手繋ぎ蝶

楠丸

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35章

~抜かれた脊椎~

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 こめかみから太い線の汗が流れ、顎から滴り落ちている。目は固く閉じられ、唇がめくれて露出した歯は、強く噛みしばられていた。自分の心は「痛い!」と叫んでいるが、それを言葉として口に出さないのは、物心らしいものが芽生えた頃からの因習だった。

 後ろから乳房を、指を立てるようにして強く掴まれた体が、縦、前後に揺れ、ベッドが軋みの音を立てている。

「今日も寄り添ってほしい」と言われて呼び出された、河合のアパートの部屋だった。

 点け放しのテレビからは大晦日の生放送お笑い特集が流れ、折り畳み机の上には、飲みかけの発泡酒の缶、食べかけの弁当と散らばった割り箸が載っている。

 シーツに立てる指に力が籠った。苦痛の声は、丹田の奥に押し込み、詰めている。

 息を詰めながら、自分の肛門に河合の陰茎が出入りする淫鬱な音を数えていた。

 糸が切れた操演人形のようになった河合の上体が、自分の背中に崩れ、それを体で受けた。痛みに果てなく白んだ思考の中に、村瀬の笑顔、彼の腕と胸の温かみが思い出されては消え、消えてはまた思い出された。

 今の自分が何故ここにいて、河合のこの行為を受け入れているのか、今、自分がどんな顔に姿をしているのが分かっているが、心のあらぬ部分がそれを無視している感覚を菜実は覚えていた。


 琴のBGMが流れる店内で、村瀬は小谷真由美とレジを交代し、二十分の休憩に入った。バックヤードの自販機で缶コーヒーを買い、プルタブを引いて半分ほど減らしてから、段ボールを積んだ台車の脇で、菜実の電話番号を出し、通話ボタンを押した。

 コールが十四回鳴り、はい、という消え入るような声で、菜実が応答した。

「もしもし、村瀬だけど」村瀬は声を送った。「村瀬さん?」返ってきた声は、暗さまでは感じられないが、何かを含んだように元気が覗えない。後ろからは雑多な音や声が聞こえ、アナウンスの声が入っているところから、どこかの駅にいるらしい。

「息子のことを見なくちゃいけなかったりして、なかなか電話出来なくて、ごめんね。明日、年が明けるね。通所は何日まで休みなのかな」「まだ分からないの。四日の日に、スタッフさんの佐藤さんのお話があるから、お昼の前、ちょっと行かなくちゃいけないんだ」

 菜実が答えたことに、村瀬はつい昨日、博人と一緒の食堂で見たテレビの「福祉施設討論会で、わいせつ、虐待映像」というニュースを思い出した。菜実に確認したいところだが、報道では施設名は伏せられていた。

「そうなんだ。何があったのかな」「分からないけど、何だか大変みたいなの」「早く落ち着くといいね。そうだ、もし日にちと時間が合ったら、初詣、一緒に行かないかっていうお話なんだ。俺、今日と明日の元旦が出勤で、二日から四日まで三連休もらってるんだ。だから三日あたり、早めに出て待ち合わせして、成田山でも行かないかな」「三日だったら大丈夫‥」菜実は答えて、すん、と鼻を啜った。

「どうしたの? 風邪でもひいたの? それとも、今、泣いてるの?」「ううん‥」菜実は声でかぶりを振った。

「じゃあ、とりあえず、三日の日、八時半くらいに、大久保で待ち合わせにしようか。もし都合が悪くなったら、また連絡をくれるかな」「うん‥三日?」「そう、三が日最後の‥」「分かった」「じゃあ、ひとまずは三日っていうことでいいかな。その時、うちの息子も紹介するよ」

 JR柏駅「みどりの窓口」前で村瀬との通話を終了させた菜実に、渋然とし、悲しげな表相を浮かべた河合が足と顔を詰めた。

「むらせ、って、誰なの?」「友達‥」「誰の電話にも出ないでほしいんだよ。俺と一緒の時は」河合はかすかな怒りを宿した目で菜実を見た。菜実は、はい、と答えて下を向いた。

「現在、京浜東北線は、南浦和駅で発生した人身事故の影響で、大宮、田端間で運転を見合わせております」というアナウンスが、構内に流れていた。 
  
「男なんだろ?」河合は詰り口調を強くした。菜実の言語中枢に、それを釈明する語彙は思い浮かばなかった。

 自分は河合の境遇に深く同情し、背負う悲しみと苦しみ、不安から分別の感覚を喪失したこの男への拒み方を識らないために、彼に自分の体を許すことになった。それから今日を含めて三回、二人だけの部屋をともにし、自分の体をいじり、貪り回す彼の欲望に、女として応えた。それでも、頭にも心にも村瀬がいる。だが、この関係が自分の拒みによって断たれたら、河合の命までが断たれてしまうかもしれない。それを防ぐ方法の思いつきが、自分の頭には、ない。

 無い。

「答えないっていうことは、そうだよね。どうして、俺がいるのに、そいつの電話に出たの? こんな傷つくことって、ないよ」河合は声を高くして、俯いたままの菜実を詰った。
「いいや‥」河合は顔を歪めて、構内を出入りする人の列にそっぽ向きの顔を向けた。

「俺がどうなってもいいと思ってるんだったら、三日にそいつと初詣行きなよ。俺のことが心配だったら、今日、また村瀬に電話して、もう嫌いだからもう会えないって言ってよ。でなきゃ、死んでやるから」

 午後からアマゾニックの倉庫で勤務があるという河合は、菜実の顔も見ずに、改札へ向かって姿を遠ざけた。菜実はその肩に手を置こうと何歩か追ったが、挙手の恰好にまま、その場に残された。


  
 十七時に年内最後の仕事を終え、同僚達に「よいお年を」と挨拶して退勤した村瀬は、前原の駅までの道中、菜実からの着信とメッセージが入っていることを確認した。

 券売機の前の、邪魔にならない位置に立ち、菜実のメッセージを再生すると、洟を啜り、すん、すん、と泣く声だけが入っていた。録音時刻は十四時過ぎだった。

 村瀬は潰さんばかりの力でスマホを握り、脇の小路へその身を移し、菜実の番号の通話ボタンを押した。

 ‥おかけになった電話をお呼びしましたが、というメッセージが流れてすぐに電話を切ると、村瀬はその足で恵みの家へ行くことを決めた。

 大久保で降り、日大の脇を通り、三山へ入った。恵みの家のチャイムを押すと、インターホンから若い女子の声が応答し、先日の中年の女とは違うらしいことが分かった村瀬は、名前を名乗り、利用者である菜実との関係性を短く説明した。

「菜実さんは、今、いらっしゃいますでしょうか」「お待ち下さい‥」村瀬のことを、年長の同僚からいくらか聞いて、ある程度の事情が分かっていると見える、鼻翼の玉ピアスが似合う金髪に黒く焼いた肌をした女子スタッフは、特に警戒する風でもなく、奥へ引っ込んだ。

 菜実が玄関口に現れるまで、待った時間は二分ほどだった。トレーナーにジャージのズボン、栗色の髪を後ろで束ねた姿で村瀬の前に立った菜実の顔は、瞼が落ち、ほうれい線が浮いた、悲しみの色が出ていた。

「ごめんね。心配になったから来たんだ。何かあったのかなと思って。泣いたりしてたから」村瀬が言うと、菜実の唇がぽつりと開いた。心底言いたくないことを言わなくてはいけないという、重い口の開閉だった。

「もう会えらんないの」

 村瀬は意味を疑う耳を、菜実の口に寄せた。菜実の背後、リビングからは、食器の合わさる音とボリュームの低いテレビの音声が漏れて流れている。

「私、もう、村瀬さんと付き合えらんなくなったんだ」下に伏せられた目から、涙が滴って、粒小さく落ちた。

「どうして?」村瀬は心中を出すまいと努めて、冷静な態度、声で訊いた。後ろを小型バイクが通り過ぎた。

「どうして⁈」村瀬の語気が強まった。

「それだったら、理由を聞かせて。どうしてなの?」「別の付き合いほしいっていう人、出来たから」菜実は言い、啜り上げた。

「その人、すごい可哀想の人なの。私がいないと、死んじゃうかもしれないんだ‥」菜実は残し、村瀬に背を向け、奥のリビングへと姿を消した。

 リビングの灯りを見つめ、聴こえてくる小さな音とテレビの音楽、声を耳で受けながら、村瀬は前の道路に体を向けた。

 世界観、人生観、常識観、哲学と、全ての思考が頭から落ち、臓腑を丸ごと抜き去られた感覚を覚えながら、笑う膝を操作して、ホーム前の路にそぞろ歩きで、出た。失礼します、と言って、ドアを閉めることは忘れていた。

 ホームから数歩、駅方面へ進んだ時、小走りの足音が追ってきた。肩を落として振り向くと、応対したスタッフの女子が立っていた。

「ご事情は、別の職員の者から伺っております。お付き合いなさっていたということで」女子スタッフは涙の気を湛えた顔と声で述べた。

「お気持ちが、変わってしまわれたのだと思います」女子スタッフは声を高く震わせて、顔の下半分を掌で押さえた。
 スタッフは咽んだ。村瀬は、思考と腑を抜かれた心地のまま、その姿を見つめた。

「私は、知的と身体と、内部の障害を持つ弟を亡くしたことをきっかけに、短大を卒業してすぐに、決まっていた会社の内定を断って、四年前にこの道に入ったんです。その中では、死に別れもありました。村瀬さんのお名前は、何回か、菜実さんからお聞きして知っています。深いお付き合いをされていたようで」

 村瀬の心には、女子スタッフのプロフィールなどは何かの関心を呼び起こすことはなかった。

「言葉が限られてるんです。だからどんなに何かを訴えようとしても、健常とされる人に届く思いは、言いたいことの、ほんの何割かでしかないんです。知識と啓蒙がだいぶ行き渡った、今でも。だから、さっき菜実さんの言ったことには、本当に伝えたいことは含まれていないはずなんです。そこが、私達が支援してる人達の本当に辛くて苦しくて、悲しいところなんですよ」

 本当に伝えたいこととは‥村瀬は手繰ろうとしたが、今は思考が思うように作動しない。今日の何時間か前までに、自分のそばにあったものが、もうない。それだけの現実が重く座り込み、退く気配がない。

「だから、今はそっとしてあげてくれませんか。本人が、今日は話せなかった事情を話せるだけの整理がついたと、こちらが見た時に、電話を一本かけるように促しますから」女子スタッフはひとしきり言うと、両掌で顔を覆い、洟を啜った。指の間から涙が落ちた。

 村瀬は何も答えず、顔向きを駅のほうへ直した。

 主に飲食店が灯りをともす大久保商店街の路面を踏む足には、まるで浮いているかのように力がなかった。自分の内部に在ったものの一切を抜かれ、自分の存在そのものが、頼りなく漂う無脊椎動物になったと感じられていた。

 明日から始まる、令和の新年度を含む、世界や自分の未来も見えない。それを思った時、絶望の色をまとった悲しみが沸き起こってきた。博人、恵梨香を案じる親の心も、今はない。自分が失ったのだという、利己の悲憤慷慨だけが心に染みわたっていた。

 村瀬は、俯いた顔を濡らし始めた涙を、行き交う通行人に見られないよう、拳で強く拭いながら、力を失った緩慢な足取りで大久保駅へ向かった。
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