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case8 女神の断罪
5 花の酒場
しおりを挟む無念の時間切れから約一時間後。美夜子は車の中で失意に暮れつつ待機していたのだが、薔薇乃からもたらされた一報によって座席シートから飛び上がった。
「――えっ……ちょっ……今、なんて言ったの!?」
携帯電話に向かって今一度確認する。薔薇乃はやや疲れたような声で答えた。
『ですから、やはり審問会に出ていただくことになりました。あなたはノラさんの無実を証明するため、引き続き事件の調査を行ってください』
「で、でも……本部の承認が必要ってさっき……」
『もちろん、既に本部とも話をつけました。少々、手こずりましたが……なんとか許可を引き出せたので、安心してください』
「あ…………」
『……どうしました? 何か不都合なことでも?』
そうではない。言葉に詰まったのは、感極まってしまったからだ。今度は我慢しようと思ったのに、やっぱり涙が零れてしまった。
「ありがとう……本当にありがとう、薔薇乃ちゃん……!」
『とりあえず、今わたくしに出来ることはしたつもりです。もしも負けてしまったら、その時は――仲良く心中してくださいね?』
美夜子は袖で涙を拭って言う。
「大丈夫……絶対、薔薇乃ちゃんの思いを無駄にしたりなんかしないよ」
『それなら良いのです。ああ、そうそう――先ほどアルゴス院へ返答をするついでにノラさんに会ってきたのですが、あなたに伝言を預かってきました。改めてよろしく頼む、と』
「えへへ、そっか。こりゃあ、ますます負けられないね」
タイムリミットは明日の午後五時、審問会が始まるまでだ。それまでに、今度こそ事件を解明しなければならない。
『――とはいえ、もう日付も変わっていることです。調査できる場所も限られるでしょうから、一旦支社に戻って今のうちに身体を休めるというのも手ですよ?』
「うん。あと二カ所ほど行っておきたいところがあるから、それが済んだら一度戻るよ」
『わかりました。では、織江さんに乃神さん、あと……シープさんでしたっけ? 皆さんにも、死ぬ気で頑張れとお伝えください。それでは……』
薔薇乃のほうから通話が切られる。
美夜子が電話をしまいつつほっと一息つくと、隣りに座っている織江が声をかけてきた。
「よかったね。復活できたみたいで」
「うん……薔薇乃ちゃんって、やっぱりすごく優しいんだよね」
「ま、お前には特別甘いもんな~」
織江が笑って美夜子の頭を撫でる。
今度は前の運転席に座っていたシープが、こちらに顔を向けて興奮気味に言った。
「いやぁ、ほんとによかった! 僕も嬉しいです! さすが禊屋さんです!」
「いや……あたしは何にもしてないんだけどね?」
少し興奮しすぎだ。
次に、助手席に座っていた乃神がバックミラー越しにこちらを見て言う。
「しかし禊屋……わかっているんだろうな? さっきあの部屋で見つけた、叢雲のファイル……あれは、戌井冬吾にとってかなり不利な事実を示しているはずだ」
美夜子は頷いて、
「わかってるよ。名護さんの正体は、殺し屋の叢雲。そして、叢雲は最後のターゲットとしてノラのお父さん……戌井千裕を殺害している。それなら、ノラには名護さんを殺す強い動機があったってことになる」
「なるほど、父親の仇討ちか」
織江が相づちを打つ。
「うん。もしかしたら神楽はもうこのことを掴んでいて、審問会で暴露してくるかもしれない。動機がある上に、あの事件の状況……まず誰もがノラを犯人だと思うだろうね。それを覆すには、方法は一つしかないと思う」
「それは?」
「もちろん、事件の真犯人と実行されたトリックを暴くこと。結局のところ、審問会で勝つにはそれしか方法はないんだよ」
「どちらにせよ、やることは同じってわけだ」
織江は軽く両手を叩いて、
「じゃ、早速調査再開しようよ。次はどこに行くか、あてはあるわけ?」
「うん。さっき見つけた、この写真なんだけど……」
美夜子はコートから写真を取り出す。先ほど隠れ家で見つけた、名護と戌井千裕、そして岸上豪斗の三人が写っていた写真である。
「この写真が撮られた場所……心当たりがあるんだよね」
織江が写真を覗き込む。
「どこかのバーみたいだけど……ん、あれ? そういや、私もなんか見覚えあるな~ここ。どこだっけ……」
「多分ね、『ラフレシア』だと思うの」
「あ~、あの情報屋の店か!」
『ラフレシア』は夕桜市南区朱ヶ崎のとある裏路地に存在するバーである。ひっそりとした店構えの、知る人ぞ知る名店……というのは、あくまで表向きの話。そこのマスターは腕利きの情報屋でもあり、ナイツ夕桜支社もこれまでに彼から何度か情報を買ったことがある。
写真に写っている店の内装は、美夜子の記憶にあるラフレシアのものと一致していたのだ。
「しかもこの写真、カウンターの内側から撮られたものだよね。この位置から写真を撮ることが出来るのはマスターだけ」
「あのマスターがこの写真を撮ったってことか。写ってる三人のことも覚えてるかもしれないな」
「そーゆーこと! その時の話はもちろんとして、名護さんが普段からこの店に通ってたんだとしたらもっと色んな情報が聞けるかも」
助手席の乃神は気難しそうな顔をしつつも同意する。
「いいだろう。行き先の一つはそのラフレシアとして……お前、さっきの電話で二カ所ほど行っておきたいところがあるって言っていたな。もう一カ所はどこだ?」
美夜子はコートのポケットから、冬吾から託されていた千裕の手帳を取り出して乃神に見せる。
「この手帳に書かれていたメモから、千裕さんが殺されたその日に名護さんと待ち合わせをしていたことがわかったっていうのは、修道院でも話したよね。そのメモにあった待ち合わせ場所と考えられる単語が、『地下室の夜景』。さっきの移動中に携帯で調べてみたんだけど、朱ヶ崎にそういう名前のビデオショップがあるみたい。深夜まで営業してるみたいだからまだ時間は大丈夫だし、行ってみようと思うんだけど」
乃神は少し考えてから、こう言った。
「しかしそれは、今回の事件の調査に必要なことなのか? 名護が戌井千裕を殺害したのは間違いないだろうが、あくまでもそれは四年前の出来事でしかない。今回とは別の事件だ。貴重な時間を割いてまでする価値があるのか?」
「それはわかってるよ。でも、なんていうか……千裕さんの事件は今回の事件にも深く関係しているような気がするんだよね」
「……なぜそう言える? 根拠はあるのか?」
「根拠って言えるほどのものじゃないけど……さっきも言ったように、千裕さんの事件はノラにとっての動機でもあるんだよね。犯人や神楽はその動機の存在を知っていてノラを罠に嵌めたのかもしれない……でも、あたしにはそれだけじゃないように思えるっていうか……」
「結局、ただの勘というわけか?」
「うぅん……」
名護修一という人物には謎が多い。しかも探れば探るほど、その謎は深みを増していくかのようだ。そしてそれらの謎の中心にいるのは、おそらく戌井千裕なのだ。今回の礼拝堂での殺人に直接関係があるのかどうか、まだ確証と呼べるものはないが……言葉では説明できない予感のようなものがそこにはある。
だが、本当に無関係かもしれない事件の調査に、貴重な時間を割くべきではないという乃神の意見もごもっともだ。ここは素直に忠告に従うべきなのか……と思っていると、シープが乃神に対して言う。
「違います違います。ただの勘じゃなくて、探偵の勘ってやつですよ、乃神さん」
「ああ?」
「いや、ほら。禊屋さんの能力は、俺たちみんなわかってることじゃないですか。それに、まず調べてみないことにはそれが無関係かどうかもわかりませんよね? 明日の夕方までは時間があるんだし、ここは禊屋さんの勘を信じましょうって! ね?」
「…………」
乃神は怪訝そうにじっとシープを見ていたが、やがてため息をついた。
「……まぁいいだろう。お前の好きなようにやるがいいさ、禊屋。社長もそれをお望みだろう」
「う、うん……」
シープは車のエンジンをかけて言う。
「それじゃあ、まずはラフレシアという店に行けばいいんですよね? 俺は道わからないんで、案内をお願いします」
車が走り出した。美夜子はバックミラーを介してシープと目を合わせると、(ありがとう)と口の動きだけで声には出さずに言う。シープはそれに、照れたように小さく笑って返した。
ラフレシアがある裏路地に入る前のところで車を停めておき、先ほどマンションへ入ったときと同じように三人で店へ歩いて向かうことになった。シープは車の中で留守番だ。
店の前には「Rafflesia」と書かれた電飾看板が掛かっているが、既に電気が落とされていた。営業時間を少し過ぎてしまっていたようだが、扉のほうは問題なく開いた。
「ごめんくださーい」
美夜子は遠慮がちに言って、店の中に入る。――やはり写真で見た内装と同じだった。あの写真が撮られたのは、ここで間違いない。
店の中にはカウンターを挟んでマスターともう一人、ロングコートに中折れ帽を被った男がいるだけだった。帽子の男は客のようで、そろそろ店を出ようとしていたところのようだ。マスターのほうがこちらに気づいて、
「ああ、申し訳ありません。もう閉めるところで――おや、皆さんでしたか」
ここには仕事で何度か訪れているため、マスターとは顔見知りのようなものだった。マスターは、ロマンスグレーといった言葉が似合いそうな初老の男性である。口の上の整えられたお髭がお洒落だ。
乃神が前に出て言う。
「営業時間外にすまない、マスター。折り入って相談したいことがあるのだが、いいだろうか?」
「お得意様である皆さんの頼みを断るわけにもいきませんね。どうぞ、お座りください」
そう言ってマスターはカウンター席に座るよう手で促した。
すると、先に店にいた男が帽子の位置を直しつつマスターに言う。
「――それじゃあマスター、僕はこれで」
「ええ、はい。またどうぞ」
男が店を出ようと美夜子の横を通り過ぎようとした、そのとき――
「ん……? その赤い髪……」
男は足を止めて、美夜子の顔を無遠慮に覗き込む。
な、なんなのこの人……? 美夜子は思わず一歩下がった。
男は年齢二十代半ばくらいで、身体の線は細く白人並みに肌が白い。中折れ帽の下からは、染めているのか長めの白髪が覗いていた。顔立ちはかなりの美男子と呼んでも良いほどで、じっとしていれば儚げな雰囲気がありそうだが、人を間近で凝視しているその大きな目は少し不気味な感じもする。黒いロングコートと合わさって、その日本人離れした風体はどことなく西洋の吸血鬼を思わせるものだった。
「え、ええっと……なんでしょー……?」
「失礼お嬢さん。間違っていたら申し訳ないんだけれども……もしかして、ナイツの禊屋というのは君かい?」
「そうですケド……」
「あっは! これは奇遇だな!」
男は帽子を手で押さえ大きく仰け反るようなオーバーリアクションをする。それから彼は、美夜子を四方から観察するようにその周りをぐるぐる歩き回りつつ話し出した。
「いや実を言うとだね、君とは一度会ってみたいと思っていたんだよ。まさかこんな場所で会えるとは! ――む? こんな場所などという言い方は主人の手前よろしくないかな? まぁいい、盛大に聞き流してくれたまえマスター!」
男はカウンターにいたマスターを力強く指さすが、当人は意に介さずといった様子でグラスを拭いていた。美夜子はこの真夜中に妙にテンションの高い男に若干怯えつつも、尋ねる。
「あたしのことを知ってるの?」
「そりゃあもちろん! ナイツ夕桜支社の顧問探偵、通称禊屋。組織のトラブルシューターとして、今まで数々の功績を立てている。どうだい、合ってるだろう?」
「うーん。まぁ、一応は」
「ふふん。他にはこんなことも知ってるよ! 君が禊屋として活動を始めたのは今から二年と半年ほど前だ。こんなに若くて綺麗な君が、あえて危険極まりない裏社会に足を踏み入れた理由は……三年前に起こった『ある事件』に起因している」
――ちょっと待って。今……なんて?
「その事件というのは――そう。三年前、夕桜の裏の勢力図にも大変な影響を与えた出来事……あの『黒山羊事件』だ」
「おい待て」
話に割って入ったのは織江だった。美夜子に接するときとは打って変わって、警戒心を剥き出しにした鋭い目つきで相手を睨む。
「お前……なんでそんなことを知っている?」
男は全く物怖じした様子も見せず、飄々と答える。
「もちろん知っているとも。この街のことならなんでもね。……いや『なんでも』というのは少しばかり言い過ぎだな。僕、誇大広告とか大嫌いなんだよね。ふむ、そういうわけで言い直させてくれたまえ! 僕はこの街のことなら、『半分くらい』は知っているのさ!」
「そりゃまた最初はだいぶ誇大して言ったね……じゃなくて!」
美夜子は男に問い詰める。
「あなた一体、何者なの……?」
「僕かい? うーん……ふむ。ここはあえて逆に尋ねるけれど、僕って何者だと思う?」
右手を自分の胸に当てて男が問う。
「え? えっと…………探偵、とか?」
「『クールでかっこよくてしかも優秀な天才探偵』か……残念、はずれだ」
「そこまでは言ってないんだけど……」
「あっは! ともかく、今この場にいる探偵は君だけだよ、禊屋クン。では一回はずしたので、残りの回答権は二つだ。あと二回はずしたら罰ゲームを受けてもらおうか! それもドキドキワクワクの、深夜なノリのやつをね!」
「ちょっ……いつの間にそんなルールに――」
美夜子が言いかけると、今度は乃神が男に詰め寄って胸ぐらを掴み上げる。
「おい、いい加減にしろよ。お前は誰だと聞いてるんだ、さっさと答えろ」
「おおっと、乱暴は良くないな。べつにいいじゃないか、少しくらい遊んだって。これくらいで怒るなんてもっと余裕を持ったほうがいいよ、神経質そうなメガネ君?」
乃神は黙って掴んだ胸ぐらを強く揺さぶる。男はわめいて、
「いだだだ! ああわかったって、ごめん! ちゃんと言うから、離してくれたまえ!」
乃神は掴んだ手を離した。男は喉を押さえ咳払いをしつつ言う。
「まったく……ちょっとからかったくらいでこの仕打ちとは。断固として抗議したいところではあるが――今度はパンチが飛んできかねないな。ふっ……やれやれ仕方がない」
男は帽子の位置を直してから、力強く右手の人差し指を立てた。
「いいとも! 教えてあげよう。僕の名前は草間天明(くさまてんめい)。ま、今はそう名乗っているというだけだがね!」
美夜子が質問する。
「今はって……じゃあ本当の名前じゃないってこと?」
「その通りだよ禊屋クン。まぁ名前なんて所詮は便宜上のものでしかないからね、あまり気にしないことだ。さて、では僕が何者かということだが……ふぅむ、そうだな。あえて分類するなら、情報屋のようなもの……なのかな? そう、そこのマスターと同じようにね」
マスターの裏の仕事についてもご存知のようだ。
「情報屋だから、あたしのことも知っていたってこと?」
「はて、君のことなんか僕はマッタク知らないけど?」
「いやさっき自分でぺらぺら話してたよね!? 急に知らないふりするのは無理があるよ!?」
「なるほど、そういう見方もあるのか。してやられたよ、さすがはナイツの名探偵だ! あっはっはっは!」
あたしは今なんで褒められたのだろう……。
草間は愉快そうに笑って、
「そう怪訝そうな顔をするなよ。自慢じゃあないが、僕は人をからかうのが大好きでね! 慣れてくれないと困るぜ?」
うぅ……同じからかい好きでも、薔薇乃ちゃんより確実にメンドくさいよこの人……。
織江が呆れたように頭を掻きつつ、草間に尋ねる。
「……だが、禊屋についてああまで詳しかったってことは、何か理由があって調べていたんじゃないのか?」
織江は未だ警戒を解いてはいないようだった。たしかに、まったく無関係の者が偶然に自分と黒山羊事件の繋がりを知る機会があるとは、美夜子には思えない。
草間は不敵な笑みを浮かべながら織江に相対した。
「調べた……か。仮にそうだったとしたら、なんだって言うのかな?」
「その理由を答えてもらう」
「じゃ、嫌だって言ったら?」
「嫌だとは言わせないようにするさ」
織江は腰のベルトに取り付けた、ナイフの鞘に手を伸ばした。草間は肩をすくめて困ったような仕草をする。
「やれやれ、参ったね。ちょっと口を滑らせただけでこれだ。べつに僕は、君たちの邪魔をするつもりはないんだけどな。なぁ頼むよ! 一生のお願いだから、信じてくれないかな?」
織江は眉をひそめて言う。
「なんというか……逆に、よくそこまで信用ならない言い回しが出来るな……」
「……ダメ?」
草間は大きなため息をついて肩を落とした。
「僕は常々、ただの傍観者でありたいと願っているんだが…………まったく、思い通りにはいかないものだ。――わかった。痛い目に遭うのは御免だからね。では、君たちの敵ではないということを証明するために、とっておきの情報を提供するとしようか」
美夜子が言う。
「……とっておきの情報って?」
「君たち、アルゴス院の事件を調査しているんだろう? そのために、殺された名護修一のことを調べ回っている。違うかい?」
「なっ……なんでそんなことまで知ってるの……?」
事件を調査し始めたのはほんの数時間前だ。いくら情報屋といえど、ここまで耳が早いものなのだろうか? 草間は得意げに笑って、指を弾いて鳴らす。
「ふふん、だから言っただろう? 僕はこの街で起こったことの、半分くらいは知っているってね。明日……というか日付的には今日の審問会では、伏王会側からはあの神理誘導(ゴッドハンド)が出てくるそうじゃないか。いくら君が優秀な探偵だとしても、決して簡単に勝てる相手じゃないはずだ。状況を有利にしておくためにも、今は少しでも事件の手がかりが欲しい――そうだろう?」
「それは……そうだけど」
「では、早坂晋太郎(はやさかしんたろう)という男を探すといい」
初めて聞く名前だ。
「その早坂って人、今回の事件にどう関係があるわけ?」
「いいや、今回の事件とはおそらく無関係だろう。ただ、彼はフリーライターとしてこの数年間、ある人物を追っているそうだ。彼が持つ情報は、君の役に立つと思うよ。何しろ彼が追っているその人物というのは、あの伝説の殺し屋――叢雲なんだからね」
「叢雲って……!」
「その反応からすると、叢雲という名前の重要性にはもう気がついているようだね。僕の読みでは、殺された名護修一こそが叢雲の正体だ。まぁ早坂がどれほどのことを知っているのかは僕にもわからないが、話を聞いてみる価値はあるだろう」
叢雲の正体が名護であるということまで知っている……この草間という男、おそらくただの情報屋ではないのだろう。
美夜子は草間に尋ねた。
「草間さん、あなたどこまで知ってるの? その早坂って人を探すより、ここであなたに聞いたほうが色々と手っ取り早いような気もするんだけど?」
「おっと、そうきたか。だが残念だね、これ以上君の役に立ちそうな情報を僕はもう持っていない。名護修一を叢雲だと考えたのだって、『こちら』の業界で既に出回っていた情報を集めて総合的に判断したというだけのことさ。複数の候補が考えられたが、その中でも名護修一が最も叢雲である確率が高かった。まぁその程度の推理だって凡人には難しかろう。しかし出来てしまうのだよ……この草間天明にはね!」
草間は渾身のドヤ顔で言う。こんなのでも、能力は本物だと認めるしかない。
「じゃあ、その早坂って人なら叢雲についてあなたも知らないようなことを知っているかもしれないってこと?」
「可能性はあるだろうね」
それならば、調査の合間に話を聞くくらいのことはしてみてもいいかもしれない。
草間は少々疲れたように一息ついて言う。
「――それでは、僕はそろそろ帰りたいんだがね。もう行ってもいいかな?」
「……うん。でも、最後に一つだけ聞いてもいい?」
美夜子は草間を真剣な眼差しで見据える。草間は少し迷ったようなそぶりを見せた。
「うぅん……ま、いいだろう。特別だよ?」
美夜子は先ほどからずっと意識に留めていた、そのことを草間に問う。
「あなたは……『黒山羊』のこと、何か知っているの?」
志野美夜子は、今から三年前に起こったある事件の関係者だった。その事件によって、彼女は大切なものを幾つも失ってしまったのだ。それは彼女にとって最も悲しく、そして忌まわしい記憶。決して解かれない呪いの記憶だ。
その事件の首謀者が、黒山羊と呼ばれる犯罪者である。天才的かつ悪魔的な頭脳の持ち主であるという以外、その正体は一切が不明であり、また、三年前の事件を最後にその足取りは途絶えていた。美夜子がナイツに身を置くのは、ひとえに黒山羊を見つけ出し、そして……復讐するためだ。
草間はしばらく美夜子を見つめていたが、やがて帽子を深く被りなおして言う。
「……残念ながら、君が望むような答えは与えられないよ禊屋クン。僕は疑いようもなく優秀な人間だけど、結局は、この街の半分くらいしか手に負えないのだからね。黒山羊についても、三年前のあの事件のこと以外には何も知らないんだ」
「そう……」
美夜子は落胆を隠しきれず視線を落とす。
今までナイツでの仕事を続けるかたわら、様々な手を使って黒山羊について調べてきた。しかし未だに、有力な手がかりは見つけられていない。
草間ならあるいは、と思ったのだが……やはりダメか。
草間は更に続ける。
「ただ、あの事件から三年間……僕の元にはまったく奴の情報が入ってこなかったからね。だから、案外既に奴は死んでいるのではないか――と。僕はそう推理するわけだよ」
「そんな……そんなワケないッ!」
美夜子は思わず叫んでいた。
「あいつは生きてる……絶対に……!」
……理性では理解していた。黒山羊が既に死んでいる……その可能性だって、充分あり得ると。
だが、そんな可能性を今さら認めるわけにはいかなかった。ここに来るまでに、沢山のものを失って、捨ててきた。――それなのに! 復讐の機会すら与えられないなんて……そんな……そんなバカなことがあってたまるか……!
「……どちらにせよ、僕から言えることは何もない」
草間は神妙な顔つきになって言う。
「それより、君にとって今大事なのは何かというのを見失わないことだね」
「……わかってる。今あたしが考えるべきなのは、黒山羊のことじゃない……」
「うん、僕もそう思う。くれぐれも忘れないことだ。『彼』を救えるのは、君だけなのだからね」
美夜子の横を通り過ぎて、草間は店の入り口扉を開ける。
「では――健闘を祈っているよ、禊屋クン」
そう言い残して、草間天明はラフレシアを出て行った。
「おい……行かせてよかったのか?」
織江が美夜子に向けて言う。美夜子は頷いて、
「うん……。怪しいことは怪しいけど、敵意は感じなかったから。ほっといても大丈夫だと思う……たぶん」
「たぶんってなぁ~……」
織江は呆れたように軽いため息をついた。
「でも、ちょっと気になることもあるんだよね」
「何が気になるんだ?」
「あたし、あの草間って人に会ったことあるかもしれない……」
「かもしれないって……お前でもはっきり思い出せないことがあるのか? 珍しいな」
そう、それが不思議なのだ。一度見聞きしたことは、特別意識する必要もなく記憶しておける。幼い頃からずっとそうだった。だから、一度でも会ったことがある相手なら忘れるはずはないのだ。
草間天明を名乗るあの男と会ったのは、これが初めて。それは確かなのだが……なぜか、昔から知っていたような気もする。あんな強烈な言動をする男、忘れるはずがないのに。この違和感の正体が、自分でもよくわからないのだ。
「騒いで悪かったな、マスター」
乃神がカウンターでグラスを拭いていたマスターに向かって言う。老紳士は軽く笑って、
「いえ、お気になさらずに」
「さっきの男、店によく来るのか?」
「そうですねぇ……二ヶ月に一回くらいはいらっしゃいます」
頻度としてはそれほど多くはないようだ。
「ところで先ほどおっしゃっていた、私に相談したいことというのは……?」
そうだった。ここに来た当初の目的は、マスターにあの写真について尋ねることだ。
「あのね、ちょっと訊きたいんだけど……」
美夜子はコートのポケットから写真を取りだして、マスターに渡す。
「その写真って、マスターが撮ったものかな?」
「ええ、ええ、これは懐かしい。確かに私が撮らせていただいたものです」
「やっぱり……! その時のことって、覚えてる?」
「この写真を撮ったのは……五年ほど前だったと思います。お客様に頼まれて、一枚パチリと」
「この写真に写っている三人、どういう関係だったか知ってる?」
「いえ、私は聞いておりません。ですが、ご友人同士のように見受けられましたよ」
友人同士のように見えた……か。この写真からも、三人は仲が悪いようには見えない。
「この左側に写っているお客様はよくうちにいらっしゃいますよ。お名前は確か、名護様でしたか。最近では、一昨日もいらっしゃいました」
「えっ……一昨日に来たの? 名護さんが?」
「はい。ああ、もう日付が変わっているので三日前と言ったほうが良いのでしょうか。正確に言うと二十一日の夜ですね。『きっと最後になるから』とおっしゃっていましたが……」
日付変わって今は二十四日だ。名護が冬吾に手帳を手渡しに来たのが二十二日だから、その前日か。
「最後になるって、どういう意味?」
「名護様は近々海外に出発されるおつもりのようでした。ですから、うちにいらっしゃるのはこれが最後だと」
名護が海外に行こうとしていたのは確かだ。遺品のパスポートケースに入っていたロサンゼルス行きの航空券、そして車の中にあった荷物がそれを示している。しかも最後のつもりでこのラフレシアに来店していたということは、海外でかなり長く過ごすつもりだったようだ。もう日本に戻る気もなかったのかもしれない。
「名護さんが海外に行く理由、聞いてない?」
「……その前に、一つこちらからもよろしいですか? どうしてそのようなことをお訊きになるのでしょうか?」
あまり無闇に話すべきことではないが、マスターには事情を知っておいたもらったほうが良さそうだ。美夜子はことの経緯をかいつまんでマスターに話した。
「――なるほど。名護様が殺害された……先ほど少し聞こえたような気がしましたが、やはりそうでしたか……。するともしかしたら、三日前に名護様がおっしゃっていたことが関係しているのかもしれません」
「名護さんが何か言ってたの?」
「先ほど言いかけた、名護様が海外に行こうとされていた理由です。だいぶ酒が入っておられましたから、本来話すつもりのないことまで話されていたようでした。そういう場合、バーテンダーというのは聞かなかったふりをするものなのかもしれませんが……事情が事情ですから、今回はお話ししましょう。……名護様は、命の危険を感じていらっしゃったようなのです」
「――ッ!」
全身の肌がざわついた。これはきっと、かなり重要な手がかりだ……!
「命の危険って……どういう?」
「名護様は何かしらの裏の仕事をなさっていたそうです。それがどういった仕事なのかは聞いておりません。ただ、その仕事では主の命令には絶対に従わなければならなかったそうです。しかし名護様は、その主を裏切ってしまったのだとおっしゃっていました」
「主を……裏切った……」
「まだ自分の裏切りは露呈してはいないが、そうなるのは時間の問題である。もしも裏切りが発覚すれば、自分は殺されてしまう。だからそうなる前に、海外に雲隠れするのだ……と、そのようにおっしゃっていましたが……」
織江が美夜子に耳打ちするように言う。
「禊屋、今の話……」
「うん……。名護さんが殺された理由、これかもしれない」
美夜子はマスターにもう一度尋ねる。
「名護さんがしたっていう裏切り、どんな内容なのかはわからない?」
マスターは申し訳なさそうに首を横に振る。
「いえ、さすがにそこまでは……すみません」
「ううん、その話が聞けただけでもよかったよ」
まだはっきりとしたことはわからないが……今の話は大きな手がかりだ。名護修一が殺された真の理由が裏切り行為への報復だとすれば、真犯人はおそらく、名護が所属していた組織の刺客だろう。しかし……。
乃神が美夜子の思考を代弁するかのように言う。
「名護がその裏切りを原因に殺されたのだとすれば、怪しいのは奴が所属していた組織の人間だ。問題はその組織が何なのかということだが……マスターに裏の仕事だと仄めかしていたようだし、警察とは考えづらい。すると、残る候補は一つしかないんじゃないのか?」
「アルゴス院……だよね」
「だとすると厄介だぞ。犯人は神楽と手を組んでいるんだろう? その犯人がアルゴス院の人間だとすれば、審問会でこちらに勝ち目があるとは思えん」
審問会のホストがアルゴス院である限り、すべてはアルゴス院の匙加減次第だ。こちらが真犯人としてアルゴス院の人間を告発するようなことがあれば、それを庇おうとするかもしれない……乃神はそう指摘しているのだろう。しかし、美夜子はそれを否定する。
「……それなら、大丈夫だと思う」
「なぜだ?」
「そもそもアルゴス院の人間が犯人なら、身内の不始末を自分たちで片付けたというだけのことでしょ? それなら神楽と手を組んだり、わざわざこんな審問会を開いて大事にはせずに内々で処理しようとすると思うの。だから少なくとも名護修一の殺害はアルゴス院の意向ではないんじゃないかな」
「ふむ……確かに、それは一理あるか」
それに審問会では、対決する両組織の人間も含め多数の傍聴人が存在する。もしもホストであるアルゴス院がその立場に相応しくないような振る舞いをすれば、たちどころに組織としての信頼は損なわれる。犯人を庇ったり隠そうとしたりというような、そんな馬鹿な真似はするまい。
「現時点で考えられる可能性は三つ」
美夜子は三本指を立てて説明する。
「一つ目は、名護さんは裏切り行為が原因でアルゴス院の人間に殺された。ただしこれはアルゴス院全体ではなく、一部の人間による独断的な犯行だと考えられる。二つ目、名護さんは裏切り行為が原因で、アルゴス院とは別の組織の人間に殺された。三つ目、そもそも名護修一の殺害動機と彼が話していた裏切り行為とは関係がない……こんなところ?」
「はい、質問いいか?」
織江が手を上げる。
「どーぞ!」
「二つ目の、アルゴス院とは別の組織に殺されたってのはどういう意味だ? アルゴス院への裏切り行為が原因だとすると……どっか別の組織に寝返ろうとしたが、結局そいつらに逆に裏切られて殺された、とかか?」
「その可能性もあるとは思うけど……もっと単純に、名護さんが言う裏切り行為がアルゴス院に対するものじゃなかったのかもしれない。つまり、警察でもアルゴス院でもない、第三の組織に名護さんは所属していたのかもしれないってこと」
「裏切ったってのはその第三の組織のことで、そいつらに報復で殺された?」
「可能性の一つとしては、あり得るね」
やっと手に入れた、真犯人の正体に繋がりかねない手がかりだ。これを足がかりに更に情報を集める必要がある。
美夜子は再びマスターに話しかける。
「マスター、情報屋として仕事を頼みたいんだけど……」
「名護修一様についての情報を集めれば良いのですね?」
「話が早い! あと、さっき草間って人が言っていた、早坂晋太郎のことも調べておいてくれない? 話を聞いておきたいから」
「たしか、早坂という方はフリーライターというお話でしたね。行方を眩ましているのでなければ見つけるのにそう時間はかからないでしょう」
「それで……ひじょーに言い辛いんだけど。出来ればその二つ、今日の夕方五時から始まる審問会に間に合わせてほしいんだよね……」
「ほっ! それはまた……」
落ち着いた老紳士も思わず目を剥く。美夜子は両手を合わせて懇願した。
「無茶言ってるのはわかってるけど、お願い! 報酬ならたんまり支払うから!」
マスターは苦笑いを浮かべつつも頷いて、
「わかりました。禊屋様ならびにナイツの方々には、お世話になっていますからね。出来る限りのことはやってみましょう」
「ありがとう!」
マスターに無理をさせるのは忍びないが、打てる手はすべて打っておきたい。礼を言ってから、美夜子たちはラフレシアを出る。
さぁ、次に向かうは――『地下室の夜景』だ。
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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