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case5 夕幽奇譚
1 夕桜慕情
しおりを挟む――男は、探偵だった。
その道に入りもう十年近くにもなるが、よく失敗をする男だった。そしてその日も、男は仕事で手痛い失敗をしたのである。いつもより、多少、派手に。
「上手く……いかねーもんだなぁ……」
かすれがかったその声は誰の耳にも届かない。男は、薄暗い路地の隅で、痛む身体を起こすこともできないでいた。男の身体は全身怪我だらけで、血塗れになっている。ぼさぼさの髪に薄らと無精髭を生やした、一見風采の上がらないその男の名は、鳥居伸司(とりいしんじ)といった。
夜の闇が、もうじき街を染め上げようという暮れ方。朱ヶ崎(あけがさき)という繁華街の、大通りから外れたところ――そこらに捨てられたゴミと雑居ビルからの排気の臭いで充満する、街の澱みを凝り固めたような場所。当然ながら、こんな寂れた何もない場所に男が倒れているなどと気づく者はいない。いや、気づいたとしても見て見ぬ振りをするのが普通だろう。誰でも厄介事には関わりたくないものだ。
しばらくして、伸司は無理やりに身体を起こすが、同時に激しい痛みが全身を襲った。なんとか建物の壁を背にして座り込む。
「いっ……てぇ……クソ、あいつら手加減ナシに殴りやがって」
一人恨み言をこぼすだけでも、頬を殴られた際にできた口内の傷が痛む。整った形をしていたはずの鼻は叩き折られ、左のまぶたはすっかり腫れてしまって目も満足に開けられない。金属バットで打ち据えられた右足は膝から先の自由が利かないし、散々パンチをお見舞いされた肋骨にもヒビくらい入っているかもしれない。まったく……殺されないだけマシだったか。
――頬に落ちる、冷たい感触。雨だった。最初はまばらな雨粒だったものが、瞬く間に雨勢を増して傷だらけの身体を濡らしていく。
「……いいシチュエーションだ」
失敗し落ち込む探偵に、追い撃ちをかけるような雨。まるで、子どもの頃に読んだハードボイルド小説の一場面だ。映画なら挿入歌として渋いブルースの一曲でも流れているところか。惨めな気分になると同時に、なんだか笑ってしまいたくもなる。あの頃憧れた、物語の中のかっこいい探偵に、自分は少しでも近づけているのだろうか? 少なくとも今の自分を見て、かっこいいなどと思ってくれる人はいないだろう、その逆はあるかもしれないが。
「頭、強く打ったかな……」
伸司は苦笑する。我ながら、馬鹿なことを考えた。自分ではそんなつもりはなかったが、久しぶりに大きなミスをしでかしたせいで動揺しているのか。
それにしても、どうしたものか。この怪我では病院まで歩いていくのも困難――というか、まず足で立ち上がることすらできそうにない。では、救急車を呼べばいいではないか――それもノー。携帯は先ほどの連中にメタメタに壊されてしまって、もはや使い物にならなかった。あとは、たまたま通りがかった人に声をかけて救急車でも呼んでもらうしかないか……。しかしこの雨の中、そんな人間がこんな場所に現れるだろうか?
「ま……どうにかなる、か……」
伸司は垂れてきた鼻血を手で拭い、シャツの胸ポケットから煙草の紙箱を取り出す。既に雨水をたっぷり吸い込んでしまっているので、火はつけずに口に咥えるだけにした。それでニコチンが摂取できるはずもないのだが、脳というのは意外なほど単純にできているらしく、形だけでも少しは落ち着くものだ。
大きくため息をついた――そのとき、伸司の目の前に影が差した。同時にふっと雨が止む。
「……?」
見上げるとそこには、こちらに傘を傾けてくれている女性――いや、少女?――がいた。
「わぁ……すっごい怪我! だいじょぶ?」
彼女は伸司を心配するように言う。
「あ……」
ありがとう、と口にしようとして、咥えていた煙草がこぼれ落ちる。咄嗟に言葉が出てこなかった。伸司は、思わず彼女に見入ってしまったのだ。一目見るだけで、彼女の持つ不思議な雰囲気に惹かれそうになった。その無邪気な可憐さは、自分より一回りも年下のあどけない少女のようにも見えるし、一方でその滲み出すような艶っぽさは、自分と同年代くらいの落ち着いた女性のようにも思える。
「もしもーし、聞こえてるー? それとも、喋れないくらいしんどい?」
彼女は伸司の顔の前で手をひらひらと動かす。
「ああ、いや……」伸司は彼女の顔を見上げたまま、呟くように言った。「見惚れていた」
「えっ?」
「天使のお迎えかと思ったよ」
「んー、ふふっ……それってもしかしてー、ナンパ?」
「そうかもな」
彼女は半分呆れたように、半分面白がるように笑う。
「あたし、こんな血塗れの人にナンパされたの初めて」
「良ければお食事でも――と言いたいところなんだが、この有様でね。また今度の機会に」
「どうしたの、その怪我? 車にでもハネられた?」
「あー……なんつーか、ヤクザと喧嘩した」
喧嘩と言うよりは、ちょっかい出していたのがバレてリンチに遭ったというのが正しいが。些細な強がりだ。
「わっ。じゃあ、おにーさん、そっち系の人?」
「いや。そういう暴力的なのは苦手でね。これでも探偵なんだ」
「へー、探偵さんかぁ……聞いたことはあるけど、よく知らないんだよね。ねぇねぇ、探偵さんって、どういうことするの?」
彼女は血塗れの伸司を相手にまったく怯えた様子もなく、興味深げに質問を投げかけた。それを見て、伸司は小さく笑う。
「なんでも教えてやるよ。でもその前に……」
伸司は彼女ともっと話をしたいと思ったが――この機会を逃すわけにはいかない。頼めるときに頼んでおかなければ。
「――救急車、呼んでくれるか?」
それが鳥居伸司と、“彼女”の出会い。志野美夜子(しのみやこ)に纏わる、すべての始まりだった。
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