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39章
~訣別と再生~
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二月になっていた。義毅の経営する「グっちゃんのお庭」は、彼を含む三人のスタッフ、五人の利用者からなる日中一時支援としてスタートしていた。平日は放課後、土日は休みの、地元の子供達が来て、おやつを食べ、知的、身体の利用者達とお話をし、簡単なゲームなどを愉しんで帰っていく。子供達の保護者も来る。親子で、障害への理解を深める場所として機能している。
名前の漢字表記が判明した樹里亜は、新菜に連れられて足しげく来ているが、初めの頃には固かった面持ちに、柔和さが出はじめている。クリームソーダをふるまった日に深く顔に刻まれていた、怯えと不安の色も、もうない。彼女は今、地元の保育園に通っているのだ。
今日は、利用者達と、やってきた四人の子供達とで、かるた大会を行っている。そのかるたは、子供に分かりやすい現代語訳の百人一首だった。
両手にピースサインをして、腰をくねらせてツイストを踊る小野小町のイラストが描かれた札を取った樹里亜の顔に、笑みが満ちた。
それを見た義毅は、自分の兄がいかにちゃんと人間としての仕事を執り行ったかを改めて思い返した。
ダブルシービーには、ほんの五組ほどの利用者と保護者の親子が来ていた。菜実は、紅美子と一緒だった。
生活介護部室にはパイプ椅子が二列並べられ、菜実達が座っている。志田という男のスタッフは、話しあぐねの思いを呑んだ面持ちで、主に保護者に説明するようにして切り出した。
先々月の討論会の席で、不適切なものがスクリーンに映し出され、その反省から、当法人は活動自粛、一時閉所となりましたが、現在、施設長と副施設長の行方が分からず、連絡も通じなくなっている。そのため、期限を設けない休所となる見通しです。籍を残し、再開を待つことも、別の所へお移りになることも自由です。念のため、挨拶をさせていただきます。十年の間、ダブルシービーを利用いただき、ありがとうございました。
志田は言い、頭を下げたが、他の職員の方々はどうされたのでしょうか、という保護者からの質問に、大多数が、今回の件で離職いたしました、と答えた。それにより、文岡達が、部下、父兄の信頼を一挙に失ったらしいことが菜実にも分かった。
その思いを胸に締めて、菜実は手を挙げた。
池内さん、どうぞ、と言った志田に、菜実はぽっかりと口を開いた。
「吉内さんは?」「吉内は、お辞めになりました。皆さんに、元気でね、と伝えて下さいと言っていましたよ。挨拶らしい挨拶を出来ないで皆さんとお別れしなくちゃいけなくなったことを、とても残念がっていました」菜実の問いに答えた志田の述べは、語尾が消えるように言い括られた。
菜実は察した。叶恵の、いついかなる時も決してぶれない、信念の浮き出た凛の顔、態度。それはまさにこの終着点を目指したものであったことを。
ダブルシービーが、おおかたの確率で廃所となる運びを利用者目にも見せているこの一件には、叶恵が大きく関わっている。
就労継続支援部門を利用されていた方各位には、少し額は下回りますが、休業手当が振り込まれます、と閉められ、午後の時間を割いた三十分程度の説明会は終わった。
「池ちゃん、別んとこ、探そうな」宮本から三山へ向かう社用車の軽自動車の中で、助手席の菜実に、ハンドルを取る紅美子が呼びかけた。
「あんなまどろっこしい説明せんでも、保護者は分かっとるがな。テレビでも報道されとるさかい。な、池ちゃん」紅美子が吐き捨て、菜実は膝に手を重ね、フロントガラスの向こうに広がる御成街道の景色を寂しげに見ていた。
「元々、人を馬鹿にするたちの人間がやっとった所やで。あいつらに裏があることは、私には分かっとったわ。ああなったんも、当然の成り行きやで。な、池ちゃん。増渕さんに話して、明日からでも、他、探そな」運転に支障がない程度に助手席に顔を向けて入った紅美子の促しに、菜実は「はい‥」と答えた。
「あの年上の彼氏とは、上手く行っとんか?」紅美子の問いかけは、不意だった。菜実にとっては、疚しさを突かれる問いだった。
河合と会うために出る時には嘘をついていたこともある。だが、その河合との関係は、すでに自分から幕を引いている。
村瀬に対しては、恋しい思いを、後ろめたさが圧している。それでも、彼なら自分を赦してくれるかもしれないという思いもある。河合との関係を自力で解いた今、どうするべきかと、自分なりに考えている。
「恋路の馬やないけどな、私な、ちょっと思うことがあるねん」諭すように言った紅美子の横顔を、菜実は疑問の浮いた顔で見た。
「誠に申し訳ございませんでした」村瀬は、成田街道入口近くの「チャコ」の店主と夫人に深く頭を下げて、詫びた。開店に向けての仕込みを行っている最中の、店の中だった。カウンターには、持参した菓子折りの箱が置いてある。
「仕事を持っていて、子供もある身でありながら、大人として恥ずかしく、一時の感情を抑えられないで、お店と、お客様方に多大な迷惑をおかけしたことを、深くお詫び申し上げます。本当にすみませんでした」村瀬は、自分の額が膝に着くまでに腰を折っていた。
「まあ、頭をお上げになって下さいよ」店主が優しく言い、村瀬は顔を上げ、ゆっくりとお辞儀を解いた。
こんなことは、菜実は元より、博人にも恵梨香にも知られるわけにはいかないが、あの櫂端(かいはし)という聞き覚え確かな氏名の空手師範がいなければ、かけがえのない子供達や、職まで失いかねない社会的危機であり、吉富などと同類になる一歩手前だった。
「元々洋食のコックだった私が家内と一緒にここを始めたのは、もう五十年も前です。その間に、息子達も独立して、私らにはもう孫もいて、何だかこの半世紀が一瞬の花火みたいな感じがしてるんですよ。それはもう、いろいろなことがあって、いろいろなお客が出入りしたもんです。それこそ、こっちの人達がね」店主は頬に指を当て、一本の線をびっと引いた。
「店に来て、観葉植物の高額レンタルと、おしぼりの卸を迫られて、断って、もの凄い嫌がらせを受けたり、そういうのもかい潜ってるもんですからね。本当、いろいろな人を相手にしました。その中には、飲んで荒れるお客さんも、たくさんいました。そんな大トラのお客さん同士の喧嘩を収めたりね。今回のことなんて比じゃないことも、たくさんありましたから」「お察しいたします」「今回は、そちら様も、背負ってるものを背負いきれないで、非ぬ恰好で弾けちゃったっていうことですよね。そういう時に酒が入るとなおさらですよ。その辺りの理解は、私らは持ってますんで、どうぞご安心下さい」「ありがとうございます。改めて、本当にすみませんでした」村瀬はもう一度腰を折り、「あの婚約者同士で来ていた人達にも、お詫びを伝えていただけると幸です」と加えた。顔を上げると、店主は微笑しながら、小さく頷いていた。
「もしよろしければ、今度、息子さん辺りでもお連れになって、来て下さいよ。サービスしますから」店主の温かい言葉と声にまた頭を下げ、村瀬は「チャコ」を出た。
296沿いを歩いている間中、メール受信のバイブレーションが幾度となく鳴った。それがここのところ、多い時で一日百件超来るスパムであることは分かっている。
内容は、働かないで一日に十万円を稼げるメソッド、またはパチンコ、スロットの必勝スキルを知りたい方はここをクリック! あるいは文面を見る限りでは、明らかな闇バイトのようなもの、意味不明な漢字や記号が長々と打たれたものなどだった。発信元のアドレスをブロックしても別のアドレスから送られてくるといういたちごっこが、ここ二日ほどの間、繰り返されている。
早由美からの連絡は、最後に会った二十日前から全くない。村瀬は、あの時西船橋の鉄板焼き屋で、承諾もなく写真を撮られたことを思い出していた。
JR津田沼駅のコンコースでスマホを開いた。写真の添付された数通のメールが送られてきていたが、それは違法のチャイルドポルノだった。村瀬は人目につかない場所へ移動した。
中学生くらいに見える少女が男にフェラチオをしているもの、胸も陰毛もない少女がベッドに寝て、全裸の姿を晒しているもの、また、これも中学生程度に見える女の子が、全裸で畳の上に座り、指で性器を広げているものもあった。
その少女の顔に、村瀬は見覚えを感じた。それは早由美を少女にした顔だった。可愛いが、表情に暗い翳りが落ちていて、眼が泣いている女の子。
薄い陰毛の下の幼い膣孔を自分の指で開き、変態達の欲望にアピールする被写体になっているこの少女は、あの晦日の日にスタッフルームで裸寸前になった、早由美の娘、悠梨だ。
全てが分かった。この二日の間に起こっていることと、この写真を見たことで。
村瀬の肚が、静かに決まり始めた。
肚を決めた心境のまま、翌日が来た。その日はレジの人手が足りないため、村瀬はレジに貼りつく勤務になった。
午後、自分が担当するレジの列の最後尾に、義毅が並んでいるのが目に留まった。買い物籠を提げていないので、煙草だと分かる。勤務先は、すでに教えているために、義毅は知っている。
「23番、二つ」義毅はむっとしたような顔と声で注文した。革ジャンの脇には、光沢紙らしい、B5に見えるサイズの厚紙が挟まれている。
村瀬がケースから洋煙草を二箱出して置き、義毅はスマホ決済で支払いを済ませた。
「脇、甘えぞ」二箱の煙草を取った義毅は、言いばな、レジカウンターにその厚紙を置いた。
村瀬が呼び止める間もなく、義毅は自動ドアの向こうへ去った。
忙しさからそれを確認もせず、後ろの台に置いた村瀬は、接客の声かけをしながら業務を始めた。
休憩の声がかかり、村瀬は義毅から受け取った厚紙を持って、レジを離れた。バックヤードで確認したそれは、低俗な雑誌の裏表紙を切り取ったものだった。
間抜けな表情をした村瀬の顔が、大写しに載っていた。それは間違いなく、正月二日の夜に西船橋の鉄板焼き屋で、早由美が勝手に撮影した写真だった。
こんなキモいオヤジだけど、という黒文字の大見出しが躍り、かくしかじかという文が掲載されている。霊能者が入魂したという触れ込みの、「不幸を及ぼす悪霊を退散させ、幸運を呼び込む、人生を変えるブレスレット」の宣伝広告で、数珠のような形状をした商品の写真が載っていた。
貧乏な家に育ったために高校へ進学出来ず、中学を卒業してからずっと、清掃員の仕事をし、ゴキブリだらけの木造アパートに一人で住む孤独な人生が、藁にもすがる気持ちでこのブレスレットを買ったところ、180度変わりました! 何と、アメリカ大統領が定めたという「政府指定の終身的経済優遇者」なるものに予告もなく選ばれ、働くことなく毎月百万円ものお金が入ってくるようになったんです。それで今は、きつくて時給単価も安い清掃業も辞め、現在、都内の超高級ホテルの一室を買い取って住み、美人JDのセクフレを大人数ゲット、部屋の前に百人あまりのきれいどころが列をなして並び、私とのSEXに待ちぼうけしているありさまです。食事も、お茶漬けやインスタントラーメンばかりだったものが、今では朝からセクフレ同伴でホテルの高級モーニング、昼は赤坂の高級割烹で、高級懐石に金粉を振りかけた寿司、夜は極上ワインにステーキを楽しんでいます。そして毎晩のように夢みたいな3P、5Pです。このブレスレットには心から感謝しております! あなたも私と一緒に不労長者を目指しませんか⁈ と打たれ、名前は「東京都・亀山和男(仮名)・50歳」となっていた。
その下には、見るにうだつの上がらない、しけた面をした中年男の写真が二つ並び、「からかい半分で買ってみたら」で始まる、同様のことが書き連ねられていた。
若くて可愛い女の子と、あんなこと、こんなこととかだったら、つい去年まで間に合っていたよ。村瀬は心で暗く失笑した。
一夜、自分を最低のアルコールカスへ堕とした、メリットが何もない関係。その関係を綺麗に解いて、自分は、自分の行くべき道へ行こう。喪失の悲しみを越えて。
早由美本人も、娘も、何とかのしようを見つけなければならない。一般市民の義務に基づいて。
村瀬の肚は、一層決まったが、その時、これまで自分はという人間は、何人の人を助けたのだろうかという思いがよぎった。
金曜から日曜が過ぎ、月曜は、早朝の開店準備から昼までの半日休日出勤だった。退勤し、前原から新京成に乗り、昼食を摂るために京成津田沼で降り、タクシーロータリー前の交番前に出た時、駅から袖ヶ浦方面へ一人歩いていく女を目に留めた。緩いパーマのかかった背中までの髪を後ろで一本にまとめ、ディスカウント調達のような黒いヤッケ、同じく黒の綿のズボンに運動靴という恰好をし、サングラスをかけ、百均で売られているようなトートバッグを提げた女だった。
特徴的な輪郭、鼻、口、髪の感じ、身の丈、歩き方で、その女が早由美であることが分かった。
早由美は銀行とバス停の方向へ向かって歩いていく。彼女との距離が五十メーターほど離れてから、村瀬は、白々しく演出するかのような貧乏を身にまとった早由美を追い始めた。
早由美は銀行脇を左へ折れた。左に折れて、その先に何の省庁があるかは、無論、村瀬も知っている。和菓子店、信用金庫を過ぎ、信号を渡った早由美が、木枠の階段を昇っていく様子を、メーター越しに村瀬は捉えた。
勘が確信に変わった。
中二階の「生活支援課」のプレート札が下がるエリアに、村瀬は来た。奥のブースに座っている早由美の後ろ姿を見つけた。ケースワーカーの男が「医療券をお出しいたします」と言っているのが聞こえた。
ケースワーカーと話していた早由美は、十分ほどののち、頭を下げて席を立った。村瀬は後ろのソファに座り、それを見ていたが、早由美の立席と同時に腰を上げた。
「お待ちでしたらどうぞ」と、ネームプレートを提げた中年女の職員が声をかけてきたが、村瀬は「いえ、私は」と挙手して、早由美の背を追った。
名を呼んで早由美を呼び止めたのは、外の階段の前だった。
振り向いた早由美は、はっと息を呑み込んで、体を緊縮させた。
「こないだは、どうもね」平静を取り繕う声で言った早由美は、作為の笑みを浮かべた。
「入院してる友達の代理人になって、生活保護の医療券、取りに来たの」早由美は引き攣り露わな笑顔で言い、村瀬は、ただ真顔でじっと彼女の顔を見た。それから十五秒ほど経ったが、その間、村瀬は表情を動かさず、言葉も発しなかった。
「ごめんね。これからちょっと人と会わなきゃいけないから。また連絡するから、待っててね。じゃあ」早由美は手を振り、来た道をたどろうとした。
「待って」村瀬は早由美の背中に呼びかけた。
「これは悠梨ちゃんじゃないのか」村瀬がかざしたスマホのポルノ画像に、早由美の顔が恐れの色を帯びた。
「娘がこういうことをやってることを、君は知ってるのか。それとも、君がやらせてるのか」村瀬の問い質しに、早由美は恐れの顔のまま、足をバックステップさせた。
「ごめん、急ぐから」早由美は疚しげに言って、スマホから目を背け、階段を降り始めた。
「それだけじゃない。他にも話が‥」村瀬の声を無視した早由美の背中が遠ざかっていった。
村瀬は黒ヤッケの背中を、その姿が見えなくなるまで目で追った。その時、サイレンを鳴らしたパトカーが、千葉方面へと走り去っていった。それがこれからのことを象徴しているように村瀬には思えた。
村瀬の気持ちは、冷静に引き締まっていた。
弁当の昼食を終え、居室でmaybeを聴いていた菜実の所へ、エプロン姿の紅美子がとんとんとやってきた。
「池ちゃん、話、しよ」正座した紅美子が切り出し、菜実は小さく頷いた。
「あの村瀬さんっていう彼氏のことなんやけどな、これからっちゅうもんのこと、池ちゃんは、どんだけ真面目に考えとんかな、思てな」
決して詰問のものではないが、これだけは言わなくてはいけないという芯の通った言葉の気に、菜実は少し押されたようになった。
「怒っとんとちゃうから、そない固うならんで。ただな、私な、心配なんよ」「しんぱい?」「うん‥」
夜が明ける頃に帰りたい あなたの腕に‥ maybeが流暢な日本語で唄い上げる「ミルキーウェイ」が、CDラジカセから流れていた。
「池ちゃんは、あの人と、結婚してもいい、思とるん?」「はい」「それ、真面目な気持ちなん?」
紅美子に問われた菜実は、先日まで、誰にも打ち明けるべくもない男との関係を続けていたことの疚しさが疼く思いになった。
今、紅美子に問われていることについては、問いの中身はそのものだった。情けから河合と体の繋がりを持ってしまったが、その関係を自発的に終わらせたのは、自分のために命までも危険に晒し、自分を守ってくれた村瀬への思いからに他ならなかった。
それでもまだ、後ろめたい思いは抜けてはいない。顔に出たその思いを、紅美子は察知しているようだった。
「村瀬さんは、私が前、お参りやってた時、そのお参り、いいくないって言って、やめさせてくれた人なんだ」「お参りて、何か、宗教か?」菜実はテンポ遅れて頷いた。
「男の人と会うと、お金もらえるの。いっぱい会えば、会った分だけ、いっぱいくれるの。すみののりさんっていうんだ。それで私、村瀬さんと知り合ったんだ。村瀬さん、私にそれやめさせるのに、お怪我したの。私が叔母さんにお金送ってたのもやめるように言ってくれたから、私、勇気出して、叔母さんに自分で、お金、もう駄目って言ってきたの。叔母さん、怒ったけど、それからもう私に電話してこなくなったんだ。村瀬さん、私のすごい大切な人なんだ」「そうか。それは、そやろな」自分がまだ知らなかった話を聞いた紅美子は、事情の全てに理解を及ばせた表情になった。それは彼女自身も、幾多の過ちを喫しながら、道を探って生きてきた人生経験を持つからこそのはずだった。
「池ちゃんの気持ちは、私にはよう分かるで。でもな、真面目に考えんとあかんもんは、結果ちゅうもんやで。池ちゃんはまだ若いやないか。せやけど、あん人は、もう五十に手が届いてまう年齢やんか。六十なんて、瞬きするよりも早う来てまうもんなんよ。六十なったら、七十なんてあっちゅう間やて。池ちゃんが私ぐらいんなる頃、あん人は、もうお爺ちゃんになっとんよ。そんでな、介護が必要になっとんかもしれんのやで‥」紅美子の表情が真剣味を増した。
「私、お爺ちゃんになった村瀬さん、面倒見る」「それは口で言うほど生易しいもんやあらへんで、池ちゃん」菜実は返答に困った顔で俯いた。
「今の村瀬さんもそやけど、そん頃の池ちゃんは、まだ体の自由が利く年齢やないか。まだ、社会ん中で働いて稼いどると思うんよ。せやけどな、一緒の人に介護が必要になったら、どれだけのお金がかかる思う? 施設でお世話してもらうとしても、介護保険の何割自己負担とかも、安くはないねん。池ちゃん、将来、あん人んために、時間もお金もないよな、余裕のあらへん暮らし、送ることになるねんて。私は、これからの池ちゃんの人生が、そないなってほしゅうないんよ。確かに今の日本は、アメリカ、ヨーロッパ並みに保険が発達しとんよね。そん中には勿論、老後に備えるもんもあるよ。せやけど、施設に入るんに必要になる分までカバーでけてへんいうんが現状やで。まだまだ、厳しい高齢化社会ちゅうもんは、続くんやて」
菜実は俯いたまま、赤くなった鼻を鳴らし、涙をこぼし始めた。
「今は村瀬さんも池ちゃんに夢中で、自分自身が将来どうなってくちゅうことが、考えられへんようになっとんと思うんよ。自分がこれから相手にかけることになる負担も、見えなくなっとんのや」
酷なことを言った後悔を若干滲ませた紅美子は、ふっと短い息を吐いて、正座を解いて立ち、小箪笥の上に、可愛いコスメ類や、母親が菜実のために買って娑婆に唯一残した魔法少女バトンと並んで、大切そうに額縁に入って置かれている、幼い菜実が父親に抱かれている写真をそっと手に取った。
「お父ちゃんと柏で会った、言うとったね。居場所は、まだはっきりとはしてんのやろ?」紅美子の問いかけに、菜実が、くすん、くすんと泣きながら、スローな頷きを返した。
「探すこと、出来るかもしれんよ」紅美子は、泣く菜実に優しい声を降らせた。菜実は泣く声を抑えて、紅美子を見上げた。発赤した顔は涙で濡れているが、その中に驚きと、小さな希望に期待する表情が浮かんでいた。
「多分、柏か、その近くにある法人やね。ちょっと、私のほうで調べてみるさかい、そこから始まるね。お父ちゃんも、きっと池ちゃんと暮らしたい思とるよ」紅美子が言うと、菜実の濡れた顔に明るみが挿した。
「池ちゃんのこと、幸せにしてくれる男の人の縁も、たくさんあるさかいな。それで村瀬さんが不幸になることはあらへんよ」そこへチャイムが鳴り、紅美子が振り返った。
「業者さんが来はったみたいや。じゃ、ゆっくり休んどってな‥」紅美子は残して部屋を出た。
階下から、お世話になっております、という高く愛想の良い男の声が響き、応対する紅美子の声が重なった。
CDラジカセから流れるmaybeの歌声は、遠いdistance、でも心はonlyfit‥という歌詞を泣くように唄っていた。
菜実は、掌で涙を拭い、ずっと洟を啜り込んだ。拙い思考の中に、紅美子によって提唱された未来が、わずかに像を結んだような気がしたが、村瀬とは、このまま別れてしまうのではなく、自分に出来るけじめをつけようと決めた。
求めるものの合致が、年齢、利害を越えて、駆け引きなしの愛を燃え上がらせた関係。それが、未語彙化の、菜実の中にある思いだった。
村瀬の元に早由美からの連絡が入ったのは、その日の十五時過ぎだった。ショートメールで、「谷津まで出てこれる?」とあり、村瀬は行けるという旨と、待ち合わせは改札でいいかと送ると、十六時半でお願いします、と返ってきた。
コーラを飲みながら漫画を読んでいる博人に「早くに帰れるから」と声をかけ、冷蔵庫の中のちらし寿司、それと鍋の味噌汁、先に食ってていいぞ、と言って、家を出たのが十五時半だった。印鑑など、明日の就労継続支援とグループホームの本契約に必要なものの準備は済んでいた。
灰色のビニール袋には、雨の予報が出ているため、折り畳み傘と、あの裏表紙の切り抜きを入れた。
谷津駅の改札で待っていた早由美は、今日は白のセーターにマフラー、サテン地のタック付きスカート、リセ風の靴という姿で、髪を後ろでまとめていた。今日の昼ほど貧しさの演出はないが、いつもの華美さは抑えたセンスだった。早由美が「見て」と言って見せた、髪をまとめるスカーレットのリボンに、村瀬は見覚えがあった。それは、村瀬が万年筆のお返しにプレゼントしたリボンだった。
「まだ持ってたんだ」「うん。ずっと大切にしてたよ」早由美は答えて笑んだ。その顔は、昔の妹分に帰ったものだった。村瀬の心にも、甘くて酸い、幼く若い昔が蘇ってきた思いが、涌いた。この一ヶ月の間に欲望だけを互いの肉体に抉り込んだこと、今日の昼、薄々とは分かる気がしていた実情をはっきりと見たこと、それにこれから自分が行おうとしていることが、甘美な昔の風に吹かれ、ぱらぱらと散っていくように感じた。
「私の家、来て」早由美は言うと、村瀬の腕を自分の腕に取り、彼を北口へと誘導した。今日の早由美からはコロンの香りはせず、ナチュラルな髪と肌が薫っており、それが昔をより思い出させた。
296号沿いの住宅地に「県営 ならしの荘」はあった。クリーム色の外壁をした、平屋根の二階建てで、部屋数は階ごとに八戸だった。二階、階段側から三番目が、早由美の部屋で、「こしば」とピンクのカラーモルタルで借主名が形取られた木製の札が掛かっていた。
「どうぞ」と促されて上がった部屋は、隅々まで整頓された八畳と、奥にもう一つ部屋があり、閉まった扉の向こうから、男性アイドルグループの曲がボリュームを落として流れていた。悠梨がいるようだ。村瀬は眉をしかめた顔で、その部屋のほうを見た。
キャスターの上に置かれている何点かのブランド物のバッグが、部屋に似合っていない。
「ちょっと飲んでから、いつもみたいに楽しもうよ」早由美は小さなリビングで三十年前の顔と声で言い、冷蔵庫から、発泡酒の350l缶を二つ、ゲームセンターのキャッチャーのような手つきで掴んで出し、テーブルに置いた。
部屋に閉じ込めた娘を無視して情交を結ぼうということだが、早由美がその娘に何を強いているかが分かっている今は、娘がいるのにか、という問いを投げることは意味をなさない。
村瀬は無言でビニール袋から雑誌の裏表紙をそろりと出し、テーブルに載せた。早由美はプルタブを開け、発泡酒を飲み始めていた。
「これを見てくれ。君に覚えがないはずのないものだ」村瀬が言うと、早由美は缶を片手に椅子にもたれた体を反転させて、村瀬が「東京都の亀山」なる人間として大写しの顔写真で紹介されている裏表紙に目をやり、開き直った顔で、また酒を呷った。
その顔に、悪びれの色は全くなかった。
「これは二日の夜に、君が俺に許可なく勝手に撮った写真だよな」村瀬の問い質しを無視するように、早由美はテーブル上のメンソールを取り、火を点けた。
「これだけじゃない。俺と君が会うようになってしばらくしてから、わけの分からないスパムメールが、多い時で一日二百通余りも送られてくるようになったんだ。それで今日、子どもポルノの写真が何通も来て、その中に、まぎれもない悠梨ちゃんのものがあった。昨日、見せたやつだ」
早由美は、ふん、と笑った。
「君が貴金属商の仕事をしてるなんてことも、真っ赤な嘘だ。海外まで飛び回る仕事をしてる人間が、どうしてこんな月四万程度の家賃で住める県営住宅に住んでるんだ。市役所の生活支援課へ友人の代理とかで行くのに、どうしてわざわざあんな安物を着て行く必要があるんだ。つまり君は、他人の個人情報や、障害児である娘に売春させて、そのポルノ映像や画像を違法業者に売って、生活保護を不正受給して派手な生活をしてるんだ。認めるよな」村瀬は早由美の態度によって心に起こった怒りの感情を抑えながら、問い詰めた。その時、早由美の口が、いかにも擦れた女のそれのような形に開いた。
「勝手だよ」「勝手? 自分の勝手?」村瀬の目が呆れて見開かれた。
「そうだったら、それが何だって言うの? 毎月決まったサラリーと、賞与までもらってるあんたに、私達の立場が見透かすように分かるっていうの?」早由美は手に缶を提げて、村瀬に顔を詰めた。反駁の目と声だった。目には怒りと、自分を囲んできたものへの憎しみの炎が燃えていた。村瀬は、つい三ヶ月前の恵梨香の目を思い出した。
「杓子定規に無違反の暮らしをしてたって、間尺に合わないことだってあるのよ」「それが俺の個人情報を売って、娘の体を汚い奴らに売り渡して、汚い金を受け取ってることの弁解のつもりか」村瀬は一歩も退かずに言葉を刺した。
村瀬から圧視される早由美の目から徐々に怒りが引き、代わって悲しみの光がその目に宿り始めた。
早由美は煙草と缶を持ったまま、項を落としていたが、やがて、娘の部屋のほうへ顔を向けた。
娘の名前が、間をおいて二回呼ばれた。高圧的な語勢だった。数秒して、襖が開き、黒のスリップ一枚の姿をした悠梨が出てきて、とことこと歩いてやってきた。その顔は、晦日に初めて会った時、また、ポルノ画像の一枚と同じように、泣いているものだった。彼女の心が叫んでいることを、村瀬は痛いほど察し取った。
「お願い。見逃して。これ、抱かせてあげるから」早由美はしれっとした口調で言い、煙草を持つ手で、隣で顔と両手を悲しげに垂らして立っているだけの悠梨を指し、彼女の肩紐を一本づつ外した。
スリップが足許に落ち、悠梨が乳房と陰毛を露わにした全裸になった。その姿と早由美の顔を交互に見た村瀬は、また怒りを覚えた。
それはこの女から、娘を買春してその体を玩弄する者達、また、そのポルノ画像、映像を観て、利き手の行為に耽る者達と同列の人間と見なされていると分かったことによる怒りだった。
村瀬の頭に、自分の右掌が早由美の頬に打ち下ろされる場面がよぎった。想像の中で、村瀬は早由美をすでに殴っていた。だが、それはしまいと決めた。
「いつからこうなっちゃったんだろうな」アイドルグループのダンスチューンが音量小さく流れる、モルタルと板の壁に囲まれた八畳に、村瀬の絶息するような声が悲しく響いた。
「俺の知ってる早由美ちゃんは、頭が良くて、清潔感があって、お母さん思いの心の優しい女の子だった。あの万年筆も、多分、貯めたお小遣いから出して、俺にプレゼントしてくれたんだよね。それで俺も、誕生日に、君が今着けてるリボンをプレゼントした。本当に可愛かったよ、あの頃の君は。それがいつから、こんなことを平然と出来るような人間になっちゃったんだ。いつから、昔に親しくしてた相手まで裏切るような人になったんだ。俺には理解出来ないんだ。子供を亡くしたことは確かに悲しいはずだ。だけど、それでどうして、同じ自分の子供に親の心をなくして、人としてここまで惨いことを強いることが出来るようになったのかが、結びつかないんだ」村瀬は早由美の心に訴えかけるように、優しい口調を崩すことなく、自分の偽らざる気持ちを述べた。
「もしも私がやってることが惨いことだって言うんだったら、私の身に起こった惨い出来事のことも分かってほしいの」早由美の声が、重く、暗く沈んだ。その声には、迫力が湛えられていた。
「あの時の万年筆のプレゼントは、私の思いだったんだ。そのお返しに豊文君も、私にこのリボン、くれたよね。だけどそれからも、あなたは私にあれ以上の距離を詰めようとしなかった。私は、距離を置かれてるって感じてた。それが悔しくて、歯痒かった。私は小さい時から豊文君に決めてたのも同じだったんだ。だから、中学から高校にかけて、男子から告白されても、みんな断ってたの。そういう人達に対するけじめをつけるためにも、あなたに告白しようって思い立ったんだ。何度もプレゼンを繰り返して、これで行こうって決めてた矢先だった。私がレイプされたのは‥」村瀬は身を乗り出した。二人の女と一人の男が向かい合う八畳が、ぴしっと音を立てて緊張が張ったように思えた。
「話して知ってるかもしれないけど、私が通ってた学習塾は、新京成沿いの鬱蒼とした地域にあったの。授業が終わって、駅まで歩いてる途中、後ろから暴走族っぽい排気音の車が来て、降りてきたチンピラに口、押さえられて、体を担がれて、車に押し込まれたの。それで、畑の丘の上にある、廃屋の家に連れ込まれて輪姦されたの」
村瀬の咽喉が笛のような音を立て、腹膜が蠕動を始めた。お互いの結婚などの事情で遠く離れ、時折思い出していた相手の、自分が知り得なかった話を聞かされた、絶望の色を帯びた衝撃に打ちのめされる思いがしていた。
「私が家族に話したことで警察が動いてくれて、そいつらは逮捕されたの。被害者は私だけじゃなかったのよ。そいつらは、茨木から千葉で、一人歩きの女の子を狙ってレイプと強盗を繰り返してた、無職の男達だったんだ。その男達は捕まった。私も病院で洗浄の手当てを受けた。だけど、私の心の傷は、高校を休学しなくちゃならなくなるまでに深いものだったんだ。私はお母さんに、私がレイプされたことを言わないように口止めしたの。体を汚された私に、豊文君が興味を失くすことが怖かったのよ。それでも私はあなたのことを思って、慕い続けてたのよ。あなたと結ばれることで、汚れた体が綺麗に洗われて、心に負った傷も自然に消えていくものって、私は考えてたからね。だけど、あなたは、あの外見だけが綺麗な人を選んで、結婚した。私を置き去りにして」
悠梨が座り込み、黒スリップで体の全面を隠し、深く俯いた。
村瀬は思いを堂々巡りさせずにはいられなかった。その時、それを早由美からそれを告げられたところで、自分に何が出来ただろうか。早由美への憐みから、その男達に怒りと憤りを感じても、あの頃の自分が、凶暴なチンピラ達相手に敵討ちが出来たとは思えない。
あの頃、周りの友達などとのやり取りの中で感じた無力感、街中で不良やチンピラを見かけるたびに首をすくめていた時の気持ちを、つぶさに思い出していた。もっとも、あのハロウィン前からの四ヶ月で、「やらなくてはいけない」「守らなくてはいけない」場面に否応なしに立たされたことで、男としての自信を獲得していったことだけは言える。そうでなければ、居直る早由美を質すことすらも出来なかったことだろう。カフェレストランでの美咲の恫喝にさえすくみ上がり、あの知的障害者の女性を助けることも出来なかったわけだから。
そんな自分のどこに、幼い、若い早由美は惹かれていたのだろうと考えると、それは自分が彼女にとり、優しい兄としての立ち位置だったからだろうと思われる。それが恋心の慕いに変わっていったのだ。この人と歩んでいくなら間違いない、と、早由美は思っていた。だが、村瀬にとっては、早由美はあまりに壊れやすく、かげろうのように儚い存在だった。その思いが、あれ以上、ディスタンスを詰めることをためらわせていたのだ。
「それから私は、私なりに捕まえる男を練った。それで、東京で開かれたミートパーティに参加して、富山の開業医の歯科医に当たりをつけて、結婚したのよ。それであっちへ渡って、歯科技工士の資格取って、その主人の歯科医院で働いて、その間に、子供が二人出来たの」村瀬の目が、黒スリップで体を隠してうずくまっている悠梨に向いた。
「だけど、下の子は死んだ。二歳、話したけど、乳幼児突然死症候群。夜中に呼吸が止まって、死んでるのが朝に分かったの。私は夫の親、兄弟から、責任を問われて責められて、それで離婚になったの。千葉では、母がもう末期で、父は病院に泊まり込んでた。それから母が死んで、父も肺をこじらせて亡くなった。離婚の慰謝料は取れなかった。夫の兄が弁護士だったから。両親の死亡保険金は、親類筋にみんな持ってかれて、わずかな額しか私達の元に残らなかったの。それから、私は働く意欲を失った。それで精神科で、心的外傷後ストレス障害と鬱の診断書を書いてもらったら、あっさりと生活保護の申請が通ったのよ」早由美は顔を落とした。
「それがどうして、こんな親としても、人としても道に外れたことをやって、不正受給までしなくちゃならなくなったんだ」「私には、もう何もないの!」村瀬に問われた早由美は、両手に握った拳を振り上げて叫んだ。目からは涙が溢れ出している。
「私は、一心にあなたのことを思って、慕ってた! レイプされた苦しみも、あなたがいれば乗り越えられると思ってた! それが糠に刺す釘になった時の私の気持ちが、あなたに想像出来る⁉ その上、子供も亡くして、頼れる人も周りにいない! 障害のある娘を抱えて、毎日が苦労ばかり、それが自分が死ぬ時まで続くんだよ! やってられないよ、お酒と男でもなきゃ!」早由美は涙を振り撒きながら、両拳を振り回し、やがて、テーブルに上体を臥した。
「俺の知ってる人で、一歳半の女の子を事故で亡くした人がいる。その人は今、悲しみを乗り越えて、立派にやってるよ」背中を震わせ、泣き呻く早由美に、村瀬は打ち明けた。
「早由美ちゃん‥」村瀬は波打つ早由美の背中に手を添えた。
「ここまでのことを聞いた以上は、俺は君の立場を察するしかない。だけど君は、悲しみとトラウマに負けちゃったんだ。悲しみが大きすぎて、それに人間不信が加わって、心が折れてしまったんだ。確かに、今の君は、親としても人間としても最低だ。だから、今、ここで必要なことは、引き返しだ」村瀬の言葉に、早由美が涙にまみれた顔を上げた。
「これは、君が愛してくれた俺からのお願いだ。悠梨ちゃんは、こんな酷い親になってしまった君のことを、恨みもしないで親として慕ってるはずだ。その悠梨ちゃんのために、もう一度、親をやり直せ。今、それをやって、ぎりぎり間に合うか間に合わないかの所に、今の君はいるんだ。悠梨ちゃんの画像は、もう拡散されてる。そこから足がついて、親の君に逮捕の手が及ぶかもしれない。娘に体を売らせること、それによる不正受給をすぐにやめれば、君達母娘は、こんな世界から早くに引き返すことが出来るかもしれない。罪を償うことにはなるにせよ」
村瀬はテーブルの裏表紙を、持参の袋に収めた。
早由美はテーブルに伏して泣き続けている。悠梨はスリップで体を隠して座り込んだままだった。
彼女は、知的ハンデも持つ自閉系の発達障害で間違いないだろう。だが、忌むべきことに、母親によって福祉的支援から遠ざけられている。その目から視えているものは、以前の菜実同様、暗く凍てついた、悲しみと苦しみだけがある世界だろう。
「今日、ここに来るまで、俺は通報しようと考えてた。だけど、今回はしない。それは、まだ親としての良心が君に残ってることを信じたいからだ」村瀬はドアのほうへ踵を返した。
「さようなら。君とはもう二度と会わない」
言った村瀬は、ドアへ向かった。早由美が追ってすがってくることはなかった。ドア前でもう一度振り向くと、テーブルに肘を着き、体を震わせて啼泣する早由美と、裸の肩と腰を出して座ったままの悠梨が、悲しい絵になって村瀬の網膜に映った。テーブルの二本の酒缶も、悲しくその残った姿を部屋の風景に溶け込ませていた。
谷津五丁目の路地に出た時、これから強くなる勢いの雨が粒大きく、路面に染みを作り始めていた。
思い出が終焉したことの寂しさは、さほどは感じていなかった。それは今回の幕引きが、諸行の無常、または無情に基づいた能捨に過ぎないと、今の村瀬は認識していた。
強まった雨足が、村瀬の髪と肩を濡らし始めた。村瀬は袋から折り畳み傘を出し、袖を濡らされながら差した。
雨はたちまち、習志野の路面に、所々、小さな川を形取らせた。
流れることなく溜まった水は腐敗する。思い出の憧憬ばかりを追い、過去に住む者は、過去に居つきながら老いていく。
その心に思い出を残した二人の女との関係は、もう、過ぎた時空間の中にしかない。
傘を差しながら谷津駅近くのコンビニ前まで来た村瀬は、ボディバッグから煙草を出した。買ってからまだ何本かしか吸っていないため、だいぶ中身の残るそれを、ダストボックスに投げ入れた。昨日までの意味のない甘えを捨てたつもりだった。
汗を流そう。鍛え直そう。雨粒が降る空を仰いで見上げながら、村瀬は決心した。
「ここに来るようになってから、家でも笑うことが多くなって」利用者と、子供達が引き上げた「グっちゃんのお庭」で、樹里亜の養母はしみじみと述べた。
「それでもまだ、本当の親を恋しいって思う気持ちは、心の中にはあるんじゃないかと思うと、児相の判断は本当に正しかったのかな、って思っちゃうこともあって、それで私も引け目を感じてる部分はあるんですよ」「田中さん」義毅は養母に呼びかけた。
「田中さんと樹里亜ちゃんを繋いだ縁は、あの子の本当の親が、親の機能ってもんを当たり前に持ってなかったってことにあるじゃないすか。生みの親、育ての親、出会った順番は関係ねえ、自分をたまたまこの世に出した人間だって、その人間から思ってもらってなきゃ何の意味もないんす。けど、自分を産んだわけじゃない人間だって、その人間から思ってもらえりゃ、それが本当の親と同意義の存在になるわけっすよ。田中さんは、ご主人ともども、自分達はこの子を育てられるんだ、と思ったから、樹里亜ちゃんを引き取って縁組みしたわけじゃないすか。もっともっと、自信をお持ちになっていいはずっすよ」「そうですかね」「そうすよ」義毅が言うと、四十代の養母は遠くを見つめる目をした。
「たまたまぽんと生まれたことには、さほどの意味はないんす。大切なことは、いかにして育って、人間として成っていくかってことなんで」社屋の前で傘を差した養母に、義毅は述べたが、その顔には自嘲のような笑いが浮いている。いかにも、柄違いの言葉が出てしまったという感じの失笑に見えた。
「村瀬さんは、以前はどんなお仕事を‥」養母は訊いた。
「これの前にやってたのは自営です。それより前は、落着性がねえから、いろいろと。サ店の厨房兼ホールだったり、板前の見習いだったり、香具師まがいのこともやりましたよ」「この事業所を、ご自分で興した動機は」「時代に即した事業だからっすよ」「時代‥」養母が考え込む顔をした。
頭を下げて帰っていく新菜の母であり樹里亜の養母である女を見送った義毅は、オフィスデスクの携帯が鳴っているのを見、取った。兄からだった。
「昔と今に線を引いたよ。金曜の件だ」「そうか。詳しくは訊かねえよ。堅物のトヨニイなら、おおかた、昔の女絡みってとこか」通話口越しに、兄が頷いた気配が伝わってきた。
「その前の女はどうしたんだ」「別れを告げられた。でも、まだ思うというか、案じる気持ちはある」兄の口調はしっかりとしていた。
「良くも悪くも、変わっちまうもんだからな、人は。男も女もさ。それで、これからはどうすんだ。他に再婚でもするような相手のあてはあんのか」「なくはない‥」「そうか。次はしっかりやれや」
通話を終了した義毅は、出入口のほうを見た。
「何時間突っ立ってても、同じだ。俺の気持ちは、先月話したのと変わりやしねえよ」義毅が出入口に言葉を投げると、フードを被った松前がよろりと現れた。外の雨足は強みを増している。
「戻れっつう話以外だったら聞いてやる。来いよ」義毅に言葉をかけられた松前は、踏みしめるような足取りで、デスクの前に歩み出た。
「荒さんじゃない、もう村瀬さんでしたね。念のため、話しときたいことがあって、今日は来ました」「お前らの話には乗らねえよ」「あいつらが、人身転がしのゴト、始めたんすよ」松前の報告を受けた義毅の目の色が、微妙に変わった。
「表向きは、ウエディングの仲介サービスって体です。けど、実態は、結婚の願望が強い、囲い込んでる女達を、地方で第一、第二産業を営んでる家の、嫁の来手がない息子たちに、その親から金を取って嫁にするってゴトです。双方の親が合意すりゃ、法律上まっとうな結婚になりますからね。でも、娘に願望が強いことをよく分かってて、嫁に行かせたい女達の親からすりゃ、協力料って金も発生するし、文句を言う余地もないわけです。買う側は、払ったところで痛みはねえ金で、出しゃばらない従順な嫁を買えるわけだから、奴らには一石二鳥の儲け口ですよ。それでいて、システム自体には違法性がないから、まっとうな収入源になる」
松前の言わんとしていることは、説明なしでも分かる。つまり、売られた女達の身柄を強奪し、救出したという名目で、女の親からいくかばくかの金を取る仕事だ。
「手伝ってくれないすかね」「断る。俺は来年の六月に生まれてくるてめえのガキを、親父の顔も知らねえ子供にするわけにはいかねえもんでな」「そうですか‥」義毅の拒絶を受けた松前は、体を街並のほうへ反転させた。
「慈善の要素含んでっから、今の荒さんにもそんなにハードルないと思ったんですけど、駄目すか。それに今、組織も内紛で割れてて、もう一丸じゃねえから、だいぶやりやすいと思ったんすけど」「駄目だ」「そうですか。分かりました。でも、一応教えときますよ」松前の顔が改まった。義毅が身構える顔と体恰好になった。
「これは俺の勘も入ってることすから、はっきりとした確証は持てないんすけど、三山の女ってのが、これから利益をもたらす、って話をしてるそうです。ただ、今日明日って話じゃないらしいすけどね。けど、何だか俺の頭ん中で、前に荒さんと情報共有した女と被っちまって」「もっと詳しい話は入ってきてねえのか」「今んところは、それぐらいしか」外の空間に光が瞬き、落雷の音が空気を震わせた。
「まあ、今日は元締の命令とか関係なく、個人的に来たもんで、要請っていうよりは声かけです。こういう動きが向こうの組織ん中で起こってるってことを知らせておきたかったんです。そのついでに、よけりゃって話をしただけなんで、気にしないで下さい。じゃ、俺はこれでお暇します。後片付けとかあると思いますから‥」松前は軽く頭を下げ、街のほうへ歩き出した。
「日中は来んな。利用者はともかく、子供の保護者の目には触れてほしくねえから」義毅は松前の背中に言葉を送った。松前は頷いて、雨の降りしきる屋外へ姿を消した。
義毅は、「二井原さん」が寄贈した、10号サイズの蝶と少女の絵を睨みながら、煙草を一本抜いて点火し、腹腔に溜めた息に交えて煙を吐いた。
どうにも落着させ難い思いが、胸に渦巻いていた。今となっては関係ねえ、という思いが湧いては、良心とも何ともつかない気持ちにそれがさらわれる。
あの時期、俺があの女と会っていたのは、あの女が利用する施設を強請り、あの地下宗教団体に叩きをかけるための情報取りがその理由だった。池内菜実とは、ネタを取るための生きた情報源、それだけの女に過ぎなかった。
だが、菜実が兄の無垢なる恋人である、あるいはあったことを裏から掴んで知っている以上は、その兄が悲しみに沈むようなことはあってはいけない。
義毅は、椅子を立ち、蝶と少女の絵画に歩んで詰めた。絵の中の少女を見つめているうちに、気持ちに傾きが出た思いになった。
名前の漢字表記が判明した樹里亜は、新菜に連れられて足しげく来ているが、初めの頃には固かった面持ちに、柔和さが出はじめている。クリームソーダをふるまった日に深く顔に刻まれていた、怯えと不安の色も、もうない。彼女は今、地元の保育園に通っているのだ。
今日は、利用者達と、やってきた四人の子供達とで、かるた大会を行っている。そのかるたは、子供に分かりやすい現代語訳の百人一首だった。
両手にピースサインをして、腰をくねらせてツイストを踊る小野小町のイラストが描かれた札を取った樹里亜の顔に、笑みが満ちた。
それを見た義毅は、自分の兄がいかにちゃんと人間としての仕事を執り行ったかを改めて思い返した。
ダブルシービーには、ほんの五組ほどの利用者と保護者の親子が来ていた。菜実は、紅美子と一緒だった。
生活介護部室にはパイプ椅子が二列並べられ、菜実達が座っている。志田という男のスタッフは、話しあぐねの思いを呑んだ面持ちで、主に保護者に説明するようにして切り出した。
先々月の討論会の席で、不適切なものがスクリーンに映し出され、その反省から、当法人は活動自粛、一時閉所となりましたが、現在、施設長と副施設長の行方が分からず、連絡も通じなくなっている。そのため、期限を設けない休所となる見通しです。籍を残し、再開を待つことも、別の所へお移りになることも自由です。念のため、挨拶をさせていただきます。十年の間、ダブルシービーを利用いただき、ありがとうございました。
志田は言い、頭を下げたが、他の職員の方々はどうされたのでしょうか、という保護者からの質問に、大多数が、今回の件で離職いたしました、と答えた。それにより、文岡達が、部下、父兄の信頼を一挙に失ったらしいことが菜実にも分かった。
その思いを胸に締めて、菜実は手を挙げた。
池内さん、どうぞ、と言った志田に、菜実はぽっかりと口を開いた。
「吉内さんは?」「吉内は、お辞めになりました。皆さんに、元気でね、と伝えて下さいと言っていましたよ。挨拶らしい挨拶を出来ないで皆さんとお別れしなくちゃいけなくなったことを、とても残念がっていました」菜実の問いに答えた志田の述べは、語尾が消えるように言い括られた。
菜実は察した。叶恵の、いついかなる時も決してぶれない、信念の浮き出た凛の顔、態度。それはまさにこの終着点を目指したものであったことを。
ダブルシービーが、おおかたの確率で廃所となる運びを利用者目にも見せているこの一件には、叶恵が大きく関わっている。
就労継続支援部門を利用されていた方各位には、少し額は下回りますが、休業手当が振り込まれます、と閉められ、午後の時間を割いた三十分程度の説明会は終わった。
「池ちゃん、別んとこ、探そうな」宮本から三山へ向かう社用車の軽自動車の中で、助手席の菜実に、ハンドルを取る紅美子が呼びかけた。
「あんなまどろっこしい説明せんでも、保護者は分かっとるがな。テレビでも報道されとるさかい。な、池ちゃん」紅美子が吐き捨て、菜実は膝に手を重ね、フロントガラスの向こうに広がる御成街道の景色を寂しげに見ていた。
「元々、人を馬鹿にするたちの人間がやっとった所やで。あいつらに裏があることは、私には分かっとったわ。ああなったんも、当然の成り行きやで。な、池ちゃん。増渕さんに話して、明日からでも、他、探そな」運転に支障がない程度に助手席に顔を向けて入った紅美子の促しに、菜実は「はい‥」と答えた。
「あの年上の彼氏とは、上手く行っとんか?」紅美子の問いかけは、不意だった。菜実にとっては、疚しさを突かれる問いだった。
河合と会うために出る時には嘘をついていたこともある。だが、その河合との関係は、すでに自分から幕を引いている。
村瀬に対しては、恋しい思いを、後ろめたさが圧している。それでも、彼なら自分を赦してくれるかもしれないという思いもある。河合との関係を自力で解いた今、どうするべきかと、自分なりに考えている。
「恋路の馬やないけどな、私な、ちょっと思うことがあるねん」諭すように言った紅美子の横顔を、菜実は疑問の浮いた顔で見た。
「誠に申し訳ございませんでした」村瀬は、成田街道入口近くの「チャコ」の店主と夫人に深く頭を下げて、詫びた。開店に向けての仕込みを行っている最中の、店の中だった。カウンターには、持参した菓子折りの箱が置いてある。
「仕事を持っていて、子供もある身でありながら、大人として恥ずかしく、一時の感情を抑えられないで、お店と、お客様方に多大な迷惑をおかけしたことを、深くお詫び申し上げます。本当にすみませんでした」村瀬は、自分の額が膝に着くまでに腰を折っていた。
「まあ、頭をお上げになって下さいよ」店主が優しく言い、村瀬は顔を上げ、ゆっくりとお辞儀を解いた。
こんなことは、菜実は元より、博人にも恵梨香にも知られるわけにはいかないが、あの櫂端(かいはし)という聞き覚え確かな氏名の空手師範がいなければ、かけがえのない子供達や、職まで失いかねない社会的危機であり、吉富などと同類になる一歩手前だった。
「元々洋食のコックだった私が家内と一緒にここを始めたのは、もう五十年も前です。その間に、息子達も独立して、私らにはもう孫もいて、何だかこの半世紀が一瞬の花火みたいな感じがしてるんですよ。それはもう、いろいろなことがあって、いろいろなお客が出入りしたもんです。それこそ、こっちの人達がね」店主は頬に指を当て、一本の線をびっと引いた。
「店に来て、観葉植物の高額レンタルと、おしぼりの卸を迫られて、断って、もの凄い嫌がらせを受けたり、そういうのもかい潜ってるもんですからね。本当、いろいろな人を相手にしました。その中には、飲んで荒れるお客さんも、たくさんいました。そんな大トラのお客さん同士の喧嘩を収めたりね。今回のことなんて比じゃないことも、たくさんありましたから」「お察しいたします」「今回は、そちら様も、背負ってるものを背負いきれないで、非ぬ恰好で弾けちゃったっていうことですよね。そういう時に酒が入るとなおさらですよ。その辺りの理解は、私らは持ってますんで、どうぞご安心下さい」「ありがとうございます。改めて、本当にすみませんでした」村瀬はもう一度腰を折り、「あの婚約者同士で来ていた人達にも、お詫びを伝えていただけると幸です」と加えた。顔を上げると、店主は微笑しながら、小さく頷いていた。
「もしよろしければ、今度、息子さん辺りでもお連れになって、来て下さいよ。サービスしますから」店主の温かい言葉と声にまた頭を下げ、村瀬は「チャコ」を出た。
296沿いを歩いている間中、メール受信のバイブレーションが幾度となく鳴った。それがここのところ、多い時で一日百件超来るスパムであることは分かっている。
内容は、働かないで一日に十万円を稼げるメソッド、またはパチンコ、スロットの必勝スキルを知りたい方はここをクリック! あるいは文面を見る限りでは、明らかな闇バイトのようなもの、意味不明な漢字や記号が長々と打たれたものなどだった。発信元のアドレスをブロックしても別のアドレスから送られてくるといういたちごっこが、ここ二日ほどの間、繰り返されている。
早由美からの連絡は、最後に会った二十日前から全くない。村瀬は、あの時西船橋の鉄板焼き屋で、承諾もなく写真を撮られたことを思い出していた。
JR津田沼駅のコンコースでスマホを開いた。写真の添付された数通のメールが送られてきていたが、それは違法のチャイルドポルノだった。村瀬は人目につかない場所へ移動した。
中学生くらいに見える少女が男にフェラチオをしているもの、胸も陰毛もない少女がベッドに寝て、全裸の姿を晒しているもの、また、これも中学生程度に見える女の子が、全裸で畳の上に座り、指で性器を広げているものもあった。
その少女の顔に、村瀬は見覚えを感じた。それは早由美を少女にした顔だった。可愛いが、表情に暗い翳りが落ちていて、眼が泣いている女の子。
薄い陰毛の下の幼い膣孔を自分の指で開き、変態達の欲望にアピールする被写体になっているこの少女は、あの晦日の日にスタッフルームで裸寸前になった、早由美の娘、悠梨だ。
全てが分かった。この二日の間に起こっていることと、この写真を見たことで。
村瀬の肚が、静かに決まり始めた。
肚を決めた心境のまま、翌日が来た。その日はレジの人手が足りないため、村瀬はレジに貼りつく勤務になった。
午後、自分が担当するレジの列の最後尾に、義毅が並んでいるのが目に留まった。買い物籠を提げていないので、煙草だと分かる。勤務先は、すでに教えているために、義毅は知っている。
「23番、二つ」義毅はむっとしたような顔と声で注文した。革ジャンの脇には、光沢紙らしい、B5に見えるサイズの厚紙が挟まれている。
村瀬がケースから洋煙草を二箱出して置き、義毅はスマホ決済で支払いを済ませた。
「脇、甘えぞ」二箱の煙草を取った義毅は、言いばな、レジカウンターにその厚紙を置いた。
村瀬が呼び止める間もなく、義毅は自動ドアの向こうへ去った。
忙しさからそれを確認もせず、後ろの台に置いた村瀬は、接客の声かけをしながら業務を始めた。
休憩の声がかかり、村瀬は義毅から受け取った厚紙を持って、レジを離れた。バックヤードで確認したそれは、低俗な雑誌の裏表紙を切り取ったものだった。
間抜けな表情をした村瀬の顔が、大写しに載っていた。それは間違いなく、正月二日の夜に西船橋の鉄板焼き屋で、早由美が勝手に撮影した写真だった。
こんなキモいオヤジだけど、という黒文字の大見出しが躍り、かくしかじかという文が掲載されている。霊能者が入魂したという触れ込みの、「不幸を及ぼす悪霊を退散させ、幸運を呼び込む、人生を変えるブレスレット」の宣伝広告で、数珠のような形状をした商品の写真が載っていた。
貧乏な家に育ったために高校へ進学出来ず、中学を卒業してからずっと、清掃員の仕事をし、ゴキブリだらけの木造アパートに一人で住む孤独な人生が、藁にもすがる気持ちでこのブレスレットを買ったところ、180度変わりました! 何と、アメリカ大統領が定めたという「政府指定の終身的経済優遇者」なるものに予告もなく選ばれ、働くことなく毎月百万円ものお金が入ってくるようになったんです。それで今は、きつくて時給単価も安い清掃業も辞め、現在、都内の超高級ホテルの一室を買い取って住み、美人JDのセクフレを大人数ゲット、部屋の前に百人あまりのきれいどころが列をなして並び、私とのSEXに待ちぼうけしているありさまです。食事も、お茶漬けやインスタントラーメンばかりだったものが、今では朝からセクフレ同伴でホテルの高級モーニング、昼は赤坂の高級割烹で、高級懐石に金粉を振りかけた寿司、夜は極上ワインにステーキを楽しんでいます。そして毎晩のように夢みたいな3P、5Pです。このブレスレットには心から感謝しております! あなたも私と一緒に不労長者を目指しませんか⁈ と打たれ、名前は「東京都・亀山和男(仮名)・50歳」となっていた。
その下には、見るにうだつの上がらない、しけた面をした中年男の写真が二つ並び、「からかい半分で買ってみたら」で始まる、同様のことが書き連ねられていた。
若くて可愛い女の子と、あんなこと、こんなこととかだったら、つい去年まで間に合っていたよ。村瀬は心で暗く失笑した。
一夜、自分を最低のアルコールカスへ堕とした、メリットが何もない関係。その関係を綺麗に解いて、自分は、自分の行くべき道へ行こう。喪失の悲しみを越えて。
早由美本人も、娘も、何とかのしようを見つけなければならない。一般市民の義務に基づいて。
村瀬の肚は、一層決まったが、その時、これまで自分はという人間は、何人の人を助けたのだろうかという思いがよぎった。
金曜から日曜が過ぎ、月曜は、早朝の開店準備から昼までの半日休日出勤だった。退勤し、前原から新京成に乗り、昼食を摂るために京成津田沼で降り、タクシーロータリー前の交番前に出た時、駅から袖ヶ浦方面へ一人歩いていく女を目に留めた。緩いパーマのかかった背中までの髪を後ろで一本にまとめ、ディスカウント調達のような黒いヤッケ、同じく黒の綿のズボンに運動靴という恰好をし、サングラスをかけ、百均で売られているようなトートバッグを提げた女だった。
特徴的な輪郭、鼻、口、髪の感じ、身の丈、歩き方で、その女が早由美であることが分かった。
早由美は銀行とバス停の方向へ向かって歩いていく。彼女との距離が五十メーターほど離れてから、村瀬は、白々しく演出するかのような貧乏を身にまとった早由美を追い始めた。
早由美は銀行脇を左へ折れた。左に折れて、その先に何の省庁があるかは、無論、村瀬も知っている。和菓子店、信用金庫を過ぎ、信号を渡った早由美が、木枠の階段を昇っていく様子を、メーター越しに村瀬は捉えた。
勘が確信に変わった。
中二階の「生活支援課」のプレート札が下がるエリアに、村瀬は来た。奥のブースに座っている早由美の後ろ姿を見つけた。ケースワーカーの男が「医療券をお出しいたします」と言っているのが聞こえた。
ケースワーカーと話していた早由美は、十分ほどののち、頭を下げて席を立った。村瀬は後ろのソファに座り、それを見ていたが、早由美の立席と同時に腰を上げた。
「お待ちでしたらどうぞ」と、ネームプレートを提げた中年女の職員が声をかけてきたが、村瀬は「いえ、私は」と挙手して、早由美の背を追った。
名を呼んで早由美を呼び止めたのは、外の階段の前だった。
振り向いた早由美は、はっと息を呑み込んで、体を緊縮させた。
「こないだは、どうもね」平静を取り繕う声で言った早由美は、作為の笑みを浮かべた。
「入院してる友達の代理人になって、生活保護の医療券、取りに来たの」早由美は引き攣り露わな笑顔で言い、村瀬は、ただ真顔でじっと彼女の顔を見た。それから十五秒ほど経ったが、その間、村瀬は表情を動かさず、言葉も発しなかった。
「ごめんね。これからちょっと人と会わなきゃいけないから。また連絡するから、待っててね。じゃあ」早由美は手を振り、来た道をたどろうとした。
「待って」村瀬は早由美の背中に呼びかけた。
「これは悠梨ちゃんじゃないのか」村瀬がかざしたスマホのポルノ画像に、早由美の顔が恐れの色を帯びた。
「娘がこういうことをやってることを、君は知ってるのか。それとも、君がやらせてるのか」村瀬の問い質しに、早由美は恐れの顔のまま、足をバックステップさせた。
「ごめん、急ぐから」早由美は疚しげに言って、スマホから目を背け、階段を降り始めた。
「それだけじゃない。他にも話が‥」村瀬の声を無視した早由美の背中が遠ざかっていった。
村瀬は黒ヤッケの背中を、その姿が見えなくなるまで目で追った。その時、サイレンを鳴らしたパトカーが、千葉方面へと走り去っていった。それがこれからのことを象徴しているように村瀬には思えた。
村瀬の気持ちは、冷静に引き締まっていた。
弁当の昼食を終え、居室でmaybeを聴いていた菜実の所へ、エプロン姿の紅美子がとんとんとやってきた。
「池ちゃん、話、しよ」正座した紅美子が切り出し、菜実は小さく頷いた。
「あの村瀬さんっていう彼氏のことなんやけどな、これからっちゅうもんのこと、池ちゃんは、どんだけ真面目に考えとんかな、思てな」
決して詰問のものではないが、これだけは言わなくてはいけないという芯の通った言葉の気に、菜実は少し押されたようになった。
「怒っとんとちゃうから、そない固うならんで。ただな、私な、心配なんよ」「しんぱい?」「うん‥」
夜が明ける頃に帰りたい あなたの腕に‥ maybeが流暢な日本語で唄い上げる「ミルキーウェイ」が、CDラジカセから流れていた。
「池ちゃんは、あの人と、結婚してもいい、思とるん?」「はい」「それ、真面目な気持ちなん?」
紅美子に問われた菜実は、先日まで、誰にも打ち明けるべくもない男との関係を続けていたことの疚しさが疼く思いになった。
今、紅美子に問われていることについては、問いの中身はそのものだった。情けから河合と体の繋がりを持ってしまったが、その関係を自発的に終わらせたのは、自分のために命までも危険に晒し、自分を守ってくれた村瀬への思いからに他ならなかった。
それでもまだ、後ろめたい思いは抜けてはいない。顔に出たその思いを、紅美子は察知しているようだった。
「村瀬さんは、私が前、お参りやってた時、そのお参り、いいくないって言って、やめさせてくれた人なんだ」「お参りて、何か、宗教か?」菜実はテンポ遅れて頷いた。
「男の人と会うと、お金もらえるの。いっぱい会えば、会った分だけ、いっぱいくれるの。すみののりさんっていうんだ。それで私、村瀬さんと知り合ったんだ。村瀬さん、私にそれやめさせるのに、お怪我したの。私が叔母さんにお金送ってたのもやめるように言ってくれたから、私、勇気出して、叔母さんに自分で、お金、もう駄目って言ってきたの。叔母さん、怒ったけど、それからもう私に電話してこなくなったんだ。村瀬さん、私のすごい大切な人なんだ」「そうか。それは、そやろな」自分がまだ知らなかった話を聞いた紅美子は、事情の全てに理解を及ばせた表情になった。それは彼女自身も、幾多の過ちを喫しながら、道を探って生きてきた人生経験を持つからこそのはずだった。
「池ちゃんの気持ちは、私にはよう分かるで。でもな、真面目に考えんとあかんもんは、結果ちゅうもんやで。池ちゃんはまだ若いやないか。せやけど、あん人は、もう五十に手が届いてまう年齢やんか。六十なんて、瞬きするよりも早う来てまうもんなんよ。六十なったら、七十なんてあっちゅう間やて。池ちゃんが私ぐらいんなる頃、あん人は、もうお爺ちゃんになっとんよ。そんでな、介護が必要になっとんかもしれんのやで‥」紅美子の表情が真剣味を増した。
「私、お爺ちゃんになった村瀬さん、面倒見る」「それは口で言うほど生易しいもんやあらへんで、池ちゃん」菜実は返答に困った顔で俯いた。
「今の村瀬さんもそやけど、そん頃の池ちゃんは、まだ体の自由が利く年齢やないか。まだ、社会ん中で働いて稼いどると思うんよ。せやけどな、一緒の人に介護が必要になったら、どれだけのお金がかかる思う? 施設でお世話してもらうとしても、介護保険の何割自己負担とかも、安くはないねん。池ちゃん、将来、あん人んために、時間もお金もないよな、余裕のあらへん暮らし、送ることになるねんて。私は、これからの池ちゃんの人生が、そないなってほしゅうないんよ。確かに今の日本は、アメリカ、ヨーロッパ並みに保険が発達しとんよね。そん中には勿論、老後に備えるもんもあるよ。せやけど、施設に入るんに必要になる分までカバーでけてへんいうんが現状やで。まだまだ、厳しい高齢化社会ちゅうもんは、続くんやて」
菜実は俯いたまま、赤くなった鼻を鳴らし、涙をこぼし始めた。
「今は村瀬さんも池ちゃんに夢中で、自分自身が将来どうなってくちゅうことが、考えられへんようになっとんと思うんよ。自分がこれから相手にかけることになる負担も、見えなくなっとんのや」
酷なことを言った後悔を若干滲ませた紅美子は、ふっと短い息を吐いて、正座を解いて立ち、小箪笥の上に、可愛いコスメ類や、母親が菜実のために買って娑婆に唯一残した魔法少女バトンと並んで、大切そうに額縁に入って置かれている、幼い菜実が父親に抱かれている写真をそっと手に取った。
「お父ちゃんと柏で会った、言うとったね。居場所は、まだはっきりとはしてんのやろ?」紅美子の問いかけに、菜実が、くすん、くすんと泣きながら、スローな頷きを返した。
「探すこと、出来るかもしれんよ」紅美子は、泣く菜実に優しい声を降らせた。菜実は泣く声を抑えて、紅美子を見上げた。発赤した顔は涙で濡れているが、その中に驚きと、小さな希望に期待する表情が浮かんでいた。
「多分、柏か、その近くにある法人やね。ちょっと、私のほうで調べてみるさかい、そこから始まるね。お父ちゃんも、きっと池ちゃんと暮らしたい思とるよ」紅美子が言うと、菜実の濡れた顔に明るみが挿した。
「池ちゃんのこと、幸せにしてくれる男の人の縁も、たくさんあるさかいな。それで村瀬さんが不幸になることはあらへんよ」そこへチャイムが鳴り、紅美子が振り返った。
「業者さんが来はったみたいや。じゃ、ゆっくり休んどってな‥」紅美子は残して部屋を出た。
階下から、お世話になっております、という高く愛想の良い男の声が響き、応対する紅美子の声が重なった。
CDラジカセから流れるmaybeの歌声は、遠いdistance、でも心はonlyfit‥という歌詞を泣くように唄っていた。
菜実は、掌で涙を拭い、ずっと洟を啜り込んだ。拙い思考の中に、紅美子によって提唱された未来が、わずかに像を結んだような気がしたが、村瀬とは、このまま別れてしまうのではなく、自分に出来るけじめをつけようと決めた。
求めるものの合致が、年齢、利害を越えて、駆け引きなしの愛を燃え上がらせた関係。それが、未語彙化の、菜実の中にある思いだった。
村瀬の元に早由美からの連絡が入ったのは、その日の十五時過ぎだった。ショートメールで、「谷津まで出てこれる?」とあり、村瀬は行けるという旨と、待ち合わせは改札でいいかと送ると、十六時半でお願いします、と返ってきた。
コーラを飲みながら漫画を読んでいる博人に「早くに帰れるから」と声をかけ、冷蔵庫の中のちらし寿司、それと鍋の味噌汁、先に食ってていいぞ、と言って、家を出たのが十五時半だった。印鑑など、明日の就労継続支援とグループホームの本契約に必要なものの準備は済んでいた。
灰色のビニール袋には、雨の予報が出ているため、折り畳み傘と、あの裏表紙の切り抜きを入れた。
谷津駅の改札で待っていた早由美は、今日は白のセーターにマフラー、サテン地のタック付きスカート、リセ風の靴という姿で、髪を後ろでまとめていた。今日の昼ほど貧しさの演出はないが、いつもの華美さは抑えたセンスだった。早由美が「見て」と言って見せた、髪をまとめるスカーレットのリボンに、村瀬は見覚えがあった。それは、村瀬が万年筆のお返しにプレゼントしたリボンだった。
「まだ持ってたんだ」「うん。ずっと大切にしてたよ」早由美は答えて笑んだ。その顔は、昔の妹分に帰ったものだった。村瀬の心にも、甘くて酸い、幼く若い昔が蘇ってきた思いが、涌いた。この一ヶ月の間に欲望だけを互いの肉体に抉り込んだこと、今日の昼、薄々とは分かる気がしていた実情をはっきりと見たこと、それにこれから自分が行おうとしていることが、甘美な昔の風に吹かれ、ぱらぱらと散っていくように感じた。
「私の家、来て」早由美は言うと、村瀬の腕を自分の腕に取り、彼を北口へと誘導した。今日の早由美からはコロンの香りはせず、ナチュラルな髪と肌が薫っており、それが昔をより思い出させた。
296号沿いの住宅地に「県営 ならしの荘」はあった。クリーム色の外壁をした、平屋根の二階建てで、部屋数は階ごとに八戸だった。二階、階段側から三番目が、早由美の部屋で、「こしば」とピンクのカラーモルタルで借主名が形取られた木製の札が掛かっていた。
「どうぞ」と促されて上がった部屋は、隅々まで整頓された八畳と、奥にもう一つ部屋があり、閉まった扉の向こうから、男性アイドルグループの曲がボリュームを落として流れていた。悠梨がいるようだ。村瀬は眉をしかめた顔で、その部屋のほうを見た。
キャスターの上に置かれている何点かのブランド物のバッグが、部屋に似合っていない。
「ちょっと飲んでから、いつもみたいに楽しもうよ」早由美は小さなリビングで三十年前の顔と声で言い、冷蔵庫から、発泡酒の350l缶を二つ、ゲームセンターのキャッチャーのような手つきで掴んで出し、テーブルに置いた。
部屋に閉じ込めた娘を無視して情交を結ぼうということだが、早由美がその娘に何を強いているかが分かっている今は、娘がいるのにか、という問いを投げることは意味をなさない。
村瀬は無言でビニール袋から雑誌の裏表紙をそろりと出し、テーブルに載せた。早由美はプルタブを開け、発泡酒を飲み始めていた。
「これを見てくれ。君に覚えがないはずのないものだ」村瀬が言うと、早由美は缶を片手に椅子にもたれた体を反転させて、村瀬が「東京都の亀山」なる人間として大写しの顔写真で紹介されている裏表紙に目をやり、開き直った顔で、また酒を呷った。
その顔に、悪びれの色は全くなかった。
「これは二日の夜に、君が俺に許可なく勝手に撮った写真だよな」村瀬の問い質しを無視するように、早由美はテーブル上のメンソールを取り、火を点けた。
「これだけじゃない。俺と君が会うようになってしばらくしてから、わけの分からないスパムメールが、多い時で一日二百通余りも送られてくるようになったんだ。それで今日、子どもポルノの写真が何通も来て、その中に、まぎれもない悠梨ちゃんのものがあった。昨日、見せたやつだ」
早由美は、ふん、と笑った。
「君が貴金属商の仕事をしてるなんてことも、真っ赤な嘘だ。海外まで飛び回る仕事をしてる人間が、どうしてこんな月四万程度の家賃で住める県営住宅に住んでるんだ。市役所の生活支援課へ友人の代理とかで行くのに、どうしてわざわざあんな安物を着て行く必要があるんだ。つまり君は、他人の個人情報や、障害児である娘に売春させて、そのポルノ映像や画像を違法業者に売って、生活保護を不正受給して派手な生活をしてるんだ。認めるよな」村瀬は早由美の態度によって心に起こった怒りの感情を抑えながら、問い詰めた。その時、早由美の口が、いかにも擦れた女のそれのような形に開いた。
「勝手だよ」「勝手? 自分の勝手?」村瀬の目が呆れて見開かれた。
「そうだったら、それが何だって言うの? 毎月決まったサラリーと、賞与までもらってるあんたに、私達の立場が見透かすように分かるっていうの?」早由美は手に缶を提げて、村瀬に顔を詰めた。反駁の目と声だった。目には怒りと、自分を囲んできたものへの憎しみの炎が燃えていた。村瀬は、つい三ヶ月前の恵梨香の目を思い出した。
「杓子定規に無違反の暮らしをしてたって、間尺に合わないことだってあるのよ」「それが俺の個人情報を売って、娘の体を汚い奴らに売り渡して、汚い金を受け取ってることの弁解のつもりか」村瀬は一歩も退かずに言葉を刺した。
村瀬から圧視される早由美の目から徐々に怒りが引き、代わって悲しみの光がその目に宿り始めた。
早由美は煙草と缶を持ったまま、項を落としていたが、やがて、娘の部屋のほうへ顔を向けた。
娘の名前が、間をおいて二回呼ばれた。高圧的な語勢だった。数秒して、襖が開き、黒のスリップ一枚の姿をした悠梨が出てきて、とことこと歩いてやってきた。その顔は、晦日に初めて会った時、また、ポルノ画像の一枚と同じように、泣いているものだった。彼女の心が叫んでいることを、村瀬は痛いほど察し取った。
「お願い。見逃して。これ、抱かせてあげるから」早由美はしれっとした口調で言い、煙草を持つ手で、隣で顔と両手を悲しげに垂らして立っているだけの悠梨を指し、彼女の肩紐を一本づつ外した。
スリップが足許に落ち、悠梨が乳房と陰毛を露わにした全裸になった。その姿と早由美の顔を交互に見た村瀬は、また怒りを覚えた。
それはこの女から、娘を買春してその体を玩弄する者達、また、そのポルノ画像、映像を観て、利き手の行為に耽る者達と同列の人間と見なされていると分かったことによる怒りだった。
村瀬の頭に、自分の右掌が早由美の頬に打ち下ろされる場面がよぎった。想像の中で、村瀬は早由美をすでに殴っていた。だが、それはしまいと決めた。
「いつからこうなっちゃったんだろうな」アイドルグループのダンスチューンが音量小さく流れる、モルタルと板の壁に囲まれた八畳に、村瀬の絶息するような声が悲しく響いた。
「俺の知ってる早由美ちゃんは、頭が良くて、清潔感があって、お母さん思いの心の優しい女の子だった。あの万年筆も、多分、貯めたお小遣いから出して、俺にプレゼントしてくれたんだよね。それで俺も、誕生日に、君が今着けてるリボンをプレゼントした。本当に可愛かったよ、あの頃の君は。それがいつから、こんなことを平然と出来るような人間になっちゃったんだ。いつから、昔に親しくしてた相手まで裏切るような人になったんだ。俺には理解出来ないんだ。子供を亡くしたことは確かに悲しいはずだ。だけど、それでどうして、同じ自分の子供に親の心をなくして、人としてここまで惨いことを強いることが出来るようになったのかが、結びつかないんだ」村瀬は早由美の心に訴えかけるように、優しい口調を崩すことなく、自分の偽らざる気持ちを述べた。
「もしも私がやってることが惨いことだって言うんだったら、私の身に起こった惨い出来事のことも分かってほしいの」早由美の声が、重く、暗く沈んだ。その声には、迫力が湛えられていた。
「あの時の万年筆のプレゼントは、私の思いだったんだ。そのお返しに豊文君も、私にこのリボン、くれたよね。だけどそれからも、あなたは私にあれ以上の距離を詰めようとしなかった。私は、距離を置かれてるって感じてた。それが悔しくて、歯痒かった。私は小さい時から豊文君に決めてたのも同じだったんだ。だから、中学から高校にかけて、男子から告白されても、みんな断ってたの。そういう人達に対するけじめをつけるためにも、あなたに告白しようって思い立ったんだ。何度もプレゼンを繰り返して、これで行こうって決めてた矢先だった。私がレイプされたのは‥」村瀬は身を乗り出した。二人の女と一人の男が向かい合う八畳が、ぴしっと音を立てて緊張が張ったように思えた。
「話して知ってるかもしれないけど、私が通ってた学習塾は、新京成沿いの鬱蒼とした地域にあったの。授業が終わって、駅まで歩いてる途中、後ろから暴走族っぽい排気音の車が来て、降りてきたチンピラに口、押さえられて、体を担がれて、車に押し込まれたの。それで、畑の丘の上にある、廃屋の家に連れ込まれて輪姦されたの」
村瀬の咽喉が笛のような音を立て、腹膜が蠕動を始めた。お互いの結婚などの事情で遠く離れ、時折思い出していた相手の、自分が知り得なかった話を聞かされた、絶望の色を帯びた衝撃に打ちのめされる思いがしていた。
「私が家族に話したことで警察が動いてくれて、そいつらは逮捕されたの。被害者は私だけじゃなかったのよ。そいつらは、茨木から千葉で、一人歩きの女の子を狙ってレイプと強盗を繰り返してた、無職の男達だったんだ。その男達は捕まった。私も病院で洗浄の手当てを受けた。だけど、私の心の傷は、高校を休学しなくちゃならなくなるまでに深いものだったんだ。私はお母さんに、私がレイプされたことを言わないように口止めしたの。体を汚された私に、豊文君が興味を失くすことが怖かったのよ。それでも私はあなたのことを思って、慕い続けてたのよ。あなたと結ばれることで、汚れた体が綺麗に洗われて、心に負った傷も自然に消えていくものって、私は考えてたからね。だけど、あなたは、あの外見だけが綺麗な人を選んで、結婚した。私を置き去りにして」
悠梨が座り込み、黒スリップで体の全面を隠し、深く俯いた。
村瀬は思いを堂々巡りさせずにはいられなかった。その時、それを早由美からそれを告げられたところで、自分に何が出来ただろうか。早由美への憐みから、その男達に怒りと憤りを感じても、あの頃の自分が、凶暴なチンピラ達相手に敵討ちが出来たとは思えない。
あの頃、周りの友達などとのやり取りの中で感じた無力感、街中で不良やチンピラを見かけるたびに首をすくめていた時の気持ちを、つぶさに思い出していた。もっとも、あのハロウィン前からの四ヶ月で、「やらなくてはいけない」「守らなくてはいけない」場面に否応なしに立たされたことで、男としての自信を獲得していったことだけは言える。そうでなければ、居直る早由美を質すことすらも出来なかったことだろう。カフェレストランでの美咲の恫喝にさえすくみ上がり、あの知的障害者の女性を助けることも出来なかったわけだから。
そんな自分のどこに、幼い、若い早由美は惹かれていたのだろうと考えると、それは自分が彼女にとり、優しい兄としての立ち位置だったからだろうと思われる。それが恋心の慕いに変わっていったのだ。この人と歩んでいくなら間違いない、と、早由美は思っていた。だが、村瀬にとっては、早由美はあまりに壊れやすく、かげろうのように儚い存在だった。その思いが、あれ以上、ディスタンスを詰めることをためらわせていたのだ。
「それから私は、私なりに捕まえる男を練った。それで、東京で開かれたミートパーティに参加して、富山の開業医の歯科医に当たりをつけて、結婚したのよ。それであっちへ渡って、歯科技工士の資格取って、その主人の歯科医院で働いて、その間に、子供が二人出来たの」村瀬の目が、黒スリップで体を隠してうずくまっている悠梨に向いた。
「だけど、下の子は死んだ。二歳、話したけど、乳幼児突然死症候群。夜中に呼吸が止まって、死んでるのが朝に分かったの。私は夫の親、兄弟から、責任を問われて責められて、それで離婚になったの。千葉では、母がもう末期で、父は病院に泊まり込んでた。それから母が死んで、父も肺をこじらせて亡くなった。離婚の慰謝料は取れなかった。夫の兄が弁護士だったから。両親の死亡保険金は、親類筋にみんな持ってかれて、わずかな額しか私達の元に残らなかったの。それから、私は働く意欲を失った。それで精神科で、心的外傷後ストレス障害と鬱の診断書を書いてもらったら、あっさりと生活保護の申請が通ったのよ」早由美は顔を落とした。
「それがどうして、こんな親としても、人としても道に外れたことをやって、不正受給までしなくちゃならなくなったんだ」「私には、もう何もないの!」村瀬に問われた早由美は、両手に握った拳を振り上げて叫んだ。目からは涙が溢れ出している。
「私は、一心にあなたのことを思って、慕ってた! レイプされた苦しみも、あなたがいれば乗り越えられると思ってた! それが糠に刺す釘になった時の私の気持ちが、あなたに想像出来る⁉ その上、子供も亡くして、頼れる人も周りにいない! 障害のある娘を抱えて、毎日が苦労ばかり、それが自分が死ぬ時まで続くんだよ! やってられないよ、お酒と男でもなきゃ!」早由美は涙を振り撒きながら、両拳を振り回し、やがて、テーブルに上体を臥した。
「俺の知ってる人で、一歳半の女の子を事故で亡くした人がいる。その人は今、悲しみを乗り越えて、立派にやってるよ」背中を震わせ、泣き呻く早由美に、村瀬は打ち明けた。
「早由美ちゃん‥」村瀬は波打つ早由美の背中に手を添えた。
「ここまでのことを聞いた以上は、俺は君の立場を察するしかない。だけど君は、悲しみとトラウマに負けちゃったんだ。悲しみが大きすぎて、それに人間不信が加わって、心が折れてしまったんだ。確かに、今の君は、親としても人間としても最低だ。だから、今、ここで必要なことは、引き返しだ」村瀬の言葉に、早由美が涙にまみれた顔を上げた。
「これは、君が愛してくれた俺からのお願いだ。悠梨ちゃんは、こんな酷い親になってしまった君のことを、恨みもしないで親として慕ってるはずだ。その悠梨ちゃんのために、もう一度、親をやり直せ。今、それをやって、ぎりぎり間に合うか間に合わないかの所に、今の君はいるんだ。悠梨ちゃんの画像は、もう拡散されてる。そこから足がついて、親の君に逮捕の手が及ぶかもしれない。娘に体を売らせること、それによる不正受給をすぐにやめれば、君達母娘は、こんな世界から早くに引き返すことが出来るかもしれない。罪を償うことにはなるにせよ」
村瀬はテーブルの裏表紙を、持参の袋に収めた。
早由美はテーブルに伏して泣き続けている。悠梨はスリップで体を隠して座り込んだままだった。
彼女は、知的ハンデも持つ自閉系の発達障害で間違いないだろう。だが、忌むべきことに、母親によって福祉的支援から遠ざけられている。その目から視えているものは、以前の菜実同様、暗く凍てついた、悲しみと苦しみだけがある世界だろう。
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言った村瀬は、ドアへ向かった。早由美が追ってすがってくることはなかった。ドア前でもう一度振り向くと、テーブルに肘を着き、体を震わせて啼泣する早由美と、裸の肩と腰を出して座ったままの悠梨が、悲しい絵になって村瀬の網膜に映った。テーブルの二本の酒缶も、悲しくその残った姿を部屋の風景に溶け込ませていた。
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強まった雨足が、村瀬の髪と肩を濡らし始めた。村瀬は袋から折り畳み傘を出し、袖を濡らされながら差した。
雨はたちまち、習志野の路面に、所々、小さな川を形取らせた。
流れることなく溜まった水は腐敗する。思い出の憧憬ばかりを追い、過去に住む者は、過去に居つきながら老いていく。
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傘を差しながら谷津駅近くのコンビニ前まで来た村瀬は、ボディバッグから煙草を出した。買ってからまだ何本かしか吸っていないため、だいぶ中身の残るそれを、ダストボックスに投げ入れた。昨日までの意味のない甘えを捨てたつもりだった。
汗を流そう。鍛え直そう。雨粒が降る空を仰いで見上げながら、村瀬は決心した。
「ここに来るようになってから、家でも笑うことが多くなって」利用者と、子供達が引き上げた「グっちゃんのお庭」で、樹里亜の養母はしみじみと述べた。
「それでもまだ、本当の親を恋しいって思う気持ちは、心の中にはあるんじゃないかと思うと、児相の判断は本当に正しかったのかな、って思っちゃうこともあって、それで私も引け目を感じてる部分はあるんですよ」「田中さん」義毅は養母に呼びかけた。
「田中さんと樹里亜ちゃんを繋いだ縁は、あの子の本当の親が、親の機能ってもんを当たり前に持ってなかったってことにあるじゃないすか。生みの親、育ての親、出会った順番は関係ねえ、自分をたまたまこの世に出した人間だって、その人間から思ってもらってなきゃ何の意味もないんす。けど、自分を産んだわけじゃない人間だって、その人間から思ってもらえりゃ、それが本当の親と同意義の存在になるわけっすよ。田中さんは、ご主人ともども、自分達はこの子を育てられるんだ、と思ったから、樹里亜ちゃんを引き取って縁組みしたわけじゃないすか。もっともっと、自信をお持ちになっていいはずっすよ」「そうですかね」「そうすよ」義毅が言うと、四十代の養母は遠くを見つめる目をした。
「たまたまぽんと生まれたことには、さほどの意味はないんす。大切なことは、いかにして育って、人間として成っていくかってことなんで」社屋の前で傘を差した養母に、義毅は述べたが、その顔には自嘲のような笑いが浮いている。いかにも、柄違いの言葉が出てしまったという感じの失笑に見えた。
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「これの前にやってたのは自営です。それより前は、落着性がねえから、いろいろと。サ店の厨房兼ホールだったり、板前の見習いだったり、香具師まがいのこともやりましたよ」「この事業所を、ご自分で興した動機は」「時代に即した事業だからっすよ」「時代‥」養母が考え込む顔をした。
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「昔と今に線を引いたよ。金曜の件だ」「そうか。詳しくは訊かねえよ。堅物のトヨニイなら、おおかた、昔の女絡みってとこか」通話口越しに、兄が頷いた気配が伝わってきた。
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「良くも悪くも、変わっちまうもんだからな、人は。男も女もさ。それで、これからはどうすんだ。他に再婚でもするような相手のあてはあんのか」「なくはない‥」「そうか。次はしっかりやれや」
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上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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