裏稼業探偵

アルキメ

文字の大きさ
29 / 61
case5 夕幽奇譚

幕間 失われた時間

しおりを挟む



「――ほら、動かないで。あと三分だから」

 私はキャンバスに筆を走らせながら言う。モデルの少女は、椅子に座ったままぎこちない笑顔を浮かべていた。

「つ、椿姫(つばき)ちゃーん……これ、疲れるよぉ」
「もうちょっとだけ頑張ってよ、優月(ゆづき)。後でジュースおごってあげるから」

 日曜日――美術室にいるのは私と優月の二人だけだった。来月の美術展に出品するための人物画を描いているところだ。

「――ごめんね、日曜に付き合わせて」
「そんなの全然気にしなくていいよー。あたしも椿姫ちゃんと遊べるの、楽しいからね」
「そっか……ありがと。私も優月と一緒にいられて楽しいよ」

 ……そうだ。このひとときだけは、私にとって何よりも尊い時間だった。

 優月は私にとって、友達と呼べるたった一人の存在だ。人付き合いがとことん苦手な私は、正直言って、クラスでも美術部でも孤立している。だからこうやって、誰もいない日曜日の美術室で絵を描いているというわけだ。まぁ、日曜を選んだのは優月の都合もあるのだが。

「……あたしだって、ごめん」
「え?」

 私は思わず優月のほうを見る。

「なかなか部活に出れなくて……椿姫ちゃんのこと、ひとりぼっちにさせちゃってるよね」
「……なに言ってんの。そんなの優月のせいじゃないよ」

 優月はひと月ほど前から、放課後の部活に出なくなっていた。家庭の事情……というやつらしい。

 私と優月が知り合ったのは、高校に入ってから――この美術部で、だった。中学は違ったし、クラスも違う。学校の授業以外で絵を描いた経験もないのに、「なんとなく面白そうだったから」で美術部入部を決定したという優月は、やはり変わり者だったのだろう。なぜか、よりにもよって私みたいなやつと仲良くなってしまったのだ。

「なんか、照れるねぇ。モデル、ほんとにあたしでよかったの?」
「うん。私は優月を描きたいんだ」

 絵を描くことは好きだ。昔から、暇さえあれば絵を描いていた。自分でも才能があるだなんて思っていないし、大した賞を取ったこともない。それでも、優月だけはいつも私の絵を褒めてくれた。おべっかが使えるような器用な性格じゃないから、きっと本心から言ってくれているんだと思う。その感謝の印……というのも、なんだか違う気がするのだけれど。とにかく私は、優月をこうして描けることが嬉しい。

「そっかぁ……でも本当は、もっとちゃんとした顔のときに描いてほしかったんだけどな……」

 そう言って、優月はやや沈んだ面持ちになった。その口元には、目立つ腫れが見える。……明らかに、殴られた痕だった。

「だ……大丈夫だよ。ちゃんといつも通りの、美人に描いてあげるからさ」
「えへへ……お願いね」

 美人というのは、決してオーバーな表現ではない。優月は澄ましていれば大人っぽくて素敵だし、笑っていれば子どもらしくてキュートだ。私と違って胸も結構あるし、きちんとしていれば、女優やアイドルだって充分通じるレベルだろう。若干贔屓目はあるかもしれないが……少なくとも私は、そう思う。

 ――それだけに、顔の傷が余計に痛々しかった。触れまいと思っていたが……こうして話題に上がった以上は、訊かずにはいられない。

「……その怪我。やっぱり、お父さんに?」
「……うん」

 ……後悔した。そんなこと、訊いてどうする。それを私が知ったところで、何をしてやれる……。助けてやれるものなら、助けてやりたい。でも私なんかじゃ、どうしようもないのも事実だ……。

「……あ、そういえばさ」

 優月はあからさまに話題を変えてきた。

「椿姫ちゃん、この学校の七不思議って知ってる?」
「……なに、それ? 初めて聞いた」
「あたしもこのあいだ偶然聞いたんだけど、結構面白いんだよ。例えばね、ええっと……あれれ、忘れちゃったな?」
「えー? そこは忘れないでよー」

 私は笑いながら、筆を動かす。

「あっ! そう! 思い出した!」

 優月はぱんと手を打つ。

「あっ、ほら動かないで」
「ああん、ごめんっ」
「――で、なんだって?」
「あのね。美術室にもあるんだよ、七不思議」
「へぇ……なんていうの?」

 優月は小さく顎をしゃくって、私の後ろ方向を指し示す。振り向くと、壁に大きな絵が掛かっているのが見えた。

「その絵……『影の国』ってやつ。それをずっと眺めていると、絵の中に引きずり込まれちゃうんだって」
「ぷっ、なにそれ」

 作り話にしても、子どもっぽすぎる。

 『影の国』は、この学校の出身であるプロの画家が、学校創立二十五周年の記念に贈呈した絵らしい。おどろおどろしい作風が持ち味の画家なのだが、『影の国』もその例に漏れず、主に黒灰色で彩色されたなんとも不思議で不気味な抽象画だった。創立の記念というのなら、もっと華やかにすればよさそうなものを……。

 ――テーブルに置いていたタイマーのアラームが鳴り響く。休憩の合図だ。

「ふいー、つっかれたぁ!」

 優月は両手を大きく上に背伸びをする。私は筆を置きつつ、呼びかけた。

「お疲れ。……ねぇ、優月」
「ん?」
「あのさ……優月の家のこと、なんだけど」
「あ……うん」
「話したくないなら、話さなくてもいい。でも、もしも……もしも本当につらかったら……そのときは私に話してほしいの。その……私も一緒に考えることくらいは、できると思うから」

 それが、臆病な私にとって精一杯の言葉だった。私はいつも優月の言葉に支えられてきた。だから優月が困っているのなら、私は少しでもその力になってあげたいと思う。

「……ありがとね。椿姫ちゃん」

 優月は目元の涙を指で拭う。

「あたし、椿姫ちゃんが友達でいてくれてよかった……って、思うよ」

 私は、ハンカチを取りだして優月に差し出した。

「……私も、優月と同じ気持ちだよ」
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が死んで満足ですか?

マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。 ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。 全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。 書籍化にともない本編を引き下げいたしました

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...