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第11話・次の休前日

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 金曜の夕方は結構忙しい。休日前に月曜日の仕事の段取りまでしておいて、せめて僅かでも心を軽くして来週一週間の勤労に臨みたいのが人情というものだからだ。

 それは大和だって同じで、デスク上だけでなく週明け一発目で手を付けるつもりの見積書の資料を揃えたり、だが何という気もない顔を作って隣のデスクの同僚と、口先だけで休みの予定を喋ってみたりする。

 そんな時だった、大和の携帯に電話が架かったのは。

「何、母さん。帰りの買い物ならメールで――」
「――違うの。あんたのプーちゃんだけど、泳ぎ方が変なのよ」

「え……病気っぽいの? 色は? って、生きてるよね!?」
「生きてるから連絡したのよ。早く帰ってくれる?」
「そりゃあ。見ててくれよな、危なそうならまた連絡してくれる?」

 了解を得るなり電話を切って、何はともあれデスクだけは体裁を整えると、タイムカードを誰よりも早く打刻してフロアを飛び出した。途端にぶつかりそうになった夜勤の掃除会社のおばちゃんにも、ロクな返事が出来なかった。
 頭の中では、あの自慢の美しく優雅でなお、大和だけに懐いて水を吹き、今朝まで餌をねだってはちゃんと食べていた姿が蘇る。

 何が拙かった!? 昨日の水替えもいつも通りで変じゃなかった筈だ。餌もクリルとアサリの剥き身……そういえば昨日、甘エビの刺身をやったら喜んでいたけれど、あれが良くなかったのか?

 車に駆け込み発車寸前に母からの第二報で「斜めに泳いでガラス面にぶつかっている」との痛々しい様子がありありと伝えられて、大和は、他人から見れば『たった一匹の雑魚』のために、涙で歪みそうになるのを必死で堪えて今は運転に集中した。

 そうしながら途中で考える。これまでにも水棲生物を長く家で飼ってきて、魚の様子が急変したら殆ど助けてやることができないのを大和自身、知っていた。動物園ではないのだ、人間張りに手術など出来る大きさではない。

 勿論、水棲生物にも特有の病気があり、そうなってしまった場合には水の塩分濃度を高めたり、メチレンブルーなる薬液を入れたりと、対処法もあるにはあるが、母の言う通りなら、おそらくプー助は――。

 あの金魚屋の青年に訊いてみたらどうだろう? しかし金魚屋は殆ど店を閉めていて、青年も木曜の朝に海岸通りで拾うのが恒例となっているだけである。
 捉まるかどうかすら分からない人物を探し求めてふらふらするよりも、大和は何より生きたプー助に会いたくて堪らなかった。

 いつもと変わらぬ帰路なのに、何処をどうやって走らせたか記憶もないまま家に到着すると、ガレージには車を入れず停めっぱなしで家の中に駆け込んだ。水槽のある元リビングで今は大和のねぐらと化した部屋に突進する。

「プー助は!?」

 大声を出しながらも既に水槽を覗き込んでいた。プー助は優美でふっくらとした魚体を全体的に白っぽくしていた。今もバランスが取れないのか斜めに泳ぎ、それでも大和を認めたらしくガラス蓋の切り欠きまで泳いでくる。

 そんな仕草の間にも何度かガラス面に体側を擦るようにぶつけていた。
 お蔭であんなに透明で瑕ひとつなかったヒレは幾重にも裂け、破れ欠けてさえいた。

「プー助、いいからさ、プー助、じっとしていろ」

 それでもプー助は大和に対して弱々しくも水をピューピューと吹いて見せる。

 情けないなどと思う余裕もなく大和は涙ぐみながらクリルを半分に割って与えた。嬉し気にクリルを吸い込んだプー助だが、一瞬後には呑み込めないのか吐き出してしまう。もう、それを追うこともせず、ただプー助はガラスと海水越しに大和をじっと見つめていた。

「プー助……プーよ、海に還りたいか?」

 返事など無いのを承知で訊いた大和は、立ち上がると急いで車からあれこれと持ち出してくる。まずはクーラーボックスに水槽の水を半分入れ、減った分の海水を水槽に新しくポリタンクから満たした。

 今はヒーターなどで水温調節もしていない時期なのが有難い。クーラーボックスにも少しポリタンクの水を足す。そうして水槽にそうっと両手を差し込むと、いつもの掃除と同じくプー助は大人しく大和の手のひらに載った。

 けれど挙動は同じであれどプー助の魚体は普段よりぬめりが酷かった。
 きっと傷付いた身体を守るための分泌液だ。それとも死んだ魚を捌く時に感じるあの……いや、違う。プー助は俺が海へ連れてゆく。

 どれだけ大和が自分に可能な限り最高の環境を整えてやっていても、あの広い大海原に敵うものはないだろう。

「プー助、海に還ろうな。だから、それまで頑張ってくれ!」

 大和はエアレーションの装置を付けたクーラーボックスの中のプー助に囁くと、ボックスのフタを閉めて金具をロックした。何も言わずに見ていた母が頷いたのに頷き返し、大和は靴を履くと車に飛び乗った。

 助手席の足元にクーラーボックスは置いてある。
 海までの間、ずっと大和はプー助に語りかけていた。

「なあ、プー助。広い海なんだしさ、次は誰にも釣られるなよ」
「好きに泳いで、好きなものを食べたら……治るよな?」
「頼むから、海まで生きててくれよ、頼むよ、なあ――」

 滲む視界をたびたび袖で擦っては確保し、ようやく低い堤防が長く伸びた場所まで辿り着いた。もう大和は涙と鼻水で見られたものではない表情となっていたが、構わず空き地に車を停めると助手席の足元からクーラーボックスを持ち上げる。

 沖に向かって長く伸びた堤防は間遠ながら外灯があって、歩くのに支障ない。

 もし今、プー助の命の火が消えてしまったら。そんな怖さで大和の足取りは早くなる。だがクーラーボックスの水を揺らさないよう慎重だ。

 そして大事なプー助に何度も何度も大和は言葉を掛け続ける。

「ありがとうな、プー助。愉しかったよ、お前がいてくれて――」

 急いだのに堤防の突端に辿り着いてしまったのが惜しくて堪らないような気持ちになった大和だったが、ためらいなくクーラーボックスのフタのロックを解いた。少し離れて背後に外灯があり、ボックスを傾けるとプー助が未だヒレを動かしているのが分かった。

 それでも海水はぬめりで粘性を帯び、プー助自身も白っぽく斜めになっている。
 ここで大和はせめて釣り用の水汲みバケツを持ってきていれば、プー助を静かに海へ還してやれたのにと後悔した。だが仕方ない。

 どうやら満潮らしく水面も近い。ラッキィだ。クーラーボックスの水ごと、ゆっくり流し込んでやれば衝撃も与えずにプー助を海に還してやれるだろう。

 そう思いながらも誰かが背後に立ったのに、ふと気が付いた。こんな時間に夜釣りでもなく大男がしゃがみこんで泣いていれば誰でも不審に思うだろう。見回りの警察官かも知れない。
 それにしてはコンクリートに浮いた砂を踏む音ひとつせず、唐突な出現だったが。

 普段の大和なら飛び上がっていたかも知れないほど本当に静かで気配も薄かった。
 だが不審に思う余裕もない大和に対し、背後から穏やかにかけられた声は聞き覚えのあるものだった。

「何で最期まで看取ってやらないんですか?」

 それはあの青年、金魚屋でパンクロッカーの彼の声だった。
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