手繋ぎ蝶

楠丸

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28章

~父娘の共時~

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 レジ研修は四日目を迎えていた。真由美を始めとするレジ中心に勤務するスタッフが、隣に村瀬を立たせて見本を見せ、次に村瀬にやらせてみせる。その合間にメモを取る。
 村瀬は機械の類いを操作するのは得意ではないが、特に真由美が親切に、分かりやすく教えてくれるため、だいぶ要領を掴み、呑み込めてきている。

 千葉の簡易裁判所で八ヶ月の実刑判決を言い渡され、上告することもなくそれを受け入れ、検察職員に肩を押されて扉の向こうへ消えた美咲を傍聴席から見送ったのは、つい三日前のことだった。

 これでいい、と思うのみだった。美咲には、何らかの咎、罰を受け、自分でものを考えるプロセスを経ることが本人のためになるし、子供とも離す必要がある。もっとも恵梨香は自分の育った環境から自ら離れていったが。

 しばしばバーコードが読み取れず、エラーになってしまうことには悩まされたが、真由美がコツを教えてくれた。それでもこの調子では、五日間の研修も無事終了し、一人立ち出来そうな案配だった。

 十何日か前、この店に恐喝を仕掛けただけではなく、レイプ未遂のような強制猥褻まで働いた吉富とその仲間の男を撃退し、吉富の子供達も救った村瀬の頑張りに、常連客達は目と言葉でエールを送り、村瀬は礼を返した。

 今、博人のみが残る公団の部屋は引き払いの手続きが済んでおり、彼の荷物が何点か村瀬の家に来ている。団地の家を引き払う準備は、父子と義毅で行った。義毅の嫁については、早く顔が見たいという気持ちが高まっていた。市役所へ行き、博人、恵梨香の籍を父親の籍に戻す手続きも終わった。

 早番シフトのため十七時で退勤した村瀬は、商店街の中華料理店でラーメンと小炒飯の夕食を摂ってから電車に乗り、京成では大久保で降りた。手に持つクリアファイルには、菜実宛てのクリスマスカードが挟んである。

 三山の「恵みの家」の前に着いた時、時刻は十八時前になっていた。

 チャイムを押すと、インターホンから中年の女の声が応答した。村瀬はまず名前を名乗り、池内菜実さんはいらっしゃいますでしょうか、と問うた。それから、ボブヘアに赤や緑のメッシュを入れ、剃刀のピアスをした五十代の女が顔を出し、きっと睨む目で、菜実との関係性を短く訊いてきた。
 村瀬が、お付き合いをさせていただいている者ですが、と偽らずに答えると、ちょっと待って、と西日本訛りを残し、やがてトレーナー上下姿の菜実が現れ、キタキツネの笑顔で村瀬の前に立ち、村瀬も笑顔を返した。半月以上ぶりに見る菜実は、頬の丸味が増し、少し太ったように見えた。それが従来のエレガントキューティに愛嬌を加えていて、村瀬は彼女を抱きすくめたくなる気持ちを覚えたが、ここでは抑えることにした。

「これ、クリスマスカード」村瀬が差し出した、サンタクロースと、後ろ足で立ち上がったトナカイがゴーゴーのようなダンスを踊り、音楽の楽譜が一面に舞っている緑地のカードを受け取った菜実は、「わあ‥」と小さく歓声を上げた。

「イブには少し早いけど、今週、土曜日が午後休みで、日曜に有休を摂ってあるから、会おう」「うん‥」「前の日ぐらいに電話で、待ち合わせ場所とか、決めよう」村瀬が言った時、菜実の目が上がり待ちに落ち、その顔から笑顔が引いていった。固く結ばれた口は、何かの打ち明け難いことを奥に溜めているように見え、目には涙の気配がある。

 愛する自分が、あのまま去ってしまうことなく、約束を守ってこうして現れたことの喜びが極まったことによるものか、それとも別の理由があってのことなのか、村瀬には分からなかったが、再会を喜んでくれていると解釈することにするしかなかった。

 菜実が顔を上げ、涙を押し込んだ笑顔をまた作って、村瀬を見た。村瀬も笑顔で、彼女の肩に手を添えた。

「元気にやってるようで良かったよ。ちなみに俺、今の職場で出世するんだ。詳しくは、会った時に話すよ」村瀬は言うと、菜実は「はい」と答えた。

 菜実とハイタッチをし、失礼します、と奥に声を送ると、先に応対したパンキッシュなセンスの中年女が出てきた。

「池ちゃんのいい人のお方でっか。だいぶ齢行っとるようですけど、大丈夫かいな」歯に衣を着せない女の問いかけに、村瀬はかすかな戸惑いを覚えたが、少しテンポ遅れて「大丈夫です」と返答した。

「齢は関係ないなんてよう言われますねんけど、相手方が極端に若かったりすると、いろいろややこしいこと、出てきよるさかいな。おっさん、あんた責任取れるんかいな」女の言葉はきついが、口調はさほどは詰るようなものではなかった。

「責任は、取ります。ここまで来たからには」村瀬の答えに、少しの呆れを滲ませた女の顔色は変わらなかった。

「こんなに誰よりも綺麗な人に、責任を放棄するなんて」村瀬は言い、女に同時礼をし、菜実に手を振り、踵を大久保方面へ向けた。菜実は村瀬から渡されたクリスマスカードを豊かな胸に抱き、女と二人並んで立って、村瀬を見送った。

 朝の予報通り、ささやかな粉雪が、陽の落ちた大久保商店街の街路にはらはらと舞っていた。雪は村瀬の肩に落ち、白く貼りついた。村瀬は駅までの道中、空から雪を受けながら、先ほど菜実が見せた涙の顔が気になる思いになっていた。それが純粋な喜びによるものだったか、それとも、こちらには言えない何かのリグレットを込めていたのか。

 それを詰めて考えようとした時、たとえごくわずかでも、菜実に対して疑りの気持ちを持ちかけている自分が嫌になる心地になった。

 一つの居間、一つの八畳部屋、キッチンを擁する、庭を含む広さが三十坪ほどの家の食卓に出された今日の夕食は、サニーレタスとポテトサラダが添えられたハンバーグ、麦飯、わかめと大根の味噌汁だった。お味噌汁と、麦ご飯のお代わりあるからね、と、早瀬裕子は優しく声をかけてくれた。恵梨香はぎこちなく頷き、まず、味噌汁に箸をつけた。テーブルの真向いには裕子のただ一人の娘である美春、その隣が裕子という位置だった。

 美春は中学二年生だが、身長が恵梨香の胸の辺りまでしかなく、小さな体に反して頭部の大きな体の形をしている。軽くシャギーの入った肩までの髪は、二ヶ月毎にお得意の美容室へ行き、カットしてもらっているという。彼女は幼稚部から高等部までの学部がある特別支援学校の中等部の二年に在学しており、何かにつけて口にする「ああ、もー」が口癖で、表情はいつも明るく、よく母親の裕子に「おバカ」と言う。

 一週間前の夜、バンドエイドとガーゼで顔に傷の手当跡を作った、泣き顔の恵梨香が来た時には、やった、美春、お姉ちゃん出来た! と叫び、小躍りして喜んだものだった。その彼女に対し、恵梨香はまだ表立って愛想は見せていないが、一方的と言っていいほどの懐き、甘えを見せ、芸能人やスポーツ選手のことなどで質問攻めにしてくる。

 あの夜、鱈の和風ムニエルの夕食をいただいた時、裕子は恵梨香に、箸の持ち方を、優しいがどこかぴしっとした言葉で指摘した。恵梨香の箸持ちは、箸の先端部近くを鷲掴みのような手つきで握るもので、実は母親の美咲がこういう持ち方をしていたのだ。母親は自分のその箸持ちを直さず、子供のそれも正そうとしなかった。

 正された箸持ちで、まだ戸惑いのようなものを隠しきれない面持ちでハンバーグの食事を口に運ぶ恵梨香に、斜め向かいの裕子が微笑みかけた。美春は、キッチンシザーでカットされたハンバーグに顔を寄せ、笑顔で、恵梨香の顔を凝視加減に見ながら食べている。

「私はあなたに、お金の援助は出来ない。だけど、ご飯とお風呂、洗濯、お布団を協力することは出来るの」微笑みの顔のまま裕子は言い、美春の口許に付いたデミグラスソースをティッシュで拭った。

「集中して食べなさい」裕子は美春に言い、頭をぽんと叩いた。

 裕子が言ったことの見通しなどは、今の時点ではまだ全く立っていない。それは裕子の自己犠牲によって新小岩の少女ギャングによる暴力から救出され、尋常にはあり得ない温情を受けているだけの今には。

「見て話して知っての通り、私は訪問介護事業所で主任ヘルパーをさせてもらっているのよ。仕事は楽じゃなくて、体は辛どいけど、利用者さんとその家族の方達に喜んでもらえることが、何よりもの心の報酬になってるの。だから、この仕事は辞められない」箸と茶碗を手に俯く恵梨香に、裕子は述べた。

「私は元からシングルなのよ。この子を一人で産んでから、養うために今の業界に入って、もう十四年目だけど、最初の頃は大変だったよ。よく、日報の書き方のことで厳しい注意を受けてたからね。今はかなり力が抜けたけど、初めの二年くらいは毎日汗だくだった。まだ未就園児だったこの子を保育施設に預けながらね」裕子が言うと、ポテトサラダを口に入れた美春が、ふうーん、と甘えた声を出し、母親の肩に頭を摺りつけた。

「私は、あなたに自分と相通じるものを見たから。私、昔はこんなじゃなかったのよ。その頃の私は、自分が子供を育ててるなんてことすら想像出来なかったからね。本当に、酷いことばかりを積み重ねてたから‥」裕子は漏らすように言い、美春の頭を肩で受けたまま、食事に箸を通した。恵梨香もうなだれて、ハンバーグを口に運び、味噌汁を啜った。美春はメロディを成していないハミングのような声を出しながら、笑顔で母の肩に頬を摺り、慕いの目を恵梨香に向けていた。

「林檎切ったから、食べない?」貸し与えられた六畳の部屋で何をすることもなく座っていた恵梨香に、裕子の声がかかったのは、入浴も済んだ二十時過ぎだった。恵梨香はその声かけに声や言葉で反応することもなく、居間に来た。居間の円卓には皮をピーリングされて六等分された林檎が、ヒメフォークを刺されて皿に盛られていた。バラエティ番組が映っているテレビの前では、ヒメフォーク刺しの林檎を持った美春が座り、笑顔で体を前後に揺すっている。

 その時、皿の縁に載っている木目柄のフルーツナイフに、恵梨香の目が吸いつけられた。

「利用者さんが分けてくれたの。ちょうど今が食べ頃の、青森のふじりんごだって‥」裕子の言葉かけをスルーするように、恵梨香の目はフルーツナイフに注がれていた。

 恵梨香がそのナイフを取った時の手つきに造作はなく、その目には憎しみが燃え、閉じられた口許は殺意に吊り上がっていた。

 フルーツナイフの柄を握った恵梨香は、座って体を揺すっていた美春のパジャマの襟首を掴み、刃身を彼女の喉に当てた。それを目の前にした裕子の顔色に、驚きや怒りのようなものが挿すことはなかった。ただ涼しい眼差しで、娘の喉に刃物を当てている恵梨香の目を見据えているだけだった。

「茶箪笥に金が入ってることは知ってるよ」低く潰した声の言葉が、口角の吊り上がった恵梨香の口から発せられた。後ろのテレビの画面は、強い毛根を育てる、サードからフォーエイジへのファンタスティック・スーベニールというナレーションが流れるメンズヘアトニックのCMが映っている。

「茶箪笥の金をありったけと、あと、銀行の通帳と銀行印、出せよ。でないと、このガキ、命ないよ」恵梨香の瞼が据わり、口許には嘲り威す笑いが刻まれていた。

「お前が何気取って、私にこんなお世話焼いてんだか知らねえけどさ、お前だって信用出来ねえんだよ。もっともらしい自己犠牲を演じて、それに自己陶酔してさ、最後は自分が神様、仏様の位にありつけりゃそれでいいんだもんな。みんな一緒だよ。お前も、その辺歩いてる気取った面した奴らも。私の親父も。私のことなんか、何も分かっちゃくれやしねえんだよ」

 喉元にナイフを当てられている美春の表情には、これから命を奪われるという切迫は覗えなかった。笑顔でもなく、怯えている風でもなく、ただ表情を抑えた、落ち着いた顔をしているだけだった。悲鳴のようなものを上げそうな気配もまるでない。

 裕子も、いささかの動揺もなく、首元に刃物を突きつけられた娘と、憎悪に憑かれた顔の恵梨香を見ていた。

「今から頭ん中で三十数えるからさ、そのうちに出せよ、金と通帳と印鑑。三十切ったら、この国庫資金食い潰し虫のガキ、お前の目の前で死ぬことになるよ。脅しだと思ってんなら、本当に三十秒待ってみろよ」恵梨香の声に、一層の凄味が籠った。「私はユニオンに戻るんだ」

「ここに来た日の最初と、さっきも言ったはずよ。私はあなたにお金は渡さないって」言った裕子の声には、怯みも力みもなかった。表情にも、大きな動きはない。立っている姿も凛としている。

「このガキが死んでもいいの?」「殺して、その先があるって思えてるんだったら、やりなさい。その代わり、娘だけじゃなくて、私のことも殺して、お金を持っていきなさい。そうすれば、そのお金を使いきる前にあなたがどうなるかは、あなたは本当は分からないはずがないでしょう? その子は、全てを悟って死んでいく。私も同じよ」「うるせえ、この偽善者! さっさと金出せよ!」

 美春も裕子も、表情に一切の動きを見せなかった。美春はあたかも何も起こっていない、自分の身にも何も差し迫ってはいない、という風の顔をし、裕子は静かに涼然と、恵梨香の目を見ている。体の動きにもぶれはない。後ろのテレビは能天気な音声を流し続けている。

「どうしてこんなことが言えるのかっていうとね、この子は、私の子として生まれた以上、この子自身が一生落とせない因業を背負ってるからなの。この子は、私の子として私のお腹に宿った時、私の罪も一緒に背負ったの。私達は、親子で罪をシェアしてるのよ」「そんなこと知ったこっちゃねえよ」

 恵梨香は美春を突き飛ばすように離すと、両手で柄を握ったフルーツナイフの先端部を自分の喉元に当てた。目にはまだ、赤黄色をした劫火の憎悪が燃えている。

「お前みてえな、さも篤志家気取りのナルシストには一生かかっても分かんねえだろうけどさ、まだ生理も始まってない私の体にさ、毎日毎日、二番目の親父と、その仲間の汚えおっさんが何人も乗っかって、写真と動画撮られて、まだ子供の体で、二回、腹のガキ始末したんだよ。みんなで飯食うとか、あったかい風呂とか、そんな世間並みの幸せなんか、聞くだけで吐き気がするだけなんだよ。私の居場所なんて、このガキみたいな寄生虫駆除するユニオンしかねえんだよ。それが許されねえんだったら、今、ここで死んでやるよ!」恵梨香は叫び、フルーツナイフの先端が喉の皮膚を押した。

 そこへ下から掬うように回された裕子の手が、フルーツナイフの刃身を掴んだ。恵梨香が柄を、裕子がブレード部位を取ったフルーツナイフは、裕子の力に押されるようにして恵梨香の顔脇に移動し、やがて、半円を描いて恵梨香の腹の位置に下がり、その動きを止めた。

 みるみるうちに裕子の指の間から血が湧き出て、手の甲と母指球を舐めて、カーペットの上に滴り落ちた。

「いい、よく聞いて‥」裕子は小さな呻きを吐き出してから、額に脂汗を光らせ、言葉を継ぎ出した。その目には、苦痛を堪えているための赤みが差している。一週間前に煙草の火を受けた、同じ右手だった。

「少し話したから知ってるよね。私は神奈川の出身で、理由があって、三十年前にこっちに移り住んだの」裕子はこめかみから顎下に向けて何本もの脂汗の筋を引いて落とし、荒い息を吸い吐きしながら語り始めた。

「その理由は、人の人生を殺すよりも惨いやり方で奪ってしまったからなのよ。その時、地元は元より、日本全国に知れ渡った事件だったの。あなたも聞いたことがあるかもしれない。藤沢アベック強姦致傷事件。まだあなたは生まれてない頃。私はその事件の主犯の少女Aなの」

 恵梨香が顔を上げて、裕子の目を見た。

「あなたは今、初めて自分の過去を私に話してくれたよね。実は私も一緒なのよ、あなたと」

 裕子を睨む恵梨香の目が、かすかに丸くなった。

「その事件のことは、こっちの人達の誰にも話せない。こんなことが知られたら、私達はここを追われることになるから。あの時、神奈川を追われたのと同じようにね」裕子の声が低く落ちた。彼女の手からは、鮮血が滴り続けている。

「私の親は、両方とも、働く意欲にも意思にも乏しい人達だった。それでも賃貸アパートの家も維持出来てたし、私と兄は、ご飯は値の張る店屋物の鍋焼きうどんとか、お寿司とか、レストランのステーキやフルーツパフェが食べられた。父と母はほとんど働かないのに、毎日昼からお酒を飲んでた。ギャンブルもやって、居酒屋さんとかカラオケスナックに行ってた。そのわけは、私がその親に強要されて、その頃のロリータ物、今の言葉で言う児童ポルノに出演してたからなのよ。つまり、子供の私が歪んだ性癖を持つ男達に体をおもちゃにされるビデオに出て、そういう性欲にアピールする裏グラビアのモデルになることで、父と母と兄を養ってたの。どんなに美味しいものを食べさせてもらっても、美味しいと感じたことは一度もなかった。むしろ味がしない感じがした。撮影場所はラブホテルだったり、私の家だったりした。その中では、複数の男を相手にしなくちゃいけないこともあった。学校にも行かせてもらえないで、太った中年の男達にカメラの前で体を玩ばれる日々が続いた。それで自分の親を含む大人っていうものが根から信じられなくなって、十代になってから不良の道に入ったんだ。中学に籍だけがある状態でね」

 裕子の声は這うように落ち、脂汗に濡れた顔は目、口の端が鬼面のように吊っていた。

「家出して、声をかけてきた何歳か先輩の人が親類名義で借りてるマンションに転がり込んで、他の学区の男子や女子の不良と寝泊りするようになったの。その先輩はまだ十代だったけど、暴力団の若頭の愛人だったのよ。それで、その先輩から、相手の鼻、顎、鳩尾の急所を狙う喧嘩のやり方を教わって、繁華街の街中で男女混合の仲間とつるんでシンナーを吸って、目に留まった人を誰彼構わずぶん殴ってたの。必要なお金はみんな、恐喝で工面してた。警察なんか舐めきってた。補導されたところで、せいぜい簡単な調書を取られて説教されて終わりだから。喧嘩じゃ、私は殴らせなかった。一方的に殴るだけだった。もう、身も心も、どこまでも徹底的に腐ってやろうと思ってた。自分なんかが何を頑張ろうが努力しようが、世間並みの人間にはなれはしない、人の奥さんになって、妻として、母親としての喜びを得るなんて人生は人のものだと思ってたから。それで、あの夜、私達が蛇行運転する盗難車にクラクションを鳴らした車に乗ってた男の人と女の人は、運が悪かった。それで人生そのものが生きながら断たれて、死を選ぶことになるなんて、想像してなかったんだと思う。本当に‥」フルーツナイフのブレードを握りしめたままの裕子の声は、涙気を湛えて震えた。

 隣に座る美春が母親の過去をどの程度知っているのか、または母親が語っている話にどこまで理解を及ばせているかは分からない。だが、据わった目を前のキッチンに向け、言葉をつぐんでいる様子には、ある種の達観的悟りが覗える。まだ、またはこれからも自分自身が経験し得ないであろう地獄を知っているように見える。

「クラクションを鳴らしたその車を、私達はパッシングして幅寄せして停めて、中から男の人と、少しお腹の大きい女の人を引きずり出した。私達は男が三人、女が私を含めて二人だった。私達はその人達を海岸にさらった。車はそこに置き去りになった。海岸で、まず、私達はその人達から金目のものを奪って、それから裸にした。“彼女は妊娠してるんだ。彼女だけは助けて下さい”って、男の人は懇願したよ。だけど、シンナーでらりってブレーキが壊れたみたいな状態になってた私達に、その懇願は余計に残忍な衝動を与えただけだったの。それで、男三人が、その男の人の目の前で、女の人をレイプしたの。男の人は、その恋人の名前を何度も叫んで泣いてた。レイプが終わってから私達は、その男の人の体を浜辺に組み敷いて、サバイバルナイフで、その人の性器を切断したのよ。私が切ったその人の性器を、私は海に投げ捨てた。ひっ立たされて、それを見せつけられてた女の人の股の間から、血が流れ出して、小さな赤い塊が落ちたの。その人は流産したの」裕子の目から涙が粒大きく流れ出した。

「車道に打ち捨てられてた車と、目撃者の証言に私達の特徴があって、それからすぐに足がついて、私達は逮捕されたの。事件は大々的に報道された。被害女性は強姦の上に流産、男性は体の一部を切断されたって。だけど、その時の私は何の良心の呵責も感じてなかったし、むしろ服役で箔がついて、そのあとは暴力団の幹部の二号にでもなって悠々自適とした暮らしを送ろうと考えてたのよ。だから、裁判待ちの勾留中に国選弁護人の人から、その男の人が自殺したって聞いた時も居直っただけだった。それで裁判で実刑を言い渡されて送られたのが、地獄の中の地獄って呼ばれて、誰もが恐れてた女子少年刑務所だった。そこでは、娑婆の気を抜くため、いじめやリンチを刑務官が見て見ぬふりをしてたから。いや、それどころか煽ってたのよ」

 裕子は血濡れの右手に力を込めた。恵梨香の目からは先まで燃え盛っていた憎しみの火が鎮火の様子を見せ始め、恐怖の色が浮かび始めていた。美春は変わらず、自分の周りにあることは、それが過去であっても未来であっても、自然体のまま受け入れるという風の表情を保っていた。

「私はそこの雑居房で、同じような粗暴犯で収容されてた連中から、来る日も来る日も、少しの加減もない集団暴力の集中的な的になったのよ。あの人達にやったように、裸にされて、膣に異物を挿入されて、食べ物じゃない物を口に押し込まれて、何度もお腹を殴られて、髪を掴んで引きずり回されたの。顔も蹴られて、胸も殴られたんだ。私はただ泣いて赦しを乞うことしか出来なかった。喧嘩で一度も怖いと思ったことがなかった私が。それで精神錯乱にまで追い込まれて、何回も自殺を図っては、保護房と雑居房を繰り返し出たり入ったりするようになって、医療少年院送致になったの。その頃になって、やっと分かったのよ。酷い境遇を理由に道を踏み外して、自分が持ってた考えの浅はかさ、私達が嚇して殴る蹴るしてた人達が味わってた、プライドを滅茶苦茶にされる悔しさと恐怖、それにあの夜、何の罪もない人達に私達がやったことがどれだけ恐ろしいことだったかを」

 裕子は泣いていた。語れば語るほど、己の罪を認めざるを得なくなるという、悔恨の涙に見えた。恵梨香は固く俯いていた。他者の話など一度も真面目に聞きはしなかった彼女が、ようやくそれを心で聞く機会を得たという感じだった。

「五年程度の短すぎる懲役が終わって出てきた時、私は二十歳を過ぎてた。家に帰ると、親も兄も勝手に引っ越してた。それで伯母を頼って千葉に来たの。それから私は、私が性器を切って自殺へ追いやった男の人と、流産させた女の人の家族に会いに行って、これから賠償金を支払い続けることを直接約束したのよ。男の人のお父さんは、“約束を守ってくれればいい”とだけ言った。それで私は今も賠償金を払い続けてるの。娘の養育と、その賠償金のために働いてるようなもので、自分の楽しみに使うようなお金はないのよ。それで私の親も兄も、今どこにいるのか、今生きてるのか死んでるのかも分からない。だけど、もう一生会わなくても異存はないの。ただ、私をぽんとこの世に出したっていう、それだけの関係性の人達だから。戸籍の上だけの親よ」裕子はブレードを握ったままだった。

「この子は、愛を育んで出来た子供じゃないのよ」裕子は美春を手で指した。

「三十半ばの時、行きずりの人を捕まえて作った子供なの。あんな行きがけの非道な行為で、人の人生そのものを奪った自分が人並みの幸せな結婚なんてものを求める権利はない。だけど、子供は育てなくちゃいけない。何故なら、昔の自分がやったようなことを絶対にしないし、そういうことを許さない人間を一人でも作って育てなきゃいけないっていう気持ちを持ったからなの。赤ちゃんポストの子との養子縁組も考えたよ。だけど、これは血を分けた実の子でなければ意味がないって思えて、たまたま街にいた人に声をかけたのよ。それで生まれた子は、あなたも見て知っての通り、障害児よ。この子、美春は、自分には父親がいないことを恨みもしないで悟りきってる‥」

 裕子は涙を袖で拭った。母親の発した自分自身を表す名称に反応するように、美春が裕子を見た。恵梨香の目も美春に向いた。美春を見た恵梨香は、裕子の顔に視線を戻した。

「あの時、新小岩で見て見ぬふり出来なかったのは、暴力を振るわれてたあなたよりも、暴力を振るってた側のあの子達だったの。これはまさに昔の私だけど、暴力以外の自己主張を知らない人は、何も持ってない人なの。自分も他人も愛することを知らない人達で、自己肯定心がないの。中身も、これと言った取り柄もないのよ。それで大切なものを何も持たないまま、遅かれ早かれ、いつかは誰かの暴力で滅びていくものなの。そんな人生に追いやられる人達を、私は一人でも減らすきっかけの人になりたいの。だから、これから保護司になろうと思うの」「ほごしって何?」恵梨香が目を丸めて問うた。

「罪を犯した人達の更生のサポートをする、非常勤の国家公務員。でも、ボランティアの位置づけだから、必要経費の支給はあるけど、給与は出ないの。刑務所を出た人と月一で面談して、社会復帰を手助けするのよ」「へえ‥」恵梨香が返した相槌には、微弱な興味が覗えた。

「暴力が格好いいっていう考えに染まっちゃって、惰性でずるずるそういう考えを改められないでいて、自分も苦しみながら、悲しみながら人を傷つける生き方を送ってる人を、一人でも多く助けるお手伝いがしたいのよ。それだけじゃない。そういう人の手にかかって、人生を奪われる人達も出したくないの。私はこれからも祈り続けるよ。あの可哀想な男の人の冥福と、あの女の人が、最近やっと手に入れたって話に聞く幸せが、これからも続くことを。あの人達の悔しさと悲しさと絶望が、自分が暴力を振るわれる側になって、骨身にこたえて分かったから‥」

 恵梨香の手がフルーツナイフの柄から離れた。裕子も握っていたブレードを離した。血に濡れたフルーツナイフが、ぽとりと落ちた。

「ママ‥」美春が立ち上がって、裕子の腰に抱きついた。裕子は美春の肩を抱き、頭に損傷していないほうの手を載せた。右手からは、まだ血が滴っている。

 恵梨香の顔からは、すっかり憎しみの色が失せていた。間違いのない何かを、人生で初めて理解した顔だった。

「あなたがこれまでの人生で味わってきた恐怖も悲しみも、悔しさも、怒りも、私にはよく分かるよ。新小岩で、私はあなたが一番訴えたいことをすぐに理解出来たから。手に取るみたいにね」裕子が言って、箪笥の上に置かれた救急箱に足を進めた。滴った血がカーペットに吸われた。それを美春が仔鴨のように追った。

 裕子の血が落ちたカーペットの上に、顔から表情の失せた恵梨香が座り込んだ。やがて、焦点の定まらないその目から涙が流れ始め、上体を伏せた彼女の口から、細く小切れた泣き声が上がった。

 土曜、菜実は白のミドルコートに花柄のフレアスカートのウエア、ワインレッドのローヒールパンプス、茶のバッグを持った姿で、大久保駅の改札前で村瀬を待っていた。変わらない明るい栗色にカラーリングした髪は、後ろまとめでサイドを編んでいた。村瀬と顔を合わせると、すぐにキタキツネの笑顔で微笑みかけてきて、黒のショートコートを着た村瀬も笑顔を返し、すぐに互いの手を取った。

 松戸線の北習志野で降車、ロータリーからバスに乗り、北欧の童話作家の名を冠した広大な公園施設へ来た。ゲート入口で、村瀬は数百円の入場料を支払い、菜実は療育手帳を提示し、無料の入園となった。

 大きな鉢に生けられた赤いサルビアやパンジーに挟まれた通路を渡り、噴水の前を左に折れた所にあるフードコートで、二人でラーメンとケバブの昼食を摂ってから、食休みをし、南の方向へ歩みを進めた。他の来園客は、親子連ればかりで、休日の家族サービスに疲れを滲ませた顔の父親と、そんな大人の事情に関せずにはしゃぐ子供達がいた。

「まだ話してなかったことを、いろいろ話さなきゃいけないんだ。その上で決めてくれたら」ゾーン間を結ぶ橋を渡り、その作家のブロンズ像の立つ通りを過ぎた頃、村瀬のほうから話を振った。

 二人で、頂に三羽の白鳥が戯れ、円盤から水が溢れる噴水の広場のベンチに腰かけた。広場の脇には、デンマークの国旗が下がる赤壁に三角屋根のヒュッテがある。

「俺にもう成人した子供が二人いることは、話して知ってると思うけど‥」言った村瀬に、菜実は隣から彼を見上げながら、小さな頷きを返した。

「実は、十五年前に別れた俺の元の奥さんは、いろいろ問題のある人で、今、刑務所に服役してるんだ。その人との間に出来た、上が女で下が男の二人の子供も、ちょっと訳があってね」語りかける村瀬の顔を、菜実は受け入れを前提としたような顔で聞いている。

「娘は、こないだ家を出ちゃってね。息子は、こっちに呼んで、近いうちから一緒に住むことになるんだ。ゆくゆくはグループホームみたいな所に入ることになるだろうけどね。どっちも事情から、これまでよく見てやれなかったこともあって、娘も発達面の遅れがまだそのままになってて、息子も軽いハンディキャップを持ってるから、息子に関しては、弟の奥さんが間に入って、これから支援機関とやり取りしてくれるみたいなんだ。菜実ちゃんが通ってるA型みたいな所へ通うようになるかもしれない。これまではよく説明が出来なかったけど、俺の身の回りはそんな感じなんだよ」村瀬は菜実の手の甲に、自分の掌を重ねた。

「これまで俺はずっと、この先菜実ちゃんとどうするかについて真面目に考え詰めてきたんだよ。報告すると、俺、これから出世するんだ。今、働いてるスーパーで副店長になるんだ。そのあとは年収もぐんと上がるし、そうすれば、一緒になる人をお金の面でも楽をさせてあげることが出来る。だから、もしも菜実ちゃんが良かったら、俺はいつでも菜実ちゃんに指輪を渡せる。出来れば、俺は菜実ちゃんと一緒にいたいんだ。これは菜実ちゃんには、ゆっくり考えてもらいたいんだ。こっちの家族の面倒事の負担は、菜実ちゃんには一切かけないよ。息子は複雑な環境で育ったわりには、優しくてまっすぐな性格をしてる。だから、母親とは縁を切らせるつもりでいる。息子は菜実ちゃんにもすぐに馴染むと思うんだよね。俺の家族の話は打ち明けづらかったけど、隠しごとは良くないし、知ってもらう必要があると思って話したんだ」

 村瀬が菜実の手の甲を掌で優しく叩きながら言うと、村瀬を見上げている菜実の口が、何かを言いたそうにぽっかりと開いたが、開いた口は、それを封じるように閉じられた。

「今日と明日一日とで時間があるね。ゆっくりしよう」村瀬が笑って言うと、菜実は一寸何かを考える顔を見せてから、はい‥と答えた。表情は、笑顔ではないが暗くはなかった。

 だが、言葉をつぐみ気味の様子や、その表情に、何か打ち明けることが難しいものを抱えているような翳りが、村瀬には見えた。それでも彼は、愛する相手と会えたことによる幸福を心に感じていた。

 洋花の生垣と、ソメイヨシノやヒマラヤスギの並ぶ歩道を、掌から体温を伝え合いながら歩き、日本の農家と同じく藁葺の屋根を持つ復元のデンマーク農家家屋、チューリップに囲まれた風車の中に入り、樹林の中の散策路に入った時、村瀬は菜実の肩を抱いて、彼女の目を見た。

 私の気持ちは変わらない、と訴えかける目が、村瀬を見上げ、見つめてきた。村瀬も同じ気持ちをふんだんに込めた目線を、菜実の胸に伝えるようにまっすぐに送った。二人の腹の前で上下に組まれた二つの手は、皮膚だけではなく心の温かみを伝達し合っていた。周りに人気はなかった。村瀬は勃起の兆しを体に覚えながら、右手を菜実の乳房にそっと載せた。それからその手を菜実の肩に回し、彼女の唇に自分の唇を重ねると、すぐさま舌が挿し入れられてきた。舌の温度は熱を帯びていた。その熱には、悲しみが籠っているように思えた。村瀬もそれに応え、菜実の舌に自分の舌を絡めた。遊び疲れないうちに家に戻ろうと思った。

 ヒュッテが並ぶ丘沿いの一角で、サンタのコスチュームを着た女性スタッフ達が手持ち看板を掲げ、体験はいかがでしょうか、と声をかけていた。クリスマス菓子やクリスマスキャンドル、デコパージュを作るワークショップを開催しているようだった。村瀬と菜実は、二人で吸い寄せられるようにして、子供が目立つ客にまぎれてヒュッテに入った。

 二人でやってみたところ、切り抜いた花や動物イラストを星型の小さな皿に貼り、ニスを塗る作業が、菜実は上手かった。手つきが器用なだけでなく、センスもいい。初めて家に泊めた時、食材を切る手つきに健常の女の子と比べても遜色のない上手さを見たが、これが彼女の能力の一つなのだと、今日の日にまた思えた。それとは別の特色があるとすれば、生き抜くための根性だ。スタッフが見守る中、すごいね、と村瀬が素直な気持ちで褒めると、菜実は面一杯に喜びの笑みを浮かべた。先に菜実の様子を見て感じた悲しみの翳りは、その時にすっかり薄れていた。村瀬はそれを決して詮索しまいと思った。そのデコパージュ皿を、二人は買った。

「今、スタッフさんが変わったグループホームはどうかな。こないだ会ったおばさん、なかなか面白い人だね。何て言うか、パンクロッカーおばさん‥」花を編み合わせてハートを形どったアーチの前で、村瀬は菜実に問いかけた。

「あの人、佐々木紅美子さんっていって、大阪の河内っていう所から来た人なの。教えてくれたのね。昔、バンドのグルーピーっていうのやってたんだって。今、三十歳の息子さんいるんだけど、その息子さん、バンドの人の子供なんだって。でも、結婚しないで、ずっと一人で育ててきたって言ってる。前は、お爺ちゃんとお婆ちゃん見るお仕事してたんだって」

 村瀬は納得した。人を扱う業務は、勿論、人にもよるだろうが、正直一辺倒の人がそう長く続けられるものではない、とイメージづいた。場所や状況によって過酷な場面に立たなくてはいけない仕事であるからには、肚の据わった、知力があり、思考の機転を効かせることの出来る人が欲せられるものだろう。だが、今も現場の人手不足は解消されず、そのため、資質に乏しい人間を無作為に雇い入れるから、福祉施設の不祥事件が相次いで報道される事態になっている。それは当然の流れだ。不祥事が発生する施設の施設長クラスや、現場リーダークラスの人間が士気を喪失し、それがその下で働く職員にも伝播しているからだ。同時に、無関心に根ざした障害の放置、それの生み出す孤立が、障害者による犯罪を世の中で起こす。それが金沢の女児殺害や、いつかの可愛い動物の帽子を被って放浪していた男による凶行、または「磯子りんどう園」のような忌まわしい出来事へと繋がっていく。だが、菜実の住む恵みの家のように、それが何かで変わる場合もある。それこそが繋いでいくべき希望だと思う。

「そうだ」村瀬はハート型のフラワーアーチに目を向けたまま、低い声を発した。

「菜実ちゃんを最初に送ってった時に、菜実ちゃんがホームに入ったのと入れ違いに、派手で、目つきとかがおっかない男が出てきて、暴走族が乗るみたいな車で去ってったんだけど、あいつは何だったの?」村瀬の問いに、菜実は表情を沈めた。

「あの人、前のホーム長だった古谷さんが入れてた人‥」「そうか。やっぱりホームの職員じゃなかったんだね」「うん。ホームで煙草吸って、お酒飲んで、やくざの映画とか、エッチなビデオ観てたの。あの人が来る時、私も他の子達も、六時ぐらいに寝なくちゃいけなかったの」

 村瀬は不快を覚えた。その不快は、はっきりとした怒りを含んでいた。古谷とは、菜実が他の利用者たちと乗る送迎のマイクロバスをつけた時に見た、何かを品定めする目つきが地のものとなっているような下顎前突症の女で間違いないと思われるが、その女がいなくなった今、あの気っ風を持つ佐々木という女が、あの男の出入りを許しているとは思えない。

「まさか、今も来てるとかっていうことはないよね」村瀬が訊くと、菜実が小さくかぶりを振った。

「社長さんのお友達の、荒川さんっていう人が、もう来るなって言ってから、来てないよ。だから、今、私達、十時まで起きてられるんだ。それで、歌もドラマも観れるんだよ。その荒川さんって、私、前から知ってるの。柏で、私が女の子達にぶたれそうになってる時、助けてくれた人なの。その時、私のこと助けないで見てたお兄さん達に怒ったんだよ」菜実は明るい目と声で淡と語った。

「そうなんだね。だけど恵みの家も、なるべきことになったよね」相槌を打った村瀬は、しばし黙して、その荒川という男が何者かという考察した。

 菜実の話からは細かい要領は得られない。だが、体制側か、法に背く者か、徹底的にどちらかの両極端であろうという答えしか、村瀬の思考中枢は導きださなかった。たまたま菜実と、村瀬の知らない恵みの家の経営者と知己の人間であった、逮捕権などを持つ人間が警告したか、あるいはその反対側の渡世に生きる者が、そもそもそれが生業の物騒な手段を用いて、二度と恵みの家に近寄るなと威したか。だが、それはどちらでもいい。外から見ても、利用者の生活環境に劣の字がついていると分かるホームが変わったのだから。村瀬には、それでいい。

 そこで、まさかとは思いつつも、村瀬の頭に、目の据わった狡い笑いを刻んだ義毅の顔が浮かんだ。それは自分の身辺状況を彼に掴まれていると、再会した時から感じていたからこそだったが、それはまさかというやつに過ぎない、ということにした。

 それから村瀬と菜実は、公園中央部に設けられた1・6ヘクタールほどの池でボートに乗った。オール漕ぎは主に村瀬が担当したが、菜実に漕がせてみると漕ぎ方が上手かった。

 発達障害は知的領域の発達にばらつきが目立ち、知的障害とは均一的な遅れと多くの人が旧いイメージに捉われるが、菜実は極端に突出した何かを持っていると、村瀬は改まった。紙の貼り絵で長岡の花火や富士山、海岸の港を完全描写した山下清や、フィクションの人物を言えば、床に落ちた楊枝の数を一瞬で数える特能を持つ「レインマン」のダスティン・ホフマンのように。または、たとえは極めて悪いが、遠い昔の初夏の白昼、下町の往来で女子供ばかりを四人も刺殺、逮捕後に「侍の俺に殺されて町人は本望だろう」と微塵の悪びれも見せることなく述べ、生育環境の劣悪さと「覚醒剤使用による心神耗弱状態にあった」として極刑を免れ、今も無期服役中の境界域知能の元寿司職人は、行きつけのパブレストランで勘定をする際、その日に飲み食いした額をいつもぴたりと当てていたという。

 菜実の持つものは何か。脂肪層の下に埋もれ、息づく筋肉に答えを見出せそうだが、考えれば考えるほど、それはシュールな幻想に留まるものになる。だが、彼女の人となりに携えられた、惨い境遇、酷い環境を生き抜きながら人間性を失わない、言うなれば「ベスト・コマンダー」的なメンタル・ポテンシャルとは、決して無関係ではないと思える。叔母の孝子はそれを「怒り、憎しみ、恨みという感情を概念から知らないからだ」と言ったが。

 彼女は、死すら恐れないかもしれないと思えるのは飛躍だろうか。まだ、自分の知らない菜実がいるような気がする。
 ボートを三十分ほど漕いで、それから園内を隅々まで回った頃、時刻は十五時を過ぎていた。そろそろ家、行こうかと村瀬が声かけすると、菜実は、はい、と返答し、頬を肩に預けてきた。

 バス、京成の車中で掌を握り合っている間、瞼を落とした菜実の表情からは、何かを村瀬に詫びたげな色が見えたが、今日、幸せは充分に堪能したとも、その顔は言っていた。深追いはしまいと、村瀬は思っていた。待ち合わせた昼前から、明日の夕方までの時間が、自分達にとって幸せなものであればいい。そして、今後も。自分が菜実に対して持つ思いと、彼女の人間的性質を思えば、二人は間違いない。窓外の夕陽に目を馳せながら、村瀬は思った。

 クリスマスの小晩餐の買い出しをするため、実籾のスーパーに入った。村瀬のマスオマートもそうだが、どこの店も街中も、すっかりクリスマスモードになっている。

 クリスマス仕様の店内の飾りつけとBGM、サンタクロース帽を被った店員の接客姿を見て、何日かあとのイブには、ケーキを買って高津の家に行き、博人といろいろと話をしようと思った。連絡は常に取り合っていて、何も心配が及ぶことはないが、父親として出来る限りのことはしてやりたい。ただ、今、行方の掴めない恵梨香には、近くにいない以上、それをしようにも出来ないことがもどかしい。

 菜実と二人で、クリスマスチキンとケーキ、ノンアルコールのシャンパンなどをカートに入れている時、純法のことをふと思い出した。彼らは今も地下で跳梁し、こうしている間にも餌食になっている人間達がいるが、巷では、声を潜めて噂されるに留まっている。彼らの商品である女達に、県警の上層部で有力な地位にある人間達がすでに篭絡、掌握されており、地方という単位の捜査、検挙系統はすでに無力化されていると見ていい。

 もしもこの「次」があるのなら、自分は新聞社を訪ね、骨のある記者を捕まえて事の一切を明かし、彼らの非道な経済活動を白日の下に晒すように要請するか、場合によっては証拠を含む資料を作成した上で、警察の警視総監クラスの人間と接見しようという肚づもりが固まっていくのを感じていた。どちらを行うにしても命懸けだが、誰かが立ち上がらなければ、彼らは日に日に勢力を拡大し、刑法、司法の力も及ばないような力を手に入れてしまうかもしれない。他の勢力との間に抗争が発生し、頂上が斬首でもされない限りは。

 先日に報道されていた、警察庁勤務の警視正が奥多摩の山中で自殺したというニュースは、すでに無関係ではないように思える。組織立った犯罪側は常に巧緻で、効果的、合理的な破壊の術を知り尽くし、それを監視する体制側は脆さを露呈する。何故なら、体制側は定給が支払われる公務員だが、犯罪側は、そこに属しているというだけで命の危険と隣り合わせの人生を送ることになる。紡ぐ生の緊迫の桁が違う。猶予のある世界とない世界の違いだ。それを考えると、最後に自分や自分の大切な人を守れるものは、自分の判断力しかないという結論が手繰り出される。村瀬は、幸福感の中に緊張が走るのを覚えていた。

 二人分のケーキが入った箱を菜実が持ち、シャンパンとチキンが入った袋を村瀬が提げ、家までの道のりをたどった。街は華やいでいた。これから日本を覆うかもしれない闇夜の霧の気配など、誰もが察していないかのように。

「イブのイブっていうところで、ちょっと早いけど、メリークリスマス」両親の遺影が見下ろす居間の円卓には、皿によそられたリボン付きのチキンと、村瀬のサバランと菜実のメロンケーキ、金のラベルのシャンパン、二つのコップが載っている。菜実の手に持たれたコップに、村瀬がシャンパンを注ぐと、菜実は「私にも注がせて」と言って、ボトルを取り彼女の手で村瀬のシャンパンが注がれた。母指球に少しこぼれたシャンパンを、村瀬は舐めた。

 テレビは音声低く、大量の未公開株が素性の分からない団体に買い占められているという、不吉な連想を催すニュースを流している。

「さ、食べよう。ご飯のほうは、あとでスパゲティ作るから」何かを申し訳なさげに瞼を落とした菜実に村瀬が声をかけると、彼女はシャンパンを啜り、ヒメフォークをメロンケーキに通した。村瀬もまずフォークでサバランを割り、一かけらを口に運び、それからチキンの骨部分を持ち、かじり、シャンパンを何口か飲んだ。

「私、今日、まだ村瀬さんに話してなかったことある‥」村瀬は穏やかに目を大きくして、何でも話して、という相好を作った。内心は、菜実の口から、自分が衝撃を受ける話が出るかと身構える思いだった。それは今日の日中、彼女の表情、挙措に垣間見えた、村瀬に何かを詫びたそうな様子が、幸せの中にも気になっていたからだった。

「私、叔母さんに、もうずっと会わなくした」菜実はからりと晴れた声と顔で言い、村瀬は顔を軽く乗り出した。

「もう、叔母さんにお金送れないし、渡せないって言ってきたの。弁護士さんのお金のこと、嘘だからって、私、言ってきた」「そうか。自分で言えたんだね。勇気出したね。よく頑張った‥」

 村瀬は褒めたが、娑婆で唯一繋がっていた親類と縁を切った菜実が覚えているであろう寂しさも汲まざるを得ない気持ちもあった。性格、素性はどうあれ、菜実を子供の頃から見て、世話をしていた人間であることには変わりない。だが、いくらそういった経緯を持つ相手ではあっても、関わることが自分に損益をもたらし、メリットがないのであれば、生涯に渡って絶縁することも一つの毅然だ。人間が生きる条件として、自分を自分で守ることは必須なのだ。それは吉富とその遊び仲間のような男を、同僚と他の客の前で力で撃退した時、彼の息子のけんとに対して余すところなく言い届けることが出来たと思う。

「あと、私のお父さん、いたの‥」「お父さん?」ぱっと明るい顔で話された菜実の報告に、かじりかけのチキンを持っていた手が止まった。

 村瀬が、先日に菜実自ら絶縁したという叔母の孝子から聞いた話では、その父親は、菜実が三歳の時に内縁妻と娘を置いていずこかへ、おそらくは逃亡したというが、菜実は、どこでどういう状態で、二十何年か越しに会ったのか。話を聞いて受けた印象では、やはり何かのハンディキャップがありそうだと思う。

 なお、二ヶ月前の印旛沼デートの折には、菜実は父親について、「分からない」という語彙を用いていた。

「叔母さんに会った日と同じ日、柏で会ったんだ。どこかの施設の職員さんと、あと、障害ある人達と一緒にいたの。私、お父さんって呼んだんだけど、職員さんに押されて、行っちゃった。お話したかったんだけど」話出しは明るく晴れたものだった菜実の口調に、悲しみの抑揚が落ちた。

 菜実が会ったという時の状況の要領が掴めた。聞いた話でだいたいは村瀬にも分かっていたことだが、はっきりと分かれば、一層改められるものがある。

 菜実を囲んできた家族は、祖父のことは語られていないが、彼女本人、祖母、母親、父親と、みんな知的障害者だった。一歳の時に事故で死別するまで育ててきた「なつみ」という名前の菜実の娘も、多分祖母、母親から継いだハンデを持っていたのだろう。

 菜実は二十歳を過ぎてから支援にたどり着いたが、家族ごと障害で、そこに何のケアも差し伸べられないという状況は、想像が容易だ。その凄惨な場所で、菜実は生き抜いてきたのだ。

 これから九年待ち、仮出所した母親を待つということが見通し的に不透明であるなら、父親が存命で、沼南地域周辺にいると分かったことは大きいと思った。

「菜実ちゃん、お父さんのいる場所、探すっていうのはどうだろう」村瀬が区切りを強調しながら言うと、菜実の顔にきょとんとした色が出た。

「トゥゲザーハピネス、っていう事業所さんにいるみたい。職員さんの名札で分かったの」「トゥゲザーハピネスか。多分、柏市内か、柏の近くだね。我孫子とか、流山とか、茨城の取手かもしれないし。俺のほうで調べておくよ」村瀬は言い、シャンパンを啜った。

「菜実ちゃんのお母さんが出てくるまでの九年は、菜実ちゃんにとっても長い時間だよね。それまで、お父さんがそばにいるだけでも違うはずだよ。協力出来るかもしれないよ。実は、印旛沼で話した冒険野郎の弟の奥さんが社会福祉士でね、その奥さんに仕事を頼めると思う。つまり、福祉の助けを借りて、近い距離か、あるいは一緒に暮らせるようになるかもしれない‥」

 自分が想像しなかった可能性を村瀬から示された菜実の顔に、静かな驚きと希望の色が挿した。

「さ、今は飲んで、食べよう。明日の夕方には菜実ちゃんもホームに戻らなくちゃいけないだろうけど、それまではゆっくり出来るから。このあとスパゲティ食べたら、抱くからね。また、朝日の中にいる菜実ちゃんを見たいから」「はい」菜実が明るくはきと返事をし、涙の浮いた笑顔を見せた。
 その時、口の中のサバランをシャンパンで流し込んだ村瀬の目が、「事情不明の買収相次ぐ 甲信越の福祉施設」というテレビニュースの見出し文字に引きつけられた。画面には長野だという知的障害者支援施設の外観部が映し出され、男のレポーターが興奮を抑えた口ぶりで、「長野県内だけで二つの就労継続支援、新潟で一つの生活介護施設が、悪い言い方をするところ買い叩かれ、施設を利用する人達やその父兄には何の説明もなく経営者が交代するという事態が相次いでいるようです」と解説している。そこから画面が変わり、「きょう 十五時」というテロップとともに、高級国産車から降り立った初老風の男に、局違いの報道関係者が何人も詰めてマイクを向ける映像になった。村瀬はリモコンを取ってボリュームを上げ、釘を打たれたようにその画面を見つめた。車のナンバープレートと男の顔部分にはモザイク処理がされている。

「―さん、よろしいでしょうか」猥褻な言葉にかかるものと同じ自主規制音が男の氏名にかぶさり、何本ものマイクが男の顔下に差し出された。

「今回、ご自身が理事長をお務めになっていた社会福祉法人―の運営権を譲渡したという相手先を明るみにされていないようですが、どういった団体、または個人に、今後の経営をお任せされたのでしょうか」「県の監査課への説明はどこまでされたんですか」取材陣に求められたコメントを無視するように、男は車の方向、来たほうへ踵を戻して歩き出した。一目越しにも分かる、自分自身の安全を第一に慮っているように見える態度だった。

「―さん! ―さん! 一言でも構いませんので、何かお願いします!」追いすがるインタビューアを背中で振り払うようにして、男は車に乗り込んだ。

「相手方はいくらでーを買い取ったんでしょうか」女のインタビューアが声高々とマイクを向けて問うたが、男はサイドドアを閉めてエンジンをかけ、自宅前から走り去った。

 村瀬はテレビを消した。ヒメフォークを持つ手が止まった。未公開株の買い占めから、福祉施設の占有買収、すなわち有償の乗っ取りのニュースに、この二ヶ月の間に自分が体を挺し、見て聞いてきた事柄。それが確実に表の世界を侵食しつつある。甲信越地方で福祉施設を金でジャックしているのは、間違いなく李の配下だ。

 尊教純法という宗教社団の看板を掲げるシンジケートは、その忌まわしい大願を着実に達成に近づけている。

 一市民の自分は、組織の前では無力だ。だが、自分には役があると思える。純法の実態にその身を挺し、一時、心を邪悪なものに浸し、その手を罪に濡らした。その罪の水を綺麗に拭わなくてはいけない以上、恐れ故に沈黙の現状を維持する者達の中から立ち上がらなくてはいけないのだろう。

 目の前でメロンケーキを食べる菜実の姿が、小鳥のように小さく、儚く見えた。今日の夜は、守り、かつ、彼女が表に出さない傷をこれからも癒していくと、体と心で契ろう。この人は、元から女を抱く資格のない男達に、親を助けるために抱かれてきた。自分と周囲の障害のために、世間並みの青春などなかった。それをこれから作る手伝いが出来るのは、自分だ。また、弟の協力もあり、幸せを奪う敵の一端を知った自分にこそ出来ることだ。村瀬は固く思った。

 その時ふと、純法とは二度と直接は関わりたくないと思いつつも、二ヶ月前に自分を秒の時間でぶちのめして意識を深い闇に沈め、義憤から戦おうとした自分の前に立ちはだかった、「の」の字の目をした行川と、個人的にどこかでリベンジ・リターンが出来たら、という曲がりなりにも空手初段の格闘家としての血のざわつき、惜しみも覚えている己が確かにいることも感じていた。

 夕方に組まれた面接には、その職場に事情があるということを、まだ社会経験のない恵梨香は捉え得なかった。つい昨日ハローワークの検索で見つけ、即面接となったその職場は、市川の鬼越にあった。何坪あるかは恵梨香には分からないが、広い敷地の中に地上三階建ての、鉄筋コンクリートの建物がある。

「今、入浴が始まったところです。男女とも、一斉に十五人ほど入ります。こちらは女性になります」齢の頃四十代半ば、厚い一重瞼で、睨む目つきが常のものとなっているらしい施設長は愛想なく言って、脱衣場前のスペースに並ぶ、小さな巾着袋やマスコット類を下げた、オーソドックスな黒や、カラフルな赤や青の車椅子を手差しした。脱衣場からは、複数人が発する言葉を成さない声が反響して漏れている。半開きの扉から、タオルを手に出てきた若い女のスタッフは、疲労によるものらしい苛立ちが、隠しようもないまでに顔に出ていた。

 次に大きな机が並ぶ作業室、食堂、テレビのあるレストスペースを見、最後に利用者の居室へ案内された。その部屋は十畳ほどの広さで、壁の色は灰色、カーペットも何も敷かれていないコンクリートの床に、数セットの薄い布団が並べられて敷かれており、風景というものはまるでなかった。

 それを見た恵梨香は、強いて語彙化するところ「雑」という印象を胸に抱いた。福祉施設などこれまで入ったこともなく、恵梨香はこういう事業には全く詳しくはない。それでも、人数分の布団がぺたぺたと並ぶ居室や、テレビが置かれながらチャンネルを選べないレストスペースを見て、どこもこういうものなのか、ということが分かりかねた。

 案内の途中、何人かの男女スタッフや利用者とすれ違ったが、スタッフ達はみんな、一様に疲れて殺気立った顔をしていた。

「どうでしょうか」最初に通された小さな応接室に戻った時、施設長は、前に座る恵梨香に感想を訊いた。威圧的な口調だった。テーブルの上には、「地域に密着して48年」「権利擁護」と表紙に踊るパンフレットとハローワークの応募シート、「関本守」とある施設長の名刺、恵梨香のメモ帳とボールペン、冷めてしまった二人分の茶が置かれている。ソファの脇には鉢に植えられた観葉植物がそそり立っている。

 勤務時間は、日中部門と宿泊勤務、夜勤に分かれているが、この勤務形態と、休みはシフト制だという。時給は1200円、なお、退職金共済はあるが、賞与はない。それが社会福祉法人理徳会・鬼越ライラック園の募集内容だった。

「どうされますか? 入職する、しないは、ご自身の意思次第ですよ」施設長は、低く威圧する風の口調で言い、恵梨香は心なしか息を呑み込んでいた。これがこの男の地の話し方のようだが、持つ気性が発声などによく出ている。

「それで最初に言っときます。試用期間は三ヶ月を設けてますけど、遅くとも、だいたい二週間ぐらいで業務を習得してもらわないと、困ってしまうんですよ。うちに入所して生活してる利用者さんは、約百名になります。反してそれを見る職員は、看護師と嘱託医、栄養士を除いて、今、直接支援に当たる人間は、たったの二十人しかおりません。だから、職員一人で五、六人に目が届いてないと、全く仕事にならないんですよ。人手が足りないから、一人一人の労働の密度が高いわけで、みんなかりかりしてます。だから、もしも村瀬さんが希望して入職しても、あまり仕事の覚えが遅いと、だんだん先輩達の言葉も荒くなって、しまいには誰からも相手にされなくなります。気休めを言ってもしかたないから、遭えて本当のことを言いましたけどね。ちなみ言うと、私も気が短いものでね」関本は小さく苦笑して、手元の湯呑を取り、茶を啜った。

「入職されるのも、ご辞退されるのも自由です。お返事は今でなくても構いません。そうですね、だいたい年末くらいまでに連絡をいただければと思ってますので、まあ、まだ少し時間がありますので、よくお考えになって下さい‥」関本の語尾は、エアコンの送風音に消えた。それから関本は、目の前の応募者を試すような目を天井に向け、恵梨香は目の下のパンフレットを点視し、数秒の時間が経った。

「やります」送風音に乗るような恵梨香の声が、小さく放たれ、関本の目が彼女に向いた。 

「そうですか。今、そんなにあっさりと決断されて、大丈夫ですか?」関本の問い直しに、恵梨香はもう一度、同じ返事を繰り返した。

「分かりました。それならやってみますか。では、日勤のシフトから入りましょう。それじゃ早速、水曜、さっきお伝えしました時間に出勤してもらえますか。ロッカーがありますので、動きやすいジャージと、あと、上履きを持ってきて下さい。昼食は、朝、仕出し弁当を頼んでもいいし、ご自分で用意するのもいいですよ」恵梨香は関本の説明をメモ帳に書き込んだ。

 裕子の下で寝食の世話を受ける恵梨香が就職に腰を上げた直接の動機には、働かないことには自分の携帯料金と生理用品代を工面出来ないことにあった。また、見聞きしただけで苛烈さが一見にして分かるこの職場で働くことに同意したのは、裕子の話を聞き、まどかの言葉を思い出し、これまで感じたこともなかった危機感を覚えたからに他ならなかった。

 犯した罪が赦されないものなら、自分の身を禊ぐしかない。恵梨香は、自分がこれまでの人生で、一度たりとも持ったことのなかった真面目な気持ちが胸に根づき始めていることをひしひしと感じていた。

 関本はニットを被った恵梨香の剃り上げた頭を訝しむこともなく、中学卒業以降の職歴欄が空白になっている履歴書を見て、これは何かと呆れて尋ねることもなかった。人手の不足と資金難から、労働、利用者の生活環境ともに劣化著しいこの施設の長の立場にある彼は、言うなれば応募者を選べないのだ。

「お疲れ様でした。それでは、後日‥」ピロティで腰を折った関本に頭を下げた恵梨香は、陽が落ちた鬼越の家並に歩みを進めた。

 母親が実刑判決を受けたことは、父からのメッセージ録音で知っている。その際、父は弟の博人を引き取って一緒に住む旨も録音に残している。父については、中身を伴わない綺麗事を言う保身主義者という見方しか、今も持てない。それでも、半月ほど前に電話で啖呵を切り、食ってかかった時、受話器から聞こえてきたどこか悲しげな減張の声が、今、胸を叩いている。それが最後は保身、の人間なりの、心のある言葉だということを、認めなくてはいけないが、認められない自分がいる。それが心に葛藤を起こし、同時にまどかの、凛としていて、正しい優しさを込めた顔、声、言葉、西船橋のナチ・バーで自分を張り倒した叔父の掌と、自分に降らせたドスに籠った優しさを思い出していた。

 生理用品と飲み物を買うため、八幡の大きなスーパーに入ると、出入口近くのレストコーナーに座っている母子が目に入った。丸い一脚テーブルに弁当、パン、総菜、お茶とジュースが並び、茶色く染めた髪を後ろでまとめた、化粧気のない顔をした母親と、三人の未就学から小学校低学年と見える子供が、顔を寄せ合うようにしてそれを食べていた。母親は、弁当を食べながら発泡酒らしい缶の酒を呷っていた。子供達の髪はぼさつき、着ている服には金がかかっていないようだった。人生経験を積むのはこれから、という年齢の恵梨香にも、もっとも本当のことは分からないなりに、父親は常に飲み歩き、母親が全く調理を出来ないため、という事情の一例が思い浮かんだ。その時、店内BGMに流れるクリスマスソングのインストゥメンタル曲が悲しく聞こえた。

 先日に足を運んだハローワークでは、スタッフから検索機の操作を手取り足取り教えてもらいながら、ドラッグストアのバックヤード仕事や食品工場、仕出し弁当を作る会社の募集概要を印刷した。みんな、時給単価の安い仕事だった。それでも構わないと言えば構わなかった。だが、心が徹底的に汚れきっていく時に挿す絶望感の味を知っている恵梨香は、それを二度と味わいたくないという思いから、自分の身を洗う場所として、介護・福祉を選び、検索し、学歴不問とある鬼越ライラック園を印刷、面接予約を取りつけたのだ。

 恵梨香は、丸テーブルで子供達と身を寄せて出来合え物の夕食を食べている、おそらく準知的障害者であろう母親に情の目を送って、売場へ歩き出した。

 市川南の裕子の家に帰りつくと、入浴を終えてパジャマになった美春の歯を、裕子が腰を屈めて磨いていた。お帰りなさい、と裕子が言うと、美春がお姉ちゃん、と口をもごつかせて恵梨香を呼び、挙手した。恵梨香は口の端を微笑させて、美春に掌を振った。

「ご飯、取ってあるから」裕子が美春の歯を磨きながら振り返らずに言い、テーブルを見ると、ラップされた豚の生姜焼きとブロッコリーのサラダ、漬物、長葱の味噌汁、逆さになったご飯茶碗と箸が置かれていた。

「仕事、決まったよ」ぶっきらぼうな口調の報告に、歯ブラシを握った裕子が振り向いた。

「おめでとう! 頑張ったね」裕子は満面の笑みで、歯ブラシ片手に立ち上がった。

「何屋さんに決まったの?」「障害、持った人達見る仕事だよ。場所は鬼越‥」「福祉だね。私と同じ。私は知っての通り、高齢のほうだけどね。身体障害の人を訪問することもあるけど」美春が口許に歯磨き粉をつけたまま、いつもと変わらないきらきらした目で、恵梨香の顔を見ている。

「まとまった給料もらえるようになったら、出てくよ、ここ」恵梨香はあてがわれている部屋へ歩き出し、そこへ裕子が「ねえ」と声かけし、呼び止めた。

「お給料もらったら、すぐに?」「ああ、なるべく早くかな」「一人暮らしの準備は、お金かかるよ」裕子は幼児用の小さな歯ブラシを持ったまま、体を反転させてキッチンのほうを見た。

「これからのあなたと同じで、生きた人を見る仕事をしているから、分かることがあるのよ」裕子の声が、ボリュームを控えたテレビ音声の流れる部屋に低く落ちた。

「恵梨香ちゃん。あなたはまだ、誰かにそばにいてもらって生活してるほうがいい。たとえば私は今でこそこうして子供を持って、人の親をやってる。だけど、あなたと同じ子供の頃の境遇を持ってて、心に深い傷を負った身で、人を完全に信じることが出来るようになるまで、長い時間がかかったのよ。それこそポルノに売られてた子供の年齢の頃から、人生の半ばに差しかかるまで、誰を信じていいのかが分からなかったの。それがこの子が生まれてから変わったのよ。だけど、今のあなたはまだ、心が赦しを受け入れていないことが分かるから。だから、それが出来るようになるまでは、私が後見人みたいに、あなたの後ろについていてあげる。だから、私達と一緒にここに住みながら、自分のためのお金を溜めて、将来一緒になる人を探しなさい。私は、あなたには、間違いのない確かな方法で幸せを掴んでほしいの。それをサポートしたいのよ。それはこないだも言ったことだけど、見て見ぬふりが出来ないから!」裕子は恵梨香の上腕に手を添えた。その温かさが、上着越しにも伝わるのを、恵梨香は感じた。

「裕子さん、私は‥」恵梨香は初めてホストマザーの名前を敬称づけで呼び、声を詰まらせた。心臓が甘く収縮する感じを覚えた時には、何本もの涙の筋が、強張った頬に引かれていた。

「いいのよ。何も言わないで」裕子の言葉が優しく溶け、消えた。美春は恵梨香のジャケットの裾を掴み、にまにまと笑っている。俯いた恵梨香の頬を、涙が伝い始めていた。

 二人で調理したペペロンチーノを食べ終わり、村瀬が食器を洗い、菜実がそれを布巾で拭き、水切りラックに置いていた。音声を軽く落としたテレビからの歌、水、食器の置かれる音が静かに部屋に鳴る中、村瀬は体に勃起の疼きを覚えていた。

 菜実の手が、村瀬の腕を取って巻かれた。体を寄せてきた菜実のつけている、高級目のコロンが村瀬の鼻に薫った。

「二階、行く?」村瀬の誘いが、菜実の開いた瞳孔に送られるようにして囁かれ、彼女の頷きを待たず、村瀬の手がセーターの裾下から挿し入れられて、ブラジャーの下の乳房をそっと掴んだ。顔を紅潮させた菜実の口から、小さな吐息が漏れた。

 熱を発するお互いの手を取って二階の寝室前の廊下で、菜実は歩みを止め、スカートの上から自分の陰部をまさぐり始めた。村瀬はその菜実を腹に抱えるように抱いて、部屋に入った。

 枕を二つセットした布団の上で、座位の菜実のセーターを脱がせると、菜実は自分からスカートを脱ぎ、布団の脇に置いた。トランクス一枚になった村瀬が腰を抱くと、白い体を反らせた菜実が、後頭部から落ちるように横臥し、栗色の髪が放射状の形になって、広がった。

 堰を切ったように溢れ出した欲望の中、潤みを湛えた目で天井を見る菜実の顔色に、何かの負い目のようなものが視えるのは、自分の気のせいかと、村瀬は疑念していた。それは村瀬には、菜実が自分には打ち明けられないものを先日の近い日に背負ってしまったことのためのように見えた。

 だが、その疑念はないもののように、村瀬の手は彼の欲情に忠実に従った。その手によって、フリルのついたデザイナーズブランドブラジャーのフロントホックを外し、同じ青のショーツをぴりぴりと引き下げて足首から抜き払い、乳房と陰毛が目の下に露わになった。村瀬は菜実の体を跨ぎ、果実を持つように菜実の片乳房を掴み、もう片方に顔を押して、乳輪を吸った。やがて乳房を掴んでいた手が彼女の下腹に落ち、陰毛を掻き分けて、陰部の粘膜を捉えた。菜実が体を震わせ、反り返らせた。彼女の乳首は天井を仰ぐように、尖って伸びていた。やがて菜実は何かにはっと気がついたような顔になり、布団の縁に手を着いて、半身を起こした。恋肌メイクを施した顔には、すでに小粒の汗が玉ばんでいる。

 村瀬のトランクスが下ろされ、上を向いて張った村瀬の陰茎が菜実の口腔に深く呑まれた。村瀬は自分の分身を菜実の口に預けながら、北枕に体を横たえた。菜実の腿が村瀬の顔を跨いだ。目の上に入口を覗かせて迫った菜実のラビアに舌を這わせ、小陰唇を指で左右に開き、クリトリスを転がし、吸った。吸いながら、肛門に指を浅く挿入した。しばらくその男の前戯を続けてから、菜実の脇下に腕を差し、彼女の乳房を両掌の中に包み、ゆったりと揉んだ。村瀬の手の中で柔らかな乳房が形を変えた。

 村瀬は後背位で菜実に体を沈めた。菜実の乳房を両手の中に収め、淡い桃色をした肛門と、腰の律動に合わせてめくれる陰唇の縁と、前後に揺れる裸体の背中を見ながら、今日の日中から、彼女の顔に時折浮いた、何かを話しあぐねているような表情のことを考えた。その疑念はすぐに、菜実の乳房が掌を通し、繋がる性器を通して心に伝えてくる幸福感に流され、消えていった。前回に抱いた時と変わらず、菜実は大きな声を立てることはなかった。今回は、声を封じたその褥の姿が、ますます何かの隠しを胸に置いていることを、村瀬に想起させながら。

 熱い精を菜実の子宮に注いだ村瀬は、自分の胸に頬をつけ、まどろむ彼女の体を腕に抱きながら、半月前に出奔、今、いずことも分からない土地で何をし、どんなことを考えているかも分からない娘のことを想った。

 彼女が背負う、筆舌に絶する傷跡については、一応、村瀬は父としての溜飲は下げている。表のもの、裏のものの入り混じる社会の因果応報が、遊び仲間と一緒に恵梨香を玩弄した江中をしっかりと制裁し、娘の痛みと恨みは、きちんとその体に返礼した。その後、今の江中がどうなっているかは知るよしもない。未来に彼の身がどうなるか、などということにも関心はない。だが、その江中にわずかな金をくれてやったことは、良くも悪くも自分らしい。

 恵梨香がたどってきた子供時代を思えば、誰かを信じることで自分を益するという常識的なソーシャル・アティチュードは、普通というものを当たり前に供給され、その中で情操を難なく育んできた人間だけに許された、上等な贅沢品のようなものなのだろう。

 恨みと憎しみに自閉した心を開くことの出来る人は誰か。身内や、身内と繋がる人間には、二度と心を開きはしないだろう。だが、それの出来る人間は、種類的には極めて少ないなりに、決していないということはないのではないか。

 それは、恵梨香の抱えるものに対して、近いか、あるいは種を同じくする傷を負い、その痛みを理解し、過ちの経緯をその人生に持つ者だろう。

 想い、考えるうちに、激しい交わりの疲労と虚脱が来た。村瀬は菜実の髪を編んだ頭を抱き直し、彼女の額に自分の額をつけ、深く目を閉じた。意識が落ちる前に、未来の時間の、どこかの公園で、綺麗な髪の伸びた恵梨香が嬰児を胸に抱いてあやし、寝かしつけている光景の夢を見たような気がした。
   
「おはよう」恵梨香は初めて自分から、早瀬家の人に朝の挨拶をした。顔に愛想はなく、口調はいつものようにぶっきらぼうだった。起きて、キッチンに来た時、椅子には美春が座り、裕子が韮を切っていた。

「おはようさん。前とだいぶ変わったね。自分から声かけてくれるなんて」裕子が言い、美春がきゃらきゃらと笑った。

 民放の「ズームアップジャパン」を観ながら、刻みキャベツ添えのハムエッグ、ソテーしたウインナーソーセージ、韮と舞茸と刻み玉葱のコンソメスープ、麦飯の朝食を三人で摂り、食後のコーヒーを裕子に淹れてもらい、飲んでいるところで、美春の歯磨きになった。

「私に、ちょっとやらせてもらえる?」恵梨香は洗面台の前に歯ブラシを持って、美春の顔の高さに屈んだ裕子に声をかけた。 

「いいよ。上手な磨き方、教えてあげる。仕事の練習だものね」裕子は恵梨香に小さな幼児用歯ブラシを、柄の部分を向けて差し出した。

「縦磨き。歯の際を意識してね」裕子の声を受けて、恵梨香は屈んで、目の高さを美春に合わせ、彼女の上唇をそっとめくり、杭のように長く、不揃いな歯列の上の歯から磨き始めた。裕子に言われたように、歯ブラシを数字の「1」のように縦に当て、歯茎をマッサージしながら、一本づつを丁寧に磨いた。

  下の歯列、歯の裏も磨き終わり、カップを美春に渡すと、彼女は自分の手でレバーを押して水を汲み、口をゆすいだ。
「上手いよ。自信もっていいと思うよ。美春と息も合ってたし」裕子の言葉に、恵梨香は自分の口許に笑みが浮かぶのが分かった。かすかな笑みだが、喜びの笑みというところでは、これが実に十年ぶりのものだと気づいた時、つい昨日まで心にかかっていた暗い幕が、緩やかに開いていく感覚を覚えた。それが目を涙に霞ませた。裕子の前で泣くのは、あの新小岩の夜から数えて、これで四度目だった。可愛い歯ブラシを手に立ち、声を抑えて泣きながら、厭離のつもりで叔父や弟もろともその許を去った父親の顔と声、言葉を思い出した。頭に再生された言葉は、今もまだ綺麗言として響いていたが、あれだけのことを言った以上は、それらの言群を具体形に固めて、いつか自分の前に提示してほしいという未語彙化の想いがよぎった。

 それでも、今の時点では、また会う日が来るか来ないかの確証は、恵梨香の中にはない。ないのだ。それを思ってか思わずしてか、涙の量が多くなった。

 視界が涙で遮断される中、肩に添えられた裕子の掌の温かみが心に沁み入った。恵梨香は、これまで感じたことのなかった幸せを胸の奥に覚えていた。これが幸せというものか、と思った。それは血の繋がりこそないが、自分の母として機能する人と、無条件に愛を与える妹のような存在が出来たからということに集約され、得た幸せだった。

 虚勢の表れだった、障害者への侮蔑心、偏見は、すでに綺麗に落ちてなくなっていることに、恵梨香はその時に気づいていた。

 旭日がカーテンを越して二人の肌を照らし、目を覚ました村瀬の腕の中で、菜実がぱちっと目を開けた時、枕元の液晶デジタル時計は七時過ぎの時刻を表示していた。

「おはよう‥」村瀬が小さく囁き言うと、腕にくるまれた菜実は「はい」と返した。起きばなの菜実の顔は、昨日に引き続いて、胸に何かを抱えている色が出ていたが、それを無理に訊き出すことは、やはり村瀬には野暮に思えた。

 朝の勃起が激しかった。仰向けの体勢に寝かせ直した菜実に覆いかぶさり、乳房と唇を交互に口で愛撫した。それから口を陰部に移した。菜実の腿を大きく広げ、会陰からクリトリスまでを舌と唇で愛でると、菜実が体を起こし、村瀬の膝の上に乗って、彼の背中を抱いて、唇に唇を重ねてきた。村瀬が舌を挿れると、菜実も舌で応えてきた。村瀬の胸板が菜実の胸を押し、乳房がたわんだ。舌と舌の応酬が終わると、菜実は村瀬の下腹に顔を映し、目を閉じて、陰茎を頬の中に包んだ。骨盤が溶けるような感覚を覚えた村瀬は、あっと短い呻きを漏らし、菜実の乳房に両手を掛けた。それから村瀬が菜実に被さる正常位で、体を一つにした。

 村瀬は突き動きながら、これからの半生を賭して守っていくと決めた女の顔を、その念を込めた真摯な目で見つめた。額、こめかみから滴った汗が、曳光弾を思わせるラインを引いて落ちた。菜実は村瀬の下で、何か堪え難いものを堪えるように、眉間に筋の浮いた顔を俯かせていた。その顔には、詫びの色が出ていた。

 その日は、居間のソファで菜実を膝に抱いて体を揺り篭のようにゆったりと揺らしながら、詩を読んだり、お互いの子供の頃の話をしたり、家近くの公園でたこ焼きを食べたりして過ごし、そうしているうちに、菜実がホームに帰る時間が来た。村瀬はそれを惜しむようにして、また菜実を二階へ誘導し、抱いた。

 大久保から恵みの家までの道すがら、菜実は無口だった。恵みの家に着いた時、その顔に、一瞬のためらいののち、笑顔が刻まれた。自分を慕う、変わらないキタキツネの笑顔だった。

「じゃあ、またね」村瀬は言って、菜実の肩を抱いて、額にキスをした。微笑の顔で玄関に消える菜実を見送った村瀬は、しばらくホームの前に立ち止まった。立ち止まって考えていたことを、馬鹿馬鹿しいことだ、と自分に心で言い聞かせ、納得させ、大久保駅のほうへ歩き出した。

 クリスマスソングがどこからか聞こえる商店街は、いつものように若者のグループが並んで歩き、その間を割って車が走っていた。

 恵梨香は今、どうしているのだろう。昨晩に抱いた案じの念が、また頭をもたげてきていた。
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