裏稼業探偵

アルキメ

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case8 女神の断罪

8 再び修道院へ

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「……本当に、行くつもりなのですか?」

 社長室。ソファに座る美夜子に向かって、薔薇乃は立ったまま話しかけていた。

 美夜子はやや怠そうにしながらも、頷く。

「うん……。あたしが行かないと、意味ないし」
「無茶です……! そんな身体で外を出歩いたらそれだけでも倒れかねないというのに、ましてや調査だなんて……」

 全身の怠さ、発熱、頭痛……重い風邪の症状だった。元から美夜子は疲れると体調を崩しやすかったのでそれ自体はさほど珍しいことでもなかったが、今この時に限っては最悪のタイミングとしか言いようがない。

「大丈夫だって薔薇乃ちゃん。薬だって飲んだし、全然動けるよ?」

 美夜子は両腕をぐいっと上げてみせる。薔薇乃はゆっくり首を横に振って、

「……あんな市販の風邪薬の効果など、たかが知れています。やはり病院に行くべきです……それが嫌ならせめて、こちらで医者の手配が済むまでお待ちください」
「そんな時間ないよ。今は審問会に向けて、少しでも事件の手がかりを集めないと」
「それで……それであなたが倒れてしまったら、何の意味もありません!」

 薔薇乃が語気を強める。

「やはり事件の調査は他の者に任せましょう。審問会の始まる時間までしっかり休めば、少しは体調も回復するかもしれません。また凶鳥が現れるかもしれないということも考えると、やはりそれが一番堅実で――」
「嫌だ」

 美夜子ははっきりと薔薇乃の提案を拒絶する。

「今ここであたしに出来ることを全部やらないで、もしも負けたりしたら……後悔してもしきれないよ。――もちろん、あたしも限界越えて倒れたりしないように気をつけるからさ。だからお願い、薔薇乃ちゃん……」

 薔薇乃は悩んだ末に、ため息をつきつつも了承した。

「わかりました……。ただし、体調的に少しでもキツいと感じた場合はすぐに戻ってくるのですよ? ――織江さんも乃神さんも、よろしくお願いします。この子が意地を張るようなら、無理やりにでも引っ張ってきてください」

 後ろの方で話を聞いていた織江と乃神がそれぞれ頷く。同行するメンバーは昨日と同じだが、その中でシープだけがこの場にいないのは、車の用意をしておくために先に地下駐車場へ向かっているからだ。

「それと……これは約束の、『地下室の夜景』の合言葉です」

 そう言って、薔薇乃は二つに折り畳んだメモ用紙を美夜子に手渡す。

「合言葉は定期的に変更されているようなのですが、伝手を当たって今使われているものを入手しておきました。これを店員に伝えれば、地下の武器屋に案内してくれるはずです」
「ありがとう、薔薇乃ちゃん」

 流石、薔薇乃の情報網は頼りになる。メモを受け取って、コートのポケットに入れた。

「出来ることならわたくしも同行して協力したいのですが、支社長として他にすることもある以上、ここを離れられません。どうか、くれぐれもお気をつけて……」
「うん。任せといて」

 美夜子は次に、部屋の隅にいたアリスのほうを向く。アリスは、美夜子が地下の部屋からこの社長室まで移動するのを薔薇乃と一緒に手伝ってくれたのだった。

「じゃあ行ってくるね、アリス」
「…………うん」

 アリスは複雑そうな表情を浮かべていたが、頷いてくれた。薔薇乃にアリス、二人とも自分のことを心配してくれている気持ちが痛いほど伝わってくる。だが、多少無理してでも今回の仕事はやり遂げなければならないのだ。

 美夜子が部屋を出ようとしたところで、薔薇乃が呼びかけた。

「織江さん。最後に少しだけ確認しておきたいことがあるのですが……」
「えっ、私?」

 乃神と一緒に部屋を出て行きかけていた織江が、少し驚いたように足を止める。

「すみません。他の皆さんはお先にどうぞ」

 薔薇乃は手を出口の方へ向ける。二人きりで話がしたいということなのだろう。

「では先に行ってるぞ、静谷」
「あ、はい……」

 乃神が先に部屋を出ていく。美夜子とアリスもそれに続いた。




 織江にはなぜ自分が呼び止められたのか、心当たりがない。必要なことは既に話したと思うのだが……。それとも禊屋のことでまだ何かあるのか?

 それにしても、禊屋も無茶をする。人の痛みには人一倍敏感なくせに、自分の命を危険に晒すことを躊躇しない……。三年前――禊屋がまだ普通の女子高生だった頃からそういう一面はあったが、今はもっと悪化しているように思えた。取り返しの付かないようなことにならなければ良いのだが……いや、そうさせないのも自分の役目の内か。

「で――社長、確認っていうのは?」

 美夜子たちが部屋から遠のくのを待ってから、薔薇乃は神妙な様子で織江に言った。

「織江さん。数時間前にあなたは約束してくれましたね。凶鳥がまた現れたら、その時は殺す覚悟があると」
「……はい。それが何か?」
「あなたは幼少の頃から桜花の施設で育てられた…………もしかすると、凶鳥もそうなのでしょうか?」
「……ええ、まぁ」

 桜花は世間から隔絶された山深い場所に施設を保有しており、そこでは各所から集められた身寄りのない子供が暗殺者として養成されていた。その養成所では単なる殺しの技術の訓練だけではなく、暗殺者としてのメンタルトレーニング、社会に溶け込むための一般常識教育なども施される。その過程で規定の基準に達せなかった者は、容赦なく間引かれていくという過酷な環境だった。

 先刻は敢えて話さなかったが、自分と凶鳥は同じ養成所で育った――もとい共に生き抜いた仲だ。

「なるほど……では、凶鳥は単なる仲間ではなかったということですね。同じ環境のもとで育った、家族にも近い存在……だったのではありませんか?」
「……そんなこと聞いて、何の意味があるんです?」

 織江は煩わしさを隠しきれずに言った。こんな風に訊かれるのが嫌だったから、詳しくは話さないでいたのだ。これから殺すことになるであろう相手のことを今さら思い出すなんて、無意味だ。殺す相手を選ぶことなんて出来ないのだから、そこに感情は必要ない……邪魔でしかない。

「すみません。あなたが気分を害するかもしれないとは思ったのですが……わたくしはそれを知っておきたかったのです。あなたの決意の、その重さを」

 薔薇乃は織江の右手を取って、両手で包むように握る。

「あなたとももう数年の付き合いになりますから、わたくしはよく知っていますよ。あなたは強い人です。腕は立つし、任務のためなら非情になれる。かつて殺し屋として育てられたあなたにとっては、それは当然のことなのかもしれません。……でも、その強く硬い鎧の内には繊細な部分があるということも、わたくしは理解しているつもりです。わたくしはそういう部分も含めてあなたの美しさだと思っていますが……だからこそ、かつての仲間を殺すという選択は、あなたを大いに苦しめたでしょうね」
「社長……」
「それをわかっていながらこんな仕事を頼むことが、どれだけ残酷な行為であるかは理解しています。……恨んでくださっても構いません。それでも、この仕事はあなた以外には頼めない。ですから、今一度問い直すような真似は致しません。……美夜子を任せました」

 織江は無言で頷いた。

 今さら凶鳥の記憶を掘り起こされるのは苦痛でしかないと思っていた。実際、禊屋からその名前を久々に聞いたときから今までずっと、心がざわつきっぱなしだ。何度も何度も気持ちを静めようと試みたが、まるで上手くいかなかった。

 ただ、不思議と今はほんの少しだが気が楽になったように感じる。薔薇乃はその為にこんな話を……?

「――余計な時間を取らせてしまいましたね。さぁ、もう行って構いませんよ。これだけ伝えておきたかっただけですから」
「……はい」

 織江は部屋の出口へ向かいかけて――足を止める。

「――あー、社長? ……その、こんなこと言うのはちょっと気恥ずかしいんですけど……」
「なんでしょう?」

 織江は振り返ってから少し躊躇うが――思い切って言葉を伝える。

「私……ここのことは居心地良いと感じてるよ。『あの時』はどうなることかと思ったけど、あんたに付いたのは正解だった。……今のところは、そう思ってる」
「……それは良かった。わたくしも嬉しく思います」
「そういうわけだからさ、私も今回は気合い入れるよ。居心地の良い場所、失うわけにはいかないからな」

 薔薇乃はゆっくりと頷いた。織江は、照れを隠して笑う。

「――なんて、無礼な口の利き方してしまってすいません。ついあの頃と同じ感じになっちゃって……」
「べつに気にする必要ありませんのに。美夜子だってあんな風ですよ?」
「禊屋は特別なんでいいとしても、私まであんな感じじゃ支社長としての示しがつきませんって」
「それもそうですね」

 薔薇乃はクスッと笑い――それから、思いついたように言った。

「そうだ……全て片付いたら、久しぶりに飲みにでも行きます?」
「はい、ぜひ。――私は弱いんであんま飲めませんけどね」






 美夜子はエレベーターでアリスと別れ、乃神と一緒にビルの地下一階にある駐車場へと向かっていた。

 なるべく出入りが人目につかないように、支社の正面入り口は外から細い階段を下った先の地下一階に設置してある。その隣りに支社メンバー専用の駐車場があるのだ。その先は、ビルの隣りに建っている立体駐車場に繋がっている。こちらはナイツが偽の名義で管理しているものであり、誰でも利用可能な駐車場だが、ナイツメンバーの認証を行うことで奥に設置されたシャッターが開いてビル地下の駐車場との行き来が可能になるのだ。これは世間からのカモフラージュのためというのもあるが、ナイツに敵対する者が車で大勢乗り込んでくるのを防ぐための仕組みでもあった。

 通路を歩いて駐車場に繋がる扉の前まで来たところで、美夜子は意外な相手から声を掛けられた。

「よっ、禊屋ちゃん!」
「あれ……銀ちゃん? 何してんの、こんなとこで?」

 百九十はある長身にグレーに染めた短髪、革ジャケットの上に黒いロングコートを羽織った姿の、ハリウッド俳優のような濃い顔つきをした男がこちらに歩いてきていた。ナイツ本部所属のヒットマン、銀狼――《白銀の斬光(シルバー・ライトニング)》の異名を取るSランクホルダーだ。美夜子は以前に一度、一緒に仕事をしたことがある。

「いやーほら。例の修道院の事件が気になっててよ。ちょっと話でも聞けねぇかなと思って来てみたんだが……ちょうど良かった。あれってさ、やっぱり禊屋ちゃんが調べてるんだろ?」
「そうだけど……」
「差し障りない程度でいいんだ。話聞かせてくんねぇかな?」

 そこで乃神が間に割って入ってくる。

「申し訳ない、銀狼殿。今我々にはあまり時間がありません。事件の話ならまた今度に……」

 丁寧な口ぶりで拒否しようとするが、銀狼はしつこく食い下がる。

「ちょっとだけでいいんだよ。ほんの五分でいいからさ。俺も知ってること話すし。俺は事件の騒ぎがあったとき、あの場にいたんだぜ?」

 そういえば、銀狼はナイツ幹部の護衛として今回の会合に同席していたのだった。一昨日支社で会ったとき、そのためにこっちに来ているのだと話していた。

「まぁ、ちょっとだけならいいんじゃない?」

 美夜子が言うと、乃神は渋面をしながらも頷いた。

「……あまり長引かないようにな。俺は先に車に向かってるぞ」
「おお、悪いな!」

 銀狼は軽く手を上げて言うが、乃神が駐車場への扉の向こうに消えてから、今度は美夜子へ小声で漏らした。

「あいつ――乃神だっけ? 相っ変わらずお堅そうな奴だな」

 以前の美夜子と一緒に手がけた仕事の際、銀狼は乃神とも会っていた。

「まぁいいや。それで例の事件のことなんだが――」

 美夜子はなるべく簡潔にまとめて、事件のことやこれまでの調査のことについて銀狼に伝える。

「ふぅん……こないだ会ったあいつがそんな目に遭ってたとはなぁ……」

 銀狼は一昨日、冬吾にも会っていた。銀狼が冬吾を挑発するせいで危うく喧嘩になりそうな雰囲気だったのを、美夜子が慌てて収めたのだ。

「銀ちゃんは、ノラが容疑者として捕まったってことは知らなかったの?」
「まぁな。俺はたしかに護衛役として修道院の本館で行われてた会合に同席してたんだけどよ、事件が発覚してからそう時間が経たないうちにさっさと帰っちまったんだ。っていうのも、護衛対象の幹部連中が早く帰りたがってたからでよ。連中、ゴタゴタに巻き込まれるのは勘弁願いたかったんだろうなぁ。それで捕まった奴の顔を見る暇もなかったんだ。――いや、正確には遠目からちょこっとは見えたと言うべきか? ほら、あの入り口の扉が故障して外に出られなくなったって騒ぎがあったろ? あの時にちょこっとだけな」

 ゲートの故障騒ぎのことだ。あの騒ぎの犯人はナツメなのだが、そこまで詳しくは銀狼に話していない。

「遠くから見ただけだから、一昨日のあいつだとはわからなかった。まぁ、後でここのメンバーが捕まったらしいって話は聞いてたからこうして来てみたんだが。そういうわけで、事件の起こった後については参考になるような話は出来そうにない。悪いな。他に訊いておきたいことがあれば答えるぜ?」
「じゃあ、会合の最中のことについて確認したいんだけど……神楽やナツメがおかしな動きをしてなかったかどうか、覚えてない?」
「おかしな動きって、例えばどんなもんだ?」
「うーん……どこかへ電話をかけてたとか。あるいは、机の下や身体の後ろで携帯を使ってメールしてたかもしれない、真犯人に指示を送るために」
「ああ、そりゃあないな」

 銀狼は言い切った。

「俺も伏王会の護衛には気を配ってたが、少なくともあのナツメってガキにそんな妙な動きはなかった。神楽のほうはもっとねぇな。会合の中心になって一番喋ってたのが神楽だった。誰にも気づかれず電話やメールなんて出来たはずがねぇ。――ああそれと、二人とも会合中に席を外すこともなかったぜ」

 ニムロッドもそう言っていたが……やはり会合の最中、神楽にもナツメにも不自然な動きはなかったのだろう。真犯人との打ち合わせはもっと前からされていた――おそらくかなり入念に計画された犯行だ。

「その二人以外で、誰か会合中に席を外した人はいた?」
「いや、いなかった。もちろん俺も含めてな」

 そうするとやはり会合に参加していた人物たちには鉄壁のアリバイがあり、名護を殺害することは出来そうもない。

「他に質問はあるか?」
「んー……今のところはないかな」
「そうか……あんまり役に立てなくてすまねぇな」

 銀狼は小さく笑ってから、親指を立てて言った。

「まぁ、俺の力が必要になったら遠慮なく言ってくれよな。今日の審問会にはまた護衛として付き添わなきゃなんねぇんだけど、それまでならわりと暇だし。カワイイ禊屋ちゃんのためなら、色々とサービスするぜ?」
「うん。ありがと」

 そこで銀狼は、少し深刻そうな顔になる。

「ところで……さっき言ってた凶鳥のことなんだが……」
「あ……そっか。銀ちゃんも桜花の出身だから……」
「ああ、知らない仲じゃなかった。任務では何度も一緒になったしな」

 銀狼が以前話してくれたことだ。織江、凶鳥と同じく、銀狼もかつては桜花に所属していた。桜花の壊滅後、ナイツ本部所属のヒットマンとして雇われたのだ。

「ヴェガ――じゃなかった」銀狼は言い直す。「織江のやつ、本当に大丈夫なのか……?」

 その時、銀狼の視線が美夜子の後方に向く。美夜子が振り向いてみると、そこに件の織江が立っていた。薔薇乃との話を終えて今来たところらしいが……どうしたことか、織江は銀狼を睨みつけるように見ている。気まずい雰囲気……というよりもむしろ緊張感が場に満ち満ちた。

「禊屋、その男と何を話している?」

 低いトーンで織江が言う。平常時のどこか気の抜けたような喋り方とは違って、耳にするだけで萎縮してしまいそうな凄味のある声だった。

「あ……えっと、事件のことでちょっと――」
「必要ない。行くぞ」

 織江は話を遮るように言って、駐車場への扉に手をかける。

「おい、待てよ織江!」

 銀狼が呼び止めると、織江は舌打ちして返す。

「気安く私の名前を呼ぶな……!」
「…………」

 銀狼は僅かに怯んだように見えたが、すぐに冷静になって言った。

「お前……本当に凶鳥を殺れんのかよ?」
「……当たり前だ」
「だが、あいつはお前の――」
「うるさいっ! お前に関係ないだろ!! 黙ってろよ!!」

 織江は興奮して銀狼に食ってかかる。こんなに取り乱した織江を見るのはこれまでで初めてのことだった。対する銀狼も、いつもの軽い雰囲気は消え失せて真面目そのものだ。いったい二人の間に何があったのか。

 銀狼は織江を真っ直ぐ見つめて言う。

「……俺が代わってやってもいいんだぞ」
「…………なに?」
「お前が辛いって言うんなら、俺が代わりに凶鳥を殺してやる」

 織江は皮肉めいた笑いを浮かべる。

「はっ……仲間殺しはお手の物ってわけか?」
「ッ……!」

 その織江の言葉を聞いた途端、銀狼の表情が一気に青ざめる。

「お前の手なんか借りずとも、私一人で充分だ……」

 そう言い残して、織江は扉を開けて駐車場に向かってしまった。美夜子は呼び止めることすら出来なかった。

「あの……銀ちゃん、大丈夫?」

 今の短いやり取りですっかり憔悴してしまったかのような銀狼に、美夜子は声をかける。

「ああ……。悪ぃな禊屋ちゃん。見苦しいもん見せちまって」
「いや、それはべつに良いんだけど……いったい何があったの?」

 銀狼は弱々しく笑って、
 
「……禊屋ちゃんが気にするようなことじゃねぇよ。俺が昔、あいつに殺されたとしても仕方ないようなことをしでかしちまったってだけのことさ……」

 先ほどのやり取りから察するに、織江は相当強い恨みを銀狼に対して抱いているようだった。銀狼にこれ以上詳しく話す気はないようなのでこちらも深く切り込むことは出来ないが、何か大きな出来事が二人の間にあったことは間違いない。

 銀狼は髪を掻くと、仕切り直すように明るい口調で言う。

「さて……ついでだし、社長さんにもちょっと会ってくるかな。じゃあな禊屋ちゃん。さっきの繰り返しだけど、手伝えることあったら言ってくれよ」

 銀狼はそのまま美夜子が来た方向へ消えていく。その背中は、少し寂しげに見えた。 

 銀狼と別れた後、美夜子は駐車場へ入っていった。少し歩くと、向こうからシープが早足で寄ってくる。

「禊屋さん! 大丈夫なんですか? 熱が出て大変だったって聞きましたけど」
「だいじょーぶだいじょーぶ。薬飲んだらだいぶ楽になったし」
「そうなんですか。それなら良かった」

 「だいぶ楽になった」というのは少し過剰な表現だった。寝起きの頃より幾らか楽になったのには違いないが、今でも身体は熱っぽいし、怠さも残っている。

「車の方は準備万端です。すぐに行けますよ。念のために探知機を使って調べましたけど、他の発信機なんかは見つかりませんでした。追跡の心配はありません」

 車については安全のためガラスにスモークを貼った車両を使うことも一度考えたが、それだと周囲から浮いて却って目立つ可能性があるのと、外の様子が確認しづらくなるとこちらが敵の尾行に気づけない恐れがあるのでやめておいた。

 薔薇乃が言っていた車の乗り換え策もある。敵に居場所を特定され襲われるリスクは充分減らせたはずだ。

「禊屋……」

 織江がバツの悪そうな顔で話しかけてくる。

「さっきはごめん。わけわかんなかったよね。あいつとは昔いろいろあって……それで……」

 織江は視線を逸らし、話しづらそうにしている。美夜子は織江の腕をぽんと叩いて言った。

「行こ、織江ちゃん」
「……ああ」

 織江はほっとしたように頷いた。





 ニムロッドの手配により、まずは修道院別館のほうで礼拝堂の管理人サラから話を聞くことになっている。本館と礼拝堂が敷地西側にあるのに対して、別館は小さな林を挟んで東側に位置していた。美夜子に同行するのはいつも通り乃神と織江、シープは車の中で待機ということになった。

 別館は本館と比べるとだいぶ小さいが、同じく西洋風でレンガ造りの建物だ。入り口の前に黒い修道服を着た初老の男が立っている。男は美夜子たちに気がつくと、人の良さそうな笑顔を浮かべて言った。

「いやぁどうもどうも、お待ちしておりました。ナイツの禊屋さんとお連れの方々ですね? 私は別館の管理人を任されているヒューイと申します」

 ヒューイは痩せた体型で髪は大部分が白くなっており、眼鏡をかけている。コーヒーを味わいながらゆったりと本でも読んでいるのが似合いそうなおじさんだ。

「サラは中の食堂におりますんで。どうぞ」

 美夜子たちは別館の中へ通される。狭いロビーの奥に扉が幾つか並んでいた。自分たち以外に人影はない。

「ここで働いてるのはあなただけなの?」
「ええまぁ。閑職ではありますが、私のような者にはお似合いです。気楽ですしね。サラがよく手伝いに来てくれるので、寂しくもありません。――あちらの、一番奥が食堂です」

 突き当たりにある大きな木製の扉を指してヒューイが言う。

「ああそれと……つい先ほどのことなんですがね、別のお客様がいらっしゃってるんですよ」
「別のお客様?」
「ええ、渡久地友禅様という方で」
「えっ、ホントに? なんで?」
「昨日の事件が気になって様子を見に来たとかで……禊屋さんのことをお伝えしたら、ぜひ事件の捜査に協力させてほしい、とおっしゃってましたよ。それでちょうどいいんで、サラと一緒に食堂の方で待ってもらっています」

 それはこちらとしても願ったり叶ったりだ。場合によってはこちらから話を訊きに行く必要があると思っていたが、手間が省けた。

「それでですね……渡久地様のご要望で、話をするのは禊屋さんだけにしたいと」

 それを聞いて乃神が言う。

「話を聞けるのは禊屋一人だけということですか?」
「すみません。その方が話しやすいとかで……」

 織江が美夜子の肩を軽く叩く。

「ま、仕方ないか。私らは部屋の外で待機してるから、何かあったら呼びなよ」

 頷くと、「禊屋」と隣で乃神が耳打ちするように言った。

「わかっていると思うが、相手は裏社会でも有数の大物だ。ナイツの代表としてくれぐれも失礼のないようにな」
「お、おっけー……」

 そう言われるとなんだか緊張してしまう。

 ヒューイに案内されるまま食堂へ入る。中は十二畳ほどの、食堂としてはこぢんまりとした空間だった――が、美夜子はその異様な光景に言葉を失ってしまった。

「おはようございます……私、礼拝堂の管理人をさせていただいております。サラと申します……」

 食事用の広いテーブルの傍らに立っていた、年齢二十後半くらいの女性が丁寧な所作で一礼する。修道服を着ており、頭には裾の大きい頭巾――たしかウィンプルとか言うやつだ――を着けていた。どこか物憂げな表情を浮かべているが、それがまた絵になりそうな儚げな美人だ。頭巾から覗く黒い長髪は綺麗に手入れされているのがわかる。

 そして、もう一人――美夜子が驚愕したのは、その男の風貌が原因だった。

「ご機嫌よう。私が渡久地友禅だ」

 重く響くような低音の声。美夜子たちから見てテーブルの奥側に座っているスーツを着た老人は、『顔面の半分ほどを、白い仮面で覆っていた』。顔の右半分殆どが独特な形状のマスクによって覆われているのだ。マスクは右目と口元だけが切り抜かれたような形になっているため視界や発声の問題はなさそうだが……いったいなぜ渡久地はそんなものを付けているのだろうか?

 しげしげと見入っていた美夜子を、渡久地が笑う。

「くっくっく……随分と遠慮もなく人の顔をジロジロと見てくれる」
「あっ……す、すみましぇん!」

 しまった、噛んじゃったよ!

 渡久地はサッと右手を振る。彼は両手ともに絹製の白い手袋を着用していた。

「いや構わん。私と初めて会う者は、誰だって君と同じような反応をする。私は慣れているし、君も気にする必要はない。……理由を聞きたいかね? 私がこんなものを付けている理由を」
「……聞いてもいいんですか?」
「別に隠しているわけではないからな。……『オペラ座の怪人』という有名な作品があるだろう? あれに登場する怪人ファントムは、己の顔にある醜い傷痕を隠すためにマスクを付けていた。私がこのマスクを付けているのも同じ理由からだ。ファントムの傷痕は生来のものであるとか、火傷であるとか、映像化・舞台化される度にそのあたりの設定はまちまちのようだが――私の場合は、火傷が原因だ」

 言われてみるとたしかにマスクの切り抜かれた口元や右目の隙間から、火傷の痕が僅かに覗いていた。その傷痕を隠すためのものだったのだ。

「五年ほど前に事故に遭ってしまってな。顔の右半分が焼け爛れて、手術でも元には戻せなかったのだ。この足も……それが原因でまともには動かなくなってしまった。二本も松葉杖を使って、立ち上がるのがやっとだ」

 そう言って渡久地は視線を下げる。そこで美夜子は初めて気がつく。テーブルの陰になっていてわからなかったが、渡久地は車椅子に座っているのだ。足には膝掛けをしており、下から僅かにズボンの裾と革靴が覗いていた。

 そういえば……アリスと一緒にネットで渡久地の情報を調べた際に、ちらりと見た覚えがある。今から五年前の九月、渡久地が交通事故に遭ったというニュースだ。まさかそんな大怪我をしていたとは思わなかったので、あまり注意深くは見ていなかった。

 それにしても……人の見た目というのはこうまで変わるものなのか。美夜子が写真で知っていたのは二十年前に財団を設立した頃の渡久地だが、今の渡久地はその頃とは随分雰囲気が違う。二十年という歳月の間に年老いたという以外にも、事故の影響が大きかったと察せられる。

 二十年前の写真では体格は痩せすぎず太すぎず、健康的で活力に満ちあふれていた渡久地だが、今は極端なまでに痩せ細り、体つきは小さくなってしまっていた。髪は白くなっているが整えられており、スーツも腕時計も高級そうな一品で身なりには気を遣っていそうだが、それは老いに抗おうとしているようにも見える。老いは手元に表れやすいと言うから、手袋を付けているのもその為なのかもしれない。

 しかしぎらついた鋭い眼光は今も健在で、マスクの異様さも相まって独特な迫力を醸し出している。七十を越えた老人とのことだが、まったく気の抜けない相手だと美夜子は感じた。

「それで……私はまだ君の名前を聞いていないのだが?」
「えっ……あ、そうでした!」

 美夜子は背筋を強張らせつつ言う。

「禊屋です。き、昨日の事件について、お二人にお話を聞かせていただきたいんでしゅが……」

 緊張で思うように口が回らない……。

 渡久地は美夜子をねめつけてから言った。

「ふむ……話は既に聞いている。私も気になっていたのだ。偶然とはいえ、事件の起こった日にここを訪れていたわけだからな、無関係とは言えまい。だから私も君の捜査とやらに協力したいのだ」
「あ……ありがとうございます」

 ありがたいことに、渡久地は協力的な姿勢のようだ。この威圧感で非協力的な態度を取られたら死ぬほどやりづらかっただろうから、助かった……。

「まぁ君たちも座りたまえ。サラ君、お茶を頼めるかね」
「あ……はい。すぐに」

 サラが奥の台所に入っていく。渡久地が横を向いたのでわかったのだが、マスクは右耳後ろから伸びた針金を後頭部に回すことで固定してあるようだ。

「――では私は他に仕事がありますので、これで失礼します。何かあったら遠慮なく呼んでください」

 そう言ってヒューイが食堂を出ていく。彼にも一応話を聞いておきたかったのだが、それはまた後にしよう。

 席に着き全員に紅茶のカップが回ったところで、美夜子は話を切り出した。

「えっと、では最初にお訊きしたいんですが……」

 そう言いかけたところで、携帯の着信音が鳴り響いた。渡久地がジャケットの腰ポケットから携帯電話を取り出す。

「失礼、急ぎの用事かもしれぬ。出てもよいかな?」
「あ、どうぞ」

 渡久地は「私だ」と通話に応じた。

「……そうか、応じなかったか。ならば殺せ」

 唐突に物騒な言葉が出てきた。渡久地は眉一つ動かさず淡々とした口調で続ける。

「うむ、やり方は任せる。確実に始末しろ。ではな」

 通話を終えて、渡久地は微笑を浮かべて言う。

「すまぬな。話を遮ってしまって」
「い、いえ……それはいいんですけど。今の電話はいったい……?」
「くく……近頃は話のわからぬ馬鹿が多くてなぁ。商売をするにも一苦労だ。……話が通じないのならば、力にものを言わせるしかあるまい?」

 どうやら慈善事業家の善良なおじいさん、というイメージは脳内から消去しておいたほうがよさそうだ。

 渡久地は真顔になって美夜子に語りかける。

「……私は、私に刃向かう者に対しては容赦しないことにしている。まぁ、君もせいぜい気をつけたまえ……禊屋君」
「そ、そんな、刃向かうだなんて……」

 美夜子は今すぐこの場を逃げ出してしまいたくなる気持ちをなんとか抑えて、愛想笑いで返す。すると渡久地は小さく笑って、

「ふっ……他愛のない冗談だ。そう怯えなくともよい」

 まっっっったくもって冗談に聞こえなかったんだけど??? これを本気で冗談のつもりで言ったのなら、残念ながら渡久地のジョークセンスは壊滅的であると断言できる。

「……では、質問を始めますね」

 渡久地は黙って頷く。

 早々に釘を刺されてしまったが、怯えていては調査にならない。美夜子は勇気を振り絞って渡久地に問いかけを始めた。

「渡久地さんは、なぜ昨日この修道院へ来ていたんですか?」
「……そんなことを訊く必要があるのかね?」
「えっ」
「もっと事件に直接関係のあることを聞くべきではないかな? 私もさほど暇ではないのだ。出来れば必要な質問だけにしてほしいのだがな……」

 口調は落ち着いているが……スゴクコワイ!

「ね、念のために……お願いします」
「ふむ……」

 渡久地はたっぷり時間をかけて美夜子をじっと見ていたが、やがて小さくため息をついた。

「まぁ……いいか。昨日は久々に休みを取ってここに来ていた。……ワインを買うためだ」
「ワイン?」
「ああ、この別館は本館とは違って誰でも中に入れるようになっている。一般の客向けに、海外の修道院ワインを取り寄せて販売しているのだよ。これが普通の店ではなかなかお目にかかれない珍しいものが多くてな。昔はここにもワイン農園があったそうだが、その名残でそんな商売をやっているらしい。そうだったよな、サラ君?」

 サラが頷く。

「はい。ヒューイさんがそう言っていました。そちらの商売に関してはヒューイさんが一人でやっているようなものなので、私は詳しくないのですが……」

 美夜子はサラに尋ねてみる。

「渡久地さんはよくここに来るんですか?」
「はい。月に一度くらいの頻度でいらっしゃいます」
「ワインを買うために、自分でわざわざここに?」

 送り迎えの車も必要だろうし、それだけのために来るのは少し大変そうに思える。
 
 渡久地が笑って答える。

「ヒューイ君は電話をくれれば私の自宅まで配送してくれると言うのだがね、それではどうも味気ない。実際に目で見て選ぶ楽しみというのもあるのだよ。ここでは他の店では見ないようなワインを取り扱っているし、来る度に新しい銘柄が増えているからつい何度も足を運んでしまう」
「なるほど……」

 美夜子は渡久地に更に突っ込んだ質問をする。

「ちなみに、昨日本館の方で行われていたナイツと伏王会の会合のことは知っていましたか?」
「ああ、聞き及んでいたとも。だが、あくまで会合は二つの組織のものであって、私は口を挟める立場ではない。まったく関心がないと言えば嘘になるが、本館の方には顔も出さなかったよ」
「本館の方には近づかなかったということでいいんですね?」
「そうだ。昨日は駐車場とこの別館を行き来したくらいだな。私の言葉だけでは信じ切れないというのなら、向こうの警備員にでも聞くがいい。私の姿など見ていないと答えてくれるだろう」
「そんな、信じますよ」

 そこで渡久地に嘘をつく理由があるとは思えないが、一応、後で確認しておこう。

「昨日は渡久地さん一人で来たんですか?」
「移動するときは大抵付き人が運転する車を使っている。この身体では車の運転もままならないしな。昨日もそうだった。駐車場まで車で来て、この建物の入り口までは付き人に車椅子を運ばせたが、そこで帰らせた。長居するかもしれなかったし、四六時中つきまとわれるのは好かんのでな」
「ここに来た時間はわかりますか?」
「たしか……二時二十分頃だったな。入り口のところでヒューイ君に会って、車椅子をワインセラーまで押してもらったんだ。その時に壁の時計が目に入ったから覚えている」
「二時二十分、ですか……。あたしが聞いた話によると、渡久地さんは五時五十分頃までこの別館にいたそうですね。三時間以上っていうのは、ワインを買うだけにしてはかなりの長居だと思うんですけど……」
「うむ。珍しい銘柄が手に入ったとヒューイ君が言うものでな。時間もあったことだし、その場で買い取って食堂で軽い食事をしながら楽しませてもらっていたのだ」
「サラさんも一緒にですか? 二人は一緒にいたと聞いてます」

 サラが答える。

「はい。私のほうはお酒は飲みませんでしたけど、渡久地さんのお話し相手を務めさせていただきました」

 それを聞いて渡久地が笑った。

「はっはっは……こんな老人を相手に三時間も話に付き合わせて、悪いことをしたと思っている。相手が聞き上手だとつい饒舌になってしまってな。すまなかったな、サラ君」
「い、いえ、そんな……」

 サラはどこかぎこちなさそうに愛想笑いを浮かべる。

「ちなみに、その間ヒューイさんは?」
「ヒューイさんは別の仕事があったので席を外していました」
「そうですか。……サラさんが別館にいたのは、たまたまですか?」

 サラは少し恥ずかしそうに答える。

「私、一応礼拝堂の管理人ということにはなっていますが……毎日掃除をするくらいしか仕事らしい仕事ってないんです。あの礼拝堂も形だけ残してあるだけで、儀式を行うこともありません。昔はお祈りにくる人もそれなりにいたらしいんですけど、今では殆どいません。ですから、よくこの別館の方でお手伝いさせてもらっているんです。といっても、こちらでも掃除や庭の手入れをしているくらいなんですけど……。だから昨日も、ここで掃除をしていて……渡久地さんがいらっしゃったのは、それが一段落した頃でした」

 サラはよく別館のほうに来ていた……。すると、礼拝堂は大抵、無人だったということになる。犯人はその情報を掴んでいたと考えられそうだ。だからこそ殺人現場に礼拝堂を選んだのだろう。

「……渡久地さんとどんな話をしていたんですか?」
「えっ……」

 なんとなく投げかけた質問だったが、サラは不意を突かれたような反応を示した。

「……? だから、どんな話を?」
「あの……それは……」

 サラが口ごもっていると、渡久地が言った。

「他愛のない世間話だ。最近食った美味いものとか、趣味の話とかな。私はクラシックを聴くのが好きなのだが、サラ君も音楽にはかなり詳しいのだ。たしか、週末限定で先生をやっているんだったかな?」
「はい。地域の子ども合唱団のですけど……月に二回だけ」

 子ども合唱団の先生、か。サラは優しそうな女性だし、イメージには合っている。……しかし、先ほどの妙な反応は何だったのだろう?

 美夜子はとりあえず質問を進める。

「渡久地さんとサラさんがお話ししている間、何か普段と変わったこととかありませんでした?」
「いや……とくにはなかったと思うが? どうだったかな、サラ君?」

 渡久地に続いてサラが答える。

「はい。これといっておかしなことはなかったと記憶しています。渡久地さんと普通にお喋りをしていました」

 これも手応え無しか。では次だ。

「五時五十分に渡久地さんは帰ったそうですけど、サラさんは見送りをしたんですか?」
「建物の出口のところまではお送りしましたけど、そこまででした」

 続いて渡久地が答える。

「予め電話で呼んでいた迎えの者がすぐそこまで来ていたからな。その者に駐車場まで車椅子を押してもらって、そのまま車で帰ったのだ」
「その時間に帰ろうとしたのは、なにか理由があって?」
「別にこれといったものはない。単に長居しすぎたと思ったから帰っただけだ」
「なるほど。事件のことは、後になって知ったんですか?」
「そうだ。それを聞いて流石に驚いた。私が帰ったすぐ後に死体が発見されたと言うのだからな……。まぁ、サラ君と一緒にいたおかげで犯人と疑われる心配がないのは幸運だったがな」

 渡久地とサラ、二人のアリバイ確認はこんなところで充分だろう。美夜子は遺体を発見するまでの流れについてサラに尋ねてみた。

「渡久地さんが帰った後……サラさんは礼拝堂へ向かって遺体を発見したんですよね。そのこと、詳しく教えてくれますか」

 サラは少し緊張したような感じで頷く。

「はい。六時を少し過ぎた頃でした。私は食堂で片付けをしていたんですが、そこに……あの小さな……なんというお名前でしたっけ……」
「ナツメ?」
「そう、ナツメさんがやってきて……『礼拝堂の様子がおかしい。扉が開かないから、鍵で開けて欲しい』と言われました。私は帰るとき以外は礼拝堂に鍵を掛けませんので、妙だな、と思いました。誰かが中に入って、内鍵を掛けないと扉が開かないような状態にはならないはずなんです。それでナツメさんと一緒に礼拝堂まで行って、鍵を開けました。そしたら……あんなことになっていて……」

 サラの顔が青ざめる。凄惨な光景を思い出したのだろう。

「扉を開けて礼拝堂の中を見て……奥にあるのが名護さんの遺体だと、すぐにわかりました?」
「それは……はい。扉を開けた瞬間からすごい血の臭いがしましたし、奥の方で誰かが倒れているのも見えました。その周りも血で真っ赤になっていて……その人はもう死んでいると思いました。正直、顔を見て誰かを判別するほどの余裕はなかったんですけど……誰かが名前を言ったので、私もその遺体が名護さんだと気がつきました」
「誰かが……? 誰が言ったか、思い出せますか?」
「あれはたしか……伏王会の神楽さんでした。遺体を見つけたとき、『名護修一……』と名前を呟いたんです。私の横で」

 神楽は名護が殺されることを知っていただろうから、異様な犯行現場の中でもすぐに遺体が誰のものであるかわかったのは当然だ。だが、名護が礼拝堂内にいることは扉を開ける前からわかっていたことだから、すぐに遺体と名護を結びつけられたとしても不自然とまでは言えない。これも、神楽を攻める上での拠り所とするには頼りなさ過ぎるか……。

「遺体には礼拝堂内にあった聖骸布が巻かれていました。それもすぐに気がつきましたか?」
「いいえ、その時はわかりませんでした。何か布みたいなものが巻きついているな、とは思いましたけど。それがあそこにあった聖骸布だとは……血で汚れていましたし。後で写真を見せられて、ああそういえば……と思い出したんです」
「なぜ聖骸布が身体に巻かれていたか……その理由に心当たりなんかは?」
「さぁ……まったくわかりません。でも、一目見て何か普通じゃないような感じがしました。だって、ただ殺すだけならあんなことする必要ないですよね。すごく……不気味に思いました」

 内臓を取り除かれた遺体、そして異常な装飾……不気味に感じるのも当然だ。

「名護さんの遺体を発見した後、あなたはどうしたんですか?」
「私、あの現場を見てすぐ気分が悪くなってしまって……アベル君と一緒に礼拝堂の外で、他の人たちが中を調べるのを待っていたんです」

 その点は、アベルとランスの証言と一致している。

「その間、あなたから見て不審な出来事とか、ありませんでした? 変な物音がしたとか、怪しい人物を見かけたとか」
「……いいえ。なかったと思います。中で男の人が見つかって、ランス君が本館の方へ連れていきましたけど、それ以外はとくに何も……」

 そう言ってサラは紅茶を飲む。美夜子は質問の方向性を変えてみることにした。

「遺体の腹を切るのに使われたナイフなんですけど、あれは元々礼拝堂の中にあったものなんですよね?」
「はい、そうです。レザーの鞘に入れて講壇の中に仕舞ってありました」
「なんでそんな場所にナイフを?」
「あのナイフは、アベル君から貰ったんです。一年ほど前に。この修道院は、裏社会に関係する人間が多く訪れる場所です。危ない目に遭うかもしれないから、護身用として武器の一つでも持っていた方がいいだろうと。私を心配してくれる気持ちは嬉しかったんですけど、持ち歩くには大きすぎるし、そんなもの持ち歩いているほうがよっぽど危ないような気がして……だからずっとあそこに仕舞ったままにしてあったんです」

 美夜子にもその気持ちは理解できた。ちゃんとした武器があったほうがいざという時便利なのだろうが、自分のほうが怪我してしまいそうでなかなか持ち歩く気になれない。

「アベルさんとは親しい仲なんですか?」
「はい。アベル君とランス君とは、幼馴染みの仲なんです。家族のような仲、とも言えますが。私達は三人とも孤児で、じいちゃん――あ、失礼しました。私より以前に礼拝堂の管理人をしていた方の元で育てられたんです」
「へぇ……そうだったんですか」

 三人にそのような繋がりがあったとは。事件に関係があるかどうかはわからないが、一応意識しておこう。

「サラさんは、殺された名護さんとは親しかったんですか?」

 サラは首を横に振る。

「たまに会って挨拶を交わすくらいで……話をしたのも数えるほどしか。それも簡単で短い世間話だけです」
「名護さんを殺す動機を持っている人に、心当たりは?」

 サラはそれにも黙って首を横に振る。美夜子は質問相手を変えてみることにした。

「……じゃあ、今度は渡久地さんに聞きます。名護さんとはどんな関係でしたか?」
「そうだな……ここでは接点はなかった。私はたまにこの別館を訪ねるくらいで、本館のある西側へ行くことは殆どないしな。名護というやつとは顔を合わせることもなかった」

 美夜子は渡久地の言い回しに引っかかりを感じた。

「あの……細かいことを確認しますけど、『ここでは接点はなかった』と言いましたよね。『ここでは』ってことは、他のところでは接点があったんですか?」
「ふむ……」

 渡久地は紅茶を飲んでから言う。

「君はどう思う? 私とその名護という男に接点があるとしたら、それはどういうものだと考えるかな?」
「え……? ええっと、それは……」

 こんな時にクイズを出されても困るのだが……。美夜子は半ば当てずっぽうで言ってみた。

「親子……とか?」
「なぜそう思った?」
「渡久地さんの昔の写真を見ました。少し、名護さんに似ていた気がしたんです。だからもしかしたら……と」

 もっとも、現在の渡久地の姿を先に見ていたら同じ想像はしなかったと思うが。

 渡久地は愉快そうに高笑いした。

「はっはっは……! そうか、似ていたか。まぁ、そうだろうな。君の言うとおりなのだから」
「はい……って、ええっ? ホントに!?」
「うむ。べつに黙っていても良かったのだが……この際だ、きちんと話すとしよう。名護修一と私は正真正銘、血の繋がった親子だ」
「で、でも……」
「そう焦るな。――サラ君。お茶のおかわりを頼めるかね?」

 「はい」と言ってサラが立ち上がると、美夜子のほうを見て、

「禊屋さんのお茶、冷えちゃいましたね。新しいのをお淹れします」
「あ、すみません。ありがとう」

 サラはついでに美夜子の分のカップも持って台所のほうに向かった。

 それから渡久地が話し出す。

「名護というのは、あいつの母親の旧姓だ。修一とはもう二十年以上も前から絶縁も同然の状態だった。昔からソリの合わない息子と父親でな。もうずっと連絡を取り合うことすらしていなかったのだ。あいつがアルゴス院のメンバーとしてこの修道院に出入りしていたということも、つい最近になって知ったくらいだ」
「そのことを知ってからも、会って話したりはしなかったんですか?」
「まったくしていない。正直に言わせてもらうと、あいつがどうしていようが私にとっては最早どうでもいいことだったのだ。向こうも同じように考えていただろう。ただ……昨日あいつが殺されたという話を聞いたとき、なぜかこの胸に喪失感がこみ上げてきた。親子の繋がりというのは、そう簡単には断てないものなのかもしれんな……」

 そう言って、渡久地は目を瞑る。息子との遠い記憶に思いを馳せるように。

「……今日わざわざ来たのは、その為でもあるのだ。君があの事件のことを調べていると聞いて、協力したいと思った。そうすることで、少しはこのやりどころのない気持ちも晴れるのではないか……とな」
「そうでしたか……」

 そこへ、台所からサラが戻ってくる。トレイに美夜子と渡久地の分のティーカップを乗せていた。

 まず渡久地の前にティーカップを置こうとしたところで、美夜子が話しかけた。

「そういえば、サラさん。名護さんと渡久地さんが親子だって知ってたんですか?」
「えっ……あっ!」

 そのとき、サラが手元を狂わせて、持っていたカップの中身の大半を零してしまう。零れた紅茶が膝掛けの上から渡久地の太もものあたりを濡らした。

「すっ……すみません! すぐお拭き致します……!」

 トレイに乗せていた布巾を取って紅茶を拭おうとするサラの手を、渡久地は落ち着いて制止する。

「ああー……私が自分でやるから、貸したまえ」
「本当に、申し訳ございません……!」

 サラは怯えたように布巾を渡久地に渡した。渡久地は彼女を気遣うように笑う。

「はっはっは。気にするな。このズボンも膝掛けも安物だ。染みになっても百枚単位で買い直せる」

 そう言いながら渡久地は膝掛けを一旦テーブルに置いて、ズボンにかかった紅茶を拭いている。

「ごめんなさい! あたしが急に声かけたせいで……」

 二人に向かって美夜子は謝った。

「い、いえ。禊屋さんのせいでは……私がぼーっとしていたせいです。すみません」

 こっちにまで謝らなくていいのに……。サラはぺこぺこ頭を下げながら美夜子の前に紅茶を淹れたカップを置いてくれた。

 渡久地が布巾をテーブルに置いて言う。

「修一と私の関係を知っていたのか、と聞いていたな。その通りだ。サラ君には以前そのことを話した。べつに隠しているわけでもなかったしな」
「そーでしたか。全然驚いてなかったみたいだから、もしかしたらって思ったんです」

 それにしても、あの質問であんなに驚くとは……サラは意外とドジなのだろうか? それとも……何かを隠しているのか?

「どうかしたかね?」

 考え込んでいるところを渡久地に尋ねられ、美夜子は何でもないフリをした。

「ああいえ、なんでも……。――そういえば、サラさん」

 サラには他にも訊いておかなければならないことがあった。

「礼拝堂の祭壇の両脇に、二体の天使像がありますよね。あれの土台部分に、何かを入れておけるような空間が隠されているのを見つけたんですけど、何か知ってますか?」
「ああ、あれですか……よくお気づきになりましたね」

 サラは天使像について説明してくれる。

「あの天使像は、この修道院が建てられた頃からあったそうです。私も話を聞いたことがあるというだけなのですが……当時のとある権力者から寄付されたもので、あの土台の穴はその権力者の隠し財産を入れておくためのものだったとか」
「隠し財産?」
「ええ、明るみには出せない資金を宝石などに替えてあの穴の中に隠しておいたのです。こういう場所であれば、泥棒も心理的に入って来づらいので安全であると考えたのでしょう。それを預けられていたわけですから、当時の礼拝堂管理人もその権力者のシンパか何かだったのかもしれません。しかし、その権力者も暗殺されてしまったために結局隠し財産が回収されることはなかったそうです。後に、その財産はアルゴス院発足に際しての資金源になったとか……」
「つまり今はあの穴、何にも使われてないってことですね?」
「そうですね」

 美夜子は少し考えてから、更に尋ねた。

「像の穴の中を最後に確認したのはいつでしたか?」
「ええっと……二ヶ月ほど前に掃除したときに見たきりですね。床を掃いたりするだけの軽い掃除なら帰り際にいつもするんですけど、普段はあそこには手をつけないので……。たまにする本格的な掃除のときくらいしか確認しないんです」
「なるほど。もちろん、その時も中身は空っぽだったんですよね?」
「そうです。二つの像とも何にも入っていませんでした」

 サラはそう答えてから、不思議そうな顔で美夜子に質問する。

「あの……それが今回の事件と何か関係が?」
「うーん……どうでしょう? とりあえず、まだわからない、と言っておきますね」

 そう言いながら目の前のカップを手にとって、口に運ぶ。せっかく淹れ直してくれたのだから、飲まなければサラに悪い。紅茶を啜った瞬間、美夜子は目を見開く。

「お味はいかがですか? お口に合うと良いんですけど……」

 サラが尋ねてくる。美夜子は熱い紅茶でひりひりする舌を空気に当てて冷ましながら、「おいひいれす」と答えた。

「ところで、どうなのだ禊屋君? 事件の真相は見えそうかね?」

 渡久地が手でマスクの位置を微調整しながら言う。

「それは……すみません。まだ言えないんです」

 渡久地もサラも、味方というわけではない。こちらの動きや考えは出来るだけ伏せておきたい。

「そうか……それでは仕方ないな。私もおおよそのことは聞いているが、君が弁護しようとしている男の状況は絶望的だ。だが、諦めなければ道は開ける……かもしれん。私も審問会には出席する予定だ。サラ君のために証言もしてやらねばならんしな。君の戦いぶりも見させてもらおう。頑張りたまえ」
「……ありがとうございます」
「うむ。では私はそろそ――ぐっ……くぅ……」

 突然、渡久地が顔を伏せて呻き出す。

「だ、大丈夫ですか!?」

 明らかに苦しんでいる。一体どうしたのだろう。

「渡久地さん……!」

 サラが渡久地の側に寄りそう。

「うぅ……はぁ……はぁ……。き、気遣い無用だ。鎮痛剤を飲めば、すぐに治まる……。禊屋君、話はもう終わりだ。私のことはいいから、行くがいい……」
「は、はい……。ありがとうございました」

 美夜子は一礼してから、食堂の出口へと向かう。廊下への扉を開ける直前、「ダン、ダン、ダン、ダン……」という何かを叩くような音が外から鳴り響きだした。





「よっ、お疲れさん」

 食堂を出てすぐ、織江が声をかけてくる。

「どんな感じだった、礼拝堂の管理人と渡久地友禅は?」
「うん。色々と発見はあったけど……――ねぇ、これ何の音?」

 今しがた建物内に響きだした音が気になって、美夜子は尋ねた。

「さぁ、知らないけど……」 
「こっちの方から聞こえるようだぞ」

 乃神が通路の奥を指さす。小さなボードが壁際に留めたピンに吊されてあり、そこには『ワイン販売所 こちら』と書いてあった。

 音のする方向に進んで、小さな階段を下った先にある扉を開ける。その先はワインセラー――ワインの貯蔵室――になっていた。

 壁一面、横向きにワインボトルが並べられている。音の出所は、その棚のところからだった。

「おや、皆さん。どうしました?」

 ワインの棚の側にヒューイがいた。右手には金槌を持っている。

「ここに置いてあるの、全部売り物ですか?」
「ええまぁ。渡久地さんのような珍しいお客さんがたまに来るだけで、半分くらいは私の趣味で集めてるようなものですけどね。禊屋さん、いかがですか?」
「いやー、あたしは遠慮しときます。未成年なんで」
「そうでしたか。通りでお若いと……」

 犯罪組織に所属しておきながらそんな小さなことを気にするのも何だか妙な気もするが……前に匂いだけで酔っ払ってしまったことがあるので、酒飲みの適正がないのは確かだ。余談だが、薔薇乃はかなり酒に強い。

「金槌なんて持って、何をしてるんですか?」
「昨日、ここの棚が壊れてしまったんですよ。ワインボトルを乗せておく棚板が一カ所外れちゃいましてね。どうも板を留めてある釘が劣化してダメになってたみたいで……。これもだいぶ古いものなんでガタがくるのも仕方ないんですが、新しいのを買い直す余裕もありませんからねぇ。この際なんで、全部の棚板に新しく釘を打ち直しておこうかと思いまして」

 見ると、たしかに古びた棚の板に横から新しい釘が打ち直されているのがわかった。棚は大人の身長くらいの高さがあり段も多いので、全て釘を打ち直すのは結構な時間がかかりそうだ。

「大変そうですね」
「昨日からずっとですよ。……もしかして音、外まで響いてましたか?」
「わりと」
「あちゃあ、それはすみません」
「べつに良いですよ。それより、大変ならサラさんに手伝ってもらったらどうですか?」
「いや、これくらい私一人でやりますよ。でもお客さんがいるうちは、うるさくするのはいけませんね。続きは明日にしときます」

 美夜子はふと気になって、ヒューイに尋ねてみる。

「ちなみに……その棚が壊れたのって、昨日の何時頃だったかわかります?」
「ええっと……たしか夕方の五時ちょうどでした。私はここで品物の整理をしていたんですが、壁時計の時報のチャイムが鳴っていたので覚えてます。チャイムが鳴り終わるのと同時にいきなり棚板が外れて、ワインごと床に落ちたんです。驚きましたよ、あんなことがあるんですねぇ。整理でボトルを並べ替えたばかりだったので、それでちょっと多く乗せすぎたんだと思います」

 五時ちょうど、というところに何らかの作為性を感じないでもなかったが……釘が古くなっていたというだけなら、そこに細工の可能性はないと考えてよさそうだ。そもそもそんな細工を施す意味もないだろう。釘が劣化した結果、ワインボトルの重みで自然に棚板が壊れたというだけで、それが五時のチャイムと重なったのはただの偶然と考えられる。

「棚が壊れたことに気がついて、すぐに修理を始めたんですか?」
「品物整理も殆ど終わっていたので、割れたワインボトルを片付けたらすぐに始めましたね。しばらく釘を打っていて、少し休憩しようと上にあがったら、ちょうど例の事件が発覚してナツメさんがいらっしゃったところでした。それからは、もう棚の修理どころじゃありませんでしたね」

 サラを連れに来たナツメがいたということは、ヒューイがワインセラーを出たのは六時を少し過ぎた頃だ。つまりヒューイは五時過ぎから六時過ぎの約一時間、ここで釘を打っていたことになる。

「あの……もしかして、これも事件に関係あるんですか?」

 やや不安そうな面持ちでヒューイが尋ねる。美夜子は余計な心配をさせないよう軽く微笑んで返した。

「いや、なんとなく聞いてみただけです」

 そうだ。先ほどの渡久地の異変についても訊いてみよう。

「あの、実はさっき……」

 美夜子は先ほど、渡久地が急に苦しみだしたことをヒューイに伝える。

「ああ、それなら私も二回ほど見たことがあります。詳しくは教えてもらってないんですが、どうも持病の症状らしいですよ。たまに発作が出て大変だそうで。鎮痛剤を飲めば大丈夫らしいんですけど」
「持病って……どこか悪いんですか?」
「前に見たときは、太もものあたりを押さえて苦しんでいらっしゃいましたから……多分、足じゃないですかね。ほら、五年前の事故で怪我をされて、それ以来不自由なさっているようですし……」

 渡久地は、自分の足はもうまともには動かないと言っていた。不自由な部位は筋肉が衰えて血行の巡りも悪くなるから、余計に状態が悪化しやすいという話を聞いたことがある。先ほど渡久地が苦しみだした持病というのも、それが原因なのかもしれない。

 美夜子はその後ヒューイのアリバイについて確認してみたが、渡久地を車椅子で食堂まで運んだ後はずっと一人で仕事をしていたため、アリバイと呼べるものはなかったようだ。

「あの、ところで……サラのアリバイは問題なかったんでしょうか?」

 ヒューイが少し不安げな表情で言う。

「何か気になることでもあるんですか?」
「ああいえ、そういうわけではありませんが……サラは密室になっていた礼拝堂の鍵を持っていました。もしもアリバイが認められないとなったらマズいのではと、不安になってしまって……。大丈夫ですよね? 渡久地さんの証言もありますし……」
「あー……すいません。そのあたりのことは、まだ言えないんです」
「そうですか……」
「サラさんのこと、大事に思っているんですね」
「あはは……そう言われるとなんだか気恥ずかしいですが、その通りです。彼女が手伝いに来てくれるおかげで、私もかなり助かっていますし。それに……私は昔、娘を亡くしておりまして。無事に育っていたら彼女ぐらいの歳になっていたはずなんです。それでつい、姿を重ねてしまうのです」
「そうだったんですか……」

 そんなヒューイならば、訊いてみてもいいかもしれない。

「ヒューイさん。サラさんの様子なんですけど……昨日今日で、変わったところはありませんでしたか?」
「えっ……? そ、それはどういう……?」
「そのままの意味です。昨日と今日のサラさん、普段の彼女とどこか違った感じはしませんでしたか?」
「…………」

 ヒューイは沈黙してしまう。

「……思い当たる節があるんですね?」
「そ、そういう……わけでは……」

 そう言いつつも、しきりに目が泳いでいた。ヒューイは見た目通り人の良い性格をしているのだろう。明らかに嘘をつき慣れていない。……心は痛むが、ここはあえて揺さぶらせてもらう。

「さっき話してみて、初めて会ったあたしですらサラさんの様子はどこかおかしいと感じました。あれは、殺人事件に遭遇してしまったというショックのせいだけではないような気がするんです。サラさんはきっと……何か隠しています。普段サラさんと一緒にいるあなたなら、そのことにも気づいているんじゃないですか?」
「それは…………」
「お願いします。何か知っているなら教えてください。あたしにとっても……大事な人の命が懸かっているんです」

 ヒューイは何やら葛藤していたようだったが、やがて静かに首を横に振った。

「……すみません。私は何にも知らないんです。仮に彼女に何かがあったのだとしても……私は、なにも……。――ただ、これだけは言えます。サラは犯人ではありません。私はそれを確信しています」
「……確信するに至る理由があるんですか?」
「ありま…………いや、すみません。私はもう失礼します。気分が悪くて……」
「あっ、ちょ……ヒューイさん!」

 ヒューイはそそくさとワインセラーを出て行ってしまう。

「追うか?」

 乃神が言う。しかし美夜子はかぶりを振った。

「いいよ。これ以上食い下がっても教えてくれそうにないし……」

 そして、小さくほくそ笑む。

「それに……なんとなく、方針は見えてきたしね」
「方針?」
「それより、もう一度サラさんに話を聞いてみよう。確認しておきたいことがあるの」

 ワインセラーを出て美夜子たちはサラを探したが、見つからなかった。渡久地を外まで送りに出ているのかもしれない。美夜子たちは先に本館の方に赴くことにした。
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