手繋ぎ蝶

楠丸

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53章

~完章・パンジーの庭~

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 車椅子からでも応対可能な、低い位置に取りつけられたインターホンに応答した吉内叶恵は、マイクから流れた声に、はっきりとした聞き覚えを感じた。 

 電動車椅子のホイールを玄関スロープ手前に止め、リモコンキーの操作で開錠し、スライド式の玄関扉を開けた。

 五階建て、エレベーター付きマンションの、一階の部屋だった。

 叶恵は二十四年前に鳶手元の仕事に戻り、再び男達の中に戻り、黙々と働いた。一生を変える事故に遭ったのは、二十一年前のことだった。その時の自分らしくない注意心の抜けで、命綱なしで作業を行っていたところ、足を滑らせ、10メートルの高さを持つ足場から転落した。

 命は助かったが、脊椎を重度損傷した叶恵は、バイクに乗ること、現場仕事の継続を不可能とする半身不随の身体障害を負うことになった。

 四十歳でディサビリティカードが交付された身となり、住所を都営アパートから、高齢者に配慮した段差無しの造りをした今のマンションに移し、毎月定額を受け取ることの出来る、デジタルデータ化された障害保険金、障害基礎年金、若い頃からの蓄財を合わせて生活している。

 世話になっていた、今はすでに亡いはずの不動産オーナー夫妻には悪いが、恋愛、婚姻の縁は、全く自分からは求めず、高齢独身者となったことの後悔はなかった。自分には、そういった人並みは似つかわしくないという、ある種の頑固な思いがあった。

 マイク向こうの、老いていながらも自分の知っている男の声が、宗教法人恩正啓生会、大田教舗の者で、文岡と申します、と名乗ったことで、通常ならホン越しに断るところを、対面して応対する決意を叶恵にもたらした。

 玄関前に、エイジフリーカジュアルをまとい、新聞と冊子、バッグを持って立つ文岡丈二は、老いの苦しみを表すような皺を顔に刻んだ、白髪の老人となった姿をしていた。

 疲弊と苦悩が色濃く湛えられた三白眼が、叶恵の顔を捉えた時、その目は驚きに蠕揺した。そこから伏せられた瞼、垂れた口の端には、言うべきことが見つからないという心情が吐露されているように見えた。

「こんにちは」引き攣りを隠せない笑顔を作り直した文岡が、叶恵と視線を合わせることを避けながら、瞬きとともに頭を下げた。叶恵は小さく頷いて、玄関入口まで車椅子を進めた。

「御仏様の教えをお伝えさせていただいております。もしよろしかったら、こちらが本会の新聞と機関誌になりますので、お時間のある時にお読みになって下さると、私にとっても幸です」文岡は低く沈めた声で言いながら、叶恵と目を合わせることなく、老人斑と青い血管の浮き出した手に持った「恩正新聞」と「邁進」を差し出した。

「ありがとうございます。でも、見ること、聞くこと、触れて感じることの出来る俗世、ここで自分の意思を形にすること以外は、これまで考えてこなかったものですから。それに、拝むことを藁にする考えは、昔から嫌いだったもので。だから、私は宗教は結構です」はきとした声遣いで叶恵が述べた時、文岡が顔を上げた。

 叶恵と文岡の視線が合った。叶恵は、今の自分がさほど険しい目をしているとは思えなかった。上から見つめる文岡の目には、言わなくてはいけないが言いあぐねていることがある、という光が灯っている。

 叶恵とて知っている。今、目の前に立つ老人と、その手勢により夫を嬲り殺しにされ、のちに自らも死を選ぶことになった母を「お手結び」しようとしていた恩正啓生会の信者総数は、今、全国合わせて五万人弱まで減少し、三鷹の本部施設は現在、大手建設会社によって売物件として管理されている。沖縄を除く本州に残る、教舗と呼ばれるブロックの活動拠点は三十程度しか残っておらず、大きな銅の釈尊像が鎮座するその教舗には、常にまばらな人数の老男女がいるだけなのだ。

「承知いたしました。一応、新聞と冊子は置いていきますが、どうぞ、ご自身のお心を大切になさって下さい」文岡は言って、扉脇に持参の新聞、冊子を立て掛け置き、車椅子の叶恵に、真正面から深い辞儀をした。その辞儀は、三分ほど続いた。それを車椅子から見つめる自分の目に憎しみはないと、叶恵は確信していた。

「もう、こういうことしか残されていないんだ。私に出来ることは」長い辞儀を解いて踵を返し、肩越しに叶恵を振り返って言った文岡は、寂寥の落ちた肩を撫でさせ、痩せた背中を遠のかせた。叶恵はその背中姿が辻に消えるまで見送った。後ろから言葉を投げることはしなかった。落ちた肩と丸まった背中には、あの時以来、彼が幾度も苦しみと悲嘆の泣菫を繰り返してきたという人生の現実が、剥がそうにも剥がれない粘度で貼りついていた。それに対し、何かの追い打ちをかけようという気持ちは起こらなかった。

 遠い昔に自らの犯した罪咎の清算手段を、新宗教に帰依することの他に見出し得ない孤老となった男への憐みだけが、今はひしひしと胸に沁みていた。

 叶恵は車椅子を進め、新聞と冊子を手に取り、冊子をめくり、紙面に目を掃かせた。真実味のない、変わらない綺麗言が羅列された冊子を閉じ、リモコンキーを操作して扉を閉めて施錠してから、部屋に戻り、文岡の置いていった二点の出版物を、隅のゴミ箱にそっと捨てた。

「お祖母ちゃん、お下げして」孫の島崎若菜がせがんだ。南欧ドレスの姿で庭の洋椅子に座る菜実は、若菜の肩口までの髪を、器用に、優しい手つきで編んだ。庭の隅には、夏に種を植えたパンジーが白と黄色の花を咲かせている。

 二本の三つ編みの髪になった若菜が、庭隅の小さな砂場で山を作って遊ぶ様子を、菜実の隣に立つ英才、縁側に腰掛ける詠砥、その妻が見つめている。

 正伝的なキリスト教会、古来の仏教宗派を含まない新宗教団体は、今や各団体が、組織壊滅の一歩手前という岐路にある。それは十年ほど前から始まった宗教崩壊ドミノの結果だった。

 若き日の菜実がその当事者となった、三十幾年前の純法事件は、カルトと呼ばれる組織がいかに容赦を持たないものであるかを世間に改め示した。それから、既存の新宗教各会派は、いかに自分達が真実を流布する正統的な宗教団体であるかを、こぞってしきりに強調し、訴えた。だが、その懸命なアピールが組織の拡大、信徒数の維持に繋がることはなかった。

 日本社会が、宗教を認めることも許すこともない世界へ舵を切り始めたのだ。

 各会派は、信者の維持、取り込みに手段を選ばなくなった。正体を隠蔽しての勧誘活動、すでにモラルのハザードをきたしたやり方で、離れようとする者達を繋ぎ留めようとし、折れないものには脅しを用いることが当たり前という在りようになった。以前よりその傾向が顕著に見られた団体は、それをさらに強め、穏健だった団体はその方向へ色を変貌させた。

 それは、納税義務が課せられることのない不自由なき暮らしを手放すことが社会的な死を意味する団体トップ、その家族がかけた圧の檄から行われたものだった。

 六年前、手堅い信者数を維持するが、教義に排他性を持つ仏教系団体が起こした信者母子リンチ致死、遺体遺棄事件が、大衆の宗教への不信、恐怖を抱かせることを決定づけ、現在、その団体は準カルトと認定され、警視庁公安部の監視対象となっている。

「今日の夜ご飯は、ウーパーデリシャスのお寿司だよ。若菜の好きなウニも入ってるからね。祖父ちゃん、祖母ちゃんと一緒に食べようね」詠砥が投げた声に、砂場でプラスチックのミニスコップを使い、穴を掘る三歳の孫娘が顔を上げた。

「長い時間が経ったね」銀色の壮年髪をした英才が、菜実の耳朶に囁いた。

「僕達が出逢って、結婚して子供持って、今、こうして孫まで出来て、こういう時間を過ごしてるのは‥」

 菜実は、夫の言いたいことを、全センテンスを聞くまでもなく理解している。

 彼女の中にはまだ生きている。幼い領域に留まっているといってよかった自分を愛し、心に安らぎを与え、支え、死線を潜って守り抜いた男が。

 だが、その愛は、隔たる齢、菜実の抱えるものという事情を持つ以上、生涯に渡っては、少なくとも身柄を寄せ合うという意味で全う出来るものではなかった。

 それでも菜実は信じたかった。時間が経過し、英才との間に子供、その子供も子供を設けた今も、心は繋がれていると。 

 現実に、生と死が二人を分けていようとも。

「僕達は、重い荷物をしょって生まれてきたよね。それをしょったまま急な坂を登るのと同じなのが、僕達みたいな障害者の人生なんだ。だけど、坂を人生にたとえると、その坂の途中で、荷物を分けて持ってくれる人達とも出会うんだ。僕達には、それが村瀬さんだったんだ。あの人は、僕達が背負う荷物を、半分だけじゃなくて、みんな持ってくれたのと同じだよね」 

 菜実は、夫の述べを聞きながら、薄い羊雲が高空に浮く秋晴れの空を仰いだ。

「村瀬さんは暴力に斃れて死んだけど、あの人の中にあったのは、その暴力を誰よりも否定する心だったんだ。だから僕達みたいな障害者を騙して、暴力で支配しようとする奴らと、命を懸けて戦ってくれたんだよ。その戦いがなければ、なかったんだ。今、こうして孫までいる、僕らの人生は」

英才も、隣の妻に倣って空を見上げていた。その目の温かさは、天に在ると信じる村瀬の魂魄へ宛てるものだった。

「僕達は今、リレーのバトンと同じように、村瀬さんの命を引き継いで生きてるんだよ。つまり、詠砥と若菜の中には、村瀬さんの命が流れてるんだ。その命を若菜からその子供、そのまたその子供、その次の子供にも引き継げるようにすることが、僕らの義務なんだ」「はい」菜実は夫と二人、天の一点を仰ぎ見たまま短く返事した。

「村瀬さんは、自分が信じた愛のために、立派に死んだんだ。男として。ウェブページのアンチが何を言おうと。メディアがどんなことを書き立てようと!」

 二人が戻した目の先では、若菜が黒山、白山を作り、「こっちが黒ちゃん、こっちが白ちゃん」と、自分の作った砂山を命名していた。

 そこへ一羽、黄色い体を持つ蝶が飛来し、翅を立て、砂の山と戯れる若菜の髪に止まった。歓声を上げた若菜に、菜実は椅子を降りて歩み寄った。

「蝶々のヘアピンだね」「何っていうお名前の蝶々さんなの?」「手繋ぎ蝶さん、だね」くすぐったそうに首を傾げて訊く孫娘に、菜実は答えた。

 縁側から微笑が沸いた。英才も口許を笑ませて、妻と孫を包み込むように優しく見つめた。

 庭のパンジーは、暖かな秋の微風にそよぎ、その花身を小さく躍らせていた。完。
 
 追伸・このドラマを、若い日の俺に八年間寄り添った、知的障害を抱えながら一般枠社会で戦い、その後、シングルの母親としての務めを立派に果たした久美さん、十代の一時につるみ、著しい不良の素行を持ちながらも、社会の表裏を教える話をしてくれた川田氏(仮名)、二十代の一時、短い期間ながら濃厚な関わりをし、ハンデを背負いながら倫理を守って生きる道のりの険しさ、悲しさを身をもって教えてくれた、土曜の夜に川沿いの商店ベンチで語らったK某、発達持ちが社会で生存するための戦い方を教えてくれたY氏、深い理由あって大人の年齢になってから道を踏み外した身だが、俺の習作をレビューしてくれた実妹、俺に愛と慕いを寄せてくれた、千葉県某所に今も住むN君、その他、人となりの長所短所、曲を互いに知り尽くした古くからのアミーゴ達に捧げる。
 令和7年クリスマス時 楠丸
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