し、懐から財布を取り出し、二十枚余りの一万円札を抜き、床に置いた。
「今日はこの金をお前らに落とすぞ。この金の分だけ、俺を愉しませろ。分かったか。どうせ非課税世帯育ちのお前らは、ほんのはした金でも、それをちらつかせりゃ何でもやるんだもんな。おら、咥えろ」
石井はベルトを外してスラックスとパンツを下ろし、また、ゆきの髪を片手に掴み、勃起した陰茎を出し、泣き続けるゆきの口に押し込んだ。ゆきの声が陰茎に塞がれ、その後ろに月子が立ち、両手の指で陰毛を掻き分けてクリトリスと小陰唇を露出させた。そこに石井が顔を寄せ、月子の性器を舌でせせり、尻に手を回して肛門に指を埋めた。
ゆきは、今、自分の身が落ちている所に諦めを覚えたようで、石井の性器を口で受けながら、泣き声を、懸命に押し殺した啜り泣きに変えていた。
客の男達が全員女の当たりをつけて客室へ引いた一階フロント前で、行川を携えて現れた僧帽の李に、神辺は頭を下げた。
「首尾よくやってるみてえだな」貼り出された女達の写真を目で掃いて李が言い、神辺は小さく頷いた。
「二代目はもう決まってる。今度は総法正って肩書だ。こいつだ。救貧屋の世話になって、無年金の年寄りに混じって、台東区のぼろアパートでタコ部屋暮らししてるのを柄抜きしたんだ。今、横浜の本部で生活させてんだがな、先代の奴よりも扱いやすい。あれと違って犯歴もねえしな」
行川がポケットサイズのタブレットの画面を、神辺の目の前に掲げた。画面一杯に写し出された写真の中には、伸びかけて乱れた五分刈りの頭をし、垂れた目と頬の中年男がいるが、自分を囲んでいる状況に判断が及んでいないといった顔をしている。この男が持っているものは明らかだ。
「マネージャー、小耳程度でいいので」「何だ」神辺の問いかけに、李が顔を向けた。
「あれを名誉にしたのは何故ですか」「てめえからこっちに言ってきたんだ。市役所行くから、こっちとはもう手を切るってな。それ自体は別に構わねえがな、いろいろしゃべられる可能性があるだろ。それでこっちのことが漏れねえうちにと思って、ウイスキーとブランデーとポン酒のチャンポンで眠らせて、服剥いて、手賀川に流したのよ。あいつの家に置いてたものは、全部処分した」「そうですか‥」神辺の合いの手に、李は這うような笑いを吹いた。
フロント空間には、山間を吹き抜ける風の号溟が響き渡っていた。神辺の指示で動く男達は余計な口をつぐみ、李の隣に立つ行川は、目と体は動かさずとも、射るような迫圧を周りに配っている。ここにいる神辺の手下達はみんな、それに留められている。
神辺が会うたびに、いつも李がこの男を常に身のそばに置いている理由は、自身の用心刀、用心銃としてでもあるが、突発的な不測の謀反への備えでもあることは充分以上に察しがつく。組織の基盤が揺らいでいることは、幹部の立場にある神辺にもよく分かっている。
「ここんとこいろいろあって、基盤固めってやつをもういっぺんやり直さなきゃならねえとこに差しかかってるけどな、今、山上に仕切らせてる兵隊と道具の買いつけは順調に行ってる。信者の取り込みも進んでるしな。他の団体に出張して信者を引き抜いてることは、前にお前にも話して知ってんだろ。特にあの、まあ、素晴らしいわね、の、三鷹の恩正啓生の奴は、馬鹿素直で引き込みやすい」「組織の力的な優劣は数だけじゃないですよ」「ああ。基盤を固め直して、販路を拡げて、使える奴らを勢力の端々にまで行き渡らせて、その数に見合うだけの道具が揃えば、まず、東でひとかどになれる」
李が言った時、行川が画面を指でスライドさせた。下半身裸の姿にされ、揃いも揃って覇気のない、あるいは怯えたような顔と萎びた陰茎を下げて立つ、風采の上がらない男達の写真が何枚も続いて現れた。数枚がスクロールされると、今、ホワイトボードに貼られているものと同様、全裸で立たされた女達の写真画像が出てきた。ぼさついた髪をし、目や鼻の形に変形が見られたり、目の奥に無想、何かへの気力や意欲が覗えない虚無を湛えており、それが立ち姿勢にも出ている女達だった。それは先に写し出された不様な姿の男達も同じだ。
尊教誓いの儀と名打たれた入信式の一環。一生涯に渡り、御教えへの背きを持たないという意思を示すための、命と名誉を差し出す強要。拒む者は人数で囲み、「大本尊様のお怒り」のワードと、刃物をちらつかせ、またはスタンガンを帯電させて脅し込む。それに対し、泣いて、または怒って拒否する者は、「火葬場」の言葉で大人しくさせる。この威嚇脅迫の強要を行う側の信者も必死だ。取り込みの失敗も、教えを尊ぶ上での失態となり、制裁を受けることになるからだ。
それは、惨鼻を極める拷問の果ての死だ。一例、寮付き人材派遣会社で働く独りの中壮年の男が身の回りのものをそのままにして行方をくらましても、ありがちな仕事苦しさからの逃亡と見なされ、詮索されることはない。たとえその行先が、視、聴、感、の存在しない闇、その闇の識別すら無い世界であるとしても。
「こいつらはみんな、うちを潤してくれる法徒と、俺達に金を運んでくれるお客なんだよ。だから大切に扱わなきゃいけねえんだ。法徒ってもんをたとえりゃ、栄養の豊かな餌を与えられて、風光明媚な環境で愛情深く飼育された養牛、養豚、養鶏は、肉の締まりも柔らかみも違え。それが食卓に載って、俺達の味覚を楽しませてくれるだろ。そういうハートフルな畜産をすることが、組織を盤石化する第一歩だ」「まあ、それは確かに」神辺が気のない相槌を打った時、不意のように、どこかの商店街を歩く男の写真が表示された。至近距離の、斜め前から写されたものだった。次に、その男が赤いブルゾンに紺のスラックスの制服姿で、スーパーの店内で品出しに勤しんでいる様子を横から捉えたものが写った。
「どうだ。知ってんのは共通だろ」「はい。ハロウィン前の手繋ぎに来た奴です。池内がこいつの担当で、こいつなら引く相手として確実だと踏んでたんですけど、マネージャーはお認めになったんですよね、池内の脱会‥」「馬鹿野郎、そうやすやすと離すか、この俺が。池内も、この男もだ」李は言って、ジャケットから銀のシガレットケースとライター、高級な仕様の携帯灰皿をまさぐり出し、ケースから抜いた一本を薄い唇に咥えた。自分のライターを出したわけは、神辺には部下というよりも僚友に近い意識を持っているからだ。
「この写真見ただけで、そこいら歩いてるおっさんと同じだと思うなよ」
李は音を鳴らして煙草に点火し、遠くを見るような眼差しをして、ゆっくりとした調子で煙を吐いた。
「これはお前の指示の功績でもあって、池内の実績でもあるんだ。こいつが支部で入信を拒んで暴れたからこそ、広法何とやらで、これからの拡大には絶好の逸材を発掘することになったわけだ。なあ、何が幸いするか分からねえもんだよな、神辺よ」李の顔に、上機嫌の笑みが浮かんだ。爬虫の眼の瞳孔には、きらきらとした光が見える。恋心の相手を想う眼だった。
「元地銀の行員で、今はスーパーの店舗スタッフで、どこかに息子と娘がいるとかいう話を拾ってますけど、何の取り柄があるんですか」「空手だ」「空手?」神辺が問い返すと、煙草を燻らせる李の細い目が、より細められて、ぎらりと底光りした。
「ああいうものをやってる人間はごまんといるじゃないですか。俺が三年前まで指導員やってた流派の道場にも、切実な動機持って入門したけど、白帯のまま潰れてくのが何人もいましたよ。ああいうものになりたいとどれほど望んで求めても、才覚の差はいかんともし難いんです。遺伝的な知的要素でも腕力でも、運動神経でも、みんな才能じゃないですか。それが生来携えられてない奴は、いくら泣いて喚いて指咥えて、ないものを欲しがっても、そうはなれないものですよ」「聞け」李が声を圧した。
「いくら零細スーパーの店員に身をやつしてるっつっても、こいつの空手に限っちゃ本物だ。うちの人例ん中でも腕の立つ奴を人選したんだがな、丸腰じゃねえそいつらが綺麗に畳まれるまで、ほんの秒だったんだ。俺は目の当たりにしたんだよ。支部でも腕利きが一人、やられてるんだ。目をぶっ潰されてな。こいつが身につけてるもんはな、胸倉がどうしたとか、手を掴まれたらどうするとか、あんな複数や刃物の捌きが考え抜かれてねえ低レベルの護身術とかとは違え。それでいて、剝ぎ取りも上手くて、おかげで必要分、きっちり取り立てることが出来たんだ。勢力の補強として、喉から手だ。他に言いようがねえだろう」「そうですか。けど、ここぞ一気にって時に、お人好しが命取りになるんじゃ」「それがな‥」李が言いかけた時、男が非常階段から走り降りてきた。神辺の部下だった。
二階の一室で何かが起こったことは、男の顔色で分かった。神辺は男のあとに着いて、非常階段を急いでよじ上がった。
202号室の扉は開け放しになっていた。部下の男に続いて部屋に入ると、隅でゆきが顔を覆ってしゃがんでいた。ツインベッドの上に、大きく脚を拡げて赤い膣孔を剥き出しにした月子が、目を見開いたままの顔を横に向けて、微動だにしなくなっている。
月子はこと切れていた。目は涙で赤く充血し、洟と、口からの唾液が垂れてシーツに染み込み、死の際に放出した大便が尻と腿を茶色く汚し、部屋に便臭を漂わせている。
行為の最中、石井が頸を締め上げたことは、説明などはなくとも分かる。
石井は全裸で窓際に立ち、肩を上下させながら、歯を結んだ顔で、慌てふためいた目線を部屋の四方にさまよわせている。
神辺はベッドに寄り歩み、月子の亡骸を検めるように覗き見ると、石井に目向きを戻した。
ゆきに目を遣ると、彼女は顔を覆っている手を外し、すがる目で神辺を見た。神辺は洋風ステンドグラス仕様のシールが貼られた出窓に視線を移し、はは、と短く嗤った。
朝から関東に注意報が出ている強風に、洋窓が笑っていた。神辺と合った石井の目に、助けを求める色が濃く出ている。
「これは何だと訊きたいところですが、そんなものは愚問ですよね、石井さん」月子の死体を顎で指した神辺の声は笑気を含んでいた。
「これをどうすることを私達にお望みでしょうか。どうすれば始末がつくとお思いですか。お考えになるお時間を与えますが、その時間はそんなにありませんよ」神辺の言葉に、石井は部屋の隅々を見回し、我が身を庇ううろたえをその姿に刻んだ。
「だから何だっていうんだ」石井は言って、顔と体勢を整え直した。
「お前らのやってることは、不法な斡旋だろう」石井は顔に汗を光らせながら、脱ぎ捨てていたトランクスとズボンを着け始めた。
「そもそも判断力不全の女を略取して、軟禁して、売春をさせてるわけだ。こんなことが知れたら、お前らは一網打尽だ。跡形もなくだ。知った風な口を聞くな、宗教絡みの売春組織風情が」「それではどうぞ、ここから署に連絡して、緊急捜査を要請なさるのがいいでしょう。だけど、黙秘権はあくまで自分を刑事的制裁から守るためにあるものです。今のあなたも、ご自分の身を守ることをお考えになったほうがいい」
ゆきが白い床に伏して、呻くような泣き声を絞り始めた。神辺はそれを打見すると、浮いた上唇から前歯を覗かせて笑った。
「で、溜まるものを持て余した挙句に、とうとうやってしまわれたわけですけど、どうしますか、石井さん」
ゆきの泣き声が、風の音を迎えて響いていた。石井は捨て鉢の弁駁の勢いを、瞬く間に失っていた。
「頼む。何でもする。これを表に出さないでくれ!」瞼を伏せた石井の懇願が、ゆきの泣き声と風鳴りを割った。
「俺が今の地位を築くまでしてきた苦労は半端なものじゃないんだ。こんなことが世間に知られたら、俺はもう終わりだ。本当に終わりだよ。だから、頼む‥」瞼を瞬かせ、洟を啜り上げながら、石井は哀願した。
「大丈夫ですよ。そんなにお泣きになることはありません。実績に基づくあなたの名誉と地位と、何年か先に控えてる定年後の悠々自適とした暮らしが完全に保証される選択が、ただの一つだけあります。こちらが薦めるその方法に従っていただけるのであれば、憂うことは何もないですよ」神辺が言った時、開け放しのドアから、李と行川がその姿を挿すように歩み入ってきた。生命の途絶えた月子と、泣いているばかりのゆき、しゃくる石井を、表情のない李の目が梳いた。
「参加登録の際、職業欄には公務員とありましたけれど、組織のセキュリティ上のこともあって、調べさせていただいております。あなたは本庁詰めの警備部勤務で、左翼政党、極左セクト、極右政治団体を監視することをメインの仕事にしていて、あなた達の司令で動く捜査員は全国におよそ一万人います。可能な限りでいい。あなたの下で働く捜査員の方々の名前、住所、その他の情報が記載されたリストを、私どもに送っていただきたい」
涙に濡れた石井の目が見開かれた。神辺をすがりつく藁とする目だった。
「大丈夫です。そのリストはこちらで厳重保管させていただいて、よそにばら撒かれることはないですし、報酬も、しっかりと保証しますよ。その報酬は、あなたの言い値を呑みますから。ざっとおいくら欲しいですか」
「八‥」石井の唇が動き、曖昧な数字を発音した。
「八百万でしょうか」「八千万‥」石井は消え入る声で金額を口にした。
「分かりました。それでは今日中に八千万円を口座に振り込ませていただきますので、後ほどご確認下さい。だけど、その金の重さに誓って、先に私が提示した条件は必ずお守りになっていただきます。そこで今のうちに言っておきますが、それをあなたが反故にされた場合、こちらにも考えがあります。そこのところはよろしくお願いいたしますよ」
神辺が発した警告には冷徹な語圧が含まれていた。
「頼みますよ」神辺がつけ加えると、石井は顔を両掌に包み、上半身裸の姿のまましゃがみ込み、肩を震わせ始めた。顔を覆った指の間から、唄うような嗚咽が漏れた。
神辺とともに石井を囲んで立つ李の針の目は、石井の値を踏んでいる。行川は、その小さな体を、今ここで何が起こっても即時に対応可能な足の配りを整えた体制でぴたりと立ち、特徴的な童顔の表情をきりりと締め、射すくめる視線を部屋の外に遣りつつ警戒を払い続けており、石井のことなどはまるで関心もない様子を見せている。
「おい」入ってきた部下の男に声かけした神辺は、月子の亡骸に顎をしゃくった。
「富津に運んで、ナトリウムで溶かせ。骨は砕いて川と山に撒け」神辺に命じられた男は、運び出しの協力要員を呼ぶために出た。
「神辺よ。さっき言いかけたことの続きだ」ゆきのか細い泣き声に石井の嗚咽が交わる中、李が口を開いた。
「俺はあの男を、人例で俺の右腕的なポジションにまで持ってくビジョンがある。何故なら、空手の腕は言わずもがな、必要に応じて、てめえの体ん中に流れてる血の色を、赤から青にも緑にも、金にも銀にも変えられっからだ。こうして口に出して言ったからには、俺は必ずやるぞ。こないだ揃っておめおめ殺られた波島と中尾は、抜擢の上じゃ失敗品だったがな、あの村瀬を取り込みゃ‥」「鬼に金棒ですか」「そんなもんじゃねえぞ」
三人の男の間が黙した。
「マネージャー、意見するってわけじゃないですが」神辺は言い、李の顔を見た。
「俺は、あいつは引っ張りに留めとくのがいいと思いますよ。何故かっていうと、いくら火事場の力を持ってるったって、こちらからすれば素人には変わりないからですよ。そんな人間を人例に引き込んだところで、いかにも素人らしいぼろを出して、それがこっちの命取りになることが大いにあり得ます。実働の補強なら、既存勢力の買収のほうが効果的ではと」
「俺が言いてえのは、惜しくも埋もれてる人材の発掘って話だ」李は神辺に向き直った。
「うちが面倒見てる法徒の女の九割が、頭はともかく、人を悦ばす体の機能には問題がねえ。そいつらが、くだらねえ特定非営利法人から掘り出されて、安くねえ施設の利用料を搾取される前に、俺達で見つけてやって、その体を使って出来る有償の奉仕労働を卸してやってるわけだよな。それと同じことじゃねえか、言ってみりゃな」「長年素人で飯食ってきた人間が、あの年齢から兵隊として開花することなんてないですよ。現場で使える年数にも将来性がないじゃないですか」「聞けよ。俺の話を最後まで」李の声に迫力が籠った。
「いいか。お前が言う将来性ってもんは解釈次第でどうにもなるんだ。うちは今後五年が伸びの正念場だ。そのスパンに、藪を切り拓くための一員として機能する人間が、俺はただの一人でも二人でも多く欲しいんだ。その気持ちが、お前に分かるか。あいつは間違いねえ。命を保ったまま、うちに多くの益をもたらしてくれる。俺の目には寸分の狂いもねえ。この俺が、全くぶれのねえ自信を持って言えることだ」「そうですか」「そうだよ」
神辺は溜息を腹の中に呑み下した。先日、千葉のセクシュアルパブで二人の人例構成員が、元々は追い込んでいた軽度知的の男の手にかかって、まとめて瞬時に死んだことについて、手下の管理体制に不備があって起こったことであり、それが自分の責任であることをどこまで自覚しているのか。だが、上はその李に何も言えなくなっている。今、純法の司令体系を乗っ取って、組織を実質的に廻し、利益を運んでいるのは人例研究企画部だからだ。
そこに二重の乗っ取りを仕掛けて、正念場だという五年以内に俺がこの地下宗教組織を牛耳ってやる。今はリンカーンコンチネンタルのリアシートでふんぞり返っている李を追い落として。その算段の青写真は、もう俺の頭の中にある。その時、行川が護衛する対象も、李から俺に変わる。李の椅子が俺のものになるのだ。頭蓋の内部に溢れる静かな宣言の思念を、神辺は顔にはおくびにも出さなかった。
「マネージャーがそこまであの村瀬にこだわる理由は何ですか」表情を無にした神辺が問うと、李は細い目をより細め、口許をにんまりとほころばせた。
「愛だ」「愛、ですか」神辺の訊き返しには、若干の呆れが出ていた。
「惚れてんだ。あいつが池内を愛してるくれえのエネルギー、注いでな。優しい顔して、血気ってものを表立って見せねえけど、恐ろしい腕立ちで、回収力もピカイチ、行川には負けたにせよ、どう脅そうがすかそうが屈しねえ根性持ちと来りゃ、この俺が惚れねえはずがねえだろう。俺は落とすよ、あの男を。その結果を、お前も何ヶ月か以内に知ることになるぞ。冗談抜きの話、ケツの穴、シェアしたって構わねえよ」
李は意中の相手を想う目を宙に遣り、笑った。神辺の下に就く男達が三人、部屋にやってきて、死後硬直が始まった月子の骸を運び出した。座り込んだきりのゆきは、顔を濡らしたまま泣き止み、全てを諦めた面持ちで床を見つめている。
吹き荒む強風が、ホテルの周辺に密生する杉の木々をしなわせる音が部屋をざわつかせている。ベッドの脇には、石井が叩きつけて置いた金が、黒い物気を立ち昇らせる静物となって置かれたままになっていた。
「これで自己破産の契約手続きは終わりましたが、本当に最後にご意思を確認させていただきますよ」通話穴の開いた透明アクリルの向こうで、よれたトレーナーの姿で肩を落とし、顔を伏せたきりの美咲に、そろそろ老齢の弁護士が優しく声を投げた。
「あなたは今、とても厳しい状況にいます。だけど逮捕拘留されてからまだ十日未満です。刑事担当の弁護士をつけることで、執行が猶予になる可能性はまだあるんですよ。本当にこのままでいいんですか?」
月曜の午前だった。今、村瀬を伴って美咲と接見している弁護士は、自己破産担当だが、彼女を釈放に持っていく担当は専門が違う。
面会が始まってから十分の時間が経過しているが、美咲の態度は無言一徹だ。その態度に村瀬は、彼女が望んでいる身柄の行先をはっきりと見出していた。
「君はどこまで分かってるんだ」村瀬はアクリルボードの向こうの美咲に、静かな声を送った。
「このまま行けば間違いなく実刑で、数ヶ月くらいの間、刑務所で暮らすことになるんだ。それでいいのか。その選択でいいのか。どっちでもいい。言葉にして話してくれ」元夫の言葉に、美咲は俯くだけだった。
「あなた次第で、息子さん、娘さんに、刑事担当を引き会わせて契約を結ばせることが出来るんですよ。だけどあなたは当番弁護士も呼ばなかったし、まるで最初からご自分で実刑をお望みになっているように見える。お家も大変だったことはお話に伺っていますが、刑に服すると、その最中も、そのあとも大変ですよ。執行猶予を得て、お子さん達と世帯を分けるということも出来ないことではありません。娘さんの暴力が怖いのであれば、低料金で短期利用の可能な女性用のシェルターもございます。どうお考えなんですか。私がこうしてお話の出来る時間は限られていますよ」
美咲の態度は変わらなかった。だが、落ちた肩と伏せた瞼に、ある種の解放を望んでいるような気持ちが浮いて出ているように村瀬の目には見える。その行先が、粗末な食事があてがわれ、楽しみもなく、一切の自由を奪われた、規則づくめの環境だとしても。
面会時間はまだ二十分残っている。だが、任せようと思う気持ちが、村瀬の体を椅子から立たせた。弁護士はいささか怪訝な顔で、立ち上がった村瀬を見上げた。
そんな変な目で俺を見ないでくれ。今、あなたは俺を無責任な元夫だと思っているのだろうが、アクリルボードの中に座るこの女がどういう人生の選択をしようが、それも権利の一つだ。
任せる以外にない。出たあとのことは、またこちらで考えてやってもいい。
「いいんですか?」切羽の声で弁護士が問うてきた。村瀬は何秒か言葉を呑んでから頷いた。
美咲には別れの挨拶をすることなく、千葉刑務所の拘置区を出た。弁護士は背中を丸めて隣を歩き、ついてきた。
「惜しいですけど、こういうものだという感が拒めないですよ」拘置区の高い壁の前で、弁護士は言い、小さく息を吐き出した。
「私は若い時分には刑事専門だったんですけど、同じようなケースはたくさんありました。あなた様もご存じでしょうけれど、居場所や逃げ場所に刑務所を選んでしまう、あるいは選ばざるを得ない事情を抱えた人は、世の中には溢れてるんです。その多くが、いわゆる‥」
弁護士の言いたいことは、村瀬にはよく分かる。同じハンデを持つ友達の唆しで、子供におもちゃを買ってやりたいという動機を胸に最重罰の適用される罪を犯すことになり、今も栃木の塀に収監されている菜実の母親がいる。
そういう彼ら、彼女達に対し、自分がしてやれることは何もない。自分が出来ることは、菜実との関係がこれからも維持され、結婚までこぎ着けた時には二人で栃木刑務所へ挨拶に行き、九年後に審査が通って仮釈放の運びになった時は、引き取って一緒に暮らすことだ。
「なし崩しの起訴まであと六日あります。それまでご子息とお会いになって、ご意思を確認されたら、また法テラスに来られて下さい。手配いたしますので」京成千葉駅の前で、老弁護士は寂しげに言ったが、村瀬の意思も決まっていた。それは美咲を、本人の思いに任せた自由の道へ解き放ってやることだった。
「待っていますから」残して、紺の背広の姿を遠ざけていく弁護士を見送った村瀬は、喉の渇きを覚えて、千葉中央を始点に千葉駅まで伸びる通路型のショッピング・プロムナード脇の自動販売機へ歩き出した。平日日中の、周辺の通行人は平均年齢が高かった。
居酒屋などの飲食店、リラクゼーションサロンの壁面看板が貼られたプロムナードの壁の前に、みすぼらしい姿をした一人の男が体育座りで座っている姿が目に留まった。自販機でペットボトルのスポーツドリンクを買い、それとなく見たその姿に、忌まわしさを感じた。
男の髪は薄いが、その生え方と、横顔の造りに鮮烈な見覚えがあった。服装は上がセーター、下が黒いジャージのズボンで、靴下を履いていない足にサンダルを履いている。体からは筋肉が落ちていることが冬服越しにも分かり、せわしなく瞬く、眦の落ちた目はおどおどと左右、上下をさまよい、端の垂れた口は悲しげにつぐまれている。
見覚えを確信に変えた村瀬は、買ったドリンクを手に、敷いたビニールシートの上に座る男の前に立った。残忍な気持ちが胸に沸き起こっていた。
男の前には、色で十円、五円と分かる硬貨がほんの何枚か入った佃煮瓶と、ブックスタンドで立たされた紙の挟まれたバインダーが置かれていた。
生活に困っています。電気、ガス、水道が止まり、お金がもうなくて、ご飯が食べられません。少しでもいいので、恵んで下さい。お願いします。と、黒のマジックで書かれた文が、惨状と言っていい窮状を訴えている。
「あの、お金‥」十六年の時を経て、村瀬と奇遇な再会をした江中は、目の前に立つ男が、あの時、自分があの家から追い出した主人と知ってか知らずか、足許の小瓶を取って差し出してきた。
「久しぶりだな、江中。俺が誰だか分かるか」村瀬が言うと、力無く弛緩していた江中の顔に、少しづつ驚きが拡がっていった。
「すぐに思い出せないなら、こっちから名乗るぞ。俺はあの時、お前に嚇されて、あの八木ケ谷の家と、奥さんと子供をお前に明け渡して逃げた村瀬だ。お前が忘れても、俺は忘れはしない」
村瀬の名乗りと顔見せを受けた江中は、ああ、と小さな声を喉から上げ、座った体を後ろへいざらせた。
「俺の顔なんかはともかくとして、あの家で俺の子供にやったことまで忘れたとは言わせないぞ。俺の娘は、お前と、お前の遊び友達に犯され続けて、お前も、息子も、俺の妻も知らない所で、子供を自分で堕胎したんだ。幼い子供の体でな。その地獄が、娘の人格形成を普通じゃない道へ追いやった。それで道を踏み外していったんだ。今、これを聞いてどう思う。これを聞いても、今のお前の頭にあるのは、目先の金のことだけか。どう思う、江中」
村瀬の問い詰めに引きつった江中の顔に、やがて追従するような笑いが浮かんだ。
「その、あの時のことですよね。家の前で言い合いになった‥」江中はおもね笑いのまま、ずれた弁明を試み始めた。
「すみませんでした。あの時は、ちょっと言い過ぎたと思ってますから」村瀬は自分の眉が急な角度に吊り上がったことが分かった。
「それだけか」村瀬が問いを投げると、江中の顔から笑いが引き、言われていることが分からない、という体の表情になった。
「それだけなのか! てめえに言える詫びは!」怒号した村瀬のキックが江中の胸に飛んだ。江中は空えずきのような声を上げて後ろへ転倒した。コンクリートに打ちつけられた後頭部が鳴った。
裏声の悲鳴を撒いて、体をよじって逃れようとする江中の背中と脇腹に、さらに一発づつのキックが抉り込まれた。重く籠った肋骨の鳴る音と、火が点いたように起こった江中の泣き声が交差した。
内臓を庇うように体を丸め、高く伸びる泣き声を漏らす江中の顔に、村瀬は革靴の踵を踏み当てた。
「安心しろ。殺しはしない。それは俺が仏やキリスト様だからじゃなくて、お前みたいなボウフラ野郎には、あっさりと死ぬことは似合わないことが分かってるからだ」
江中の顔を踏みながら言葉を落とす村瀬の周りに、人の集まる気配がした。警察が来ないうちの立ち去るまでの短い時間に、言うことを言わなければならない。
「その貧相な命を、物を食うことで繋ぎたければ、市役所の総合案内所へ行け。そこで、水も飲めないと言って泣けば、ボウフラや蛆虫や、糞にたかる金蠅と同じ値打ちの命しか持たない野郎にも最低限の文化的生活を送る権利があるという考えを崩さない職業的考えに基づいてやってる課に案内される。そこの審査が通れば、あらかじめ贅沢が出来ないように設定された額の金が毎月支給されて、税金は免除で、医療費もかからないけど、担当の窓口の職員から、働け、働けとせっつかれる日々が始まる。それで毎月赤字に悩む暮らしを送れば、金っていうものを一つの威力だと思って疑わなかったお前みたいな奴でも、何かを学べるはずだ。何かをな」
村瀬は言って、泣く江中の頬から踵を離した。
「それ以後のお前の人生がどうなるかは、一切がお前次第だよ。ボウフラらしく、不様な姿と顔を提げて、これからもその無駄な命を虚しく消費しながらおめおめ生き恥晒して、一人でよぼよぼ老いていけ。それで独りで死ね。今の俺がお前に言えることはそれだけだ」
歪んだシートの上で体をすくめて女々しく泣き喚く江中を見下ろしてから、村瀬は背後、周りを振り返った。何人かの通行人が足を止めて遠巻きに見ている。お互いに公休日を合わせているらしい、手を繋いだ、美しいルックスにお洒落な服装をした若いカップルが不安の視線を送っている。
村瀬はそれらの人々をさっと見遣ると、ボディバッグから財布を出し、千円札を一枚抜いてしゃがみ、二つ折りにした札を小瓶に入れた。視線の合ったカップルの男が、怯えを湛えた目を背けた。
やがて村瀬は、泣き続ける江中、不安を顔に浮かべた通行人達を振り返ることなく、千葉駅の改札へ歩を向けた。
後ろから背中を打つ江中の号泣が、絶望に満ちたこれからの人生を思ってのものなのか、被害を与えた相手から温情を受けたことによる感激からなのかは村瀬には分からなかったが、どちらでもいいことだった。憑物が落ちたように、江中のその後などへの関心的なものが取り払われた気分で、駅へ足を踏み出した。一瞬だけ振り返ると、小銭に続いて、村瀬の手で一枚の千円札の入った小瓶が、ただ静物画のような印象を残しているだけだった。
義毅のお陰もあり、全てを返礼出来たという思いだけが静かに胸に染みていた。それだけだった。
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