28 / 61
case5 夕幽奇譚
2 幽霊と少女
しおりを挟む十月十九日。夕桜市北区、凪野(なぎの)ビル三階にある小さな探偵事務所。その所長であり唯一の所員でもある鳥居伸司は、室内で電話に応対していた。
「――はぁ? マジで言ってんのかよ?」
伸司が言うと、携帯から男の声が返ってくる。男は歳をくってはいるが、老いによる衰えを感じさせない快活な話し方をした。
『マジもマジ、大マジだとも。なんだ、冗談だと思ったのかね? 僕が今までにそんなつまらない冗談を言ったことがあったかい?』
「ツッコむ気も失せるからやめろって」
伸司はマホガニーの事務机に肘をついて、ため息を吐く。
「あのな、おっさん。俺ぁこんなんでも一応、立派な職業探偵なんだぜ? それがどうしてまた、あんたの学校で先生なんてやらなきゃならないんだ?」
『君を腕利きの探偵だと見込んでこそだよ。なにも君に二次関数の解き方を授業してほしいなどと言うつもりはない。そもそも君に授業なんてさせたら、君と同じ空気を吸ったうちの生徒が不良になってしまうじゃないか』
「ならねーよ! 人をウイルスかなにかみたいに言いやがって。……で? 授業しないのに先生になれってのは、いったいどういう意味だ?」
『学校に潜入してもらうなら、仮初めの肩書きが必要だろうと思ってね』
伸司はぴくりと反応して、椅子に深く座り直した。
「……要するに、俺は建前だけの教師としてあんたの学校に潜り込んで、何かを調査すりゃいいってことか?」
『さすが、理解が早くて助かるね。そうだな、社会科あたりの非常勤講師ということにしよう。人手不足のため学期途中で採用したとか、そんな理由を付けてね。職員へはこちらから話を通しておくから――』
「おう待て待て待て。勝手に話を進めんじゃねーよ」
伸司は男の声を遮って言う。
「肝心のことがまだ訊けてない。俺はあんたの学校でいったい何を調べりゃいいんだ? 依頼を受けるかどうかは、それを聞いてから判断させてもらう」
『ああ、そうだったそうだった』
男はとぼけたように言って笑った。
まったく、油断ならないジジイだ。迂闊に主導権を渡すと向こうに都合がいいようにぽんぽんと話を決められかねない。
『調査内容だがね、ずばり言ってしまうと……幽霊だ』
「…………ん? あー、今なんつった?」
『幽霊。ゴーストだよゴースト。怪談の時期はもう過ぎてしまったがね』
聞き違いではないようだ。伸司は空いた手でボサボサの髪を掻き回しつつ、
「……お化けについて調査しろってか? 酔っ払ってるんじゃねぇだろうな」
『酒は好きだが飲むのは夜七時以降と決めている』
「嘘つけ。俺は昼間っから馴染みの居酒屋にいるあんたの姿を今までに度々目撃している」
『んむ……まぁ、それは……そういう日もあるということだな。そうやって重箱の隅をつつくような真似をして話の腰を折るんじゃない。君の悪い癖だぞ』
今のは俺が悪いのか……? 納得いかん。
「……まぁいいや。話を続けてくれ」
『実は二週間ほど前から、我が校で幽霊を目撃したという生徒や職員が現れ始めていてね。ちょっとした騒ぎになりつつある。まぁ、僕も幽霊が現実に存在するだなんて思っちゃいないが、中には本気にする者もいるかもしれないし、無闇に騒ぎ立てる者も出てくるかもしれない。僕としては、かわいい生徒たちを無用の混乱に巻き込みたくはないわけだ。特に三年生にとっては、受験へ向けて今からが大切な時期だしね。事態がこれ以上拡大する前に、沈静化を図りたい。そこで『腕利きの』探偵である君に、ちょっと協力してはもらえないかと思ったんだよ。君のことは個人的にも信頼しているから、こうしてお願いをしているのさ』
伸司は肩をすくめて笑う。
「ふん、調子のいいことを……だが大体の事情は飲み込めたよ。俺はその幽霊騒動の原因を突き止めればいいんだな?」
『そのとおりだ。やってくれるかね?』
「うーん……どうすっかな」
『なんだ、何か不満でもあるのか? 報酬のことなら多少は相談に乗っても――』
「いやそうじゃなくてさ。……苦手なんだよなぁ、学校ってのは。昔っからどーもさぁ。俺には合わないっていうか、居心地が悪いというか……」
『何を今更。いいじゃないか、初めてというわけでもないだろう』
「そりゃまぁ、そうだけどよ。それにしたって……いいのかねぇ、理事長自らこんなこと」
電話の相手は、とある私立高校の理事長を務める男だった。伸司とは親子並みに歳が離れているが、もう何年も前に街の店で知り合って以来の飲み仲間で、互いに遠慮のない間柄である。
『それは君が心配することではないよ。僕は理事長として学校のために最適な選択を選ぶだけだ。もし何か問題が起これば責任は取るさ。なぁ、いいだろう? 僕の頼みを聞いてくれないか。僕と君の仲じゃないか』
「……わかったよ。引き受けるから、そうすり寄って来るな気持ち悪い。おっさんに猫なで声出されてもちっとも嬉しくねぇよ」
『おお、受けてくれるか! それはありがたい!』
ちょうど今は他に抱えている案件もない。実を言うと勿体ぶってみただけで、元々、よっぽどの厄ネタでもなければ断るつもりはなかった。
『調査について詳しいことは明日学校で話すとしよう。あ、そうそう。それともう一つ、ついでに頼みたいことがあるんだがね』
理事長は思い出したように付け加えた。
「なんだ?」
『実は、最近孫の帰りが遅くてなぁ。部活も休みがちのようだし、どこで油を売っているのか心配なんだよ。手隙のときでいいから、ちょいと探りを入れてみてくれないか』
「孫……? ああ、あんたの学校に通ってるんだったか? そんなもんあんたの家庭の問題だろ。自分でなんとかしろよ」
『まぁまぁ、そう言わずに。思春期の子ども相手には、家族がどうこうするより他人のほうが上手くいく場合もあるんだよ。もし調べてくれたらそっちはそっちで礼をしよう。やり方は任せるからさ』
「俺がその孫だったら、探偵使って自分の動向調べようとするジジイとか嫌すぎるけどな……ま、気が向いたらやっとく」
あまり気は進まないが、ボーナスが付くならこちらとしては悪い話ではない。
「明日は何時頃そっちに行けばいい?」
『悪いが仕事で出かける用事があって、昼過ぎまでは相手ができない。君と話せるのはおそらく……夕方前になると思うが、それでもいいかね?』
「ああ。詳しい時間がわかったらまた連絡してくれ。こっちも朝は用事があるから、そのほうが都合がいい」
『仕事か?』
「いや、仕事ってほどでもない。近所のクリーニング屋のオヤジから、商店街に貼っつける用のチラシを作ってくれって頼まれててな。それが出来上がったから、明日はそれを貼って回るのを手伝うことになってる」
『相変わらずだな君は……。もう探偵というより、何でも屋を名乗ったほうがいいんじゃないか?』
「うるせー。余計なお世話だ」
悲しいことだが、実情として、伸司の小さな探偵事務所に依頼の相談が舞い込むことは少なかった。その理由としては一時期、長期休業していたからというのもあるのだが……ともかく今はバイトでもして補っていかなければ生活が苦しい。金はないが、長年の探偵業と他諸々で培ってきた人脈だけはあるから、そういう細々とした頼まれごとには不足しなかった。それを幸いと言うべきかは、これもまた微妙なところだが。
『じゃあまた、明日にな』
「じゃあな」と答えて、伸司は電話を切った。ふーっと、大きく息を吐いてから椅子に深く腰掛け、ぼんやりと考える。
「……幽霊、ね」
伸司は一人呟き、苦笑した。
馬鹿馬鹿しい。そんなものが実在するはずもない。大方、誰かがたちの悪い悪戯でもしているか、何の気なしについた嘘が噂として広まってしまった、というところだろう。インパクトのあるオチは、期待できそうもない。
だが……もしも、幽霊が存在するとしたら? ……死んだ者が、この世に残してきた誰かに会いに来てくれることがあるとしたら?
「…………そんなこと、あるわけねぇよな」
その時、部屋の外から足音と話し声が聞こえてきた。足音と声は二人分、伸司にとっては考えるまでもない、あの二人だ。事務机に座る伸司から見て正面、事務所の扉がノックされる。
「留守だぞー」
やる気のない声で伸司が言うと、扉が開いて金髪の女が顔を覗かせた。細身で髪は肩より少し下くらいの長さ、気の強そうなつり目が印象的なその女子高生は、学校帰りと思しき制服姿で、カーディガンを腰巻きにしていた。彼女は伸司を見るなり、苦笑して言う。
「――こんな堂々とした居留守、初めて見たわ」
「よう」
「よっす」
伸司に応えて軽く手を上げ、部屋へ入ってくる。その後ろに、いつも通り赤髪の少女がついてきていた。こちらも制服姿で、これもまたいつも通り、学校帰りの寄り道なのだとわかる。
赤髪の少女はひらひらと手を振って、
「やっほー、センセー? 元気してたー?」
「昨日も来てたやつがなに言ってんだ……っていうか、俺がどこか体調悪いように見えるか? そんなに不健康そうか?」
伸司が手を広げて言うと、少女は事務机の前までやってきて伸司の顔をまじまじと見つめた。
「んー……わりと見える!」
「見るからに不健康そうなおっさんだよな?」
ソファに学生鞄を降ろしながら、金髪が同調する。
「うるさい、俺はまだおっさんではない」
「だってよー、美夜子」
「そうなんだー、あはは」
「おまえらバカにしてるだろ! こら、笑うな!」
まったくこいつらは……。大人に対する敬いというものが微塵も感じられない、けしからんことである。
探偵事務所などという場所には似つかわしくない二人の来客だが、彼女らがここに来るのは、当然これが初めてのことではなかった。
赤髪のほうの名前は、志野美夜子。天真爛漫な高校一年生で、伸司は今から半年ほど前に彼女と出会った。美夜子にとってこの事務所は居心地が良いらしく、伸司が仕事で留守にしているとき以外は、殆ど毎日のように顔を出しにきている。宿題をしたり、携帯ゲーム機で遊んだり、本を読んだりテレビを見たり――適当に時間を潰して、夕食前には家に帰るというのがいつものパターンだ。
金髪のほうは亀井十香(かめいとおか)。美夜子の一年先輩で、不良っぽい部分も見受けられるが、義理人情には厚い性格――というのが伸司の分析だった。ひと月前に起こった『薔薇十字の鍵』事件を機に、美夜子とは親友同士になったようだ。伸司が十香と知り合ったのも、その折のことである。十香のほうは専ら美夜子の付き添いで、一週間に一度か二度くらいの頻度でここへ来ていた。
それにしても、このままでは女子高生が頻繁に出入りしている得体の知れない事務所として、いつか近所で妙な噂が立ってしまうんじゃないだろうか? まぁ、美夜子が来るようになってから半年近く経っても、特になにもなかったから平気か……。
「ねー、センセー?」
美夜子は前側から事務机に突っ伏すように上半身を乗せると、伸司を上目遣いに見つつ甘えるような声を出す。
「あたしお腹すいちゃったー。なにか食べさせてー?」
「腹減ってんなら、喫茶店にでも行けよ。すぐ近くにあるだろ」
「えぇー……だってめんどくさいし、お金もあんまりないしー」
「ったく……食いもんねぇ、なんかあったかな……あ、そうそう。そこの戸棚に貰いもんの饅頭があるぞ」
と、ソファ後ろの戸棚を指さした。少し前に身辺調査の仕事を終えた際、依頼人から報酬とは別に礼として受け取ったものだ。伸司は甘いものが好みではないので、戸棚にしまったきりだったのを今になって思い出した。
「お饅頭? やったーん!」
美夜子は喜んで戸棚を開けにいく。
「お、あたしももらっていい?」
ソファに座っていた十香が言うので、伸司はおちょくるように答えた。
「お前はおっさんって言ったからだめー」
「心せますぎるぞー。……っていうかさ」十香はにやにやと笑って言う。「実際のところ何歳なわけ? あたしまだ教えてもらってないんだけど」
「う……な、何歳でもいいだろ別に」
伸司は気まずそうに視線を逸らした。その反応に十香はまた笑う。
「なぁんだよ、隠さなくてもいーじゃん?」
「ね、ね、ほーかちゃん。ほれおいひー! 食べてみて!」
美夜子が口をもごもごさせながら、十香の後ろから饅頭の入った箱を差し出す。
「お、サンキュー。……うん、まぁまぁだな」
一口サイズの饅頭を一つ食べてから、十香はソファを立った。
「ま、歳のことはいいや。ちょっとトイレ借りるよー」
十香が事務所奥のトイレへ入っていくのを見届けると、美夜子は饅頭の箱をソファ横のテーブルに置いて、自分の学生鞄をごそごそと探り始めた。その様子を見ながら伸司が尋ねる。
「……なにしてんだ?」
「んー? 十香ちゃんが見てない間に渡しといたほうがいいかなーって」
「なにを……?」
美夜子は鞄から、落ち着いた色合いの小さな紙袋を取りだした。紙袋の開き口は綺麗なリボンでラッピングされていて、中に何か入っているようだ。それを、何やら嬉しそうに伸司の前まで持ってくる。
「んふふ。センセーさぁーあ? 今日、誕生日でしょ?」
「あ? ……な、なんで知ってんだ?」
伸司は驚いた。半年ほどの付き合いになるが、美夜子にそんなことを教えた覚えはなかったのだ。
「前に一度、センセーの保険証見たことあったから」
「それで覚えてたのか……」
美夜子の記憶力は、常人のそれとは比べものにならないほど優れていた。世の中には“フォトグラフィックメモリー”という特殊な記憶能力を有する人間が稀にいるのだが、美夜子はそれに該当する。その名前が示すとおり、彼女は目で見たものを一瞬で記憶し、その映像を脳内で写真のように精巧に再現することができるのだ。
「それでね。これ、誕生日プレゼント……だったりして」
美夜子は事務机の上に紙袋を置く。
「は……? え? マジで?」
伸司は更に驚く。まさか、美夜子からそんなものが。
「えへへ、三十歳のお誕生日おめでとー」
「……この歳になると、めでたくもなんともないけどな」
むしろ、とうとう三十路に入ってしまったかという寂寥感のほうが強い。そのせいで今日一日少し憂鬱だったくらいだ。
「ね、ね。中見てみてよ」
「お、おお」
美夜子に言われるがまま、紙袋のリボンをほどいて開く。正直、びっくり箱でも開けるような気分だったのだが、中に入っていたのは存外……というか、かなりまともなプレゼント――マフラーだった。
「最初は手編みに挑戦してみたんだけどー……あたしそういうの下手くそっていうか、もー全然才能ないからさ。センセーにかっこ悪いもの送りたくないし、そこは素直に諦めたんだ。その代わり、お小遣い貯めてデパートでちょっと良いやつ選んだんだよ?」
「…………」
取りだして、手でよく感触を確かめる。グレー色のカシミア製だ。
「えっと…………気に入らなかった?」
美夜子が不安げな面持ちで言う。マフラーを見て何の反応も示さなかったから心配したのだろう。伸司は慌てて取り繕った。
「ああいや、そうじゃない! なんつーか……驚いちまって。まさかお前に誕生日を祝われるだなんて思わなかったからさ。まぁ、なんだ……その、嬉しいぞ。ありがとな」
「……うん!」
美夜子は嬉しそうに頷くと、はにかみつつ言う。
「これから寒くなるし、センセーのお仕事って外に出ることも多いでしょ? だからマフラーとかどうかなって思ったんだ」
しかし、これはまた……なんと言うか、嬉しくはあるが、なんだか小っ恥ずかしくもあるし……色々と複雑な気分だった。
伸司はその気持ちを誤魔化すようにぼさぼさの髪を掻きながら、
「……しかしお前なぁ、年頃の娘が大事な小遣いで俺なんかに……もっとこう、わかんねぇけど、なんかあるだろ。もっといい金の使い道ってもんがさ」
「いーの。あたしがそうしたいって思ったんだから。これでもあたし、センセーには感謝してるんだよ?」
「……そうか。じゃ、まぁありがたく受け取っておくよ」
「うん。……あ、そうだった」
途中で美夜子はひそひそ声になった。
「十香ちゃん戻ってきちゃうから、早くしまって! このこと、センセーとあたしだけの秘密だからねっ?」
「わかったわかった」
伸司は苦笑しつつマフラーを紙袋の中に戻して、机の引き出しに仕舞う。その数秒後に、十香がトイレから戻ってきた。戻り際に本棚から、彼女が前来たときに読みかけだった格闘漫画を一冊抜いていく。美夜子はもうソファに戻っていたが、十香はその隣りに座りながら、
「ん? ……なーにニヤニヤしてんだよ美夜子。なんかあった?」
「いやー? なんにもないよ? えへへー。はい十香ちゃん、あーん」
美夜子は満面の笑みを浮かべながら、流れるような動作で十香の口へ手に持った饅頭を押し込む。
「もがっ!」不意打ちを食らった十香はそれをなんとか飲み込んだ。「そ、そうか。よくわかんねーけど、えらく上機嫌だな……」
伸司は二人のやり取りを横目に、手帳を開いて明日の予定について確認する。明日は朝から商店街を回ってチラシ貼りの手伝い、そして夕方前に理事長と打ち合わせ……。そういえば、この二人の学校も……。
「おーい。ちょっといいか?」
「んぁ? なんだよ?」
漫画を読んでいた十香が返事をする。
「お前らの学校でさ、最近変なことが起こってるって話、聞いてないか?」
「変なこと……? そんな話あったっけ?」
美夜子へ話題を振るが、こちらも首を横に振った。
「しらなーい」
「あっ、もしかしてあれか? うちの学校で幽霊が出たって話」
「えっ!? そんなことあったの!? あたし知らない!」
美夜子のほうは初めて聞く話だったようだ。
「いや、あたしもちょろっと耳にしただけで、よくは知らねぇよ? ええっと、なんつったかなー……幽霊に名前があったんだよ。たしか……」
十香は腕を組み、少しの間思い出そうとして視線を上へ向けていたが、やがて諦めるように首を振った。
「……あーダメだ、忘れた。どうでもいい話だと思ってたし、真面目に聞いてなかったからさ」
「あ、十香ちゃんは幽霊信じない派?」
「まぁ、あたしはそうだな。美夜子は違うのかよ?」
「んー、いたら楽しそうだなーとは思うよ?」
「楽しい……そうかぁ? ――んで、そんなこと突然聞いてどうしたんだよ?」
話がまた伸司へ戻ってくる。
「いや、ただの世間話だよ」
……つい、誤魔化してしまった。隠し通せることでもないだろうに。べつに、説明してもよかったんだが……それはそれで色々と面倒なことになりそうなんだよな……。
……まぁいいか。ここはまだ、秘密にしておこう。そのうち話す機会はあるだろう。たぶん。
理事長との打ち合わせが終わると、時刻はもう夕方の六時前だった。校内に残っている生徒は、各々部活動などに励んでいる様子だ。理事長室から廊下へ出たところで、伸司は立ち止まる。
「さて……」
どうするか。今日のところは説明だけで、本格的に仕事に取りかかるのは明日からでよいとのことだったが……せっかく学校まで来たのだし、このまま帰るのも面白くない。今日のうちに少し校内を歩き回ってみようか。仕事のためにも建物の構造や教室の位置関係は頭に入れておいたほうがいいだろう。特に伸司にとっては、学校という、普段の生活の場とはまるで違う独特の雰囲気に慣れる必要があった。
伸司は、鞄から先ほど理事長からもらった学校パンフレットを取りだす。表紙には大きく学校名が記されていた。『夕桜中央高校』、今年で創立四十七年目になる私立高校だ。学校の教育方針や制服紹介、部活動紹介などのページをスルーして、末尾にある校内の見取り図を確認する。
見取り図によると、校内の建物は大きく五つに分類されるようだ。
まずは一年生の教室と理科室、音楽室、美術室……といった教科別の特別教室が主となる南校舎。
二つ目が二・三年生の教室と職員室、理事長室などが含まれる北校舎。
三つ目、南校舎と北校舎の間の中庭に位置する食堂棟。
四つ目、南校舎から渡り廊下で繋がった図書館。
五つ目は、北校舎から渡り廊下で繋がった体育館……という具合である。
グラウンドは南校舎側にあるようだ。現在地点は理事長室の前なので、北校舎の中ということになる。
「うぅむ、結構広いな……」
全部を見て回るのは少ししんどそうだが……まぁ、時間ならいくらでもある身だ。ゆっくりと学校探検に勤しむとしよう。
ひとまず、北校舎の一階から三階まで、廊下を歩きながらどの位置にどんな部屋があるのかを記憶していく。校舎内は綺麗なもので、壁には汚れも見当たらないし、ワックスのかかったリノリウムの床には光沢があった。生徒たちが一日の大半を過ごす環境としては上々だろう。途中、三人ほど生徒とすれ違ったが、皆同じように会釈をしてくるくらいで、不審がられた様子はなかった。彼らにどういう人物として認識されたのかは気になるところだが、不審者扱いされていないのであればそれでいい。
三階の廊下中ほどにある階段を更に上ると、踊り場の先に扉があったが、鍵がかかっていて開かなかった。校舎は三階建てなので、おそらく屋上に通じているのだろうが、生徒の安全などへの配慮から普段は鍵を掛けて封鎖している……といったところか。
北校舎は一通り見て回ったので、次は南校舎に移動する。隣の校舎へは三階の渡り廊下から行き来が可能になっていた。南校舎へ渡ると、先ほどと同じように屋上へ上がる階段がまず目に入った。廊下の奥の方から――音楽室か――、微かに楽器の音が聞こえるが、廊下のほうに人気はなかった。楽器の音がするのは、吹奏楽部が練習をしているのだろう。
「……?」
伸司はふと廊下側から見上げて、気づいた。屋上への扉がほんの少しだけ、開いているのだ。こちらには鍵はかかっていないのだろうか? 伸司は引き寄せられるように階段を上っていき――扉を開く。
眩しい光がまぶたを差した。薄く開いた目に最初に映ったのは、赤色。夕日に照らされた屋上、外周部は転落防止にぐるりとフェンスで囲まれている。伸司から見て奥の方のフェンス際に、誰かが立っているのが見えた。制服姿の後ろ姿には見覚えがないが、おそらくここの女子生徒だろう。傍らにはその女子生徒のものらしい学生鞄が置かれていた。こんなところで、何をしているのだろうか?
「おい……」
伸司は声をかけるが、その女子生徒は向こうを向いたまま反応しない。
……聞こえなかったか? 彼女は微動だにしないまま、何かをしている様子でもない。ただじっと立って、夕日を見ている……?
伸司は彼女に数歩近づいてから、もう一度声をかけた。
「おーい?」
「ひぅっ!」
女子生徒はびくっと身体を震わせて、ようやく振り返った。
「あ、すまん……驚かせたな」
「…………」
女子生徒はやや怯えたような表情で伸司を見ている。彼女の胸元には、赤いリボンタイが見えた。この学校、女子の制服はリボンの色で学年が分けられている。赤が一年、青が二年、緑が三年、という具合だ。つまり、彼女は一年生だということがわかる。
綺麗な長い髪の持ち主で、肌は白く、顔立ちも整っている。美少女と呼称しても差し支えないだろう、妙に存在感のある少女だった。しかし……それとは別に、伸司は彼女の持つ雰囲気に、心のどこかで引っかかりを感じた。
「ええっと……ここで何してたんだ?」
相手が黙ったままなので、こちらから尋ねる。
「あっ……」
彼女は小さく声を漏らしたかと思うと、挙動不審気味にきょろきょろと辺りを見回す。そして――傍に置いてあった鞄を引っ掴んで、突然走り出した。
「ちょっ――おいっ!?」
彼女は伸司の脇をすり抜けると、入り口の扉を開けて、結局一度も振り返らないまま屋上から走り去っていってしまった。
「……なんだったんだ?」
彼女が立っていたところから、何か特別なものが見えるわけでもない。ただ夕日を見ていただけだとしたら、驚かせたのは悪いことをしてしまっただろうか。それにしたって、あんな、脱兎の如く逃げ出さなくても良さそうなものだが……。いや、それよりもまず、どうして彼女は鍵がかかっているはずの屋上へ入ることが出来たのだろうか? 気になるが、今更彼女を追いかけていくのも躊躇われる。
それに、彼女の顔を見たときのあの感覚は……いや、気にするほどのことではない。それはわかっているのだが……。
伸司はため息をついてから、少々疲れたように背伸びをした。
「ま、今日のところは帰りますか……」
「――ねぇねぇ、十香ちゃん」
屋上塔を背にして、右隣に座っていた美夜子が小声で言う。十香が昼食を終えるのを待っていたかのようなタイミングだった。
「なんだよ?」
十香は、パンの入っていた袋を制服のポケットへ押し込みながら応える。
「今日の薔薇乃(ばらの)ちゃんさぁ……ちょっと変じゃない?」
「うぅむ……やっぱ、お前もそう思うか」
十香と美夜子の視線は、屋上外周を取り囲むフェンスの傍でぼんやりとした様子でたたずむ少女に注がれる。
肩より少し下で切り揃えた黒髪に、制服の上から黒いカーディガンを羽織った姿は黒い蝶を思わせる――どこか超然とした、それでいて怜悧な雰囲気を纏った少女。岸上薔薇乃(きしがみばらの)――学年首席の才媛にして、そのお淑やかな性格と美貌から男女を問わず多くのファンを抱えるお嬢様……というのが、彼女の表向きの顔である。
「まぁなんだ。あいつも色々大変なんだろうな。仕事のことで悩みとか、あるんじゃねぇの?」
十香は勝手な推測を口にする。薔薇乃は昼食中一言も発せず早々に食事を終えてから、ずっと物憂げな表情でフェンス越しに虚空を見つめたままだった。
学内では十香と美夜子くらいしか知らないであろう岸上薔薇乃の裏の顔――その実態は、日本の裏社会において絶大な力を有する巨大犯罪組織、『ナイツ』の幹部である。正確には、全国各地に点在する支部の一つを任せられた支部長という地位にあった。つまりは、ワルの中のワル、裏社会の超大物ということになる。薔薇乃の父親はナイツのトップであるとのことだが、そのことについて十香は詳しく知らない。
そしてどういうわけか――そんな超が付くほどの危険人物と、十香たちは友人関係にあった。
元々十香と薔薇乃は同じクラスではあったが、最近までまともに話したことさえなかった。それが今から約ひと月前、ナイツが関係していた“薔薇十字の鍵”を巡った一連の事件に十香と美夜子は巻き込まれ、その中で薔薇乃とも深く関わり合うことになった。色々あったものの事件は無事に解決、それ以降も薔薇乃とは話す機会が増え、今ではこうして、昼休みに昼食を一緒に取るような間柄になっている……というわけである。
もちろん、薔薇乃は学内ではただの優等生でしかない。事件以来、薔薇乃が秘密の裏稼業について改めて話すことはなかったし、十香たちもわざわざ訊こうとはしなかった。必要以上に介入することは、互いにとって不幸な事態を招きかねないからだ。そういった事情はあるものの、十香にとって、この三人で一緒に過ごす時間は好ましいものだった。少なくとも、退屈な授業時間よりはよっぽど。
この学校の屋上スペースは本来、生徒が無闇に立ち入ったりできないように扉に鍵がかけられているのだが、十香はこの北校舎屋上の鍵を偶然手に入れて以来、まんまと私物化して自由に出入りしている。部外者の立ち入ることのできない、秘密の場所である。あれからひと月ほど経つが、学校側で点検を怠っているのか、それとも大した問題ではないと無視されているのか、一向に鍵が付け替えられる気配はない。そんなわけで、十香、美夜子、薔薇乃の三人は大抵、昼休みをこの屋上で過ごすようになっていた。
「なにか悩んでるならさ、あたしたちで聞いてあげようよ?」
美夜子が提案する。十香は逡巡しつつ、
「うーん……いや、そうしてやりたいって気持ちはわかるけどさ。その悩みがあいつのお仕事関係なら、あたしらにゃどうしようもないぞ?」
「まぁまぁ、とりあえずご本人に何があったのか訊いてみないとね。おーい、薔薇乃ちゃーんっ!」
美夜子は手を振って向こうにいる薔薇乃へ呼びかけた。
まったく誰に似たのやら、大したお人好しだ。まぁ、そこがこいつの良いところなんだけど。
「……なにか?」
薔薇乃は呼ばれてこちらへ戻ってきたが、どこか上の空な様子だ。思い返せば、教室でも朝から浮かない顔をしていたような気がする。
「薔薇乃ちゃん!」
美夜子は勢いよく立ち上がって言う。
「悩んでることがあるなら、美夜子ちゃんなんでも相談所に話してみない? 今ならサービスしとくよ?」
「は、はぁ……」
困惑する薔薇乃に、十香も立ち上がって言い添える。
「まぁ、なんてーの? そうやって辛気くさい顔されてっと、こっちも気になるんだよな。お前のことだから、あたしにゃ想像もつかないような厄介事を抱えてんのかもしれないけどさ。あたしらでよけりゃ、話くらい聞くぞ?」
薔薇乃は少しだけ表情を柔らげる。
「十香さん……それに美夜子も、ありがとうございます。心配させてしまったようですね。……迷っていましたが、やはりお二人にも話しておくべき……なのかもしれません」
「あっ、でもあんまりヤベー話は勘弁してくれよ? この前みたいな危ない目に遭うのはごめんだからな」
「ええ、その点はご心配なく。わたくしの悩みというのは、ナイツとは無関係のことなのです」
それを聞いてほっとする。
「そんならよかった。で? 岸上薔薇乃ともあろう者が、何をそんなに思い詰めてたんだよ?」
「実は、わたくし……その……」
薔薇乃は深刻な顔で少しだけ躊躇うようなそぶりを見せたが、すぐに意を決したように続けた。
「――幽霊を、見てしまったかもしれません」
「…………」
十香と美夜子は互いに黙ったまま顔を見合わせた。これはなにやら、とんでもない話を聞き出してしまったぞ……という焦りと戸惑いが空気の中に滲み出る。
「あー……幽霊ってのは、どういう?」
薔薇乃の様子を見るに、ふざけているようでもない。十香はあくまで慎重に尋ねた。
「近頃、この学校で幽霊が出ると噂になっていることはご存知でしょうか?」
「ああ、ちょろっと耳に挟んだことがあるって程度だけどな。……って、まさか、それなのか?」
「はい、おそらくは」
「マジかよ……」
「あっ」美夜子が思いついたように言う。「それって一昨日、センセーと話してたやつだよね?」
そう……一昨日に、伸司とその話をしたばかりだ。他愛もない世間話のつもりだったのに、それが今日になっていきなり、こんな形で関わることになろうとは。
「鳥居さんとそのことでお話をされたのですか?」
薔薇乃が意外そうな顔で問う。彼女も鳥居伸司とは知り合い同士だった。ナイツとして、探偵の仕事を依頼することもあるらしい。
「ああ」十香は頷く。「最近学校で変わったことなかったかーって訊かれたからさ。まぁ、美夜子は噂のこと自体全然知らなかったし、あたしも内容はかなりうろ覚えだったしで、大して話広がらなかったんだけどな」
「その幽霊の噂ってどういう話なの、薔薇乃ちゃん?」
美夜子が興味深そうに尋ねた。
「そうですね……まずは、昨夜、わたくしが体験した出来事からお話しすることにしましょう。そのほうが、お二人とも余計な先入観を持たずに聞いていただけるかと思います」
なるほど一理ある。まずは、薔薇乃の身に何が起きたのかを知ることからだ。
「幽霊を見たのは、昨夜のことなんだな?」
「ええ。わたくし、昨日の放課後は学校の図書館に籠もっていたのですが……」
「図書館? お前が?」
「あら、わたくしが図書館にいてはいけませんか?」
「いや、そうじゃないけどさ。お前も図書館とか行くんだ……みたいな。そーゆー驚き」
「わりとよく行きますよ。驚くほどのことではないと思いますが……」
まぁ、それもそうか。このメンツの中だと薔薇乃はいかにも本読んでそうなタイプだしな。あたしは漫画くらいしか読まないけど。
ちなみに、美夜子もこう見えて結構な読書家だ。一見すると陽気な性格なようで、妙なとこでナイーブというか内向的な部分のあるやつなのだが……趣味嗜好に関しては完全にインドア派なようで、暇なときには大抵ゲームか読書で時間を潰すらしい。何度か小説本を読んでるところを見たが、ちゃんと読めているのかと心配になるくらいの速読で驚いたことがある。
「すると、図書館で幽霊を見たのか?」
「いいえ、そうではなく……順を追って話しましょう。昨日図書館で本棚を物色していたら、面白そうなゴシック小説を見つけたのです」
「ゴシック?」
「ええ、ええ! わたくし、ファンなのです!」
「うおっ」
急に声をでかくするから驚いた。
「子どもの頃から、ずっと憧れておりました。古いお城にお屋敷、中世的なロマンティシズム、ダークで耽美な雰囲気……いくら読んでも飽きません。ゴシックの魅力について講義せよとおっしゃるのなら、二、三時間は話し続けられますよ? それはもう、かなりの早口で喋り倒してやりますとも!」
薔薇乃は嬉々として話したそうにしたが、十香は慌ててそれを止める。
「いやいや、落ち着け! それはまた今度の機会でいいって! 今は幽霊の話を先に頼む」
「そうですか? わかりました、ではとりあえず続きを」
薔薇乃は案外すぐに納得すると、気を取り直したように口元を手で拭ってから、話を続ける。
「その本も最初は、冒頭だけ読んで気に入ったら借りていこうと思っていたのですが、これが思った以上によくできたお話で……つい読みふけってしまいました。時間を忘れるとはあのことですね。結局そのまま読み終わるまで図書館に。時刻は九時を過ぎておりました」
「そりゃまた、ずいぶん長居したな」
そんなに面白い本だったのか。まぁ、何かに熱中するとあっという間に時間が経過するというのはわかるけど。
「でもさー、たしか図書館って六時には閉館するよね?」
美夜子の指摘で思い出した。たしかに、図書館の開館時間は朝の八時から夕方の六時までということになっていたはずだ。
「そういやそうだな。司書の人とかにもう帰れって言われなかったのか?」
図書館には白髪頭の温和そうな男性司書がいたのをおぼろげながら記憶している。
「そのことなのですが……どうやらわたくし、気づかれなかったようなのです」
「は?」
「図書館には一人用に囲いがされてある――いわゆる個人ブースになっているスペースがありますよね? わたくしもそこを利用していたのですが、角の見えづらい位置だったのと、昨日は他に利用者が少なかったせいもあって、司書の方にも存在を認識されていなかったようなのです。――で、そのまま閉館されてしまったと」
「おいおい……それじゃお前がまだ中にいるのに、戸締まりされて閉じ込められちまったってことか?」
「はい。裏口から鍵を開けて簡単に出られましたけど。それにしても、これはなかなか、貴重な体験ですよね」
待て。そういう問題か? なにやら嬉しそうに言ってるが、その感想はどっかずれてないか?
「やれやれ……っていうか、お前もお前で、勝手に戸締まりされそうになってるって気づかなかったのか?」
薔薇乃は照れるように笑う。
「恥ずかしながら、読書に熱中していたもので……。館内の天井照明が落とされたのには気づいたのですが、ブース内の電気スタンドがあれば読書には充分なので、とくに気にしなかったのです」
「いや、そこはもっと気にしとけよ! 心配になるわ! 色々と!」
やっぱりこいつ、裏の仕事のことを差し引いたとしても充分、変なヤツだよな……。
「すっかり長居してしまったわたくしは、裏口の鍵を開けて外へ出ました。早く帰ろうとそのまま北校舎の昇降口へ向かって……その途中、見てしまったのです」
――きた。いよいよ話の中核だ。十香はごくりと唾を飲み込む。
「図書館から戻る途中ってことは……渡り廊下か?」
「ええ。図書館と南校舎の間にある、あそこです」
図書館と南校舎は接した位置にあり、外に面した渡り廊下を通って行き来する必要がある。二年生の昇降口は北校舎にあるので、薔薇乃は南校舎へ渡ったのち、中庭を経由して北校舎へ移動するつもりだったのだろう。
「夜の九時過ぎですから、当然ながら周囲に人の気配はなく、校内も消灯されていました。ぼんやりとではありますが、月明かりがあったので何も見えないような暗闇ではありません。わたくしが渡り廊下を歩いていると、先のほう――南校舎へ入るところに……人影が見えたのです」
「……見回りのセン公とか、用務員とかじゃねぇの?」
「わたくしも、最初はそう思いました。その人影は体格的に男性のように見えましたし、それに、作業着を着ていたので用務員の方だろうと。しかし……変なのです。そこには、当然あるべきものがなかった」
「……なかった?」
薔薇乃は自分の指先を喉元にトントン、と当てて言った。
「……“首”です。その人影には、肩より上が存在しませんでした。本来首があるべきところから胸元にかけては、赤黒い血の跡がべっとりと……」
「…………」
背筋に冷たいものが走った――薔薇乃の語り口が妙に迫真に迫っているせいもあるだろうが。
「わたくしはそれを見てすぐに、人づてに聞いていた噂話のことを思い出しました。夜の校舎に、幽霊が――“首なし用務員”が現れるという噂話を」
その名前で思い出した。十香が聞いていた噂もそれと同じものだ。
「そ、それで……薔薇乃ちゃんはその後どうしたの?」
美夜子は緊張したような面持ちで尋ねる。
「首なし用務員はわたくしの方を見て――いえ、顔がないので正確には身体を向けてきたというだけですが――ゆらり、ゆらり、と……それこそ幽鬼のごとき歩調で、ゆっくりとこちらへ近づいてきたのです」
「近づいてきて……?」
「…………」
薔薇乃はそこで急に黙り込んでしまった。
「…………? おい、それからどうなったんだ?」
十香が尋ねるも、薔薇乃は気まずそうに視線を逸らす。
「それは……その…………よく、わからないのです」
「は?」「えっ?」
十香と美夜子はほぼ同時に、疑問と驚きの声を発した。
「ちょ……待った待った。おかしいだろ。わからないってのは、どういうこったよ?」
「ですから……それから先は、記憶が途切れてしまって……」
「記憶が……?」
薔薇乃はうつむいて、十香の目を見ようとしない。この反応……そして記憶が途切れたって……。
「まさか……とは思うけど。もしかして……気絶したのか?」
「うっ」
びくり、と薔薇乃が身体を震わせた。図星かよ!
「マジで気絶したのかよ? 幽霊を見て?」
「ち、違います……驚いてしまって、ちょっと意識を遠くに手放してしまったというだけで……」
「いや、だからそれを気絶したって言うんじゃねぇの?」
「そうかもしれませんケド……」
薔薇乃の肝の据わり具合については、ひと月前の事件の際によく知っている。この年齢にして、組織の支部長として幾人もの犯罪者たちをまとめ上げるだけの器量の持ち主であるということはたしかなのだろう。今までにだって、普通の人間からは想像もつかないような切った張ったの修羅場をいくつもくぐり抜けてきたはずだ。それだけに、薔薇乃が失神してしまったというのは驚きだった。
「うーん……まぁ、『怖い』と一口に言っても、犯罪者の相手をするのと幽霊の相手をするのとじゃあ、まったくの別もん……ってことか?」
「そ……そうですとも。人間が相手ならば、不覚をとりはしませんでした」
「それはわかるんだけどさ。ゴシック小説、好きなんだよな? 詳しくはないんだけど、ああいうのって、幽霊とかモンスターが出るような話も多いだろ? それなのに、現実の幽霊はやっぱり怖いもんなのか?」
「たしかに、ゴシックホラーに幽霊はつきものですし、わたくしも大好物ではありますが……現実と空想のお話をごっちゃにしないでください!」
「そ、そうか……たしかにそうだな」
まったくもって正論である。
「だめだよー、十香ちゃん。薔薇乃ちゃんのこと、あんまりいじめちゃかわいそうでしょ?」
美夜子から注意されてしまった。厳しい口調というわけでもないのに、なんだかもの凄く悪いことをしたような気分になる。
「いや、そんなつもりじゃあ……」
「美夜子……! ああ、美夜子は優しいのですね」
薔薇乃が美夜子の胸元へ抱きつくと、美夜子は朗らかに笑ってそれを受け止めた。
「うんうん。そんなもの見ちゃったら驚くよね、怖かったよね。わかってるよ、薔薇乃ちゃんだって女の子なんだもん。仕方ない仕方ない」
よしよし、と、ぐずる子どもをあやすように美夜子が薔薇乃の頭を撫でる。
どっちが歳上なんだか……。十香は苦笑しつつ、
「ごめん、悪かったよ。ちょっと驚いただけで、べつにお前をいじめようとしたわけじゃないんだ。だから泣くなって、な?」
そう言って、薔薇乃の背をぽんと叩く。
「泣いてはいません!」
「わはっ、ごめんごめん」
薔薇乃には悪いが、何かとハイスペックなこいつにも弱点があるのだとわかったことがなんだか嬉しくて、ついからかってしまった。
「はいはい、話を戻しましょー」美夜子がパンパンと手を打つ。「記憶が飛んじゃったのはもーしょうがないとして、目が覚めた後はどうしたワケ?」
薔薇乃は小さく咳払いすると、すっかりいつものような落ち着いた調子に戻って話を再開し始めた。
「目が覚めたとき、わたくしは……なぜか、南校舎内の廊下にいました。渡り廊下を渡った先のところです。廊下の壁にもたれかかった状態で、目が覚めました。周りに人の姿はなく、幽霊も消え失せておりました。すぐに時計を確認しましたが、十五分ほど……その、気を失っていたようです。その間に何が起こったのかはわかりません」
「――ん? 待てよ?」
十香は気になって質問を挟む。
「お前が気を失ったのは、図書館と南校舎の間にある渡り廊下の途中で、だよな? それが、目が覚めると南校舎の中に移動してたってのか?」
「はい。傍らにはわたくしが持っていた鞄まで置いてありました。わたくしが気を失ったのが渡り廊下のちょうど中ほどでしたので、距離的には……そうですね。十五メートルくらいは移動した計算になるでしょうか」
「お前が寝ぼけたまんま歩いたんじゃなければ……誰かが気絶したお前を運んだってことになるよな? ……なんで? そんで、誰がやったんだ? まさか、その幽霊……首なし用務員がお前を運んだってのか?」
「わかりません……。移動したということ以外には、寝ている間に何かをされた形跡もなく……だからこそ、薄気味悪いのです。一つ、気になることといえば……」
薔薇乃はスカートのポケットに手を入れ、何かを取り出す。
「目が覚めたとき、制服にこのようなものがくっついていたことでしょうか」
手を広げると、そこには小さな白い欠片のようなものが乗っていた。
「なんだ……? 綿(わた)の切れ端?」
「そのようですね。このあたりにくっついていたのです」と、カーディガンの裾のところを指さす。「いつの間についていたのかはわかりません。もしかしたら、気を失う前からついていたのに気づかなかっただけかもしれませんけど」
十香はそれを手にとって触ってみるが、何の変哲もないただの綿だ。
「うーん……どういうことだろうな。その首なし用務員の幽霊ってのも、よくわかんねぇし。見間違いってことは……」
「ありません。その男にはたしかに首がなかったのです」
「でも、夜で暗かったんだろ? はっきりとは見えなかったんじゃないのか?」
「それは、そうですけれど……」
薔薇乃は形のよい顎を指で撫でつつ言う。
「わたくし自身の感想としては、あれが見間違いだとは思えません。しかし……あれが本物の幽霊であるかどうかは、疑問の余地があると思っています」
「偽物の幽霊……つまり、誰かのイタズラってことか?」
「はい。そうと断じるだけの材料はまだありませんし、わたくしが……そうであってほしいというだけのことですが」
薔薇乃は僅かに眉をひそめる。たしかに、幽霊が実在すると考えるよりは生きた人間のイタズラであるとしたほうがいくらか現実的だし、薔薇乃自身、そう考えた方が楽なのだろう。
「でもさーぁ?」美夜子が言う。「イタズラだとしても、なんでそんなことしたんだろう? ただ、人を驚かせて面白がるため?」
「まぁ、中にはそういう変なやつもいるんじゃね?」
それ以外に何かしらの理由があってそんなイタズラをしている……ということも、あり得るのだろうか?
「そういえば、噂になってるくらいなんだから、その幽霊を見たやつってお前以外にもいるんだろ?」
薔薇乃は頷いて、
「そのはずです。詳しいことはわたくしも知らないのですが……こうして騒ぎになりつつある以上、今までに少なくとも二回は目撃があったと考えられるのではないでしょうか」
「実際に誰がその首なし用務員さんを見たのかがわかれば、話を聞きにいけるんだけどなぁ」
美夜子は両腕を組んで思案するように言う。
「あっ、そういえば……!」
薔薇乃はそこで思いついたように手をぽんと打ち合わせた。
「この幽霊騒動について新聞部の方が調べていると小耳に挟んだことがあります。そちらへお話を伺いに行くというのはどうでしょう? 今から部室に行けば昼休みでも誰かしらいるかもしれませんし……あ、もちろん、お二人がよろしければ、ですが……」
薔薇乃は遠慮がちな物言いで、十香と美夜子を交互に見る。美夜子は張り切ったように返事をした。
「もちろん、一緒に行くよー。薔薇乃ちゃんに協力するって約束したし、あたしもキョーミあるしね。十香ちゃんはどーする?」
そう言われたら、こちらだって協力せざるを得ないじゃないか。……ま、とくに用事もないし、騒動の真相は気になるし、友達が困っているのなら協力してやりたい気持ちもあるし……要するに、断る理由もないんだけど。
「しゃーねーな。付き合ってやるよ」
そう返すと、薔薇乃は嬉しそうに美夜子と十香の手を取って言う。
「ありがとうございます! 三人で、必ずや幽霊の正体を暴いてやりましょう」
「おー!」美夜子が拳を突き上げる。「あはっ、なんだか少年探偵団みたいでワクワクする! あ、女の子ばっかりだから、少女探偵団?」
「ふふっ。さしあたって、夕桜少女探偵団ですね。なかなか悪くない響きです」
「どーでもいいけど……」
盛り上がっている二人へ、十香は苦笑を浮かべつつ言った。
「早くしないと、昼休み終わっちまうぞ」
新聞部の部室は、北校舎の三階にあった。屋上から降りてすぐのところにあるため、移動に時間はかからない。部室のドアについた擦りガラス越しに、中で電灯がついているのがわかる。人はいるようだ。
「あの……お願いがあるのですが」
部室の前まで来てから、薔薇乃がおずおずと言い出す。
「新聞部が持っているであろう幽霊についての情報を得ることが此度の訪問の目的です。しかし効率的に情報を引き出すには、こちらも昨夜の話をする必要があるかもしれません。そこで、ですね。できれば……なのですが。わたくしが幽霊を見て気を失ってしまったということは、伏せておくようにしていただけないでしょうか……?」
十香と美夜子は互いに顔を合わせてから、噴き出すように笑う。十香は笑いを堪えながら、
「真剣な顔で何言い出すのかと思ったら、そんなことかよ」
まぁ、幽霊にビビって気絶しましたじゃあ、さすがにかっこつかないか。
「わかったよー薔薇乃ちゃん。ヒミツにしとくね」
にひひと笑いながらも、美夜子が口の前で人差し指を立てる。
「く、くれぐれもお願いしますよ……?」
念を押すように言ってから、薔薇乃は一度深呼吸を挟み、ドアをノックした。中から「はい、どうぞ」という男の声が返ってくる。
「失礼いたします」
ドアを開き、薔薇乃を先頭にして十香と美夜子も一礼しつつ部室へ入る。人が十人とは入らないような狭い小部屋だった。中央に大きな机、その奥にホワイトボードが置かれ、左右の壁にはこれまでに発行された壁新聞が張り出されていた。部屋には新聞部員らしき眼鏡をかけた男子生徒が一人。机で何かを書いている最中だったようだ。彼は椅子から立ち上がって、薔薇乃たちへ向かって言う。
「入部希望の人たち……ではなさそうだね。新聞部になにか用かな?」
落ち着いた口調、背は十香より頭一個分ほど高いが、細い体格も合わさっていかにも優男という印象だった。一年の美夜子が赤いリボンタイを、二年の十香と薔薇乃が青色のリボンタイを付けているのと同様に、男子の制服もネクタイの色が学年によって違う。眼鏡の男子生徒は緑色のネクタイを付けているので、三年生だ。
「突然のことで申し訳ないのですが、新聞部の方に少々、お話を伺いたく……」
「ああ、べつに構わないよ。僕は部長の東(あずま)だ。部員は二人しかいないんだけど、もう一人はさっきどこかへ出たっきりでね。僕でよければ話を聞こう」
「東静博(あずましずひろ)先輩ですね。校内新聞でお名前は拝見しておりました」
「おっ、もしかしてうちの新聞、読んでくれてるのかな?」
「毎号、目を通しています」
「ほんとに? それは嬉しいね。あ、どうぞ座って座って」
東は薔薇乃たちへ机の向かい側に並んだパイプ椅子を勧めた。毎号読んでいるとかいうのがホントかどうかは怪しいものだが、薔薇乃は今のほんの十数秒の会話で東から好感を持たれたようだ。裏の仕事の関係上、薔薇乃にとってこういったやり口はお手の物なのだろう。今まで校内新聞というものが存在することすら忘れかけていた十香では、とても無理な所業であることはたしかだ。
東の向かい側に座ってから、薔薇乃、十香、美夜子の順で簡単に自己紹介をする。
「――新聞、たくさんありますね!」
美夜子は壁に貼られた新聞の列を眺めながら、見たまんまのことを言った。そりゃあ、新聞部の部室に新聞がなきゃおかしいだろ。
新聞は古いものから順に並んでおり、月に一度の発行とすると、全部で直近二年分くらいになるだろう。新聞の名前の欄には、『さくら』とある。学校名にもある夕桜から取ったものだろうか。
「部員は二人だけって言ってましたけど……この壁に並んでる新聞、全部二人で書いてきたんですか?」
「そうだよ。去年もう一人が入ってくるまでは、僕が一人で書いていたんだけどね」
……部活動としてはあまり人気がないみたいだ。
「寂しい部活だなぁ、と思った?」
東が十香を見て言う。
「うぇっ!? い、いやそういうんじゃなくて……っすね」
いきなり考えを見透かされて、十香はしどろもどろになってしまう。
前にもこんなことあったよな……あたしってやっぱり考えていることが顔に出やすいのか……?
「す、すんません」
「ははっ。いいよいいよ、気にしないで」
東は笑いながら手を振る。
「実際、その通りだよ。今どき新聞なんて流行らないんだろうね。僕は今年で卒業だから、去年に一人新入生が入ってくれていなきゃ今年限りで廃部になるところだったんだ。……今年は新入部員がいなかったから、来年はまた一人きりになってしまいそうだけどね」
と、やや声の調子を落とす。一人先に卒業する身としては、後に残す後輩のことが心配なのかもしれない。
「――ああ、ごめん。どうでもいいねこんなことは。それで、うちに聞きたい話っていうのは?」
東に促され、薔薇乃が話題を本題へと移した。
「新聞部では、最近噂になっている幽霊について取材調査を行っているそうですね?」
「幽霊というと、首なし用務員のことかい? そうだよ。その幽霊騒ぎは、今校内で最もホットな話題だろうからね。来週に出す十月号で特集をするつもりなんだ。それがどうかした?」
「単刀直入に申し上げると、その調査で今までにわかったことを教えていただきたいのです」
「へぇ……どうしてそんなことを知りたいのかな?」
「理由ですか……そうですね」薔薇乃は少し考えてから答えた。「あえて言うなら……“気になるから”、でしょうか?」
「気になるから……なるほど、気になるからか!」
東は面白がるように言う。
「興味本位というわけだ。いや、それが悪いと言うわけじゃないよ。むしろ、僕としては好ましく思う。共感、というのもちょっと違うような気がするが――ともかく、わざわざこんなところにまで話を聞きに来たその探究心と好奇心は、ジャーナリストもどきとしては見習わせてもらいたいよ」
「では――」
「しかし、残念。心情的には協力してあげたいところだけど、こちらもそれなりに苦労して掴んだ情報だからね。そう簡単に話すわけにはいかないんだ。せめて、今月号を発行するまで待ってくれないかな?」
新聞が発行されるのは来週と言っていたが、それまでお預けということか。薔薇乃はくすりと上品に笑った。
「ご冗談を。それほど辛抱強ければここへ来ることはありませんでした」
「ははっ、それはそうだ。でも、やっぱり記事として書く前に他人へネタを教えるというのは――」
「では、交換ということでいかがでしょう?」
「交換?」
「わたくしからも情報提供をさせていただこうかと。それが新聞部にとって有益な情報であれば、その見返りとして調査の結果を教えていただく……ということで、いかがですか? もちろん、教えていただいた内容は誰にも話さないことを約束します」
「ふぅん……提供してくれる情報というのは?」
「わたくし自身が昨夜目撃した、首なし用務員と思しき人影についてです」
東は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに落ち着いた顔に戻って、
「なるほど、当事者だったか。どおりで意欲的なわけだ。いいだろう、聞かせてもらおうか?」
薔薇乃は昨夜のことを東へ説明する。ここまでは想定通りの流れだが、果たして上手くいくだろうか?
「――わたくしは驚いて、立ちすくんでしまいました。そうして呆然としている間に、その首のない身体はどこかへ消え去ってしまい……それで終わりです」
東に聞かせた話は、十香と美夜子が屋上で聞いた内容とは後半部分が異なる。気絶していたということを隠すためなのだろうが、薔薇乃があまりにも堂々と嘘をでっち上げるので、十香は横で聞いていて無反応を装うのが大変だった。話の繋がりは自然だったので、東はとくに疑問を持ったようでもない。
「一つ確認させてほしいんだけど……」東は眼鏡をくいと押し上げて、「岸上さん。君が目撃した首なし用務員は、作業着を着ていたんだね?」
「はい、そうです」
「作業着の色は?」
「暗くてはっきりとはしませんでしたが、あれは……青色だったように思います」
「……そうか」
十香が手を上げて発言する。
「あの、作業着の色がなんか関係あるんすか?」
「いや、念のために確認させてもらっただけだよ。今までに首なし用務員を目撃した人たちも、作業着の色は青色だったと証言していたんだ。これで岸上さんが見たものが、僕たちが調べているものと同一のものだとはっきりわかった。べつに岸上さんのことを疑ったわけじゃないから、悪く思わないでね」
「いえ、お気になさらずに」
薔薇乃は小さく微笑んで言う。
なるほどたしかに。学校中で噂になっているのなら、目立ちたいがために自分も幽霊を見たなどと嘘をつくようなやつも出てくるかもしれない。
「でもでも、首なし用務員さんだってたまには別の作業着を着てるかもしれないですよ? ずっと同じもの着てると汚いし!」
美夜子がなんとも独特な観点から意見を述べる。
「なるほど、それも一理あるね」
東は笑いながら、机の上からメモ帳を取って開いた。
「さて、では約束通りこちらも教えることは教えよう。まずは……そうだな。そもそも、首なし用務員という幽霊は今回の騒動よりもずっと前から存在していたということは知ってる?」
十香が返答する。
「ずっと前からって、どーいうことだよ……ですか?」
敬語に慣れてないせいで、普通に話すだけでも妙にストレス溜まるな……。
「もっと前から、幽霊は目撃されていたってことっすか?」
「いや、実際に目撃されたのはたぶん今回が初めてだ。存在していたというのはね、噂として、だよ」
「噂……?」
「七不思議って、聞いたことない? 実は、この学校にもあるんだよ。あれだって、噂の一種だろう?」
七不思議というと、アレか。特定の地域や場所に関係するオカルティックな七つの言い伝え……学校を舞台にした漫画やアニメだと、結構な確率で登場するアレだ。
「この学校にも、って……お前ら知ってた?」
美夜子と薔薇乃へ尋ねてみたが、二人とも首を横に振る。
「知らなくても仕方ないよ。そんなもの、今じゃ知ってる人はごく僅かだろうからね。だいぶ昔からあるみたいなんだけど、いつ頃からあるのかというのはわかっていないんだ」
「その七不思議に、首なし用務員さんのことが?」
美夜子が興味津々で訊く。東はメモ帳のページをめくった。
「ええっと、ちょっと待ってね……あった、夕桜中央高校七不思議。せっかくだから、全部紹介してみようか?」
美夜子は勢いよく頷く。
「お願いします!」
「じゃあ、順番に読み上げていくよ」
東は咳払いをしてから、一つ一つゆっくりと七不思議の項目を音読し始める。東が読み上げた内容は、次のようになった。
一、無人の音楽室でピアノが鳴る。
二、体育館ロビーの鏡に幽霊が映り込む。
三、雨の日、中庭の東屋(あずまや)の柱に霊からのメッセージが刻まれる。
四、図書館には呪われた本がありそれを読むと死ぬ。
五、夕暮れ時、南校舎の屋上に少女の霊が現れる。
六、美術室の絵画『影の国』をずっと見ていると絵の中に引きずり込まれる。
「――そして、次で最後……七、首なし用務員が夜の校舎をさまよう」
どれもこれも、初めて聞いたものばかりだ。内容そのものはそれらしいというか、いかにもなオカルトばかりで信憑性の欠片もなさそうだが……。
「ふむ……初めて聞きましたが、首なし用務員はこの学校の七不思議として、昔から存在していた……」
薔薇乃は自らの考えを整理するように言う。
「ということは……何者かがそれを真似てイタズラしている可能性もあるのですね」
東は少し意外そうな顔をする。
「ふーん……岸上さんは幽霊が実在しているとは考えていないんだね?」
「現時点で考えられる可能性の一つというだけです。しかし、最初に検討すべきことだとは思います。オカルトの存在を認めることは簡単ですが、それは他の可能性を排除しきってからでも遅くはないはずですから」
「なるほど、ごもっともな意見だ」
東が言い終わると同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。五分後には次の授業が始まる。
「――おっと、時間だね。まだ話は終わりじゃないんだけど……続きは放課後ということでどうだろう?」
東が席を立ちつつ言う。十香たちはまた放課後にまた部室を訪ねる約束をしてから、部屋を退出した。
「お二人とも、すみません。放課後にまで付き合わせてしまって。なにか予定があったのではありませんか?」
教室へ向かって廊下を歩きながら、薔薇乃が言う。美夜子は一年生なので教室は南校舎のほうになるが、途中までは一緒だ。
十香は否定するように手をひらひらと振る。
「いやぁ、あたしは暇だったしべつにいーけどよ。美夜子はよかったのか?」
「ふぇ?」美夜子はきょとん、という顔をする。「全然いいけど、なんで?」
十香はにやにやと笑いながら美夜子を見た。
「んーほら、今日はあいつのとこに行かなくていいのかな、って。お前ほぼ毎日行ってるじゃん?」
「あっ、センセーのこと? それなら大丈夫! 週末までずっとお仕事だって言ってた。平日はずっとで、いつ終わるかわからないんだって」
そりゃまた、珍しいこともあるもんだ。あのいつも暇そうな中年探偵が……。
「なんだ、そうなのか。でもそうなると、週末までは会えないんだな。……もしかして、寂しいか?」
美夜子は取り繕うように笑って、
「うーん……少しだけ、ね。でも仕方ないよ」
「ふむ……これは……」
美夜子の様子を見て、薔薇乃が何かに気がついたように顎に指を当て思案する。この反応を見るに、こいつも気づいたか。
「――ふふっ、どう思われます? 十香さん」
「へへっ、さぁーね」
薔薇乃と十香は互いに顔を見合わせて忍び笑いする。
「えっ、なになに? あたし今、なんか変なこと言った?」
なんで二人が笑うのか、美夜子はわかっていない様子だ。頭の回転ならこの三人の中では一番速いだろうに、こういうときは鈍いんだよなぁ、なんでか。
「なんでもねぇよ。なぁ?」
十香が美夜子の頭をくしゃくしゃと撫でつつ薔薇乃へ向かって言うと、薔薇乃も笑顔で頷いた。
「ええ、ええ。やはり美夜子はかわいいと、改めて思っていただけですよ」
言いながら手を伸ばして、薔薇乃も美夜子の頭を愛でるように撫でる。
「のわぁっ……ちょ……んもー! 二人ともなんなのぉ!?」
左右二人から頭を撫でられ、美夜子は困惑しながらも顔を赤らめている。
くそー……かわいいなぁ、こいつ。このまましばらくからかってみたいけど、いい加減急がないと授業に遅れてしまいそうだ。この辺りで切り上げよう。
それにしても……こいつのセンセーは今頃、どこでどんな仕事をしているんだろう?
――放課後。鳥居伸司は南校舎の屋上へと向かっていた。昨日、謎の少女を見かけたのと同じ場所、時刻もおおよそ同じ頃だ。階段を上った先にある扉のノブに手を掛ける。……やはり、鍵はかかっていない。
ゆっくりと扉を奥へ開ける。昨日は、奥のフェンス近くに立っていたが……今日は、姿がない。赤々とした夕日が見えるだけだ。昨日のことが妙に気になってしまってここまで来たが……気にしすぎだったか。
伸司は気抜けした思いだったが、そのまま屋上へ入る。
せっかくだから、煙草でも吸っていこうか。校内はどこも禁煙だから参ってしまう。ヘビースモーカーの伸司としては、今回の仕事で最も嫌なところだ。
――風が吹いた。ふと、伸司の視界の右端で何かが揺れる。振り返ると、伸司がたった今入ってきた扉が付いている屋上塔の、その上に――彼女は座っていた。
「あっ……!」
目が合うと同時に、彼女は驚いたように短く声を上げた。昨日ここで見た、あの少女に間違いない。伸司より先に気づいてはいたのだろうが、隠れる間もなく振り向かれて見られたことに驚いたと見える。彼女は足を外側へ放り出すように、屋上塔の縁に腰掛けていた。揺れて見えたのは、彼女の長い髪だったようだ。
「なんだ、いたのか」
伸司はやや見上げて、彼女へ話しかける。ここからなら、昨日のようにいきなり逃げられることもあるまい。
「そこはお前の指定席か?」
「っ…………」
少女は黙ったまま、視線をせわしなく動かす。なんと答えるべきか、迷っているようだった。やや肉付きの薄い白い両脚が、無防備に揺れている。
「あー……とりあえず、降りてきてくれないか? このまま話してもいいんだが、ちょいと眺めが良すぎるな」
伸司は苦笑しつつ、眼前に手をかざし視界を隠すようにする。
「え……? ……あっ」
少女は少し遅れて伸司の言うことを察したようで、慌ててスカートを押さえながら立ち上がる――その時だった。
「きゃっ!?」
焦って立ち上がろうとしたせいか、少女は足を屋上塔の縁から踏み外してしまう。ガクッとバランスを崩して、倒れるように少女の身体が宙を舞った。
「危な――」
伸司は躊躇する間もなく飛び出して、少女の身体を受け止める――が、受け止めきれずに、そのまま背後へ倒れ込んでしまった。
「――い……ってぇ」
背中をしたたか打ってしまった。数秒息ができなくなったが、ダメージ自体は大したことはない。伸司の身体の上で、抱きかかえられるように少女はうつ伏せになっていた。あのまま落下すれば大変なことだと、咄嗟に抱き止めてしまったが……果たして怪我などしていないだろうか。
「おい、大丈夫か?」
胸の上あたりにある少女の頭へ向かって声をかける。
「ん……んん……」
少女はゆっくり起き上がって、伸司の顔を見た。みるみるうちにその表情が青ざめていき、
「あ……ああっ! ごめんなさい! 大丈夫ですか!? 怪我、してませんか!?」
慌てて伸司のことを心配してくる。
「平気だよこんくらい。そっちは?」
「わ、私は大丈夫です……」
「それならよかった。……欲を言えば、どいてくれると助かるんだが?」
「ご、ごめんなさい! 重かったですよね……!」
少女は素早く伸司の上から離れる。伸司は立ち上がって服についた埃をはたき落としながら言った。
「いや、軽いもんだったさ。それより悪かったな、俺があんなこと言ったせいで慌てちまったんだろ」
「あれは私が不注意だっただけで……えっと、ありがとうございました」
少女は小さく頭を下げる。この様子だと、もう逃げ出したりはしなさそうだ。
「お前さん、名前は?」
「え?」
「名前。なんていうんだ?」
「あ……えっと」
少女は一瞬だけ、躊躇うように視線を泳がせたが、すぐに答えた。
「私の名前は……遠宮実紗希(とおみやみさき)っていいます」
「遠宮、か。そのリボン、赤はたしか一年生の色だよな。クラスは何組なんだ?」
「クラス……」
実紗希はなぜか言い淀む。
「……? まぁ、言いたくないならべつに言わなくてもいいが……」
簡単な質問をして緊張をほぐしてやろうかと思ったのだが、失敗したか……。
「昨日もここにいたよな。何をしてたんだ?」
「…………」
実紗希はうつむいて、伸司の目を見ようとしない。
「……まただんまりか」
こいつは、なにか訳ありと見た。さてどうするか……。
「あの……」
今度は実紗希のほうから口を開いた。
「先生の名前は……なんていうんですか?」
……先生、ときたか。こちらからはまだ説明していないのだが……まぁ、学校にいる大人といったらまずは先生だろうと思うのは不思議でもないか。
「俺は鳥居だ。鳥居伸司。訳あって、臨時にここで働くことになってな。昨日はその下見みたいなもんだったんだ」
「そうだったんですか……」
「ところで……屋上は鍵がかかってるはずだろ? どうやってここに入ったんだ?」
「それは……」
「それも教えられない、か?」
「い、いえ……偶然、なんです。少し前に、扉に鍵が挿さったままになってるのを見つけて……」
「あー……誰かが忘れていったんだろうな。で、それを拝借したわけだ」
実紗希はスカートのポケットから鍵を取りだして、伸司へ差し出す。
「ごめんなさい……返します」
「ん? いいのかよ、返しても?」
「え?」
実紗希は意外そうな顔で伸司を見つめ返す。
「いや、何か用があってここに来てたんだろ? だったらお前が持っておいたほうがいいんじゃないか」
「でも……」
「べつに俺は、お前を叱りに来たわけじゃないよ。危険だったり他の人に迷惑かけるようなことじゃなければ、好きにすればいいさ」
実紗希は少しほっとしたようだった。
「……てっきり怒られると思ってました。鳥居先生は、なんだか先生じゃないみたい」
まぁ、その通りなんだけどな……本職探偵だし。
しかし実紗希は、鍵を持つ手を引っ込めようとしない。
「……でも、返します。私は、ただ……待っていただけだから」
鍵を受け取りつつ、伸司は尋ねた。
「待っていた……って、何を?」
「あっ……な、なんでもないです」
実紗希は誤魔化すようにかぶりを振る。
「ふーん……」
伸司は相づちを打ちながら、実紗希を観察する。表情が暗いのは、初対面の相手と話す緊張というだけではないはずだ。何やら思い詰めているのが、少し見ただけでもわかる。伸司はぼさぼさの頭を掻きつつ、言う。
「まぁ……あれだ。なにか困ってることがあるなら、協力するぞ?」
「え……?」
伸司は「ふふん」と自信満々に笑ってみせる。
「俺はこれでも、人助けのプロ――と呼ばれてるんだぜ? 自己紹介し合ったばかりの相手に話すのは抵抗があるかもしれねぇけど、騙されたと思って相談してみないか?」
「…………」
実紗希は呆気にとられたように伸司を見つめていた。伸司は肩をすくませて、
「――なんて、今のはちょっと胡散臭かったか? ま、相談するかどうかは、お前の判断に任せるよ」
「……どうしてですか?」
「ん?」
「なんで、私に協力してくれるなんて……」
「なんで、って……べつに、理由なんてねぇけどさ。強いて言うなら――俺が、困ってる人を見たら放っておけないとてつもないお人好しだから……かな?」
「……ふふっ」
実紗希は、伸司の前で初めて笑う。
「鳥居先生って、変な人だね」
「あん?」
「あっ……ごめんなさい。変な人、ですね」
「直すのそこかよ! っていうか、いいよべつに、先生だからってそんなかしこまった話し方しなくても。もっと気安い感じで話してくれた方が俺も助かる」
「えっと……じゃあ、そうするね」
「ん、いいぞ」
元々、敬語なんて使い慣れていないのだろう。実紗希は少し安心したようだった。
それにしても――やはり、似ている。笑った顔など特に、あいつにそっくりだ。昨日初めて会ったときに感じたのは、既視感だった。顔の造形もそうだが、それ以上に、雰囲気がよく似ている。
「えっと……どうかした?」
実紗希は不思議そうに伸司へ尋ねる。
「あー……いや、なんでもない」
いかん。じろじろと見過ぎた。たしかに似ているが、それだけだ。気にしすぎるのはよくない。
「それで、どうする? 俺に話してみる気はあるか?」
実紗希はゆっくりと頷いた。
「……うん」
「よし。じゃあ……そうだな。なんでここにいたのかってことから、教えてくれるか? さっきは待っているだけって言ってたよな。何を待ってたんだ?」
「……ただ、時間が来るのを待っていただけなの」
「時間潰ししていただけってことか? だったら、ここじゃなくても、教室とか……」
「……ここだったら、誰にも見つからなくて、話しかけられる心配もないから」
「ふぅん。一人で落ち着ける場所が良かったってことか」
その気持ちはわからないでもないが、言葉の裏には何かしらの事情がありそうでもある。
「ま、いい場所だよな。ここからなら、夕日もよく見えて綺麗だし」
「夕日は嫌い」
実紗希は目を伏せて言う。予想外の発言に、伸司は反応が遅れてしまった。
「……夕日が?」
「……見てると気分が落ち込むの」
じゃあなんで昨日は見てたんだよ……とは、訊きづらい雰囲気だ。
「……まぁ、いいや。それで、お前はここで時間を潰してから、何をするつもりなんだ?」
「美術準備室に忍び込もうと思ってて……」
「し、忍び込む?」
思っていたよりも大胆な発言が飛び出た。美術準備室というと、美術室の隣りにあって道具や作品を保管したり教師が授業の準備をしたりする場所のことだろう。
「美術部の活動中は人が入ってくるかもしれないから、部活動が終わるまで待ってるつもりだったの。朝早くは教室に鍵がかかってるし、昼休みも大抵は美術部の人が誰かしらいるし、一番確実なのは放課後のそのタイミングかなって」
話からして、実紗希は美術部の部員というわけでもないらしい。
「しかしなんでまた、忍び込もうなんて……」
「……名簿が欲しいんだ」
「名簿?」
「欲しいっていうか、見るだけでもいいよ。十三年前の美術部員の名簿が見たいの」
「十三年前……? なんでそんな昔の名簿が見たいんだ?」
尋ねると、実紗希はまた沈黙してしまう。
「それは言えないのか?」
「……ごめんなさい」
実紗希は申し訳なさそうに言う。どうやらまだ完全には信用されていないらしい。今日初めて話したのだから、それも仕方ないのだろうが……。
「……わかった。とりあえず今はその事情までは聞かないでおこう。でもその名簿が見たいだけだったら、美術の先生にでも頼んだらいいじゃないか。見せてくれるだろ、それくらい」
「それが……無理なんだよね。美術の河嶋(かわしま)先生は今、お母さんが亡くなって忌引きで休みなの。来週まで学校には来ないって聞いたよ」
「それまで待つってことはできないのか?」
「……できれば、早く済ませたいから」
「ふむ……じゃあ、美術部員の誰かに頼んで持ってきてもらうっていうのは?」
「部員の人に、それとなく訊いてみたんだけどね。部員の名簿は、準備室にある先生の机の中にしまってあるらしいんだ。部員の人でも、勝手に触っちゃダメってことになってるみたいで……」
なかなか難しい条件が揃っているようだ。
「なるほどな。それで誰もいなくなった後で忍び込もうなんて考えたワケか。……ところで、昨日はどうしたんだ? 俺が話しかけたらすぐ逃げちまったけど」
実紗希は横髪を弄りながら、少し恥ずかしそうにしながら答えた。
「昨日は……その、先生に見つかって怒られると思ったから……そのまま帰っちゃった」
「あー、あのときすげー勢いで走ってったもんなぁ。驚いたよ。あれはちょっと傷ついたぜ?」
「えっ、あ……あのっ、ごめんなさい……」
泣き出しそうな顔で実紗希が言う。思いのほか深刻なリアクションが返ってきたので、伸司は慌てた。
「じょ、冗談だよ! そう真面目に受け取るなって、全然気にしてねぇよ」
「あ……う、うん」
実紗希はほっとしたように頷く。伸司もそれにほっとしたところで、話を元に戻した。
「その名簿なんだがな。本当に美術準備室の机の中にあるのか?」
「部員の人から、そう聞いたけど……」
「現在の名簿の保管場所としてはそうなんだろうが、実際に確かめたわけじゃないだろ? お前が見たいと言ってるのは十三年も前の名簿なんだ。そんな昔のものがまだ保管されているのかどうかは、微妙なところじゃないか?」
「それは……言われてみれば、そうかも」
「ふーむ……」
伸司はしばらく頭を掻きつつ考え、やがて答えを出す。
「よぉし、俺に任せろ」
「どうするの?」
「俺のほうからその……河嶋、だっけ? 美術の先生に連絡とってみるよ。十三年前の名簿が残っているかどうか、確かめてやる」
「えっ、でも……」
「心配すんな、理由のほうは適当に誤魔化しておいてやるから」
伸司の言葉を聞いて、実紗希は安心したように微笑んだ。
「……ありがとう」
「いいってことよ。んじゃ、ちょっくら職員室まで行くとするか」
――職員室を出ると、廊下で待たせていた実紗希が駆け寄ってきた。
「ど……どうだった?」
「んー……」
曖昧な反応に、実紗希の表情が曇りかける……が、伸司は笑いかけて言った。
「大丈夫だよ。上手く連絡取れた」
「ほんとに!?」
「その十三年前の名簿なんだがな。今は学校じゃなくて河嶋先生の自宅の倉庫で保管してるらしい。何年か前に古いやつはまとめてそっちへ移したんだってよ。処分されてなくてよかったな」
河嶋は十三年前の当時からずっと、この学校で美術部の顧問を務めているそうだ。
「そっか……じゃあ、あのまま美術準備室に忍び込んでも見つからなかったんだ……」
「ま、そーいうことだな。それで、明日の放課後に河嶋先生の自宅へ行って見せてもらうことになったんだが……それでよかったか?」
「うん、いいけど……」
実紗希は遠慮がちに言う。
「先生も一緒に来てくれるの?」
「ああ、そりゃもちろん。車あるから、乗せていってやるよ」
本来の業務を疎かにはできないが、放課後ならある程度は自由に動ける。約束した以上は最後まで付き合ってやるのが筋だろう。
「――あ、一応親にはそのこと言っておいてくれよ? 生徒勝手に連れ出して、問題になったりしたらかなわんからな」
実紗希は軽く笑って頷いた。
「わかった、ちゃんと言っておくね」
「明日は待ち合わせしておくか。放課後になったら駐車場に……って言っても、ここの駐車場広くてごちゃごちゃしてるからなぁ。わかりづらいか? いいや、お前が適当な場所決めてくれ。俺は昨日来たばかりでまだ校内に不案内だからな」
「あっ、じゃあいい場所あるよ」
実紗希は伸司にある場所を提案する。とくに問題もなさそうなので、そこに決定した。
「――よし、じゃあ放課後にそこで待ち合わせな」
「うん。……ほんとに、ありがとね。先生」
実紗希は、初めて見たときとは別人のように明るい表情で言う。これが彼女の本来の姿なのだろう。伸司はふっと笑って、
「俺と出会えてよかっただろ?」
「……うん!」
「ま、感謝するのは全部終わってからでいいよ。今日はもう帰りな。急がないと外、暗くなっちまうぞ」
「うん。じゃあね、先生。また明日」
「おう、またな」
実紗希は軽く手を振ってから、廊下の向こうへ去って行った。
「…………」
伸司は誰もいない静かな廊下でしばらく考え込んでから、歩き出した。向かう先は、職員室の隣りにある理事長室。扉の前に立って、一応、ノックをしておく。
「どうぞ」
声があってから、中へ入った。理事長は部屋奥の大きな机で何やら書き物をしているところだったようだ。
「なんだ、君かね。久しぶりの仕事の調子はどうだ? リハビリは上手くいっているか?」
「んー……まぁ、そこそこ」
伸司は空返事をしながら、理事長室を見回す。理事長の座る机より手前には応接用にソファとテーブルが並んでいる。両側の壁には戸棚が置かれており、ガラス戸の奥にはファイルや分厚い本がずらりと並べられていた。
「何か用か?」
「生徒の名簿……ってあるか? 一年生のやつ」
「あるぞ。見たいのか?」
「頼む」
「昨今は情報管理の徹底が叫ばれる時代だ、関係者以外にそう簡単に見せていいものではないんだが……。それとも、仕事に関係があるのかね?」
「まぁ、そういうことにしといてくれよ。ちょっと見るだけだからさ。一応、今は俺もここの関係者なんだし、問題ないだろ?」
伸司は頼み込むように片手で手刀の形を作って言う。
「まったく、仕方ないな……ちょっと待ってろ」
理事長は「よっこらせ」と言いながら椅子から立ち上がる。机の引き出しから小さな鍵を取りだして、それを壁際の戸棚についた鍵穴に差し込む。鍵を開けるとガラス戸をスライドさせて、中から一冊の黒いファイルを取りだした。伸司はそれを受け取ると、部屋の手前側にあるソファへ座って、テーブルの上で開く。
ファイルには十数ページにわたって、現在この夕桜中央高校に在籍している一年生全員の名前と住所、連絡先などが記載されている。履歴書ではないので、写真は載っていない。
しばらく名簿を見ていた伸司だったが、やがて顔を上げて、ため息をついた。
「なにやら物憂げだな。どうかしたのか?」
理事長は伸司を訝しげに見ながら、尋ねた。
「……いや、なんでもねぇ」
伸司は頭を掻きつつ、素っ気なく答える。新たに降って湧いた謎にどうやって対処をつけるべきか、考えていた。
――名簿には、遠宮実紗希という名の女子生徒は存在しなかったのである。
――放課後。十香たちは約束通り新聞部の部室を訪れていた。
「お邪魔しまー……あれ?」
部屋に入るなり、十香は不思議そうに声を上げる。部室の中には昼休みに話した新聞部部長、東の姿はなく、代わりに一人の女子生徒が椅子に座っていた。
「おー! ようこそようこそ!」
女子生徒が立ち上がって十香たちを出迎える。髪は外ハネのショートで、額を前髪の間から出しており活発そうな印象を受ける。体格は女子平均程度の身長である十香よりも、一回りほど小柄だ。
「昼に来たっていう人たちだよね? 私、二年の井手川杏(いでかわあんず)っていうの」
同じ学年だが、十香には覚えがない。最近やっと同じクラスの全員の顔と名前が一致するようになってきたが、違うクラスの連中まではさすがにわからない。
「あっ、新聞部のもう一人の人?」
十香の後ろからひょいと顔を出して、美夜子が言う。杏は肯定する。
「そうそう、東先輩から聞いてるよ。首なし用務員のこと調べてるんでしょ? あっ、先に名前聞いてもいい?」
「あたし、一年の志野美夜子です」
「美夜子ちゃんね。先輩だからって気ぃ遣わなくていいよ。杏ちゃんって呼んでくれる?」
「そう? じゃあ、杏ちゃん!」
「うん、いいねいいね!」
杏は指で輪を作ってオーケーサインを作る。なんだか気の合いそうな二人だ。
「じゃあ次はあたしな。二年の亀井十香」
「あっ、その金髪見覚えある! B組の人だよね? 岸上さんと一緒の!」
杏は妙にテンションを上げて言う。
「そうだけど……」
「いいなぁ……。ねぇねぇ、岸上さんと話したこと、ある?」
「え? あ、まぁ……あるよ」
「ほんと!? 岸上さんってさ、普段どんな感じなの!?」
「……っていうか。来てるけど、その岸上」
と言って、十香は後ろのほうを指さす。
「ご機嫌よう」
薔薇乃が杏へ、優雅な所作で挨拶する。
「ふわっっっつ!?」
杏は妙な声を出して驚き、後ろに下がって机にぶつかりそうになる。
「き、ききき岸上さん!? なんでここに!?」
しどろもどろになりながら、杏が尋ねた。薔薇乃は困ったように笑って、
「なんでと言われましても……幽霊調査の発起人はわたくしですので。二人はわたくしの友人で、付き合ってくれているのです」
「あ……そ、そうなんですか? なるほど……うん、そういうことか」
杏は一人納得する。
「わかりました。私ったら、驚いてしまって……すみません」
「いえ、お気になさらずに。それより、わたくしにも二人と同じように気軽に接してくれて構いませんよ? わたくしはこの話し方のほうが楽なのでそうしているだけですから」
「い、いえいえ! 私なんかが、とんでもないです!」
杏はわちゃわちゃと手を振りながら言う。
同じ二年生だというのに、十香と薔薇乃では杏の態度がまるで違う。これは……と、十香が考えていると、それを代弁するように美夜子が言った。
「杏ちゃんってー、もしかして薔薇乃ちゃんの……ファン?」
「えっ!?」
杏はまた驚く。
「うそ……誰にも言ってないのに、なんでわかったの!?」
「いや誰でもわかるわ!」
十香は思わずツッコんだ。
「まぁ、わたくしの……? そうなのですか?」
薔薇乃が杏へ微笑む。穏やかでありつつも、僅かに攻撃性のようなものを含む、ゾクッとくる微笑みだ。
「あ……は、はいぃ! 私、あの、岸上さんにずっと憧れてて……」
杏はまっすぐな憧憬の視線で薔薇乃を見る。薔薇乃は彼女の右手を、両手で包むように握って、
「ふふっ、ありがとうございます」
「はうぅ……! こ、こちらこそ……」
杏は感動のあまりそのまま卒倒してしまいそうだ。
「ところで、東さんはまだいらっしゃらないのでしょうか?」
「あ、それはですね」
杏は薔薇乃に握ってもらった右手を左手で愛おしそうに撫でながら言う。
「実は、東先輩って生徒会役員も兼任してるんです。この前、選挙をやって新しい役員が決まりましたよね。それで来週に交代式があるんですけど、その準備が今日あるってことを言い忘れていたみたいです。生徒会最後の仕事で休むわけにもいかないそうで」
「では、東さんは来られないのですね」
「すみません。東先輩も、申し訳ないと伝えてほしいとのことでした。あ、その代わりに私が、首なし用務員のことで今わかっていることは、きちんと説明させていただきますんで!」
「こちらはそれで問題ありません。では、始めていただけますか?」
「了解です! どうぞ座ってください」
十香、美夜子、薔薇乃の三人と杏は、机を挟んで向かい合って座る。まずは杏が分厚い手帳を取りだして、メモを確認しつつ話を切り出した。
「――ええっとですね。とりあえず現時点で私たちは、首なし用務員を目撃したという事例を三つ、確認しています。順番にいきましょうか。最初に首なし用務員が目撃されたのって、先々週の木曜日なんですよ」
最初の事件発生から今までは二週間ほど経過していることになる。
「誰が最初に見つけたの?」
美夜子が質問した。杏は手帳のページをめくる。
「目撃したのは、一年生の女子生徒。忘れ物を取りに、夜中の校舎に入って見つけたんだって。場所は……っと、南校舎一階の廊下だね」
薔薇乃が首なし用務員を目撃した位置と殆ど同じだ。薔薇乃の場合は、図書館との間の渡り廊下まで出てきたとのことだったが。
「その女子生徒の話によると、予め電話で学校に、忘れ物を取りに行くって連絡してたらしいのね。んで、夜の学校に来た彼女は、南校舎の昇降口で待っていた用務員さんから、懐中電灯を貸してもらった。帰るときには用務員室へまた声をかけるように言われてね。あ、この用務員さんは幽霊じゃないほうだからね?」
……それはわざわざ説明しなくてもわかるけど。用務員室は南校舎昇降口のすぐ近くだ。
「彼女が忘れ物をした教室は二階にあったから、廊下中央の階段で上へ上がろうとしたんだって。そこで彼女は見てしまったの」
「幽霊……首なし用務員を?」
十香の言葉に杏は頷く。
「首なし用務員は、廊下の昇降口側から見て中央階段よりちょっと奥のあたりで、ふらふら歩いていたらしいの。彼女はすっごく驚いてしまって、急いで用務員室へ駆け込んだ。用務員さんを連れてもう一度その場所へ戻ったんだけど、そのときにはもう首なし用務員は消えていたんだって。戻ってくるまでに、三分もかからなかったみたいなんだけど……」
その僅か三分の間に、首なし用務員はいなくなってしまった……。それが本物の幽霊で、霧のようにかき消えてしまったのでないとすれば――つまり、何者かのイタズラであると決めつけてしまうなら、その女子生徒が用務員室へ行っている間にどこか別の場所へ隠れたということになるだろう。
薔薇乃が軽く手を上げて発言する。
「その女子生徒が首なし用務員を目撃した時間はわかりますか?」
「あ、はい」
杏はメモを確認する。
「時間はですね……九時過ぎだったみたいです」
「……そうですか。ありがとうございます」
薔薇乃は手を差し出すようにして、杏に続きを促した。
「では二つ目の目撃事例について説明しますね。これは……えっと、先週の月曜。目撃者は、軽音部の男子生徒二人です。場所は南校舎の三階廊下で、時間は九時頃ですね。軽音部の部室を出たところで見つけたみたいです」
そこで美夜子が質問を投げかけた。
「軽音部って、そんなに遅い時間まで活動してるのー?」
杏は笑って、
「もちろん、そういうわけじゃないよ。学校の規定で部活は六時までって決まってるからね。その日は楽器の練習はそこそこに、こっそり持ち込んでいた携帯ゲームで遊んでたらしいよ。それで遊びほうけてたら、いつの間にかそんな時間に――っと、これバレたら顧問の先生に怒られるからって口止めされてたんだった。ま、いっか」
いいのか? 口が軽いとかそういうレベルじゃなかったぞ……。
「いいのいいの。記事に書くときにはうまく誤魔化すつもりだからさ。――んでね。その二人は部室を出て昇降口へ向かおうと少し歩いたところで、首なし用務員を見つけたわけ。暗い廊下に静かにたたずんでいたらしいよ。それを見た二人は、はじめは驚いたんだけど、やがてそのうちの片方がゆっくり近づこうとしたの。本当に幽霊なのかそうじゃないのか、確かめようとしたんだって」
「へー、勇気あるー」美夜子が感心したように言ったかと思えば、こちら側を向いて、「十香ちゃんみたいだね」
……なんでそこであたしが出てくる?
「――追いかけて、どうなったんだ?」
十香が尋ねる。杏はやや眉をひそめて答えた。
「それがね、どうも逃げちゃったみたいなの」
「え? ……逃げた?」
「そう。近くの三階渡り廊下を北校舎の方向へ走っていった……と、目撃した二人は証言しているの。追いかけようとしたけど、首なし用務員が突然走り出したことに驚いて、見失ってしまったんだって」
「近づいた途端、逃げ出した……か。案外、臆病な性格なのかな、首なし用務員ってやつは」
幽霊のくせに臆病というのも変な話だが……誰かのイタズラであるなら、それを見破られないように逃げたという可能性は考えられそうだ。
「その頃からでしょうか、首なし用務員の噂が広がり始めたのは?」
薔薇乃が言う。口を動かしつつも、視線は机の上で組んだ両手に注がれていた。会話と並行して思索を巡らせているのだろう。
「そうですねぇ。たしかに、学校で話を聞くようになったのはそれくらいだったと思います。最初の一人目の話だけでは周囲の人たちも信じようとしなかったけど、続いて二人も目撃者が出てきたことで噂の加速に火がついた……ってとこですかね? 私たち新聞部がこのことを調べ始めたのも、だいたい同じタイミングですね」
「なるほど……では、三つ目の事例について、お願いできますか?」
杏は快く応じる。
「はい。三つ目の事例……四人目の目撃者は、用務員さんです」
「用務員同士の対決だねっ」
美夜子が妙にテンションを上げて言う。対決……?
「用務員さんはいつも、九時半頃から学校中をぐるりと見回りするんです」
「わたくし、あまり詳しくないのですが……用務員の方というのは、夜間警備の仕事もなさっているのですか?」
薔薇乃の質問に、杏はかぶりを振って否定する。
「いいえ、そういうわけではありません。一日の最後に見回りをして、それを終えると、あとは機械警備を作動させてから帰るそうです。防犯センサーとか、ああいうのですね」
最近はどこの学校にもそういうセキュリティが導入されていると聞くが、この学校も例外ではないらしい。
「首なし用務員が目撃されたのは、北校舎の二階。見回りの途中、廊下の東側奥――二年A組の教室前にいるのを見つけたそうです。用務員さんは驚いて、持っていた懐中電灯を落としてしまい、それを拾い上げたときにはもう姿はなかったと」
十香が意見を挟んだ。
「そんなすぐにいなくなっちまったのか? 懐中電灯を一回落として、それを拾うまでって、五秒もかからないと思うんだけどな」
杏はにやりと笑って言う。
「だって、幽霊ならいきなり消えちゃってもおかしくないじゃない?」
「そりゃそうだろうけどよ……」
果たしてそれで納得してよいものか……。
「はいはーい、ちょっといい?」
美夜子が手を上げる。
「何だよ、美夜子?」
「首なし用務員さんがいたのは、二年A組の教室の前……ってことは、廊下のほぼ端のところだよね? だったらそれって、べつに不思議なことじゃなくない?」
「うん……?」
いまいちピンとこなかったところへ、薔薇乃が言う。
「階段ですよ、十香さん」
「かいだ……あ、なーんだそういうことか!」
気づいてしまえば簡単なことだ。廊下の東側の端、A組教室の隣には上下階への階段があるのだ。そのまま薔薇乃が代わりに説明する。
「用務員の方が懐中電灯を拾っている間に、急いで東側の階段へ駆け込めば姿は隠せますね。用務員の方から見れば、瞬時に消えてしまったように感じるでしょう」
「た、たしかにそうかもしれませんけど……」
杏は困惑したように言った。
「……岸上さんたちは、首なし用務員の幽霊が実在するとは考えていないんですね?」
「今のところはそうです。首なし用務員は超常めいた存在などではなく、人為的な細工によるものである……井手川さんのお話で、より強くそう思いました。三つの事例のいずれもが、幽霊でなくとも可能なものばかり。この段階で幽霊説を取るのは些か早計かと」
「……そうですか」
杏は少ししょんぼりとする。
「井手川さんは、幽霊が実在すると?」
「そりゃあ、そう思いたいですよ。だって、そのほうがネタとして面白くないですか?」
「面白い……? なるほど、そういう発想もありますか」
予想外の答えだったようで、薔薇乃は小さく笑った。
「それに誰か個人のイタズラだったとしたら、そんな話、校内新聞には書けないですし。誰かが悪者になっちゃうようなのはダメなんですよ」
たしかに、犯人の名前を伏せたとしても事件の顛末を書いてしまえば、その記事を見た者の中には犯人を探そうとする者も出てくるだろう。それがまた無用な混乱を招かないとも限らない。学校という限定されたコミュニティ内では、校内新聞一つが大きな影響力を持つことも充分考えられるのだ。
「……ふと思ったんだけどさ」
十香はほんの思いつきを口にしてみることにした。
「夜の学校を張り込んで、首なし用務員を探すってのはどうよ?」
「探すのはいいけどー……見つけてどうするの?」
美夜子がこちらを向いて尋ねてくる。
「そりゃあ……二、三発ぶん殴って、とっ捕まえるとか?」
「ご、豪快だね十香ちゃん……」
「ダメか?」
今度は薔薇乃が苦笑して言う。
「殴って捕まえるかどうかはともかくとして、実際にこの目で確かめてみるというのは良い案かもしれませんね。井手川さんはどう思われますか?」
杏は少し困ったような表情で答えた。
「私も興味はありますけど……新聞部としてはお手伝いできないです。東先輩も同じような提案を前にして、先生に確認を取ったんですけどね。やっぱり部活の延長で夜中の校舎に入りこむっていうのは問題があるみたいで。そういう取材をしたと後で先生たちにバレたら、新聞部の立場としてはマズいんですよ」
「色々としがらみがあるのですね……わかりました。その件についてはこちらで勝手にやらせていただきます」
「何かわかったら、こっそり教えてくださいね」
「ええ、そうします」
薔薇乃たちは杏に礼を言ってから、新聞部の部室を退出した。
「んっ……はぁ。これからどーするー?」
美夜子が両腕を上げて伸びをしながら言う。十香も、座りっぱなしで少し肩が凝っていた。
「とりあえずここから近いし、あたしらの教室に行くか。そこで具体的にどうするか決めようぜ」
三人は教室へ向かって歩きだした。窓から外の光景が見える。もうとっくに夕暮れ時だ。体感ではそうでもなかったのだが、思ったより長居していたらしい。
「――ところでさ。素朴な疑問を一ついいか?」
「なんでしょう?」
薔薇乃が返事をする。
「首なし用務員がイタズラだってんなら、実際どうやってやったんだ? 首のない人形を廊下に置いておくとか、そういうのなら簡単だけどさ。話を聞く限り、相手は動いてたんだろ?」
「そのことなら、簡単に説明できますよ。イタズラを仕掛けた張本人が首なし用務員を演じているのです。人が近づいてくるのを察知して逃げ出すあたり、そうとしか考えられません」
「じゃあ、首はどうすんだよ? 首なし用務員は首がないんだから、ただ作業着を着てるだけじゃ演じるのは無理だろ?」
「それこそ、誤魔化す方法などいくらでもあるではありませんか。そうですよね、美夜子?」
「うん。まぁ、いくつか考えられるよね」
こいつら、二人してとっくにわかってやがったのか。頭の回転でこの二人に敵うなんて思っちゃいなかったが、やっぱりくやしい……ちょっとだけ。
十香はふてくされたような顔をして、手をひらひらと振る。
「はいはい、降参だ降参。頭の悪いあたしにゃ想像もつかないね」
「あらあら。そう拗ねないでくださいよ、十香さん」
薔薇乃はにこにこ笑って、子どもをなだめるように十香の背をぽんぽんと叩く。
「拗ねてねー、よっ」
仕返しに薔薇乃の脇腹を手でつっついた。
「あっ。もう、くすぐったいです」
薔薇乃は口元を隠しつつも愉快そうに笑う。美夜子もそのやり取りを見ながら楽しげにしていた。
「にゃははー。十香ちゃんと薔薇乃ちゃん、すっかり仲良しだねぇ」
「……なぁ美夜子。今のが仲良いように見えたのか?」
十香はやや呆れて言う。
「うん。なんかもう、長年の付き合いって感じ?」
「んな馬鹿な……」
初めてまともに会話したのだって、ほんのひと月前だぞ。それを言うなら、美夜子だって同じだけどさ……。
「あーもー……いーから早く教えてくれよ。首の部分はいったいどうやって誤魔化したんだ?」
薔薇乃は宙に人差し指を立てて、説明し始める。
「いくつか方法は考えられますが、おそらく……作業着を頭まですっぽりと被っていたのだと思いますよ」
「頭まで……?」
「着ぐるみと同じです。自分の体格より一回り大きい作業着を用意して、自分の頭が、作業着の胸元のあたりへ来るように着込む。そうしておけば、視界は作業着前面の合わせの間から確保できます。あるいは遠目にはわからないよう、視界確保用の小さな穴でも開けていたのかもしれません。予め、首元から胸のあたりには血糊を付着させておいたのでしょうね。もちろん、怖がらせる演出のために」
「はー……なるほどな」
それなら、首がないように見せかけることも可能だ。
「……でもさ、頭を隠すためとはいえ自分の身体より一回りも大きいサイズの作業着を着てたら、肩の辺りなんかブカブカですぐバレちまうんじゃないか?」
「それを隠すために、これが使われたのではないかと」
薔薇乃はスカートのポケットから、屋上で見せたあの綿の切れ端を取りだした。
「十香さんのおっしゃるとおり、大きな作業着で頭まで覆い隠すわけですから、あちこちに隙間ができて外見に違和感が生じてしまいます。ですから、その隙間に綿を詰めておいたのではないでしょうか? 暗がりで見せる分には違和感ない程度の仕上がりになるでしょう。……身動きには、少し苦労しそうですけど。上半身はそれでいいとして、下半身は裾を折り曲げておけば丈は誤魔化せますね」
「……お前も同じ考えか?」
十香は美夜子のほうを見て尋ねる。
「うん、大体一緒かな?」
この段階で、そこまで推測できるもんなのか……やっぱりこいつら、ちょっとおかしいな。
「とはいえ」薔薇乃が言う。「今の話はあくまで参考程度にお考えください。この綿にしても、推理を裏付けるだけの決定的な証拠とまでは言えないでしょう」
十香はふと思い出して、質問する。
「そういや、その綿切れはお前の制服にくっついてたんだったよな。じゃあやっぱり、気絶したお前を渡り廊下から校舎内の廊下に運んだのは、首なし用務員ってことになるのか?」
作業着の隙間からはみ出していた綿が、たまたま薔薇乃の制服にくっついたのだろうか。
「今の推測に則るのなら、そういうことになるのでしょうけれど……」
「薔薇乃ちゃんを運んだ理由までは、ちょっとわからないねー」
さすがにそこまでは、この二人にも無理か。
「――でも、なんかワクワクするなー。夜の学校探検だなんてさ」
美夜子が言うのを見て、「遠足前日の小学生」、というフレーズが頭に浮かんだ。
「探検じゃなくて、見張りだろ。首なし用務員を見つけるための」
「あはっ、そーだった!」
「でも、大丈夫かねぇ。うちには怖がりさんがいるからなぁ、また気絶しなきゃあいいけど」
十香は薔薇乃を見て意地悪く笑う。薔薇乃はぎくりとした様子で、
「うぅ。またそのことを……もうっ、十香さんはいけずです……」
「だいじょーぶだよ。今度はあたしたちもいるんだし、ね?」
美夜子の言葉に、薔薇乃は力強く頷いた。
「そ……そうですとも。一度目は不覚を取りましたが、今度はそうはいきません」
「へへっ、それならいーけどよ」
三人で話ながら歩いているうちに、二階の十香たちの教室の前まで来ていた。
「ん……?」
十香は目をこらして、廊下の向こう側を見た。
「どうしたの?」
美夜子が言う。
「いや……向こうから歩いてきてる、あの人。なんか見覚えあるような気ぃすんだよな……」
と、向こう側を指さす。窓のほうを見ながらこっちに歩いてきている男は、教師にしては雰囲気がだらしない。男はふと気づいたように、十香たちのほうへ顔を向けた。
「あっ」
男はぎくりとしたように立ち止まる。
「えっ……うそっ! なんでセンセーここにいるの!?」
美夜子が驚いて言う。そりゃそうだ、あたしだって驚いた。
「ああいや、ちょっとワケありでな……」
鳥居伸司は気まずそうに頬を掻きつつ言った。この探偵はいつも同じような恰好をしているが、今日も彼のお気に入りらしいカーキ色のモッズコートを着ている。
「お久しぶりです、鳥居さん。お仕事だと伺っていましたが、もしやこの学校で?」
薔薇乃の疑問に――というよりは、薔薇乃がそこにいたことに伸司は意外そうな顔をした。
「岸上……ああ、そっか。お前ら学校じゃ仲良いんだったな。まぁ、そういうことだ。ここの理事長とは知り合いでな、ちょいと仕事を頼まれたんだよ。だからこうして学校の先生のふりをしながら、調査してるというわけだ」
「えー!? なんでそのこと言っておいてくれなかったのー?」
美夜子が思いっきり不満げに言う。
「わ、わりぃ。説明しなかったのは、謝る。でも俺も迷ったんだよ。だって、話したら絶対に首突っ込みたがるだろ、お前」
「むぅ……いーじゃん、べつにー。仕事って、学校に関係あることなんでしょ? だったら、あたしにだって手伝えるかもしんないし……」
そう言って、美夜子は口を尖らせる。伸司は困ったように笑いつつも、珍しく真面目な口調で返した。
「そう思ってくれるのは嬉しいさ。でも……いつも言ってることだけど、お前には俺の仕事にあんまり関わってほしくないんだよ。迷惑だからとかそういうんじゃなくて、お前のためにな。この仕事を続けていれば危ない目に遭うことだってあるし、知らなくていいようなことまで知っちまうことだってある。そういうのは、お前にはまだ早いし……似合わねぇよ。まぁ、今回はそういうヤバい依頼じゃないけど、きっちり線引きはしておきたいんだ。仕事の内容次第で例外を作りたくない。……な、わかるだろ?」
「わかんない……」
「美夜子」
「……じゃあ、ちょっとだけ」
美夜子は落胆したような声で言う。納得したわけではないが、一応は伸司の言い分を呑むということらしい。
十香の心情としては美夜子の味方をしてやりたいところだったが、伸司の言いたいことも充分わかるだけに、反論はできなかった。伸司は自分の仕事に、できるだけ美夜子を関わらせたくないと思っているのだ。それが簡単で安全な依頼だったとしても、一度手伝わせてしまえば、それが何かを変えてしまうかもしれないと。考え方としては、十香たちの前ではナイツのことを話そうとしない薔薇乃と、似たようなものなのだろう。
だから、伸司の言うことは理解できる。あたしだって、美夜子が危険なことに手を出そうとするなら、その時には必ず止めるはずだ……友人として。――まぁ、もしもの話であって、そんなことにはならないだろうけど。
互いにぎこちなさそうな伸司と美夜子を見て、なんとなくいたたまれなくなった十香は、とりあえず話題を切り替えることにする。
「――でさ、理事長から頼まれた仕事ってなんなわけ? それくらいは教えてくれるんだろ?」
「ん? あ、ああ、それか。話してもいいが……笑うなよ?」
「うん? なんだよ、気になる言い方して。さっさと話せよ」
伸司はため息をついて、頭を掻く。
「お前らには一昨日ちょっと話したけど……幽霊だよ。首なし用務員っていうらしい」
「え……」
「生徒の間で騒ぎになりつつあるから、無用の混乱を防ぐためにも、原因を突き止めてなんとかしろーって言われてな? そんなもんどうすりゃいいんだって感じだよ。まぁ、新聞部の連中がそのことを調べてるって聞いたんで、ちょいと話を伺おうと今その部室に向かってるところだったんだ。たしか、こっちの校舎の三階だったと思うんだが……合ってるか?」
「あ……ああ。合ってる……けど」
またしても驚いた……こんな偶然があるもんなのか。美夜子も――薔薇乃でさえ、呆気にとられている。伸司もそれぞれの反応を見て、違和感を覚えたようだった。
「……どした? 俺、なんか変なこと言ったか?」
十香は苦笑いを浮かべながら、答えた。
「いやぁ……あたしらもちょうど、その話を聞いてきた帰りなんだよね」
伸司が理事長から依頼された仕事は、首なし用務員の真相究明……図らずもそれは、十香たちの目的と全く同じだった。
「はーー……マジか。あるんだなぁ、こんなことが……」
一通りの事情を聞いた伸司も、さすがに驚き呆れたらしい。
「ところで、鳥居さん?」
薔薇乃が澄まし顔で言う。
「これはわたくしたちが独自に、調査を始めたものです。美夜子はわたくしに協力してくれているだけで、鳥居さんのお手伝いをしようとしたわけではないことは、ご理解いただけますね?」
遠回しな言い方だったが、つまり薔薇乃は「こっちで勝手にやってることだから邪魔はするな」と言いたいのだろう。伸司は苦笑しつつ、肩をすくめた。
「やれやれ……わかったよ。そういうことなら、俺に口出す権利はないな。好きにしろ」
薔薇乃は満足そうに頷く。
「それでは、改めて協力関係を結ぶということでどうでしょう? 同じ目的を持つ以上は互いに情報を交換したほうが、より効率的に調査を進められると思うのですが」
「ああ、そりゃあまぁ、構わないんだが……」
なぜだか、伸司の歯切れが悪い。
「なにか問題がありますか?」
「まず、俺は今日から調査を始めたばかりなんだ。昨日は理事長から話を聞くだけで終わっちまったからな。だから、正直言って詳しいことはまだ何もわかっていない。新聞部から話を聞いてきたお前らのほうが、この件に関してはよっぽど詳しいはずだ。それに実は、俺は今すこーしばかり手間のかかりそうな別件を抱えててな。幽霊にばかり構ってられない状況なんだ。一応調べは進めてみるつもりだが、そっちの案件が片付くまでは、あまりお前らの役には立てないかもしれないぞ」
「……なるほど。それでは、あまり期待はしないでおきましょう」
「はっきり言うよなぁ……。まぁ、別件のほうは明日には片がつくと思う。それからは俺も幽霊調査に専念するよ」
「わかりました。しかし……その頃にはもう、わたくしたちで解決してしまっているかもしれませんよ?」
「はは。そうなってくれたら、俺は手間が省けて助かるね」
薔薇乃は冗談めかして言ったが、案外、本当にそうなるかもしれない。こちらには薔薇乃と美夜子の二人がいるのだから、不可能ではない……と思う。
「あ、そうそう。それとだな」
伸司は思い出したように付け加えて言う。
「夜の校舎の見張りだけど、俺がやっておくよ。俺もそれは考えてて、もう理事長にも話を通してあるんだ。だからお前らは早く帰んな。外はもう暗くなりかけてるぞ」
「そうですか……少し残念なような気もしますが、そういうことであればここは鳥居さんにお任せしましょう」
「待って」
さっきから黙っていた美夜子が口を開いた。
「やだ。……なんで、そんなことまでセンセーに決められなきゃいけないの?」
少し、驚いた。あの美夜子がそんな棘のある物言いをするとは……それも、伸司相手に。伸司はややたじろいだように見えたが、答える。
「なんでって……生徒をそんな時間まで残らせてたら、俺が理事長に怒られちまうよ。それに学校の中と言ったって、用務員のおっさん意外にゃ誰もいないような夜中なんだ、何が起こるかわかんねぇだろ。予想通り幽霊のイタズラを仕組んだやつが現れたとして、そいつがどういう人間かもまだわからないんだし……もしものことを考えたら、俺のほうが適任だ」
「……だからって、勝手に決めてほしくない。センセーは、あたしたちの保護者じゃないでしょ? なんの関係もないじゃん」
伸司はさすがにむっときたようで、やや強い口調で言う。
「あのなぁ……そんな言い草はないだろ。俺はただお前らを心配してるだけだ。俺にあれこれ言われるのがそんなに不満か?」
美夜子はうつむいて、黙り込んでしまう。……なんだか、嫌な空気だ。十香は、なにか言って仲裁するべきか、とも考えたが――その前に美夜子が動いた。
「……もういい。つまんない」
「あっ、おい……」
美夜子は踵を返すと、伸司の声を無視して、廊下を逆方向に歩き出す。
げっ、マジかよ――十香は咄嗟に薔薇乃へと目配せした。薔薇乃は小さく頷き、
「美夜子っ、待ってください」
階段の方向へ消えていく美夜子の後を追いかけていった。廊下には、伸司と十香だけが残される。
「……ちょっと、偉そうに言い過ぎたか」
伸司は頭を掻きつつ、疲れ果てたように壁にもたれかかった。
「――嫌になるよなぁ。つい、説教みたいになっちまった。そういうのは柄じゃないってのに……」
いつになく沈んだ様子の伸司を見て、十香はあえてからかうように言う。
「あれれ? もしかして、結構ショックだった?」
「っ……そんなんじゃねーよ」
伸司は十香から視線を外して、ぶっきらぼうに言う。美夜子もそうだけど……こっちもだいぶ、わかりやすいよなぁ。
美夜子はきっと、伸司から子ども扱いされるのが嫌だったのだろうと思う。伸司から自分の仕事に関わってほしくないと言われたのも、美夜子からすれば、距離を置かれたようで面白くなかったのかもしれない。まぁ、楽しみにしていた夜の学校探検がなくなったから、というのも大いにあるのだろうが。結局のところ――、
「あいつ、拗ねてるだけだって。気にすんなよ」
十香は横から、伸司の肩を軽くグーで叩いて言った。
「……わかってるよ。あいつは、まだまだ子どもなんだ。だから……」
伸司はその先を言わなかった。彼が飲み込んだ言葉は、なんだったのだろうか。伸司は大きくため息をつくと、気を取り直したように頭を上げ、十香に笑いかけて言った。
「――わりぃな。あいつの機嫌、直してやってくれるか?」
「……へへっ、しょーがねーなぁ。一つ貸しだぜ?」
得意げにそう言ってから、十香も美夜子たちの後を追いかけていった。
十香、薔薇乃、美夜子の三人は、学校近くのファミレスに来ていた。美夜子とゆっくり話すために、十香が半ば無理やりに連れ込んだのだが……。
「――あぁーーーー…………もぉ、なんであんなこと言っちゃったんだろう……」
美夜子はテーブルの上に突っ伏して、死にかけのような顔をしていた。十香や薔薇乃が何か言うまでもなく、これである。
「……思ってたのと違うけど、これはこれでめんどくさそうというかなんというか……なぁ、どうする?」
十香はやや困ったように、右隣に座る薔薇乃へ言った。十香たちが使っているのはボックス席で、二人の向かい側に美夜子が座っている。薔薇乃はしばらく美夜子を見つめて、ぼそりと呟く。
「……気落ちしている美夜子も、また愛らしいですね」
だめだ、こいつにまともな感性は期待できない。仕方ない、ここはあたしがフォローしてやるか……。
「なぁ美夜子。そう落ち込むなって。鳥居のおっさんだって、そこまで気にしちゃいねぇよ」
――本当のところはどうなのか知らないが、本人がそう言っていた。
「……センセーの言ってることが正しいって、あたしだってわかってた。でも、なんかイライラしちゃってあんなこと……」
美夜子はテーブルに伏せて顔を横に向けたまま、大きなため息をつく。
「……あたし、嫌われちゃったかな」
十香は「ふー」と大きく一呼吸。そして美夜子の額に、デコピンを食らわせた。
「あいったぁ!?」
テーブルから飛び起きて額を押さえる美夜子。何が起こったのかわからない、というふうに目をぱちくりさせつつ十香を見る。
「……ったくよぉ、アホかおめーは?」
十香は呆れた口調で言う。
「落ち着いてよーく考えてみろよ。あのくらいの口喧嘩で、嫌われるもなにもねぇって。つーか、普通そうだろ。あたしだって、もう並大抵のことじゃあお前のこと嫌いになったりしねーよ。これっぽっちのことでぐだぐだと……気にしすぎなんだよ、このバカ」
「うぅ……」
「それともなにか? お前とあいつの仲って、その程度のことで揺らいじまうもんなのか? そんなに薄っぺらい信頼関係だったのかよ?」
「…………それは、違う……と思う」
どうしてそこで言い切らないかなぁ……。ま、こんなもんで充分か。
「じゃあ、なーんにも心配する必要ないじゃん? お前はさぁ、自分と、自分が築いてきたものに、もっと自信持っていいんだよ」
「十香ちゃん……」
「――ま、どうせ明日も学校で会うだろうし、そんときにでも謝ればいいんじゃねーの? それですぐ元通りになるよ、きっと。うん、あたしが保証してやる!」
「……そう、だね」
美夜子は安心したように言ってから、にっこりと微笑んだ。
「うん、そうするっ。……ありがとね、十香ちゃん!」
「へへっ、今のはちょっと先輩っぽかったろ?」
十香も元気を取り戻した美夜子の姿を見て一安心する。美夜子は次に薔薇乃のほうへ向かって言った。
「薔薇乃ちゃんもごめんね。なんか、気を遣わせちゃって」
薔薇乃は優しげに微笑む。
「気を遣ってなどはいませんけれど、そうですね……落ち込んだ顔もわたくしは嫌いではありませんが、やはりあなたは、笑っていた方が素敵だと思いますよ」
それを聞いて、十香は茶化すように言った。
「んまぁー、よくそんな恥ずかしい台詞がすいっと出てくるもんだね」
「ふふっ……それを言うならあなただって大概でしょう、十香さん?」
「うっ……」
言われてみれば、わりと恥ずかしいこと言ってたかも……。
「と、とりあえず、なんか頼もうぜ」
誤魔化すように言って、十香はメニューを開く。それを美夜子の方からも見えるように、間に横向きにして置いた。
「――あ、そういや美夜子。夕飯いらないって連絡しておかなくていいのか?」
十香は思い出したように美夜子へ尋ねる。
十香の父は平日だというのに今日も飲み会で遅くなるらしく、夕飯は弟と二人で済ませることになっていた。そういう日には、部活で帰りが遅い弟の分だけ弁当を買っていけばいいので、十香は遠慮なく外食できる。
薔薇乃のほうも――詳しくは知らないが――、それなりに自由な生活のようなのでこちらも問題ないだろう。
しかし、美夜子のほうは家で夕飯の用意があったのかもしれない。だとしたらいきなりファミレスへ連れてきたのはマズかっただろうか――と思っていたのだが、美夜子は平気そうな顔で答えた。
「だいじょーぶ! 今日は家の人お仕事で遅いから、お弁当でも買って帰るつもりだったんだ」
「そっか。ならよかった」
……安心したところで、ふともう一つの疑問が湧いてきた。そういえばあたしは、こいつの家庭のことって何にも知らないんだよな……。親はどんな仕事をしてるのかとか、兄弟姉妹はいるのかとか、そもそも街のどのあたりに住んでいるのかということすら、あたしは知らない。あ、でも、前にマンション住まいだということは聞いたような気がする。ペットは禁止って言ってたから、たしかそうだ。
「…………」
急に考え込んでしまったせいか、美夜子が気づいて言う。
「どうかした? 十香ちゃん」
「――ああいや、なんでもねぇ。ほら、なに頼むんだ?」
そう言って、メニューを見るよう促した。
まだ知り合ってひと月だし、お互い知らないことがあってもおかしくはない……が、もしかしたら、美夜子にとってはデリケートな話題で、あまり話したくないのかもしれない。それも考えすぎで、訊いてみたら案外簡単に教えてくれるのかもしれないけど。――まぁ、どちらにせよ、今すぐそれを知る必要があるってわけでもなし。そのうち適当な機会はあるだろう。
「あ、カレーがある! あたしこれにするー」
美夜子はメニューにある写真を指さしながら声を弾ませる。
「んー……じゃああたしも同じのでいいや」
「ではわたくしもそれを……あっ」薔薇乃はカレーの写真を見て何事か眉をひそませた。「このカレーは……ダメですね。こちらにしておきます」
と言って、メニューの端のほうにある和風パスタの写真を指さす。
「ダメってなにが? ふつーにうまそうじゃん」
「そのカレーはダメです。……人参が入っているので、ダメです」
「えぇ……」
そういうキャラなの、キミ?
「ま、まぁいいや。じゃあ注文するから、ボタン押してくれ」
店員呼び出し用のボタンが薔薇乃の側にあったので頼む。するとなぜか薔薇乃は十香を見返して、不思議そうな顔をした。
「……?」
「……?じゃねぇよ! それ、ボタン!」
十香はわざわざそれを指さして言った。
「……ああ!」薔薇乃はやっと合点がいったように両手を合わせる。「そうそう、これを押すのでしたね。ふふっ、失礼しました」
愉快そうに笑いながら、薔薇乃は呼び出しボタンを押す。
「……おいおい、やめてくれよ? 漫画のお嬢様キャラじゃあるまいし……まさかファミレスに来るのは初めて、なんて言わねぇよな?」
「初めてではありませんよ。今までに二回も、来たことがあります」
薔薇乃は自信満々に二本指を立てる。たった二回かよ。
「その二回とも魅冬(みふゆ)さんに連れられてのことだったのですが、それももう何年も前のことだったので……つい」
「ついって……」
さっきからそわそわしていたように見えたのはそのせいか……。普段どういう店に行くのかは知らないが、まぁ、ファミレスがこれほど似合わない人間というのも珍しい。コンビニなんかも行きそうにないな。
魅冬というのは、薔薇乃の親友である御堂魅冬(みどうみふゆ)のことだ。薔薇乃と同じく十香のクラスメイトだったのだが、ひと月前の騒動の後で学校を中退、今は海外のどこかで暮らしているらしい。そのうち帰ってくるつもりではあるようだが、それがいつになるかはまだわからないとのことだ。
やってきた店員に注文を伝え、あとは料理が運ばれてくるのを待つだけになった。
「美夜子。食後にデザートなど、いかがです?」
薔薇乃はメニューを見ながら、美夜子へ尋ねる。メニューのデザートの項目には各種ケーキにパフェに冷やしぜんざいと、豊富な品目が並んでいる。美夜子は一瞬目を輝かせたが、すぐに悩むような表情になった。
「うーん……今あんまりお金ないしなぁ……」
「それくらい、わたくしが出しますよ」
「えっ、ほんとに!? いいの? そんなこと言われちゃったらあたし、遠慮しないよ!?」
美夜子が興奮気味に言うと、薔薇乃はにこにこ顔で頷いた。
「いいですとも。二つでも三つでも四つでも、どんどん頼んでください。なんなら、全品コンプリートしていただいても」
「いや、さすがに一つでいいけど……でもありがとー! えへへ、なんにしよっかなぁ……」
美夜子は子どものような無邪気さでメニューを眺め始めた。二人のやり取りを横から見ていた十香が、薔薇乃へ向かって言う。
「お前、美夜子のことはやたらと甘やかすよな……孫とおばあちゃんみたいになってんぞ」
「あら、十香さんも頼んでくださって結構ですよ?」
「いやあたしはいいよ、べつに……。甘いものって気分じゃないし」
薔薇乃は微笑して、テーブルの上にあった十香の右手をそっと握る。
「そんなに心配せずとも……わたくし、美夜子と同じくらい、十香さんのことも好きですよ?」
「いつ誰がそんな心配したよ!?」
手を払いのけてツッコむと、薔薇乃は口元を隠しつつクスクスと笑った。まったくこいつは……すっかりあたしのことを、からかってもいい対象として認識してやがる。……まぁいいけどさ。
十香たちは食事を一通り終えて、最後に、美夜子の頼んだチョコレートパフェが運ばれてきた。
「えへへー、ごめんね二人とも。あたしだけいただいちゃってー」
美夜子はスプーンを手に取りつつ、満面の笑顔で言う。
「気にせず召し上がってください」
薔薇乃はテーブルの上に両肘を立てて、組んだ手の上に顎を乗せ、楽しげに美夜子を眺めている。
「わたくしは美夜子がおいしそうに食べているところを見ているだけで、幸せな気分になれますから」
「ほんとにおばあちゃんみてぇなこと言うな、お前……」
十香は頬杖をついて、呆れながら言った。美夜子にはデザートを勧めておきながら、自分は少食だからと言って注文しないあたりもなんだかそれっぽい。美夜子はものを美味そうに食べるから、気持ちはわからないでもないが。
「十香ちゃん、一口食べる?」
美夜子がパフェからアイスの部分をすくい取って、スプーンの先を十香に差し向けようとする。
「い、いや、あたしはいいって!」
前にも美夜子に同じことをされた記憶が脳裏をかすめて、こそばゆい気持ちになった。あれはさすがに……。
「そぉ? じゃ、薔薇乃ちゃん食べるー?」
「よろしいのですか? では、一口だけ――」
と、薔薇乃が言いかけたとき、彼女の携帯がスカートのポケット内で振動する。電話のようだ。
「失礼……」
薔薇乃は携帯を取りだして、電話の相手を確認すると、僅かに眉をひそませた。一つため息をついてから、電話に応じる。
「はい。…………その件ですか。わかりました。すぐにかけ直します」
それだけ言って、薔薇乃はすぐに通話を打ち切ってしまった。
「どうした?」
十香が尋ねる。薔薇乃は鞄を持って席から立ち上がり、惜しむように答えた。
「残念ながら、仕事が入ってしまいました。今日までは休暇のはずだったのですが……タイミングが悪いですね」
やれやれ、とでも言うように小さく首を振る。そして、テーブルから伝票を取った。
「途中退席のお詫びとして、会計はわたくしが済ませておきましょう」
「えー? 薔薇乃ちゃん、帰っちゃうのー?」
美夜子が残念そうに言う。薔薇乃は美夜子へ微笑みかけて、
「最後までお付き合いできず、申し訳ありません。今日は楽しかったですよ。……それでは」
美夜子と十香にそれぞれ一礼してから、薔薇乃はレジカウンターのほうへと向かって行った。食事代が浮いたのはラッキーだったが、薔薇乃のことは少し気になる。
「休暇中なのに仕事ねぇ……やっぱ忙しいんだな、あいつ」
ナイツの支部長とのことだから、当然か……。学校と裏稼業の二重生活では、かなりしんどそうだ。学校のほうはちょくちょく休んでいるので、忙しいときにはナイツでの仕事を優先させているようだが。
「……あれ?」
十香がふと視線を下に向けると、薔薇乃の座っていたシートの上にハンカチが落ちているのに気がついた。薄紅色のハンカチだ。手に取ってみると、手触りからしてそこそこ良いものだとわかる。
「薔薇乃ちゃんの忘れ物?」
美夜子がスプーンを口に咥えながら言う。
「そうだろうな」
携帯を取りだしたときにでも、ポケットから抜け落ちたのだろうか。既に薔薇乃は店を出ていったらしく、姿が見えなくなっていた。
「しょうがねぇな……ちょっと追いかけて渡してくるわ。今ならまだ間に合うだろ。お前はゆっくり食ってていいぞ」
「わかったー」
十香は店を出てすぐに、辺りを見回す。歩道をまばらに人々が行き交っているが、薔薇乃の姿は見えない。もうどこかへ行ってしまったのか……そう思って踵を返しかけると、店の脇の方に狭い路地があるのに気がついた。――いた。その少し奥まったところに、薔薇乃は壁を背にして立っている。
声をかけようとしたが、薔薇乃が電話の最中であることに気づいてやめた。そういえば後でかけなおすと言っていたか。おそらく仕事についての話で、誰かに聞かれないようにわざわざこんな場所に移動したのだろう。
盗み聞きして下手に関わり合いになるわけにもいかないので、十香は路地外側のやや離れた場所で待機し、薔薇乃の電話が終わるのを待つ。少し前なら、待つ間に煙草の一本でも吹かしたのだろうが……もうライターは捨ててしまった。時折、口寂しくなって後悔したりもする。
時刻は七時を過ぎており、もうとっくに空も暗い。
「さむっ……」
さすがに十月半ばともなれば、夜は冷える。十香は腰巻きにしていたカーディガンをほどいて、羽織るように着込んだ。
「――お待たせしました」
「うぉわっ! びっくりした!」
横合いからいきなり声をかけられて、十香は心臓が飛び出そうになった。少し目を離していた間に、薔薇乃は電話を終えていたようだ。
「な、なんだよ……あたしに気づいてたのか?」
「姿が見えていたので。何かご用でしたか?」
「これ、忘れてたぞ。ポケットから落としたんじゃないか」
ハンカチを薔薇乃へ渡すと、彼女は驚いたような反応をする。
「まぁ……気づきませんでした。ありがとうございます。なくしていたら大変なことでした……これは、大事なものなのです」
「そうなのか? ……高いの?」
「いいえ、さして高級なものではありません。ただ、これは……魅冬さんからいただいたものなので。もう何年も前になりますが」
「ああ、そういうことね」
親友からの贈り物なら、大切にするのもわかる。
「わざわざありがとうございます。では――」
「あ、ちょっと待った」
立ち去ろうとした薔薇乃を呼び止める。
「なにか?」
「あー、いや。なにかってわけじゃないんだけどさ。お前……大丈夫なの?」
「……大丈夫、とは?」
薔薇乃は不思議そうな顔をして尋ね返す。十香は髪を掻きつつ、
「御堂はお前んとこのナンバーツーだったんだろ? それがいきなりいなくなったんだから、やっぱり……その、大変なんじゃないのか?」
薔薇乃の表情に、僅かに警戒するような気配が現れた。
「……なぜ、あなたがそのようなことを気にするのですか?」
「お前の体調を心配してるだけだよ。他意はねぇぞ」
「わたくしの……?」
薔薇乃は納得がいったというように、微笑する。
「なるほど、そういうことでしたか。ご心配には及びませんよ。自己管理くらいはしていますから」
「そっか。ならいいんだけどよ……」
「ええ、お気遣い感謝します」
そう言ってから、薔薇乃は少し考えるようなそぶりを見せる。
「どうした?」
「……こちらへ来ていただけますか?」
薔薇乃がまた路地のほうへ入っていくので、十香はそれに合わせて移動した。薔薇乃は電話をしていたあたりで立ち止まる。
「……少しだけ、秘密の話をしましょう」
薔薇乃は十香へ振り返り、僅かに声のトーンを下げて言った。右手の人差し指を唇の前で立てて、
「今からお話することは、他言無用でお願いします。もちろん、美夜子にも。……約束していただけますか?」
「え……? あ、ああ、いいけど」
薔薇乃が珍しく真剣な口調で言うので、十香はやや戸惑いながらも承諾した。薔薇乃はゆっくりと話し出す。
「お話というのは、わたくしの所属する組織……ナイツについてです」
「お前からその話を持ち出してくるって、珍しいな……もしかしてさっきの電話、なんか関係あんのか?」
「ええ、細かな事情は省きますが……少々、厄介なことになりそうなのです」
「厄介って……ひと月前の、あのときよりもか?」
「……おそらくは」
薔薇乃の表情からは、いつもの余裕は感じられない。深刻な事態……なのだろうか? 薔薇乃は壁に寄りかかりつつ、視線を落として言う。
「もしかしたら……近いうちに、皆さんとは会えなくなるかもしれません」
「えっ……?」
予想もしていなかった言葉に、十香は戸惑った。
「会えなくなるって……どういう意味だよ? そっちの仕事が忙しくて、学校に行ってる場合じゃなくなるかもしれない……ってことか?」
「それも、ありますが……」
薔薇乃は続きを言おうとしなかった。本来その先に続くはずだった言葉は、なんとなくではあるが十香にも理解できた。
「……なんで、それをあたしに?」
「……なぜでしょう。わたくしにも、正直よくわかりません」
薔薇乃は肩をすくめた。
「ただ……思うのです。もし、わたくしが突然いなくなるようなことがあっても、決してわたくしを探そうとはしないでください。いっそ、岸上薔薇乃という人間がいたということも、忘れるべきでしょう。そのほうがきっと、あなたや美夜子にとって幸せな選択のはずです」
「……なるほど。美夜子に言うなっていうのは、それで納得してくれるとは思わなかったから……か? あいつ結構頑固なところあるからな。だからあたしだけに話した……そんな感じ?」
「まぁ、そのようなところです」
十香はハッ、と小さく笑った。
「お前さ……ちょっとあたしを買いかぶりすぎだよ」
「……? どういう、意味でしょう?」
「あたしはお前が思っているほど、ものわかりのいい女じゃないってこと。大体さ、友達からそんなさびしーこと言われて、はいわかりました、なんて答えられるわけねぇだろ?」
薔薇乃は意外そうに、目を少しだけ見開いた。
「友達……わたくしのことを、友達だと?」
「なんだよ、ちげーってのか? あたしはそう思ってたんだけどな」
「……しかしわたくしは、あなたが想像している以上の外道ですよ? 犯罪を切り売りする組織の幹部……それがどういう人種であるかは、あなたにだってわかるはずです。人を殺した数も……数えているわけではありませんが、両手両足の指を合わせても足りないことは確かでしょう。そして、それを後悔したこともない。そんな人間を、あなたは友達と呼べるのですか?」
「…………」
十香は薔薇乃の目をじっと見据えた。笑っているようで、怒っているようで、悲しんでいるようにも見える曖昧な表情。そこから感情を読み取ることはできない――が、言葉に迷いはしなかった。
「結局、どっちなんだ?」
薔薇乃はきょとんとする。
「……はい?」
「お前の気持ちはどうなんだよ。今更そんなこと言い出して……お前は、あたしらと縁切りたいのか?」
薔薇乃はやや狼狽えたように視線を落として、
「そ……そういうわけでは、ありませんが……」
「じゃ、べつにいいじゃねーか。何の問題もねぇよ」
「べつにいい、って……」
「たしかにお前は世間一般的に見りゃ、極悪人で大犯罪者なんだろうよ。でも、夕桜中央二年の岸上薔薇乃って人間……それだって本当のお前なんだろ? だったら、あたしにとってはそれで充分だ。良いヤツだからとか悪いヤツだからとかそんなんじゃなくて、一緒にいると楽しいからつるんでんだよ。友達なんてそんなもんだろ、お前は難しく考えすぎなんだよ。美夜子だって、そんな感じだと思うぞ」
「そ、そうでしょうか……?」
「そうだよ。だからお前は、あたしの友達だ。わかったら、これ以上ごちゃごちゃ抜かすな。いーか?」
薔薇乃は呆気にとられたような反応だったが、やがて――、
「……はい」
そう言って、微笑んだ。
「……なんだか、不思議な心持ちです」
薔薇乃は空を仰ぎ見るようにして話す。
「今までわたくしには、魅冬さん以外に友達と呼べるような相手はいませんでした。深い付き合いになれば、相手にわたくしの素性がバレてしまう可能性も高まってしまいますから」
学校では人当たりが良くファンも多い薔薇乃だが、一方では、近寄ってくる相手とは常に一定の距離感を保ち続けるようにしてきたのだろう。
「それならわざわざリスクを冒して学校に通う必要もなかったのではないか、とお思いになるかもしれませんね。ナイツの仕事の傍ら高校へ通うようにしたのは、元は魅冬さんが提案したことだったんです。『女子高生をやれるのは今だけなんだから、やらなきゃ損』、なんてことを言っていましたっけ……。彼女に流される形になりましたが、そうしていて良かったと今では思います。あなたや美夜子と出会えたことも、わたくしにとっては大きな収穫の一つでした」
「……そっか」
なんというか――まるで、別れの挨拶みたいだ。近いうちにくるかもしれない、その時のために――機会を失ってしまうその前に、薔薇乃は伝えておきたかったのかもしれない。
「――あ、あのさ」
十香は何か言っておきたくて口を開いた――が、今度は言葉が見つからない。誤魔化すように頭を掻きつつ、結局、ありきたりな台詞を選んでしまう。
「……なんかあったら、相談しろよ。そりゃまぁ、お前の仕事に関係するようなことはさすがに無理だけどさ……友達として手伝えることだったら、なんでもするぞ」
「なんでも、ですか……ふふっ」
薔薇乃は、何か面白いことを思いついたかのように妖しく嗤う。
「……それは、本当に?」
「えっ? ちょ……っ」
薔薇乃はいきなり詰め寄ってきて、十香を壁際に追いつめる。
「なっ……なになになに!? なんだよっ、急に!?」
背中が壁に接触するまで追い込まれて、十香は慌てた。十香の顔があるすぐ横で薔薇乃は壁に手をつき、顔を寄せてくる。
「なんでも、ということであれば……こういうことのお手伝いも、していただけるのでしょうか?」
「こ、こういうことって……お前っ……」
今更、改めて思い知らされる――薔薇乃は、美夜子にだって引けを取らないほどの美少女だったということを。彼女の顔立ちは、一種の芸術品と言っても過言ではない。目鼻の造形だけでなく彼女自身の持つ気品と妖しさ、それらが合わさって、同性でさえ思わずどきりとしてしまうほどの奇跡的な美しさを成り立たせている。その顔が、十香の頬に吐息のかかるほど、近く寄せられていた。
薔薇乃は十香の耳元で、囁くように言う。
「十香さんなら、わかっていただけますよね……? 魅冬さんがいなくなってからというものの、時折、寂しくてたまらないのです……」
「え……えぇ……?」
こ、こいつ……マジで言ってんのか……? 十香はどぎまぎしながらも、なんとか答えた。
「あ……あたしは、『友達として手伝えることなら』、って言ったんだ! そういうの、友達の範疇超えてるって!」
「そうでしょうか? こんなことは、ただの遊びでしょう? 仲良しの友人同士ならば、よくあることですよ」
「よ、よくあってたまるかぁ! 気軽に常識をねじ曲げやがって……。大体、あたしにそっちの趣味はないかんな!」
「ふふっ……問題ありません。それはきっと、知らないだけ。知らないのなら、わたくしが教えて差し上げます。それに、十香さんにはそちらの素質もあると思いますよ?」
「そちらってどちらだよー!?」
だめだ、まったく話が通じてない!
「大丈夫、なにも心配いりません……」
薔薇乃は微笑しつつ十香の肩に手を置き、撫で上げるように動かしていって、首筋をなぞる。
「あっ……」
ぞわりとした感触に、思わず身悶えしてしまう。薔薇乃の冷たい指が、十香の耳元から顎の下までを撫でるように動かされる。それは、ペットの犬や猫を飼い主が可愛がる動作によく似ていた。
「こんなに顔を赤くして……まるで、熟れかけの林檎ですね。禁断の果実……食べたらどうなってしまうのでしょう?」
「バカ……なに言って……」
「……かわいいですよ、十香さん」
嗜虐的な響きを持った薔薇乃の囁き声が、頭の中をぐるぐる回る。その声を聞いているだけで、頭がぼーっとしてしまう。膝から力が抜けそうになる。
「あなたさえよろしければ、もっといいことも……して差し上げますけど? 興味、ありますよね? ……あるはずですよ」
薔薇乃の声と、頬を撫でる手の感触が気持ちいい。抵抗するのも馬鹿馬鹿しくなってくるくらいに心地よい。
「あ、うぅぅ…………はっ!」
ま……まずいまずいまずい! 危なかったっ! このままじゃマジで流されかねない! 意識をしっかり保たないと……!
十香は必死に頭を振って、雑念を振り払った。
「お……お前なぁ……いい加減にしろよっ!」
「……はい、わかりました」
そう言って、薔薇乃はパッと十香から離れた。
「――そろそろ時間ですし、これくらいにしておきましょう」
「あ……あれ?」
予想と違って、あっさりと引き下がった薔薇乃に拍子抜けする。困惑する十香を見て、薔薇乃が吹き出すように笑い出した。
「ふっ……ふふっ……くくっ、くふふ……!」
口元を手で押さえながら、愉快でたまらないといった様子で笑っている薔薇乃。その反応に十香はハッとして、問いただす。
「ま、まさか今のって……」
薔薇乃はにっこり笑って答える。
「もちろん、冗談ですよ?」
「お……おめーの冗談はわかりづれーんだよ!! あと長いわ!」
「すみません。十香さんの反応があまりにもかわいらしかったので、わたくしもつい演技に熱が入ってしまいました」
「あのなぁ、しまいにゃ殴るぞ……」
まんまとからかわれたってわけか……。くっそー……! こんなやつの心配なんかするんじゃなかった!
「――ああ、車が来たようです」
薔薇乃は表通りのほうを見て言う。道路に黒色のセダンが一台止まっているのが、十香にも見えた。
「では、わたくしはこれで失礼しますね?」
「おー、さっさと帰れ帰れ」
十香はしっしっ、と薔薇乃を追い払うように手を動かす。
「ふふっ、そうさせていただきます。……あ、最後に一つだけ」
薔薇乃は思い出したように右手の人差し指を立てた。
「――わたくしを友達と呼んでくれたこと、嬉しかったですよ」
微笑んで言うと、通りのほうへ歩き始めながらこちらへ右手を小さく振った。
「では、また明日」
セダンへ薔薇乃が近寄っていくと、中からスーツ姿のガタイの良い男が降りてきて軽く一礼、それから後部座席のドアを開けた。そして、薔薇乃が乗り込むのを待ってからドアが閉められる。マフィア映画で見たことのある光景だ……。
車が走り去っていってから、十香はふと思う。
もしかしたら……さっきのたちの悪い「冗談」は、あいつなりの照れ隠しだったりしたのかな……?
「いやいやいや、さすがにないか……」
そんなの、どんだけひねくれてんだって話だ。
十香がファミレスのほうに戻ろうとすると、ちょうど美夜子が店から出てきたところだった。
「おーい、こっちこっち」
手を振って美夜子を呼ぶ。向こうも気がついて、嬉しそうに手を振った。まるで子犬かなにかのように、小走りにこちらへ駆け寄ってくる。
口止めされていたというのもあるが、そうでなかったとしても――薔薇乃の話は、まだ美夜子に伝える気にはなれなかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる