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case8 女神の断罪
4 鍵のかけられた男
しおりを挟む車での移動中、美夜子たちは、何も知らないシープにこれまでの経緯をかいつまんで伝える。
「――なるほど、社長とそんな約束を……。それで残りの手がかりを探しに、そのマンションへ向かっているわけですね」
運転席に座るシープは真面目な顔で話を聞いていた。助手席に乃神、後部座席に織江と美夜子が座っている。
「……大丈夫ですよ、禊屋さん。ノラさんは絶対無実ですし、これから行くマンションで何か見つかるはずです」
シープが応援してくれるように言う。すると、その隣の乃神が彼に尋ねた。
「そう言えるだけの根拠でもあるのか?」
「それは……ありませんけど」
「だったらあまり無責任なことを言うな。期待させればさせるほど、ダメだったときの落胆も大きい」
「す、すいません……軽率でした。禊屋さんも、すみません」
美夜子は「ううん」と首を振る。
「ありがとね、シープ君。あたしもまだ全然、諦めるつもりはないよ」
「……はい!」
十分ばかり車を走らせると、サンモール松里山に到着した。入り口から少し離れた道路脇に車を停めて、シープが言う。
「あの……僕、ここに残ります。僕がついていっても役には立てないでしょうし……それに最近、この辺りで車上荒らしが頻発してるって聞きました。誰か一人は残っておいたほうがいいと思うんですけど……」
乃神は頷いて、
「まぁあまり大勢で動き回っても、目立ってよくないしな。わかった、お前はここに残っていろ」
そういうわけで、美夜子、織江、乃神の三人でマンションに入る。
エントランスは無人で、奥のほうに二枚扉。その横に暗証番号を入力するためのパネルが設置されている。
織江が扉に近づきつつ言う。
「オートロックの自動ドアだなー……まぁ古いタイプみたいだし、どうにかなるか……」
乃神は同意するように頷いて、
「それより問題は、どうやって名護の部屋を特定するか、だろう。そもそも、本当にここに名護の隠れ家があるかもわからないが……」
美夜子は集合ポストのほうへ近寄っていき、観察する。
部屋番号が示されているだけで、名前の表札は出ていない。ここから名護の部屋を特定することはできないわけだ。もっとも、隠れ家として利用しているなら名義に本名を用いているかどうかも怪しいところだ。
ポストの蓋にはすべてダイヤル錠がついていて、その住人にしか開けられないようになっている。いくつかのポストの口から青い紙が半分ほど飛び出していたので、美夜子はその中から一枚を抜き取ってみた。近所の学習塾のチラシのようだ。折りたたみもせずにそのまま突っ込まれているため、どれもポストからはみ出ている。
「どうする禊屋?」
織江が隣りに来て言う。
「鍵はあるから一部屋ずつ確かめるか? ――つってもそんな時間ないよな……」
「うーん……」
このマンションは五階建てで、各階に五部屋ずつの計二十五部屋らしい。そしてポストを見ると、投函口を塞ぐように「空」という文字の書かれたテープが貼ってある場所が、四カ所ある。つまりその四部屋は空き部屋ということなのだろう。二十五から四を引いて、住人がいるのは二十一部屋。
一部屋ずつ確認して回るというのもできなくはないが、織江が言うように時間がかかってしまう上に、不審すぎる。こんな日付も変わろうかという真夜中に扉の鍵をガチャガチャして歩き回ったら、下手すりゃ通報されかねない。
どうすべきか考えていると、エントランスの入り口から誰かが入ってきた。リュックを背負った若い男、バイト帰りの学生といったところか。
その男は見慣れない美夜子たちを見て少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに目線を切ってポストの方へ移動する。
男は『203』と書かれたポストのダイヤル錠を開けて中身が学習塾のチラシだけであるのを確認し、そのチラシを抜いてまたポストの蓋を閉じた。
「あのー、ちょっといいですか?」
美夜子はなるべく警戒されないように気軽な感じを装って男に声をかける。
「えっ……な、なんすか?」
美夜子は男が持つチラシを指して、
「そのチラシ……いつ頃ポストに入れられたか、わかるかな?」
「え、これ……?」
「大体の時間でいいんだけど」
男は質問の意図が掴めず困惑したようだったが、答えてくれる。
「えっと……夕方バイトに出かけた頃には入ってなかったから……五時より後だと思います」
「ふぅん……うん、教えてくれてありがと! バイトお疲れさま」
美夜子はニコッと微笑んで言う。
「は、はい。どうも……へへ」
男はにやけ顔のまま奥のオートロックの暗証番号を入力し、自動ドアを開けて中に入っていった。
黙って男を見送ってから、乃神が美夜子へ尋ねる。
「今の質問、なにか意味があったのか?」
「うん。これで名護さんの部屋は絞れたよ」
それを聞いて、織江が驚く。
「まじか。どうやったんだ?」
美夜子は先ほど抜き取ったチラシを見せながら、
「この集合ポスト、このチラシが口から飛び出てるものとそうでないものとがあるよね? さっきのバイトくんの話の通りなら、このチラシは今日の夕方五時以降に投函されたということになる。その時間、名護さんは修道院にいたはずだし六時以降は死亡を確認されているから、このポストに入れられたチラシを回収することはできないよね? ということはつまり、このチラシが入ってない――既に住人によって回収されているポストの部屋番号は、名護さんの部屋の候補からは除外していいんだよ。んで、チラシがそのまま残っている部屋が候補になるから、あたしがさっきチラシを抜き取った部屋も合わせると、いちにぃさん……全部で七部屋!」
候補となる部屋番号は『103』、『105』、『202』、『301』、『305』、『405』、『504』。これで空き部屋を除いた二十一部屋から、一気に十四部屋が除外された。
「それにさっきこのマンションに来る途中、外からベランダ側の様子が見えてたんだ。明かりの点いた部屋とついてない部屋が丸わかりだったから、それも判断材料にできるよ」
織江は「ああ」と納得したように言って、
「明かりが点いているってことは、部屋の中に住人がいる証拠だ。それも除外できるな」
「そーいうこと」
美夜子は車内からベランダ側の外観を数秒見ただけだったが、どの部屋に明かりが点いていてどの部屋が暗かったのかを完璧に思い出すことができる。
「普通は入り口に近い部屋から順に部屋番号を割り振られるから、どの位置の部屋が何号室なのかも推測がつく。さっきの候補の中から更に、明かりが点いていた『103』と『305』の部屋は除外できるよ」
「残り五部屋か……他には何かあるのか?」
「あとは……これ」
美夜子は『105』のポストを指さす。そのポストの口部分からは、チラシと同じような形で新聞がはみ出ていた。日付を見ると、今朝の朝刊だ。朝から入れっぱなしになっているのだろう。
「名護さんがここを隠れ家として利用していたのなら、新聞は取らないんじゃない? 毎日来るわけじゃないだろうし」
「ああそうだろうな。じゃ、『105』も外せるな」
「あと、『504』もね」
今度は乃神が尋ねる。
「『504』もか? なぜだ?」
「ベランダに女性ものの下着が干してあったから」
「……そうか」
これで残った候補は『202』、『301』、『405』の三部屋だ。
織江が感心したように言う。
「三部屋まで絞れたな。ここまでできりゃあ大したもんだよ、禊屋。これくらいなら順番に鍵が合うかどうか試していっても、そんなに時間はかからない」
美夜子は「うん」と頷いて、
「最初に行くのは『405』の部屋がいいと思う。そこが一番『当たり』の可能性が高いから」
「なんでだ?」
「心理的な問題かな。隠れ家として使うなら、端の部屋のほうが人目につきにくくていいでしょ?」
「なるほど。んじゃ、その部屋からにしようか。さっさとあの扉開けちゃおう」
織江は右手の親指でオートロックのドアを指して言った。
「りょーかい!」
美夜子は意気揚々と閉じたドアの前に立つと、合わせ目にチラシを差し込んで、動かす。すると、内部側のセンサーが動きを感知し、実にあっさりとドアは開かれた。
外から中へ入るには認証が必要だが、中から外へ出る際には普通の自動ドアを通るのと変わりないという古いタイプのセキュリティにのみ通用する手段だが、これが一番簡単だ。
美夜子たちは自動ドアを抜けてすぐのエレベーターに乗って、四階へ。それから、廊下の突き当たりにある『405』の部屋の前まで移動した。
美夜子は、ニムロッドから預かった鍵Cを慎重に玄関扉の鍵穴に差し込む。ゆっくり鍵を回すと、「ガチャ」という錠が開く音が鳴った。
「やった、ビンゴ……!」
美夜子は小声で言って、隣りにいた織江とそっとハイタッチした。
続いて美夜子は扉を開けようとしたが、数センチほど開いたところで引っかかり、それ以上開かなくなってしまう。
「おろっ?」
よく見ると、扉の内側にももう一つ鍵が付いていた。ダイヤル式の南京錠。扉と壁にそれぞれ取り付けた輪の形の金具に南京錠の屈曲した鉄棒を通してロックする形になっていて、外からでも掛けられるようになっているようだ。
「……どーするよ、禊屋?」
織江が横から声をかけてくる。
ど、どうしよう……さすがにもう一個鍵があるとは予想していなかった。
南京錠のダイヤルは五桁。つまり考えられる番号のパターンは全部で十万通りということになる。全てを試している時間は、当然ながら無い。
金属を切る工具があれば南京錠の鉄棒を切断することはできるかもしれないが、鉄棒はかなり頑丈そうだからそれにも時間がかかるだろう。こんな時刻にこんな場所で、そんな大がかりな作業をするわけにもいかない。というかそんな工具も手元にないのだから、どちらにせよ無理。
――やはりここは、名護が設定した番号を予想するしかないのか。でも、そんなのどうやって? 名護の生年月日くらいなら調べられるだろうが、それ以外の何かに関連した数字だとか、完全にアトランダムな数字の羅列だったらもう手の出しようがない。
もう時間がない。焦燥感が募る。急がなくては。
せめて何か……ヒントは……。
美夜子はなんとなく、手に握ったままだった鍵Cを見つめてみた。最初にファイルで見たとおり、鍵の頭の部分には黒の油性ペンで小さな円が描かれている。
……そういえば、この円は何かを意味していたのだろうか? ただ家の鍵と区別をつけるために適当な印を描いておいたというだけ? それとも――……
「あ――もしかして」
美夜子は咄嗟に思いついた数字を南京錠のダイヤルに入れていく。揃えた数字は、『31415』。
「カチャ」と音が鳴って、南京錠のロックが外れた。
「円周率か……なるほど。その鍵の円は、それを忘れないように描いてあったんだろうな」
乃神が横から覗きつつ言う。そのとおり、と美夜子は頷いた。
「えへへっ、ラッキーだったね。じゃ、早速お邪魔しましょー」
扉を開けて、部屋の中に入る。玄関にある電灯のスイッチを押すと、小さなキッチンの奥にリビングルームが見えた。
リビングに移動してみるが、家具の類は少ない。ベッド、ソファにテーブル、あとはリビングボードが一つあるくらいだ。ここには、誰かが生活しているという臭いが感じられない。これで普段住まいではなく隠れ家として必要な時にだけ訪れていたという読みの信憑性は上がったか。
それよりも気になるのは、リビングに入ってすぐに目につくこの異様な光景だ。
「……なんだろう、これ?」
リビングボードの上の壁に、五十センチ四方ほどの絵が描かれているのだ。黄色の矢が三本で三角形を作ったような、見慣れないマークが描かれている。画材にはスプレー塗料を用いたようだ。
「『イエローアローズ』……」
乃神が驚いたような表情で呟く。
「知ってるの、乃神さん?」
「ああ……イエローアローズといって、近頃この街で噂になっている窃盗団だ。盗みに入った場所には、証としてその妙なマークを描き残していくらしい」
「それじゃあ、この部屋はその窃盗団に盗みに入られたってこと?」
「塗料の感じを見る限り、このマークが描かれたのは結構前のようだな。イエローアローズの活動が確認されたのは四ヶ月ほど前からだから、その間か」
よく見ると、壁に描かれたマークの左端のほうは拭き消そうと試みたような滲んだ痕跡がある。結局、消せなくて諦めたようだが。
なるほどそうして考えてみると、入り口の南京錠は、前に空き巣に入られたということから対策として付けたものだったのかもしれない。
「でも、いったい何を盗んでいったんだろう……」
そもそも、この部屋が窃盗団に狙われたのはなぜだ? エントランスがオートロックになっているマンションは、そのことに住人が油断して防犯意識が低い傾向にあるという。だからプロの犯罪者はあえてそういったマンションを狙う――という話も聞いたことはあるが……。玄関の鍵も特殊なものではなかったようだから、技術がある者なら開けて中に入るのは難しくはなかっただろう。しかし、この部屋がターゲットとして選ばれたのは、ただの偶然なのか……?
わからないが、このことは留意しておくとしよう。
マークの描かれた壁から視線を少し下げると、リビングボードの上に、伏せた状態で置かれた写真立てがあった。美夜子はそれを手に取って、中に飾られた写真を見る。
「えっ……?」
これっていったい、どういうこと……?
……こんな場所でこんなものを見つけることになるとは。混迷化していく状況の中、美夜子は更なる謎の奔流に飲み込まれるような心地がした。
その中に入っている写真には、スーツ姿の三人の男が写っている。落ち着いた雰囲気のバーのような店内で、男たちはカウンター席に座って笑い合っていた。左には格闘家のように大柄な男、真ん中には背が高く落ち着いた紳士風だが妙に目力のある男、右には細身で口の上に髭を生やした男と並んでいる。いずれも三十後半から四十前半くらいの年齢だ。
「禊屋……なんだ、その写真は……」
写真を横から見た乃神が言った。さすがの彼も、動揺を隠せないでいる。
「どうして名護修一と一緒に、その人が写っているんだ?」
写真に写った三人の男たちのうち、左側が名護修一、そして、右側にいるのは――岸上豪斗だった。今から二ヶ月前、美夜子が冬吾と初めて出会ったあの事件で殺害されてしまった男で、乃神にとっては元上司でもある。それがなぜ、今回の事件の被害者と一緒に写っている……?
今度は織江が尋ねてくる。
「その、真ん中に写ってんのは?」
美夜子はかぶりを振った。
「わからない……けど……。もしかしたら、っていう人はいる……」
「誰だ?」
「……ノラのお父さんの、千裕さん」
全体的な印象が似ているし、とくに目元に面影がある。
「あいつの父親? うぅ~ん、言われてみれば似てなくもないが……そうだとしても、なんでこの三人が……?」
「…………」
冬吾の父親である千裕と、岸上豪斗は兄弟関係である可能性が高い。それは以前に美夜子が推理したことだ。
名護と豪斗が一緒に写っているのはたしかに不可解だが、その間にいるのが千裕だと考えれば、少しは想像しやすい。千裕が同僚であり友人である名護と、兄弟である豪斗を引き合わせたのだ。
しかし、それで疑問のすべてが解決するわけではない。
冬吾は幼少の頃に豪斗と会った記憶をおぼろげに覚えてはいるものの、父親に兄弟がいるとはそれまで一度も聞かされたことがなかったという。だからてっきり、刑事である千裕は裏社会に入った豪斗とは絶縁でもしたのだろうと思っていたのだが……。この写真の和やかな雰囲気を見ると、とてもそうは思えない。実は二人の関係は円満だったのか? 名護や豪斗の見た目は現在と殆ど変わっていないので、この写真が撮られたのはせいぜい四、五年前というところだが……。
――わからない。ひとまず保留だ。写真については、冬吾にも確認してもらったほうが良いだろう。美夜子は写真をコートのポケットに収めた。
「おい禊屋、ベッドの下に何かあるみたいだぞ」
乃神に言われて、美夜子はベッドの下を覗き込む。ノートパソコンが一台置いてあるようだ。美夜子はそれを引き出して、テーブルの上に置いて開く。ケーブル類は周囲に見当たらなかったが、まだバッテリーの充電が残っていたようで、電源ボタンを押すと起動し始めた。
隠れ家に置いてあった、ノートパソコン……これは重要な手がかりの匂いがする。
パソコンの起動を待つ間そんなことを考えていると、リビングボードのほうを調べていた織江が言った。
「こっちも見つけたよ。なにかのファイルみたいだな……」
織江はリビングボードの引き出しから、なにやら分厚いファイルを取り出す。
「これはこっちで調べとく」
「お願いね」
ファイルの確認を織江に任せて、美夜子はパソコンのディスプレイに視線を戻した。
「あっ、でも……これもパスワードがわかんないとダメなのか」
当然ながら、起動時のサインインができなければパソコンのデータを調べることはできない。持って帰ってアリスに頼めば、ちょちょいのちょいなのかもしれないが……少なくともこういったコンピューターには疎いほうである美夜子には無理だ。
「いや……問題ないようだ」
乃神が言う。ディスプレイにはいつの間にかデスクトップ画面が表示されていた。起動時のパスワード入力を省略する設定になっていたようだ。誰かと共用していたり、外に持ち歩いたりということがなければセキュリティ上の問題も滅多に発生するものではないだろうが……やはり少し不用心な気もする。まぁ、そういう人もいるか。
――期待を抱きつつ中のデータを調べてみたが、美夜子は肩透かしを食らったような気分になった。このノートPCには、『個人的なデータは何も残されていない』。店で買ってきたばかりの状態のような、最低限のプログラムが入っているだけだ。
まさか、事件の犯人が自身に繋がる証拠を隠滅したのか? いや――それは考えづらい。犯人がこの隠れ家の場所まで知っていたとは思えないし、それなら自宅と同様に部屋ごと爆弾で吹き飛ばしたほうが手っ取り早い。
では、名護が自分でデータを消去したのか? 名護にとって必要なくなったか、あるいは――こうして誰かに見られるのを防ぐために?
「ハズレで残念だったな。で、このパソコンはどうするんだ禊屋?」
一緒にパソコンを調べていた乃神が言う。
「うぅ~ん。とりあえず持って帰って、アリスに調べてもらおうかな。もしかしたら、消えたデータを復旧できるかもしれないし」
「そうか……あいつならできるかもしれんな。過度な期待はしないでおくが」
アリスの能力を疑うわけではないが、上手くいったらラッキーくらいに捉えておいたほうがよさそうだ。
「……禊屋、ちょっといい?」
織江が声をかけてくる。織江は先ほど引き出しから取りだしたファイルをリビングボードの上に置いて、その中身を凝視したまま話し続ける。
「修道院で言いかけてた……叢雲のことなんだけど」
冬吾が昨日、名護から『叢雲という名前を聞いたことがあるか』と尋ねられていたという件のことだろう。
「そういえば織江ちゃん、後で話すとかなんとか言ってたよね」
「……叢雲っていうのはさ、この夕桜の街で活動していた、ある殺し屋の名前なんだよ」
「殺し屋?」
「そう。叢雲……素性は不明のフリーランス、Sランクの二丁拳銃使い――二つ名は《無極双奏(エクス・ダブル)》。この界隈じゃ伝説級のヒットマンだ」
「Sランク……」
アルゴス院は基本的には彼らが収集した情報で商売を行うことはないが、その数少ない例外が『Who's Hitman』の販売である。簡潔に言うと殺し屋の紳士録、もしくは殺し屋名鑑であり――つまりは、日本各地の殺し屋の情報が掲載されている本だ。情報とはいっても掲載されるのは殺し屋としての名前、ランク、主な活動地域、所属、得意とする殺しや武器くらい。殺し屋が広く顔を知られると商売に差し支えが出るだろうとのことで、顔写真は非掲載である。また、本人の要望があれば掲載そのものを辞めさせることもできる――らしい。
公表されていない殺し屋の情報をアルゴス院がどうやって入手しているのか、何の目的があってそんな本を発行しているのか、諸々一切は謎に包まれている。しかし掲載されている情報の精度は確かなもので、裏社会の顧客たちはこの本を、ある者は殺し屋を雇う際の商品カタログとして、ある者は敵対組織の戦力を測るための足がかりとして利用しているようだ。
殺し屋のランクはアルゴス院が独自に判定したもので、殺し屋の能力によってD、C、B、A、Sの全五段階に分かれている。一般的に腕利きと認識されるのがBランクからで、Aランクは猛者中の猛者という扱いだ。Sランクともなればランクホルダーはほんの一握りで、その強さはもはや超人的と評するしかないような面々ばかりである。
叢雲という殺し屋は、その「ほんの一握り」のうちの一人だということだ。しかし、美夜子はそんな殺し屋が存在していることを初めて知った。伝説級というのなら、Sランクの中でも上位に入るような殺し屋なのかもしれないが……それなら今までに話くらい聞いたことがあっても良さそうなものだ。この地域で活動しているのなら、尚更である。
織江の話を聞いて、乃神が言う。
「叢雲か……。そういえば、俺も名前くらいは聞いたことがあるな。だが、最近は活動していなかったんじゃなかったか?」
「ええ、ここ数年はまったく音沙汰なし。叢雲はフリーランスなんで詳しくはわかりませんが、殺し屋名鑑にも名前が掲載されなくなってたから、たぶん引退したんじゃないですかね」
ああ、そういうことか。美夜子は納得する。ここ数年殺し屋として活動していないのなら、ほんの二年ほど前に裏社会に入ったばかりの自分が知らなくてもしょうがない。
織江は更に続ける。
「……それで、ですね。修道院であのバフィンって男が言ってたこと、覚えてます? 名護修一は元凄腕のヒットマンだという噂があるって」
美夜子は織江の言わんとすることに気がついた。
「えっ……じゃあ、まさか」
織江は頷いて、先ほどから見ていたファイルを美夜子に渡す。かなり分厚く、ずしりと重い。表紙には何も書かれていなかった。
「それ、ざっと内容を確かめてみたけど……どうやら殺しのターゲットの情報をまとめたものみたいだな」
適当なページを開いてみる。人物の写真と名前、年齢、職業、そして備考欄には注意点や大まかな行動パターンなどが一ページごとに手書きの文字でまとめられていた。そして、それぞれのページの末尾には日付と「完了」の二文字。その日に殺害を完了したという意味か。ページによっては対象の写真が貼られていなかったり、年齢や職業の部分が空欄になっているところも見受けられた。
書かれた文字を、記憶にある名護の肉筆――例の神楽との待ち合わせのメモ――と照らし合わせてみる。サンプルが少ないので断言は出来ないが、筆圧が強く止めはねが強調された筆跡は一致しているように思われた。「1」と「7」の違いがぱっと見ではわかりづらいところなども同じである。以前にも筆跡鑑定の真似事はやったことがある、プロの鑑定士ほどではないが素人よりは目が利くはずだ。
美夜子はファイルのページをめくりながら、やがて驚きの声を上げた。
「え……? ちょっ……これ、全部!?」
分厚いファイルのどのページをめくっても、同じような項目が並んでいるのだ。
織江が言う。
「ああ。そこに書かれた日付によると最初が十八年前で、最後が四年前……ざっと十四年分だ。たぶん、そこにあるだけで三百件はあるんじゃないか」
十四年間で三百件……それが本当なら、伝説級と呼ばれるのも頷ける。このファイルに記録されている以外の仕事もあったかもしれないことを考えると、尚更だ。
「叢雲の場合こなしてきた殺しの数が尋常じゃないというのもあって、今までに奴の殺しだと判明している案件ってのも結構な数あるんだ。私もその全部を把握しているわけじゃないけど……今そのファイルを少し読んでみたら、一致するものが複数あった」
「それじゃ……本当に、叢雲の正体は名護さんなの?」
「まず間違いないね」
名護修一の正体は、凄腕の殺し屋……。
冬吾の話では、名護は警察内で行われた大会で何度も優勝するほどの射撃の名手だったという。Sランクヒットマンの実力があれば、それくらいは容易いことだろう。
「……最後のページを見てみなよ」
織江に言われたとおり、美夜子はファイルに綴じられている最後のページを開いてみる。そして、そこに記されていた名前に美夜子は思わず息を呑む。
「これが、叢雲の最後のターゲット……」
名前の欄には、『戌井千裕』とあった。その横には、写真が貼られている。写っているのは、スーツ姿の中年男性。先ほど見た写真にいた、真ん中の男と同一人物のようだ。こちらの写真は対象が街中を歩いているところを隠し撮りしたものらしく、対象の視線はこちらを向いていない。
記載されている年齢は四十三歳、職業は刑事……。備考欄には『20XX/11/20』という日付、そしてその横に『完了』とだけ書かれてあった。日付は冬吾が言っていた、四年前に千裕が殺害された日と一致している。
「……これで決まりだな」
そのページを読んで、乃神が言う。
「戌井千裕を殺害したのは叢雲であり、名護修一だった。貸金庫の短刀の件もある、間違いないだろう」
信じたくはなかったが……ここまで証拠が揃ってしまうと、認めざるを得ないか。
戌井千裕と名護修一は刑事としての同僚であり、友人同士だった。名護はなぜ、千裕を殺害したのだろうか? 誰かから依頼を受けて? それとも、殺し屋という自分の正体に感づかれてやむを得ず?
名護が当時どのような思いでこの千裕を殺害するに至ったかは、このページの文面からはわからない。
いや――やはり名護は、千裕を殺害したことを悔やんでいたのではないだろうか? 先ほど見つけた写真立てが伏せられていた理由は、そのあたりにあるような気がする……。
友を殺してしまったその後悔が、殺し屋叢雲を廃業に追い込んだのかもしれない。名護がその後でアルゴス院に入ったとすれば、時期も一致するわけだ。
名護の隠されていた素性……これは、事件の動機に関係があるのだろうか……?
事件との繋がりはよくわからないが、何か大きなものに近づいているという予感はある。
――だが、まだ足りない。
……手がかりはこれだけなのか? せっかくここまで来たのに、まだ犯人に辿り着けそうな情報は揃っていない。このままじゃまずい……。
その後も部屋の中を調べてみたが、他に手がかりらしいものはこの部屋にはなかった。
美夜子は疲れたため息を吐く。たしかに重要そうな発見はあったが……今はもっと、事件に直接迫るような情報が欲しかったところだ。
その時、美夜子の携帯に着信が入る。ディスプレイに表示された相手は、薔薇乃だ。
……ついに来てしまったか。
美夜子は苦虫を噛み潰したような表情で電話に応じた。
「……もしもし、薔薇乃ちゃん?」
『美夜子。約束通り二時間が経過しました。十分ほどオーバーしてしまいましたが、まぁよいでしょう』
薔薇乃はそこで一呼吸置き、
『それで……事件の糸口は掴めましたか?』
美夜子は、これまでの調査で発覚したことをかいつまんで薔薇乃に伝える。
『……なるほど。要するに、まだ事件の犯人もトリックも、皆目見当がついていない状態である……ということですね?』
……悔しいが、否定はできない。
「ごめん、薔薇乃ちゃん……」
『……あなたで無理だったのなら、他の誰にも不可能だったのでしょう。しかし……残念ですが、約束は約束です。審問会の話はなかったことに――』
「ま、待って!」
『……なんです?』
ここで引き下がるわけにはいかない。美夜子はありったけの思いを込めて、薔薇乃に懇願する。
「お願い……審問会の申し出、引き受けてほしいの。約束のことはわかってる、でも――」
『約束は守れなかったが、あなたの要望は通せと? それはまた、随分と虫の良い話だとは思いませんか?』
「思う……思うけど! ノラのこと、諦めるなんてできない! あともう少し、時間をくれるだけでもいいの……!」
『アルゴス院からも急かされています。もうこれ以上、審問会に出るかどうかの返答を引き延ばすことはできません』
「じゃあ……やっぱり引き受けて。大丈夫だから……審問会では必ず勝ってみせるから!」
薔薇乃は電話越しにため息をついた。
『……美夜子。わたくし個人としては、あなたの言葉を信じたく思います。これがわたくしとあなただけの問題であれば、わたくしは迷いなくあなたに任せることができたと断言できる。しかし、今回はそうではないのです。相手はあの神楽で、現状なんの手立てもなし。そんな状況でみすみす審問会に出て行き、負ければ、わたくしの首だけでは済まなくなるかもしれない。わたくしはこの支部の長として、こんなリスクの高い勝負を認めるわけにはいかないのです。……それとも、審問会で負けた場合のプラス四十億、あなたが支払ってくださるのですか?』
「……っ。そんなこと、できないよ……」
『……では、お願いします。諦めてください。そもそもの話、仮にわたくしが認めたとしても、審問会での勝負を引き受けるには本部の承認が必要になります。つまり、本部を納得させるだけの理由が必要なのです。しかし今のわたくしたちには、その説得材料がない。……ご理解ください。もう、どうにもなりません』
「そんな…………」
脱力感にも似た絶望が美夜子を襲う。目の前が真っ暗になるような感覚がして、立っていられなかった。壁を背に座り込んでしまう。
本当にもうどうしようもないの? わからない。もうどうしたらいいのかわからない。頭が熱っぽくて思考がまとまらなかった。
彼のこと、助けるって約束したのに。あたしのことを信じて、頼ってくれたのに。あたしには無理だった。
……まただ。“また”、あたしが無力なせいであたしの大切な人が死ぬ。
感情が抑えきれなくなって、目から涙が零れる。美夜子は嗚咽を噛み殺しながら、震える声で電話向こうの薔薇乃へ言った。
「ねぇ……薔薇乃ちゃん。なんとか……なんとかしてノラを助けてあげられる方法って、ないのかなぁ……?」
『美夜子……』
「お願いだから、なんとかしてあげてよ……あたしはどうなってもいいから……!」
『……それほどまでに、彼を助けたいのですか?』
「…………あたしの」
涙をコートの袖で拭って、続ける。
「あたしの……大切な相棒だもん」
『………………』
長い沈黙があった。
『……また連絡します。指示を待ちなさい』
薔薇乃はそう言うと、電話を切ってしまった。
戌井冬吾は、狭い個室のソファに座って天井を見上げていた。聖アルゴ修道院の本館に軟禁されてから、数時間が経つ。
電話ですら許可を取らないと使えない状態で、部屋には時間を潰せるようなものは一つもない。これから先、どうなってしまうのか? 外の様子はどうなっているのか? そんなことをひたすらに考えていた。
禊屋の調査は、上手くいっているだろうか? 薔薇乃との約束で、二時間以内に一定の成果が出せなければ、審問会には出られないらしい。もしそうなったら、自分の殺人容疑は確定されてしまう。そしてナイツに処刑されるか――されないまでも、二度と元の生活に戻れないことは間違いないだろう。
自分がどうにかなるだけならまだいい――いや、よくはないが――そうなったら間違いなく周囲の人間――妹や夕莉にも迷惑がかかってしまう。もしも二人が自分の巻き添えになるなんてことがあれば、それは最悪としか言いようがない。なんとしてでも、それだけは避けたいところだが……現状、自分にはどうしようもないというのが実情だった。
全ては、禊屋に任せるしかない。彼女に重荷を背負わせるのは心が痛んだが、他に手はなかった。
――既に禊屋の調査のタイムリミットである二時間が経過している。果たして、結果はどうだったのだろうか……。
そのとき突然、扉がノックされた。
「は、はい……」
返事をすると、ゆっくりと部屋の扉が開けられる。現れたのは、黒色のゴシック風のドレスに身を包んだ美女――岸上薔薇乃だった。夕桜支社を束ねる若き天才は、優雅な仕草で挨拶をする。
「こんばんは。ご機嫌いかがですか、ノラさん?」
「はぁ、まぁ……率直に言って……最悪、なのではないかと」
「ふふっ、そうでしょうとも」
薔薇乃は澄まし顔でそう言って、冬吾の向かい側のソファに腰掛ける。
「この度は、災難でしたね。神楽の目的はわかりませんが、あなたは二ヶ月前と同様、またしても彼女の策略に嵌められてしまったということなのでしょう」
「……薔薇乃さんは、俺が犯人じゃないって信じてくれるんですか?」
「……ええ、まぁ、一応は」
なんだか歯切れの悪い回答だ……。
「――このような状況だから正直に言ってしまいますけれど、わたくし、あなたのことは好ましく思っていますよ?」
「えっ……。そ、それはどうも。ありがとうございます……」
思わぬ直球表現に動揺してしまう。もちろんこの場合の「好ましい」は、likeの意味なのだろうが。
薔薇乃は冬吾の反応に軽く笑ってから、言葉を続けた。
「あなたはほんの二ヶ月前にナイツに入ってきた、戦う術すら知らなかった新人。危険な任務をこなすことも多い美夜子の相棒役は、いささか荷が重いかと心配もしておりました。あなたの心配ではありませんよ? あなたが死ねば、美夜子が悲しみますから」
「…………」
「しかし、あなたは生き延びた。それどころか、時には危険極まりない強敵をも退けて美夜子を守ってくれた。感謝しています――彼女の友人として」
薔薇乃は丁寧に頭を下げる。こちらが恐縮してしまいそうだ。
「美夜子も、あなたのことはとても信頼しているようですよ」
「そ、そうですかね」
「そうですとも。あの子のことをずっと見ていたわたくしが言うのですから、間違いありません。元々人懐っこい子ではありますけれど、あなたへの信頼は、きっと彼女にとって特別なものなのだと思います。それが、わたくしにとっては嬉しくもあり、さみしくもあり……あの子の旧来の友人としては、若干、嫉妬せざるを得ませんね。ですから、あなたのことは少しだけ、嫌いです」
と、薔薇乃はちょっと拗ねたように言う。
「さっきと言ってることが違いますけど……」
指摘すると、薔薇乃は「ふふっ」と上品に笑った。彼女は顔の前で人差し指を立てて、
「べつに、矛盾はしていませんよ? 人の心というものは非合理的かつ複雑怪奇な代物。あなたのことは好きですが、少し嫌い……。そんなこともありますとも、人と人との間には」
そう言いながら、薔薇乃は何かを思い出すように遠い目をする。彼女は自分より二つ歳上らしいが、若いのに含蓄のある語りぶりを見せるものだ。
薔薇乃は冬吾を見据えて、話を続ける。
「色々と複雑な感情はありますが、あなたのことはわたくしも信用しています。ですが、もしも……。あなたが名護氏を殺害しておきながら、ぬけぬけと嘘をついて美夜子やわたくしを騙そうとしたというのであれば……文字通りの意味で、八つ裂きにして差し上げようという気持ちになる……かもしれませんね?」
……さらりと恐ろしいことを言う。冗談めかしてはいるが、それも彼女の本心なのだろう。
「――が、それもおそらくないでしょう。だってわたくし、あなたがそれほど芸達者というか……器用な人間であるようには思えませんもの」
「……で、でしょうね」
たしかにそのとおりなのだが、人から言われるとなんだか複雑な気分である。
「さて……余計な話はこれくらいにして。本題に入りましょうか」
そう言うと一転、漆黒の令嬢は、「仕事」の顔つきになる。
「わたくしがここにやってきたのには、二つ理由があります。一つは、あなたに美夜子が行った調査の結果をお伝えするため。もう一つは、あなたに『ある選択』をしてもらうためです」
「選択……?」
「はい。それは後で説明するので、まずは一つ目から。わたくしと美夜子は、今回の事件の調査に関して、約束をしていました。そのことは、既にあなたもご存知ですね?」
「禊屋が二時間以内に事件の糸口を掴むことができなければ、審問会を辞退する……」
「そうです。審問会で伏王会との勝負に負けてしまえば、アルゴス院への賠償六十億に加え、伏王会への賠償四十億……合計で百億もの負債を背負ってしまう。それに、組織としてのメンツも丸潰れ。相手があの神楽であることを考えると、勝ち筋の見えない勝負を受けるわけにはいきませんでした」
夕桜支社の長としては、それも当然の判断なのだろう……。
薔薇乃は一呼吸置いて、冬吾を真っ直ぐ見つめながら続けた。
「結論から言うと……美夜子は、約束を守れませんでした。今回の事件の犯人もトリックも、未だ有力な手がかりは掴めていない状態です」
「……っ!」
それを聞いて、冬吾は全身から力が抜けていくような気がした。
「……………………そう、ですか」
やっとの思いで言葉を返す。そうか……ダメだったのか…………。
薔薇乃は表情を変えずに続ける。
「……約束は約束ですから。夕桜支社としては、審問会は辞退することに決定しました」
「……はい」
気の抜けた返事をする。きっと呆けたような顔になっているに違いない。
「そうすると、あなたはアルゴス院幹部である名護修一を殺害した犯人として扱われることになるわけですが……それはもう、わかっていますね?」
「……はい」
「……何か、わたくしに言いたいことはありますか?」
「…………」
冬吾は少し考えてから、薔薇乃に言った。
「禊屋に……『ありがとう』と伝えてください。それと……俺のことで責任を感じているようなら、そんな必要はないってことも」
「……!」
薔薇乃は僅かに驚いたような表情をする。
「……予想外でした。恨み言の一つでもぶつけられると覚悟していたのですが」
「薔薇乃さんを恨んでもしょうがないですから……。精一杯の譲歩をしてくれたっていうのは、俺にもわかりますし」
「怖くはないのですか? ご自分が、これからどうなるか……」
冬吾は力なく笑って、かぶりを振る。
「……怖いです。めちゃくちゃ怖い。今目の前に薔薇乃さんがいなきゃ、泣いてたと思います」
聞かされたばかりで、まだ実感として背負いきれていないというのもあるだろう。真剣に考え始めてしまうと、間違いなく何かが決壊してしまうから……今はまだその領域へ思考を進めたくない。
薔薇乃は何か考え込むようにうつむき、自分の額と髪を触り……それから顔を上げて、冬吾に言った。
「……手がないわけではありません」
冬吾は一瞬、薔薇乃が何を言ったのかわからなかった。
「一つだけ……あなたが助かる方法はあります」
「え……?」
やはり、聞き間違いではない。
「そ、それって……どんな方法なんですか!?」
冬吾はせっつくように言った。この状況から助かるのなら、もうどんな方法だっていい。
薔薇乃は数秒、冬吾を見つめてから、ゆっくりと話し出す。
「あなたの罪が確定すれば、アルゴス院へ賠償金を支払うことになります。それまではいいとして……。おそらくその後、ナイツの本部はあなたの身柄を要求してくるでしょう。身内であるわたくし達に預けていては、処刑したフリだけしてどこかに逃がしてしまう可能性がある……。それを防ぐために、本部は自らの手で決着をつけようとするはずです。――なので、動くとしたら本部が介入してくる前。アルゴス院からあなたの身柄を引き受けたら、すぐにあなたを逃がします」
「逃がすって……どこに?」
「詳しい場所はまだ言えません。今は、国外であるとだけ。わたくしが信頼できる伝手を用意しておきますから、生活面での心配はいりません。そこであなたは、ほとぼりが冷めるまで身を隠してください。それにあなたの妹さんも、わたくしが責任を持って安全な場所で保護しましょう。あなたが戻ってこられるまで」
「灯里の面倒まで見てくれるんですか?」
薔薇乃は少し表情を緩ませて、答えた。
「……わたくしも、今回の一件であなたに対して罪悪感を覚えないわけではありませんから」
そうか……それなら……安心だ。自分の命は助かるし、何より心配だった灯里にも安全が保証されている。自分と灯里がいなくなったら、夕莉は大いに心配するかもしれないが、それも薔薇乃から事情を伝えてもらえれば……
――と、そこまで考えたところで、冬吾はあることに気がついた。
「…………待ってください」
「なにか?」
「その……ちょっと気になったんですけど」
「……何でしょう?」
「俺を逃がしてしまったら……その責任を誰かが取らなきゃいけないんじゃないんですか?」
薔薇乃の周囲の空気感が変わったような気がした。先ほどより冷たい感じのする声で、彼女は言う。
「……それは、あなたが気にすることではありません」
「で、でも! 俺はナイツにとって重罪人になってるはずでしょう。それを逃がしてしまって、何のおとがめもなしってことはないんじゃ……」
「…………」
薔薇乃はしばらく黙っていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「……ええ、その通りです。あなたの逃亡を手伝ったとすれば、それは組織に対する重大な裏切り行為。その主犯は、処刑を免れないでしょう」
「そんな……じゃあ、薔薇乃さんは……」
「いいえ。わたくしではありません」
「……え?」
「あなたに対して申し訳なく思っているのは事実ですが……さすがにそこまではできません。わたくしには、支部長としての立場と責任がありますから。まだ死ぬわけにはいかないのです」
待て……話がおかしくないか? 今の話の流れで薔薇乃が処刑されないのであれば、結局誰も死なないということか?
……いや、それも違う。薔薇乃は「わたくしではありません」と言った。つまり、別の人物が、俺の逃亡を手助けした主犯として処刑されるということだ。
でも、他に夕桜支社に俺の代わりに死のうなんて考える人物が――…………!
「……そう、か」
――ああ、なんて間抜けなんだ俺は! そんなの、『あいつ』が一番考えそうなことじゃないか!
冬吾は確認の意味で、薔薇乃に尋ねた。
「それで処刑されるのは……禊屋なんですね?」
「…………」
薔薇乃は言葉の代わりに、頷くことで返答をする。
「どうして、そんな……!? 禊屋はそのこと、知ってるんですか!?」
「美夜子はこの件で、誰よりも強く責任を感じています。あなたを救うことが出来るのなら、自分の命を犠牲にしても良い……彼女はそう言っていました」
冬吾の頭の中で、その光景が思い浮かぶ。禊屋のことだ、涙ながらに薔薇乃に懇願してくれたのかもしれない。こうなったのは、彼女の責任なんかじゃないのに。
「薔薇乃さんは……禊屋のその考えに、納得しているんですか?」
「…………」
薔薇乃は目を伏せて、冬吾の質問に答えない。そしてそのまま、話を先に進めようとする。
「最初に言ったとおり……あなたには、選択をしていただきたいのです」
「選択……」
「皆まで言わずともおわかりになるとは思いますが……要するに、美夜子の命を犠牲にして平穏を手にするか。それともこのまま、ここでご自分の一生を終わりにするか……そのどちらかの選択を、ということです」
どちらを選ぶか? そんなことは、考えるまでもなかった。
「禊屋を犠牲にして助かるなんてこと、できません。その計画はなかったことにしてください」
薔薇乃は冬吾の目を見据えながら、
「……本当に、それで良いのですね?」
「はい。でも、俺がいなくなった後……妹のことだけでも、お願いできませんか? それだけが心配なんです」
「…………」
薔薇乃はしばらくの間、無言で冬吾を見つめ――そして。
「――よかった」
安堵したように大きく息を吐いた。
「よかった……って?」
「先ほど、おっしゃいましたね。わたくしが、美夜子の考えに納得しているのか?……と。もちろん、納得などするはずがありません。そんな案、わたくしは絶対に認めなかったでしょう。美夜子が本当にそのような提案をしてきていたのなら、ですが」
「はい……って……え? 今なんて言いました?」
最後の方で妙な言葉が聞こえたような。
薔薇乃は右手の人差し指を立てて、軽く首を傾げて、悪戯っぽく笑う。
「実は……嘘、なのです」
「は?」
「ですから、美夜子がそのような計画を提案したというのは嘘。わたくしの作り話だったのです」
「ええ……」
いったい何を考えてるんだ、この人……。
「な、なぜそんな嘘を……」
「この追い詰められた状況で、あなたがどのような判断を下すか、知っておきたかったのです」
そう言ってから、何か思い出したような顔をして、
「あっ……そうでした。あなたを試すような真似をしたことは、お詫び致します」
薔薇乃は丁寧な所作で頭を下げる。
「少しイジワルかしら、と思わないでもなかったのですが……ついやってしまいました」
冬吾は困惑しつつ、
「いや、まぁ……いいですけど。そんなことを知って、何の意味が……?」
「これは……そう、わたくしの心情的な問題なのです。踏ん切りをつけるため、とでも言いましょうか……あなたにそれだけの価値があるという確信を得たかった。結果がどちらであっても『そうする』と既に決めてはいたのですが、やはりそこははっきりさせておいたほうが良いだろうと」
「えっと……何のことなのか、よくわからないんですが……」
「ふふ、失礼しました。今のは少しわかりづらかったですね。まぁ、わざとそうしたのですけれど」
薔薇乃はからかうような微笑を浮かべて、話を続ける。
「今回の一件、そもそもわたくしに全ての裁量権があるわけではありません。賠償金額の大きさもそうですが、それ以上に組織の体裁が関わる大勝負……審問会に出るには、ナイツ本部の許可が必要でした。本部も当然、負け戦の可能性が高いと判断すれば許可は出さないでしょう。その説得材料として、こちらが審問会で勝つ算段があるということを証明しておく必要があったのです。残念ながら、二時間という制限付きでは美夜子でも無理だったようですが……。しかし、他に説得の方法がないわけでもありません」
「それは……?」
「そうですね……。例えば……アルゴス院への六十億と、審問会で負けた場合の伏王会への四十億、合わせて百億の負債を『全て肩代わりすると約束する』とか。それなら、審問会で敗北したとしてもその出資者が負担を背負う分、ナイツに及ぶダメージはかなり少なくなる。本部からの許可も、多少は出やすくなることでしょう」
「肩代わりって……えっ……? もしかして……」
薔薇乃は大きく頷いた。
「その百億、わたくしの私財から捻出してみます。数えたわけではありませんが、かき集めればそれくらいにはなるでしょう。それを担保として、審問会に出させてもらえるようわたくしから交渉してみようかと」
その交渉次第では、まだ審問会に出るチャンスがあるということか……!
「で、でも……大丈夫なんですか? そんなお金……」
それを尋ねると、薔薇乃は困ったように顔を下げて両手を組む。いつも冷静で余裕のある振る舞いをする彼女だが、今は珍しいほどにその顔色が悪い。
「……大丈夫か大丈夫でないかで言うと、まったく大丈夫ではありません。その百億は、わたくしが個人的な領域で今まで密かに蓄え続けてきたもの。その為に、幾つも危ない橋を渡ってきました。美夜子には話せないようなことだって、沢山してきました。わたくしの悲願とも言えるある計画のため、この先、少なくとも五年は本部にその存在を隠しておきたかったのですが……これでご破算です。上に目をつけられては、その計画も捨てざるを得ません」
その計画がどういったものなのか、冬吾には知る由もないが……それを捨て去ることが薔薇乃にとって苦渋の決断であったことはわかる。審問会で勝つことが出来れば担保である百億そのものは守られるが、その蓄えの存在が本部に知られた時点で、おそらく長い年月をかけ準備してきたその計画は台無しになってしまうのだろう。
「でも……」と薔薇乃は続ける。
「わたくしは、それでも構わないと思った。先ほどの話の大半はわたくしの考えた嘘ですが……美夜子から、自分はどうなっても良いからなんとかしてあなたのことを助けてあげて、とお願いされたのは事実なのです」
そこで薔薇乃は顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「……友人からあんな風に頼まれてしまっては、無下にするわけにはいきませんもの」
これが、岸上薔薇乃という人なのか……。禊屋が彼女のことを心から信頼している気持ちが、冬吾にはわかったような気がした。
「薔薇乃さん……ありがとうございます。ほんとに、なんて言ったらいいのか……」
「ふふっ、勘違いなさらないでください? これはあくまでも、美夜子のためなのですから。……あっ! 最近知ったのですが、こういう物言いのことを巷ではなんとかと言うそうですね? たしか、ツン……ツン……ツングースカ? でしたっけ?」
「そんな大爆発しそうな名前ではなかったと思います……」
「それはそうと、感謝されるにはまだ早いですよ。まだ本部に話をつけたわけではないのですから」
そういえばそうだった。
「じゃあ……やっぱりダメだったということになる可能性もあるんでしょうか……?」
「まぁ、自分で言うのもなんなのですが……わたくし、交渉ごとに関してはそれなりに自信があります。その点についてはご安心を。必ずや、話をまとめてみせますとも」
なんと頼もしい言葉だろう。
「――でも、失敗したらごめんなさいね?」
頼もしい……のか?
「さて――早速その交渉にかからなければなりませんので、わたくしはそろそろ行きますが……最後に一つだけ」
薔薇乃は右手の人差し指を立てて言う。
「これは、わたくしの予感でしかないのですが……神楽が今回、あなたを陥れるような真似をしたのには何か理由があると思うのです。他の誰でもない、あなたでなければならなかった理由が」
「俺でなければならない理由……?」
そう言われても、わからない。騙しやすくチョロい男だからという以外の理由があるのだろうか? ……もっとマシな理由だといいのだが。
「わたくしにも、それがどんな理由なのかは見当もつきません。ただ、そうだとすると……この審問会は、あなたに対して何らかの試練を強いることになるかもしれない……そんな気がするのです」
今この状況が既に過酷な試練のようなものだと感じるのだが……この先にもまだ何かがあるというのか? もっと過酷な何かが……。それは……さすがに勘弁してほしい。
冬吾は気を重くしかけたが、薔薇乃はそれを励ますように言う。
「――しかし、心配することはないと思われます。先ほどの問答で、あなたは美夜子を犠牲にして自分が助かるという選択をしなかった。その決断ができたあなたなら、如何なる試練であっても乗り越えられる……わたくしは、そう思いますよ?」
「……ありがとうございます。そうだと、いいんですけどね」
そうであることを願おう。
薔薇乃は少し話し疲れたというように一息ついて、
「……伝えたいことは以上です。ああ、そうそう。先ほどあなたにお話した、わたくしの『計画』については、美夜子には内緒にしておいてくださいね? あの子に余計な心配はさせたくないので」
「わかりました」
「……もしも審問会で美夜子が負けてしまえば、わたくしもあなたと同じく破滅するしかありません。わたくしたちは一蓮托生の運命にあるということになります。お互い、頑張りましょうね」
薔薇乃もそれだけの覚悟を持って禊屋に賭けたということだ。冬吾は黙って頷いた。
「――それでは、わたくしはこれで失礼します……」
薔薇乃はソファから立ち上がる。
「あっ……薔薇乃さん」
部屋を出る直前に、冬吾は薔薇乃を呼び止めた。
「なにか?」
「その……審問会の話が上手くまとまったら。禊屋に改めて、よろしく頼む……と、伝えておいてくれませんか」
そう言うと薔薇乃はクスッと笑ってから、
「ええ、りょーかいしました」
と、右手で軽く敬礼をする真似をしてから、部屋を出ていった。
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