裏稼業探偵

アルキメ

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case8 女神の断罪

6 凶なる襲撃

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 『ラフレシア』から車で五分ほど移動する。ビデオショップ『地下室の夜景』は、狭く入り組んだ路地の奥まったところにあるため、路地手前の通りで車を降りてから更にしばらく歩く必要があった。シープには車で留守番を任せ、美夜子は織江と乃神と共に店へ向かう。

 そして三分ほど歩いて、店に辿り着いた……のだが……。

「ビデオショップって……そっちのやつかぁ……」

 色あせた空色背景にピンクの文字で店名が描かれた看板を見上げながら、美夜子は呟く。いやまぁ、よく考えてみれば予測できたことではあるんだろうけど。

 織江が苦笑いしつつ、

「そりゃま~、こんな夜中まで営業してる裏路地のビデオショップって言ったらねぇ……」

 今度は乃神が言う。

「エロビデオ屋しかないだろう」
「んも~乃神さん、せっかくぼかして言ってんのに~」
「む……すまん」

 今まで探偵としての仕事のためにオトナな場所に入ったことは何度かあるが、こういう店は初めてだ。店外に貼り出されている広告なども完全に男性向けで、ここに入っていくにはなかなか勇気がいる。

 美夜子はコホンと咳払いをして、誰にともなく言った。

「うら若き乙女としてはひじょーに入りづらいのですが……調査のためなので仕方がないのです。いや、ほんと、どんな風になってるのか見てみたいな~なんて思ってたわけじゃないよ? 興味なんて全然ないんだよ?」
「はいはい、わかったから早く入るよ~」

 そう言って、さっさと織江が入り口の扉を開けてしまう。美夜子も遅れないように店内へ入っていった。

「おぉう……視界のすごい肌色率!」

 狭い店内にその手のソフトのパッケージが所狭しと並んでいる。閉鎖的かつ雑然としていて、これはこれでアンダーグラウンドな風情がある……のかもしれない。

 店内には客はいないようだった。入り口の左手側にカウンターがあり、その向こうに眼鏡をかけた店員らしき男が椅子に座って漫画雑誌を読んでいる。

 美夜子は男に向かって声をかけてみることにした。

「あの~、ちょっといいですか?」

 男が顔を上げる。歳は三十くらい、痩せていて目の小さい男だ。

「……ないよ」
「はい?」

 声が小さくて聞き取れなかった。

「だから……女向けのは置いてないよ、うちは」
「ああいや、そうじゃなくて……お話を聞かせてもらいたいんだけど」
「なに?」
「これ、見てもらえる?」

 美夜子は千裕の手帳を開き、『11/20 午前2時 地下室の夜景 待ち合わせ 名護』と書かれた部分を店員の男に見せる。

「ここにある日付は、四年前の十一月二十日を指しているの。それで、横に書いてある『地下室の夜景』って、ここのことだよね? それに午前二時はまだ営業時間内。その日、ここで待ち合わせをしていた人たちがいたはずなんだけど……何か覚えてないかな? 騒ぎやトラブルがあったりしなかった?」
「知らない」

 即答だった。

「い、いやほら……よく思い出してみてよ。四年前のことだから、忘れてるかもしれないけど……」
「じゃあ忘れた。覚えてない」
「ぬぬ……!」

 素っ気ない態度に思わず襟首を掴み上げてやりたくなったが、ギリギリ抑える。落ち着け志野美夜子。普通は四年も前のことを言われたってすぐには思い出せないだろうし、この人はたまたまその日、店にいなかったのかもしれない。

「他の店員さんの話も聞いてみたいんだけど……」
「ここの店員は俺だけ。店開いた六年前からずっと」
「ま、まじで……」

 これは困った。この店員から有力な情報は引き出せそうにない。

 後ろにいた乃神が言う。

「待ち合わせといっても、店内でとは限らないだろう。店の前で落ち合うくらいの意味だったのかもしれん。というかそもそも、こんな店で待ち合わせというのが釈然としないぞ。何かの間違いなんじゃないか?」
「う~ん、あたしもそんな気がしてきた……」

 仮にここで二人が待ち合わせをしていたのだとしても、その後で場所を移動したのだったらここの店員が覚えていなくても当然だ。

「仕方ないや……出よっか」

 もしも何か思い出したら連絡を、と携帯電話の番号を書き残してから美夜子たちは店を出る。

「はぁ~ん……」
「あはは、なによそのため息」

 織江が笑う。美夜子は歩きながら肩を落として、

「せっかく来たのに見事に空振りだったんだもん。そりゃ落ち込むよ~」
「まぁまぁ、そういうこともあるって。べつにこれで打つ手がなくなったってわけでもないんだし、気を落とすなよ」

 織江が励ますように美夜子の肩を叩いて言う。美夜子は織江の胸元に抱きついた。

「うぅ~織江ちゃん優しいよ~! 好き~!」
「お~よしよし、後でアイス買ってやろうな~ははは」

 乃神が一歩離れたところでため息をつく。

「何やってんだお前ら……」

 ――とりあえず車の場所まで戻ったら、それから支社に帰り薔薇乃に調査について報告、あとは朝まで少し休憩……ということになるだろう。

 美夜子たちは路地をそのまましばらく歩いて、来た道を戻る。そして、あともう一つ角を曲がれば、車を停めた通りが見えてくるというところまで来た――その時だった。

 その角を右に回った瞬間――美夜子は視界の端で、暗闇の中に複数の人影を見た。

「――禊屋ッ!」

 突然、織江が叫ぶ。その叫び声に重なって、破裂音のような「バンッ」という音が聞こえた。

「わっ!?」

 美夜子は織江に真横から突き飛ばされ、そのまま道端に転倒する。次の瞬間、直前まで美夜子の頭があった位置に何かが風を切って飛んできた。それは後ろにあった壁に鈍い金属音を立ててぶつかった後、美夜子の近くに落ちてくる。

「っ……!」

 それが何なのかを認識して、美夜子は背筋に冷たいものを感じた。――ボウガンの矢だ。鋭利な矢尻を備えた金属製の矢。織江が助けてくれなかったら、間違いなく死んでいたところだ。

「あっれぇー? はずしちゃったわ。おかしいなぁ」

 矢の飛んできた方向から、男の声がする。車の停めてある通りへの道を塞ぐように、複数の男たちが佇んでいた。

「なんだよ全然当たってねーじゃん。下手くそかー?」
「いやいや、野良猫とか酔っ払いのおっさんに撃つときはいつも百発百中なんだって! マジで!」
「うわひっでー!」

 男たちは下品に笑い合っている。……何なのだろう、こいつらは?

 人数は七人、いずれも二十歳前後の若者ばかりだ。男たちの風体からして、この辺のギャングか何かだろうか……。

「あれ? っていうかよく見たら……女の子超カワイイじゃん?」
「うーん? ……うおっマジだ!」
「だったらべつに殺さなくてもさー、捕まえて俺たちで楽しんでもいいんじゃね?」
「それいいねー、採用!」

 不穏な台詞が聞こえた。さっきのボウガンは、やっぱり殺すつもりで撃ってきていたのだ……!

「禊屋、逃げろ」

 織江が美夜子を引き起こしつつ、男たちには聞こえないような小声で言う。

「来た道を戻って、反対側の通りへ抜けろ。乃神さん、禊屋をお願いします」
「わかった」

 乃神が頷く。

「で、でも織江ちゃんは?」

 美夜子が尋ねると、織江は小さく笑った。

「なーに? 私の心配してんの? あんな奴ら、百人相手にしたとしても余裕だって。でもあんたや乃神さんを守りながらってのは、ちょーっとツラいんだよね」

 織江は美夜子の頬にそっと手を触れて言う。

「わかったな? ほら、さっさと行け!」
「……ッ!」

 美夜子は頷いて、乃神と共に男たちとは逆方向へ走り出した。






 禊屋たちが走り去ったのを確認してから、織江は男たちに向き直った。

「あーあー。逃げちゃったよ、あの赤髪の女の子」
「もったいねー」

 男たちは口々に残念がるようなことを言う。しかし、逃げた禊屋達を追おうとはしないようだった。

 いやに簡単に逃がすんだな……。拍子抜けというかなんというか。まぁ、あの二人を遠ざけられたのだからよしとするか。

「あのさーそこのお姉さーん!」

 織江に向かって呼びかけた男は、右手にボウガンを持っている。先ほど禊屋に向かって矢を射かけた男だ。次の矢はまだつがえていないので撃たれることはない。

「お姉さんさ。今、あの子のこと逃したよね? 俺らあの子に用があったんだけど? どーしてくれるわけ?」

 織江は男を睨みつけつつ返す。

「……お前らさっき、殺すだのなんだのと言っていたな。……答えろ。『誰に頼まれた?』」
「頼まれたぁ? はっ、何のことだかわかりませんねぇ」

 男は大げさに両手を広げてしらばっくれる。

「つーか、質問に質問で答えんなバーカ! 訊いてんのはこっちだろ? オメーがあの子を逃がしちゃうから、俺らが迷惑してるわけ! どーしてくれんのって!」

 織江はため息をつく。

 ……仕方ない。向こうがそういう態度ならば、多少強引な手を使わせてもらうとしよう。もとより……初っ端の禊屋に対するあの仕打ちは、許すつもりなどなかったが。

 男がニヤニヤと笑う。

「……それとも、お姉さんがあの子の代わりに俺らの『お相手』をしてくれるわけ? まー俺はそれでもいいけど? お姉さんもほら? ケッコーいい感じだしね。ああ、でもこの人数を一人でじゃあキツいよねぇ? やっぱりさっきの子も連れてくれば? 二人いたほうが俺らも順番待ちしないでいいからたのしーし、気持ちいーし。Win-Winってやつ?」
「もう一人の男はいらねーけどな! ぎゃはは!」

 また大笑いする男たち。今のうちに精々笑っておけ。

 織江は薄笑いを浮かべて、男たちへ向けて言う。

「……心配するな。全員ちゃーんと、相手をしてやるよ。体力には自信がある」
「へへっ、いいねぇ~」

 ボウガンの男が口笛を吹く。織江は構わず言葉を続ける。

「一応、警告しておいてやる。逃げるなら今のうちだぞ。ここから先は遊びじゃ済まさない」
「お~こわっ! チョー面白いよそれ!」
「ただし……」
「あ?」

 織江は男たちの先頭にいるボウガンの男を指さす。今度は相手を鋭く睨みつけ、脅すように言った。

「ただしお前。お前は逃げるなよ。きっちりさっきのお礼、してやる」

 男は笑みを引っ込め、イラついたような顔をする。

「……ふーん。ってか、なに? マジでやるつもりなわけ? こっち、何人いるかわかってる?」

 ボウガンの男の後ろで別の男が言う。

「んじゃあとりあえず軽くボコって連れてくか。へへっ、一晩でも二晩でもぶっ続けでかわいがってやるから覚悟しとけよ~?」
「…………」

 織江は無言のまま歩き出して、ボウガンの男の真正面に立った。どうやらリーダー格らしいその男は他の連中より背が低めだが、それでも織江よりは十センチばかり大きい。

 正面の男がわざと織江を威圧するように顔を近づけて、馬鹿にしたように笑う。

「はははっ! なに? どーしたの? キスでもしてくれんのかよ?」
「なんならストリップでもいいんだぜー?」
「ぎゃははは! いいぞーやれやれ!」

 男たちが囃し立てる。

 織江は肩をすくめ、大きなため息をつくと――とびきりの冷笑を浮かべて言った。

「なんだ……どいつもこいつも、全然わかってないんだな?」
「……はぁ? なにが!?」

 男がイラついたように聞き返した。織江は更に男たちを煽るように言う。

「キスするのはそっちのほうだろう、ボクちゃん達? ただし、私の足に……だけどな」
「あぁ……?」

 織江は、正面の男の怒りが許容量を突破するのを察知した。更に追い討ちをかける。

「ほらどうした? さっさとやれよ意地汚いカス虫ども。跪いて、私の足にキスしろ」
「――るっせぇんだよボケがッ!!」

 男は右手に持ったボウガンで織江の側頭部を殴りつけようとする。怒りに任せた大振りな攻撃、織江にとって躱すのはわけもない。織江はそれを上半身を屈めることで回避、同時に身体を右側に捻り、回転する勢いに乗せて右肘で相手の顎を打ち上げた。

「あがッ……!?」

 男はふらついてボウガンを手から落とす。

 脳を揺らす高速の回転肘による一撃。おそらく自分がどう殴られたのかさえ認識出来ていないだろう。

 織江はすかさず男の襟首を右手で掴み動きを封じてから、相手の股ぐらを蹴り上げる。

「ふぐッ……うぅ……」

 男は痛みで悶絶するように短く呻いてから、金的を手で押さえたまま両膝をついた。

「てめぇッ!」

 織江の左方向から別の男が殴りかかってくる。織江は右手にボウガン男の襟首を掴んだまま、向かってくる男の顔面を左の上段回し蹴りで蹴り飛ばした。男は地面に倒れ、織江が言う。

「踵のキスの味はどうだ? 卒倒しそうなほどイイだろ?」
「く……くそっ……!」

 男は蹴られた口元を手で押さえながら立ち上がり、織江から距離をとる。他の男たちは織江の動きから只者ではないとわかって警戒したのか、後続はないようだった。

「こ……の……ぜってぇ、ぶっ殺してやる……!」

 地面に膝をつき顔中に脂汗を浮かべたボウガン男が、織江を睨み上げて言う。襟首を掴んでいる織江の手を引き剥がそうとして手をかけてきたので、織江はもう一度男の金的を蹴った。カエルの潰れたような声を出して男が縮こまる。

 織江は無理やりに男の襟首を引き寄せ、抑揚のない声で言った。

「おい。まさかこれで終わりだとか思ってるんじゃないだろうな? 私がそんなに優しそうな女に見えたか?」

 すると織江は右手で男の左耳を掴み、頬に左手を添えて顔の位置を固定する。男は、自分がこれから何をされるかを理解して狼狽した声を上げた。

「やっ……やめ――!」

 織江は無視して、男の左眼に右手の親指を一気に突き入れる。耳をつんざかんばかりの男の絶叫が広がった。

 織江は眼窩から親指を引き抜くと、今度は右手で男の顔を固定して、左手を右目の前で構える。

「お、おい嘘だろ!?」

 男たちの中から動揺の声が上がる。互いの仲間意識はそれほどでもないのか、それとも単に怖じ気づいているだけなのかはわからないが、男を助けようと動く者はいない。

「ひっ……やめっ……やめて! お願いです! 許してくださいぃぃ!!」

 既に片目を潰された男は必死に織江の手を離そうともがくが、もう力が入らないようだった。

 織江は淡々とした口調で言う。

「喧嘩を売る相手を間違えたんだよ、お前らは」
「助け――」

 織江は躊躇なく左手の親指で男の右目を抉る。男は泡を吹いて失神し、膝を曲げたまま正座のような体勢でうつ伏せに倒れ込んだ。

「命だけは助けてやるよ、良かったな。――で、ぼーっと見てるだけの奴らはどうするんだ? まだやるか?」

 手を振って指に付いた体液を落としつつ、残った男たちに向けて織江が言う。連中は互いに目を見合わせて、

「クソッ……こんなん……やってられっかよ……!」

 その中から先ほど蹴りを食らわせた男ともう一人、合わせて二人が逃げ出していった。七人の内一人がダウン、二人が逃げ出して――残るは四人。

「四人か……意外と残ったな。イイ根性してるねぇ」織江は自分の頭を指さしてくるくる回し、「頭はちょーっと、悪いみたいだけどな?」

 おそらく、上手く仕留められたら相当な額の報酬を頂けることになっているのだろう。多少のリスクは覚悟の上ということか。人数ではまだ勝っているのだから強気でいられる、というのもありそうだ。

「その生意気な口、すぐに聞けなくしてやるよ……」

 フードを被った男が懐から折りたたみナイフを取りだして、刃を立てる。その他に金属バットを持っている者もいた。

「所詮は女一人、男四人でかかれば勝てないはずがない……か? そうかもなぁ? やってみたらどうだ? 見ての通り、私は武器なんて持っていないぞ?」

 織江は両手を広げて挑発する。本当はジャケットの裏に拳銃、ベルトにナイフを隠し持っているが、この程度の相手には道具を使うまでもない。

 それに、こいつらには『私たちを殺すように頼んだ人物』について訊き出さなければならない。逃がすでも殺すでもなく、程よく痛めつけてやる必要があるだろう。一人は既に確保したが、出来れば三人は欲しいところだ。

 この街ではとくにそうだが、敢えてトラブルに顔を突っ込みたがる人間はいない。いくら暴れたとしてもこの時間、こんな場所では、騒ぎにすらならないだろう。その点は心配いらないというわけだ。

「オラァッ!」

 フード男が右手にナイフを構えて走り出てくる。直線的な刺突攻撃――織江は瞬時に左側にラインをはずし、男の腹部に右足でミドルキックを打ち込む。男が呻いて身を屈めたところで織江は相手の右腕を左手で掴み捻り上げ、手首に向かって右の肘打ち。

「がっ!?」

 男は右手からナイフを取りこぼす。織江は左手で掴んだ相手の右腕をそのまま自分側に引き込み、更に右手で相手のフードを掴むと、それを後ろへ押し込むように放り投げつつ足払いをかけた。男はバランスを失ったまま、勢い良く後ろの壁に激突する。

「くそがぁ……死ねや!」

 間を置かずに織江の正面から金属バットが振り下ろされた。上体を右側に反らして頭部への攻撃を躱しつつ、右の拳で相手の顎にフックを入れる。男の身体が一瞬ふらついたので、そこを更に前蹴りで突き飛ばす。その背後から、また別の男が走り出てきてきた。

 他より体格に優れ髭を生やしているその男は、織江に向かって突くような右の上段足刀蹴りを繰り出す。不意を突いたつもりなのだろう――が、しかし。織江の目はその機動を容易く見切る。瞬時に身を屈めて蹴りを躱すと、足払いをかけて相手の軸足をすくい、転倒させた。

「――おっと!」

 織江は咄嗟に地面を転がって、頭部めがけてスイングされた金属バットを避ける。先に攻撃してきたバット男だ。織江は相手と距離をとってから跳ね起きる。

「うらっ!」

 男は続いて、右手で大きくバットを振り下ろしてくる。その時、織江は既に左足での回し蹴りのモーションに入っていた。バットが振り下ろされるのと、左回し蹴りが繰り出されたのはほぼ同時――風を切り裂くような勢いで放たれた踵が、アルミのバットを蹴り飛ばす。バットは男の手を離れて数メートル先に転がった。

「なっ……!?」

 男は信じられないというような目で織江を見る。織江は「ふふん」、と得意げに笑って見せた。

「く……くそぉ!」

 男は破れかぶれになったように殴りかかる。

 織江は相手ののろい左パンチを最低限の動作で右に躱すと、今度はこちらの左ボディブローを食らわせた。男が呻いたその隙に相手の右側に回り込みつつ、右足で相手の左膝裏を小突いて体勢を崩すと――右足を引き戻して、相手の曲がった左膝の外側へ足裏を当てるようにしてサイドキックを打ち込んだ。「パキッ」という音がして、膝がぐにゃりと内側へ曲がる。

「ううあぁっ!!」

 男が悲鳴を上げて崩れ落ちる。相手の顔の位置が下がったところで、織江はその顔面に向かって右の肘打ちを入れた。鼻をへし折られ、男は仰向けにダウンする。

「このっ……!」

 今度は既に起き上がっていた髭の男が蹴りを打ってくる。織江は顔の横で左腕を構え相手の右足上段蹴りを難なく受け止めると、そのまま右足を手で掴む。そして相手の伸びきった足に、膝の上から自分の右足を引っかけると――

「おっ……おおっ!?」

 そのまま自分の膝を曲げ、相手の足を絡め取るようにして引き倒した。男は足を取られたまま転倒する形になる。こうなってしまえば男に抗う術はなく、無防備なまま処刑の執行を待つのみ――織江は、その足を可動域外まで捻って折った。

「このクソアマがぁぁ!」

 後ろから声。先ほど壁に投げ飛ばしたフードの男が復帰したようだった。男は完全にいきり立って織江に殴りかかってくる。パンチを何回も打つが、織江は少しずつ後ろに下がりながら全ての攻撃を捌いて躱す。連打の後の大振りな右アッパーに合わせて、相手の右拳に左肘を打ち下ろした。

「あっ……がっがっ……!」
 
 拳を砕かれて男は痛みに悶絶する。そうして不意に頭を下げたところを織江は見逃さず、膝蹴りを叩き込んだ。

「うぅ……ぐうぅぅっ……!」

 ノックダウンさせるつもりで蹴ったのだが、意外にも男は耐えたらしい。鼻血を垂れ流しながら男は織江を睨みつけた。織江は口笛を吹いて言う。

「やるじゃん」

 これは挑発ではなく素直に感心しての言葉だったのだが、男はまた馬鹿にされたと感じたようだった。更に興奮した様子で向かってくる。

 男は左の中段蹴りを繰り出そうとするが、織江は右足で相手の左膝を押すように蹴ることでその出かかりを潰すと、そのまま相手の軸足も蹴り飛ばして転倒させた。

 織江は相手が起き上がろうとするのを待ってから、更にその顔面を横からつま先で蹴り抜く。男は勢い良く二メートルほど転がってから、動かなくなった。

 これで三人……。あともう一人いたはずだが……?

 さては逃げたか――と思ったら、少し離れた位置にその男はいた。小太りの男だ。

「うっ……動くな! 動いたら撃つぞ!」

 男は矢をつがえたボウガンを構えていた。最初に仕留めた男が落としたものを拾ったのだろう。怯えているようで、構える手が震えていた。

「間違えたな」

 織江は小太りの男に向かって言う。男は狼狽えた様子で、

「間違えたって……な、何が!?」
「大方、動いてる私に命中させる自信がないから『動いたら撃つぞ』なんて言ったんだろ? その言葉に素直に従って動きを止めたところをバン!ってわけだ」
「くっ……」
「浅いんだよ、考えがさ」

 そう脅しておいたほうが安全に逃げられると考えた可能性もなくはないが、わざわざそんなことをせずとも、逃げるチャンスなら幾らでもあった。

「でもどうせ撃つならそんな宣言なんてしないで、私が気づかないうちに撃つべきだったんだ。そうしていれば……まぁ……三パーセントくらいは私に当たる確率があったかもしれないな? でも今は……たとえお前が一万発そのボウガンを撃とうが、一発も当たらないと断言できる――私は、躱せる」
「そ、そんなわけ……この距離だぞ?」
「それじゃ、試してみるか? といっても、今あるその一発をはずせばお前、終わりだぞ? 次の矢をつがえる時間なんてないからな。よぉく狙えよ?」
「うっ……うぅ……」

 男との距離は三メートルちょっとというところ。織江は少しずつ歩みを進めてその距離を詰めていく。

「ほらどうした? さっさと撃てよ。どんどん当てやすくなっていくぞ? キスできる距離になるまで待つつもりか?」
「く、くそっ……舐めんなッ!!」

 男は決心したようにボウガンを構え直す。織江はタイミングを読んで駆け出すと、男の約一メートル手前で跳躍した。ほぼ同時にボウガンから矢が放たれたが、既にその軌道上に織江の身体はない。織江は空中で宙返りし身体を一回転させると、男の頭を太ももで挟み込むようにして肩に乗る。

「ざんねんっ」

 織江はしたり顔で笑う。続いて男の頭を両脚で挟み込んだまま、相手の後ろ側へ倒れ込むように身体を捻ると――その勢いを利用して、両脚で相手を投げ飛ばした。織江は受け身を取って着地、一方、男は頭頂部から地面に叩きつけられぴくりとも動かなくなる。

「さて……と」

 織江は立ち上がって周囲を見回す。一気に静かになった。このチンピラどもから話を聞く必要があるのだが……全員意識を失っているようだ。少しやりすぎたか?

 ……もう一度頭を蹴っ飛ばしたら起きたりしないかな。織江は倒れた男に近づいて『軽く』頭を小突こうとする。

 その時、闇夜の静寂が乱れた。音――銃声だ。そう遠い音ではない。方向は――禊屋たちの逃げた先。

「しまった……!」

 『本命』はあっちか!

 織江は自分のミスに気づいて、すぐにその方向へ走り出した。

 ――迂闊だった……! 何でもっと早く気がつかなかったんだ! 最初からもっと怪しいと疑うべきだった。そうしていれば……いや、そんなことを考えるのは後だ。

 無事でいてくれよ、禊屋……!




 ――美夜子と乃神は、ようやく一息ついたところだった。あのチンピラ達は追いかけてくる様子はない。織江が食い止めてくれているのだろう。

「……大丈夫か?」

 乃神は美夜子に声をかける。

「う……うん。なんとか……」

 美夜子は息を切らしながら答えた。

「これ以上は走れそうもないな……。まぁ、静谷が残ったんだから追っ手が来る心配もないとは思うが……一応、向こうの通りに出るまで早足で行くぞ」
「ご、ごめん……」

 酸欠で頭がくらくらする……ほんの一分ほど走っただけでこれだ。これでも昔よりはマシになったのだが……こういう時はいつも、自分の体力のなさを呪いたくなる。

 入り組んだ路地を進みながら、乃神は携帯電話でシープに連絡を入れる。

「――トラブルが起こった。すぐに車を西側の通りに回してくれ。ああ、路地を反対側に抜けたところだ。いやお前はじっとしていろ、却って厄介になる。詳しくは後で話す」

 相手はもっと説明を求めたがっていたようだが、乃神は無視して通話を切った。電話をしまいながら、疑問を投げかける。

「それにしてもあいつら……何なんだ? なぜいきなり襲ってきた?」
「わからないけど……あの人たちはあたしを殺すつもりでボウガンを撃ってきた。それにさっきのあの口ぶり……なんだか、誰かに頼まれたみたいに感じたよ」
「あの男たちは誰かに頼まれて俺たちを殺そうとしたということか? しかし――」

 何か言いかけたところで乃神は歩みを止める。その視線の先には、道の向こうから歩いてくる人影があった。

 その人影が、奥の暗がりから街灯の当たるところまで出てくる。ダウンジャケットを着た若い男だ。男は美夜子たちとは目も合わせようとせず、美夜子の側から見て道の左端を歩いていた。こんな時間にこんな場所で、何をしているのだろうか?
 いや、自分たちが言えた言葉ではないと思うが……。

 男とそのまますれ違いそうになって、美夜子は思わず声をかけてしまった。

「あの……そっちの方、行かないほうがいいかも」
「へっ?」

 男はいきなり声をかけられて、驚いたような表情をする。男の歳は二十半ばというところ。前髪長めのツーブロックでワイルドな印象だが、垂れ目で愛嬌も感じられる顔つきをしている。

「あー……行かないほうがいいって、なんでっすかねぇ?」

 織江が先ほどのチンピラ集団を相手にまだ残ってくれている。それを一般人に見られたら厄介なことになりそうだ。上手く誤魔化さなければ……。

「えっと、その……そう! 向こうで派手なケンカ、してたみたいだから。近づくと巻き添え食らっちゃうかも」
「ケンカ……。ああ、そうですかい。こいつはどうもご親切に。近づかないようにしますわ」

 男は軽く左手を振って歩き去ろうとする。

「おい待て」

 それを、乃神が呼び止めた。その手には、彼が隠し持っていた自動拳銃――グロック17が握られている。既に銃口を男に向けて構えていた。

「ちょっ……乃神さん!?」
「禊屋、ぼーっとしていて気がつかなかったか? こいつ……明らかに『こっち側』の人間だぞ。雰囲気でわかる」
「えっ……!?」

 美夜子は驚いて男の方をもう一度見る。男は困惑したような様子だった。

「こっち側とかなんとか……何のことだかわかんないっすけど。その銃、まさか本物じゃないっすよねぇ?」

 乃神は銃を構えたまま、男に向かって言う。

「茶番はもういいんだよ。さっさとその右手に隠し持っているものを見せろ。ゆっくりとな」
「…………はぁ。ったく、慣れないことはするもんじゃねぇなぁ」

 男は観念したように、身体の陰に隠していた右手をゆっくりと見える位置に出す。その手にはサイレンサーを取り付けた自動拳銃が握られていた。シグザウエルP229――性能重視の高価な銃。そこらのチンピラが手に入れられる代物ではない――この男は、殺し屋だ。

「何気なくすれ違って、後ろから一発! それで終わりのはずだったんだが、まさかそっちのほうから話しかけられるとはね。これなら問答無用で正面から撃っちまったほうが良かったか。ま、あんたがずっと怖い顔で睨んでたからそれも無理だったかな?」

 男は半笑いの表情で話す。追い詰められているはずなのに妙に余裕ぶった態度だ。

「……さっきの連中は貴様の差し金か? 囮として使ったんだろう?」

 乃神が尋ねると、男は悪びれもせず頷いた。

「ああ、俺が命令したのさ。アンタらを殺すか、もしくはサイドテールの女だけでも足止めしろってね。金を渡して、死体の処理もこっちでするって言ったらあいつらホイホイ言うこと聞くから簡単だったぜ。護衛のあいつさえ引っぺがしゃあ後はラクショーだと思ったんだけど……なかなか上手くはいかないねぇ」

 護衛の織江を引き離すことまで計算に入れた策だったのか……危なかった。

 乃神は更に男に尋ねた。

「貴様は殺し屋だな。どこの所属だ? 誰の命令で動いている?」

 男は笑って、

「はっ! おいおい、やめてくれよ。俺は一応プロなんだぜ? 命乞いしなきゃなんねぇような状況でも、雇い主の名前だけは言わねぇよ」
「ふん……そうか。ならば精々覚悟しておくんだな。後で『いい』目に遭わせてやる」
「ははっ、そりゃあ今から楽しみだなぁ」

 ……この男の余裕はどこから来ている? 単に場慣れしているだけなのか、虚勢を張っているだけなのか……。

「とりあえず、その銃を地面に捨ててもらおうか。トリガーに指を掛けた時点で撃つ、余計なことは考えるなよ」
「捨てりゃあいいのかい? 気に入ってたんだけどなぁ、これ。はぁ……わかったよ」

 男の表情に注目していた美夜子は気づく。男はその時、微かに笑ったのだ。

 そうかわかった――この男の余裕は、この窮地を覆せることを確信しているからだ!

「乃神さんっ、そいつ――」

 言いかけた時にはもう遅かった。男は右手に持っていたシグザウエルを手首のスナップだけで乃神に向かって投げつけたのだ。

「――ッ!?」

 乃神は顔面に向かって飛んできた銃を避けると、即座にグロックを発砲する。しかし既に男は回避行動に移っており、弾丸を躱しつつ一気に乃神との距離を詰めた。男は左手で乃神の銃を取り押さえると、右の膝蹴りを腹に入れた。

「がっ……は……」

 膝蹴りによって乃神が頭を下げたところで、男は更に、右の肘打ちを後頭部に落とすように打ち込む。乃神は地面に崩れ落ちるように倒れ込み、眼鏡を落とした。

 男は悠々と先ほど投げ捨てたシグを拾うと、乃神の頭を足で踏みつけて言う。

「残念だったなぁ、眼鏡クン? 俺が殺し屋だと見抜いたまではよかったんだけどな。この通り、俺ってば結構強いわけよ。――と、聞こえちゃいねぇか」

 乃神は今の一撃で意識を失ったようだ。

「さてと……」

 男は銃口を美夜子に向けて構える。美夜子は思わず言った。

「ま、待って!」
「何だ、今さら命乞いかい? 悪いが、女の子でも見逃すわけにはいかねぇのよ。可哀想だという気持ちがないと言えば嘘になるが、こればかりは仕方ないよな。禊屋……あんたにゃここで死んでもらう」
「ど……どうしても、ダメぇ?」
「甘えた声で言ってもダメ! ……ま、最後の言葉を残すくらいは許してやってもいいけどな?」

 どうしよう……どうしよう……何か、こいつの興味を惹くような話題を出さなければ……。時間を稼げば、さっきの銃声を聞いた織江ちゃんが来てくれるはず……! でも、なにを話せばいいんだろう?

「ん? 言いたいことはないのか?」
「え、えっと……じゃあ、あなたの名前は?」
「名前ぇ? そんなもん聞いてどうすんだよ?」
「それは……せっかくだから知っておきたいなぁと……」

 もー! 何を言ってるんだあたしは! こんな話題じゃ全然時間を稼げないよ!

「……まぁいーか。俺のコードネームは『凶鳥(まがどり)』。どうだ、覚えたかよ?」
「凶鳥……」
「さぁ、もう時間切れだ。せっかく引き離したんだ、あいつが来るまでにケリをつけさせてもらうぜ。……じゃあな」

 今度は止める間もなく、銃声が鳴り響いた。

「なっ……なんだとッ!?」

 凶鳥が叫ぶ。美夜子にも何が起こったのかすぐには理解できなかった。銃声がして――次の瞬間、凶鳥のシグは弾き飛ばされたのだ。凶鳥の視線が、美夜子の後方に何かを認める。

 美夜子が振り向くと、そこには全身を黒いマントで覆った人物が立っていた。フードを目深に被っており、顔は見えない。そして、右手に拳銃を構えていた。銃を撃って凶鳥のシグを弾き飛ばしたのはこの人物のようだ。

 凶鳥は右手を押さえつつ黒マントを睨みつける。

「てめぇ……織江、じゃねぇよな。クソッ、もう一人いやがったとは……」
「…………」
 
 マントの人物は、ゆっくりと拳銃を上に向ける。そして、左手を振って相手を追い払うような動作をした。

「……ああ? まさか……逃げろって言いてぇのか? はー、わっけわかんねぇ……けど、今はそうさせてもらったほうが良さそうだな……」

 凶鳥は最後に禊屋を見て、不敵に笑う。

「きっと後悔するぜ、俺を逃がしたこと……。待ってろよ禊屋、今度は最高の凶運をプレゼントしてやるからよ……!」

 そう言い残すと、凶鳥はこちらを警戒しながらも、奥の曲がり角へと走り去っていった。

「あ、あの……あなたは……?」

 凶鳥の姿が見えなくなってから、美夜子は黒マントの人物に尋ねた。しかし、相手は銃を懐にしまうと、質問には答えずに後ろを向いてしまった。いや、美夜子の質問を無視したというわけではない。――攻撃に備えるためだった。

 暗がりから影が飛び出して、凄まじい速さで黒マントに接近する。速すぎてすぐにはわからなかったが、その影の正体は織江だ。

 織江はカランビットナイフを右手に逆手持ちし、鬼気迫る勢いで相手に幾度も斬りかかる。しかし、黒マントは後ろへステップを取りながらその攻撃を躱していく。動き自体は織江のほうが速く見えたが、黒マントは織江の攻撃を逐一的確に読んでいるようだった。反撃しようとはせず回避に徹しているが、その動きには余裕すら感じられる。

「チッ――!」

 織江は大きく踏み込んで、左から右へ薙ぐような機動でナイフを振るう。今度は黒マントを捉えた――かに思えたが、相手はそれを紙一重で躱すと、身を翻しつつマントを脱ぎ捨てた。そのマントが織江に目隠しをするように覆い被さる。

「邪魔だクソッ!」

 織江は即座にマントを左手で払いのけて、斬り上げるようにナイフを振る。

 ――二つの刃が打ち合って、互いに静止した。対峙する相手は織江の攻撃を、より大型のカランビットナイフの刃で受け止めていたのだ。

「相変わらず良い動きするじゃない……《血塗れ織姫(ブラッディヴェガ)》?」

 マントの中から姿を現した男が言う。織江は睨みつけるように見上げて、

「お前だったか……《蒼玉の虎(ビースト・ブルー)》……!」

 男はニヤリと笑う。両耳にピアス、顔立ちは優男風だが、今の身のこなしからして只者でないことは間違いない。歳は二十後半から三十前半くらいだろうか、若いようにもそれなりに歳を重ねているようにも見える。その左眼には、普通とは異なる蒼色の輝きがあった。おそらく、義眼なのだろう。

 男は織江へ静かに問いかけた。

「さ……どうする? ……まだやる?」
「……ッ!」

 言葉は柔らかいが、全身の毛が逆立つような凄味がある。あの織江が、一瞬怯んだように見えたほどだった。しかし――

「――当たり前だッ!」

 織江は叫んで、再びナイフに力を込めようとする。
 
 いけない――驚いて硬直している場合じゃない!

「待って織江ちゃん! その人違う!」
「――ッ!?」

 織江がぴたりと動きを止めた。

「違う……?」
「その人、あたしのこと助けてくれたの! だから戦う必要……ないと思うんだけど……」
「なっ……そんな馬鹿な……!」

 無理もないことだが、織江は混乱しているようだ。そこへまた別の声がする。

「禊屋の言うことは本当だぞ、静谷」

 そう言って、倒れていた乃神がぎこちない動きで起き上がった。美夜子はほっとして駆け寄る。

「乃神さん! 良かった、意識戻ったんだ」
「いや……殴られてからも辛うじて意識はあったんだが、身体が動かなくてな……。ともかく、そいつは俺たちを襲撃してきた犯人じゃない」

 乃神は地面に落としていた眼鏡を拾うと、フッと息を吹きかけてからかけ直した。

「そうだよ、織江ちゃん。危ないところだったんだけど……その人が殺し屋を追い払ってくれたの」
「…………」

 織江は男を警戒した眼差しで見つめつつも、ナイフを持つ手を下げた。それを受けて、男もナイフをベルトの鞘へ仕舞いつつ笑う。

「よろしい、それが賢明な判断ね。あなたみたいな美味しそうな獲物を味わえないのは、私的にはちょっと残念だけど」

 間違いなく男のはずだが、独特な言葉遣いをする。それにしても、この二人のやり取り……二人には、何らかの因縁があるのかもしれない。

 乃神が男に尋ねる。

「それで……いったいどういうつもりなんだ? 伏王会の……それも神楽の側近である貴様が、なぜ俺たちを助けるような真似をする?」
「神楽の側近って……えっ?」

 美夜子が男の方を見ると、相手は朗らかに笑った。

「挨拶が遅れたわね。どーも初めまして、禊屋ちゃん。今そこの彼が言ったように、私は神楽の側近……神楽組のカザマよ。よろしくね?」

 そう言ってカザマはフレンドリーに握手を求めてくる。美夜子はやや戸惑いつつもそれに応じた。

「一度会ってみたかったのよ~禊屋ちゃん! 話には聞いてたけど、ホントにかわいいわぁ! このプリティフェイスで頭もキレッキレとはね~!」
「ど、どうも……」

 握手した手をぶんぶんと振られた。先ほど織江と対峙していたときとは随分落差がある。元Sランクヒットマンは個性も強烈らしい。

「どうしてあなた達を助けたか、だったわね? う~ん、そうねぇ。本当は話しちゃいけないんだけど……ま、ちょっとならいいか。私がここにいるのはおじょ――こほん、神楽の命令なのよ」
「神楽の……?」
「そ。あなた達を襲いにくる輩が現れるだろうから、危なくなったら助けてやれってね。そのために隠れてずっと後をつけてたのよ、気づかなかったでしょ?」

 耳を疑いたくなるような言葉だった。

「そんな……どうして? だって神楽とあたし達は敵同士のはずで――」
「たしかにそうね。私達は伏王会で、あなた達はナイツ。審問会で争う間柄でもある相手を、私達が助ける理由はない……と、思うでしょう? それがそうでもなくてね。理由はもちろん、あなた」

 カザマは美夜子を指さす。

「神楽はあなたのことを好敵手と認めているわ。審問会で戦う相手として、あなた以上の逸材はいないと考えている。そんなあなたとの知恵を競い合う勝負が、あの子は楽しみで仕方がないのよ。だから神楽にとっては、あなた達がこんなところで死んじゃうと都合が悪いわけ。おわかりかしら?」
「…………」

 本当に、ただそれだけのことで助けたというのか? しかし……相手があの神楽ならば、それもあり得そうなことだ。

「一つ訊きたいんだけど……あなた達は、さっきの殺し屋が誰の命令で動いているかを知っているの?」
「ふふっ……さぁ? 私もこれ以上は話せないわ。そこから先はあなたが考えなさいな、探偵さん?」

 カザマは美夜子を試すように言う。だが、そうして答えないこと自体が半ば答えのようなものだと美夜子は思った。その思考も相手の想定内なのかもしれないが。

「さて、それじゃ私はそろそろ退散させてもらうわ。――あ、そうそう。一応言っておくけど、助けるのは今回限りよ。まぁ、お助けキャラは一回しか使えないってことね。そっちにとっても、私なんかに何度も助けられるのは気分が良くないだろうし? あの殺し屋はまた襲ってくるだろうけど、次は自分たちでなんとかなさい」

 カザマはそう言って立ち去ろうとする。

「あ……待って!」

 まだ言ってなかったことがあった。カザマは顔だけこちらを向いて、

「まだ何か?」
「いや、その。助けてくれて……ありがとう」

 カザマは肩をすくませて笑うと、軽く手を振ってまた歩き出す。

「……どーいたしまして。せいぜい頑張って、神楽を楽しませてやってちょうだい」

 カザマが奥の暗がりに消えてから、織江が言う。

「ほんとにごめん、禊屋……。乃神さんも。私が敵の罠を見抜けなかったから、二人を危険な目に遭わせてしまった。こんなんじゃ護衛として失格だ……」

 織江はかなり落ち込んだ様子で項垂れる。

「そんな、織江ちゃんのせいじゃないよ!」

 美夜子の言葉に乃神も同意した。

「そうだな。想定より相手のほうがやり手だったというだけのことだ。どのみち、今の俺たちにとって戦力として頼りになるのはお前だけだからな。落ち込んでいられても困るぞ」
「は、はい……」

 織江は乃神の言葉に意外そうな表情をしつつも、少し元気を取り戻したようだった。

「それにしても……お前の仕事というのは、いつもこんな感じになるのか? 禊屋」

 乃神は凶鳥に殴られた首筋を撫でながら言う。

「こんな感じって?」
「……殺されかけるような目に遭う感じ」
「ああ、うん……。でも全部がそうではないんだよ? 一応……」
「お前のそばにいたら命が幾つあっても足りんだろうな……。あいつの苦労が少しわかった……」

 『あいつ』とは冬吾のことを言っているのだろう。二人はあまり仲が良くなかったようだが、思わぬところで相手への理解が進んだようだ。

「それで……どう思う? 禊屋」

 これはまた大雑把な質問だ。しかし乃神の言いたいことはわかる。

「あの殺し屋を差し向けてきたのは、名護さんを殺した真犯人だと思う。犯人はあたしたちが事件の調査をしているのを知って、それを妨害……というか、あたしたちを殺すことで阻止しようとした。神楽にとってはあたしたちが死ぬと都合が悪いみたいだけど、犯人とも協力関係にあるから、ああいう風にあたしたちに手を貸したことがバレないようにしたんじゃないかな」

 カザマが現れたときマントを着込んで正体を隠していたのは、そのためだろう。凶鳥をあえて逃がしたのも、こちらに肩入れしすぎないようにというバランス取りのつもりなのかもしれない。

「ああ、俺もそう思う。だが、犯人側はどうやって俺たちの居場所を知ったんだ? 俺たちがあのビデオショップを訪れることを事前に知っておかなければ、あんな待ち伏せするような襲撃は不可能だろう」
「もしかしたら、どこかからあたしたちの移動先がバレてるのかも……」
「……! つまり、俺たちの情報を敵へ流している者がいるということか?」
「どうかな……可能性なら色々考えられると思う。支社のコンピューターをハッキングされて、連結してあるあたしたちの携帯のGPSを辿られたのかもしれないし……まぁそれならアリスに調べてもらえばすぐにわかると思うけど」

 美夜子たちが使っている携帯は、GPSによる位置情報を支社のコンピューターで追える仕組みになっている。メンバーが任務中、臨機応変にサポートを受けられるようにするためのシステムだが、もしもこれを敵に悪用されたとなれば、かなりマズい。もちろんそうならないよう、セキュリティは厳重にしてあるはずだが……。

 こちらの位置が相手に筒抜けであったのならば、先ほどのような待ち伏せにも納得がいく。美夜子たちがビデオショップに入っている間に準備もできただろう。

「他に考えられるとすれば……知らないうちにあたしたちの服や持ち物に発信機みたいなものを付けられていた、とか?」

 乃神は納得したように頷いた。

「なるほど、発信機か……。可能性はあるかもな。この状況で服や持ち物にそんなものが付けられたら、気づかないはずはないとも思うが……もしもということもある。一応服も脱いで確かめてみたほうがいいかもしれん」
「あっ乃神さん、それセクハラぎりぎりだよ~?」

 美夜子がからかうように言う。

「いや、そんなつもりは……。というか、なにも裸になれと言ってるんじゃないんだぞ? 上着だけ確認すれば充分だ」
「ねぇねぇ織江ちゃん、今度は裸とか言い出したよ?」
「禊屋……」

 勘弁してくれ、と言うように乃神が大きなため息をつく。

「ごめんごめん。わかってますって」

 それから、それぞれ上着を脱いで互いに確認し合ったが、発信機の類は発見できなかった。

「――とりあえずこの三人の身体に発信機が仕掛けられているということはなさそうだが……」
「残るはシープ君か……でも彼は殆ど車の中にいたから発信機を付けられるような機会もなさそうだけど……。あ、車に仕掛けられてる可能性はあるね! というか、それが一番ありそう!」
「戻り次第確認するとしよう」

 方針を確認し合ったところで、織江が上着のジャケットを着直しつつ言った。

「ところで禊屋、さっき襲ってきた殺し屋ってどんなやつだったんだ?」
「男の殺し屋で、年齢は二十代半ばってとこかな。名前は凶鳥って言ってたよ」
「……待って。……今、なんて言った?」

 織江は只ならぬ様子で聞き直してくる。

「えっ……? えっと……殺し屋の名前が凶鳥ってとこ?」
「確かなのか?」
「うん……本人がそう名乗ったから」
「…………そうか」
「もしかして知ってるの、織江ちゃん?」
「……まぁね」

 織江は聞くべきではなかったというような表情で、深くため息をついた。無理やり心を落ち着けようとでもするように前髪を弄り出す。

「あー……その……ごめん。その話は支社に戻ってからでいいかな?」
「うん、わかった……」

 そういえば……凶鳥はカザマが現れたあの瞬間、このように言っていた。

『てめぇ……織江、じゃねぇよな』

 名字の静谷でもなく、殺し屋としての名前だったヴェガでもない……織江という名前で呼んでいたのだ。二人はどのような関係だったのだろう……。

 最初とは反対側の通りに出ると、既にそこにシープが車を停めていた。乃神がシープに事情を説明する傍ら、美夜子と織江は車に発信機が仕掛けられていないかを調べる。そして――

「あ……あった! 見て織江ちゃん、ここ!」

 後ろ側のナンバープレートが貼ってある位置の下から覗いてみると、車体の裏側にボタンのような形をした発信機が強力な粘着テープで接着されていた。織江がそれを見て言う。

「敵はこいつで私達の居場所を探ってたってわけか……。でも、いつの間に付けられたんだろうな?」
「チャンスがあるとすれば……修道院の駐車場、名護さんの隠れ家があったマンションそば、ラフレシアの近くに車を停めていたいずれかのタイミングだとは思うんだけど……可能性が高いのは一番最初かな。あとの二つは、あたしたちを修道院からずっとつけ回していたのでもない限りは無理だろうし」

 車内で助手席に座っていた乃神がシープに尋ねる。

「お前ずっと車の中にいたんだろう? 何か心当たりはないのか? 怪しい奴が近づいてきたとか……」

 シープは恥ずかしそうな様子で、

「いや、それが……僕もずっと気を張り詰めていたわけじゃないっていうか……なんなら待っている間、携帯弄ってたり退屈でうつらうつらとしちゃってたりで……」
「要するに、怪しい奴が近づいてきたかどうかは覚えてないんだな……」
「すみません!」

 まぁ、それは仕方がない。こんなことになると予想できたはずはないから、ここで彼を責めるのは可哀想だ。

「この発信機、どうするんだ?」

 剥がした発信機を手に、織江が美夜子へ尋ねる。

「ん~持って帰ろうか。発信機だけじゃ逆探知も出来ないけど、調べてみれば何かわかることがあるかも。あ、スイッチは一応切っておいてね」

 ともかく、この発信機さえ排除すれば当面の危険はないはずだ。凶鳥もすぐには二回目の襲撃をしてくることはないだろう。

 後のことは、支社に戻ってから考えるとしよう……。

 美夜子は車の後部座席に乗るために、後ろのドアの前まで移動しようとする。――しかし突然、身体が浮くような感覚がしてバランスを崩し、足がもつれてしまう。

「わたたっ……!」
「おっと――大丈夫か?」
 
 咄嗟に織江に支えてもらって事なきを得る。美夜子は照れ笑いを浮かべつつ言った。

「あ……はは、ありがと。なんか急に力抜けちゃった。ちょっと疲れてたみたい」

 織江は代わりに車のドアを開けてやりながら、美夜子を思いやるように言った。

「そりゃあんな目に遭ったんだもん、無理ないって。帰ったらゆっくり休みなよ」

 そうして、美夜子たちは支社への帰途についた。
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