手繋ぎ蝶

楠丸

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48章

~涙から未来へ~

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「脅迫と買収です。私は元々、府中に本部を構える宗教法人である日本倫修会で、若い世代の人を勧誘する教務局という部署で副主任をしておりましたところ、教団にスパイのような形で潜り込んでいた、某という男性から、こちらのほうが教義もしっかりしていて、収入面での実りも良いと言われて、倫修会にお金を積んで脱会して、尊教純法に入職いたしました」

 何本ものマイクの前で陳述する峰山の顔を、カメラのフラッシュが二回、照らした。画面左下には「中継」と出ている。

「広報部というセクションにおられた立場から、被害に遭われた方々には、どのような気持ちをお持ちですか。責任という意味も込めて」記者陣から、少しの詰りを込めた問いの一声が飛び、峰山は隠しようもない動揺を眼鏡の顔に泳がせた。

「それは、私自身も脅迫というものを受ける立場にいたもので、責任と言われましても、お答えしかねる部分があります。ただ、非常にお気の毒だという感情は持っております」「お気の毒に思っておられるというところで、峰山さんご自身は、今後、どういった形で責任をお取りになることを考えておりますでしょうか」先のものとは別の声が上がった。

「尊教純法教団組織の内情的なものを、教団の一員であった者として、より広く、同様の被害が拡大することを防止するための協力を、捜査機関、民間団体に対して惜しまない所存でございます」「今後、捜査が進む過程で、峰山さんを含む、フロントに立っていた教団職員にも逮捕などの刑事的制裁が下される可能性もあると思いますが、その辺りのことは、どうお考えでしょうか」「そちらもお答えしかねます‥」峰山は眼鏡越しの目に怯えた色を滲ませた。

「ただ一つ、何卒ご理解をいただきたいことは、私にせよ、他の広報部、会計部等に所属していた教団職員にせよ、目がくらむような高給を保証された上、命を握られた脅迫の下に教務を行っていたということであって、人としての良心は持っていたということです。ですので‥」

 画面の中の峰山が保身感情丸出しにそこまで言いかけた時、村瀬はテレビのリモコンを取り、スイッチをオフにした。手元のスマホを取り、最新情報アプリニュースを見ると、今日、釈明会見の元尊教純法広報部主任の峰山克明が、過去に女子中学生買春の逮捕歴があることが発覚、と出ていた。

 自分にはどうでもいいことが書かれた電子瓦版を閉じた村瀬は、天井近くに掛かる父母と、仏壇に置かれた義毅の遺影、位牌に目を投げた。

 一切は終わったが、またつまらない悶着が一つかそこら、降りかかりそうな予感がしている。だが、構わない。

 予感を強く覚えたまま、夕食の買い物に出た。駅近くのスーパーで、牛乳、肉と、野菜を少しと豆腐を買い、家前の路地に入った時、道の端に立つ男の姿が目に入った。セーターにチノパンの姿だが、苔のような無精の髭が口の周りに生え、髪の乱れ、汚れ具合から、何日か入浴をしていないらしいことが窺えた。まだ、若者の年齢域にある男だった。

「村瀬豊文‥」男は村瀬の名を呼んで、尻から抜いたサバイバルナイフを腹の位置に片手で構えた。

 村瀬は買物袋をするりと置き、猫足を整え、軽く握った拳を脇腹横に垂らす構えを取った。

 摺り足でレンジを詰めた男の手のブレードが、村瀬の心臓部に向かって突き出され、それを読んでいた村瀬は、足を捌いて男の右側へ回り込み、ナイフ側腕の袖を掴み、顎に三本の指をかけ、膝裏を内から薙ぐように蹴った。男は村瀬に袖を取られたまま、尻から落ちた。村瀬は尻餅の男の腕を背中へ捩じ上げ、手首に手刀を落とした。ナイフは、金属とコンクリートのかち当たる音を立てて路面に落ちた。

「今、逃げて隠れてる奴らに点数稼ぎたくて来たんだよな。これ以上やめろ。こんな何も生み出しはしない、馬鹿げたことは」村瀬は男の腕をひしぎ、額を路面に着かせるようにして上体を押しながら、静かな声を落とし、サバイバルナイフを蹴り遣った。

「こんなことを何度繰り返しても無駄だと、情けねえ上役の奴らに言え。それで、お前は警察に自首しろ。お前が、何かを心から喜んだこと、嬉しかったことのない人生をこれまで歩んできたことは、お前の目を見りゃよく分かる。今からだったら、何年か身を洗えば償えて、そんな人生も変わるかもしれないぞ。嘘だと思って、俺の言うことに従ってみろ。それとついでに、あんなくだらねえ人間の屑どもに、これ以上従うな。それが、これまでお前が不幸だった、何よりもの大きな原因じゃないのか」村瀬はゆっくりと言いながら、男の体を自由にした。

 男はしばらく路面に両手を着いて苦しげな呼吸を漏らしたのち、膝をいざって立ち上がった。

 戦意、殺意の失せた後ろ姿を、村瀬は見つめた。男は肩越しに村瀬の目を見た。その口が、何かを言いたそうに開いたが、言葉は出なかった。

「何も言うな。行け」村瀬が言葉で追うと、男は肩と顔をぐったりと落とし、気勢を失ったよろめき歩きで、振り返ることもなく歩み去った。村瀬はそれ以上の言葉で追うこともなく、角に消えていく男の背中を見送った。

 白の経帷子を着せられた姿で、ストレッチャーの上に横たわっている、見た目が初老域の女は、全てを受け入れきった上で命終を迎えた悟りを、閉じた瞼に浮かべていた。栃木刑務所の、灰色の壁に囲まれた一室だった。

「昨日の午前、作業中に頭痛を訴えて倒れて、救急車で病院へ搬送したのですが、開頭手術の甲斐なく亡くなりました。クモ膜下出血でした」紺の制帽、制服姿の女子刑務官が説明した。

 二十年間、引き離されていた母親、池内康子の死顔を見つめる菜実の目は、現実から遊離したように泳いでいた。意思、それを内包する精神の所在が分からない顔だった。

 恵みの家の固定電話に刑務所から連絡が入ったのは、昨日の昼下がりだった。その時、菜実は、三月に入ってから通い始めた就労移行支援事業所「ワークサポ湊」でトレーニングを受けていた。紅美子は、事業所に直接電話を入れ、菜実に代わってもらい、その旨を伝えた。臨時早退し、ホームに帰ってきた菜実の顔からは表情が消えていた。

 喪服代わりの黒系の服を着て、紅美子が隣に立ち、母の骸を見つめる今も、喜怒も、哀も見えない顔をしている。物言わぬ人形のように。

「葬儀を執り行うご希望をいただいていないので、ご遺体は、当方で斎場を手配して、火葬させていただくことになります。ですので、今のうちにお顔をよく拝まれて、お別れを済ませて下さい。ご愁傷様です」刑務官の言葉は、個人的感情は抑え気味だが、遺族の心中を気遣う優しさが込められていた。

 菜実が母の死顔を見つめる表情に、全く変化はなかった。全ての感情を抜き去られた者のそれで、そもそもその表情というものが無い。

「お墓はございますでしょうか?」刑務官が菜実に尋ねた。
「この子のお祖母さんのお骨が収められたお墓がどこかにあるそうなんですけれど、この子は、障害をお持ちで、こちらも言葉だけでは要領を掴めてへんのです」紅美子が代わって説明すると、そうですか、と返した。

「それであれば、当刑務所指定の共同墓地がございますので、そちらへ埋葬させていただくことになります。お戒名の書かれたご位牌は、そちら様で業者に頼んで作っていただくことになりますが。その共同墓地の番地などは、後日、書面でお送りいたします」

 それでも母の遺骸のそばから、留められたように離れようとしない菜実を、数分ののち、刑務官が辞儀で、紅美子が手で促した。それを感情を喪失した顔のまま受け入れた様子を見せた菜実は、声も言葉も発することなく、踵を入口の扉へ向けた。

 紅美子がハンドルを取る軽自動車が、箱森町を経て、栃木インターに入っても、菜実の表情形は変わらなかった。二時間近くが経ち、車が千葉の一般道に入った時、変わらず感情のない目をした菜実の頬が震え始めた。それでも、彼女の口から声、言葉は出なかった。

 十六時過ぎに、ホームに到着した。ホームには夕夏がおり、通所先から帰ってきた佳代子達、他の利用者達がおやつを食べていた。紅美子は夕夏に、菜実のおやつは彼女の居室へ運ぶようにという指示を出した。

「お風呂、好きな時に入り。ご飯も、食べたい時でいいから」部屋に運ばれた、どら焼きのおやつに手をつけず、今、母の形見となった魔法少女バトンを手に取り、撫でている菜実に紅美子は声をかけたが、反応はまるでなかった。

 食事の時間にも、菜実は階下へ降りてこなかった。入浴も、今日はする気がないようだった。

 二十二時過ぎに、テレビの消えたリビングに菜実は降りてきた。テーブルには、コロッケとプチサラダ、ハヤシライスがラップがけされて載っている。

「食べるん?」紅美子が小声で囁いて訊くと、菜実は俯き気味の顔を縦に振った。顔には、まだ表情がない。

 紅美子がコロッケ、ハヤシライスの順番にレンジに入れ、鍋の味噌汁を加熱した。加熱の終わった夕食を菜実の前に置くと、彼女は箸を取り、味噌汁を啜り始めた。

 ハヤシライスのスプーンを口に入れた菜実の目から、涙が滴り落ちた。顔は無表情のままだった。

 紅美子は分かっていた。菜実にとって、絶対に起こってはいけないことが起こり、その現実を、彼女の精神が遮断していたのだ。それが今、受け入れられないそれを受け入れ始めている。

 無表情だった菜実の顔が歪み始めた。口に入れたコロッケの切れ端が、への字にひずんだ口から、弱い咀嚼のたびにこぼれ、テーブルの縁に落ちた。手に持った箸も、力の抜けた指から落ちた。

 菜実は口周りがソースで汚れた顔を天井に仰ぎ向け、空気を震わせるような重く低い号咽を響かせた。その号の中に、お母さん、という言葉が含まれていた。歪んで開いた口の中では、白い具材を覗かせたコロッケが歯の上に載っていた。

 紅美子は菜実を後ろから抱きしめた。紅美子の慟哭が、菜実の号に重なり、響き合った。

 階段入口に佳代子が立っていた。彼女も哭いていた。それは菜実、紅美子と心を交換し合ったための涙だった。

 仕事から自由になった村瀬は空手に浸かって費やしていた。月曜の夕方から、また、土曜の午前からの稽古に休まず出、日曜午前の型分解講習、火曜夜の武器術講座にも出席していた稽古日以外の時間にも自主練習をし、ストレッチ、ランニング、筋トレも欠かさず行っている。

 その目的は、守る力に磨きをかけるためだった。

 型と約束組手を中心に行ったその日の稽古を終え、緑萌えの、暖かな四月半ばの船橋海老川に出た。あれから、まだ菜実とは連絡を取り合ってはいないため、彼女の状況は分からないが、あの三里塚の一件のあと、本人から電話があり、事無くホームに送り届けられたことまでは知っている。

 川沿いの東屋に腰かけ、スマホを見ると、恵梨香、博人からのショートメールが入っていた。それぞれ福祉施設、就労継続支援の仕事を頑張っていることと、菜実を自分達の新しい母として迎えることに戸惑いはないと伝える内容だった。

 二人の子供は、菜実を、自分達を守るために命を張って戦ってくれた人、と認識している。そこに二人の人間的聡明さ、強さを見る思いだが、それは村瀬を複雑な心境にさせるものでもある。

 仰ぎ見た澄んだ船橋の空には、日の丸のマークが描かれたオスプレイが、二機、飛んでいた。

 忌引を含めた一ヶ月のトレーニング休みを、菜実は申請していた。ワークサポ湊の女性施設長も支援スタッフ達も、「ゆっくりと休んで、気持ちが鎮まって、癒えた時に来なさい」と言ってくれている。菜実の家族事情は、スタッフ間で共有されている。

 母のことだけではない。あの雑木が生い茂る大字の小屋で、自らが行ったことに対して、罪の気持ちが湧き出している。その動機、理由を弁ずる思考機能は、彼女にはない。人の体を傷つけ、傷痍の身にした。その事実だけが罪悪の念を生じさせているのだ。

 その時に、それを自分が躊躇なく行ったからこそ。

 居室の小箪笥の上には、魔法少女バトンと並んで、唯一現存する母の写真が、小さな額縁に入って飾られている。父との写真も隣に並ぶ。どこで撮影されたものか、また、はっきりとした年代は不明だが、ブラウス姿の胸から上が写っていて、わりと満ち足りた笑みの顔をしている。その顔は、今の菜実と生き写しだった。

 撮影者は、父と思われる。

 居室でそれを手に取り、見ている時、チャイムが鳴り、夕夏が応対している声が聞こえた。やがて、居室のドアがノックされ、開けると、小さな驚きの顔をした夕夏が「お父さんだって‥」と菜実に伝えた。

 玄関で、去年の柏以来に対面した父の洋一は、あの時から一層やつれた顔で、娘の名前を呼んだ。菜実は、ただ驚きだけを刻んだ顔で、父を見た。

「身分を証明する物、持ってます」洋一は言い、背負ったリュックサックから療育手帳を出し、顔写真、氏名入りの項を提示した。

「社会福祉士さんに助けてもらって、なあちゃんがここに住んでることが分かったんだよ」なあちゃんとは、菜実が幼い頃、祖母、今、目の前にいる父と、先日獄に繋がれたまま死んだ母という両親が用いていた彼女の呼び名だった。

「ごめんなさい。失礼だけど」夕夏は菜実の耳元に口を寄せ、潜めた小声を出した。

「本当に、池内さんのお父さんで間違いないの?」夕夏に問われた菜実が、口許を小さく笑ませて頷いた。

 それは約一ヶ月前、一見それらしく見える手帳を見せた、警察を名乗る男達が菜実を騙して連れ出したということがあっての、かすかな疑念が込められているからのようだった。

「中にお入りになってお話されるのはいかがでしょうか。お茶をお出しいたしますので」「いや、ちょっと、他の人には聞かれたくない話もしなくちゃいけないから」洋一は夕夏に手を振り、ホームに入ることを断った。

 菜実は服を室内着からピンクのジャンパースカートに着替え、軽くメイクもし、洋一とともに出た。

 洋一とともに大久保方面へ歩き、その道中、父は自動販売機でジュースを二本買い、一本を菜実に手渡した。

 二人は、十字路を少し過ぎた所にある、赤い鳥居と祠のある公園に入り、目の前にシーソーのあるベンチに並んで座った。公園では、桜が散りかけていた。気温は、五月並みの高さだった。

「ごめんね。本当に長かったよね、なあちゃん。お父さんは、自分の勝手でお母さんとなあちゃん、置いて出てっちゃったけれど、なあちゃんとお母さんのことは、これまで一日も忘れたことはなかったんだよ」洋一は、痩せた肩を撫でさせ、詫びと、これまでの心境を述べた。火を点け、咥えた煙草の先が、話すことに勇気の要ることを話さなくてはいけなくなる緊張に、わずかに震えていた。前髪、もみ上げの白みも、これまでの心労を表していた。

 公園には、まばらな数の親子連れと、少人数の子供達のグループがいるが、隅のベンチに座る壮年の男と、若い女が話していることにまで聞き耳を立て、関心を示す者はいない。ただ、団地側のブランコで男の子を遊ばせている若い夫婦の夫が、菜実をちらちらと見ており、そばの細君の顔が、どこか怒っているように見える。その細君は、器量よしとは呼べない顔立ちをしている。

「お母さん、死んじゃったよ」菜実が告げると、洋一は、煙草から口を離して、さほど驚いた風でもない顔を娘に向けた。

「いつ?」「三月。刑務所さんの中で、頭が痛いって言って倒れたんだって。きょうどうっていうお墓に入ったの。私、いっぱい泣いたよ」

 洋一は表情の動きを止め、菜実の顔をしばらく見つめてから、鳥居と祠のほうへ顔を向けて、しばらくの間、黙した。

「お母さんが、人を殺して、お金を盗って、逮捕されたことは、お父さんは知ってたよ。お父さんも刑務所に入ってた。その刑務所の中で、自由に読める新聞を読んだことと、中のテレビで知ったんだ。どうして入ってたかっていうとね、あれからお父さんは別の県へ行って、寮に入って働いてたんだけど、その寮で、悪い人に付きまとわれて、暴力団に入れられちゃったんだ。それで、密猟っていう名前の犯罪をやらされてね、それでね」洋一は社を寂しく見つめながら、震える手に持った煙草を口に運び、煙を吸い吐きした。

「お父さんが障害を持ってるっていうことが分かったのは、刑務所、出てからなんだ。ネットカフェとか漫画喫茶、泊まってて、そのお金がなくなって、路上で暮らしてる時に声かけてきた人達がいて、自分達が持ってるアパートに住ませてやって、ご飯も食べさせてあげるから、その代わりにって言われて、病院で検査、受けさせられて、それで知能が少し遅れてることが分かったんだよ。先月までそのアパートに、他の何人かの男の人達と一緒にいたんだけど、それやってる、トゥゲザーハピネスっていう所の会長と職員が警察に捕まって、そこ、なくなったんだ。それで今、お父さん、船橋の“まりの”っていう障害者の施設で、お部屋、貸してもらって住んでるんだよ」

 洋一の語り口調は淡々とし、説明語彙も拙いが、それがかえって、これまで自分の歩んできた黒い霧の道の闇深さを強いタッチで綴っていた。

 二人の父娘が座るベンチの斜め前に、いつの間にか、赤ラメ塗装のアコーディオンを携えた初老の男が立っていた。男はやがて蛇腹を伸ばし、流麗な指遣いでキーを押して、曲を奏で始めた。

「私も、手帳持ってるよ。中学卒業して、ずっと普通の会社さんで働いてて、二十歳過ぎてから、病院さんで、障害あるって言われて、お手帳もらったの。それで、今の恵みの家さん入って住んで、前はダブルシービーさんっていう所でお仕事してたんだけど、そこ、施設長さんと、施設長さんの次に偉い人が、いいくないことやって、なくなっちゃったんだ。それで今、ワークサポ湊さんっていう所で、普通の会社さんに就職するためのトレーニングしてるんだ」「そうなんだね。立派にやってきたんだな。すごく苦労してきたと思う。大変だっただろう? 今、誰か、彼氏とかはいるのか? お嫁さんにしてもらえそうな男の人は」菜実を隣から振り返って見た洋一の顔は、娘の将来を案じるものだった。それは、彼女に寄りつく者への懸念も含んでいた。

「大切に思ってる人はいるよ。今、テレビでやってる、純法、知ってるよね」「勿論知ってるよ。すごく大変な事件だよね。障害持つ人たちが、売春させられたり、お金取られたりして、警察も、議員も、関わってたんだよね」「私、純法の法徒だったんだ。それで、男の人達のお相手やって、お金もらってたの。そのお金で、お母さん、刑務所さんから出す弁護士さんのお金、貯めようとしてたの。そのお金、孝子叔母さんに預けてたんだけど、叔母さん、私に嘘言って、そのお金、別のお参りさんに渡してたんだ」

 洋一の目が、到達の緩慢な衝撃を受けたという感じに、少しづつ大きく見開かれた。

「それ、教えてくれたの、お参りの手繋ぎ式で知り合った、村瀬さんっていう人なんだ。村瀬さんが、柏の叔母さんのお家に行って、私に嘘ついてお金送らせるのやめてって言ってくれたんだよ。それで私、村瀬さんに言われて、叔母さんに、自分で、もう会えらんないって言ってきたのよ」

 菜実のほうを向いた洋一の顔に真剣味が増していった。

「村瀬さんって、男の人だよね」洋一が確認するように訊くと、菜実は頷いた。

「スーパーさんの店員さんしてる人で、私よりも年上なの。それで、私の所に、純法の怖い人達がもう近寄れらんなくしようとして、私、助けて、守ろうとして、お怪我もした人なんだ。その人が、私の、男の人騙してお金持ってこさせる悪いお参り、やめさせてくれたんだ。私、小さい頃にお父さん、遠く行っちゃって、ずっとお父さんいなかったから、その人、もう一人のお父さんみたい思ってたの。私のこと、いつも優しく、抱いてくれた。私のことで泣いてくれた。私、その人のお嫁さん、なってあげたかったの。でも、ホームの職員さん、将来に私の負担になるからって言って、反対されたのね」菜実は述べ、赤くなった鼻を啜り鳴らした。

「それで、前、職員さんの紅美子さんが知ってる人の知り合いの、パン屋さんの男の子、紹介されたの。その人も私と同じ療育手帳持ってる人で、すごく優しくて、いい人。悪い人じゃ絶対ないって、私思ったよ。私がお嫁さんになったら、絶対、一生優しくしてくれるって。私、前、男の人に嘘つかれて、お腹に赤ちゃん出来させられたことあったから」

 洋一が顔を乗り出した。その目の色には、少しづつ濃度を増す怒りが見える。

「その女の子の赤ちゃん、私、産んで育ててたんだ。だけど、一歳半の時に、事故で死んじゃったの。だけど、私、そのあとも頑張ったよ。悲しいのに負けちゃ駄目だって、心で自分に言って。どんな時でも、後ろを見ないで、前、見て生きていこうって思って。後ろ見たら、人生が止まっちゃうから。それで、今日まで来たの。私のこと、助けてくれた人、守ってくれた人が喜ぶように、頑張ろうって‥」

 斜め前の初老男がソロ演奏している曲は、フォークダンス曲のキンダーポルカだった。

 洋一の眦が下がり、肩が震え始めた。

「パン屋さんの男の子、島崎君っていうの。間違いないんだ、彼が本当にいい人なのは。でも、今、私の中には、村瀬さんよりも大切の人、いないの。それで今、いろいろ考えてるんだ」

 洋一の喉から、小刻みな急呼吸が漏れ、充血した目から涙がこぼれ落ちた。

「私、これから返していくんだ。いろいろな人達が、私にくれた愛とか、思いを。私に辛くした人達だって、みんな心の中に寂しいの、悲しいの、たくさん持ってる。そういう人達のことも、いっぱい助けてあげようと思ってるの。私に悪くする人達も、みんな、優しい心で包んであげるんだ。これからも、いっぱい、たくさん。村瀬さんが私のこと、包んでくれたみたいに‥」菜実は、人生経験を経た者ならではの力強い語調で述べて、こぼれた小粒の涙を小指で拭った。

「なあちゃん、赦してくれ」洋一は咽びの中に詫びを混ぜた。

「お母さんとなあちゃんから逃げたあの時、お父さんは、どうしても自由になりたかったんだ。自由になって、普通の人になりたかったんだ。勉強も運動も駄目で、喧嘩も弱くて、いじめのトラウマも持ってて、自分に自信がないから、誰でもいいから誰かに相手にしてもらいたかったんだよ。それで、付き合い出した人が、たまたま、障害者なのに手帳も持ってない、暗闇に棲んでる人だったんだ。それがお母さんの康子だったんだ」咽びを抑えて語る隣の父親を、菜実は深い情愛のみを込めた目で見ている。

「その暗闇から逃げるために、お父さんは、お母さんとの間に生まれたなあちゃんのことも、最初から無いものだと自分で思うようにしたんだ。それで、遠くへ逃げたんだ。自分の知らないうちに、なあちゃんがこんなに辛くて悲しい目にたくさん遭ってきたことなんて、考えもしてなかったよ。自分のことで精一杯だったんだ。自分が、いつも怖い思いして、悔しさの中にいたから」洋一は菜実の手の甲を握り、五十代半ばの壮年顔をくしゃつかせ、涙の弾を膝の上に落とした。

 どこかで発表することを目標とする練習らしいキンダーポルカの旋律は、春の暖かな空気に染み込むようにして流れ続けていた。ハンデを背負いながら、支援も医療的ケアもない世界に長く棲んできた、一組の父娘を労り、慰めるように。

 愛らしい情景を思い浮かべさせる懐かしいメロディに、老い先が見えている齢の男の号が宙で交わった。アコーディオンの初老男は、キーを叩き、蛇腹を伸縮させながらベンチの父娘に優しく流し目を遣り、その号菫に気づいた子供達は、きょとんとなった顔を向けていた。

 村瀬が須藤にライン連絡し、常盤平駅前で待ち合わせたのは、ゴールデンウイーク三日目の日だった。

「忙しかったみたいだね」須藤は前回と同じ「別所庵」で、労りの笑顔を向けてきて、村瀬は声なく、口許を微笑させて頷いた。

 二人で同じ鴨せいろを食べ、お一人様一杯サービスのコーヒーを飲み、会計を済ませて、公園に足を伸ばし、ベンチに座った。

 村瀬は黒のTシャツ姿で、須藤も長袖Yシャツの袖をまくっていた。今週の関東は空は快晴、今日の気温は二十五度ほどで、街を行く人達は、ほとんどが夏の服装をしている。

「これ、須藤ちゃんだから話せることなんだ。あの時から三月頃まで、さながら何かの映画みたいな体験をしていてね」語り始めた村瀬に、隣の須藤が耳を傾ける体勢を取った。


「チャリティコンサートのチケット、二枚もらったから、今日、一緒に行きませんか」三ヶ月前に簡易な見合いをして知り合った島崎英才からのライン電話を受けた時、菜実の心に起こったものは、六割の嬉しさと四割のためらいを抱かせる感情だった。

 先月、大久保の神社公園で父に言った「大切な人」の比重については嘘偽りはない。だが、紅美子からの諭しも、菜実の胸には重みを持った真実のこととして響いていた。

 母が獄死して、共同墓地に埋葬されてから経過した二ヶ月の時間は、目標と呼んでもいい存在を亡くした菜実にとって、これから自分は自分の生をどうするかを真面目に考えさせる期間になった。

 先月、キンダーポルカが流れる公園で哭いた父は、「もう一度、なあちゃんの親をやり直したい。だから、いつかは一緒に住みたい」と言い、菜実は承諾の意思を態度で示した。

 自分が使うことの出来る限りの知恵を駆って、私は私の人生を開拓していく、という未語彙化の思いを巡らせながら、大久保から船橋へ流れていく窓外の景色を追った。なお、今日選んだ服装は白のレトロワンピースで、靴はいつものワインレッドのパンプス、ブラウン色をしたエルメスのショルダーバッグ、髪はサイドを編み込んで後ろでまとめたスタイルだった。ファンデーションの濃度は抑え、ルージュは朱色を選んだ。

 英才は、縞柄の半袖Yシャツにジーンズ、リュックサックという姿で、京成船橋の改札前に立ち、菜実を待っていた。近づいてくる彼女を見た彼の顔には、面一杯の笑みが浮かんだ。菜実も笑んだ。彼と笑みを合わせたことについて、菜実は、比重、順番というものを越えた、これも一つのプレシャスネスだという解釈を、また未語彙ながら心に留めた。

「来てくれてありがとう」礼を述べた英才の、眼鏡奥の目は潤みを湛えていた。

「これなんだけど」言って見せた二枚のチケットには、「かるてっとポンスケ」とあり、破顔一笑する狸の顔のイラストが描かれている。

「バリアフリーバンドなんだ」「ばりあふる?」菜実が訊き返すと、英才は、うん、と頷いて、障害者と健常者が一緒に組んで、難しい楽器は健常者が演奏し、簡単な楽器を障害者が担当するバンド、と説明した。

「ごめんね、あれから三ヶ月も連絡待たせちゃって」本町通りを並んで歩きながら、英才は菜実に詫びた。

「いいよ」菜実は首を振った。自分の顔に自然な笑みが浮いていることを、彼女は認識していた。

「私も、ごめんなさい。いろいろあって、心で整理してて、それで連絡出来なかったんだ。でも、今日、会えたから」菜実も、はっきりとした語体で詫びの礼を返した。英才は、それを笑顔で受けた。

「あの、菜実さんって何だか」目を前方へ向けて歩きながら言いかけた英才に、菜実は顔を寄せた。

「キタキツネみたい。動物にたとえると」「えっ? 言われたの、初めて」互いにはにかんだ二人の手の小指側が当たり、やがて、英才が、まず、指を取るようにして、菜実の手に自分の手を絡めてきた。

 固まった意思を交わしたように、二人の手が繋がれた。英才の掌の感触からは、若くしてかい潜ってきた苦労が伝わってきた。それは菜実の胸に直接入ってきた感じがした。

 胸から温かみが沸き、皮膚全体にそれが浮いてくる感覚を、菜実は覚えていた。それを体に感じている自分に、わずかな負い目も覚えた。自分が頬を載せた村瀬の胸の温かさが、不意に思い出されたからだった。

「豊ちゃん。本気なのか?」ベンチの隣から向けられた須藤の目に籠っている感情が怒りのそれだと気づくまで、少しの時間を要した。

「いや、言い換えさせてもらうよ。正気で言ってるのか!」

 須藤の言葉に真面目な喝が入り、村瀬は内心にびくりと来るような気持ちを覚えた。

「起こすなよ、馬鹿な甘い考えを!」須藤は両手に握った拳を、自分の腿に打ち落とした。

「甘い?」ややむっとして、眉に皺を浮かべた村瀬が問い返すと、怒った顔の須藤が、頭突きでも食らわすような勢いで、烈しく頷いた。

「そうだよ。判断力が自分達よりも何割も劣ってる人と、五寸の恋愛、結婚が成立することが出来るなんてことを、本気で信じてる時点で大甘だよ。豊ちゃんが、あの恐ろしい奴らと関わって、命が失われかねない目に遭って、その上、娘さん、息子さんまでが危険に晒された原因の人が、そもそも誰だと思ってるんだ」「でも、須藤ちゃん、さっきも言ったように、その子は‥」「デモもストもゲバもないぜ、本当に!」須藤の大声に、二人の前を横切って通りかかった若いカップルが、驚いた目を向けた。数メーター向こうのベンチで香箱座りをしていた三毛猫も、目を丸く見開いて反応している。

 カードを持って遊んでいる少年達も、同様に、丸く剥いた目を向けていたが、須藤は唾を飲み下し、何でもないよ、というサインを、彼らを始めとする公園内の人達に挙手で送った。

「俺達みたいな、健常域にあるとされる人間達は、物事から学んで、情報を取り入れて、成長するものだよね。だけど、そうでない人は、そういう辺りで、俺達よりも格段に弱いんだ。今、尊教純法事件、貧困ビジネス摘発ドミノと一緒に、不祥事が相次いで起こってる支援の仕事っていうものは、一種の管理の業務なんだよ。利用者を、擬人化じゃない擬物化することから仕事が始まるんだ。そうでなければ、常識が通用しない人達を見ることは出来ないからだよ」

 村瀬は須藤の語勢に圧されながら、三月に恵梨香が言っていたことを思い出した。間にお金が入るから、私は今の仕事を頑張ることが出来ている。それのない面倒見など出来るものではない、という趣旨の、表現に遠慮を忍ばせた警告とも取れる言葉だった。そのあとの、抱きたい時に抱けるから? という質しも、頭に蘇っていた。それを博人がフォローしてくれ、それから三里塚の一件を経て、「自分達を助けてくれた人」として、父の再婚相手として、許可印を捺してはくれた。だが、言葉には出せない内心の思いというものもあるだろう。二人なりの遠慮、父への気遣いというものもあるのかもしれない。

 それを思うと、須藤の言葉が、より心に刺さる思いがする。村瀬はうなだれた。

「その子には判断力がない。これは差別でも何でもない、医学的事実だ。その判断力不全のために、自分に向けられた悪意が分からない。自分を貶めて利用する人間と、そうでない人間を判別することが出来ない。だから、周囲の人間が危険に巻き込まれる。豊ちゃん、自分の心をきちんと見つめ直すんだ」

 村瀬は、うなだれた顔を上げた。今、胸にある感情は気恥ずかしさだった。

「俺の中学時代からの親友が、今、大変なんだ。親父さんのパーキンソン病が進行しててね、施設は入所待ちで、いつ入れるか、まだ見通しが立っていないそうなんだ。それで今も在宅介護でね、週に二回程度、ヘルパーに訪問してもらってるんだけど、基本的には、お袋さんと、下の妹さんが介護してて、そいつも折を見て行って、介助に入ってるんだ。ところが、そのお袋さんまでが認知症を発症しちゃってね、それで予断のならない状況なんだよ。それで、そいつは、まだ金のかかる子供もいるのに、仕事を辞めなくちゃいけなくなるって言って、今、泣いてるんだ」村瀬には、これから須藤が言わんとしていることが理解出来た。

「アルツハイマーにしろ、パーキンソン病にしろ、それまで健康に自信を持ってた人を突然襲うものなんだ。それが未来の俺達のことじゃないなんて言える保証はないんだ。決めつけるつもりで言うわけじゃないけど、仮に結婚したとして、もしもいつか自分がそういう病気に倒れたり、老いて虚弱になった場合、そんな負担を背負わせることが前提になるような結婚でいいのか。まだ俺達の半分の年月しか生きてない、未来があるはずの年齢をした、まして障害者の女の子に‥」須藤の声は、震えを帯びて消えた。

 村瀬はまた項を折った。脳裏に、うなだれて座っている自分の姿が、鏡を見るように浮かんだ。その姿が、無の果てへとフェイドしていく様がイメージ映像となって思考の中に映し出された。それから、自分の脳、神経、筋肉が、全ての動きを止めていく感覚に見舞われた。

 須藤への逆叛的な怒りもなく、悲しみもなかった。ただ、本心では、薄らと分かっていたような、分かっていなかったような気もする所を、隣の元同僚に痛く刺された感じだった。それが、村瀬の体と心から、力と呼べるものを抜き去っていた。

「悪かったよ。感情的になっちゃって」須藤のこぼした言葉が右耳から入り、村瀬は垂れた項を前に直した。

「豊ちゃんがうちの支店で渉外の主任やってた頃の苦労、いや、苦悩は、俺もそばで見てたし、豊ちゃんの家庭のことも、耳に挟んで、ある程度知ってたよ。スーパーでも大変だったはずだよな。当たり前だけど、客を選べないっていうところで同じだからね。豊ちゃんには、その苦労、苦悩の人生を、これ以上長引かせてもらいたくなかったんだ。一緒に艱難辛苦をかい潜った仲間としてね。その子に本気になっちゃったのは、豊ちゃんが持つ人間的な良さからだってことははっきりと言えるよ。これは、豊ちゃんが、本当にいい人間だからこそ起こったことだよ。だから、空手を習う資格も持ってるんだ。だからこそ」言う須藤を、村瀬は振り返った。

「人が持つもの、背負うもの、これをしっかり踏まえた関係性を築くことが大事だっていうことを分かってほしいんだ。同僚っていう域を越えて付き合ってきた友達として」

 須藤の目からは、先までの怒りは失せていた。あるものは、所属こそ違えど、支店をともにし、銀行員として同じ苦労を分け合ってきた元の同僚を想う、情の光だけだった。須藤の顔を見ず、数テンポ遅れて頷いた村瀬の耳に、カードゲームに興じる少年達のはしゃぐ声が入ってきた。野良の三毛猫は、目を細めて、前脚を体の下に丸く畳んだ香箱体勢のままの日向ぼっこを続けていた。

 菜実には、漠然と「古いテイストのロック」であることだけは分かった。ステージにはバンド名の垂れ幕が下がり、ギター類を持つメンバー、ピアノ、ドラムが健常者、二人の男女のツインボーカルが障害者だった。その周りで、数人の障害者達が、タンバリンや太鼓類を打ち鳴らして、自由に踊る。みんな、工夫したオリジナルメイドの、キッチュだが華やかな衣装を着けている。レパートリーには、菜実にも聞き覚えのあるナンバーもあった。会場の客には、支援スタッフに引率されて来ている、知的や身体の障害者達が目立っていた。

 聴かせる曲もあったが、どちらかというと、乗せる曲が中心で、客の知的障害者達は、手を打ち鳴らし、体をくねらせて乗っていた。ステージにはテープが飛んだ。

 菜実も、知らぬうちに手拍子を打って、演奏される、ユーモラスな歌詞を載せたナンバーのリズムに乗っていた。隣の英才もタップを踏んで、膝を手で叩き、菜実と笑顔を交換した。

 同じものを観、同じものを聴いて、同じ楽しさを、年代が同じ者同士、二人で共有している。これは、菜実が送る若者の時間では、ほぼ初めてと言っていいことだった。

 一時間半の公演が終わり、アンコールを求める呼び声が響き、一度降りた幕がまた開き、菜実の愛好するmaybeのLove Lakeが唄われた。ボーカルは、ツインの一人である女子のソロだった。そのボーカルは、出来るだけ原曲の雰囲気に近づけようとする、いじらしくも微笑ましいものだった。曲の良さを壊すまいと静かに鳴らされるタンバリンが、さらに感動を誘った。

 最後にギタリストが、私達、かるてっとポンスケは、これから韓国、ベトナム、香港のツアーに出ます、今後も私達の躍進をお見守り下さい、と挨拶し、コンサートは締めくくられた。

「航平の奴、オスロで彼女作ったんだ」常盤平駅前で別れ際、須藤はスマホに保存された一枚の写真を村瀬の目の前にかざした。

 写真の中では、アベニューのカラーベンチに、見たところミャンマー辺りからの移民と思われる浅黒い肌をした女の子と二人で座り、その体を抱きしめて頬にキスをしている、青年になった、須藤の長男がのろけアピールをしている。

「見ての通り、移民の子で、通じ合うものがあって付き合い出したらしいんだ。向こうで就職して、永住権を獲得して結婚するって言って、聞かないんだよ。親の俺が何を言っても。お互い、日常会話レベルの英語でそこそこコミュニケーションが取れるったって、習慣のギャップがあって、食べ物も違う相手の家族と上手くやっていける自信がどこまであるのかね。まあ、こんな具合に気を揉んでいられるのも、親と子、お互い体力、気力が残ってるうちだけだよね」須藤がこぼし、村瀬は瞼を落とした。

 じゃあ、時間のある時に、また、と交わし、笑顔の余韻を置いて去っていく須藤の背中を見つめながら、村瀬は、今後の職業的進退が自分の中で定まった思いを抱いていた。それはマニュアルのような表面的な説明では学び得ない、自分がこれまで、イノセントな者達として保護本能を作動させてきた人間達の本質を、須藤の友情ある喝によって理解の第一歩に進めることが出来たからこそ、というものもあった。

 コンサートの終了した本町文化ホールから、二人、手を繋ぎながら出た。二人の足は、確かに菜実が引くようにして、港町の方向へ向かっていた。会話数は、極めて少なかった。
 英才を引いて、黙して進んだ菜実の足は、京葉道路前の、階数の高い「サボイア」という屋号のラブホテルの前で止まった。
 そこが何を求める、何人の人間が入る場所なのかを、英才がちゃんと分かっていることは、表情に見て取れた。

 自動ドアを潜り、菜実の指が、室内の写真が内照ライトに光る号室の、REST、のパネルをタッチし、キューブに繋がれたキーが落ちてきた。

 エレベーターの中でも、着いた七階の廊下でも、英才の表情は、いかにも成り行きに任せる気持ちを決めているという風に、動かなかった。

 二人の入った705号室は、白を基調とした壁、木目の埋め込み柱に囲まれた、落ち着いたレイアウトの部屋だった。

「お願い」菜実は言いながら、くるりと英才の前に回って立ち、彼の両手を自分の手に繋いだ。

「私には、忘れたくなくても、忘れていかなきゃいけない人がいるの。英才さんに、その人、私が忘れられるようにしてほしいんだ」

 菜実が握った英才の手が、彼女の乳房に導かれ、当てられた。英才に、自分の目と頬の動きに少しづつ込み上げる興奮を抑えようとする様子が見られた。

「私、誰かのお世話から離れて、自分で、自分の人生、作りたいんだ。そのために、その人の思い出、越えないといけないの」

 目に涙を汲んだ菜実の編み上げた髪を、英才の指が撫でた。英才は、その撫でる手を止めると、眼鏡を外した。その目には、決意が見えた。それは、自分の人生を見据えた色を帯びた決意だった。

 ベッドの上で、勃起した陰茎を立てた全裸の英才は、菜実の背中に手を回し、ワンピースを脱ぎ去った彼女のブラジャーのホックを探した。見つけられずに焦っているところ、菜実がフロントのホックを自分の手で外した。さらけ出された乳房の片方をそっと掴んだ英才は、それを優しく揉みながら、菜実の唇に自分の唇を重ね、片方の手で背中を抱きながら、彼女の体に覆い被さった。

 英才の手でパンティが静かに抜かれると、菜実は大きく腿を広げ、潤みを満たし、彼を迎え入れる形にほころび開いた、陰毛の下のラビアを自分から露出させた。自分の目の下の赤条とした眺めに視線を吸われ、鼻翼を膨らませている英才の手を菜実の手が取り、彼の目の下の性器に導いた。

「上から下にでも、下から上に、でもいいから、こすって。女の子は、こうされると気持ちいいの」菜実がどこか唄うような声で言い、英才は、導かれた手を上下にスライドさせた。ごってり、ごってりと粘膜が音を立て、菜実は深く目を閉じた顔を斜めに向け、体を弓のように反らした。

 手の愛撫を一度終えた英才は、どこかで観たものを倣うように、菜実の片方の乳房を揉み搾り、もう片方の乳房を唇で食んだ。それから、菜実の手が英才の陰茎を取り、自分の中へ、彼の腰ごと沈めた。

 英才の体の動きは、初めはいくらかためらいがちにゆっくりとしたものだったが、自分の中心から全身に拡大した甘い感覚に魂ごとさらわれたように、シーツの上で両掌を固く繋ぎながら、次第に烈しいものになっていった。

 英才の精が菜実の胎内深くまで確かに届いたという感を二人で得た時、彼と菜実は、腕と脚を互いの体に強く絡め、まるで一つのもののような姿形を成していた。

 放ったもの、残韻するものを確かめるように一体化した二人は、しばらくその組み姿を留めた。

 その時、菜実は、汗にぬめった英才の頸を腕に包みながら、自分が心の奥底で長い間、語彙に表すことなく望んでいたことの、一つの段階を踏んだ思いを胸に噛んでいた。感じているものは、村瀬に抱かれた時とは異なる充足だった。

 半眼で見上げるシャンデリアが下がる白い天井に、今から自分の行く道の光景が、朧と映ったように思えた時、耳元に英才の泣き声を聞いた。それは、彼自身も、長らく望みながら得られる見通しが立っていなかったことに、今日、ようやくありついたがための、喜びの泣咽だと、菜実にははっきりと分かった。菜実は、泣く英才の頭に掌を載せ、撫でた。

「本当にありがとうございました」市川の借家の前で、玄関前に並ぶ早瀬裕子、娘の美春の前で、村瀬は深く腰を折った。それは、自分やその周辺者の手には負えなくなった娘を転がり込ませる迷惑をかけたから、という意味も込めた詫びも兼ねた同時礼だった。

「いいんですよ」裕子は少しはにかんだように笑って返すと、隣でTシャツの裾を掴む美春の頭に手を載せた。

「元々は、あいつ自身が、もう大人の年齢にも関わらず、危機管理が出来なくて、そちら様を巻き込んでしまったことが始まりで、どれだけの迷惑をおかけしたかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。まして、ご自分のお体を傷つけてまで、他人のはずのあいつを助けてくれたなんて」「気にしないで下さい」裕子は言い、梅雨明けの澄んだ午前の空を見た。

 村瀬は、恵梨香が多くを語らないなりに、裕子が非凡な人生経験を持つ人間であることを察知していた。

「人を傷つける側の子も、傷つけられる側の子も、他人として見ていられないのが私の性分なんです。それで、恵梨香ちゃんに他人のようなものを感じなかったから、自分に出来ることをしただけです。そういう始まり方をした縁でしたけれど、今、恵梨香ちゃんは、私とこの子にとって、他人じゃないんです。家事の手伝いだけじゃなくて、この子の身体介助までやってくれてますから。だから、寿の縁が出来るまで、私の家にいてもらおうと思ってるところなんですよ」裕子は述べながら、娘の頭をぽんぽんと叩いた。

 裕子ともう一度辞儀を交わし、市川南の道を歩き出した。市川駅へ続く商店街ロードの街路樹には、様々な願いの書かれた七夕の札が飾りつけられていた。その中には、「知的障害者支援施設に就職できますように」と書かれたものがあり、村瀬は進路のヒントを見た思いになった。

 菜実と、また会おう。思いを留めた村瀬は、七月の陽光にさんざめく商店街の道で立ち止まった。

 今日の気温は25度ほどで、日傘を差した女性が時折通り過ぎる。八月には、災害級の熱波が到来する可能性があるとニュースは報じている。

 あの三里塚の夜から三ヶ月半が経過し、今の菜実がどういった近況にあるかは分からない。ダブルシービーが取り潰しとなり、別の通所を見つけたか、それとも企業に就職したか。まず、そうしたことを知り、それから、今後のことを考えていこうと思った。

 村瀬が連絡を控えていたのは、菜実の心境を慮っていたからだ。また、今は、須藤による友情の叱咤も心に留まり、残っている。それは間違いなく正しいのだろう。正しいからこそ、どうするべきかという悩みが抜けない。

 境内の石畳を、白草履の足が一歩づつ、しなり、と踏み、本殿へと進んでいた。和髪の上に綿帽子の、紅を点した顔は、何かを憚るような軽い俯きを見せ、袴の姿をした相方が併歩している。その二人の前には烏帽子の斎主が歩き、後ろからは二人の巫女が続き、紅い日傘を新郎と新婦の頭上に差し、速度を合わせて歩いていた。その後ろから、和装と、白ネクタイの背広の姿をした、壮年の男女三人が続いていた。雅楽演奏は、資金的な都合でパスしているようだが、間違いのない幸せをこれから紡いでいくという決心は、二人の姿、足取りに表れていた。

 綿帽子に白無垢姿のその新婦は、庇い、守るように、自分の下腹に手を添えていた。

 村瀬の携帯がバイブし、非通知が表示されたのは、商店街の喫茶店でナポリタンを食べてアイスコーヒーを飲み、会計を済ませて店を出た時だった。

 その非通知着信は、三月に三里塚で死んだ李からのもの以来だった。

「村瀬さん?」通話口から、基本少し高めだが、低く落とした男の声が漏れてきた。

「どちら様でしょうか。村瀬は私ですが」平静を装いながらも緊迫を帯びた自分の声が通話口に反響するのを、村瀬は鼓動を高鳴らせながら聞いた。

「あなたの弟の、義毅さんの縁に繋がる人間だと言っておくよ」「義毅の?」男の答えに、村瀬は呼吸を止めた。

「良かったな。あなたの大切な人と、あなた自身が当事者だった物事が、解決がついて。今日は国会中継が流れてるけど、野党が与党の責任の所在を糾弾して、大荒れだよ」「何が言いたいんだ」村瀬は敬語の言葉遣いを解いた。

「あなたが命懸けで守った人が、今から挙式だ。場所は、幕張の本郷子安神社だよ。生前の義毅さんに言われて、今日まで離れたとこから張ってたんだがな。言いたかったことを伝えられる期限は、今日いっぱいだよ。あんた、行ってやれよ」「本郷子安神社?」「そうだ。税務署の近くにある、さほど大きくはない神社だ」「待ってくれ。あんたの名前を教えてくれ」「残念だけど、無駄話をする間はないんだ。いいか、今すぐ飛んでいかなきゃ間に合わなくなるぜ。急げよ、村瀬豊文さん」通話を切り際の声に、かすかな笑いが混じったように聞こえた。

 村瀬は手にしたスマホを下げ、驚倒寸前の顔で数秒ほど立ち果ててから、タクシーロータリーへ足を急がせた。                  

 遠く離れた妙義山の山中で、草叢の上に片膝を着いた松前は、通話を自分から終了させたスマホを足許に下ろした。彼の周りを三人の男が囲み、すぐそばには、人間一人の体がそのまま入る穴が掘られ、一本のスコップが寝せられて置かれている。それは松前が、拳銃を突きつけられ、自らスコップを振るって掘った穴だった。

 最期の一服はもう終えていた。眉脇に傷のある顔には、微笑に似た表情が刻まれていた。間違いなく道の途中で訪れる最期を悟りながら、いくつかの善行を行うことが出来た、という風の言わんの、涼しい笑みだった。長崎から、暴動の収まった韓国へ逃れることは叶わなかった。

 やがて、その肩までを、ナイロン地の袋が覆い、頭部に銃口が当てられた。木々の間に二発響いた銃声が、野鳥達を騒がせ、その群れを四方へ飛び移らせた。

 誓詞の読み上げは、漢字の読み取りに困難を持つ英才、菜実を、紅美子が援護した。格子窓があり、木目の壁、床の御社殿だった。それから玉串を祭壇に捧げ、斎主の促しで二拝二拍手一礼を行い、洋一、洋一の養父である島崎、紅美子が続いた。

 巫女が、紅白の三方台を手に持ち運び、綿帽子に白無垢の菜実、袴姿の英才の前に置いた。三方台の上には、銀色の台座をしたプラチナリングが収まっていた。

 市川から飛び乗ったタクシーは、ニ十分ほどで神社に到着し、村瀬は四千円超の料金をぴったりと支払って跳ね降りた。その運転手の顔が、数年前に病災の感染症で死去した喜劇王にそっくりだったことは気にならなかった。

 紙垂の下がる赤鳥居を潜り、スクワット、ランニングで鍛えられた脚力、肺活量を駆使して御社殿まで走った。

 御社殿の入口扉脇には、島崎様、池内様、という、ここで結婚式が行われているということを表すボードが掛かっていた。扉の前には、アルバイトで雇われたと思われる若い斎主が二人立っている。

「すいません」物も言わずに扉に手を掛けた村瀬に、アルバイト斎主が露骨な迷惑口調の声をかけた。

「困るんすよ。やめて下さい」村瀬はその声かけに、その斎主が未教育の人間であることを察した。

 その斎主を裏拳で殴り倒したい思いを呑み下し、木枠の扉をがらりと開けると、綿帽子の新婦と、その指に指輪を嵌めかけていた袴の新郎が肩越しに振り向いて、村瀬を見た。眼鏡をかけ、清潔に刈った短髪をした新郎の顔には、別段驚いた様子はなかった。綿帽子に白無垢の菜実は、優しいキタキツネの眼差しを、振り返った顔から村瀬に送ってきた。

 綺麗だと思った。本来、自分が袴、あるいはタキシードを着てそれに寄り添うはずだったものが、という嫉みの気持ちは起こらなかった。

 興奮は、鎮まりかけていた。

 無言の気が満ちた御社殿の床を踏み、村瀬は新郎と菜実の前に立った。新郎は驚きも、困惑も顔に浮かべてはいなかった。和服の女と、背広の壮年男も同様だった。その男と新郎の顔に見覚えはないが、女は、あの時、一緒に法テラスへ行く約束のやり取りをした、くみこさん、という、面識のある恵みの家の世話人であることが分かった。

 村瀬は言葉なく新郎に辞儀をし、和装の結婚姿をした菜実に向き直った。

「どうしても、君にお礼を言いたかったんだ」村瀬はまっすぐに菜実の目を見て、落ち着きを取り戻しかけた声と言葉を投げた。

「菜実ちゃん。俺は、長い間ずっとずっと、自分を男だと思えなかった。それが、あの時、君と出逢ったことで変わっていった。誰かのために、自分の体を傷つけて、命を懸けて戦うなんてことが自分に出来るとは到底思えなかったものが、自分がそれの出来る人間だと分かったことは、俺の人生で何よりもかけがえのない大きなことだった。どうしてそんなことが出来たかというと、君が持つ、魂の値打ちのためなんだ。人間の醜さは、毎日のニュースを見ていれば、嫌と言うほど分かる。俺も体に刻みつけられるようにして知ってる。人間の悪意っていうものの恐ろしさも」語る村瀬の顔を、菜実は優しく労る目で見上げていた。

「俺は法の外で罪を犯したんだ。あいつらの取り立てに加わって、昔、遠方のバイト先で俺をいじめてた奴と偶然再会した。その時、復讐の念に駆られて、そいつの体も心も滅茶苦茶にするような暴力と辱めを加えた。それだけじゃない。もう八十歳近い、そいつの母親を、バリカンで丸坊主にして、蹴りまで入れたんだ。消えはしないんだ。この罪は」

 菜実の顔には、村瀬の話す内容を非難する様子は微塵もなかった。彼女には分からない言葉もたくさん混じっているが、中身は理解していると見える。新郎も、たった三人の参列者も、その言葉を嚙みしめるように聞いているだけだった。

「悪意は、憎しみを呼ぶんだ。憎しみは、さらなる憎しみを呼び込む。これが戦争の終わらない世界情勢の摂理だ。だけど、君の魂には汚れがない。だから俺は、入籍も視野に入れて、一緒にいることが許されるだけの時間を、君と一緒にいようとしたんだ」

 村瀬が述べた時、菜実は白無垢の下腹に手を置いた。村瀬の目が、慶び事を分け合うように、ぱっちりと丸く開いた。
「赤ちゃん、いるんだね」村瀬の言葉に、菜実は微笑んで瞼を落とし、小さな頷きを見せた。

「あと八年したら、お子さんはお祖母ちゃんに会えるよね」村瀬が言った時、菜実は綿帽子の頭を小さく振った。

「お母さん、もう会えらんないんだ‥」菜実が瞼を伏せたまま、紅を点した唇を動かしてこぼした言葉の意味を拾った村瀬の胸に、生木の痛みが走った。

「お母さん、死んじゃったの。刑務所さんから病院さんに運ばれたんだけど、助からなかったんだって。クモ膜下出血だったんだって。五月だったの。でも、いいの。紅美子さんと一緒に栃木行って、ちゃんとお顔も見られたし、お墓も教えてもらったから」菜実が事もなげに言った時、村瀬の目は、後ろの神壇へ向いた。

 縄が巻かれ、紙垂が下がり、厳粛な飾りつけのされた壇を凝視するうちに、先までの落ち着きが、怒りの思いに消えた。わずかな時間のあと、その怒りに悲しみが交わった。

 純法の勧誘員として男達に体を販ぎ、汚い欲望を当てられてきた菜実の時間は、一体何のためにあったのだろう。それで得た金は、全て叔母に騙し取られていた。そんな苦難、悲しみに遭いながら、目標、目的、希望だったものが、何故、こういう形で打ち砕かれなければならなかったのだろう。彼女のあの日々は、何の約束があって存在したものなのだろう。

「村瀬さん、私、お嫁さん、やめる」菜実のはっきりとした発語の声に、村瀬は振り返った。振り返り見た菜実の顔には、本気さが挿していた。

 新郎の顔には、動きはなかった。壮年の男女も、何かの言葉を発する気配を見せなかった。

「村瀬さん、私が悪くて、死んじゃうかもしれないことになった。それでも、私見る気持ち変えないで、私のこと守ってくれた。私、村瀬さんと一緒にいる時、幸せだった。ずっとお父さんいなかったから、村瀬さんのこと、お父さんみたい、思ってた。村瀬さんに抱かれてる時、私、あったかいお日様の光の中にいるみたいな気持ちだった。だから、村瀬さんのこと、忘れられない。忘れたくない‥」菜実は新郎を後ろに、村瀬に距離を詰め、腕に彼の首を抱いた。

「村瀬さんでなくちゃ嫌だ! お嫁さん、嫌だ! ずっと村瀬さんと一緒にいるんだ! 村瀬さんと別れるなんで嫌だぁ!」菜実の号泣が、厳かな御社殿の空気を震わせた。熱の涙が、村瀬の肩と胸を濡らした。

 村瀬は腹腔から、ダイナモが唸る音に似た声を上げ、歯を噛みしばって、白無垢の菜実の体を抱いた。壊そうにも壊れない強さを保持していることを、すでに見て知っているその体を、壊さんばかりの抱きしめだった。抱きしめながら、もう一度、神壇を睨んだ。

「神様、仏様が本当にいるんだったら、教えてくれよ‥」村瀬の咽び言葉が、神壇に向かって低く放たれた。

「この世にある命が、生きてる間、存分にいい思いをして楽しむ人間と、苦しみ続けて、悲しみ続けて死んでいく人間に分かれてるのは、魂のカーストなのかよ! この子は何のために、自分の心と体を不幸の沼に沈めてきたんだよ! 人の苦しみも悲しみも、神様、仏様のアトラクションなのかよ。こういう人の苦しみは、恵まれた人間に見せるために作られた見世物なのかよ! 信じれば救われるって、そもそも何なんだよ! だったらどうして、この世から涙が消えて無くならないんだ! 安穏とした世界から俺達を見下ろして、人間を使ってもっともらしい教えを広めてる、神様、仏様に言いたいよ! その教えが絶対だって言うなら、罪のない子供が死んでいく戦争を止めて、最初から軍隊も兵器も要らない世界にしてくれよ! いい人が、家や家族や恋人や友達を亡くして泣くような災害もなくしてくれよ! お願いだから、こんないい子に障害なんか背負わせて苦しめて、その挙句に心の支えまで取り上げて悲しませることだけでもやめてくれよ! どうしてなんだよ! この世がこういう造りになってるのは、一体どうしてなんだよ!」

 怒りに見開いた眼から涙を噴出させて哭叫する村瀬と、その腕に抱かれた菜実を、三人の参列者と新郎が見つめていた。神壇の脇に立つ老いた神主も、言葉はなく、優しげにそれを見ている。

「村瀬さん‥」アップの髪に金、緑、赤のメッシュを入れた、和装の佐々木紅美子が、互いの体を抱いて泣く村瀬と菜実に、静かに歩みを進めた。

「もう少し泣いてからでええです。お顔を上げて、今日、来てはる人達のお顔、見て下さいな」紅美子の声に、村瀬は濡れた顔を上げた。腕はまだ、菜実の体を抱いたままだった。菜実は啜りしゃくりながら、村瀬の首を抱いていた腕を下げ、両掌を彼の上腕に添えた。

「見て下さい。こちらはんが、新郎の養父さんです」紅美子の返した手が、体格が良く、鋭い付き方をした目に、大変だった昔の苦労を忍ばせた六十代の男を指した。

「それで、こちらさんが、菜実ちゃんのお父さんです」次に、垂らした前髪ともみ上げの白い、中肉中背の五十代の男を見、掌を指した。紅美子の掌が指された二人の壮年の男は、それぞれ村瀬に辞儀をした。

「菜実ちゃんのお母さんは、確かに亡くなりましてん、私が刑務所まで一緒に立ち合いました。せやけど、今はこうしてお父さんも菜実ちゃんの近くに戻ってきはりまして、たとえ片方だけでも親がちゃんといてるいうことでは、本人もそれほどには寂しゅうないもんやと、私は思うてます。それで、こちらの新郎さんも、菜実ちゃんと同じ療育の、Bの2持ってましてん、支援区分2です。それでも地に足着けて、パン職人として、立派に働いてます」村瀬が菜実の体から腕を離して新郎を見ると、その青年は、しっかりとした立ち姿で、村瀬に頭を下げた。

「幸福な世界を作るんも、壊すんも、所詮、人間のすることやないですか。人間の生きる世界は、人間だけが作るもんです。世界がどない大変なことになっても、それを立て直すんが、人間に与えられた使命とちゃいますやろか。何度も訪れる大変なことを乗り越えて、人間いうもんは、進化していくもんのはずです。現にそれこそ歴史が始まってから、そうして文明を築いてきはったやないですか。菜実ちゃんとあなたはんも深く関わった純法が、今、解体されようとしてはりまっしゃるけれど、これも、人間が力を合わせて行った立て直しでっしゃろ。せやから、今のところ平和が維持されておる日本で、簡単に絶望なんて結論は出すもんやないはずです。人間は、宇宙からすればちまい存在ですねんけど、あっと驚くような力もぎょうさん持ってはります」

 村瀬は涙に濡れた顔もそのままに、はっと気づいた思いになった。

 個人や世界、日本についての、気休めで語られる幸福な未来を否定するなら、三里塚で菜実が見せた戦いぶりは、常識域に留まる考えでは完全に否定されることだろう。だが、四ヶ月前のあの夜、菜実は、必死の思いで体に記憶させた空手で、日本の法律が及ばない世界で糧を得て生きている凶悪な人間達を次から次へと斃し、戦闘不能にし、さながら優しい顔をした鬼神の様相で、頭目の李までも恐怖させた。

 これを実際に行った人間が、支援区分3の知的障害者だった。知的障害者が、自分の大切な人間とその家族を助けるために、悪事に長けたプロと徒手白兵戦を展開し、うち二人の体を腕、目と睾丸で、不具にした。それで残存の勢力を殺ぎ、行川の手による頂上斬首に力を貸したのだ。その結果を報じているものが、今、連日流れているニュースだ。

 村瀬は涙に濡れた顔もそのままに、御社殿の梁天井を仰いだ。話に聞いた菜実の空手の修業がどれほどに苦しいものだったかを想った時、彼女への感謝と尊敬が胸に明るく咲くのを感じ始めた。

「八千代の団地、借りて所帯持つんですよ。そこに、お父さんも一緒に棲みます。駿河台のお店が、佐倉に二号店を出すことになってん、そこへ移るんです」紅美子の声に、村瀬は彼女に顔を向けた。

「こちらの島崎君ともども障害者です。せやから、これまで見てきた人間として、成年後見人いう形とは違いまっけど、これからも二人の暮らし、子育て、インフォーマルに支援していくところです。この二人には、間違いはあらへんのです。紹介した以上、こちらにも責任がありますさかい。せやから、村瀬さんは村瀬さんで、ご自分の幸せ、求めていくいうことで、いい、思いますよ」菜実を見ると、涙で化粧が落ちた顔のまま、島崎というらしい新郎に肩を抱かれ、手のハンカチで顔を拭いてもらっていた。

 その時、入口扉がさっと開き、長い刺股を一本づつ持った神職二人が、斎主を後ろに従えて入ってきた。神職の男は、腰を落として刺股を構え、村瀬を取り押さえるタイミングを計っている。

「押さえたら、通報」神職の一人の声が村瀬の耳に入った。若い斎主は、手に携帯を握りしめている。

「どうぞ、安心して下さい」紅美子が村瀬に向けた言葉には、静かな自信が籠っていた。

「この子らの幸せは、こちらでしっかりサポートをしますさかいに」紅美子が言い、村瀬は視線を新郎の目に定めた。

「菜実を‥」言葉を噛ませて、村瀬は拳で涙を拭った。「菜実を、頼む‥」噛んだ言葉を言い直すと、新郎は、全てを承諾したという真剣な顔で、頷きを村瀬に送ってきた。

「村瀬さんでいいんですよね‥」菜実の父と紹介された男が、入口扉に足先を向けかけた村瀬に、訴えかけるような名前問いをかけてきた。

 菜実の父親は、涙で顔を光らせていた。

「これまで大変な、辛くて、苦しくて、悲しい思いをたくさんしてきた娘を、短い間だったかもしれないですけれど、大切にしてくれて、ありがとうございました」父親は詰まった声を搾るように言って、掌で赤い顔を覆った。

 その時、村瀬の目前を、紙片のようなものがひらひらと舞った。それは、去年のハロウィン前、茜に染まった習志野の公園で、二人の出逢いを祝うように現れ、菜実の胸に留まったものと同じ色、サイズをした蝶だった。

 自分、新郎の養父、新郎、菜実、紅美子の周りを飛ぶモンシロチョウを、村瀬の霞んだ目は追って見た。蝶は新郎の前にホバリングし、ハンカチを持った右手の甲に留まり、ほどなくして離れ、村瀬の肩に留まった。あの時は、村瀬の肩から次に菜実の胸に留まり、「蝶々のブローチだね」と自分のかけた声を覚えている。

 あの日の茜が、思考の中のスクリーンに蘇るように思い出された。今の菜実は、自分に本当の幸せを与えることの出来る、間違いのない相手との人生を歩み出したところ。

 村瀬が入口扉に向かって歩き出しても、蝶は彼の肩にその体を載せていた。振り返ると、菜実、新郎、紅美子、養父、菜実の父の五人が、整然と並んで、村瀬を見送っていた。菜実は涙の中にも、自分への感謝を込めた笑みを口許に薄く浮かべているように見えた。村瀬は、それを永遠に記憶に留めるように、菜実を肩から見つめて、小さく手を振って、さようなら、という言葉を唇から送った。菜実も手を振り返してきた。それから顔向きを扉に戻し、歩み始めた。退職をきっかけとした、自分自身の新しい人生へと向かうように。

 刺股を構えた二人の神職は、村瀬の何かに畏怖したかのように、刺股の先端部を降ろした。若い斎主は、腰を抜かしかけた体勢になっていた。それを背に、村瀬は、境内の石畳を踏み、鳥居のそびえる正門へ向かい、歩みを進ませ、涙を今一度拭って、七夕時の晴れ空を仰ぎ見た。

 その時、肩の蝶が離れ、しばらくまとわりつくような舞を見せてから、方角としては南のほうの宙へと去り、姿を遠ざけた。

 村瀬はその残像を留めながら、銀行からスーパー、その次の転職を、胸の中ではっきりと決めた。

 一つの生涯勉強としても、理解を一層深めていこう。菜実のような人、愛美の娘のような子供を、よりよく知るための道を、これから歩もうと。定年までの、この先約十五年の時間は、そのためにあるのだ、と。

 境内では、先まで御社殿で起こっていたことなど露も知らない参拝客達が歩き、立ち話をし、写真やムービーを撮影したりと、土曜午後の時間を楽しんでいた。村瀬はそれを視界の片隅にちらりと見て、前を直視しながら、赤い鳥居へと進んだ。
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