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33章
~常識観念~
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晦日の午後だった。その日、村瀬は時折レジに入りながら、主に品出しと陳列、バックヤードの入出荷の補助の業務を行っていた。なお、レジ業務は真由美などに助けてもらっている部分はまだあるが、だいぶ板についてきている。
店内BGMは正月仕様の琴のソロが流れ、至る所に、来年の干支をイメージしたイラストが描かれた貼り紙や、小さな門松などが飾りつけられ、すっかり年末ムードに入っている。
1パック税込二千百十三円の「マスオマートオリジナルおせち」に20%引きのシールを貼りながら声出しをしていた村瀬の所へ、香川が来た。
「村瀬さん、ちょっとスタッフルームいいですか?」香川は神妙な顔で声を潜めた。
「“川原様”か?」村瀬がシール貼りの手を止めず、声を落として訊くと、香川は、まあ‥と答えて頷いた。
川原様とは「買わないハラスメント」という意味のある、万引き犯を表す隠語だった。
「今日は店長も休みに入ってるし、パートさん達にやらせるのも何だし、出来れば男性で、これは子供を育てた経験がある村瀬さんに当たってもらうのがいいかなと思って。僕は子供、いないし」「子供なのか?」「はい。見たところ、中学生ぐらいの女の子なんですけど、ヤンキー風とかじゃなくて、どちらかというと大人しい感じがして、そういうことをやりそうなタイプには見えないんですけどね。Gメンが声をかけて、連れてきたんですけど」
村瀬はシール貼りを止めて、ひと苦言の顔で香川を見た。そこへ母子が来て、小学校低学年に見える少年が、母親の持つ籠におせちを入れた。村瀬は「ありがとうございます」と声をかけた。
「三月には副店の辞令も出る予定だし、ここは一つ、慣れるという意味でも。あの時は、このお店と、お客様を助けるために、あれだけの活躍をされたんだから、大丈夫ですよ」「そうは言っても、ああいうのとはまた違うやりづらさがあるよ」言ってみながらも、近くで品出しを行っている年配の男性パートタイマーに、「すみませんけど、そちら終わったら、おせちのシールお願いしてもよろしいでしょうか」と声かけし、スタッフルームへ足を進めた。
観音開きの錠なし扉を開けて廊下へ進んだところで、中年の女性店員の悲鳴染みた声が聞こえた。それは「あなた、やめなさい!」という語彙を含んでいた。
村瀬は小走りに走った。その少女が暴れているのなら、自分にはやめさせる義務がある。
後ろに香川を引いてスタッフルームに入ると、令和の今は、普通の常識を持つ世界では、男がまず直接的には見ることのない光景が拡がっていた。
うろたえきった二人の女のパートタイマーに囲まれるようにして、ブラジャーとパンティの下着姿をした少女が立っている。少女は背中に手を回し、ブラジャーのホックを外そうとしている。村瀬は視線を外し、香川は、あわ‥と聞こえる声を発して顔を両手で覆ったが、彼は指の間から見ているらしいことが覗えた。
「服を着て」村瀬は香川に呆れるのもほどほどに、優しい言葉を努めた。「いくらこういうことをしても、被害を受けたお店は、ちゃんとそれを処理しなくちゃいけないんだ。だから服を着て、話を聞かせてもらえるかな」
もういいかな、と言って視線を戻すと、少女はスリップ、黒のセーターと、ギンガムチェックの膝上スカートの服装になっていた。テーブルには、ペットボトルのコーラと、二点のスイーツ類、小学生から中学生の女の子に好まれている、おまけつきのグミキャンディ、チョコレートが置かれている。髪の整容具合、服装は困窮した家の子供のものではない。それが何故、こんな千円にも満たない額の万引きをしたのか、それに加えて服を脱ぎ出すという行いは何の意味を含んでいるのかと思ったが、当人よりも長く生きている村瀬は、事情はそれぞれという答えを腑に落とす。
この万引きは、保護者などを振り向かせたいという思いがあってやったこと。正確なものかどうかは分からないが、おおかた、事情的にはそういうところか。だが、使い走りの不良が格上の者から命令されてやることもあるし、困窮する家の子供の場合、保護者にやらされることもある。特に後者は、悲しいことだが、日本に根を張る格差社会を象徴して、現実に起こっている。
この少女の心の中にしかない、裸になろうとした理由は、何かの深刻な事情がありそうだと村瀬は思った。
「座って」村瀬が言うと、少女はためらいがちに、ソファに腰を下ろした。斜め上の壁には、「熱意」という墨字書が、額縁に入り、掛かっている。少女の隣には、マスオマートと契約している万引きGメンの中年の女が座っている。
俯いた顔にパーツとして付く、睫毛の長いぱっちりとした目と、えらの張った輪郭に、ますます、村瀬の記憶の中にある見覚えが騒ぐ。
「中学生? 高校生?」村瀬が訊くと、少女は三十秒間ほど固く唇を閉じて押し黙ってから、耳を凝らさなければ聞こえない声で、中学、と答えた。
「じゃあ、まず、名前を教えて」村瀬は言い、数秒沈黙したのち、小声で話された少女の名前を、バインダーに留められた紙に書いた。
こしばゆうり。それが少女の名前だが、村瀬の知るその「こしば」の苗字は一人しかいない。それは言わずもがな、互いが子供だった時間に、初恋の原形と呼べる関係性にあり、万年筆をプレゼントしてくれた小柴早由美だった。苗字が同じの上、外観も生き写しと言っていいが、内縁でない限り、結婚すれば苗字は変わる。だが、離婚、死別もある。村瀬は母親の名前を訊き出そうかと思ったが、やめることにした。
「ここに、自分の名前を自分で、漢字で書いてくれるかな」村瀬は言い、バインダーをとボールペンを進めた。少女はためらいの出た手つきで、言われたことに従って、名前を書いた。バインダーを取り、見ると「小柴悠梨」とあった。
「売り場、戻っていいよ」村瀬は後ろに立っている香川に指示した。香川は小さく頷いて、体をターンさせてスタッフルームを出ていった。
「全部で、だいたい八百円前後ですかね。バッグに入れて店を出ようとした所を呼び止めたら、認めましたので」Gメンの女が言い、村瀬はそうですか、と返して、社用のPCを開いた。
マスオマート全体で共有する窃盗犯リストを開き、見たが、少女が名乗った名前はなく、全くの初犯らしいことが分かった。
「中学はどこかな」村瀬が訊き、悠梨という少女はまた押し黙った。
「あなた、正直に答えないと、自分のためにならないわよ」万引きGメンの女が迫力を挿した。「あなたがしたことは、歴とした罪なの。その罪に、大人だとか、子供だからっていうのは関係ないのよ。あなたは確かにまだ子供かもしれないけど、子供のうちにこういう癖を手につけて、そのまま大人になったら大変なことになるのよ。だから、訊かれたことにちゃんと答えて、反省しなさい。そうすれば、子供のうちの過ちに留まるんだから」
「任せてもらえますでしょうか」村瀬は挟んで、Gメンの女に軽く挙手した。
「まあ、罪、それはそうでしょうけれど、まだ子供さんですよ。他ではどうか分からないですけど、ここでは初めてみたいだし、まだまだ反省の出来る余地はあると思いますので」
村瀬の言葉に、Gメンは納得しきれないなりにもその意見を受け入れる顔になった。気迫を持たなければ業務の成立しない仕事である以上、村瀬も立場を汲まなければならない。村瀬とて、その気迫を成り行き的に養ったからこそ、吉富を排除し、彼の子供達を救う糸口を開くことが出来たのだから。
小柴悠梨は黙したままだった。一分ほど経っても、彼女の口が開く様子はない。
「ごめんね。でも、あなたが今日したようなことが赦されちゃうと、ちゃんとお金を払って商品を買ってお帰りになる他のお客さん方に示しがつかなくなっちゃうし、お店も困ってしまうんだ。こちらの訊くことにあなたが答えてくれないと、あなたも帰れなくて困ることになるし、私達の仕事にも差し支えが出るんだよ。これは常識の対応で、確かに警察と、学校にも親御さんにも連絡をしなきゃいけない。それであなたは怒られるだろうけれど、これからは二度とやらなければいいことじゃないかな。何も言わないことのほうが、あなたにとって不利になるよ」村瀬が諭すと、悠梨の唇がぽかっと開いた。
「鷺沼北中‥」細く、蚊の鳴く声の答えが悠梨の口から発せられ、村瀬はそれを復唱しながら書き込んだ。
「今、親御さんには連絡はつくかな」「お母さん‥」「お母さん?」村瀬の問い返しに、悠梨は俯いたまま頷いた。その答えに、村瀬は先ほど抱いた予感を確信に近づけた。
父親は不在だと思われ、連絡の可能な家族は母親だけらしい。それならば、母親の姓が小柴でもおかしくはない。
「じゃあ、連絡のつく電話番号を教えてもらえるかな。お母さんの職場か、それか、携帯番号だね」村瀬が促すと、悠梨は脇のバッグからガラケー携帯を取り出し、「おかあさん」とある電話番号を表示させた。村瀬はそれを紙に書き写し、テーブルの上で充電器に載っている社用携帯を取った。先に警察に連絡をしなかった理由は、当人が子供で、保護者による被害弁済などの誠意を見せてくれることに期待したからだった。
「ごめんね。でも、これも私達の、仕事上の義務だからね」村瀬は俯いたままの悠梨に言って、廊下へその身を移動し、紙に書いた080の番号をプッシュした。
二回の呼び出し音ののち、はきとした声の女が、はい、と言って出た。「もしもし、小柴様の携帯でお間違いないでしょうか」「そうですけど」村瀬の送った声に、張りのある女の声が応答した。
「さようでございますか。私は、スーパーマーケットチェーンのマスオマートの者で、村瀬、と申します」「はい。用件はどういったことでしょうか」女は聞き覚え確かな声で問うてきた。村瀬は思いを呑み下した。
「何の用件ですか?」「小柴悠梨さんは、娘さんでお間違いありませんでしょうか」「そうですけど、娘が何か」「娘さんでいらっしゃいますね。実は大変申し上げづらいのですが‥」「万引きでしょうか」女は何の動揺もない声で問い返してきた。
「はっきりと申し上げてしまいますと、さようのことになります。万引きをされた商品は、飲み物が一点と、あとは菓子類です。金額的にはたいした額ではございませんが」「分かりました。娘は今、そこにいるんですよね」女の言葉が村瀬の説明を遮った。
「私、今、用あって三咲にいるんですよ。遅くても三十分以内には行けると思いますので、待ってていただけますか?」「分かりました。お来しになるということで」「買い取りますので。それでは、のちほど」「ご足労をおかけしまして、申し訳ございません」村瀬が形式上の詫びを言うと、女は電話を切った。
「もうじきお母さんが見えるよ」村瀬は業務用携帯を充電器に置いて言ったが、悠梨は目立った反応を返さなかった。
「よかったら、ちょっとお話しようか」村瀬は微笑して、悠梨の前に座り直した。
「見た感じ、あなたには、いろいろと心のほうにわけがありそうだって、私は感じたんだ」村瀬は言いながら、自分の左胸に右の掌を当てた。
「私が人生の道すがらで確かに学べたと思うことを言うと、人生っていうものは、そもそも道なき道なんだよね。道がないから、そのない道を切り拓く過程で、間違ってしまうことも一度や二度じゃないんだ。感情的になることもあるしね。つまり、人生は、間違いあってこその人生なんだよ。勿論、これが間違いだと分かっていることを繰り返してしまう人生は良くない、というか悪い。間違いだと気づいたことは、繰り返さないことが大切だからね。だから、もしも今のあなたが、正しいことと間違ったことの境目が分からなくて悩んでるんだったら、よかったら話してごらん。もう五十歳に手が届いてるおじさんだけど、これまでの道すがらじゃ、そこそこ濃い経験をしているから、小柴さんにとってヒントになる助言が出来るかもしれないよ」
瞼の落ちた目をテーブルの上面に向け、口を閉じたままの悠梨の様子に、親切のつもりが酷なことを振ってしまったようだと、村瀬は反省の念をよぎらせた。話してごらん、とは、自分が理解したふりをした彼女の心をこじ開けるような無理強いで、この目の前の少女は、一見の関係性で、小さな市民でしかない人間には話せない何かを抱えている。
あるいは、ハンディキャップ。二ヶ月半前の純法主催、手繋ぎ式で、生田絹子のあとの二番目に組んだ、わたなべゆき、という女の子に、自分からは他者に会話を振らずに貝のように態度をつぐんでいる様子、表情に乏しい顔が同一と思える。それに、遠い頃、夏休みのアルバイトで入った洋菓子工場で一緒になった、形容するところ、「ウドの大木」のような少年。
純法の鴨で間違いないであろう、ゆきの現在も気になるが、あの物言わぬ大木、岩のような少年も、すでに中年域に入った今、どういう人生を送っているのか。今の村瀬には明らかな広汎性発達障害と分かるが、障害の認定は受けて、手帳が交付されているのか。何故そこに思いを馳せたかというと、自分の抱える生きづらさを認めないばかりか、気づくことすらない人間達と、公立の義務教育と人を相手にする仕事の中で、否応なしに関わらなければならなかったからだ。
事実上、村瀬が出入り禁止にした吉富は、最も恥ずかしい類いの刑事事件を起こして生活保護も打ち切られたはずだが、これからどうやって、中年から壮年、老年の時間を生きていくのだろう。兼田は、あのまま生きていたところで、今頃どんな中年男になっていたことだろう。日本の法律をどこまで知っているのか、今の社会で腕力だけで何でも埒が明くと信じきり、知性を得ることに関心を持たず、自分達の行いが何をもたらすかを想像出来ない「特攻拉麺」の若者達は、あのまま行けば、どんな中年、壮年、老人になり、老いた頃にはどんな境遇下に置かれているのだろう。考えても考えても暇がない。
「ごめんね。まだ誰にも答えたくないことがあるんだね。それなら整理がついた時に、誰か信用出来る人に話してみるのがいいだろうね」表情のない顔と、顔を俯けた様子が変わらない悠梨に、村瀬は優しく声かけした。
「でも、今日のことは、ちゃんと反省して、同じことをまたやらないようにしよう。そうなると、一番困ることになるのはあなたなんだ。もう少しでお母さんが来るから、待ってよう」
Gメンの女をふと見ると、溜息でもつきたげな、村瀬への呆れが出た顔をしていた。村瀬の対応が常識を逸して甘い、と言いたいのだ。だが、村瀬はこれでいい、やるべきことはちゃんとやっている、と自分を納得させた。その他には、何もないからだった。
扉がノックされ、中から応対の声を送ったパートタイマーに、「小柴ですけど」と答える声がしたのは、それから二十分近くが経過してからだった。はい、と答えたパートタイマーが扉を開けると女が入ってきた。立ち上がった村瀬が一礼したその女は、緩やかなパーマをかけた背中までの髪に貝殻のイヤリング、黒い本ミンクのコートに黒のハイヒールを履き、腕にはブレスレットと金の時計、金のチェーンに下がる鰐革のバッグを肩から掛け、指には銀のプラチナリングを光らせた四十代だった。
村瀬が見たその顔は、かつて妹分であって、小さな恋のようなものを一緒に紡いだ小柴早由美と、目、鼻、口、輪郭、特徴的な尖った顎と、どこも、何一つ違う箇所はなかった。
美しかった。最後に会った時から数えて、二十幾年の歳月を経ても。それでも変わってしまったものがあるとすれば。
華美な外飾。娘の非行行為に、まるで開き直ったかのように、いささかの動揺も見せない言葉態度。それを思うと心なしか、目と口許の感じに、あの頃にはなかった険が見えるような気がする。
「豊文君‥」昏く妖熟した女になって、村瀬の目の前に立った早由美の口から、彼の名前を呼ぶ声が小さく漏れた。村瀬はもう一度、軽く頭を下げた。
早由美はしばらく、偶然が導いた再会の静かな驚きを小胸に畳んだように、横目で床に目線を遣って立っていたが、やがて、娘が盗んだ何点かの商品を目に留める位置までハイヒールの足を進め、紅いルージュの唇を開いた。
「全部でおいくらでしょうか」「計八百十三円となりますが」値段を尋ねた早由美に、村瀬が答えた。
「買い取ります。これでも私、世間の見映えがいい仕事をしておりますので、こんなことが広まったら困るんですよ。今回に限って、警察と学校には連絡をしないでいただけますでしょうか」誰へともなく言った早由美が、鰐革バッグから一見して高級なものと分かる財布を出し、テーブルに硬貨を数枚出し、置いた。その間に村瀬が小さなサイズの袋に商品を入れていき、早由美に差し出した。早由美はそれを表情もなく受け取った。
「行くよ、悠梨」母親に呼びかけられた悠梨がソファを立った時、Gメンの女も立ち上がった。その顔には、母親の常識感覚を疑う表情がありありと浮かんでいる。
「ちょっと、あなた」娘を引いてスタッフルームを出ようとしている早由美の背中にGメンが声を投げ、歩みを止めた母娘に進み寄った。村瀬には、Gメンが言わんとしていることが容易に想像がついた。
「あなたの感覚では、これはお金を払ってしまえば済むことなんですか?」Gメンの問いかけに、早由美は居直りきった顔を向けた。悠梨は変わらず、表情のない顔を下に向けたきりだった。
「今日、お子さんがここでやったことは、刑事罰の対象になることです。これからお子さんがこういう手癖をつけないようにするために、親御さんとしてどうするかということなどは、お考えになっていないのでしょうか。もしもこれが大人でしたら、簡単に収まるものではないですよ。窃盗障害、クレプトマニアというものがあることは、日頃テレビを観ていればご存じではありませんか? 衝動が良心に勝ってしまって、窃盗をやめたくてもやめられない障害です。これは社会的地位、人格の優劣に関係なく発症するものです。子供のうちに教えておかないと、あとから大変なことになりますよ。今日のことを、あなたはどう思ってるんですか。先ほど、今回に限って、とおっしゃいましたけれど、次に娘さんが同じことをした場合、その時はきっちりと警察と学校の沙汰にして、けじめをつけさせるということでよろしいんでしょうか」Gメンの言葉に、早由美はますます居直ったような笑いを顔に浮かせた。
「あの、笑っているのは何故ですか。今日、娘さんがここでやったことは、あなたにとって笑うようなことなんですか」Gメンの顔と口調が憤りを帯びた。「私は弁済を済ませましたけれど」憤るGメンに、早由美は冷めた言葉を投げ返した。
「確かにうちの子供が、今日ここで迷惑をおかけしたことについては、親として申し訳ないと思ってます。だけど、今回のことで、親の私もこの子も、弁済以上のことをしろと言われても、それは出来ないはずじゃないですか。自分の心ならず、ぎりぎり刑法の縁を歩いてしまって、その縁を踏み外してしまう可能性は、誰でもあるものです。そのために弁護士事務所だってあるものでしょう? 私が行った事の処理は、民法に則った、まっとうな処理ですよ。したがって、今日のところは、私にも娘にも、これ以上のことはしようがないんです」呆れを呑んだ顔のGメンに、早由美は、理路整然と自論を述べた。
「行くよ」早由美は先に言ったことをもう一度娘に言い、ミンクコートの裾をひらりと翻して、踵を返した。娘がそれに続こうとした所で、Gメンの女が歩を進めてその脇に並んだ。
「ちょっと待ってもらえますか。これだけじゃないんですよ、今日のことは」Gメンが耳打ちするように言い、早由美が無表情にその顔を見返した。
「娘さんが、私達の前で裸になろうとしました。娘さんの心の中にある理由、お母様が分かっておられる原因は、何か思い当たることはありますか?」Gメンに問われた早由美の口端に、意味のありげな笑いが浮かんだ。
「そうなんですか。今日、そんなことまで娘がやったとは露知らずでしたね。考えられる理由があるとすれば、自分はこれの他には何も盗ってないっていうことを、娘なりに証明したかったんじゃないんでしょうかね。体のほうは生意気にもう一端ですけど、こっちは少し遅いもので」早由美は手に下がる袋を上げ、指で自分のこめかみを叩き、「失礼します」と加えて、扉を開けた。
「早由美ちゃん」村瀬はスタッフルームを出、錠なし扉を押そうとしていた早由美を呼び止めた。早由美と娘が同時に振り返った。
「久しぶり。あれから県外へ行ったって聞いてたけど、元気かな。俺があのあと銀行に就職して、それから結婚したことは、うちのお袋からおばさんに話が行って聞いてるかもしれないけど、見ての通り、今はスーパーの店員だよ。早由美ちゃん、仕事とかは今は」
早由美は、妖しげな化粧の顔に、昔と変わらない懐きの笑みを浮かべた。
「電話で、名前と声で豊文君じゃないかって思ったのよ。そしたら、当たってた。元気でやってるみたいで、良かった‥」早由美は笑んで、村瀬の小指に自分の小指を繋いできた。村瀬の胸中に昔が蘇った。
「仕事は、今、わりと稼いでるのよ。富山の、歯科医さんの所へ嫁いだことは知ってるでしょ? でも、離婚になって、八年前にこっちに戻ってきてね。今、谷津なの。この子と親子二人で」「俺も離婚組だよ。今、息子を引き取って二人で住んでるんだ。そうだ、おばさんは」「母は、亡くなって、もう五年になるかな。ガンで長患いしてたんだけどね。そのあとで、父も逝っちゃったのよ。あとを追うようにしてね」「そうなんだ。うちの親も、もう両方ともいないよ。同じだね」「ちょっと待って‥」早由美は村瀬と繋いでいた小指を外し、バッグのチャックを開け、一枚の付箋を取り出した。村瀬の手に渡されたその付箋には、電話番号、Eメールアドレスが、綺麗な字で書かれている。
「もし差し支えなかったら、登録して。時間がある時に、電話でも、ラインでも、メールでも‥」「分かった。ありがとう」「付き合ってる人は、誰かいるの?」村瀬に訊いた早由美の目が丸くなった。
「いるよ」村瀬は偽らずに答えた。
「そうなの。じゃあ、その人に焼き餅を焼かせないように、配慮するから」早由美は言い、扉を押した。「あの時、早由美ちゃんがプレゼントしてくれた万年筆、まだ持ってるよ」村瀬が言うと、早由美は頷いた。
「じゃあね、また」残して、派手な装飾のその姿を、扉の向こうの売り場へと消した。娘の悠梨が、俯いたまま続いた。
村瀬は、早由美母娘が去ったあとの廊下に立ち、渡された付箋を見ながら、この再会が喜ぶようなものではないことを巡念していた。
自分に万年筆のプレゼントをくれた頃の彼女とは、身に着けるものなどの外観、顔つき、常識観などが大幅に違っており、見てはいけないものを見てしまったという思いがある。
弁済も一つの償いの方法であるし、健常でありながら心ならない、または判断力が不全な人が、知らぬという故の脱法、触法を犯してしまった時のために弁護士事務所はあるものだと思う。
それでもそれらの方法、機関は、罪を犯した当人の反省が前提にあって成り立つものでなくてはいけない。
だが、今日の日に、二十数年の時間を隔ててまみえた早由美は、誰の目から見ても、自分が養育する子供が及ぼした迷惑、周囲に与えた困惑を詫びる気持ちが覗えない。
スタッフルームに顔を覗かせた村瀬は、「売り場に戻ります」と、中のパートタイマーに声かけした。
扉の前には真由美がおり、一番レジ、お願い出来ますか、と、出てきた村瀬に笑顔で要請した。
二番、三番の後ろには、師走の買い出しで買い物籠を山にした客達が列をなしている。村瀬は一番に立ち、「お待ちでしたらどうぞ」と、笑顔で大きく声出しした。左右に並んでいた客達が、わらわらと一番レジに並び始めた。
バーコードスキャンを行いながら出入口の自動ドアを見ると、ミンクコートと黒いセーターの背中をこちらに向けた早由美母娘が出ていく後ろ姿が捉えられた。
連絡はしまい、と村瀬は決めた。何故なら、子供の義毅が結婚を奨めていた頃とは違い、今の早由美は、我が子を大切にしないという最低な形態の親であり、自分の虚飾、虚栄を第一にする女に成り下がってしまったことが分かったからだった。今、心に立ち昇っている虚しさは、菜実との初詣で解消しようと決めた。 レジ台の上に顎と手を載せた幼い男児が村瀬に笑いかけ、村瀬も笑顔を返した。自分には菜実がいるのだ。男児に笑顔を送りながら、村瀬は心に捺した。
店内BGMは正月仕様の琴のソロが流れ、至る所に、来年の干支をイメージしたイラストが描かれた貼り紙や、小さな門松などが飾りつけられ、すっかり年末ムードに入っている。
1パック税込二千百十三円の「マスオマートオリジナルおせち」に20%引きのシールを貼りながら声出しをしていた村瀬の所へ、香川が来た。
「村瀬さん、ちょっとスタッフルームいいですか?」香川は神妙な顔で声を潜めた。
「“川原様”か?」村瀬がシール貼りの手を止めず、声を落として訊くと、香川は、まあ‥と答えて頷いた。
川原様とは「買わないハラスメント」という意味のある、万引き犯を表す隠語だった。
「今日は店長も休みに入ってるし、パートさん達にやらせるのも何だし、出来れば男性で、これは子供を育てた経験がある村瀬さんに当たってもらうのがいいかなと思って。僕は子供、いないし」「子供なのか?」「はい。見たところ、中学生ぐらいの女の子なんですけど、ヤンキー風とかじゃなくて、どちらかというと大人しい感じがして、そういうことをやりそうなタイプには見えないんですけどね。Gメンが声をかけて、連れてきたんですけど」
村瀬はシール貼りを止めて、ひと苦言の顔で香川を見た。そこへ母子が来て、小学校低学年に見える少年が、母親の持つ籠におせちを入れた。村瀬は「ありがとうございます」と声をかけた。
「三月には副店の辞令も出る予定だし、ここは一つ、慣れるという意味でも。あの時は、このお店と、お客様を助けるために、あれだけの活躍をされたんだから、大丈夫ですよ」「そうは言っても、ああいうのとはまた違うやりづらさがあるよ」言ってみながらも、近くで品出しを行っている年配の男性パートタイマーに、「すみませんけど、そちら終わったら、おせちのシールお願いしてもよろしいでしょうか」と声かけし、スタッフルームへ足を進めた。
観音開きの錠なし扉を開けて廊下へ進んだところで、中年の女性店員の悲鳴染みた声が聞こえた。それは「あなた、やめなさい!」という語彙を含んでいた。
村瀬は小走りに走った。その少女が暴れているのなら、自分にはやめさせる義務がある。
後ろに香川を引いてスタッフルームに入ると、令和の今は、普通の常識を持つ世界では、男がまず直接的には見ることのない光景が拡がっていた。
うろたえきった二人の女のパートタイマーに囲まれるようにして、ブラジャーとパンティの下着姿をした少女が立っている。少女は背中に手を回し、ブラジャーのホックを外そうとしている。村瀬は視線を外し、香川は、あわ‥と聞こえる声を発して顔を両手で覆ったが、彼は指の間から見ているらしいことが覗えた。
「服を着て」村瀬は香川に呆れるのもほどほどに、優しい言葉を努めた。「いくらこういうことをしても、被害を受けたお店は、ちゃんとそれを処理しなくちゃいけないんだ。だから服を着て、話を聞かせてもらえるかな」
もういいかな、と言って視線を戻すと、少女はスリップ、黒のセーターと、ギンガムチェックの膝上スカートの服装になっていた。テーブルには、ペットボトルのコーラと、二点のスイーツ類、小学生から中学生の女の子に好まれている、おまけつきのグミキャンディ、チョコレートが置かれている。髪の整容具合、服装は困窮した家の子供のものではない。それが何故、こんな千円にも満たない額の万引きをしたのか、それに加えて服を脱ぎ出すという行いは何の意味を含んでいるのかと思ったが、当人よりも長く生きている村瀬は、事情はそれぞれという答えを腑に落とす。
この万引きは、保護者などを振り向かせたいという思いがあってやったこと。正確なものかどうかは分からないが、おおかた、事情的にはそういうところか。だが、使い走りの不良が格上の者から命令されてやることもあるし、困窮する家の子供の場合、保護者にやらされることもある。特に後者は、悲しいことだが、日本に根を張る格差社会を象徴して、現実に起こっている。
この少女の心の中にしかない、裸になろうとした理由は、何かの深刻な事情がありそうだと村瀬は思った。
「座って」村瀬が言うと、少女はためらいがちに、ソファに腰を下ろした。斜め上の壁には、「熱意」という墨字書が、額縁に入り、掛かっている。少女の隣には、マスオマートと契約している万引きGメンの中年の女が座っている。
俯いた顔にパーツとして付く、睫毛の長いぱっちりとした目と、えらの張った輪郭に、ますます、村瀬の記憶の中にある見覚えが騒ぐ。
「中学生? 高校生?」村瀬が訊くと、少女は三十秒間ほど固く唇を閉じて押し黙ってから、耳を凝らさなければ聞こえない声で、中学、と答えた。
「じゃあ、まず、名前を教えて」村瀬は言い、数秒沈黙したのち、小声で話された少女の名前を、バインダーに留められた紙に書いた。
こしばゆうり。それが少女の名前だが、村瀬の知るその「こしば」の苗字は一人しかいない。それは言わずもがな、互いが子供だった時間に、初恋の原形と呼べる関係性にあり、万年筆をプレゼントしてくれた小柴早由美だった。苗字が同じの上、外観も生き写しと言っていいが、内縁でない限り、結婚すれば苗字は変わる。だが、離婚、死別もある。村瀬は母親の名前を訊き出そうかと思ったが、やめることにした。
「ここに、自分の名前を自分で、漢字で書いてくれるかな」村瀬は言い、バインダーをとボールペンを進めた。少女はためらいの出た手つきで、言われたことに従って、名前を書いた。バインダーを取り、見ると「小柴悠梨」とあった。
「売り場、戻っていいよ」村瀬は後ろに立っている香川に指示した。香川は小さく頷いて、体をターンさせてスタッフルームを出ていった。
「全部で、だいたい八百円前後ですかね。バッグに入れて店を出ようとした所を呼び止めたら、認めましたので」Gメンの女が言い、村瀬はそうですか、と返して、社用のPCを開いた。
マスオマート全体で共有する窃盗犯リストを開き、見たが、少女が名乗った名前はなく、全くの初犯らしいことが分かった。
「中学はどこかな」村瀬が訊き、悠梨という少女はまた押し黙った。
「あなた、正直に答えないと、自分のためにならないわよ」万引きGメンの女が迫力を挿した。「あなたがしたことは、歴とした罪なの。その罪に、大人だとか、子供だからっていうのは関係ないのよ。あなたは確かにまだ子供かもしれないけど、子供のうちにこういう癖を手につけて、そのまま大人になったら大変なことになるのよ。だから、訊かれたことにちゃんと答えて、反省しなさい。そうすれば、子供のうちの過ちに留まるんだから」
「任せてもらえますでしょうか」村瀬は挟んで、Gメンの女に軽く挙手した。
「まあ、罪、それはそうでしょうけれど、まだ子供さんですよ。他ではどうか分からないですけど、ここでは初めてみたいだし、まだまだ反省の出来る余地はあると思いますので」
村瀬の言葉に、Gメンは納得しきれないなりにもその意見を受け入れる顔になった。気迫を持たなければ業務の成立しない仕事である以上、村瀬も立場を汲まなければならない。村瀬とて、その気迫を成り行き的に養ったからこそ、吉富を排除し、彼の子供達を救う糸口を開くことが出来たのだから。
小柴悠梨は黙したままだった。一分ほど経っても、彼女の口が開く様子はない。
「ごめんね。でも、あなたが今日したようなことが赦されちゃうと、ちゃんとお金を払って商品を買ってお帰りになる他のお客さん方に示しがつかなくなっちゃうし、お店も困ってしまうんだ。こちらの訊くことにあなたが答えてくれないと、あなたも帰れなくて困ることになるし、私達の仕事にも差し支えが出るんだよ。これは常識の対応で、確かに警察と、学校にも親御さんにも連絡をしなきゃいけない。それであなたは怒られるだろうけれど、これからは二度とやらなければいいことじゃないかな。何も言わないことのほうが、あなたにとって不利になるよ」村瀬が諭すと、悠梨の唇がぽかっと開いた。
「鷺沼北中‥」細く、蚊の鳴く声の答えが悠梨の口から発せられ、村瀬はそれを復唱しながら書き込んだ。
「今、親御さんには連絡はつくかな」「お母さん‥」「お母さん?」村瀬の問い返しに、悠梨は俯いたまま頷いた。その答えに、村瀬は先ほど抱いた予感を確信に近づけた。
父親は不在だと思われ、連絡の可能な家族は母親だけらしい。それならば、母親の姓が小柴でもおかしくはない。
「じゃあ、連絡のつく電話番号を教えてもらえるかな。お母さんの職場か、それか、携帯番号だね」村瀬が促すと、悠梨は脇のバッグからガラケー携帯を取り出し、「おかあさん」とある電話番号を表示させた。村瀬はそれを紙に書き写し、テーブルの上で充電器に載っている社用携帯を取った。先に警察に連絡をしなかった理由は、当人が子供で、保護者による被害弁済などの誠意を見せてくれることに期待したからだった。
「ごめんね。でも、これも私達の、仕事上の義務だからね」村瀬は俯いたままの悠梨に言って、廊下へその身を移動し、紙に書いた080の番号をプッシュした。
二回の呼び出し音ののち、はきとした声の女が、はい、と言って出た。「もしもし、小柴様の携帯でお間違いないでしょうか」「そうですけど」村瀬の送った声に、張りのある女の声が応答した。
「さようでございますか。私は、スーパーマーケットチェーンのマスオマートの者で、村瀬、と申します」「はい。用件はどういったことでしょうか」女は聞き覚え確かな声で問うてきた。村瀬は思いを呑み下した。
「何の用件ですか?」「小柴悠梨さんは、娘さんでお間違いありませんでしょうか」「そうですけど、娘が何か」「娘さんでいらっしゃいますね。実は大変申し上げづらいのですが‥」「万引きでしょうか」女は何の動揺もない声で問い返してきた。
「はっきりと申し上げてしまいますと、さようのことになります。万引きをされた商品は、飲み物が一点と、あとは菓子類です。金額的にはたいした額ではございませんが」「分かりました。娘は今、そこにいるんですよね」女の言葉が村瀬の説明を遮った。
「私、今、用あって三咲にいるんですよ。遅くても三十分以内には行けると思いますので、待ってていただけますか?」「分かりました。お来しになるということで」「買い取りますので。それでは、のちほど」「ご足労をおかけしまして、申し訳ございません」村瀬が形式上の詫びを言うと、女は電話を切った。
「もうじきお母さんが見えるよ」村瀬は業務用携帯を充電器に置いて言ったが、悠梨は目立った反応を返さなかった。
「よかったら、ちょっとお話しようか」村瀬は微笑して、悠梨の前に座り直した。
「見た感じ、あなたには、いろいろと心のほうにわけがありそうだって、私は感じたんだ」村瀬は言いながら、自分の左胸に右の掌を当てた。
「私が人生の道すがらで確かに学べたと思うことを言うと、人生っていうものは、そもそも道なき道なんだよね。道がないから、そのない道を切り拓く過程で、間違ってしまうことも一度や二度じゃないんだ。感情的になることもあるしね。つまり、人生は、間違いあってこその人生なんだよ。勿論、これが間違いだと分かっていることを繰り返してしまう人生は良くない、というか悪い。間違いだと気づいたことは、繰り返さないことが大切だからね。だから、もしも今のあなたが、正しいことと間違ったことの境目が分からなくて悩んでるんだったら、よかったら話してごらん。もう五十歳に手が届いてるおじさんだけど、これまでの道すがらじゃ、そこそこ濃い経験をしているから、小柴さんにとってヒントになる助言が出来るかもしれないよ」
瞼の落ちた目をテーブルの上面に向け、口を閉じたままの悠梨の様子に、親切のつもりが酷なことを振ってしまったようだと、村瀬は反省の念をよぎらせた。話してごらん、とは、自分が理解したふりをした彼女の心をこじ開けるような無理強いで、この目の前の少女は、一見の関係性で、小さな市民でしかない人間には話せない何かを抱えている。
あるいは、ハンディキャップ。二ヶ月半前の純法主催、手繋ぎ式で、生田絹子のあとの二番目に組んだ、わたなべゆき、という女の子に、自分からは他者に会話を振らずに貝のように態度をつぐんでいる様子、表情に乏しい顔が同一と思える。それに、遠い頃、夏休みのアルバイトで入った洋菓子工場で一緒になった、形容するところ、「ウドの大木」のような少年。
純法の鴨で間違いないであろう、ゆきの現在も気になるが、あの物言わぬ大木、岩のような少年も、すでに中年域に入った今、どういう人生を送っているのか。今の村瀬には明らかな広汎性発達障害と分かるが、障害の認定は受けて、手帳が交付されているのか。何故そこに思いを馳せたかというと、自分の抱える生きづらさを認めないばかりか、気づくことすらない人間達と、公立の義務教育と人を相手にする仕事の中で、否応なしに関わらなければならなかったからだ。
事実上、村瀬が出入り禁止にした吉富は、最も恥ずかしい類いの刑事事件を起こして生活保護も打ち切られたはずだが、これからどうやって、中年から壮年、老年の時間を生きていくのだろう。兼田は、あのまま生きていたところで、今頃どんな中年男になっていたことだろう。日本の法律をどこまで知っているのか、今の社会で腕力だけで何でも埒が明くと信じきり、知性を得ることに関心を持たず、自分達の行いが何をもたらすかを想像出来ない「特攻拉麺」の若者達は、あのまま行けば、どんな中年、壮年、老人になり、老いた頃にはどんな境遇下に置かれているのだろう。考えても考えても暇がない。
「ごめんね。まだ誰にも答えたくないことがあるんだね。それなら整理がついた時に、誰か信用出来る人に話してみるのがいいだろうね」表情のない顔と、顔を俯けた様子が変わらない悠梨に、村瀬は優しく声かけした。
「でも、今日のことは、ちゃんと反省して、同じことをまたやらないようにしよう。そうなると、一番困ることになるのはあなたなんだ。もう少しでお母さんが来るから、待ってよう」
Gメンの女をふと見ると、溜息でもつきたげな、村瀬への呆れが出た顔をしていた。村瀬の対応が常識を逸して甘い、と言いたいのだ。だが、村瀬はこれでいい、やるべきことはちゃんとやっている、と自分を納得させた。その他には、何もないからだった。
扉がノックされ、中から応対の声を送ったパートタイマーに、「小柴ですけど」と答える声がしたのは、それから二十分近くが経過してからだった。はい、と答えたパートタイマーが扉を開けると女が入ってきた。立ち上がった村瀬が一礼したその女は、緩やかなパーマをかけた背中までの髪に貝殻のイヤリング、黒い本ミンクのコートに黒のハイヒールを履き、腕にはブレスレットと金の時計、金のチェーンに下がる鰐革のバッグを肩から掛け、指には銀のプラチナリングを光らせた四十代だった。
村瀬が見たその顔は、かつて妹分であって、小さな恋のようなものを一緒に紡いだ小柴早由美と、目、鼻、口、輪郭、特徴的な尖った顎と、どこも、何一つ違う箇所はなかった。
美しかった。最後に会った時から数えて、二十幾年の歳月を経ても。それでも変わってしまったものがあるとすれば。
華美な外飾。娘の非行行為に、まるで開き直ったかのように、いささかの動揺も見せない言葉態度。それを思うと心なしか、目と口許の感じに、あの頃にはなかった険が見えるような気がする。
「豊文君‥」昏く妖熟した女になって、村瀬の目の前に立った早由美の口から、彼の名前を呼ぶ声が小さく漏れた。村瀬はもう一度、軽く頭を下げた。
早由美はしばらく、偶然が導いた再会の静かな驚きを小胸に畳んだように、横目で床に目線を遣って立っていたが、やがて、娘が盗んだ何点かの商品を目に留める位置までハイヒールの足を進め、紅いルージュの唇を開いた。
「全部でおいくらでしょうか」「計八百十三円となりますが」値段を尋ねた早由美に、村瀬が答えた。
「買い取ります。これでも私、世間の見映えがいい仕事をしておりますので、こんなことが広まったら困るんですよ。今回に限って、警察と学校には連絡をしないでいただけますでしょうか」誰へともなく言った早由美が、鰐革バッグから一見して高級なものと分かる財布を出し、テーブルに硬貨を数枚出し、置いた。その間に村瀬が小さなサイズの袋に商品を入れていき、早由美に差し出した。早由美はそれを表情もなく受け取った。
「行くよ、悠梨」母親に呼びかけられた悠梨がソファを立った時、Gメンの女も立ち上がった。その顔には、母親の常識感覚を疑う表情がありありと浮かんでいる。
「ちょっと、あなた」娘を引いてスタッフルームを出ようとしている早由美の背中にGメンが声を投げ、歩みを止めた母娘に進み寄った。村瀬には、Gメンが言わんとしていることが容易に想像がついた。
「あなたの感覚では、これはお金を払ってしまえば済むことなんですか?」Gメンの問いかけに、早由美は居直りきった顔を向けた。悠梨は変わらず、表情のない顔を下に向けたきりだった。
「今日、お子さんがここでやったことは、刑事罰の対象になることです。これからお子さんがこういう手癖をつけないようにするために、親御さんとしてどうするかということなどは、お考えになっていないのでしょうか。もしもこれが大人でしたら、簡単に収まるものではないですよ。窃盗障害、クレプトマニアというものがあることは、日頃テレビを観ていればご存じではありませんか? 衝動が良心に勝ってしまって、窃盗をやめたくてもやめられない障害です。これは社会的地位、人格の優劣に関係なく発症するものです。子供のうちに教えておかないと、あとから大変なことになりますよ。今日のことを、あなたはどう思ってるんですか。先ほど、今回に限って、とおっしゃいましたけれど、次に娘さんが同じことをした場合、その時はきっちりと警察と学校の沙汰にして、けじめをつけさせるということでよろしいんでしょうか」Gメンの言葉に、早由美はますます居直ったような笑いを顔に浮かせた。
「あの、笑っているのは何故ですか。今日、娘さんがここでやったことは、あなたにとって笑うようなことなんですか」Gメンの顔と口調が憤りを帯びた。「私は弁済を済ませましたけれど」憤るGメンに、早由美は冷めた言葉を投げ返した。
「確かにうちの子供が、今日ここで迷惑をおかけしたことについては、親として申し訳ないと思ってます。だけど、今回のことで、親の私もこの子も、弁済以上のことをしろと言われても、それは出来ないはずじゃないですか。自分の心ならず、ぎりぎり刑法の縁を歩いてしまって、その縁を踏み外してしまう可能性は、誰でもあるものです。そのために弁護士事務所だってあるものでしょう? 私が行った事の処理は、民法に則った、まっとうな処理ですよ。したがって、今日のところは、私にも娘にも、これ以上のことはしようがないんです」呆れを呑んだ顔のGメンに、早由美は、理路整然と自論を述べた。
「行くよ」早由美は先に言ったことをもう一度娘に言い、ミンクコートの裾をひらりと翻して、踵を返した。娘がそれに続こうとした所で、Gメンの女が歩を進めてその脇に並んだ。
「ちょっと待ってもらえますか。これだけじゃないんですよ、今日のことは」Gメンが耳打ちするように言い、早由美が無表情にその顔を見返した。
「娘さんが、私達の前で裸になろうとしました。娘さんの心の中にある理由、お母様が分かっておられる原因は、何か思い当たることはありますか?」Gメンに問われた早由美の口端に、意味のありげな笑いが浮かんだ。
「そうなんですか。今日、そんなことまで娘がやったとは露知らずでしたね。考えられる理由があるとすれば、自分はこれの他には何も盗ってないっていうことを、娘なりに証明したかったんじゃないんでしょうかね。体のほうは生意気にもう一端ですけど、こっちは少し遅いもので」早由美は手に下がる袋を上げ、指で自分のこめかみを叩き、「失礼します」と加えて、扉を開けた。
「早由美ちゃん」村瀬はスタッフルームを出、錠なし扉を押そうとしていた早由美を呼び止めた。早由美と娘が同時に振り返った。
「久しぶり。あれから県外へ行ったって聞いてたけど、元気かな。俺があのあと銀行に就職して、それから結婚したことは、うちのお袋からおばさんに話が行って聞いてるかもしれないけど、見ての通り、今はスーパーの店員だよ。早由美ちゃん、仕事とかは今は」
早由美は、妖しげな化粧の顔に、昔と変わらない懐きの笑みを浮かべた。
「電話で、名前と声で豊文君じゃないかって思ったのよ。そしたら、当たってた。元気でやってるみたいで、良かった‥」早由美は笑んで、村瀬の小指に自分の小指を繋いできた。村瀬の胸中に昔が蘇った。
「仕事は、今、わりと稼いでるのよ。富山の、歯科医さんの所へ嫁いだことは知ってるでしょ? でも、離婚になって、八年前にこっちに戻ってきてね。今、谷津なの。この子と親子二人で」「俺も離婚組だよ。今、息子を引き取って二人で住んでるんだ。そうだ、おばさんは」「母は、亡くなって、もう五年になるかな。ガンで長患いしてたんだけどね。そのあとで、父も逝っちゃったのよ。あとを追うようにしてね」「そうなんだ。うちの親も、もう両方ともいないよ。同じだね」「ちょっと待って‥」早由美は村瀬と繋いでいた小指を外し、バッグのチャックを開け、一枚の付箋を取り出した。村瀬の手に渡されたその付箋には、電話番号、Eメールアドレスが、綺麗な字で書かれている。
「もし差し支えなかったら、登録して。時間がある時に、電話でも、ラインでも、メールでも‥」「分かった。ありがとう」「付き合ってる人は、誰かいるの?」村瀬に訊いた早由美の目が丸くなった。
「いるよ」村瀬は偽らずに答えた。
「そうなの。じゃあ、その人に焼き餅を焼かせないように、配慮するから」早由美は言い、扉を押した。「あの時、早由美ちゃんがプレゼントしてくれた万年筆、まだ持ってるよ」村瀬が言うと、早由美は頷いた。
「じゃあね、また」残して、派手な装飾のその姿を、扉の向こうの売り場へと消した。娘の悠梨が、俯いたまま続いた。
村瀬は、早由美母娘が去ったあとの廊下に立ち、渡された付箋を見ながら、この再会が喜ぶようなものではないことを巡念していた。
自分に万年筆のプレゼントをくれた頃の彼女とは、身に着けるものなどの外観、顔つき、常識観などが大幅に違っており、見てはいけないものを見てしまったという思いがある。
弁済も一つの償いの方法であるし、健常でありながら心ならない、または判断力が不全な人が、知らぬという故の脱法、触法を犯してしまった時のために弁護士事務所はあるものだと思う。
それでもそれらの方法、機関は、罪を犯した当人の反省が前提にあって成り立つものでなくてはいけない。
だが、今日の日に、二十数年の時間を隔ててまみえた早由美は、誰の目から見ても、自分が養育する子供が及ぼした迷惑、周囲に与えた困惑を詫びる気持ちが覗えない。
スタッフルームに顔を覗かせた村瀬は、「売り場に戻ります」と、中のパートタイマーに声かけした。
扉の前には真由美がおり、一番レジ、お願い出来ますか、と、出てきた村瀬に笑顔で要請した。
二番、三番の後ろには、師走の買い出しで買い物籠を山にした客達が列をなしている。村瀬は一番に立ち、「お待ちでしたらどうぞ」と、笑顔で大きく声出しした。左右に並んでいた客達が、わらわらと一番レジに並び始めた。
バーコードスキャンを行いながら出入口の自動ドアを見ると、ミンクコートと黒いセーターの背中をこちらに向けた早由美母娘が出ていく後ろ姿が捉えられた。
連絡はしまい、と村瀬は決めた。何故なら、子供の義毅が結婚を奨めていた頃とは違い、今の早由美は、我が子を大切にしないという最低な形態の親であり、自分の虚飾、虚栄を第一にする女に成り下がってしまったことが分かったからだった。今、心に立ち昇っている虚しさは、菜実との初詣で解消しようと決めた。 レジ台の上に顎と手を載せた幼い男児が村瀬に笑いかけ、村瀬も笑顔を返した。自分には菜実がいるのだ。男児に笑顔を送りながら、村瀬は心に捺した。
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