裏稼業探偵

アルキメ

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case5 夕幽奇譚

5 過去と今

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 河嶋家から学校へ急いで戻り、伸司と実紗希は美術室へ向かう。

「さっき誰と電話してたんだ?」

 廊下を歩きながら、伸司は実紗希へ尋ねた。車で移動中ずっと、実紗希は誰かと電話していたのだ。相手のほうからかかってきていたようだったが……。

「椿姫お姉ちゃん。名簿は手に入ったか、って」
「話したのか? 優月のことを」
「ううん、まだ……。詳しくは直接会ってから話すって言ったら、こっちに迎えに来るって」
「……ここに来るのか、お前の姉ちゃん?」

 実紗希は頷いた。

「そうか……。じゃあそれまでにこの事件、解決しないとな」
「うん、頑張る」

 そう言っている間に美術室まで辿り着き、ドアを開ける。部屋の中には誰もいなかった。美術部の活動は今日たまたま休みなのか、それとも顧問の河嶋が休みの間は部活動も停止中なのかはわからないが、こちらにとっては都合が良い。

 伸司は河嶋から託された資料入りの紙箱を近くの机に置いてから、実紗希へ言う。

「河嶋先生は美術室を見てみろとしか言わなかったからな……。とりあえず、手分けして調べよう。気になったことがあったら教えてくれ」
「わかった」

 伸司と実紗希はそれぞれ逆方向に美術室を回り始める。伸司はまず、後ろ側の壁際を見た。棚の上と壁には、生徒がコンクールや作品展で賞を受賞した作品がラベル付きでいくつか展示されている。当時補修されている上に長い時間が経っているため、壁や天井に十三年前の事件の痕跡は認められない。

 そこから左手側の壁際には、一枚のコルクボードが画鋲と糸で吊されていた。新聞の切り抜きが何枚か貼られているようだ。そのどれもが、ここの美術部の活躍を讃えた記事だった。一番新しい記事は数週間前のもので、全国コンクールでここの部員が賞を取ったということが書かれている。一応全ての記事に目を通してみたが、特に気になる点はなかった。

 更に壁に沿うように移動して、窓際のシンクを見てみる。ややレトロ感のある、タイル製のシンクだ。シンクと窓の間のスペースには布巾掛けが置かれている。窓の外は、まだ雨が本降りで当分止みそうになかった。

「あれ……?」

 伸司はシンクの一部に目を留める。不自然な黒ずみの広がった部分があった。タイルはすべて白色だが、そのあたりだけススが付着したようになっているのだ。手でその部分に触れてみると、つるつるな他の部分と違い妙にざらざらしていた。これはもしかしたら……十三年前の焦げ跡ではないだろうか?

 タイルは火に強い材質、ちょっと程度の火でこれほどはっきり焦げ跡が残るということはない。十三年前の火事で美術室は半焼になったというのだから、焦げ跡が付く要因はそれくらいしか考えられない。タイル製のシンクはこの部分以外に目立った損傷がなかったから、買い換えはせず当時のままにしてあるのだろう。時間が経っていて薄くなってはいるが、ここで何かが燃えたことは間違いなさそうだ。

 しかし……これは不自然だ。一部分にだけ焦げ跡が残っているということは、ここだけ火が特に強かったということになる。火災が起こった場合、最も火勢が強くなるのは基本的に出火元だ。しかし出火元は、後ろ側の壁にあったはずの『影の国』ではなかったのか? このシンクの位置は、黒板を前に見た場合は右手側になる。まるで位置が違うのだ。そうなるとやはりこちらは、十三年前の事件とは無関係の焦げ跡なのだろうか……?

 そのまま壁に沿って移動すると、黒板横にある扉に行き着く。美術準備室へ繋がっているらしい。扉にはラミネートフィルムに入った紙が貼り付けられていた。『美術部掃除当番表』とある。今月のカレンダーの月曜から金曜までの平日部分に、一人ずつ名前が書かれていた。名前の並びを見るに、最後の一人の次は、また最初からになるようだ。

 カレンダーの下には、「担当者は昼休み中に机と水道の掃除をお願いします」と書いてある。なるほど、美術部内で交代に美術室を掃除することになっているのだ。放課後は活動があるから昼休みのうちに、ということだろう。

 ……これも事件とは関係ないか。伸司は後ろを振り返って言う。

「おい、何か見つかったか? ……どうした?」

 実紗希は、伸司が美術室へ入ってすぐ机に置いておいた紙箱の中を調べていたらしい。何やら深刻な表情で一枚の紙を凝視している。

「……なに、見てるんだ?」

 伸司が近寄ろうとすると、実紗希の身体がぐらりと揺れた。苦しげな表情で机に右手をついて、左手で胸元を押さえる。

「お、おいっ……大丈夫か!?」
「大丈夫……雨降ってるから、気圧のせいで調子悪いだけ……」

 実紗希の顔からは冷や汗が吹き出し、息も乱れていた。心臓が弱いと言っていたが、まさかこれは……。

「調子悪いとかそういうレベルじゃないぞ……! 発作用の薬とか、持ってないのか!?」
「左の……ポケット……」
「左だな……!」

 伸司は実紗希のスカート左側のポケットから小さなニトロケースを取りだして、中の錠剤を一粒、実紗希の口に含ませる。伸司は適切な対応がわからず背中をさすってやるくらいのことしかできなかったが、数分経って、実紗希は落ち着いてきたようだった。

「大丈夫か? ……病院、行くか?」

 伸司が実紗希の顔を覗き込んで訊くと、ぐったりした様子の実紗希はかぶりを振って拒否する。

「このくらいなら……たまにあるから。保健室行って、ちょっと休んでくるね……」
「じゃあ俺も一緒に……」
「一人でいい! お願いだから、一人にさせて……」
「っ……わ……わかった」

 そこまで言われたら、その通りにするしかない。しかし……いったい何があったのだろう。明らかに、普通の反応ではなかった。

 実紗希が美術室を出ていった後で、伸司は実紗希が見ていたものを確認する。日付の書かれたメモのようなものだった。いや……違う。これには見覚えがある。ついさっき見た、『掃除当番表』だ。あれは十三年前から継続されてきたルールだったのだ。

 さっき見たのと同じように、月曜から金曜まで一人ずつ当番の者の名前が記載されている。紙箱の中を見ると、他の月の分の当番表も入っていた。しかし、実紗希が見ていたこれは、他のものには書いてある『美術部掃除当番表』という文字はなく、日付を囲う枠線もガタガタで他の月とは明らかに違う。まるで下書きのようだ。

 ……それもそのはずだ。これは、書いてある日付を見る限り、“七月”の当番表だ。この月の本当の当番表が今と同じく美術室内に貼られてあったのなら、十七日の放火事件で焼けてなくなってしまったはず。これは、おそらく後になって当番表を再現しようとして書かれたものだろう。紙箱に入っている六月の当番表と見比べてみると、名前の並びは同じで、七月の最初は六月の続きからになっている。七月の当番表を再現したものをわざわざ作ったのは、次の九月の当番表を作る上で当番の順番がどこまでいっていたかを確認するためだろうか? ちなみに八月分の当番表はなかった。美術室が焼けて部活どころではなかったからだろう。 

 そんなことを考えつつ、再現された七月の当番表を眺めていた伸司は、あることに気づいて息を呑んだ。事件のあった、十七日……掃除の当番になっていたのは、遠宮椿姫だ。他の月の当番表を見ると、当時から掃除は昼休みにすることになっていたらしい。そして事件が起こったのは、当日の昼休みだったと河嶋は言っていた。この符合は何を意味するのか……?

 ふと六月の当番表を見ると、下端に小さな注意書きがされてあるのに気がついた。『薬品を使った後は布巾と手をよく洗うこと!』とある。他のものと見比べてみると、六月より前の月には全て同じ注意書きがされてあるが、九月以降のものからはその文言が消えていた。さきほど見た、今月の当番表にもこのような注意書きはなかったはずだ。

 伸司は目を閉じ、右手の人差し指を口の前で立てると、鼻の先端を指先でとんとんと叩く。考えを集中させるときの癖だった。そして十数秒後、伸司はゆっくりと両目を開く。

「嘘だろ……」

 これで、推理が繋がってしまった。十三年前の事件……優月はなぜ、放火事件を起こしたのか? なぜ、椿姫に連絡先すら教えなかったのか? なぜ、元々引っ越す予定だったことを口止めしていたのか? そして……実紗希が何かに気づいて、発作を起こすほど動揺した理由はなにか……? そのすべての答えは出た。それに伸司の推測が正しければ……この事件、いや“今回”の事件にはもっと深い動機があるはずだ。目を背けたくなるほど悲しく、おぞましい動機が……。

 ――とにかく、実紗希のことが心配だ。保健室へ様子を見に行こう。

 伸司が美術室を出ると、廊下の向こうから一人の女が歩いてきていた。髪はショートで、黒いチェスターコートを羽織った細身の体型、それにリムレスの眼鏡をかけたダウナーな雰囲気の女だった。女は美術室から出てきた伸司に気がつき、立ち止まる。伸司は彼女へ声をかけた。

「……遠宮椿姫さん?」
「あなたは……」
「また会いましたね。覚えてますか、俺のこと」
「お墓で、会いました……」
「そうです。……やっぱり、あなたがそうだったんですね。実紗希や河嶋先生から話を聞きながら、そんな気がしていました」
「では、あの子に協力してくれていた先生というのは、あなた……?」
「そういうことです。鳥居伸司と申します、改めてよろしく」

 ――保健室へ行くより前に、やっておくべきことができた。伸司は美術室のドアを開けて、椿姫へ促す。

「ちょうどよかった、あなたと二人きりで話がしたいんです。こちらへ」

 美術室へ入って、椿姫は伸司へ尋ねる。

「……あの子はどこに?」
「……あの子というのは、実紗希のことですか?」
「え、ええ……」
「保健室で休んでますよ。さっき、少し発作を起こしてしまって」
「えっ……」

 椿姫はそれまで冷静に振る舞っていたが、実紗希のことを聞いた途端に慌てる。

「だ、大丈夫なの!? 薬は飲ませた!?」
「……はい。薬を飲んで落ち着いたようでした。それより、話を始めますよ」

 伸司は椿姫に向かい合って、相手をまっすぐ見つめる。椿姫は伸司の淡々とした話しぶりに少し戸惑ったようだが、素直に話を聞くことにしたらしい。

「――十三年前、この美術室で水鏡優月という女子生徒が放火事件を起こしました。放火した理由は、七不思議の一つにもなっている不気味な絵を燃やしてしまうためだと優月は証言した。優月とあなたは当時親友同士で、あなたは優月の証言したその動機を信じなかった。しかし、優月はあなたに真実を教えないまま引っ越してしまい、連絡先も伝えなかった……と、私は聞いています」

 椿姫は黙ったまま、伸司の話に耳を傾けていた。

「では、私が辿り着いた十三年前の真相をあなたに教えましょう。あなたの望んだ形ではないかもしれませんがね」
「っ……!」

 椿姫は僅かに目を見開く。伸司は構わず続けた。

「これを見てください」

 伸司は、十三年前の七月の掃除当番表を椿姫へ見せた。

「放火事件があったのは、十三年前の七月十七日、その昼休みでした。あなたはその日、美術部員が持ち回りでする掃除の当番になっていたんです。掃除は昼休みにやることになっていた。つまり、あなたは事件のあった日に、美術室へ入っている。俺が何を言いたいかは、わかりますね? ――美術室に火をつけた、その本当の犯人は……あなただったんだ」

 椿姫は黙って床のあたりをみつめていた。

「もちろん、あなたは意図的に火をつけたわけじゃない。言ってみればそれは、事故だった。あなたは昼休みにこの美術室を掃除したが、その際にある薬品を使ったはずだ。掃除に使う薬品はいくつか考えられるが、生徒に使わせるようなものとなると、まずエタノールが思い浮かぶ。別名をエチルアルコール、酒の主成分であり、消毒用アルコールとしても使われる身近な薬品だ。また、絵の具やインク汚れを落とすのにもよく使われる。危険性は低く取り扱いもしやすいから、美術室みたいな場所なら掃除用に置いてあったとしてもおかしくない。あなたは掃除にこのエタノール――もしくは、その性質に似た薬品を使ったが、そいつを染みこませた布巾をよく洗わないまま、布巾掛けにかけてしまったんだろう。……窓際の、布巾掛けに」

 伸司はシンクの上の布巾掛けを見て、続ける。

「エタノールは比較的安全に使える薬品だが、所詮はアルコールだからな。引火点が低く、非常に燃えやすい。火気を近づけるのは当然厳禁だし、日の当たるところに置いておくのも、危険だ。……事件があったのは七月半ば。南向きの窓からは非常に強い日差しが照りつけていたはずだ。もうわかりますね? あなたが放置した薬品の染みこんだ布巾に、その日差しが当たって引火してしまったんです。本当の出火元は、窓際だった。今でもシンクに残っている焦げ跡がその証拠です」

 本来、この火災はただの過失による事故だったのだ。そしておそらく、河嶋も本当の出火原因に気がついていた。だからこそ、当番表の九月以降に薬品に関する文言がなかったのだ。引火の危険性を考慮して、生徒には薬品を使わせないようにしたのだろう。

「火が燃え始めたとき、あなたは既に美術室を出ていてそれに気づくことが出来なかったんでしょう。そして……代わりに優月が来てしまった。おそらく、そのときには既に天井近くにまで火が昇っていて、一人で消火をするのは不可能という段階だったんでしょう。そして優月は気づいた。布巾が燃えているのと、その日の掃除当番が誰だったのかを思い出して……出火の原因が、あなただということに気づいたんです。そして優月は、すぐに決断し、行動した。隣の美術準備室から河嶋先生のライターを取ってきて、『影の国』に火をつけたんです。七不思議を恐れて錯乱し、絵を燃やしてしまったというストーリーをでっちあげるために。そう……すべては、親友であるあなたを庇うために優月がついた嘘だったんだ」

 椿姫は眼鏡をずらして目元を拭う。そして、震えた声で言った。

「……続けてください」
「優月があなたに何も話そうとしなかったのも、あなたを守ろうとしたからだ。あなたに対して、嘘をつき続ける自信がなかったんでしょう。あなたが真実を知って傷つかないように、嘘がバレる可能性を極力減らそうとした。だからあなたに連絡先も教えず、完全に交友を断ったんです。あなたのことをそこまでして庇ったのは、単にあなたが親友だったからというだけじゃない。……優月は事件が起こらなくとも、元々引っ越す予定だったんです」
「えっ……?」

 椿姫は初めて意外そうな顔をする。

「そこまではさすがに知らなかったようですね。優月の両親が離婚して、母方の実家……北海道に引っ越す予定だったんですよ。しかし、優月はあなたのことを大事に思うあまりそのことを伝えられなかった。そして事件後、それを知る河嶋先生に口止めしておいたんです。あなたがそれを知ったら、あなたを守るために嘘をついたという自分の意図に気づかれてしまう可能性があったから」
「そう……だったのね……」

 椿姫の様子を窺いつつ、伸司は更に続ける。

「失礼ですが、あなたは当時、優月以外に友達らしい友達がいなかったんでしょう? あなたの過失による火災であることが発覚したら、さすがに退学とまではならないかもしれませんが、あなたはますます学校での居場所がなくなってしまう。優月は火災の現場に遭遇して、一瞬でそこまで考えてしまったんです。自分はどちらにせよ夕桜を離れるしかない、だったらせめて、あなたの罪を被ってから姿を消そうとした……あなたのことがそれだけ大事だったからです。たとえあなたと別れもう話すことができなくなったとしても、あなたにはちゃんとした道を歩いてほしかった……優月はそう考えたんじゃないでしょうか」
「……そうだったんだと思います。優月は優しい子だったから……」

 椿姫は深くため息をついた。

「あの日……私は掃除の当番になっていた。だから昼休みに入ってすぐ、美術室に向かったわ。掃除はいつも十分くらいで終わる簡単なものだったから、お昼ご飯より先に済ませておこうと思って。その掃除が終わる頃に、優月がやってきた。優月と私はいつも一緒にお昼を食べていたから、優月に売店でお弁当を二人分買ってくるように頼んでいたの。売店から戻る途中で美術室に寄ってくれたのね。……べつに、優月が私を急かしたわけじゃない。それなのに、私は薬品を吸った布巾をよく洗わないまま布巾掛けにかけてしまって……。そのまま教室へ戻って、私たちはご飯を食べていたんだけど……優月は途中で何かを思いだしたように突然席を立ったわ。『用事を思い出した』って言って、どこかへ行ってしまった。きっと、私が布巾をそのまま掛けてしまっていたことを思い出して、美術室へ向かったんでしょうね。そこで、火事に遭遇してしまった……」

 ぽつぽつと語る椿姫の声には、強い後悔が滲み出ていた。事件の発端は、椿姫の些細な過失だったのだ。優月の行動によって椿姫は責任を負わされることはなかったが、椿姫が一番大切にしていたものは彼女の元から去ってしまった。その悲しみは想像も出来ないほど深かっただろう。

「……椿姫さん。俺があなたに訊きたいのは、ここから先のことなんだ」

 伸司は椿姫へ、冷静な口調で問う。

「あなたは、実紗希に頼んで十三年前の美術部の名簿を探させましたね。忘れてしまった親友の名前を思い出すために、と言って。……でもそんなの嘘だ。だってあなたは前に、優月の墓の前で俺と会っているんだから。優月の名前はもちろん、既に死去しているということも知っていたはずだ。……なのになぜ、あなたはあんなことを実紗希に頼んだんですか?」
「それは…………」

 椿姫は口ごもってしまう。その反応に伸司は焦れたように言った。

「言えないような理由なのか?」

 伸司の言葉に、椿姫は居心地悪そうに視線を逸らした。

「あんたがなんでそんなことを頼んだのか……俺はそれについて一つ、とてつもなく胸糞の悪い想像をしちまってる。あんたが答えてくれないなら、それを聞いて合っているかどうか判定してくれるだけでもいい」

 椿姫は黙って頷いた。伸司は椿姫を見つめたまま話し始める。

「あんた……実は十三年前の時点で事件の真相に気づいていたんじゃないのか?」
「っ……!」
「その反応を見るに、正解らしいな。まぁ、あんたが少し落ち着いて自分の行動を思い返せば、真実に辿り着くことはそう難しくなかっただろう。たぶん、事件後すぐではなく、しばらく時間が経ってから気づいたんだ。優月が引っ越して、もう何もかもが手遅れになった後で……あんたは、出火の原因が自分にあったこと、そして優月が自分を庇って嘘をついたということに気がついた。……想像するだけでキツいな。罪悪感で、気が狂いそうになったとしてもおかしくない。美術部を退部したのも、それが原因だろう。嫌でも優月のことを思い出してしまうからな。……ああ、そこまでは同情するよ。優月があんたのためを思って取った行動が、結果的にはあんたを余計に追いつめることになっちまったんだからな。……でも、今回のあんたの行動はなんだ? あんたはすべて気がついていた上で、実紗希に名簿を探すように頼んだ。あんたがわざわざそんなことをする理由……俺にはその、最悪の一つしか思い浮かばなかったよ」

 伸司は椿姫を冷徹な目で見据える。

「あんた……実紗希にこの事件を調べさせるために、そんな頼み事をしたんじゃないか?」
「…………」

 椿姫は無表情に伸司を見つめ返すばかりだった。

「……名簿を調べさせたのは、実紗希と河嶋先生を接触させるためだ。まぁ、さすがに河嶋先生が忌引きで休みだったってのは予想外だったようだが……。優月の名前を忘れたふりをしていたのは、名簿を探させる必然性を持たせるためと、河嶋先生に優月のことを説明させるためってところか。実紗希が河嶋先生から十三年前の事件について聞けば、必ずその真相を探ろうとすると踏んでいたんだろう? 実際、その通りだったよ。あいつは、あんたを苦しめる呪縛を解いてやろうと一生懸命だった。河嶋先生が真相に気づいているだろうということも予測していたあんたは、彼が罪悪感から実紗希へヒントを与えることもわかっていた。そうなれば、十中八九、実紗希は事件の真実に辿り着く。……それこそがあんたの目的だった。違うか?」

 椿姫は諦めたように小さく肩をすくめる。

「…………正解」
「ッ……!」

 伸司は拳を強く握りしめながら、深くため息をついた。

「……残念だよ。あんたに否定してほしかった。俺の推理なんて間違ってるって、鼻で笑い飛ばしてほしかったんだけどな……」
「あなただって、同じことを感じたはずよ。……そっくりでしょう? 彼女と……」
「……ああ。たしかに似ている。実紗希と……優月は」

 風貌もどことなく近いところはあるが、それよりも、その纏う雰囲気がそっくりなのだ。生まれる時代がもう少しずれていれば、生まれ変わりと言われても信じてしまったかもしれない。

「実紗希は……私の従兄弟の娘なの。だから、二人が似ているのは全くの偶然。あの子が五歳の頃、車の交通事故で両親が亡くなって……私の家で引き取ることになったわ。引き取るといっても、あの子は小さい頃から心臓が弱くてずっと病院暮らしだったから、一緒に暮らしていたわけじゃないんだけどね。見舞いを兼ねてちょくちょく病院へ会いに行ってた私が、一番あの子と仲が良かった。親代わり、とでも言うのかしらね。あの子は大きくなるにつれて優月に似てきて……私はあの子の顔を見るたびに優月のことを思い出してしまうようになったわ」

 椿姫は悲しげな表情で話し続ける。

「そして今年、実紗希は高校に通い出した。一人暮らしだった私と一緒に住みながらね。学校に通うのは初めてのことだったけど、あの子勉強はできたからその点は心配してなかったわ。……実紗希がかつての私たちと同じ高校に通うようになって、いよいよ私は優月のことばかり考えるようになってしまって……でも、それじゃいけないと思った。だから私は、優月に会おうとした。会って何もかも話して……そして謝って、十三年前のケリをつけようと思ったの」
「……優月の居場所を知っていたのか?」
「私、総合病院に勤めてるのよ、心臓外科医として」
「心臓……じゃあ、実紗希のことも?」
「ええ、今は私が担当医。大きな病院だから……色んな人が来るのよ。そして前に一度……優月のことも見かけたわ。まさかこっちに戻ってきているなんて思わなかったから、私は驚いて、声をかけることもできなかった。後で調べたら、優月は何度かうちの病院に来ているとわかったわ。たまに風邪の薬をもらいに来ていただけだったみたいだけどね。そのとき彼女の問診票を見て住所を知った……知ってはいたけど、会いに行く勇気が持てなくて……ずっとそのままになってた」
「あんたは実紗希の高校進学をきっかけに、ようやく会う決心をした……」

 椿姫は静かに頷く。そして、悲哀に満ちた声を上げた。

「でも……遅かった……! 私がやっと……また会う勇気を持てたときには、あの子はもう……っ!」

 電車の人身事故は基本的に被害者の名前が公表されることはない。椿姫が優月の死を知らなかったのも当然だ。

「あの子が住んでいた場所を訪ねて、近所の人から去年あの子が亡くなっていたことを聞かされたわ。お墓の場所を教えてもらって……あなたに会ったのは、そのとき」
「そのときからか? 今回の計画を考え始めたのは」
「そう……。十三年前、私は自分が知らないまま、優月にあまりにも大きなものを背負わせてしまった。そのことを……謝ることもできなかった。そのチャンスはあったはずなのに……また、私が臆病なせいで! 私が全部悪いのに……もう誰も、私が悪いと言ってくれる人はいない……! 許されたいんじゃないの。ただ、私の罪を認めてくれる人がいてほしかった……」
「……だからあんたは、儀式を行った。優月にそっくりな実紗希に事件を追わせて、真相に辿り着かせる。そうすることであんたは……実紗希に優月の代理をさせようとしたんだ。実紗希を、自分を断罪させるための人形に仕立て上げる……醜悪な儀式だ」
「……実紗希には悪いことをしたわ」
「っ……!」

 伸司は大きく舌打ちして椿姫を睨みつける。

「『悪いことをした』だと……? ふざけんなっ! あんたがあの子にしたことを、そんな……そんなちゃちな言葉で済ませるつもりかっ!?」

 椿姫は伸司の怒声に気圧されたようにたじろいだ。

「あんたの目論見通りにいって、事件の真相を知ったあの子がどれだけ苦しい思いをするかがわからなかったのか!? ……あいつはあんたのことを、一番大事な人だって言ってたよ……あんたのことを、一番信頼してたんだよ。今までずっと病院暮らしで、親もいないあの子にとって、あんただけが唯一の味方だったんだ。そんな大切な人へ、あいつなりに恩返しがしたかったんだろうさ。だからあんたの言うことを疑いもせずに、名簿を探そうとした。十三年前の事件を解こうとした。だがその気持ちが、結果的にあんたを更に追いつめてしまいかねない真実へと辿り着かせてしまった……そのつらさや苦しみが、あんたには想像できなかったのかよ!?」
「そ、それは……」
「あんたが優月のことで責任を感じて、十字架を背負うのは勝手にすりゃいいさ。でもな、それを何の関係もない子どもにまで背負わせてんじゃねぇよ! あんたはあの子の信頼と優しさを利用したんだ、それであの子がどれだけ傷つくかなんて想像もせずにな。あの子はあんたの道具じゃないんだぞ! ……結局あんた、初めっからあの子のことを優月の代用品としてしか見てなかったんじゃないのか!?」
「ち……違う! それは違う……私は、あの子のことをそんな風に思ってなんか……」

 椿姫は動揺しながらも強く否定する。伸司は椿姫を見据えたまま、静かに言った。

「……あの子が今、なんで保健室にいるかわかるか?」
「……発作を起こしたって、さっきあなたが……」
「あの子は、俺よりも先に放火事件の真相に気づいたんだ。この、当時の掃除当番表を見てな」
「っ!? ま、まさか……」
「ああ……。あんたがあの放火事件の原因だってことに気づいてしまい、その精神的なショックで発作を起こしちまったんだろう」
「そんな……私、そんなつもりじゃ……!」

 椿姫は顔を両手で覆い、涙を流す。伸司は、疲れ果てたようにため息をついた。

 ……なんて、やりきれない事件だろう。優月が善意で起こした行動が椿姫を長年苦しめ、その過去が、実紗希にまでつらい思いをさせる結末を生んでしまった。些細なすれ違いの連続が連鎖的に悲劇を起こしてしまったのだ。過去に正しいも間違いもないが、ほんの少しの違いでこの悲劇は回避できたのかもしれない。もしも優月が生きていたら、こんなことには……。

「……?」

 伸司はふと椿姫の後ろを見て、美術室のドアに付いたガラスに、人影が映っていることに気がついた。

 ……まさか! 伸司は飛び出すように動いて、そのドアを開いた。

「あっ……」

 ドアのすぐ外に立っていたのは、実紗希だった。しまった、迂闊だった……! こんなに早く保健室から戻ってくるなんて……。

「……聞いていたのか?」
「…………」

 実紗希はゆっくりと頷く。そして伸司の後ろの椿姫へ向かって言った。

「お姉ちゃん……。さっき先生としてた話……嘘だよね?」
「あ……」
「最初から全部わかってたなんて、嘘だよね……? あたしが優月さんの代わりだったなんて……嘘、だよね」
「あ……ああ……」

 椿姫は狼狽するばかりで、実紗希の問いに答えられない。それを見た実紗希は、大粒の涙を流して、廊下の向こう側へ駆け出していってしまった。

「実紗希! ……お、おい! あんた、追わなくていいのかよ!?」

 椿姫は憔悴した様子で言う。

「私には……あの子を追いかける資格なんてない」
「……じゃあ、誰があの子を追いかけてやるんだよ」
「…………」
「……くそっ。今回限りだぞ」

 こういうのは柄じゃないってのに……。

 美術室を出る前に、伸司は椿姫へ向かって言った。

「その前に……俺からあんたに言っておくことがある。……優月からの伝言だ」
「え……?」
「あいつ、一度だけ話してくれたことがあるんだよ。事故に遭う一週間くらい前だった。……高校時代に絵がすごく上手い子と親友で、その子に自分をモデルに絵を描いてもらったことが、学生時代一番の思い出だってあいつは言ってた。その友達って、あんたのことだろ?」
「優月が……そんなことを?」
「その友達とは悲しい別れ方をしてしまった。もう会うことはないかもしれないけど、もしもまた会うことができたのなら……そのときには、昔と同じように楽しく話をして、また絵を描いてもらいたいって言ってたよ。……わかるだろ? あいつは、あんたに謝ってほしいなんてちっとも思ってなかったはずだぜ」
「あ……あぁ……そんな……」

 椿姫は決壊したように慟哭する。

「優月……私はもう……絵なんて描けないよ……」

 椿姫はとうとう床に座り込んでしまった。

「……じゃあ、俺はあいつを捜してくる。あんたはその間に、よく考えとけ。戻ってきたあの子に、なんて言うのかを……。あんたが本当にあの子のことを愛しているなら、だけどな」

 伸司が美術室を出ようとすると、

「待って……」

 椿姫に呼び止められた。
 
「あの子のことで……私、一つだけ嘘をついていて……」
「……そんなもん、とっくにわかってるよ」





 南校舎の屋上――雨の降りしきるその場所に、彼女は傘も差さずに立っていた。

「昨日は結局、鍵を閉めるのを忘れてたことを思い出してな。お前がそのことに気づいてたなら、ここにいるだろうと思った。当たりだ」

 伸司はゆっくり喋りながら、彼女の横に立つ。

「……風邪引いちゃうよ」

 雨でずぶ濡れになった少女は、か細い声で言った。

「お前だってそうだろ」
「……もういいんだ。もう……なんか、どうにでもなっちゃえって感じ」
「つらい時は誰だってそうなるよ」

 伸司は雨に濡れながら、煙草を一本取りだして口に咥えた。

「吐き出しちまえよ。俺が全部聞いてやる。そうすりゃ、少しはすっきりするかもしれねぇぞ」

 少女は、しばらくしてから話し始めた。

「……あたしの心臓、爆弾なんだ」
「……爆弾?」
「その爆弾が、いったい何時爆発するのかはわからなくて……一年後かもしれないし、一ヶ月後かもしれない。もしかしたら……明日かも。でもね、一つだけはっきりしてることがあるんだ。色んなお医者さんに診てもらったから。どれだけ長く見積もっても――あたしの心臓は四年以上は保たない。珍しい血液型だから、心臓移植も難しいって」
「四年……」
「たぶん、十九歳にはなれないね」

 少女は困ったように笑って言う。

「だから無理言って、学校に行かせてもらうようにしたんだ。ずっと病院の中で……憧れてたから。でも……思ってたより楽しくないなぁ。友達とか、どうやって作ったらいいかわかんないし……こんなことになっちゃうし」
「…………」
「ねぇ、先生。あたしは――」
「……違うよ」
「……まだなにも言ってないけど」

 伸司は濡れた髪を掻く。

「俺な……先生じゃないんだわ」
「えっ……?」
「本職は探偵でな。知り合いの理事長に頼まれて少しの間ここで働くことになってたんだ。……怪我で休職中の、“用務員”の代わりとしてな」
「……そう、だったんだ。全然気づかなかった」

 普通の私服だったから、一見して用務員であるということはわからなかっただろう。

「ま、お前が勝手に勘違いしてただけだからな。わざわざ説明すんのもめんどくさかったし。それに、お前も嘘ついてたからお互い様だろ?」
「嘘……って」

 少女は驚いたように伸司を見つめる。

「なんだ、俺が気づいてないとでも思ったのか? わかってたよ、遠山実紗希は本名じゃないってね。昨日のお前の様子がなんとなく気になって、一年生の名簿を全員分確認してみたんだが、遠山実紗希なんて名前のヤツはいなかった」
「なーんだ……バレてたんだね」
「俺のことを先生だと勘違いしたお前は、つい嘘の名前を言ってしまった。屋上に忍び込んでいたことを後で担任の先生に報告されたら、叱られてしまう。その場を偽名で切り抜けて、後は知らんぷりするつもりだったんだろう。でも、俺が予想外に協力的だったもんだから、本当の名前を言い出せなくなってしまった。違うか?」
「あはは……正解。咄嗟に嘘ついちゃった。実紗希っていうのは、お母さんの名前。……あたしはお母さんのこと、もうよく覚えてないんだけどね」
「そのことは、お前の姉ちゃんとも口裏を合わせ済みだったんだな。さっき聞いてきたよ。さぁ……そろそろ、本当の名前で呼ばせてくれるよな?」

 伸司は初めて、その名前を口にする。

「なぁ――美夜子?」





 伸司は優月が失ってから半年ほど、探偵の仕事を休業していた。その半年は死んでいないというだけで、生きているとも言えない時間だった。

 理事長はリハビリ代わりとして用務員のバイトを紹介してくれたのだった。元の用務員が腰痛の治療で長期休暇を取ったらしい。貯金も底をついていたし、休業明けしたところですぐに探偵の依頼が来るわけでもないのでやむなく引き受けたのだ。その仕事先で、まさか優月の過去に触れることになるとは思いもしなかったが……。

 赤い鮮やかな髪を持つ少女は、照れたように笑う。

「あんまり、その名前好きじゃないんだよね。志野美夜子……死の都、なんだか縁起が悪いでしょ?」
「良い名前じゃねぇか。古風で綺麗で……俺は好きだよ」
「そっか……ありがと」

 美夜子はそう言って軽く肩をすくめると、伸司の顔を指さして、

「ねぇ。煙草、意味あるのそれ?」

 雨に濡れた煙草は、たっぷり水気を吸って折れ曲がってしまっている。

「いいんだよ。これで」

 思えば、あの日……優月と路地裏で初めて出会ったときも、雨が降っていて……こんな風に煙草を咥えていた。

「あのさ、先生」
「だから、先生じゃねぇって」
「いいの。あたしにとっては先生だし。それに、探偵さんも先生って呼ばれるでしょ?」
「殆ど呼ばれたことねぇけどな……」

 まぁ、呼び方なんかどうでもいいか。

「で、なんだって?」

 美夜子はやや遠慮がちな微笑みを浮かべて言う。

「先生は……あたしが優月さんに似てたから、色々協力してくれたの?」
「……そうだな。最初は、似ている気がしたからだったかもな」
「そう……そうだよね。そうじゃなかったらあたしなんか……」
「……でも、最初だけだ。今は違う」
「え……?」

 伸司は美夜子へ笑いかける。

「俺は、お前がお前だから助けたいと思ってるよ。だからここにいるんだ」

 美夜子はしばらく伸司を見つめていたが、やがて苦笑いを浮かべる。

「……ありがとう。嘘でも嬉しいよ」
「嘘じゃねぇよ」
「いいって。あたしに気なんて遣わないでよ」
「だから違うって……あーーーーもうっ! しょうがねぇなぁ!」

 伸司は両手で頭をかき乱す。突然大声を出した伸司を、美夜子は呆気にとられたように見つめていた。

「な、なに……?」

 伸司は咥えていた煙草を捨てて、美夜子の肩を掴んで言う。

「めんどくせぇからはっきり言ってやる。いいか美夜子! お前の身体のことも、今回の事件のことも、すっげぇかわいそうだ! 同情するし、不憫だと思う! お前は、紛れもなく不幸な少女なんだよ!」
「えっ……ええ……?」

 美夜子は困惑したように目をぱちくりさせる。伸司は構わず続けた。

「でもな、それで悲観的になってどうするよ? あたしは不幸だから何を期待しても無駄だってか? そんなの、ただお前が楽しくなくなって終わりだろうが? お前の残り時間が少ないってんなら、その時間を少しでも楽しいことに使わなきゃ損だろ? 学校が楽しくないなんて大した問題じゃねぇよ。楽しいことならそれ以外にもいっぱいあるんだからな。それをどう見つけるかが問題なんだ。わかるか? お前の人生が面白くなるのもつまんなくなるのも、お前次第なんだよ」
「…………」

 伸司はそこで美夜子の肩を軽く叩いてから、笑いかける。

「でも、安心しろ。俺はこれからも絶対、お前の味方だ。お前の人生が楽しくなるための手伝いなら、してやるよ。だから……一緒に、楽しいことを見つけよう」
「あっ……う……」

 美夜子の目に涙が溢れていく。

「せん、せぇ……せんせ……うっ、うあぁぁぁ……! あぁぁぁ……っ!!」

 美夜子は伸司に抱きついてむせび泣く。涙なのか雨なのかわからないが、とにかくそれまで彼女が溜め込んできたものをすべて吐き出すような、見事な泣きっぷりだった。

「へへっ、そんだけ泣けりゃ上等だ。……ん?」

 伸司は屋上の入り口に、椿姫が立っているのを見つける。

「おい。お前の姉ちゃん、来てるぞ」

 伝えると、美夜子は肩越しに椿姫のほうを見た。
 
「お姉ちゃん……」
「美夜子……あの……私……」

 椿姫は意を決したように言った。

「ごめんなさい……! 私……鳥居さんに言われてやっと気がついたの! あんなことをして、あなたの気持ちがどうなるか、何にも考えてなかった……! もう二度と、さっきのような気持ちにはさせないから! あなたは優月の代わりじゃない! 私の一番大切な……妹だと思ってるの! だから……だから、ごめんなさい……許して……!」

 雨に濡れるのも構わず椿姫は叫ぶ。美夜子は、まだ迷っているようだった。……仕方ない。今回だけ、手伝ってやるか……。

「美夜子。よく思い出してみろよ。あの姉ちゃんは、お前が小さい頃から面倒見てくれてたんだろ? それが全部、偽りの愛情だったと思うのか? お前のことを優月の代わりとしてしか見ていなかったと……本当に、そう思うのか?」

 美夜子はゆっくり首を、横に振る。

「じゃあ、行ってやれよ」

 伸司は美夜子の背を軽く押す。美夜子は力強く頷いてから、椿姫のもとへ駆け寄っていった。二人は抱き合って、またわんわんと泣いている。伸司は濡れた前髪を払って、呟いた。

「まったく……世話が焼けるぜ」





 志野美夜子と初めて出会ったあの日から、約半年後――北校舎の屋上で、伸司は煙草を吸っていた。もちろん、鍵は予備のものを勝手に拝借しておいた。先ほどまで降っていた雨は既に止んで、夕日が少し眩しい。

 理事長から頼まれていた頼み事の一つは無事達成できた。残るは幽霊騒動だが……あちらは美夜子たちがなんとかしてくれているのではないかという予感がする。

「あーっ! やっぱりセンセーだー!」

 後ろから聞き覚えのある声がして、伸司は振り返った。美夜子だ。

「よう」

 軽く手を上げて伸司は言う。美夜子は近くへ駆け寄ってくる。

「さっき階段上がっていくの見えたから、追いかけてきちゃった」
「黙っといてくれよ。煙草吸ってるってこと」
「んふふ、どーしよーかな?」

 美夜子は上機嫌で笑っていたかと思いきや、急に様子がぎこちなくなる。

「どうした?」
「あ……えーっと、ほら……昨日は、ごめんね」
「あ? ……ああ、あれか。全然気にしてねぇよ。こっちこそ、偉そうにあれこれ言って悪かったな」
「せ、センセーは悪くないよ」

 伸司は軽く笑って、話題を切り替える。

「それより、幽霊のほうはどうなった?」
「あ、それね! もー綺麗さっぱり、解決したよ!」

 美夜子は新聞部の部室であったことをかいつまんで伸司へ伝えた。

「ふぅん。そんなことがあったのか」
「そういうわけだからさ、理事長さんにも、そのへん上手くぼかして伝えておいてくれない?」
「わかったよ……犯人もよく反省してるみたいだし、名前は伏せておく」
「ありがと! それでさ、センセーの調べてたことってなんだったの?」

 伸司は煙草の煙を吐きつつ答える。

「理事長の孫が最近部活を休んでるらしくてな。家への帰りも遅いから調べてくれって言われてたんだ。ま、なんてことはない。そいつは部活を休んでできた時間を使って、近くである彫刻展の設営手伝いをしていたってだけだった」
「あれ……彫刻展? その人って、もしかして美術部の園崎って人?」
「ああそうだよ。なんだ、知り合いだったのか?」
「うん、ちょっとね。……でも、美術部って聞くと半年前のこと思い出すよね。河嶋先生、元気にしてるのかな?」
「夏で退職したんだっけか。ま、今頃はのんびりしてるんじゃねぇかな」

 「そうだといいね」と返して、美夜子はフェンスのほうへ歩いていく。美夜子はフェンス越しに夕日を眺めて言った。

「半年前に、センセーと初めて会ったときもこんな感じだったよね。校舎は向こうのほうだったけど」
「ああ。俺が声かけたら、いきなり逃げちまったんだよな」
「あはは、あの時は驚いちゃったから。次の日も同じようにセンセーは来て、そこでやっとちゃんと会話できたんだよね。……そういえばあたし、あの時『夕日は嫌い』って言ったの、覚えてる?」
「ああ、そういやそんなこと言ってたな。あの時は訊かなかったけど、なんで夕日が嫌いなんだ?」
「……夕日って、もうすぐ沈んじゃうものでしょ? だからどうしても、その……死を連想しちゃうっていうか……暗い気分になっちゃってたんだよね」

 彼女の境遇からすれば、夕日をそのようなシンボルとして見てしまうのも仕方がないことかもしれない。

「じゃあ、なんであの時も夕日を見てたんだ?」
「うーん、なんていうのかな……見てると、気分が落ち込むんだけど……それが却って落ち着く、みたいな感じ。自分が不幸だと思い込むのが、癖になってたんだろうね」
「…………」
「あ……でも、夕日、今は嫌いじゃないよ!」

 美夜子は明るく微笑む。

「だって夕日は、センセーと出会わせてくれた風景だからね」
「……そうか」

 伸司は思わず目を伏せてしまう。美夜子の微笑む顔が、あまりにも優月に似ているように見えてしまったから。

「……ねぇ、センセー?」

 美夜子はやや緊張したような声で伸司へ尋ねる。

「センセーにとってのあたしって……なに?」
「なに……って。それは…………」

 伸司は困ったように視線を逸らして、口ごもってしまう。美夜子は伸司を見て笑った。

「えへへ、ごめん。困るよね、そんなこと訊かれても。……ちなみに、あたしにとっての、センセーはね……」

 美夜子は伸司をじっと見つめてから、また夕日へ視線を戻した。

「やっぱりヒミツにしとこー!」
「……なんだそりゃ」

 伸司は肩をすくめる。

「それにしてもさ、センセー……」

 美夜子は伸司に向き合うと、伸司の首元を見て吹き出すように笑う。

「ネクタイきちんと締めると、ちっとも似合わないね?」
「そ、そうかぁ?」

 伸司はコートの下に着ているワイシャツに、ネクタイをしっかりと締めていた。いつもはネクタイを付けるにもとりあえず首にかけておく程度なのだが、一応先生としてここにいるわけだから、ちゃんとしたほうがいいのかと思ったのだ。しかし……そうか、似合ってないか……。

「……んふふ、ちょっと近くで見せて?」

 美夜子は何か企んだような笑いを浮かべながら伸司に近寄って、ネクタイの先端を手に取る。

 ――伸司はいきなりネクタイを引っ張られて、頭を下げた。

「おっ――?」

 頭の下がったところへ、左頬に、温かく柔らかな感触が一瞬――。美夜子は少しだけ顔を赤く染め、離れていく。

「じゃ、また明日ねセンセー!」

 手を振って、美夜子は屋上から出ていった。

 伸司はしばらく立ち尽くしていたが、やがて頭を掻きつつ、苦笑して言った。

「……子どもは恐ろしいな」
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