手繋ぎ蝶

楠丸

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25章

~命の役割~

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 津田沼へ向かう昇り線の中で、ボディバッグの中に収まった村瀬の携帯が何度もバイブした。確認すると、急を要している相手は八千代の家であり、博人で間違いない。

 津田沼で降りた村瀬は、駅の騒音を避けるために、スイカをタッチして構外へ出て、喫茶店や中華料理店の並ぶプロムナードの一角へ移動して折り返した。

 博人の応対は思ったよりも落ち着いたものだった。落ち着いた口ぶりで、恵梨香が家を出奔したことを淡々と伝えてきた。先日置いてきた金は、まだいくらか残っているとのことだった。村瀬は今からそちらへ行く、とだけ言って通話終了ボタンを押した。

 綺麗に整理整頓がされた高津の家で父親を出迎えた博人の顔色に動揺はなかったが、昨日までいた人間がいなくなったことによる若干の落ち込みは覗えた。それは叔父の縁で生活と人生に希望が挿した矢先に、それを自ら振り落とす選択をした姉への落胆と見えた。リビングのテレビは、主婦向けのエンタメ午後番組をボリューム低めに流している。

 博人が、見て、と言って、一冊の便箋の切り取りを村瀬に渡してきた。

 お父さん、博人、それとお母さん。私はここを出ます。どうしてかは、そっちも知らないはずがないと思います。ここにいる人達の中には、私が心で望むものを与えられる人が、誰もいないからです。だから、私を知ってる人がいないところへ一人で行きたい。何年か後に連絡するかどうかは分かりません。それは私の心次第です。恵梨香

 置手紙を手に取って文面を読んだ村瀬は、行動はともかく、家族に向けて普通レベルに礼節を払っているその内容に救いのようなものを見出した。態度として、先日の女チンピラ然としたものからは考えられない。字が上手いことも相俟って、心の変化が感じ取れるが、わずかな金を持ち、これからどこへ行ってどうするつもりでいるのか、こればかりが心配の念を抱かせる。

 読み終えた手紙を置いた村瀬は恵梨香の部屋に入った。エンブレム、ナチ式敬礼をするドイツの群衆の天然色写真が額縁に入って掛かった部屋には、鉤十字のバッジ、ヒトラーの横顔がプリントされたワッペンが付いた黒の革ジャンパーが、ハンガーでカーテンレールから吊るされていた。自分が染まっていた思想を主張する服は着けていかなかったと見えた。

「お金はいくらくらい持っていったか分かるか?」リビングに戻った村瀬に問われた博人は、きょとんとした表情を変えなかった。

「今残ってるお金、一万円とちょっとだから、何千円とかしか持ってかなかったんだと思うよ。朝起きたらもういなくて、この手紙が置いてあったんだよ」答えた博人の顔には落ち込みが見えたが、彼の昼夜逆転の生活が改善されたらしいことが見て取れたことが、村瀬には嬉しかった。

 自分を知る人のいない所へ行く。これは祖父母が存命かも分からない母方実家や、友人類の許へは行かないということを表している。この先どうやって金を得て、宿を確保する気でいるのか。それとも路上か。それらを選んだ先に、命そのものがあるのか。

 心配の念が起こる中、見出せる救いがあるとすれば、ナチの恰好で出ていかなかったことか。

「まどかさんにも連絡したよ。だから、義毅叔父さんもこのこと知ってると思う‥」「まどかさん?」「叔父さんの、これから奥さんになる人。社会福祉士なんだ。叔父さんから聞いてない?」「聞いてるよ」村瀬は言って、博人の頭を撫でた。

 義毅に依頼し、彼の情報網で探し出そうという考えがよぎったが、村瀬はそれを打ち消した。恵梨香は子供の時分にその身を襲った忌まわしいことに翻弄されるがままに、ネオナチに居場所を求めたが、今の彼女はそれを棄て、自分で考えて足を踏み出した。その善し悪しは、自分で判断するしかない。

 心配の気持ちがないと言ったら嘘になる。だが、それでも長い目で見て、想ってやるしかないという思いに、村瀬の心が傾いた。

「博人。もう一つ、大事なことを話さなくちゃいけないんだ。聞きなさい」父親の言葉に、博人はあらかじめ分かっていることを聞く準備が出来ている、という風の表情を見せた。

「今日は弁護士と一緒に、千葉の拘置所へ行った帰りなんだ。お母さんの、借金の自己破産手続きは終わった。それで借金はなくなる。だけど、お母さんは、刑事担当の弁護士をつける意思はない。つまり、これから刑務所に収監されることになるんだ。刑期は半年以上、一年未満だ。お母さんが出てきた時、お前は受け入れて、迎える気持ちにはなれるか?」

 父親から問われた博人は、目を伏せて黙り込んだ。まだ答えられない。落ちた瞼にはそんな思いが見取れた。

「恵梨香がいつか戻ってくるか、それとももう戻らないかは、まだ分からないよな。だけどどっちにしろ、あのお母さんはお前達とは離さなくちゃいけないとお父さんは思うんだ。何故なら、女ではあっても親ではない人だからだ。その辺りは、お前も長く一緒に暮らしてきたから、分かってるよな。母親としての自分を持つことなく、子供よりも男を選んだわけだから。それでお前達に地獄のような苦しみと悲しみを与えて、傷を負わせたことを今も反省する様子も見せない。戸籍上はお前達の親だけど、そういう人じゃないか、あの人は」

 村瀬が博人の肩を抱いた時、テレビ画面上部にニュース速報のテロップが表示され、九日に千葉市内の風俗飲食店で発生した射殺事件、氏名不詳の容疑者黙秘のため、捜査に進展なし、と出た。

「またもう一つ、知らせることがある‥」村瀬が言うと、父親に肩を抱かれた息子は、何かの奇跡を期待する顔で見上げた。

「恵梨香をレイプして、お前を悲しませて苦しめたあの男が、千葉で物乞いをしてた。お父さんは今日、奴をしっかり成敗した」村瀬の肩に収まっている博人の目が驚愕に見開かれた。

「親から相続した財産に飽かせて無職で暮らしていたあのボウフラ野郎は今、その金を根こそぎ失って、電気もガスも水も止まった家で、闇に怯える生活を独りで送ってるんだ。博人、これが本当の因果応報、自業自得だ。こういうものなんだよ。お前達が強いられた悲しみと苦しみと、それと悔しさを、今日、あいつの体に返してきたよ。あいつはこの先、普通の人生は送れない。子供というものを守るものではなく、自分の欲望を満たすためだけにあるものだっていう狂った糞野郎の考えの在りようが、全部返ってきたんだ。全部な」村瀬は抱いた博人の肩を叩いた。

「籍を戻して、お父さんと暮らさないか」村瀬は、肩の中の息子に優しく言葉をかけた。

「恵梨香の携帯にその旨の伝言を入れておく。あいつが戻る気になった時には呼び寄せればいい。それでお前は、お前に無理のない職場なり、就労継続支援事業所なりを見つけて、実籾の俺の家から通えばいい。この家は義毅が自腹で直してくれたから、原状回復費を取られることもない。だから、安心して次の店子さんに譲れる。不安な一人の暮らしより、こっちのほうが断然いいだろう?」

 村瀬の腕に抱かれた博人の肩が上下に震え始め、声を殺した泣き声が上がった。長く自分を苦しめていたことがようやく終わりを見、心に負った傷がゆっくりと癒えていく日々を迎えることが出来た喜びに哭く博人の背中を抱きながら、今、お互い同意の上でディスタンスを置いている菜実のことを想った。クリスマスイブに会い、また肌を重ねようと決めた。

 上着は、母親のピンクのジャケット、下は紫色をした幅広のパンツ、頭にはニットという恰好で、巾着バッグの中には何枚かの下着類、間に合わせの生理用品を詰めて、朝に家を出た。所持金は一万円と少しだった。

 まず、船橋に出て、コンビニのお握りとお茶の昼食を交え、あてなく街をぶらついた。どこへ行くと決めて出たわけではなかった。

 街を行き交う個性雑多な人を見て、自分との違いというものを考えた時、自分はなるべくしてこうなった、という思いばかりに結論が落ちた。そこから虚無が生まれ、晴れた空の下にいながら、その昏迷とした虚無に体ごと引かれていく思いになった。

 陽が落ちた頃、あたかも身の回りの時間が停まったように、しんと静まり返った虚無の心地のまま、JRに乗った。
 西船橋、下総中山、市川を過ぎ、新小岩で降りた。新小岩にあてがあるわけではない。下車駅を適当に選んだだけだった。

 街の灯りが毒々しく感じられる駅前に立った時、辻の端々から暴力の気配を含んだ存在の気を感じた。だが、それは自分には全く馴染みのないものではなく、怯む気持ちも特に起こらなかった。

 古めかしいアーケード街の近くにあるゲームセンターの入口を潜ると、別々のゲーム台が吐き出すプレイ音楽が不協和音となって耳に迫ってきた。客入りは多くないが、煙草の匂いが立ち込めている。煙草の脂に黄ばんだ壁には、新しいゲーム台の入荷を知らせるポスターが貼られ、世界各国の国旗が、壁と壁を結んで吊るされ、垂れている。外も中も、昔ながらのゲームセンターだった。

 周りの客に何の関心も持つことなく、未来戦車を操作して、月面のようなフィールドでエイリアンの大群と戦うシューティングゲームの台に座った。

 とりあえず、コインシャワーのあるネカフェに泊まろう。お金が尽きたら、路上で寝泊りしよう。自分のような者が、まっとうに働いて金を稼ぐことなど出来ないのだから。その手段があるとすれば、ウィッグを被って売春か、ポルノに出演すること、あるいは、各種ゲテ物の女を置く地雷専門風俗で働くことだけ。だから、それで行く。エイリアン達がビームに粉砕されていく画面を見ながら決めた時、限りない先行きへの絶望感が胸を覆った。

 慣用句として使われる、信頼、信用とは何だろう。友情と呼ばれるもの、親子、男女間に芽生える愛情とはどんなものなのだろう。これまでの人生で、自分のそばに確かなそれらがあると感じたことは皆無だし、それがこれからの自分にあるとも到底思えない。

 だから、本当の友達、また、恋人、家族を作ることが前提にある結婚生活というものも、自分には分からない。心のどこかでは、確実に手を伸ばしているそれらの「人並み」を確かに求めている自分がいたが、想えば想うほど遠ざかる。

 その飢餓感を怒りに変え、弱い者達にぶつけてきた。母親へのそれは、復讐だった‥

 それを認めたのは、プレイ画面がステージ2に変わった時だった。

 エイリアン群が放つ光弾や槍状の発出物の攻撃をかわし、現れる敵達を倒し、ボスキャラと対面した。

 よく見ていないために年齢程や容貌がよく分からない少数の客が、言葉もなく場当たり的な快感に身を任せる店内に、極めて若いが品のない高笑いが挿すように沸いた。若い女の声だった。

 それに不快を感じて顔を上げて声のほうを見ると、幼く愛らしい面影を残す顔をわざわざ汚すような化粧をした少女達が三人、いた。原色を基調とした服のセンスは、激安量販店で調達した風なものをごてごてとまとい、ちぐはぐな印象がある。首から下がるチェーンが、さらに下品さを強調していた。

 その中の、生え際の黒い金髪をした、ラインパーカー姿の少女と視線が合い、瞬のうちに威嚇と、半ばの訝しみの目線が宙で交わった。

 目を画面に戻し、触手をゆらゆらと伸ばしながら、甲羅と口から吐いた光弾を漂わせるボスキャラをビームで攻撃した。

 蟹とクラゲを足した外観をしたエリアボスが体中から爆炎を噴いて倒された時、もう一度目を上げてその少女達を見た理由的なものは、つい二週間ほど前の自分と通じるものを感じたからだった。

「あいつ、マジ超馬鹿。さっきから、うちらのことめっちゃちらちら見てるよ」人の蔑み方、嚇し方が、幼くしてすでに堂に入った早口の囁きが耳に入った。

「何か文句あんの?」囁きに横目を上げると、濃いファンデーションに頬紅、紫のルージュ、農茶の丸いゴーグルに紫のスーツ風上下を着た女がゲーム台の脇に立っていた。年齢的にも、その三人の中でリーダー格と見える女だった。

 無視して目を画面に戻し、ステージ3のプレイを始めると、ジャケットの襟首を掴まれ、引かれた。

「文句あんなら言ってみろよ。てめえ、何さっきから汚えもんでも見るみてえに、うちらのことじろじろ見てんだよ」女は恵梨香の襟を持って揺さぶりながら凄み立てた。

 未来戦車が三面の敵の攻撃を食らって破壊された。満杯になったアルミの灰皿を両手に持った、赤いベストに蝶ネクタイの制服を着た店員が通り過ぎたが、暗く愛想のない顔をしたその男は、関することなく通り過ぎただけだった。
「ねえ、お前、身元どこ?」ゲーム台に片手を着いている、豹柄のジャージ上下を着、ライトブラウンの髪に長い付け睫毛をした少女が問うた。

「うちら、ここいら喧嘩で締めてんだわ。張るんだったら、うちらに納めるもん納めて、筋通してくんねえ? でねえと、目障りだからさ」

 自分を棚上げし、この娘達を安臭く愚かしいと思う気持ちが沸き、それが無視という態度になった。相手は複数名だが、場合によっては己の手による死という選択も持って出てきた身で、さほどの怯みもない。血がしぶき、歯がすっ飛ぶ殴り合いの末に凶器が出てきて、それが自分に死をもたらすことも、もはやそれほどは怖くはないというその場の気持ちがあった。

 自分の心は、十一年前、大人の男達の手で下着を剥かれ、口に何本もの、異様な臭いのする不潔な男根を捻じ込まれたあの時から、黒府へさらわれたままなのだ。

「こいつ、むかついたわ。表出ろよ。半殺しにすっから」少女達にジャケットの裾を掴まれて、引き立たされた。

 恵梨香は三人の、中学生から高校生くらいの年代顔をした少女チンピラ達に、アーケード街の奥にある、ポリバケツが三個並び、収納しきれていない生ゴミの袋と、出す場所を違えた酒の瓶や缶が転がるコンクリート打ちっ放しの空間に引きずられた。近くのパチスロ店からの音声が、鞣すように聞こえている。

「子宮と卵巣潰して、一生もんの女廃業の体にしてやんよ」真前に立った、最年長風のゴーグルの女が言った時、機先の先手を切った。

 恵梨香の右ストレートが、びき、と音を立てて女の鼻柱に食い込んでいた。女は鼻を押さえて、大きく股を開いて転げた。外れたゴーグルが、コンクリートの路面に落ちた。

 恵梨香は、女としてはわりと腕力はあり、喧嘩にまるで自信がないわけではない。仲の悪いユニオンの女メンバーと一対一で勝負し、先陣を切って蹴りを入れたこともある。だが、相手もゲットー育ちで、年齢こそ幼いながら暴力の数を踏み、嚇しも達者な者が複数揃っている。分がいいとは言えない。

 豹柄ジャージの少女が、恵梨香の鳩尾にパンチを抉り上げ、体を折った彼女の顔面に、黄色いラインパーカー姿の少女が、キックボクシングをかじっている動きの蹴りをしなわせた。

 恵梨香の体が、生ゴミ袋を載せたポリバケツの上に叩きつけられた。彼女の体に押されたポリバケツが二つ、ドミノ倒しになり、内容物がぶちまけられた。腐敗したゴミの汁でジャケットが汚れた。

「立てよ、こらぁ!」怒声とともにジャケットの襟を掴んで立たされ、ラインパーカーの少女から頬に肘を入れられ、豹柄が首相撲を取って、恥骨に膝を打ち上げた。

 痛みに、全身から力が抜けた。大粒の鼻血が滴っていることが分かった。

 組んだ両手の小指側を数回背中に叩きつけられ、息が詰まって膝から崩れ臥した。ゴーグルに紫ルージュの女がよろと立ち上がり、にじって寄ってきた。ルージュの唇を鼻血で縫った女は、憎しみを燃やした鬼相で、恵梨香の乳房を蹴った。たまらず、悲鳴が吐き出された。

 仰向けに倒れた体に、幾発ものキックが入った。恵梨香は堅く閉じた目から涙を流し、泣き叫ぶ恰好に口を開け、それを受けた。顔を前腕で覆い、体を丸めて内臓を守った。

 助けて! 恵梨香は自分の心が叫んでいることが分かった。

 こんな所で、こんな年下の奴らに嬲り殺しにされる形で、まだ始まって二十年と少ししか経っていない人生が終わるなんて嫌だ! 私はこれまでの人生で、本当に嬉しかったこと、楽しかったことなんか、ただの一つもなかったんだ! それがどういうものなのか、経験的に、いや、概念的に朧としかにしか分からないからこそ、その気持ちというものを見てみたい、感じたいんだ! それを一度も味わうこともなく死ぬなんて嫌だ! お父さん! 義毅叔父さん! 西船で、電動車椅子のおじさんに絡んだ私を見て見ぬふりしなかったまどかさん! 私を助けて‥

 その心の救難信号が、振り絞る号泣に変わった。誰かが助けに入る、または警察が来る気配もない。

 三人が蹴り疲れたか、キックの暴風雨が止み、半身を引き起こされた。恵梨香は涙と鼻血を顔に交えて、大声で泣いていた。

「今さら泣いたって遅えよ。てめえ、うちらに喧嘩弾いたんだからよ」紫ルージュの女が鼻血を拳で拭いながら言い、懐から煙草を取り出し、咥えてライターで火を点けた。

「目ん玉焼き潰して、めくらにするだけで勘弁してやるよ」女が薄笑いを浮かべて言って、恵梨香の右目にオレンジ色の火が灯った先端を近づけた。顔を背けると、頭を持たれて正面を向かされ、指で目をこじ開けられた。熱が瞳孔に迫った時、恵梨香の口から父の名が叫ばれた。

「てめえの親父なんか来ねえよ」右目の視界がオレンジに染まったと思った時、その背後に、女が一人立った。

「やめなさい」優しく諭す声で女が言うと、少女達が我に返ったように振り返った。

 グリーン色をした冬物のブルゾン上着に、紺のズボンを履き、手にトートバッグを提げた女が、後ろからゆっくりと少女達に歩み寄った。泣く恵梨香の目には、ブルゾンの胸元に刺繍された「(株)ケアプランニングユカワ」という勤務先の介護業者らしい社名、首から下がったネームプレートにある裕子、というセカンドネーム、自分の両親よりは少し行った女の齢顔だった。

「何だよ、婆あ」豹柄ジャージの少女が女ににじり詰め寄り、顔を突き寄せて凄んだ。

「相手はもう泣いてるのよ。数を頼んで、これ以上いじめるようなことは、人の道に外れることよ」「てめえに関係ねえんだよ、このタコ!」少女は女の下腹に前蹴りを入れた。女は腰を引いて、脚をがくつかせた。

「ここいらでうちらの気分害する奴は、みんなぐちゃぐちゃになって死ぬんだかんな! 長生きしたきゃとっとと消えろよ、この糞婆あ!」ラインパーカーの少女が、女の腿にローキックを入れ、腿の肉がぴしりと鳴った。

「邪魔だよ、てめえ!」ラインパーカーの少女が、悲しいものを見た顔で俯く女の頬に拳を入れ、かんと頬骨が鳴って女は大きくよろめいた。

「おばさんには関係ねえんだよ。こいつ、うちらの縄張(しま)で、うちらに許可なくイキって弾いてっからさ、今、けじめ取ってるとこなんだよ」紫ルージュが、殴られても倒れることなく辛く立っている女に向き直って言い、女は切とした顔で見上げた。

 紫ルージュの手には、吸口の灰が伸びた煙草がまだ持たれている。女の目が、何かの意を決したように、その煙草に注がれた。

 女が、紫ルージュの手から、煙草をつまみ取った。

「けじめとかだったら、私が取るよ。だから、この子を離してあげて」女は言いばな、火の点いた煙草の先端を、自分の左掌に押し当て、ぎゅっと握った。皮膚の焦げる音が、恵梨香の耳にも生々しく届いた。

 今の自分は、西船で自分が仲間を従えて絡んだ、電動車椅子の人と同じ立場になっている。まどかさんもそうだけど、通りがかりで出会っただけの人間のために、ここまでのことをする人というものは。まだ恐怖が覚めない中、恵梨香は畏れて驚いていた。

 女は口の端を縛り、眦を決めて、恵梨香の知識では計れない度数の熱を掌で受けている。こめかみに、汗が光っている。苦痛の呻きは腹の中に落としているようだ。

 掌の皮膚で消した煙草を片手につまみ、脂汗に濡れた顔で、女は視線を移し移し、少女達の目を見、大きな息継ぎをした。

 少女達は一人、また一人と後退した。全員女の目を正面から見ることが出来なくなっており、顔を横に、あるいは下に背けている。

 ケロイドの、まどかの顔半分を目の当たりにした、あの時の自分そのものだった。

「人生には、あとからどんなにごめんなさいって謝っても、もう遅いっていうことがあるのよ。あなた達の若さだったら、それがまだ学べるよ。だから、そんな年齢で何もかもを諦めて、投げやりに生きるのはやめなさい」裕子(ゆうこ)というヘルパーの女は、激痛の中でも優しい口調を崩すことなく少女達に訴えた。

 紫ルージュの女が顔を裕子に向けたまま、小走りに平井方面へと駆け出した。豹柄ジャージとラインパーカーが、後ろを振り返ることもなく続き、三人の荒み果てた少女の姿が消えた。

「大丈夫?」裕子は座り込んだままの恵梨香に寄り、両手を取った。濡れた顔でしゃくり上げる恵梨香の顔に、額をつけるようにして、顔を寄せた。

「ないんだ‥」恵梨香は言い、涙の筋の上に、また涙を伝わせた。

「私、帰る所がないんだよ。行く所もないんだ‥」涙と鼻血、涎でぬかるんだ顔を歪めて、恵梨香はまた泣いた。

 曇った葛飾の夜空を仰ぐようにして、心底からの悲しさを搾り上げて呻き泣く彼女の肩を、隣に回った裕子がそっと抱いた。

「私の家、市川なの」やり切れない絶望と悲しみの中に、恵梨香の耳元で囁かれた言葉が、計り知れないまでに温かく響いた。

「娘と二人暮らしだけど、私の家、部屋が一つ空いてるの。あなたがよかったら、今日からしばらく、そこで寝る?」

 初めて聞くような言葉かけに、恵梨香は哭きながら、裕子の顔を見た。小太りで、頬の肉が多い福々とした輪郭だが、至近距離で見る目には、過去に修羅を踏んだ者ならではの、鋭い威圧感があった。それに圧倒されながら、恵梨香は一寸のちに頷いた。

 近くのパチスロ店からは、ラッキーセブンを叩き出した台のアナウンスと、メロコア系ロックのBGMが、裕子と恵梨香の光景などまるで他所のこと、といった風に流れ、聴こえ続けていた。

 痛みは依然としてあるが、薬局で「薬剤師」のネームプレートを下げた男の店員を急かして買ったロキソニンにより、いくらかは、と言える程度には引いていた。こんこんと沸き出す鮮血をハンカチで押さえながら、パンダ事業所から最も近い薬局で調達した消毒液、ガーゼ、包帯、メディカルテープで、五枚の爪を自ら剥いだ左手を車の中で自力で手当てし、二時間ほど唸った。

 そののち、東京外環自動車道を飛ばして江戸川区から古和釜町を目指し、蛇行加減のソアラを走らせた。

 なお、リアシートには、耳の揃った三百五十万円の入ったトランクが置かれている。

 船堀で二時間呻いたことに加え、駐車可能路側帯で時折ソアラを停めて休んだため、古和釜町には十八時過ぎの到着となった。

 グループホーム合歓の外壁沿いにソアラを停め、損傷していない右手にトランクを提げ、足を引きずるようにして外門前まで移動、チャイムのボタンに指を載せた時、ドアが開いた。出てきたのは、顔を知る利用者だった。

 トレーナー上下姿の利用者は泣き顔で、高い悲鳴のような声を上げていた。

「どうした」義毅は言って、利用者の小さな体を抱き留めた。開いたドアの向こうからは、何かの断末魔のような叫び声と、内容の聞き取れない怒号めいた声が聞こえた。

 義毅は、自分の肩までの身長をした利用者の背中を腕に抱きながら、屋内に入った。叫びと怒声は、リビングから聞こえる。

 曇りガラスの嵌め込まれた引戸の前に立つと、床に寝た一人の利用者の上に、社長の増渕が馬乗りにのしかかり、その青年の首を両手で締め上げている光景が目に飛び込んだ。その周りには別の男の利用者が二人立ち、自分達にはどうにもしようのないものを見るように、それを眺めている。

 テーブルの上には、肉の炒め物らしい食事が並んでいるが、麦茶のポットが横倒しになり、中身が流れ出して、食器の底を浸している。利用者が間違えてこぼしたのか、それとも故意にやったいたずらなのかは、義毅には分からない。

「死ね! お前なんか死ね、この野郎、畜生!」増渕の口から罵声が撒かれ、利用者は赤く染まった顔をしかめて苦悶している。

「てめえ、何やってんだ!」義毅は駆け寄り、増渕の襟を掴んで、彼を利用者から引き剝がした。義毅を見上げた増渕の顔に、水を打たれたような驚きが刻まれた。

「馬鹿野郎!」義毅の右拳が、座位の増渕の頬を打った。増渕は義毅の姿が目にも入っていないような様子で上体が床に薙ぎ倒され、やがて、心ここに在らずといった顔で、下から義毅の顔を見た。

 増渕の手が喉から外れた利用者の青年は、先までのことがなかったかのような顔で天井を仰いで見ている。増渕は倒れた体を起こすと、先の非態はいずこへ、といった虚無感の漂う表情で、リビングの隅に視線を投げ遣った。

「今、てめえがやってたことが、どういうことだか、お前分かっか‥」義毅は精魂尽きたように座ったままの増渕の脇に回り、ゆっくりと言葉を落とした。

「金を返しに来た」義毅は足許のトランクを右手で開けると、フローリング床の上に、左手を使用せずに、右手のみを使って、中身の三百五十万の札束を一つづつ置いていった。

「耳は揃えたつもりだ。足りなきゃ、電話で文句言ってくれ」義毅が札束を右手で指して言うと、増渕の驚いた目が、札束と義毅の顔、所々血が滲む包帯の左手に順番に注がれた。

「お前、こいつらを可愛いって思う心、これまでいっぺんでも持ったこと、あっか?」義毅は、床に横たわったままの青年から、今だ呆然と立っている三人の利用者を見回しながら、座り込んだ増渕に問いかけた。

「あの女の子のホームは、俺との約束守って、人を入れ替えたんだよな。こいつは陰から確かめたよ。けど、このホームと、お前自身は何も変わっちゃいねえ。こいつが麦茶こぼしたことに、そんなに腹が立ったのか。こいつらに普通の人間並みのことをやらせようとしても出来ねえのも、こういう奴らが言うこと聞かねえのも当たりめえだろ。昨日今日この道に入った人間じゃあるめえし、そんなことが分からねえはずもねえはずじゃねえか。こんな真似して、あとがあると思うのか」「あんたなんかに分からないよ!」座って項を垂れていた増渕が顔を上げ、荒らげた声と言葉を義毅にぶつけた。

「俺はこの二年間、一日も休みが採れてないんだ! 二年前、右腕としてきた人に辞められてから、ずっとここに泊まりっ放しで、ホームの環境整備も、身体介助も、服薬管理も、感染対策も、クレーム処理も、何から何までずっと一人でやってきたんだ! 俺のやったことが外れたことだったら、あんたは何だ。あんただって、ウェルビーイング・トータル・コンサルティングなんていう嘘の看板掲げて、他人の弱みにつけ込んで、それを飯の種にしてる反社じゃないのか!」

「そら、大丈夫か」義毅は増渕の言葉には答えず、自分のされたことも分からないような顔で天井を仰いでいる利用者の青年の手を取り、背中を腕に抱いて抱え起こした。体が座位になると、口から唾液が一本の筋を引いて垂れた。

「物事を全部一人で抱え込もうとすっから、こういうことになるんだ。お前は分かってねえ。会社を回すってことも、こういう障害者って呼ばれる連中のことも。ここを立ち上げてから八年とかって言ってっけど、はなから何を考えてこれを始めたんだ。余計なことを外でしゃべらねえ重い奴らを商品の陳列みてえにただ置いて、社長、社長って持ち上げられて、いい顔がしてえって動機だったのか。それとも、こういう奴らを金に換わる商品にしようと思ったのか。こんなことになったのは、そもそもその中身が最初から馬鹿げてっからだろうが。それじゃ人が離れてくのも当然だろう。違えのか」 

 ただ座って俯いているだけの増渕の肩と背中は、荒い吐息とともに震え、上下している。最も見られたくなかった醜態を、一番見られたくない人間に見られたことの焦燥が、その姿に滲んでいた。

「お前はこれをやりたくて始めたわけじゃねえし、これまでだって、好きでこれをやってきたわけじゃねえんだろ。本当のこと、話せよ。場合によっちゃ助言もどきも出来っから。返した金ん中から、相談料とかを取る気もねえよ」義毅の言葉には若干の優しさがあるが、声、口調は枯れた迫力を帯びていた。

 増渕が伏せていた顔をゆっくりと上げた。その顔には、まだ怒りの気があった。それが数寸の時間ののちに悲しみのものになり、彼はまた目を伏せた。

「聞いてくれ。俺は大卒だって言ってたけど、本当は高校中退なんだ。それも二ツ橋付属。あの、偏差値七十台の進学校‥」増渕はぽつぽつと話し始めた。

「二ツ橋へエスカレーター進学して、あそこで生物の研究をやりたかったんだ。やるはずだったんだよ。それが二年の初めに、存在しない人間が自分をからかう声が聴こえるようになって、いないはずの動物の姿が見えたりするようになってね。それで精神科病院を受診したら、統合失調症だって。古い病名の精神分裂症‥」

 増渕の横顔には、これまで誰にも打ち明けるべくもなかったことをようやく打ち明けることの出来たことによる、心の晴れ間のようなものが覗い見えた。

「それのために、小学校から付き合ってきたような友達もみんな離れていったよ。お袋は、ただ家の評判に傷がつくことだけを恐れるだけだった。兄貴は無関心だった。親父は怒って、俺が精神科から処方された薬を捨てたんだ。こんな病気は社会的な免疫のない精神の弱い奴、怠け者がなるものなんだ。そういう奴らが楽するための言い訳に使うものなんだ。こんな恥ずかしい人間はうちの血筋からでたことはないんだ。いいか、男は社会に出たら百人、いや、千人の敵がいるんだぞ、俺の息子だったら、根性一つでそんな弱虫病、卑怯者病、逃げ越し野郎病、蹴散らしてみろ、とかって言われてさ‥」

 義毅は増渕に目を据え、腕を組んだ。

「親父は高校、大学と空手部で鳴らして、大学じゃ主将だったんだ。そこから体育会乗りの不動産会社に就職して、飛ぶ鳥を落とす勢いで営業成績を伸ばして、二十代で課長に上り詰めた人だった。それで正義感が強くてね。だから、物事ってものは、基本的に根性、精神、口癖の免疫とかでで埒が明くっていう考え方に凝り固まってた。去年にガンで死ぬまで。精神じゃ、ガンには勝てないことが分からなかったわけでもないはずなのにね」増渕は瞼を瞬かせ、洟を啜った。

 それをぼんやりと見ている二人の利用者、座ったままの青年には、今、自分達の世話人が語っていることの半分も理解出来ていないだろう。

「そんな親父に認めてもらおうと思って、俺は高校をやめて、まず、百貨店の電化製品屋に就職したんだ。だけど、薬がなくて、症状が日に日に悪化する中で、ケアレスミスを繰り返して、上司や同僚から罵声を浴びせられながら頑張ったんだ。半年目に解雇されるまで」 増渕の声色には恨みが籠っていた。

「そのあとは、休む間もなく、二百人あまりを収容する特養に就職したんだよ。働きながら、介護福祉士の資格も取ったんだけど、そこでも仕事がなかなか覚えられなくて、入居者を危険にさらすようなミスを連発して、毎日施設長や主任から怒鳴られて罵られたよ。それでも、やっと親父から飲むことを許された薬を飲みながら、十四年勤めた。十四年だよ。一生みたいな長い時間だったよ。本当に‥」増渕はこぼれた涙を手の甲で拭った。

「さっきも訊いたことかもしんねえけど、ここを立ち上げた時の初心は何だったんだよ」義毅の問いかけに振り向いた増渕の赤らんだ鼻が鳴った。

「雇われて、他人に使われる仕事でものにならないんだったら、自分で事業を始めようと思ったんだ。だけど、自分以上に一人前の人間を雇って使うような自信がなかったんだよ。だから、知り合いのつてで集めた人だけを、これまで雇ってきた」「おい、その自信がないなんてのは、今のお前の立場じゃ禁句の言葉だぜ」義毅の投げに、増渕はその顔にはっと何かに気がついた色が浮いた。

「いきさつとか、お前が抱えてる事情がどうあっても、今のお前はこいつらの命そのもんを預かってんだぞ。それの意味を、この先何度でも考えていかなくちゃいけねえはずだろう。今、ここにいるこいつらの誰一人として、てめえだけじゃてめえの身の安全、権利や財産を守れねえんだ。お前の仕事は、そのこいつらの命や尊厳を守り抜くことのはずだろう。そいつが出来なきゃ、この立場がお前のかっこつけだって言われても何も言えねえはずなんだ。そんなことで、この先もこいつらを守っていけるのか! お前が定年の齢になる頃、この会社を残して、後進に引き継ぐことが出来んのか! いい加減に分かったらどうなんだ!」

 増渕は顔を俯け、流れ出る涙を拭い続けた。万年のように続いた冬の雪がようやく溶け出したという涙だった。

「いいか、命だ」義毅がアクセントを強めると、増渕が声を呑み込んだ涙の顔を上げた。

「初心がどうだって、ここを興した以上は、お前の命はこいつらのためにあるものなんだ。その命は、常日頃からてめえでメンテナンスしてねえと、命がある意味を失うんだ。だから、人件費を惜しんでる場合じゃねえ。間違いなく使い物になる人間を雇え。それでそいつらを経営者の立場からしっかり仕切って、お前の週休もきっちり採れるようにしろ。それが出来なきゃ、お前は駄目なんだ。本当に駄目だぞ」

 義毅は刺して、空のトランクを右手に持つと、まだ座り込んでいる青年の頭を撫でて、玄関へ踵を返した。

「これまでは、ここには何の中身もなかったはずだ。でも、今、俺が言ったことをちゃんと受け入れりゃ、ここにも命が宿るようになるよ。そうなりゃ、変わるんだ。明日の景色ってもんが」

 残して、玄関でブーツを履く義毅を、増渕がゆっくりと追ってきた。「教えてくれ」増渕は義毅の背中に声を投げた。

「うちから巻き上げた金を返してくれたのは、どうしてなんだ」「一時預かりの保証金を返したようなもんだと思ってくれ」義毅の答えに、増渕は濡れた目を丸くした。

「通院と服薬をやめるな。それで、医者から言われたことは守れ。それで落ち着いた頃に婚活でも始めりゃいいだろう」義毅は言い、玄関を出た。増渕の左右には、先まで義毅とのやり取りを見ていた二人の利用者がやってきて、立っていた。

 合歓を出、とっぷりと暗くなった古和釜の空を見ると、雲の間に星が見えた。

 目の前の歩道を、母親に手を引かれて歩く小さな未就園児の女児をそれとなく目で追いながら、自分の発した虚無、という言葉を、頭の中で虚業と言い換え、よじった笑いを吹いた。

 長く続けてきた恐喝師という渡世に、今日の日に自分で幕を引いたが、これからどうするかについては、さしたる憂いも感じてはいない。浄水器の卸売業を拡大させることもありだが、別の商売を興す算段もある。それはこれまでの収入源を資本とするが、そうすれば、裏道で稼いだ金にも命が吹き込まれると思う。

 スマホには、「天ぷらとまぜご飯作って待ってます。あと、妊婦にも性欲あるので、今日はお情けをいただきたいんですけど、いいですか?」というまどかからのメールが入っていた。それをチェックした義毅は、J―POPの「オリオン」を口ずさみながら、雲間の星を仰ぎ、これからまどかと住む家のことを想った。

 左手の痛みはまだ疼いている。まどかはワンコールで応答した。 

「糞、まだ痛え‥」「どうしたの!」義毅の送った第一声に、まどかは心配の反応を返してきた。

「今日、稼業、抜けてきた。土曜、不動産屋行こうぜ。それから指輪買って、籍入れて、結婚式の真似事みてえなことやろう。出来りゃ、五十くれえの広い坪の家がいいよな。何匹生まれっか、まだ分からねえし」「落とし前つけられたの?」「つけられたんじゃねえ。てめえでつけたんだよ。ニ、三日は痛えと思う。けど、お前がしてえんだったら、頑張っちゃみるさ‥」「義毅さん!」「今、用あって船橋の古和釜だ。これから行くから待ってろよ。腹減ってんなら、先に食っててもいいから。俺の分は残しといてくれ‥」「義毅さん‥」「じゃあ、あとでな。うお、糞‥」「待ってる‥」「待ってろ。それと、恵梨香のことは過剰な心配はいらねえ。あいつは誰かに拾われるはずだからな。寺の厄介になって、何年かあとに尼さんになって現れるかもしれねえ。博人は、これからお前が世話すっか、親父がどうにかすっかに分かれる。でなきゃ、自分で何かを考えるかもしれねえ‥」

 痛みがぶり返してきた。通話を切った義毅は、血の滲み出している包帯の左手を押さえて屈んだ。痛みは、左手全体に染みるように広がり、手と半身が震え出した。義毅は奥歯を噛んでそれに耐えながら、ソアラへ足でいざるように歩いた。オートキーのボタンを押し、鍵の開く音を聞いた時、力を失った体がサイドドアに崩れてもたれた。痛みは頭蓋の内側でもがんがんと鳴り響いていたが、気分、心地は悪くなかった。

 また噴き出してきた脂汗に顔を濡らし、唸りながら、子供は誰に名付けてもらおうかと考えた。同時に、自分が手を貸した吉内叶恵の父親の復讐が成就することを切に祈っていた。なお、あれだけのことを掴んでいながらダブルシービーを強請らなかったわけは、すでにまどかとの間に、利害を超えた思いが深まっていたからだった。
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