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case8 女神の断罪
9 宣戦布告
しおりを挟む礼拝堂の近くまで来たところで、美夜子は足を止めた。入り口の扉の前には、昨日と同じく見張りのアルゴス院メンバー、バフィンが立っている。まさか昨日からずっと休憩なしということはないだろうが、大変そうだ。アルゴス院も案外人手不足なのかもしれない。
そして三十メートルほど先の本館の前では、扉の前に立つ警備員二人の他に、もう二人ほど人影が見えた。
「……ねぇ織江ちゃん。手伝ってほしいことがあるんだけど」
「なんだ?」
美夜子は道ばたに落ちていた、少し太めの木の枝を拾い上げる。修道院の敷地内には道に沿って木が多く植わっているから珍しいものでもない。長さは四十センチほどだ。
美夜子はそれを織江に渡して、ウインクする。
「ちょっと実験をね?」
美夜子は織江にその実験の説明をする。
「――というわけ。仕掛けに必要なもの、すぐには準備出来ないからとりあえずそれを代わりに使って。あたしは外から見ておくから、試してみてくれる?」
「わかった。やってみるよ」
織江は木の枝を片手に、礼拝堂のほうへ向かって行く。そして見張りのバフィンと二言三言話した後、一緒に礼拝堂の中に入っていった。
「……そんな方法で本当に上手くいくのか?」
乃神が訝しげに言う。美夜子は指をパチンと鳴らした。
「それを確かめるために、実験するんだよ」
「――ああ、おはようございます禊屋様。調査ですか?」
本館の前にいたアベルが美夜子と乃神に気がついて、挨拶する。傍らにはランスもいた。
「そうだよ。二人は何をしてるとこ?」
当番の警備員は別にいるので、二人は仕事中ではなさそうだ。
「ニムロッドのところで、改めて事件の話をしてきたところです。もう何度も繰り返した話ばかりですけど。今日は審問会で証言しなければならないので、警備担当からも外されてしまいました。――なので、これから二人で遅めの朝食でも摂りに行こうかと。喫茶店とか」
「そうなんだ。……ところでサラさんを見なかったかな?」
美夜子は話しながらさりげなく、礼拝堂のほうを目で確認できる位置取りをする。
「サラですか? たしか、別館の方で話をするご予定では?」
「さっき話したんだけど、もう一個確認したいことができちゃったの。でも探しても見当たらなくて……」
「ああ、それならきっと、もう修道院を出ていると思います。今日は元々管理人としての仕事は休みの日でしたから、昼のバイトを入れていたようでして。弁当屋のバイトです。禊屋様たちとの話が終わったらすぐ出ると言っていましたよ」
合唱団の先生の他に、弁当屋のバイトまでしているのか。礼拝堂の管理人も殆ど仕事らしい仕事はないようだから、それだけでは生活が厳しいのだろうか。単に働くのが好きなだけかもしれないが……。
「そのお弁当屋さんの場所、知ってたりしないかな?」
「知ってますよ。『そぷらの弁当』っていう店で――」
「あっ、それなら知ってる! ありがとう!」
利用したことはないが、店の看板には見覚えがある。街中にある小さな弁当屋だ。後で立ち寄るとしよう。
「それで――事件のことで私達に質問などはございますか? せっかくお会いしたのですから、お答えしますよ」
話が早くて助かる。
「ありがとう。まずはアベルさんじゃなくて、ランスさんの方に訊きたいんだけど……」
「あ? 俺かよ。……何だ?」
ランスが面倒くさそうにこちらを向く。
「昨日の午後四時三十分から四時四十分まで、本館の中に入ってるよね? 監視カメラの映像に記録されてたよ。昨日はそんな話してなかったはずだけど……その時、何をしていたのかな?」
「……何だよ。俺のこと疑ってんのか?」
「それはあなたの返答次第」
美夜子を見下ろしながら、ランスが笑う。
「……ハッ、上等だ。俺はな、トイレに行ってただけだぜ。昨日言わなかったのは、訊かれなかったからだ。第一、その時間に俺が本館の中に入ったとして、それが事件に関係あるわけがねぇだろ? 被害者が殺されたのは五時より後だってのは確定してんだからよ」
たしかに、名護が殺されたのは、彼が本館から出て礼拝堂に入っていった五時より後で間違いない。しかし、ランスの行動が事件と全く無関係とは言い切れないはずだ。
「すみません、禊屋様。私の方から昨日話しておくべきでした」
アベルが言う。
「あの時間ランスがトイレに行くのは、いつものことなんですよ」
「いつものこと?」
「私達の警備当番はいつも同じ時間シフトですから、習慣になってるんです。多少のズレはありますが、大体いつも四時三十分と七時。ランスはその時間になるとほぼ必ずトイレに行って、煙草を吸ってくるんです」
ランスはへらへらと笑いつつ、肩をすくめた。
「ヤニが切れると落ち着かなくて仕事にならねぇんだ。しょうがねぇだろ?」
煙草休憩だったのか……。昨日は事件が起こってしまったから、七時の休憩は無しになったのだろう。
「もちろん、それによって問題が起きたことはありません。警備担当のどちらかがトイレに行くときは、必ずもう一人が残っていることになっていますから。昨日もその間私がしっかりと警備を続けておりましたが、不審な人物は見かけませんでした」
アベルの言葉に頷きながら、ランスが一歩前に出てくる。
「そーいうわけだ、禊屋さんよ。別に何の問題もないはずだよな?」
「まぁ、そうだね……」
美夜子は次にアベルへ質問することにした。
「あの、それじゃあアベルさん。被害者の腹を切るのに使われたナイフだけど……あなたがサラさんに贈ったものだっていうのは、本当?」
「ええ、そうですよ。万が一の備えにと思って渡したのですが……サラはあの講壇の中に仕舞いっぱなしだったようですね。まぁ、彼女の性格を考えればありそうなことなので、気にしてはいませんが」
たしか、あのナイフからは鞘も含めて冬吾の指紋しか検出されなかったはず……しかし、アベルがサラにナイフを贈ったのは一年前という話だ。それ以来ろくに触られなかったとすればアベルとサラの指紋が消えてしまうことは充分考えられる。あるいは、犯人が冬吾に罪を着せるために予め拭き取っておいたのかもしれないが……。
「サラさんとあなた達二人は幼馴染みだって聞いたけど、今でも仲は良いの?」
「まぁ、そうですね。良好な関係だと思いますよ。――なぁ?」
アベルがランスに水を向ける。ランスは頷いて、
「悪くはないんじゃねぇの? 会ったら話くらいするしな。昔はめちゃくちゃ暗い女だったけど、今は多少マシになったか?」
「昔って?」
アベルが代わりに説明する。
「私とランスは共に、まだ物心のつかない内に親から捨てられてしまった身の上です。どちらも方々たらい回しにされた後で、先代の礼拝堂管理人に拾われました。私とランス、それにサラは彼らの元で育てられたんです。その夫妻には子どもが生まれなかったからという理由が大きかったのでしょうが……心優しい夫妻に拾われたことは、私にとって生涯最大の幸運です。――サラがうちに来たのは、今から十七年前のことでした。サラはその頃に両親を殺されて、孤児になっていたところを拾われたんです。そのせいで、最初は随分と塞ぎ込んでいました。仲の良い親子だったようですから」
「両親を……」
サラにそんな壮絶な過去があったとは……。
「他にご質問は?」
アベルが言うので、美夜子はもう一つ確認をしておくことにした。
「昨日二人が警備をしている間に、渡久地友禅って人がこっちに来なかった?」
「渡久地様ですか? いえ、いらっしゃいませんでしたよ。あの方は車椅子に乗っておられますから、いらっしゃっていたのならすぐに気がついたはずです。……なぜそのようなことを?」
「いや、来てないならいいんだけど。渡久地さんがここに来ることって、よくあるの?」
「よく、というほどではないですね。数ヶ月に一度くらいでしょうか」
「何のために来ているかはわかる?」
「昨日のように特別な会合がセッティングされている日ではなかったはずですから……おそらく貸金庫をお使いになったのではないかと。外部の方がわざわざここへいらっしゃる理由といえばそのくらいですから」
渡久地がアルゴス院の貸金庫をどのように使っているのかも気になるが、さすがにそこに事件との繋がりは見出せそうにない。
「……ところで、二人は一昨日も警備をしていたの?」
乃神が「なぜ一昨日のことなど訊くんだ?」と言いたげな顔をしていたが、美夜子は無視する。
「ええ、私とランスは一昨日も、昨日と同じ時間を担当していました」
アベルが答える。昨日と同じ時間ということは、午後二時から十時の間だ。美夜子は続けて尋ねた。
「じゃあ一昨日のその間に、礼拝堂に入っていく人はいた?」
「礼拝堂に、一昨日ですか? 事件があった昨日ではなく? ええっと、どうだったかな……。七時頃にサラが戻ってきたのは覚えているんですが」
今度はランスが言う。
「もう一人いただろ。夕方頃に」
それを聞いてアベルも思い出したようだった。
「ああ、そうそう。確かにいましたね。夕方の……五時前でしたか。それくらいに一人、礼拝堂に入っていったのを覚えています」
「どんな人だった?」
「キャップを被ってサングラスをかけていたので、顔はよくわかりませんでした。それに厚手のジャンパーを着ていたので、体格から男か女かの判断もちょっと……女性にしては背は高めなように見えましたけど。それと、大きなリュックサックを背負っていましたね」
警備中ということは本館の前から見たのだろうから、礼拝堂まではやや距離がある。細かい人相まではわからなかったとしても仕方がない。
「その人、礼拝堂に入ってからはどうしたの?」
「五分ほどで出てきて、そのまま帰っていきました。何をしに来たのかはわかりません。こんな場所にお祈りに来るような人には見えなかったので、妙だなとは思ったのですが……」
「それが五時前ね……。で、その後、サラさんが戻ってきた?」
「はい。サラはいつも七時頃に別館の手伝いから戻ってきて、礼拝堂の中を軽く掃除してから入り口の鍵を閉めて帰るんです。一昨日もこちらに手を振ってから帰っていったのを覚えています」
「鍵は閉めてから帰るんだね。じゃあ次に鍵が開けられたのは朝?」
「ええ、朝九時にはサラがやってきて鍵を開けるはずです」
「昨日のその時間、警備を担当していた人が誰かはわかる?」
「それならちょうど良い。今入り口の前に立っている二人がそうですよ。私たち二人の前、朝六時から昼の二時までを担当していました」
そう言ってアベルが本館入り口のほうを手で示す。あちらにも確認をしておいたほうがよさそうだ。
――二人への質問はこれくらいで充分か。美夜子は礼を言って、アベルとランスの二人と別れる。
アベル達が去ってから、美夜子は本館入り口前に立つ二人の警備員に話しかけた。
「あのー、すみません――」
こちらの事情を話してから、それから質問をしてみる。
「――それで、昨日の朝九時頃に、サラさんが礼拝堂の鍵を開けるのは見ました?」
二人の警備員のうち一人が答える。
「サラ……ああ、礼拝堂の管理人ですね。はい、いつも九時頃に来て鍵を開けているのがここから見えますよ。昨日もそうでした」
「鍵を開けてから、サラさんはどうしてました?」
「扉を開けて、一度中を覗き込んで確認した後、また扉を閉じて別館のほうに向かったようでした」
「じゃあ、サラさんの後で礼拝堂に入っていった人は?」
「いえ、そういった人物は見ておりません」
「九時頃にサラさんが一度中を覗き込んだくらいで、他には礼拝堂に入っていった人はいなかったんですね?」
「私たちが担当していた時間については、そうです。――だよな?」
もう一人の警備員も「そうですね」と答えた。証言には迷いがなく、信用しても良さそうだ。
アベルとランス、そしてこちらの警備員二人の話から礼拝堂の出入りについてまとめると、こうだ。
一昨日の午後二時から十時の時間、礼拝堂に入った人物は二人だった。まず夕方五時頃に現れ、礼拝堂に入って五分ほどで出て行ったという謎の人物。そして、七時頃に別館のほうから戻ってきたらしいサラ。サラは礼拝堂の中を軽く掃除してから、扉に鍵をかけて帰った。一昨日の夜七時から昨日の朝九時まで、礼拝堂には鍵が掛けられていたのだ。そして昨日の朝九時より後で礼拝堂に入ったのは、鍵を開けた際に中を覗き込んだだけのサラを除けば、午後二時四十五分に来たという神楽が最初になる。その後三時に冬吾がやってきて、神楽と少しの会話をした後、薬によって眠らされてしまう。神楽は冬吾を残したまま礼拝堂を出て会合へ、次に礼拝堂に入ったのは名護修一で、これが五時頃。そして六時頃、彼の遺体が発見された……。
気になるのはやはり、一昨日の夕方五時頃に現れた謎の人物である。美夜子の読みが正しければ、その人物は事件に深く関係しているはずだ。その人物が何のために礼拝堂に入ったのか、そして、正体が誰なのかも既に見当はついている。それを裏付けるだけの確かな証拠はないが……審問会で武器の一つとして使うには充分だ。
そこへ、礼拝堂のほうから織江が戻ってきた。こちらへ駆け寄って来ながら彼女が言う。
「言われたとおりやってみたけど……どうだった、禊屋? 変じゃなかったか?」
アベル達と話をしながら、『実験』の様子はしっかりと確認していた。美夜子は指でOKサインを作って言う。
「ばっちり! あれならバレずに上手くいくと思うよ」
「じゃあ犯人は、『礼拝堂を脱出するために』この方法を使ったってことでいいんだな?」
美夜子はそこで両腕を組み、頭を傾げる。
「うーん……それはどうだろう?」
「あ、あれっ? 何だよー。ここまでやらせておいて、結局違うっていうのか?」
「ああいや、そういうわけじゃなくて……まだそこははっきりしてないっていうだけ。それに、どちらにしてもこれは必要な実験だったんだ。ありがとね、織江ちゃん」
織江は頭を掻きつつ困ったような笑みを浮かべた。
「よくわかんないけど……まぁいいか。どういたしまして」
美夜子たちは身体検査をクリアしてから本館の中に入る。織江と乃神は武器を一時的にロッカーに預けることになるが、さすがに本館の中で襲われるようなことはないだろう。
「おはようございます。調査の進捗はいかがですか?」
ロビーではニムロッドが待ち構えていた。相変わらず感情のないロボットのような話し方をする。頬を叩いたら金属音が鳴るのではないか?
「まぁ順調……かな?」
とりあえずそう言っておこう。
「それは何よりです。こちらからも禊屋様にご報告があります。これをどうぞ」
ニムロッドが渡してきたのは、数枚の紙の資料――名護修一の解剖記録だった。アルゴス院のほうで独自に検死をしていたようだが、ようやくちゃんとした結果が出たらしい。
「――とはいえ、劇的な結果が出たわけでもございません。所見の通り、キャメルの死因は首筋の左側を撃たれたことによる失血死。ただ、首筋と肩の傷及び衣服からカーボンの付着とパウダータトゥーイングの痕跡が認められたので、発砲は近距離から行われたものと推測できます。おそらく十五センチから三十センチの距離とのことでした」
数センチ以内という至近距離から銃で撃たれた場合、傷痕には焦げ跡が残る。銃口から噴き出る高温のガスが弾頭侵入口の周囲を焼くからだ。ではその数センチより距離が離れるとどうなるか? 銃の種類や口径によって差はあるが、ハンドガンであれば距離が十センチも離れていれば焦げ跡にまでなることは殆どないと言っていいだろう。ただし距離が約三十センチ以内であれば、傷口の周囲に銃口から噴き出たカーボンが付着し黒くなるため、それが焦げ跡のように見えることがある。焦げ跡とカーボンの付着痕、この二つはドラマや小説でしばしば同一視されるが、厳密に言えば違った痕跡なのだ。
一方、パウダータトゥーイングとは、銃を撃った際にパウダー(火薬)の残滓が燃焼ガスと共に噴き出ることで、皮膚や衣服に細かい点状の跡を残すことを言う。細かい粒子が皮膚に突き刺さることで刺青と同じような痕になるから、パウダータトゥーイング。このパウダーは銃口から放射状に放出されるので、距離によって点状の痕跡の密集具合が異なる。そこから撃たれたおおよその距離を算出できるというわけだ。
距離十五センチから三十センチということは……やはり、発砲は礼拝堂にあった講壇の中から行われたと考えてよさそうだ。名護が戸を開いた瞬間、中に隠れていた犯人が銃を向けて撃てばちょうどそれくらいの距離になるだろう。
「――そうだ、ニムロッドさん。あなたに確認しておきたいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
昨夜の調査でわかった事実について、やはりアルゴス院にも確認を取っておかねばなるまい。
「『名護修一はかつて、殺し屋の叢雲だった』……これってもちろん、アルゴス院は把握していたんだよね?」
ニムロッドは僅かに片眉を吊り上げた。わかりづらいが、彼なりに驚いたのかもしれない。
「ニムロッドさんがくれた鍵、あったでしょ? あれね、名護さんが自宅とは別に借りていたマンションの鍵だったの。多分、隠れ家的な場所だったんじゃないかな」
「なるほど、セーフハウスの鍵でしたか」
「そう。そこを調べてみたら、叢雲が殺しのターゲットについて記録したファイルがあったんだ。しかも手書きで、筆跡も名護さんのものによく似ていた……。あんなものが部屋にあったってことは、叢雲の正体は名護さんだったとしか考えられない。そして、そんな情報をアルゴス院が知らなかったはずはない……と踏んでいるんだけど、どうなのかな?」
ニムロッドは隠そうともせず、頷いた。
「その通りです。アルゴス院の全員ではありませんが、私のような幹部以上のメンバーはキャメル――すなわち名護修一の前歴がSランクのヒットマン、叢雲であることを把握していました」
「やっぱりね……」
乃神がニムロッドに尋ねる。
「なぜそれを昨夜の時点で我々に教えなかった?」
「事件に関係があることとは思えませんでしたので」
確かに昨夜の時点では、叢雲という名は事件前日に名護が冬吾に向けて仄めかしていたくらいで、事件に関係があるものとは思えなかった。美夜子たちが証拠のファイルを見つけたのだって偶然のようなものだ。現時点でも、動機の線で疑わしくはあるが、事件と叢雲を明確に結びつける要素は見つかっていないというのが正直なところだ。よってニムロッドがわざわざ説明しなかったのも理解はできる。
乃神が続けて質問する。
「その前歴のおかげで、名護修一はここで幹部になれたというわけか?」
「前歴を差し引いても彼は充分優秀なメンバーでしたが、組織に加入して異例のスピードで幹部に昇進できたのにはやはりそれが大きな要因と言えるでしょう。元・伝説級の殺し屋である彼が握っていた多くの情報は、我々にとって大いに価値があるものばかりでしたから」
名護は叢雲として得た情報の数々を手土産にアルゴス院へ入ったということか……。アルゴス院はその情報を他所へ売ったり脅迫や恐喝に使ったりするわけではないから、名護自身はそれによって恨みを買う心配はなかったのだろう。
「他にご質問は?」
ニムロッドがそう言うので、美夜子は一つ訊いてみた。
「名護さんがアルゴス院へ入った理由って、何だったんだろう?」
「……それは私にはわかりかねます。こちらから敢えて尋ねたこともなかったので」
「そう……」
名護は殺し屋を引退後、すぐにアルゴス院へ入っている。表の顔である刑事に専念するのではなく、だ。何か裏社会に身を置き続けなければならない事情でもあったのだろうか……?
「――それでは、審問会の開始までもうあまり猶予はございません。調査の追い込みをお願い致します」
ニムロッドは一礼してから、通路の奥に消えた。
残り時間はあと数時間。それまでにやっておくべきことは沢山あるが……まずはせっかくここに来たのだから、冬吾にこれまでの経過を報告しておこう。あれから半日経って、何か思い出したことなどがあるかもしれない。
美夜子たちは冬吾が軟禁されている部屋に向かった。扉の前に立っていた見張りのアルゴス院メンバーに許可をもらって、中に入れてもらう。
「禊屋……」
美夜子を見て、冬吾は少し安心したようだった。美夜子は軽く手を振って言う。
「やっほ、元気?――なわけはないか。ま、もう少しの辛抱だから我慢してね?」
冬吾は室内のソファに座りながら、曖昧に笑う。平気そうに振る舞ってはいるが、憔悴しているのは見て取れた。こんな何もない部屋に閉じ込められていてはそれも当然だ。
「あんたさぁ、ご飯とかちゃんと食べさせてもらってるの?」
織江が冬吾へ尋ねる。
「一応、パンと飲み物くらいは出してもらえましたけど……」
「ふーん……」
織江は織江で、弟子の様子を心配していたようだ。それを表に出そうとしないところが彼女らしい。
「それで……禊屋。調査の方はどうなってる?」
冬吾のほうもそれが気がかりだったらしい。早速本題に入るとしよう。
「結構色んなことがわかってきたよ。キミにとっては重い事実もあると思うけど……」
「大丈夫だ。話してくれ」
美夜子は頷いて、昨日から今までの調査についてを冬吾に伝えた。
「――……つまり、名護さんがその叢雲っていう殺し屋の正体で……俺の親父を殺した犯人だった……ってことだな」
冬吾はあまり驚いてはいないようだった。半ば予想していたことだったのかもしれない。何しろ冬吾は礼拝堂で気を失う直前、神楽からその事実を告げられていたのだから。
「神楽の言っていたことをそのまま信じるのはまずいと思ってたけど……ずっと、もしかしたらという気はしていたんだ」
冬吾は深いため息をついて、うつむき目元を手で押さえながら苦笑する。
「親父が死んでから四年……あの事件の犯人がずっとこんな身近にいただなんて。……何だか、変な気分だ。怒りも悲しさも悔しさも、全部行き場をなくしてしまったような感じで……。名護さんが生きていたら、きっと言いたいことも聞きたいことも一杯あったんだよ。あの日、いったい何があったのか知りたかった。……でも、殺されてしまったんじゃどうにも出来ないじゃないか」
そう……残された手がかりから二人の間に何があったのかを推測することは出来ても、それには限界がある。真実が語られる機会は、既に失われてしまったのだ。
「……大丈夫?」
慰めようにも、そんなありきたりな言葉しか出せない自分を美夜子は情けなく思う。冬吾は小さく頷いて、目元を拭った。
「……悪い。今はそんなこと悔やんでる場合じゃないよな。そっちこそ大丈夫なのか? 殺し屋に襲われたって言ってたけど……」
その質問には織江が答えた。
「出来る限りの対策は打ってある。それに、今度奴が出てきたら私が始末する。だからそのことは心配いらないよ。心配って言ったらむしろ……」
織江が美夜子に視線を送る。美夜子は無言で小さく首を横に振った。
「――いや、何でもない。とにかく、あんたが心配するようなことじゃないから」
「……? わかりました」
冬吾は違和感を覚えたようだったが、追及してはこなかった。美夜子の体調が芳しくないことは、あえて冬吾には伏せてある。美夜子からすればこれ以上、冬吾に不安な思いをさせたくはなかった。
「――そういえば、これ。何なのかわかる?」
美夜子は千裕の手帳から、小さな手紙を取りだして冬吾に見せる。アリスの部屋にいたときに見つけたものだ。
「手帳のカバー裏に挟んであったの。多分、子どもが書いたものだと思うんだけど……」
「こんなものが隠してあったのか、気づかなかったよ。ええっと……『ありがとうございました。おじさんのことは絶対忘れません』……か。何だろう……親父への感謝の手紙だとは思うけど。親父からこういうものを貰ったって話は聞いたことなかったし、誰が書いたものなのかはわからないな。これって、事件と関係がありそうなのか?」
「ううん。なんとなく気になっただけ」
まぁ今のところ事件と結びつけられるような要素はないから、無理に手紙の差出人を見つける必要はないか。
「じゃああたしの話はこれくらいだけど……乃神さんのほうから何かある? さっきからむつかしー顔してるけど」
美夜子は乃神に水を向けてみる。
「一つ確かめておきたいことがある」
それまで黙っていた乃神が口を開いた。
「勾留されて半日ほど経ったわけだが……今でも、自分は殺していないと断言できるか?」
冬吾は少しの間を置いて、答えた。
「昨日、少し考えた。もしも名護さんが親父を殺した犯人だとしたら、それを知った俺は殺意を抱いたかもしれない。本当は自分で殺していて、それを自覚のないまま都合の良いように記憶を改竄しているんじゃないかって……そんな考えが頭によぎったんだ。――でも、やっぱりそれは事実とは違うと思う。だって、そんなの無理があるだろ。俺一人だけだったら、自暴自棄になってそんな可能性でも信じてしまったかもしれないけど……俺のことを信じてくれる人がいるんだ。そんなの馬鹿げてるって断言できる」
「お前は殺していないんだな?」
「ああ。俺は殺してない」
乃神は頷く。
「……それならいい」
乃神はソファから立ち上がって、美夜子へ向かって言う。
「禊屋。用が済んだらこんなところはさっさと立ち去るぞ」
たしかに、いつまでもここにいるわけにはいかない。美夜子も立ち上がろうとしたが、そこで冬吾が思い出したように言う。
「そうだ。もしも時間に余裕があったら……でいいんだけど。妹の様子を見に行ってくれないか?」
「灯里ちゃんの?」
「夕莉先輩がいるから大丈夫だとは思うんだけど……急に目を離すことになったからどうにも心配で。――あっ、それとだな、一応言い訳はしてあるけど、あいつのことだから俺が厄介なことに巻き込まれてるって感づいてるかもしれない。その時は、それとなく誤魔化しておいてくれると助かる」
行ってあげたいのは山々だが、こういう時は乃神が文句を言ってきそうな気がする。そう思って乃神のほうを見ると、
「妹、か……」
乃神は小さくそう呟いていた。美夜子が見ていることに気がつくと、いつもの素っ気ない態度で言う。
「別に俺に意見を求める必要はない。お前の好きなようにやればいいだろう」
今のはつまり、「行ってもいいよ」の婉曲的表現?
「わかった。時間に余裕があったらキミの家に寄ってみるよ」
冬吾はほっとしたように微笑む。
「ありがとう。迷惑かけ通しで悪いな……」
「いいっていいって。灯里ちゃんの様子はあたしも気になるし」
「えっと……それじゃ、残りの調査もよろしく頼む。気をつけて」
美夜子はパチンと指を鳴らしてから、ウインクした。
「んふふ。禊屋さんにお任せあれ、ってね」
冬吾が軟禁されている部屋を出てロビーへ向かってしばらく歩いたところで、織江が言った。
「今にも首くくって死にそうな状態になっててもおかしかない――と思ってたけど……わりと元気そうだったな」
「そうだね」
美夜子は歩きながら頷く。
「でも、あたしたちに心配かけないように平気そうに振る舞ってる部分もあると思う……」
「平気そうに振る舞ってんのはお前も同じだろ、禊屋。体調は大丈夫なのか?」
「ありがとう織江ちゃん。あたしはだいじょーぶだから!」
相変わらず身体のだるさと熱っぽさはあるが、動くには問題ない。
「それならいいけど、社長が言ってたとおりあんまし無茶は――……ッ!」
織江は途中で言葉を切って、美夜子を庇うように一歩前へ踏み出した。前方から歩いてきている二つの人影にいち早く気づいたのだ。そのうち一方の人影が誰なのか美夜子も遅れて気がついて、身を緊張させる。向こうの二人もこちらに気がついたようだった。
「ほう……これは奇遇なことだ。審問会を前にしたこのタイミングで顔を合わせることになるとはな。だが――会えて嬉しいぞ、禊屋」
「神楽……」
黒色のタイトなスーツに身を包んだ女――神楽は、捕食者の如き攻撃的な微笑みを浮かべて美夜子を見下ろす。その横に、神楽よりも小柄なスーツ姿の男――少年と呼んだ方が適切か――が立っていた。目が合うと、少年は朗らかに声をかけてくる。
「ああ、俺は会うの初めてだよね。ナツメって言うんだー、よろしくね禊屋ちゃん」
「あ、うん……よろしく……」
この少年が事件当時、神楽と行動を共にしていたナツメ……。監視カメラの映像で既に見てはいたが、近くで見ると本当にお人形さんのような美少年だ。今のように男の恰好をしていなかったら、うっかり性別を間違えてしまいかねない。
「ここで何をしている?」
織江が神楽とナツメ両方を警戒するように睨みつけながら問う。神楽は呆れたように肩をすくめて答えた。
「そう敵意を剥き出しにしてくれるな。べつにお前達の邪魔をしようというつもりはないさ。どうせお互い武器もないことだ、組織同士の諍いは忘れて友好的にいこう」
織江は警戒を緩めることなく返した。
「笑えない冗談だな。邪魔をするつもりはないだと? よく言えたものだ……元はといえば今回の一件、仕掛けてきたのはそっちの方だろうが」
「くくく……何のことを言っているのかわからないが、私はただ、審問官としての権利を実行しに来ただけだ。そちらこそ、妙な因縁を付けてきて邪魔をしないでもらいたいのだがな?」
「……チッ」
神楽との言い合いが不毛であることを理解して、織江は一歩下がる。
「審問官としての権利……って?」
美夜子が尋ねると、神楽は隠そうともせず答えた。
「事件に関係することで、アルゴス院に確認してもらいたいものがあって来た。悪いが、対戦相手にその内容までは明かせないぞ?」
「……伏王会側はもうとっくに論証の準備を終えているものだと思ってたよ」
「まぁ、それも間違いではない。昨日のうちに頼んでおいた調査の結果を受け取りに来ただけだからな。戌井冬吾の犯行を立証する用意自体は、既に出来ている」
冬吾の置かれた状況は圧倒的に不利だ。神楽がどのような論証を組み立てているかは未知数だとしても、それに打ち勝つのは並大抵のことでは不可能だろう。
しかし……だからこそ『あの話』をするなら今が好機かもしれない。美夜子は神楽に向かって静かに言った。
「……神楽。少しでいい、あなたと二人きりで話がしたいの」
神楽は口元を歪めて笑う。
「他ならぬお前の頼みだからな……五分だけならいいぞ。ナツメ、少し離れて時間を潰していろ」
「はーい」と言って、ナツメが離れていく。美夜子はそれに倣うように乃神と織江に目で合図を送る。
「……何かあったらすぐ呼べよ」
織江はそう言い残してから、乃神と共に通路の向こう側へ移動した。
「――それで? 話というのは?」
二人きりになったところで、神楽が問いかけてくる。美夜子は、かねてより考えていた案を実行に移す。
「今日の審問会……あたしが勝ったら一つ約束してほしいの。今後一切、戌井冬吾には関わらないって」
「ほう……? では、私が勝った場合はどうなる?」
「あたしの出来る範囲であなたの望み、何でも叶えてあげる」
「くくっ、なるほど。それは面白い……!」
神楽の興味を惹けたようだ。入りは上々……。
「二ヶ月前のあの日、あなたは戌井冬吾にナイツへ入るように仕向けた。あの時既に、あなたの頭の中には今回の計画が存在していたのかもしれない。……でもそんなのどうだっていい。問題は、今回の審問会を無事に切り抜けられたとしても、あなたが彼への呪縛を解かない限りまた同じようなことが起こるかもしれないってこと。だから……あたしが勝ったら潔く彼のことを解放して、もう二度と関わり合いにならないと約束して」
冬吾は不本意な形でこの世界に足を踏み入れてしまった。そうなった原因の一つは自分でもあるから、美夜子はなんとかして冬吾をナイツから抜けさせる方法を考えてきたのだ。その為にはやはり、それを仕向けた張本人である神楽と交渉をするしかない――それが美夜子の出した答えだった。
「ふむ……言わんとすることは理解できるが。しかし仮に私がお前に負けたとして……その約束を律儀に守ると思うのか?」
「……たしかに、あなたは非情で狡猾な人だと思う。目的のためなら何だってやるし、約束を破ることだって平気に思うのかもしれない。それでも、今回は守る……とあたしは踏んでるよ」
「ほう?」
神楽は面白がるように笑う。
「それはなぜだ?」
「あなたは自分に……とりわけその知略にかけては絶対の自信を持っている。違う?」
神楽は無言で肩をすくめる。美夜子はそのまま続けた。
「あなたはきっと、あたしを屈服させるために万全の策を用意して仕掛けてきたはず。そして審問会はあなたが得意とする主戦場でもある。その勝負であなたが負けたとき、あなたは自身のプライドのためにもあたしとの約束を守らなければならない。負けたくせに約束を破るだなんて、そんな無様な真似は自分への裏切りにもなるから。それに何より……伏王会の実質的なトップに立つような人間が、そんな度量の小さなことをするはずがないよね?」
「くくく……それを敢えて私に聞かせるか。意外としたたかだな、禊屋。――だが、更に気に入った。良いだろう、もしもお前が私に勝つことが出来たのなら、その約束は守ってやる。後から小狡い屁理屈を並べ立てることもない。正真正銘、戌井冬吾からは手を切ろう」
やった……! 言質を取った!
美夜子はガッツポーズを取りたくなったが、なんとか抑える。
「だが、私が勝った場合のことも考えておいてもらわないと困るぞ? そうだな…………では、こうしよう」
神楽は美夜子の右肩に手を置くと、顔を下げ左耳へ囁くように言った。
「私が勝ったら……お前にはこれから一生、私の奴隷になってもらおうか?」
「奴隷?」
「そう。お前は私の手駒で、玩具というわけだ。もちろんその時には、お前が逃げられないようにこちらで手を打たせて貰う」
「……どうぞご自由に」
どのみちこの審問会で負けてしまえば、美夜子たちに未来はない。破滅が訪れるのが早いか遅いかの違いでしかない。だから、負けたときのリスクなんて度外視だ。勝って最高の結果を得られるのなら、張れるだけ張ってやる。
「さて……それではお喋りはこれくらいにしておくか」
神楽は美夜子から手を離し、静かに興奮するような笑みを浮かべて言った。
「私はこの日を待ちわびていた……言の葉を刃としてお前と斬り合う、この日を。どうか私を失望させるような戦いはしてくれるなよ、禊屋?」
「……心配いらないよ。約束してあげる」
美夜子は不敵に笑って返す。
「――必ず、あなたに悪夢を見せてあげるってね」
「ふっ……それは素晴らしい」
そこへ、神楽の後方からナツメが近寄ってきた。
「ねぇお嬢~、もう五分経ったけど、話終わった?」
神楽が応じて、
「ああ、ちょうど終わったところだ」
同時に、乃神と織江も通路の奥から戻ってくる。
「ではな、禊屋。また数時間後……今度は決戦の場で会おう」
神楽はそう言い残して、ナツメと一緒に本館の奥へと消えていった。
「禊屋。神楽と何を話した?」
乃神が尋ねてくる。そりゃあ当然気になるだろうとは思うが……勝手にあんな賭けをしたと素直に話すわけにはいかない。美夜子は何でもないフリをして答えた。
「軽ーく宣戦布告、してやっただけだよ」
――本館を出た美夜子たちは、今度は礼拝堂の中に入っていた。美夜子の希望で、現場の再調査をしているのだ。
「――それで、気になってる場所ってのはどこなんだ?」
織江が尋ねると、美夜子は入り口から見て奥にある講壇のところまで移動する。
「ここ、もうちょっと見ておきたくて」
美夜子は講壇の戸を開いて、中を観察し始めた。最初に見たときと同じように、中は大量の血で汚れている。
これまでに入手した情報をまとめると……被害者の腹を切り裂くのに使われたと思われるナイフは、元々この講壇の中に仕舞ってあったものだ。事件発覚後の調査で見つかったときにはレザー製の鞘から外され、被害者の血や体液に塗れた状態で講壇の中に放置されていた。そして、鞘とナイフの両方から冬吾の指紋が検出されている……こんなところか。
犯人はおそらくこの講壇の中から被害者を射殺したと考えられるが、他に何か手がかりは残っていないのだろうか?
「ん~、よく見えないな……」
礼拝堂内が薄暗いせいもあって、講壇の奥の方がはっきりと見えない。美夜子は未だ残る血の臭いを我慢しながら、講壇の中へ頭を突っ込んでみる。すると、奥の面のやや右に寄ったところに、五センチ四方くらいの小さな木の板が釘で打ち付けられているのに気がつく。底面から数えて十センチくらいの低い位置だ。
この板とその周囲にも血痕が付着している。底面に付着した血痕と同じく、犯人が死体の解体作業中にナイフの血を落とそうとして押しつけて拭ったような痕、それに血振りをした際に付着したらしい飛沫状の痕も見られた。
板は角の四カ所を釘で打ち付けられているが、その打ち方は何だか拙い……というか、雑だ。板は斜めに傾いているし、左下の釘なんか半分ほど飛び出してしまっている。軽く触ってみると、ぐらぐら揺れる。少し力を加えれば簡単に外れそうだ。
美夜子は講壇から頭を出して、少し離れた場所で見ていたバフィンに声をかける。
「ねぇバフィンさん。この中にある小さい板、外してみてもいいかな?」
「板? そんなものありました?」
バフィンが近寄って講壇の中を覗き込む。
「うん。ほら見て、中の壁のところに釘で打ち付けられてるの」
「ああ、ほんとですね。まぁ、中の様子は最初の調査でちゃんと記録されているはずですから、外しても問題はないと思いますよ」
ファイルに掲載されていた写真にははっきりと写っていなかったはずだが、ちゃんと板の部分も撮影した写真が別にあるのだろう。
ともかく許可が取れたので、遠慮なくやらせてもらう。
「よっ……と!」
手をかけて引っ張り、板を外した。
「あれっ……?」
板はこれといった手応えもなく、簡単に外れてしまった。すっぽ抜けたという感じだ。釘は粗末な打ち方をされているわりにはどれも板にくっついたままで、指で触ってみてもびくともしないが、講壇との接着は随分と緩くなっていたようだ。
そうか、前に外したことがあったんだ。一度外してから、釘が板を貫通した部分を講壇に空いた釘穴に差し込んであるだけだったのだ。だから簡単に外れるようになっていた。
近くでみるとよくわかるが、釘は錆びているし板も古びている。新たに打ち直したような跡もないため、最近付けられたものではなさそうだ。つまり事件よりもずっと前からこの講壇の中に打ち付けられていた、ということになる。では最初に取り外されたのは何時だったのだろう……。
そして、板で覆ってあった場所には――穴が開いていた。何かでくり抜いたような、直径一センチほどの小さな穴だ。穴は講壇の外側まで貫通していて、覗き込むと礼拝堂の入口側が見えるようになっている。穴が板で塞いであったのと、小さくそして低い位置にあったせいで、外側から見たときには気がつかなかったのだ。美夜子はもう一度、外した板をよく見てみる。
「……ううん?」
美夜子はそう言って、講壇の中から頭を出した。
「何かわかったのか?」
乃神が尋ねてくる。美夜子は首を軽く傾げて言う。
「今一瞬、なーんか閃いたような気がするんだけど…………消えちゃった」
やっぱり頭が熱っぽいからなのか、いまいち冴えがない気がする。
「――まぁでも、大丈夫! 九割方は見えてきたからね」
現場の調査はこれくらいで充分だ。残る問題は……四年前の戌井千裕殺害事件か。手がかりがあるとすれば、あのいかがわしいビデオ屋。やはり、またあそこに行く必要があるようだ。『地下室』へ行くための『鍵』もある。今度こそ、何か手がかりが得られるはずだ……。
――禊屋たちが部屋を出ていってから約十分後、再び部屋を誰かが訪ねてくる。禊屋が何か言い忘れていたことを伝えに戻ってきたのか――と冬吾は思ったが、違った。扉を開けて入ってきた人物を見て、冬吾は驚いて息を呑む。
「やあ、ご機嫌いかがかな?」
「か、神楽……!」
来訪者は、神楽とそれに付き添うナツメだった。ナツメは笑顔で軽く手を振る。
「やっほー、また会ったね」
冬吾が硬直しているのも気にせず、神楽は悠然と向かいのソファに座った。ナツメは少し離れて立つ。
神楽は伏王会側の審問官だ。容疑者との面会は許されるというわけか……。
「……何をしに来た?」
警戒心を最大限に高めつつ、冬吾は神楽に問いかける。神楽は何かを企むような胡散臭い笑みを浮かべつつ、答えた。
「何をしに来たとは、ご挨拶だな。こんなところに閉じ込められている君のことが心配になって、様子を見に来てやったんじゃないか」
「嘘をつくな。……もう騙されない。俺にまた何か妙なことを吹き込むつもりなら、無駄だぞ」
「ははっ、相変わらず可愛いことを言うな君は。君がどれだけ私のことを警戒しようがまるっきり無駄だということが、まだわからないのか?」
「っ……!」
たしかに、昨日だって充分気をつけていたつもりだったのに結果は惨憺たるもの……神楽の術中に完全に嵌められてしまっていた。しかし、「はいその通りです」と認めるわけにはいかない。
神楽はクスッと脱力するように笑う。
「まぁ、安心しろ。今回は本当に何の企みもない。本館に用事があったからついでに寄っただけだ。君に話すことがないというのであれば、私はこのまま帰ろう」
神楽の口ぶりからして、嘘は言っていないようだ。だったら、さっさと帰らせたほうが良い――そうは思いつつも、冬吾はどうしても神楽に訊きたいことがあった。
「さて……どうやら私は君に大層嫌われているようだし、退散するとしようか――」
「ま、待ってくれ!」
慌てて呼び止める。この時点でもう神楽の思惑通りに動かされているのでは――そんな考えが脳裏をよぎったが、この質問をこちらにさせることが神楽の得になるとも思えなかった。
「……一つ訊かせてくれ」
「何だ?」
「何のためにこんなことをした? 名護さんを殺した犯人に協力して、俺を陥れて……それでお前に何の得があるんだ?」
「そんな質問をされて、私が馬鹿正直に答えるとでも思うのか?」
「……答えないだろうな。……やっぱり、俺にはお前の考えていることがさっぱりわからない」
「くくっ……私のことを理解しようとしているのか? 無駄だ、やめておけ。……だが、そうだな……」
神楽は冬吾の座るソファの前に移動すると、両手を背もたれについて冬吾に顔を寄せる。そして、互いの鼻先が触れそうな距離で囁いた。
「……ものは試しとも言う。お互いをわかり合う努力でもしてみるか?」
「ど、努力って……何をするんだ……?」
「さぁな。でも、べつに何をしたって良いだろう……? 私と君とは、既に接吻だって済ませた仲なのだからな」
「せっ……!?」
その声を出したのは冬吾ではなかった。声のした方向を見ると、ナツメがなぜかショックを受けたような顔をしている。
「……どうかしたか?」
神楽がナツメに声をかけると、顔を赤くした少年はしどろもどろになりつつ首を横に振った。
「あ……い、いや、なんでも……」
「……? そうか?」
神楽は冬吾から離れて言う。
「まぁ、冗談はこれくらいにしておくか。――さっきそこで禊屋と会った。順調に捜査を進めているようだな? 今のところ期待通りではあるが……審問会まで保つのか? あれは」
「……何のことだ?」
「気がつかなかったのか? 君も禊屋とは会ったんだろう? ここまで来て君を訪ねない理由はないからな」
「ああ、会ったけど……」
「本館内の空調は適温に保たれている。それで激しい運動をしたわけでもないようなのに、禊屋は薄らと汗をかいていた。顔も僅かに紅潮していて、目はまばたきが多く充血も見られた。まず間違いなく、禊屋は体調を崩しているはずだ」
「そんな……」
気がつかなかった……。なぜ隠していたんだ? ……いや、そんなのはわかりきっている。俺に心配をかけないようにしたんだ。俺はただ自分のことで一杯一杯で、禊屋に無理をさせていることに気がつけなかった……。
言いようのない罪悪感に襲われる。これでもしも禊屋に何かあれば……。
「……君が心配したところでどうにもなるまい?」
神楽が言う。
「今君に出来ることは、彼女を信用して待つことだけだ。それとも、それすらままならないほど心配か? それなら今すぐにでも禊屋へ審問会に出るのを中止するよう連絡するがいい。そうすれば、禊屋がこの神楽に無様に負ける様を見ずとも済むぞ?」
それもそうか。
「……お前の言うとおりだよ、神楽。今の俺には禊屋を待つことしか出来ない。それをわかった上で、俺は禊屋に託したんだった」
神楽の言葉でそれを思い出したのは悔しいが……。
「だから禊屋が俺に心配をかけまいとしてくれたのなら……俺はそれも含めて信じることにする」
織江や乃神も付いている。禊屋はきっと大丈夫だ。
「禊屋は必ず無事に戻ってきて、審問会でお前に勝ってくれるさ」
「ふっ……随分と禊屋のことを買っているんだな?」
「ああ、何回だって言ってやるよ。――俺の相棒なら、お前に勝てる」
「くくっ……面白い。ますます勝負が楽しみになったぞ。――また会おう、戌井冬吾」
神楽は満足気に笑いながら、ナツメと共に部屋を出ていった。
……結局、神楽が何のためにここを訪れたのかはよくわからなかった。彼女の言うとおり、何も企みはなくて様子を見に来ただけだったのだろうか? わからない。やはり、彼女の考えていることを理解するのは不可能なのか……。
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