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47章
~幕が下りた頃に~
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三月のカレンダーがかかるパンダ事業所のスタッフルームのデスクにぽんと置かれた五千円札に、椅子に座る木島の目が細められた。その目は、やがて、デスクの前に立つ松前を向いて見上げられた。
「こいつは何だ。駄菓子銭か」「区の外れに住んでる重度心身障害者の女の子を介護して、遊び相手になってやったら、そのお父さんがくれたお礼金ですよ」「おい」木島は薄いサングラスの奥から、怒りを含んだ睨め上げを刺した。
今日の作業を終えた利用者達が帰宅し、三十分ほどが経過した時間だった。
「何の意図があって、こんなおちょくりの舐め、くれてんだ」木島は往年杵柄の唸りを発した。
「おちょくりじゃないす。元締に、これで一杯飲んでもらおうと思って出した、好意の金ですよ」松前が吐く息に言葉を乗せるように言うと、木島は拳を両手に握り、椅子のスプリングを激しく軋ませて立ち上がった。その顔は、怒りに紅潮していた。
「てめえ、命が惜しきゃ、東京の決まりに従え。いいか。明後日までに、五つ、納めろ。東京はな、東京のために功労した奴には、それに相応しい報われを俺がくれてやることになってる。だがな、俺や組織を舐めた奴には‥」木島が言いかけた時、松前はジャケットの懐へ右手を滑り込ませた。
「じゃあ、何で荒さんを殺したんすか」松前は抑揚強く言いばな、瞬きのうちに懐から抜き、木島の体に向けたマカロフの引金を引いた。
弾は木島のサングラスの右フレームに赤い花をパッシングさせ、窓のカーテンを脳片で汚した。木島は着弾の衝撃を受けて尻で椅子を押し倒し、脊柱側彎の体をずるりと窓際壁に撫でつけて崩れていった。
大柄な人間の足音が聞こえ、木製の曇りガラス入りドアが開けられた。
入ってきた多田は、脳と血漿にまみれて壁に背中をもたれつけている木島の死体を見遣ると、視線を松前に移し、頬を小さく吊り上げた笑いを浮かべた。
「ありがとうよ。これで目の上の何とやらが消えた。中に四つ入ってる」多田は厚い封筒を松前に差し出した。「骸はこっちで適当に始末する。お前はしばらく、沖縄辺りに隠れとけ。今日から、俺が東京を締めることになる」言った多田の額に、松前は無言でマカロフの銃口を当てた。二発目の銃声が響いた。
二つの死体を背にスタッフルームを出ると、廊下に瀧田というスタッフの若者が立っていた。瀧田は、ADHD系の発達障害を持っていて、仕事に迷っている時に木島に拾われ、パンダ事業所で二年ほど働いてきた。最低賃金を下回る時給の上、社保も有休もなく、ごろつきの上司や同僚スタッフからいじめられ、こき使われているが、拾ってもらったという立場で、我慢しながら身を置いている。稼業で足しげくやってくる松前とは話仲間で、松前は、彼の辛い境遇を知り尽くしている。彼は、松前を本当の兄のように慕っている。
「松さん‥」瀧田は、悲しみの目で松前を見上げた。それは別れを惜しみ、松前の行く末を案じる眼だった。
「俺はこれから日本を出る」「松さん、俺も連れてってよ!」「駄目だ。今日、俺達はもう道が分かれたんだ。いいか、お前はさっさとこんな所を飛び出して、自分が生きやすい道へ身を振るんだ」「松さん!」瀧田が松前の袖にすがりついた。胸に顔を埋めて泣く瀧田の背中をさすった松前は、優しく彼を押し離した。
「松さん、俺と約束して‥」松前の背中を、瀧田の声が追った。
「絶対に、生きててね、松さん‥」松前の肩の向こうで、涙で顔を濡らした瀧田が、訴えかけるように言い、肩を震わせた。
「生きてて、いつか、俺とまた会ってよ。その時、夢だった幸せ掴んだ俺の姿、見せたいから」瀧田は言って、体の中にあるもの全てを振り搾り出すように哭いた。
「分かったよ。俺もそれが見たいから、いつか、絶対会おうな」松前は残すと、瀧田の慟哭を背中に聞きながら、パンダ事業所の門を出て、木島と多田に仇討ちの銃弾を撃ち込んだマカロフを人工水路に投げた。
「えれえ強えな、風が‥」路面の砂を巻き上げて吹き荒む春風に呟いた松前は、いずこへともなく歩みを進め、その一角から姿を遠のかせ、消えた。その消え方は、これからの彼の命を暗示しているようだった。
去年末から失踪の千葉NPO法人施設長、埼玉で、万引きを重ねて逮捕。その弟の副施設長格は、杉並区のコンビニエンスストアで店員を暴行の上、反社会勢力の名前を出して脅迫、容疑否認のまま書類送検。
スマホの速報ニュースを確認した叶恵の心には、さほどの感慨も高揚も起こらなかった。携帯を懐にしまった叶恵は、まとめた身の回り品が収まっているリュックを背負い、間借りの自室を出て、階段を降りた。
「お世話になりました」キッチンで不動産オーナー夫妻に辞儀をすると、主人と夫人は、柔和に笑んで頷いた。
夫妻は、十二月のあらましは、全て叶恵から聞いて知り、理解している。
「叶恵ちゃんの昔のことは、僕達も知らなかった。だけど、そんなに辛くて悲しくて、やりきれない思いを子供の頃にしてたんだったら、もっと早くに話してほしかったと思うよ」主人が惜しそうに言い、何かを考えこむ顔を見せた。
「だけど、叶恵ちゃんがあそこに入職したのは、始めから、お父さん、お母さんの弔いをやるためだったんだものな。君がどんな思いで、どんなに苦しい思いに耐えながら、それを準備していたかと思うと、僕はね‥」主人の言葉が震え、詰まった。
「これから、お父さん、お母さんと暮らした大田区へ戻るのよね」「はい。新しい仕事のあても、もう決まってるので」「辛くなったら、またいつでもいらっしゃい」主人と並んで涙ぐむ夫人に、叶恵は、また小さく頭を下げた。
庭でぺスパに跨った時に玄関前を振り返ると、主人が指で涙を拭い、夫人はたっぷりとした情を込めた目で微笑していた。
エンジンをかけ、走り出したぺスパからもう一度頭を下げた。それから後ろは振り返らなかった。
大田区には、一般道を通り、時折休憩を交えながら向かったため、到着には二時間ほどを擁した。すでに賃貸契約を結び、鍵も受け取っていた東糀谷の都営団地の部屋に荷物を置き、自分が父、母と過ごした時間に棲んだ町へ、ぶらりと出た。
町は、あの頃と比べてかなり洗練され、至る所がクリーンアップされ、真新しい店やモールが並んでいる。様変わりした育ちの街を歩きながら、育った家のある地点へ足を向けた。
番地を覚えていたその場所がヘルパーステーションに変わっていることを知った時、「そういうものだ」としか叶恵は思わなかった。いかにもな時代の流れだった。
文岡兄弟は名誉を剥奪されて社会から永久的に抹消され、仇は完全に討ち晴らした。その場で両親の霊に宛てた念を送った叶恵は、静かに踵を返し、その「ケアネットたんぽぽ」なる居宅介護支援事業所前から去った。
なお、あの一件では、猥褻物陳列に問われ、一度警察に身柄を引かれたが、数千円の過料を支払って釈放されることになった。昔に文岡兄弟とその手勢達が自分の父親に行い、母を死に追いやったことの全容を話したところ、取り調べの警察官は、余りある同情と、叶恵のその行動への、職業的な立場上、口には出せない喝采の思いを表情に見せた。
自分の復讐に手を貸した、荒川と名乗っていた男が、三咲駅脇の路上で死んだことは知っている。ニュースによると、犯人の行方はまだ掴めず、背後関係も不明だが、どのような手段で得たのかが分からない潤沢な資金を蓄えて福祉会社を経営していたのだという。これは合法から外れた生き方をする者には、いずれ訪れる最期だと悟りながら、心からの感謝と冥福の念を送っていた。
これから、元の鳶手元の仕事に戻り、新しい生活を、父、母の思い出に抱かれるこの町で始める。新鮮な気持ちを胸に抱き、肩から、家の跡地であるヘルパーステーションを見た。灯りの下の両親の笑顔と、繋いだ父の大きな手の感触が蘇っていた。幼かった頃の思い出だった。
去年の秋に、最も恥ずかしい類いの刑事事件を起こしたが故に生活保護を打ち切られ、家賃も支払えなくなってアパートを失い、子供も離され、妻も実家へ逃げ帰ったがために、今、余儀なくされている無料定額宿泊所の暮らしは、退屈極まりないものだった。
元々、建設会社の宿舎であった二階建ての木造家屋を改造した建物で、ベニヤの薄い壁に仕切られた一部屋三畳ほどの個室があてがわれ、朝は納豆に卵焼き、昼は自分で調達し、夜はレトルト物のカレーや牛丼、ましな時は一切れの焼き魚という粗末な食事が出る。トイレは和式の共同で、入浴設備はなく、屋外には十分百円のコインシャワーが三棟並ぶ。そこに、顔にまるで覇気のない、中年や高年の男達がぞろりと住んでいる。彼らの間に会話らしい会話はない。
生活資金は、市の福祉協議会から三十万円の融資を受けているが、それが宿泊所の利用費、共益費、中身に反して法外と言っていい食費などで、月ごとに目減りしていく。それを返済し、自身の生活を工面するために、きちんと働こうという気持ちは立ち上がらなかった。彼はどこまでも、汗を流すことが嫌いな男だった。
今のその境遇に自分の身が落ちた近因、遠因を省みる心は、吉富栄一は依然として持たなかった。なお、恐喝、義子への傷害、強制猥褻を行いながら奇跡的に実刑の執行を免れたのは、担当弁護士が被害当事者との示談を勧め、吉富がそれに従ったためだった。樹里亜の親権者である内縁の妻は、彼に対して提訴の意思を示さなかった。
退屈への苛立ちを胸に持て余しながら宿泊所を出たのは、午後の夕方近くのことだった。
その無低がある滝不動から松戸線に乗り、新津田沼へ出た。大通り沿いに軒を持つ立ち飲み屋で、焼き鳥やレバ刺しを食いながら生ビールを数杯呷り、紙幣を叩きつけ、硬貨を投げるようにして勘定を支払って暖簾を手で跳ねのけて、足許おぼつかなく頭をぐらつかせて通りへ出たのが、空がだいぶ暗んだ時刻だった。
服装は、竜虎の刺繍がされた黒上下のジャージに、手には小さなバッグを持ち、刈り込んだ金髪の頭もそのままだった。その姿で、因縁を巻く相手を探すように、酒で据わった両目を左右に動かしながら、鷺沼方面へふらついた足取りで進んだ。その方向に決まった宛てがあるわけではなかった。
交差点を折れ、トンネルを通り抜け、マンションに面した道にふらつき出たところで、車のヘッドライトに前から照らされた。角から車が左折して進んできて、吉富の前に、バンパーが着かんばかりの近さで、タイヤを軋ませて停まった。クラクションは鳴らされなかった。ブラウンの塗装がされたワンボックスの軽自動車で、運転者は女だった。
「すみません、ここ、歩車道ですよ」吉富と同年代の三十代後半の女は運転席の窓から顔を出して、恐縮した口調で注意した。助手席には、女の子供らしい、小学校低学年に見える男児が座っている。
「関係ねえんだよ、こらあ、この糞女」吉富は呂律の回らない口調で凄んで、運転席側に回り、女に顔を詰めた。
「こういう道こそ、歩行者優先のはずじゃねえのかよ」「この道では、歩行者の方は端を歩かなくちゃいけないんですよ」「おい、ここで仲間呼んで、てめえ輪姦して、隣のガキ、ぶっ殺してやろうか」吉富が言った時、後部座席のスライドドアが開く音がし、男が後ろに立った。
中背だが、顎ががっしりとし、頸と腕の太い、私服のセンス的に職人風の男だった。その時、吉富の腰、足つきは逃げる用意をしたものになった。
「女房の言う通りだよ。基本、道の真ん中を我が物顔で歩く奴なんか、馬鹿だぞ」降りて出てきた女の夫は、吉富の目をまっすぐに見据え、迫力に満ちた、底響きするバスを押し出した。
「ついで言うとな、女をどうこうして、子供をどうするとかいう真似をやって、ただで済むと思ってるような野郎は、馬鹿以下だよ」夫の男が歩を詰め、吉富は後ずさった。
「見ての通り、俺は仕事持ちの所帯持ちだ。ちなみに仕事は鳶だけど、家庭持ってる以上、ちんけな決闘なんかで柄を引かれるわけにはいかねえんだよ。けど、女房子供に危害加えるような奴とは、やるぜ。そん時は、相手が一般人だとか反社だとかの区別はねえよ。守るため、助けるためとなりゃ正当行為扱いだかんな。まだ文句があんなら、そこに車停めさせっから、その辺の裏で俺と話すっか? 手ぇは出さねえよ。お前なんか殴って、面倒臭い事情聴取とか受けんのは嫌だからさ」
男が微塵の動揺もない低声を投げると、吉富は顔を伏せ、しばらくその場に立ったのち、とぼとぼとした足遣いで、京成津田沼の方面へと、不様に萎縮した背中を遠ざけた。
踏切を越えた頃にまた反り返り、粋がり散らした肩と顔でアーケード通りを練り歩き、緩やかな坂沿いに建つ「欧州キッチン ぷちきゃろっと」という波型デザインのアンティークな木看板を掲げ、ヨーロッパ風の赤い三角屋根、白い壁に小さな窓のある構えの店の前で足を止めた。
青い木枠のドアを押すと、からんからんとドアベルが鳴り、いらっしゃいませ、という女の声が出迎えた。
見渡した店のスペースは二人掛けと四人掛けが並び、広さは多くのコンビニ程度だった。白壁には欧州調の小さな看板や絵画が飾られ、丸いテーブルには赤のクロスが敷かれている。
顔、足つきで一目見てすでに酒が入っていると分かる柄の悪い男が入ってきたのを見た客達が、一斉に表情を固めた。
奥のキッチンでは、白のコック服に長いコック帽を被った店主らしい男が、フライパンから火を立ち昇らせて、トングで肉を返す調理を行っている。その奥には、もう一人コック姿の従業員がおり、そちらは洗い物に勤しんでいるようだった。
席を回ってお冷を置き、オーダーを取っている女は、店主の妻であろうことが雰囲気で分かる。
吉富は、坂側壁の二人掛けに座った。壁を振り返って見ると、十代風の可愛い顔立ちをした少女が、両手に縫いぐるみを持って微笑している絵画が掛かり、「娘」という題名に「船橋市 二井原愛美さん寄贈」とある。それを横目で睨んだ吉富は、うるさいものを見たように小さく舌打ちした。
「いらっしゃいませ」エプロン姿の女が、吉富の前にお冷を置いた。
「ビール」吉富は欧風アンティークチェアに背中を反らして注文した。
「当店では、アサヒ、サッポロ、キリンの他、ボヘミアビール、ウィーンビール、ドイツのピルスナーなど、ヨーロッパ産のビールも揃えておりますが、いかがいたしますか?」「アサヒでいい。早くよこせよ。それと、すぐ出来るもん、何でもいいから持って来い」「おつまみでしたら、マリネがすぐにお出し出来ます。お食事でしたら、赤ワインで煮込んだチキンの入ったブリティッシュスープカレーが、一番早く席にお届け出来るかと思いますが」「それでいいよ。早く持って来い、おらぁ」「承知いたしました。アサヒのビールと、ブリティッシュスープカレーですね。ただいま、ビールと海鮮マリネをお持ちいたします。お料理のほうは、少々お待ちいただけますでしょうか」「ちんたらやってっと承知しねえぞ、おら」吉富の呟きを流すようにして、エプロンの女は小さなバインダーを持ってキッチンへ歩んだ。
アサヒの中瓶が来て、それからすぐにマリネが届けられ、吉富はビールをグラスに注ぎ、呷り飲みながら周りの席を睥睨した。キッチン側にはゴルフバッグを置いた高年の男二人、空間を挟んだ反対側の席には、セーラー服姿の中学生らしい少女と、中年の母親の母子がいる。母親は背中に不安を漂わせ、娘はお冷を前にして俯いている。
吉富の前後は空いており、挟んで隣の四人掛けには、主婦らしい女のグループが座っており、皆、言葉には出せず、それとない態度に不安を滲ませている。
視線を合わせてはいけない人間、として、今の吉富は扱われている。
「スープカレー、お待たせいたしました。お熱いのでお気をつけ下さい」エプロンの女が接客言葉をかけ、吉富の席に注文品を置いた。
「何だ、このでけえじゃが芋は。これじゃ食いづれえべ、普通はよ」「あの、これがこの品の調理法でして」「切ってこいよ。それに、何だ、この色は。糞みてえな色だろうが。舐めやがって、この野郎」「あのですね‥」「あのですね、じゃねえんだよ、この糞アマ」
吉富の声はまだ、キッチンに届くまでには至っていないらしい。キッチンからは調理の音が聞こえ続けている。だが、頂点に達した不安と恐怖を目に込めた、他の客達の顔が、ちらちらと吉富のほうを向き始めていた。
「何だ、こら!」巻き舌の怒声を放った吉富はテーブルのクロスを引いた。来たばかりのスープカレーと、ビールの中瓶が、赤い絨毯の床にぶちまけられ、方々から悲鳴が上がった。
「言いてえことがあんなら聞いてやっから、言えよ。汚えもんでも見るみてえに、さっきからじろこら、じろこら見やがってよ!」
立ち上がった吉富は隣のテーブルに歩を詰め、主婦達が座る丸テーブルの壁側の縁を掴み、自分の体の側へ引き倒した。料理、ワインのボトル、チューリップグラスが音を立てて絨毯の上に撒かれ落ちた。主婦達は恐慌の顔で、椅子の上で身を縮めた。
「駒込凶悪連合知ってっかぁ!」フロアの中央に立った吉富の大声が、店の端々にまで撒かれた。
主婦達は身を縮め、ゴルフバッグを携えた高齢の男二人は、ちょっとした驚きを覚えているという風の顔を向けている。キッチン寄りの席では、椅子を降りた母親が、中学生の娘の肩と頭を抱き、吉富を振り向き見ながら、我が子を守ろうとしている。
「俺はその駒凶の元親衛隊長だぞ! 俺の仲間が関東中の裏の世界にいるんだよ。俺を怒らせた奴は、みんな家族ごと嬲り殺しになるんだ! お前らも‥」吉富は、椅子の上で体を震わせている主婦達を覗き込み、次に高齢の男二人に「お前らも」と言って顔を突き出し、娘を必死で守ろうとしている母親に歩み詰め、母親のセーターの襟を両手で掴み、その体を引き倒した。娘が怯えた顔で吉富を見上げた。
「おらぁ、パンツ脱げ! おまんこ見せろ! おめえ、処女だろ、おら!」吉富は娘の腕を取り、フロアの中央にその体を引きずり出した。
店主の妻で間違いないと思われるホール担当の女が、意を決したように駆け寄り、吉富の腕を押さえた。
「引っ込んでろ、おら! 俺は今日、可愛いJCとやりてえんだよ! 婆あに用はねえんだよ!」吉富の怒声が響く中、ゴルフ帰りの男の一人も席を立っていた。酸甘、辛苦の人生経験を嗅ぎ分けた肚の据わりが、その顔に見て取れた。
その男が少女を助けんと席から進み出るのと同じくして、キッチンから、コック帽を脱ぎ払い、フライパンを置いた店主が、静かに歩み寄った。
店主は、妻の肩を叩いて、引け、と促し、少女の腕を掴んでいる吉富の前に立った。端の切り上がった一重瞼の目をし、よく調えられた口髭を蓄えた、品がありながらも過去に身を置いていた修羅が覗える男で、年齢程は、吉富と同世代だった。
「何だ、どけよ、おらぁ、コックなんかよ!」吉富の怒罵を受けたその男は、わずかにも動じる風でもなく、即応出来る足の置き方、手の垂らし方をし、言葉を発さず立っている。
「邪魔だ、こらぁ!」少しの怯みの中から虚勢を作り直した吉富が、店主の顔にフック加減のパンチを飛ばした。まるきり心得のないものでもないが、せいぜい、弱い者を殴り慣れているという程度の殴撃だった。
吉富のパンチは宙で捉えられ、手首が極められた。店主がそのまま腰を軽く落とすと、吉富の体はくたりとフロアに跪き、伏した形になり、その口から痛号が吐かれた。
腕を捩じられて倒れた吉富の体が、店主の目下に引かれた。次に店主は、腹這いの体勢にした吉富の両腕を、背中でクロスさせた。
「110番‥」店主は妻に言い、吉富に目を戻した。妻はキッチンカウンターの隅に置いていた携帯を取った。
体を組み伏せられた吉富の斜め後ろでは、少女が母親に抱きしめられ、店主の妻がその肩に手を置いていた。
「お代はいいから帰れってのは、俺は言わない主義でね」泣き声混じりの呻きを漏らす吉富に、店主は低く静かな言葉を落とした。
「だから、払ってもらうよ。お前が今、ここで、何の落ち度も非もない人間に与えた心の傷、それの代償をね」吉富の腕がより上にひしぎ上げられ、呻きが完全に泣き声に変わった。
「駒込の凶悪、よく知ってるよ。俺、今、触法少年の更生アドバイザーやってる霧島さんが率いてた幕張スペクトラーの特攻で、昔、文京まで遠征してかち合ったからさ。でも、俺の印象じゃ、まるでたいしたことなかったな。凶悪、なんてチーム名倒れもいいとこで、高校生デビューの集まりみたいな感じで、中学からみっちり鍛えてきたって感じがまるでしない娑婆僧ばっかりだったよ。まあ、嘘誠かはさておいて、親衛張ってたとかなら、やって恰好いいことと、みっともねえことの区別ぐらいはつけたほうがいいんじゃねえかな。お前、弱い者にばっかり強いのが丸出しだろうが。もっともそれは、お前の抱える生きづらさで、お前も自覚がねえし、教えてくれる人間も周りにいなかったことが問題だったんだよな。お前の所帯とかは俺は知らないよ。だけど、生きづらさの整理がついてねえから、奥さんにも優しく出来ねえし、子供も世間一般並に可愛がれねえし、ろくすっぽな教育も出来ねえんじゃねえのかよ。そんなとこじゃないのか。そこにあるんだよな、お前みたいな人間の不幸は。世に言う虐待の親とかは、まずはその親のほうから、国が金刷っても面倒見をしなきゃいけないと思うよ、俺はね」
店主は吉富の素性を見透かしたように言うと、吉富の襟首を持って引き、座位にし、柔法を解いた。
頬に本数の多い涙の筋を引き、両方の鼻孔から洟、あんぐりと大きく開いた口から涎を流し、吉富は、ひい、ああ、と泣き喚いている。その号泣が、痛みのためか、最後まで粋がり倒そうとしたところを、実力、貫禄が上の人間にあえなく制圧された口惜しさからなのか、その店主の言葉が、心の奥底に確かに在った本音を痛く刺し、実は長年分かってもらいたかったことを今、やっと分かってもらえたことの嬉しさからなのか、あるいは先までここで行っていた自分の愚行を恥じてのものなのかは、傍目には分からない。
だが、その中には、これまで自分自身がどれだけ分かろうとしても分かり得なかったことが分かったという感動、感激も含まれているように見えなくもない。
キッチンの隅から、小さな顔が覗き、やがて、小さな体がひょこっと立った。それは、髪をポンポン付きのヘアゴムでツインテールに結び、ピンクデニムのジャンパースカートを着た、五歳くらいに見える女児だった。
フロアの中央で泣き続ける、そろそろ中年という年齢程度の年格好をし、服装に粋を張った男の口から、言葉が出る気配はなかった。
それをぽう、とした面持ちで見ている女児は、ダウン症だった。ホール係である店主の細君が娘の名を呼び、来ては駄目だと手で制した。
娘の手にはハンカチが持たれている。アニメのイラストが描かれているらしい小さなハンカチを片手に持ったは、動物柄の靴を履いた足をちょまちょまと進め、まだ号泣を撒いている吉富の前に立った。
吉富の前にハンカチが差し出されたが、つむられた彼の目は、それを捉えていない。それから、ハンカチが下げられ、娘の紅葉のような左手が、吉富の頭をさわさわと撫で始めた。閉じられていた吉富の目が開いた。赤く充血した目からは、涙が止まることなく流れ続けている。
「見ろ。うちの娘だよ。今、保育園だ。見りゃ分かるだろうけど、お前みたいな奴がよくシンタイだのシンショウだのと呼んで、蔑んで差別する生まれを持ってる。でも、持ってる心は、こんな具合にどこまでも優しいんだ。相手がどんな人間であってもね、差別する心がねえ」
店主の声が落ちた時、吉富はまた激しく泣き盛った。それは店主もよくは知り得ぬ何かへ向けた、深い詫びと後悔が含まれているようにも見えた。
客達の目が、娘と吉富、それを囲むようにして立つ店主と妻の一景に集中している。ゴルフ帰りの男二人は、なるべきことになったな、とコメントしたそうな視線を注ぎ、キッチン前では、中学生の少女が母親に抱かれ、母は成り行きを見守り、祈るような目で見ている。もう一人のコック姿をした従業員は、カウンターの前に立ってその光景に、ある種の感動を含めた目を投げていた。
娘のハンカチが、吉富の涙を拭い始めた。おぼつかない手つきだった。吉富の泣哭は、次第に静かなものになっていった。彼の両手が、まるで自分に近い誰かに宛てるように娘の肩に伸びかけた時、ノックが鳴った。
店主の妻がドアを開け、制服の警官が二人入ってきた。
「さっきまで、まあ、こんな具合に」店主が転倒した丸テーブルと、絨毯の上に散乱した料理類を指して説明すると、警察官は、それを行った者が誰かをすぐに理解し、「はい」と答え、二人で吉富の両脇を抱えて立たせた。次いで、もう一人の警察官が入ってきて、メモ帳を手に、店主の前に立った。
「お話を出来るだけ詳しくお聞かせ願いたいのですが」と言った警察官に頷いた店主の目は、力を失った脚を引きずられるようにして連行されていく吉富の後ろ姿に向いた。娘もそれに倣い、巡査の腕からぶら下がり、引かれる吉富を見送った。
吉富は、駅前交番までの道を警官二人に抱えられながら、これまでの人生で自分が気づき得なかったことに、ようやく気づき得た思いを抱いていた。これが世の中一般に言われる反省か。それとも悔恨か。彼の頭の中で、それらは語彙にはならなかったが、子供時分の昔からつい数分前に至るまで持つことのなかった感情が胸に涌き出していることが自分で分かっていた。
主に興味を込めていると分かる通行人の目がちらちらと向けられた。同情などは、その中には含まれてはいない。だが、それは構わなかった。
これから執行猶予が取り消され、どれだけの期間かは分からないが、繋がれることになることは理解している。
それが、約四十年もの間に自分が棲んできた、智の恵みのない無明の世界から、自分がせめて片足だけでも抜け出すきっかけになればいいと思いながら、緩い坂を警官に持って引かれていた。
その時、優しい笑顔の輝く青年となった拳刀と、妙齢の美しい女に成長した樹里亜の姿が頭に思い浮かんだが、それこそが警官に引かれ、足をもつれさせながら交番へ向かっている今の時間に自分が最も願い、祈っていることであることに、気づいたような、気づいていないような感じがした。それでも、その気持ちを、今の自分が何故持ち得ているかというと、あのハロウィン前の日に「身体障害者野郎」と蔑み罵り、舐めきっていた相手から言論のみならず実力でも成敗され、その相手が、あの言葉を自分の実子にくれたお陰であるということからだと、吉富ははっきりと思解していた。また涙の溢れ出した目が、曇った夜の空を見上げた。
吉富は、まだ言葉として形成されていない誓いの念を空に向けて送りながら、洟を啜り上げた。
家で洗濯したユニフォームとロッカーの鍵を返却し、同僚達に短く挨拶して、裏口からマスオマート前原店を出た村瀬を、香川が小走りに追ってきた。
「今後の身の振り方はもう決まってるんですか?」「あらまし決まってるよ。落ち着いた頃、また報告させてもらうから」訊いた香川に村瀬は答えた。
「今からハローワークだよ。失業保険の申請手続きに行く。失保もらって、ゆっくり当たることにする」「村瀬さん‥」香川は唇を噛んで、俯いた顔向きを見せた。
「副店の辞令までが出てながらお辞めになるっていうことは、村瀬さんなりの深い心の事情があってのことだと思うんですけど、これは‥」「日勤の、常駐警備の仕事に転職しようと思ってるところなんだ。客商売よりも時間的な余裕のある仕事がいいんだ」村瀬が笑顔で返した答えに、香川は無念の思いを呑んだ目を上げた。
「村瀬さんがいなくなるとなると、僕、自信が持てなくて」香川が言った時、ヤードに段ボール回収業者のトラックが入った。
「僕もこの職場、もう八年だけど、反省の意味も込めて言うと、だいぶのほほんとやってきちゃったと思うんですよ。でも、村瀬さんは、不特定多数の人を相手にする職業の上で、持ってなくちゃいけないものを、みんな持ってたじゃないですか。秋のあの一件だって、村瀬さんがいなかったらどうなっていたか分からなかったはずじゃないですか。不安なんですよ。一人の男としても、村瀬さんを継ぐようにして、店員の義務的な仕事が自分にちゃんとこなせるかどうかが分からなくて」
二人の背後では、バックします、バックします、ご注意下さい、というトラックからの自動音声が鳴り響いていた。
「それは香川君自身が、自分を信じきることで出来るようになることだよ」村瀬が言ったその時、「おい!」という男の怒声が聞こえた。それを発したのは、回収車のドライバーの男だった。見ると、トラックを降りた男が、台車に積まれた段ボールを指差していた。
「台車並べる位置が違えよ。直せよ、お前。これじゃ詰めねえよ」応対していた店員は、村瀬が休職を有休消化へ繋いでいる間に入ったと思われる、まだ彼が顔を知らない高齢の男性アルバイトだった。その高齢アルバイト店員に恫喝口調で命じているドライバーの男は四十代に見え、身長は190越えでたっぷりとした横幅を持つ、プロレスラー並みの体格をしていた。
高齢の店員は怯え、対応に困りきっていた。香川はその様子をちらりと見ると、短い呼吸をし、村瀬の目を見た。
香川が男に歩み寄り、後ろに村瀬が続いた。
「どうかされましたか?」平静を装った声で香川が問うと、ドライバーの男が目を剥いた。隣の村瀬には、男の口から漂う酒の臭いが届いていた。
「これ、縦二列に直せよ。こんな横に広がってたら、邪魔臭えだろうが。おい、おめえらも店員だべ? さっさとやれよ」男は顎をしゃくった。
「すみません」香川は反り立つ男に頭を下げた。
「でも、これは当店が規定した並べ方です。不自由をおかけすることはお詫びいたしますが、ご理解いただけたらと存じます。それと、こちらの方は、先日入ったばかりのアルバイトの方でして、勝手は分かりません。代わりに私がお立ち合いいたしますので」「てめえじゃ分かんねえよ。店長呼べよ」男は飲酒の息を吐きながら、滅茶苦茶な理屈をぶち出した。
「石田さん、売場戻って、笠原さんに指示もらって、ポップ並べやってもらえますか。店長には、香川に言われたって言えば大丈夫なので」脇で身をすくませていた、石田というらしい高齢のアルバイト店員は、はい、と弱く返事し、錠無し扉の向こうへ去った。先程簡単な退職の挨拶を交わした新任の店長も、やはり責任感に乏しい役職者らしい、と村瀬は思った。
「おい、このカッペ。俺が店長の代理で話させてもらってもいいか」「何だ、この野郎。てめえ、コンクリート詰めにして東京湾に沈めんぞ」一歩進み出て言った村瀬に、男はフロントガラスに貼られた日章旗にチーム名のロゴが描かれた暴走族のステッカーを指して凄んだ。
香川が一瞬驚きの顔を見せたが、去年に村瀬の本性的一面を目の前で一度見ていることもあり、その驚きが静かに喉へ飲み下された表情になった。
「お前が今取ってる態度、言葉には、関係性を大切にしなきゃいけねえ取引先への誠意もなきゃ、年齢的に目上の人間に対する敬意ってもんがねえよ。さっき吐いた言葉も、ドカチンとか鳶の飯場じゃ普通に飛び交ってんだろうがな、気の荒え職工だって、力のねえ爺ちゃんをお前呼ばわりして、やれ、しろ、とかって言葉で、命令はしねえはずだぜ。回収に来るなり、でかい声張り上げて切れ散らかすことが、男を魅せることだとかって本気で思ってんのか。情報伝達の遅れ。学習心の欠如。だから、てめえはカッペだっつうんだよ。珍しいもん見ったびに、あーっ、あーって、指差して騒ぐようなさ」おどけ顔のジェスチャーを交えた村瀬の柄言葉に、回収ドライバーの男は、目にびくりとしたものを覗かせた。出鼻を挫かれたような表情だった。
その柄言葉は、先日警察から遺体を返還され、まどか、経営していた福祉事業所のスタッフ達とともに直葬で送り出した義毅を意識したものだった。
今、両親のものと並んで、笑顔の遺影が飾られている弟。犯人の特定など、事件の捜査そのものに進展はないが、つい昨日、江戸川区の小規模福祉作業所で発生した、短銃のようなものを使用した殺人事件との関連を一部マスコミが嗅ぎ立てようとしていると、検視前の安置に立ち合った刑事の鴨下が教えてくれた。
「何だ、この野郎‥」男は目を細め、村瀬に鼻先を突き出した。
「てめえ、俺がどこと仁義契ってっか分かったら後悔すんぜ」「そんなもんがどこだか何だかは俺が知るかよ。酒の勢いだけでそんな看板語ってっと、後悔することになんのはお前のほうじゃねえのか」「やんのか、こらぁ」男は舌を巻き立てて肩を揺すった。
「やらねえよ。他人の仕事に水差して、決闘でしょっ引かれたくはねえからさ。第一、お前、今、仕事中のはずだろうが。時間内に何箇所回らなきゃ帰れねえんじゃねえのか。くだらねえ油売りしてねえで、とっとと仕事して事業所へ戻れよ。でなきゃ、所長とか主任がうるせえはずじゃねえのか」村瀬の発している声とそのイントネーション遣いは、お人好しなスーパー店員ではなく、完全に、命をやり取りする修羅を経た男のものだった。
それは村瀬の人生歴史において、全くの事実なのだ。
その時、村瀬の顔にも体勢にも力みはなく、正直な思いを自然に吐き出したという感じだった。また、彼のいつもと違う啖呵言葉も様になっていた。香川はその柄の悪い言葉の交わりを、ただ涼然とした顔で聞いていた。遣う言葉はさておいて、時に応じて強さを持った対応が必要だという社会的事実を学んだ、という風に。
回収ドライバーの男の顔から、目に見えて威勢が失せていった。やがて男は、不服そうに口を閉じ、回収ローラーのスイッチをオンにして作動させ、台車を引き寄せて、積まれた段ボールをローラー口へ投入する作業を始めた。その肩、背中は、大きな体に反して小さくすくんでいるように見えた。
「おい、それとお前、酒飲んで車転がすのも今日限りにしろよ。子供が死ぬような飲酒運転事故、今もたくさん起こってることは、お前もニュース見て知ってんだろ。お前の上が、何でこれを許してんのかは知らねえけどさ」村瀬は言い足した。男はしゅんとなったようにそれには答えず、作業を続けていた。
ローラーが呑み込む段ボールの潰れる音を背に、村瀬は香川の肩を押し、裏門前に移動した。
「香川君、山本店長に言え。あの業者は前からの直接契約だったけど、この辺で別業者に替えろってさ。そうでなきゃ、ここのスタッフ達の精神衛生上にも良くないよ。たちの悪いごろつき客とバトルして、事実上の出禁に追い込んだ村瀬からの提言だって言えば通るさ。それに‥」村瀬は言葉を区切り、店前の車道に目を遣った。
「君はちゃんとここの仕事を、責任背負って全う出来るよ。さっきだって、あの高齢のアルバイトさん、しっかり守ったじゃないか。別にさ、俺なんかを継ぐとかいう大上段に構えた気持ちは持たなくたって、君の自然体で日々の仕事をこなしていけばいいだけだよ。俺だって、あの手の男相手に、あんな柄っ八な応対が出来るようになるまでは、仕事の上でも、私生活でも、いろいろ」「あの時の、あの顔の傷のこととか‥」香川は、聞き込みたくないことを聞いた風に言葉を引っ込めた。
「自信を持てよ」村瀬は香川の肩をぽんと叩いて、踵を踏み出した。
「そうだ、今日は小谷さんがいなかったけど、休みなのかな」「すいません、言い忘れてました。あの人、辞めました。村瀬さんが退職の意思をお伝えする電話を増本店長宛てにしてから、すぐです。心のほうの病気を理由に長く休んでたんですけど、一昨日、電話があって、今日付けで退職しますっていうことでした。分かりませんよ。彼女の心の中までは。僕には。ただ、いつも明るく振る舞いながら、耐え難い何かと必死で戦ってたように、僕には見えましたね」
人が普段、表に見せている顔が、その人間の心をそのまま表しているわけではない。真由美が日頃、村瀬ら同僚達に見せていた表情は、主として、内心に抱える対人不安の取り繕いだった。村瀬は彼女にとり、数少ない、不安を感じずに関わることの出来る相手だった。その不安をコントロールするために、子供と一緒に薙刀を習っていた。あの時、実は半ば腰が引けかけていた村瀬を庇うようにして吉富に立ち向かったことは、存在意義的に大切な人間を助けるためだった。その意義が、村瀬への好意に変わったのだ。
それを思った時、村瀬は、あの吉富さえも何かを経ることによって、何年かあとには別人のように変わっているのでは、という不思議な予感を覚えた。そう思えるのは、彼が分かりやすい単細胞者であるということを、関わってよく知っているからこそだった。
真由美の退職理由は、しごく簡単で分かりやすいものであったことが、村瀬の胸に軽く落ちた。
「十五年間、ご苦労様でした」「あまり寂しがるなよ。たまに顔を出すし、ラインで連絡も取り合えるしな」頭を下げた香川に、村瀬は挙手して歩き出した。
駅前が近づいた時、遠目姿に懐かしさを感じる女が前から歩いてくるのが目に入った。距離が縮み、村瀬とその相手の目が丸くなり、唇が開いた。
「あ、村瀬さん」「小谷さん。お元気ですか」美容室の前で向かい合った村瀬と真由美は、半ば諦めかけていた再会を喜ぶ笑顔を満ちさせた。
「私、退職したんですよ」「俺もだよ。今、物品を返却して、挨拶してきたところなんだ」互いに打ち明け合ってから、その理由を話すことを憚るように、二人は黙然とした。だが、ともにその顔には、踏んぎりをつけたあとの清々しさが浮かんでいた。
「俺、お客さん商売では、やるべきことはみんなやり終えたよ。しばらく休んでから、それとはまた違う職種へ行こうと思ってるところなんだ。警備業を考えてるんだけどね」「そうですか。私は、親として、娘達と一緒にいる時間を増やしたいことと、あと、私も、何年か休みたくて」「それもいいね。うちは今月から息子がグループホームに行っちゃったから、静かになって、淋しくなったよ。でも、子供の将来のためだからね。しかたない。娘は変わらず、福祉施設で頑張って働いてるよ」「そうなんですね。それが一番の安心ですよね」真由美は相槌を打ち、その間は短いながらも言葉を熟考する顔になった。
「あの時は、戸惑わせちゃって、ごめんなさい‥」真由美の詫びが、いつのことかは村瀬には分かった。
「でも、気が迷って言ったわけじゃないんです。みんなが対応に困ってたのに、お店が何も対策を考えてなかった人達相手に、村瀬さんは間違いのない、毅然とした対処をして、あの若いお母さんと赤ちゃんを助けたのよね。その時、私は、本当に強い男の人っていうのは、こういう人だって、心から思ったの。それで、私はこの人が好きだっていう気持ちを持ったんです」真由美の頬は、あの日のような朱にほんのりと染まっていた。
「結婚っていうものは、その人それぞれにちょうどいい相手が、縁の働きで与えられるものだって、私の友達も親も言ってて、私もそれを疑う由はなかったの。修行だから、その相手がどんなに自分の理想に近くても、不満を抱かせるものが必ず何かしらあるものなんですよね。だけど、あの日、私は、もしも村瀬さんと結婚していたら、私が思い描くパーフェクトに限りなく近い暮らしを送ることが出来たんじゃないかって思って、その思いが、あの言葉になって出たんです」真由美は朱をもった頬の顔で、切なげな目を村瀬に向けた。
「戸惑いはしなかったよ。嬉しかったよ、普通に」村瀬の答えに、真由美は眼鏡越しの目を細めた。
「実は、俺の付き合ってる人は、わけのある人なんだ。普通の人が生まれついて20キロの重しを背負ってるとすれば、その人は40、あるいは50の重い荷物を肩にしょってるんだよ。それでも、肩に食い込むその荷物の重さは、おくびにも出さない。だから、俺は」「障害、ですよね」真由美の合いの手に、村瀬は俯いて頷いた。
「私には分かります。思い出すのが辛いことを、村瀬さんが私にお話しなくても‥」言った真由美は、村瀬がかい潜ったことの全容を理解している。
今、「尊教純法被害者の会」が弁護士会の音頭で結成され、物的証拠がないために逮捕を免れた教団幹部クラスの人間達を相手取って、強制献金、仏具の高額売りつけ、財産の奪取などで吸い上げられた、総額五百億円あまりの被害金の返還訴訟を起こしており、解散命令が請求されることは時間の問題だと言われている。また、教団に騙されて囲われ、事実上の売春をさせられ、猥褻写真、ビデオを撮影をされるなどの被害に遭っていた、知的障害者女性達の保護、ケアも行われ、実質的に教団組織の指揮権を握っていた最重要指名手配犯である李が、成田市三里塚の廃屋の小屋で、重傷を負った部下達とともに射殺死体で発見された件も、そのあまりの劇性をふんだんに含んだ顛末が世間の話題を独占している。そしてその一連が、小さな組織によって引き起こされた事件であることも、巷を驚かせている。
李と、他の者達の重度負傷は、犯罪組織の実態を持つ教団の対立勢力によるもの、あるいは内紛によるものと、マスコミ各社は結論づけかけている。警察病院に収容された暴力代行部門の構成員達は、傷の治りを見計らった取り調べで、その夜に起こったことについて、「仲間が裏切ってマネージャーを殺した」という供述以外には、固く口をつぐんでいるという報道も、各社新聞、週刊誌記事で共通している。
「村瀬さんが今お持ちになっているものは、間違いのない本当の愛のはずです。その方と、この先いつまで一緒にいられるかは分からないにせよ、寄り添うことが出来る、今の時間を大切にされることがベストだと思います。だから、あの時に私が言ったことは忘れて、たとえ限られた時間であっても、今は、その人を‥」「小谷さん」村瀬は姿勢を改めた。
「あいつが店で脅迫の文言を吐いた時、俺は自分だけじゃ、あいつに毅然と出来る気がしなかった。スタッフの立場からあの男に立ち向かう勇気は、あの時に小谷さんがくれたんだ」
「それは‥」真由美は顔を下げて言いかけ、このすぐ近くだという自宅のほうへ踵を向けた。
「二年前に入ってきた時から、ずっと好きだったから。必要以上に男の看板を張ろうとしないこと、話すことで、心から安らげる人となりが」「小谷さん、俺は。俺なんて」こぼすように言った村瀬の記憶には、己の手で、バリカンで虎刈りの坊主頭にされた老いた女の姿と、息子を助けて、と懇願する声、蹴った薄い胸の感触が蘇っていた。
次第に背中を遠ざける真由美が、後ろの村瀬に向けて手を振った。村瀬も、その背中に向かい、優しく手を振った。
船橋ハローワークで失業保険受給の手続きを済ませて庁舎を出、外壁の貼り紙が気になった村瀬は、ふと目を留めた。
貧困ビジネスの入居勧誘にご注意下さい、とあり、それによると、ここのところハローワークや市役所の付近に、実りの悪い仕事をして困窮する生活を送るよりも、一時生活保護を受けながら、私達の求職支援を受けながら高給の職を探したほうが将来のためにもなる、などという甘言で誘い、数人をアパートやワンルームマンションに押し込んで共同生活を送らせながら、支給される生活保護費を搾取する悪質業者が出没しているという。
今に始まったことでも何でもないと心に呟いて、京成船橋へ歩み進みながら、話に聞いた菜実の父親を思った。トゥゲザーハピネス、と検索をかけてみたところ、類似した名前の飲食店やフラワーアレンジメントサークルが表示されたが、福祉系NPOでそれに該当するものは出てこなかった。やはり、尋常に考えれば、その経営実態は怪しく、犯罪的な収益を得ているということで間違いはないのだろう。
今、連絡を控えている菜実と入籍した場合、父親のその身柄を引き取り、一緒に暮らすことについては、彼女の父親であるから、人間性は間違った所はないと見ていいと思え、抵抗感はない。そこで、もしも探す術があるとすれば、やはり、まどかを頼る以外にないのだろう。
大通りを歩きながら、思いは子供達に馳せられた。
心の内は分からない。それでも、あの夜を経ても、恵梨香、博人が、自分の意思の力をもって生きる道は失われてはいない。恵梨香はあの日からたったの二日で仕事に復帰し、博人もグループホームに入居しながら、就労継続支援A型の仕事を頑張っており、電話で話す声も明るい。
目の前で人間が死ぬなどということは、尋常なら、計り知れない心的外傷を負う。自身達も凌辱され、銃の標的にまでされるという、まるで何かの劇中の出来事のような体験をすることになった。
だが、父親が家と家族を明け渡して逃げたことにより、幼い時分からその体と心に、一生涯背負わなくてはいけない傷を負い、若くして、それを人間的な強さに変えたのが、村瀬の二人の子供なのだ。
恵梨香は、性的凌辱というものには、子供の頃から慣れていた。その傍にいた博人は、自分の命を差し出しても家族を守る心を自然と身に着けていた。二人は肚が据わっていたのだ。
それは、かつて自分達を見捨てるようにしてあの家から逃げた父親が、様々な経験から人としての強さを得て、自分達を助けられる男に変貌していたことが、子供達を補強していたのだろう。
そこへ至るまでには、長い時間がかかった。
長い時間が。
博人がいなくなった東習志野の家に帰り着き、テレビを点けると、正午のニュースが映った。
ますます悪質化の進む貧困ビジネス業者が相次いで摘発という見出しの上に、どこかのアパートから捜査員が荷物を運び出す映像が映し出されている。
福岡で三件、大阪で五件、千葉で一件、複数人数の困窮者をアパートやワンルームマンションで同居生活をさせ、生活保護費、障害基礎年金などを不正に詐取していた疑いで、法人運営者が会わせて七十人ほど逮捕され、その中でも千葉県流山市に拠点を置き、国の認証を受けずに一般社団法人を名乗って活動していたトゥゲザーハピネスを、最も悪質な囲い込み事業を行っていたとして、同会会長で暴力団関係者の男を詐欺容疑で逮捕、職員として雇われていた数名の男も詐取の容疑で現在取り調べを進めており、アパートに住まわせられていた、身体障害、軽度の知的障害者を含む男性、女性の計四十人あまりが保護された、ということだった。
キャスターが読んだその法人名に聞き違えはなく、表示されたテロップもそのままだった。菜実は柏で父親と再会したと言っていた。流山は柏の隣接市だ。
保護され、送られる先が分かれば、つてが出来るかもしれない。村瀬は菜実の身になった希望を得た思いがした。
大塚洋一が他五人と同居するアパートの部屋にノックが鳴り響き、捜査員達が入ってきたのは、彼を始めとする入居者達がまだ布団の中にいた、早朝四時過ぎのことだった。
何が起こっているかは、叩き起こされるようにして起きた洋一にもはっきりと理解出来た。
まず、部屋に番詰めしていたスタッフの男が連れて行かれた。行先は警察署のはずだった。それから、警察官達は、洋一達入居者に着替えるように促した。また、身の回り品をまとめるように言われ、皆、それに従った。
どういうことなのか、と、分かってはいながら捜査員に訊くと、トゥゲザーハピネスは、今日摘発されたと答えた。
自分の身柄が、心までも、これまでの軟禁生活から解放されるという喜びと驚きを同時に覚えながら、同室の男達と一緒に警察車両に乗った。
警察は、洋一達入居者のほとんどが、手帳の交付された障害者であることを把握しており、三日から一週間ほどの間、警察施設に宿泊してもらい、その間に受け入れ可能なショートステイ、または入所型の福祉施設を探すという説明が、社会福祉士からなされた。なお、その女性社会福祉士が、伸ばした前髪で顔半分を隠していることなどは、洋一には全く気にならなかった。名刺が一枚づつ配られたが、村瀬まどかという名の、下腹に妊娠の膨らみのある社福士は、自分はこれから産休に入ってしまうので、別の社会福祉士の者が業務を引き継ぐ、と説明した。
「あの‥」警察施設の廊下で、洋一は社会福祉士を呼び止めた。社福士は、口許を微笑させた顔で振り向いた。
「僕、大塚洋一です。社会福祉士というのは、聞いたことはあるんですけど、どういう仕事をしてる人達なんでしょうか。僕、難しいこと分からないから、簡単に教えてほしいんです。療育手帳持ってるから」洋一が訊くと、村瀬まどかは了承いたしました、という風に頷いた。
「心身、心や体の障害ですね。身体障害であったり、精神、または知的な障害をお持ちの方や、障害やその他の事情で、生活に困っている人、介護が必要な高齢の人の相談に乗って、そういう人達を、福祉、医療の支援を受けられるようにして、サービスの提案、調整を行うことが、私達、社会福祉士の仕事になります」「そうなんですね」「今回のこと以外で、何かお困りのことがありますか?」まどかが、髪に隠れていないほうの目を丸く開いて訊ね返した。
「娘がいるんです。今、二十六で、今年七になるんですけど。娘が子供の頃に、僕、家出ちゃって、ずっと会ってなかったんですけど、去年、柏で会ったんです。僕がこうだから、娘も、障害、持ってると思うんです。どうすれば、いつも会えるように出来るのかが知りたくて」「娘さんのお名前は、何といいますか?」「妻とは、市役所に結婚の届けとか出してなかったから」「内縁ですね。では、苗字が違うということでよろしいでしょうか」「はい。娘は、池内菜実、っていう名前です。あの、野菜の菜に、木の実の実って書く名前なんです。去年、ちょっとだけ会えたけど、今、どこに住んでるかが分からないから‥」
「ラインなどはおやりですか?」「ああいうのは、僕、ちょっと分からない。電話と、ショートメールだったら出来るけど」「そうなんですね。では、私の名刺にある電話番号に、電話でもSMSでもいいので、連絡を下さい。そうすれば連絡先が登録されます。多分、県内にお住まいだと思いますので、県北部の市役所の障害者支援課に掛け合って、療育手帳の更新、またはサービスの利用記録を調べてもらうことは可能だと思いますが、いかがいたしますか?」「何でもいいです。お願いします」洋一は願うように言い、まどかはまた微笑した。
「では、私のほうで出来る範囲内のことをさせていただきます」「ありがとうございます」洋一は頭を下げた。
「もしも該当がない場合、私と業務提携しているNPOに協力を仰ぐことにあると思いますので」「よろしくお願いします‥」
互いに礼をし、施設の廊下に残った洋一がまず考えたことは、娘と一緒に住むことだった。だが、もし娘が既婚で、夫、子供のいる身だった場合、そこに自分が入っていくことが許されるだろうか、という不安も一抹ほど覚えていた。
希望の輝く期待と、排除されはしないだろうかという不安の念を胸に抱きながら、洋一は、社福士の去った長く廊下に立っていた。
鎌ヶ谷の駅前に、一台の軽ワゴン車が停まっていた。車の周りには、大きく深いバケツに生けられた色とりどりの花が並び、マジックで値段の書かれたプライスプレートが差されている。運転席からはカーラジオの音声が流れ、そろそろ老齢に差しかかる齢の男が車体に背中を預けていた。
白くなったパンチパーマの頭をし、竜が刺繍されたトレーナーに黒のツータックパンツという服装をしたその男の立ち姿は傲岸で、目つき、口許に、育ち、経歴の荒みが出ていて、優しげな感じは全くない。
禁煙区域にも関わらず、堂々と煙草を燻らせながら、売り物の花に目を遣ると、女児が二人、しゃがんで花を見ていた。
「おい、これ、売り物だ。いたずらすんな」男は煙草を口に女児達に叱咤口調を投げた。
「お花、下さい」立ち上がって言ったのは、二人のうち一人の、未就園児と思われる女児だった。
「買うのか」男が煙草を手に、女児達に寄った。「お前らの小遣いで買えんのか?」「お小遣い、一緒に出すから」「何だ、誰にお供えすんだ」「グっちゃん」年長の女児が立ち上がって答えた。
「あ? グっちゃん?」気だるげに問い返した男は眉をしかめた。
「何だ、そりゃ。ワンコか。それともニャンコか。畜生に花なんざ供える必要なんかねえぞ。そんなことすんのは、人間様だけでいいんだ」「ワンちゃんじゃないよ」「じゃあ、人間か」男はフィルターだけになった煙草を足許に落とし、革靴の踵でにじり消した。
ラジオは、高速道路の渋滞情報を流していた。
「幼稚園のとこで、グっちゃんのお庭っていう会社やってた、面白くて優しいおじさん。その会社、私と樹里亜ちゃんで通ってて、おやつ食べながら、障害者の人達とお話したり、ゲームしたりして、遊んでたんだ。でも、そのおじさん、天国行っちゃったから、今、会社、お休みになってるの」
男の顔に、おおよその事情を理解した色が浮かび、目元に少しだけ優しさが挿したように見えた。
「だから、私と樹里亜ちゃんでお小遣い出し合って、グっちゃんにあげるお花、買いに来たんだ」「そうか。ちょっと待ってろ」男は、花が差されたバケツの前にしゃがみ、白菊の束を抜いた。
黙々と古新聞紙で茎部分を包み、ビニールを巻いて、年少の女児に差し出した。女児がそれを受け取ると、男はふっと息を吐いた。
「やるよ。金はいいから。一番安く仕入れたやつだかんな」男が不愛想に言い、女児二人はどこか不思議そうに男の顔を見上げ、年長の女児が敬語言葉の礼を言って、年少の子も続いた。
「なるべくすぐに花瓶に差せよ。元々鮮度がよくねえやつだから、すぐ萎れちまうかんな」男が投げ言うと、振り向いた年長女児が「はい」と返事した。
小さな背中を並べ、東中沢のほうへ歩み去っていく二人の女児を目で追いながら、男は柄にもないことをしたと自嘲するような笑いを漏らした。
あの日から降りたままだったシャッターを上げ、入った「グっちゃんのお庭」の内景は、まだ義毅がいた頃の雰囲気を留めていた。子供達が座るスクエアのソファー、大きなキッズカラーボール、けん玉、畳まれた車椅子などがそのまま置かれ、夫が地域の障害者、児童達を、自分も楽しみながら楽しく盛り上げている風景が、幻影となってまどかの心の眼に映っていた。
営業時間中は来たことはないが、その情景は充分に想像出来る。
東側の壁に掛かっている人物画の前に、まどかは立った。その額縁の中では、一羽の蝶を肩に留めた少女が首を傾げている。習志野台に住む、予備校講師の女性から贈呈された絵で、モデルは自身の娘だという。まどかは面映ゆく、絵の中の愛らしい少女を見つめ、四ヶ月目に入っている下腹に手を添えた。
エコー検査はこれからで、性別はまだ判明していない。夫は、男児が生まれることを望んでいた。
「ごめん下さい」開け放しの入口扉から、可愛い声がした。少女と蝶の絵から、目を入口に移すと、女児が二人立っていた。年少のほうの女の子が、白菊の花束を両手に余らせて抱えていた。
「いらっしゃい。入りなさい」まどかは促し、中に二人を入れた。
「お姉さん、スタッフさん?」年長の女児が訊いた。「私は、この会社の社長だった人の奥さんよ」「グっちゃんの奥さん?」「そうよ」まどかが答えると、花束を持った年少の女児が進み出た。
「はい。これ、グっちゃんに持ってきたの。お花屋さんのおじさんにもらったんだよ」女児が白菊の花束を下から差し出した。
「ありがとう」まどかは花束を受け取ると、奥のカウンターに目を遣った。空の花瓶がちょうど一つあり、彼女はカウンターへ歩き、シンクで水を汲み、白菊をいけた。カウンターに花が咲いた。
「グっちゃんは天国へ行ったけど、これからもみんなのこと、見守ってるからね」「うん‥」年少の女児が頷いた。その時、「馬鹿言え、今、俺がいんのは地獄だ」という夫の声を、まどかは聞いたような気がした。
「お名前は何っていうのかしら」「田中新菜です」年長の子がしっかりした発音で名乗り、次に年少の女児が「私、樹里亜‥」と、音程の安定しない抑揚で答えた。
「樹里亜ちゃん、私の本当の妹じゃないの。吉富さんっていうお家から来て、うちの子供になったんだよ」「そうなのね」まどかは新菜と名乗った女児の述べに、複雑な背景を察した。この樹里亜という子が、義毅の言っていた、虐待を受けていたという子供で間違いないと分かった思いがした。
他人は元より、我が子にも愛情を与えられず、虐げる人間の行く末は、その人間が本気で改心しない限り、寂寞としたものになる。樹里亜の元の家の親達とて、そうだろう。まどかは面識こそないが、社福士として様々なケースを担当してきた彼女には、それが刻み込まれて、よく分かる。
「待って」まどかは小さな冷蔵庫まで歩き、中を確認したところ、まだ開栓していないコーラが入っていた。
「ジュースでも飲んで、ちょっとお話していく?」「ううん、今日は祖母ちゃん達来るから、もう帰る」「分かった。まだしばらくお休みになるけど、そのうちに、新しい社長さんを立てて、また始めるから、楽しみにしててね」まどかが言うと、新菜と樹里亜は、テンポのずれた頷きを返した。
スタッフの誰かに代表を継がせる。まどかは、手を繋いで小さな背中を遠のかせていく二人の後ろ姿を見ながら、今後のことを考え始めていた。
予定通り、十月にお産が終わり次第、すぐにこの社屋を増築し、社会福祉士事務所を併設しよう。夫が残したこの事業所をこれからも存続させ、私は社福士として、暗がりにいる人の手を取り続ける。夫が、実兄の子を実質的に手を取ったように。
今後のことが、まどかの中にはっきりと定まりつつあった。
「こいつは何だ。駄菓子銭か」「区の外れに住んでる重度心身障害者の女の子を介護して、遊び相手になってやったら、そのお父さんがくれたお礼金ですよ」「おい」木島は薄いサングラスの奥から、怒りを含んだ睨め上げを刺した。
今日の作業を終えた利用者達が帰宅し、三十分ほどが経過した時間だった。
「何の意図があって、こんなおちょくりの舐め、くれてんだ」木島は往年杵柄の唸りを発した。
「おちょくりじゃないす。元締に、これで一杯飲んでもらおうと思って出した、好意の金ですよ」松前が吐く息に言葉を乗せるように言うと、木島は拳を両手に握り、椅子のスプリングを激しく軋ませて立ち上がった。その顔は、怒りに紅潮していた。
「てめえ、命が惜しきゃ、東京の決まりに従え。いいか。明後日までに、五つ、納めろ。東京はな、東京のために功労した奴には、それに相応しい報われを俺がくれてやることになってる。だがな、俺や組織を舐めた奴には‥」木島が言いかけた時、松前はジャケットの懐へ右手を滑り込ませた。
「じゃあ、何で荒さんを殺したんすか」松前は抑揚強く言いばな、瞬きのうちに懐から抜き、木島の体に向けたマカロフの引金を引いた。
弾は木島のサングラスの右フレームに赤い花をパッシングさせ、窓のカーテンを脳片で汚した。木島は着弾の衝撃を受けて尻で椅子を押し倒し、脊柱側彎の体をずるりと窓際壁に撫でつけて崩れていった。
大柄な人間の足音が聞こえ、木製の曇りガラス入りドアが開けられた。
入ってきた多田は、脳と血漿にまみれて壁に背中をもたれつけている木島の死体を見遣ると、視線を松前に移し、頬を小さく吊り上げた笑いを浮かべた。
「ありがとうよ。これで目の上の何とやらが消えた。中に四つ入ってる」多田は厚い封筒を松前に差し出した。「骸はこっちで適当に始末する。お前はしばらく、沖縄辺りに隠れとけ。今日から、俺が東京を締めることになる」言った多田の額に、松前は無言でマカロフの銃口を当てた。二発目の銃声が響いた。
二つの死体を背にスタッフルームを出ると、廊下に瀧田というスタッフの若者が立っていた。瀧田は、ADHD系の発達障害を持っていて、仕事に迷っている時に木島に拾われ、パンダ事業所で二年ほど働いてきた。最低賃金を下回る時給の上、社保も有休もなく、ごろつきの上司や同僚スタッフからいじめられ、こき使われているが、拾ってもらったという立場で、我慢しながら身を置いている。稼業で足しげくやってくる松前とは話仲間で、松前は、彼の辛い境遇を知り尽くしている。彼は、松前を本当の兄のように慕っている。
「松さん‥」瀧田は、悲しみの目で松前を見上げた。それは別れを惜しみ、松前の行く末を案じる眼だった。
「俺はこれから日本を出る」「松さん、俺も連れてってよ!」「駄目だ。今日、俺達はもう道が分かれたんだ。いいか、お前はさっさとこんな所を飛び出して、自分が生きやすい道へ身を振るんだ」「松さん!」瀧田が松前の袖にすがりついた。胸に顔を埋めて泣く瀧田の背中をさすった松前は、優しく彼を押し離した。
「松さん、俺と約束して‥」松前の背中を、瀧田の声が追った。
「絶対に、生きててね、松さん‥」松前の肩の向こうで、涙で顔を濡らした瀧田が、訴えかけるように言い、肩を震わせた。
「生きてて、いつか、俺とまた会ってよ。その時、夢だった幸せ掴んだ俺の姿、見せたいから」瀧田は言って、体の中にあるもの全てを振り搾り出すように哭いた。
「分かったよ。俺もそれが見たいから、いつか、絶対会おうな」松前は残すと、瀧田の慟哭を背中に聞きながら、パンダ事業所の門を出て、木島と多田に仇討ちの銃弾を撃ち込んだマカロフを人工水路に投げた。
「えれえ強えな、風が‥」路面の砂を巻き上げて吹き荒む春風に呟いた松前は、いずこへともなく歩みを進め、その一角から姿を遠のかせ、消えた。その消え方は、これからの彼の命を暗示しているようだった。
去年末から失踪の千葉NPO法人施設長、埼玉で、万引きを重ねて逮捕。その弟の副施設長格は、杉並区のコンビニエンスストアで店員を暴行の上、反社会勢力の名前を出して脅迫、容疑否認のまま書類送検。
スマホの速報ニュースを確認した叶恵の心には、さほどの感慨も高揚も起こらなかった。携帯を懐にしまった叶恵は、まとめた身の回り品が収まっているリュックを背負い、間借りの自室を出て、階段を降りた。
「お世話になりました」キッチンで不動産オーナー夫妻に辞儀をすると、主人と夫人は、柔和に笑んで頷いた。
夫妻は、十二月のあらましは、全て叶恵から聞いて知り、理解している。
「叶恵ちゃんの昔のことは、僕達も知らなかった。だけど、そんなに辛くて悲しくて、やりきれない思いを子供の頃にしてたんだったら、もっと早くに話してほしかったと思うよ」主人が惜しそうに言い、何かを考えこむ顔を見せた。
「だけど、叶恵ちゃんがあそこに入職したのは、始めから、お父さん、お母さんの弔いをやるためだったんだものな。君がどんな思いで、どんなに苦しい思いに耐えながら、それを準備していたかと思うと、僕はね‥」主人の言葉が震え、詰まった。
「これから、お父さん、お母さんと暮らした大田区へ戻るのよね」「はい。新しい仕事のあても、もう決まってるので」「辛くなったら、またいつでもいらっしゃい」主人と並んで涙ぐむ夫人に、叶恵は、また小さく頭を下げた。
庭でぺスパに跨った時に玄関前を振り返ると、主人が指で涙を拭い、夫人はたっぷりとした情を込めた目で微笑していた。
エンジンをかけ、走り出したぺスパからもう一度頭を下げた。それから後ろは振り返らなかった。
大田区には、一般道を通り、時折休憩を交えながら向かったため、到着には二時間ほどを擁した。すでに賃貸契約を結び、鍵も受け取っていた東糀谷の都営団地の部屋に荷物を置き、自分が父、母と過ごした時間に棲んだ町へ、ぶらりと出た。
町は、あの頃と比べてかなり洗練され、至る所がクリーンアップされ、真新しい店やモールが並んでいる。様変わりした育ちの街を歩きながら、育った家のある地点へ足を向けた。
番地を覚えていたその場所がヘルパーステーションに変わっていることを知った時、「そういうものだ」としか叶恵は思わなかった。いかにもな時代の流れだった。
文岡兄弟は名誉を剥奪されて社会から永久的に抹消され、仇は完全に討ち晴らした。その場で両親の霊に宛てた念を送った叶恵は、静かに踵を返し、その「ケアネットたんぽぽ」なる居宅介護支援事業所前から去った。
なお、あの一件では、猥褻物陳列に問われ、一度警察に身柄を引かれたが、数千円の過料を支払って釈放されることになった。昔に文岡兄弟とその手勢達が自分の父親に行い、母を死に追いやったことの全容を話したところ、取り調べの警察官は、余りある同情と、叶恵のその行動への、職業的な立場上、口には出せない喝采の思いを表情に見せた。
自分の復讐に手を貸した、荒川と名乗っていた男が、三咲駅脇の路上で死んだことは知っている。ニュースによると、犯人の行方はまだ掴めず、背後関係も不明だが、どのような手段で得たのかが分からない潤沢な資金を蓄えて福祉会社を経営していたのだという。これは合法から外れた生き方をする者には、いずれ訪れる最期だと悟りながら、心からの感謝と冥福の念を送っていた。
これから、元の鳶手元の仕事に戻り、新しい生活を、父、母の思い出に抱かれるこの町で始める。新鮮な気持ちを胸に抱き、肩から、家の跡地であるヘルパーステーションを見た。灯りの下の両親の笑顔と、繋いだ父の大きな手の感触が蘇っていた。幼かった頃の思い出だった。
去年の秋に、最も恥ずかしい類いの刑事事件を起こしたが故に生活保護を打ち切られ、家賃も支払えなくなってアパートを失い、子供も離され、妻も実家へ逃げ帰ったがために、今、余儀なくされている無料定額宿泊所の暮らしは、退屈極まりないものだった。
元々、建設会社の宿舎であった二階建ての木造家屋を改造した建物で、ベニヤの薄い壁に仕切られた一部屋三畳ほどの個室があてがわれ、朝は納豆に卵焼き、昼は自分で調達し、夜はレトルト物のカレーや牛丼、ましな時は一切れの焼き魚という粗末な食事が出る。トイレは和式の共同で、入浴設備はなく、屋外には十分百円のコインシャワーが三棟並ぶ。そこに、顔にまるで覇気のない、中年や高年の男達がぞろりと住んでいる。彼らの間に会話らしい会話はない。
生活資金は、市の福祉協議会から三十万円の融資を受けているが、それが宿泊所の利用費、共益費、中身に反して法外と言っていい食費などで、月ごとに目減りしていく。それを返済し、自身の生活を工面するために、きちんと働こうという気持ちは立ち上がらなかった。彼はどこまでも、汗を流すことが嫌いな男だった。
今のその境遇に自分の身が落ちた近因、遠因を省みる心は、吉富栄一は依然として持たなかった。なお、恐喝、義子への傷害、強制猥褻を行いながら奇跡的に実刑の執行を免れたのは、担当弁護士が被害当事者との示談を勧め、吉富がそれに従ったためだった。樹里亜の親権者である内縁の妻は、彼に対して提訴の意思を示さなかった。
退屈への苛立ちを胸に持て余しながら宿泊所を出たのは、午後の夕方近くのことだった。
その無低がある滝不動から松戸線に乗り、新津田沼へ出た。大通り沿いに軒を持つ立ち飲み屋で、焼き鳥やレバ刺しを食いながら生ビールを数杯呷り、紙幣を叩きつけ、硬貨を投げるようにして勘定を支払って暖簾を手で跳ねのけて、足許おぼつかなく頭をぐらつかせて通りへ出たのが、空がだいぶ暗んだ時刻だった。
服装は、竜虎の刺繍がされた黒上下のジャージに、手には小さなバッグを持ち、刈り込んだ金髪の頭もそのままだった。その姿で、因縁を巻く相手を探すように、酒で据わった両目を左右に動かしながら、鷺沼方面へふらついた足取りで進んだ。その方向に決まった宛てがあるわけではなかった。
交差点を折れ、トンネルを通り抜け、マンションに面した道にふらつき出たところで、車のヘッドライトに前から照らされた。角から車が左折して進んできて、吉富の前に、バンパーが着かんばかりの近さで、タイヤを軋ませて停まった。クラクションは鳴らされなかった。ブラウンの塗装がされたワンボックスの軽自動車で、運転者は女だった。
「すみません、ここ、歩車道ですよ」吉富と同年代の三十代後半の女は運転席の窓から顔を出して、恐縮した口調で注意した。助手席には、女の子供らしい、小学校低学年に見える男児が座っている。
「関係ねえんだよ、こらあ、この糞女」吉富は呂律の回らない口調で凄んで、運転席側に回り、女に顔を詰めた。
「こういう道こそ、歩行者優先のはずじゃねえのかよ」「この道では、歩行者の方は端を歩かなくちゃいけないんですよ」「おい、ここで仲間呼んで、てめえ輪姦して、隣のガキ、ぶっ殺してやろうか」吉富が言った時、後部座席のスライドドアが開く音がし、男が後ろに立った。
中背だが、顎ががっしりとし、頸と腕の太い、私服のセンス的に職人風の男だった。その時、吉富の腰、足つきは逃げる用意をしたものになった。
「女房の言う通りだよ。基本、道の真ん中を我が物顔で歩く奴なんか、馬鹿だぞ」降りて出てきた女の夫は、吉富の目をまっすぐに見据え、迫力に満ちた、底響きするバスを押し出した。
「ついで言うとな、女をどうこうして、子供をどうするとかいう真似をやって、ただで済むと思ってるような野郎は、馬鹿以下だよ」夫の男が歩を詰め、吉富は後ずさった。
「見ての通り、俺は仕事持ちの所帯持ちだ。ちなみに仕事は鳶だけど、家庭持ってる以上、ちんけな決闘なんかで柄を引かれるわけにはいかねえんだよ。けど、女房子供に危害加えるような奴とは、やるぜ。そん時は、相手が一般人だとか反社だとかの区別はねえよ。守るため、助けるためとなりゃ正当行為扱いだかんな。まだ文句があんなら、そこに車停めさせっから、その辺の裏で俺と話すっか? 手ぇは出さねえよ。お前なんか殴って、面倒臭い事情聴取とか受けんのは嫌だからさ」
男が微塵の動揺もない低声を投げると、吉富は顔を伏せ、しばらくその場に立ったのち、とぼとぼとした足遣いで、京成津田沼の方面へと、不様に萎縮した背中を遠ざけた。
踏切を越えた頃にまた反り返り、粋がり散らした肩と顔でアーケード通りを練り歩き、緩やかな坂沿いに建つ「欧州キッチン ぷちきゃろっと」という波型デザインのアンティークな木看板を掲げ、ヨーロッパ風の赤い三角屋根、白い壁に小さな窓のある構えの店の前で足を止めた。
青い木枠のドアを押すと、からんからんとドアベルが鳴り、いらっしゃいませ、という女の声が出迎えた。
見渡した店のスペースは二人掛けと四人掛けが並び、広さは多くのコンビニ程度だった。白壁には欧州調の小さな看板や絵画が飾られ、丸いテーブルには赤のクロスが敷かれている。
顔、足つきで一目見てすでに酒が入っていると分かる柄の悪い男が入ってきたのを見た客達が、一斉に表情を固めた。
奥のキッチンでは、白のコック服に長いコック帽を被った店主らしい男が、フライパンから火を立ち昇らせて、トングで肉を返す調理を行っている。その奥には、もう一人コック姿の従業員がおり、そちらは洗い物に勤しんでいるようだった。
席を回ってお冷を置き、オーダーを取っている女は、店主の妻であろうことが雰囲気で分かる。
吉富は、坂側壁の二人掛けに座った。壁を振り返って見ると、十代風の可愛い顔立ちをした少女が、両手に縫いぐるみを持って微笑している絵画が掛かり、「娘」という題名に「船橋市 二井原愛美さん寄贈」とある。それを横目で睨んだ吉富は、うるさいものを見たように小さく舌打ちした。
「いらっしゃいませ」エプロン姿の女が、吉富の前にお冷を置いた。
「ビール」吉富は欧風アンティークチェアに背中を反らして注文した。
「当店では、アサヒ、サッポロ、キリンの他、ボヘミアビール、ウィーンビール、ドイツのピルスナーなど、ヨーロッパ産のビールも揃えておりますが、いかがいたしますか?」「アサヒでいい。早くよこせよ。それと、すぐ出来るもん、何でもいいから持って来い」「おつまみでしたら、マリネがすぐにお出し出来ます。お食事でしたら、赤ワインで煮込んだチキンの入ったブリティッシュスープカレーが、一番早く席にお届け出来るかと思いますが」「それでいいよ。早く持って来い、おらぁ」「承知いたしました。アサヒのビールと、ブリティッシュスープカレーですね。ただいま、ビールと海鮮マリネをお持ちいたします。お料理のほうは、少々お待ちいただけますでしょうか」「ちんたらやってっと承知しねえぞ、おら」吉富の呟きを流すようにして、エプロンの女は小さなバインダーを持ってキッチンへ歩んだ。
アサヒの中瓶が来て、それからすぐにマリネが届けられ、吉富はビールをグラスに注ぎ、呷り飲みながら周りの席を睥睨した。キッチン側にはゴルフバッグを置いた高年の男二人、空間を挟んだ反対側の席には、セーラー服姿の中学生らしい少女と、中年の母親の母子がいる。母親は背中に不安を漂わせ、娘はお冷を前にして俯いている。
吉富の前後は空いており、挟んで隣の四人掛けには、主婦らしい女のグループが座っており、皆、言葉には出せず、それとない態度に不安を滲ませている。
視線を合わせてはいけない人間、として、今の吉富は扱われている。
「スープカレー、お待たせいたしました。お熱いのでお気をつけ下さい」エプロンの女が接客言葉をかけ、吉富の席に注文品を置いた。
「何だ、このでけえじゃが芋は。これじゃ食いづれえべ、普通はよ」「あの、これがこの品の調理法でして」「切ってこいよ。それに、何だ、この色は。糞みてえな色だろうが。舐めやがって、この野郎」「あのですね‥」「あのですね、じゃねえんだよ、この糞アマ」
吉富の声はまだ、キッチンに届くまでには至っていないらしい。キッチンからは調理の音が聞こえ続けている。だが、頂点に達した不安と恐怖を目に込めた、他の客達の顔が、ちらちらと吉富のほうを向き始めていた。
「何だ、こら!」巻き舌の怒声を放った吉富はテーブルのクロスを引いた。来たばかりのスープカレーと、ビールの中瓶が、赤い絨毯の床にぶちまけられ、方々から悲鳴が上がった。
「言いてえことがあんなら聞いてやっから、言えよ。汚えもんでも見るみてえに、さっきからじろこら、じろこら見やがってよ!」
立ち上がった吉富は隣のテーブルに歩を詰め、主婦達が座る丸テーブルの壁側の縁を掴み、自分の体の側へ引き倒した。料理、ワインのボトル、チューリップグラスが音を立てて絨毯の上に撒かれ落ちた。主婦達は恐慌の顔で、椅子の上で身を縮めた。
「駒込凶悪連合知ってっかぁ!」フロアの中央に立った吉富の大声が、店の端々にまで撒かれた。
主婦達は身を縮め、ゴルフバッグを携えた高齢の男二人は、ちょっとした驚きを覚えているという風の顔を向けている。キッチン寄りの席では、椅子を降りた母親が、中学生の娘の肩と頭を抱き、吉富を振り向き見ながら、我が子を守ろうとしている。
「俺はその駒凶の元親衛隊長だぞ! 俺の仲間が関東中の裏の世界にいるんだよ。俺を怒らせた奴は、みんな家族ごと嬲り殺しになるんだ! お前らも‥」吉富は、椅子の上で体を震わせている主婦達を覗き込み、次に高齢の男二人に「お前らも」と言って顔を突き出し、娘を必死で守ろうとしている母親に歩み詰め、母親のセーターの襟を両手で掴み、その体を引き倒した。娘が怯えた顔で吉富を見上げた。
「おらぁ、パンツ脱げ! おまんこ見せろ! おめえ、処女だろ、おら!」吉富は娘の腕を取り、フロアの中央にその体を引きずり出した。
店主の妻で間違いないと思われるホール担当の女が、意を決したように駆け寄り、吉富の腕を押さえた。
「引っ込んでろ、おら! 俺は今日、可愛いJCとやりてえんだよ! 婆あに用はねえんだよ!」吉富の怒声が響く中、ゴルフ帰りの男の一人も席を立っていた。酸甘、辛苦の人生経験を嗅ぎ分けた肚の据わりが、その顔に見て取れた。
その男が少女を助けんと席から進み出るのと同じくして、キッチンから、コック帽を脱ぎ払い、フライパンを置いた店主が、静かに歩み寄った。
店主は、妻の肩を叩いて、引け、と促し、少女の腕を掴んでいる吉富の前に立った。端の切り上がった一重瞼の目をし、よく調えられた口髭を蓄えた、品がありながらも過去に身を置いていた修羅が覗える男で、年齢程は、吉富と同世代だった。
「何だ、どけよ、おらぁ、コックなんかよ!」吉富の怒罵を受けたその男は、わずかにも動じる風でもなく、即応出来る足の置き方、手の垂らし方をし、言葉を発さず立っている。
「邪魔だ、こらぁ!」少しの怯みの中から虚勢を作り直した吉富が、店主の顔にフック加減のパンチを飛ばした。まるきり心得のないものでもないが、せいぜい、弱い者を殴り慣れているという程度の殴撃だった。
吉富のパンチは宙で捉えられ、手首が極められた。店主がそのまま腰を軽く落とすと、吉富の体はくたりとフロアに跪き、伏した形になり、その口から痛号が吐かれた。
腕を捩じられて倒れた吉富の体が、店主の目下に引かれた。次に店主は、腹這いの体勢にした吉富の両腕を、背中でクロスさせた。
「110番‥」店主は妻に言い、吉富に目を戻した。妻はキッチンカウンターの隅に置いていた携帯を取った。
体を組み伏せられた吉富の斜め後ろでは、少女が母親に抱きしめられ、店主の妻がその肩に手を置いていた。
「お代はいいから帰れってのは、俺は言わない主義でね」泣き声混じりの呻きを漏らす吉富に、店主は低く静かな言葉を落とした。
「だから、払ってもらうよ。お前が今、ここで、何の落ち度も非もない人間に与えた心の傷、それの代償をね」吉富の腕がより上にひしぎ上げられ、呻きが完全に泣き声に変わった。
「駒込の凶悪、よく知ってるよ。俺、今、触法少年の更生アドバイザーやってる霧島さんが率いてた幕張スペクトラーの特攻で、昔、文京まで遠征してかち合ったからさ。でも、俺の印象じゃ、まるでたいしたことなかったな。凶悪、なんてチーム名倒れもいいとこで、高校生デビューの集まりみたいな感じで、中学からみっちり鍛えてきたって感じがまるでしない娑婆僧ばっかりだったよ。まあ、嘘誠かはさておいて、親衛張ってたとかなら、やって恰好いいことと、みっともねえことの区別ぐらいはつけたほうがいいんじゃねえかな。お前、弱い者にばっかり強いのが丸出しだろうが。もっともそれは、お前の抱える生きづらさで、お前も自覚がねえし、教えてくれる人間も周りにいなかったことが問題だったんだよな。お前の所帯とかは俺は知らないよ。だけど、生きづらさの整理がついてねえから、奥さんにも優しく出来ねえし、子供も世間一般並に可愛がれねえし、ろくすっぽな教育も出来ねえんじゃねえのかよ。そんなとこじゃないのか。そこにあるんだよな、お前みたいな人間の不幸は。世に言う虐待の親とかは、まずはその親のほうから、国が金刷っても面倒見をしなきゃいけないと思うよ、俺はね」
店主は吉富の素性を見透かしたように言うと、吉富の襟首を持って引き、座位にし、柔法を解いた。
頬に本数の多い涙の筋を引き、両方の鼻孔から洟、あんぐりと大きく開いた口から涎を流し、吉富は、ひい、ああ、と泣き喚いている。その号泣が、痛みのためか、最後まで粋がり倒そうとしたところを、実力、貫禄が上の人間にあえなく制圧された口惜しさからなのか、その店主の言葉が、心の奥底に確かに在った本音を痛く刺し、実は長年分かってもらいたかったことを今、やっと分かってもらえたことの嬉しさからなのか、あるいは先までここで行っていた自分の愚行を恥じてのものなのかは、傍目には分からない。
だが、その中には、これまで自分自身がどれだけ分かろうとしても分かり得なかったことが分かったという感動、感激も含まれているように見えなくもない。
キッチンの隅から、小さな顔が覗き、やがて、小さな体がひょこっと立った。それは、髪をポンポン付きのヘアゴムでツインテールに結び、ピンクデニムのジャンパースカートを着た、五歳くらいに見える女児だった。
フロアの中央で泣き続ける、そろそろ中年という年齢程度の年格好をし、服装に粋を張った男の口から、言葉が出る気配はなかった。
それをぽう、とした面持ちで見ている女児は、ダウン症だった。ホール係である店主の細君が娘の名を呼び、来ては駄目だと手で制した。
娘の手にはハンカチが持たれている。アニメのイラストが描かれているらしい小さなハンカチを片手に持ったは、動物柄の靴を履いた足をちょまちょまと進め、まだ号泣を撒いている吉富の前に立った。
吉富の前にハンカチが差し出されたが、つむられた彼の目は、それを捉えていない。それから、ハンカチが下げられ、娘の紅葉のような左手が、吉富の頭をさわさわと撫で始めた。閉じられていた吉富の目が開いた。赤く充血した目からは、涙が止まることなく流れ続けている。
「見ろ。うちの娘だよ。今、保育園だ。見りゃ分かるだろうけど、お前みたいな奴がよくシンタイだのシンショウだのと呼んで、蔑んで差別する生まれを持ってる。でも、持ってる心は、こんな具合にどこまでも優しいんだ。相手がどんな人間であってもね、差別する心がねえ」
店主の声が落ちた時、吉富はまた激しく泣き盛った。それは店主もよくは知り得ぬ何かへ向けた、深い詫びと後悔が含まれているようにも見えた。
客達の目が、娘と吉富、それを囲むようにして立つ店主と妻の一景に集中している。ゴルフ帰りの男二人は、なるべきことになったな、とコメントしたそうな視線を注ぎ、キッチン前では、中学生の少女が母親に抱かれ、母は成り行きを見守り、祈るような目で見ている。もう一人のコック姿をした従業員は、カウンターの前に立ってその光景に、ある種の感動を含めた目を投げていた。
娘のハンカチが、吉富の涙を拭い始めた。おぼつかない手つきだった。吉富の泣哭は、次第に静かなものになっていった。彼の両手が、まるで自分に近い誰かに宛てるように娘の肩に伸びかけた時、ノックが鳴った。
店主の妻がドアを開け、制服の警官が二人入ってきた。
「さっきまで、まあ、こんな具合に」店主が転倒した丸テーブルと、絨毯の上に散乱した料理類を指して説明すると、警察官は、それを行った者が誰かをすぐに理解し、「はい」と答え、二人で吉富の両脇を抱えて立たせた。次いで、もう一人の警察官が入ってきて、メモ帳を手に、店主の前に立った。
「お話を出来るだけ詳しくお聞かせ願いたいのですが」と言った警察官に頷いた店主の目は、力を失った脚を引きずられるようにして連行されていく吉富の後ろ姿に向いた。娘もそれに倣い、巡査の腕からぶら下がり、引かれる吉富を見送った。
吉富は、駅前交番までの道を警官二人に抱えられながら、これまでの人生で自分が気づき得なかったことに、ようやく気づき得た思いを抱いていた。これが世の中一般に言われる反省か。それとも悔恨か。彼の頭の中で、それらは語彙にはならなかったが、子供時分の昔からつい数分前に至るまで持つことのなかった感情が胸に涌き出していることが自分で分かっていた。
主に興味を込めていると分かる通行人の目がちらちらと向けられた。同情などは、その中には含まれてはいない。だが、それは構わなかった。
これから執行猶予が取り消され、どれだけの期間かは分からないが、繋がれることになることは理解している。
それが、約四十年もの間に自分が棲んできた、智の恵みのない無明の世界から、自分がせめて片足だけでも抜け出すきっかけになればいいと思いながら、緩い坂を警官に持って引かれていた。
その時、優しい笑顔の輝く青年となった拳刀と、妙齢の美しい女に成長した樹里亜の姿が頭に思い浮かんだが、それこそが警官に引かれ、足をもつれさせながら交番へ向かっている今の時間に自分が最も願い、祈っていることであることに、気づいたような、気づいていないような感じがした。それでも、その気持ちを、今の自分が何故持ち得ているかというと、あのハロウィン前の日に「身体障害者野郎」と蔑み罵り、舐めきっていた相手から言論のみならず実力でも成敗され、その相手が、あの言葉を自分の実子にくれたお陰であるということからだと、吉富ははっきりと思解していた。また涙の溢れ出した目が、曇った夜の空を見上げた。
吉富は、まだ言葉として形成されていない誓いの念を空に向けて送りながら、洟を啜り上げた。
家で洗濯したユニフォームとロッカーの鍵を返却し、同僚達に短く挨拶して、裏口からマスオマート前原店を出た村瀬を、香川が小走りに追ってきた。
「今後の身の振り方はもう決まってるんですか?」「あらまし決まってるよ。落ち着いた頃、また報告させてもらうから」訊いた香川に村瀬は答えた。
「今からハローワークだよ。失業保険の申請手続きに行く。失保もらって、ゆっくり当たることにする」「村瀬さん‥」香川は唇を噛んで、俯いた顔向きを見せた。
「副店の辞令までが出てながらお辞めになるっていうことは、村瀬さんなりの深い心の事情があってのことだと思うんですけど、これは‥」「日勤の、常駐警備の仕事に転職しようと思ってるところなんだ。客商売よりも時間的な余裕のある仕事がいいんだ」村瀬が笑顔で返した答えに、香川は無念の思いを呑んだ目を上げた。
「村瀬さんがいなくなるとなると、僕、自信が持てなくて」香川が言った時、ヤードに段ボール回収業者のトラックが入った。
「僕もこの職場、もう八年だけど、反省の意味も込めて言うと、だいぶのほほんとやってきちゃったと思うんですよ。でも、村瀬さんは、不特定多数の人を相手にする職業の上で、持ってなくちゃいけないものを、みんな持ってたじゃないですか。秋のあの一件だって、村瀬さんがいなかったらどうなっていたか分からなかったはずじゃないですか。不安なんですよ。一人の男としても、村瀬さんを継ぐようにして、店員の義務的な仕事が自分にちゃんとこなせるかどうかが分からなくて」
二人の背後では、バックします、バックします、ご注意下さい、というトラックからの自動音声が鳴り響いていた。
「それは香川君自身が、自分を信じきることで出来るようになることだよ」村瀬が言ったその時、「おい!」という男の怒声が聞こえた。それを発したのは、回収車のドライバーの男だった。見ると、トラックを降りた男が、台車に積まれた段ボールを指差していた。
「台車並べる位置が違えよ。直せよ、お前。これじゃ詰めねえよ」応対していた店員は、村瀬が休職を有休消化へ繋いでいる間に入ったと思われる、まだ彼が顔を知らない高齢の男性アルバイトだった。その高齢アルバイト店員に恫喝口調で命じているドライバーの男は四十代に見え、身長は190越えでたっぷりとした横幅を持つ、プロレスラー並みの体格をしていた。
高齢の店員は怯え、対応に困りきっていた。香川はその様子をちらりと見ると、短い呼吸をし、村瀬の目を見た。
香川が男に歩み寄り、後ろに村瀬が続いた。
「どうかされましたか?」平静を装った声で香川が問うと、ドライバーの男が目を剥いた。隣の村瀬には、男の口から漂う酒の臭いが届いていた。
「これ、縦二列に直せよ。こんな横に広がってたら、邪魔臭えだろうが。おい、おめえらも店員だべ? さっさとやれよ」男は顎をしゃくった。
「すみません」香川は反り立つ男に頭を下げた。
「でも、これは当店が規定した並べ方です。不自由をおかけすることはお詫びいたしますが、ご理解いただけたらと存じます。それと、こちらの方は、先日入ったばかりのアルバイトの方でして、勝手は分かりません。代わりに私がお立ち合いいたしますので」「てめえじゃ分かんねえよ。店長呼べよ」男は飲酒の息を吐きながら、滅茶苦茶な理屈をぶち出した。
「石田さん、売場戻って、笠原さんに指示もらって、ポップ並べやってもらえますか。店長には、香川に言われたって言えば大丈夫なので」脇で身をすくませていた、石田というらしい高齢のアルバイト店員は、はい、と弱く返事し、錠無し扉の向こうへ去った。先程簡単な退職の挨拶を交わした新任の店長も、やはり責任感に乏しい役職者らしい、と村瀬は思った。
「おい、このカッペ。俺が店長の代理で話させてもらってもいいか」「何だ、この野郎。てめえ、コンクリート詰めにして東京湾に沈めんぞ」一歩進み出て言った村瀬に、男はフロントガラスに貼られた日章旗にチーム名のロゴが描かれた暴走族のステッカーを指して凄んだ。
香川が一瞬驚きの顔を見せたが、去年に村瀬の本性的一面を目の前で一度見ていることもあり、その驚きが静かに喉へ飲み下された表情になった。
「お前が今取ってる態度、言葉には、関係性を大切にしなきゃいけねえ取引先への誠意もなきゃ、年齢的に目上の人間に対する敬意ってもんがねえよ。さっき吐いた言葉も、ドカチンとか鳶の飯場じゃ普通に飛び交ってんだろうがな、気の荒え職工だって、力のねえ爺ちゃんをお前呼ばわりして、やれ、しろ、とかって言葉で、命令はしねえはずだぜ。回収に来るなり、でかい声張り上げて切れ散らかすことが、男を魅せることだとかって本気で思ってんのか。情報伝達の遅れ。学習心の欠如。だから、てめえはカッペだっつうんだよ。珍しいもん見ったびに、あーっ、あーって、指差して騒ぐようなさ」おどけ顔のジェスチャーを交えた村瀬の柄言葉に、回収ドライバーの男は、目にびくりとしたものを覗かせた。出鼻を挫かれたような表情だった。
その柄言葉は、先日警察から遺体を返還され、まどか、経営していた福祉事業所のスタッフ達とともに直葬で送り出した義毅を意識したものだった。
今、両親のものと並んで、笑顔の遺影が飾られている弟。犯人の特定など、事件の捜査そのものに進展はないが、つい昨日、江戸川区の小規模福祉作業所で発生した、短銃のようなものを使用した殺人事件との関連を一部マスコミが嗅ぎ立てようとしていると、検視前の安置に立ち合った刑事の鴨下が教えてくれた。
「何だ、この野郎‥」男は目を細め、村瀬に鼻先を突き出した。
「てめえ、俺がどこと仁義契ってっか分かったら後悔すんぜ」「そんなもんがどこだか何だかは俺が知るかよ。酒の勢いだけでそんな看板語ってっと、後悔することになんのはお前のほうじゃねえのか」「やんのか、こらぁ」男は舌を巻き立てて肩を揺すった。
「やらねえよ。他人の仕事に水差して、決闘でしょっ引かれたくはねえからさ。第一、お前、今、仕事中のはずだろうが。時間内に何箇所回らなきゃ帰れねえんじゃねえのか。くだらねえ油売りしてねえで、とっとと仕事して事業所へ戻れよ。でなきゃ、所長とか主任がうるせえはずじゃねえのか」村瀬の発している声とそのイントネーション遣いは、お人好しなスーパー店員ではなく、完全に、命をやり取りする修羅を経た男のものだった。
それは村瀬の人生歴史において、全くの事実なのだ。
その時、村瀬の顔にも体勢にも力みはなく、正直な思いを自然に吐き出したという感じだった。また、彼のいつもと違う啖呵言葉も様になっていた。香川はその柄の悪い言葉の交わりを、ただ涼然とした顔で聞いていた。遣う言葉はさておいて、時に応じて強さを持った対応が必要だという社会的事実を学んだ、という風に。
回収ドライバーの男の顔から、目に見えて威勢が失せていった。やがて男は、不服そうに口を閉じ、回収ローラーのスイッチをオンにして作動させ、台車を引き寄せて、積まれた段ボールをローラー口へ投入する作業を始めた。その肩、背中は、大きな体に反して小さくすくんでいるように見えた。
「おい、それとお前、酒飲んで車転がすのも今日限りにしろよ。子供が死ぬような飲酒運転事故、今もたくさん起こってることは、お前もニュース見て知ってんだろ。お前の上が、何でこれを許してんのかは知らねえけどさ」村瀬は言い足した。男はしゅんとなったようにそれには答えず、作業を続けていた。
ローラーが呑み込む段ボールの潰れる音を背に、村瀬は香川の肩を押し、裏門前に移動した。
「香川君、山本店長に言え。あの業者は前からの直接契約だったけど、この辺で別業者に替えろってさ。そうでなきゃ、ここのスタッフ達の精神衛生上にも良くないよ。たちの悪いごろつき客とバトルして、事実上の出禁に追い込んだ村瀬からの提言だって言えば通るさ。それに‥」村瀬は言葉を区切り、店前の車道に目を遣った。
「君はちゃんとここの仕事を、責任背負って全う出来るよ。さっきだって、あの高齢のアルバイトさん、しっかり守ったじゃないか。別にさ、俺なんかを継ぐとかいう大上段に構えた気持ちは持たなくたって、君の自然体で日々の仕事をこなしていけばいいだけだよ。俺だって、あの手の男相手に、あんな柄っ八な応対が出来るようになるまでは、仕事の上でも、私生活でも、いろいろ」「あの時の、あの顔の傷のこととか‥」香川は、聞き込みたくないことを聞いた風に言葉を引っ込めた。
「自信を持てよ」村瀬は香川の肩をぽんと叩いて、踵を踏み出した。
「そうだ、今日は小谷さんがいなかったけど、休みなのかな」「すいません、言い忘れてました。あの人、辞めました。村瀬さんが退職の意思をお伝えする電話を増本店長宛てにしてから、すぐです。心のほうの病気を理由に長く休んでたんですけど、一昨日、電話があって、今日付けで退職しますっていうことでした。分かりませんよ。彼女の心の中までは。僕には。ただ、いつも明るく振る舞いながら、耐え難い何かと必死で戦ってたように、僕には見えましたね」
人が普段、表に見せている顔が、その人間の心をそのまま表しているわけではない。真由美が日頃、村瀬ら同僚達に見せていた表情は、主として、内心に抱える対人不安の取り繕いだった。村瀬は彼女にとり、数少ない、不安を感じずに関わることの出来る相手だった。その不安をコントロールするために、子供と一緒に薙刀を習っていた。あの時、実は半ば腰が引けかけていた村瀬を庇うようにして吉富に立ち向かったことは、存在意義的に大切な人間を助けるためだった。その意義が、村瀬への好意に変わったのだ。
それを思った時、村瀬は、あの吉富さえも何かを経ることによって、何年かあとには別人のように変わっているのでは、という不思議な予感を覚えた。そう思えるのは、彼が分かりやすい単細胞者であるということを、関わってよく知っているからこそだった。
真由美の退職理由は、しごく簡単で分かりやすいものであったことが、村瀬の胸に軽く落ちた。
「十五年間、ご苦労様でした」「あまり寂しがるなよ。たまに顔を出すし、ラインで連絡も取り合えるしな」頭を下げた香川に、村瀬は挙手して歩き出した。
駅前が近づいた時、遠目姿に懐かしさを感じる女が前から歩いてくるのが目に入った。距離が縮み、村瀬とその相手の目が丸くなり、唇が開いた。
「あ、村瀬さん」「小谷さん。お元気ですか」美容室の前で向かい合った村瀬と真由美は、半ば諦めかけていた再会を喜ぶ笑顔を満ちさせた。
「私、退職したんですよ」「俺もだよ。今、物品を返却して、挨拶してきたところなんだ」互いに打ち明け合ってから、その理由を話すことを憚るように、二人は黙然とした。だが、ともにその顔には、踏んぎりをつけたあとの清々しさが浮かんでいた。
「俺、お客さん商売では、やるべきことはみんなやり終えたよ。しばらく休んでから、それとはまた違う職種へ行こうと思ってるところなんだ。警備業を考えてるんだけどね」「そうですか。私は、親として、娘達と一緒にいる時間を増やしたいことと、あと、私も、何年か休みたくて」「それもいいね。うちは今月から息子がグループホームに行っちゃったから、静かになって、淋しくなったよ。でも、子供の将来のためだからね。しかたない。娘は変わらず、福祉施設で頑張って働いてるよ」「そうなんですね。それが一番の安心ですよね」真由美は相槌を打ち、その間は短いながらも言葉を熟考する顔になった。
「あの時は、戸惑わせちゃって、ごめんなさい‥」真由美の詫びが、いつのことかは村瀬には分かった。
「でも、気が迷って言ったわけじゃないんです。みんなが対応に困ってたのに、お店が何も対策を考えてなかった人達相手に、村瀬さんは間違いのない、毅然とした対処をして、あの若いお母さんと赤ちゃんを助けたのよね。その時、私は、本当に強い男の人っていうのは、こういう人だって、心から思ったの。それで、私はこの人が好きだっていう気持ちを持ったんです」真由美の頬は、あの日のような朱にほんのりと染まっていた。
「結婚っていうものは、その人それぞれにちょうどいい相手が、縁の働きで与えられるものだって、私の友達も親も言ってて、私もそれを疑う由はなかったの。修行だから、その相手がどんなに自分の理想に近くても、不満を抱かせるものが必ず何かしらあるものなんですよね。だけど、あの日、私は、もしも村瀬さんと結婚していたら、私が思い描くパーフェクトに限りなく近い暮らしを送ることが出来たんじゃないかって思って、その思いが、あの言葉になって出たんです」真由美は朱をもった頬の顔で、切なげな目を村瀬に向けた。
「戸惑いはしなかったよ。嬉しかったよ、普通に」村瀬の答えに、真由美は眼鏡越しの目を細めた。
「実は、俺の付き合ってる人は、わけのある人なんだ。普通の人が生まれついて20キロの重しを背負ってるとすれば、その人は40、あるいは50の重い荷物を肩にしょってるんだよ。それでも、肩に食い込むその荷物の重さは、おくびにも出さない。だから、俺は」「障害、ですよね」真由美の合いの手に、村瀬は俯いて頷いた。
「私には分かります。思い出すのが辛いことを、村瀬さんが私にお話しなくても‥」言った真由美は、村瀬がかい潜ったことの全容を理解している。
今、「尊教純法被害者の会」が弁護士会の音頭で結成され、物的証拠がないために逮捕を免れた教団幹部クラスの人間達を相手取って、強制献金、仏具の高額売りつけ、財産の奪取などで吸い上げられた、総額五百億円あまりの被害金の返還訴訟を起こしており、解散命令が請求されることは時間の問題だと言われている。また、教団に騙されて囲われ、事実上の売春をさせられ、猥褻写真、ビデオを撮影をされるなどの被害に遭っていた、知的障害者女性達の保護、ケアも行われ、実質的に教団組織の指揮権を握っていた最重要指名手配犯である李が、成田市三里塚の廃屋の小屋で、重傷を負った部下達とともに射殺死体で発見された件も、そのあまりの劇性をふんだんに含んだ顛末が世間の話題を独占している。そしてその一連が、小さな組織によって引き起こされた事件であることも、巷を驚かせている。
李と、他の者達の重度負傷は、犯罪組織の実態を持つ教団の対立勢力によるもの、あるいは内紛によるものと、マスコミ各社は結論づけかけている。警察病院に収容された暴力代行部門の構成員達は、傷の治りを見計らった取り調べで、その夜に起こったことについて、「仲間が裏切ってマネージャーを殺した」という供述以外には、固く口をつぐんでいるという報道も、各社新聞、週刊誌記事で共通している。
「村瀬さんが今お持ちになっているものは、間違いのない本当の愛のはずです。その方と、この先いつまで一緒にいられるかは分からないにせよ、寄り添うことが出来る、今の時間を大切にされることがベストだと思います。だから、あの時に私が言ったことは忘れて、たとえ限られた時間であっても、今は、その人を‥」「小谷さん」村瀬は姿勢を改めた。
「あいつが店で脅迫の文言を吐いた時、俺は自分だけじゃ、あいつに毅然と出来る気がしなかった。スタッフの立場からあの男に立ち向かう勇気は、あの時に小谷さんがくれたんだ」
「それは‥」真由美は顔を下げて言いかけ、このすぐ近くだという自宅のほうへ踵を向けた。
「二年前に入ってきた時から、ずっと好きだったから。必要以上に男の看板を張ろうとしないこと、話すことで、心から安らげる人となりが」「小谷さん、俺は。俺なんて」こぼすように言った村瀬の記憶には、己の手で、バリカンで虎刈りの坊主頭にされた老いた女の姿と、息子を助けて、と懇願する声、蹴った薄い胸の感触が蘇っていた。
次第に背中を遠ざける真由美が、後ろの村瀬に向けて手を振った。村瀬も、その背中に向かい、優しく手を振った。
船橋ハローワークで失業保険受給の手続きを済ませて庁舎を出、外壁の貼り紙が気になった村瀬は、ふと目を留めた。
貧困ビジネスの入居勧誘にご注意下さい、とあり、それによると、ここのところハローワークや市役所の付近に、実りの悪い仕事をして困窮する生活を送るよりも、一時生活保護を受けながら、私達の求職支援を受けながら高給の職を探したほうが将来のためにもなる、などという甘言で誘い、数人をアパートやワンルームマンションに押し込んで共同生活を送らせながら、支給される生活保護費を搾取する悪質業者が出没しているという。
今に始まったことでも何でもないと心に呟いて、京成船橋へ歩み進みながら、話に聞いた菜実の父親を思った。トゥゲザーハピネス、と検索をかけてみたところ、類似した名前の飲食店やフラワーアレンジメントサークルが表示されたが、福祉系NPOでそれに該当するものは出てこなかった。やはり、尋常に考えれば、その経営実態は怪しく、犯罪的な収益を得ているということで間違いはないのだろう。
今、連絡を控えている菜実と入籍した場合、父親のその身柄を引き取り、一緒に暮らすことについては、彼女の父親であるから、人間性は間違った所はないと見ていいと思え、抵抗感はない。そこで、もしも探す術があるとすれば、やはり、まどかを頼る以外にないのだろう。
大通りを歩きながら、思いは子供達に馳せられた。
心の内は分からない。それでも、あの夜を経ても、恵梨香、博人が、自分の意思の力をもって生きる道は失われてはいない。恵梨香はあの日からたったの二日で仕事に復帰し、博人もグループホームに入居しながら、就労継続支援A型の仕事を頑張っており、電話で話す声も明るい。
目の前で人間が死ぬなどということは、尋常なら、計り知れない心的外傷を負う。自身達も凌辱され、銃の標的にまでされるという、まるで何かの劇中の出来事のような体験をすることになった。
だが、父親が家と家族を明け渡して逃げたことにより、幼い時分からその体と心に、一生涯背負わなくてはいけない傷を負い、若くして、それを人間的な強さに変えたのが、村瀬の二人の子供なのだ。
恵梨香は、性的凌辱というものには、子供の頃から慣れていた。その傍にいた博人は、自分の命を差し出しても家族を守る心を自然と身に着けていた。二人は肚が据わっていたのだ。
それは、かつて自分達を見捨てるようにしてあの家から逃げた父親が、様々な経験から人としての強さを得て、自分達を助けられる男に変貌していたことが、子供達を補強していたのだろう。
そこへ至るまでには、長い時間がかかった。
長い時間が。
博人がいなくなった東習志野の家に帰り着き、テレビを点けると、正午のニュースが映った。
ますます悪質化の進む貧困ビジネス業者が相次いで摘発という見出しの上に、どこかのアパートから捜査員が荷物を運び出す映像が映し出されている。
福岡で三件、大阪で五件、千葉で一件、複数人数の困窮者をアパートやワンルームマンションで同居生活をさせ、生活保護費、障害基礎年金などを不正に詐取していた疑いで、法人運営者が会わせて七十人ほど逮捕され、その中でも千葉県流山市に拠点を置き、国の認証を受けずに一般社団法人を名乗って活動していたトゥゲザーハピネスを、最も悪質な囲い込み事業を行っていたとして、同会会長で暴力団関係者の男を詐欺容疑で逮捕、職員として雇われていた数名の男も詐取の容疑で現在取り調べを進めており、アパートに住まわせられていた、身体障害、軽度の知的障害者を含む男性、女性の計四十人あまりが保護された、ということだった。
キャスターが読んだその法人名に聞き違えはなく、表示されたテロップもそのままだった。菜実は柏で父親と再会したと言っていた。流山は柏の隣接市だ。
保護され、送られる先が分かれば、つてが出来るかもしれない。村瀬は菜実の身になった希望を得た思いがした。
大塚洋一が他五人と同居するアパートの部屋にノックが鳴り響き、捜査員達が入ってきたのは、彼を始めとする入居者達がまだ布団の中にいた、早朝四時過ぎのことだった。
何が起こっているかは、叩き起こされるようにして起きた洋一にもはっきりと理解出来た。
まず、部屋に番詰めしていたスタッフの男が連れて行かれた。行先は警察署のはずだった。それから、警察官達は、洋一達入居者に着替えるように促した。また、身の回り品をまとめるように言われ、皆、それに従った。
どういうことなのか、と、分かってはいながら捜査員に訊くと、トゥゲザーハピネスは、今日摘発されたと答えた。
自分の身柄が、心までも、これまでの軟禁生活から解放されるという喜びと驚きを同時に覚えながら、同室の男達と一緒に警察車両に乗った。
警察は、洋一達入居者のほとんどが、手帳の交付された障害者であることを把握しており、三日から一週間ほどの間、警察施設に宿泊してもらい、その間に受け入れ可能なショートステイ、または入所型の福祉施設を探すという説明が、社会福祉士からなされた。なお、その女性社会福祉士が、伸ばした前髪で顔半分を隠していることなどは、洋一には全く気にならなかった。名刺が一枚づつ配られたが、村瀬まどかという名の、下腹に妊娠の膨らみのある社福士は、自分はこれから産休に入ってしまうので、別の社会福祉士の者が業務を引き継ぐ、と説明した。
「あの‥」警察施設の廊下で、洋一は社会福祉士を呼び止めた。社福士は、口許を微笑させた顔で振り向いた。
「僕、大塚洋一です。社会福祉士というのは、聞いたことはあるんですけど、どういう仕事をしてる人達なんでしょうか。僕、難しいこと分からないから、簡単に教えてほしいんです。療育手帳持ってるから」洋一が訊くと、村瀬まどかは了承いたしました、という風に頷いた。
「心身、心や体の障害ですね。身体障害であったり、精神、または知的な障害をお持ちの方や、障害やその他の事情で、生活に困っている人、介護が必要な高齢の人の相談に乗って、そういう人達を、福祉、医療の支援を受けられるようにして、サービスの提案、調整を行うことが、私達、社会福祉士の仕事になります」「そうなんですね」「今回のこと以外で、何かお困りのことがありますか?」まどかが、髪に隠れていないほうの目を丸く開いて訊ね返した。
「娘がいるんです。今、二十六で、今年七になるんですけど。娘が子供の頃に、僕、家出ちゃって、ずっと会ってなかったんですけど、去年、柏で会ったんです。僕がこうだから、娘も、障害、持ってると思うんです。どうすれば、いつも会えるように出来るのかが知りたくて」「娘さんのお名前は、何といいますか?」「妻とは、市役所に結婚の届けとか出してなかったから」「内縁ですね。では、苗字が違うということでよろしいでしょうか」「はい。娘は、池内菜実、っていう名前です。あの、野菜の菜に、木の実の実って書く名前なんです。去年、ちょっとだけ会えたけど、今、どこに住んでるかが分からないから‥」
「ラインなどはおやりですか?」「ああいうのは、僕、ちょっと分からない。電話と、ショートメールだったら出来るけど」「そうなんですね。では、私の名刺にある電話番号に、電話でもSMSでもいいので、連絡を下さい。そうすれば連絡先が登録されます。多分、県内にお住まいだと思いますので、県北部の市役所の障害者支援課に掛け合って、療育手帳の更新、またはサービスの利用記録を調べてもらうことは可能だと思いますが、いかがいたしますか?」「何でもいいです。お願いします」洋一は願うように言い、まどかはまた微笑した。
「では、私のほうで出来る範囲内のことをさせていただきます」「ありがとうございます」洋一は頭を下げた。
「もしも該当がない場合、私と業務提携しているNPOに協力を仰ぐことにあると思いますので」「よろしくお願いします‥」
互いに礼をし、施設の廊下に残った洋一がまず考えたことは、娘と一緒に住むことだった。だが、もし娘が既婚で、夫、子供のいる身だった場合、そこに自分が入っていくことが許されるだろうか、という不安も一抹ほど覚えていた。
希望の輝く期待と、排除されはしないだろうかという不安の念を胸に抱きながら、洋一は、社福士の去った長く廊下に立っていた。
鎌ヶ谷の駅前に、一台の軽ワゴン車が停まっていた。車の周りには、大きく深いバケツに生けられた色とりどりの花が並び、マジックで値段の書かれたプライスプレートが差されている。運転席からはカーラジオの音声が流れ、そろそろ老齢に差しかかる齢の男が車体に背中を預けていた。
白くなったパンチパーマの頭をし、竜が刺繍されたトレーナーに黒のツータックパンツという服装をしたその男の立ち姿は傲岸で、目つき、口許に、育ち、経歴の荒みが出ていて、優しげな感じは全くない。
禁煙区域にも関わらず、堂々と煙草を燻らせながら、売り物の花に目を遣ると、女児が二人、しゃがんで花を見ていた。
「おい、これ、売り物だ。いたずらすんな」男は煙草を口に女児達に叱咤口調を投げた。
「お花、下さい」立ち上がって言ったのは、二人のうち一人の、未就園児と思われる女児だった。
「買うのか」男が煙草を手に、女児達に寄った。「お前らの小遣いで買えんのか?」「お小遣い、一緒に出すから」「何だ、誰にお供えすんだ」「グっちゃん」年長の女児が立ち上がって答えた。
「あ? グっちゃん?」気だるげに問い返した男は眉をしかめた。
「何だ、そりゃ。ワンコか。それともニャンコか。畜生に花なんざ供える必要なんかねえぞ。そんなことすんのは、人間様だけでいいんだ」「ワンちゃんじゃないよ」「じゃあ、人間か」男はフィルターだけになった煙草を足許に落とし、革靴の踵でにじり消した。
ラジオは、高速道路の渋滞情報を流していた。
「幼稚園のとこで、グっちゃんのお庭っていう会社やってた、面白くて優しいおじさん。その会社、私と樹里亜ちゃんで通ってて、おやつ食べながら、障害者の人達とお話したり、ゲームしたりして、遊んでたんだ。でも、そのおじさん、天国行っちゃったから、今、会社、お休みになってるの」
男の顔に、おおよその事情を理解した色が浮かび、目元に少しだけ優しさが挿したように見えた。
「だから、私と樹里亜ちゃんでお小遣い出し合って、グっちゃんにあげるお花、買いに来たんだ」「そうか。ちょっと待ってろ」男は、花が差されたバケツの前にしゃがみ、白菊の束を抜いた。
黙々と古新聞紙で茎部分を包み、ビニールを巻いて、年少の女児に差し出した。女児がそれを受け取ると、男はふっと息を吐いた。
「やるよ。金はいいから。一番安く仕入れたやつだかんな」男が不愛想に言い、女児二人はどこか不思議そうに男の顔を見上げ、年長の女児が敬語言葉の礼を言って、年少の子も続いた。
「なるべくすぐに花瓶に差せよ。元々鮮度がよくねえやつだから、すぐ萎れちまうかんな」男が投げ言うと、振り向いた年長女児が「はい」と返事した。
小さな背中を並べ、東中沢のほうへ歩み去っていく二人の女児を目で追いながら、男は柄にもないことをしたと自嘲するような笑いを漏らした。
あの日から降りたままだったシャッターを上げ、入った「グっちゃんのお庭」の内景は、まだ義毅がいた頃の雰囲気を留めていた。子供達が座るスクエアのソファー、大きなキッズカラーボール、けん玉、畳まれた車椅子などがそのまま置かれ、夫が地域の障害者、児童達を、自分も楽しみながら楽しく盛り上げている風景が、幻影となってまどかの心の眼に映っていた。
営業時間中は来たことはないが、その情景は充分に想像出来る。
東側の壁に掛かっている人物画の前に、まどかは立った。その額縁の中では、一羽の蝶を肩に留めた少女が首を傾げている。習志野台に住む、予備校講師の女性から贈呈された絵で、モデルは自身の娘だという。まどかは面映ゆく、絵の中の愛らしい少女を見つめ、四ヶ月目に入っている下腹に手を添えた。
エコー検査はこれからで、性別はまだ判明していない。夫は、男児が生まれることを望んでいた。
「ごめん下さい」開け放しの入口扉から、可愛い声がした。少女と蝶の絵から、目を入口に移すと、女児が二人立っていた。年少のほうの女の子が、白菊の花束を両手に余らせて抱えていた。
「いらっしゃい。入りなさい」まどかは促し、中に二人を入れた。
「お姉さん、スタッフさん?」年長の女児が訊いた。「私は、この会社の社長だった人の奥さんよ」「グっちゃんの奥さん?」「そうよ」まどかが答えると、花束を持った年少の女児が進み出た。
「はい。これ、グっちゃんに持ってきたの。お花屋さんのおじさんにもらったんだよ」女児が白菊の花束を下から差し出した。
「ありがとう」まどかは花束を受け取ると、奥のカウンターに目を遣った。空の花瓶がちょうど一つあり、彼女はカウンターへ歩き、シンクで水を汲み、白菊をいけた。カウンターに花が咲いた。
「グっちゃんは天国へ行ったけど、これからもみんなのこと、見守ってるからね」「うん‥」年少の女児が頷いた。その時、「馬鹿言え、今、俺がいんのは地獄だ」という夫の声を、まどかは聞いたような気がした。
「お名前は何っていうのかしら」「田中新菜です」年長の子がしっかりした発音で名乗り、次に年少の女児が「私、樹里亜‥」と、音程の安定しない抑揚で答えた。
「樹里亜ちゃん、私の本当の妹じゃないの。吉富さんっていうお家から来て、うちの子供になったんだよ」「そうなのね」まどかは新菜と名乗った女児の述べに、複雑な背景を察した。この樹里亜という子が、義毅の言っていた、虐待を受けていたという子供で間違いないと分かった思いがした。
他人は元より、我が子にも愛情を与えられず、虐げる人間の行く末は、その人間が本気で改心しない限り、寂寞としたものになる。樹里亜の元の家の親達とて、そうだろう。まどかは面識こそないが、社福士として様々なケースを担当してきた彼女には、それが刻み込まれて、よく分かる。
「待って」まどかは小さな冷蔵庫まで歩き、中を確認したところ、まだ開栓していないコーラが入っていた。
「ジュースでも飲んで、ちょっとお話していく?」「ううん、今日は祖母ちゃん達来るから、もう帰る」「分かった。まだしばらくお休みになるけど、そのうちに、新しい社長さんを立てて、また始めるから、楽しみにしててね」まどかが言うと、新菜と樹里亜は、テンポのずれた頷きを返した。
スタッフの誰かに代表を継がせる。まどかは、手を繋いで小さな背中を遠のかせていく二人の後ろ姿を見ながら、今後のことを考え始めていた。
予定通り、十月にお産が終わり次第、すぐにこの社屋を増築し、社会福祉士事務所を併設しよう。夫が残したこの事業所をこれからも存続させ、私は社福士として、暗がりにいる人の手を取り続ける。夫が、実兄の子を実質的に手を取ったように。
今後のことが、まどかの中にはっきりと定まりつつあった。
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