28 / 54
27章
~柏にて~
しおりを挟む
「串スタンド」という看板を出したその立ち飲み屋は、柏駅西口から徒歩二分の所にあった。隣にはラーメン店や、同じく飲みの店が並んで軒を立てている一角だった。
菜実が赤の暖簾を潜ると、いらっしゃい、という店主の声が迎えたが、彼女は自分が酒を飲むために入ったわけではなかった。
土曜の日中だが、この店は昼から開いている。内壁がシックな黒に統一塗装された二十坪ほどの店内には、会話や雰囲気からパチ類でのひと勝負を終えたか、あるいはこれから勝負に臨む者達が串物や刺身、揚げ物、煮込みをつまみ、酒を呷りながら、攻略談義に華を咲かせている。会話によると、北松戸の競馬場帰りらしい者達もいる。置かれた液晶テレビは競馬中継を映し出している。
フェイクのミンクコートを着た叔母の孝子は、厨房寄りのカウンター席に頬杖をついて、荒んだ横顔を見せて、半分程に減ったサワーのジョッキを前に煙草を燻らせていた。前には食べかけの刺身があった。
孝子は入ってきた菜実に気づくと、吸口に紅くルージュの付着した煙草を小さな灰皿になすって消して、睨むようにその姿を見た。
「まだ話してなかったね。ひと月ぐらい前、お前の男、うちに挨拶に来たんだ。お前のこと、くれっつってさ。齢はお前よりだいぶ行ってるけど、なかなかいい男じゃん、あの村瀬とかって‥」瞼を伏せて立つだけの菜実に述べ、孝子はサワーを口に運んだ。
「喧嘩も強えしな」孝子はつけ加えた。
「今日、お前呼んだのはさ、弁護士費用とは別の金の話がしたかったからなんだよ。あれはお前が送ってくれた分がもう貯まったからいいんだけど、三つぐらい都合つかないかな」孝子の顔に狡い翳が落ちた。
「ちょっとパチに入れ込みすぎちゃって、金がねえんだわ。返すからさ、三万貸してよ」孝子はジョッキの取っ手を握りながら言い、赤い色をしたサワーを飲み干した。氷がジョッキの底で鳴った。
「これ、アセロラハイ、もう一つ‥」孝子は底に氷だけが残った空のジョッキを掲げて、女子の店員を呼び寄せてオーダーした。
「お金、もう駄目なの。私、あと九年待つ。九年したら、お母さんとまた暮らせるようになるって、村瀬さん、言ってる‥」「何? 私が言ってること、お前疑ってんの?」目を剥いた孝子に、菜実はローヒールの靴底を後ずさりさせた。
孝子は姪である菜実を、いくらでも騙すことの出来る相手だという前提でものを話している。だが、今の菜実は、村瀬や佐々木紅美子、夕夏と出逢ったことで、わずかながら知恵の光が灯り始めている。菜実と同じく私生児の子供を産み、シングルで養育してきた紅美子とは、菜実は語彙こそ拙いながら、いろいろと深い話をしている。
「何も踏み倒すっつってんじゃねえんだよ。返すから貸せっつってんだよ。三つ、頼むよ」孝子は畳み込むように言い、さっと出てきたアセロラハイをあおり、刺身を口に入れてくちゃくちゃと噛んだ。
「あのお袋が霊感師の脳味噌ぶちまける事件起こして、無期打たれて栃木にぶち込まれてから、鼻水垂らしてるお前の家に泊り込んで、お前の飯とか、便所と風呂の世話してやったの、誰だよ。あいつを栃木から出すために、お前の稼いだ分、プールしてやってたのは誰だよ。お前、分かってんのかよ」孝子は続け、菜実は伏せた瞼を時折上げて、その顔を見た。
孝子の毒づきには力がなかった。金があれば使うだけ使い、腹が立てば人を殴るという、衝動と感情の赴きだけに任せて紡ぐ生を四十代半ばまでの長きに渡って送り、自身が困っていながら反省の一つもすることなく、障害者の姪にたかってきたつけが、今、回ってきている。
「叔母さんに、もうお金渡せない‥」「何でだよ」「叔母さんが言ってる弁護士のお金って、嘘つきだから」
孝子の顔に強張りが見えた。これまで自分に従順だとばかり思ってきた知的障害の姪から、事実をストレートに突きつけられた動揺だった。
孝子は強張った顔に、何かの誤魔化しをかける笑いを刻んだ。
「あのさ、悪かったな。あれは方便だったんだよ」言って、ロングのメンソールをもう一本抜き、せわしない手つきでライターを取り、高く伸びる火を先端につけた。
「弁護士費用ってのは、もののたとえ。私がやってる、“銀照の道”の導師がさ、御守護神様に浄財積めば、お前の母ちゃんが出てこられる充てが栃木ん中に出来るって予言と導き、くれたからさ」「それで私のお金、そういうことに使ってたの?」「悪いかよ。うちらの幸せを呼び込むためだよ」孝子は左手首のガラス玉のブレスレットを指で叩いて、凄み返す発声で言い、居直った。
「メジロオースティン、抜きました! 独走です、独走です! しかしハッピーヒカリ、負けじと追随しております! 猛追です!」中央競馬中継のアナウンスは白熱していた。
「三万、貸せよ」孝子は言い、目に威しを込めた。
「お金、叔母さんにもう渡せない‥」「どこまでも恩知らずな奴だな、お前は!」孝子は声を荒らげ、ジョッキを叩きつけるように置いた。孝子の大声に周りの男の客達が振り返り、厨房とフロアの店員達もびくりとなって目を向けた。
「お仕事してお金もらうのって、ご飯食べるためでしょ?」
時限爆弾の性格を持つ叔母の目を直に見据えて言った菜実の口調は、刹那、健常の女性が行う問い質しのような、しっかりとした発音に聞こえた。
「私の年金と、私がダブルシービーさんでお仕事してもらったお金、私のお金なの。だから、誰かにあげちゃうの、いけないことなの。叔母さんがこれ以上、私にお金って言うんだったら、私、もう叔母さんと会えらんなくなる」「そうかよ」孝子は歪めたルージュの唇から煙を吐いて、吸いかけの煙草を揉み消した。煙草は中央で折れて、黒いプラスチックの灰皿の中に、くたりと這った。
「行けよ」孝子は菜実を見ず、サワーを呷り飲んだ。菜実は荒みきったその姿を、変えようもないものを見る、諦めの目で見た。
「叔母さんは、お母さんに会いたくないの?」「あんな恥ずかしい女が栃木でくたばろうが出てこようが、私の知ったこっちゃねえんだよ! あいつのために、妹の私がガキの頃からどんだけ恥かいてきたかなんて、分かるはずがねえだろ、お前なんかに! その挙句に、糞とションベンと、生理の始末も自分で出来ないお前の世話まで押しつけて、国に保証されて、国民が納めてる税金で、ただの服着て、ただ飯食って、ただ風呂入ってやがってよ!」
孝子の吐き捨てに、周りの客達の視線が集中し、出入口近くの一脚テーブルの席で生ビールを傾けていたノーネクタイのスーツを着た二人の男が、「あんな可愛い娘が?」と訝しむ言葉を交わしていた。
「いや、昔は服とか靴で分かったものだけど、今の軽い人は見ただけじゃ分からないよ。美人とかイケメンの上にお洒落な恰好してたりすれば、会話するまでは」「いや、行動が不審だったりすることがあるから」
半日土曜出勤上がりの会社員風の男達による、どこか興味本位の気が混じる会話を小耳に聞きながら、菜実は赤暖簾のかかる出入口へ足を向けた。暖簾の手前で振り返り見た孝子の後ろ姿は、凶暴性を宿したその性格に反して、小さく萎縮して見えた。
柏駅西口の立ち飲み屋を出た菜実の心に、惜別の思いは特になかった。村瀬から促されていた、一つの自分事を自分で処理した。叔母の命がある限り続くであろう金銭的略取に、自分で幕を引いたのだ。それは稲毛の浜で村瀬から促されたことを受け入れたからだ。彼を介することなく、自分の言葉で縁切りを遂行した。それがどっしりとしたものを気持ちの中に据わらせていた。
自分の尊厳、権利を自分で守った。菜実はようやく、自分を肯定する心を自分で持つことが出来た思いだった。
銀のハミルトンを見て時間を確認すると、十四時を過ぎていた。このハミルトンは、村瀬と出逢う少し前、着ている服は高級だが、横顔にどうにもしようのない寂しさを漂わせた五十代の男から買ってもらったものだった。
菜実が誘導するようにして入ったラブホテルで、男のブリーフを下ろしたところ、彼には陰茎がなかった。二十代で陰茎ガンに罹り、手術で切除したと男は言った。家は中古車の販売業を営んでおり、その上一人っ子であったことから、金に困ったことだけはなかったと言っていた。現在は親の遺した社屋で、従業員も雇わず、一人で業務を行っているとのことだった。
“話をしてくれるだけでいい。せめてハグをしてくれるだけで‥” 男のせめてもの要求に、菜実は応じた。男の背中を抱きながら、さすった。
それからほどなくして、高瀬と名乗っていたその男は、県内の河川敷地で頸動脈を切り、自殺した。菜実はそれをダブルシービーの休憩室のテレビのニュースで知ったが、それまで理解出来なかったことが、その時になって瞭然と分かった。
貧しいことは菜実には苦ではなかった。だが、己の心を暖めるものを喪失していながら、ただ、脇に存在するだけという在り様をする金の虚しさを知ったのだ。それでも菜実には、純法の鴨である信者の取り込みに己の体を使って身を挺し、そこから出る金、落ちる金にしか希望を繋げなかった。
たどってきた道のひとコマを思い出しながら、まだ昼食を摂っていないことに気がついた。
どこで摂るかあてを定めず、西口のダブルデッキに出た。コンタクトショップのサンプラーがチラシを配り、若い男女が華やいだ笑顔、人によってはクールな引き締めた表情で縦横無尽に、歩き交い、百貨店の電光掲示板スクリーンは、ロングラン公開中のハリウッド映画のPRを流している。手摺の前では、アコースティックギター二本と、手で打ち鳴らす打楽器を擁する三人編成の若者達のバンドが演奏準備に取りかかっており、メンバーの一人が、興味を持ったらしい女子の二人組と話をしている。変わらない、休日の柏だった。
何ということなくその景色を見ていると、若い男が一人、菜実の前に歩み出た。
後ろと揉み上げをさっと刈り、長めの前髪が眉の位置に揃ったマッシュヘアをし、黄土色のチェスターコートに白のマフラーを巻き、黒の幅広のコットンを履いた、だいたい菜実と同年齢くらいの中背の男で、顔は十人並みだが、不細工ではない。
男は、言葉にして言い表せない美しいものを見たと言わんばかりの、息を呑み込んだ表情をしていた。
「あの‥」若者は二重の瞼をした切れ長の目を大きく見開いて、唇を開けて立つ菜実に声かけを切り出した。
「さっき、西口で見て、その、びっくりしたんですけど、あの、いいな‥って思って。すごくいいなって‥」
その一目惚れの告白とも言える若者の言葉かけは、菜実には若干の抽象性を含んで聞こえ、意味を拾えなかったが、若者の目は、明らかに素敵な異性に心を奪われた者のそれだった。
「あの、柏の人でしょうか‥」若者は瞳孔に光を瞬かせつつ、歯切れ悪く、菜実に居住地を訊いた。
「私、お家は前は柏だったんだけど、今、船橋の三山っていう所に住んでるの」答えた菜実の、拙い言葉つきで舌が足りていない返答に、若者はますます萌えた顔をした。
「僕、根島健(ねしまけん)です。齢は先月、二十六になったばかりです。仕事は和菓子工場の営業で、我孫子のワンルームマンションで一人暮らしをしてます。突然で本当にすみません、差し支えなければ、お名前を‥」「私の?」問い返して微笑した菜実に、根島健と名乗った若者は、我を失った顔になった。
「私、池内菜実」「なみさんですか。漢字はどう書きますか?」「菜っ葉の菜に、木の実の実です」「そうですか。なん‥何だか、美味しいサラダみたいなお名前ですね。ゆ、茹で卵乗っけて、フレンチドレッシングかけて、その、頬張りたくなる‥」
健は顔を濃い朱色に染めて、所々噛みながら、名前から受けるイメージをレビューした。
「もし差し支えなければ、ラインの交換でも‥」「私、ラインとかって‥」はにかみ笑いの菜実が答えかけた時、二人の脇に総勢六人程度の人間達がずらずらと通りかかった。
先頭には普通に冷たい顔をした女、最後尾には、傲然とした表情に態度の、目つきの悪い痩せ型の男がつき、その男女は首からネームプレートを提げていた。
それ以外の四人は、明白なダウン症の青年と、一見すると特に変わった所のない、そろそろ壮年になる年齢の男、整容の行き届いていない髪に、老いと幼さが交わったようなセンスの服装をし、うち一人がよたよたと前のめりになって歩く、だいたい中年域の女性の、男女二人づつだった。
支援員に引率される知的障害者達であり、街中の一風景としては特に珍しいものではないが、菜実の目がその動く絵に引かれた理由に、遠い昔の記憶を引き上げるものがあったからだった。
沈んだ、寂しい横顔を見せて歩く、黒のつばつき帽子を被り、安物の紺のヤッケを着た、利用者とおぼしい五十代の男は、残る写真と幼い記憶の中に在る父親と、顔、表情、歩き方、佇まいと、どこも違う所がなかった。
菜実は追い、何歩か並んで歩いた。間抜けな顔をした健が後ろに取り残された。
併歩し、自分を見つめる若い女に気づいた男が、反応鈍く顔を向けた。目が合いばな、男はそれが誰なのか、また、女が自分を見つめている理由がまだ分かりかねている顔をしていた。
やがて、その顔に衝撃的な驚きが刻まれた。目が見開かれ、口が、わな、と開いた。
立ち止まった男を置くようにして、二人の支援員、他三人の利用者はエスカレーター方向へ進んだ。いかにもな曲者の顔をした支援員の男が振り向き、苛立った目で男を見た。
五十代の男の口は、「な」と発音する形に開かれていた。
「おい、大塚!」男の姓を呼び捨てた支援員が駆け寄り、戻ってきた。何かの不意打ちのような、十数年越しの再会を果たした菜実の父親、大塚洋一はこの男よりもだいぶ年長だが、男の態度、言葉つきに敬意はない。
「何やってんだ、てめえ! 行くぞ、おら!」支援員の男は洋一のナイロンヤッケの裾を掴み、家畜を引くように彼の体を引いた。その際、男のネームプレートをちらりと見ると、菜実には読めない漢字と、トゥゲザーハピネス、という片仮名の事業所名が太文字で印字されていた。そちらに目が行き、男の名前は印象づかなかった。
見違えるほど可愛く、美しい大人の女に成長した、ただ一人の子供である長女と、複雑な思いが混じる再会をした洋一は、男に引かれながら、その姿を遠ざけていった。
「お父さん!」菜実は走り、父の名を呼んだ。胸に込み上げているものは、もう生涯に渡って会う縁を失っているとばかり思っていた肉親と、全く思いがけず会うことが出来たという、懐古の感情と、愛しさだった。それが菜実の目に涙を溢れさせていた。
支援員の男が洋一の裾から手を離し、その背中を突くように押した。洋一はたたらを踏み、前へ押しやられた。振り向き、もう一度娘の顔を見た洋一の顔には、見られたくない姿を見られたという羞恥と悲しみが滲んでいた。
やがて彼は力なく俯き、二人の支援員と利用者達とともに、エスカレーター昇降口へ姿を消した。
それ以上父を追わなかった理由は、父の抱えた事情を、言葉には出来ないなりに察したからに他ならなかった。
父が自分と同じ立場にいる人間であることが分かったことは、菜実の心に締めつけるような痛みをもたらしていた。その思いが、無事に命があったことを確認する再会を喜ぶ気持ちを陰に隠れさせていた。
ただ、菜実自身にもわりとはっきりと分かっている事象ではある。自分の母親は、知っている他の子供の母親達とは、着るもの、髪、言葉が違っていた。恵みの家、ダブルシービーの利用者達の家族にも、その人達の子供と同じだと分かる人がいる。これを菜実には難しく、概要を覚え難い言葉で、「いでん」というらしい。
“装いばかりが新しい街 かじかんだ手たちが空へ伸びている 素足に食い込む冷たい残り雪 それでも懸命に空を夢見てる そこへやってくるすました紳士に淑女 嫌味を浴びせて追い立てる” スリーピースのアコースティックバンドが歌と演奏を始めた。
遠慮半分、戸惑い半分の足取りで菜実を数歩追ってきた根島健は、見てはいけないものを見てしまった後悔を顔に刻んでいたが、ものの何分か前に定めた菜実への思いは微塵も変えてはいないと見えた。ただ、反応のしようにはかなり迷っていることが分かる。
「すみませんでした‥」頬に涙を伝わせている菜実に、健は心底気まずそうに詫び、コートのポケットから一枚の付箋を出した。
涙の顔のまま受け取った菜実が見ると、雲をデザインしたブラウン色のその付箋には、090で始まる電話番号と、健のフルネームがボールペンで丁寧に書かれている。
「あの、いろいろと難しい事情がありそうなので、今日はこれを渡していきます。あの、もしよろしかったら、この番号でライン登録でもしていただけたら。直接電話をくれてもいいです。すみません‥」健は言って同時礼で頭を下げ、体を駅のほうへ反転させた。
「逢えて、本当に良かったです‥これが縁になれば、こんなに幸せなことは‥」残し置いて去っていく健の背中を、菜実はまだ実父とまみえ、その状況、近況の一端を知った衝撃が収まらない思いのまま見送った。
頭の中を白濁とさせたまま、エスカレーターを下り、横断歩道を渡り、ハウディモールへ出た。頬に滴り落ちた涙を指で拭いながら、全蓋型のアーケード街である二番街に、さまようように入った。空腹は気にならなくなっていた。
券売制の蕎麦店、ハンバーガーチェーンの支店、大手量販店の「ロビンフッド」などが立ち並ぶ通りを抜け、主に飲食系、マニアックなCDや塩化ビニール盤を扱う「タワード・レコード柏店」などの軒がある角まで歩いたところで、ある光景が目に留まった。
サンタクロースの絵が描かれ、「ナイトパック¥1000」とあるコミック・ネットカフェの看板を持った男と、まだ少年と言っていい年齢の若者が話しているが、その少年の話す言葉には、けばが立っている。看板を持っている男は齢の頃四十前半で、細面の顔に黒縁の眼鏡をかけ、細身の体つきをしている。
その顔を見た菜実は、恐るべき偶然が重なったことにまた驚いた。
看板の男は、五年前、菜実が働いていたパチンコ・スロット店の客で、菜実を妊娠させて逃亡した河合浩一だった。
一日の短い時間のうちに、生き別れと言っていい父親とまみえ、本来の女なら恨むべき男とまみえた。どちらも、自分を事実上捨てていった男だ。菜実は皆目整理がつかなかった。整理をつけられないまま、絡まれている風の河合を見て、棒のように立っていた。
河合はコミックカフェの看板を壁に立てかけるように置き、財布を出すと、金髪のフェードヘアをし、耳にはピアス、豹柄のパーカーを着た、推定年齢十六歳といった少年に、抜いた紙幣を一枚渡した。
少年は、聞き取れない声で何かを短く言うなり、脚をしなわせ、河合の腿にローキックを入れた。肉の打たれる音が鳴り、河合の上体が激しくぶれた。河合はただ全てを諦めた表情で、壁に手をついて、眼鏡の奥の目を路面に這わせていた。それを二列互い違いの方向を通行する若者達が、ぽかんとなった目で見遣り、関わろうとする様子もなく、視線を連れの顔や前方に戻して歩き去っていく。
菜実は静かに歩み寄った。河合が菜実の顔を見ることはなく、少年が振り向き、胡散臭げにねめつけてきた。どろりとした目に荒れた肌、常時のものと思われるぽっかりと開いた口には痩せた歯が並び、その顔は愛らしい少年のものではなかった。菜実にも漠然と分かる気がする、中毒者の顔だった。
「人、ぶったり蹴るするのは、駄目のことです」菜実の言葉かけに、少年は顔一面に訝しみを刻み、彼女の顔を見ていたが、やがて、ハウディモールの方向へ踵を返し、背中を丸め不逞ながに股の歩き方で後ろ姿を遠ざけていった。
そこで河合が緩慢な動作で顔を上げ、ようやく菜実の顔を見た。その顔に、徐々に驚きが刻まれ、やがて、恐れの色が満ちていった。
「河合さん、菜実です。あの、パチンコ屋さんの‥」「池内さん‥」菜実がまだ涙の気が残る顔で名乗ると、河合は名前を反芻した。
「今、派遣で働いてるんだ。君には本当に酷いことをした。謝ろうにも謝りきれないよ。今日はあと二時間で仕事が終わるから、事情を説明させてほしいんだ」顔を伏せたまま言った河合に、菜実は頷いた。
「池内さんは、今は仕事は何してるの?」「私、今、就労継続支援さんでお仕事してるんだ」「そうなんだ‥」「さっきの男の子は?」「上の息子だよ。今、高一なんだ。いつもああして、俺に金をたかってくる‥」河合の吐き出しは、雑踏の音楽と喧騒に中に溶けて、消えた。
それからコンビニの総菜パンをかじって昼食代わりにし、高島屋やイトーヨーカ堂などをぶらついて、河合と合流した。
派遣元のオフィスが二丁目にあるとのことで、菜実はそのオフィスのあるというビルまでついていった。二階窓に「ハーティ」という写出看板文字が貼られている。
その五階建てビルの前で十分ほど待ち、黒のジャケットにマフラーの私服で出てきた河合は、他の人の耳には入れたくないから、アパートに来て、と菜実に耳打ちした。菜実はそれに違和感は覚えなかったが、少し、負い目の疼きを感じた。その程度の感情しか覚えなかった。負い目とは、無論、村瀬を対象にしている。この辺りで、自分から連絡することもありだと思っていた矢先だったからだ。
河合が現在住むワンルームマンションは、西口を出て二十分ほど歩く明原の水戸街道寄りの場所にあった。借りている部屋は二階の、階段側から二番目だった。
「どうぞ」と促され、パンプスを脱いで上がった部屋は、青のカーペットが敷かれ、隅にシングルのベッド、窓際に小さなテレビが置かれている。西側には低い箪笥と、CD、DⅤDの並ぶラックがあった。猫の額のようなキッチンは光沢が出ていて、衛生管理がきちんとされているようだ。
食卓を兼ねているらしい小さなテーブル前に、河合が隅から取った座布団を置き、座って、と声をかけた。菜実が座ると、河合は冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを出し、コップを一つ用意して注ぎ、まず菜実の前にそれを置き、それから自分の前には缶ビールの500mlを置いて、菜実と向き合って座った。
「子供は‥産んだの?」互いに一分ほど沈黙してから、河合は目を伏せたまま、菜実に訊いた。
「産んだよ」「今、一緒なの?」「お家で育ててたんだけど、一歳の時、死んじゃったんだ。でも、いつもお写真持ってるから、私、寂しくない‥」菜実は言ってバッグからエルメスの財布を出し、中の写真を抜いて、河合の前に置いた。それは河合との間に出来た夏美を、菜実が抱いて、幸せの笑みを浮かべている一葉だった。
それに視線を落とした河合の眉が力無く垂れ下がり、口の端も下がった。河合はしばらくその顔のまま、写真を見つめ続けた。そののち、深く頭を垂れ、菜実から顔を伏せた。
「くだらない身の上話だと思っていいよ。聞いてくれるかな」河合は顔を垂れたまま言い、缶ビールのプルタブを引き、喉を鳴らして三、四口、飲んだ。口の端に垂れたビールを手で拭い、そっと缶を置いた。
「いくらかは、話したから知ってるよね。これは俺があの時、君を求めた動機でもあるんだけど」河合の声が小さく沈んだ。
「池内さんの障害のことは、あの時もう分かってたよ。だから、少しでも分かりやすいように話すよ」河合は小さな声の中に、自分の罪を贖うような優しさを込めた。
「俺は物心ついた時は、兄貴と二人で親戚中を盥回しにされてたんだ。その中に、お金持ちの家はなかった。だから、穀潰しの厄介者っていう扱いを受けて、その預けられた先の家では散々いじめられた。盥回しの理由は、あとから知ったことだけど、親父が月に十万程度しか稼ぎ出せない人間だっていうことと、お袋が精神障害者だっていうことだったんだ。その噂は学校にも広まって、俺は学校でもいじめられたよ。預かり先の家にも、学校にも居場所がなかったんだ」
河合のその境遇は、菜実はある程度話を聞いて知っている。自分はそこに、自分と相通じるものを感じ取ったのだろう。だから、彼を自分の体に受け入れた。だが、その時の菜実の頭には、その先、というものは概念づかなかった。身籠り、産んだ子供を不慮の事故で失う未来も。その失われた小さな命の代償に、二十万円程度の金が支払われ、道路交通法上のことで法的な咎を問われなかった相手方のいいように示談が締結されることも。
「そこでぐれて不良の道へ行ったところで、気が弱くて腕っ節もない俺なんか、いいとこパシリになれるかなれないかだし、これといった物事の才能もないから、何で発散していいのか分からなかったよ。何度、自分の生い立ちを呪ったか分からない。だけど、努力はしてみたよ。そこで、定時制高校で学びながら、新聞屋で働いたんだ。学費を自分の稼ぎから捻出してね。定時制を出たあとは、公団を借りて、兄貴と二人で住み始めた。だけど、兄貴が、勤めてた食品工場の仕事を辞めて、働かなくなって、俺の稼ぎだけを当てにするようになったんだ」本格的な地獄の始まりを語り始める河合の口調は、昔のことを話すだけというように淡々としていた。
「兄貴はその頃から、日がな一日中煙草を吸って、ゲームと漫画にかじりつく暮らしを送るようになったんだ。就職を探してくれと何度もお願いしたけど、そのつど、不景気だからどうだとか、世間が俺を認めないとか何だとかって理屈を言って、腰を上げる様子がなかったよ。だから、俺が兄貴を養う形になったんだよ。新聞屋の稼ぎで大の男二人分の生活費なんて賄えないよ。まして兄貴の煙草代とか漫画代までさ」
河合の話は、菜実には所々難しく、所々が呑み込めたが、難しいなりに伝達してくる重さと影のような暗みに引き込まれる感じがし、手元のジュースに手がつかない。
「それで街金から金を借りたんだよ。二十万程度借りるつもりだったのが、百万、押し貸しされたんだ。新聞屋じゃ配達も集金も、拡張もみんなやってたけど、怖い筋の人の相手もしなくちゃいけなかったりして、すごいストレスだったよ。血便も、血尿も出てたんだ。血の混ざったうんこと、血のおしっこだよ。その上、借金と、働かない兄貴まで抱えてね。その先行きが見えない不安とストレスが、俺をテレクラ遊びに走らせたんだ。そのテレクラが、本当の地獄の始まりだったんだよ‥」河合は目を固くつむり、唇を噛んだ。
「てれくれ?」「そう、テレフォンクラブ。男が個室に入って、置いてある電話機に、女が電話をかけてくるのを待つっていうシステムのお店で、携帯やパソコンが普及する前は、全国にたくさん店があったんだ。あとから出てきた出会い系とかに押されて、だんだん数が減って、今はもうほとんどないはずだけどね」「お電話、するだけのお店なの?」「男は寂しさを紛らわすことで、女は男をからかうことが目的で利用することがほとんどだったと思う。待ち合わせ先に来た男を遠くから見て、その男の見た目を馬鹿にして笑いものにしたりとかね。だけど、その時の俺は、自分の相手をしてくれる女さえ選べなくなってる状態だったんだ。それで、同じ歳の、働いてない女に引っかかったんだけど、その女は‥」河合は缶ビールを取り、数口ほどあおった。
「その頃、ちょうどよくって言っていいのかは分からないけど、兄貴が死んだんだ。多分、糖尿病だったんだと思うんだけど、肥満が進んでて、心臓が肥大してたんだ。それで朝、寝た状態で死んでてね。その日のうちに斎場を手配して、火葬して、お骨は無縁墓地で預かってもらったのね。遺骨を部屋に置いとくのも嫌だったからさ。それから、俺はそのテレクラの女と、借金を抱えたまま籍を入れたんだ。奥さんは働こうとしなかったよ。俺がいくらお願いしてもさ。そればかりか、俺の要請には切れを返してくる有様だった。家事もほとんどと言っていいほどやらなかった。それで俺が必死で働いて借金を返してる二十八の時に最初の子供が出来て、三十の時に二番目が生まれたんだけど‥」
声を抑えた一身話と、小さな吐息、合いの手、短い質問だけが交わされる静寂の中で、河合が座布団から腰を上げ、菜実の隣に移動し、座った。
「女から暴力振るわれる男の気持ちって、池内さんには分かるかな」河合は語尾に溜息を交えた。菜実は隣の河合の顔を見た。
「これは本当に屈辱で、悔しくて、悲しいものなんだ。男のプライドとか誇りを、ぼろ雑巾みたいにされるんだよ。俺は結婚したすぐあとから、奥さんから汚い言葉で罵られて、いいように用に使われてて、その頃から軽く蹴られたりしてたんだけど、二人目が生まれてから、まるで容赦のないパンチ、キックを、俺の顔面とか腹に食らわしてくるようになったんだ。それで、成長した子供も奥さんの言葉、行動を真似し始めて、俺を馬鹿だとか爺いだとかって罵って、俺を殴る蹴るするようになったんだ。それでも俺は、その奥さんと子供二人を養った。料理も、普通レベルの掃除も出来ない奥さんの代わりに朝食や夕食を作って、子供を公立の小学校にも通わせてね。子供は外でも暴力や窃盗をやって補導されて、何度俺が被害者側の保護者や警察に頭を下げて謝ったか分からない。本当に、生き地獄だった‥」
河合はひとしきり吐き出すと、天井を仰いだ。その目には、涙の光が見えた。それが菜実の胸にも裂くような痛みをもたらした。菜実には分からない語彙もふんだんに混じっているが、耐え難いものを背負った河合の不幸な出自、境遇はよく理解出来た。それが菜実の涙も誘った。
「俺には、趣味と呼べるものがこれと言ってない。子供のころからずっと追い立てられてて、そんなものを作る余裕はなかった。それで、世間一般の楽しみとは何だろうって自分なりに考えて、とりあえずパチンコとスロットを始めてみた。そういう時だったね、新柏の“アイドル”で、従業員だった池内さんと会って、デートするようになった‥」河合が菜実の顔を見、手の甲に自分の掌を重ねた。
「何度も言うけど、君には罪深いことをしたよ。謝って済むことじゃないよ。実は君から赤ちゃんが出来たことを打ち明けられた時、駆け落ちも考えたんだ。だけど、その時になって、臆病風に吹かれたんだ。これが奥さんや、背中に竜を彫った恐ろしい義理のお兄さんに知られたらと思うと、恐ろしさで頭の中が一杯になってしまったんだよ。それで気がついた時は、君の番号を着信拒否設定にしてたんだ」河合は大きな溜息を吐くと、瞬かせた目から涙の筋を落とした。
「河合さん、まだ奥さんと、結婚してるの?」目に涙を滲ませて尋ねた菜実にも、語彙的に他の言葉があることが全く分からないでもない。「別居」は分かるようで分からない、または分からないようで分かる気もする。だが、訊く言葉は、表現としては大袈裟なものになった。
「別居してるんだ」河合はまさにその時菜実の頭に思い浮かんだ言葉を、呟くようにぽそっと答えた。
「親戚だとかって向こうが言い張る男が、去年から上がり込んでる。それで家を出て、今、こうして一人で暮らしてる。それを機に、新聞屋も辞めて、今、派遣で働いてる。さっき見て分かっただろうけど、息子達がああして金をたかりに来るんだ。もうどうにもならない。俺の人生がどうしてこんなに苦しいのか分からない。多分、正式に離婚する勇気も持てないまま、息子達のたかりもこれからも続くんだと思う」「河合さんのお父さんとお母さんは?」「親父は生きてるかも死んでるかも分からない。お袋は、県外の精神障害者の入所施設にいるみたいだよ」言った河合は、菜実の肩を力に任せて抱き寄せた。菜実はその行い自体には戸惑いは感じなかったが、それを許している自分に罪の意識を覚えた。
菜実の体が押し倒され、深く思いつめた河合の顔が真上に来た。白く部屋を照らす天井のシーリングライトが、菜実の目には悲しげに見えた。
「俺には分からなかったんだ。人並みっていうものの、当たり前の温かさが。あの時、君と出逢ったことで、やっとそれに触れることが叶ったんだ」河合はビブラートのように声を震わせながら、菜実のセーターをたくし上げ、ブラジャーを外してそばに投げ置き、露わになった乳房を両掌に掴み、胸に顔を寄せて乳首を吸い始めた。河合の手に掴まれて揉まれ、口吻部に押された両方の乳房が歪み、形を変えた。
「お願いだ。君に出来る限りでいいから、時間がある時に俺のそばにいてくれ。今の俺には君しかいない。頼むよ」言葉の節目を区切るようにして、河合の唇と舌が菜実の乳房を貪った。
やがてスカートの裾がまくり上げられ、パンティの中に差し入れられた指が陰毛を搔き分けた。
河合を憐れむ気持ちが胸を刺す中、村瀬の優しい笑顔と、自分への労りが海のように深く伝わってくる掌の温かさが思い出された。それでも、知恵が思いつかない。河合という、連鎖的な不運、不幸の中に浸かって生きてこざるを得なかった、血の気が少なく,男同士の荒沙汰に対応出来ない性格が幸せを約束しなかった男に、抱かれることを含めた寄り添い。それ以外のものは。一切。
「待ってて。ピル、飲むから‥」菜実の小声に、河合は一寸動きを止め、そののち肩を掴み、菜実の唇を自分の唇で塞いできた。体を降り重ねた河合の肋骨の向こうからソニックされる早打つ鼓動を胸に聴きながら、菜実は、自分の気持ちをさらう出来事、再会劇が重なった今日のことを思い出していた。
なお、ダブルデッキで自分を捕まえ、唐突な愛の告白をしてきた根島と名乗った若者のことは、河合に舌を挿し入れられ、陰部をまさぐられている今は、全くと言っていいほど印象の中にない。
小さなテーブルの上には、さほど遠くない日の母娘の写真と、手つかずのオレンジジュースが置かれたままになっていた。そのテーブル脇で行われている、連鎖する罪を象徴する行為を傍観、あるいは俯瞰するように。
菜実が赤の暖簾を潜ると、いらっしゃい、という店主の声が迎えたが、彼女は自分が酒を飲むために入ったわけではなかった。
土曜の日中だが、この店は昼から開いている。内壁がシックな黒に統一塗装された二十坪ほどの店内には、会話や雰囲気からパチ類でのひと勝負を終えたか、あるいはこれから勝負に臨む者達が串物や刺身、揚げ物、煮込みをつまみ、酒を呷りながら、攻略談義に華を咲かせている。会話によると、北松戸の競馬場帰りらしい者達もいる。置かれた液晶テレビは競馬中継を映し出している。
フェイクのミンクコートを着た叔母の孝子は、厨房寄りのカウンター席に頬杖をついて、荒んだ横顔を見せて、半分程に減ったサワーのジョッキを前に煙草を燻らせていた。前には食べかけの刺身があった。
孝子は入ってきた菜実に気づくと、吸口に紅くルージュの付着した煙草を小さな灰皿になすって消して、睨むようにその姿を見た。
「まだ話してなかったね。ひと月ぐらい前、お前の男、うちに挨拶に来たんだ。お前のこと、くれっつってさ。齢はお前よりだいぶ行ってるけど、なかなかいい男じゃん、あの村瀬とかって‥」瞼を伏せて立つだけの菜実に述べ、孝子はサワーを口に運んだ。
「喧嘩も強えしな」孝子はつけ加えた。
「今日、お前呼んだのはさ、弁護士費用とは別の金の話がしたかったからなんだよ。あれはお前が送ってくれた分がもう貯まったからいいんだけど、三つぐらい都合つかないかな」孝子の顔に狡い翳が落ちた。
「ちょっとパチに入れ込みすぎちゃって、金がねえんだわ。返すからさ、三万貸してよ」孝子はジョッキの取っ手を握りながら言い、赤い色をしたサワーを飲み干した。氷がジョッキの底で鳴った。
「これ、アセロラハイ、もう一つ‥」孝子は底に氷だけが残った空のジョッキを掲げて、女子の店員を呼び寄せてオーダーした。
「お金、もう駄目なの。私、あと九年待つ。九年したら、お母さんとまた暮らせるようになるって、村瀬さん、言ってる‥」「何? 私が言ってること、お前疑ってんの?」目を剥いた孝子に、菜実はローヒールの靴底を後ずさりさせた。
孝子は姪である菜実を、いくらでも騙すことの出来る相手だという前提でものを話している。だが、今の菜実は、村瀬や佐々木紅美子、夕夏と出逢ったことで、わずかながら知恵の光が灯り始めている。菜実と同じく私生児の子供を産み、シングルで養育してきた紅美子とは、菜実は語彙こそ拙いながら、いろいろと深い話をしている。
「何も踏み倒すっつってんじゃねえんだよ。返すから貸せっつってんだよ。三つ、頼むよ」孝子は畳み込むように言い、さっと出てきたアセロラハイをあおり、刺身を口に入れてくちゃくちゃと噛んだ。
「あのお袋が霊感師の脳味噌ぶちまける事件起こして、無期打たれて栃木にぶち込まれてから、鼻水垂らしてるお前の家に泊り込んで、お前の飯とか、便所と風呂の世話してやったの、誰だよ。あいつを栃木から出すために、お前の稼いだ分、プールしてやってたのは誰だよ。お前、分かってんのかよ」孝子は続け、菜実は伏せた瞼を時折上げて、その顔を見た。
孝子の毒づきには力がなかった。金があれば使うだけ使い、腹が立てば人を殴るという、衝動と感情の赴きだけに任せて紡ぐ生を四十代半ばまでの長きに渡って送り、自身が困っていながら反省の一つもすることなく、障害者の姪にたかってきたつけが、今、回ってきている。
「叔母さんに、もうお金渡せない‥」「何でだよ」「叔母さんが言ってる弁護士のお金って、嘘つきだから」
孝子の顔に強張りが見えた。これまで自分に従順だとばかり思ってきた知的障害の姪から、事実をストレートに突きつけられた動揺だった。
孝子は強張った顔に、何かの誤魔化しをかける笑いを刻んだ。
「あのさ、悪かったな。あれは方便だったんだよ」言って、ロングのメンソールをもう一本抜き、せわしない手つきでライターを取り、高く伸びる火を先端につけた。
「弁護士費用ってのは、もののたとえ。私がやってる、“銀照の道”の導師がさ、御守護神様に浄財積めば、お前の母ちゃんが出てこられる充てが栃木ん中に出来るって予言と導き、くれたからさ」「それで私のお金、そういうことに使ってたの?」「悪いかよ。うちらの幸せを呼び込むためだよ」孝子は左手首のガラス玉のブレスレットを指で叩いて、凄み返す発声で言い、居直った。
「メジロオースティン、抜きました! 独走です、独走です! しかしハッピーヒカリ、負けじと追随しております! 猛追です!」中央競馬中継のアナウンスは白熱していた。
「三万、貸せよ」孝子は言い、目に威しを込めた。
「お金、叔母さんにもう渡せない‥」「どこまでも恩知らずな奴だな、お前は!」孝子は声を荒らげ、ジョッキを叩きつけるように置いた。孝子の大声に周りの男の客達が振り返り、厨房とフロアの店員達もびくりとなって目を向けた。
「お仕事してお金もらうのって、ご飯食べるためでしょ?」
時限爆弾の性格を持つ叔母の目を直に見据えて言った菜実の口調は、刹那、健常の女性が行う問い質しのような、しっかりとした発音に聞こえた。
「私の年金と、私がダブルシービーさんでお仕事してもらったお金、私のお金なの。だから、誰かにあげちゃうの、いけないことなの。叔母さんがこれ以上、私にお金って言うんだったら、私、もう叔母さんと会えらんなくなる」「そうかよ」孝子は歪めたルージュの唇から煙を吐いて、吸いかけの煙草を揉み消した。煙草は中央で折れて、黒いプラスチックの灰皿の中に、くたりと這った。
「行けよ」孝子は菜実を見ず、サワーを呷り飲んだ。菜実は荒みきったその姿を、変えようもないものを見る、諦めの目で見た。
「叔母さんは、お母さんに会いたくないの?」「あんな恥ずかしい女が栃木でくたばろうが出てこようが、私の知ったこっちゃねえんだよ! あいつのために、妹の私がガキの頃からどんだけ恥かいてきたかなんて、分かるはずがねえだろ、お前なんかに! その挙句に、糞とションベンと、生理の始末も自分で出来ないお前の世話まで押しつけて、国に保証されて、国民が納めてる税金で、ただの服着て、ただ飯食って、ただ風呂入ってやがってよ!」
孝子の吐き捨てに、周りの客達の視線が集中し、出入口近くの一脚テーブルの席で生ビールを傾けていたノーネクタイのスーツを着た二人の男が、「あんな可愛い娘が?」と訝しむ言葉を交わしていた。
「いや、昔は服とか靴で分かったものだけど、今の軽い人は見ただけじゃ分からないよ。美人とかイケメンの上にお洒落な恰好してたりすれば、会話するまでは」「いや、行動が不審だったりすることがあるから」
半日土曜出勤上がりの会社員風の男達による、どこか興味本位の気が混じる会話を小耳に聞きながら、菜実は赤暖簾のかかる出入口へ足を向けた。暖簾の手前で振り返り見た孝子の後ろ姿は、凶暴性を宿したその性格に反して、小さく萎縮して見えた。
柏駅西口の立ち飲み屋を出た菜実の心に、惜別の思いは特になかった。村瀬から促されていた、一つの自分事を自分で処理した。叔母の命がある限り続くであろう金銭的略取に、自分で幕を引いたのだ。それは稲毛の浜で村瀬から促されたことを受け入れたからだ。彼を介することなく、自分の言葉で縁切りを遂行した。それがどっしりとしたものを気持ちの中に据わらせていた。
自分の尊厳、権利を自分で守った。菜実はようやく、自分を肯定する心を自分で持つことが出来た思いだった。
銀のハミルトンを見て時間を確認すると、十四時を過ぎていた。このハミルトンは、村瀬と出逢う少し前、着ている服は高級だが、横顔にどうにもしようのない寂しさを漂わせた五十代の男から買ってもらったものだった。
菜実が誘導するようにして入ったラブホテルで、男のブリーフを下ろしたところ、彼には陰茎がなかった。二十代で陰茎ガンに罹り、手術で切除したと男は言った。家は中古車の販売業を営んでおり、その上一人っ子であったことから、金に困ったことだけはなかったと言っていた。現在は親の遺した社屋で、従業員も雇わず、一人で業務を行っているとのことだった。
“話をしてくれるだけでいい。せめてハグをしてくれるだけで‥” 男のせめてもの要求に、菜実は応じた。男の背中を抱きながら、さすった。
それからほどなくして、高瀬と名乗っていたその男は、県内の河川敷地で頸動脈を切り、自殺した。菜実はそれをダブルシービーの休憩室のテレビのニュースで知ったが、それまで理解出来なかったことが、その時になって瞭然と分かった。
貧しいことは菜実には苦ではなかった。だが、己の心を暖めるものを喪失していながら、ただ、脇に存在するだけという在り様をする金の虚しさを知ったのだ。それでも菜実には、純法の鴨である信者の取り込みに己の体を使って身を挺し、そこから出る金、落ちる金にしか希望を繋げなかった。
たどってきた道のひとコマを思い出しながら、まだ昼食を摂っていないことに気がついた。
どこで摂るかあてを定めず、西口のダブルデッキに出た。コンタクトショップのサンプラーがチラシを配り、若い男女が華やいだ笑顔、人によってはクールな引き締めた表情で縦横無尽に、歩き交い、百貨店の電光掲示板スクリーンは、ロングラン公開中のハリウッド映画のPRを流している。手摺の前では、アコースティックギター二本と、手で打ち鳴らす打楽器を擁する三人編成の若者達のバンドが演奏準備に取りかかっており、メンバーの一人が、興味を持ったらしい女子の二人組と話をしている。変わらない、休日の柏だった。
何ということなくその景色を見ていると、若い男が一人、菜実の前に歩み出た。
後ろと揉み上げをさっと刈り、長めの前髪が眉の位置に揃ったマッシュヘアをし、黄土色のチェスターコートに白のマフラーを巻き、黒の幅広のコットンを履いた、だいたい菜実と同年齢くらいの中背の男で、顔は十人並みだが、不細工ではない。
男は、言葉にして言い表せない美しいものを見たと言わんばかりの、息を呑み込んだ表情をしていた。
「あの‥」若者は二重の瞼をした切れ長の目を大きく見開いて、唇を開けて立つ菜実に声かけを切り出した。
「さっき、西口で見て、その、びっくりしたんですけど、あの、いいな‥って思って。すごくいいなって‥」
その一目惚れの告白とも言える若者の言葉かけは、菜実には若干の抽象性を含んで聞こえ、意味を拾えなかったが、若者の目は、明らかに素敵な異性に心を奪われた者のそれだった。
「あの、柏の人でしょうか‥」若者は瞳孔に光を瞬かせつつ、歯切れ悪く、菜実に居住地を訊いた。
「私、お家は前は柏だったんだけど、今、船橋の三山っていう所に住んでるの」答えた菜実の、拙い言葉つきで舌が足りていない返答に、若者はますます萌えた顔をした。
「僕、根島健(ねしまけん)です。齢は先月、二十六になったばかりです。仕事は和菓子工場の営業で、我孫子のワンルームマンションで一人暮らしをしてます。突然で本当にすみません、差し支えなければ、お名前を‥」「私の?」問い返して微笑した菜実に、根島健と名乗った若者は、我を失った顔になった。
「私、池内菜実」「なみさんですか。漢字はどう書きますか?」「菜っ葉の菜に、木の実の実です」「そうですか。なん‥何だか、美味しいサラダみたいなお名前ですね。ゆ、茹で卵乗っけて、フレンチドレッシングかけて、その、頬張りたくなる‥」
健は顔を濃い朱色に染めて、所々噛みながら、名前から受けるイメージをレビューした。
「もし差し支えなければ、ラインの交換でも‥」「私、ラインとかって‥」はにかみ笑いの菜実が答えかけた時、二人の脇に総勢六人程度の人間達がずらずらと通りかかった。
先頭には普通に冷たい顔をした女、最後尾には、傲然とした表情に態度の、目つきの悪い痩せ型の男がつき、その男女は首からネームプレートを提げていた。
それ以外の四人は、明白なダウン症の青年と、一見すると特に変わった所のない、そろそろ壮年になる年齢の男、整容の行き届いていない髪に、老いと幼さが交わったようなセンスの服装をし、うち一人がよたよたと前のめりになって歩く、だいたい中年域の女性の、男女二人づつだった。
支援員に引率される知的障害者達であり、街中の一風景としては特に珍しいものではないが、菜実の目がその動く絵に引かれた理由に、遠い昔の記憶を引き上げるものがあったからだった。
沈んだ、寂しい横顔を見せて歩く、黒のつばつき帽子を被り、安物の紺のヤッケを着た、利用者とおぼしい五十代の男は、残る写真と幼い記憶の中に在る父親と、顔、表情、歩き方、佇まいと、どこも違う所がなかった。
菜実は追い、何歩か並んで歩いた。間抜けな顔をした健が後ろに取り残された。
併歩し、自分を見つめる若い女に気づいた男が、反応鈍く顔を向けた。目が合いばな、男はそれが誰なのか、また、女が自分を見つめている理由がまだ分かりかねている顔をしていた。
やがて、その顔に衝撃的な驚きが刻まれた。目が見開かれ、口が、わな、と開いた。
立ち止まった男を置くようにして、二人の支援員、他三人の利用者はエスカレーター方向へ進んだ。いかにもな曲者の顔をした支援員の男が振り向き、苛立った目で男を見た。
五十代の男の口は、「な」と発音する形に開かれていた。
「おい、大塚!」男の姓を呼び捨てた支援員が駆け寄り、戻ってきた。何かの不意打ちのような、十数年越しの再会を果たした菜実の父親、大塚洋一はこの男よりもだいぶ年長だが、男の態度、言葉つきに敬意はない。
「何やってんだ、てめえ! 行くぞ、おら!」支援員の男は洋一のナイロンヤッケの裾を掴み、家畜を引くように彼の体を引いた。その際、男のネームプレートをちらりと見ると、菜実には読めない漢字と、トゥゲザーハピネス、という片仮名の事業所名が太文字で印字されていた。そちらに目が行き、男の名前は印象づかなかった。
見違えるほど可愛く、美しい大人の女に成長した、ただ一人の子供である長女と、複雑な思いが混じる再会をした洋一は、男に引かれながら、その姿を遠ざけていった。
「お父さん!」菜実は走り、父の名を呼んだ。胸に込み上げているものは、もう生涯に渡って会う縁を失っているとばかり思っていた肉親と、全く思いがけず会うことが出来たという、懐古の感情と、愛しさだった。それが菜実の目に涙を溢れさせていた。
支援員の男が洋一の裾から手を離し、その背中を突くように押した。洋一はたたらを踏み、前へ押しやられた。振り向き、もう一度娘の顔を見た洋一の顔には、見られたくない姿を見られたという羞恥と悲しみが滲んでいた。
やがて彼は力なく俯き、二人の支援員と利用者達とともに、エスカレーター昇降口へ姿を消した。
それ以上父を追わなかった理由は、父の抱えた事情を、言葉には出来ないなりに察したからに他ならなかった。
父が自分と同じ立場にいる人間であることが分かったことは、菜実の心に締めつけるような痛みをもたらしていた。その思いが、無事に命があったことを確認する再会を喜ぶ気持ちを陰に隠れさせていた。
ただ、菜実自身にもわりとはっきりと分かっている事象ではある。自分の母親は、知っている他の子供の母親達とは、着るもの、髪、言葉が違っていた。恵みの家、ダブルシービーの利用者達の家族にも、その人達の子供と同じだと分かる人がいる。これを菜実には難しく、概要を覚え難い言葉で、「いでん」というらしい。
“装いばかりが新しい街 かじかんだ手たちが空へ伸びている 素足に食い込む冷たい残り雪 それでも懸命に空を夢見てる そこへやってくるすました紳士に淑女 嫌味を浴びせて追い立てる” スリーピースのアコースティックバンドが歌と演奏を始めた。
遠慮半分、戸惑い半分の足取りで菜実を数歩追ってきた根島健は、見てはいけないものを見てしまった後悔を顔に刻んでいたが、ものの何分か前に定めた菜実への思いは微塵も変えてはいないと見えた。ただ、反応のしようにはかなり迷っていることが分かる。
「すみませんでした‥」頬に涙を伝わせている菜実に、健は心底気まずそうに詫び、コートのポケットから一枚の付箋を出した。
涙の顔のまま受け取った菜実が見ると、雲をデザインしたブラウン色のその付箋には、090で始まる電話番号と、健のフルネームがボールペンで丁寧に書かれている。
「あの、いろいろと難しい事情がありそうなので、今日はこれを渡していきます。あの、もしよろしかったら、この番号でライン登録でもしていただけたら。直接電話をくれてもいいです。すみません‥」健は言って同時礼で頭を下げ、体を駅のほうへ反転させた。
「逢えて、本当に良かったです‥これが縁になれば、こんなに幸せなことは‥」残し置いて去っていく健の背中を、菜実はまだ実父とまみえ、その状況、近況の一端を知った衝撃が収まらない思いのまま見送った。
頭の中を白濁とさせたまま、エスカレーターを下り、横断歩道を渡り、ハウディモールへ出た。頬に滴り落ちた涙を指で拭いながら、全蓋型のアーケード街である二番街に、さまようように入った。空腹は気にならなくなっていた。
券売制の蕎麦店、ハンバーガーチェーンの支店、大手量販店の「ロビンフッド」などが立ち並ぶ通りを抜け、主に飲食系、マニアックなCDや塩化ビニール盤を扱う「タワード・レコード柏店」などの軒がある角まで歩いたところで、ある光景が目に留まった。
サンタクロースの絵が描かれ、「ナイトパック¥1000」とあるコミック・ネットカフェの看板を持った男と、まだ少年と言っていい年齢の若者が話しているが、その少年の話す言葉には、けばが立っている。看板を持っている男は齢の頃四十前半で、細面の顔に黒縁の眼鏡をかけ、細身の体つきをしている。
その顔を見た菜実は、恐るべき偶然が重なったことにまた驚いた。
看板の男は、五年前、菜実が働いていたパチンコ・スロット店の客で、菜実を妊娠させて逃亡した河合浩一だった。
一日の短い時間のうちに、生き別れと言っていい父親とまみえ、本来の女なら恨むべき男とまみえた。どちらも、自分を事実上捨てていった男だ。菜実は皆目整理がつかなかった。整理をつけられないまま、絡まれている風の河合を見て、棒のように立っていた。
河合はコミックカフェの看板を壁に立てかけるように置き、財布を出すと、金髪のフェードヘアをし、耳にはピアス、豹柄のパーカーを着た、推定年齢十六歳といった少年に、抜いた紙幣を一枚渡した。
少年は、聞き取れない声で何かを短く言うなり、脚をしなわせ、河合の腿にローキックを入れた。肉の打たれる音が鳴り、河合の上体が激しくぶれた。河合はただ全てを諦めた表情で、壁に手をついて、眼鏡の奥の目を路面に這わせていた。それを二列互い違いの方向を通行する若者達が、ぽかんとなった目で見遣り、関わろうとする様子もなく、視線を連れの顔や前方に戻して歩き去っていく。
菜実は静かに歩み寄った。河合が菜実の顔を見ることはなく、少年が振り向き、胡散臭げにねめつけてきた。どろりとした目に荒れた肌、常時のものと思われるぽっかりと開いた口には痩せた歯が並び、その顔は愛らしい少年のものではなかった。菜実にも漠然と分かる気がする、中毒者の顔だった。
「人、ぶったり蹴るするのは、駄目のことです」菜実の言葉かけに、少年は顔一面に訝しみを刻み、彼女の顔を見ていたが、やがて、ハウディモールの方向へ踵を返し、背中を丸め不逞ながに股の歩き方で後ろ姿を遠ざけていった。
そこで河合が緩慢な動作で顔を上げ、ようやく菜実の顔を見た。その顔に、徐々に驚きが刻まれ、やがて、恐れの色が満ちていった。
「河合さん、菜実です。あの、パチンコ屋さんの‥」「池内さん‥」菜実がまだ涙の気が残る顔で名乗ると、河合は名前を反芻した。
「今、派遣で働いてるんだ。君には本当に酷いことをした。謝ろうにも謝りきれないよ。今日はあと二時間で仕事が終わるから、事情を説明させてほしいんだ」顔を伏せたまま言った河合に、菜実は頷いた。
「池内さんは、今は仕事は何してるの?」「私、今、就労継続支援さんでお仕事してるんだ」「そうなんだ‥」「さっきの男の子は?」「上の息子だよ。今、高一なんだ。いつもああして、俺に金をたかってくる‥」河合の吐き出しは、雑踏の音楽と喧騒に中に溶けて、消えた。
それからコンビニの総菜パンをかじって昼食代わりにし、高島屋やイトーヨーカ堂などをぶらついて、河合と合流した。
派遣元のオフィスが二丁目にあるとのことで、菜実はそのオフィスのあるというビルまでついていった。二階窓に「ハーティ」という写出看板文字が貼られている。
その五階建てビルの前で十分ほど待ち、黒のジャケットにマフラーの私服で出てきた河合は、他の人の耳には入れたくないから、アパートに来て、と菜実に耳打ちした。菜実はそれに違和感は覚えなかったが、少し、負い目の疼きを感じた。その程度の感情しか覚えなかった。負い目とは、無論、村瀬を対象にしている。この辺りで、自分から連絡することもありだと思っていた矢先だったからだ。
河合が現在住むワンルームマンションは、西口を出て二十分ほど歩く明原の水戸街道寄りの場所にあった。借りている部屋は二階の、階段側から二番目だった。
「どうぞ」と促され、パンプスを脱いで上がった部屋は、青のカーペットが敷かれ、隅にシングルのベッド、窓際に小さなテレビが置かれている。西側には低い箪笥と、CD、DⅤDの並ぶラックがあった。猫の額のようなキッチンは光沢が出ていて、衛生管理がきちんとされているようだ。
食卓を兼ねているらしい小さなテーブル前に、河合が隅から取った座布団を置き、座って、と声をかけた。菜実が座ると、河合は冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを出し、コップを一つ用意して注ぎ、まず菜実の前にそれを置き、それから自分の前には缶ビールの500mlを置いて、菜実と向き合って座った。
「子供は‥産んだの?」互いに一分ほど沈黙してから、河合は目を伏せたまま、菜実に訊いた。
「産んだよ」「今、一緒なの?」「お家で育ててたんだけど、一歳の時、死んじゃったんだ。でも、いつもお写真持ってるから、私、寂しくない‥」菜実は言ってバッグからエルメスの財布を出し、中の写真を抜いて、河合の前に置いた。それは河合との間に出来た夏美を、菜実が抱いて、幸せの笑みを浮かべている一葉だった。
それに視線を落とした河合の眉が力無く垂れ下がり、口の端も下がった。河合はしばらくその顔のまま、写真を見つめ続けた。そののち、深く頭を垂れ、菜実から顔を伏せた。
「くだらない身の上話だと思っていいよ。聞いてくれるかな」河合は顔を垂れたまま言い、缶ビールのプルタブを引き、喉を鳴らして三、四口、飲んだ。口の端に垂れたビールを手で拭い、そっと缶を置いた。
「いくらかは、話したから知ってるよね。これは俺があの時、君を求めた動機でもあるんだけど」河合の声が小さく沈んだ。
「池内さんの障害のことは、あの時もう分かってたよ。だから、少しでも分かりやすいように話すよ」河合は小さな声の中に、自分の罪を贖うような優しさを込めた。
「俺は物心ついた時は、兄貴と二人で親戚中を盥回しにされてたんだ。その中に、お金持ちの家はなかった。だから、穀潰しの厄介者っていう扱いを受けて、その預けられた先の家では散々いじめられた。盥回しの理由は、あとから知ったことだけど、親父が月に十万程度しか稼ぎ出せない人間だっていうことと、お袋が精神障害者だっていうことだったんだ。その噂は学校にも広まって、俺は学校でもいじめられたよ。預かり先の家にも、学校にも居場所がなかったんだ」
河合のその境遇は、菜実はある程度話を聞いて知っている。自分はそこに、自分と相通じるものを感じ取ったのだろう。だから、彼を自分の体に受け入れた。だが、その時の菜実の頭には、その先、というものは概念づかなかった。身籠り、産んだ子供を不慮の事故で失う未来も。その失われた小さな命の代償に、二十万円程度の金が支払われ、道路交通法上のことで法的な咎を問われなかった相手方のいいように示談が締結されることも。
「そこでぐれて不良の道へ行ったところで、気が弱くて腕っ節もない俺なんか、いいとこパシリになれるかなれないかだし、これといった物事の才能もないから、何で発散していいのか分からなかったよ。何度、自分の生い立ちを呪ったか分からない。だけど、努力はしてみたよ。そこで、定時制高校で学びながら、新聞屋で働いたんだ。学費を自分の稼ぎから捻出してね。定時制を出たあとは、公団を借りて、兄貴と二人で住み始めた。だけど、兄貴が、勤めてた食品工場の仕事を辞めて、働かなくなって、俺の稼ぎだけを当てにするようになったんだ」本格的な地獄の始まりを語り始める河合の口調は、昔のことを話すだけというように淡々としていた。
「兄貴はその頃から、日がな一日中煙草を吸って、ゲームと漫画にかじりつく暮らしを送るようになったんだ。就職を探してくれと何度もお願いしたけど、そのつど、不景気だからどうだとか、世間が俺を認めないとか何だとかって理屈を言って、腰を上げる様子がなかったよ。だから、俺が兄貴を養う形になったんだよ。新聞屋の稼ぎで大の男二人分の生活費なんて賄えないよ。まして兄貴の煙草代とか漫画代までさ」
河合の話は、菜実には所々難しく、所々が呑み込めたが、難しいなりに伝達してくる重さと影のような暗みに引き込まれる感じがし、手元のジュースに手がつかない。
「それで街金から金を借りたんだよ。二十万程度借りるつもりだったのが、百万、押し貸しされたんだ。新聞屋じゃ配達も集金も、拡張もみんなやってたけど、怖い筋の人の相手もしなくちゃいけなかったりして、すごいストレスだったよ。血便も、血尿も出てたんだ。血の混ざったうんこと、血のおしっこだよ。その上、借金と、働かない兄貴まで抱えてね。その先行きが見えない不安とストレスが、俺をテレクラ遊びに走らせたんだ。そのテレクラが、本当の地獄の始まりだったんだよ‥」河合は目を固くつむり、唇を噛んだ。
「てれくれ?」「そう、テレフォンクラブ。男が個室に入って、置いてある電話機に、女が電話をかけてくるのを待つっていうシステムのお店で、携帯やパソコンが普及する前は、全国にたくさん店があったんだ。あとから出てきた出会い系とかに押されて、だんだん数が減って、今はもうほとんどないはずだけどね」「お電話、するだけのお店なの?」「男は寂しさを紛らわすことで、女は男をからかうことが目的で利用することがほとんどだったと思う。待ち合わせ先に来た男を遠くから見て、その男の見た目を馬鹿にして笑いものにしたりとかね。だけど、その時の俺は、自分の相手をしてくれる女さえ選べなくなってる状態だったんだ。それで、同じ歳の、働いてない女に引っかかったんだけど、その女は‥」河合は缶ビールを取り、数口ほどあおった。
「その頃、ちょうどよくって言っていいのかは分からないけど、兄貴が死んだんだ。多分、糖尿病だったんだと思うんだけど、肥満が進んでて、心臓が肥大してたんだ。それで朝、寝た状態で死んでてね。その日のうちに斎場を手配して、火葬して、お骨は無縁墓地で預かってもらったのね。遺骨を部屋に置いとくのも嫌だったからさ。それから、俺はそのテレクラの女と、借金を抱えたまま籍を入れたんだ。奥さんは働こうとしなかったよ。俺がいくらお願いしてもさ。そればかりか、俺の要請には切れを返してくる有様だった。家事もほとんどと言っていいほどやらなかった。それで俺が必死で働いて借金を返してる二十八の時に最初の子供が出来て、三十の時に二番目が生まれたんだけど‥」
声を抑えた一身話と、小さな吐息、合いの手、短い質問だけが交わされる静寂の中で、河合が座布団から腰を上げ、菜実の隣に移動し、座った。
「女から暴力振るわれる男の気持ちって、池内さんには分かるかな」河合は語尾に溜息を交えた。菜実は隣の河合の顔を見た。
「これは本当に屈辱で、悔しくて、悲しいものなんだ。男のプライドとか誇りを、ぼろ雑巾みたいにされるんだよ。俺は結婚したすぐあとから、奥さんから汚い言葉で罵られて、いいように用に使われてて、その頃から軽く蹴られたりしてたんだけど、二人目が生まれてから、まるで容赦のないパンチ、キックを、俺の顔面とか腹に食らわしてくるようになったんだ。それで、成長した子供も奥さんの言葉、行動を真似し始めて、俺を馬鹿だとか爺いだとかって罵って、俺を殴る蹴るするようになったんだ。それでも俺は、その奥さんと子供二人を養った。料理も、普通レベルの掃除も出来ない奥さんの代わりに朝食や夕食を作って、子供を公立の小学校にも通わせてね。子供は外でも暴力や窃盗をやって補導されて、何度俺が被害者側の保護者や警察に頭を下げて謝ったか分からない。本当に、生き地獄だった‥」
河合はひとしきり吐き出すと、天井を仰いだ。その目には、涙の光が見えた。それが菜実の胸にも裂くような痛みをもたらした。菜実には分からない語彙もふんだんに混じっているが、耐え難いものを背負った河合の不幸な出自、境遇はよく理解出来た。それが菜実の涙も誘った。
「俺には、趣味と呼べるものがこれと言ってない。子供のころからずっと追い立てられてて、そんなものを作る余裕はなかった。それで、世間一般の楽しみとは何だろうって自分なりに考えて、とりあえずパチンコとスロットを始めてみた。そういう時だったね、新柏の“アイドル”で、従業員だった池内さんと会って、デートするようになった‥」河合が菜実の顔を見、手の甲に自分の掌を重ねた。
「何度も言うけど、君には罪深いことをしたよ。謝って済むことじゃないよ。実は君から赤ちゃんが出来たことを打ち明けられた時、駆け落ちも考えたんだ。だけど、その時になって、臆病風に吹かれたんだ。これが奥さんや、背中に竜を彫った恐ろしい義理のお兄さんに知られたらと思うと、恐ろしさで頭の中が一杯になってしまったんだよ。それで気がついた時は、君の番号を着信拒否設定にしてたんだ」河合は大きな溜息を吐くと、瞬かせた目から涙の筋を落とした。
「河合さん、まだ奥さんと、結婚してるの?」目に涙を滲ませて尋ねた菜実にも、語彙的に他の言葉があることが全く分からないでもない。「別居」は分かるようで分からない、または分からないようで分かる気もする。だが、訊く言葉は、表現としては大袈裟なものになった。
「別居してるんだ」河合はまさにその時菜実の頭に思い浮かんだ言葉を、呟くようにぽそっと答えた。
「親戚だとかって向こうが言い張る男が、去年から上がり込んでる。それで家を出て、今、こうして一人で暮らしてる。それを機に、新聞屋も辞めて、今、派遣で働いてる。さっき見て分かっただろうけど、息子達がああして金をたかりに来るんだ。もうどうにもならない。俺の人生がどうしてこんなに苦しいのか分からない。多分、正式に離婚する勇気も持てないまま、息子達のたかりもこれからも続くんだと思う」「河合さんのお父さんとお母さんは?」「親父は生きてるかも死んでるかも分からない。お袋は、県外の精神障害者の入所施設にいるみたいだよ」言った河合は、菜実の肩を力に任せて抱き寄せた。菜実はその行い自体には戸惑いは感じなかったが、それを許している自分に罪の意識を覚えた。
菜実の体が押し倒され、深く思いつめた河合の顔が真上に来た。白く部屋を照らす天井のシーリングライトが、菜実の目には悲しげに見えた。
「俺には分からなかったんだ。人並みっていうものの、当たり前の温かさが。あの時、君と出逢ったことで、やっとそれに触れることが叶ったんだ」河合はビブラートのように声を震わせながら、菜実のセーターをたくし上げ、ブラジャーを外してそばに投げ置き、露わになった乳房を両掌に掴み、胸に顔を寄せて乳首を吸い始めた。河合の手に掴まれて揉まれ、口吻部に押された両方の乳房が歪み、形を変えた。
「お願いだ。君に出来る限りでいいから、時間がある時に俺のそばにいてくれ。今の俺には君しかいない。頼むよ」言葉の節目を区切るようにして、河合の唇と舌が菜実の乳房を貪った。
やがてスカートの裾がまくり上げられ、パンティの中に差し入れられた指が陰毛を搔き分けた。
河合を憐れむ気持ちが胸を刺す中、村瀬の優しい笑顔と、自分への労りが海のように深く伝わってくる掌の温かさが思い出された。それでも、知恵が思いつかない。河合という、連鎖的な不運、不幸の中に浸かって生きてこざるを得なかった、血の気が少なく,男同士の荒沙汰に対応出来ない性格が幸せを約束しなかった男に、抱かれることを含めた寄り添い。それ以外のものは。一切。
「待ってて。ピル、飲むから‥」菜実の小声に、河合は一寸動きを止め、そののち肩を掴み、菜実の唇を自分の唇で塞いできた。体を降り重ねた河合の肋骨の向こうからソニックされる早打つ鼓動を胸に聴きながら、菜実は、自分の気持ちをさらう出来事、再会劇が重なった今日のことを思い出していた。
なお、ダブルデッキで自分を捕まえ、唐突な愛の告白をしてきた根島と名乗った若者のことは、河合に舌を挿し入れられ、陰部をまさぐられている今は、全くと言っていいほど印象の中にない。
小さなテーブルの上には、さほど遠くない日の母娘の写真と、手つかずのオレンジジュースが置かれたままになっていた。そのテーブル脇で行われている、連鎖する罪を象徴する行為を傍観、あるいは俯瞰するように。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる