裏稼業探偵

アルキメ

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case8 女神の断罪

11 叢雲を追った男

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 ナイツ夕桜支社の社長室。岸上薔薇乃はデスクに置かれたPCに向かっていた。美夜子たちのサポート、審問会に際しての各所への手回し、その他支社で抱えている案件の消化など、やらなければならないことは山ほどある。目の回りそうな忙しさだが、それでも美夜子の負担に比べたら大したことはない、と薔薇乃は自らを奮起させていた。

 薔薇乃が作業から一息つくのを見計らったように、扉を控えめにノックする音が聞こえる。

「はい。どうぞ」

 三十半ばほどのスーツの男が部屋に入ってくる。

「お疲れさまです、社長。こちら、ご注文の資料です」
「ありがとうございます、コトブキさん」

 コトブキ――少し前に東北にある支部から移籍してきた男。いつも貼り付けたような笑顔を浮かべているのでどことなく胡散臭い雰囲気はあるものの、仕事ぶりは真面目で優秀だった。

 薔薇乃に大判封筒に入った資料を渡しながら、コトブキが言う。

「――禊屋さんたちは、上手くやってくれているんでしょうか?」
「今のところ調査は順調のようです。彼女を信じましょう」
「それは良かった。さすがですねぇ、禊屋さんは。社長が信頼を置くだけのことはあります」
「……そうですね」

 薔薇乃は資料の内容に目を通しつつ返した。

「それにしても、社長も大胆なことをされますね。今回の審問会、状況だけ見ればナイツ側は圧倒的に不利……それなのに敢えて勝負に挑もうとは。私、少し驚いてしまいました」
「意外でしたか?」
「ええ、まぁ。失敗した時のことを考えれば、大博打ですからねぇ」
「……失敗したときにはわたくし一人で責任を取る用意はあります。極力、あなた達に迷惑はかけないようにしますので、ご安心を」

 コトブキは滅相もない、という風に手を振る。

「失礼しました。そういうつもりで言ったのではなく、私は社長の決断力を素晴らしいと思っているのですよ」
「そうでしたか。それはどうも」

 どうにも軽薄な感じがして本心からの言葉とは思えないが、一応礼を言っておく。

「……そういえば、コトブキさん。気になる噂を耳にしたのですが」
「なんでしょう?」

 薔薇乃は、コトブキについて美夜子から聞かされていた話を本人に確認してみることにした。

「あなたのことを以前、ナイツ本部で見かけたという人がいるようなのです。心当たりはありますか?」

 コトブキは僅かに眉を動かす。

「……それは、禊屋さんが言っていたんですか?」
「なぜそう思ったのでしょう?」
「なんとなくそんな気がしたもので。まぁ、どうでも良いことですね。それはきっと見間違いでしょう。本部になんて行ったことありませんよ。しがない下っ端の私が行く用事もありませんからね」
「……そうですか。わかりました、もう下がって構いません」

 コトブキは丁寧に一礼して、社長室を出て行った。

 薔薇乃は一人考える。コトブキは敵か、味方か……。美夜子からの話は黙っておいてしばらく泳がせておくことも考えたが、それだと場合によっては後手に回ってしまう。だから多少賭けにはなるが、コトブキの反応を見るために敢えて揺さぶってみたのだ。コトブキの表情の変化は乏しく何かを察することは出来なかったが、返答には意味があった。

 美夜子が本部でコトブキを目撃したという話が間違いでないのなら、コトブキはそれを隠したということになる。はっきりとはわからないが、その理由は幾つかに絞られるだろう。

 とりあえず釘は刺しておいた。これからどう動くかはコトブキ次第か。何もなければそれでよし。不審な動きがあるようなら、状況に応じて対策を講じる必要があるだろう。

 それからしばらくして、また社長室の扉をノックする音が聞こえた。他に誰かを呼びつけた覚えはなかったので、薔薇乃は相手を確認する。

「はい。どなたですか?」
「僕だよ、薔薇乃」
「――ッ!」

 扉越しに返ってきた声に、薔薇乃は思わず息を呑んだ。一呼吸置いて、気持ちを落ち着かせてから返事をする。

「……どうぞ」

 スーツ姿の男が部屋に入ってくる。背は高く、長く伸ばした髪をうなじの部分で一つ結びにしていた。男は薄く笑って言う。

「『どうぞ』と言うまでに五秒もかかったね。そんなに僕と会いたくなかったかな?」
「連絡もなしにいきなり訪ねて来られては、驚きもします。……それで、何の御用なのですか?」
「おいおい、そんな素っ気ない話し方やめてくれよ寂しいな。今となっては、たった二人の家族だろ?」
「…………」

 男の名は岸上燐道(きしがみりんどう)、『会長』として犯罪組織ナイツの頂点に立つ男であり――岸上薔薇乃の実父だった。

 燐道の年齢は四十八で、髪には白いものが混じっているが実年齢よりは若く見える。顔立ちは濃いが整っており背も高いため、彼の素性を知らぬ者が見たら、往年のスター俳優かなにかと間違うかもしれない。

 燐道の傍らには一人の男がついていた。スーツを着た初老の男である。真っ白になった髪と鼻下の髭は丁寧に手入れをされており、上品で物腰穏やかな執事といった出で立ちだ。薔薇乃がそちらに視線を向けると、その男は折り目正しく一礼する。

「お久しぶりでございます、お嬢様」
「……ええ、お久しぶりです。鹿野(かの)……」

 鹿野は、燐道が最も信頼を置いている人間である。長年の間、側近として燐道の執務のサポートを行っている他、護衛も務めている男だ。燐道の護衛係は他にも何人かいるが、その中でも鹿野の実力は頭抜けていた。既に六十歳を越えていたはずだが、老境に入ってもなお衰える気配はなく、現在でもSランクのヒットマンに匹敵するほどの腕を持っている。

 また、鹿野は薔薇乃が幼少の頃、その教育係を務めていたこともある。幼い頃に優しく――時には厳しく自分を躾けてくれた鹿野は、薔薇乃にとっては父である燐道よりも親しみを感じる存在だった。

「そちらへどうぞ」

 薔薇乃は二人へソファに腰掛けるよう促すが、燐道はそれを断る。

「いや、このままでいいよ。どうせ長居するつもりはないからさ」
「そうですか……。では、ご用件は?」
「別に用件ってほどのことじゃあないんだけどね。薔薇乃の様子を見に来たってだけだよ。ほら、例の騒動で大変だろうと思ってさ、ふふ。いやぁ、ホントに心配してたんだよ?」

 ……様子を見に来た? 心配していた? 薔薇乃は思わず笑ってしまいそうになる。これほど空々しい言葉もそうそうないだろう。昨日の会合、それに今日の審問会のためにこちらに滞在しているとはいえ、この男がそんなことのためにわざわざ足を運ぶはずがない。

「――で、審問会の準備はどう? 順調かい?」

 本題はやはりそれか。わざわざ取り繕わずとも始めからそう訊けば良いものを。

「禊屋に調査させていますが、今のところは順調と言って良いかと存じます」
「ふぅん……そうか」
「……何か気になられることでもあるのでしょうか?」
「いや、別に? ……と言いたいところだけど、せっかくだから忠告させてもらおうかな」

 燐道は夕食のメニューでも伝えるかのような気軽さで言った。

「残念ながら……今回の審問会、君たちに勝ち目はないよ」
「――ッ!」

 薔薇乃は極力感情を顔に出さないように努めて言う。

「……なぜ、そう思われるのですか?」
「僕がそう思った理由かい? ははっ、そんなの君が知る必要はないんだよ」

 燐道は二、三歩近づいて薔薇乃を見下ろすように立つ。

「問題は、僕がこうしてわざわざ忠告してあげているということだ。君はそれに素直に従っていればいい。今からでも遅くはない、自分の身の振り方というものをよく考えておきなさい」

 薔薇乃は机を叩くように手をついて立ち上がる。

「納得できません。そんな――」
「ま、気持ちはわかるよ? でもね、薔薇乃。これはしょうがないことなんだ。君のところの禊屋とかいうのがどれほど優秀だったとしても、限界というものはある。彼女にはこの審問会の結果を覆すことは不可能だ」
「……わたくしは、そうは思いません。絶望的な状況だということは充分理解していますが……それでも、禊屋なら。相手があの神楽だったとしても、勝てる可能性はあるはずです」

 燐道は「はぁ」と呆れたように言う。

「……わかってないな、薔薇乃。君はまだ自分がどれほど愚かであるかということに気がついていない」

 薔薇乃は表情を僅かに歪めた。こんなことでいちいち腹を立てていても仕方がないが、この男のこういう物言いには虫酸が走る。

 燐道はその機微を読み取ったかのように、肩をすくませ笑った。

「――でもまぁ、それも仕方がないことだね。君はまだまだ若すぎる。だから僕は許すよ。君が僕の忠告に逆らって生意気な口を叩いたことも、密かに百億なんて貯め込んで何かを――きっとろくでもない計画を企てていたであろうことも……全部許そう。大丈夫、かわいい娘が少し馬鹿なくらいで見限る親はいないさ」
「……わたくしが、あなたの娘だから。それだけが理由なのですか?」
「うん? ああ……そうだな。別にそれだけってことはないよ? 今はまだ発展途上だとしても君の才能は僕が他の誰より高く買っているし、こんなところで失うのは惜しいとも思っているよ」

 薔薇乃は目線を下げ、幾分か細い声で言った。

「……それを聞いて少し安心しました」

 燐道は更に続けた。 

「薔薇乃、もう一度だけ言おう。取り返しがつかなくなる前に、審問会からは手を引きなさい」
「それでは……それでは、わたくしのことを信じてくれた者に対してどう釈明しろと……?」
「それは禊屋のことか? 心配ない、彼女なら君にもやむを得ない事情があったと理解してくれるさ。君の親友なんだろう?」
「わたくしが言っているのは禊屋のことだけではありません……!」
「ん……ああ! もしかしてあの事件の容疑者……戌井冬吾といったっけ? あの男のことを言っているのかな? あはは、やっぱり調子でも悪いんじゃないか薔薇乃? そんなことで頭を悩ませるだなんて」

 燐道は本心からおかしそうに笑って言う。

「その男を切り捨てたところで君にとっては何の不都合もないだろう? というかむしろ、組織のためには積極的に切り捨てるべきだと思うがね。僕のほうでもちょっと調べてみたけど、その男は神楽に脅されて修道院に誘い出されたと言っているんだろう? それが事実だとすれば、今後もその男は神楽に利用される危険性があるということじゃないか。いつだって神楽に操られて組織を裏切りかねないわけだ。どうしてそんな爆弾を抱えている必要がある?」
「…………」

 確かに、その通りだ。燐道の言ったことは薔薇乃も既に考えていたことではある。

「どうだろう、僕の言うことは何か間違っているかな?」
「……いいえ」

 薔薇乃が小さく首を横に振って答えると、燐道は柔らかい笑みを浮かべる。

「ああよかった! わかってくれたか。流石、僕の娘だよ。それなら今回は、素直に僕の言うことに従ってくれるね?」
「……ええ、よくわかりました。――やはり会長とわたくしとでは、考え方に大きく相違があるようです」

 眉をひそめて燐道が言う。

「ふぅむ……今の発言はもしや、僕に対する反抗の意思表明かな? 僕の忠告に従う気はないと……そういうことだね?」

 口調は穏やかだが、声には背筋の凍えるような威圧感があった。薔薇乃は震えそうになる手を握りしめて、燐道に答える。

「お言葉ですが……絶対に嫌です」

 燐道は深いため息をつく。

「残念だよ、薔薇乃。君はもう少し利口な子だと思っていたんだが……。そういう意固地なところは母親に似たのかな」

 薔薇乃は握った手に更に力を込める。この男が平然と母に言及してきたことが甚だしく不快だった。無自覚ならまだしもこの男の場合、相手がそう感じると理解した上で発言するから悪質だ。

「わたくしはただ……会長ほど割り切ることが得意でないだけです。組織のために奥方でさえ犠牲にされた会長には、ご理解いただけないかもしれませんが……」
「ははっ、これはまた痛烈だ。嫌みが得意なところはどっちに似たんだろうねぇ?」
「…………」
「まぁ、今の無礼はノーカウントにしてあげるよ。久しぶりに薔薇乃と話せて楽しかったからね」

 燐道は踵を返して扉のほうまで戻ると、部屋を出る前に薔薇乃へ向けて言った。

「君が自分で選んだ答えだ。後悔しても僕は知らないよ?」

 薔薇乃は頷いて答える。

「すべて承知の上です」

 燐道は小さく肩をすくませてから部屋を出て行く。鹿野も一礼した後、それに続いた。

 ようやく社長室で一人きりになった薔薇乃は、デスクに座って項垂れると――疲れ果てたようにため息をついた。






 ――美夜子たちはバー『ラフレシア』を訪れていた。店が開くのは夕方以降だが、今は特別に中に入れてもらっている。

 店の奥にあるテーブル席で美夜子たちは一人の男と向かい合って座っていた。男は年齢三十過ぎくらいで厚手のジャンパーにジーパンという出で立ち、痩せ形で髪はやや薄くなっていた。

「なるほど……大体の事情はわかった。あんたらはナイツの人間で、今日行われる審問会とかいうもののために叢雲の情報を集めている……ってことだな?」

 男はマスターから既におおよその事情を聞かされていたらしく、美夜子たちの説明も驚くことなく受け入れていた。

 男の名は早坂晋太郎、ラフレシアのマスターが半日足らずのうちに見つけ出してくれたフリーライターだ。昨夜出会った草間天明の話によれば、早坂はこの数年間叢雲を追っているらしい。何か有益な情報が得られれば良いのだが、果たしてどうか。

「そういうこと。あたしたち、今は少しでも叢雲について知りたいの。協力してくれたら、お礼はちゃんとします」

 美夜子が言う。美夜子の右側――入り口に近いところに織江が座り、反対の左側に乃神が座っていた。

 早坂はグラスの水を一口飲んでから答えた。

「お礼ね……。ナイツは極悪非道の犯罪組織だと聞いてたが、その辺はきちんとしてるのか。……二つほど確認させてくれ」

 早坂が右手の指を二本立てて言う。

「まず一つ、その事件で殺された名護修一って男があの叢雲だっていうのは確かなのか?」

 美夜子の代わりに乃神が答えた。

「間違いない。奴が所属していたアルゴス院からの言質も取れた。これが名護修一の写真だ」

 そう言って、テーブルに広げた調査ファイルの中から名護の顔写真を早坂に見せる。

「そうか、この男が……。いや、裏が取れてるならそれでいいんだ。俺も叢雲については調べていたが、結局その正体までは辿り着けなかったからな……」

 早坂は裏社会事情にもある程度詳しいようだが、やはり一般人では調べるにも限界があっただろう。美夜子たちが叢雲の正体に気づけたきっかけだって、殆ど偶然のようなものだった。

「じゃあもう一つだけ。あんたらはその事件の黒幕、誰だと踏んでるんだ?」

 また乃神が答える。

「調査の細かい経緯は省くが、名護修一はアルゴス院以外にもう一つ何らかの組織に所属していたらしいということがわかっている。そして、名護はその組織の意向に逆らっていたということも判明した。その為に名護は、組織の刺客によって殺された……その可能性が高いと我々は踏んでいる」
「そういうことか……」

 早坂は両腕を組んでしばらく考えた後、手を打って言った。

「わかった、協力しよう。俺が知ってることは全部話す。本当ならあんたらみたいな連中に手を貸してやる義理はないんだが……どうやら話を聞く限り、俺とあんたらの敵は同じらしいからな」
「敵?」

 美夜子が聞き返す。早坂は頷いて、

「ああ。……まぁ、その辺りは追々話すとしよう。まずは、俺がなぜ叢雲を追っているのかということから始めさせてもらっていいか?」

 美夜子は手を差しだして「どうぞ」と促す。早坂は小さく頷いた。

「俺が叢雲を追うと決めたのは、今から四年前の出来事がきっかけだった。今でこそフリーでやってるが、当時の俺は新聞社勤めの記者でな。そこには俺の尊敬する先輩がいたんだ。名前は左門寺英仁(さもんじひでひと)、俺に記者としてのイロハを教えてくれたのもその人で、日頃から世話になっていた。左門寺さんは正義感が強くてどんな悪や不正にも立ち向かおうとする、ジャーナリストの鑑みたいな人だった……」

 そこで早坂はグラスの水を飲む。続けて、その四年前の出来事について話し始めた。




 ――ある日の夜、俺は左門寺さんの家に呼び出された。「少し手伝ってほしいことがある」、そう言われていたんだが、どうにも様子がおかしいとは感じていたんだ。実際、その予感は当たっていた。

「――お前、ここにあるもので欲しいものがあったら持っていっていいぞ」

 俺が家についてリビングに入るなり、左門寺さんはそう言った。

「どうしたんです、急に?」

 俺が尋ねると、左門寺さんは少し逡巡する様子を見せてから答えた。

「実はしばらくの間、身を隠そうと思っている」
「身を隠すって……どうしてですか?」
「今、ちょっとヤバいネタ追っててな……。気をつけていたつもりだったんだが、どうやらヘマしちまったらしい。相手側に感づかれたような気配がある。俺の動きがバレていたとしたら、そう遠くないうちに向こうから刺客が放たれて俺を始末しにくるはずだ。だからその前に隠れるんだよ」

 冗談で言っているような雰囲気ではなかった。俺は左門寺さんが本当に切迫した状況に追い詰められているということを理解した。

「だ……だったら、警察に相談するとか……」
「いや、ダメだ。この件に関しては警察も信用しきれない」
「そんな馬鹿な」
「相手はそれほど強大な力を持っているということだ。その気になれば国家権力でさえも操ってしまえるほどのな」
「……左門寺さんはいったい何を追っているんです?」
「それは言えない。言ったらお前も巻き込んでしまう。命を狙われるのは俺だけで充分だ。それに、今日お前を呼んだのはその話をするためじゃない」

 左門寺さんはそう言うと、リビングの隅にある引き出しから二つの茶封筒を取りだしてきた。一つは中身が一杯に詰まっていて分厚く、もう一方は薄かった。左門寺さんは分厚い方を掲げて言った。

「この中に二百万入ってる。これを俺の代わりに、ある人の元へ届けてほしい」
「ある人、っていうのは?」
「女だ。まぁ……昔色々とあってな。迷惑かけたこともある。身勝手なことだが、自分が死ぬかもしれないという状況になって昔の詫びをしたいという気持ちになった。だが今俺が訪ねていったら、相手をゴタゴタに巻き込んでしまうかもしれない。だからお前に頼みたいんだ。俺の身の回りで一番信用できる人間だからな」

 俺は頷いて、封筒を受け取った。

「……わかりました。必ず届けます」
「ありがとう。相手の名前と詳しい住所はメモが中に入ってるからそれを見てくれ。俺の書いた手紙も一緒に入ってるが、そっちは見ないでそのまま相手に渡してくれよ? お前は俺からの手紙だと言ってそいつを渡してくれれば良い」
「了解です」
「……もう連絡先もわからないし、住所ももう何年も前の記憶にあるままだ。出向いたとしても、既にいなくなっている可能性のほうが高いだろう。その時は仕方ない。金はお前の好きにしてくれ。あと、こっちはお前への手間賃だ。十五万入ってる」

 そう言って、左門寺さんはもう一方の薄い封筒を俺に押しつけてきた。

「そんなに沢山、受け取れませんよ」
「いいんだよ。自分に必要な分は残してあるから安心しろ。俺からの気持ちだと思って受け取ってくれ」

 そういうことならと、俺はもう一方の封筒を受け取った。――これは後の話になるが、後日俺は左門寺さんに頼まれたとおり、封筒の金と手紙をある女性の元へ届けた。既に引っ越していて住所は変わっていたが、そのアパートの大家が連絡先を知っていたので見つけるのに苦労はしなかった。この女性については今回の話にはとくに関係しないので省略させてもらう。

 ――話を戻そう。俺が左門寺さんから封筒を受け取ったその時、玄関チャイムが鳴り響いた。

「あれ……誰か来たみたいですね」

 俺が言うと、左門寺さんは深刻そうな表情をして答えた。

「……いや、他に誰かが訪ねてくる予定なんてない。宅配便にしちゃ時間が遅すぎるし、外でトラックが止まるような音もしなかった……」
「じゃあ、誰――」

 左門寺さんは「しっ……」と口元の前で人差し指を立てて俺の発言を遮った。またチャイムが鳴る。左門寺さんは玄関に繋がる廊下のほうへ近づいていったが、リビングから出ようとはしない。

 しばらく待っていると――玄関の扉からカチャカチャ、という金属の擦れるような音が聞こえてきた。

「えっ……まさか、鍵をこじ開けようとしてるのか……?」
「なんてこった……予想よりだいぶ早いじゃねぇか」

 左門寺さんが絶望したように言う。

「早いって、何が……?」
「あれは多分、俺を殺しに来た殺し屋だ」
「そ、そんな……」
「すまん早坂。まさかこんなに早いとは予想外だった……。奥の書斎に窓がある。そこから逃げろ、気づかれないように静かにな」
「左門寺さんは!? 一緒に逃げましょう!」

 俺は声を抑えつつそう言ったが、左門寺さんは首を横に振った。

「いや、こうなっては存在のバレていないお前一人ならともかく、俺はもうダメだ。今さら逃げてもすぐに追いつかれるだろう……。やむを得ん。一か八か、賭けに出てみるか」
「何をするつもりです?」
「いいから、お前はさっさと行け!」

 俺は左門寺さんに押し込まれるように書斎のほうへ追いやられた。俺は、左門寺さんが俺を逃がすために自分が殺されることで時間稼ぎをしようとしているんじゃないかと思った。

 窓から逃げろと言われていたが、どうしてもそのまま行く気にはなれなかった。だが、左門寺さんに加勢したら俺まで殺し屋に殺されてしまうかもしれない。それを考えると恐ろしくて出て行けなかった。結局俺はどっちつかずで書斎に残ったまま、ドア越しに隣のリビングに聞き耳を立てることにしたんだ……。

 玄関の扉が開く音がして、その後、誰かがリビングに入ってきたのがわかった。

「左門寺英仁だな?」

 低い男の声だ。冷徹で恐ろしさを感じさせる声……。左門寺さんはいつもと同じような調子で答えを返した。

「そうだ。そう言うあんたは俺を殺すために来た殺し屋か?」
「わかっているようだな」
「別に逃げるつもりはねぇよ。殺すなら殺せ。だが、その前に少しだけ話をしよう。あんたの雇い主についての話だ」
「……何のつもりだ?」
「聞いておいた方が良いと思うがね、あんただって奴に騙されているんだから。……ま、興味がないなら今すぐその銃で俺を撃ち殺せばいいさ」
「……聞くだけ聞こう」
「いいだろう。その前に、あんたの名前を聞いてもいいか?」

 殺し屋の男は一呼吸置いてから答えた。

「叢雲だ」
「叢雲さんよ、あんたは雇い主に命令されてここに来たんだろう? 俺が奴のことをこそこそと嗅ぎ回っているからだ。だが、その詳しい理由は知らされていないはず……違うか? まぁ、殺し屋なんぞに話すわけはないよな。――奴は重大な秘密を抱えているんだよ、決して誰にも話せない秘密を」
「秘密……」
「とりあえず、これを見てくれるか」

 左門寺さんに言われて、叢雲がリビングの奥に移動するのが足音でわかった。おそらくテーブルの上に置いてあったノートパソコンのところへ呼んで、画面に何かを映していたんだろう。書斎の扉からは離れてしまったせいで、それから後の二人の会話は俺にはよく聞こえなかった。

 扉越しに耳を澄まして辛うじて俺が聞き取れたのは、左門寺さんから発せられた「生き残った」、そして「アンドウ」という二つの単語だけだった。それが何を意味していたのかは、今になってもよくわからない……。

 二人は二十分ほど話していたが、それが終わるとその殺し屋――叢雲は静かに家を出て行った……。

「――なんだ、お前まだ逃げてなかったのか!?」

 書斎に残っていた俺を見て、左門寺さんは驚いたように言った。

「左門寺さん、大丈夫なんですか!? 今のやつは……?」
「帰ったよ。とりあえず今日のところは見逃してくれるらしい。話のわかるやつで助かった……」

 そう言って、左門寺さんは額に浮かんだ大量の汗を拭った。

「いったい、あの殺し屋にどんな話をしたんですか……?」
「聞こえてなかったのか? ……まぁ、それならそれでいい。さっきも言ったように、お前には関係のない話だよ」
「そう言われても……」
「……しょうがないな。少しだけだぞ」

 左門寺さんはやれやれ、といった様子で話してくれた。

「俺はさっきの――叢雲という殺し屋を雇った人間のことをしばらく前からずっと調べていた。……相手は途方もなく強大な悪だ。ジャーナリストとして放ってはおけないと思いながらも、今までなかなか手を出せずにいた。奴が悪事に手を染めているという確信はあっても、それを追い詰めるだけの手段がなかったんだ。だが、やっとチャンスが来た。ちょくちょく探りを入れていた成果が実って、ついに奴の弱点を見つけたのさ。奴の抱える、重大な秘密をな」
「それがあれば、そいつを裁くことが出来るんですか?」
「ああ。おそらくはな」
「それじゃ、それを今すぐマスコミに連絡するなりして公表したらどうでしょう? そうしたら相手ももう証拠隠滅なんて出来ない。左門寺さんの身も安全です」
「……いや、それはダメだ。そのスクープにはまだ準備が足りない。俺の推測を裏付けるだけの証拠がないんだ。今それを公表したとしたら、ちょっとした騒ぎを起こすくらいが精一杯で……それで終わりだ。それでは大きな権力を持っているあいつにとってはかすり傷程度のダメージにしかならない。俺も騒ぎが収まった頃に消されるだろう」
「そんな……。じゃあどうすれば……」
「仕方ないさ。身を隠しながら証拠を探していくつもりだ」

 左門寺さんはそんな状況で驚くほど落ち着いていた。

「無茶ですよ! また殺し屋を差し向けられないうちにどこか遠い場所へ逃げるとか……」
「それでは奴を追い詰めるチャンスをふいにすることになる。俺に逃げるという選択肢はない。……まぁそう心配するな。協力者だっている」
「協力者?」
「ああ。さっきの殺し屋、叢雲だよ。俺が雇い主についての秘密を話したら、あいつのほうでも情報を探してみると言ってくれた。依頼主にはひとまず、俺が行方をくらましたために捜している途中だと報告してくれるようだ。まぁ、条件はあったが……」
「条件ってなんです?」
「俺は今その『秘密』について、手元にあるデータの他にもう一つ、別の場所に同じものを保管してある。長期間放置していても大丈夫な場所だ。何らかの要因で手元のデータを失った時の保険、あるいはいざという時の切り札としてそういう用意をしていた。その話をしたら、叢雲はその隠し場所を教えろと言ってきたんだ。それが協力の条件だとしてな」
「教えたんですか、それを」
「場所と、それを取り出すために必要な情報なんかを記録しておいたUSBメモリがあったからそいつを渡した」
「それってマズいんじゃ……? その叢雲ってやつが裏切ってUSBメモリを依頼主に渡したら、せっかくの用意が台無しじゃないですか」
「もちろんその可能性は俺も考えた。だが仕方ない。叢雲の協力が得られなければどのみち俺は死ぬしかないんだからな。それに、叢雲にとってもこれは賭けなんだ。主を疑う行為なんだからな。失敗したときの保険としてそういう情報を押さえておきたいという意図は理解できる」

 左門寺さんは少し疲れたように息を吐くと、俺の肩を軽く叩いて言った。

「――面倒に巻き込んですまなかったな」
「いや、そんなことは……それより、俺にも何か手伝わせてくれませんか?」

 俺は尊敬する左門寺さんの力になりたい一心で言った。――が、左門寺さんは呆れたようにかぶりを振る。

「何度も言わせるな。まだ若いお前を巻き込みたくないんだよ。もうじき子どもも生まれるんだろ?」
「それは……そうですけど」
「さっきお前に頼んだことだけやってくれりゃあいい。どうしても心配だってんなら……そうだな。少なくとも一年以内にはお前に連絡するよ。電話か手紙かメールか、どんな手段になるかわからんが無事に生きてるってことを知らせてやる。それなら文句ないな?」
「……わかりました」
「だが、一年以内に連絡がなかったら……俺は死んだものと考えてくれ。そのときは俺を捜そうとしたり、仇を討とうとしたりなんかは絶対にするなよ。いいな?」
「はい……」
「そう暗い顔するな。もしもの話だ。俺は当分死ぬつもりはないからな」

 左門寺さんはポケットから取りだした煙草に火をつけながら言った。

「――ま、お前は精々頑張って、俺みたいな立派な記者になってくれよ」

 その日を最後に、左門寺さんは姿を消した。それから四年が経った今でも、左門寺さんからの連絡はない。






「――とまぁ、そんなところだ」

 語り終えて、早坂はグラスの水を呷った。

「死体が見つかったって話は聞かないが、もうずっと連絡がないことを考えると、やはり左門寺さんは死んでしまったんだろうな……。その日から一年と半年ほど経った頃、俺は叢雲を探し始めた。左門寺さんが自ら処分したのか、それとも追っ手の仕業なのかはわからないが、改めて左門寺さんの家を訪ねてみると中は既にもぬけの殻だった。左門寺さんが調べていたことが何なのかを知る上で、残された唯一の手がかりが叢雲だったというわけだ。左門寺さんからは止められていたが、やっぱりそのままなかったことになんて出来なかった。なんとかして左門寺さんの無念を晴らしてやりたい、俺の中にはそれしかなかったんだ。今思えば、左門寺さんの忠告は正しかったんだと思う。無謀な行いの代償は高くついたよ」
「代償……って?」

 美夜子が尋ねる。早坂は少しの間を置いてから答えた。

「調査を始めてから半年ほど経った頃だ。俺は新聞社を辞めて、より自由に時間を使うためにフリーになった。それからも家族を食わせるために必要な仕事以外は、時間の全てを叢雲探しに費やしてきた。だがそれでも叢雲の行方は一向に掴めない。どういう人物なのか、その手がかりさえ殆ど集まらなかった。だが……そうした俺の動きは相手に見透かされていたんだ。――ある日、妻が殺された。車に爆弾が仕掛けられていて、エンジンをかけた瞬間に爆発炎上……。その日もそうだったが妻は遠くのデパートに買い物に行く時くらいしか車に乗らなかったから、普段車を使っている俺を狙ったものだったんだろう。その二日後、家の郵便受けにこいつが届いた」

 早坂は鞄から小さなカードを取り出す。カードの色は漆黒で、白い印刷文字で短いメッセージが書かれてあった。

『叢雲ニ手ヲ出スナ 次ハナイ』

「見ての通り、俺への警告と脅迫を兼ねた文章だ。当然差出人の名前は書いていない。直接郵便受けに投げ込まれたんだろう。車に爆弾を仕掛けた犯人も見つかる気配がないし、俺は完全に心を折られちまったよ。それ以上叢雲の調査を続ければ殺される。いや、俺が一人で勝手に死ぬならそれでも構わないが、娘を一人にさせるわけにはいかなかった。妻のように俺の巻き添えで娘に危害が加えられる可能性だってある。それだけは絶対に避けなければならなかった……。結局それから調査は断念……再開したのはつい最近のことだ」
「どうして調査の再開を?」
「……娘がな、死んだんだよ。三ヶ月前に」
「えっ……」
「交通事故だ。酔っ払いの運転するバンに跳ねられての即死。車はその直後に壁に激突、運転手も死亡した。不幸な事故……世間は大した興味もなさげにそう報道したよ。不幸……たしかにそうだ。俺は不幸のどん底に突き落とされた。だが裏を返せば、俺にはもう失うものは何もないということでもある。だったらいっそ全力で叢雲を……そして妻を殺した連中を見つけ出してやろう、と。そう決めたわけだ」

 何もかも失ったからこそ、戦う決意を得た……。早坂の口調は淡々としていたが、その裏に壮絶な苦しみがあったということは美夜子には理解できる。

「――で、ここまでで質問はあるか?」

 滝のような勢いで新しい情報が出てきたため混乱しそうになるが、美夜子はなんとか気持ちを落ち着けてから一つずつ確認を始めた。

「叢雲と左門寺さんの会話であなたが聞いた『生き残った』、『アンドウ』という二つの単語のことだけど、それで何か思い当たることは?」
「申し訳ないがさっぱりだ。左門寺さんに安藤という知り合いがいたかどうかもよくわからん」
「そう……。じゃあ左門寺さんがどこかに隠したっていうもう一つのデータ、そっちの心当たりは?」
「あったらとっくに探し出してるよ」
「だよね……」

 それが見つかれば、左門寺が何を追っていたのかはすぐに判明するのだが……そう都合良くはいかないか。

「……左門寺さんの家に叢雲が現れた日。四年前のいつだったか覚えてる?」
「あれはたしか……十一月の半ばだ。十四日か十五日か……それくらい」

 四年前の十一月、か。戌井千裕が殺害された日は十一月二十日で、その出来事より五日ほど後ということになる。両方とも叢雲――名護修一が関わっているが、これほど近い日であるのはただの偶然だろうか……?

「――しかしあんたら、一体どこで俺のことを知ったんだ?」

 早坂が言う。美夜子は昨夜このラフレシアで会った草間天明という男から聞いたということを伝えた。

「ふぅん……草間、か。そいつに心当たりはないな」
「本人は情報屋みたいなものだって自称してたけど……」
「そいつなりの情報のルートがあって、どこかから俺のことを聞きつけたってとこか……。叢雲のことを調べるときは素性を隠していたつもりだったが、やはりどこかでバレていたんだろうな。俺も気をつけなければ……。――悪い、マスター。水をもう一杯くれるか」

 カウンター奥にいた老紳士が「かしこまりました」と応じて、新しい水入りのグラスを持ってきた。

 そのついでに、美夜子はマスターに確認してみる。

「そういえばマスター、名護さんについて何かわかったことってある?」

 マスターは困ったような顔をして、

「申し訳ございません。実を言うと早坂様に連絡を取らせていただくまでに思いのほか手間取ってしまったもので、そちらは調べる余裕がなく……これといった成果は得られませんでした」
「ううん。あたしこそ無理言っちゃってごめん。早坂さんを探してくれただけでも充分ありがたいよ」

 マスターは一礼してまたカウンターに戻っていく。美夜子は改めて早坂に質問した。

「あなたが叢雲について調べてわかったこと、教えてくれる?」
「たった半日で叢雲の正体にまで迫っちまったあんたらに比べたら、俺の調べられたことなんてちっぽけなもんだけどな……。まぁ、話すだけ話してみるか」

 早坂が話したのは、概ね美夜子たちが既に掴んでいる情報と同じものだった。叢雲は最高の腕前を持つフリーランスのヒットマンで、その正体を知る者は数少ない。殺し屋の活動を開始した時期は今から大体十八年前だと考えられており、そして四年ほど前からその活動は停止しているという。

 知らない情報が出てきたのは、その後だ。

「あとは……そうだな。叢雲にはマネージャーがいたらしい」
「マネージャー?」
「複数の証言が取れたから間違いない。叢雲への依頼の交渉などは専らそのマネージャーが電話で行っていたんだそうだ。もっとも、そのマネージャーについても正体やその後の消息は不明のままだと聞いてるが」

 それは初耳だった。乃神と織江にも確認してみるが、二人とも知らなかったようだ。交渉担当のマネージャーを持つ殺し屋自体はそう珍しいものではないが……名護が殺し屋叢雲を引退した後、そのマネージャーはどうしたのだろうか……?

「他には?」
「うーん……これは参考になるかどうかわからんが、叢雲には以前にも殺し屋としての活動を中断していた時期があるらしい」
「中断していた……?」
「その正確な時期はわからないんだが、もう結構昔の出来事のような口ぶりだったなぁ」
「誰から聞いた話?」
「とある筋から紹介してもらった中年の男でな。数年前まである大組織に所属していたが、仕事でヘマをして脱走、今は顔と名前を変えて生活していると言っていた。その組織の名前までは教えてもらえなかったし、正直言って話に信憑性があるかは微妙なところなんだが……」
「それで、叢雲はなんで殺し屋の仕事を中断していたんだろう?」
「その男が言うには、叢雲は自分の所属していた組織に一年の間、要人の護衛として雇われていたんだそうだ。その要人に付きっきりになるから一年間、殺し屋としての活動は中断していたってわけさ」
「ふーん……」

 早坂はそこでまた水を飲んだ。

「――さて、俺の話はこんなもんで終わりだ。俺の話した情報はあんたらの役に立ちそうかい?」

 美夜子は頷いた。

「うん。まだどうやって情報同士を組み立てるべきかわからない部分もあるけど、きっと事件の真相に近づけていると思う」
「そうか……。それならまぁ、俺の調査も無駄じゃなかったってことかね……」

 早坂は大きく息を吐いて椅子にもたれかかる。

 その時、店のドアが開いて誰かが入ってきた。色の褪せたブラウンのコートを着ている、痩せた若い男だ。

「申し訳ございません。まだ営業時間前でして……」

 マスターが声をかけるが、男はそれを無視して奥に進んで、美夜子たちのテーブルの前に移動する。

 様子がおかしい――美夜子は右側から近づいてくるその男を見てすぐに察知した。男の目は据わっており、足取りはふらふらと夢でも見ながら歩いているかのようだ。そして、店に入ってきたときからなぜか右手を腰の後ろに隠している。

 美夜子の左隣で、織江が何かに気づいたかのようにハッと息を呑んだ。

「みんな伏せろッ!」

 織江はそう叫ぶと、男の立つ方向へ向かってテーブルを蹴り上げた。

「いひっ」

 それとほぼ同時に男が右手を前に出す。その右手には、サブマシンガン――IMIミニウージーが握られていた。

 蹴り上げられたテーブルが倒れて、天板が男の側を向く。美夜子は織江にその天板の陰へと無理やり押し込められた。

 その直後、ラフレシアの店内に連続した銃声が鳴り響く。サブマシンガンのフルオート射撃、テーブルの天板と背後の壁に無数の銃弾が撃ち込まれる。弾け飛んだ木の破片と埃が宙に舞う。

 数秒で銃声は止み、弾切れを起こしたことがわかった。

「チッ――!」

 男はサブマシンガンを床に捨て、何かを取り出そうと左手を懐に突っ込んだ。その瞬間、織江が立ち上がってカランビットナイフを男へ向かって投擲する。ナイフは矢のように鋭く飛んで、男の右目に突き刺さった。

「あっ……がぁ!?」

 男は短い悲鳴を上げてよろめく。そしてよろめきながらも左手を懐から取りだして――そこに握られた手榴弾のピンを抜こうとした。

「させるか……ッ!」

 織江は飛び出すと倒れたテーブルの天板を蹴って跳躍、そして――男の顔面を蹴り飛ばす。男は蹴られた勢いで吹き飛んで倒れ、動かなくなった。右目のナイフが今のキックで更に奥に突き刺さったのだろう。

「はぁ、はぁ……くそ! こいつ、何なんだ……!?」

 織江は男を見下ろしながら言う。それから美夜子のほうを振り向いて、

「怪我なかったか、禊屋?」
「う、うん……あたしは大丈夫。乃神さんは?」

 同じく横で天板に隠れていた乃神に声をかける。

「俺も平気だ。だがこっちはちょっとまずいぞ……」
「あっ……! 早坂さん!」

 乃神の傍らで、早坂は倒れていた。苦しそうに呻いており、左の脇腹から出血している。テーブルに隠れるのが遅れて今の弾を喰らったのだろう。傷の様子を見るに当たった弾は一発か二発というところだろうが、重傷には違いない。

 その時、店のドアが開いてシープが駆け込んできた。

「ななな、何があったんですか!? 店の外まですごい銃声が聞こえましたけど……!」

 シープはいつものように店の外で車に待機させていたのだが、銃声を聞きつけて様子を見に来たらしい。

「シープ君、この人を車で病院まで連れていって!」
「ええ? 誰なんですこの人? あ、もしかして例の叢雲を追っているフリーライターですか?」
「説明してる暇ない! 急いで!」
「は、はいぃ!」

 シープは慌てて早坂の身体を起こそうとする。美夜子は乃神に向けて言う。

「乃神さんもついていってくれる? お願い」
「わかった」

 乃神は頷いて、シープと協力して早坂の身体を持ち上げた。




「――ええ、はい。じゃあ、お願いします」

 織江が電話を切る。

「すぐ用意してくれるって、社長が。運転手も一緒にな」

 シープと乃神が車で早坂を病院へ連れて行ったため、残った美夜子と織江は別の足を使う必要が出てきた。そのため、今しがたの出来事を薔薇乃に報告するついでに別の車を回してくれるよう頼んだのだ。

「ごめんね、マスター。お店めちゃくちゃになっちゃって。ちゃんと修繕の費用は弁償するから」

 荒れた店内を掃除していたマスターに、美夜子が言う。マスターは箒を動かしながら微笑んで、

「いえいえ、禊屋様のせいではございませんとも」
「うぅん……でもさっきのアレ。たぶんあたしを狙って来たんじゃないかと思うんだよね……」

 昨夜の凶鳥と同じく、犯人側がこちらに刺客を差し向けてきたのだろう。そうだとすると、気になる問題があるのだが……。

 その時、店の中のどこかから振動音のようなものが聞こえだした。携帯電話のバイブ音のようだ。

「誰の?」

 美夜子のものではないし、織江のものでもないらしい。マスターも首を横に振る。耳を澄まして音の出所を確認してみると、先ほど織江が倒した男の懐から聞こえているようだった。

 美夜子が動こうとするが、織江が「私がやる」と言って代わりに男の懐を漁る。コートのポケットから携帯電話を取りだすと、それを美夜子に見せた。ディスプレイには見知らぬ電話番号が並んでいる。

 織江は電話を美夜子が聞けるようにスピーカーホンに切り替えてから、通話に応じた。

「……誰だ?」
『おっと。お前が出たってことは、やっぱり失敗したようだな』

 聞き覚えのある男の声だった。

「凶鳥……」

 織江は険しい表情になる。

『よぉ。久しぶりだなぁ、織江。元気だったか?』
「この男はお前が差し向けたんだな?」
『おおい無視かよ! ……まぁいいか。その通り、俺がそいつを送り込んだのさ! お前らをぶっ殺してくれるように期待したんだが、ただのポン中にゃ無理があったか。ははは』

 あの男のおかしな様子、やはり薬物中毒者のそれだったようだ。凶鳥が薬を餌に使って男を雇い、武器を持たせて送り込んできたのだろう。

「昨夜のことといい、卑怯な真似を……。こそこそ隠れてないで出てこい……!」
『冗談ゆーな、アホ。長年の付き合いでお前の強さはよく知ってるんだぜ? 血塗れ織姫を相手にまともな勝負なんてしてられるかよ』
「ちっ……」
『ま、今回はお前らの勝ちってことにしておいてやるよ。だがそろそろ俺も遊んでる時間はないからな。次は、本気でいかせてもらう。……んじゃーな』

 電話が切られる。織江は疲れたようにため息をついた。

「ふざけやがって……」

 織江はそれから携帯電話を少し調べて言う。

「……ダメだな、きっとトバシ携帯だ。向こう側に繋がりそうな情報は入ってない。凶鳥の番号を追っても多分無駄だろう」

 おそらく凶鳥は、この襲撃は失敗する可能性が高いことを承知の上だったはずだ。それならば、回収されると都合の悪い証拠を男に持たせることはなかっただろう。

 美夜子が言う。

「織江ちゃん……あたし気になったんだけど」
「ん? 何がだ?」
「凶鳥は、どうしてあたしたちの居場所を知ることが出来たんだろう?」
「……確かに、妙だな。昨夜みたいに車に発信機は付いてないはずだし、尾行された気配もなかったのに……」

 途中、何度か車を乗り換えてまで尾行は警戒していたのだ。そういったことに敏感な織江でさえ気がつかなかったということは考えづらい。

「ああいや、でも――」織江が気がついたように言う。「私たちがここに来ることは奴ら知っていたんじゃないのか? 昨夜ここを訪れたときは、まだ車に発信機はついたままだったはずだよな。そこから今日もまたこの店に来るだろうということを予測していて、予め私たちを待ち伏せしていた――というのは考えられないか? 」
「……そっか、それはあり得るね」

 美夜子は納得したように言いつつ、考える。裏社会の人間であれば、ここのマスターが情報屋であることを知っていてもおかしくはない。昨夜マスターに調査を依頼して、審問会が開かれるまでにその報告を聞くためにまた『ラフレシア』を訪れる……たしかに、あたしたちが昨夜この店を訪れていたと知っていたら、そういう予測を立てることは可能だろう。

 ……しかし、なんだか釈然としない。発信機の記録だけでは、あたしたちが今日再び店に来るという確信までは持てなかったはずだ。マスターに情報屋としての仕事を頼むとは限らないし、仕事を頼んでもマスターからの報告を電話で受けて終わり、という可能性だってあったのだから。店で待ち伏せをしても無駄撃ちになってしまうこともあり得た。敵はそれも承知の上だったのだろうか……?

 織江が自分の携帯電話のディスプレイを見る。連絡が来たようだ。

「代わりの車、もう用意できたってよ。外に出よう」

 男の死体はナイツの別チームが後で回収する手筈になっているので、ひとまずマスターに礼を言ってから店を出る。凶鳥がまたいつ襲ってくるかわからない状況だ。次は本気だと言っていたから、今度こそ相手の本領である狙撃を仕掛けてくるかもしれない。警戒するだけで防げるというものでもないが、出来るだけの対処はしておいたほうがいいだろう。

 美夜子たちは店を出ると入り組んだ路地を通っていき、なるべく人の多い通りに出てから待ち合わせていた車に乗り込んだ。
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