手繋ぎ蝶

楠丸

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49章

~作如是~

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 時代は、世界、日本のいくつかの局地的災害、世界の軍事情勢の緊張を報道し、ミサイル発射、ゲリラ攻撃、地震速報のアラートを数回鳴り響かせながら、年代を進めた。

 あの日から、六回目のハロウィン時季節を頭に数えながら、彼は洗面台の鏡に自分の顔を写し、鏡の中にいる自分と視線を合わせた。

 以前は嗜好であったトレーニングを自分の体をいじめ抜くものに変えた結果、頬がこけ、輪郭の線がシャープになっている。体からは贅肉が削がれ、林檎を握り潰す握力が、その体が得ている。

 あれ以後、ネット、書籍で人間の心理や体の動きの基本、人体急所を研究し尽くし、徒手、または得物を使用した暗殺術を徹底的に練った。動画を何度も観て、空手家やボクサーを刃物で仕留めるスキルを予行演習した。

 シャープに削げた頬に、にまりとした笑いが浮いた。

 あれから教団の正式な職員という扱いで会計管理部に奉職し、心を入れ替えたように真面目な仕事をこなして信用を得、その間に、自分の全思考、精神は教団のためにあるものとなった。以前にだらだらとつるんでいた人間達は、みんな、関係を解いた。

 あの日、自分の目前で坊主頭にされ、蹴りを入れられた母親は、程なくして錯乱し、認知症状態になり、精神科病棟で死んだ。

 以来、一人でこの蘇我の家に暮らしている。孤独の寂然は感じてはいない。それは、古い因縁を持ち、その因縁から自分に暴力の創と恥辱を刻印し、母親を死へ追いやった男への憎悪と殺意が、心の支えたり得ていたからだ。

 教団を動かしていた中枢の人間が殺害され、芋蔓の逮捕、摘発、ひいて解散命令、以後、彼は特別養護老人ホームの介護士として真面目に勤務しながら、恩讐の男の所在を追っていた。

 この年間、根気強く検索した結果、同姓同名の医師や学者、声優の中に、まぎれもないその男を、県内に数軒の支部を構える空手会派ホームページの指導員紹介写真に見つけた。男が所属する教室の所在地も掴んだ。職場も分かった。北習志野駅を最寄りとする場所にある、カレーを売りにするカフェ食堂という形態を取る、店舗型就労継続支援事業所のスタッフをしている。

 決行の日どりを頭に留めながら、肩から襷を掛け、手には数珠を巻き、壁に掲げた金沢聖の近影写真、その下の祭壇の前に正座して、一時間半かけて、二十品の経を照教し、破法の折にはいかなる如何なる神罰をも受く、という尊教の誓いを数度復唱した。それから作法に則った動きで祭壇を離れると、刀棚に掛かった脇差を取り、鞘を払った。

 来週水曜。柳場直樹は、窓から差し込む秋空の光を禍々と反射する、青味を帯びた銀の刃身に鋭く細めた目の視線を這わせながら、村瀬、と呟いた。その名の怨敵の魂を、刃の奥へ封じ込めるように。

 髪にはだいぶ白いものが浮いているが、汗の滲んだトレーナーの胸元、上腕には筋肉の膨れが、長袖越しにも分かる。十月半ばの水曜だった。その日は、勤務して六年目になる就労継続支援事業所に有休を申請していた。

 十月に入っても、九月の暑さがなかなか去らず、半袖の人もちらほらと目立つ、午前の時間だった。村瀬は、ハミングロードでのランニングを、ウォーキングに変えて、両手のペットボトルを振りながら、東習志野五丁目付近を歩いていた。

 向かいから、買物袋を提げ、T字杖を着いた女が、遅い足取りで歩いてやってくる。その後ろから、自転車や、電動キックボード、モビリティが追い越して去っていく。

 ワンレングス風の分け方をした髪は、ブラウンの染めの中に白が挿している。服装は、黒のブラウスと黒のスカートで色を統一していた。今の村瀬に遠くない齢頃だが、見えるとすれば、彼よりも行っているように見える。

 その女が、生の疲れ、苦悩から、顔にすでに媼の雰囲気を浮き上がらせている美咲だと気づいた時、村瀬は、何かを言わずにはいられないという風に足を止めた。

 村瀬の視線に気がついた美咲は顔を上げ、元夫と目を合わせると、一度合わせた目を伏せ、会釈をし、杖を着いて、花見川区の方面へと歩んで進んだ。

 村瀬に見送られる美咲の後ろ姿が斜め数メーター離れてから、杖を持つ手が力を失って肘から曲がったようになり、体が傾いだ。美咲は右手の杖を滑らせて、左のめりに転倒し、落ちた買物袋から、牛乳のパックと、缶詰など何点かの食料品が転がって撒かれた。

 村瀬は駆け寄り、左肘を路面に着いて体を支えている美咲の脇に鍛練用のペットボトルを置き、彼女の腰に腕を回した。

「立てるか?」村瀬は声かけし、美咲の腰を抱いて、自分の体ごと彼女を立位にした。

「ありがとう‥」その時に美咲が言った礼は、一緒にいた期間、村瀬が美咲の口から聞いたことのない言葉だった。

 バス停近くのベンチに二人並んで腰かけた時、村瀬は美咲に自販機で買ってやったジュースのプルタブを起こして、そっと手渡した。自分の分は、コーヒーを買った。

「脳梗塞で左半身麻痺。三年前からなの」さらりと述べた美咲の抑揚は、かつてよりもしっとりとし、女らしく穏やかなものだった。

「今、どうやって暮らしてるんだ」「発症する前までは、製菓工場で働いてたけど、今は身体の3級が下りて、生活保護もらいながら作業所に通ってる。保護費と工賃、それに障害基礎年金を足して、今、作新台のアパートに住んでるのよ」美咲が言い、二人の間に黙が流れた。二人の前を、路線バスが地響きを立てて通り過ぎた。

「知らないはずだよな。俺達には、もう孫がいるんだ」村瀬の打ち明けに、美咲の顔が上がり、元夫を見た。

「恵梨香だ。上が男で、今、五つ、下が女で二歳で、二人とも保育施設に預けられてる。親が共働きだからな。あいつの旦那、俺の義理の息子は障害者のジョブコーチで、あいつはグループホームの世話人として働いてる。二人とも福祉職だ。それに、俺もね。にわかには信じられないだろうけど、君の子不孝がもたらした運命に立ち向かう勇気を、情の深い他人からもらって、自分の人生を切り拓いていったんだ」

 美咲の表情に、少しずつ明るみが挿していった。それは笑顔に繋がりそうなものだった。

「博人は」「博人は、障害枠雇用で、特別支援学校の環境整備部員として働いてて、一時期、俺の東習志野の家にいたんだけど、今はグループホームに入ってる」村瀬の述べに、美咲は、はっきりと喜びのものと分かる光を目に汲んだ。

「そういうことを喜べる気持ちが持てたのは、自分が障害持って、やっとなのよ」美咲は言い、ハミングロードの非舗装路に目を馳せた。

「あなたも覚えてるよね。私はお金のある家で育ってきたけれど、自分の親が嫌いなまま、小学校、中学、大学って成長していったの。つまり、人が自分の中に愛っていう感情を持つための基盤がなかったのよ。そういう自分を拾い上げて、救ってくれる人を求めて、それは体の関係から始まるものだと考えて、遍歴を重ねてたの。それで、最後にあなたにたどり着いて結婚の縁になった時は、私は本当は嬉しかった。だけど、お金はあっても親、兄弟の愛がない家で育った私は、人に頭を下げることも、本当の心を言葉や態度に表すことも出来なかった。だから、社会的な不利を抱えた、弱い立場にいる人達を自分の敵として設定することで、心の均衡を保とうとしてたんだ。それで、あの時、あの千葉のレストランで、母子で来てたあの人達に八つ当たりの怒りをぶつけたの。だけど、栃木での経験と、それから自分自身がたまたま襲った病気のためにこういう体になって、同じ緑色の手帳を持ったことで、自分が長い間捨てようとしなかったものの見方の恥ずかしさ、あの時に、あそこであの人達に吐いた言葉の恐ろしさが理解出来たの」

とうとうと話す美咲の横顔には、現在とこれからへの寂が滲んでいた。

「それに、栃木では、知的障害者の人も何人も服役してたんだけど、その中に、子供におもちゃを買ってあげたくて、強盗殺人を犯して、無期刑、打たれてる人がいたのよ。その人とは同じ雑居房だったんだけど、彼女とぽつぽつ話をするうちに、そういう人達の立場、気持ちが分かり始めたんだ」「待て‥」村瀬は身を乗り出した。

「その人は、何っていう名前の人だ」「池内康子っていう、私達と同年代の人だった」美咲の答えに、村瀬は息を止めた。

 在ると仮定する目に視えない世界が統治する、自分達の棲む世界は狭い。その狭い世界で、因縁は確かに繋がっている。

 思いを胸に留めながら、数年前にその娘である若い女と深い関係を築き、その結婚式にまで乗り込んだことは、今日の話からは略そうと決めた。

「電車、バスで、私に席を譲ってくれたり、荷物を持ってくれたりする人もいれば、邪魔なものを見る目で見てきたり、罵声を浴びせてくる人もいるわ。だからこそなのよ」美咲はコートの胸から下げた、赤地に十字とハートマークが白く染め抜かれたヘルプマークの札を、村瀬に見せるようにつまんだ。

「美咲。家に居座って、二番目の君の夫になった男については、今、どう思う?」「江中?」「そうだ。あいつがあのあとどうなったかは、君は知らないはずだ」村瀬が言うと、美咲が隣から顔を寄せてきた。

「あいつは、持ち金の一切を失って、物乞いになった。物乞いをしてるところを俺が見つけて、恵梨香の恨みと、博人が受けた悔しさ、悲しみを、その体にきっちりぶち返した。そのあとでどうなったかは分からないけれど、惨めな状況で暮らしてることだけは確かだ。今も、これからも、ね。その時に俺がくれてやった千円で、おおかたパンとお茶でも買ったんだとは思う」

 村瀬が語り終えると、美咲は、杭で留められたように村瀬の目を見つめていた視線を外し、ハミングロードの路面に戻した。睫毛の下の目には、後悔の悲しみと、自分の心の在り方が起こした事象への深い反省が見られた。

 悲しみが宿った目のまま、美咲は、村瀬の買ってやった乳酸系のジュースを飲み干した。

「好きだったのよ。本音では」美咲は右手の杖に力を込め、ベンチから腰を離した。

「豊文さん。あなたのことよ」美咲の言葉を受けた村瀬は、自分が去る作新台の方向へ足を向けた美咲を仰ぎ見上げた。

「あいつにお金をあげたことには、あなたの人間性がしっかりと出てる。昔から、あなたはそういう人だった。私なんかがどんなに求めても得ることが出来ないものを持ってた。そういう所が。でも、私は、感情ばかりが先に立つ性格の成り立ちから、あなたのその優しさを粗末にしたのよ。だから、今、そのつけを支払ってるの。それは、私の命がある限り、支払い続けなきゃいけないようになってる」「待て」作新台の方角を登って、杖を着いて歩き出した美咲を、村瀬は呼び止めた。

「連絡先を交換しよう。ラインでいいか」美咲の背中に向かって言った村瀬の手には、ウエストポーチから出された携帯が持たれている。

「子供が君を赦してくれるかどうかは今はさておいて、困った時には助けてやることも出来る。俺の今の奥さんは、そういうことに理解のある人だ」斜め前に回り込んだ村瀬が言うと、美咲は、ほうれい線が浮き出して、唇にも皺の刻まれた顔を伏せた。

「奥さんは、どんな人なの?」美咲が伏目のまま問うた。
「プロの画家だ。画廊を通じて、自分の描いた絵を販売してる。個展も開いてる」「そうなのね」寂しげに呟いた美咲の頬に、小さな笑みが浮いた。

「あなたにお似合いの人よ。私よりも、ずっと、ずっと」美咲は笑みの顔を向け、ハミングロードの黄土を杖で着きながら、極めて遅い歩速で、すでに老いの出た後ろ姿を、村瀬の目の前から遠のかせていった。村瀬はそれを見送った。車道の喧騒が彼の頭蓋の内に遠く響き、自転車やボードの走る姿、歩行者の行き交いが、それも遠いものを見るように目に映った。

「鼻くそほじると気持ちいい♪ 鼻くそほじれば極楽だ♪ 丸めた鼻くそ、鼻毛つき♪ 迷わずお口に入れましょう♪」今日も道野辺の本社に、エアギターを交えた高々としたロックンロール調の歌声がきんきんと響き、利用者、利用児童の笑いが沸いていた。

 合同会社ラブリンは株式会社に昇格し、「グっちゃんのお庭」は船橋、八千代、佐倉にも事業を展開していた。現在の取締役は、義毅が生前に信頼していた、アルバイトから入った男が務めており、まどかは道野辺の本社に社会福祉士事務所を併設し、時折グっちゃんのお庭を手伝いながら、夫が遺したものの見守りに当たっている。

 社会福祉士事務所では、若干名のスタッフも雇っており、まどかは変わらず堅実な業務をこなしながら、義毅の血を分けて誕生した息子を養育している。

 今、今年六歳になる村瀬紅央(くれお)が唄っている歌は、語彙表現的に地域の知り合いである年長の少年達から伝わったものと思われる。

「一億一身、魔除けの形相、鼻血が出るまでかっぽじれ♪ ワオ!」エアのギターを掻き鳴らし、サビらしい箇所を唄うと、擬音化された昭和二十年代風のリズムを口ずさみながら、肩をかくかくと上下させるオリジナルダンスを披露し、その乗りが利用者、児童達全体に伝播する。

「自走榴弾砲!」「やめなさい!」そばのまどかが、ズボンとパンツを下ろしかけた息子の頭をはたいた。

「女の子もいるのよ。セクハラになっちゃうよ」母親に諭された紅央は、べっと舌を垂らして、さほど罰悪げでもない表情を見せた。

「ねえ、紅央君。クソマンジュウロックンロールは、今日は唄わないの?」訊いたのは、今、小学四年生に成長した田中樹里亜だった。彼女はローレル的に少しぽっちゃり加減の少女になっていた。ここに来るようになったばかりの頃にその表情に刻み込まれていた深い悲しみ、暗い怯えの色は、今は霧が晴れたように全くない。

 隣の椅子に座る義姉の新菜は、今、中学一年生で、後ろでまとめた長い髪が白い肌に映えて似合う美しい少女に成長している。

 小学校いっぱいまで空手を習っていたが、勉強に専念するため、現在は退会していると聞いている。

「Ah~、Ah~♪ クソクソマンジュウ、ロケンロール♪ Oh~Oh~♪ マンジュウ、クソクソ、ロケンロール♪」紅央はツイスト風に腕を揺らし、尻を振って踊り狂い、まどかは呆れて絶息した。その周りで、障害を持つ利用者達、訪れている児童達も笑っている。

 乳児の頃には妙にクールで、あやしても笑うことがあまりなく、お座りが出来る頃になって、名前をよんでも振り向くことがなかった。その姿にはニヒリズムさえ漂っていたものだった。

 二歳児の時に受けた発達検診で、多動傾向の子供だということが分かり、まどかは、職業上よく知っている、障害というものを前提に据えた教育をしてきた。それでも、近所の商店の真前で、段ボール箱を置いた“店”を構えて、その上に家から持ち出した財産価値のない物を並べ、下半身裸のフルチン姿で身振り手振り巧みに商品の解説を行ったりという営業妨害をやり、どこで覚えてきたのか、通っている幼稚園では、同じ下半身裸になって手を後ろで組み、足を開いて立つ応援団立ちをして、天は人の上に人を、という福沢諭吉の論語を唱えるという狂態染みた奇行を繰り返し、それが止む様子はない。また、先日の発表会では、南欧風ドレスの衣装を着て、手に花を持って踊る女子園児の出し物の列に、真っ裸で乱入して、白いししゃものような陰茎をぷらぷらさせながら、モンキーダンスともツイストともつかない踊りを園児、父兄一同の前でお披露目するという行動もやってのけている。

 子供のうちに私を困らせるなら、困らせるだけ困らせて、将来はその明るい素養を生かしつつ、最低限の常識だけは弁えた、他人に迷惑をかけない人になってほしい、と、今のまどかは願っている。

 なお、その生まれの顔姿は、目の動き、特徴的な赤い鱈子唇、身のこなし、仕草と、どれを取っても義毅と同一だ。一卵性といっていいまでに。

 西側の壁に掛かる絵の中の、蝶を肩に留めた少女は、笑いに包まれたグっちゃんのお庭の光景と、温かく一体化しているように見えた。

 スタッフが白玉ぜんざいのおやつを作り、トレーの上に一つづつ置いているカウンターの上には、刈り込みリーゼントの髪をした義毅の、睨むような顔をした写真が掲げられているが、その顔が、お前の自己責任の結果で出来た子供だ、と真面目に怒りながら言っているように思える。

 なお、彼の殺害犯はまだ判明しておらず、事件は、六年目の今も解明されてはいない。

 自分の生家と言ってもいい東習志野の家、現在の所帯に鍛練を終えて帰ると、愛美が寿司桶の中の酢飯をへらで混ぜており、互いに「ただいま」「お帰りなさい」を目礼で交わした。
 居間には、テレビをじっと鑑賞している賜希の背中姿がある。表情は豊かで、この世界に在るもの全てに愛情を注ぐような眼差しをし、それを体のアクションにもよく表現するが、基本的に言葉は自分から発さないという特性特徴を持っている。だが、描くことの才覚は母親譲りで、年賀状や暑中見舞いのはがきでは、その年の干支の秀逸なイラストを担当し、また、個人的趣味でもイラストを描き貯めている。四年前に特別支援学校を卒業、今、習志野市の地域新聞社で編集補佐兼イラストレーターとして雇用され、働いている。

 五年前、互いに子供がある状態で再婚した時、愛美は自分の育った習志野台の家を売り、それで得た金と二人の貯蓄が、村瀬の家の外壁塗り替え、耐震補強、床下への制震装置設置に充当された。それは地震びびりの愛美のためも同じだった。

 村瀬はその時すでにマスオマートから、A、Bの両方が併設された、北習志野の店舗型就労継続支援事業所のスタッフに転職していた。屋号は「きらりカフェ」という。愛美は自身の絵の販売を始めた所だった。今もまだ、メジャーな存在ではないが、彼女の描いたものを欲しがる顧客に絵を卸すことで、それなりに固い収入を得ている。

 今は幸福だが、この幸せが、凶悪な人間達が仕掛けた罠がきっかけになって得られたものであるという矛盾が、ふと時々、村瀬の心を苛む。

 それは、菜実との出会い、一緒にいる中で感じてきた幸せとて同じだ。今、自分が福祉職の端くれとして、知的、精神、発達を抱える若者達の支援に当たっていることのスタートラインも。その給与で、二番目の妻、継子と暮らしていることも。

「きらり」は会社としてはホワイトだが、時折葛藤を覚えることがある。純法の取り立てに脅迫づくで同行した先の老いたやくざがこぼした嘆きを、日々の支援の中で思い出す。支援という名目の過保護な干渉が、一般でも充分にやっていくことの出来る者達の夢を奪うこともまかり通っている。昔は画一的な夢を、健常、少々の頭っ足らずを問わず、関係なく見ることが出来た。

 それが今は‥

 利用者が我儘を言ったり、怒ることもよくある。そういった人間のナチュラルな感情の動きに対して、職員という立場の者達は、抑え込みの要素を持つ折衝を敷かなければならない時もままある。

 利用者を擬物化することで福祉の仕事というものは成り立っている、とは須藤の弁だが、これは「見る」という仕事を完遂させる上で外せないものなのか、と悩む。

 それでも村瀬は、入職時の指導に従い、信頼というものに基づいた関係性というものを徹底重視した関わりを続けてきた。同僚、上司には合わないと感じる人間もいるが、頑張りの賜物で、利用者達とは良好な関係を維持している。

「ごち」愛美、賜希と三人で食べ、掻き込み終わったちらし寿司の皿をと味噌汁の碗を持ち、村瀬は略した食後挨拶をして立ち上がった。

「今日は少年部の昇級審査だから」村瀬は言いながら、自分の皿と碗を洗った。

 黒帯の道着が入ったバッグを背負って家を出る際、いつものように愛美が玄関まで見送った。

「何だか、これから何日かは、特別に気をつけたほうがいいような予感がするのよ」そよりと言った愛美に、村瀬は小さく笑って見せた。

「あなたのことで」言葉を切った愛美の表情には、危機の警戒喚起を促すものが浮いている。

「何言うんだ。俺なら大丈夫だよ。伊達に一から習い直して、二段取って先生やってるわけじゃないからさ」「賜希が私に言ったの。刃物持った黒い霧の塊みたいなものが、お父さんを陰から狙ってる夢を見たって」「そんな夢のお告げなんてもんは、俺が自分で外してやるよ。昔の俺ならともかく、今の俺ならそれが出来る。気にするなって、賜希に言っといて」

 残して歩き出した村瀬を、玄関から路地にでた愛美が見送った。振り返ってその顔を今一度見ると、現在の夫に向けて馳せる心からの案じが出ていた。

 船橋本町文化会館の講堂に入ると、雑巾がけの清掃を行っている後藤という指導員が立ち上がり、「押忍」と挨拶し、村瀬も返した。

 講堂の中心部では、黄帯を締めた幼少の男児が一人、平安の型を切っていた。

「後藤ちゃん、あの子は」村瀬に問われた後藤は、雑巾を手に立ち、端正な顔に神妙な表情を浮かせた。

「ああ、彼は元々八千代の支部に登録してたんすけど、親がこの辺に戸建買ったとかで、越してきて、今日からこっちで学ぶらしいすよ。で、彼も今日、試験です」後藤は答え、雑巾がけを再開した。

 村瀬は男児に視線を戻した。今、切っている型は平安の二段だが、その動きは、まだ幼い黄帯の少年からかけ離れたものだった。ただ舞うだけではなく、立ち合う敵をきちんとイメージしている目配りと動き方で、白や黄の幼児によく見られる散漫さがない。気合は、大人までを圧倒するような、肚からの裂帛だった。

「こんにちは」男児が最後の挙動を終える頃を見計らって、村瀬は声をかけた。男児は村瀬の目を見て、こんにちは、と返してきた。はっきり、しっかりとした声勢だった。

「この教室で先生をしてる、村瀬です。お名前を教えて下さい」村瀬は言って、男児の目の高さに腰を屈めた。

「しまざきえいとです」男児は名乗り、村瀬は隅の簡易机へ走り、今日の昇級審査受験者リストを取った。その中に、「島崎詠砥」という名前と、九級の試験を受ける旨が書かれていた。

 島崎という凡庸な苗字は全く気にならなかったが、近距離で、まじ、と見た顔には、誰かを思い出させるものがあった。それに、八千代から来た、という後藤の説明にも、何かが引っかかる。

 目尻の下降した顔には、幼くして、性質的な優しさが相となって表れている。

 まさか、という心の呟きが、鼻からの短い笑いとなって吹いた。その笑いは、今の自分が家庭人に戻り、それなりの年数を経た人間だからこそのものだった。

 三十分の間に、今回の試験を受ける、五歳から十二歳の色帯の児童達が入ってきた。年齢の幼い児童には、保護者が同伴している。村瀬は児童達一人づつに声をかけ、それから保護者と話をした。

「お父さん、お母さんは、今、来ていらっしゃるのかな」一人で佇み立っている詠砥に訊いた。

「もう少ししたら、来る。今、お買い物に行ってるから」詠砥が答えた。先までとは違い、幼児らしい、抑揚の安定しない、下の足りていない口調だった。

「そうだ、今、何歳なの?」「僕、六歳。幼稚園の年長組」詠砥の答えに、村瀬は逆算の思考を働かせた。

 下腹に手を添えた菜実の、綿帽子に白無垢の姿を回想したが、また、まさかという否定がよぎった。

 村瀬は両親の氏名を訊き出そうと一瞬思ったが、個人情報に接触してしまうことになるためにそれをやめた。

 知りたい衝動を抑えながら審査開催の号令をかけた時、一組の親子らしい大人と子供が、ストッパーをかけて開放している扉から入ってきた。

「おい」横暴な発声の男の声が講堂に反響した。見ると、四十代と見られる男と、その息子らしい少年が立っていた。

 父親の男は、茶色に染めた髪のサイドと後ろをフェードさせたヘアスタイルをし、紫ヒョウ柄の上下という服装をし、脇には高級感のあるセカンドバッグを抱えているという身なりだった。顎の下には、白い髭を生やしている。

 小学校高学年に見える息子らしい少年は、マンバンというらしい、サイドと後頭部を刈り、残った襟足を結わえた髪に、だぶついたジャージという姿だった。だが、その姿に反して、態度は小さくすくみ上ったもので、俯いた顔の目は瞬きを繰り返し、口の端は垂れ下がり、今にも泣き出しそうな顔をしている。また、体つきは平均的なローレル指数を満たしていない痩せすぎの体だった。村瀬は、こんにちは、と声をかけ、頭を下げた。

 なお、息子のこのビジュアルスタイルは、自分の意志でしているものではないと、村瀬は勘づいた。

「出入りは自由なのですが、本日は少年部の昇級審査なもので。見学されるのであれば、椅子にお座りになって」「いいよ。俺は立って見っから、こいつ、強くしてくれよ」父親は村瀬の言葉の腰を折って、おどおどと目を瞬かせている息子を指した。その口からは酒の臭いがした。

「お名前は」「永松だよ。道野辺の狂犬っつって、鎌ヶ谷界隈で俺の名前知らねえ奴は潜りだよ」永松と名乗った男は、自慢げに言って、胸を反り返らせた。「息子さんのお名前は」「竜の武士って書いて、竜士(りゅうし)だよ」永松は得意げに述べた。 
           
「それでは、始めの素振り、移動に参加させてみますか。このあとは昇級の審査になりますので、見学のほうへ回っていただくことになりますが、ご了承をお願いしたいのですが」「それでいいよ。だから、さっさと始めろよ」永松は命令でもするような口調で言い、隣の後藤が竜士を促し、列の二番目、端に並ばせた。

 村瀬が号令をかけ、その場での正拳突きが始まった。素振り、移動では、いつもと同じことをやらせる。そのあとの審査では、三種類の型と組手をやらせ、防御力、攻撃力の成長を見る。組手の相手は、本人と同級か、あるいは級が上の者が務める。切磋琢磨による向上を促すためのシステムだ。

 竜士は殴り方、蹴り方を知らない。まるで平拳のように第二関節を突き出した拳の握り方をし、腰の入っていないパンチをふにゃりと繰り返し出し、蹴りは、ただ、ちんたらと脚を上げているだけのものだった。それ自体は、知らない者には当然のことだが、村瀬は竜士の背負うハンディキャップを感じ取った。

 同じものを感じたらしい後藤が脇に着いて、拳の握り方と出し方、蹴り方を親切にティーチングしたが、竜士は変わらなかった。

 その場での正拳、裏拳、手刀、前蹴りを短く終わらせ、村瀬は移動の号令をかけた。白から茶の帯を締めた児童達の中で、竜士は遅れがちにその動きを倣った。五分ほどの移動が終わった時、彼は息を切らしていた。基礎体力が、同年齢の子供達の平均からだいぶ下回っているらしい。

 村瀬は竜士に同情の念を持った。それは、かつて自分が深く関わった人と同じく、家庭、周囲の環境の如何で、本人の背負っているものが無視され、気持ちの一つも理解されない世界に棲むことを余儀なくされているというところでだった。

 令和も十年代に入った今も、こういう子供や若者は、福祉の手で発掘されきってはいない。同じ福祉職として、村瀬は変わらないこの現状を嘆かわしく、情けないという思いを抱くのを禁じ得ない。

 移動が終わり、審査が始まった。永松親子には、壁際へ移り見学してもらうことになった。

 まず、一人づつに平安を含む型を三種類行わせ、それから組手へ進む。

 型は、二挙動以上間違えたら失格となる。組手では、攻撃、防御両方の向上を見、その上で、本気さ、真剣さというものを総じて見る。今日は師範代の櫂端が、主任設計士の仕事の都合でいないため、任された村瀬と後藤には一層の責任が求められる。

 失格者を出さないためには、常日頃からの責任感を携えた指導が必要だ。

 一組づつの組手審査が始まった。玄道塾少年部の組手は、透明アクリルのフェイスガード面、オープンフィンガーグローブを着用したライトコンタクトで行う。

 最初の一組は、小学校三年の緑帯と紫帯の男子同士だった。ともに集中が行き渡った真顔で、ガード越しの顔面を打ち合い、体の小さなほうの少年が、相手の胸に掌底を決め、村瀬はその子供をウィナーとした。少年二人が握手をして離れてすぐさま、小六の茶帯と少五の紫帯、女子同士が打ち合った。先の少年達は動きが少し拙いものがあったが、その女子達は真剣味ひときわで、型を成した突き、蹴りを応酬した。

 その時、それを見、監督する村瀬は、現在の自分からすれば、昔と言っていい時間に感じてきた眼差しの温かみを受けていることに気がついた。

 それは色にたとえると、白と桃色の中間で、時々茜が混じる感じのするものだった。

 勃起を誘う温かさ。自分では遠いと思う、肌の心地。

 それはない、という思いを胸によぎらせつつ、開放された扉の左右に置かれたパイプ椅子に座って、我が子の奮闘を見守る保護者達に、ふっと目を馳せ見た。

 永松は腕組みをしてそれを眺めている。その顔には、明らかな嘲笑が浮いている。竜士は、怯えた目をさまよわせて立っているだけだった。

 その彼に椅子を進めている後藤に、永松がうるさそうに文句をつけている。

 十脚ほどのパイプ椅子に腰かけている保護者達の中に、黒縁眼鏡をかけた父親と、その隣に寄り添って座る母親で間違いない、スカートタイプの紺色スーツ、真珠のネックレスをした、肩に届かない長さの黒髪をした女がいた。

 見覚えを強く騒がせるその女が、村瀬に視線を据えていた。村瀬はそれに応えて、女の目を見た。彼の視界の外れでは、女子と女子が激戦を交え、グローブの拳がフェイスガードを叩く小気味良い音が響いている。

 キタキツネに形容が当てはまる顔をしたその三十代の女は、村瀬を優しく労る目を、審査の監督に当たる彼に向けていた。

 菜実ちゃん‥村瀬は世の中の狭さに感慨しながら、七年前の時間に愛し合いを共有していた女の名前を呼ぶ形に唇を動かし、三十代半ばの年齢に成熟した菜実は頷きを送ってきた。懐かしさ、蘇った愛しさに、村瀬の目が霞み始めた。

 四番目に、詠砥の組手審査が回った。村瀬は彼と、上級である紫帯を締めた小学校低学年の少年を組ませた。

 その少年は、詠砥の足捌きに翻弄され、攻撃を当てることが出来なかった。結果、足払いをかけられて尻餅を着いたところを、顔面に突きを決められ、詠砥の勝利となった。今回の審査に失格者はいないと、村瀬は判断していた。

「何だこりゃ。雑魚空手の雑魚道場じゃねえかよ、こんなもん」一通りのペアが組手審査を終え、児童達の熱気が立ち込める講堂の静けさを、嘲笑混じりの声が割った。

 後藤がむかっとなっていることがはっきりと分かった。この男は村瀬とは正反対に、血気盛んで短気な性格向きをしていることは、付き合っている年数上よく知っている。

 今にも殴りつけそうな勢いを顔と体の恰好に表している彼を、村瀬は、俺に任せて、と目と頷きの合図で制止し、穏やかな歩調で永松に歩み寄った。

「相手の前歯叩き折って、あばらぶち折って、骨盤砕いて、金玉潰して半殺しにして引きずり回さなきゃ、空手とは言えねえよ。おめえ、剛道の稽古とか見たことねえべ」永松はまた嘲笑した。

「あそこは半端ねえぞ。死人が出るまでやる所だかんな。ここもそれだけのことやってみせろよ。そん時に、こいつ、入門させてやっからよ」永松は息子の顔をまた指した。息子の竜士は、おどついた顔を伏せただけだった。

「お仕事は何をされていますか」自分に続くようにして後ろから詰めてきた後藤を腕で制し、村瀬は問いかけた。

「アパレルの、海江田商会の倉庫だよ。それが何だっつうんだよ」「学業や仕事を持ちながら武道を習うということの意味は、理解されておりますでしょうか」村瀬は声を静めた。
「関係ねえよ」「関係ない、とはどういったことでしょうか」「喧嘩に強くなれねえ空手に、何の意味があんだよ」永松はアルコールとニコチンが臭う口を近づけ、凄むように言い放った。

「どうか聞いて下さい。聞いて、ご理解されることをお願いいたします。確かに剛道会館はフルコンタクト空手の中では、稽古は苛烈と言われていました。でも、それは過去の話です。昔の時間には、武道の道場というものは、血の気が多く、肉体的にも盛りにある者達のために開かれていたと言っても過言ではありませんでした。本当の、潰す、潰されるという世界だったことと思います。その中で、上に昇っていった人もいますが、怪我や、怪我による障害を負って、生活、その後の人生に支障をきたしていった人達も少なくはないはずです」

 永松はぼさっとした顔持ちになった。村瀬は、自分が今話していることを、目前の永松がどの程度理解し、噛み砕くことが出来ているのかという疑問を抱いた。

「憧れが先に立つ子供の頃や、血気のある若い時分に強さを追い求める気持ちを持つことは、罪ではありません。だけど、第一にしなければならないものは、自分の将来に繋がる勉強や、自分や、自分の家族がご飯を食べていくための仕事であり、社会生活のはずです」

 村瀬の述べを、永松は鼻で嗤った。それは彼がすでに論理的に追い詰められているが故の虚勢に見えた。

「先程、喧嘩が、と、おっしゃいましたけれど、玄道塾では、子供達を含む生徒達には、格好つけの喧嘩に勝つ方法などは一切教えません。何故なら、自分が女や仲間の前でいい恰好をするためにある、または、人の財産、尊厳などを奪うためにある暴力面の強さには、守る力というものが携えられていないからです。私の若かった頃のお話をすれば、ダンベルで鍛えた上腕二頭筋を叩いて、仲間とつるんでお酒の勢いに任せて、飲み屋街の通りで喧嘩の挑発を行うとか、気に入らない同僚アルバイトを殴って辞めさせたとかが、自慢の調子で語られていました。殺すぞ、などという怒声も飛び交っていました。だけど、それらはみんな弱さの表れでした。それらの力では、大切な人を守ること、誰かを助けることが出来ないからに他ならないからです。この次元で強さとして語られるものは、私達が目指す、自分を守り、他人を守り、助け、尊び、心を磨き、社会に貢献する人材を養うという武の道とは似て非なるものです」

 齢が幼児域にある児童は、自分達がまだ理解し得ない言葉にぽかんとし、年長の少年少女達は、突如挿入された寸劇染みた展開に見入り、保護者達は聞き入っている。児童達の中でも唯一、村瀬の伝えたいことを理解に努めようとしているように見えるのは、詠砥だった。

「お前、よほどの坊ちゃん育ちなんだな。そんな綺麗言の能書きなんか糞食らえだよ」永松は吐き捨てた。

「今、俺が着てる服と、この指輪と時計、全部でいくらかかってっと思うよ。当てたら偉えぜ」「分かりません。高級なものには、私は縁がありませんので」

 紫ヒョウ柄上下の胸元をつまみ、頑丈そうな造りをした、風防部分の大きな金の時計を掲げ、指に嵌めている指輪をかざして言った永松に、村瀬は答えた。

「中古車が一台買えるぜ」永松は満足げににっと笑ったが、村瀬の目には、服を含む彼のまとっているものは、激安を謳う量販店チェーンで常に売られているものに見えた。身に着けるもので金持ちを装うことなど、それらしく見せようと思えばいくらでも出来るものなのだ。

「これはみんな、俺がガキの頃から喧嘩に明け暮れて、体ぁ張ってきた褒美みてえなもんなんだよ。男の値打ちは、喧嘩が全てなんだよ。喧嘩でのして、勝ち上がってきた奴だけが、上等の服着て、いかした車転がして、上玉の女引っ連れて、美味いもん食って、バーカウンターがあるようなでかい家に住むこと、許されるんだ。他は何っつうかは知らねえよ。けどな、これはこれまで一度だって崩したことがねえ信念なんだよ。だから、こいつをさ‥」永松は竜士を横目で見た。

「金も女も、仕事も権力もほしいままに出来る、トップの漢にしてえんだ。そのために、今、いろんな道場とかジム、回ってるとこなんだよ。こいつのためにさ」永松の顔に傲悦とした笑いが浮いた。彼は他者の話は聞かず、自分の言いたいことばかりと訥々と話すたちらしい。これも障害の一特性であることを、村瀬は職業上知っている。

「それは恐ろしい思い上がりの、その上、勘違いをされた考え方と社会観です。そういう考えをされている限り、死ぬまで飢えることになりますよ」村瀬がぴしゃりと言うと、永松の眉が怒りの形に吊った。脇の竜士は助けを求めるような目で周囲を見回すばかりだった。

「何が勘違いだよ! これは俺がてめえの人生で実証してきたことだぜ!」永松は声を大きく荒らげ、村瀬に顔を詰めた。

「おい、おめえ、ここで俺と勝負しろよ。ガキどもと、その親の目の前でタイマンだ。坊ちゃん空手の先生と、鎌ヶ谷に永松ありと呼ばれた最強喧嘩師のな。てめえがさっき言ったことはよ、俺に対する立派な喧嘩売りだぜ」

 村瀬の後ろに立つ後藤が、ずんと前に出ようとしたところを、村瀬がまた腕で制した。肩から振り返り、ウインクのように片目をつむった。同じ土俵に立つに値しない相手だ、と、目で伝えたつもりだった。

「おい、お前ら」永松は、出る術なく立って、成り行きを見ている児童達の前に立ちはだかった。

「こんな防具なんかつけて、おすおすやってるような、遊びみてえな空手、やめな。こんなんだったら、剛道とか、総合とか、ムエタイ行って、相手を身体障害者とか死人にするぐれえ徹底的にぶち回す力、鍛えろよ。若えうちにさ」

 言いながら、児童一人づつの顔を覗き込む永松に、村瀬は、一時、子供達をどこかへ移し、永松を叩きのめす考えをよぎらせた。

 村瀬が永松の背中に歩を詰めかけた時、詠砥が両腕を広げ、子供達の前に立ち塞がった。それは子供達を守ろうとする態度だった。

「何だ。俺はお前らをここでどうするとかは一言も言ってねえぞ。俺はただ、お前らに、今からばりばりに喧嘩慣れして出世して、花道歩いてもらいてえだけなんだよ。これは俺の親心だぞ」きっと下から睨む詠砥を見下ろした永松が言った時だった。

 パイプ椅子に座る菜実が腰を上げ、永松に歩み寄った。華美すぎない化粧の載ったキタキツネの顔には、慈しみだけが湛えられていた。

「何だ。あんた、このガキの親かよ」「そう。この子、私の子供です」永松の問いに菜実は答えた。村瀬が七年ぶりに聞く菜実の声は変わってはいなかったが、発声と、語の区切り方が、あの頃よりもはっきり、しっかりとしているように思えた。
 菜実の後ろから、彼女の夫が来て、村瀬と、妻子、永松の中間に立った。

「私達、夫婦で療育手帳の障害、持ってます」菜実は後ろの夫を手で指した。「療育手帳? 何だ、池沼か」永松は嘲った。

「あなた、私達と一緒です。あなただけじゃない。お子さんも障害です」菜実が静かに言うと、髪が逆立ちそうな怒りが、永松から立ち昇った。それは上がった両肩、眉、目、握った拳に表れていた。

「何だ、こらぁ、この糞アマ! てめえ、舐めやがって!」舌を巻き立てて怒号した永松が、菜実のスーツの上腕部裾を掴みにかかった。体には、がちがちに力が入っていることが分かった。

 永松のその行動は、一見にも分かる素人のものだった。

 菜実は、自分の腕に伸びた永松の手首を捉え、その腕を頭から潜り、背後に回り込んだ。永松の腕の関節は可動域の反対側へひしがれ、上体が弓反りになった顔は苦痛に歪み、先までの威勢を消し飛ばした悲鳴が上がった。それは一瞬以下のコンマの時間に行われたことだった。

 堪えきれない苦痛に、永松は口から唾液を噴出させ、言葉も失った叫喚を発しながら、体を反り返らせていた。

「あなた、これまで誰かから、尊敬っていうの、されたこと一回もない。尊敬は、その人必要だからいなきゃ駄目っていうの心です。それの喜び知らないから、暴力で人、威す。ここの空手、間違いないの。何かを馬鹿にして笑うっていう考えは、道場には持ち込んじゃいけないの。道場は神聖な場所だから。そういうの、分からない、分かろうとしない人、赦せないの。子供通わせて、自分も空手やってた人として」菜実は永松の腕をさらにひしいだ。悲鳴を上げる永松の体は、背骨が折れる一歩手前まで反り上がっていた。

 児童達はただその光景を見守るように見つめ、保護者達の席からは、はらはらした小さな声が上がっていた。

「菜実ちゃん、やめろ!」本当に折りかねない菜実の勢い、気魄を目の前に見た村瀬は叫んでいた。

「おばさん、やめて! やめてよ!」その次に叫んだのは、竜士だった。まだ変声前の声だった。村瀬ははっとなって彼を見た。

 菜実はそこからさらにひしぎを強めた。

「痛い! 痛いよ! ごめんなさい! 赦して!」永松が涙に濡れた顔で、命乞いの号を発した。菜実は、次第にひしぎを弱め、やがて、腕にかけていた関節技をするりと解いた。永松は、床に鼻を押しつけるようにして這った。

「見なさい。なっちゃいけない大人の見本だ。社会人としてのね」村瀬は、這いつくばって泣き声を立てる永松の醜態を手で指し、児童達一人一人の顔を見ながら、言い聞かせるように言い、よかったら何か話してごらん、という促しを、竜士に目で送った。

「お父さん、気が弱くて、嘘つきなんだ」怯えた顔もそのままに、こぼすように言った竜士の発音は、もごもごとして聴き取りづらいものだった。

 その顔に刻み込まれている怯えは、日常へのもののさることながら、自分自身の前途への恐怖、不安も含まれていると村瀬は察した。今、自分の前に這って、尺取虫のような恰好で啜り泣いている父は、子供である自分の気持ち全般を汲んでくれるような親ではない。つまり、全てを自分の肩に抱えなくてはいけないのだ。それにより、親が死ぬまで、その人生を親に左右され、振り回されなければならない。親子で障害を、という菜実の指摘に間違いはない。

「お父さん、仕事がないの。会社に入っても、いつもすぐに辞めさせられちゃうんだ。だから、お母さんが夜、男の人相手する仕事してるんだ」竜士は目端、口端の垂れた顔のまま、可能な限りの語彙を搾り出すように述べた。

 彼の母親が、夫と子供を養うために身を挺している仕事は、具体的にそれが何かと訊き出すまでもなく分かる。

 こういう子供の地獄は、いつの時代まで続くのか。思うと、胸に差し込むものは暗澹としたものばかりだが、自発というものも可能性を含むことがあると村瀬は信じたい。軽度児者の場合、その自発が、自分に助けの舟を出す人間関係を呼び込み、たとえ少しであっても自分をまともな道へ軌道修正し、何かを変えることがある。

 それは、あの三里塚の夜までは、ただ受けるだけの生を送っていた菜実が、人間関係の恵みを得たことで思考に自発を起こし、結婚、二度目の出産、育児という人生の段階を踏み、それが彼女に知的刺激を与え、わずかとはいえ語彙力が向上し、自分の思うことをはっきりと伝えられる女に成長した様を、たった今、目前に見たからこそだ。また、必要な時に発動させなくてはいけない怒り、というものも習い、覚えていた。

 だから、竜士には、まだ救いがある。

「そういうことまでは、人前じゃ話さなくたっていいんだ」村瀬は、竜士の恒常的な緊張をほぐしてやるように語りかけ、今回試験を受けた児童達に向き直った。

「これから書類審査に入りますが、今回、全員合格の見込みです」村瀬が言うと、子供達の間から、わあっとした喜びの声が上がった。保護者席からは拍手が上がった。

「これで今日の昇級審査は終わりです。それでは、皆さん、着替えの必要な人は着替えて、今日は解散です。色の変わった帯は、次回の練習の日にお渡しします。お疲れ様でした」村瀬が頭を下げると、児童達は、ありがとうございました、と返した。

 親同伴なしで帰る子供には、気をつけて帰りなさい、と声をかけ、それから保護者と短い話をし、座り込んで立ち上がらない永松と、その父親をおろおろと見ている竜士の前に立った。菜実と、夫の島崎、子供の詠砥も、そのそばに立っていた。

「永松さん」村瀬が頭上から声を落とすと、彼の目下にへたばっている、推定障害支援区分2の中年男は、まだ涙を光らせる顔を緩慢に上げた。

「私にも、もう三十前になる娘と息子がいます。息子は福祉の支援を受けて、仕事をして暮らしていて、娘はもう結婚して、所帯を持ってて、子供もいます。娘は、子供の頃にいろいろな不幸に遭ったということもあって、ある時期まで、誤った身の守り方に凝り固まっていました。それが変わって、母親を務めている現在に至っていますが、それは、自分を心から思ってくれて、守ってくれる人に出逢ったことが大きかったんです。玄道塾には、人を排除するという考え方はありません。それまでが間違っていても、それを正して進み直すということは、何歳になってからも遅くはないんです。だから、もしよろしければですが」「うるせえ‥」永松は村瀬の言いかけを遮って、力無い吐き捨てを返した。

「ちょっと待ってなさい」村瀬は竜士に言い、デスク脇に置いてある自分の鞄へ小走りした。保護者が礼を言い、後藤と村瀬が頭を下げ、児童達が帰っていく。

 村瀬は鞄から、義妹が経営に関わる、グっちゃんのお庭のパンフレットを出した。

 パンフレットを手に歩み寄ってくる村瀬を、竜士は、先までの怯えが少し晴れた顔で見ていた。菜実の顔持ちは変わらず、優しいキタキツネ、そのままだった。彼女の夫も、表情穏やかに、すっとした姿で立っている。

「家に帰ったら、読んで。よかったら、遊びに行くといいよ」村瀬が優しい声をかけ、手渡されたパンフレットの紙面を、竜士の目が這った。

「子供が、障害者の人達と一緒に、お話したり、ゲームをしたりして遊ぶ所なんだ。鎌ヶ谷だよね。だから、近所だ」村瀬が言い、竜士はまだ不安げな顔を上げた。

「怖い所じゃないから、大丈夫だ。ものすごくはっちゃけてて面白い、私の甥っ子もいるからね」村瀬の簡単な説明に、竜士はパンフレットを持った手を下ろし、入口扉のほうに体を向けた。

「だいじょぶですか?」菜実に声かけされた永松は、消沈した横顔を見せ、俯きながら立ち上がった。

「痛いのしたの、ごめんなさい」永松は、菜実の詫び言も耳に入っていないように肩を落としたまま、扉へと歩き出した。小さく縮み上がった背中を遠ざける永松を、パンフレットを持った竜士が追った。その一組の親子が消えるのを、村瀬、島崎、菜実、詠砥が最後まで目追いした。その消え際の姿は、寂傷としたものだった。

 村瀬は、まだ残っていた親子と短く話をし、頭を互いに下げ、次回から紫の帯を締めることになった少年が、母親と一緒に退室するのを見送った。それから、菜実夫妻、詠砥の許へ歩を戻した。

 村瀬は、深い辞儀をした。その辞儀は、主として島崎に宛てる気持ちだった。自分が、年齢その他の制約から、一緒に人生を歩み得なかった人を、確かに幸せにしてくれた人間への感謝、敬意を込めていた。

 島崎も辞儀を返した。それは、期間そのものは瞬くような束の間ではあったにせよ、今、自分が愛を注いでいる相手を助け、そばに着いていてくれた人間への礼と思えた。

「また会えるなんて思いませんでした」「私、いつか会えると思ってました」村瀬の言葉に、菜実は相反する答えを返した。

「あの結婚式の時は、すみませんでした。非常識にも乗り込んでしまって、それだけでなく、取り乱して、警察沙汰手前の騒ぎまで起こしてしまって‥」村瀬の詫びに、島崎は、手を振って、いや、と返した。その様子を、後藤が、防具などの道具を片付けながら、ちらちらと見ている。

「菜実のことを、とても大切にしてくれて、命懸けで守ってくれた人だということは、お話を聞いて、知っていましたから」言った島崎の眼鏡越しの目は潤んでいた。

「菜実ちゃん、今は、仕事とかは」「詠砥君産んでから、就労移行支援さん卒業して、特例子会社さんに就職したの。その会社さんの、スマートフォン作る部署でお仕事してるんだ。指導員さん、厳しい時もあるけど、みんな、いい人。あと、今、私達、私のお父さんと一緒に暮らしてるの」菜実の答えに、村瀬は目頭が熱を持つのを感じた。

 菜実は長い間、職場というものを含む周囲の人間関係に恵まれなかった。少なくとも、恵みの家のスタッフが入れ替わり、「ささきくみこさん」のような人と出会うまでは。

 それも如是が働いた結果だった。今の自分が愛美と家庭を築き、ここで空手を教える立場となっていることも、七年前のハロウィン前の日に、吉富からの恫迫と侮辱を受け、傷つき果てている時に、特攻拉麵の若者達による準暴行の沙汰に遭遇、その時の虫悪から安らぎを求め、その作用として、菜実との縁が生じた。

 それは、罪を作り、かつ死に瀕する淵を歩くという縁の作用ももたらした。だが、その結果、今、若い時分にはあれほど自信を持てなかった空手をここで教える立場となっている果報も得ている。

 愛美と、賜希との家庭生活を送っていることも、同じ、本末究寛等(ほんまつくきょうとう)だ。

 両親に眼差しで守られた、道着に上着を着た詠砥が、床でミニカーを走らせて遊んでいる。やはりまだ幼児ということもあり、稽古を離れると集中は切れるようだ。

 走らせているミニカーは、外車らしいデザインだったが、それを見た村瀬は、李が後部座席で反り返っていたリンカーンコンチネンタルを思い出した。

 その命を摘み取った行川は、あれからどうなったのだろう。残党の報復で死んだか、今もどこかで命を保って暮らしているのかは庸として分からない。それを知る術は、村瀬にはない。

 受けた彼の拳の衝撃、痛み、あの花見川区らしい自然更地で、顔面に相討ちの追い突きを決めた彼の体に拳、キックを叩き込んだ時の手応えが、頭に蘇生した。対象物を射る、あの「の」の字の眼には、確かな悲しみの色があった。それは、利己ではなく、己に犠牲を挺した利他の悲しみに見えた。

 過去と今、その今を起点とする未来は、同じ陸地の続きで、切ろうにも切ることは出来ない。

 そもそもの「因」であった吉富も、今はどうやって暮らしているのだろう。彼への憎しみも、まさにその憎しみを経たからこそ消えた。

 過去というものに根ざした自分の今は、どういう未来へ進もうとしているのだろう。それは。

 賜希が母の愛美を通して自分に伝えさせた、刃物を持った黒い霧、か。

「先程もお伝えいたしましたが、詠砥君も合格見込みです。これから、指導員としてご成長をお見守りさせていただくことになりますので、今後ともよろしくお願いいたします」村瀬は、関係性の変わった元恋人とその夫に挨拶を改め、また辞儀をした。

「こちらこそ、よろしくお願いします」島崎が辞儀をし、挨拶を返すと、菜実もそれを倣って腰を折った。

 村瀬は親子を会館の外まで見送った。

「車ですので」島崎は言って、菜実、詠砥とともに、駐車スペースに停めている軽ワゴン車のオートキーのボタンを押した。普通免許の欠格条項から知的障害者が外されて久しく経っているが、周りに助けられながら、かなりの努力を自分に課したのだろう。

 市場の方面へその姿を遠のかせる軽ワゴン車が見えなくなっても、村瀬はそこに立っていた。

 そこへ後藤が来た。

「何だか、長いお話してたみたいだったみたいすけど、村さんとどういう関係の人達っすか?」訊いた後藤に、村瀬は笑顔を向けた。

「友達だよ」「友達?」村瀬は答え、まだ審査関係書類の処理が残っている会館へ踵を戻した。そのあとに後藤が続いたが、彼は村瀬の返答に合点の行っていない顔をしていた。

 祝日の水曜、菜実は夫の英才、長男の詠砥とともに、柏の葉キャンパスにある大型ショッピングモールにいた。家の冷蔵庫が不具合をきたしたため、新しいものを買うため、電化製品店で購入の手続きを済ませた。

 レストラン街のアジアンダイニングで食事をし、詠砥を遊ばせるためにゲームコーナーへ行った。

 電子アレンジの音楽が交差する、おもちゃ箱のような空間に入り、詠砥のクレーンゲームに付き合っている時、菜実は、確かに自分を見ている男の視線を感じ、太鼓ゲームのほうを振り返った。

 英才は、喫煙所に電子タバコを一服しに行っていて、菜実、詠砥の二人だった。

 詠砥と同じくらいの年齢程度をした女児が、アニメソングに合わせて撥を振るって太鼓を叩き、その父親で間違いないと思われる男が立っている。男は、長い間探していたものを見つけたような目で、菜実に視線を集中させている。丸めの輪郭に細い眼形をした中肉中背の男で、年齢は三十代半ば、菜実と同じ年代だった。

 その男は、ちょっと遊んでなさい、という風な声を娘に短くかけ、クレーンゲーム機前の菜実に、ぽかっと口を開いて歩いて寄ってきた。

 その時、菜実は、男が何者かであるかを記憶の中からサルベージした。

 自分に何も言わず、いずこへかへ失踪めいた転居をし、今だに行方の知れない叔母。その叔母に、自分で絶縁を突きつけ、柏の一角にある立ち飲み屋を出たあと、ダブルデッキで、一目惚れの告白をし、手持ちの付箋に連絡先を走り書きし、渡してきた若者。名前は根島健。

 その時は、言うなれば無視を貫く形になった。それは彼を嫌いだからではなく、連絡する理由、動機がなかったからに他ならなかった。

 派手さを抑えたオータムカジュアルの服装をした健は、クレーンゲーム機の前に立つと、どこか疲れを滲ませた笑顔を菜実に向けた。

「お久しぶりです。覚えてますか」その第一声にも、仕事、家庭の疲れが浮いていた。菜実は言葉はなく、微笑の顔でゆっくりと頷いた。

「あれから世の中ではいろいろなことがあって、僕自身の状況も変わりまして」健は言いながら、後ろで太鼓の撥振るいに夢中になっている娘を見遣った。

「連絡、期待してたんですけど、しかたないですよね。個人的な事情などもあったことでしょうから」菜実は言葉では答えなかった。ただ、それほど悪い気はしていなかった、という旨は、笑みの表情で伝えた。

 そこへ女が入ってきて、一曲目のプレイを終えた健の娘に何かの声かけをした。行くよ、と言っているように菜実には聞こえた。

 男のようにごつい顔と体をした大女だった。その女は、菜実の前に立ち、せめてもう一言、二言だけでも何かを話そうとしている様子の健の後ろにどかどかと迫り、「ねえ」という不機嫌な声を浴びせた。

 女は彼の妻のようだった。

「ゲームなんかで油売ってる場合じゃないよ。早く行かないと売り切れちゃうじゃん。安く値引きされてるんだからさ」女は低い声でまくし立て、健は気弱な顔で頷いた。

 あの日の彼は、彼なりの勇気をもって、菜実に対して積極的なアプローチを試みたが、それが無視されたことにより、自分の理想には程遠い縁に捕まってしまったことは明白だった。

 健の妻は、彼の上着の裾をむんずと掴み、力任せに彼を引いて、ゲームコーナーを出た。健が菜実を振り返ることはなかった。プレイを終えた娘が撥を置き、そのあとに続いた。妻に引かれた健の姿が、娘もろとも消えた。

 菜実がもう一生涯に渡って会うことはないであろう彼は、自分の運命、人生をすでに受け入れきっているのだ。

 人生の在り方は様々だ。結果的にその相手を選んだ自己責任は、生涯に渡って買い切らなくてはならない。

 詠砥の操作するクレーンが、そこそこのサイズをした縫いぐるみを釣り上げ、それが受け口に落ちて出た。漫画を原作とする、異世界にスリップした二人の戦闘機パイロットが、限られた武器で魔物や怪獣と戦って生き残りを計るというストーリーの、高視聴率を叩き出しているアニメに登場する「キノコが進化した高等生物」という設定のキャラクターで、名前を「ムルース」という。その通り、キノコ型の大きな頭部をし、丸い目と小さな体が可愛い。劇中では、お坊ちゃま口調の流暢な日本語を話すのだが、そこにその異世界の謎が隠されているのだ。

 詠砥がムルースの縫いぐるみを手に取り、半はしゃぎをしているところへ、健が喫煙所から戻ってきた。

「これ、取ったよ」詠砥はムルースの縫いぐるみを掲げ、健は、その高さに腰を屈めた。詠砥の隣に立つ菜実は笑顔だった。

「今日はウィザードネイションがやる日だね」健は、そのムルースが登場するアニメの番組名を言って、詠砥の頭に手を置いた。

 責任、という言葉は、人生の中でどれほどの意味を含むのだろう。語彙を化さない思いを巡らせながら、菜実は、これから寄ることになっている子供服売り場へ、夫、息子に続いて踵を進ませた。

 館内放送は、佐倉市からお来しのミタニ様、という呼び出しをかけていた。

 運命というものは、どこで何者が握っているのだろう。菜実は、また語彙にならない思いを頭に抱きながら、夫と、縫いぐるみ片手の息子を追った。
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