手繋ぎ蝶

楠丸

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50章

~バニシング・ポイント~

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 その祝日水曜、村瀬の勤務する「きらりカフェ」のある習志野台では、「ウェルビーズ・オータムフェスタ」と題した祭りが開催されていた。場所は高根木戸駅近くにある公園で、船橋市内の社会福祉法人、NPO法人、福祉会社が食べ物や遊戯の屋台を出店していた。

 白を始めとする、色とりどりの大小様々なテントが、休日を楽しむ人でさんざめく公園に並び、食べ物屋台からはグリルの煙が上がり、肉や粉物を焼く美味しい匂いが秋空の下に漂っている。

 両手に持ったへらを器用に操作して、鉄板の上で焼きそばを焼く村瀬の前に、女らしい人間が立った。いらっしゃいませ、と言いかけた時、並んだ列から小さな顰蹙の声が上がった。

 その女は列に割り込んだようだ。

 ソフトな注意をしようと思い、顔を上げた村瀬は、あっとなった。女の顔に、時代の流れ的にはともかく、今の自分にとっては大昔の日に確かに会ったエピソードを経ている人間だったからだ。

 七年越しに近くで顔を見る生田絹子は、黄色いパジャマ姿で、「いくた」とマジックで平仮名書きされたスリッパを履いた姿だった。あの時、ブラウンのお洒落染めをしていた髪は白くなり、乱れたざんばらだった。後ろに並ぶ客達が露骨に嫌な顔をしている。

 鉄板に伸びた絹子の手が、まだ焼けていない焼きそばをぐしゃりと掴み、それが歯の欠損した口に運ばれた。

「お客様」隣のスタッフが駆け寄り、なおも焼きそばに手を伸ばそうとしている絹子の腕を、声かけしながら抑えるや、歪んだ顔から、きい! という奇声が上がった。後ろの客達は唖然となっている。

「泥棒だ!」絹子が金切り声の言葉を張り上げた。「こいつ、泥棒だ! 私のお金を取りに来たんだよ!」焼きそばの切れ端を口周りにつけた絹子は、物事の前後を無視した支離滅裂な内容の言葉を叫び、スタッフを振りほどくようにして暴れ始めた。

 村瀬は屋台を出て、身元の分かるものをつけているかを確認にかかった。腰から下がった札が揺れている。手に取り、見ると、生田絹子と振り仮名入りであり、ふたわ遊楽苑という特別養護老人ホームらしい入居先と、その電話番号が書かれていた。

「ここに入居してるらしい。私が連絡するから、お店、よろしく」村瀬は女性スタッフに言い、携帯を懐から出した。

 このすぐ近くにある特養のようで、事業所名が車体に書かれた社用のライトバンが走りつけてやってきて、黄色いユニフォーム姿のヘルパー達が、奇声を発し、非ぬことを口走る絹子を押さえ、生田さん、帰りましょうね、と説得し、なおも暴れ、ばたつく四肢を、まるで豚の丸焼きを持つように持ち、車へ運んだ。ヘルパー達の腕からぶら下がった絹子は、泥棒を殺せ、と叫び続けていた。その光景に、振り返った人々の呆気に取られた視線が集まった。

「ご迷惑を」と辞儀をし、詫びの挨拶をしたヘルパーに、いえ、と返した村瀬は、運び去られるその姿を目で追った。

 絹子を乗せたライトバンが消えた。この媼が、七年前の時間に一時関わった人間であることなど、同僚に明かす必要はない。

 自分などが、たとえ望んでも持つことの出来ないものを持った人だったと思う。プロの愛人、性別を変えればプロのヒモということになるわけだが、普通の人間が真似ようとすれば、人生をそのまま転落させることが関の山である生き方を振り、それを介護施設の世話にならざるを得なくなる老いの病に罹るまで続けてきた。あの手繋ぎ式で、こんなものは人を陥れることの幇助、大人なら自分の身は自分で守れと説教をぶち、退室していく後ろ姿には貫禄が満ちていた。

 しかし、無常にして無情なものが世の中であり、人の一生だ。あの一本筋の通った自由人は、認知症を発症し、身内もいない以上、特養の壁の中で最晩年を迎えなくてはならない運命にある。

 今日、突如と、ひょんに起こった再会。これは目に視えない世界が下した判断による縁の働きだと思いながら、屋台に戻り、並ぶ客達に短く詫びて、また、へらを振るい始めた。隣に立つ女性利用者は、先の出来事をきょとんとなって見ていたが、何事もなかったように、高い客呼びの声を響かせている。

 自分では、失くしたものとした縁であっても、切願が、その縁をまた繋ぐように造られているのが、因縁の世界だ。少なくとも自分はそれにより、時間を経て、道場生の保護者という形を成した菜実との縁をまた繋ぐことが出来た。

 だが、その追いが、憎しみの的に縁を接続することもある。人型をした黒い霧、について、該当するものが強いてあるとすれば。思い、思ったあとで否定した。

 あの男は、自分の加えた凄惨な暴力と凌辱の私刑で、今、命があるとしても、すでに生きながら死んでいるも同じの生を送っていることだろう。しかし、諸行の無常を想えば、自分の知らない所で、自分が想像もし得ないことが起こっていることも否定は出来ないかもしれない。

 それでも、今、自分が送っている暮らしそのものに、それのもたらす凶事が襲う気配は見えていない。

 祭りは十八時に撤収作業などが全て終了し、そのあとは、北習志野のアーケード街にあるビストロで打ち上げ、食事会になった。愛美にはその旨の連絡を済ませているが、彼女は、今日は賜希と二人でスーパー銭湯へ行き、そこで食事すると言っている。

 打ち上げがお開きになったのは、二十時過ぎだった。村瀬は店を出て、少し酔い覚ましをしてから帰る、と同僚スタッフに言い、スーパーの角を曲がり、駐輪スペースの自販機でホットの紅茶を買い、奥の公園へ進んだ。

 小高い人工丘とブランコ、シーソーなどの遊具、何点かのベンチのある、わりと広い公園には、人気はなかった。

 村瀬は道路側のベンチの腰かけて、畳んだ折り畳み傘を置き、キャップを開けた紅茶を啜った。程よい熱さが喉から胃に巡り、厚い雨雲が覆う、星のない夜空を瞳孔に映した。朝のテレビでは、今日夜から未明にかけて強めの雨足、という予報を、お天気キャスターが読んでいた。

 マグナムワインの酔いが、血管、運動神経の端々にまで重く落ちていた。今日は少し、格闘家としては不覚悟な飲み方をした。そのことについて、さほどの反省はしていなかった。

 菜実の得た幸せ、今の自分の幸福。お互い、苦しみと悲しみの荒渦に揉まれた果てに見つけたそれに、申すことはなかった。自分は、愛美を生涯に渡って離さない。菜実は、島崎の妻、詠砥の母としての人生を全うする。それこそが、その縁を繋いでくれた神仏への報恩だ。

 村瀬は、無いという前提で考えていた神仏の見方を改める気持ちになっていた。それは、神とは博愛、仏とは、慈しみであり、人の形をした実体はないが、信じる心が想いとして結晶化し、世の中に様々な現証を起こすものだろうという結びになる。それでも、霊魂、霊界と呼ばれるものは在ると思える。ただし、従来からイメージされてきたものとは大きく異なるものかもしれないと、今の村瀬には思えていた。
 
 この現世のような形で見聞し、触知することの出来る世界に肉体の在る時間は定められている。その間に、与えられたこの世での生を使って、何を成すか。

 その生の使い方として有効なものとは。無駄なものとは。

 考えが巡った時、ポールライトの灯りの隅から、一人の人間が現れた。村瀬が目を遣った方向には、長い布袋を持った男の姿があったが、酔いと相まって体の隅々まで行き渡っていた幸福感は、それに対する警戒信号を働かせなかった。

「村瀬」黒のニット帽に黒のナイロンジャージという姿をした男の口から名を呼ぶ声が発せられ、布に入った鞘から、刃渡り30センチの刃が抜かれた。立ち上がれという信号を、村瀬の脳が肉体に司令しかけた時、男は全体重をかけ、座っている村瀬の体にのしかかった。

 脇差の刃が、腹部の皮膚、脂肪層、筋肉を割って、腸まで押し込まれたことが分かった。刃の刺突力には鍛え抜いた男の筋力を感じた。腹腔から胸部にまで、さながら火が起こったような熱が広がった。

 末期を前にした呼吸を刻みながら、村瀬は男のジャージの襟首を掴んだ。男の顔を確認した村瀬の目に、狂いはなかった。睨み下ろす男は、若い日の自分を山荘バイトの折にいじめ抜き、七年前の報復制裁で心身を襤褸のようにした男だった。驚きは、苦痛とともに目の前に迫った命終ともども、さほどには覚えていなかった。その事なげな今の心境が作られている心的理由は、捩り合わされた因縁の糸の存在を今日の日に改めて知ったこと、また、己を含む人間の命尽というものが、多々としてあえなく訪れることがあると悟っていたことにあった。

「‥おい、柳場‥よく聞け‥」村瀬は怒涛のような呼吸の中、呼びかけながら、柳場の襟首を万力の力で掴み、ベンチの隣に転がし倒し、座位にした。最期の渾身力だった。刃はまだ、村瀬の腸を断ち割って深く埋まったままで、二つの体がひと振りの刃で繋がれている状態だった。

「‥幼稚園か‥そこらの頃‥お前も‥いつも目をきらきらさせて‥人生の未来を夢見てたはずだろう‥人生のどこかで‥それに立ち返ってな‥まっすぐな生き方しようと思ったことは‥お前には、一度もなかったのか‥ただの一度も‥」村瀬の嗄れて震える声を受けた柳場の眦と口許は、さらなる怒りに吊った。彼の喉は、憎しみを呑み込みかねたように激しく蠕動している。

「‥いや‥どだい‥無理だよな‥傍からは‥視えない愚を抱えて生まれてきた‥お前みたいな‥奴には‥今‥これから‥お前の行き着く先は‥もう決まったも同じだけどな‥それは‥お前の脳には‥反省という機能が‥付属‥されてないからだ‥二度と戻りはしない‥時間というものが‥いかに大切かも分からない‥だから‥こうしてる今も‥お前に殺されたも同然に‥命を断った‥女の子を悼む気持ちの一つも‥お前は‥持っちゃいない‥持てはしないんだ‥かけらほどもな‥男女‥問わずに‥他人に‥思いやりの気持ちを持つこともなしに‥大人になっても‥自分の欲望だけを満たすことを第一に‥してきた‥つけを‥これから一生かけて支払わなきゃいけなくなったんだぞ‥分かってるのか‥柳場‥あの時‥俺がお前に加えた仕打ちも‥お前が‥送ってきた‥生き方の‥つけ払いだ‥これからも‥一生‥お前は‥それを‥」

 村瀬が残そうとした言葉を遮り切ったものは、さらなる三回の刺突だった。脇差の刃は、村瀬の肝臓、脾臓、最後に肋骨の間を潜って、肺臓にめり込んだ。

 村瀬は、一挙に遠のいた意識の中で、これが弟の命を奪った直接の死因であったことを思い出した。

 襟首を掴んだ手から力が失われ、村瀬の後頭部と背中がベンチの座面に付き、やがて、痙攣する上体が芝生の上にずるりと落ちて下がった。座面は血に浸され、背もたれも、赤い塗料を散らしたように汚れていた。そこへ足勢の強い雨の粒群が落ち、公園の夜景色を霞め始めた。それは、ほどない時間のうちに、ベンチの前に仁王立ちになった柳場、涌き上がる血もそのままに、くっと目を開いて、仰向けの半身をベンチから垂らした村瀬を洗った。

「尊教万歳! 我らが金沢聖大法裁様は偉大なり! 尊教の功徳は永遠なり!」ベンチの前で脇差を手に、雨粒が迫り落ちる空を仰いだ柳場が叫んだ。この世における意識が切れる手前にある村瀬の目は、柳場が逆手に柄を持った脇差を、躊躇なく己の喉首に突き立て、その刃先が盆の窪からびゅっと飛び出す様を捉えた。流れ出した血は、すぐさま、夜の街を叩き鞣す雨に洗われた。

 雨の中、跪き、前のめりに崩れていく柳場の姿が、滅末の一景として村瀬の網膜に焼きつけられた。全ての罪咎を洗い流す、甘露の法雨。その雨弾が、村瀬の眼に流れ込み、視界を奪った。その雨に、自分の罪、因縁が洗浄されていく感覚に、肉体の苦痛が中和される思いがした。その時、全ての力を失った体がベンチから転がり落ちた。柳場は、頸後ろから刃身を突き出し、生命を消失させた肉体を緑地の上に留めていた。雨は降り荒みの激しさを増した。今の時間に、本末究の働きに決済された、二人の男が背負う因縁を、芥ほどのミリ数も残すことなく洗い流すように。洗い流した上で、十方の仏前に化生させるかのように。
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