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case5 夕幽奇譚
幕間 失われた時間
しおりを挟む「――ほら、動かないで。あと三分だから」
私はキャンバスに筆を走らせながら言う。モデルの少女は、椅子に座ったままぎこちない笑顔を浮かべていた。
「つ、椿姫(つばき)ちゃーん……これ、疲れるよぉ」
「もうちょっとだけ頑張ってよ、優月(ゆづき)。後でジュースおごってあげるから」
日曜日――美術室にいるのは私と優月の二人だけだった。来月の美術展に出品するための人物画を描いているところだ。
「――ごめんね、日曜に付き合わせて」
「そんなの全然気にしなくていいよー。あたしも椿姫ちゃんと遊べるの、楽しいからね」
「そっか……ありがと。私も優月と一緒にいられて楽しいよ」
……そうだ。このひとときだけは、私にとって何よりも尊い時間だった。
優月は私にとって、友達と呼べるたった一人の存在だ。人付き合いがとことん苦手な私は、正直言って、クラスでも美術部でも孤立している。だからこうやって、誰もいない日曜日の美術室で絵を描いているというわけだ。まぁ、日曜を選んだのは優月の都合もあるのだが。
「……あたしだって、ごめん」
「え?」
私は思わず優月のほうを見る。
「なかなか部活に出れなくて……椿姫ちゃんのこと、ひとりぼっちにさせちゃってるよね」
「……なに言ってんの。そんなの優月のせいじゃないよ」
優月はひと月ほど前から、放課後の部活に出なくなっていた。家庭の事情……というやつらしい。
私と優月が知り合ったのは、高校に入ってから――この美術部で、だった。中学は違ったし、クラスも違う。学校の授業以外で絵を描いた経験もないのに、「なんとなく面白そうだったから」で美術部入部を決定したという優月は、やはり変わり者だったのだろう。なぜか、よりにもよって私みたいなやつと仲良くなってしまったのだ。
「なんか、照れるねぇ。モデル、ほんとにあたしでよかったの?」
「うん。私は優月を描きたいんだ」
絵を描くことは好きだ。昔から、暇さえあれば絵を描いていた。自分でも才能があるだなんて思っていないし、大した賞を取ったこともない。それでも、優月だけはいつも私の絵を褒めてくれた。おべっかが使えるような器用な性格じゃないから、きっと本心から言ってくれているんだと思う。その感謝の印……というのも、なんだか違う気がするのだけれど。とにかく私は、優月をこうして描けることが嬉しい。
「そっかぁ……でも本当は、もっとちゃんとした顔のときに描いてほしかったんだけどな……」
そう言って、優月はやや沈んだ面持ちになった。その口元には、目立つ腫れが見える。……明らかに、殴られた痕だった。
「だ……大丈夫だよ。ちゃんといつも通りの、美人に描いてあげるからさ」
「えへへ……お願いね」
美人というのは、決してオーバーな表現ではない。優月は澄ましていれば大人っぽくて素敵だし、笑っていれば子どもらしくてキュートだ。私と違って胸も結構あるし、きちんとしていれば、女優やアイドルだって充分通じるレベルだろう。若干贔屓目はあるかもしれないが……少なくとも私は、そう思う。
――それだけに、顔の傷が余計に痛々しかった。触れまいと思っていたが……こうして話題に上がった以上は、訊かずにはいられない。
「……その怪我。やっぱり、お父さんに?」
「……うん」
……後悔した。そんなこと、訊いてどうする。それを私が知ったところで、何をしてやれる……。助けてやれるものなら、助けてやりたい。でも私なんかじゃ、どうしようもないのも事実だ……。
「……あ、そういえばさ」
優月はあからさまに話題を変えてきた。
「椿姫ちゃん、この学校の七不思議って知ってる?」
「……なに、それ? 初めて聞いた」
「あたしもこのあいだ偶然聞いたんだけど、結構面白いんだよ。例えばね、ええっと……あれれ、忘れちゃったな?」
「えー? そこは忘れないでよー」
私は笑いながら、筆を動かす。
「あっ! そう! 思い出した!」
優月はぱんと手を打つ。
「あっ、ほら動かないで」
「ああん、ごめんっ」
「――で、なんだって?」
「あのね。美術室にもあるんだよ、七不思議」
「へぇ……なんていうの?」
優月は小さく顎をしゃくって、私の後ろ方向を指し示す。振り向くと、壁に大きな絵が掛かっているのが見えた。
「その絵……『影の国』ってやつ。それをずっと眺めていると、絵の中に引きずり込まれちゃうんだって」
「ぷっ、なにそれ」
作り話にしても、子どもっぽすぎる。
『影の国』は、この学校の出身であるプロの画家が、学校創立二十五周年の記念に贈呈した絵らしい。おどろおどろしい作風が持ち味の画家なのだが、『影の国』もその例に漏れず、主に黒灰色で彩色されたなんとも不思議で不気味な抽象画だった。創立の記念というのなら、もっと華やかにすればよさそうなものを……。
――テーブルに置いていたタイマーのアラームが鳴り響く。休憩の合図だ。
「ふいー、つっかれたぁ!」
優月は両手を大きく上に背伸びをする。私は筆を置きつつ、呼びかけた。
「お疲れ。……ねぇ、優月」
「ん?」
「あのさ……優月の家のこと、なんだけど」
「あ……うん」
「話したくないなら、話さなくてもいい。でも、もしも……もしも本当につらかったら……そのときは私に話してほしいの。その……私も一緒に考えることくらいは、できると思うから」
それが、臆病な私にとって精一杯の言葉だった。私はいつも優月の言葉に支えられてきた。だから優月が困っているのなら、私は少しでもその力になってあげたいと思う。
「……ありがとね。椿姫ちゃん」
優月は目元の涙を指で拭う。
「あたし、椿姫ちゃんが友達でいてくれてよかった……って、思うよ」
私は、ハンカチを取りだして優月に差し出した。
「……私も、優月と同じ気持ちだよ」
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