裏稼業探偵

アルキメ

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case8 女神の断罪

2 アルゴス院の裁き

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 いつものように一通りの掃除を終えて、禊屋(みそぎや)こと志野美夜子(しのみやこ)は、ソファに座り込んでいた。くたっと背もたれに身を預けるように脱力しており、緩やかにウェーブしたルビーのように赤いロングヘアが、豊かな胸の上にかかっている。いつも上着にしているくすんだカーキ色のモッズコートは、ソファの背の部分にかけられていた。

 夕桜市北区にある、凪野(なぎの)ビル三階――かつて、鳥居(とりい)探偵事務所という看板を掲げていた場所である。

 黒革張りのソファ、大理石のテーブル、マホガニーの事務机、それに調査録のファイルと地図帳、辞書、雑誌に漫画が雑多に入り交じる本棚……すべて『あの頃』のままだった。違うのは、それらを使っていた『あの人』の姿がないということだけ。

 主を失って三年が経とうとしているこの事務所を、あの頃のままにしているのは、美夜子の意志によるものだった。主に代わってテナントの賃料を払い、定期的に掃除しに来ている――自分以外には、誰も訪ねて来ないことを理解した上で。

 ここにいると、ふとした瞬間に、幻が見えることがある。優しかったあの人の幻影だ。

 あの人はいつものように事務机に座っていて、調査中の資料か事務所の帳簿あたりとにらめっこしながらぼさぼさの頭を掻いている。何か話しかけると、「今忙しいんだよ」などと言いつつ、ちゃんと話に乗ってくれるのだ。一度見たことを忘れないこの脳は、いとも容易く、在りし日の記憶を再現してくれる。いや……再現してしまう。あの頃の幸せも、それを失ったときの悲しみも、等しくついさっきの出来事のように思い出せる……。

 美夜子は大きくため息をついた。

 あたしは何をしているんだろう。こんなことをして、時間が戻るはずもないのに。

 寂しいことをしている――その自覚はある。痛いほど理解している。やめようとしたことだってあった。それでも、この空しい行為を繰り返してしまう。記憶だけではない何かを残しておきたいから。理屈よりも感情を優先させてしまうというのは、探偵としては相応しくないことなのかもしれないが……。





 ――気がつくと、美夜子はソファの上で横になっていた。少し休むつもりだったはずが、いつの間にか寝入ってしまったようだ。

 灰羽根旅団(はいばねりょだん)からの依頼で彼らのアジトへ赴いたのが昨日。なかなかハードな仕事をこなしたばかりだったから、その疲れがまだ残っていたのだろうか。昨日発覚したことについて色々と考えておく必要もあったため、昨夜はあまり眠れなかったせいでもあるかもしれない。

 掃除を終えたときはまだせいぜい夕方だったのに、窓の外はもうすっかり暗くなっている。事務所の掛け時計を見ると、時刻は夜の九時を回っていた。

 いけない……こんなところで寝てたら、風邪引いちゃうよね。

 美夜子がのっそりと身体を起こそうとすると、ちょうどそのとき、テーブルの上に置いておいた携帯電話が振動し始める。美夜子はソファからそのままテーブルへ手を伸ばそうとして――

「あっだぁっ!?」

 ソファから転げ落ちた。床で腰をしたたかに打って、悶絶しかける。純真可憐な十代女子とは思えぬ叫び声を出してしまった。目覚めたばかりなのにいきなり意識が飛びそうだ。

「うぐぐ……いっ……ったぁ~い……もぉ~!」

 手で腰をさすりながら起き上がる。危うく齢十八にして今後寝たきりの生活を強いられるところだ。

 ……それにしてもいくら寝起きだったとはいえ、いかにも「運動神経ゼロです」という感じの落ち方をしてしまった。誰にも見られていないのに、恥ずかしい。

 ソファに座り直してから、テーブルの上で鳴りっぱなしの携帯を手に取る。

 携帯のディスプレイに表示されていた着信の相手は、ナイツ夕桜支社の支社長……岸上薔薇乃(きしがみばらの)だった。『探偵・禊屋』としての上司であり……また、『志野美夜子』としてはかけがえのない親友でもある。

 寝起きであるとバレないように、「あーあー」と軽くボイスチェックをしてから、美夜子は電話に応じる。

「――はーい。どうかしたー? 薔薇乃ちゃん?」
『ああ、美夜子。休日にすみませんが、あなたに伝えておかなければならないことが。場合によってはあなたにも動いてもらう必要がありそうです。少々……いえ、かなり厄介なことが起きてしまったようで』

 いつも冷静沈着で思慮深い彼女の声に、僅かながら動揺している様子が聞き取れる。それが既に異常事態であるという証だ。美夜子はすぐに探偵としてのスイッチを入れる。

「何があったの?」
『ノラさんのことです。わたくしにも詳しいことはまだわかっていないのですが、どうやら、彼が事件に巻き込まれてしまったとか……』
「えっ……!?」

 美夜子は、冷たい手で心臓を握られたような心地がした。「ノラ」というのは、美夜子がコンビを組むことになった戌井冬吾のために付けたコードネームだ。彼の身に何かあったのだろうか。

「じ、事件って……どんな!? 大丈夫なの!?」
『ノラさんに怪我はないそうです。ただ……』
「ただ……?」
『彼には、アルゴス院の幹部を殺害した疑いがかけられています』







 薔薇乃からの連絡を受けた美夜子は、事務所を出たところでタクシーを拾って、アルゴス院の本拠地――聖アルゴ修道院へ大急ぎで向かった。修道院で冬吾が巻き込まれたという事件について、詳しい事情を確認するためだ。

 聖アルゴ修道院は、夕桜市の中心市街地からやや外れたポイントにある。美夜子がいた凪野ビルからは、車で二十分ほどだった。

 到着すると、美夜子はタクシーを南側の門の前で降り、敷地の中へと入る。

 修道院の広大な敷地には、よく手入れされた公園のような緑豊かな空間が広がっていた。月明かりを頼りに、その中を駆け足気味の早足で歩いていく。

 美夜子がこの修道院を訪れるのは、およそ一年ぶりだった。一年前のナイツ・伏王会間の会合の際、薔薇乃の付き添いとしてやってきたのだ。

 会合の参加メンバーは毎回、両陣営ともに十名から十五名ほど。両組織のトップの他には、基本的に本部所属の幹部がメンバーとして選ばれるが、全国各地の有力支部の支部長からも何名かが参加することになっている。薔薇乃もその支部長枠の一人として選ばれ、一年前の会合に参加していた。

 「薔薇乃の付き添い」とは言ったものの、美夜子は実際に会議の場に混ざったわけではない。というか、建物にすら入っていない。興味本位でついていったはいいものの、想像以上に厳粛でぴりぴりとした雰囲気と自分の場違い感にすっかり参ってしまって、駐車場に停めた車の中で会合が終わるのを待っていたのだ。

 だからこの修道院を訪れたことがあるとはいっても、それは門から駐車場までの範囲だけであって、それ以外の場所は初めてということになる。まさかまたこの場所に来ることになるとは、思いもしていなかったが……。

 通例的に支部長が二回以上続けて参加することはないため、薔薇乃は今回の会合には関係していない。だが先ほどの彼女からの連絡によると、今はちょうど外出先で、すぐにはこちらへ戻って来られないとのことだ。代わりに支社から二人、修道院へ人員を送ったらしい。

 その二人とは修道院の本館で落ち合うことになっている。ノラ――冬吾も、今はその本館内でアルゴス院の監視の下、軟禁状態にあるらしい。数時間前に修道院内で発覚した殺人事件の――容疑者として、だ。

 彼が巻き込まれた事件について、そして、どうして彼がこんな場所にいたのかということはまだわかっていないが、とにかく心配だ。急がなくては――

「――へっくしゅん!」

 くしゃみが出た。うー……さすがに夜中は寒い。もうちょっと着込んでくればよかったかな? 

 時刻は夜の十時前。身を切りつけるような寒風が容赦なく吹いており、美夜子は途中、モッズコートのファスナーを閉める。

 敷地内の主要な建物は修道院本館、別館、そして礼拝堂の三つらしい。本館と礼拝堂は西側、別館は小さな林を挟んで東側にあるという。

 しばらく歩くと、本館と礼拝堂の建物の輪郭がはっきりと見えてきた。道は途中で分かれており、左手の道を行くと礼拝堂で、正面の道を行くと本館へ向かうことになる。礼拝堂の周りには数人の人影が見えたが、今はとりあえず、薔薇乃に言われているとおり本館のほうへ向かうことにした。

 本館はレンガ造りの二階建てで、やや古寂びていた。教会風の大きな建物ではあるが、組織の本拠地としてはナイツの本部はおろか、夕桜支社のビルと比べてもかなりコンパクトな外観だ。アルゴス院とナイツとでは組織の規模自体が違うのだから、当然ではあるが。

 窓からは屋内の明かりが灯っているのがわかるが、磨りガラスになっていて中の様子はわからなかった。入り口らしき扉の両脇には、二人の黒服が立っている。おそらく入り口を守る警備員だろう。美夜子は近づきながら、そのうちの一人に声をかける。

「あのー……」
「あ? ……誰だ、あんた?」

 不機嫌そうな表情と声で返される。男は見た目からすると二十代後半というところ。目つきが悪い上にかなり背が高く、腕や脚も太い。髪は茶髪で、両耳には赤い輪のピアスを付けていた。屈強なチンピラ、という印象だ。

「ナイツの、禊屋っていう者ですけど」

 男は少し思い出すようにしてから、その名前に思い当たったようだった。

「禊屋、禊屋……あー、あんたがあの? ふーん、ホントに髪が赤いんだな」

 男はじろじろと、美夜子へ無遠慮な視線を注ぐ。美夜子は物怖じすることなく、事情を話した。

「えっと……ここで起きたっていう殺人事件の件で、岸上薔薇乃の使いで来たんですけど……」
「あー……あれね。はいはい、えーっと……おい、頼むよ」

 そう言って、男は反対側に立っていた男へ向けて声をかける。本当に中に入れるのだろうか? 薔薇乃が予め話を通してくれているはずなのだが……。

 すると、反対側の男がこちらに寄ってくる。その男はそつなく一礼して、

「お話は伺っております、禊屋様。あの戌井という方のお知り合いだそうで?」

 美夜子はポンと両手を合わせて頷く。

「そうですそうです! 中、入れますか?」
「ええ、問題ありませんよ。上の者からもそう言われておりますので。先ほどもお二人、あなたと同じナイツ夕桜支部の方たちをお通ししたところです」
「そっかー、よかった!」

 薔薇乃からの話はしっかり通っていたようだ。先に来た二人というのは、薔薇乃が送り込んだ人員のことだろう。

 こちらの男は丁寧な対応だった。最初に話しかけたほうと同じく年齢は二十代後半くらい。身長は二人とも同じくらい高いが、こちらは幾分細身である。顔つきも優男風だ。最初に話しかけたほうがチンピラなら、こっちは礼儀正しいホテルマンというところか。対照的な二人だ。

「こちらへどうぞ」

 丁寧な男のほうに案内されて、扉の中に入る。入り口から先はてっきりロビーのような空間に繋がっているものと思い込んでいたのだが、更衣室程度の小さな部屋だった。古めかしい教会風の外観とは裏腹に、中は綺麗で無機質な印象だ。

 入り口から見て右と左には大小様々なロッカーが並んでおり、正面には分厚そうな鋼鉄製の扉が見える。その手前側に、小さなテーブルが一つ置かれていた。扉のすぐ横の壁には小さなパネル状の入力装置が付いている。おそらく扉には電子ロックがかかっており、それを横のパネルにパスワードなどを入力し開閉する仕組みになっているのだろう。

「これより先への立ち入りは、完全非武装が条件となっております。申し訳ありませんが、外部の方を本館内へお通しする際には荷物検査を受けていただく規則ですので、どうかご了承くださいますよう」

 その点は薔薇乃から聞かされていた。アルゴス院の本部内は完全非武装であり、それが組織間の会合場所として使われる理由の一つなのだそうだ。

 要するにこの部屋は、玄関であると同時に、本館内へ武器を持ち込めないようにするためのゲートの役割があるのだろう。

「ナイフや銃など、何らかの武器をお持ちの場合はこちらのロッカーにお預けください」

 男はそう言って、並んだロッカーを手で示す。鍵を掛けておいて、キーを持ち歩けるタイプのロッカーだ。なるほど、武器類は本館内に入る前にこのロッカーに預けておいて、退出する際に取り出すということか。今は武器になるようなものは持ち合わせていないので、使う必要はない。

「えーっと……その検査って、服も脱がなきゃいけないやつ? 裸になったり……」

 美夜子が尋ねると、男は慌てたように両手を振って否定する。

「えっ!? あ……い、いえ、とんでもない。簡単なボディチェックを受けていただくだけです。問題があるようでしたら、女性の職員を呼んできますが……?」
「ふーん、じゃあいいよ別に。さっさとやっちゃって」

 ちょっと触られる程度なら慣れてるし、今は余計な時間食ってるわけにはいかないしね。

 美夜子はコートのポケットから携帯や財布など一通りの持ち物を出してから、ボディチェックを受ける。持ち物は仕込み型の武器が混じっている可能性も考慮してか、一つずつ注意深く確認しているようだった。

「――はい。問題ないですね。ご協力感謝します」

 検査を終えると、男は正面の扉の横に付けられたパネルに向かって何か操作をする。暗証番号のキー入力、続いて指紋認証、最後にパネルに向かって男が言う。

「アベル」

 声紋認証まであるようだ。「アベル」というのは、おそらく彼のコードネームだろう。

 パネルから電子音が鳴った後、扉のほうから「ガチャ」という鍵の外れたような音がする。それにしても、これほど警備が厳重となると出入りするにも一手間だ。

 男がこちらを振り向いて言う。

「ロックを解除しました。これで中に入れますよ。退出されるのは自由ですが、一度出ると入るのにまた同じ手続きをする必要がありますので、ご注意ください」

 外部の者が本館に入るには、今やってもらったように警備員にロックを開けてもらう必要があるというわけだ。

「では、私は警備に戻ってもよろしいでしょうか?」
「ん、いいよー。ありがとー」

 軽く手を振り礼を言ってから、美夜子は厚い扉を開けて中に入る。

 扉の先は、小さなロビーだった。人影は見当たらない。

 床も壁も一面の白色で清潔感はあるが、やはりどこか無機質で落ち着かない感じもする。ロビーからは三つの廊下に繋がっており、それぞれの廊下には扉がたくさん並んでいるのが見えた。

 奥の方には厚いガラスで仕切られた窓口のようなところが見えるが、今は席を外しているのか、誰の姿もない。

 美夜子は困ったように髪を手で掻く。

 うぅん、参ったな……。ノラも、先に来てるはずの二人も……どこにいるんだろう? 中は思ってたより広そうだし、さっきの人に聞いとけばよかった。

 ロビーを見渡すと、隅のほうに一風変わった扉があるのを発見する。美夜子は近くに寄って見てみた。

 濃い赤色の大きな両開きの扉で、ロビーの中では一際存在感を放っている。何の扉だろうか……と考えていると、

「おーい、禊屋。こっちだこっち~」

 後ろ側から声をかけられた。聞き慣れた声に美夜子は安堵して振り向く。

「織江(おりえ)ちゃん!」
「よ~。そろそろ来る頃だと思って見に来たんだ」

 静谷織江(しずやおりえ)はそう言ってちょいちょい、と手招きする。

 栗色の髪を右のサイドテールにしており、シャツにレギンス、上着に厚手のジャケットという恰好だ。年齢は二十四、元Aランクの殺し屋であり、岸上薔薇乃の腹心の部下である彼女は、いつも通りどこかダウナーな雰囲気を纏っている。

「ノラがどこにいるか、知ってる?」

 織江に駆け寄りつつ美夜子は尋ねた。織江は廊下の先を指さして、

「あっちの部屋。突き当たりのとこに人が立ってるだろ?」

 廊下の突き当たり、黒い修道服を着た男が扉の前に立っている。

「あいつとはさっき顔を合わせてきた。お前が来てから話をしてもらったほうがいいだろうと思って、まだ詳しい事情は聞いてないけど」

 ということは、織江も事件についてまだ詳しくは知らないのだ。

「彼の容態は?」
「怪我はしてない。話もできる。でもまぁ……さすがにショックを受けている様子ではあったな。本人自体、まだ混乱してるみたいだったよ」
「そう……」
「――にしても、あんたも大変だね。今日は休みだったんだろ?」
「まぁね。でもこんなことになって引っ込んでるわけにはいかないし……。織江ちゃんは、今日お仕事は?」
「午前中にちょっとだけな。午後からは非番だったから、さっきまで寝てた」

 織江の仕事は、美夜子が把握しているものだけでもかなり幅広い。薔薇乃の護衛役に始まって、代理の交渉役、他組織への密偵、そして暗殺……薔薇乃の命令次第で彼女はどのようにも動く。夕桜支社を支える大きな柱と言えるだろう。

「そういえば薔薇乃ちゃんって、今日はどこに行ってたの? 遠出してたみたいだけど……」

 美夜子が尋ねると、織江は肩をすくめた。

「さぁね。詳しくは私にも知らされてないよ。プライベートなことで、護衛の必要はないらしいけどさ」

 そう言う織江の口調は、どことなくふて腐れ気味だ。必要ないと言われたのが面白くなかったのかもしれない……。

 廊下を突き当たりまで移動すると、修道服の男が一礼して挨拶する。

「どうも。あなたがナイツの禊屋様、ですね?」

 低音で落ち着いた声だ。美夜子は頷く。

「そうだけど。あなたは?」
「お待ちしておりました。私はアルゴス院の『ニムロッド』。今回の事件に関して、調査の責任者を任されています」

 ニムロッドは見た目四十代くらい、やや小柄の体格で、ブロンドの薄まったようなグレーの髪、青色の瞳を持つ白人だった。喋る日本語は流暢で、違和感はない。事件調査の責任者を任されるということはおそらく、彼はアルゴス院の中でもそれなりに上の方の立場にあるのだろう。

「アルゴス院としては、事態の一刻も早い解決を望んでいます。禊屋様にも協力していただければありがたい。事件については私から説明しますが――容疑者である彼からも、事情を話してもらったほうが良いでしょう。ではどうぞ、中へ」

 そう言って、ニムロッドは後ろの扉を開ける。美夜子は一度織江と目を合わせた後頷いて、部屋に入る。

 部屋の中は、小さな応接室のようになっていた。ソファがテーブルを挟んで二つ置かれており、部屋の入り口から見て向こう側のソファにジャージ姿の彼――戌井冬吾は座っていた。

「禊屋……!」

 冬吾は驚きと安堵の入り交じったような表情で美夜子を見上げる。事件に巻き込まれたことによる混乱だけではない、アルゴス院の人間からもたくさん詰問されたのだろう。少し見ただけで、心身共に疲れきっているとわかる。

 美夜子は一瞬、どう言葉をかけようか考えて――冬吾へ笑いかけた。

「……んふふっ。『まーた』捕まっちゃうなんて、キミもついてないよねー」
「……ほんとだよ」

 冬吾も僅かに表情を緩ませる。

「ここを出たら、一度お祓いにでも行ったほうがいいんじゃない?」
「考えとくよ。出られたら……だけど」
「出られるよ」

 美夜子はウインクして続ける。

「あたしが出してあげる。……だって、キミはこの事件の犯人じゃないんでしょ?」
「っ……!」

 冬吾の瞳が小さく揺れる。どういう感情の動きがあったかまではわからなかった。

「――話も聞かないうちから断言か。随分とこの男のことを知っているようだな、禊屋?」

 口を挟んできたのは、オールバックの髪型に眼鏡をかけた二十代半ばくらいの男――乃神朔也(のがみさくや)だ。乃神は気難しそうな顔をして、冬吾の向かい側のソファに座っていた。夕桜支社の幹部であり、禊屋への仕事の斡旋を担当する彼もまた、織江と同様、薔薇乃から差し向けられた人員の一人だったのだ。

 美夜子は乃神に向かって言い返す。

「んもう、相っ変わらず嫌みな言い方するなぁ、乃神さんは。仲間を信用するのは、悪いこと?」
「信用ならともかく、妄信は悪だ。少なくとも、探偵などという肩書きを持つ者のすることじゃない」
「んー……むぅ……」

 ムカつくけど、正論だ。

「あーはいはい、わかったよ。じゃあとりあえず、話を聞かせてくれる?」

 たしかに、まずは状況を正しく把握しなければ始まらない。細かいことを考えるのは、それからだ。

 すると、ニムロッドが取り仕切るように言った。

「ではまずは私から、現時点までに事件について判明していることをお話ししましょう。どうぞ、おかけになってください」

 美夜子と織江もソファに座って、冬吾と向かい合う形になる。ニムロッドは横に立ったまま、話を始めた。

「事件が発覚したのは、今日の午後六時過ぎ。今から約四時間前ですね。その時間に、隣の礼拝堂の中で……『キャメル』の遺体が発見されました」
「キャメル?」

 美夜子が尋ねると、ニムロッドは淡々と受け答えする。

「キャメルは我々の同胞……アルゴス院幹部のうちの一人でした。キャメルはコードネームであり、本名は名護修一。男性、歳は四十七」

 『名護修一』という名前を聞いた瞬間、冬吾の表情に翳りが見えた。ごく僅かな反応だったため、そう見えたというだけかもしれないが……。

 ニムロッドは更に説明を続ける。

「彼の遺体は、凄惨極まる状態で発見されました。腹を裂かれ、内臓を切り取られていたのです」
「な、内臓って……」

 それはまた、なんていうか……スゴイ。

「キャメルの遺体は既に我々の手で回収しておりますが、事件調査のため、回収前に撮影しておいた写真があります。ご覧になりますか?」
「うぅ……気乗りしないけど、見ないわけにはいかないよね……」

 ニムロッドが修道服のポケットから取りだした封筒を、美夜子は受け取る。

 封筒の中には、十数枚の写真が入っていた。とりあえず全部出してみる。

「うわっ……」

 それらの写真を見て、美夜子は思わず声を出してしまう。これは……思った以上に……。

「あっちゃ~、こりゃひどいなぁ」

 横から写真を覗き込んだ織江が言った。驚くというよりは、呆れたような反応。数え切れないほどの死体を目にしてきたはずの彼女がそう感じるほどの現場。

 そこに写っていたのは、想像以上に壮絶で――異様な光景だった。

 写真は様々な角度から被害者の遺体を写していた。写真から読み取れる遺体とその周囲の状況をまとめると、こうなる。

 礼拝堂の奥――祭壇前の一段高くなった場所に、その無惨な遺体は横たえてあった。祭壇と講壇の間にあたる位置だ。遺体の周りは大量の血液で汚れており、まさに血の海という表現が相応しい様相である。

 遺体は礼拝堂の入り口から見て右側に頭を、左側に足を向け、仰向けになっている。プロレスラーかなにかを思わせるような長身でがっしりとした身体つき、大男だ。服装はスーツで、上着のジャケットははだけている。足の横あたりに講壇があった。

 その遺体の異常性は、ニムロッドの説明どおり上半身に表れている。胸元から下腹部にかけて縦に一閃、シャツの上から刃物で切り裂かれたような大きな傷があるのだ。遺体の周囲には、その『内部』から取り出されたと思しき赤黒い肉と臓物が散乱していた。まるでスプラッタ映画の一場面だ。

 腹の傷のインパクトが大きいためそちらに目を奪われがちになってしまうが、よく見ると首筋左側、そして左肩にも傷跡らしきものが確認できた。こちらは……銃創のようだ。弾丸は二発とも貫通したようで、そばの祭壇にも正面から撃たれた弾痕のようなものが残っている。

「被害者の死因って、もうわかってるのかな? この首筋の傷が気になるんだけど……」

 ニムロッドは頷く。

「詳しい検死結果はまだ上がっておりませんが、現場で凶器と思しき銃、そして二発分の弾痕、そして空薬莢が見つかっています。薬莢のほうはそちらの写真にも」

 言われて写真をよく確認し直してみると、たしかに講壇のそばには二つの薬莢が落ちている。大きさからして、拳銃のものだろう。

「禊屋様のおっしゃるとおり、首筋の銃創が死因であると考えてまず間違いないでしょう。おそらくキャメルは首筋と左肩に弾丸を受け、失血性ショックで死亡……腹を切り裂かれたのはその後だったと思われます」
「現場で見つかった弾丸は、この二発だけ?」
「礼拝堂の中とその周囲は我々で一通り調べましたが、今のところ発見できた弾丸はその二発だけです」

 「それと」とニムロッドは続ける。

「遺体については既に信頼できる監察医を手配しておりますので、明日の朝には遺体の検案書をご用意できるはずです」

 このような場所で起きてしまった殺人である以上は、警察などを介入させられるはずもない。監察医の手配というのは、アルゴス院独自の伝手によるものだろう。

「あれ……?」

 順番に写真に目を通していると、何枚か様子の違ったものがあることに気がついた。遺体のある場所や体勢などは同じだが、それらの写真では、遺体に茶色い麻布のようなものがぐるぐると巻かれているのだ。実物が目の前にあるわけではないためわかりづらいが、布の横幅は約三十センチ、縦の長さは……巻きついた部分を考慮すると三メートルくらいはありそうだ。

 布は遺体の肩から足の膝下にかけて、斜めに四周ほど巻きつけられていた。まるで蓑虫かなにかのようだ。両腕も布の中に収まっているが、身体に対して巻きつき加減は緩く、ぶかぶか。布が巻きついている範囲でも、布同士の間にところどころ出来た数センチの隙間から遺体が覗いている。また、布の表面にも所々に血の汚れがべったりと染み付いていた。

「この……布? 写真では、写っているものと写ってないものがあるよね?」

 美夜子は写真を見せながらニムロッドに尋ねる。ニムロッドは「ああ」と思い出したように言ってから答えた。

「失礼、先に説明しておくべきでしたね。遺体が発見された時点では、その状態――つまり、遺体に布が巻かれた状態でした。そのままだと遺体の傷跡などが確認しづらいため、一通りの写真を撮影した後、布だけを取り去ってまた同じように撮影したのです。もちろん、それ以外の部分には触れぬよう細心の注意を払いました」

 では順序としては、この写真……布が遺体に巻かれた状態のほうが先だったわけだ。

「これ、犯人が巻きつけていったのかねぇ?」

 織江が疑問を呈する。美夜子は「うーん」と唸りつつ、

「犯人の仕業だとは思うけど……こんなことをした意味はわかんないな。――あ、そうだ。ニムロッドさん」

 ついでに質問する。

「この布って、現場にあったもの?」

 布が現場になかったものだとしたら、犯人が持ち込んだものである可能性が高い。だとすると必然的に、この「遺体に布を巻きつける」という行為が犯行において重大な意味を持つ可能性も高まってくるのだが……。

 ニムロッドは、美夜子の質問に対し頷いて答えた。

「――はい。その布は、現場にあったものでした。礼拝堂の祭壇に祀られていた、聖アルゴの聖骸布(せいがいふ)です」
「聖骸布っていうと、たしか……アレだよね。聖人の遺体を包んでいた布……だっけ?」
「はい。この聖アルゴ修道院が名目上所属している修道会……その創立者であるアルゴ・イステルの遺骸を包んだ聖骸布です。――もっとも、本物は本国の院に収蔵されているため、ここにあるのは本物より一回り小さいレプリカですが」

 聖骸布は、いわゆる聖遺物と呼ばれるもののうちの一つ。その中で最も有名なものが、キリストの遺体を包んだとされる「トリノの聖骸布」だそうな。前にテレビで見たので覚えている。

「それにしても……犯人はなんでこんなことしたんだろう?」

 そう言って美夜子は考え込む。銃で撃って殺害するだけならまだしも、腹を切り裂き内臓をぶちまけ、その場にあった聖骸布で遺体を包む……そんな行為にいったい何の意味があるだろうか? 全くもって異常としか言いようがない。

 すると、ニムロッドが美夜子へ向かって言う。

「犯人の行動の意図を探る……それも事件解決のために必要なことだと存じますが、まずは話を先に進めてよろしいでしょうか? 容疑者についても、ご説明しておくべきでしょうから」
「あ……うん。そうだね。お願い」

 犯行の異常性に気を取られて、最も大事な部分を疎かにしてしまうところだった。この事件……容疑者として捕らえられたのは冬吾なのだ。そもそも彼がどうしてこんな場所に来ていたのかも気になるが、それは後で本人から聞くとして……まずはアルゴス院が彼を容疑者と決めつけた理由、事件の謎を紐解くにはそれを知る必要がある。

「…………」

 冬吾は先ほどから口を開こうとしない。思い詰めたような表情だ。

「我々がそこの彼――戌井冬吾を容疑者として捕らえた理由は極めて簡単です」

 ニムロッドは静かな口調で続ける。

「キャメルを殺害できたのは、状況的に見て彼だけでした。それが理由です」
「どういうこと?」
「詳しくご説明しましょう。この本館の入り口には、二十四時間いつでも警備員が二人立っています」

 警備員がいるのは知っている。ついさっき見たばかりだ。

「通常、午後二時から午後十時までは同じ二人が場を担当することになっています。――先ほど言ったように、キャメルの遺体が発見されたのは午後六時過ぎ。つまりその二人の警備員は、犯行に関して最も重要な時間、本館の入り口から礼拝堂の人の出入りを確認しているのです」

 二時から十時までの担当……たしか、ここに入ったときはまだぎりぎり十時前だったはずだから、さっき見たあの二人だろうか。本館と礼拝堂は目と鼻の先。間には障害物もなく、礼拝堂の入り口はよく見えるはずだ。

 ニムロッドは修道服のポケットから手帳を取りだして、メモを確認しながら話を続ける。

「二人の警備員の話によると……被害者であるキャメルが礼拝堂へ入っていったのは、午後五時頃だったとのことです。キャメルは本館から出ていって、そのまま礼拝堂に入った……と」

 五時ということは、遺体発見時刻より一時間前だ。

「そして――戌井冬吾は、キャメルよりも前に、礼拝堂に入っているのを目撃されています。それが午後三時頃。そして、キャメルの遺体が発見されたときも――彼は、現場である礼拝堂内にいました」
「え……?」

 ニムロッドは顔色一つ変えず、淡々と続ける。

「キャメルが礼拝堂に入ってから遺体が発見されるまでの間、そこから出てきた人物はいません。礼拝堂には窓が付いていますが、はめ殺しのため開閉は不可能。割られた形跡もありません。また、勝手口などもないため、礼拝堂の出入り口は、正面の観音扉の一つだけです。その唯一の出入り口から出てきた人物がいないということは、キャメルを殺害した犯人はそのまま礼拝堂内に留まったことになります。そして、遺体発見時の現場に残っていた生きた人間は、彼だけでした。つまり、常識的に考えると――キャメルを殺害できたのは彼以外には存在し得ないということです」

 遺体発見時、冬吾が現場に残っていた……?

「ど、どうしてキミがそんな場所にいたわけ?」

 美夜子は戸惑いつつも冬吾へ尋ねた。

「…………」

 冬吾は言い辛そうに視線を下げる。そこで、それまで黙って話を聞いていた乃神が苛ついたように割って入った。

「どうした? やましいところがないのなら全て話せ。それともやはりお前が犯人だから、正直には言えないか?」
「そ、それは――」

 美夜子は乃神の前に手を差し出して、強引にやり取りを打ち切らせる。

「はいはい煽らなくていーから! 話くらいゆっくり聞いてあげよーよ、ね?」

 乃神はチッと舌打ちしつつも黙った。

 冬吾は美夜子の目を見て、少し躊躇うようなそぶりを見せたが、やがてゆっくりと話し始める。

「……俺は、伏王会の神楽に呼び出されて、あの礼拝堂に行ったんだ」
「神楽……」

 ――ああ、そういうことか。よりによってなんで『この日』、『この場所』なのかと思っていたけど、それがやっと繋がったような気がする。

「……なんて言われて、呼び出されたの?」
「……昨晩、神楽から携帯に電話があったんだ。親父の死の真相を教えると言われた」
「お父さんの?」

 冬吾の父親が刑事であり、四年前に不審死を遂げたということは知っている。冬吾が今でも時折、夕桜支社の資料室でその事件について調べているということも。

「怪しいと思ったし、神楽がなぜそんなことを俺に教えるのかもわからなかったけど……行かないわけにはいかなかったんだ。お前なら、わかるだろ?」

 美夜子は黙って頷く。冬吾がナイツに入ったときと同じだ。伏王会の実質的トップである神楽の力は絶大……神楽が脅迫すれば、冬吾は従わざるを得ない。彼にとって最も大切な存在である妹――灯里に危害が及ぶかもしれないとしたら、尚更だ。

 当然、実際にそんなことになれば神楽はナイツ・伏王会間の協定に反することになるが、片や伏王会の重鎮で、片やナイツの末端構成員……神楽がその気になれば、何の証拠も残さず冬吾たちを抹殺させるくらいは造作も無いだろう。

 仮に協定違反を咎めることが出来たとしても、多少の賠償金を支払わせるくらいが関の山で、神楽にとってそんなのはかすり傷程度の痛みにもならない。ナイツ側も、薔薇乃が仕切る夕桜支社はともかく、本部を含む大勢はそれだけのことで神楽相手にことを構えるのは避けたがるはずだ。

 神楽はそこまで見切った上で冬吾に接触してきたのだろう。そうだとして、彼女の意図や目的は一体……?

「神楽に呼び出されて、キミは修道院に行った……それから、どうなったの?」
「礼拝堂に辿り着くと、時間はちょうど約束の三時だった。礼拝堂の前には神楽の護衛が立っていて……きっと、俺が来るのを外で見張っていたんだろう。そいつは礼拝堂の中までは入ってこなかったから、俺は神楽と二人きりで話をした。……いや、話はしたけど、肝心なところは隠されて……というか、煙に巻かれた感じだったな」
「その後は?」
「……不意を突かれて、スタンガンを食らったよ」
「うわぁ…………」

 もうその時点で悲惨だ。すると、織江がやや呆れたように言う。

「不意を突かれてってな~……そんなヤバい相手と話すような状況だったのなら、もっと警戒しておくべきだったんじゃないの?」
「う……」

 冬吾は痛く気まずそうにして、視線を逸らした。

「気をつけてはいたんですけど、まさかあんなことされ――あ、いや……」

 何かを言いかけたのを誤魔化してから、とても深いため息をつく。

「俺がどうしようもなく馬鹿だったのが悪いんです……すみません……」

 なにかトラウマを呼び起こしたかのような冬吾の落ち込みっぷりに、織江もやや戸惑って、

「いや~、私に謝られても困るんだけど……。ていうか、そこまで落ち込まれると私のほうが恐縮しちゃうって……」

 それからフォローするように付け加える。

「まぁ、相手があの神楽じゃな……手練手管じゃ敵いっこないか」

 いったい何をされたのか気にならなくもないが……それを問いただせば冬吾を無意味に傷つけてしまう……ような気がする。あの神楽のことだ。またなにかわけのわからない方法で冬吾を惑わしたに違いない。

「スタンガンを食らって、その後はどうなったの?」

 美夜子は冬吾に話の続きを促した。

「身動きできなくなってる間に、神楽から薬を飲まされたんだ。たしか……睡眠薬だって、言ってたと思う」
「睡眠薬……」
「実際、その後すぐに意識が途絶えて……次に気がついたときには、礼拝堂の床の上だったんだ。神楽が俺を見下ろしていて……祭壇の近くに、あの人の死体があって……俺の手も血塗れで……」

 冬吾はうつむいて、苛立ったように右手で髪を掻き乱す。

「何が何だかわからなかった。本当に……わけがわからないんだ……!」

 冬吾は話を続けるうちに、胸の内に秘めていた感情を――無論全てではないにしろ――吐き出すようになる。冬吾が逆境に強い精神の持ち主であることは美夜子も認めるところであるし、先ほど対面したときにも落ち着いているように見えたが……こんな目に遭って動揺していないはずがない。冬吾は必死に平静を保とうとしていただけなのだ。

「……キミが混乱するのもしょうがないよ」

 美夜子は穏やかに言う。

「大丈夫……今わかっていることだけで充分だから、落ち着いて話して? ……ね?」
「…………ああ」

 冬吾は幾らか気を取り直したようにして、頷いた。

「ええっと……どこまで話したっけ……」
「目を覚ましたら、礼拝堂の床の上だったってとこ。そのとき、神楽がキミを見下ろしていたってことは……あの人はその場にいたんだよね。もしかして、遺体を最初に発見したのって……」

 冬吾の代わりに、ニムロッドが答えた。

「その通り、キャメルの遺体を発見したのは神楽様です。いえ、厳密に言うのならば……遺体の発見者は全員で五人でした。神楽様とその護衛の方、先ほど話に出た警備員の二人、そして礼拝堂の管理人……合わせて五人です」
「そんなに多くの人が居合わせていたの?」
「順番に説明しましょう。本日、この修道院の本館内でナイツ・伏王会間の会合が開かれていたことは、禊屋様もご存知であられるかと。その会合は、午後三時半から開始され午後六時に終了しております。神楽様は会合が終わって、すぐに護衛の方と共に礼拝堂へ向かわれました。キャメルと会う約束をしておられたそうです」

 キャメルは午後五時頃に本館を出て、礼拝堂に入っている……。それは、神楽と会うためだったのだろうか? だとしたら、二人は何を話すつもりだったのか?

「しかし――そこで神楽様が異変に気づかれたのです。『礼拝堂の扉に鍵が掛かっている』と。本館前にいた警備員二人は神楽様に呼ばれて、それを確認。二人とも、たしかに鍵が掛かっていたと証言しています。警備員が扉を叩き、中にいるはずのキャメルへ呼びかけましたが、反応はなし。扉の鍵はいつも礼拝堂の管理人が持っているので、警備員の一人が別館のほうにいた管理人を呼んできました。管理人の持っていた鍵で扉を開けたところ――」
「――キャメルさんの遺体を発見した?」

 ニムロッドは頷く。

「礼拝堂の扉は管理人が持つ鍵を使うか、内側から錠を操作しないと施錠できません。管理人――あるいは管理人から鍵を借り受けた誰かが扉を施錠したのならば、その様子を警備員の二人が目撃しているはずですが、二人はそんな人物はいなかったと証言している。扉は内側から施錠されたと見て間違いないでしょう。それが出来たのは、現場に残っていた戌井冬吾のみ。その点から言っても、彼が犯人である可能性は非常に高いと言わざるを得ません」
「つまり、現場は密室だった……ってことね」

 ……これは思った以上に、複雑な事件のようだ。警備員二人の視線による壁、そして施錠された礼拝堂の扉という物理的な壁による二重の密室。

 二ヶ月前、冬吾と初めて出会ったあの事件も密室殺人だった。そしておそらく――事件の裏にいるのは、今回も同じ人物のはずだ。

 ニムロッドは更に続けた。

「他にも、戌井冬吾が犯人であることを示す証拠が複数見つかっています」

 ま、まだあるの……。

 美夜子は軽い目眩を覚えたが、表情に出さないように努める。

 ニムロッドはまた別の封筒を取りだして美夜子に差し出した。中にはやはり写真が数枚入っている。

「現場で見つかった凶器です。ご覧ください」
「さっき言ってた銃のこと?」
「ええ。それと、腹を切り裂くのに使ったと思われるナイフです。銃のほうは犯人が持ち込んだものと思われますが、こちらは元々礼拝堂の中にあったものを使ったようです」

 写真はそれぞれの証拠品を礼拝堂の床の上に置いて撮影したもののようだ。

 大振りの片刃ナイフに、サプレッサー(消音器)を装着した黒フレームの45口径自動拳銃――コルト・ガバメント。銃には目立った汚れはないが、ナイフのほうは刃だけでなく全体が血塗れになっており、柄の部分には手で握ったような血の跡が付いている。右手の跡だ。

「礼拝堂内部の入り口近くに、掃除用具を入れた箱が置いてあるのですが……六時過ぎにキャメルの遺体が発見された際、戌井冬吾はその箱の裏に倒れていたそうです。銃は彼が倒れていた位置のすぐ近くで、ナイフのほうはレザー製の鞘とともに遺体の近くで発見されました。アルゴス院が所有する鑑定機関にそのナイフと銃の鑑定をさせたところ、現段階で次のようなことがわかっております」

 情報収集を主目的とするアルゴス院の傘下には、調査活動のための二次・三次組織が多数存在するという。中には警察の科学捜査研究所に匹敵するレベルの鑑定が可能な民間の鑑定機関もあるそうな。

 ニムロッドは鑑定結果について続ける。

「ナイフは見ての通り血塗れですが、この血液は被害者であるキャメルのものだと判明しています。また、コルトのほうは弾倉内の弾が六発になっていました。このモデルのコルト・ガバメントの装弾数は八発ですから、二発分減っていることになります。現場で発砲された弾丸も二発、それに、その二発の弾丸はこの銃と線条痕が一致しております。ナイフと銃、どちらも犯行に使われたものと見てまず間違いないでしょう。また、この両方から戌井冬吾の指紋が検出されました。とくにナイフのほうには、持ち手に付着した血の上から、べったりと指紋が残っていたそうです。両方とも彼以外の人物の指紋はなし。また、彼の右手からは硝煙反応も検出されました」
「硝煙反応……? ってことは、キミは銃を撃ったの?」

 美夜子は冬吾に尋ねた。

 銃を撃つと火薬の爆発によってガスが噴出する。そのガスの成分は手や着衣に付着し残留するから、それが検出されると発砲したことの証明になるのだ。

 冬吾はかぶりを振りつつ答える。

「俺は撃ってない。そもそも、銃なんて持ってきてなかったはずなんだ。もちろん、あんなナイフも知らないし……」
「そっか……。じゃあ、犯人が用意したのかな?」

 コルト・ガバメントはありふれた銃だ。この街では裏社会に少しでも関わりがあればそれを手に入れることは難しくない。入手ルートから冬吾の犯行を否定するというのは不可能だろう。

「でも実際にキミの手から硝煙反応が出たってことは……キミが意識を失っている間に誰かがコルトを握らせて、そして撃たせたってことになるんだろうね。睡眠薬の効果は強力だったみたいだし、キミは気がつかなかったんだよ」

 美夜子の仮説に、乃神が反論する。

「しかし禊屋。現場の祭壇に弾痕をつけた二発の弾丸はほぼ間違いなくキャメルを撃ったものだとして、お前の言うとおりならば、何者かがこの男に撃たせた三発目の弾丸が存在するはずだな? だが、コルトのマガジン内にある弾は二発分しか減っていない。それに、現場で三発目の弾丸が撃たれた痕跡が見つかっていないことはどう説明する?」

 美夜子は事も無げに返した。

「それは簡単だよ、乃神さん。ノラに銃を撃たせた何者か――まず間違いなく犯人だと思うけど、そいつは彼にキャメルさんを殺害した罪を着せようとして前もって準備をしていたはず。そう考えると、乃神さんが指摘した二つの問題はすぐに解決するんだ。まずコルトのマガジンは弾丸二発分しか減っていないということだけど、これは幾つか方法が考えられる。撃った後で一発分の弾丸をマガジンに補充したのかもしれないし、予備のマガジンを用意していたのかもしれない。あるいはもう一つの方法……犯人は、最初からコルトの薬室に弾を装填しておいたのかもしれない。その状態でフル装填のマガジンを入れておけば、撃てる弾が一発分増えるからマガジンの残弾数とは矛盾しないよね」

 予備の弾丸やマガジンを用意したり入れ替えたりする必要がない分、最後の方法が効率的で良さそうだ。

「次、二つ目の問題。そうやって撃たれたはずの三発目の弾丸の痕跡が現場で見つかっていないことについてだけど、これも簡単。見つからないように犯人が回収しただけ。そのまま発砲すれば現場のどこかに弾痕が残ってしまうだろうけど、それも防ぐことができる。犯人は弾丸を受け止められる道具を用意してたんだと思う。例えば……そうだなぁ……防弾着みたいな分厚くて硬い布とか? それを折りたたんで重ねるとかして、その上から弾丸を撃たせれば、弾丸は途中で止まって現場に弾痕を残すことなく回収できるよね。もちろん撃った後の薬莢も回収するとして、犯人が現場を離れるときに一緒に持ち去ってしまえば、現場で発砲された弾丸はキャメルさんを殺すのに使った二発だけだと見せかけることができる」
「ふむ……そうしたという証拠もないが、それなら一応の説明はつくか」

 言い方は少し気になるが、乃神は納得したようだった。

「それにしても、硝煙反応まで調べてるなんて随分手際が良かったんだね。まるで警察みたい」

 美夜子が言うとニムロッドは頷いて、

「捜査については神楽様からアドバイスを受けておりました」

 やはり、そこにも神楽が関係しているのか。冬吾にとって不利な証拠をこうまで的確に集められたのは、彼女の指示があったからだと考えるのが妥当だろう。

 美夜子は眉間を人差し指で擦りつつ考えてから、ニムロッドに質問する。

「ノラ……じゃなくて、彼が礼拝堂内にいるのを最初に見つけた人は?」
「それも神楽様です」

 それを聞いて、美夜子は冬吾へ質問した。

「キミが神楽と話をした位置は、礼拝堂のどのあたりだったの?」
「真ん中あたりだった。中には長椅子が二列並んでるんだけど、その右側に座ってたんだ」
「じゃあ、わざわざ眠ってるキミの身体を、そこから入り口近くまで運んだってことか……でも何のために……?」

 美夜子の言葉に、ニムロッドが口を挟む。

「禊屋様は、神楽様がそうしたと主張なさるおつもりなのでしょうか?」
「今のところ、可能性はかなり高いと踏んでるけど?」

 冬吾は長身で筋肉も付いた身体をしているから決して軽くはないだろうが、引きずっていけば短い距離なら運べるだろう。神楽は女としては上背のあるほうだし、それくらいの力はあるはずだ。

「なるほど……しかし、神楽様に犯行は不可能だったと申し上げておきましょう。あの方には、完璧なアリバイが存在するのです」
「アリバイっていうと……会合のこと?」
「そうです。神楽様は本館内で行われていた三時半から六時までの会合の間、一度も席を外しておりません。会合に参加した全員がそれを認めるでしょうし、立会人として同席していた私も保証します」

 それが本当なら、神楽が礼拝堂にいたキャメルを殺害するのは到底不可能だ。

 警備員二人の目撃証言で、キャメルは礼拝堂に入る五時頃までは生存が確認されている。そして六時過ぎになって遺体で発見されたが、その時の状況からして殺されたタイミングは六時以前としか考えられない。やはり会合が終わってから殺すのでは、遅すぎる。

 アリバイを考慮しないとしても――つまり会合をこっそりと抜け出すことができたとしても――やはり神楽に犯行は不可能だ。警備員二人の監視をかいくぐり礼拝堂に侵入しつつ、キャメル殺害後は施錠された扉を突破して脱出しなければならないのだから。

「たしかに、神楽には難しいかもね……。でもさ、彼女の行動には不審な点が多すぎるんじゃない?」

 神楽は冬吾を礼拝堂に呼びつけ睡眠薬を盛った上、キャメルの遺体が発見されるきっかけまで作っている。疑わしいという点は揺るがない。

 しかしニムロッドはかぶりを振って、

「当人の証言しかない以上、神楽様が戌井冬吾に薬を盛ったのかどうか、私どもにはその真偽を判別することができません。いえ、例えそれが真実だったとしても……結局のところキャメルを殺害できたのは状況的に戌井冬吾のみ。そこに疑問が生じない限りは、神楽様の行動に多少不審な点があろうとも……彼を容疑者として扱わざるを得ません。それとも禊屋様は、彼以外の人物でも犯行が可能だったことを証明できると?」
「むー……うぅん。それは、まだだけど」

 ――ダメだ。今はまだ、突破口が見当たらない。

 美夜子はひとまず話題を切り替える。

「ところで、さっきちょろっと言ってたけど……あなたも会合に参加していたんだね」
「ええ。アルゴス院側からも一人、立会人及び記録係として参加することになっていましたので。私が代表して参加を」
「ふーん。……じゃあ、あなたにもキャメルさんを殺すのは不可能だった?」

 ニムロッドは僅かに意表を突かれたような顔をする――が、すぐに元の落ち着いた顔つきに戻って言った。

「もちろんそうです」

 ……ま、そりゃそう答えるよね。

「――さて、事件の概要についてはこのようなところでしょうか。なにか質問はございますか、禊屋様?」
「じゃあ、一つだけ」

 これも忘れるわけにはいかない質問だった。

「名護さんは今日、何のためにこの修道院へ来てたのかな? 神楽と会う約束をしていたから礼拝堂へ向かったってことだったけど、その前はこの本館の中で何をしていたの?」
「主に、本日行われる会合の準備です。裏方のまとめ役として朝から動いてもらっていました。しかし夕方からはどうしても外せない用事があるとのことで、早めに仕事を切り上げることになっていたのです」
 
 その用事というのが神楽との待ち合わせだったわけか。

「他にはなにか?」

 美夜子はかぶりを振る。事件について調べるうちに聞きたいことは出てくるかもしれないが、とりあえず今はこれくらいでいい。

「では、今後のことについてお話ししておきましょう。先ほど乃神様と静谷様にはお伝えしましたが……此度、アルゴス院は『審問会』を開く運びとなりました」

 『審問会』――美夜子は参加したことはないが、薔薇乃から話を聞いてそれがどういうものであるかは知っていた。

 審問会というのは簡潔に言うと、組織間で意見が衝突した際に、アルゴス院が仲立ちとなって開く裁判である。

 互いに議論を行い、どちらの言い分が正当であるか、中立組織であるアルゴス院が判定するのだ。その名称は、中世ヨーロッパにおいて行われていた裁判・異端審問会に由来しているらしい。意味合いや目的は本来の言葉とは違うが、裁判という名目が共通しているからだろうか。

 審問会というシステムの意義は、ナイツと伏王会間の不可侵協定と同じく、二つの組織の諍(いさか)いが武力抗争に発展して、互いに大きく消耗してしまう事態を避けることにあった。ナイツと伏王会も、折りに触れて諍いを審問会によって収めてきたと聞いている。ナイツと伏王会の会合の日、アルゴス院の敷地内で起こったこの事件に関して審問会が開かれるのは、当然と言えるだろう。

 ニムロッドは、今回行われる審問会について説明を始める。

「今回の審問会にて裁定されるのは、『キャメルを殺害したのは戌井冬吾であるか否か』。伏王会側は当然、戌井冬吾がキャメルを殺害した犯人であると主張し、対するナイツ側は、戌井冬吾は犯人ではないと主張していらっしゃることになります。それぞれの主張に基づいて、より説得力のある論証を行った陣営が勝者となるでしょう。今回も伏王会は黒の陣営、ナイツは赤の陣営として争っていただくことになります。また、ナイツの皆様には代表の『審問官』の選出をお早めにお願い致します。伏王会の審問官は既に決まっておられるそうですので」

 審問会では、対立する二つの組織はそれぞれ赤と黒の陣営に分かれて戦うことになる。慣例的にはナイツ側が赤、伏王会側は黒を担当するようだ。

 そして、審問会において組織を代表して戦うのが審問官である。両陣営の審問官は、法廷に立ち、弁論や証人への尋問を一人で行うのだ。普通の裁判で言うところの、検事や弁護士の役割に当たるだろうか。審問官は、赤の陣営では『赤の審問官・ルージュ』、黒の陣営では『黒の審問官・ノワール』と呼ばれる。

「……待って。伏王会側の審問官って……?」

 まさかと思いつつも美夜子が尋ねると、ニムロッドは頷く。

「神楽様が今回のノワールを担当されるそうです」
 
 やっぱり、ここでも出てくるのね……。

 今度は乃神が尋ねる。

「審問長は誰がやるんだ?」
「私が務めさせていただくことになりました」

 ニムロッドは自分の胸に手を当てて答えた。審問長とは審問会における進行役で、裁判官のようなものだ。当然、審問会のホストであるアルゴス院から選出される。

「審問会の開始は明日の午後五時からとなっておりますので、その刻限までに各々の主張を裏付ける推理と証拠をご用意くださいますよう……」

 待って。今とんでもない言葉が聞こえたような。

「あっ、明日の午後五時って……なんでそんなすぐ!? 今からじゃ丸一日もないよ!?」
「通例通りであれば、審問会の準備のために少なくとも二週間ほどの猶予を持たせますが、今回は少々事情が異なります。我々アルゴス院の施設内で幹部キャメルが殺害され、その容疑者がナイツのメンバー……更には、その容疑者は伏王会の神楽様によって罠にかけられたと主張している……これは今までにないほど、非常にデリケートな問題と言えるでしょう」
「だったら、きちんと時間をかけて調べたほうがいいんじゃ――」
「いいえ、逆です。これは断言してもいいのですが……時間をかければかけるほど、事態は深刻に、そして複雑になってしまうはずです。協定によって全面戦争は避けられているとはいえ、今もナイツと伏王会が不安定な関係であるということは言うまでもありませんね? この問題によって発生する組織間の緊張状態……それが長く続けば、どのようなことが起こるでしょうか? 両組織から、この事件を利用してなにか仕掛けようと考える者が出てもおかしくない。そうなれば事件本来の形は歪められ、争いのきっかけを起こす道具でしかなくなってしまう。そのような混迷にひと度陥れば、もはや事件の真相を暴くなど到底不可能です。ナイツと伏王会にとっても、争いの種をこれ以上増やすことは不本意であろうと考えますが?」

 要するに、ナイツにも伏王会にも好き勝手に動く時間を与えないための方策というわけか。……たしかに、一理ある。

 今の状況は例えるなら、火薬庫に可燃性のガスが充満しているような状態だ。放置すればするほど、取り返しのつかない事態になるリスクは高まる。

 ナイツも伏王会も、自己の利益のためなら何だってする組織だ。事態が長引けば、双方の策謀に冬吾が巻き込まれる可能性も出てくるだろう。真相を闇に葬ろうと考えた者が、冬吾を消そうとすることだってあるかもしれない……。

 ニムロッドが続ける。

「無論、我々に害をなそうとしている者がいるのであれば、早急に対処すべきである……という事情もあります。我々にとっても、一刻も早い事件解決が望ましいのです」

 それを聞いて、織江は腕を組みつつ訝るように言う。

「ま~その辺の事情はわからなくもないけどさ……いくら何でも早すぎなんじゃない?」

 ニムロッドは意に介さず続けた。

「神楽様がおっしゃるには、伏王会側はすぐにでも戌井冬吾の犯行を立証することが可能であると。ナイツ側にも捜査の時間が必要であることはわかりますが、あまり長くは待てません。明日に審問会を開くのは、我々の長である『マスターバベル』のご意向でもありますので、どうかご承知を」

 そう言って、深々と頭を下げる。態度だけは丁寧だが、何と言われても変更するつもりはないらしい。

「マスターバベル……誰の前にも姿を現さないという、正体不明の人物か……」

 乃神が言う。美夜子もその名前は聞いたことがあった。マスターバベルはアルゴス院の創立者でありながら、その正体を知る者は誰もいないとされている人物だ。

 人前に姿を現すことはなく、アルゴス院の長として話す場合は常に変声機を通した音声通信か文字通信のみ。アルゴス院の独特な組織形態はマスターバベルによる巨額の出資によって支えられている……という噂だけは存在するものの、それさえ真偽は定かでない。ニムロッドの口ぶりからして、組織において強力な決定権を持っているのは間違いなさそうだが。

 ともかく、審問会が明日の午後五時から開始されるという予定は覆せそうにない。また神楽から何らかの手回しがあったとも考えられるが……それを確かめる術はないし、仮に確かめられたとしても、そこから先はどうしようもないだろう。

「確認しておきたいのだが……」

 乃神がニムロッドへ尋ねる。

「その審問会でナイツ側が負けた場合は、どうなるんだ?」
「伏王会側の主張通り、戌井冬吾こそがキャメルを殺害した犯人であると断定されます。そのことで、ナイツには賠償金を支払っていただくことになるでしょう」
「賠償金というと、幾らほど?」
「キャメルは優秀な仲間でした。組織の中核の一人である彼を失ったのは、我々にとってあまりにも手痛い損失……。また、このような害敵行為を受けたからには組織としての面目上、それなりの対応をさせていただく必要があるとして……。諸々の事情を考慮しますと賠償額は、六十億というのが妥当であると考えております」

 ろっ……六十億! 美夜子は思わず目を剥いた。まさかそれほどとは……。

 乃神は眉をひそめつつ、更に尋ねる。

「……それとは別に、審問会で負けた側は、勝者側に賠償金を支払うルールになっていたな。そっちは幾らになる?」

 ああそっか、そういえばそんなルールもあった。

 審問会を開くということは相手方に「こちらの主張が正しいのだ」とケンカを吹っかけているのだから、敗者が勝者に賠償金を支払って許してもらうのはある意味当然だ。その賠償金の額は、アルゴス院によって設定される。

「敗者から勝者へ支払われる賠償金の額は、審問会で取り扱う案件の大きさに比例させることになっております。その慣例に則って考えますと、今回は四十億……というところでしょう」
「合わせてちょうど百億、か……」

 乃神はため息をついた。冬吾のほうはというと、目を伏せているばかりで、無反応だった。既にそのあたりの話は聞かされていたのだろうか。

 乃神は眼鏡の位置を直しつつ、ニムロッドに向けて言う。

「審問会についてだが……まだナイツ側は申し出を受けるとは言っていない。そうだな?」
「それは、たしかにそうですが……しかしナイツが審問会に出ないというのであれば、状況から判断して戌井冬吾が犯人であると断定せざるを得ませんが?」
「しかしその場合は、賠償額はアルゴス院への六十億だけで済むわけだ?」
「そうなりますね」

 なんだか話の流れが不穏だ。美夜子が割って入る。

「えっと……乃神さん? まさか審問会の申し出、蹴るなんて言わないよね?」
「あくまで確認しているだけだ。そもそも俺にそんな決定権はない。――失礼、ニムロッド殿。今後のことについて身内だけで相談したいので、少し席を外してもらえるだろうか?」

 ニムロッドは「はい」と頷いた。

「では部屋の外でお待ちしておりますので、済んだら声をおかけください。それと……準備もありますので、審問会に参加するかどうかのご返答はなるべく早めにお願い致します」

 急かすように言い残してから、ニムロッドが部屋を退出していく。

 部屋にナイツのメンバーだけが残ったところで、乃神は携帯電話を取りだした。

「審問会の件、話が大きくなりすぎだ。だから、社長の指示を仰ぐ」

 たしかに、薔薇乃には相談しておいたほうがいいだろう。

 それより気にかかるのは、冬吾のことだった。先ほどからまた、思い詰めたような表情をしたまま話そうとしない。

 ……そうなるのも当然か。もしも犯人だと断定されてしまえば、六十億もの賠償の責任を取らされかねないのだから。

「……ああ、社長。乃神です。今よろしいですか? アルゴス院のことでご報告を――」

 薔薇乃が電話に出たようだった。




『――なるほど。おおよその状況はわかりました。……ある程度予想はしていましたけれど、かなり深刻な事態のようですね』

 電話越しに一通りの説明を受けて、薔薇乃が言った。スピーカーに切り替えた電話をテーブルに置いてあるので、彼女の声は部屋にいる全員に聞こえる状態だ。

「――で、ど~します? 審問会の申し出、受けるんですか?」

 織江が間延びした声で尋ねる。

『さて、それは……悩ましい問題ですね。実に……悩ましい』

 薔薇乃は本気で悩んでいるようだった。その反応に美夜子は動揺する。

「えっ……? ちょ……ちょっと待ってよ薔薇乃ちゃん。それって、悩むような問題かな?」

 薔薇乃なら、きっと迷わず決断してくれるものと思っていたのに。

「だって、審問会に出なかったらノラは、アルゴス院の幹部を殺した犯人にされちゃうんだよ? そうなったらどういうことになるか、わかってるの?」
『そうですね……まず、賠償六十億の責任を取らされて夕桜支社は著しく力を失うでしょう。その原因となったノラさんは本部の者によって処刑されるか……もしくは、生かされはすれど人間らしい扱いはされず、過酷な環境と労働で死ぬまで莫大な負債を返し続けるかのどちらかでしょうか。それに……彼の家族も、平穏無事というわけにはいかないかもしれません』
「っ……!」

 薔薇乃の最後の言葉に冬吾は痛みを覚えたかのような反応を見せたが、口を挟んでこようとはしなかった。代わりに美夜子が続ける。

「じゃあ答えは一つでしょ? 審問会に出て、こっちが勝つしかないよ!」

 電話向こうの薔薇乃は、困ったように小さくため息をついた。

『それが簡単に出来るのなら、わたくしも悩むことはなかったのですが……。相手があの神楽であるということを考えると、非常に困難であると言わざるを得ません。ことに、審問会という舞台においては、彼女以上の強敵はいないでしょう』
「……どういうこと?」
『あなたは知らないでしょうね。三年以上も前……神楽が現在の伏王会差配筆頭という地位に就くより以前の話です。ナイツと伏王会の対立は今より激しく、審問会を開いて争うことも多かった。その頃に神楽は、伏王会側の審問官……ノワールとして審問会の法廷に立ったことがあるのです。それも、一度や二度ではありません』
「神楽が審問会に……」

 初めて聞く話だった。美夜子がまだ裏社会に足を踏み入れてすらない頃のことだから、当然かもしれないが。

『そして……過去に神楽が審問官を務めたナイツ対伏王会の審問会、合計で八回――その八戦全てにおいて、ナイツ側は惨敗を喫しているのです』
「八回やって、全敗……」
『……当然、ナイツ側も手を抜いていたわけではありません。審問会で争う以上、負けてしまえば失うものは大きい……金の問題だけではなく、組織の体裁にも関わってきますから。ナイツ側も全力を尽くして戦いましたが、それでも負けたのです』

 ……つまり、それほどまでに神楽の能力が圧倒的だったということか。

『わたくしも傍聴人として、神楽の法廷を見たことがあります。……あのときわたくしは、魔法でも見ているかのような心地でした。当初はナイツ側が断然有利であると思われていたような案件でさえ、神楽はいつの間にかひっくり返してしまう。彼女はいつ何時でもすべてを見通し、議論の流れを完全に支配していた。それはまるで、法廷に神の意思でも働いているかのような……。それが、神楽の法廷術。いつしか彼女には、“神理誘導(ゴッドハンド)”という異名まで付けられたほどです』

 少しの間を置いてから、薔薇乃が続ける。

『神楽を相手に審問会で戦うということがどういうことか、おわかりになりましたか?』
「…………」

 美夜子は無言のまま、答えない。

『……それに加えて今回は、神楽のほうから仕掛けてきた。彼の――ノラさんの証言を信じるのならば、ですが』

 薔薇乃は慎重に補足した。

『神楽は場当たり的に動く性格ではありません。向こうから仕掛けてきたからには――勝つ確信があるということ。ただでさえ手強い相手が、罠を仕掛けて待っているという状況なのです。そんな勝ち目の薄い勝負にベットすべきかどうか……支部長という立場にある者としては、慎重に判断せざるを得ません』
「……薔薇乃ちゃん自身の考えは、どうなの?」
『……選ぶとすれば、あなたとは逆の選択肢です』

 薔薇乃はまたしばらくの間を置いてから、『これは仮定の話ですが』と続ける。

『審問会には出ずに六十億で事態を収拾すれば、大きく力を失うとしても、まだぎりぎりで取り返しはつきます。復活するチャンスもいずれはあるはず。しかし審問会に出て負けてしまえば、最悪です。百億の損失と組織としての面子を潰した責任でわたくしの首は飛ぶでしょうし、夕桜支社そのものが閉鎖、あるいは他所の支部に統合されてしまうかもしれない。賢いあなたであれば、そのあたりのことは理解できますね?』
「…………」

 ……たしかに、組織のことを最優先に考えるのならば薔薇乃の選択が正しいのかもしれない。だが――それでは冬吾は助からない。……助からないのだ。

 視線を上げて冬吾の様子を窺う。冬吾は目を瞑ったまま、黙って会話を聞いていた。

『さて……では乃神さんと織江さんのご意見も、お聞かせ願えますか?』

 薔薇乃が二人に話を振った。しかし美夜子はなおも食いついて、

「薔薇乃ちゃん、やっぱりそんなの納得できないよ! ノラは――」
『少し黙りなさい禊屋。今あなたの意見は聞いていません』

 ゾッとするほど冷たい薔薇乃の声が、美夜子の話を遮った。普段の薔薇乃であれば、美夜子には決して見せない冷徹な反応。電話越しにも伝わるその凄みに、美夜子は黙り込んでしまう。

 薔薇乃は改めて尋ねた。

『乃神さんは、どう思われますか?』

 乃神は足を組み、少し考えてから答える。

「私も社長と同意見です。審問会は明日の夕方からで、事件について調査する時間も充分ではありません。そもそも、この男が本当に無実であるかどうかもわからない。そして相手側の審問官はあの神楽……勝負に出るにはリスクが高すぎる」

 美夜子は焦りを感じていた。

 まずい……このままじゃ本当に、審問会に出ない方向で話がまとまっちゃう。どうしたらいいの……?

『では、織江さんはどうお考えでしょうか?』
「う~ん……」

 織江は頭を掻きつつ、ちらりと美夜子のほうを見る。そして、軽く肩をすくめると――やれやれ、とでも言いたげな様子で答えた。

「保留……ってんじゃダメですかねぇ。なにも今すぐに結論を出さなきゃならないってわけじゃないんだし……まぁ、時間的余裕があるわけでもないけど。とりあえずもう少し事件のことを調べてみて、禊屋が審問会での勝ち筋を見つけることが出来たら、申し出を受ける……っていうのはどうです?」
『…………なるほど』

 そう言って、薔薇乃はしばらく無言になる。三十秒ほど経ってから、薔薇乃は話を再開した。

『……わかりました。禊屋』
「は、はい……」
『わたくしがそちらに着くまで……あと二時間ほどかかります。それまでに、審問会で神楽に勝つための糸口を見つけなさい。そうすることが出来たのなら……わたくしも、そちらにベットしましょう』
「薔薇乃ちゃん……」
『それと、もう一つ。これは審問会に出ることになった場合の話ですが』

 薔薇乃は一呼吸置いてから続ける。

『こちらの陣営で神楽に勝てる者がいるとすれば……それは、あなただけです。赤の審問官……ルージュは、あなたが務めなさい』

 美夜子は頷いた。

「……もちろん、最初からそのつもりだったよ」
『では先ほどの約束どおり、制限時間は二時間です。……頑張って』

 最後にそう言い残して、通話が切れる。薔薇乃はギリギリまで譲歩してくれたのだ。このチャンスを活かさない手はない。

 二時間……その間に、少なくとも殺人事件を解決する糸口くらいは見つける必要がある。現状、まだ手がかり少なすぎる状態だ。まずは……。

 美夜子は、両脇に座る乃神と織江に向けて言う。

「……あのさ、悪いんだけど二人ともちょっと席、外してもらえるかな? ノラと二人で話がしたいの、少しだけでいいから」
「ん……わかった。行きましょー、乃神さん」

 織江が席を立って乃神のスーツの袖を引っ張る。

「おいこら引っ張るんじゃない、シワになるだろ……。禊屋、早くしろよ」

 そう言い残して、乃神も織江と共に部屋を退出する。それを待ってから、美夜子は切り出した。

「……ねぇノラ。他になにかないかな? 手がかりになるようなこと…」
「…………」
「ノラ……?」

 冬吾はうつむいていたが、やがてバツの悪そうな顔を上げる。

「……ごめん。めちゃくちゃ迷惑かけてるよな……俺」

 美夜子は小さく笑った。

「なに言ってんの。迷惑だなんて思ってないよ? 少なくともあたしはね」
「禊屋……」
「……だって、あたしはキミの相棒だもん。相棒のことは、頼ってくれていいんだよ? ――なんて、今のはキミの受け売りだけどね」
「……そうだったな」

 昨日の、灰羽根旅団に関する一件の際に聞かされた言葉だ。灰羽根旅団はナイツを通して禊屋としての美夜子に依頼を出しつつ、その裏で、美夜子と冬吾の二人を抹殺する計画を立てていた。あのとき冬吾が命懸けで助けてくれなかったら、間違いなく美夜子は殺されていただろう。

 だから……今度はこちらが助ける番だ。

「あっ……そういえば」

 美夜子はふと気になって、冬吾に尋ねる。

「灯里ちゃんは大丈夫なのかな? キミがこんな時間まで帰ってこないこと、心配してるんじゃない?」
「それなら一応は大丈夫だ。さっきあのニムロッドって人に頼み込んで、家に電話をかけさせてもらった。大学の友達から頼み事をされて、夜通しそいつを手伝わなきゃならなくなったから、今日はそいつの家に泊まる……ってことにしてある」
「そっか。じゃあそこの心配はいらないんだね」
「誤魔化すのには苦労したけどな……あいつ、そういうのに敏感だから」

 冬吾の妹である灯里とは、美夜子は一度だけ直接会ったことがある。冬吾と一緒に三人で軽くお茶をしただけだったが、灯里の人柄を美夜子は好ましく思っていた。灯里は兄思いで優しく、しかし、病弱な女の子だった。

 四年前に父親が亡くなり、そのショックもあって、灯里はある重い病気にかかってしまったらしい。今でこそだいぶ回復してはいるが、無理は出来ない状態で、健常の人と同じというわけにはいかない。その引き替えに――というのは不適切かもしれないが、病気になったその頃から彼女は人の感情に敏感になったのだという。

「灯里ちゃんのためにも……ちゃんと帰らなきゃね」
「……ああ」

 冬吾が頷く。きっと、それが彼にとって一番大切なことなのだろう。

「ところで、友達を手伝うって……キミ、学校に夕莉(ゆうり)さん以外の友達がいたんだね。いやぁそりゃそうなんだろうけど、この前学園祭の準備日に行ったときにはそれっぽい人を見かけなかったから……」
「ん……あー、いや、それは……べつに」
「え?」
「…………べつに」
「……そ、そっか。じゃあその話はもういいや」

 話を本題に戻す。

「――で、どうかな? 事件のことで、まだ話してないこととか……ない?」

 冬吾はゆっくりと頷いた。

「……ある」
「それは、なに?」
「殺されたキャメル……名護修一のことを、俺は知っていた」

 驚きはしなかった。ニムロッドから名護の名前が出たときに冬吾が見せた反応で、予想は出来たことだ。

「名護さんは親父の同僚だった刑事で、親父が死んだばかりの頃はよく世話を焼いてくれていたんだ」
「じゃあ、その人がアルゴス院のメンバーだったってことは?」
「もちろん知らなかった。ニムロッドから聞かされて、俺も驚いたよ」

 刑事はあくまで表の顔であり、その正体はアルゴス院の幹部だったというわけだ。

「それに……」冬吾は更に続ける。「俺は昨日、名護さんに会ってるんだ」
「ほんとに?」

 それはさすがに予想外だった。

「ああ。昨日、夕桜支社からの帰りにな。家の前であの人が待っていて……これを渡してきた」

 冬吾は懐から一冊の手帳を取り出す。黒革のカバーで、ボタンで留めるベルトが付いていた。

「これは……?」

 美夜子は冬吾から手帳を受け取る。カバーの下端には、『C.Inui』という文字列が刻まれていた。

「それ……親父の手帳らしいんだ」
「キミのお父さんの?」

 なるほど。冬吾の父親の名前は戌井千裕だから、その名前がカバーに刻まれているのだ。

「親父の遺品にはなかったし、俺も初めてそんなものがあるって知ったんだけど……なぜか、名護さんが今まで隠し持っていたみたいなんだ。なんで隠していたのかは、教えて貰えなかった」
「うぅん……。それを、どうして今になってキミに渡したんだろう?」

 冬吾は額に手を当て、入念に思い出すような仕草をしつつ答える。

「たしか、『頼まれた』……って言ってたな。名護さんは誰かに頼まれて、俺にこの手帳を渡しに来たみたいだった。その誰かが言うには、この手帳は俺の役に立つはずだから……ということらしいんだけど」
「この手帳が……キミの役に立つ、ねぇ……」

 そう言いながら、美夜子は手帳をよく確認してみる。手帳のカバーにはとくに気になる点はない。カバーベルトを外し、ぺらぺらとページをめくってみるが、日程を添えた予定表らしきものや何かの電話番号、他にもメモらしきものが横書きに雑多に並んでいるばかりで、普通の手帳のようにしか見えない。

「昨日の夜、俺も一通り読んで確認してみた。殆どはなんでもないようなメモばかりだったんだけど、後半のほうに幾つか気になる部分を見つけたんだ。ちょっと貸してくれ」

 冬吾は美夜子から手帳を受け取って、後半部のとあるページを開いて見せた。

「――ここ。メモが書かれてある最後のページだ。見てくれ」

 たしかに、見開きの左側のページに短い文章が二つほど書かれているだけで、右側のページは綺麗に空白だった。横書きの手帳を普通に使っていたとしたら、このページこそが、戌井千裕が生前最後に記述したページということになる。

 そのページには、走り書きでこうあった。

『11/20 午前2時 地下室の夜景 待ち合わせ 名護』

 美夜子はそのメモの意味を考えてみる。

「十一月二十日……午前二時……これって、待ち合わせのメモだよね? 『地下室の夜景』っていうのはよくわからないけど……場所を示すものだろうね。お店の名前か何かかな? それに、待ち合わせの相手は名護さんだったみたい」

 冬吾は頷く。

「ああ。それに……その十一月二十日っていうのは、俺の親父が死んだ日なんだ」
「キミのお父さんが亡くなった日……」
「その前の日……俺は親父から、仕事で泊まりになるって聞かされていたんだ。でも事件の後で警察に確認してみると、親父は十九日の夜に署を退勤してそのまま帰ったらしい。その日はとくに大きな事件を抱えているわけでもなかったんだと。それなのに、俺や灯里に泊まりになると嘘をついて、帰ってこなかったのは……」
「名護さんと会う予定があったから? ……でも、それも変な話だよね? だって名護さんは同僚の刑事さんだったんでしょ? 話をするなら職場でもよかったんじゃ……」
「それなんだけど、待ち合わせが午前二時だったっていうのが気になる。二時って言ったら、もう完全に深夜だろ? そんな時間に待ち合わせってことは……職場では話せないような内容だったのかもしれない」

 たしかに、その可能性はある。――とすると、確認しておくべきことは……。

「キミのお父さんが亡くなった事件について、教えてくれる? 思い出すのは、辛いことかもしれないけど……」

 冬吾は僅かに逡巡したようだったが、「わかった」と答える。記憶として定着しているのだろう、冬吾は途中で淀むことなくその時の状況を話してくれた。

「――親父の遺体が発見されたのは四年前の十一月二十日、早朝の六時頃だった。朱ヶ崎(あけがさき)の『ハードラック』っていうバーの裏手に倒れていたのを、バーのマスターが掃除のときに発見したらしい。死因は腹を刃物で何度も刺されたことによる失血死だった。死亡推定時刻は当日の午前二時から三時頃。発見したマスターも含めてその時間に店にいた数名は誰も親父との接点がなく、犯人に繋がるような証拠も見つからなかった。遺体のあった場所が小さな裏路地だったことと時間帯のせいで人通りはなく、目撃者もゼロだ。でも……」
「でも?」
「遺体には、死後に動かした痕跡があったらしい。現場に残った血痕の量も、遺体の出血量と比較して少なかったんだと。だから……」
「お父さんは別の場所で殺されて、その後でそこに運ばれたのかもしれない……ってことだね」

 それは重要そうな情報だ。それはそれとして、予想通りだったこともある。

「――それに死亡推定時刻が二時から三時ってことは、手帳にあった名護さんとの待ち合わせの時間と一致している。順当に考えると、名護さんはキミのお父さんを殺した一番の容疑者だけど……」
「だから、隠していたのかもな……手帳」

 冬吾もその点についてはもう気付いていたようだった。そして、更に告白する。

「あの礼拝堂で、神楽が言っていたんだ。俺の親父を殺した犯人は……名護さんだって」
「神楽が……?」
「俺たちが最初に会ったあの事件のとき、あいつは岸上豪斗のことを盗聴していた。それで親父の事件の真相を知ったらしい」
「そっか……あの日、豪斗おじさんはその真相を伝えるつもりでキミを呼び出したんだったね。おじさんを盗聴していた神楽がそれを知ったとしてもおかしくはないか……」

 だが……それで納得していいのだろうか? なにか釈然としないものを感じる。そもそも神楽は、どうして豪斗を盗聴していたのだろう? 夕桜支社の内情を探るためだと今までは思っていたが、本当にそうだったのか?

 今回の動きにしてもそうだ……神楽の目的が読めない。会合に参加していたという堅牢のアリバイがある以上、彼女が殺害の実行犯である可能性は低い。しかしそれでも、犯行の共犯者であることは間違いないはずだ。名護修一殺害の咎によって冬吾を陥れ、ひいては夕桜支社を追い込むことが目的だったのだろうか?

 気にはなるが……今はまだ、置いておこう。この段階で答えが出せるとは思えない。

 代わりに美夜子は冬吾へ質問する。

「キミはどう思うの? 名護さんは、犯人だったと思う?」
「……どうだろう。正直言って、よくわからないんだ。名護さんが悪い人だとはとても思えなかったし、親父と仲が悪かったなんて話も聞いたことがなかった。でも、思い返してみると……あの人は何かを隠しているようなそぶりを見せたことが何度かあったような気がする……」

 半信半疑、というところか。

「でも、もしも名護さんが……」

 冬吾はそう言いかけて、途中で口をつぐむ。

「名護さんが、なに?」

 美夜子が尋ねると、冬吾はなぜか居心地悪そうに目線を逸らした。

「あ――いや、なんでもない」
「そう? ちょっとしたことでも気にしないで言ってくれていいんだよ?」
「ほんとに、なんでもないんだ。ごめん」

 なんか妙な反応だけど……まぁいいか。

「――それで、こっちの書き込みはどういう意味なんだろう?」

 美夜子は手帳のそのページにある、『もう一つ』のメモを指さす。名護との待ち合わせの日時を記したらしいメモとは別に、下に少し離れて、このように添え書きがしてあるのだ。

『Mの件は保留 偽の証拠がない』

 待ち合わせだとすぐにわかる上のメモとは違って、こちらはその文章が何を意味しているのかよくわからなかった。冬吾もそれは同じらしく、かぶりを振って答える。

「全然わからない。『M』が何なのかもさっぱりだし、『偽の証拠』っていうのも……何のことやら」
「でもこうして手帳に一番最後に書き込まれているってことは、キミのお父さんの死に関係している可能性はあるよね」

 このことはよく意に留めておく必要がありそうだ。

「他にこの手帳で気になったところはある?」
「あともう一カ所、気になる記述があったんだ。少し戻るんだけど……」

 冬吾は手帳のページを幾らか遡って、また別の見開きを美夜子に見せる。

「これって……」

 これは、どういうことなのだろうか? まさか冬吾の父親の手帳から、『この名前』が出てくるとは……。

「禊屋、わかるか? 『これ』の意味……」

 もしかしたら……というのは頭に思い浮かんでいるが、美夜子は『その出来事』について詳しくないので確信が持てない。

「……後で他の人に確認してみるよ。とくに……織江ちゃんに。この手帳、預かってもいい?」
「ああ、もちろん。これも事件の証拠品ってことで調べられたんだけど、記録はもう取ったってことで返してもらえたんだ。だからお前に渡しても大丈夫だと思う」

 美夜子は手帳を受け取って、コートのポケットに仕舞う。

 名護修一が殺害された事件と、冬吾の父親である戌井千裕が殺害された事件……二つの殺人が関係しているかはまだ不明だが、その可能性も視野に入れておく必要はあるだろう。

「そういえば……この手帳、持ち歩いてたの?」
「たまたまだよ。気になった部分について、今みたいにお前の助言が欲しくてさ。修道院からの帰りに夕桜支社に寄ってお前に見てもらおうと思って、上着のポケットに入れておいたんだ」

 実は今日はお休みで支社にはいなかったんだけど、まぁ結果オーライとしよう。

「他にあたしに話しておきたいこと、ある?」

 冬吾はしばらく考えてから、

「あ……そういえば」

 思い出したように言った。

「昨日、名護さんから妙なことを訊かれたんだ。たしか……そう、叢雲(むらくも)。『叢雲という名前を聞いたことがあるか』。そう訊かれた」
「叢雲……?」
「俺は初めて聞く名前だった。どうにも人の名前らしいんだけど……俺が知らないって答えたら、『知らなければそれでいい』って、それ以外は何も言わずに帰っていった」

 美夜子にも聞き覚えのない名前だ。叢雲……その人物は、事件に関係しているのだろうか?

「う~ん、わかんないことだらけだね……。でも名護さんって人のことは、もっと知っておく必要がありそう。他に何か、情報ないかな?」
「情報って言われても……俺だって昔たまに会ってたってだけだからな。あまり詳しくはないぞ。まだ話してないことといったら……警察の射撃大会で何度も優勝したことがあるらしいとか、そのくらいだ」

 名護は射撃が得意だったようだ。その情報は、今のところ事件とはとくに関わりがなさそうだが……。

「悪いな……。もっと有用な手がかりになるようなことを言えたら良かったんだけど……」
「ううん。どんな情報だって、いつ役に立つかはわからないものだよ」

 事件の犯人もトリックも動機も、まだわからないことが多すぎる……が、とりあえず何を調べるべきかというのは掴めた。

「――じゃあ、あたしはそろそろ行くね。現場も見ておかないといけないし」
「わかった、気をつけて……」

 美夜子が椅子から立ち上がろうとすると、冬吾が何か言いたげなそぶりを見せた。

「ん? なぁに?」
「あ……いや。その……ありがとうな」

 やや気恥ずかしそうに冬吾が言う。美夜子は右手の人差し指を立てて笑った。

「んふふ、まだその言葉は早いんじゃなぁい? あたしはまだキミのために何もしてないし」
「いや、でも……」
「だいじょーぶ。心配いらないから」

 美夜子はテーブルの上に身を乗り出して、冬吾の右手を両手でそっと包む。そして、冬吾を安心させるように優しく言った。

「あたしが必ずこの謎を祓って、キミを助けてあげる。だから、お礼を言うのはそのときでいい。……ね?」
「……そう、か。……でもやっぱり、言わずにはいられなくてさ」

 冬吾は美夜子の手に包まれた自分の右手を見つめたまま、それに左手で触れる。

「本当に……ありがとう」
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