手繋ぎ蝶

楠丸

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30章

~復讐の蒼天~

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 クリスマスが明けて、師走に近づいた土曜日だった。「賃上げ」を主なテーマに据えた小討論会の準備を、叶恵は早くに顔を出して手伝っていた。利用者達が職員のサポートを受けながら作業を行う様子、外遊の催しの様子などを写真で紹介するスクリーン、プロジェクターのセッティングその他を、彼女は文岡に任されていた。

 時間は午前であり、NPO法人ダブルシービーの生活介護部門室には、長いテーブルが四つ重ね合わされ、パイプ椅子には、計九人が座っている。その出席者は、市内のグループホーム経営会社の代表取締役、ダブルシービーと業務契約をしている株式会社の役職者、それにダブルシービーを後見しているという、リベラル政党に所属する県会議員、他は利用者の保護者である中高年の女達だった。テーブル上の、保護者以外の人物の前には、中紙に名前の書かれた透明アクリルのネームプレートと、茶や水などの飲料類が置かれている。

 対面する壁には、200インチのスクリーンが掛かり、そのサイドに会長、施設長の文岡と、実弟でサービス管理責任者、副施設長格の文岡和馬、席の下座には叶恵が立っており、時間は昼までの一時間半ほどを予定している。

 叶恵はぬかることなく、プロジェクターに、スマホに保存されている映像データを映し出すため、端子にレシーバーをセットしていたが、文岡兄弟の目を巧みに盗んで付けたその小さな装置に、開会直前になっても彼らは気づいてはいない。

 私が本懐を遂げる時が来た。叶恵は、父と母の霊に念を送った。あれから二十五年の間、私が心血を注いできたことの結果が、今日、出るのだ。文岡兄弟の逆駁も覚悟の上だ。

 普段、体の自由が利くほうの利用者には軽作業を、身体障害の重複した人達には個別の運動を行わせている広い部屋。ここが、文岡兄弟の社会人生が終焉する場所になる。

「大変お待たせいたしました」文岡がマイクを通して挨拶の第一声を出した時、ボリュームを抑えたBGMのクラシック音楽は、シューベルトの「ます」が流れていた。

「皆様、本日はお忙しい中、本討論会にご参加いただき、誠にありがとうございます。本日の会のテーマは‥」文岡は、スクリーン真上に掛かっている長方形のテーマ書き看板に書かれている“作業工賃の単価賃上げを含む利用者の処遇向上”を読み上げた。

「先日、県は、福祉施設における工賃及び職員の処遇向上の第二次三か年計画を策定いたしましたが、当法人では、今後十年というスパンを見込んだ上で、他法人とその関係者各位、父兄の方々とともに、その処遇向上というテーマを煮詰めていきたい、と考えております。そこで本日は、その辺りで忌憚のない意見を交換し、利用者様方は元より、当法人で働くスタッフ、保護者様方の恒久的な安心を今後も作っていくことへのさらなる一歩になれば、私どもにとっても大変な幸となります」若干のハウリングが混じる文岡の声が響いた。

「当ダブルシービーでは、ちょうど十年前、平成二x年の設立以来、地域の方々からの手厚い協力をいただきながら、利用者の命を尊ぶ心を、行動、言質に一致させるという支援方針をスタッフ各位に一貫させて今日まで歩んでまいりました。そこで、今日この日まで、当法人を援護下さり、または業務提携してきた方々、また、本日の討論会に参加することで、是非、参考を得たいという考えをお持ちの他支援母体の方々に、ご挨拶と、簡単なご紹介をいただきたいと思います」文岡が述べると、テーブルの上座近くに座る、ネイビーのスーツを着た五十代の男が起立した。

「お会いするのが初めての方もいらっしゃると思いますので、簡潔に自己紹介をさせていただきたいと存じます。私は、護憲民治党に所属し、現在県議会議員をしております、小林常隆と申します。文岡さんご兄弟とは、このダブルシービーを立ち上げられる前から知己の間柄でして、この法人のバックボーンに据えられた支援者としての矜持に、心から賛同している者です。私も常日頃より、議席から、県に暮らす方々の幸せと安全を思いながら、条例や予算の制定などの職務を行う立場の者として、この法人を後見支援させていただいております。今後も是非ともお見知りおきをお願いいたします」小林は押し出し良くひとしきり言うと、一礼して着席し、保護者を含む他の出席者達が軽く頭を下げた。

「株式会社グリーンロームで代表取締役をしております、大滝と申します」次に席を立って一礼したのは、まだ四十歳前と見える、ラフな私服姿の男だった。

「当方はまだ今年の春にグループホーム事業を立ち上げたばかりで、船橋市の金杉台に一軒、現在三名の利用者が入居している男性のホームを構えております。私は不動産業界からの転身で、四年かけて福祉のことを一から勉強したもので、文岡様方と比べたら、ひよっこのようなものですが、これから女性のホームや、ショートステイも行う日中一時支援、または放課後等デイサービスの立ち上げなど、事業の拡大を目指しております身で、参考になるご意見が伺えたらと思って、参加させていただいた次第です。よろしくお願いいたします」大滝と名乗った男が座ると、次に紺のスーツ姿をした、髪の薄い眼鏡の男が立った。

「百円ショップの“ビーワン”運営母体である株式会社マルサンの船橋支社で、製造販売部の主任をしております塚口と申します。ダブルシービー様からは立ち上げ当初より弊社の業務をアウトソースしていただいております。今回、文岡様ご兄弟がお考えになって立ち上げたテーマであります、処遇の向上というものについて、私の上部が大変な関心を持ちまして、今回の討論会に参加させていただきました。当部の部長から、行って話を聞いてこいと、どんと背中を押されましたものでして‥」塚口という男が笑いを交えて言った時、保護者達の席からも小さな笑いが湧いた。文岡も笑っていた。

 六名の保護者達がそれぞれ、利用する子の親である、という挨拶を済ませると、文岡はプロジェクターのリモコンをマイクとは反対の手に取った。

「お心の籠ったご挨拶と自己紹介をありがとうございます。それでは、まずは、当法人が普段どのような雰囲気の中で支援に当たっているかを、スライド画像で見てイメージを掴んでいただきたいと思います」

 その時、叶恵の手にスマホが包まれて持たれていることに、文岡と和馬の目は完全には届いていなかった。関係者、保護者の参加者は、皆、一斉にスクリーンに目を向けていた。

 映ったものは、砂利が敷き詰められた、社屋を背にした施設のバックヤードで、二人の男が一人の小柄な利用者を掴み、その体を揺さぶっている鮮明な映像だった。男達は文岡と和馬だった。疑問を呈する単字一文字の声が、保護者の女達から小さく上がった。

 映像の中で文岡は、利用者の阿部の腹に膝を入れた。その音に目を見開いた文岡兄弟は、左右からスクリーン画面を見た。文岡は腰が抜けたような体の恰好になっており、和馬は呆然としながらも、横顔に怒気を含ませている。

 “お前、俺達に一端張ってるみてえだな。ちょうどいいから、お前みてえな家畜には一生かかっても分からねえこと、教えてやるよ” スクリーンに映る文岡が言うと、参加者席がざわめき始めた。

 “世の中には分際ってもんがあるんだよ。お前らの安全を毎日守って、お前らの糞やションベンの世話してんのはこっちなんだぞ。つまり、俺達がお前らの命を握ってんだよ。お前らの命を握ってるから、病災の頃は感染対策をきっちりやったし、地震や台風からお前らの命を守るための防災訓練だってやってるわけだ。お前を含めて、どいつもこいつもそれに感謝の心を少しも見せねえとこに、すでにお前らの分際が出てるんだよ” スクリーンの中の文岡が目を剥いた。

 “そんなに竹ひごの検品が嫌だったら、職員の手元やるか? 言っとくけどな、こっちは竹ひごとか梱包みたいに優しくも甘くもねえぞ。優しいほうがよけりゃ、こっちが決めた朝の割り当てに従え。それが出来ねえんだったら、とっとと自殺して、もーもー、ぶーぶー鳴いて、餌食って、クソションベン垂れる牛か豚に生まれてこいよ。五階から飛び降りるとか、電車に飛び込めば死ねることぐらい、お前にも分かんだろ。まあ、そんなのが一匹死んでくれて、こっちはすっとしてるんだけどな。風呂も入らなきゃ、糞したあとでケツも拭かねえ、手も洗わねえ、臭え、ぎゃぎゃ、ぎゃぎゃうるせえ爺いが、ちょうどよく脳溢血でくたばってくれたからさ。あの伊藤の親爺だよ。お前も知ってんだろ、おい” 文岡が言い、阿部の頬に平手打ちを繰り返し見舞った。

 文岡は顔から血の気を引かせ、化石のように立ち尽くしているだけだった。和馬は参加者席を、目を大きく剥いて、何かの説明を試みようとしていることが見て取れるが、開いた口からは言葉は出ない。

 画面が変わった。スクリーンに、剥き出しになった女の性器が大映しに映った。肛門までもがあからさまに映っている。女の嬌声めいた声と、濁った男の笑い声が流れた。

 保護者の女達が悲鳴を上げた。関係者達は息を呑み込んだ表情と恰好で、スクリーンに目を吸われている。画面の中では、女のクリトリスを、印台指輪の指が弄んでいた。次には、四つ這いになった女、村嶋理恵が、和馬にフェラチオを施しながら、肛門で文岡を受けている映像になった。その脇では、顔の映っていない男が勃起した男根をしごいている。「汚え、糞が引っついてやがる」文岡の声が漏れた。保護者の女達は、そこで悲鳴を止めた。今となっては微動たりとも動かしようのない現実、事実を、自分の感情は関係なしに見ざるを得なくなったという顔で、スクリーンを見つめている。関係者達も、いつしか現実を飲み下した顔になっていた。

「待って下さい! これはAI映像です! こちらを陥れようとする人間達がプロジェクターに仕込んだものです!」和馬がパイプ椅子の席を一つづつ周りながら、狼狽の中にも作り直した気丈な顔で説明せんとした。

「知っておいでですよね! これだけ精巧なものは、今の技術では簡単に作れてしまうものなんですよ!」

 兄の丈二は、焦点の合わない目を宙にさまよわせ、荒い息を吸い吐きしている。スクリーンの中では、理恵が和馬に正常位で挿入されて忘我の声を上げ、上から挿し入れられた文岡の手が、乳房を荒く揉んでいる。

 映像はそこで切れ、スクリーンには、県内の薔薇園へ外遊に行った時の様子が映し出された。

 静まり返った生活介護部門室を、叶恵は、下座から縦断し、表情と体勢を硬直させた文岡と、怒りに顔を紅潮させ、両手に拳を握りしめて仁王立ちになっている和馬に歩み進んだ。

「私がここにスターティングメンバーで入職したのは十年前、まだ平成の頃だったけど、気づいてた? 今から二十六年前のクリスマス時の夜、大田区の東糀谷の街で、お前ら兄弟が率いる七、八人組のチーマーが、まだ幼い娘を連れた親子連れの父親を、娘の目の前で、寄ってたかって嬲り殺しにしたんだ。覚えがあるよな。私は、あの時、お前らがげらげら笑いながら父親を嬲りものにする脇で、泣いてた小さな娘だよ」兄弟の目前に立った叶恵の素性明かしに、和馬の顔から怒りが引き、代わって恐れの色が浮き始めた。

「通行人は、みんな見て見ぬふりの見殺しだったよ。それどころか、見物して、可笑しそうに笑ってる奴らもいたよ。まだ五歳だった私に対する警察の聴取は高圧的だった。残された私達に下りた犯罪被害者給付金はわずかなものだった。お前らの親は、誰一人として賠償金を払わなかった。母は、惨たらしい一方的な、それでいて、こちらには何の落ち度もないにも関わらず振るわれた暴力で夫を亡くしたショックと悲しみを一生持ち越すことが出来なくて、私が中学を卒業する頃に自殺したんだよ。文岡丈二! 文岡和馬! お前らの福祉職歴は、ここを含めて十七年だそうだけど、これまで何を考えて、自分達が起こしたあの嬲り殺しをどう思いながら、人を見る仕事をやって、家庭の主までやってきたんだ。お前らのママが口を揃えて言うには、私の父に非があったとかだったらしいけど、お前らは遊びで父を殺したんだもんな。そりゃそうだ。お前らにとって、利用者は家畜で、性欲満たすためのおもちゃなんだもんな。その本性が今日、これまでお前らを信用してきた人間達のまえで暴露されたわけだけど、これからどうする? 関係機関、関係者に圧かけて、箝口令を敷く? それとも、私を名誉棄損、誣告で告訴でもする? でなきゃ、猥褻物陳列罪で、今、警察に通報する? それでお前達の支援屋としての生命が保てて、将来は県の名士に成り上がれる算段があんなら、どれでも好きなほうをやりな」シューベルトのハ長調をバックに、低い気当たりを持つ叶恵の声が、落ち着いた静けさを裂いた。

「お前らがどうしても、これからもこの法人を維持したきゃ、今、ここに来てる人達に、今のがAIだなんて、ここの利用者でも分かるような嘘の言い逃れを撤回して、映像は本物の身体的、心理的虐待で、女子の利用者を兄弟でセクフレにしてることをきっちり認めて、それに加えて、昔の時分に大田区で非道の限りを尽くしてきて、逮捕、服役歴があることもしっかり説明しなよ。それで、保護者各位に、その旨をファックスで送ることだね。間違いを犯しましたが反省しますってね。その上で、今、ここで心を入れ替えることしか、お前達に生きる道はないよ。ただ、それは今日ここに来てる人達がそれに納得するかしないかにかかってるよね。さあ、どうする?」

 語気を強めて、施設長とサービス管理責任者の顔を交互に見た叶恵に、その兄弟は後ずさりした。

 参加者達が席を立ち始めたのが、背後からの音で分かった。保護者の女達が、小声の早口で、声色で軽蔑のものと分かる話を交わしている。私達、馬鹿みたいだったね、という言葉も聞き取れた。

「何なんだ、あんた達は!」和馬の後ろに立った、護憲民治党所属の県会議員、小林が荒らげた声を投げた。

「晴天の霹靂だ。この十何年もの間、あんたらがそんな下品な経歴を持ってて、我々後援者の見てない所で、あんなふしだらなことをやっているとは露知らずだったよ。これじゃ、これまで何のためにあんたらを後見してきたのか分かりやしない! あんた達とは、もうこれまでだ。党のイメージダウンに繋がることは明らかだし、あんたらみたいなごろつきとこれ以上付き合うと、私の名前にも傷がつく! それじゃ、私は失礼する!」小林はあらん限りの憤怒を横顔に浮かせ、足取りも荒く、生活介護室を退出した。

 小林に続いて、保護者の中年から壮年の女達も、ある者は後ろを振り返ることもなく、またある者は、ちらりと軽蔑、見限りの眼を一瞬だけ向けて、足早に出ていく。

 グループホームから日中施設へと事業を開拓していく展望を語った、株式会社グリーンロームの代表取締役、大滝は、がっくりと俯かせた顔に無念を漂わせ、何も言わずに部屋を出た。それから、百円ショップの運営会社で主任をしているという塚口は、全ての現実をやむなく受け入れたが、まだ納得してはいないという顔で、和馬、文岡、叶恵の前に立ち、何呼吸か置いてから、ゆっくりと言葉を搾り始めた。

「あまりに驚いて、まだ、先しがた見たものを、私自身の心が受けつけておりません」

 塚口の眼鏡越しの目は、床に落ちたまま、せわしない瞬きを繰り返し、声は細く高ぶり、震えていた。

「吹けば飛ぶような主任の私目にも、上が貴法人様を信頼して製造業務の請負をお願いしていることはよく分かっておりました。出来るものなら、私は見なかったことにしたい。だけど、私には報告義務がありますし、今回、この討論会に出席した理由には、当社との委託契約をより強く確かなものにするため、と上から命を受けたことにあります。これを上が知ってしまったら、ダブルシービーさんに限ってそんなことはあり得ない、と怒られると思います。だけど、ありのままの報告をすることは、業務命令であり、義務です。これを知った課長、部長がどんな顔をして落胆するかと考えたら、私は気が気じゃないですよ。本当に。本当に‥」

 どうにもならない事柄への心底からの嘆きを顔一杯に浮かべた塚口ががっくりと肩を落として立ち去り、もう誰も残っていないと思えた時、足音を憚って近づいてくる靴音がした。

 叶恵の後ろに、入室の時から口数のなかった五十代の女が立った。石山和沙という、知的と身体が重複し、歩行器を使用して移動する、支援区分が重い二十代の女子利用者の母親で、石山尚子、という氏名の女だった。

「石山さん、これは、先も言いましたように‥」和馬は引き攣った愛想笑いを浮かべて、なおもまだ弁解を切り出そうとした。

「七年前、私がここを娘を預けてもいい場所だと親の判断をしたのは、命を尊ぶ、というスローガンを、あなた達なら最後まで貫いてくれると思ったからです。面談した時、私はあなた達に、とても信念を持っていて、熱心で清廉潔白な人達だっていう印象を持ちました。その時に受けた印象を、今日までずっと信用してたんです。だけど、それが今はただ悲しい。何が悲しいかって言うと、あなた達が、自分達が犯した過ちの反省が出来ない人達だっていうことが分かってしまったことです。娘は心臓弁膜の奇形と腎臓の機能不全の内部障害も持っていて、この先生きることが出来ても、せいぜい四十歳くらいまでだって医師からは宣告されています。私は親として、生きられる時間が短く限られてる娘を、反省っていう、人として当たり前のことが身についてる人の所に預けたい。だから、こちらとの契約は、もう打ち切らせていただきます。これまで娘を見てくれてありがとうございました。お世話になりました」尚子は腰を折って一礼し、退室し、それを和馬は言葉なく目で見送った。

 関係者、保護者は、開催からほんの数分程度で、皆、いなくなった。生活介護室には、三人の職員だけが残された。ハ長調は、沈黙の間を縫うように流れ続けていた。スクリーンの映像は、就労継続部門の工賃手渡しに変わっていた。

「ほら、みんな、いなくなっちゃったよ。もう、後援者、業務提携者もいなくなって、利用者もこれからどかどか、いや、今日をもって根こそぎいなくなるんじゃないかな。これからどうする? いっそのこと誰かにここを買い取ってもらって、隠居か、それとも転職でもするのもありなんじゃないかと思うんだけど」

 その言葉に何かがぎくりと来たらしい文岡が脚を震わせ、へなりと跪いた。睫毛の長い三白眼の目はあらぬ空間を泳ぎ、膝は、内へ、外へと開閉する不随意運動を繰り返している。赤く充血した両目からは涙が滴りこぼれ始めていた。彼は今、絶望に絶望が追い打ちされているのだ。一方、和馬は、威圧的な形の大きな目を血走らせ、食いしばった歯を剥いた形相で、肩を荒く上下させ、腰の脇に握りしめた拳を震わせて叶恵を凝睨しているが、言葉は出ない。

「これで全部終わった。私の仕事は」叶恵は窓のほうを見て、ブルーの無地のエプロンを、体から剥ぐようにして脱ぎ、左腕に垂らして掛けた。

「さて、冬の賞与もちょうどもらったところだし、これで私はお暇させてもらうよ。もしもここから名誉を回復させたいんだったら、せいぜい頑張ることだね。じゃ、十年間世話になったな。さようなら、似非支援者さん。一応は一スタッフとして雇ってもらって、社保完で働かせてもらって、給料をもらってた立場から、これからのあんた達の幸を祈ってやるよ」叶恵は残して、膝を着いて、裏返った声の咽びを撒く半狂乱の文岡と、憤怒露わに歯噛みをして体をいからせる和馬に背を向け、しんみりとハ長調の流れ続ける生活介護室を出た。

 女子ロッカーへ行き、生理用品など中の荷物を残さずにリュックに入れ、外へ出た。もうじき年末となる十二月下旬の船橋市宮本の上には、父と母と、その他、文岡兄弟により体や心に深い傷を負った罪のない者達のために遂行した私裁を終えた叶恵の心を象徴するような、蒼が萌える空が広がっていた。

 ぺスパが停まる駐輪場の斜め前の駐車スペースには、黒のソアラが停車していた。叶恵が近づくと、運転席側のウインドウが下がり、リムレススクエアを掛けた、唇の厚い男が顔を覗かせた。

「終わったか」男が声低く訊くと、叶恵は頷いた。「全部終わった。お陰様だ。恩に着る」「もう一匹はどうすんだ。あれが事実上の主犯だろ」「あいつは今、虫けら同然の惨めな人生を送ってる。そこから抜け出せる見通しはこれからもない。あの男は、これでいい」「そうか。引導を渡す代わりに職場は無くしたわけだけど、これからどう身ぃ振るんだ」男が訊いた時、後ろからばたばたという足音と、「待って下さいよ」といううろたえきった声がした。

 追ってきたのは和馬だった。その手には、一枚の茶封筒が持たれている。顔からは、先までの怒りの相は完全に消え失せ、眦と口の箸が下がった、見るに情けない表情が浮き出している。

 和馬は叶恵とソアラの間に駆けて割り込むなり、駐車場のアスファルト路面に膝を落とし、手にしている薄くない茶封筒を叶恵に差し出した。

「中に五十万、入ってます。賠償金の代わりだと思って受け取って下さい!」高く反転した声を搾り上げる和馬を、叶恵は涼しく見下ろした。鱈子唇をしたリムレスグラスの男も、黒いレンズ越しに和馬を見下げた。ひとからかいしたげな表情だった。

「あの時のことは、本当にすみませんでした。あの時はみんな薬決めててわけ分かんなくなってたし、俺達もまだ子供で分別がなくてやっちゃったんですよ。だから、赦して下さいよ! 五十万で足りなきゃ、もう五十万足して、百万差し上げますから! いや、お望みなら、三百万出しますから! お願いします、吉内さん!」和馬は叶恵の脚を掴んで揺さぶりながら懇願した。叶恵はその両手を払い、後ろへ下がった。

「これが反省の証明になるとかって、お前は本気で思ってんの?」叶恵が投げた問いに、和馬は喉の奥からひっという悲鳴染みた声を上げ、身を震わせた。

「私の親の命が、あの世から買い戻せるんだったら、その金も謝罪の証しになるかもしれないよな。だけど、ここは復活の呪文とかのあるロールプレイングゲームの世界じゃない、現実の世界だろうが。今のお前ら兄弟は、反省なんか微塵もしてない。その齢の面ぶっ提げて、どうあっても赦せるはずのないことを赦してくれなんて懇願して銭金で埒明けを図ろうとする根性、それにあれはああだったから、こうだったからって弁解、それがその証しだよ。お前らみたいな奴らは、よぼよぼになって死ぬ時に、それらしいものが芽生えるか芽生えないかが関の山だと思うよ」叶恵はソアラの男と目礼と頷きを交わし、駐輪場へ向かった。数歩進んだ時、背後から人間の体が揉み合う音と、くぐもった気合のような声に、体ごと振り向いた。

 荒川と名乗るソアラの男が、組み伏せた和馬の首根を掴み、右腕を天に向かって掴み上げて制圧していた。和馬の右手には、昔懐かしいバタフライナイフが持たれている。やがてそのバタフライナイフは荒川の手にもぎ取られ、渡り、路面に投げ捨てられた。もがきの声を発する和馬の腹に荒川の膝が入り、彼の膝を受けた文岡兄弟の弟は呻いて体を折った。後ろから叶恵を刺そうとしたところを、下の名前がヨシキというらしく、本名の苗字が不明の荒川が取り押さえたのだ。

 元利用者の村嶋理恵を連れ込み、兄弟でおもちゃにしている市川のウィークリーマンションに超小型の盗撮機を仕掛け、そのあられもない映像を叶恵のPCに送信する協力をした、この飄々とした男が。

「この銃刀法違反と殺人未遂、それにこっちの過剰防衛、猥褻物陳列は、完全にクロブタだな。諦めろ。俺の奥さんも言ってんだ。一度犯した罪は消えない。そいつは命がある限り償い続けるしかねえんだってね」荒川名乗りの男は、和馬の胸を踏みつけ、その体を路面に留めながら言い、その足を離し、胸を蹴った。蹴られた和馬が力無く呻いた。
   
「これからどう身を振るんだ」荒川名乗りの男が、先のものと同じことを訊いた。その問いに、叶恵は微笑を返した。

「思いつくままに生きるよ」やるべきことは全部やったという充足の笑みを浮かべ、小さく手を振った叶恵の、余分な力の抜けた姿勢の後ろ姿を、荒川佳樹こと村瀬義毅は、温かな目で見送った。

 やがて彼は、うずくまって泣き声を上げ始めたサービス管理責任者の尻を足で軽く嬲って、すぐそばのソアラに体を向けた。女々しいさざめ泣きを背中であしらいながら、昔の習いで、肩の後ろを振り返って、相手の逆撃を警戒しながらオートキーのボタンを押した。義毅の頬にも笑いが浮いていた。足を洗おうとした矢先に、往年の不逞な手段を用いたが、気持ちを痛いほど理解していた人間に力を貸し、成功へ持っていくことが出来たという、これまた充足の笑みだった。

 雲のない蒼天に、義毅は、叶恵と共有する思いを重ね合わせた。
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