52 / 61
case8 女神の断罪
7 小休止
しおりを挟む夕桜支社に帰還した美夜子たちは事件調査の報告を行うため、美夜子たちは八階にある社長室を訪れた。
「――ああ、皆さんお帰りなさい」
扉を開けると、薔薇乃がプレジデントデスクから立ち上がって出迎えてくれる。美夜子は部屋に入るなり、薔薇乃に駆け寄って抱きついた。フローラル系の香水の良い匂いがする。薔薇乃は驚いたような声を出して、
「これはいきなり、大胆なことですね。わたくしは嬉しいですけど……どうしました?」
「ありがとうね、薔薇乃ちゃん。審問会のこと……」
「そのことですか。気にする必要はありません。親友の頼みくらいは聞いてあげたい……そう思っただけのことです」
薔薇乃は美夜子の頭を一撫でして、
「ただし……わたくしもあなたも、もう後には引けません。わたくしもできる限り協力しますから、必ず勝ってください」
美夜子は薔薇乃から離れると、力強く頷いた。
「では、皆さんそこへお掛けになってください」
薔薇乃は美夜子の後ろにいた乃神たちにもソファへ座るよう促す。大きなテーブルを挟んで、向かい合うように二つ並んでいる。
「これまでの報告をお願いします。それと、今後のことについても話し合いましょう。飲み物はコーヒーしかありませんが、皆さんそれでよろしかったですか?」
「ああ、僕がやりますよ」
シープが手を挙げるが、薔薇乃は首を横に振る。
「あなたも動き回ってお疲れでしょう? いいから、座っていてください」
隅のサイドテーブルに置かれていたポットから人数分のカップにコーヒーを注ぎ、全員の元に行き渡ったところで、薔薇乃もソファに座った。
それから、美夜子たちは調査の経過について薔薇乃に報告する。修道院の事件についてと、叢雲のこと、そして、先ほどの凶鳥という殺し屋による襲撃のこと……。一通り聞いて、薔薇乃が言った。
「なるほど……。順序は逆になりますが、まずはその凶鳥という殺し屋のことから話しましょうか。対策を講じておく必要がありそうです」
「織江ちゃんは、凶鳥のことを知ってるんだよね?」
美夜子が尋ねると、織江はゆっくりと頷く。
「……ああ。《死を飲む魔風(モータル・ゲイル)》の凶鳥、Aランクのヒットマンだ。かつては、『桜花(おうか)』に所属していた」
「桜花って……じゃあ凶鳥は……」
「凶鳥と私は、同じ組織の仲間だったんだ」
美夜子は話に聞いたことがあるというだけだが、『華炎同盟』なる組織が四年ほど前までこの街に存在していたという。華炎同盟は香港系マフィアの流れを汲む犯罪組織で、武力担当として『桜花』という戦闘部隊を従えていた。織江はヴェガというコードネームでその桜花に所属していたのだ。
暴走寸前とも言える過激な活動によって組織拡大を進めていた華炎同盟はナイツと伏王会に危険視され、両組織の共同作戦によって、桜花もろとも滅ぼされた。織江はその抗争を辛うじて生き延び、その後、薔薇乃に拾われる形で雇われたのだという。
「桜花の生き残りは私を含めて何人かいたけど、凶鳥は四年前の抗争以来ずっと消息不明だった。だから、もうあいつは死んだんだって……そう思ってたんだけどな……」
織江は複雑な表情で語る。死んでいたと思っていたかつての仲間が生きていたこと、そしてその相手と今は敵対する関係にあること……様々な思いが混在しているのだろう。
織江を見て、薔薇乃が心配するように言う。
「今後また、その凶鳥という殺し屋が現れたら……その時は戦えますか?」
答えるまでに少しの間があったが、織江は軽く笑って言った。
「……そりゃ、もちろんやりますよ。昔の仲間だからって甘さを見せるとか、そんなことはこの世界じゃ許されない。それくらい理解してるし、向こうもそれはわかっているはず。必要とあらば……殺します。ご心配なく」
「それなら良いのですが……」
「それより問題は、奴の特性です。近距離での戦闘なら勝つ自信はありますけど、奴の本領は別のところにある。……あいつは、スナイパーなんですよ」
「それは……なんとも厄介ですね。この状況で最も相手にしたくない相手です」
スナイパー……つまり、長距離からの狙撃を得意とするヒットマンということか。
乃神が眉をひそめて言う。
「今後も外に出て調査をする必要がある以上、常に奴から狙撃される危険があるということか? とてもじゃないが、そんなのやってられないぞ……」
「で、でも……」
ソファの端っこに座るシープが遠慮がちに言う。
「狙撃が得意だというなら、さっきはどうして直接姿を現して殺しにきたんでしょうね?」
「場所の問題だろう。あの辺りは周囲をビルで囲まれた路地の中だ。狙撃には不適だった」
「ああ、言われてみればたしかに……。いや、でもそれなら、路地から出てきたところを狙うとか、もっと広い場所にいるときに狙うとか、他に方法があるような気がするんですよね」
「何が言いたい?」
「その……もしかしたらですけど、相手は他にも狙撃ができなかった理由があるんじゃないでしょうか?」
「ふむ……それはどんな理由だ?」
「えっ? いやだなぁ乃神さん。そんなの僕にわかるわけないじゃないですか」
あっけらかんとして言うシープ。乃神は呆れたようにため息をついた。
シープの仮説はあてにするには根拠が薄すぎるが、それが合っているとしたら狙撃の危険がなくなってだいぶやりやすくはなるか。
「発信機……」
薔薇乃が呟くように言ってから、なにか思いついたように話し出す。
「回収した発信機をこちらが逆に利用するというのはどうでしょう? 発信機を持たせた別働隊を出して、そちらに敵を誘導するのです。少なくとも本隊の無事は確保できるのではないでしょうか?」
「それは……難しいかも」
美夜子は顎を人差し指の背で撫でつつ言う。
「最初の襲撃に失敗した時点で、相手は発信機の存在がバレることも想定してると思う。それにここに戻ってくるまでにスイッチを切っちゃったから、相手もそれに気づいてるという前提で動かないと」
発信機の電源がオフになると、受信機に通知が飛ぶタイプもある。
「何より、仮に上手くいったとしても効果が期待できるのはその一回だけ。誤魔化せる時間は長くはないよ。むしろ別働隊の人たちが危険に晒される可能性があるから、やめておいたほうがいいと思う」
もしも別働隊の者が敵に捕らえられてしまえば、美夜子たちの居場所がそこから知られてしまうかもしれない。
薔薇乃は美夜子の説明に納得したようだったが、心配そうな表情で言う。
「しかし……発信機を潰したとはいえ、相手もこちらが事件を調査していることはわかっているはず。必ず行くことになる場所――修道院などで待ち伏せされたら手の打ちようがありませんよ。アルゴス院の敷地内で手を出してくることはないと思いますが、そこから尾行される可能性は充分あります」
「かといって、調査せずに引っ込んでいるわけにもいかないし……」
「敵の狙いがあなただとするなら、調査は別の者に任せて、あなたはその報告だけ受け取るというのは?」
薔薇乃は自分の身を心配してくれている。それを理解しながらも、美夜子はかぶりを振った。
「ううん、それもやめておく。さっき言ったように、敵はあたしだけを狙うとは限らないからね。それに、その方法だとどうしても調査の精度は落ちちゃうでしょ? 多少の危険は覚悟してでも、あたしが直接動く必要があると思う。それくらいじゃないと、この事件の謎は解き明かせない……そんな気がするの。だからとりあえずは襲撃を警戒して、人気のない場所や見晴らしのいい場所ではなるべく行動しないってことでやっていくしかないんじゃないかな」
「……わかりました。では、こうしましょう。あなた達の移動ルート上に、こちらで別の車を用意します。その地点に着いたら、あなた達は車を乗り換える。それを定期的に繰り返していけば、尾行される危険を幾らか排除できるのではないでしょうか。もちろん移動中も常に尾行を警戒し、乗り換えは迅速に行うものとします。……どうです? 乗り換えによって少しの時間的ロスは発生するでしょうが、それくらいなら問題ないレベルかと」
「いいんじゃないかな。それでいこう」
安全のためにそれくらいやっておいて損はなさそうだ。
「対抗策としてこちらでも狙撃手を用意できればいいのですが、あいにくうちに所属しているヒットマンで狙撃の心得がある者は現在別件で出払っておりますので……なんともタイミングの悪いことです。新たに手配するにしても、Aランクのスナイパーに対抗できるほどの腕を持つ者となるとなかなか……」
歯がゆそうに言って、薔薇乃はコーヒーに口を付けた。美夜子は乃神とシープに向かって言う。
「そういうわけだから……ごめんね。乃神さんやシープ君は、無理してあたしに付き合ってくれなくてもいいんだよ?」
「いえいえ! 僕は当然、最後まで付き合いますよ! 一緒にノラさんを助けましょう!」
シープは張り切った様子で答えた。一方、乃神はため息をつきつつも、
「……気乗りはしないが、仕事だというなら途中で投げ出すわけにもいくまい。ただし、なるべく危険は回避する方向で頼むぞ」
「……ありがとう。もちろん、そのつもりだよ」
会話に間ができたところで、薔薇乃が話し出した。
「――ところで、わたくしは先ほどまで修道院にいたのですが、審問会に参加する旨を伝えるついでに、事件について少し聞き込みをしてきました。といっても、あまり本格的なものではありませんけれど」
話題は殺人事件の内容へと遷移する。
「礼拝堂の管理人……サラという方でしたね。管理人は礼拝堂の鍵を所持している。つまり彼女が犯人だと仮定すれば、礼拝堂の扉に外から鍵をかけられたことになり、密室の謎のうち一つは片付きます。もちろん、警備員の二人が『犯行があったと思われる時間に礼拝堂を出入りする人物は見ていない』と主張している以上は、彼女にも犯行は不可能なのですが……。実はそれ以外にも、彼女には犯行不可能な要因がありました。どうやら、アリバイがあったようなのです」
「アリバイか……」
まだ直接話は聞いていないが、事前に彼女がどのような動きをしていたのかは頭に入れておいて損はないだろう。
「犯行があったと推測されるのは、名護修一が礼拝堂に入っていった午後五時から遺体が発見される六時までの間。その時間のアリバイが立証されれば、その人物には犯行は不可能ということになりますね。サラさんは、二時半頃から五時五十分頃まで別館の食堂で客人とお話をされていたようなのです。五時五十分ということは六時までに残り十分の猶予がありますが、犯人は被害者を殺害後に腹を裂き内臓を取り出し、更には遺体に聖骸布を巻きつけているということを考えると、どれだけ手早く実行しようともその作業に十分以上はかかる。別館と礼拝堂間の移動時間も含めると、どう考えても五時五十分から六時までの十分間で犯行を終えることは不可能。よって、サラさんのアリバイは成立するというわけです」
「そのサラさんと話していた相手がアリバイを保証してくれたってことだよね。どんな人なのか、わかる?」
「ええ、それも聞いております。その方のお名前は……渡久地友禅(とくちゆうぜん)」
その名前が出た瞬間、乃神と織江がぴくりと反応した。シープはキョトンとしているが、美夜子もその名前だけではピンと来ない。
「えっと……誰だっけ? 有名人?」
美夜子が言うと、乃神は呆れたような顔をしつつも説明してくれる。
「……渡久地友禅。元政治家で、現在は『月光の会』という財団の会長及び代表を務める男。月光の会は海洋船舶関連事業や国際協力事業を主に行っている日本最大級の財団法人だ。渡久地自身も政官財に大きな影響力を持っている上に、裏社会にも精通している。財団も実質、渡久地の傀儡のようなものだ。表向きの事業の裏では黒い商売もかなり手広くやっている。膨大な資金力、強力且つ広範囲に渡るコネクション……渡久地友禅はナイツや伏王会にも手が出せない大物中の大物――いわゆる日本の黒幕……フィクサーというやつだな」
薔薇乃が頷いて、
「そう……齢七十を越えるはずですが、今もなお日本裏社会においてトップクラスの影響力を持っている人物と言えるでしょう。その黒幕ぶりたるや、『影の帝王』の異名を取るほどです」
「そ、そんなにすごい人なんだ……初めて知った……」
この世界に入って結構経つが、まだまだ知らないことは多いようだ。……というか、単に自分が世間知らずなだけなのか? と思っていると、薔薇乃が付け加える。
「表立って動くことはまずない方ですから、あなたが知らないのも無理はないかと」
なるほど、影の帝王……か。
「でも、そんな人が何のために修道院に来てたんだろう?」
「さて……そこまではわかりませんでしたが……もしかしたら、ナイツと伏王会の会合があると知って、それを様子見に来ていたのかもしれませんね」
サラは渡久地と三時間も何を話していたのか、そのあたりは本人から聞いた方がよさそうだ。
薔薇乃は次の話題へ移ろうとする。
「それにしても、名護修一があの叢雲の正体だったとは驚きですね」
「薔薇乃ちゃんも知ってた? 叢雲のこと……」
「わたくしが支部長の座についた頃にはもう殺し屋としての活動を停止していたので、あまり詳しくはないのです。凄腕の殺し屋だという話だけは聞いて知っていましたが……」
薔薇乃は少し考えるように顎を触ってから、美夜子に向かって言う。
「その、名護修一の隠れ家で見つけたという写真。見せていただけますか?」
名護修一、戌井千裕、岸上豪斗の三人が写っていた写真のことだ。
「いいよ。……はい」
ポケットから取りだした写真を薔薇乃に渡す。
「豪斗おじさんは薔薇乃ちゃんにとって親戚だったんだよね? 薔薇乃ちゃんは何か知らないかな? その三人の関係……」
薔薇乃は写真を見つめながら、難しそうな顔をする。
「いいえ。残念ながらわたくしにもわかりません。岸上豪斗はたしかにわたくしの親戚筋の人間ではありますが、分家の一つである遠縁の方の婿殿という程度の繋がりでしかありませんでした。仕事上のやり取りがあっただけで、個人的なことはお互い殆ど知らなかったのです。有能だったので重用してはいましたけれど……」
親戚らしい繋がりはなく、一般的な上司と部下の関係だったということか。
「旧来、岸上の本家と分家は円満とは言い難い関係。過去には諍いがあったとも聞きますが、わたくしとしては実感の薄い話です。ですからわたくしはとくに気にしておりませんでしたが、今になって思えば、豪斗さんの方はわたくしに対して精神的な壁を作っていたのかもしれません」
薔薇乃はそこまで言って、思い直したように首を振る。
「――いいえ、もしかしたら家のことなどは関係なく、他に秘密があったのかもしれませんが……」
岸上豪斗の秘密……か。そうだとしたら、彼はいったいどんな秘密を抱えていたというのだろう?
今ではその役目は乃神のものになっているが、以前までは禊屋としての仕事を主に斡旋してくれていたのは豪斗だった。美夜子にとっては仕事仲間の優しいおじさんという印象でしかなかったが、こんなことになるのなら、もっと色々と話を聞いておくべきだったのかもしれないと思う。
美夜子は、切り口を変えてみることにした。
「そういえば……豪斗おじさんの家は燃えちゃったんだよね」
「ええ。二ヶ月前のあの事件で豪斗さんは殺害され、その数時間後には住まいの邸宅が全焼しています。放火の疑いが強いそうですが、犯人は未だ見つかっていません。これはわたくしが留守にしていたときの出来事だったので、織江さんが調べてくれたのでしたね」
織江は軽く頷く。
豪斗の妻は数年前に他界していたのでその火事による死傷者は出なかったが、豪斗の所有物は全て燃えてしまったのだという。豪斗が所持していた遺留品も大した手がかりにはならなかったので、今になって生前の彼の動向を探るのはかなり難しい状況である。
「あの事件の裏で手を引いていた神楽が、何らかの証拠隠滅のために放火を指示したのだろうと思っていましたが……もしかすると、今回の事件への布石でもあったのかもしれませんね」
「豪斗おじさんが殺されたのは、今回の事件にも関係しているってこと?」
「具体的なことはわからないので、当て推量に過ぎませんが……」
たしかに、あり得ることだ。二ヶ月前に殺された岸上豪斗が今回の事件にも関係しているかどうかはまだわからないが、二つの事件に神楽が関わっている以上、ここでの彼の登場は単なる偶然とは思えない。
しかしそうなると……神楽は二ヶ月前の時点で、今回のことまで計画していたのだろうか? 彼女の目的は依然としてわからないが、それだけ入念に準備された計画ならば、突き崩すのは並大抵のことでは不可能だろう。……もっと頑張らなくては。
「あとは……そうですね。ああ、そうそう。戌井千裕氏が殺害された事件について調べるために、ビデオショップへ行ったのでしたね?」
「うん。ただのえっちぃビデオ屋さんで、収穫はなかったけどね。店員さんは一人だけで、千裕さんが殺害された夜のことも全然覚えてないって言うし」
「ええっと、そのお店……なんと言うのでしたっけ?」
「店の名前? 『地下室の夜景』だけど?」
「地下室の……夜景……ああっ! 思い出しました!」
薔薇乃はハッとして、ポンと手を打つ。
「聞き覚えがあるような気がしていたのです。そのお店、普通の店ではありませんよ」
「というと?」
薔薇乃は重大発表をするように言った。
「それはもう、かなり……いかがわしいお店なのです!」
「……いや~、それはもうわかってるんだけど」
「ああ、いえいえそうではなく。エッチなビデオショップというのはあくまで表向きの顔。その店の地下……そこに、本物の『地下室の夜景』があるはずです」
「地下? だって、そんなことあの店員さん一言も……」
「それはそうでしょうとも。その地下に入るには、秘密の合言葉が必要なのです。合言葉を言わない者に対しては、地下の存在など伝えないでしょうね」
「うぅ……まさかそんな仕組みになってたなんて……」
初見殺しもいいところだ。
「……それで、その地下には何があるの?」
「武器屋……ガンショップですね。独自のルートで仕入れた銃火器を取り扱っているそうです。それに、試射用のシューティングレンジも備えてあるとか。地下に作られているのは、防音のためでしょうね」
武器屋! あの地下にそんなものがあったなんて!
「思い出せてよかったです。以前にそういった店があるという報告を受けてはいたのですが、どこの組織とも関わりを持たずひっそりと営業しているということでしたので、そのまま放置していました。その手帳に書かれていたという『地下室の夜景』というのは、そちらの武器屋のほうを指していたのかもしれませんね」
「うぅん……そうなると、もう一回あの店に行ってみる必要がありそうだね。その店の合言葉ってやつ、薔薇乃ちゃんは知ってるの?」
薔薇乃は申し訳なさそうにかぶりを振る。
「残念ながらそこまでは……。しかし、わたくしのほうで伝手を当たればわかるかもしれません。やってみましょう」
「わかった、任せるね」
「ええ、任されました」
薔薇乃は微笑んで頷くと、またコーヒーを一口飲んだ。それから美夜子に向けて言う。
「あなたの方から他に、話しておきたいことなどはありますか?」
「えっと……あ、そうそう!」美夜子は指をパチンと鳴らす。「見てもらいたいものがあるんだった!」
冬吾から話を聞いたときから皆に確認してもらう必要があると思っていたのだが、ここまでもつれ込んでしまった。忘れていたわけではないが、他に調べることが多すぎてつい後回しにしてしまっていたのだ。
美夜子はコートのポケットから千裕の手帳を取りだすと、該当のページを開いてテーブルに広げる。
「これなんだけど……どう思う?」
「……! 禊屋、これ……」
最初に反応したのは、やはり織江だった。ここに書かれてある内容から、彼女と何かしらの関係があることは予測できていた。
そこには、見開き二ページに跨がって奇妙な手書きのメモが残されていた。
桜花 作戦
伏王会 参加メンバー
絶影
カザマ
テラー
蛍火
ナスカ
緋炎
八雲
アートマン
……
それ以降も何かの名称――コードネームと思われる――が十個以上も並んでいる。
「これは……なるほど。まだ大きな謎が残っていたようですね」薔薇乃が言う。「どうしてその手帳にこのリストが……?」
「リスト?」
美夜子が尋ねると薔薇乃は頷いて、
「先ほど織江さんの話でも少し触れていましたが……四年前、ナイツと伏王会は華炎同盟という組織との抗争状態にありました。華炎同盟は、幾つかの小組織の連合体です。その中でも桜花は、華炎同盟の主力部隊であり、Aランク以上の殺し屋のみで構成されているという危険極まりない戦力……敵対する我々ナイツ・伏王会側にとっては、最大の障害でした。その存在は巧妙に隠蔽されていましたが、長きに渡って続けられた調査の結果、我々は桜花のアジトを発見することに成功します。これを桜花を一網打尽にして潰す最大のチャンスと捉え、ナイツと伏王会はそれぞれトップクラスのヒットマンを招集し、共同で作戦を決行しました。作戦名は――『桜流し』。そこに書かれているのは、その作戦の伏王会側の参加者リストだと思われます」
大まかにではあるが、美夜子もその話は聞いたことがある。Sランク及びそれに準ずるレベルの殺し屋も在籍していた桜花に対抗するべく、ナイツと伏王会も同等以上の戦力を集めたという。それはもはやただの抗争ではなく、戦争と呼んだ方がいいような大きな力と力のぶつかり合いだった。その作戦によってナイツ・伏王会側も被害を出したものの、大勢としては勝利。最強の暗殺集団である桜花は、その一日で崩壊したらしい。
美夜子は念のために、もう一度薔薇乃に確認しておく。
「間違いなく、そのリストなの?」
「ええ、最初に書かれている『桜花 作戦』という文言からしても間違いないでしょう。わたくしも当時そのリストは拝見しておりましたし、ここにある名前はその記憶と一致するものばかり――あら?」
薔薇乃は手帳のリストを眺めながら、何かに引っかかったような顔をする。
「そういえば……少し変ですね。たしか伏王会側からは、三人のSランクホルダーが参加していたはずです。《絶零剣(アブソリュート・ソード)》の絶影(ぜつえい)、そしてあなた方が先刻お会いになったという《蒼玉の虎(ビースト・ブルー)》、カザマ……」
もしやと思っていたが、ここにあるカザマというのはやはりあのカザマのことだったようだ。
「その二人の名前はこのメモにもあります。しかし……最後の一人の名前がない。残りは全てAランクのヒットマンです」
「その、三人目のSランクホルダーの名前は?」
「……《無極双奏(エクス・ダブル)》、叢雲」
「――ッ!」
ここでまたしても、その名前が出てくるとは……!
「叢雲はどこの所属でもないフリーランスのヒットマンですから、その時は一時的に伏王会に雇われて仕事をしていたのです」
「織江ちゃんはその時叢雲には……?」
織江は首を横に振る。
「会ってない……と思う。敵としてやり合ってたら印象に残っただろうし。規模のでかい抗争だったからな。多分私とは別の場所にいたんだろう」
そりゃあそうか。織江は叢雲の顔を知らなかったのだから、当時会っていなくて当然だ。
美夜子は再びリストに目線を戻す。
「でも、どうして叢雲の名前だけ書かれてないんだろう?」
薔薇乃も難しい顔をして考え込む。
「……わたくしにもわかりません。この名前の一致具合からして、まったく別のリストと間違えているということはなさそうなのですが……。ただの記入漏れなのか、それとも何らかの意図があってあえて記入していないのか……」
そこへ、織江が疑問を挟む。
「――禊屋、その手帳って、戌井千裕が持っていたものなんだよね?」
「そうだよ」
「そもそも、どうして戌井千裕はそんなリストのメモを手帳に書いてたわけ? 一般人はその作戦のことどころか、桜花も伏王会も存在すら知らないってのが普通だよ? 一体どこからそんな情報を得ていたっていうんだ?」
「うーん……わからないけど、もしかしたら千裕さんは、調べてたのかもしれない」
根拠はないが、そう考えると一応の辻褄は合うような気がする。
「調べていたって……何を?」
「千裕さんは刑事として……ううん、名護さんの友人として叢雲のことを調べていたんじゃないかな。同僚として一緒に過ごすうちに名護さんの裏の顔に感づいて、独自に調査をしていたのかも」
その調査の過程で、千裕は桜花殲滅作戦に叢雲が名を連ねていることを知った。一体どこからリストを入手したのかはわからないが、何かしらの情報網があったのだろう。メモから叢雲の名を抜いたのは、千裕にとっては書くまでもないことだったからだ。……というのはどうだろう?
織江が「ふぅん」と頷いて言う。
「なるほど……戌井千裕は名護修一が殺し屋の叢雲であるということに感づいていた。だが、それを察知した名護が先んじて戌井千裕を殺したってところか。まぁ、名護が友人である戌井千裕を殺した理由の説明にはなってるよな」
「今のところ、ただの推論だけどね。でもそう考えると、手帳に書いてあった別の記述の意味も少しだけど見えてくるんだ。ほら、ここ……」
美夜子は手帳のページをめくって、『Mの件は保留 偽の証拠がない』と書かれた部分を指さす。
「これ、『地下室の夜景』での名護さんとの待ち合わせを記したメモの下に書いてあるよね。とすると、こっちのメモも名護さんに関係があるんじゃないかと思うんだ。んで、名護さんに関係があるMっていったら……」
「叢雲(MURAKUMO)のM、か」
美夜子はパチンと指を鳴らした。
「そーゆうこと! 名護さんが叢雲であるかどうか、結論を出すのを保留しておくって意味なのかもしれない。まぁ、それはそれで後半の『偽の証拠がない』っていうのがよくわかんないんだけどさ……」
そこで一度、会話の流れが途切れた。薔薇乃が言う。
「――では、他のどなたからでも構いません。何か話しておきたいことは?」
しばらく発言がなかったところで薔薇乃は頷いた。
「それでは、この辺りで一時解散ということに致しましょう。皆さんお疲れさまでした。短い時間ではありますが、少しでも身体を休めてください」
というわけで各自、朝まで休憩ということになった。乃神、シープ、織江の順に退室していき、社長室に残ったのは薔薇乃と美夜子の二人。
「……お疲れのようですね」
薔薇乃は既に退室した者のコーヒーカップを片付けながら言う。社長なのだから雑事は部下に任せればよさそうなものだが、薔薇乃は美夜子と二人きりで話すためにあえてそうしたらしかった。
「あたし、疲れてるように見える?」
美夜子はソファに深く身を沈め、背もたれに後頭部を乗せるようにしてぼんやりと天井を見上げていた。
「ええ。これほどまでに切迫した状況は久々のことですから、無理もありませんが……」
「だいじょーぶだいじょーぶ。これくらいへーきだって」
美夜子は明るく笑いながら言って、少し冷めたコーヒーを一口飲む。
百億もの超大金が関わる案件。禊屋として当たる事件としては間違いなく今までで最大のものだ。自分に命を預けてくれた冬吾や、重大なリスクを背負ってでも自分に賭けてくれた薔薇乃の思いに応えるためにも、多少の無理は覚悟の上だった。
「美夜子……」
片付けを終えたらしい薔薇乃が、後ろから神妙な様子で名前を呼ぶので、美夜子は首だけで振り向こうとする。すると、薔薇乃は美夜子の両肩にそっと手を置いて、顔を見下ろしながら微笑んだ。
「一緒にお風呂、入りましょうか」
夕桜支社の地下三階フロアはエレベーターでしか行き来が出来ない上に、一部の者だけが知っている隠しコマンドの入力が必要となっている。そのように行き来を制限する理由はこのフロアが、アリスと呼ばれる少女の居住スペースとなっているからだった。そこに入る権限が認められているのは、薔薇乃が『信頼を置ける』と判断した人物のみである。
アリスには、自分という存在を隠して生きていかなければならないある事情があった。彼女がこの夕桜支社の中で生活をしているのは、美夜子と薔薇乃が相談し合った結果それが一番彼女にとって良いと判断した……という経緯がある。
同フロアには、バスルームが備え付けてあった。アリスがここで生活する上で必須になるからということで後からフロアの一部を改築し設置したものだ。せっかくなのでということで広さは人数にして四人は余裕を持って入れるほど、しかもジャグジー付きという豪華な造りになっている。そのあたりはもちろん、薔薇乃のアイデアだ。仕事で家に帰る暇もない日などは、美夜子や薔薇乃が利用することも多かった。
「はっ……ふぅぅ…………」
浴槽に浸かりながら、美夜子は思わず恍惚とした声を出してしまう。程よい湯加減と噴流するバブルが身体をくすぐるのが気持ち良すぎて、眠ってしまいそうだ。
「やっぱりこのお風呂、さいこ~っ……」
浴槽の中で手を組んで伸びをする。緊張が解きほぐされ、疲れも身体の中から溶け出ていくかのようだ。
「そういえば、あなたとこうして同じお湯に浸かるのも久々ですね」
美夜子の左隣りで、薔薇乃が言う。彼女もまた普段の黒っぽい服飾を脱いで、その下にある白い素肌を露わにしている。二人で風呂に入れたのが嬉しいようで、上機嫌だ。ここに来る途中でアリスも一緒にどうかと誘ったのだが、残念ながら風呂にはもう入ってしまったということで断られた。
「アリスの様子はどうでした?」
薔薇乃が尋ねてくる。
「んー……わりといつも通り? ああ、事件のことは色々訊かれたよ。ついでに頼み事もしちゃったけど」
「そうですか」
「てゆーか、気になるならあたしに聞かないで薔薇乃ちゃんが様子見に行けばいいじゃん」
「わたくしが用事もないのに部屋に行ったらあの子、気味悪がると思いますよ」
「そ、そんなことないでしょー……」
気味悪がるというのは言い過ぎだとしても、実際のところ、薔薇乃とアリスの距離感は微妙であると言えた。仲が悪いというわけではないが、良くもないのだ。
どちらかというとアリスのほうが薔薇乃に対して壁を作っているのが原因のようだが、それはアリスの境遇を考えれば仕方がない部分もあった。薔薇乃もそれは理解していて、無理に打ち解けようとはしていないようだ。
美夜子としては二人がもっと仲良くなってくれれば嬉しいが、双方今の状態でとくに不満もないようなので、期待するのは難しそうだった。
「それにしても……」
薔薇乃が何やら悪戯っぽい笑みを浮かべて、密着するほど身体を寄せてくる。
「少し見ないうちに、また大きくなったのではありませんか?」
そう言うと、美夜子の豊満な胸を手ですくうように持ち上げた。
「えー、そう……かなぁ?」
毎日見ているからか、それほど変わったような気はしない。
「わたくしのこの手の感触が覚えています、間違いありませんとも。ああ、羨ましい……」
ふにふにと美夜子の胸を弄り続ける薔薇乃。
「べつにそんな羨ましがらなくても、薔薇乃ちゃんだって結構……」
薔薇乃の身体つきは細すぎず太すぎずで均整が取れており、足もすらりと長くてスタイルはかなり良いと言えるだろう。胸は美夜子のそれと比べたらやや控えめではあるものの、それでも充分立派な大きさではあるし、形も綺麗だ。
「なにも胸だけのことを言っているのではありませんよ? この二の腕も、お腹も、太ももも、お尻も……こんなに美しい身体をしているのに、とくに運動をしているわけでも、食事に気を遣っているわけでもないあなたが羨ましいのです。そりゃあ、その……わたくしだってそれなりのものだと自負はしておりますけど、仕事中心の不規則な生活でこの身体を維持するのがどれだけ大変か……」
薔薇乃は話しながら、美夜子の身体を両手でまさぐっている。手が美夜子の二の腕から腋を通って、胸と横腹の間をくすぐる。腹の上を滑らせるように指が動き、臍から下腹部、そして太ももの内側をなぞっていく。それと同時にもう片方の手を腰へ回してきたかと思いきや、そのまま尻を撫でてくる。
「んあっ、ちょ……いひっ、いひひひ……くすぐったい! もー! 薔薇乃ちゃん、あちこちさわりすぎ! あとなんか手つきがやらしい!」
「あら、すみません。あなたの身体に触れられるのが楽しくて、つい……。あ、もしよろしければ今度のお休みにでも、じっくりと堪能させてくれると嬉しいのですが……」
「堪能って……」
薔薇乃は妖しさたっぷりに笑う。
「ふふっ……。ええ、一晩かけて朝までじっくりと……というのは、まぁ、冗談ですけど」
「念を押すけど、ほんとーに冗談なんだよね……?」
薔薇乃ちゃんってあたしにはいつも優しくしてくれるけど、たまーに身の危険を感じるんだよね……。
美夜子は「ふぅ」と大きく息を吐く。
「――でも、そんなに羨ましがるようなもんじゃないよこんな身体。ほら、欠陥だってあるし……」
そう言って、美夜子は自分の胸に手を当てる。胸の中心部には、目立つものではないが薄らと傷跡が残っていた。
「美夜子……」
薔薇乃の表情が曇る。
「――すみません。あなたの気持ちも考えず、軽率な発言でした……」
美夜子は慌てて否定するように手を振った。
「あっ、違うの! べつに気を悪くしたとかじゃないんだよ? 今はもう、問題はないわけだし」
「……それでも、あなたが無理の出来ない身体であることは確かです。今回の事件はあなたにとっても大仕事となるでしょうけど……くれぐれもご自愛くださいね」
「えへへ、わかってるって」
心配させないよう笑顔で答えたが、それでも薔薇乃はどこか浮かない顔をしている。
「薔薇乃ちゃん?」
「……いえ、その。ふと……余計なことを考えてしまって」
「……? 何のこと?」
「あ……い、いいえ。べつに、あなたに聞かせるような話では……」
とは言いつつも、薔薇乃の様子は明らかに変だ。いつも気丈で澄ましている彼女が、今はどこか弱々しい。何か、悩みでもあるのだろうか。
……思えば、今まで一緒に過ごしてきて薔薇乃のほうから悩みを相談されるということは殆どなかった――逆はしょっちゅうなのに。もしかしたらこれは、薔薇乃が発した些細なサインなのかもしれない。
美夜子は、うつむく薔薇乃の目を覗き込むようにして言った。
「……あたしに聞かせるような話じゃなかったとしても。薔薇乃ちゃんは、聞いてほしいんじゃないの?」
「えっ……?」
「あれ、違った? そういう風に見えたんだけどなぁ。あーほらほら、せっかく二人きりでしかもお互い裸なんだしさ、隠しごとはナシでいこうよ。何か溜め込んでるなら、話せばスッキリするかもしれないよ?」
「…………」
薔薇乃は尚も迷ったようだったが、少ししてから答えた。
「……そう、ですね。やっぱり、あなたに聞いてもらいたいのかもしれません。こんな時に話すことではないのですが……聞いていただけますか?」
美夜子は黙って頷いた。薔薇乃は一度深呼吸をしてから、話し出す。
「こうしてあなたを頼り、重荷を背負わせざるを得ない状況になって……三年前のことを思い出していました。あの時も、同じでしたから……」
三年前……。薔薇乃は、黒山羊の事件のことを言っているのだ。美夜子にとって、そして薔薇乃にとっても運命の大きな転換点となったあの事件のことを。
「わたくしは三年前、あなたを組織に引き入れることを決めました。しかし……正直に言って今でも、あの選択が正しかったかどうかわからない。自信がないのです」
「そんなの……薔薇乃ちゃんが気にすることないのに。だってあの時は、あたしが無理言って――」
「いいえ。その無理な願いをはねつけることだって出来たのに、あえて聞き入れたのはわたくしです。そもそも、あの事件のきっかけを作ってしまったのだって……ですから、あなたをこの世界に引き入れた責任はわたくしにあるのです。あの時は、それがあなたにとって必要なことだと思った。でも、その結果として過酷で不幸な運命をあなたに歩ませてしまっているのも事実……。優しすぎるあなたが、こんな世界に向いていないなどということは初めからわかりきっていたのに」
薔薇乃の声は段々と熱を帯びていく。それまで彼女の内に封じ込められていた感情が、堰を切ったように溢れ出していた。
「美夜子……あなたは、わたくしが真に心を許せる数少ない……そして大切な友人。わたくしは人の道から外れた根っからの悪党ですが、好きな人の幸せを心から願いたいという感情くらいはあります。その好きな人には、もちろんあなたも含まれる。ですが……わたくしのせいであなたの運命が歪められてしまったのなら、そんな願いを持つこと自体おこがましい。むしろ、最初から……岸上薔薇乃が志野美夜子と出会ってしまったこと、それ自体が間違いだったのではないか――……時折、そんなことまで考えてしまうのです。わたくしと出会ってさえいなければ、あなたがあの事件と関わることだってなかったはずだと……」
「薔薇乃ちゃん……」
薔薇乃は深くため息をつくと、僅かに苦笑を浮かべて言った。
「……まさかこんな話、あなたに直接することになるとは思ってもみませんでした。突然こんなことを聞かされて、困りましたよね。……わかってはいるのです。今さらこんなことを言って、勝手にもほどがあると。すみません……本当に、すみません」
そう言って薔薇乃は、片手で自らの顔を覆う。
「この際ですから、あなたも好きにおっしゃってください。どんな恨み言だって、受け止める覚悟は出来ましたから」
美夜子は少し考えてから、
「うーん…………あのね、薔薇乃ちゃん。そんなこと言えって言われたって無理だよ」
「……ああ、そうですね。これではわたくしが言わせているだけ……あなたの気持ちが晴れるはずもありません」
「あ、違う違う。そーじゃなくてさ。まず前提がおかしいっていうか……あたしは薔薇乃ちゃんを恨んだことなんて一度もないから無理だって言ってるの」
薔薇乃は虚を突かれたような表情で美夜子を見る。
「一度も……ただの一度も、わたくしのことを恨んだことはなかったと言うのですか?」
「だって恨みようがないよ。薔薇乃ちゃんは、いつだってあたしの味方をしてくれたもん」
「でも、わたくしのせいであなたは……」
「んもー! だからさぁ、違うんだって!」
「なっ……!?」
薔薇乃は唖然とする。普段の薔薇乃ならあり得ないほどに物わかりが悪いので、つい語気が荒くなってしまった。
「薔薇乃ちゃんさ、難しく考えすぎなんだよ。あたしがあの事件に関わることになったのも、ナイツに入って苦労する羽目になったのも、薔薇乃ちゃんのせいなんかじゃない! あたしがそう思ってるんだから、それはもうそういうことでいーの! ね? これ以上ぐだぐだ言うなら、薔薇乃ちゃんのことほんとに嫌いになっちゃうよ?」
「あぅ……そ、それは……いやです、とても……」
しゅんとする薔薇乃。美夜子はその様子を見て小さく笑うと、薔薇乃を両手でそっと抱きしめた。
「……話してくれてありがとう。薔薇乃ちゃんの本当の気持ちが聞けて嬉しいよ」
薔薇乃の耳元に向けて、小声で話す。
「あたしの人生には今まで沢山の間違いがあったけど……薔薇乃ちゃんと出会ったことが間違いだったなんてこれっぽっちも思わないよ。それにあの時、ナイツに入るって選んだことも……正しかったかどうかはあたしにもわからないけど……とにかくあたしは、後悔してない。あの時だって薔薇乃ちゃんは、あたしが望んだ道をひらいてくれた。それだけじゃないよ。他にもいっぱい感謝したいことはあって……うぅん……えっと……だからつまり、何が言いたいかというとね?」
美夜子はやや照れたように笑いつつ言った。
「――岸上薔薇乃は、あたしのサイコーの親友だってこと」
「……っ! …………すみません、ちょっと」
薔薇乃は微かに震える声でそう言ったかと思うと、抱きしめる美夜子の手をどけて少し離れた。すると、彼女はいきなり水面に顔を浸けて、そのまま沈み込んでしまう。
「えっ……えええっ!? いきなりなにっ!?」
脈絡のない薔薇乃の行動に、美夜子は当然驚く。薔薇乃は無反応のままブクブクと泡を立てて、湯の中に頭を沈めている。十秒ほど経ってから薔薇乃はようやく水面から顔を上げ、「ふぅ」と息をついた。乱れた髪を整えながら彼女が言う。
「……失礼しました。嬉しさのあまりとんでもない顔をしそうになってしまったので、緊急避難を」
「あ、ああ……そ、そうですか」
突然の奇行には驚かされたが、薔薇乃はもう元の調子を取り戻したようだった。
「では、もう一度――」
改めて、といった感じで今度は薔薇乃のほうから美夜子を抱きしめる。その抱擁は力強くて、美夜子は少し苦しく感じるほどだった。
「ありがとう、美夜子。先ほどのあなたの言葉、一生忘れません。だからどうか……もう少しだけ、このままでいさせてください。この幸せを、胸に刻みつけておくために……」
風呂から上がり、ジャージに着替えて髪を乾かすと、美夜子は薔薇乃と一度別れる。薔薇乃は最後に改めて、調査に関して出来うる限りのサポートをしてくれることを約束してくれた。
美夜子はそのまま、同じフロアにあるアリスの部屋に足を運んだ。ドアをノックして呼びかけると、すぐに返事があった。
部屋に入ると、デスクトップパソコンと向き合っていたアリスが回転椅子を動かしてこちらを見る。
「あっ、お姉ちゃん! お風呂もう上がったのね」
アリスは、年齢十四の細身で小柄な女の子だ。その綺麗に整ったブロンドヘアーと透き通るような蒼い瞳は、ヘアカラーやコンタクトを用いたものではない。
アリスは美夜子のことを実の姉のように慕っている。二人が出会ったのは、これも三年前の黒山羊事件がきっかけだった。それ以来、アリスは夕桜支社で身を隠すように生活をしているが、もちろん好き勝手やりたい放題にしていいというわけではなく、一定のルールは存在する。
夕桜支社内ではアリスの行動はとくに制限されてはいないが、外出に関しては特別な事情がない限り認められていないというのがまず一つ。二つ目は、要請があれば可能な範囲で夕桜支社の仕事を手伝うということ。アリスはこの歳にして専門家にも引けを取らないほどコンピューターを熟知しており、ハッキング――あるいはクラッキング――の巧者であった。これまで美夜子が関わった案件の数々の中にも、アリスの技術と知識が役に立てられた場面は何度もあった。
「頼まれてた映像のチェック、終わってるよ」
アリスには前もって、ニムロッドから送られていた監視カメラのデータをチェックするよう頼んでおいた。修道院本館の内部の天井から、ゲートと呼ばれる入り口を撮った映像――その事件前後の時間帯の記録である。
「ありがとー、アリス……おっと」
駆け寄りそうになったのをぎりぎりで踏みとどまる。いつものことながら、アリスの部屋は本やらCDやらゲームのパッケージやらで大変散らかっていた。足の踏み場を探すのも一苦労だ。お片付け出来ない系女子なのは美夜子も同じであるから――さすがにここまでひどくはないが――、人に注意できる身分ではない。
間違って物を踏まないように気をつけながら、美夜子はアリスの場所まで近づいていく。前に一度、無造作に床に置かれていた携帯ゲーム機を踏んづけて壊してしまって泣かれたことがあるから、ここは慎重だ。
「それで……よっと、ほっと……どんな感じ?」
「んー……先にお姉ちゃんから聞いてた話の通りねー。名護修一が本館を出ていく様子が五時頃――四時五十八分に映ってるよ。それで、礼拝堂で死体が見つかったのが六時過ぎだったよね。その約一時間の間に本館から外へ出て行った人は、神楽とその付き添いのナツメって人だけ。二人が出て行ったのは六時二分。その後警備員の二人、それに礼拝堂の管理人と一緒に死体を発見してるから、神楽とナツメは名護修一を殺害した犯人ではあり得ない……」
警備員のアベルとランスも、その時間に本館から出てきた人物はいないと証言している。そこまでは事実の再確認だ。
アリスは本館を出て行く際の名護の映像を見せてくれたが、名護はカメラの手前側から現れてまっすぐゲートへ向かっていき、そのままゲートルーム――美夜子が身体検査を受けた小部屋――に入っていく。とくにおかしな動きはない。服装なども遺体の写真に写っていたのと同じスーツ姿だ。
「ナツメが出て行くときに、扉のスイッチを弄ったんだったよね? たしかにその後、ゲートの前に人が集まってるわ」
そう言って、アリスは映像をその頃のものに切り替えてくれる。ナツメの悪戯によってゲートが強制ロックモードに切り替わってしまったため、本館から出ることも、逆に本館へ入ることも出来なくなっていたのだ。
カメラの映像には、会合に参加していた両組織の幹部らしき人物が数人、ゲートの前で立ち往生している様子が映っている。しばらく経って六時五分、ニムロッドの姿が現れ、ゲート横のパネルに何かを入力している。強制ロックモードを解除するためにパスワードを入力したのだろう。
話に聞いていたとおり、それから十五分ほどのインターバルを経てゲートは開かれた。真っ先に外から入ってきたのは、冬吾とランスだった。ランスは冬吾を引っ立てるように胸ぐらを掴んでニムロッドの前まで連れて行き、何やら話し込んでいる。冬吾は事件のショックですっかり打ちひしがれているのか、ずっとうつむいたままだった。
「……オーケー、もういいよアリス」
「うん……」
アリスは映像を切ると、どこか言い辛そうな様子で美夜子へ言った。
「ねぇ、お姉ちゃん……」
「ん? なぁに?」
「……ううん、やっぱ今はいいや」
誤魔化すように笑って言うと、話題をまた監視カメラに戻す。
「そういえば、ちょっと気になることあったんだ。今の映像であいつを連れて外から入ってきたのって、現場で死体を見つけた警備員の人よね?」
「そうだよ。ランスって人」
「その人、四時半頃にも一度本館の中に入ってるわ」
「えっ? それ、ほんと?」
「ちょっと待ってね……」
アリスはパソコンを操作して、また別の映像を出してくれる。記録されている時間は、午後四時三十分。たしかに、ランスが一人でゲートを開けて本館内へ入ってくる様子がカメラに撮られていた。すぐにカメラの視界外に消えてしまったため、何のために本館に入ったのかは映像中からはわからない。
「それからちょうど十分後に出てきてるの」
アリスが映像をそこまで飛ばす。四時四十分、ランスがゲートを開けて再び外に出て行く。
「どこに行ってたんだろう……?」
美夜子は呟いてから、考える。ニムロッドの話では、ランスとアベルが警備を担当する時間は午後二時から十時の間だった。その最中に持ち場を離れる理由が何かあったのだろうか。
名護修一が殺害されたのは五時から六時の間に限定されているから、四時三十分のランスの行動が犯行に関係している可能性は低そうだが……一応、何のために本館へ入ったのか本人から聞いてみる必要がありそうだ。
アリスが言う。
「私が記録を一通り確認して気になったのはここくらいだけど……他に見たいところある? それとも、何か別のこと調べてみよっか?」
カメラの映像から得られる情報はこんなところだろう。今のうちに調べておきたいこと……他になにかないだろうか?
「――そうだ、アリス。渡久地友禅って人について、ちょっと情報探してみてくれる?」
「誰それ?」
「遺体が発見される直前まで、礼拝堂の管理人と一緒に修道院の別館にいた人。月光の会とかいう財団の代表と会長をしているらしいんだけど……もしかしたら話を聞くことになるかもしれないし、どういう人なのか知っておいた方がいいかなって」
「ふーん……」
アリスはまず検索エンジンに『渡久地友禅』と打ち込みネット検索をかける。上位にヒットしたサイトや記事を幾つか読んでみると、次のようなことがわかった。
渡久地友禅は三十代から政治活動を始め、衆議院議員を務めたこともある元政治家であるが、現在は社会奉仕活動家として世間に知られている。政治家時代に株式相場で財を成した渡久地は、五十二歳で政界を退いて財団『月光の会』を設立。以降は財団を通して船舶・造船事業の振興、公益インフラ整備支援、災害復興支援、福祉・国際援助活動など様々な慈善事業を手がけてきたようだ。
御年七十二歳、お金持ちで慈善家のお爺さん――というのが表向きの顔だが、一方で、後ろ暗い組織との繋がりを指摘する声もあるようだ。といっても、こちらは憶測の域を出ていないものばかり。だが、先ほどの乃神や薔薇乃の説明の通りなら、実際に渡久地は裏社会でも大きな権力を握っていることになる。
月光の会の公式ホームページには、会長である渡久地の写真が掲載されていた。財団設立当時に撮られたものらしいので、二十年も前の写真だ。彫りの深い縄文人系の顔立ちと言えるだろう。当時の渡久地は五十前半のはずだが眼はぎらついており、活力に溢れているという印象。体格は太すぎず細すぎず、血色もよく歳の割に健康的だ。最近の写真はないのかと探してみたが、検索でヒットするのは政治家時代あるいは財団設立から数年以内の画像ばかりだった。
「月光の会……会長で……代表、か」
美夜子がパソコンの画面を見ながら呟く。
「どうかしたの、お姉ちゃん?」
「うん、実はちょっと気になってることがあって。一昨日のことはアリスにももう話したけど、覚えてる?」
「一昨日って、灰羽根旅団の事件のことだよね? 覚えてるよ。それがどうかしたの?」
「灰羽根旅団は誰かから頼まれてあたしとノラを殺そうとしてた。灰羽根旅団のボスである灰鷹(はいたか)は、その依頼主のことを『代表』と呼んでいたの」
「あっ……じゃあ、その代表って渡久地友禅のことかもしれないのね?」
美夜子は悩むように首を捻る。
「う~ん。たしかに代表と呼ばれる存在ではあるし、灰羽根旅団を操れるほどの力も持っていると考えられるけど……流石にそれだけじゃ疑うには弱いかな」
『代表』は美夜子よりもむしろ冬吾を殺すことの方が目的のようだった。つまり『代表』は、何か理由があって冬吾を殺したかったのだ。そこから考えてみても、渡久地と冬吾に何らかの接点があるとは思えない。
――それはそれとして、渡久地の顔を見ていると一つ気になることがあった。
「うーん……やっぱ似てるよなぁ」
「似てるって、何が?」
アリスが不思議そうにして尋ねてくる。
「いや、ほら。渡久地友禅と殺された名護さん……顔つきが似てない?」
「え……そぉかしら……?」
「似てるって。ほら、えっと……雰囲気とか!」
事前にアリスに資料として渡していたラフレシアで撮影された写真を指して言う。アリスは同意しかねるといった感じで首を捻りつつ、
「えー……うぅん……微妙じゃない?」
「むぅ……そーぉ?」
まぁ、なんとなくそんな気がしたというだけなのだが……。
アリスがふと思い出したように言う。
「――あ、そうそう。例のハッキングの件だけどね。調べてみたけど外部から侵入された形跡はナシ」
凶鳥の襲撃で、敵に居場所を知られていたのは支社のコンピューターでこちらの位置情報をハッキングされていたからではないか――それを確認しておくために、アリスに調べてもらっていたのだ。
「そっか。じゃあやっぱり、相手はあの発信機でこっちの居場所を特定してたんだね」
「これだね」
そう言ってアリスは机に置いていた発信機を手に取る。発信機だけでは手がかりにはならないと思いながらも、一応アリスにも確かめてもらっていたのだ。
「リアルタイムで位置情報を取得するタイプのGPS発信機だね。市販されてるやつだったから、調べたらすぐにわかったよ。ただ、そこから相手側の情報を探ることは出来ないと思う」
「やっぱそうかー。ま、それは仕方ないとして……気になるんだよねぇ……」
「何が?」
「車に発信機を仕掛ける余裕があったのなら、爆弾で車ごとあたしたちを吹っ飛ばすことだって出来たはずなんだよ。どうしてそれをしなかったのかなぁ……って。いやまぁ、それをされてたらあたしたち死んでたから、そこは良かったんだけどさ……」
もしそうしておけば、わざわざ殺し屋を直接向かわせる必要もなかったわけだ。敵側としては安全かつ確実に美夜子たちを葬ることが出来たはず。名護修一の自宅のほうは派手に爆破しておきながら、今さら爆弾を使えない理由でもあったのだろうか?
「街中で爆弾なんか使って殺したら、流石に大騒ぎになっちゃうんじゃない? 一日で二件も爆発事件が起こったら警察もスルー出来ないだろうし、相手はそれを嫌がったのかも。そうじゃなければ、単に爆弾より小さな発信機を付けるほうが簡単だったからとか? 車ごと吹っ飛ばすなら爆弾もある程度の大きさが必要で、設置にも手間取るかもしれないし」
「うぅん、それもそうか……」
まだ微妙に引っかかる気はするが、アリスの言うとおりである可能性は高いように思われた。
「じゃあ、えっと……他に調べたいことはあるかしら?」
「んー……うん。もういいよアリス。ありがとう。あたしもちょっと疲れちゃったし、そろそろ休もうかな」
「わかった。……お姉ちゃん、今日はどこで休むつもりなの?」
「薔薇乃ちゃんが泊まるときに使ってる部屋を貸してくれるって」
「そう……」
アリスは少し残念そうな顔をする。そしてやや躊躇った後、思い切ったように言った。
「……あのさ、最後に一つ訊いていい?」
「ん、いいけど?」
「お姉ちゃんは、あいつのことを一生懸命になって助けようとしてるのよね」
「……? そうだよ?」
アリスは冬吾のことをいつも「あいつ」だの「アレ」だの「あのアホ」だのと呼ぶ。なぜだかわからないが、アリスは最初に出会ったときから彼のことを嫌っているようだった。
「お姉ちゃんがあいつを助けようとするのは、どうして?」
「どうしてって……そりゃあ、あたしにとって大切な相棒だから……」
「それだけなの?」
「それだけって……? うぅん……何が言いたいのかわかんないよ、アリス?」
「はぁ……」
アリスはため息をつく。そして、意を決したように次の質問を美夜子へ投げかけた。
「単刀直入に聞くけど……あいつのこと好きなの?」
「へっ……?」
美夜子は一瞬硬直してしまったが、すぐ取り繕うように言う。
「あっ……あはは。なにぃ~急に? そりゃまぁ、好きか嫌いかで言ったら好きだけどさ~」
「違う、そういう好き嫌いじゃなくて! お姉ちゃんはあいつに……その、恋してるのかって聞いてるのよ!」
「わ、わーお……よくそんな小っ恥ずかしいこと大声で言えるね……」
「もちろん恥ずかしいわ……でも、大事なことだからはっきりさせておきたいの……」
「アリス……」
この真剣な態度……冗談で受け流すのはどうにも難しいようだ。美夜子は少し間を置いてから、かぶりを振りつつ言った。
「……好きになる資格なんてないよ」
「資格?」
「自分の意思でこの世界に入ったあたしと、単に巻き込まれただけのノラとでは絶対的な隔たりがあるの。ノラの場合、きっかけさえあれば今からでも組織から足抜けして一般人に戻るべき。彼だってそう思っているし、それはあたしの願いでもある。それなのに、あたしなんかがノラのこと好きになっちゃったら、向こうの迷惑になるだけじゃん。そんな恋、不幸だし不毛だし不要だよ」
「…………」
アリスはしばらく黙って美夜子を見つめてから、難しい顔をして言う。
「うーん……あのさぁ、お姉ちゃん?」
「うん?」
「なんかそれっぽいこと言って誤魔化そうとしてるみたいだけど、結局、あいつのこと好きかどうかって質問には答えてないわよね?」
「ウッ……!」
しまった、完全に見抜かれていた!
アリスは美夜子の顔を見てふっと笑うと、
「……でももういいわ。この辺で勘弁してあげる」
か、勘弁されてしまった……。
しかし美夜子は内心ほっとする。
「あのね、お姉ちゃん……一つだけ約束してほしいんだ」
アリスは少し不安そうなぎこちない笑みを浮かべて、美夜子を上目遣いに見る。
「もしもこの先、お姉ちゃんが誰かを好きになるときがきたら……私も応援するから。だから……私のこともたまには思い出してね」
「え……?」
「パパやママ以外で私にこんなに優しくしてくれた人……お姉ちゃんが初めてだった。私の家族はもういないけど、お姉ちゃんのことはパパとママと同じくらい好きだし、大切に思ってるの。だから……だからね? 私のこと放って、どこか遠いところに行ったりしないで」
アリスの両眼は涙で潤み、震えていた。
そうか……アリスはきっと、以前のようにまた一人になるのが怖かったのだ。美夜子にとって三年前のあの日が未だ過去のものにはなっていないように、アリスの味わったその孤独は今も尾を引いている。
――もっと早くに気がついてあげればよかった。それなら、こんな心配をさせることもなかっただろうに。
美夜子はアリスの小さい肩を優しく抱きしめる。
「そんなことするわけないじゃん……! あたしだって、アリスのこと家族みたいに……本当の妹みたいに思ってるよ。約束する! これから先、何があってもアリスのこと置き去りになんかしたりしないよ」
「っ……! うん……!」
美夜子はアリスの頭を撫でてやりながら言う。
「……今日は一緒に寝よっか?」
「いいの!?」
「いいよー。また上まで移動するのも面倒だったしね」
奥の方にあるアリスの寝室のベッドは大きいから、美夜子一人分くらいなら充分余裕があった。
「――それじゃ、休む前にもう一つだけ仕事させてね。すぐ終わるから、アリスは先に寝室のほうに行ってていいよ」
「ううん。ここで待っとく……」
ああもう、ほんとにかわいすぎる! あと五分ばかり抱きしめていたがったが、それだといつまで経っても休むことは出来そうにない。美夜子はなんとか未練を断ち切って、最後にアリスの頭をくしゃりと撫でてから、予め部屋に持ち込んでいた鞄から事件の調査ファイルを取り出す。
次の調査で調べておくべきこと、事件について気になることなど、ファイル中の該当箇所にペンで印をつけておく。こんなメモをするまでもなく記憶しておくことはできるが、こうしたほうが問題点を意識しておきやすいのだ。
ファイルにチェックを付け終えると、次は鞄から千裕の手帳を取り出す。移動中の車内で中身は一通り確認済みだが、念のためにもう少し目を通しておきたい。
美夜子は適当にページを開きかけると、うっかり手を滑らせて手帳を床に落としてしまう。
「おっと、いけないいけない――あれ?」
床に落とした衝撃で、手帳のカバーが外れかけていた。そのカバーの内側から、なにか小さな白い紙がはみ出ている。カバーは手帳の表紙を差し込んで取り付けるようになっている。この紙は、その差込口の中に入れてあったのだろう。わざわざそんなところまで調べようとはしなかったから、今初めて気がついた。
美夜子はその白い紙を手に取ってみる。四センチ角程度の小さな紙を二つに折り畳んだものだ。開いてみると、そこには鉛筆で書かれたらしい文字でこうあった。
『ありがとうございました。おじさんのことは絶対忘れません』
子供の字だ――直感的にそう思った。汚くはないし丁寧な字だが、字の大きさや傾き具合に安定しきっていないところが見える。もちろん大人でもそういう字を書く人は沢山いるから、書いたのが子供だと断定は出来ないが……。
紙はオーソドックスな便せんの一部を切り取ったものらしいが、その表面や切り口の質感からして、この短い手紙が書かれてからそれなりの時間が経っていると推測できる。その「それなり」が、五年程度なのか十年程度なのかまではわからない――が、これが戌井千裕に宛てて書かれたものであるのなら、彼が死んだ四年前よりも以前に書かれたものであることは間違いないはずだ。
どこかの誰かによる、千裕への短い感謝の言葉を綴った手紙……。千裕は刑事だったから、事件で関わった子供から感謝を受けるようなことがあったのかもしれない。千裕はその手紙を嬉しく思って、こうして保管していたのだろう。
「お姉ちゃん、それなに?」
アリスが尋ねてくる。美夜子は軽く首を横に振って、
「ううん、大したことじゃないよ……っとと……」
床の手帳を拾い上げようともう一度屈んだところで、美夜子は軽い目眩を覚えた。少しふらついてしまったが、アリスは気がつかなかったようだ。
いけない……この感じは、思っていたより疲れが溜まっている。手帳の確認は起きてからやることにして、早く休もう。
美夜子は何でもないように装って、アリスに笑いかけた。
「――それじゃ、ベッドへ向かいましょうか。お嬢さん?」
眠れる時間はそう長くはないが、今は少しでも身体を休めておかねば。今日はきっと――探偵禊屋にとって、これまでで一番の大勝負になるのだから。
「――う……うぅん……」
暖かいベッドの中、目覚まし時計の鳴る音でアリスは目を覚ました。ヘッドボードの上の目覚ましを乱暴に叩いてアラームを止める。
充分な睡眠時間とは言えないが、久々に熟睡できた気がする。きっと隣で美夜子が寝てくれているという安心感のおかげだろう。出来ることなら、毎日がこうであればいいのに。
隣を見ると、美夜子は横向きに寝ていてアリスに背を向けた状態だった。
「お姉ちゃん、もう時間だよ。起きないと」
背中越しに声をかけるが、美夜子の反応はない。アリスはクスッと笑ってから、美夜子の肩を軽く揺する。
「もー、お寝坊さん。さっさと起きないと、バラノに怒られちゃうわよー?」
しかしそれでも、美夜子は起きる気配を見せない。
「……お姉ちゃん?」
さすがに様子がおかしいと思い、アリスは上から美夜子の顔を覗き込む。アリスはその瞬間、恐怖にも似た驚きに襲われた。
「え、あ……た、大変……っ!」
美夜子の顔は赤く火照っており、大量の汗が浮かんでいる。呼吸も荒く、一見しただけで体調に異常を来していることがわかった。
アリスが美夜子の額に手で触れると、そこで美夜子はようやく気がついたようだった。薄く目を開けると、アリスに向かって弱々しく微笑む。
「あ……アリス……。おはよ……」
アリスはとても「おはよう」などと呑気に返せる心境ではなかった。
「そんなこと言ってる場合じゃないわ……! お姉ちゃん……すごい熱よ……!」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる