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24章
~剥離する爪~
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江戸川区の市川寄り、橋の掛かった河沿いの一角に、身を隠すように点と建つ木造家屋だった。タイル張りの門柱には「パンダ事業所」という小さな看板が接着されて貼られている。脇の駐車スペースに義毅がソアラを停めたのは、十四時前だった。
停めてある車両には、派手な装飾とペイントが施された中型スクータータイプのバイク、黒のワゴンが目立った。
ソアラを降りた義毅の顔には、半分の覚悟と、半分の余裕が滲み出ている。玄関へ向かう足取りは軽かった。
チャイムに指を当てて鳴らすと、三十秒ほどして木製ドアが開き、小山のような体躯を持つ、目の大きな男が出た。男は愛想なく小さく頷いて、義毅の通る空間を開けた。
曇りガラスの嵌め込まれた室内扉の向こうからは、昭和、平成と続いたが最終回を迎えて久しい昔話アニメの、動物の子供が人間の子供を羨望するエンディングテーマが流れている。
ここへ直に呼ばれるということは、重大な指令を受けるか、あるいは処罰かのどちらかを意味する符牒だが、義毅は肚を決めている。
小山のような男は多田と呼ばれているが、本名は、少なくとも義毅には知らされていない。
短い通り廊下の壁には、カレンダーと、スタッフと利用者が収まった集合写真が掛かっており、義毅はそれを何ということなしに眺めた。利用者が作成した布製品なども飾りつけられている。
建付の悪い扉を多田が開けると、四人程度の、男ばかりの利用者達がアニメソングをバックに、テーブルに盛られた缶のプルタブを剥がす立ち作業を行い、それを三人の、同じく男のスタッフが監督している様子が目に入った。
スタッフ達はいずれも傲岸な目つきと態度で、まだ幼さが残る年齢程の利用者達は萎縮し、作業の手つきもぎこちない。手の動きには震えが見える。
テーブルの上座に立っている、脊柱側弯で背中の曲がった壮年男が、入ってきた義毅を見て、おう、と発語する形に口を開き、義毅は軽く頭を下げた。
「かくしかじかの事情は堀川の奴から聞いてるよ。おめえは頭の切れも腕もピカイチの稼ぎ手で、うちにはなくちゃならねえ人間だったけど、そうあっちゃ、引き止めるに引き止められねえからな。けど、ちょっくら呑んでもらいてえ条件があるんだ」木島という脊柱の曲がった男は言って、隣の部屋に歩き出し、義毅と多田が追った。
カーテンが閉められた物置のような隣の四畳では、若者が正座で座らされ、一人の男が後ろに立ってその髪を軽く掴んでいた。小柄なその若者は、薄いウールのセーターに膝上までのスカートにストッキング、顔にファンデーションにルージュを挽いた女装姿で、剥ぎ取られたロングヘアのウィッグがそばに落ちている。若者はタオルらしい白布の猿ぐつわを噛まされて声を封じられている。
義毅はその若者を知っている。自分の所属する「東京グループ」の正式なメンバーではないが、詰所に出入りし、内部の仕事を手伝って小遣いを稼いでいる自称大学生。人懐こく、与えられた小間使い仕事はいじらしいまでに一生懸命にやるが、称する在籍大学の校名、所属学部、学年がころころ変わることから、どうも天婦羅らしい。
「こいつがどうかしたんですか」「どうもこうもねえよ」木島は舌打ちした。
「今朝早くに、沖縄便のエコノミークラスのチケット持って羽田にいるとこを、安田と中村がふん捕まえたんだ。見ての通り、こんな白々しい女の恰好なんかしやがってな、上がりを猫糞して飛ぼうとしてたんだ。こんなもんがまかり通ったら、示しがつかねえってもんだろ」木島の声が這うように低くなった。
「こんな奴、一発クンロクぶっ込んで叩き出しゃそれでいいんじゃないすか」義毅が言うと、木島の眉がぴくりと吊った。
「馬鹿言うな。うちの掟は下々にまで行き渡らせなきゃならねえはずだ」「そうですかね」「決まってんだろ。言っとくがな、今の時点じゃ、お前はまだうちの人間なんだぞ」木島は言葉を強調して、瞼の落ちた目で義毅を睨んだ。
隣の作業部屋から聴こえるBGMは、いつの間にか国民的猫型ロボットのオープニングテーマに変わっていた。よく知られたサビに、ちんたらこいてんじゃねえぞ、こらぁ! ぶっ殺されたくなきゃ、とっとと進めろ、この野郎! という怒声が交わった。
「じゃあ、どうすりゃいいって話ですか」義毅はとぼけて尋ねたが、木島、多田、若者の髪を掴んでいる男の目と、口の結び具合で、命じられようとしていることは充分に察していた。
多田が隅の小箪笥に歩み、二番目の引き出しから、先端の尖った小さな道具を取り出した。
義毅に差し出されたそれは、一本のアイスピックだった。
「あばらの間から心臓だ。それなら返り血も浴びねえからな」さも日常のことのように木島が言い捨てると、女装の若者は、ひい! という悲鳴を放った。
「俺がばらしの働きはやらねえことは知ってるはずじゃないすか、木島さん」「四の五の言うな、荒川‥」木島の目に酷薄な光が灯った。
「俺にもガキはいる。フィリピンの女との間に出来たんだがな、遅くに生まれた奴で、目に入れても痛くねえぐれえ可愛い。その気持ちが分かっからこそ、おめえが足抜けすんのを応援してえまでよ。けどな、抜ける奴ってのは爆弾なんだ。お前の口が堅えことは分かってる。さらわれて拷問食らっても、でこの柔道場でも音を上げねえで、俺達の掟を守り抜いたんだもんな。それに感謝してっからこそなんだよ。言ってみりゃこの相互不可侵条約に調印してもらいてえのはな、何があっても、この組織のことは外部には漏らさねえ。それを忠誠したって証が見てえんだ。出来るか。出来なきゃ‥」
木島の言葉は、隣室からの「本当に殺すぞ、このヌマ野郎」という声に搔き消された。
「‥ペンチかニッパーありますか」沈黙を先に破ったのは義毅だった。その問いを聴き取ったらしい女装の若者が上体をがたがたと大きく痙攣させ、やめて! と聞こえる声を猿ぐつわの奥から上げた。
「ペンチかニッパーありますか」義毅は同じ問いの言葉を、声量を上げて繰り返した。多田が作業場へ引っ込み、やがてののち、銅製の工具を持って戻ってきた。彼が一切の惨い事象を達観した顔で義毅の目下に出した道具は、柄の部分に滑り止めの黄色いビニールテープが巻かれたペンチだった。
それを受け取った義毅が女装の若者を見ると、彼は体の震えを激しくし、ひぎゃあ、と泣き喚き始めた。義毅が手にしているペンチが、自分の体のどこをどう破壊するのかという恐怖を生々しく覚えたようだった。
木島も多田も、若者を留めている男も何も言わない。ここで今から展開される光景は、その絵、音、声の全てが身の毛がよだつそれのはずだ。それをごく静かに呑み込んだ顔で立っているだけだ。
薄壁越しに、作業場からの罵声、ただ威張り散らすだけの高圧的な指示が、場違いな児童向けアニメソングに混じって響いてくる。利用者達の声は全く聞こえない。みんな、かすかな声も出せないまでに萎縮しきっているのだ。ここの職員の誰一人として、福祉の倫理は元より、その知識もない。木島が拾った根からの怠け者や、ごろつき達があてがわれて、都が定めた最低賃金以下の給与で使役されている。利用者に渡す工賃などは小遣いにもならないような雀涙だが、助成金などはしかと受給している。
義毅は正座の形で膝を降ろすと、右手のペンチで、己の左手小指の爪を挟み、ほぼためらうこともなく、一気にその爪をこじ起こした。それから天井に向かって起きた小指の爪を、力任せに左右に揺すり、生え際からちぎった。
それから薬指、中指、人差し指の生爪がめりめりと剥がされてちぎられ、一枚づつが畳に舞い撒かれた。義毅が呻きとともに滴らせる脂汗が、全体量も粒も大きく畳に落ちて吸い込まれた。
親指の爪を剥離させ、ぶちりと引き抜いた義毅は、重く枯れた唸りを発し、右手からペンチを取り落として、血の涌き出す左手を押さえながら、畳の上に頽れ臥した。五枚の生爪は、レッドマーブルの貝殻のように畳に撒かれて散っていた。
若者の泣き叫びは、静かな啼泣に変わっていた。
体を丸めてうずくまり、顔を畳につけて唸り続ける義毅に、元締がどこか憤然とした視線を注いでいる。多田と、氏名不詳の男も無言のまま、あたかも日常生活の延線上にあるものを見るような目で彼を見ている中、木島が歩み寄り、脇に立った。
「さっさと出てけ。お前にはもう用はねえ」顔と体を脂汗で濡らし、波打つ背中から苦痛の熱を立ち昇らせる義毅に、木島が声を落とした。
義毅の呻きと唸りは続いた。秒、分がいくらか過ぎた時、目を赤く充血させ、汗で顔を光らせた義毅が、ゆっくりと顔を上げて木島を見上げた。
「‥木島さん‥いいっすか‥」義毅の喉から、がらがらとした震えを帯びた低声が懸命に絞り出された。
「‥こいつは‥何の考えもなしに‥憧れだけでこの道に足、踏み入れた‥ダボのガキっすよ‥」
損傷していない義毅の右手の指が、顔を涙で濡らして洟を啜り上げている若者を差した。
「俺の‥この左手の痛みと引き換えに‥この馬鹿、助けてやっちゃくれねえすかね‥こんな奴‥ヤキ入れて追ん出す程度が妥当ですよ‥ばらしたとこで‥グループには何の恵みもないはずっす‥むしろ抱え込みことになんのは、り‥リスクじゃないすかね‥」
木島の頬が震えている。表情から読み取れる感情は怒りだった。
「これで‥勘弁してやって下さいよ‥人、ばらした手じゃ‥これから生まれてくる俺のガキ‥抱けなくなっちまうんで‥グル‥グループのことは‥この痛みに誓って‥一生どこにも、誰にも‥口外しねえっすから‥」
左手を押さえる右手の指の間から血を湧きたたせ、震える低声をひり出した義毅は、片膝を上げて、体を震顫させながら立ち上がった。畳に血が滴って落ちた。
「‥特に‥見送らなくていいっすから‥」
腰を曲げた姿勢の義毅は振り返って言ったが、木島を始めとする男達は黙して、昏然とした怒気を溜めた視線を義毅に当てるだけだった。
血にまみれた左手を右手に握った中腰の義毅は、四畳の部屋を出ると、変わらずアニメソングが流れている隣の作業場へ行った。
おどおどとした顔に諦念を刻んだ利用者達の間に立っている職員達が、一斉にじろりと義毅を見た。
「‥物が言えねえ奴らいじめる根性持ってっと‥いつか必ず‥てめえが同じことされる立場になんぞ‥」
三人の職員の顔を順繰りに見て残した義毅は、体を返して玄関へ向かった。
運転席に潜り乗り、握ったソアラのハンドルも血に汚れ始めた。白濁した思考の奥から、すでに博人を通して耳に入っているであろう恵梨香の出奔に、父親である兄はどういう反応をきたしているかという思いが涌いていた。
停めてある車両には、派手な装飾とペイントが施された中型スクータータイプのバイク、黒のワゴンが目立った。
ソアラを降りた義毅の顔には、半分の覚悟と、半分の余裕が滲み出ている。玄関へ向かう足取りは軽かった。
チャイムに指を当てて鳴らすと、三十秒ほどして木製ドアが開き、小山のような体躯を持つ、目の大きな男が出た。男は愛想なく小さく頷いて、義毅の通る空間を開けた。
曇りガラスの嵌め込まれた室内扉の向こうからは、昭和、平成と続いたが最終回を迎えて久しい昔話アニメの、動物の子供が人間の子供を羨望するエンディングテーマが流れている。
ここへ直に呼ばれるということは、重大な指令を受けるか、あるいは処罰かのどちらかを意味する符牒だが、義毅は肚を決めている。
小山のような男は多田と呼ばれているが、本名は、少なくとも義毅には知らされていない。
短い通り廊下の壁には、カレンダーと、スタッフと利用者が収まった集合写真が掛かっており、義毅はそれを何ということなしに眺めた。利用者が作成した布製品なども飾りつけられている。
建付の悪い扉を多田が開けると、四人程度の、男ばかりの利用者達がアニメソングをバックに、テーブルに盛られた缶のプルタブを剥がす立ち作業を行い、それを三人の、同じく男のスタッフが監督している様子が目に入った。
スタッフ達はいずれも傲岸な目つきと態度で、まだ幼さが残る年齢程の利用者達は萎縮し、作業の手つきもぎこちない。手の動きには震えが見える。
テーブルの上座に立っている、脊柱側弯で背中の曲がった壮年男が、入ってきた義毅を見て、おう、と発語する形に口を開き、義毅は軽く頭を下げた。
「かくしかじかの事情は堀川の奴から聞いてるよ。おめえは頭の切れも腕もピカイチの稼ぎ手で、うちにはなくちゃならねえ人間だったけど、そうあっちゃ、引き止めるに引き止められねえからな。けど、ちょっくら呑んでもらいてえ条件があるんだ」木島という脊柱の曲がった男は言って、隣の部屋に歩き出し、義毅と多田が追った。
カーテンが閉められた物置のような隣の四畳では、若者が正座で座らされ、一人の男が後ろに立ってその髪を軽く掴んでいた。小柄なその若者は、薄いウールのセーターに膝上までのスカートにストッキング、顔にファンデーションにルージュを挽いた女装姿で、剥ぎ取られたロングヘアのウィッグがそばに落ちている。若者はタオルらしい白布の猿ぐつわを噛まされて声を封じられている。
義毅はその若者を知っている。自分の所属する「東京グループ」の正式なメンバーではないが、詰所に出入りし、内部の仕事を手伝って小遣いを稼いでいる自称大学生。人懐こく、与えられた小間使い仕事はいじらしいまでに一生懸命にやるが、称する在籍大学の校名、所属学部、学年がころころ変わることから、どうも天婦羅らしい。
「こいつがどうかしたんですか」「どうもこうもねえよ」木島は舌打ちした。
「今朝早くに、沖縄便のエコノミークラスのチケット持って羽田にいるとこを、安田と中村がふん捕まえたんだ。見ての通り、こんな白々しい女の恰好なんかしやがってな、上がりを猫糞して飛ぼうとしてたんだ。こんなもんがまかり通ったら、示しがつかねえってもんだろ」木島の声が這うように低くなった。
「こんな奴、一発クンロクぶっ込んで叩き出しゃそれでいいんじゃないすか」義毅が言うと、木島の眉がぴくりと吊った。
「馬鹿言うな。うちの掟は下々にまで行き渡らせなきゃならねえはずだ」「そうですかね」「決まってんだろ。言っとくがな、今の時点じゃ、お前はまだうちの人間なんだぞ」木島は言葉を強調して、瞼の落ちた目で義毅を睨んだ。
隣の作業部屋から聴こえるBGMは、いつの間にか国民的猫型ロボットのオープニングテーマに変わっていた。よく知られたサビに、ちんたらこいてんじゃねえぞ、こらぁ! ぶっ殺されたくなきゃ、とっとと進めろ、この野郎! という怒声が交わった。
「じゃあ、どうすりゃいいって話ですか」義毅はとぼけて尋ねたが、木島、多田、若者の髪を掴んでいる男の目と、口の結び具合で、命じられようとしていることは充分に察していた。
多田が隅の小箪笥に歩み、二番目の引き出しから、先端の尖った小さな道具を取り出した。
義毅に差し出されたそれは、一本のアイスピックだった。
「あばらの間から心臓だ。それなら返り血も浴びねえからな」さも日常のことのように木島が言い捨てると、女装の若者は、ひい! という悲鳴を放った。
「俺がばらしの働きはやらねえことは知ってるはずじゃないすか、木島さん」「四の五の言うな、荒川‥」木島の目に酷薄な光が灯った。
「俺にもガキはいる。フィリピンの女との間に出来たんだがな、遅くに生まれた奴で、目に入れても痛くねえぐれえ可愛い。その気持ちが分かっからこそ、おめえが足抜けすんのを応援してえまでよ。けどな、抜ける奴ってのは爆弾なんだ。お前の口が堅えことは分かってる。さらわれて拷問食らっても、でこの柔道場でも音を上げねえで、俺達の掟を守り抜いたんだもんな。それに感謝してっからこそなんだよ。言ってみりゃこの相互不可侵条約に調印してもらいてえのはな、何があっても、この組織のことは外部には漏らさねえ。それを忠誠したって証が見てえんだ。出来るか。出来なきゃ‥」
木島の言葉は、隣室からの「本当に殺すぞ、このヌマ野郎」という声に搔き消された。
「‥ペンチかニッパーありますか」沈黙を先に破ったのは義毅だった。その問いを聴き取ったらしい女装の若者が上体をがたがたと大きく痙攣させ、やめて! と聞こえる声を猿ぐつわの奥から上げた。
「ペンチかニッパーありますか」義毅は同じ問いの言葉を、声量を上げて繰り返した。多田が作業場へ引っ込み、やがてののち、銅製の工具を持って戻ってきた。彼が一切の惨い事象を達観した顔で義毅の目下に出した道具は、柄の部分に滑り止めの黄色いビニールテープが巻かれたペンチだった。
それを受け取った義毅が女装の若者を見ると、彼は体の震えを激しくし、ひぎゃあ、と泣き喚き始めた。義毅が手にしているペンチが、自分の体のどこをどう破壊するのかという恐怖を生々しく覚えたようだった。
木島も多田も、若者を留めている男も何も言わない。ここで今から展開される光景は、その絵、音、声の全てが身の毛がよだつそれのはずだ。それをごく静かに呑み込んだ顔で立っているだけだ。
薄壁越しに、作業場からの罵声、ただ威張り散らすだけの高圧的な指示が、場違いな児童向けアニメソングに混じって響いてくる。利用者達の声は全く聞こえない。みんな、かすかな声も出せないまでに萎縮しきっているのだ。ここの職員の誰一人として、福祉の倫理は元より、その知識もない。木島が拾った根からの怠け者や、ごろつき達があてがわれて、都が定めた最低賃金以下の給与で使役されている。利用者に渡す工賃などは小遣いにもならないような雀涙だが、助成金などはしかと受給している。
義毅は正座の形で膝を降ろすと、右手のペンチで、己の左手小指の爪を挟み、ほぼためらうこともなく、一気にその爪をこじ起こした。それから天井に向かって起きた小指の爪を、力任せに左右に揺すり、生え際からちぎった。
それから薬指、中指、人差し指の生爪がめりめりと剥がされてちぎられ、一枚づつが畳に舞い撒かれた。義毅が呻きとともに滴らせる脂汗が、全体量も粒も大きく畳に落ちて吸い込まれた。
親指の爪を剥離させ、ぶちりと引き抜いた義毅は、重く枯れた唸りを発し、右手からペンチを取り落として、血の涌き出す左手を押さえながら、畳の上に頽れ臥した。五枚の生爪は、レッドマーブルの貝殻のように畳に撒かれて散っていた。
若者の泣き叫びは、静かな啼泣に変わっていた。
体を丸めてうずくまり、顔を畳につけて唸り続ける義毅に、元締がどこか憤然とした視線を注いでいる。多田と、氏名不詳の男も無言のまま、あたかも日常生活の延線上にあるものを見るような目で彼を見ている中、木島が歩み寄り、脇に立った。
「さっさと出てけ。お前にはもう用はねえ」顔と体を脂汗で濡らし、波打つ背中から苦痛の熱を立ち昇らせる義毅に、木島が声を落とした。
義毅の呻きと唸りは続いた。秒、分がいくらか過ぎた時、目を赤く充血させ、汗で顔を光らせた義毅が、ゆっくりと顔を上げて木島を見上げた。
「‥木島さん‥いいっすか‥」義毅の喉から、がらがらとした震えを帯びた低声が懸命に絞り出された。
「‥こいつは‥何の考えもなしに‥憧れだけでこの道に足、踏み入れた‥ダボのガキっすよ‥」
損傷していない義毅の右手の指が、顔を涙で濡らして洟を啜り上げている若者を差した。
「俺の‥この左手の痛みと引き換えに‥この馬鹿、助けてやっちゃくれねえすかね‥こんな奴‥ヤキ入れて追ん出す程度が妥当ですよ‥ばらしたとこで‥グループには何の恵みもないはずっす‥むしろ抱え込みことになんのは、り‥リスクじゃないすかね‥」
木島の頬が震えている。表情から読み取れる感情は怒りだった。
「これで‥勘弁してやって下さいよ‥人、ばらした手じゃ‥これから生まれてくる俺のガキ‥抱けなくなっちまうんで‥グル‥グループのことは‥この痛みに誓って‥一生どこにも、誰にも‥口外しねえっすから‥」
左手を押さえる右手の指の間から血を湧きたたせ、震える低声をひり出した義毅は、片膝を上げて、体を震顫させながら立ち上がった。畳に血が滴って落ちた。
「‥特に‥見送らなくていいっすから‥」
腰を曲げた姿勢の義毅は振り返って言ったが、木島を始めとする男達は黙して、昏然とした怒気を溜めた視線を義毅に当てるだけだった。
血にまみれた左手を右手に握った中腰の義毅は、四畳の部屋を出ると、変わらずアニメソングが流れている隣の作業場へ行った。
おどおどとした顔に諦念を刻んだ利用者達の間に立っている職員達が、一斉にじろりと義毅を見た。
「‥物が言えねえ奴らいじめる根性持ってっと‥いつか必ず‥てめえが同じことされる立場になんぞ‥」
三人の職員の顔を順繰りに見て残した義毅は、体を返して玄関へ向かった。
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