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case8 女神の断罪
3 閉じられた神の部屋
しおりを挟む「――おっ待たせ~!」
美夜子は部屋を出て元気よく言った。
「おー、もういいのか?」
廊下の壁によりかかっていた織江はにやにやした顔で尋ねる。なにがおかしいのかはわからないが、美夜子は「うん」と頷いた。
「織江ちゃん、さっきはありがとね」
「うぇ? 何が?」
「薔薇乃ちゃんとの電話のとき、あたしの味方をしてくれたでしょ?」
「あー、はは……別にそんなんじゃないけど」
織江は照れ臭そうに頬を掻く。
「ま~……あいつは一応、弟子みたいなもんだからな。少しくらい、情も湧くってもんさ」
織江が支社のトレーニングルームを使って、冬吾に身を守るための技術を教えていることは美夜子も知っていた。彼女と冬吾の間にも、絆があるのだ。それがわかると、なんだか嬉しさがこみ上げてきた。
美夜子は喜んで両手をぱたぱたと動かす。
「そっかそっか~。じゃあ、乃神さんもなんだかんだでノラに情が湧いてるから、手伝ってくれちゃったりする?」
織江の隣りにいた乃神は、面倒くさそうに言った。
「お前のことは手伝ってやるが、それは仕事だからだ。あいつのこと自体はどうでもいい」
「ですよねー」
でも手伝ってくれるなら助かる。
「じゃあ、とりあえず現場を見に――」
「お待ちください、禊屋様」
声をかけてきたのは、ニムロッドだった。手には一冊のファイルを携えている。
「我々のほうで回収した証拠品や、事件発覚までの流れについて、現在までにわかっていることをまとめたものです。捜査にお役立てください」
美夜子はファイルを受け取って、中身をざっと確認する。凶器の銃とナイフ、それに遺体発見時の状況などについて、先ほどニムロッドから説明を受けたようなことが写真も添えて書かれてあった。
「ふぅん……随分親切にしてくれるんだね?」
「もちろんです。事件解決のためであれば、アルゴス院は可能な限り協力させていただきますよ。何なりとお申し付けください」
それなら目一杯利用させてもらおう。
「ではでは、一ついいカナ?」
「なんでしょう?」
「事件のあった時間、現場の近くにいた人を教えてほしいの」
「……近くというと、どの程度の? 礼拝堂の周囲ということであれば、本館の前にいた警備員二人が目撃していないはずがありませんが……それについては先ほど申し上げたとおりです」
三時に冬吾、五時に名護が礼拝堂の中に入ったということだった。それから六時に神楽が礼拝堂に入ろうとして、名護の遺体を発見することになったらしいが……。
「警備員の二人は、さっきの話に出た人たち以外には誰も見ていないのかな?」
「少なくとも事件に関わりがあると思われるキャメルが礼拝堂に入って以降――つまり五時以降は、神楽様が本館を出られた六時まで誰も目撃していないそうです。そこまで気になるのでしたら、直接二人に話を聞いてみますか?」
「うん、そうさせてもらおうかな」
「先ほど勤務時間が終わったばかりですので、まだ館内に残っているでしょう。私のほうで話をつけておきます。また後ほどお越しください」
では、それまではこちらの捜査を続けさせてもらおう。
現場である礼拝堂までの移動途中、美夜子は冬吾から聞いた名護修一についての話を、かいつまんで乃神と織江に伝えた。
「――で、それが被害者の名護から託された手帳というわけか」
美夜子の持つ手帳を見て乃神が言う。訝しげではあるが、とくにケチをつけてきたりはしない。
手帳にあった記述について、二人の意見も聞いておきたいところではあるのだが……それはもっと落ち着いて話ができるタイミングを待ったほうがよさそうだ。
「でも何者なんだろうな~? その手帳を名護に渡すように頼んだやつっていうのは……」
織江の疑問ももっともである。冬吾の役に立つと思って手帳を渡してきたのならば、少なくとも敵ではないように思えるが……しかし現状、この手帳の存在が何の役に立つのかわからない。味方であるのならば、もっとわかりやすいヒントを残してくれそうなものだ。
「――にしても、叢雲か……」
織江はその名前を呟いて、どこか遠い目をする。
「叢雲って人について心当たりがあるの? 織江ちゃん?」
「あー……いや、心当たりってほどでもない。ま、後で話すよ。先にこっち調べたほうがいいっしょ?」
織江は前方を指さす。いつの間にか礼拝堂の前に辿り着いていた。
扉の前には、アルゴス院のメンバーらしい修道服の男がまるで門番のように立っている。まだ若く、少し太めの男だ。
こちらが声をかける前に、相手のほうが気がつく。
「あ、ナイツの禊屋さん? 連絡もらってますよ。現場を調べるんですよね?」
「うん、そうだけど……」
「念のため、アルゴス院の者が一人立ち会うことになってます。もしも勝手に現場を弄くられてしまうと、後で困ってしまいますから。伏王会側も同じルールですんで、ご了承ください」
まぁ、そのくらいは仕方ないか。捜査の邪魔さえされないのであれば気にすることもない。
「私はアルゴス院のバフィンです。では、中へどうぞ」
バフィンは礼拝堂の扉を開いて、美夜子たちを中へ通した。
礼拝堂の内部は思ったよりも狭い印象だ。そして少しばかり薄暗い。
入り口から見て奥のほう――祭壇の前の一段高くなった部分には、まだ大量の血痕が残っている。ついでに、鼻をつく嫌な臭いも。実際に死体があったときと比べたら、これでもだいぶマシなのだろうが。
近寄ってみると、そこに死体があったのだということが実感としてわかる……ような気がした。
「現場のものは、なるべく事件発覚時のままにしてあります。遺体や証拠品の類は解剖や鑑定のために回収していますけど」
バフィンは美夜子の後ろにつきながら言う。
現場はアルゴス院があらかた調べた後だろうから、まだ見つかっていない証拠品が残っている可能性は低い。――が、一応、調べてみる必要はあるだろう。
中央奥に置かれた祭壇の左右にはそれぞれ一体ずつ、二メートルほどの大きさである天使像が立っていた。円柱形の台座に女性の天使が乗っている形状だ。
「ん……あれは……」
美夜子は、向かって左側の天使像の更に左、壁に何かがあるのを見つけた。
近寄って、壁に向かって手を伸ばす。壁に金属製のプレートが貼り付けられており、そこに文字が刻まれているのだ。どうやらこの修道院の来歴を記したものらしい。
要約するとこうだ。
この修道院はフランスの聖人アルゴが一二〇〇年代に立ち上げた修道会に属しており、今から約七十年前、そこから派遣された九名の修道士によって設立されたのだという。修道会を作ったアルゴはその後、殺人の罪で捕らえられた仲間の聖職者を庇ったことで統治者の怒りを買い、その仲間ともども腹裂きの刑に処されたのだとか。そして、この修道院の祭壇に祀られているのはアルゴの遺体を包んだ聖骸布のレプリカ……ということらしい。
腹裂き……それに聖骸布……まさかこの事件は、その処刑になぞらえたものなのだろうか? つまり、見立て殺人……!
「――だとしたら、この見立ては何かを隠すために……?」
何かになぞらえているかのように見せかけて、犯人の本来の目的をその中に隠蔽する……というのが見立て殺人のセオリーだ。一見して意味のない見立てに、犯人が何を隠蔽したかったのかがわかれば、事件解決に大きく前進できるはずなのだが……。
……ダメだ。やっぱりわからない。
まぁ、まだ推理を絞るには時期尚早かもしれない。見立て殺人であるというのも、今のところ思いつきのようなものでしかないのだから。今は先入観に囚われることなく、着実に手がかりを集めることのほうが重要だ。
美夜子は一段高くなった床を上がって、遺体が横たわっていた位置に立ってみる。近くにあるもので気になるのは、やはりこの祭壇だろうか。
祭壇は胸の高さよりやや低い程度で、その上の左側と右側に燭台が一つずつ置かれていた。両方とも最近使われた形跡はなく、蝋燭も乗っていない。燭台の間の中央には何も置かれていないところを見ると、犯行に使われた聖骸布はここに畳んだ状態で置かれていたようだ。更に奥にある壁には、悠然と佇む女神を描いた宗教画が飾られている。
「見ろ、禊屋」
乃神が祭壇の低い位置を指さす。
四角形の祭壇の側面――床から数えて八十か九十センチくらいの高さに、並んで弾痕が二発分残っている。先ほど写真でも見た、キャメルこと名護修一が撃たれた際についたと考えられる弾痕だ。周囲には、被害者が銃で撃たれたことを示す飛沫状の血痕が付着している。
「被害者は首筋と左肩を撃たれたんだったな。それなのに弾痕がこの位置にあるということは、被害者はおそらく……屈んだ状態で撃たれた。違うか?」
乃神の意見に美夜子は頷く。屈んで近くで弾痕を観察しながら、
「あたしもそう思う。それにこの弾痕……角度からして、斜め下から上に向かって撃たれてる」
「すると……犯人はもっと低い位置から撃ったということになるな。犯人も屈んでいたのか?」
「多分ね。この弾痕から推測される射線を辿っていくと、その先は……」
そこで美夜子は後ろを向く。視線の先にあるのは、説教や聖書朗読に用いる講壇だ。
講壇は礼拝堂の入り口側に向けて置かれているので、祭壇側は裏側ということになる。講壇の裏には、観音開きの戸が付いていた。おそらく、中は収納スペースになっているのだろう。
美夜子は左右の戸にそれぞれ付いていた丸く出っ張ったキノコ形の取っ手を引いて、開いてみる。予想通り中は収納スペースになっていたが、何も入っていなかった。その代わり残っていたのは――おびただしい量の血痕だ。底面全体にべったりと赤黒い色が広がっていた。
「これは……返り血の量ではないな」
乃神が呟くように言う。まさしくその通りだ。犯人が講壇の中から拳銃で被害者を撃ったとして、こんな量の返り血が内部に残るはずがない。これはどういうことなのだろう?
そこで、織江が思い出したように言う。
「あ~ほら、さっきニムロッドから貰ったアレ。そのファイルに何か書かれてるんじゃないか?」
「そっか! 見てみるね」
美夜子は持っていたファイルを開いて確認してみる。講壇については先ほどのニムロッドの説明に出てこなかったが、単に省かれただけかもしれない。
「ええっと……お、あったあった」
講壇について説明されたページだ。写真も付いている。
写真に写った講壇は、戸が開かれた状態だった。その中には血塗れのナイフが一本と、レザー製の鞘が置かれている。
ファイルの解説には、こうあった。
『遺体発見の時点で、遺体のそばにあった講壇は戸が開かれた状態だった。戸の中には、犯人が被害者の腹部を切り裂くのに用いたと思われる片刃ナイフとその鞘が残されていた。戸の取っ手から名護修一の指紋を検出。それ以外の指紋は検出されず』
次のページにはそのナイフについての解説がある。
『講壇の戸の中で発見された片刃ナイフとその鞘。元々、講壇の中に仕舞われていたものだが、犯人が被害者の腹部を切開及び内臓を切除するために使用したと推定される。被害者の血液が全体に付着。ナイフの柄の部分からは、付着した血の上から戌井冬吾の右手の指紋が検出された。また、指紋は鞘にも残っている。ナイフ本体、鞘ともに戌井以外の人物の指紋は検出されず』
このナイフは元から講壇の中にあったものらしい。だとすると、犯人は偶然見つけてそれを使っただけなのだろうか? それとも、そこにナイフがあるということを予め知っていたのか……。
乃神がファイルを覗き込みつつ言う。
「なるほど……。被害者を解剖するのに使ったナイフは遺体の近くにあったとニムロッドが言っていたが、ここに置かれてあったわけか。であれば、この血痕もそのせいで付いたのだろうな」
「そういうことだね」
腹を裂き内臓を取り出したのだから、相当な量の血液がナイフに付着していたのだろう。それで犯人がナイフを置いた講壇内にも血痕が残ったのだ。よく見ると、講壇内の所々に刃に付着した血を擦りつけて拭ったような跡や、血振りして付着したらしい飛沫状の血痕が幾つかある。これらは解体作業中に付いたものだろう。
「オッケー。話を戻しましょー」
美夜子はパンと手を打って、再び弾丸がどこから撃たれたのかについて検討する。
「銃弾の射線から考えて、犯人がこの講壇の中から被害者を撃ったのは間違いないんじゃないかな」
「しかし、なぜこんな場所から?」
「たぶん、犯人は講壇の中に隠れていたんだよ。そこで物音を立てるかなにかして、礼拝堂内にいた被害者をおびき寄せた。そして不審に思った被害者が講壇の戸を開いた瞬間、犯人は銃を撃った……こんなところ?」
「ふむ……不意打ちで確実に殺すためだったというわけか。それなら距離は近いし、狙いを外すこともないな」
講壇の中は、身を屈める必要はあるだろうが、平均的な成人男性一人が隠れるには充分なスペースがあった。
「それはわかったけどさ~禊屋」
織江は礼拝堂内を見回しながら言う。
「この事件一番の問題は、あいつ以外に犯人らしき人物が礼拝堂に入るところも、出るところも目撃されてないってとこだろ? そっちのほうの見通しはどうなんだ?」
「んー、それは……今から考える!」
正直言って、まだ皆目見当がつかない。犯人はどうやって本館前にいた警備員に目撃されずに礼拝堂に入り、そして脱出したのか?
窓を見てみたが、ニムロッドが言っていたとおりはめ殺しで開閉は不可能だった。何らかの仕掛けが施された形跡もなし。
入り口の観音扉の他には出入りが出来そうなところはない。犯人が物質をすり抜けられる超能力の持ち主でもない限り、必ず警備員に目撃される出入り口を使わざるを得ないのだ。
警備員一人だけならまだしも、二人に気づかれることなく礼拝堂の出入りを行うというのはさすがに無理がある。考えられる手段としては……やはり、『遺体が発見されるまで現場に隠れていた』だろうか。
犯人は事件発覚よりずっと以前……例えば、警備員が交代するタイミングなどを狙ってこっそりと礼拝堂に忍び込んだ。そしてそのまま名護が来るまで講壇の中に隠れ続けていたのではないか。そうすることで三時に来た冬吾にも存在を気づかれることなくやり過ごし、その後五時にやってきた名護を殺害したのだ。
しかし六時の遺体発見時には既に講壇の戸は開かれた状態だったというから、犯人は殺害後、講壇ではない礼拝堂内の別の場所――第二の隠れ場所に移ったのだろう。そうして身を隠し、遺体が発見された際の混乱に乗じて脱出した……とすればどうだろうか?
そう考えれば、礼拝堂の扉に鍵がかかっていたのも、内側から施錠したということで説明が可能だ。
この推理の問題点は二つ。一つ目は、遺体発見の混乱に乗じてとはいえ、遺体発見者が五人(そのうちの二人は神楽とその護衛なので省くとしても三人)もいた中で、存在を全く悟られることなく犯人が礼拝堂を脱出できるのだろうか……ということだ。かなり難しそうに思えるが、このあたりは、実際に遺体を発見した人たちに話を聞いておく必要があるだろう。
そしてもう一つの問題。犯人が講壇の次に使った、第二の隠れ場所がどこかということだが……。
堂内は狭く、身を隠せそうな場所は少ない。別室へ繋がるような扉も見当たらなかった。
長椅子の下の空間などは一応隠れられないこともないだろうが、さすがに見つかるリスクが高すぎる。隠れ場所としては選ばないだろう。
美夜子は辺りを見回して、あるものに目をつけた。入り口の扉近く、礼拝堂に入ってすぐ左側の壁際に、大きな木製の箱が置いてあるのだ。横長の長方形、飾り気のない衣装箱という感じである。
美夜子は箱に近寄っていき、上にかかった蓋を開けてみる。中身は、箒や雑巾、洗剤といった掃除用具だった。ニムロッドが言っていた箱とはこれのことか。遺体発見時、冬吾がこの箱の裏に倒れていたという話だった。たしかに、裏には壁との間にぎりぎり一人分ほど隠れられそうなスペースがある。
犯人がこの箱の中に隠れていて、それを見落としたということはさすがにないだろうが……一応そのあたりは遺体を発見した人たちに聞いてみる必要はあるだろう。
「おい禊屋。ちょっと来てみろ」
乃神が美夜子を呼ぶ。祭壇横の天使像の近くで何か調べていたらしい。
「どうかした?」
近寄りつつ美夜子が尋ねると、乃神は右側の天使像の裏側に回って言う。
「この像、少し変わった仕掛けがあるようだぞ」
乃神は天使像の下部――円柱形の台座部分を指し示す。
「ここに、切れ目のようなものがある。わかるか?」
「んー? ……あ、言われてみればたしかに」
裏側から見ると、台座の横面に長方形を描いたような切れ目があった。よく見ないと気がつかないほど僅かな隙間だ。
「この切れ目が気になって触ってみたら、こうなった」
乃神は屈んで、その長方形の中心あたりに手で触れると、横から押し込むように力を加えた。「ガチャ」という音が鳴り、その切れ目の内側部分が蓋のように外れる。
「あっ……!」
美夜子は驚いて声を出してしまう。まさかこんな仕掛けがあったとは。
乃神が台座の蓋を外すと、その中に空間が現れた。直径が二十センチ、高さが三十センチほどの円柱を縦半分に切った、半円柱のような空間だ。中には何も入っていない。
「すごい! こんなのよく気がついたね、乃神さん!」
「たまたまだ。隠し部屋の一つでもないかと探していたら目に付いた。それより、これは事件の解読に役立ちそうか?」
「それは……う~ん……」
台座内の空間は、せいぜいちょっとした収納スペースに使えるかどうかという大きさだ。仮に――まずあり得ないことだが――犯人が小さな子どもだったとしても、ここに隠れるのは無理だろう。
「禊屋、こっちにも同じ仕掛けがあるみたいだぞ~」
もう一方、左側の天使像の近くで織江が言う。
「ホントに?」
美夜子はそちらも確かめてみたが、右側の天使像と同じように、台座が開いて中の空間が現れる仕掛けになっていた。やはり中身は空っぽだ。
「バフィンさん、この像の仕掛けについて何か知らない?」
美夜子が尋ねると、小太りの修道士は苦笑いでかぶりを振った。
「いやぁ、すみません。私もそんなものがあるとは知りませんでした。今はこうして見張りを任されていますけど、普段はこの礼拝堂に来ることなんてないんです。礼拝堂の管理人なら、なにか知っていると思いますけど」
「管理人さんっていうのは?」
ニムロッドの話にも出てきていたが、まだどういう人物なのかは聞いていなかった。
「サラというまだ若い女性です。事件のことで話を聞かれていたようですけど、さすがにもう帰ってるんじゃないですかね」
残念だが、話を聞けるのは明日になりそうだ。
「そっか……。ほいじゃ、ついでにもう一つ質問いいかな?」
「ええ、どうぞ」
「殺されたキャメルさんって、どんな人だった?」
バフィンは困ったように頭を掻いた。
「いや、それがよくわからないんですよ。私は下っ端もいいところなんで、幹部だったキャメルとは話したことがないんです。アルゴス院の仕事で一緒になったこともありませんでしたし。だからどういう人柄だったのかは知りません。ただ……噂は聞いたことがありますね」
「噂って?」
「キャメルは今から四年ほど前にアルゴス院に現れたんですが、どうやらその前は殺し屋として活動していたらしいですよ」
「えっ……殺し屋?」
美夜子は思わず聞き返す。
「はい。その当時のコードネームはわかりませんけど、かなり腕利きの殺し屋だったんじゃないかと。そうだとすると、キャメルがアルゴス院に入って数年で幹部を任されたのも納得がいきますよ。能力が優れているというのも勿論あるでしょうけど、高名なヒットマンであればその肩書きだけで組織にとっては価値がある。他の色んな組織への伝手やコネもあるでしょうしね」
なるほど……。凄腕のヒットマンであれば重要な仕事を任されることも多いだろう。それだけ多くの貴重な情報を握っているということだ。裏社会の情報を集めることを目的とするアルゴス院にとっては重宝しておきたい人材だったのかもしれない。
それにしても、キャメルこと名護修一は謎が多い人物だ。表向き刑事でありながら、その裏ではアルゴス院の幹部、そしてそれより以前は殺し屋だった……?
やれやれ……ちょっと一人で設定抱え込みすぎなんじゃないの?
バフィンは最後に付け加えるように言う。
「まぁ、ただの噂ですから。あまりあてにはしないでくださいよ?」
「ん、オッケー。ありがとう!」
気になる情報は手に入ったが、依然として事件の密室については謎のままだ。
あと調べておくべき場所はどこだろうか? ……そうだ、一番大事なところが残っていた。
礼拝堂の入り口である木製の観音扉だ。美夜子は近寄って、礼拝堂の内側と外側、それぞれから念入りに調べてみることにする。
扉の厚さは充分、かなり頑丈そうだ。扉を閉じた状態だと壁や床との間に隙間は殆どないため、糸などを差し込むことはできそうにない。
内側から見て扉の右側、合わせ目に近いところに内鍵が付いている。金具を下にスライドさせることで扉の合わせ目に付いたフック状の留め金が飛び出し、扉左側の受け金にかかってロックされる仕組みになっているようだ。鍵を開ける際には逆に金具を上にスライドさせればいい。
内側からガチャガチャと何度か操作してみたが、やや錆びついているのと、扉のサイズに合わせて錠も大きめになっているせいか、金具をスライドさせるのに結構な力がいる。指で開閉するだけならもちろん簡単だが、何かしらの仕掛けを用いてこの固い内鍵をかけるとするなら、かなり難しいはずだ。
今度は外に回って、扉の鍵穴とその周囲を観察する。傷跡などといった怪しい痕跡は見当たらない。手で触ってみても異常は確認できなかった。
調査ファイルを確認すると、この扉については次のような説明があった。
『礼拝堂唯一の出入り口となる扉。遺体が発見される直前まで鍵が掛けられていた(遺体を発見した全員が確認)。管理人サラが所有する鍵で解錠された。扉や鍵穴に細工が施された痕跡はなし。内鍵部分から戌井冬吾の指紋を検出』
……密室が作られる上で扉に細工が施されたのであれば、何らかの痕跡が残っていそうなものだ。それが一つも見つからないということは……やはり扉周りのトリックではない? それとも何か見落としがあるのか?
それに、扉の内鍵に付いていたという冬吾の指紋。おそらく冬吾が礼拝堂に入った際に神楽に言われて鍵を閉めたとか、そのあたりが真相なのだろうが……この指紋の存在は、『遺体発見時の状況的に礼拝堂に鍵を掛けられたのは内部にいた冬吾だけ』という主張を更に強めてしまうだろう。伏王会側がその路線で攻めてくるのは火を見るより明らかだ。
「はぁ…………」
手応えなし。美夜子はため息をつきつつ堂内に戻る。
現場を調べてみれば何かしら案が浮かぶのではないかと思ったが……今のところ、ピンとくるような推理はなかった。
このままじゃ、少しまずいかもしれない。簡単な事件でないことはわかっていたつもりだが、予想以上に難解だ。
この謎が解けない限りは、審問会で神楽に勝てるはずもない。薔薇乃が到着するまでに、全部とはいかないまでも、その半分ほどは答えを出さなければならない。それが出来なければ審問会に出ることを認めてはもらえないだろう。
果たして、自分にそんなことが本当に可能なのだろうか……?
「――っ!」
美夜子は頭を振って雑念を払った。
――いけない。こんなときに何を弱気になってるんだ、あたしは。
戒めるように右手で拳を作り、自分のこめかみを小突く。
そんなことで悩む暇があったら、謎を解くために頭を使え! わかっているのか? 彼を助けられるのは、アンタしかいないんだぞ?
……もちろん――もちろん、わかってる。
美夜子はふー、と大きく息を吐くと、今度は近くの長椅子に座り込んで、ニムロッドから受け取った調査ファイルを開いた。まだ知らない情報がこの中にあるかもしれない。
ファイルのページをめくっていくと、『容疑者の所持品』という項目に行き着く。冬吾が確保された際に身につけていた物品についての項目のようだ。写真付きのリストになっており、簡易的な説明書きが添えられている。
財布に、家の鍵……このあたりはどうでもよさそうだ。
千裕の手帳も同じくリストに掲載されているが、被害者である名護の名前が出てくる箇所として例の待ち合わせメモのページを写した写真が載っているだけで、事件との関連性についてはとくに触れられていなかった。
ざっと見てみたが、とくに目新しい情報はないようだ。またページをめくる。
次は『被害者の所持品』という項目が出てきた。殺された名護が身につけていたもののリストらしい。
財布や腕時計、煙草、ライターなどが写真付きで並んでいるが、添えられた説明書きによるといずれも不審な点はないようだ。
――いや、少し気になるものもあった。
まず、パスポートケースとその中身。ケースは名護が着ていたジャケットのポケットに入っていたらしい。パスポートやカード類など海外へ出るために必要なものが収められているが、それらの中でも気になったのは、とりわけ大事そうに入れられていた航空チケットだ。
「これ……今日の便だ……」
十二月二十三日――今日の午後十時時五十五分、羽田発、ロサンゼルス行きの便。記載された氏名も名護修一で間違いない。名護は今日出国するつもりだったのだろうか? ……何のために?
……リストの確認を進める。次に気になったのは、同じくジャケットのポケットに入っていたという、一枚のメモ用紙だ。そこには、黒のボールペンで書かれたらしい文字でこう記されていた。
『17:00 修道院礼拝堂 神楽』
名護が神楽との待ち合わせをメモしたものだろう。筆圧が強く止めはねが強調された、やや癖のある筆跡だ。「1」の上部分が妙に長くて「7」と紛らわしい。
しかし、考えてみれば妙だ。神楽は会合が終わる午後六時までは身動きが取れなかったはずであるし、実際、彼女が本館から出てきたのは六時を過ぎてからだった。待ち合わせが午後五時になっているのはなぜだ? 名護は待ち合わせが五時だと認識していたからこそ、その時間に礼拝堂を訪れたのだろう。
……そうか、わかった。神楽は自分のアリバイが確保される時間に、予め名護を礼拝堂へ呼びつけていたのだ。その時間に神楽の共犯者である実行犯によって名護が殺害されれば、少なくとも殺人について神楽の無実は誰の目からも明らかになる。神楽はそれを狙っていた。
しかし、このメモだけではその仮説を立証するには不充分だ。単に名護が待ち合わせの時間を誤解していただけという可能性もなくはないし、神楽がそう主張してきたらそれをあり得ないと明確に否定する術はない。
結局のところ、その共犯者の存在を証明することが出来なければ机上の空論であり、このメモ単独では神楽を追い詰めるための武器にはならないということだ。
……そして次が、被害者の所持品リストで気になった最後の物品である。ズボンの腰ポケットに入っていたという、鍵が四本連なったキーホルダーだ。鍵ごとに仮にAからDという名前が付けられ、単体の写真も載っている。
一本目……鍵Aは形状からして車の鍵だろう。残り三本のうちBとCの二本は似たような形をしていて、Bのほうが頭のデザインが少し丸っぽい。
Bの頭部分には、黒の油性ペンで描かれたらしい字で「家」とあった。つまりこれは家の鍵ということか。BとCは似ている鍵なので、区別が付くように印をつけてあるのだろう。
……家の鍵か。名護の自宅を調べられれば、何か手がかりが見つかるだろうか?
それはそれとして……この、家の鍵に似ているCは、何の鍵だ? こちらにも黒いペンで頭の部分に小さなマル……円が描かれているが、さすがにこれだけでは用途がわからない。とりあえず放置。
さて、最後の一本……鍵Dは他の鍵より少し小さくて、小指ほどのサイズしかなかった。扉の鍵ではなさそうに思えるが、詳しいことはわからな――
「……ん。んん?」
いや、この鍵については記述があった。
『鍵Dはアルゴス院内にある貸金庫の鍵である(詳細については現在調査中)』
貸金庫の鍵……?
「どしたー、禊屋?」
訝しげな顔をしていたからか、近くの壁際を調べていた織江が声をかけてくる。
「新しい手がかりでも見つかったか?」
「あ、うん。ちょっと見てくれる?」
乃神も呼んで、今見つけた手がかりについてファイルを見せながら話した。
「ふぅん……今日のロサンゼルス行き航空券に、待ち合わせのメモ、それに謎の鍵ねぇ……」
織江は顎に手をやりながら言う。乃神も同じような仕草をとりつつ、
「キャメル……名護が今夜海外に出発しようとしていたというのは気になるな。事件と関係があるかはわからないが」
美夜子は頷いて、それから二人に尋ねた。
「ところで、この『貸金庫』って織江ちゃんと乃神さんは知ってる? アルゴス院ってそんなことまでやってるの?」
「あ~、聞いたことはあるよ」
織江が答える。
「アルゴス院の施設の一角が金庫室になってるんだとさ。でかい銀行にあるようなやつ。小さなブースに分かれてて……全自動型っていうんだっけ? そういうタイプの金庫」
「へぇ……」
全自動型……利用者の操作によって、指定の金庫ボックスが小分けされたブースまで搬送されるタイプのことだ。
乃神が織江に付け加えるように説明する。
「アルゴス院の貸金庫といえば、一般的なそれとは少し勝手が違うぞ」
「違うって、どんな風に?」
「まず契約の仕組みからして違っている。同じ金庫を利用できるのは二回までという制約があってな。つまり中身を預けてから取り出すまでを一区切りとして、その一区切りごとに契約を行うようになっているんだ。まぁ、コインロッカーと同じような仕組みだと思ってくれ」
「うん……? じゃあ二回使う度にいちいち契約し直すってこと? なんか面倒くさそう……」
「実際面倒くさい。一度預けた金庫にはその後に追加で預けるということも出来ないしな。だがおそらく、ある利用方法を想定した上での仕様なのだろう」
「ある利用方法って?」
乃神は「まぁ聞け」と言って続ける。
「アルゴス院の金庫を利用するには、必要なものが三つある。鍵と暗証番号、それに契約者が登録した指の静脈認証だ。だが、契約者がアルゴス院に事前に申請し鍵を返却しておくことで、暗証番号以外の認証をパスさせることが出来るようになっている」
「パスって……それ、何の意味があるの?」
「アルゴス院側では金庫の利用について本人確認を行わないことになっている。つまり鍵と静脈の認証を外し、任意の相手に暗証番号を知らせておけば、契約者以外の人物にもその金庫を利用させることができるというわけだ。代理人の登録なども必要ない。これを利用すれば、貸金庫を介して物品の受け渡しが可能となる」
「あ、そーいうことか」
裏社会において、直接対面しての取引は大きなリスクが伴う場合もある。取引相手が突如として裏切ったり、情報が漏れていて第三者に取引現場を襲撃されたりということもあり得るからだ。
その点、非武装がルールとなっているアルゴス院内での金庫を利用した取引であれば、物騒なことにはなりようがない。警護の人員を揃えるコストや手間も省ける。それに郵送と違って公的な記録は残らないし、間に第三者が介することもないから『そういう立場』の者にとっては色々と都合が良い。立場上の問題で直接会うことができない、もしくは相手に顔を知られたくないというような事情を抱える者たちにとっても有用と言えるだろう。
この貸金庫のシステムに似ているものとしては、暗証番号で開閉するタイプのコインロッカーを取引に用いる方法がある。しかし、人目についたり期限切れで中身を回収されるというようなリスクがあるそれに比べたら、完全に裏社会の人間によって管理されているこちらのほうが却って安心できる……ということなのだろう。もっとも――
「もっとも、アルゴス院にはすべてを把握されかねないというリスクを背負う必要はあるがな」
乃神の言うとおりだ。アルゴス院が金庫の中身を覗き見しないという保証はない。それをネタに脅されるということも……いや、さすがにそれはないか。そんなことがあれば組織としての信用を失ってしまう。それは、裏社会では最も重要視されるポイントだ。そう考えると、アルゴス院はたしかに裏社会においてある種の信用を確立している。この貸金庫のシステムは、提供者がアルゴス院だからこそ成立するものなのかもしれない。
アルゴス院は情報を集めるだけで、情報屋のようにそれを利益の追求に役立てることはない――少なくとも美夜子の知る限りではそうなっていた。基本的に、というのは、ごく一部において例外があるからだが――組織としての性質は、ナイツや伏王会のそれとは明確に違うと考えられる。利益目的の活動ではないのだ。貸金庫のサービスにしても、それで組織の運営を賄おうとしているとは思えない。
「それにしても、よくそんなこと知ってたね乃神さん」
「前に仕事で使ったことがあったからな。まぁ、他に質問があるなら俺よりあいつに聞いたほうがいいだろう」
そう言って、乃神は祭壇側の壁際にいたバフィンに視線を向ける。いつの間にか携帯で電話をしていたらしく、手で口元を隠しながらこそこそと話し込んでいた。
少しして通話を終えると、バフィンはこちらに寄ってくる。
「――先ほどからこちらを見ていたようですけど、どうかしましたか?」
美夜子は、名護が持っていたという貸金庫の鍵について質問する。
「ああ、それならたった今ニムロッドから連絡が入ったところです。その貸金庫の中身についてみなさんに説明することがあるとか。それと、警備員の二人から話を聞く手配も整ったと」
「用意がいいねぇ」と織江。たしかに……。ニムロッドは、こちらがまた質問しにくるとわかっていたのかもしれない。
彼には他に聞いておきたいこともある。もう一度本館に戻るとしよう。
「んで……禊屋」
美夜子が礼拝堂の出口へ向かおうとしたところで、織江が小声で話しかけてくる。
「現場はざっと調べたけど、どうだ? 事件のトリック、解けそうか?」
「うぅん……まだ、かな」
美夜子は不本意ながらもかぶりを振って答える。
「そっか……。私も色々と考えてはみたけど、どーもこういうのは苦手なんだよな……。隠し部屋みたいなものがあれば話は簡単なんだろうけど、そういうのがあるようでもなかったし……。ま、そう簡単にはいかないか」
織江は手で美夜子の肩を軽く叩くと、軽く笑って言った。
「焦るこたないさ。まだ時間には余裕があるしな。じっくりいこう」
「うん……」
織江の励ましの言葉に感謝しつつ、美夜子は頷いた。
――かといって、もたもたしているわけにもいかない。大掴みでも構わないから、事件解決の糸口をなにか見つけなければ。
礼拝堂から外へ出る前に、美夜子は一度扉の前で祭壇のほうへと向き直ってみた。
名護の死体が発見されたときのことを想像する。入り口の扉と祭壇は、まっすぐ直線上に位置している。そして祭壇手前の床に死体が横たえてあったということはつまり、扉を開けて最初に目に飛び込むのは、あの異常としか思えない状態の死体だったはずだ。
死体の手前には講壇があったはずだが、先ほど見た写真ではそれによって隠されるのは足の部分だけで、腰から上の部分は入り口からでも見えたことになる。
…………まさか、そういうことなのか? それならば、死体の内臓を周囲にぶちまけたり聖骸布を巻いたりといった行為にも意味は出てくる。
しかし……それでは……。
「どうした、禊屋?」
先に外に出ていた乃神が声をかけてくる。
「……ううん。なんでもない」
美夜子はある仮説を胸に秘めたまま、礼拝堂を出た。
修道院の本館へ戻った美夜子たちは、まず遺体発見に居合わせた警備員二人から話を聞くことになった。
アルゴス院の職員に案内されるまま応接間のような部屋に入ると、大きなテーブルの向こう側に二人の男が座って待っていた。
「ああ、先ほどはどうも」
向かって左側に座る男が軽く頭を下げて言う。やはり、最初に会った警備員の二人だ。
美夜子たちは向かい合って座り、互いに簡単な自己紹介を済ませる。左側の礼儀正しそうなほうがアベルで、右側の粗野っぽいほうがランスというらしい。
ランスは煙草を吸いながら待っていたようで、煙を吐き出しつつ言う。
「話って明日じゃダメなのかよ、禊屋サン? こちとら今日は色々あって疲れてんだけどなぁ」
ランスのほうはあまり乗り気ではないようだ。だからといって、いい加減な証言をされては困る。美夜子は頼み込むように返した。
「ごめんなさい。少しでも早く事件のことを把握しておきたいから……協力してほしいの」
「めんどくせーなぁ……」
すると、アベルが咎めるように言う。
「そういう態度はやめないか、ランス。――すみません、どうかお気になさらずに。彼はいい歳をしてマナーに欠けるところがあるので」
「ああ!?」
「ほら、煙草も消すんだ。皆さんに失礼だろ?」
「ちっ……良い子ぶりやがって」
ランスは不承不承ながらも煙草をテーブルの上の灰皿に押しつける。それからため息をついて、
「わかったよ。さっさと始めてくれ」
言われるまでもない。美夜子は早速話を切り出した。
「まず確認させてね。あなたたち二人は午後二時から十時まで本館入り口の警備を担当していて、六時頃の遺体発見にも居合わせた……んだったよね?」
アベルが頷く。
「ええ、その通りです。三時半からナイツと伏王会の会合が予定されていましたから、私たちもいつもより気を張り詰めて警備しておりました」
「三時頃に、二十歳くらいの男が礼拝堂に入っていくのは見た?」
「容疑者として勾留されている、戌井という方ですね? もちろん、見ていました。私たちが立っていた本館入り口からは、礼拝堂の入り口はよく見えますから。入り口のところでナツメ様と何かお話をされた後、お一人で堂内に入っていかれましたよ」
「ナツメって?」
「神楽様の護衛として付き添っておられた方です」
礼拝堂の前で神楽の護衛に会ったというのは、冬吾も言っていたことだ。証言に食い違った部分はない。
美夜子の隣で話を聞いていた乃神が言う。
「ナツメというのはたしか、神楽の側近とされているうちの一人だな」
側近というと、薔薇乃にとっての織江のような存在だろうか。
「神楽の側近って、他にもいるの?」
「あと二人いたはずだ。伏王会本部所属の用心棒だったアキカワと、元Sランクヒットマンのカザマ。経歴が明らかでないのはナツメだけだ」
アキカワという男とは以前に会ったことがある。顔を見たことがあるというだけで、言葉を交わしもしなかったが。
織江がテーブルをトントン、と指で叩いてから言う。
「そのナツメって護衛さ、遺体発見に居合わせてた五人のうちの一人だったよね? だったら……」
美夜子は頷いて、
「ナツメも神楽と同じく、事件に関係している可能性は高そうだね」
よく意識しておくことにしよう。美夜子は二人へ質問を続けた。
「神楽はそのとき既に礼拝堂の中で待っていたんだよね? いつ頃来ていたのかな?」
「そうですね……たしか、戌井様がいらっしゃるより十五分ほど前だったでしょうか。――だよな?」
そう言って、アベルはランスに確認を求める。ランスは耳を指でほじりつつ答えた。
「ああ、そのくらいだったな。会合の日ってのは、普通なら伏王会の連中は連中でまとまって来るんだけどよ。あの神楽って女は一人だけ先に来て礼拝堂に入っていったから、あんなとこで何してるのかと不思議に思ったよ。まぁ、その戌井ってやつが入っていってから五分くらいで出てきたけどな」
神楽が礼拝堂に入ったのが冬吾が来るよりも十五分前ということは、神楽が礼拝堂に到着したのは二時四十五分頃か。
そして神楽が礼拝堂から出てきたとき、既に冬吾は中で眠らされていたのだ。
「その後、神楽はどうしたの?」
「べつにどうもしてねぇよ。護衛と一緒に本館の中へ入っていっただけだ」
「その二人にも持ち物検査はした?」
「もちろんです」とアベルが答える。
「お二方の検査は私が担当しました。ナツメ様はハンドガンをお持ちでしたが、それは当然ロッカーに預けられて、他に荷物らしい荷物はなし。神楽様も、これくらいの黒いボストンバッグをお持ちになっていた以外には目立った荷物はございませんでした」
そう言ってアベルは、手で神楽が持っていたという鞄の大きさを表現する。横幅が60~70センチ、縦幅は30~40センチというところ。サイズで言うと50リットルくらいありそうだ。結構大きい。
「バッグの中身も調べましたが、会合用の資料をまとめたファイルなどが沢山入っているだけでしたよ」
怪しい持ち物はなし……か。
「その……神楽のことなんだけど、礼拝堂に入っていく前と後で、どこか見た目に違った部分とかなかったかな?」
神楽が犯行に加担しているとするなら、冬吾を眠らせたついでに、礼拝堂の中で何らかの仕掛けを準備していった可能性がある。それならば、礼拝堂に入る前と後で見た目――持ち物などに変化が生じたかもしれない。
アベルは少し困ったような表情で答えた。
「違った部分ですか……。いえ、何もお変わりなかったように思いますよ? 礼拝堂に入る前も後も、黒いスーツ姿で、お荷物は先ほども言ったようにボストンバッグが一つだけでした。もっとも、礼拝堂にお入りになる前については、私たちが立っていた場所からは三十メートルほどの距離がありましたから、細かい部分で違いがあったとしてもわかりかねたと思いますが」
念のためナツメについても確認してみるが、やはり見た目に変化はなかったらしい。ランスのほうも同じ答えだった。
続けて質問する。
「――それじゃ、神楽を本館に通した後は?」
「三時十分頃に、残りの伏王会の方々がいらっしゃいました。その更に五分後にはナイツの方々が。人数が多かったので、入館に際しての検査は他の職員が数人で担当しました」
「じゃあ、あなた達はその間も入り口を見張っていた?」
「ええ。その間、礼拝堂に近づく人物はいませんでしたよ」
会合は三時半からスタートし、六時まで続いたというから、神楽たちを含む会合参加メンバーにはどう頑張っても名護の殺害は不可能……のように思える。
「次に礼拝堂に誰かが入っていったのは、五時頃ですね。殺されたキャメルです。本名は名護というんでしたっけ」
「名護さんは本館から出ていったそうだけど、そのとき何か話をした?」
「『少し早めの仕事納めだ』と言っていました。休暇を取るつもりだったようですね」
「休暇か……なにか事情があって?」
「いえ、私も詳しくは聞いておりませんが……」
それについてはニムロッドに訊くべきか。
「名護さんがなんで礼拝堂に入ったのか、心当たりはある?」
「名護本人からは何も聞いていませんが……おそらく、神楽様と待ち合わせをしていたのではないかと。その後、六時ちょっと過ぎに神楽様が本館を出ていかれたのですが、その際に神楽様がそのようなことをおっしゃっていました」
ランスが続けて説明する。
「あの女が本館から出ていくときに、『キャメルはもう礼拝堂に向かったか?』って、俺らに確認してきたんだよ」
やはり待ち合わせか……。先ほどメモから推理したとおり、犯人に名護を殺害させるために神楽が礼拝堂へ誘導したのだとしても、名護にそれを感づかれるわけにはいかなかったはずだ。いったい何の用件だと偽って呼び出したのだろうか?
――それは今考えても仕方がなさそうだ。美夜子は話を進めていく。
「六時過ぎに会合を終えた神楽が本館を出て、礼拝堂に向かった。でも、そこには鍵がかかっていたんだよね?」
アベルは頷いて、
「はい。神楽様に呼ばれて私たちも礼拝堂の前まで移動し扉を開けようとしてみたのですが、しっかりと鍵がかかっていて中には入れない状態でした。扉をノックしたり、中に向かって声をかけたりもしてみたのですが、返答はなし。仕方なく、鍵を持っている管理人を呼んでくることになりました」
「礼拝堂の管理人というと……サラって人だね?」
「ええ、そうです。一応管理人ということにはなっていますが、サラは殆どの時間、礼拝堂を開けっ放しにしています。大抵は別館のほうで仕事の手伝いをしているのですが、その時も同じでした」
「あなたがサラさんを呼びにいったの?」
「いえ、私やランスは本館入り口からあまり離れるわけにはいきませんでしたので、代わりにナツメ様が別館へ向かわれたのです。それを待つ間、私たちは今禊屋さんにお話ししたように、それまでの礼拝堂の出入りの様子を神楽様にお伝えしておりました。ナツメ様がサラを連れて戻ってこられるまでは、時間にして十分足らずだったと記憶しております。そしてサラが持っていた鍵で扉を開けると、中はあの惨状で……」
遺体を発見したときの状況については、細かく確認しておく必要がある。
「そのときのこと、誰がどう動いて、どんな言葉を発したのか……可能な限り細かく、教えてくれる? 何がヒントになるかわからないから」
「わかりました」とアベル。彼は思い出すように、ゆっくりと話し始めた。
「扉を開けたのはサラだったのですが、彼女はどちらかというと気弱な性格です。入り口からでもあの異様な死体と大量の血痕は目に付きましたから、彼女はすっかり怯えてしまっていたようでした。ですから、彼女と私は入り口の外で待機することになりました」
「アベルさんも外に?」
「ええ。『まだ中に犯人が残っているかもしれない』と神楽様がおっしゃっていましたので。犯人が礼拝堂から逃げだそうとした場合、外にいるのがサラ一人だけでは危険だろうと。ですから扉は開けたままにして、二人で外から様子を見守っておりました」
『遺体発見時、礼拝堂の入り口はサラとアベルの二人によって封じられていた』わけだ。それも、神楽がそうなるように誘導した節がある……。
「礼拝堂の中を調べたのは、神楽様とナツメ様、それにランスの三人でした。詳しくは彼が話します」
そう言って、アベルはランスにバトンを渡す。ランスは面倒くさそうにしながらも証言に協力してくれた。
「礼拝堂の中に入ると、俺たちはまずゆっくりと祭壇前の死体に近づいていったんだ。死体の周りは血塗れでよ、鼻が曲がりそうだったぜ。それにはらわたまで散らかした上、死体にはなぜかあの祭壇にあった布が巻かれて妙な装飾がされてやがった。犯人は間違いなくイカれてやがるぜ」
三人が最初に確認したのは、名護の遺体だった……。
「確認するまでもなく、キャメルは死んでいた。だが、俺とアベルはキャメルが礼拝堂に入った後、犯人らしき野郎が出て行くのを見てねぇ。つまり、キャメルを殺したやつはその時点で礼拝堂の中に残っていなきゃおかしい。そこで、俺たちは犯人が隠れていないか礼拝堂の中を隈無く調べた。椅子の下まで覗き込んだり、掃除用具入れの箱を開けたりしてな。それで、掃除用具入れの裏に隠れてたアイツを見つけたってわけだ。薬で眠らされただとか、そんなふりして誤魔化そうとしてたみてぇだけどな……状況からいって、犯人はアイツ以外には考えられねぇよ」
冬吾は神楽に睡眠薬を盛られていたせいで、そこで発見される羽目になってしまったのだが……それを説明したところで、証拠は何もない。信じてもらうのは不可能だろう。
「確認なんだけど……本当に、隈無く調べたのかな? 残りの二人に任せっきりだったとか、今になって考えてみると、見落とした場所があったかも~……なんてこと、ない?」
ランスはまたもや面倒くさそうにため息をついた。そして、美夜子を睨みつけるようにして言う。
「いちいち細けぇことを気にするやつだな……。そんなに俺の証言が信用できねぇってのか? ああ?」
「ひぇっ……そ、そういうわけじゃないんだけど」
「ハッ、それならそれでいいんだぜ、べつに? 俺はもう何も喋らねぇからよ」
「はい? えっ……ちょ、ちょっと……!?」
や、ヤバ! 怒らせて証言を拒否されるのは一番マズいパターン!
美夜子は狼狽えかけたが、すぐにアベルが助け船を出してくれた。
「ランス、面倒くさがらずにしっかりと説明して差し上げろ」
ランスは今度はアベルを睨む。
「なぁにが『して差し上げろ』だ。なんで俺がお前に命令されなきゃなんねぇんだよ?」
アベルは呆れたように笑って、穏やかながらも毅然とした口調で返す。
「私は命令なんてしていないよ。だが、禊屋様の調査に協力せよというのはニムロッドからの指示だ。その指示に逆らったら、お前が不利益を被るだけだぞ」
「んだよ。ニムロッドの野郎にチクるつもりか?」
「チクるよ。お前の巻き添えで、私まで不真面目な輩だと思われたくはないからな」
「なっ……!?」
ランスはギョッとしたような表情になる。やがて、髪を乱暴に掻きつつ言った。
「――……あーー……ったく。わかったよ、クソ。ちゃんと説明すりゃいいんだろ」
あっという間に懐柔してしまった。なんとも手慣れた対応だ。
どうやらランスは、アベルの言うことならば文句を言いつつも従うらしい。二人の付き合いは長そうだ。
ランスのほうから話が再開された。
「まず、礼拝堂内の犯人探しは他の二人に任せっきりだったんじゃないかということだが、それはちげぇよ。三人いたからって、べつに手分けして探してたわけじゃねぇんだ。万が一犯人に襲われたときのことを考えて、三人まとまって行動していたからな。だから他の二人が調べたところは俺も調べたし、逆もまた然りなのさ」
なるほど。手分けして探していたのならば、神楽かナツメが担当した場所に犯人が隠れ続けるということも、もしかしたら可能だったかもしれないが……その可能性は排除してオーケーというわけだ。
「次、見落とした場所があったんじゃないかって言ったよな? ……あんた、あの礼拝堂の中を実際に見たか?」
「うん、ついさっき見てきたところだけど……」
「ならわかんだろ? あのクソしょぼい礼拝堂に、人が隠れられそうな場所がいったいいくつあるよ? 一分もありゃあ、誰かが隠れてないかくらい調べられるぜ」
ランスの言い分はごもっともだった。少し薄暗いとはいえ、あの狭く、ものも少ない礼拝堂内で誰かが隠れていたらかなり目立つはずで、それを見落とすとは思えない。
それに、そもそも入り口はサラとアベルによって封鎖されていたのだ。これでは密室が破られた後で犯人が脱出するというパターンは使えない。
「あの戌井ってやつ以外には誰もいないことを確認した。それから俺は、礼拝堂の殺人について上に報告するために本館に向かったんだ。犯人を連れてな」
ランスの中では、もう冬吾は完全に犯人扱いのようだ。
「あなたが戌井冬吾を本館まで連れて行った。その間、他の人たちはどうしてたの?」
今度はアベルが答える。
「アルゴス院の調査班が到着するまで、その場で待機しておりました。外は風が吹いて寒いので、建物の中に入ろうかとも思ったのですが、中があの惨状ではどうにも……。神楽様はあまり気にしておられなかったようで、中にいましたが。それから……ああ、そうそう。私はナツメ様から事件のことで幾つか質問を受けておりました。これも先ほど禊屋さんにお話ししたようなことばかりで、殺されたキャメルが何か言ってなかったかとか、警備中ほかに気になったことはなかったかとか……」
ナツメはなぜそんなことを訊いたのだろう? ただ時間を潰すために喋っていただけか?
「その話の途中、ナツメ様が神楽様に頼まれて、駐車場のほうへ向かわれました」
「駐車場……?」
駐車場は、修道院敷地入り口である門の近くにある。
「なにを頼まれていたか、わかる?」
「神楽様方は会合のお迎えとして、駐車場に車を待たせていらっしゃいました。帰りが遅いことで心配させないようにというご配慮なのでしょう、ナツメ様は、『事件のせいですぐには戻れないことを連絡してくるように』と、神楽様から申しつけられていたようです。ついでに、神楽様のお荷物のバッグを預けてくるようにとも」
「ふぅん……」
神楽が事件の共犯者だとしても、そのことを迎えの車の運転手は知らなかったのかもしれない。それなら、事件が起きて神楽の帰りが遅くなるとは予想できなかったはずだ。
逆に知っていたとしても、神楽は偶然事件に巻き込まれたということを装うためにあえてそうしただろうと考えられるが――それだけだ。どちらにしたって、そんなことはどうでもいい。
「それから少しして本館からニムロッド他、アルゴス院の調査班がやってきて、現場の状況の記録と、遺体や証拠品の回収などが行われました」
事件当時の話はここまでのようだ。美夜子は、少し気になったことをアベルに尋ねてみる。
「会合に参加していた他の人たちって、そのときはまだ本館の中にいたのかな?」
今までの話からすると、神楽以外には本館から出てきた者がいなかったようにも聞こえたが。
「ああ、そのことですか。……実は、ちょっとしたトラブルがあったようでして」
「とらぶる?」
「ゲートが不具合を起こしたせいで、一時的に出入りが不可能になっていたそうなのです」
「げーと……って?」
「あ――失礼。ゲートというのは、皆様に身体検査を受けていただいた部屋、あそこにあったロビーに繋がる電子ロックの鉄扉のことです。私たちはあの検査を行う部屋を、ゲートルームと呼んでいます」
あのロッカーが沢山ある部屋のことか。たしかに厳重なロックがかけられた扉があった。
「でもそのゲートって、本館から外に出る分にはなんの認証もいらなかったはずだよね? 出られないなんてことがあるの?」
実際、先ほど美夜子たちが礼拝堂へ向かった際にも普通に扉は開いた。
アベルは困ったように鼻を掻きながら言う。
「ゲートには警備・防衛用のシステムとして『強制ロックモード』というものがあります。本館の内部側にだけある、扉の横に付いているスイッチを押すことでそのモードに切り替わるようになっているのですが、一度切り替わると、外からも内からも扉の開閉が不可能になる上に、管理者権限を持つ者でないと解除が不可能になってしまうんです。しかも、解除コードを入力してもすぐに元に戻るわけじゃない。安全確認のために十五分のインターバルがあって、それが終わってようやく解除されるんです」
「じゃあ、神楽とナツメが外に出た後で、ゲートがその強制ロックモードとやらに切り替わっていたってこと?」
「はい。おそらく、誤作動か何かだと思うのですが……」
誤作動……そんな偶然、あるだろうか?
そこで、ランスが付け加えるように言った。
「一応言っておくが、俺があの戌井ってやつを本館に連れて行ったときは問題なく中に入れたぜ。ちょうどその強制ロックが解除されたとこだったみたいだな」
つまり、それまでの間に限定すると、会合に参加していた者たちの殆どは本館内で足止めを食らっていて、本館から出られたのは神楽とナツメだけだったのだ。
さて――この二人から得られる情報は、こんなところだろうか。事件についてまた新しいことがわかったが、トリック解明にはまだ何かが足りないように思える。
「……じゃあ、これが最後の質問ね。名護さんが殺された理由について、なにか心当たりはないかな?」
アベルはしばらく考えたようだったが、やがてかぶりを振って、
「すみません。私やランスは生前のキャメルとはあまり接点がなかったもので。警備中にたまに挨拶するくらいでしたから……」
思い当たることはない、ということらしい。ランスも黙ったまま肩をすくめた。
「――ありがとう。参考になりました」
美夜子は礼を言って、話を打ち切った。
部屋から廊下に出て、アベルとランスの二人と別れる。
そこで美夜子たちの背後から、待ち伏せていたようにロボットのような男が現れた。ニムロッドだ。
「事件解明に役立つ話は聞けましたか?」
相変わらず淡々とした口調で尋ねてくる。
「んー、まぁ、それなりに?」
「それはなによりです。私からも、新しい情報を提供しましょう」
ニムロッドは一枚の写真を美夜子に手渡した。
写真には、一本の短刀が写っている。鞘は外されており、刃の部分にはべったりと黒いものが残っていた。おそらくそれは血だろう。付着したまま長く放置されていたせいで、黒く変色したのだ。
「なんだこりゃ?」
織江が横から覗き込みつつ言う。美夜子も同じ台詞を言うところだった。
ニムロッドは真顔のまま答える。
「キャメルが所有していた貸金庫の鍵については、あのファイルをご覧になって既にご存知でしょう。キャメルの金庫の中に保管されていたものが、その短刀です」
「これが……?」
「キャメルの所持品を調べる途中で発見したものですが、こちらも鑑定機関に送って調べさせておりました。先ほどそのことで連絡が入ったので、一応はご報告しておこうかと。事件と関わりがあるかは、まだ不明ですが」
貸金庫の中にこの短刀が入っていた? しかし、これは……。
ニムロッドは美夜子の考えを読むかのように続けた。
「刃に付着している黒いものは、血液でした。誰かを攻撃した凶器であるのは間違いないでしょう。それに、キャメル以外の人物の指紋は検出されませんでした」
「……名護さんがこの短刀を使って誰かを傷つけたってこと?」
「断定は出来ませんが、それが最も考えられることです」
「…………」
美夜子は、冬吾との会話を思い出していた。
千裕の手帳にあった、名護との待ち合わせを約束していたかのようなメモ。そのメモの日付が千裕の亡くなった日であること。そして名護が契約していた貸金庫から発見された、古い血の付いた短刀……。
それらは、ある一つの事実を指し示しているかのように思えた。
美夜子は更に質問を続ける。
「付着している血液が誰のものなのかはわかってるの?」
「血液からDNA鑑定をさせたところ、少なくとも機関に登録されているリストに合致するものではありませんでした。しかし、部分的に一致した人物ならいます」
「部分的に……?」
「血液の持ち主は、戌井冬吾の血縁者……親子関係にある人物だそうです」
……そうか、そうだったのか。
「おい禊屋、それって……」
織江が耳打ちする。美夜子は頷いて、念を押すようにニムロッドに確認した。
「その鑑定、間違いないの?」
「まず間違いありません。ものの数時間で出た鑑定結果の精度を疑いたくなるお気持ちは理解できますが、アルゴス院が所有する鑑定機関は世界有数の技術力を持っています。事実上、百パーセントの確かさだとお考えください」
これだけ自信を持って言うということは、鑑定結果自体を疑う余地はないと考えて良さそうだ。美夜子は更に別の質問をする。
「……ここの貸金庫って、一度預けたものを取り出すとその金庫は契約終了になって使えなくなるんだよね? じゃあ、この短刀が預けられていた金庫が契約された時期ってわかる?」
「わかります。記録によると、キャメルがアルゴス院に入るより少し前……四年前の十一月二十三日に本人、名護修一の名義で契約が結ばれておりました」
冬吾の父親、千裕が殺された日から三日後だ。
「えーっと、ちょっと待ってくれよ? いったいどういうことなんだ?」
織江が困惑したように髪を掻きつつ言う。それに乃神が答えた。
「どういうこともなにも、例の手帳の話と結び合わせて考えれば、もう答えは出たようなものだろう。名護修一は、戌井千裕を呼び寄せて殺害したんだ。この短刀を使ってな」
ここまできたら、もう否定するほうが難しい。この短刀は、四年前に千裕を殺害した凶器に違いない。しかし……。
美夜子は割って入る。
「でも、名護さんが本当に殺したかどうかは……」
「確証とまではいかないかもしれんが、その可能性はかなり高いはずだ。違うか?」
「まぁ、それは……違いませんケド」
少なくとも、名護が千裕殺害に何らかの形で関わっていたのは間違いないと見るべきだろう。この短刀がアルゴス院の貸金庫に預けられていた理由についても、考えておく必要はありそうだ。
「――また別の話になりますが……これを見ていただけますか」
ニムロッドは懐からタブレット端末を取りだして、何か操作をした後、ディスプレイを美夜子たちに見せた。
そこには、つい先ほども通ってきたアルゴス院本館のロビーの映像が表示されている。
「監視カメラに記録されていました。今日の夕方、六時二分の映像です」
監視カメラ? そういえば、角の天井近くに付いていたような気がする。
それに、六時二分といったら……会合が終わってすぐだ。
その二人は、間もなく映像の中に現れた。神楽と、その半歩後ろを歩く小柄の少年。おそらくこちらが、ナツメという神楽の護衛なのだろう。まさかこんな、少女と見紛いそうな少年だとは思わなかったが。
神楽は黒いボストンバッグのベルトを左肩に背負っていた。荷物を自分で持っているのは、護衛役の両手を空けておくためなのかもしれない。
カメラは、俯瞰で例のゲート――鉄扉の周囲を捉えている。神楽が右手でゲートのドアノブに手をかけると、ゆっくりと扉が開かれた。神楽がゲートの奥に消え、続いてナツメが――
「今、何か触ったな」
映像を見ながら織江が呟くように言った。
それで美夜子も気がつく。ナツメがゲートを通る際、扉横の壁を手で触れていったのだ。さりげない動作だったが、たしかに何かに触った。映像の画質はそれほどでもないので細かいところはよく見えないが、スイッチのような……。
「もしかして……ゲートの強制ロックモードを?」
美夜子が思いつきを口にしてみると、ニムロッドは頷いた。
「ゲートについては既にご存知でしたか。アベル達から話を?」
「うん」と頷くと、ニムロッドは更に続ける。
「では、この時間帯にゲートがなぜか強制ロックモードに切り替わっていたこともご存知ですね。その悪戯の犯人は、ナツメ様でした。今ご覧になっていただいたように、外へ出られる際にモード切替のスイッチを押したようです。扉を開けた状態で強制ロックに移行すると、次に扉を閉めた時点でロックがかかります。ゲートは外に繋がる唯一の出入り口。そのせいでナツメ様が退出されてからしばらくの間、誰も本館から外へ出ることも、本館の中へ入ることもできない状態でした。私が気づいて解除コードを入力しましたが、扉が開くようになったのは六時二十分頃です」
一度ゲートが強制ロックモードに入ると、解除コードを入力しても十五分は元に戻らないのだったか。その話の通りだとすると、ニムロッドは六時五分頃に解除コードを入力したことになる。神楽たちが出て行った三分後だ。
他の会合参加者が外へ出ようとして、ロックがかかっていることに気がつく、その報告を受けたニムロッドが解除コードを入力した、というところか。
それはいいとして、気になるのはナツメがそんなことをした理由だ。
「ナツメは、なんでそんなことしたんだろう?」
「お尋ねしたところ、『押したらどうなるのか気になったから押してみただけ』との回答をいただきました」
美夜子は思わずガクッと崩れ落ちそうになる。
な、なんじゃそりゃ……。本当にただのイタズラなのかな……?
「そもそも、こうして監視カメラの映像を確認し私どもが気づくよりも先に、ナツメ様のほうから打ち明けられたのです。一応注意だけはさせていただきましたが、反省しておられるようでしたし、なによりキャメルの事件でそれどころではなかったので、とくに問題にはしておりませんでした。……が、それが事件と前後して起こった、変わった出来事であることには違いありません。少しでも事件に関係している可能性があるのならば、禊屋様方にもお伝えしておくべきだろう……と考えた次第です」
「なるほどね……教えてくれてありがとう」
美夜子は感謝ついでにニムロッドに頼み事をしておく。
「その監視カメラの映像、後でうちに送っておいてくれないかな? とりあえず、今日一日分」
「全部は無理です。ゲート前のカメラの映像だけでよろしければ、可能ですが」
「お願い!」
とりあえず本館の人の出入りを確認できればそれで充分だ。
「では後ほど、ナイツ夕桜支社のほうへデータをお送りしておきます」
「ありがとう。ええっと、あとは――あ、そうそう。訊いておきたいことがあったんだ」
今度は美夜子から質問をする。
「名護さんの携帯電話って、まだ見つかってないのかな? 調査ファイルには載ってなかったみたいだけど」
「未発見ですね。こちらから電話をかけてみましたが、繋がらない状態です」
今どき、携帯電話を持ち歩かない人間がそういるだろうか? 犯人が名護を殺害した後で持ち去ったのか……?
だとすれば、それは冬吾には不可能だ。殺害現場である礼拝堂から出ていくことができなかったのだから、名護の携帯電話をどこかに隠したり捨てたりといったことができたはずがない。
……だがそれは、冬吾が無実であるという主張の軸とするには弱すぎる。依然として名護の殺害が冬吾以外には不可能な状況であることには変わりないし、神楽はこの程度の推理、簡単に受け流してしまうだろう。
しかし、ものは考えようである。犯人が携帯電話を持ち去ったとすれば、それ自体がヒントになるのではないか? 冬吾に罪を着せたいのならば、携帯電話は現場に残していったほうが状況的に自然……その程度のことに今回の犯人が気づいていなかったはずがない。
それでもあえて携帯電話を持ち去ったのは、その中に犯人に繋がるデータが入っている……もしくは入っているかもしれないと犯人が考えたからだ。つまり、犯人は名護に比較的近い位置にいる人物……あるいは、最近連絡を取った人物といったところか?
…………あ、やっぱりだめだ。これでは、容疑者を殆ど絞れない。
――まぁいいや。美夜子はニムロッドに別の質問を投じた。
「そういえばアベルさんたちの話によると、名護さんは今日から休暇を取るようなことを言ってたらしいんだけど……」
「休暇……? さて、何のことでしょう。そんな話は聞いておりませんが」
ニムロッドでもわからないのか……? そういえばあの航空券……もしかしたら。
「どうかなさいましたか?」
ニムロッドに尋ねられ、美夜子は慌てて首を横に振った。一つ思いついたことはあるが、今は憶測を語るよりも少しでも情報を集めたい。
「ところで、名護さんって最近はアルゴス院でどんなお仕事をしてたの?」
ニムロッドは相変わらずの能面を被ったような表情で答える。
「申し訳ありませんが……それは組織の機密につき、お話しできません」
「むぅ……」
色々と協力的なくせに、そこは融通が利かないのね……。
「事件の解明に必要があると証明できるのであれば、ある程度は許容できますが?」
「ああうん、それはもういーや」
ではもう一つの質問。
「じゃあ、名護さんの前歴を教えてもらえる? なんか、殺し屋だったって噂があるらしいけど?」
「組織の機密につき、お話しできません」
「またそれ? もしかしたら、その前歴が今回の事件の動機に関係してるかもしれないよ?」
「では、それを証明してください」
んなもん、できるかっつーの!
第一、まだ手探りで手がかりを集めるしかない段階なのだ。何が事件と関係していて、何が関係していないのかなんてわかるはずがない!
「……じゃあこれで最後の質問。礼拝堂の管理人……サラさん、だったよね? その人にも話を聞きたいんだけど、どうすればいい?」
「サラには明日の朝、話を聞けるよう手配しておきましょう。細かい時間や場所は後ほど連絡させていただきます」
彼女もまた重要な証人の一人だ。できれば、薔薇乃に許された二時間以内に話を聞いておきたかったのだが……仕方ないか。
「それと……禊屋様、これをお渡ししておきます」
ニムロッドは懐から何か取りだして美夜子に手渡す。手に置かれたものを見ると、それは二本の鍵だった。
「これ……ファイルに書いてあった鍵Aと鍵Cだよね?」
名護が所有していた四本の鍵のうちの二本だ。
「はい。鍵Aは車の鍵でしょう。キャメルはいつも車でこの修道院へ来ていたようですので、その車は今も駐車場にあるはずです」
「名護さんの車を調べろってこと?」
「調べるかどうかの判断は禊屋様にお任せします。我々もそちらにはまだ手が回っておりませんもので、手がかりが見つかるという保証はできません。ですが、お調べになるのならばなるべく早いほうが良いでしょう」
「……ま、一応調べてみようかな。どういう車かわかる?」
「キャメルの車は他のメンバーによってよく目撃されていました。白のセダンタイプで、ナンバーは――」
言われたナンバーを記憶しておき、美夜子はもう一方の鍵Cについても尋ねてみた。
「何処の鍵であるかは私どもにもわかっておりませんが、事件の捜査で必要になる場面があるやもしれません。鍵Aもそうですが、伏王会側は必要ないとのことでしたので、二つとも禊屋様にお預けしておきます」
「なるほどね……。でも、それなら鍵Bも渡しておいてくれると助かるんだけど。あれって多分、自宅の鍵でしょ?」
鍵Bにはペンで『家』と書いてあったから、まず間違いない。家の中を探せば何か見つかるかも……。
「ああ、それでしたら、もう必要はないかと」
「……ん? どーゆーこと?」
ニムロッドは淡々とした口調で、極めて簡潔に、その理由を説明した。
「キャメル――名護修一の自宅の住所は、我々のほうでも把握しておりました。とあるマンションの一室なのですが……彼が殺害された時刻と同じ頃に、爆破されています」
「…………おぉう」
聖アルゴ修道院の駐車場は、本館から入口方面に歩いて三、四分ほどのところにある。建物からは微妙に離れていて、少し不便そうだ。
「――ホントだ。ニュースになってるよ、爆破事件……」
駐車場へ向かう道すがら、織江がスマートフォンに表示させたニュース記事を見せてくる。
「夕桜市北区でマンション爆破か」――そんな内容の記事が載っている。時刻は夕方六時頃、事件が発覚したのと同じ時間帯だ。爆破で部屋一つが吹き飛んだが、それによる負傷者などは出なかったそうだ。警察の調べによると、爆弾のようなものが使われた形跡があるという。
「名護が殺されたその日に自宅が爆弾で吹っ飛ばされた……か。偶然……なわけないよなぁ」
携帯をポケットに仕舞いつつ織江が言う。美夜子は頷いて、
「まぁ、間違いなく関係あると思うよ」
これで二つが無関係だったら、神様は気まぐれにもほどがある。
今度は乃神が言う。
「証拠隠滅のためだろうな。何を隠滅したかったのかは知らないが、侵入して回収するのも煩わしくて、手っ取り早く部屋ごと吹き飛ばした。そんなところか。大胆すぎるが、効果的ではある」
「このまま警察が犯人捕まえてくれたら、こっちに有利なんだけど」
「それは厳しいな。相手側がそう簡単に尻尾を掴ませるとは思えない。警察も組織絡みの犯罪とわかれば深追いはしないだろう。爆発で犠牲者も出ていないようだしな」
「だよねぇ」
そもそも、審問会が明日の午後五時からなのだから、爆破事件の犯人検挙がそれに間に合うはずがない。
爆破事件のほうはもう置いておいて、礼拝堂の殺人事件に集中しよう。そんなことを考えつつ歩いているうちに、駐車場に辿り着く。
ポール型のライトが二カ所ほど設置されているが、明るいとは言い難い。人気もなく、ひっそりとした場所だ。七、八十台くらいの車が収容できる広さはあるので、夜中に一人でいたらさぞや心細いことだろう。
「さてさて、名護さんの車はどこかな……っと」
停められている車の中から名護の車を探そうとし始めた、そのときだった。
「あーーっ!!!」
「ひぃっ!?」
奥の暗がりからいきなり大声が聞こえてきたので、美夜子は思わず隣にいた織江の腕にしがみつく。すると、向こうの方から一人の男が駆け寄ってきた。
「やっと戻ってきた! もー、待ちくたびれるところでしたよ」
男は二十歳前後、スーツ姿に、失敗したパーマのようなひどい癖毛、背の高い優男というような風貌。ひと月ほど前に夕桜支社に入ってきた『シープ』だった。美夜子はつい昨日の、灰羽根旅団に関する一件の際にも彼と会っている。
美夜子は、知った顔が出てきたのでほっと胸をなで下ろした。
「な、なんだ君かぁ……。心臓が吹っ飛んで行方不明になるかと思ったよ……って、あれ? なんでここにいるの?」
尋ねると、代わりに乃神が答えた。
「どうしても一緒に行きたいとうるさいから、運転係として連れてきた」
「だって、ノラさんのピンチなんでしょ!? 心配しますよそりゃ!」
ああ……そうか。そういえばシープは冬吾のファンだった。彼が冬吾に憧れる理由は、冬吾はナイツに入って二ヶ月でBランクのヒットマンを二人も倒した「若手のホープ」だから、ということらしい。……いや、それもおおむね間違ってはいないのだが、シープの酔心っぷりを見るとなんだか伝言ゲーム的にねじくれた伝わり方をしているふしがある。
織江がこっそりと美夜子に耳打ちする。
「ま……あいつ、この調子だからさ。本館まで連れていっても騒いで面倒そうだから、車の中で待機してもらってたわけ」
「……にゃるほど」
その判断は賢明だ。このテンションで心配されては冬吾も困惑したに違いない。
シープは乃神にすがりつくようにして尋ねる。
「そ、それでっ……ノラさんはどんな様子だったんですか? 殺しちゃったとか、殺されちゃったとかいう話ですけど……」
「少し落ち着け。とりあえず殺されてはいないし、無事だ。詳しくは後で教えてやるから、今はここにあるはずの白い車を探せ」
「白い車? どうして?」
「うるさい、下っ端が説明を求めるな。ほら早くしろ」
「お、横暴だ……」
乃神がシープの尻を蹴る。
「はいはい探しますって!」
シープは慌てて駐車場を駆け足で探し始める。すると、程なく成果が現れた。
「――あっ! ありました! 白い車、これじゃないですか?」
十メートルほど離れた先で、シープが一台の車を指さす。暗くて遠目にはわかりづらいが、たしかに白いセダンタイプだ。
「ナンバーも合っているようだな」
車に近寄りながら、乃神が言う。これがニムロッドの言っていた、名護の車に間違いないようだ。古い車のようで、白い塗装は所々欠けたり薄汚れたりしている。
「よーし。じゃあ早速中を調べて――」
「待った、禊屋」
鍵を片手に車に近寄ろうとしたところで、織江に呼び止められる。織江は僅かに眉をひそめた微妙な表情で言った。
「あのさー……少し気になったんだけど」
「どしたの、織江ちゃん?」
「名護の自宅って、爆破されたんだよな……?」
「…………」
じわり、と嫌な汗が滲む。
「ちょっと……その……大丈夫だよね!? あの車、近づいた瞬間に爆発したりしないよね!?」
「い、いや……ないとは言い切れないんじゃ」
「えぇ……どど、どうしよう織江ちゃん!?」
二人で狼狽えていると、乃神が横から美夜子の持っていた鍵を奪い取ってしまう。
「おい!」
乃神は声をかけると、シープにその鍵を投げて渡す。
「その鍵が合うかどうか、確かめてみろ」
「了解です!」
「えっ、ちょ……!」
シープは美夜子と織江のやり取りは聞こえていなかったようで、美夜子が止める間もなく、何の躊躇いもなく運転席側のドアに鍵を差し込んだ。
「おっ……ドア開きましたよー!」
シープは嬉しそうに車のドアを動かしている。
「……だ、大丈夫みたいだね」
美夜子はほっと胸をなで下ろす。とりあえず人が近寄ることで爆発するという心配はなさそうだ。
織江が苦笑いを浮かべつつ、乃神に尋ねた。
「まぁ結果オーライですけど、もし爆発したらどうするつもりだったんです? 乃神さん」
「まぁ……その時はそのときだ」
「やっぱり」
と言って織江は肩をすくめる。
ああシープ君、なんて哀れなの……。
念のために爆弾が仕掛けられていないかを改めて確認した後、美夜子は車の中を調べ始める。
――が、とくに目新しい発見はなかった。後ろのトランクには大きなスーツケースが二つ積んであったが、中身は着替えやタオル、食料で占められていた。今日の便の航空券を名護が持っていたことを考えると、これは海外へ行くために準備した荷物と考えるのが自然だろう。とくに事件の手がかりになりそうなものは入っていなかった。
それ以外に車内には物が殆どなく、ダッシュボードの中身も掃除用のスプレー、タオル、懐中電灯、乾電池にペンと、ありがちなものばかりだ。
「むぅ……ハズレだったかなぁ……」
諦めて運転席から外に出ようとしたそのとき、シープが美夜子の足下を指して言う。
「あっ、禊屋さん。そこになにかありますよ」
「え? ……あ、ほんとだ」
運転席の座席シートの下に、くしゃくしゃに丸められた白い紙が転がっていた。美夜子はそれを拾って、破かないように丁寧に広げてみる。
紙にはプリントされた文章が載っており、上に大きな字でこう書かれていた。
『サンモール松里山にお住まいの皆様へ 屋上防水工事のお知らせ』
サンモール松里山(まつりやま)……たしかマンションの名前だ。北区にある松里山公園の隣りにあったはず。近くを通ったことがあるから覚えている。
シープが横から覗き込んで、
「工事を始めますよっていう、お知らせのチラシみたいですね。この車の持ち主はそこに住んでるのかな」
「いや……」
爆破された名護の自宅は、こことは別のマンションだった。ということはつまり……。
「なに見つけたんだ?」
織江が声をかけてくる。美夜子は車を降りて、織江と乃神にもチラシを見せた。
「そのマンション、もしかしたら名護さんのセーフハウスなのかも」
織江は納得したように頷く。
「隠れ家ってわけか。じゃあ、あの一本だけ用途がわからなかった鍵はそこのかもな」
「可能性はあるよね。ここから車で十分くらいだし、今から行ってみようと思うんだけど……」
「いいんじゃない?」と織江。しかし乃神は、腕時計を見つつ難しそうな顔をする。
「行くのは構わないが……もう少しで社長との約束の二時間が経過する。禊屋、お前もう犯人が使ったトリックの目星くらいはついたのか?」
「え? それってなんの話ですか?」
割り込んできたシープを乃神が蹴っ飛ばす。
美夜子はうつむき加減にかぶりを振った。
「正直言うと……まだ見当もついてない」
一応、現場の状況に一通り説明をつけられる仮説があるにはあるのだが……それは、『冬吾の犯行を否定するどころか、認めてしまう』ものなのだ。それは今必要な推理ではない。
「またここに戻ってくる時間はないぞ。マンションへ向かって、向こうで何か見つからなければそこでお終いだ。……本当に行くんだな?」
「…………」
現場は既に調べた。事件関係者から今聞いておけるだけの話も聞いた。それでも犯人の影すら見えてこない……。二時間以内に事件の糸口を掴むという薔薇乃との約束が守れなければ、ナイツは審問会での伏王会との勝負を降りてしまう。そうなれば、冬吾を守ることはできない。なんとしてでも手がかりを見つけなければ……。
名護の自宅は――おそらくは犯人の手によって――爆破されてしまったが、隠れ家のほうはさすがにノーマークだったのではないだろうか。だったら、まだ犯人に繋がる手がかりが残っている可能性がある。一か八かではあるが、今はそこに賭けてみたいと思った。残り僅かな時間で打てる手があるとすれば、それしかない。
美夜子は乃神に答える。
「うん……行こう」
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