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31章
~二胡と斧~
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黒地の内照看板に、白文字の山東招館という号が描かれた大構えの店は、中華街から外れて本牧に軒を置いている。
その豪奢な中華飯店の店前に、隅々までが磨かれた暗いカラートーンの高級車が三台停まった時刻は、十八時を過ぎた頃だった。
二番目に停車したメルセデスベンツの助手席から男が降り、彼の開けたリアドアから初老の女が出た。女は淡いブルーレンズのグラスを掛け、銀色の髪を男のように短く刈った頭をし、上がフォックス革のコート、下が紺のズボンという出立ちで、皺の浮いた指には宝石の指輪を光らせている。
続いて先頭のリンカーンコンチネンタル、最後尾のクライスラーから、ゆっくりとした歩調で、計六人の男達が降り、女をガードする風に左右を囲むと、三台の車は駐車スペースへと回った。そのうち一人の男は、手から黒いキャンパス袋を提げている。
女の脇には、女と顔立ちがよく似た、年齢的にそろそろ中年域に入りそうな、小太りの男が立った。
この男を始めとして、男達は全員ネクタイを締めた正装で、その小太りの男ともう一人を除き、金や黒紫の僧帽を被った姿をしている。この店はネクタイ必須の完全予約制なのだ。
その人間達は、竜の大理石像が建つ、自動ドアを越えた入口からマネージャーのような男に案内され、奥の個室席にその姿群を移動させた。
その時、紅い中華提灯がたわんで下がり、西洋調デザインのウォールランプが薄く光る二百坪のフロアでは、五組ほどの客が回転テーブルを囲んでいる。アジアン・バイオリンである二胡の奏でる緩やかな旋律が流れる中、広州風レイアウトの窓際席には身分賤しからぬ家族連れが四人座り、よそ行きを着た二人の幼い娘が、コースの前菜皿の前で、今日買ってもらったらしい小さなおもちゃで遊んでいる。
金の僧帽の李はそれを一瞥すると、すぐに関心なさげに顔向きを前に戻した。グループの人塊からやや距離を取り、最後尾から追うようにして歩く、僧帽を被っていない行川は、フロアの隅から隅にまで、愛らしい「の」の字の目を動かして射廻しの視線を配っていた。
山脈と鳥が描かれた水墨画の掛かる奥の壁際に座って料理をつまみ、酒を傾ける年老いた三人の男が、その圧視に気づいてグループのほうを見たが、それぞれの顔にたちまち恐れが刻まれ、すぐに顔を伏せた。
李らが案内された個室では、回転台が廻り、大皿に盛られた茹で豚の搾菜あえ、牛肉とブロッコリーのソルティソテー、鶏のカシューナッツ炒めや魚の蒸し物、小籠包などが皿に取り分けられ、箸の掻き込みと咀嚼の音と、紹興酒やウイスキー、ビールの嚥下音、トーンを落とした男達の会話が交差していた。その中に、時折小さな低い笑いが混じった。
「最近、上がりがさ、私の指示した額が納まってないんだけど、お前達、ちゃんと仕事してるかい?」短髪にブルーのサングラスの女が五人掛け席を立ち、男達を順繰りに睨みながら、ハスキーな声のドスを撒いた。
「上がりは月に七つって決まってるんだ。最近、私のことを舐めてる奴がちらほらいるっぽいんだよね。ふざけた仕事してると承知しないよ」
その時、グラスの青島を飲み干した李が、真隣の者にしか聞こえるべくもないかすかな嗤いを鼻から吹き上げたことに、女は気づいてはいなかった。
「おい、李」女は六人掛け席に座る李の背後に立った。丸い額縁に入った墨字の漢詩が下がる壁際には、軽く握った両拳を垂らし、足を床に吸わせるようにした行川が立っている。
「今、事実上、そいつの実質的な責任者のお前が、そのことで説明もないんじゃ、簡単に納得印を捺すわけにはいかないんだよ。おい、どうなってるのさ」「篠原さん」李が女の名前を呼び、椅子を立った。行川の射る眼は、まっすぐ二人をロックしている。
この「除霊」「祈祷」「浄め」「心霊写真鑑定」「入神託宣」に法外な料金を請求する自称霊能者の稼業を昔から営んでいるこの女には、元々、横浜を拠点とする広域指定団体の常任理事役の男の情婦で、組織の運営に深く関わり、抗争時には本部詰めの幹部達に混じり、参謀の役割も務めていた経歴がある。
「篠原さんが指示するものを下回る額ばかりが、ここのとこ行ってることには、率直にお詫び申し上げます。ついで、こちらの報告が遅れたことも‥」李は腰を屈め、曲げた膝の上に両掌を置いて上体を下げるお辞儀をしたが、前の稼業の習いで、決して相手から目を反らすことはない。
「ただ、お察しいただけるとありがたい。俺はこれでも現場の一線で動いてる人間です。その現場じゃ、杓子定規な足し算、引き算は通用しない。そん時のやり取りによっちゃ、帳簿をオーバーする時だってあるんすよ。掴んだ顧客の中には、したたかなのもそれなりにいます。問題は、そいつらが、あれが違う、これが違うっつって、こっちに揉め弾いてくる時です。そん中には、いるんすよ。裏からいろいろ手ぇ回そうとするようなのがね。それを抱き込むためには、規定の予算を越えることもしばしばです。顧客には、堅い仕事の人間もいますんで」お辞儀を解いて言った李を、篠原は荒い鼻息をついで睨むだけだった。
「立ち上げからもう二年じゃないですか」李は囁くように言い、食事と呑みの手を止めて事の次第を見ている男達をゆっくりと見回した。
「この辺りで考えませんか」「何をだよ」「俺達の経済活動の、本格的な合法化です」
席の端々から、抑えた反応が立ち昇っている。篠原の隣に座る、彼女の息子だけが、母親と、その下の幹部のやり取りをちらりとも見ず、ビールと料理を口に運び続けている。この男が無職であることも知っている。無職でありながら、母親の阿漕な稼ぎに寄生するようにして、外車を乗り回し、キャバクラや風俗で遊び回っているのだ。
「俺の手の者らが、甲信越のほうで、社福、特定非営利法人の買い取りを進めてます。こっちのほうでも、もう何軒か、交渉の掌中に入れてます。後任がいねえから、老いた理事長が、ひいひい言いながら、隠居しようにも出来ねえってとこもあるんでね。無認可じゃ三年の活動実績が必要で、俺達が社団じゃねえ宗教法人の資格を得るためには、あと一年必要なんですよ。これから一年の間までに、能書きをもっと整備して、品の卸しももっとスマートなものにしなくちゃいけねえ。ここで俺は、もう一軒、外郭を作ろうと思ってるとこです。そいつは、障害者の人権団体で、まっとうな任意団体ですよ。障害者総合支援法、知的障害者福祉法の考え方に基づいて、障害者も当たり前に、パイプカットだの避妊手術だのはなしに、健常者と同じように、愛し合いを楽しむ権利があるって訴えて、最後には権利条約をお上に結ばせるって青写真だ。そうすりゃ、俺らが立ち上げた純法は、まっさらな合法団体の道に舵を切ります。それで今の抱き込みを進めりゃ、俺達は、この国を裏からいいように操れるようになるかもしれねえ。官憲も司法も、俺達の手の中で踊らすことが出来るようになりますよ」
李は口許をにまりとさせた。篠原は、組織の総帥でありながら、完全に李に気で圧されている。
「まあ、いい。今日の楽しい酒と飯のついでに、ちょっと面白いたとえ話を一席ぶとう。呑んで食いながら聞いてくれ」李が周りを見回しながら言うと、男達はまた料理に箸をつけ、酒を飲み始めた。
「昔、樵(きこり)って職業が存在したろ。あの鼻の穴が立派な大物演歌歌手の歌の題材にもなってたやつだ。今、それに相当するのは林業で、木を切り倒すのに使う道具は、斧とか鋸からチェーンソーに取って変わったわけだ。もっともこの職業名も、今じゃ差別用語で放送禁止だけどな」李が話をぶち始めると、壁に立てかけてあった黒のキャンパス袋から、行川の手で、厚い刃の首部分を持つ道具が取り出され、李の手に渡った。
それは、柄を含めて直径50センチほどで、20センチ程度の刃渡りを持つ手斧だった。
「現代じゃチェーンソーで秒単位だけどな、昔は大変な根性仕事だったことは、お前らにも想像がつくだろ。ほいほいさ、ほいほいさ、とな」李は銀色の刃身を光らせる斧を手に、一語づつをアクセントを強めつつ、席を回った。席の所々から笑いが上がった。
「俺達の仕事も、その樵と相通じるようなガッツが要るものじゃねえか。追い込まれてやばい状況に陥っても、泣きを入れることなく、根性と知恵を連携させて、事を成すんだ。そこで樵と俺らの違えとこはな、樵みたいな単独作業じゃねえ。連帯だよ。こいつは当たりめえだよな。樵は一人で孤独に木を切ってりゃいいけど、俺達は違え」李の声に、低い昏味が落ちた。
窓側の、篠原と同じテーブルの椅子に座る神辺の背中後ろで、ぴたりと歩みを止めた李の動きは、全くの無造作と言う他なかった。
「品」を管理し、監視する役職を純法の関東エリア内で持つ神辺久弥の白い横顔には、静かなうろたえが覗えた。
「連帯の掟を無視してな、勝手な売をかけて、その連帯を混乱させて、ちんけなやっかみから上役の足を掬う真似をするような野郎は、俺らの組織には要らねえってことよ」
這い爆ぜる低い気合を含んだ声が、BGMに流れる二胡の音色を裂き、手斧が李の頭上高く振り上げられ、緩やかな曲線を描いた刃身が、神辺の項に落ちた。
野菜を包丁で真中から切るものに似た音がし、神辺の頭部が後ろのめりに、赤地に金色の絵が描かれたタイル床に垂直落下した。
首を失った神辺の体は、左手はグラスを握ったまま、右手は箸を持ったまま、椅子から尻を浮かせてがたがたと縦に痙攣し、左に傾いた体からぶらりと下がった両手が緩み、グラスと箸が落ちた。グラスは床の上で割れ、破片を飛び散らせた。やがて、露わになった白い頸椎と頸筋の断面から、赤い泉を思わせる鮮血がこんこんと涌き上がり、ビジネススーツのジャケットと、椅子の下の床を夥しく汚した。血が粉舞して付着した円卓テーブルの上には、食べかけの海老餃子、まだ箸をつけていなかったらしいピータンと、青島の中瓶が載っている。
李は神辺の生首の髪を掴み、落ちている僧帽を蹴飛ばし、篠原と、その息子が座るテーブルに、首をぺたりと静かに置いた。息子は目一杯の怯えを顔と体の恰好に出し、周りの男達は、自分達の胸にある負い目、疚しさを必死で取り繕う顔になった。篠原は、予想のうちに全くなかった部下の行動に青ざめ、体を硬直させている。
「販路の外の人間に品を卸して、それで稼いだ金を撒いて、人例を乗っ取って、販売まで仕切ろうとしてたんだ。動きが怪しい奴を片っ端からふん捕まえて、唄わせてな、その上で、きっちり裏も取ったんだよ。まさか、今ここにいるお前らの中に、こいつと同じような妙な気を起こしてる奴はいねえだろうと、俺は信用してえ」
行川を脇に、李は全体に警告するように言い、一人一人の顔に目線を当てた。隣に立つ行川の射りも、全体に注がれた。誰もが動きを止め、呆然とした顔で体を固め、こめかみに汗を光らせている者もいる。冷えていく料理に箸を伸ばす者はいない。
「いいか、お前ら。今、この尊教純法の、全ての活動の指揮権を握ってるのはこの俺だ。その俺に舐めた真似をする奴がどうなったか、今、ここにいるお前ら一人づつが、その目で見たはずだ」
血に濡れた手斧を肩に担いだ李は、個室全体に爬虫の目を差しながら、鋭利な剃刀の声を降らせた。
「今、俺が言ったことを疑わねえなら、これから伸びてく純法の一員として、美味いものも食えるし、上等な酒も呑めるし、いかした車も乗り回せるし、女も抱ける。だがな、欲をかいたり、分相応ってもんを弁えねえで出しゃばる奴は、それも出来なくなるんだ。そいつを肚に叩き込んで、忠犬の男どもと、品の女を仕切れ。お前らが、食うや食わずだった二年前から、死に物狂いで築いてきた位と、権力と、金、それにこれが第一、命が惜しけりゃな」
隣からは、行川が、篠原を始めとする、ここにいる人間達をまんべんなく目で射っている。
「ホームセンターがまだ開いてる。外の奴らに、寝袋、買いに行くように言ってこい」李は柄までが血濡れの斧を置き、言葉もなく立ちすくむ篠原と、怯えきったその息子を背に、自分と同じテーブルを囲んでいた男の一人に命じた。男は顔を俯けたまま、個室を出た。
この店の支配人は、すでに破格の金を握らされた上、暗なる脅迫警告を受け、懐柔されている。神辺の死体は、李達が先に引き上げたのちまで残る男達の手によって、客の引いた閉店間際の時間に、裏口から運び出される手筈になった。
テーブルに載る生首は、虚ろに目と口を開いたままだった。今日の日に、その人生が断たれたことを、まだ認識していない表情で、照明の光を受け、白く悲しげに光っている。
「分かったか。おい、分かったのか」隣に行川を携え、細い目を大きく開いて、声低く唸る李が、この夜に純法の全権を掌握したことを、誰もが認めざるを得なくなっている。
二胡は、寂しい短調の曲を奏でていた。その場で体を留められたようになった篠原と、その配下の男達に、李の血に飢えた目と、行川の射りが照射されていた。
「さて、ブルータスを消したところで、恵比寿顔ものの報告を、ここらで一丁させていただきましょうか、篠原さん」
李は言って、篠原に向き直り、円卓の上のスマホを取るとフォトを表示して、青ざめて言葉を失っている篠原の目前に提揚した。
フォトフレームの中には、白い壁を背後に、乳房と陰毛を露わに一糸まとわない裸の体を晒して立つ、動物にたとえればキタキツネのような、栗色の髪をした女が写っている。
「今はちょっと待機扱いですが、見てお分かりの通り最上の逸品で、買いの仮契約が終わってまして、これから本契約に入るところです。問題なく、うちが一層力をつけるための潤いをもたらしてくれると俺は狂いなく見込んでます。だから上がりについては、何も憂うことはありません。それに」
李は針の目を、オレンジ色に煮えて湧き立つ溶岩のように底光りさせ、凄惨な含み笑いをその頬に刻み浮かせた。
「俺達人例で、中核級の働きをする逸材が、年が明けて少しする頃に来てくれますから」「本当かい」篠原が訊き捨て、李が頷いた。「本当ですよ。これまで俺は常に有言実行だったじゃないですか」
男達が行川に射り留められて固まる中、二胡のBGMは、中華風アレンジの「展覧会の絵」に変わっていた。
その豪奢な中華飯店の店前に、隅々までが磨かれた暗いカラートーンの高級車が三台停まった時刻は、十八時を過ぎた頃だった。
二番目に停車したメルセデスベンツの助手席から男が降り、彼の開けたリアドアから初老の女が出た。女は淡いブルーレンズのグラスを掛け、銀色の髪を男のように短く刈った頭をし、上がフォックス革のコート、下が紺のズボンという出立ちで、皺の浮いた指には宝石の指輪を光らせている。
続いて先頭のリンカーンコンチネンタル、最後尾のクライスラーから、ゆっくりとした歩調で、計六人の男達が降り、女をガードする風に左右を囲むと、三台の車は駐車スペースへと回った。そのうち一人の男は、手から黒いキャンパス袋を提げている。
女の脇には、女と顔立ちがよく似た、年齢的にそろそろ中年域に入りそうな、小太りの男が立った。
この男を始めとして、男達は全員ネクタイを締めた正装で、その小太りの男ともう一人を除き、金や黒紫の僧帽を被った姿をしている。この店はネクタイ必須の完全予約制なのだ。
その人間達は、竜の大理石像が建つ、自動ドアを越えた入口からマネージャーのような男に案内され、奥の個室席にその姿群を移動させた。
その時、紅い中華提灯がたわんで下がり、西洋調デザインのウォールランプが薄く光る二百坪のフロアでは、五組ほどの客が回転テーブルを囲んでいる。アジアン・バイオリンである二胡の奏でる緩やかな旋律が流れる中、広州風レイアウトの窓際席には身分賤しからぬ家族連れが四人座り、よそ行きを着た二人の幼い娘が、コースの前菜皿の前で、今日買ってもらったらしい小さなおもちゃで遊んでいる。
金の僧帽の李はそれを一瞥すると、すぐに関心なさげに顔向きを前に戻した。グループの人塊からやや距離を取り、最後尾から追うようにして歩く、僧帽を被っていない行川は、フロアの隅から隅にまで、愛らしい「の」の字の目を動かして射廻しの視線を配っていた。
山脈と鳥が描かれた水墨画の掛かる奥の壁際に座って料理をつまみ、酒を傾ける年老いた三人の男が、その圧視に気づいてグループのほうを見たが、それぞれの顔にたちまち恐れが刻まれ、すぐに顔を伏せた。
李らが案内された個室では、回転台が廻り、大皿に盛られた茹で豚の搾菜あえ、牛肉とブロッコリーのソルティソテー、鶏のカシューナッツ炒めや魚の蒸し物、小籠包などが皿に取り分けられ、箸の掻き込みと咀嚼の音と、紹興酒やウイスキー、ビールの嚥下音、トーンを落とした男達の会話が交差していた。その中に、時折小さな低い笑いが混じった。
「最近、上がりがさ、私の指示した額が納まってないんだけど、お前達、ちゃんと仕事してるかい?」短髪にブルーのサングラスの女が五人掛け席を立ち、男達を順繰りに睨みながら、ハスキーな声のドスを撒いた。
「上がりは月に七つって決まってるんだ。最近、私のことを舐めてる奴がちらほらいるっぽいんだよね。ふざけた仕事してると承知しないよ」
その時、グラスの青島を飲み干した李が、真隣の者にしか聞こえるべくもないかすかな嗤いを鼻から吹き上げたことに、女は気づいてはいなかった。
「おい、李」女は六人掛け席に座る李の背後に立った。丸い額縁に入った墨字の漢詩が下がる壁際には、軽く握った両拳を垂らし、足を床に吸わせるようにした行川が立っている。
「今、事実上、そいつの実質的な責任者のお前が、そのことで説明もないんじゃ、簡単に納得印を捺すわけにはいかないんだよ。おい、どうなってるのさ」「篠原さん」李が女の名前を呼び、椅子を立った。行川の射る眼は、まっすぐ二人をロックしている。
この「除霊」「祈祷」「浄め」「心霊写真鑑定」「入神託宣」に法外な料金を請求する自称霊能者の稼業を昔から営んでいるこの女には、元々、横浜を拠点とする広域指定団体の常任理事役の男の情婦で、組織の運営に深く関わり、抗争時には本部詰めの幹部達に混じり、参謀の役割も務めていた経歴がある。
「篠原さんが指示するものを下回る額ばかりが、ここのとこ行ってることには、率直にお詫び申し上げます。ついで、こちらの報告が遅れたことも‥」李は腰を屈め、曲げた膝の上に両掌を置いて上体を下げるお辞儀をしたが、前の稼業の習いで、決して相手から目を反らすことはない。
「ただ、お察しいただけるとありがたい。俺はこれでも現場の一線で動いてる人間です。その現場じゃ、杓子定規な足し算、引き算は通用しない。そん時のやり取りによっちゃ、帳簿をオーバーする時だってあるんすよ。掴んだ顧客の中には、したたかなのもそれなりにいます。問題は、そいつらが、あれが違う、これが違うっつって、こっちに揉め弾いてくる時です。そん中には、いるんすよ。裏からいろいろ手ぇ回そうとするようなのがね。それを抱き込むためには、規定の予算を越えることもしばしばです。顧客には、堅い仕事の人間もいますんで」お辞儀を解いて言った李を、篠原は荒い鼻息をついで睨むだけだった。
「立ち上げからもう二年じゃないですか」李は囁くように言い、食事と呑みの手を止めて事の次第を見ている男達をゆっくりと見回した。
「この辺りで考えませんか」「何をだよ」「俺達の経済活動の、本格的な合法化です」
席の端々から、抑えた反応が立ち昇っている。篠原の隣に座る、彼女の息子だけが、母親と、その下の幹部のやり取りをちらりとも見ず、ビールと料理を口に運び続けている。この男が無職であることも知っている。無職でありながら、母親の阿漕な稼ぎに寄生するようにして、外車を乗り回し、キャバクラや風俗で遊び回っているのだ。
「俺の手の者らが、甲信越のほうで、社福、特定非営利法人の買い取りを進めてます。こっちのほうでも、もう何軒か、交渉の掌中に入れてます。後任がいねえから、老いた理事長が、ひいひい言いながら、隠居しようにも出来ねえってとこもあるんでね。無認可じゃ三年の活動実績が必要で、俺達が社団じゃねえ宗教法人の資格を得るためには、あと一年必要なんですよ。これから一年の間までに、能書きをもっと整備して、品の卸しももっとスマートなものにしなくちゃいけねえ。ここで俺は、もう一軒、外郭を作ろうと思ってるとこです。そいつは、障害者の人権団体で、まっとうな任意団体ですよ。障害者総合支援法、知的障害者福祉法の考え方に基づいて、障害者も当たり前に、パイプカットだの避妊手術だのはなしに、健常者と同じように、愛し合いを楽しむ権利があるって訴えて、最後には権利条約をお上に結ばせるって青写真だ。そうすりゃ、俺らが立ち上げた純法は、まっさらな合法団体の道に舵を切ります。それで今の抱き込みを進めりゃ、俺達は、この国を裏からいいように操れるようになるかもしれねえ。官憲も司法も、俺達の手の中で踊らすことが出来るようになりますよ」
李は口許をにまりとさせた。篠原は、組織の総帥でありながら、完全に李に気で圧されている。
「まあ、いい。今日の楽しい酒と飯のついでに、ちょっと面白いたとえ話を一席ぶとう。呑んで食いながら聞いてくれ」李が周りを見回しながら言うと、男達はまた料理に箸をつけ、酒を飲み始めた。
「昔、樵(きこり)って職業が存在したろ。あの鼻の穴が立派な大物演歌歌手の歌の題材にもなってたやつだ。今、それに相当するのは林業で、木を切り倒すのに使う道具は、斧とか鋸からチェーンソーに取って変わったわけだ。もっともこの職業名も、今じゃ差別用語で放送禁止だけどな」李が話をぶち始めると、壁に立てかけてあった黒のキャンパス袋から、行川の手で、厚い刃の首部分を持つ道具が取り出され、李の手に渡った。
それは、柄を含めて直径50センチほどで、20センチ程度の刃渡りを持つ手斧だった。
「現代じゃチェーンソーで秒単位だけどな、昔は大変な根性仕事だったことは、お前らにも想像がつくだろ。ほいほいさ、ほいほいさ、とな」李は銀色の刃身を光らせる斧を手に、一語づつをアクセントを強めつつ、席を回った。席の所々から笑いが上がった。
「俺達の仕事も、その樵と相通じるようなガッツが要るものじゃねえか。追い込まれてやばい状況に陥っても、泣きを入れることなく、根性と知恵を連携させて、事を成すんだ。そこで樵と俺らの違えとこはな、樵みたいな単独作業じゃねえ。連帯だよ。こいつは当たりめえだよな。樵は一人で孤独に木を切ってりゃいいけど、俺達は違え」李の声に、低い昏味が落ちた。
窓側の、篠原と同じテーブルの椅子に座る神辺の背中後ろで、ぴたりと歩みを止めた李の動きは、全くの無造作と言う他なかった。
「品」を管理し、監視する役職を純法の関東エリア内で持つ神辺久弥の白い横顔には、静かなうろたえが覗えた。
「連帯の掟を無視してな、勝手な売をかけて、その連帯を混乱させて、ちんけなやっかみから上役の足を掬う真似をするような野郎は、俺らの組織には要らねえってことよ」
這い爆ぜる低い気合を含んだ声が、BGMに流れる二胡の音色を裂き、手斧が李の頭上高く振り上げられ、緩やかな曲線を描いた刃身が、神辺の項に落ちた。
野菜を包丁で真中から切るものに似た音がし、神辺の頭部が後ろのめりに、赤地に金色の絵が描かれたタイル床に垂直落下した。
首を失った神辺の体は、左手はグラスを握ったまま、右手は箸を持ったまま、椅子から尻を浮かせてがたがたと縦に痙攣し、左に傾いた体からぶらりと下がった両手が緩み、グラスと箸が落ちた。グラスは床の上で割れ、破片を飛び散らせた。やがて、露わになった白い頸椎と頸筋の断面から、赤い泉を思わせる鮮血がこんこんと涌き上がり、ビジネススーツのジャケットと、椅子の下の床を夥しく汚した。血が粉舞して付着した円卓テーブルの上には、食べかけの海老餃子、まだ箸をつけていなかったらしいピータンと、青島の中瓶が載っている。
李は神辺の生首の髪を掴み、落ちている僧帽を蹴飛ばし、篠原と、その息子が座るテーブルに、首をぺたりと静かに置いた。息子は目一杯の怯えを顔と体の恰好に出し、周りの男達は、自分達の胸にある負い目、疚しさを必死で取り繕う顔になった。篠原は、予想のうちに全くなかった部下の行動に青ざめ、体を硬直させている。
「販路の外の人間に品を卸して、それで稼いだ金を撒いて、人例を乗っ取って、販売まで仕切ろうとしてたんだ。動きが怪しい奴を片っ端からふん捕まえて、唄わせてな、その上で、きっちり裏も取ったんだよ。まさか、今ここにいるお前らの中に、こいつと同じような妙な気を起こしてる奴はいねえだろうと、俺は信用してえ」
行川を脇に、李は全体に警告するように言い、一人一人の顔に目線を当てた。隣に立つ行川の射りも、全体に注がれた。誰もが動きを止め、呆然とした顔で体を固め、こめかみに汗を光らせている者もいる。冷えていく料理に箸を伸ばす者はいない。
「いいか、お前ら。今、この尊教純法の、全ての活動の指揮権を握ってるのはこの俺だ。その俺に舐めた真似をする奴がどうなったか、今、ここにいるお前ら一人づつが、その目で見たはずだ」
血に濡れた手斧を肩に担いだ李は、個室全体に爬虫の目を差しながら、鋭利な剃刀の声を降らせた。
「今、俺が言ったことを疑わねえなら、これから伸びてく純法の一員として、美味いものも食えるし、上等な酒も呑めるし、いかした車も乗り回せるし、女も抱ける。だがな、欲をかいたり、分相応ってもんを弁えねえで出しゃばる奴は、それも出来なくなるんだ。そいつを肚に叩き込んで、忠犬の男どもと、品の女を仕切れ。お前らが、食うや食わずだった二年前から、死に物狂いで築いてきた位と、権力と、金、それにこれが第一、命が惜しけりゃな」
隣からは、行川が、篠原を始めとする、ここにいる人間達をまんべんなく目で射っている。
「ホームセンターがまだ開いてる。外の奴らに、寝袋、買いに行くように言ってこい」李は柄までが血濡れの斧を置き、言葉もなく立ちすくむ篠原と、怯えきったその息子を背に、自分と同じテーブルを囲んでいた男の一人に命じた。男は顔を俯けたまま、個室を出た。
この店の支配人は、すでに破格の金を握らされた上、暗なる脅迫警告を受け、懐柔されている。神辺の死体は、李達が先に引き上げたのちまで残る男達の手によって、客の引いた閉店間際の時間に、裏口から運び出される手筈になった。
テーブルに載る生首は、虚ろに目と口を開いたままだった。今日の日に、その人生が断たれたことを、まだ認識していない表情で、照明の光を受け、白く悲しげに光っている。
「分かったか。おい、分かったのか」隣に行川を携え、細い目を大きく開いて、声低く唸る李が、この夜に純法の全権を掌握したことを、誰もが認めざるを得なくなっている。
二胡は、寂しい短調の曲を奏でていた。その場で体を留められたようになった篠原と、その配下の男達に、李の血に飢えた目と、行川の射りが照射されていた。
「さて、ブルータスを消したところで、恵比寿顔ものの報告を、ここらで一丁させていただきましょうか、篠原さん」
李は言って、篠原に向き直り、円卓の上のスマホを取るとフォトを表示して、青ざめて言葉を失っている篠原の目前に提揚した。
フォトフレームの中には、白い壁を背後に、乳房と陰毛を露わに一糸まとわない裸の体を晒して立つ、動物にたとえればキタキツネのような、栗色の髪をした女が写っている。
「今はちょっと待機扱いですが、見てお分かりの通り最上の逸品で、買いの仮契約が終わってまして、これから本契約に入るところです。問題なく、うちが一層力をつけるための潤いをもたらしてくれると俺は狂いなく見込んでます。だから上がりについては、何も憂うことはありません。それに」
李は針の目を、オレンジ色に煮えて湧き立つ溶岩のように底光りさせ、凄惨な含み笑いをその頬に刻み浮かせた。
「俺達人例で、中核級の働きをする逸材が、年が明けて少しする頃に来てくれますから」「本当かい」篠原が訊き捨て、李が頷いた。「本当ですよ。これまで俺は常に有言実行だったじゃないですか」
男達が行川に射り留められて固まる中、二胡のBGMは、中華風アレンジの「展覧会の絵」に変わっていた。
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そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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