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case8 女神の断罪
1 誘引
しおりを挟む思い出すにもおぼろげな、遠い過去の記憶。あれはたしか、まだ小学校に上がったばかりの頃だったか。
子どもの頃に思い描いていた、将来の夢。自分の場合、それは、父のような刑事になることだった。
父はいつも落ち着いていて、頼もしかった。少し無愛想ではあったけれど。
母は妹を産んですぐに病死してしまったが、父は、その母の分まで二人の子どもに愛情を注いでくれたように思う。
仕事で忙しい父と一緒に過ごせた時間は決して多くはなかったが、家庭を守りつつ強行犯係の刑事として日夜犯罪と戦う父の姿に、子どもながらに憧れた。
ある日、そのことを父に話した。どういう話の流れだったか……よくは覚えていないが、将来は何になりたいのかと訊かれて、それに答えたような覚えがある。
――お父さんみたいなかっこいい刑事になりたい!
そう言うと、父は虚を突かれたように驚いた顔をして、それから……なぜか少し悲しそうな表情になった。父は「ありがとうな」と優しく頭を撫でてくれて、そして、「でも」と続ける。
――お父さんはかっこよくなんかないよ。
謙遜や照れ隠しのような言い方ではなかった。自分が憧れの対象になるのは相応しくない、と父は考えていたのだろうか。どうしてそんなことを言うのかわからなくて、無性に切ない気持ちになったことを記憶している。
結局、そのとき父が何を思ってそんなことを言ったのか……聞き出す機会は訪れなかった。
父――戌井千裕(いぬいちひろ)が何者かによって殺されたのは、今から四年前の秋だった。
十二月、二十三日――空は曇天。胸中にある緊張や不安をそのまま投射したかのような空模様だった。
クリスマス間近にもなると、昼間でも寒さが身に堪える。ジャケットのサイドポケットに両手を突っ込んだまま、戌井冬吾(いぬいとうご)は周囲をぐるりと見渡した。
「――えっと、礼拝堂……礼拝堂は……。あ、あれかな……?」
緑の匂いが濃く香る、よく手入れされた庭――その向こうに、天空へ向かって刺すような鋭い三角形の屋根が見える。他にそれらしい建物も見当たらない。周囲に人影はなく、訊いて確かめることはできないが……あれこそが、この修道院が抱える礼拝堂なのだろう。
聖アルゴ修道院――冬吾は、ある約束のためにこの場所を訪れていた。携帯の地図アプリを頼りになんとか目的地である修道院の敷地に辿り着いた冬吾は、その中の礼拝堂に向かってまた歩き始める。
冬吾は現在十九歳の大学生であるが、今から二ヶ月ほど前、奇妙な巡り合わせからある組織の一員となった。組織の名は『ナイツ』、日本全国にわたって支部を持つ巨大犯罪組織である。冬吾が所属するのは、その支部の一つである夕桜(ゆざくら)支社だ。
冬吾がナイツに入るきっかけとなった殺人事件――それを裏で画策していたのが、『伏王会(ふくおうかい)』の神楽(かぐら)という女だった。
伏王会はナイツと同じく犯罪行為を専門とする組織、いわば同業他社である。組織としての規模も、ナイツと双璧を成すほどだ。その伏王会で差配筆頭の役職にあり、老い衰えた会長に代わって実質的に組織をまとめ上げている若き天才……それが神楽だった。
二ヶ月前の事件で姿を現した神楽は、冬吾を脅迫し、ナイツに入るように仕向けた。今をもってなお、神楽の真意は不明である。一般人である冬吾を犯罪組織に加入させ、弄び楽しんでいるだけなのか、それとも……なにか別の意図があるのか?
冬吾が今日、この聖アルゴ修道院を訪れたのは、神楽との約束のためだ。昨晩、神楽から携帯に電話がかかってきて、今日の午後三時に修道院の礼拝堂へ来るように指示されたのだ。誰にも知らせること無く、一人で来るようにと。神楽はそこで、『戌井千裕の死の真相を教える』と言っていた。
事件から四年が経った今でも、父である千裕を殺した犯人の手がかりは見つかっていない。父がなぜ、そして誰に殺されたのかという謎の答えは、冬吾が長年追い求め続けていたものだった。
しかし、なぜ神楽が自分にそんなことを教えるのか? 神楽はその疑問に対して、『それが私にとって得になるからだ』と答えた。今までの経緯からして、神楽の言葉をそのまま信用するのは危険すぎる。
それを理解した上で、冬吾は神楽の指示に従った。
断れば、ナイツに入る選択を迫られたあの時と同様に、妹の灯里(あかり)が脅しの材料にされるのは明らかだったからだ。冬吾にとって、灯里はたった一人の家族である。妹の身に危害が加えられるような事態は、絶対に避けねばならないことだった。
それに、もしも神楽の言葉が真実だった場合は、四年前、千裕の身に何があったのかを知るまたとない機会だ。神楽は以前にも、千裕の死について何かを知っているような反応を見せたことがあった。神楽の意図は不明だとしても、彼女が事件について何らかの情報を掴んでいる可能性は高い。
あの礼拝堂の中に、神楽はいるのだろうか? 緊張感を高めながら、歩みを進める。
広葉樹の並木道を歩いていくと、左と正面に分かれた分岐点に差し掛かった。左手側に進むと、すぐに礼拝堂の入り口に行き当たる。正面方向には、また別の大きな建物があった。レンガ造り、教会風の二階建てで、礼拝堂からは三十メートルほど離れている。あっちはおそらく、修道院の本館にあたる建物なのだろう。
そちらの建物の入り口には、黒服を着た大柄の男が左右に一人ずつ、門番のように立っているのが見える。警備員……だろうか? ただの修道院にしては妙に警備が物々しいような気もするが、中にはそういう場所もあるのかもしれない。
まぁ、あっちに用事は無いのだから気にしていても仕方ない。今関心があるのは、こっちの礼拝堂だ。
礼拝堂の建物は木造で、外から見る限り、ややこぢんまりとした印象を受ける。祭礼用の施設としては小さい部類に入るだろう。入り口は木製の観音扉だが、かなり分厚いようで、相当頑丈そうに見える。
「ねぇあんた、戌井って人?」
「わっ!」
不意に声をかけられたので、冬吾は驚いて思わず後ずさりしてしまった。建物の右側の陰から、声の主が姿を現す。
身長160くらいの小柄で、スーツ姿の、美少年だった。歳は十五、六――いや待て。……本当に男なのだろうか?
未成熟ながらも西洋人形のように整った顔立ちは、少女と言われても充分通じる。単に美形というだけではない。その不敵な笑みには、仄暗い妖艶さすら漂う。目元はややキツい印象を受けるが、それがむしろ、微毒めいた色気を増させる要素として成立していた。肌は真っ白、髪は肩に届く程度で男にしては長めだし、艶もある。声の感じも中性的。男装した美少女のようにも思えた。
「あれれー? 聞こえなかった? あんたが戌井って人かどうか訊いたんだけど?」
「そ、そうだけど……」
「あ、やっぱりそっかー。いやー、なんか怖い感じのお兄さん来てるなーと思ったんだよー。聞いてたとおりだね!」
「怖いって……」
自分の目つきが悪いことは自覚していたし、ほんの少しだけ気にしてもいたが――こうまであっけらかんと言われると傷つくより前に呆れてしまう。
「えーっと、時間のほうは……っと」
彼(暫定)は、左手首の腕時計を見て頷いた。両手には黒い手袋をしている。
「オッケー、待ち合わせの時間ぴったり」
「待ち合わせって……君はいったい……?」
「あ、やっぱ気になる感じ? そうだなー……。あんたをぶっ殺しにきた殺し屋……って言ったら信じる?」
「なっ……はぁ!?」
彼(暫定)は冬吾の驚くリアクションを見て朗らかに笑うと、両手をひらひらと振って言う。
「なーんてウソウソ。ウソに決まってるじゃん。俺がそんなひどいことする人に見えるのかなー? 傷ついちゃうなー?」
「あ……えっと、ごめん」
「ううん、謝らなくていいよー? だって俺がひどい人間だっていうのは、べつにウソじゃないからね」
「はい……?」
なんだ、この妙な会話は。からかわれているのか?
「へへ、俺はナツメって言うんだ。神楽のお付きの者……って言ったら、わかる?」
神楽の部下か! また随分と若い……。そして自分のことを『俺』と呼ぶということは、やっぱり男でいいのだろうか……。
「ちゃんと来てくれてよかったよ。寒い中待ってた甲斐があったよねー」
ナツメは「にしし」と悪戯っぽく笑うと、手を扉のほうへ向けて冬吾へ促す。
「さぁさぁ、中へ入りなよ。お嬢はもう待ってるよー?」
どうやらナツメは、冬吾が来るのを外で見張っておく役割だったようだ。他にそれらしい人影がないところを見ると、神楽が連れてきているのはナツメ一人なのか。中に護衛がいる可能性もあるが……。
扉に手をかけようとすると、ナツメが思い出したように言った。
「あ……そうそう」そこで声のトーンが一段下がる。「言っとくけど、お嬢に妙な真似したら殺すからね」
上着の裾をめくり、腰元のホルスターに差したオートマチック拳銃をちらつかせる。
口調は軽いが、ただの脅し文句ではないと肌の感覚で理解できた。外見こそ幼いが、神楽の付き添いで来ている以上はやはり只者ではないのだろう。
神楽に色々と言いたいことがあるのは事実だが……言われるまでもなく、荒っぽい騒ぎを起こすつもりはなかった。倫理道徳的にどうという以前に、伏王会の重鎮を相手にそんな真似をすれば、こちらがどんな目に遭わされるかわかったものではない。
一応、いつもお守り代わりにしている木の鞘に入ったナイフ――父の形見だ――は今日もズボンの尻ポケットに入れてあるが、こんな小さなナイフでは護身用に使えるかどうかも微妙なところだ。
改めて気を引き締めてから、観音開きの扉を引いて開ける。礼拝堂の中は、学校の普通教室より少し大きい程度の広さになっていた。中に一歩足を踏み入れる。背後で「ギィ……」と音を立てて扉が閉まった。ナツメは中に入ってくるつもりはないらしい。話は二人きりで、ということか。
礼拝堂の中は少し薄暗かった。左右にそれぞれ三カ所ずつ窓はついているらしいのだが、いずれも緋色のカーテンがかかっていて外からの光が遮られている。
天井近い高さで左右に梁が手前、中、奥の三カ所に渡してあり、そこから一個ずつ暖色系の電灯が吊されているが、光量はやや心許ない。
堂内には長椅子が二列に並べられており、奥の一段高くなったところには講壇が置かれていた。講壇というのは、神父や牧師が説教を行う際につく台のことだ。
その更に奥には、小さな祭壇。そしてその祭壇に添えられるように、左右に大きな天使像が一体ずつ立っていた。二体の像ともデザインは同じで、円柱形の台座の上に女性の天使が立っており、二メートルくらいの高さがある。
『彼女』は、右側に並べられた長椅子の、真ん中あたりに座っていた。礼拝堂内に他の人影はない。彼女は顔だけを軽く後ろの冬吾のほうへ振り向かせて、言う。
「――待っていたぞ、戌井冬吾」
「神楽……」
「ふっ、そう身構えるな。取って喰おうなどとは思っていないさ。――鍵を閉めておいてくれるか。誰にも邪魔されたくないのでな」
「…………」
逆らう理由も無い。冬吾は言われたとおり扉の内鍵をかけた。
神楽は左手を差し出すようにして、自らが座る長椅子の隣りのスペースを示す。
「まぁ座るがいい。話はそれからだ」
冬吾は返事はせず、黙って神楽の長椅子まで移動する。
神楽は黒のパンツスーツを着ており、長椅子の中央ですらりと長い脚を組んで座っていた。椅子の背もたれには黒のロングコートがかけてある。足下の床には、黒く大きなボストンバッグが置かれていた。
神楽――見た目の年齢は、二十半ばほどだろうか。長い黒髪はうなじのあたりで一束にまとめており、その凜々しい姿は、美貌の女剣士を思わせる……あるいは、研ぎ澄まされた刀剣そのものか――どちらにせよ、美しい女性であることは間違いない。もちろん、その外見に惑わされるわけにはいかないが。
冬吾は神楽が促すのに従って、長椅子の端に座る。神楽は問いかけから会話の口火を切った。
「さて……。なぜここに君を呼んだのか、わかるか?」
「話をするため……だろ?」
「そうじゃない。この場所を選んだ理由だよ」
「……さぁ」
日時も含めて、修道院の礼拝堂を待ち合わせ場所に選んだのは神楽だ。冬吾にとっては初めて訪れる地であり、どういう場所なのか詳しくは知らない。
「今日これから、伏王会とナイツの会合が行われる。この修道院で」
「会合……って」
「伏王会とナイツが互いに不可侵の協定を結んでいるのは知っているな? 一年に一度、その協定について細かい取り決めを定める会合を設けている。両組織の長を含む、幹部を集めて行われる特別な会合だ。会場となるのは、修道院本館にある会議室。この礼拝堂の隣の建物だ、君もここに来る途中で見ただろう」
分かれ道のもう一方の先にあった、あの建物だ。
「その会合に出席するため、私はここに来ている。君をここへ呼んだのは、その都合だ」
そういう会合が行われるという話は聞いていた。しかし、まさかその会合が開かれる場所が、この修道院だったとは。たしか、『アルゴス院』という中立組織が仲介役として、会合のための場所まで提供してくれる……という話だったはずだが。
「じゃあ……アルゴス院っていうのは、もしかして?」
冬吾の問いに、神楽は頷く。
「ふむ……その名前くらいは知っているわけか。そう、そのとおり。聖アルゴ修道院というのは、あくまで表向きの名称に過ぎない。情報活動組織、アルゴス院というのがその実体だ」
「情報活動組織?」
聞き覚えのない響きだ。
「アルゴス院は少々特殊な性格を持った組織でな。簡潔に言うと、奴らの主な活動は観測だ。その目的は、表の歴史に残されない歴史を記録することにある。裏社会を観測する目となって、それに関係するありとあらゆる情報を収集しているわけだ。その奇異な組織の起こりがこの修道院だった。組織はギリシャ神話上の百の目を持つ巨人の名から取って、アルゴス院と名付けられたそうだ」
「伏王会とナイツに協力するのも、その観測の一環……ってことか?」
「おそらく、そうだろう。アルゴス院という仲介役の存在は、我々としても必要だった。当事者たちだけでは、言った言わないの水掛け論になりかねないからな。重要な会合に際して、立会人は不可欠だ。アルゴス院はあくまで中立の組織としての立場を徹底しているから、いずれかの組織に深く肩入れすることもない。それに、この修道院は位置的に伏王会・ナイツそれぞれの本部からそう遠くないというのも好都合だった。よって、もう長年この関係は続いている」
今日これからこの修道院で会合が開かれる……ということはつまり、神楽以外にも両組織の重鎮がここに集まるわけだ。いや、もう既にあの本館の中に集まっているのだろうか? どちらにせよ、下手に関わると面倒なことになりそうだ。神楽との話が終わったら、さっさと帰ることにしよう。
ナイツ・伏王会間の会合、そしてアルゴス院という組織についてより深く尋ねたいこともあるにはあったが、今はそれより、もっと聞きたいことがあった。
「会合の都合があって待ち合わせ場所をここにしたっていうのはわかった。でも、俺が聞きたいのはそんな話じゃないんだ。そろそろ本題に入ってくれるか」
神楽は肩をすくめるようにして笑う。
「せっかちだな。……まぁいい。君はそのためにここに来たのだものな。君の父親……戌井千裕が殺された事件の真相を知るために」
「……まず確認しておきたい。どうしてあんたがそんなことを知っているんだ?」
「忘れたか? 二ヶ月前のあの事件が起こる直前まで、私はナイツの内情を探るために岸上豪斗(きしがみごうと)を盗聴していたんだぞ。あの日、彼はなにを君に伝えようとしていた?」
「……そうか。あの人は俺に、あの事件の真相を知らせようとしていた。あの人のことを盗聴していたあんたは、盗聴器越しにそれを知った……ってことか」
「そういうことだ」
岸上豪斗は二ヶ月前に夕桜支社で、伏王会と通じていたスパイによって殺害されている。あの日、冬吾は豪斗から、「千裕の死の真相を教える」と電話で打診を受け、待ち合わせ場所である喫茶店に向かった。そして……神楽の策略に嵌められ、事件に関わることになってしまった。岸上豪斗がどういう経緯で事件について知ったのか、という疑問は依然として残るが……。
……思えば、あの豪斗からの電話がすべての発端だった。
「――あの時と同じ、だな」
神楽は、不敵な笑みを浮かべて言う。
「二ヶ月前もこうして、私は君を待っていた。あの時は、呼び出したのは私ではなかったがな」
豪斗から呼び出されて向かった喫茶店で待ち構えていたのは、神楽だった。あの時は、まさか自分があんな目に遭うとは想像もしなかった。
「あの日……喫茶店で君を待っていた時には、想像もしていなかったよ」
偶然――なのだろう。思考が神楽の言葉と同調する。
「それにしても、ここまでしぶとく生き延びるとはな。幸運も大いにあっただろうが、それだけでもないのだろう。君の持つ力が君を助けた。――認めよう。君は、私が想像していた以上の男だった」
「それは……褒めてるつもり、なのか?」
「くくっ……無論、褒めている。べた褒めだとも」
からかうように言う神楽。何を言いたいのかがわからなくて、不気味だ。
「君のことは充分に認めている。だからこそ……君には今回の計画の、最も重要なピースとなってもらうことにした。そう……君こそが、相応しいと思ったからだ」
「……ピース? 計画……って?」
「……知りたいか?」
神楽は、喉の奥で笑いを押し殺すようにしながら、おもむろに立ち上がる。座る冬吾のすぐ目の前に移動してから、僅かに身を屈めた。冬吾を少し上から見下ろす形。
「ああ、そうだな。君が知りたがるのは当然だ。……だが、悪いな。まだ教えてやることはできない」
冬吾は睨むように見上げて言う。
「また、ろくでもないことに俺を巻き込むつもりなのか?」
「……これはしょうがないことなんだ。私は、また君を騙さなければならない。――と言っても、君は納得してはくれないだろう。それもまた、当然か」
神楽は苦笑して肩をすくめた。
「まぁ、許されようとも、理解されようとも思わないが……君にひどい仕打ちをしている自覚はあるつもりだ」
神楽は冬吾へ、十センチくらいの距離にまで顔を寄せてくる。彼女は――戌井冬吾が知る『神楽』という女性には似つかわしくないような、毒気のない優しげな笑みを浮かべて――囁くように言った。
「――だから、これから私がすることの意味は、君の解釈に任せるとしよう」
十センチの距離が、ゼロになった。唇に柔らかなものが触れる。
「……っ!??」
冬吾はただただ驚いて、その身を硬直させた。頭が真っ白になって、身体の動かし方を忘れてしまったかのようだ。シャンプーの香りだろうか、甘さの中に爽やかさのある匂いが鼻腔をくすぐった。それが更に意識をぼやけさせる。
神楽は左手を冬吾のうなじへそっと回し、触れあっていただけの唇を少し強く押し当てるようにした。神楽の唇が動いて、冬吾の下唇を甘く挟み――愛撫するように舌でなぞり、吸いつく。
「んっ……ふぅ……」
神楽から冬吾へ、重ね合わせた唇の隙間から、熱い吐息が送り込まれた。神楽に対して抱いていた疑念も警戒も、全て霧散してしまいそうな心地良さ。麻薬じみた快楽。蕩けるような、甘く、優しい接吻だった。叶うのならば、このままずっと続けてほしいと望んでしまいそうなくらいに。
神楽が唇を離す。色っぽく息を吐いてから、彼女は冬吾の顔を見て微笑した。
「ふむ……君のそういう顔は初めて見るな? 今ので気持ち良くなってくれたのか? ……嬉しいぞ。うん、よしよし。かわいいな、君は」
神楽は幼子をあやすようにして、左手で冬吾の頭を優しく撫でた。撫でながら、冬吾の耳元へ向かって小声で囁く。
「今まで、ひどいことしてきてごめんな……。信じてくれないだろうけど、全部仕方なくしてきただけで、本当は嫌だったんだぞ?」
……本当に?
「本当は私、君のことが好きなんだ。信じてくれなくてもいい。でも私は君のことを、何よりも大切に思っているんだからな?」
そんな馬鹿な、あり得ない。いや、でも、しかし――頷いてしまいそうになる。神楽の言葉は、その声が魔力を持っているかのように抗い難い。意識が安心感と幸福感の海に沈み込んでしまいそうな感覚。
神楽は、冬吾の理性を溶かし尽くすような甘ったるい声音と口調で言った。
「んー? なんだ? もしかして、もっとしてほしいのか? ふふっ。言わなくても、君の顔を見ていればわかる。もちろん、いいぞ。ほら……」
神楽が顔を寄せてきて、また唇を重ねる。甘い接吻の快楽で、正常な思考が上書きされていく。
そして――冬吾は霞がかったような意識の中で、神楽の右手が動くのを見た。その手は何かを持っていて、冬吾の腹へ押し当てられる。「バチッ」という音がして、その瞬間、冬吾の全身に強烈な衝撃が走った。
「うっ……ぐっ……!?」
恍惚とした世界から一瞬にして引き戻される。冬吾は大きく身体を震わせ、驚愕と痛みとで、叫んだ――が、接吻によって口を塞がれているため思うように声が出せない。チカチカと明滅する視界の中で、神楽の右手を見る。その手に握られていたのは、スタンガンだ。今の痛みは、高電圧を流されたことによる刺激だったらしい。
全身に麻酔を打たれたかのような感覚だ。筋肉が萎縮してしまって、まったく身体の制御ができない。長椅子の背もたれに、だらりと身体を預けてしまう。意識を集中させないと、息さえ苦しい。
神楽はようやく唇を離すと、嘲笑うかのように囁いた。
「くくくっ……そんなに良かったか?」
神楽の手が冬吾の頬を撫でる。
「こんな唇を重ね合わせるだけの児戯ではなく、もっと情熱的にしてやってもよかったんだがなぁ……? ふっ、そんな必要もなかったか。こんな馬鹿らしい芝居に騙されてくれるとは、ウブな坊やの扱いは簡単で助かるよ」
――くそっ!! とんだ大馬鹿野郎だ、俺は!
後悔しても遅い。どうしようもないほどに、致命的な失敗だった。あんな行動に、言葉に、惑わされてしまうなんて。油断していい相手ではないとわかっていたはずなのに――。
とにかく、抵抗してこの場を逃れなければ……。しかし、神楽を突き飛ばそうにも、身体にそれだけの力は入りそうもない。
せめて、何か武器があれば――そうだ、ポケットに入れておいたナイフ! あれを使えば……!
冬吾は震える右手を必死に動かし、尻ポケットの位置を探る。しかし、確かにそこへ入れておいたはずのナイフの感触がない。――そんな、どうして!?
「これを探しているのか?」
神楽の左手に、冬吾の探し求めていた小型ナイフが握られていた。神楽は余裕の笑みを浮かべて言う。
「咄嗟に抵抗されては困るからな。先ほど失敬しておいた」
あの時に……! まったく気がつかなかった。ナイフが尻ポケットに入れてあることを即座に見抜いたことといい、神楽にはスリの技術まであるのだろうか?
――駄目だ。ナイフが奪われてしまったことも痛手ではあるが、そもそもスタンガンのショックで立つことすら出来ないのだから、逃げ出すなんて不可能だった。
「さて……このまま君をいじめるのもそれはそれで楽しめそうだが――今はやめておいて、本来の予定をこなすとしよう」
神楽は冬吾から離れると、スーツの上着左ポケットから何かを取り出す。小さな錠剤――のようだった。神楽は、冬吾の視線がその錠剤に注がれているのに気づいて、
「これか? 即効性の睡眠薬だ。服用から一分もすれば効果が出始める。君には少し眠っていてもらうぞ。――ああ、その状態では飲めないか? ふふっ……心配するな、私が飲ませてやろう」
神楽は冬吾の口を無理やりこじ開けると、睡眠薬を左手の人差し指と中指に挟み持って、口の中に挿し入れた。
「あ……ぐっ……うぅぅ……!」
顎にもまだ力が入らない。指を噛んで抵抗することもできなかった。薬剤が舌の上に置かれ、神楽の細指が、それをゆっくりと滑らせるように奥へ動く。神楽は嗜虐的な笑みを浮かべて言う。
「抵抗すると苦しいだけだぞ?」
まずい……これは、本当に、まずい……。何をされるかはわからないが、これを飲んでしまったら終わりだというのはわかる。
辛うじて動く舌で指を押し返そうとするも、神楽の人差し指と中指はそれをかき分けるようにして容易く喉の奥深くにまで侵入してくる。指が舌の根元にまで達すると、嘔吐感を催すも吐き出すだけの力は無く、そのまま薬を飲み下してしまう。
神楽は、またゆっくりと冬吾の口内から指を引き抜いた。
「くくっ……まさか君に、指までしゃぶらせる羽目になろうとはな?」
神楽は愉快そうに笑いながら、取りだしたハンカチで唾液の付着した指を拭う。
「なんの……つもりだ……こんな、こと……」
必死に言葉を吐き出す。神楽の返答は、冷淡だった。
「だから、言っただろう? また、君を騙したんだよ」
「なん……で……」
睡眠薬の影響が早速出始めたのか、意識が朦朧とし始める。
「しかし……約束は約束だからな。教えよう、戌井冬吾」
神楽は、そこで初めて見せるような醒めたような表情で言った。
「君の父親を殺した犯人は、君がよく知る人物でもある。その名は――名護修一(なごしゅういち)だ」
「っ……!?」
名護修一だって? 今、そう言ったのか……?
「どう、して………………」
詳しく聞き出したかったものの、薬のせいでもう身体に力が入らない。冬吾はバランスを失って前のめりに倒れてしまう。そのせいで冬吾は、頭を神楽の胸元に抱き止められた。冬吾を左腕に抱いたまま、神楽は囁くように言う。
「さぁて、これからどうなるかな。勝つのは私か、それとも…………ふふっ、君には期待しているぞ?」
神楽は小さく笑ってから、冬吾の頭を手でふわりと叩く。
「それじゃあ、おやすみ……」
その言葉を聞いたのが最後――冬吾の意識は、底なしの闇に沈んだ。
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