手繋ぎ蝶

楠丸

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34章

~因縁を切るということ~

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 八十坪の敷地、二階建てで、広いリビングと居間、計三つの十二畳の部屋がある家だった。屋根にはソーラーパネルが載り、外壁は白の窯業系サイディング、二台の車が入る駐車スペースを擁している。場所は松戸線二和向台を最寄りとする咲が丘で、六千万円の現金払いで買い叩いた。それまで住んでいたワンルームマンションは引き払った。

 全裸の右半身は、肩から乳房、大腿まで、赤紫の熱傷跡に覆われている。髪を後ろでまとめているため、瞳のない眼球、焼け落ちた頬の額骨も露わになっている。

 義毅の膝にまどかが乗り、両乳房に掌をかけられながら、尻を縦にいざる動きを繰り返し、粘膜が鳴る。

 妊娠中の安全な体位である、座位だった。

 義毅の手の包帯は取れているが、爪はまだ生え揃ってはいない。痛みと引き換えに手にした、世間一般の所帯。

目星をつけている仕事は、これまでの表のものと同じく自営。鎌ヶ谷に物件を一軒購入してあるが、浄水器のテレワーク販売とはまた別のものだ。柄に合わないか、はたまた意外に合っているかは、自分ではよく分からない。だが、いい。

 思った時、母体と胎児に影響する感染の予防と、子宮の収縮を防ぐために着けているコンドームの中に精が迸り出た。色鮮やかな倶利伽羅が肘まで彫られた腕がケロイドの体を抱き、背中の天女をカーペットに着けるようにして、後ろへゆっくりと倒れた。まどかの乳房が揺れた。まどかとはまだ体と体が繋がったままだった。

「今、動いてる、あなたの子‥」まどかは、小刻みな呼吸に混ぜて言い、義毅はその下腹に手を移した。

「そうか。俺にはちょっと分かりづれえけどな」「来週はエコー検査だから、男の子か女の子かが‥」「俺はどっちかっつうと‥」「野郎?」まどかが事後の呼吸に混ぜて問うた時、義毅が、まどろむ目を鋭くし、ドアを見た。体をまどかから外し、まだ勃起している陰茎からコンドームを抜き、下着と室内用の軽い服をさっと着け、ドアへ向かった。向こうに人間が立った小さな音を耳が拾い、それが慶ぶような来訪に非ずということを、頭脳と胸が察知したためだった。

「何だ」ドアの前に立つ松前に、義毅は用件を問う言葉を短く投げた。調べることも仕事の重要な一部。ほんの二ヶ月前の自分もそれを生業としていた。だから、東京グループの者がここにやってきても、驚くということはない。

「応援の要請です」松前の顔と声には、それとない惜しみが滲み出ている。

「ふた月前に俺らが叩きをかけた奴らですよ」「あの我孫子のか」「インサイダー買い叩いて、福祉施設を何軒も買い取って、組織がだいぶ太ったんですが、潜ったのが工作仕掛けて、今、割れが進んでるんすよ。だから要はそのどさくさに乗っかるって話なんすけど、荒さんの力が要るって、元締が」松前は、ある種の無念を刻んだ顔を、義毅の視線域から軽く反らした。

「今の面子だけ使ってやってくれって、木島の元締に言え。俺はけじめもつけたし、納めるもんもきっちり納めた。だから、今は関係ねえ」「そうですか」まどかと二人で植えた山茶花とチューリップが色を咲かせる庭に目線を馳せ見る松前の顔色には、したくはないがしなくてはならない警告をぶつ用意した心境が表れている。

 ヘルメットを被り、補助輪付きの幼児用自転車に乗った女児を若い母親が押す光景が、家の門前を通り過ぎた。空は曇っているが、雨の気配はない。
「じゃ、一応、俺のほうから元締には伝えときます。荒さんの事情はみんな知るところっすけど、念のため三ヶ月から半年の間は、身の周り、用心して下さい。俺も止められるとこは止めてみますけどね」松前は言って、門へ体を返した。
「俺はもう恐喝屋(カツヤ)の荒川じゃねえ。来年の夏から、未来の納税者を育てる立場になる、村瀬って人間だ」

 義毅は門を出ようと後ろ姿を向けた松前に投げかけた。松前は俯き加減の横顔を見せて立ち止まり、やがて門を出て、消えた。

 裸の体をカーペットに横たえたまどかは、今しがたの来訪が誰なのかを問わなかった。曲げた膝が伸び、大腿に隠れていた陰毛が覗いた。彼女の下腹は丸味を帯び、命を宿した膨らみを見せている。

「いい晦日だよ。来年の今頃は、もう三人になってっけどな」義毅は呟いて、仰向けに寝たまどかの腿を広げ、包皮から露頭したクリトリスに軽く接吻した。まどかは潤んだ目で天井を見ながら、行為のあとの呼吸を整えていた。

「なあ、元旦には言いたくねえから、今のうちに訊いとくぜ」義毅は、パンティとブラジャーを着け、冷蔵庫の茶をコップに注いで飲んでいるまどかに問いかけた。

「もしも、生まれる前に俺が何かで死んじまったら‥」まどかがコップを顔前に振り返り、微笑した。

「何でわざわざ訊くのよ。分かりきってることを」まどかは笑ったが、顔半分がケロイドで損壊しているその笑顔は、義毅でなければ普通に怖いだろう。

 義毅は苦笑し、照れを誤魔化すようにそっぽを向いた。

「そうだ。昼にお前が戻る前に、兄貴から電話があってな、あの恵梨香、今、市川のほうで誰かの世話んなってて、障害の子、預かる施設で働き出してるらしいぜ」「そうなの?」まどかがハンデのないほうの目を丸くした。「良かった‥」まどかはしばらく顔を俯けてから、顔の下半分をケロイドの手で覆い、鼻をすん、と鳴らした。

「愛想のほうは、婆さんになる頃にはいくらか良くなっと思うぜ」「そんなことはいいの。無事だったことが良かった」言ったまどかの目から涙が噴き出した。右は涙腺が死廃しているため、左からのみだった。

「問屋は信用するもんだ。気持ちってもんがある奴には、いい神様、仏が味方すんだよ。いや、たとえだ。あんなもんがいるかいねえかは分かりはしねえよ。もっとも、俺にはどっちでもいいこったけどな。今だに俺んとこには来ねえし。因果応報とか、仏罰とかがさ」

 義毅は泣くまどかの腰を背中から抱き、彼女の震える肩に顎を載せながら、何となく、これからは自分達夫婦にとって完璧に理想的な行く末は期待するべきではない予感を覚えていた。それは松前が去り際に置いていった、三ヶ月から半年、という警告言が強烈に気になっているからこそだった。木島が自分に対する関心を一度捨てたところで、また引かれる気がしている。

 どこからか、「歳末助け合い運動に協力しましょう」という宣伝車の声が流れていた。

 入職から十日ほど経っていた。恵梨香は自分から希望を出し、初日から宿直勤務に入っていた。普通に考えて無理が強いられる入職の形だった。

 朝はまず職員が、詰め込まれるようにして寝るスタッフルームで六時に起床し、それから利用者の居室ユニットを周り、おむつや、バソレーターテープの交換を行い、別の班は朝食を作る。

 その時から、両方のセクションに、暗くぴりぴり、かりかりした雰囲気が立ち込める。

「これ置いたの誰だよ! 吉田さんはとろみだよ!」食事介助で利用者の隣に座った女の職員が、目一杯苛立った罵声を上げたのは、男女一緒の朝食が始まった七時過ぎのことだった。
「薬も出てねえじゃん!」吉田という利用者は七十代の高齢で、嚥下障害があり、血糖値をコントロールするものと、せん妄を抑えるものの二種類の薬を、朝と昼に飲んでもらわなくてはいけない。

「すみません」別の女性利用者の食介をするために斜め前に座っていた恵梨香は詫びて、椅子を立ち、利用者と、志賀というその職員の所へ回り込んだ。志賀は、眉に皺を寄せた目で、じっと恵梨香を睨んでいた。顰蹙の顔だった。周りで食介をしている職員は、表情のない顔で、自分の業務を行っていて、その様子に目を向ける者はいない。

「すぐに薬を出して、とろみに変えます」「いいよ、どうせ遅えんだから!」志賀という女は吉田弘子の食事が乗ったプラスチックのトレーを持ち、ばんと立ち上がって厨房へ歩き去った。

「何やってんの」呆然と志賀を目で追う恵梨香の前から、今風の威圧、侮蔑の意味を込めた平坦発音の言葉が投げられた。別の女の職員だった。

「三十五分までに終わらせないと、午前の作業に間に合わないんだよ。早く食介やってよ」「はい」露骨に嫌な顔をして詰る職員に恵梨香は答えて、席に戻り、車椅子に乗った利用者の専用加工スプーンを取った。

「梓さん、ご飯から食べましょうね」声かけし、プラスチック茶碗の混ぜご飯を掬い、二十代の利用者の口に寄せた。恵梨香は、梓の口から伸びた舌の上に混ぜご飯を載せてやり、蓋付き紙カップのストローを口に持っていき、茶を飲ませた。梓は喉を鳴らして、その茶を飲んだ。それから半分に切ったウインナーソーセージをフォークに刺し、彼女の口に運ぶと、前歯で噛んだ。斜め前では、志賀が、不機嫌を隠そうともしない顔つきで、巾着袋から出した二種類の薬を置き、老齢の利用者の口にとろみの食事を運んでいた。

 利用者の食事が終わってから、それを終えた職員が掻き込む食べ方の朝食になる。その間、利用者は待機になる。味わう余裕はない。

 目玉焼きとウインナー、サラダ、味噌汁、混ぜご飯という利用者と同じメニューの朝食を急ぎがちに摂っている恵梨香に、左斜め前に座る女が失笑の笑いを吹かせた。川名という四十代の女の職員だった。

「ねえ、うちのご飯は美味しい?」「まあ、はい。ちゃんとカロリーが計算されてて、いいと思います」取ってつけたように優しい薄笑いの川名の問いに、恵梨香は箸を止めて答えを返した。

「初日から見てると、あなた、よくご飯食べるよね」川名の言わんとしていることは分かる。恵梨香は次に言われることを充分に予期し、軽く肚を据えた。

「いつも食べるご飯の分だけ、ちゃんと仕事しなさいよ。あなたの遅い仕事が、周りの皺寄せになってるんだよ。うちはただ食べて出すだけの動物はいらないの。食べた分だけ、きっちり仕事する人間が要るんだよ。分かってる?」恵梨香の止まった箸が固まった。

「それだけじゃないよ。自分のご飯が遅いことも気づいてる? ここは先輩よりも遅く食べてちゃいけないんだよ」「すみません。これからは気をつけます」「せいぜい頑張ってね。もう、あなたに、みんなのこれが始まりかけてるからさ」川名は、これ、の箇所で、顔をぷいと横に向けた。

 恵梨香は一礼するように頭を下げ、箸を動かす手を急がせた。

 その後、午前は財布を検品して箱詰めするもの、介助のある昼食を挟んで、午後から木工の班に入り、糸鋸を使って木材を切断、ボンドの接着、ニス塗り、塗装の作業を行って、十七時退勤となった。シフトは、二日連続で泊まり、二日休みだが、宿直とは別の夜勤もある。その他、短時間勤務のパートタイム職員もいる。恵梨香は大晦日、元旦休みで、二日、三日と泊り込むことになる。連休は、申請すれば、三日間だけ盆休を取ることが出来る。有給休暇は、勤続一年目にもらえるようになるが、極めて申請しづらい雰囲気がある。
 
 陽の落ちた鬼越の通りを、恵梨香はJR本八幡駅へ向かって歩いていた。そこへ後ろからじゃりじゃりと不穏な足音がし、名前を呼ばれた。振り向いて足を止めると、みんな一様に髪を男のように短くし、軽い外出着の上に鉤十字やヒトラーの肖像のワッペンを着けた女が三人、立っていた。齢の頃は、恵梨香と同じ二十歳前後だった。

「どこ行くの?」「仕事終わって帰るとこだよ」ニットの女に訊かれた恵梨香は、顔を伏せて答えた。「何の仕事?」「コンビニ」恵梨香は偽った。

「集会は月に二回出んのがメンバーの義務じゃん。お前、最近集会にも、SSにも来ねえし、どうなってんだって、みんなで話してんだけどさ。エリアリーダー、怒ってるみたいだよ。このまま連絡も顔出しもしねえんじゃ、お前、やばくなるよ」中央の、金髪のスポーツ刈りのような髪型をした女が言い、右端の、スキンヘッドにニットの、恵梨香と同じセンスの女が、そうだよ、お前何やってんだよ、と加えた。

 JRのほうへ顔と体向きを戻し、歩き始めた恵梨香の前を、周り込んだ女達が塞いだ。

「何? シカト? お前、うちらの番号着拒にして、ラインもブロックしてんだよね。何のわけがあんのか教えてくんねえ?」金髪スポーツ刈りの女が、声言葉を凄むものに変えた。

「そこに車停めてっからさ、江戸川で話しねえ? 抜けるなら抜けるで、リーダーが言う額、積まなきゃいけねえんだからさ」

「どけよ」言って、引戸を開けるジェスチャーに似たしぐさで手を払った恵梨香と女達の間に、怒りの気が帯電し始めた。

「私はもう、お前らとはつるまねえし、SSにも行かないから。私は正会員じゃねえから、金なんか払う言われもねえし」

 左へ回り、女達の通せんぼを避けて歩き出した恵梨香の地味なパーカーのフードが後ろから掴まれて、体を引かれた。

「てめえ、それで済むと思ってんのかよ。うちらの連絡ブロックしたわけ、こっちはまだ聞いてねえんだよ。だから人気のないとこで話そうっつってんだよ」

「離せよ」恵梨香は自分のフードを掴んでいる金髪スポーツ刈りの女の腕を、ばしんと払った。

 「お前らみたいな自覚のない薄らには、今の私の気持ちなんて分かりはしねえよ」恵梨香は二歩、女達に進んで、鼻先を詰めた。美亜という名を知る金髪スポーツ刈りの女が笑った。それに合わせるように、ニットの紗香と、坊主刈りに紅いキャップを後ろに被った幸奈も、嬲るような笑いを浮かべた。

「何だか知んねえけど、江戸川で話そうよ。こんなとこじゃ、落ち着いて話せねえしさ、そっちのが早く済むんじゃね? 来いよ。すぐそこに停めてっからさ。でも、お前の態度によっては、いつまでも帰れねえよ」「いいよ」恵梨香は答え、四人の女は、来た道を戻る方向へ歩き出した。三人が、恵梨香の前後を囲んでいた。それに関しない人間達が、駅のほう、またはその反対方向へと通り過ぎては消えた。プラットホームから人を詰めた三鷹発の総武線が、夜の灯りに銀色の車体を光らせ、千葉方面へ走り去った。

恵梨香が乗せられたワンボックスカーの暗い車内で、低い吐息とともに籠っていた怒りは、江戸川畔の、総武本線の鉄橋下に彼女の身が引きずり入れられた時、一挙に爆ぜた。

「脱げよ」美亜が命じ、恵梨香はヤナギ系の雑草が生い茂る斜面に顔を俯かせながら、パーカー、トレーナー、デニム、靴を脱いで、スリップとパンティの姿になった。

 下着の姿になった恵梨香の左頬に、おらぁと叫んだ美亜のパンチが入り、よろめいたところ、後ろから尻を蹴られ、雑草群の上に体が薙ぎ倒された。倒れた体に何発ものキックが叩き込まれ、背中を踏みつけられた。恵梨香は息を詰めて、それに耐えた。

 首を前腕で極められて体を引き起こされ、スリップとブラジャーが毟られ、抉るようなパンチを乳房に入れられた。それから鳩尾にキックが打ち込まれた。背中から引き倒された体の鼠径部に、靴の踵が落ち、下着越しに陰部を踏みにじられた。顔の上にも踵が載っていた。

「てめえ、ユニオンに戻れよ」言ったのは、恵梨香の顔に踵を落としている紗香だった。

「やだよ」恵梨香は苦痛の呼吸に答えの言葉を混ぜた。

 見下ろす幸奈の手には、フォールディング型のボウイナイフが、刃を起こされて光っている。その刃先が、恵梨香の顔の上に突き出されていた。陰部から踵を離した美亜の口が開いた。

「じゃあ、今からここで、けじめ、取れよ。利き手じゃないほうで勘弁してやっからさ、これ、手で握れよ。リーダーはそれでいいっつうかどうか分かんねえけどさ、一応、お前はこういうけじめつけたってことだけ、うちらのほうから話しといてやっからさ」

 恵梨香は、半身を起こすと、ためらうことなくボウイナイフのブレードに左掌を巻きつけた。

「やれよ」渾身の力でブレードを握りしめた恵梨香が言うと、その手の甲が紗香、幸奈に二人がかりで押さえられた。

 ゆっくりとブレードが引かれた。恵梨香は歯を噛んで締めた。指の間に、溢れた血がなみなみと満ちた。熱を含んだ痺れる苦痛が、目を剥いた恵梨香の全身を震わせた。

 恵梨香は左手を右手で押さえ、喉を潰す声を撒き散らし、雑草の上で、右へ、左へとその体を転がし、背中をのたうたせた。顔と声には、必死で堪える涙のものが出ている。

 恵梨香がのたうち回り、それを三人の女が見下ろす時間が、二分ほど過ぎた。

「行くべ」つまらないものを見飽きた声を美亜が振り出し、三人が一人づつ背中を向けた。

「‥待てよ‥お前らのためを思って教えてやるよ‥聞いてけよ‥」斜面に体を横たえて、体を畳んで呻きながら、恵梨香は言葉を搾って呼びかけた。三人ははたりと止まり、恵梨香を振り返った。

「‥バランスってもんがない、極端な政治思想ってもんはね‥そん時の政権とか、歴史の不都合なことを誤魔化して、隠すためにあるもんなんだよ‥そういう思想に、勢力の頭数として取り込まれて使われるのは‥ごろつきどもなんだよ‥戦争とか、他の考え方を暴力で抑え込む時の‥馬鹿どもの節句働きにするためのさ‥」腹から搾り出すひしゃげた声が、薄闇の中を低く這った。

 警笛とともに鉄橋が振動し、総武線の列車が三鷹方面へ走り抜け、明かりが撒かれた。

「‥勉強するわけでも‥働くでもなしに‥ほとんど親金暮らしで何も考えないで‥生きてるお前らなんかには理解しようにも出来ないだろうけどさ‥ナチスのT4作戦ってやつじゃさ、知的と精神と、お前らみたいな知的ボーダーラインとか、私みたいな発達が疑われる人間が、たくさんガス室で殺されたんだよ‥人並みに労働出来ないからって理由、つけられて、優秀な子孫を残して国を繁栄させるっていう目的でね‥断種手術とかで子供を作れない体にされた人は七十万人‥T4で殺された人の数は七万人なんだよ‥物が言えない‥でなきゃ上手く伝えられない奴らが‥これだけの数‥アウシュビッツのユダヤ人、七百万だけじゃないんだよ‥同じドイツ人までさ‥これに‥影響されたのが‥世界大戦の‥同盟国だった日本の‥優生保護法‥少し前に‥やっと違憲って‥認定された‥」恵梨香は真っ赤に染まった左手を押さえたまま、大きく呻いた。

 美亜を筆頭とする三人の態度は、その話を流して聞くものだった。

「‥私はもう嫌になったんだ‥知りもしないことをさも知ってるふりしてさ‥弱い奴ら嚇かして‥周りにごろ巻いて‥自分の本当の心と違うことやって‥トラウマを言い訳にして‥嫌なことから逃げ回る生き方、ずるずる続けんのがさ‥だから‥ちゃんと自分を見つめ直して‥汗水垂らして働く道‥選んだんだ‥」恵梨香は体をよじり、膝を胸に着けたが、涙と鼻血の顔は三人のほうを向いている。

「‥悪いことは言わねえよ‥十年後、二十年後を想像しないでさ‥そんないかにも私は何も知りませんっていう馬鹿面下げて‥ふらふら、ふらふらほっつくような生き方さ‥お前らもこの辺でやめたらどうかと思うんだよ‥ヒトラーが優れた政治家で‥ナチスのガス室はなかったとか‥ホロコーストはなかったとか‥今‥そんなもんは何の説得力もないんだから‥だから‥あの磯子の施設の事件やった男のことを‥英雄だとか格好いいとか‥主張に賛同出来るとか‥絵と文章の才能がある天才だとかって掲示板に書き込んでる奴らだって‥いつかは気づくはずだよ‥自分がどんだけ寂しい無知な人間かってことにね‥そういうものなんだよ‥」

 三人が、恵梨香の述べに少しだけ耳を傾けているように見えた。双方の間に、恵梨香の呻きを交えた沈黙が少々の間立った時、美亜が鼻で嗤い、体の向きを恵梨香に戻した。あとの二人は横顔のままだった。

「お前が言うこと、うちら、よく分かんねえわ。でも、お前、いつからそんな風に気持ちが変わったんだよ」「‥まだ十日も経ってねえよ‥それでも、確かな気持ちなんだよ‥」「誰かから影響でも受けたのかよ」「‥私と同じ傷跡持ってて‥昔に道踏み外して‥そこから生まれ変わった経験がある人が‥今、本当のお母さんみたいに、私についてくれてんだよ‥それに‥今‥私が仕事で見てる子達が‥私に懐いてくれることも‥」「へえ」

 大刻みに震える体を丸める恵梨香を、美亜は、どことなく分かるようで分からない、分からないようで分かる、という風の目を刺し、肩と顔を返し、雑草を踏んで下流のほうへ歩き出した。紗香、幸奈がそれに続いた。

 土手の上からエンジン音が響いた。

 恵梨香の唸り声が、次第に泣き声に変わった。苦痛を堪えられなくなったためだった。師走の北おろしが、近くの柳の枝と、土手の草むらをそよがせた。

 恵梨香は泣き声を激しくした。その泣き声の中には、お父さん、という言葉が混じっていた。
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