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case8 女神の断罪
12 手札は揃った
しおりを挟む「……やっぱり尾行はついてない。大丈夫だ」
後部座席からバックミラー越しにリアガラスの向こうを見ながら、織江が言った。あれから二回車を乗り換えつつしばらく街の中を流しているが、その間織江はずっと警戒してくれていたので、どうやら尾行はないものと思って良いらしい。今までのどの車も探知機で発信機がついてないことは確認済みだし、これで敵に追跡されている心配はなくなった……はずだ。
「――では、次はどこへ行きますか?」
運転席に座る男が言う。病院に行っているシープの代わりに薔薇乃が運転手として寄越してくれたナイツのメンバーで、コードネームはエッグ。三十過ぎくらいの男で、名前の通り綺麗なまでのスキンヘッドの持ち主だった。美夜子は仕事で何度か話したことがあるが、いたって真面目な性格の男だと記憶している。
次の目的地、か。あと行っておきたい場所といえば、サラのいる弁当屋くらいかな――と思っていると、窓から見える景色でここが『あの場所』に近いところだと気がつく。せっかくだから、先にあっちに行っておこう。
「あのね、ノラの家に寄っておきたいの。いいかな?」
「禊屋さんがおっしゃるならもちろん構いませんが、場所はご存知で?」
「大丈夫、知ってる」
冬吾が狙われているとわかった先のキバの一件以降、実は美夜子は密かにナイツの構成員の何人かに頼んで、定期的に冬吾の家周囲を見張らせていたのだった。家の大体の場所は冬吾から聞いたことがあったし、少し調べれば詳しい場所を特定するのは簡単だった。もちろん冬吾と、同じくキバの一件で襲われた夕莉の安全を守るための行為ではあるのだが、組織の人間に見張らせているなどと告げると却って不安に思われそうなので黙っていたのだ。結局、見張っている間に変わったことがあったり怪しい人物を見かけたりといった報告はなかったので、バレたら怒られるだろうなと思いつつも冬吾には今まで教えずじまいだった。
エッグに冬吾の家の場所を伝えて、そこへ連れて行ってもらう。閑静な住宅街の中に、目的の家を見つけた。
「家の前で停めて。行くのはあたし一人だけでいい。そう時間はかけないから、二人は待ってて」
さすがに冬吾の家でまで護衛として気を張る必要もないと考えたのだろう、織江は頷いて、
「わかった。何かあったら呼べよ」
そう言って美夜子を送り出してくれた。
車を降りて、冬吾の家の敷地に入り玄関チャイムを鳴らす。三十秒ほどしてから、インターホンから応答があった。
『はーい。どちら様ですか?』
「灯里ちゃん? 禊屋です。禊屋朝子(あさこ)」
禊屋朝子というのは美夜子が使っている偽名である。灯里や夕莉とはもう知らない仲ではないし、どちらも信用に足る人間だということもわかっている。その二人にはべつに本名を名乗っても美夜子的には問題ないのだが、最初に偽名で名乗ってしまった手前、今更訂正するのも憚られるし、何より偽名を使った理由を上手くでっち上げられる自信がないのでそのままにしてある。まぁ、どうせ冬吾は本名ではなく禊屋としか呼んでくれないのだから、偽名のままのほうが都合は良いのだろうが……。
『えっ、禊屋さん!? どうしたの?』
「あー、えっと。お兄さんに頼まれて、灯里ちゃんの様子を見に行ってほしいって」
『お兄ちゃんから? わかった、今開けるね!』
鍵の開く音、続いて灯里が扉を開けてくれた。小柄でおさげ髪、くりっとした目のかわいらしい女の子。どてらを着て暖かそうな恰好をしている。
戌井灯里は十四歳の少女である。アリスと同じ年齢だからつい比べてしまうが、大人びたところのあるアリスに対して灯里は自然体の十四歳という感じ。優しい心の持ち主であるというところは兄によく似ているが、わりと無愛想なところもある兄とは違って非常に人懐っこい。美夜子にもよく懐いてくれているので、美夜子からすればとてもかわいい存在だ。
「わぁー灯里ちゃん! また会えて嬉しいよ、久しぶりだね!」
急にやると驚かれるかな、と灯里を抱きしめたくなる気持ちを我慢しつつ言う。灯里と直接会ったのは、冬吾も入れて一緒にお茶をしたときの一度だけで、久しぶりの再会だった。病弱で定期的に病院へ検診に行っていると聞いているが、見たところ血色もいいし調子は良さそうだ。
灯里はニコッと笑って言う。
「私も嬉しい! 何もないけど、中に入ってゆっくりしていって」
「ありがとう。――ん?」
玄関を見て美夜子は気がつく。
「誰か来てるの?」
玄関の靴を見ながら美夜子が言う。灯里のものにしては大人びた感じの革靴が一足置いてあったのだ。
「ああ、今隣りの――」
灯里がそう言いかけたとき、廊下の奥から誰かが出てくる。セーターを着ていて髪は肩につくくらい、涼しげな目元をした女性だった。
「灯里ちゃん? 誰かお客さん来たの――って、君はたしか……禊屋さん?」
「夕莉さん!」
江里澤夕莉(えりさわゆうり)、この家の隣りに住んでいる女子大生。冬吾より二つ歳上で、落ち着いた雰囲気の女性だ。美夜子はひと月前のキバの事件の際、彼女と知り合った。そしてキバに襲われそうになった彼女を冬吾と協力して助けたのだ――もっとも、彼女自身は二人に助けられたことには気づいていないだろうが。
「この前はどうも、禊屋さん。今日はどうして……?」
「その……戌井くんにちょっと頼まれまして、灯里ちゃんの様子を見に」
「冬吾に?」
「はい。あたしもちょうど近くに用事があったので!」
二人のやり取りを聞いて灯里が言う。
「あ、そっか。禊屋さんと夕莉お姉ちゃんはもう知り合いだったんだよね」
灯里と夕莉は既に美夜子のことをお互い話していたようだ。
「私、夕莉お姉ちゃんにお料理習ってるんだ。今日もお昼一緒に作ったの。結構良い感じだったんだよ? ね、お姉ちゃん?」
「うん。灯里ちゃんは飲み込みが早くて教え甲斐があるよ」
「良い先生がついてくれてるお陰ですよぉ、えへへ」
灯里は夕莉にだいぶ懐いているようだ。アリスと自分のように、血の繋がりはないが本当の姉妹のような関係性なのかもしれない。
「もう少し早く来てくれてたら禊屋さんにもごちそうしたかったんだけど……もう片付けちゃったから」
「そうなんだ。それは惜しいことしちゃったかな? でも偉いね料理の勉強なんて。あたしはどーもそういうの苦手でさー、あはは」
「そうなの? 禊屋さんって何でも出来そうなイメージあったよ」
「そんなことないよ~」と返していると、今度は夕莉が言う。
「そういえば、灯里ちゃんから聞いたよ禊屋さん。この前は違うって言ってたけど、やっぱり君ら付き合ってるんじゃないか」
「えっ」
「冬吾と付き合ってるんだろう?」
そういえば灯里にはそういう設定で話していたんだった……。これも最初に面白がってノリでついてしまった嘘なのだが、訂正するタイミングを逃し続けて今になっている。灯里はともかく、夕莉にまで勘違いされるのは何だかマズい気がする……。これ以上話がこじれないように、誤解を解かなくては。
「いや、それはですねぇ~あっはっは……」
――だ、駄目だ、灯里の前で嘘でしたなんて言えない! 仕方ない、また後で夕莉には話しておこう……。
灯里が廊下の奥を指して言う。
「――立ち話もなんだし、そっちでお話しよ」
リビングに通されて、美夜子は灯里たちとテーブルを挟んで座る。
「あれ、これは……?」
テーブルの上に分厚い本が置いてあるのを見て美夜子が尋ねる。夕莉が答えてくれた。
「戌井家のアルバムだよ。私がちょうど見せてもらっていたところなんだ」
「へー、あたしも見せてもらっていいかな? 灯里ちゃん?」
灯里は頷いて、
「もちろんいいよ」
「ありがとう!」
美夜子はアルバムを開いてページをめくっていく。
「あはっ! ちっちゃくてかわいい~」
今とは似ても似つかない、子どもの頃の冬吾の写真があった。家族と一緒に写った写真もある。千裕のことは既にラフレシアの写真で見ていたが、あれより少し若く見える。母親のほうは初めて見るが、綺麗で優しそうな女性だ。灯里がこのまま成長したらこんな感じになるだろうな、と思った。
「へぇ~、誕生日にはいつも写真撮ってたんだね」
写真の横に「冬吾3歳 誕生日」のように添え書きがしてあるのだ。どうやら毎年冬吾の誕生日に撮影していたようだ。写真の端に記録された日付によると、冬吾の誕生日は五月二十日らしい。
「あれ? 四歳の誕生日の写真がないね。五歳の誕生日の写真はあるのに」
細かいことが気になって訊いてみると、灯里が教えてくれる。
「カメラを持っていたのはお父さんだったんだけど、その頃はお仕事が忙しくて撮れなかったんだって。まぁ、お兄ちゃんが恥ずかしがったみたいで、それより後から誕生日の写真は撮ってないんだけど」
先のページをめくってみるとたしかに、六歳以降の冬吾の誕生日の写真は貼られていなかった。そしてこの頃から写真の数自体が減り、更に被写体から母親の姿が消えていることに気がついた。冬吾から母親は幼い頃に病気で亡くなったとは聞いていたが、それはおそらく灯里を産んですぐのことだったのだろう……。
そして、四年前の灯里の誕生日に撮った写真を最後に以降のページは空白となっていた。
「最近の写真は全然ないんだね?」
「お父さんがいなくなってからは、撮ろうとする人がいなくて……」
灯里は少し悲しそうな顔になって言う。
「あー……そっか……」
配慮に欠ける質問をしてしまったようだ。灯里は千裕が亡くなった頃、そのショックで体調を崩し、病床に伏せてしまったと聞いている。千裕が亡くなった事件に絡めて当時のことや名護について灯里に訊いてみるのも一つの手ではあるが、流石にやめておいたほうがいいか。既に情報は集まってきているし、灯里に無理に負担をかける必要もないだろう。
「ところで禊屋さん、お兄ちゃんのこと何か聞いてる?」
「えっと……」
冬吾がどう灯里に言い訳していたか脳内で確認してから答える。
「あたしはよく知らないんだけど、大学の友達を手伝いに行ってるって聞いたよ?」
「うん。あたしも電話でそう聞いたんだけど……何だか様子が変だったんだよね」
「えっ?」
「手伝うっていったって、具体的に何をしてるのかも教えてくれなかったし……急に泊まりになるっていうのも。今までなかったんだよ、そんなこと」
「ま……まぁ、たまにはそういうこともあるんじゃ……」
「それだけじゃないの。最近のお兄ちゃん、時々態度が変っていうか、何か隠してるみたいで……禊屋さん、心当たりない?」
「へぇ゙っ!? ささ、さぁ……あたしにはさっぱりだよ」
「そっか……今日はクリスマスイブだし、もしかしたら私には適当なこと言っておいて、禊屋さんのところに泊まりに行ってるんじゃないかと思ったんだけど……違ったみたい」
「あはは……灯里ちゃんったらそんなこと言って……」
灯里は勘の鋭いところがあると冬吾が言っていたが、これはもしかすると、バレるのは時間の問題なのでは……? 普段冬吾がなんとか誤魔化そうとしている苦労が偲ばれる。
それにしても、クリスマスイブか……そういえばそうだった、今日は十二月二十四日だ。街中の雰囲気がいつもより浮わついた感じだったのはそのせいか。
「禊屋さん、今日の夜はお兄ちゃんと何も約束してないの?」
「してないけど……」
「信じられない! こんな素敵な彼女さんがいるのにそれを放っておいて何やってんだろ……?」
「あはは……何だろうねぇ?」
「お兄ちゃん、早く帰ってきたらいいのに……。あ! せっかくだから禊屋さんも一緒にクリスマスのお祝いしない? 夕莉お姉ちゃんと一緒に準備しようって話してたんだ」
クリスマスのお祝いを皆で……そうできたらきっと楽しいだろうな。
しかし美夜子はかぶりを振って答える。
「せっかくのお誘いありがたいし、とっても嬉しいけど……あたしは遠慮させてもらうよ。どうしても外せない用事があるんだ」
「そっかぁ……残念だけど仕方ないね」
――とりあえず、灯里の様子は確認できたからこんなものでいいだろう。美夜子は立ち上がって、
「それじゃ、あたしはそろそろ――」
「ええ? もう行っちゃうの?」
灯里はガッカリしたような顔をする。
「ごめんね、この後ちょっと行かなきゃならないとこがあって」
「忙しいんだね、禊屋さん……。わかった、また来てよ」
「あ……うん」
曖昧に頷く。今日の審問会の結果に関わらず、きっともう灯里や夕莉と会うことはないだろう。どちらにせよ、美夜子には会うべき理由がなくなってしまう。
「禊屋さん」
夕莉が呼び止めるように声をかけてくる。
「ちょっとだけ、時間をくれないかな? 二人で話したいことがあって」
「え……? あ、はい。少しなら」
そう言って美夜子は再び座る。
「ありがとう。灯里ちゃん、悪いけど……」
灯里は頷いて、
「わかった、私部屋に行ってるね」
灯里がリビングを出て少し待ってから、夕莉が切り出した。
「冬吾のことだけど……何かあったんだね?」
「えっ? あの……ええっと」
いきなり核心を突く質問で、美夜子はたじろいでしまう。夕莉は静かに話を続ける。
「ひと月前の、ほら……あなたと会った日。あのとき私、暴漢に襲われただろう? あの時に私を助けてくれたのって……冬吾、だよね? そしておそらく、あなたもそれに協力してくれていた……違うかい?」
「……気づいてたんですね」
隠そうとしても無駄だと思った。夕莉は既に確信を得ていて、その場しのぎの誤魔化しでは通じないということが感覚でわかったのだ。
「やっぱりそうだったか……。それじゃああなたも私の命の恩人だね。今更だけどお礼を言わせてほしい。……ありがとう」
「あの、夕莉さん……」
「安心して。べつにあのことについて深く尋ねようとは思っていないよ。冬吾にもあの時にそう言ったんだ。彼やあなたが何を隠そうとしているのかはわからないけど、それはきっと、私や灯里ちゃんが知るべきことではないんだろう……」
そうは言っても、夕莉だって完全に割り切れているわけではないだろう。何の説明もされなかったら冬吾を心配するだろうし、襲われた身としては不安になることもあったかもしれない。
「……戌井君は、あなたや灯里ちゃんを巻き込みたくなかったんです。それは、わかってあげてください。こういう言い方は、とてもずるくて勝手だということはわかっていますけど……今はそう言うしかなくて。すみません……」
「ううん、謝ることはないよ。でも……少しだけ寂しい気はするかな。冬吾はもう私のことを頼ってはくれないんだろうな、と思ってしまって……」
夕莉は一瞬だけ表情に翳りを見せたが、すぐに元通りになる。
「――それより、きっと今回もこの前と同じなんだろう? 細かい事情は話してくれなくても構わない。でも、これだけは教えてほしいんだ……冬吾は今、無事なのかい?」
夕莉はただ冬吾のことが心配で、この話を切り出したのだろう。前回話したときに、彼女の冬吾への思いの強さはよく知っている。美夜子は頷いた。
「今は、大丈夫です。怪我もしてません。ただ……すぐには帰ることが出来ない状況で……」
「そう……なんだ」
「……安心してください、夕莉さん。そうは言っても、今日の夜には帰れるはずですから。約束しますよ。必ず、戌井くんはお返しします」
美夜子は静かに力強く言って、更に続けた。
「それに、もうこんなことは起こりません。これで最後。……あたしも、今回限りで彼の前から姿を消します」
「え? それは……どういう……?」
「こうなったのも、元はといえばあたしのせいなんです。いっぱい……いっぱい迷惑をかけてしまいました。だからもう、こんなことは終わりにするんです」
「禊屋さん……君は……」
「必ず戌井くんは帰ってきます。だから……待っていてあげてください。それが出来るのはあたしじゃなくて、夕莉さんなんです。……お願いします」
真っ直ぐ夕莉の目を見つめて美夜子は言う。夕莉はゆっくりと頷いた。
「……わかった」
「……ありがとう、夕莉さん」
美夜子は穏やかに微笑んだ。
「……あと、最後に言っておきたいんですけど。あたしが戌井君と付き合ってるっているのは、あたしが灯里ちゃんについた嘘ですよ」
「嘘?」
「はい。その場のノリでついちゃった嘘だったんですけど、なかなか本当のこと言い出せなくて……えへへ。だから夕莉さんは安心してください」
夕莉は苦笑を浮かべた。
「安心って、私はべつに……。前にも言ったけど、私と冬吾はそういう関係じゃないんだよ? そりゃ、弟みたいに大事に思ってはいるけどさ……」
「そーですか? ま……それならそれでもいいか」
美夜子はクスッと笑ってから立ち上がる。
「それじゃ、あたしはそろそろ行きますね」
「あ……待って禊屋さん、私からも最後に一つ」
夕莉も立ち上がって、美夜子を真っ直ぐ見つめて言う。
「その……こういうときなんと言ったらいいのか、よくわからないんだけどさ。とにかく思ったままのことを言っておきたいんだ。……きっと私はまだあなたのことを全然わかっていないのだろうけれど、そしてもうそれを知る機会もないのかもしれないけれど……それでも私は、これからもずっとあなたのことを友達だと思ってるよ。もし気が変わったら、いつでも戻っておいで」
「夕莉さん……」
「あなたの無事と……幸せを心から祈ってるよ」
「……はい!」
美夜子は胸に暖かいものを感じながら、力強く頷いた。
冬吾の家を出てから十分後、美夜子たちの車はサラが働いているという弁当屋へ向かっていた。目的地は小さな商店街の一角にある。
美夜子は後部座席に座りながら、携帯電話で調べ物をしていた。渡久地友禅が五年前に遭遇したという事故についての知識を頭に入れておこうと思ったのだ。美夜子は知らなかったが、元政治家で著名な慈善家が見舞われた不幸ということで当時はなかなか大きなニュースになっていたらしい。
その事故について複数のニュースサイトから得た情報を要約すると、このようになる。
事故があったのは今から五年前の九月十六日。この事故で渡久地の妻である渡久地絵羽(とくちえば)と、渡久地の秘書を務めていた真季蘭童(まさきらんどう)が死亡している。二人の享年は絵羽が六十四歳で、真季が四十九歳。ちなみに渡久地友禅はその当時六十七歳だった。
その日の夜、渡久地友禅は財団主催の夕食会に夫妻で出ていた。時刻は夜の九時半頃、夕食会を終えた渡久地は妻と共に秘書の運転する車で帰宅――その途中、大型トラックに追突された。それによって渡久地たちの乗った車は横転しながら大破炎上。夜中だったことと現場が人通りの少ない通りだったため火の手が上がるまで事故に気づいた者はおらず、救助が遅れたようだ。妻の絵羽は車内で焼死、秘書の真季は自力で車から脱出したものの全身に重度の火傷を負っていたため救助が来る前に死亡した。同じく自力で脱出していた渡久地友禅だけが生存した状態で救出されたが、彼も顔と両足に大火傷を負っていた。
大型トラックに乗っていたのは通運会社勤務のドライバー、安賀多刀太(あがたとうた)、三十八歳。過去に一度飲酒運転での逮捕歴がある。事件当時は酩酊しておりまっすぐ立つのも難しい状態だった。トラック側にブレーキ痕のなかった状況から見て安賀多の飲酒運転が原因の衝突事故――そう見られているが、安賀多の供述は取れていない。安賀多が事件の翌日、拘置所内で心臓発作を起こして死亡したためである。なお、安賀多に心臓など循環器系の病歴はなかったという。
事故の記事と一緒に、渡久地と生前の妻と秘書が一緒に写っている写真が掲載されていた。もっともこれもだいぶ古い、財団設立当初に撮られた記念写真のようだが。『月光の会』と財団の名前が書かれた看板を渡久地が掲げており、その後ろに妻の絵羽と秘書の真季が並んで写っている。絵羽は上品そうな婦人で、すらっとした立ち姿が綺麗だ。真季のほうは中肉中背で素朴な顔立ち、これといって特徴のない目立たない感じの男だった。
この事故の後、渡久地は半年ほどの休養をとっている。怪我の治療のためというのもあるが、渡久地がこの事故によって受けた精神的ショックはかなり大きかったようだ。病院関係者の話では、入院していた渡久地は事故からしばらくの間、錯乱状態に陥ったり記憶が混乱したりしている様子がたびたび見受けられたという。
携帯電話をポケットに仕舞って、美夜子は考える。
なるほど確かに悲惨な事故だったようだが、今回の事件とはとくに繋がりはない……ように思える。
あえて気になる点を挙げるとするなら、事故の原因であるトラックの運転手のことか。事故の翌日に拘置所で心臓発作を起こして死んだとのことだが、何だか不自然な感じがする。これは完全な当て推量に過ぎないが、渡久地には裏の仕事の関係で敵も多かっただろうから、安賀多は事故を装って殺すように何者かに指示されていたという可能性もあるだろう。そして予め手回しされていた拘置所内で安賀多は秘密裏に処分され、心臓発作という扱いになった……。そんなことだってあり得ないわけではないのがこの裏の世界だ。まあ仮にそうだったとしても、肝心の渡久地友禅が殺せていない時点で計画は失敗だったのだろうが。
窓から見える町並みで、いつの間にか目的地のすぐそばまで来ていることに気がついた。
「――あの店ですね。そぷらの弁当って看板が」
車を運転するエッグが前方を指して言う。美夜子が以前見た記憶の通り、小さいがもうかなり長くやっていそうな店だった。
「じゃあ、その辺に停めてくれる? あと今回もあたし一人でいいから」
「大丈夫か?」
織江が心配そうに訊いてくる。美夜子は頷いて、
「うん。あたし一人のほうがサラさんも話しやすいだろうし」
尾行の気配もないし、凶鳥たちがこの場所を予測することは出来ないはずだ。襲われる心配はないと見ていいだろう。
「わかった。私たちはここにいるから何かあったら呼べよ」
店から数メートル離れた道路脇に車を停めてもらい、美夜子は一人で弁当屋に入っていく。
「いらっしゃいませ――あ……」
レジカウンターの奥にいたサラが驚いたような表情で美夜子を見る。修道院で見た姿とは違って頭にはウィンプルの代わりに三角巾を被っており、エプロンも付けていた。こうした恰好も小さな店の看板娘という感じでよく似合っている。
「どうかしたの?」
レジの前にいた赤いレザーコートを着た女がサラに言う。清算の途中だったようだ。
「あっ、すいません――三十二円のお返しです。ありがとうございました。またどうぞ」
「はいはい、どーも」
サラからお釣りと弁当の入った袋を受け取って、女がこちらを振り向いた。
「ん……?」
女は入り口に立っていた美夜子を見て歩みを止める。
「ふぅ~ん……へぇ……」
女はじろじろとなめ回すように美夜子を観察し始めた。
「あの……何か?」
困惑して美夜子が言うと、女は手を振って笑う。
「ああいやいや、ごめんごめん! あんまりカワイイ女の子だったから、ついね! いひひっ」
女は長い八重歯を見せて笑う。女の年齢は二十代前半くらい、髪は長い三つ編みになっており、前髪にピンクのメッシュが入っていた。レザーコートの下には黒いインナー、黒いレザーパンツが見える。パンク風のファッションだ。
「ん~でもちょっと風邪引いてるのかな~? 顔が赤いよん? そういうときはだねぇ、生姜焼きがいいのだよ。ここの生姜焼き弁当さ、なかなかいけるんだよぉ、あったかいお味噌汁もついてくるし。あたしのオススメ!」
「そ、そうなんですか、教えてくれてありがとう」
「いえいえどーも。じゃあね~」
女はコートに付いたフードを被ると、手を振りながら店を出ていった。
独特な雰囲気のお客さんだったな……あまり人のことは言えないけど。
気を取り直して美夜子はサラに話しかける。
「どうも、サラさん」
「禊屋さん……。どうしてここへ?」
「アベルさんからここでアルバイトしてるって聞いて来たんです。サラさんにもうちょっとだけ訊きたいことがあって」
「そうでしたか……。すみません。一言お伝えしてから行くべきでした」
「べつにいいですよ。今、お話しても大丈夫ですか?」
「あ、はい。もう昼のピークは過ぎたので……ここでよければ」
他に客の姿はない。今なら落ち着いて話ができそうだ。
「ここで働き出してからもう長いんですか?」
「あ、いえ……このお店はご夫婦でやっていらっしゃるんですけど、お子さんが私のやっている合唱団に来てくれている関係で、よく練習の日にお弁当を差し入れしてくださるんです。でも少し前に奥様が入院されまして、バイトの方だけではシフトが埋められないとのことで……ですから日頃の恩返しも兼ねて、こうして私の都合のつくときにお手伝いさせていただいてるんです」
「なるほど、そういうことだったんですね」
サラの人柄が窺える話だ。よく見てみると壁には合唱団の小さな写真付きポスターが貼ってある。合唱団について簡単な説明と「メンバー募集中」という文字があった。写真の中では小学生くらいの子ども達が二十人ほど列を成しており、その中心でサラが優しげな微笑みを浮かべながら立っている。
「――ところで、あの礼拝堂の講壇なんですけど」
美夜子は本題に移る。
「あの講壇、正面の下側に小さい穴が開いてますよね?」
「ああ、内側から板で塞いである……?」
「そう、それです。板を外して確かめさせてもらいました。あの穴って、なんで開いたのかわかります?」
「あれはランス君のイタズラのせいだってじいちゃ――あ、いえ。先代の管理人から聞いたことがあります。私が引き取られるより前の話なのですが、アベル君とランス君は幼い頃あの礼拝堂とその周りを使ってかくれんぼをして遊んでいたそうです。それでランス君があの講壇の中に隠れようとしたんですが、その時あそこに工具を使って覗き穴を作ってしまったんです。アベル君が探す様子を講壇の中から見て面白がるために。まぁ、その後で先代管理人にたっぷり怒られたそうですけど」
幼い頃のやんちゃなランス少年が思い浮かぶ。
「ということはその時に板で塞いだんですね? もしかして、ランスさんが?」
「はい。ランス君が先代管理人に言いつけられて、自分であの穴を隠すための板を取り付けたそうです」
「やっぱり。釘の打ち付け方が下手っぴだったんで、子どもがやったみたいだなって思ってたんです。――ところであの板って、今までに外したことありますか?」
「いいえ……? わざわざ外す理由はありませんし、ずっと取り付けたままですけど……」
「そうですか……」
「あの、それが事件と何か関係が……?」
「ああいえ、あたしが細かいことが気になる性格ってだけなので」
「そうですか」とサラは納得する。
そのとき、店の入り口のドアが開いて誰かが入ってきた。小学三、四年生くらいの女の子だ。女の子は美夜子を見ると、勢い良くお辞儀をする。
「こんにちは!」
「ん! こんにちは」
美夜子が返すと、女の子は次にサラへ向かって元気よく挨拶をする。
「こんにちは、安藤(あんどう)先生!」
サラは優しげに微笑んで応える。
「あら、さっちゃん。こんにちは。遊びに来たの?」
「うん。ゆうちゃんいる?」
「二階にいるよ」
「ありがとう!」
さっちゃんと呼ばれた女の子は店の奥に入っていく。奥に居住スペースである二階へ上がる階段があるのだろう。
「あの、今の子は……?」
サラは少し恥ずかしそうに笑って、
「私が指導している合唱団の子です。ここの子と仲が良くてよく遊びにきているみたいで……」
「へぇ、そうなんだ……。ところで、安藤先生って呼ばれてましたけど……」
「あ、はい。私、本名は安藤星良(あんどうせいら)というので……」
「安藤……星良さん?」
「はい……それが、何か?」
サラは不安そうに尋ねる。
「いや、べつに……。あの、修道院にいた他の人の本名って知ってます?」
「えっと……私はアベル君とランス君の名前しか……」
「その二人だけで良いです、教えてください」
「アベル君が山科道宏(やましなみちひろ)、ランス君は山科志堂(やましなしどう)という名前です。二人は本当の親が不明でしたので、育ての親である先代の礼拝堂管理人から名字をいただいたそうです。……あの、調べたらすぐにわかることですからお教えしましたけど、一応、私から聞いたということは秘密にしておいてくださいね」
「りょーかいです」
アルゴス院ではコードネームで通している以上、本来なら本名も機密事項に含まれるのだろう。
美夜子は次の質問を投じる。
「今更訊くのもなんですけど、サラさんはどうしてあの礼拝堂の管理人を?」
「二年前に先代の管理人が高齢を理由に仕事を退いたんです。それで後を継ごうとする者もいなかったので、私が……。アルゴス院としても表向き普通の修道院としての体面を保つために、あの礼拝堂を管理する人間は必要だったようです。大した仕事ではありませんが、気楽で私には合っていると思います。重要な仕事なんて私にはとても……私ってどんくさいし、頭も良くないし、それに……」
「……それに?」
「あ……いえ、何でもありません」
何か言いかけたようだったが、それ以上のことをサラは話そうとしなかった。
仕方ない、と思いながら美夜子がまた別の話題を引きだそうとしたとき、店の奥からドタバタと足音が聞こえ出す。そして二人の女の子が脇の扉から出てきた。一人は先ほど奥へ入っていった「さっちゃん」だ。もう一人はここの子どもである「ゆうちゃん」だろうか。
「あ、どうも……いらっしゃいませ」
美夜子に気づいたゆうちゃんがやや恥ずかしそうに言う。お客さんに会ったらそう言うように躾けられているのだろうか。
「こんにちは。二人でお出かけ?」
美夜子が言うと、さっちゃんが答える。
「うん! 商店街でクリスマスフェスティバルやってるから見に行くの!」
毎年クリスマスにこの商店街でやっているイベントのことだ。外で告知のポスターを見かけたので覚えている。模擬店の出店や地元吹奏楽団の演奏、サンタクロースとの撮影会などが行われるらしい。
「外ではしゃいで、転んだりしないようにね」
サラが二人へ向けて言う。さっちゃんは笑って、
「大丈夫だよー。先生とは違うんだからさ、安心して」
「ん? 先生とは違うってどういうこと?」
美夜子が尋ねる。するとさっちゃんは面白がるように教えてくれた。
「あのね、安藤先生って何かに驚いたりしたときすぐ転んじゃうの。この前も合唱団の皆で安藤先生のお誕生日をお祝いしたんだけど、そのこと先生には教えてなかったからすごく驚いたみたい。そのとき腰抜かして尻餅ついちゃったんだよ。ねぇ、ゆうちゃん?」
「そうだったね」
ゆうちゃんの方もその時のことを思い出したように笑う。
「さっちゃんったら、そんな話しなくていいから! すみません、禊屋さん。恥ずかしい話を……」
サラは顔を赤らめて言う。
「あははっ! じゃあまたね~先生」
「もう……」
さっちゃんがゆうちゃんを連れて出ていくのを見送った後、美夜子は笑った。
「サラさんって、良い先生なんですね」
「え? ど、どうしたんですか急に……?」
「だってサプライズで誕生日のお祝いをされるなんて、子ども達から慕われてないと普通ないことですよ。それに子どもに話すときのサラさん、なんていうかこう……自然な感じでした。こういう人って子どもに懐かれそうだなぁって思ったんです」
「良い先生かどうかは自信ありませんけど……そう言ってもらえると嬉しいです」
サラは恐縮したように言う。
「元々は、学生時代の友人の紹介で始めた仕事なんです……合唱団の先生。前の方が急に辞めてしまったとかで、巡り巡って私に話が。始めは私なんかで務まるか不安でしたけど、今は楽しいですよ。皆良い子たちばかりで……」
そう語るサラの顔には嬉しさが滲み出ている。本心からの言葉なのだろう。
「――えと、すみません。つい、訊かれてもないことをぺらぺらと……」
「いいえ。サラさんのことがわかって良かったです」
……そろそろ頃合いか。美夜子はいよいよ核心へと足を踏み入れることにする。
「サラさん。色々訊きましたけど、次が最後の質問です」
「あ、はい……。なんでしょう?」
「サラさん……修道院の事件のことで隠していることがありますよね?」
「えっ……」
サラは虚を突かれたような反応をする。
「修道院で大体の経緯は聞かせてもらいましたけど、あなたはまだ隠していることがあるはずです。……あたしにはわかるんですよ?」
「そ、そんなことは……」
「お願いします。何か事情があるんだろうとは思いますけど……素直に話してくれませんか? あなたの証言で何か見えてくることがあると思うんです、きっと」
美夜子は真剣に頼み込んだ。サラは先ほどまでとは一転して、緊張したような面持ちで美夜子を見つめ返す。
長い沈黙の後、サラは答えた。
「……私は何も隠してなんかいません。修道院で話したことが全てです……」
「……どうしても、話してはくれないんですね?」
「……すみません」
サラはうつむいてしまう。美夜子は目を閉じ、大きくため息を吐いた。
「……わかりました。そこまで言うなら、今は諦めます」
そして目を開け、相手へ強い眼差しを向ける。
「でも、こっちだって大事な人たちの運命が懸かってるんです。……あなたがそのつもりなら、手加減しませんから」
「っ…………」
サラは気圧されたように視線を美夜子から逸らした。
「――じゃあ、審問会でまた」
美夜子は最後にそう言って、そぷらの弁当を出る。
「はぁ…………」
美夜子は往来に出るなり、またため息をついた。
気が重い。審問会で勝つためとはいえ、サラのような人間を追い詰めるというのは気分の乗る仕事ではない。……だがそれも必要なことだと思って、割り切るしかないだろう。
すぐ近くに停めてあった車に向かって歩き始めた、そのとき――
「あっ……」
美夜子は急に目眩に襲われる。足がふらついて、車のボンネットに手をついた。
「禊屋、大丈夫か!?」
後部座席に乗っていた織江がすぐに降りてきて美夜子に駆け寄る。
「あ……はは。ごめん、織江ちゃん。ちょっとクラっときちゃった」
美夜子は織江に支えられながら、後部座席に乗せてもらう。
「また熱が高くなってるな……。やっぱり無理してたんじゃないか、まったく……」
美夜子の額に手を当てながら、織江が呆れたように言った。美夜子は曖昧に笑って返す。
今までなんとか保たせてきたが、流石に体力の限界だったようだ。一度波が襲ってきただけで決壊してしまった。今は身体が猛烈に怠くて、立ち上がるのもキツそうだ。頭の奥からガンガンくるような頭痛もある。
「どうします? 一度、支社のほうに戻りましょうか?」
美夜子の前、運転席に座るエッグが尋ねる。
「ああ、そうしてくれ。禊屋もそれでいいな?」
「うん……」
エッグが車を発進させたところで、コートのポケット内で携帯電話が震える。取りだしてディスプレイを確認すると、シープからの着信だった。
「――はい」
『あっ、禊屋さん。今話しても大丈夫ですか?』
「うん……何かあった?」
『いえ、今しがた早坂晋太郎の手術が終わったんです。弾丸の摘出は上手くいって、今は眠ってます。とりあえずその報告をと思いまして』
「そう……手術成功したんだ。よかった……」
『ただ、麻酔でしばらくは目が覚めないんで、審問会までにまた話を聞くってことは出来そうもないですね』
「いいよ。もう必要なことは聞けたから……」
『そうですか。それならよかった。――ところで、今どちらにいらっしゃるんですか?』
「ええっと……『そぷらの弁当』からの帰りで、車で支社に向かってるとこ。ちょっと気分悪くなっちゃって……」
『ええっ!? だ、大丈夫なんですか?』
「だいじょーぶだって……大したことないし……」
『そ、それならいいんですけど……。――あ、はい。すみません、乃神さんに代わります』
電話相手がシープから乃神に代わる。
『禊屋。もう審問会の準備は充分なのか?』
「んー……完璧ってわけじゃあないけど、今できるだけのことはやったつもり……」
『俺たちのほうで何かやっておくことはあるか?』
「いや、今はないかな」
『そうか。では支社のほうで落ち合おう』
そこでまた相手がシープに戻る。
『すみません、最後に一つだけ。禊屋さんたちが今乗ってる車って、どんなのですか?』
「へ……? どんなのって……?」
『車種と色は?』
「えっと、ブルーのヴィッツだけど。それがどうしたの?」
『ああいえ、実はさっき暇潰しに読んでた雑誌に占いが載ってたんです。ブルーのワゴン車なら僕の今月のラッキーアイテムだったんですけど……惜しかったですね。まあ色は当たってるし、半分くらいは禊屋さんにもツキが回ってくるはずです!』
「シープ君のラッキーアイテムはあたしには関係ないんじゃないかなって思うんだけど……?」
『いえいえ、禊屋さんのラッキーが僕のラッキーなんですって!』
「そ、そう……よくわかんないけど、ありがとう。じゃあ、また後でね」
電話を切る。空き時間で事件について整理でもしてみようかと思ったが……やはりダメだ。頭が朦朧としていて考えもまとまらない。
美夜子は支社に帰り着くまでの少しの間、眠ることにした……。
「――ううん……」
美夜子は目を覚ます。時計を見ると先ほどシープの電話を受けてから二十分ほど経過していたようだ。車外の景色からして、支社に着くまではあと二、三分というところだろう。
「――あ、禊屋が起きたみたいです。話しますか? ……いいんですか? わかりました」
隣の織江は電話をしていたようだ。電話の向こうから僅かに聞こえる声は、おそらく薔薇乃のものだろう。
「それじゃあもうすぐ着くんで、また――」
そう言って織江が電話を切ろうとした、その時だった。
フロントガラスに何かがぶつかったような音。それとほぼ同時に、美夜子の顔になにか液体が降りかかった。
「えっ?」
咄嗟に手で顔を拭うと、その液体は赤くてぬめりがある――……血だ。
「伏せろ禊屋ッ!!」
織江が叫ぶ。事態を呑み込むより前に、美夜子は言われたとおり座席の下に身を屈めた。
直後、身体ごと大きく揺さぶられるような強い衝撃があった。熱と頭痛も合わさって、美夜子は意識が飛びそうになる。
揺れが収まってから、美夜子は顔を上げて状況を確認する。フロントガラスの前に大きな電柱が見えた。道路右側に立てられた電柱だ。美夜子たちの乗っている車はこの電柱に衝突して停止したようだ。
エッグは運転席で項垂れていた。スキンヘッドの後頭部には大量の血液と大きく開いた穴のような傷口……一目で既に死んでいるとわかる。運転手が死に制御を失った車は大きく右に逸れながら直進、対向車線側にある電柱に正面から激突したのだ。
何が……何が起きている? まさかこれは――
「馬鹿ッ!」
織江が叫んで、手で無理やり美夜子の頭を押し下げる。その直後、後部座席のシートに穴が開き、埃が舞った。驚きと恐怖で頭が少し醒めた――ようやく美夜子は事態を呑み込むに至る。
――狙撃だ。スナイパーライフルの弾丸が、フロントガラスを貫通して後部座席へと着弾したのだ。織江が頭を押し下げてくれなかったら、ちょうど撃ち抜かれていた位置だった。
「凶鳥だ……! 気をつけろ、奴の狙撃手としての腕は確かだ……少しでもシートから身体を外に出せばその瞬間に撃たれるぞ! 限界ギリギリまで体勢を低くしてろ!」
織江の警告に従い、美夜子は運転席の座席シートに隠れるように亀の如く身を屈める。最初の一射はエッグの頭部、そしてヘッドレストを貫通して後部座席に達していた。美夜子は寝起きで身体がずり下がっていたため、運良く弾丸を回避出来ていたのだ。
スナイパーライフルの威力を考慮すれば、座席シートを盾にしても、薄い背もたれ部分は内部のフレームごと貫通してくる恐れがある。分厚いクッション部分より下に隠れるようにすればひとまず撃ち抜かれる心配はないだろうが、これではこちらも身動きが取れない。狙撃ポイントは正面方向、そして近くに遮蔽物になりそうなものはないため左右のドアどちらから出ても逃げ切る前に撃たれてしまうだろう。
後もう少し……もう支社のビルだってすぐそこに見えているところだったのに。あと二、三百メートルも走れば無事に帰り着いていたはずなのだ。おそらく凶鳥は待ち伏せしていたのだろう。こちらが調査を終えて支社に帰る、このタイミングを狙っていたに違いない。
『ちょっと、どうしたのですか!? 織江さん!?』
織江が手に持ったままだった携帯電話から、薔薇乃の声が聞こえる。織江は電話に向かって早口で状況を説明した。
「狙撃です……! エッグが撃たれて死にました」
『まさか……!』
「凶鳥です、間違いない。現在位置は支社から北東の立体駐車場そば。敵の位置は詳しくは不明ですが……おそらくここからまっすぐ西側、支社北西にあるビルのどれかです。今こっちは車の中にいますが、狙われていて身動きが取れません。社長、今すぐ救援をお願いします……!」
『わ、わかりました。少しだけお待ちください……!』
このまま隠れていれば救援はすぐに来る。助かった……と思ったそのとき、美夜子は左側のドアの窓から絶望的な光景を見てしまう。
「お、織江ちゃん……あれ……!」
思わず声を上ずらせながら、美夜子は窓の外を指さす。道路の向こうからスーツを着た男たちが四人、こちらに歩いてくる。たまたまその辺りを通りかかった親切な人々が助けに来てくれた……という様子では決してなかった。男たちはそれぞれ手に銃を持っていたのだ。二人はハンドガン、一人はサブマシンガン、もう一人はショットガンのフルコースだ。
織江はそれを見て舌打ちする。
「後詰めまで用意してたってわけか……相変わらずムカツクくらい用意周到だな……」
直後、ショットガンが撃ち込まれて左側ドアの窓ガラスが吹き飛んだ。
「きゃっ……!?」
破片が車内に勢い良く散らばってくるのを美夜子は咄嗟に顔の前に腕を上げて防いだが、その一発を皮切りにして車に向けての一斉射撃が始まった。ドアが盾になってくれているとはいえ窓ガラスのなくなった部分からは銃弾が素通りしてくるため、美夜子は頭を上げることすらできない。
「くそっ……!」
織江も拳銃を構えようとするが、合計四つもの銃から銃弾が間断なく撃ち込まれてくるため牽制することすら出来ない。
「織江ちゃんどうしよう、このままじゃ……!」
身を伏せた状態でも外の状況はギリギリ確認できた。撃たれながら確実に距離を詰められてきている。このまま身を伏せて隠れているだけでは撃ち殺されるのは時間の問題だ。
「どうしようって言われてもね、これじゃどうにもこうにも――あ……ぐッ!?」
織江は短い悲鳴を上げて左肩を手で押さえる。ドアを抜けてきた弾丸が肩をかすめたのだ。
「織江ちゃん!」
「平気だ、大した傷じゃない……。それより禊屋、今から私の言うとおりに動けよ。私がこっちのドアから出て注意を引きつけるから、お前はその間にそっちのドアから出て一気に走れ。凶鳥もそう瞬時に狙いを切り替えることは出来ないはずだ」
「それって織江ちゃんが身代わりになるってこと!? そんなのダメ! 出来るわけないよ!」
「んなこと言ってる場合か! もう時間が――畜生!」
ショットガンを構えた男がドアのすぐ近くまで寄ってきていた。織江は咄嗟に、窓のあった場所から銃を構えようとする。
が――その時、ショットガンを持った男が小さく吹っ飛んだように倒れた。同時に微かに発砲音のような音が聞こえた気がする。どうやら男は撃たれたようだ。美夜子の目には一瞬しか見えなかったが、男は左側頭部を撃ち抜かれたように見えた。倒れた姿は今は確認できないが……。
「な、なんだ!? どこから撃たれた!?」
残された男たちは狼狽したように周囲を見回す。そしてまた同じ発砲音――続いて二人目、三人目と襲撃者たちが倒れていく。
「う……うわあああっ!」
怯えた最後の一人が逃げだそうとするが、無駄だった。即座に身体の中心あたりを撃たれて倒れる。
「ど、どうなってるの……? 凶鳥が撃った……んじゃないよね?」
美夜子は呆然とその光景を見ながら言った。今のは間違いなく狙撃だった。それも凶鳥のそれと遜色ないほどの精度と速さを併せ持ったものだ。助かった――いや、助けられたのだろうか……?
「わからない……けど。もしかしたら……」
織江は呟くように言って、支社のビルを見上げた。
「――おいおいおいおい、どうなってやがる……」
ビルの一室で、『凶鳥』のコードネームを持つ男が呟く。凶鳥はテーブルの上に伏せた体勢で、セミオートのスナイパーライフル――SR-25を構えていた。
場所は風原(かぜはら)ビル十二階の空きテナント。凶鳥は鍵を壊してそこに忍び込んでいた。指定された標的(ターゲット)、禊屋とその仲間を狙い撃つにはここが最適だと判断したからだ。
「狙撃手がいるなんて聞いてねぇぞ……」
舌打ちする。まず凶鳥が狙撃し禊屋の車を足止め、可能ならそのまま撃ち殺すが、車を盾にされるなどした場合は近くに待機させていた別働隊が襲撃し、確実に禊屋を殺すという手筈だった。しかし、その別働隊――襲撃チームの四人は既に全滅。何者かに狙撃されたのだ。
報告では、現在ナイツ夕桜支社が動かせる人員の中に狙撃の心得がある者はいないということだった。だからこそこちらは安心して狙撃に臨める……そういう話だったはずだ。調査になにか手違いがあったのか? それとも……。やはり確認の連絡を入れてみた方がいいか……?
……いや、今はそんなことは後回しだ。とりあえず目の前の出来事に集中する。
また邪魔をされては困る。禊屋たちより、敵の狙撃手を優先して始末しなければならない。相手側がこちらの襲撃を予測出来たとは思えないから、この速さで駆けつけられる場所――狙撃ポイントとして使える場所は、限定されるはずだ。最も可能性があるとすればそれは……ナイツ夕桜支社ビルの屋上……!
ライフルをやや右に向け直し、ズーム倍率を切り替えたスコープを覗いてその位置を探る。しかし目立った人影はないようだった。目立つものといえば屋上塔に雨よけか何かのビニールシートがかかっているくらいで、スナイパーと思しき姿は……。
――いや、いた……!
凶鳥はスコープを覗きながらほくそ笑む。
よく見ると屋上塔のすぐ横、日陰になった場所に、伏せた状態でスナイパーライフルを構えた何者かがいる。薄暗い場所に陣取っている上、黒いロングコートを着てフードも被っているせいで顔はよく見えないが、奴が先ほど襲撃チームを狙撃したスナイパーに違いない。少しでも目立たない位置取りをしたつもりらしいが、残念ながら丸見えだ。
相手のスナイパーライフルの向きはこちらから見て大きく左に逸れた地点を狙っている。相手は車の進行方向側から撃たれたというのがわかっているだけで、まだこちらの正確な位置までは把握できていないようだ。
だとすれば……これほど一方的な勝負もない。凶鳥は勝利を確信して狙撃に移る。
相手との距離は目算で二百五十メートル前後、ナイツ夕桜支社のビルは十階建てだったはずだから、向こうはこちらよりおよそ二階分低い位置だと考えられる。高さの違いによる角度と、先ほど計測した風の向きと強さを計算に入れて……よし。この程度ならスコープの調整は必要ない、感覚で修正できる。
「悪いな。どこの誰かは知らねぇが……相手が俺だったのは、あんたの凶運だぜ」
凶鳥はそう呟いてから、息を少し吸ったところで止め照準を合わせると――ライフルの引き金を絞った。SR-25から7.62x51mm NATO弾が射出され、そしてターゲットに命中する。
――いや……なんだ? 確かに命中したはずだが、様子がおかしい。撃たれた衝撃でコートの一部がめくれ上がる。
「ッ……!?」
凶鳥は驚いて息を呑む。めくれ上がったコートの内側から見えたのは、明らかに人の姿ではなかった。
今撃ったのは人間じゃない……! あれはなんだ……鞄? そうか、鞄タイプのライフルケースだ!
ライフルケースの上からコートを被せただけのものを、凶鳥はスナイパーと見間違えたのだった。
ライフルケースはかなり大きいからコートを被せれば遠目からは人と同じくらいのサイズに見えなくもない。ケースの端から何か棒のようなものが突き出ているからその部分をフードに通しておいたのだろう。そうして頭部のシルエットを作っておいたのだ。それにスナイパーライフルは伏射の際、大抵三脚に固定して撃つものだからそのまま置いておくだけでも勝手に倒れたりはしない。置いておくだけでコートの人物がライフルを構えているかの如く見えるようになっていたのだ。
それに加えて、凶鳥が誤認しやすい条件が整っていた。明るい場所で近くから見たのならそんなもの絶対に見間違えるはずはないが、スコープ越しに見なければならないこととそれが置かれていたのは日陰で暗い場所だったことが影響していた。おそらくあの配置場所も計算の上だったに違いない。敵はそれらの要素を上手く組み合わせることで、ダミーのスナイパーを作り上げたのだ。
待て……――では、本物のスナイパーはどこにいる!?
凶鳥は屋上をもう一度探そうとして、スコープのズーム倍率を下げる。その時だった。
屋上塔の上、そこにかかっていたビニールシートが剥がれる。その下から姿を現したのは、今度こそ人間のスナイパーだった。凶鳥と同じく伏射体勢でライフルを構えている。
凶鳥は即座にそこへ照準を合わせる。敵のスナイパーは男だった。スコープ越しに相手の顔が見える。凶鳥はその男のことをよく知っていた。かつて桜花に所属していた頃、狙撃訓練の成績で凶鳥とトップ争いを繰り返した相手。もっとも、その男が一番得意としていたのは狙撃ではなく、ナイフ術だったのだが……。
「銀狼……!」
凶鳥がその名を呟いた瞬間、スコープ向こうの相手がほくそ笑んだように見えた。目が合った――ような気がした。
「――ッ!?」
凶鳥が引き金を引こうとする直前、銀狼の構えたライフルの銃口が一瞬光る。
「うぁっ!!」
凶鳥は咄嗟に身をよじってテーブルから転がり落ちた。それと同時に、凶鳥のSR-25に取り付けられたスコープを弾丸が撃ち抜く。あとほんの僅かでも回避が遅れていれば、スコープごと頭をやられていたところだ。
危険な目に遭うのは日常茶飯事だが、このレベルはそうそうあるものではない。今にも破裂しそうなほど激しく心臓が鼓動するのを凶鳥は感じていた。
「はっ……はは…………」
凶鳥は床に倒れたまま笑う。
撃ち負けた……この凶鳥が……!
「はっはっはっは……! そうかい、あんたがいたのか! 俺もとんだ凶運の持ち主ってわけだな……!」
銀狼は笑いながらも脳内で考えを巡らせた。
相手側に狙撃手がいないという前提で動いてはいたものの、凶鳥はこちらの居場所が相手にバレないような工夫はしていたつもりだった。スナイパーとしての習性というやつだ。まず窓ガラスとカーテンは閉めきったまま、狙撃に必要な部分だけをくり抜いて視界を確保した。これである程度の距離があれば、外からパッと見ただけではまずこちらの存在には気づかれない。もちろん発砲音を抑えるためのサプレッサーも銃に装着してあった。
銀狼は元々あの屋上で待機していたわけではなかったはずだ。こちらの最初の狙撃よりもっと前から屋上にいたのなら、あのギリギリのタイミングになるまで襲撃チームを始末しなかったことに説明がつかない。おそらくこちらが禊屋たちの車に向けて二発目の弾丸を撃った後、そのタイミングで屋上に到着したというところだろう。
つまり銀狼は屋上に着いてすぐ襲撃チームの狙撃を行った。支社ビルの屋上からあの道路は精々百メートルと少しくらいの距離しかないから、それ自体は銀狼の腕なら問題あるまい。しかし、銀狼が四人を殺してからこちらを狙い撃ってくるまでは一分ちょっと程度の時間しかなかった。銀狼にはこちらの居場所をはっきりと特定するような機会はなかったはずだ。
――それなのに、奴は的確にこの俺を狙ってきた……なぜそんなことが出来た?
いや、待て……そうか! 奴がどうやってこちらの居場所を特定したか……おそらくあのふざけたダミーを使った偽装トリックが関係しているんだ……!
あのトリックはただこちらの誤射を誘うためのものではない。時間稼ぎ、それに心理的揺さぶりを与えるという意図もあるだろうが、最大の目的は――誤射の際のマズルフラッシュだ。発砲すれば必ず銃口から発射薬燃焼による閃光が発生する。奴はそれを見てこちらの狙撃ポイントを確認するために、襲撃チームを始末した後の僅かな時間であのダミーを仕掛け、自分はビニールシートの中に身を隠した……。
「俺はまんまとその罠に嵌まっちまったってわけか……」
銀狼はあの時のたった一回のマズルフラッシュを見逃さず、こちらが照準を合わせ直すより先に撃ってきたのだ。
……その恐ろしさは充分知っていたつもりだったが、こうして敵として相対すると改めてそれを実感する。アドリブだけでここまでやってのけるとは。おかげで禊屋を殺すための計画が台無しだ。
ナイツ本部所属のヒットマンだったはずの銀狼がどういった経緯で夕桜支社を手助けしているのかは知らないが、奴が今後も禊屋の味方をするつもりならかなりの脅威となるのは間違いない。
「――と、感心してる場合じゃねぇな」
すぐにここにもナイツの追っ手が来るはずだ。その前に逃げなければ。凶鳥は起き上がって逃げるための準備をする。
「次こそは仕留めてやるぜ……禊屋……」
残り猶予は少ない。おそらく次が最後のチャンスになるはずだ。万全を期して計画を立て直さなければ。
現在、夕桜支社の戦力で凶鳥にとって禊屋殺害の障害となりうるのは織江と銀狼の二人だ。どちらを相手にする場合でも直接対決では自分に勝ち目がないことを凶鳥は知っている。だから今までのように狡賢く立ち回り、相手と同じ土俵には立たない戦い方をするつもりだ。凶鳥はそうやって今まで生き残ってきた。
だが、もしも、「同じ土俵」を強いられる場合があるとすれば……どちらを相手にしたほうがマシだろうか? 強さでいうなら銀狼のほうが圧倒的に上のはずだが、どちらか一人を選べるなら、凶鳥は銀狼と戦うことを選ぶだろう。
……無意味な仮定だ。そんな状況はまずあり得ない。凶鳥は自分のした想像を馬鹿馬鹿しく思って自嘲する。
「頼むから引っ込んでてくれよ……織江」
ほぼ無意識のうちに、凶鳥は口に出していた。その願いが本人に届くはずも、そして叶うはずもないということは承知の上だった。
「――禊屋と織江さんを助けていただいたこと、重ねて感謝致します。銀狼さん」
ナイツ夕桜支社の社長室で、薔薇乃は丁寧に頭を下げて言った。向かいのソファに座る銀狼はカップに注がれたコーヒーを飲んでから、手を軽く上げて笑った。
「ああ、ぜ~んぜんいいってことよ。何でも協力するって禊屋ちゃんと約束してたしな。っていうか、逆にすまねぇ! 俺が仕留め損なったせいで凶鳥の野郎に逃げられちまった」
「いえ、それはあなたのせいではありませんとも」
あの後すぐに凶鳥が狙撃場所として使っていたビルのテナントに支社の人員を差し向けたが、既にもぬけの殻だった。凶鳥というだけあって悪運の強さでは相当なもののようだ。
「それにしても運が良かったよ。ちょうど社長さんから仕事を頼まれてたときだったんだもんな」
銀狼があの時すぐに屋上に駆けつけることが出来たのは偶然だった。あの直前、薔薇乃は凶鳥への対抗策として、銀狼に仕事を頼んでいたのだ。
銀狼が狙撃手として凶鳥に対抗しうる腕前の持ち主であることは薔薇乃も知っていた。だから凶鳥がどのような動きをしてくるか、それにどのような対策を打つべきか……狙撃手視点でのアドバイスを貰えるよう頼んだのだ。そして、場合によっては凶鳥を逆に狙撃で仕留めてもらいたいということも。
ただ、銀狼の殺し屋としての本領は近接戦――ナイフでの戦闘にある。狙撃手としての仕事をするのは久々だったらしく、銀狼は勘を取り戻すために屋上で試し撃ちをするつもりだったのだ――もちろん試し撃ちと言ってもビルの看板の目立たない部分などを狙うつもりだったようだが。銀狼は支社に保管してあったスナイパーライフルの中から使えそうなものを二丁ほど選んで屋上に移動、凶鳥の襲撃はちょうどその時に起こったのだった。
「いや~でも参ったぜ。ちょーっと試し撃ちするだけのつもりが、あんなことになるなんてよぉ……。おかげでスコープの調整をする暇もなかったんだ。まぁ元からある程度合わせてあったから助かったけど、ありゃあやっぱり自分でやっとかないと気持ち悪くてしょうがねえや」
電話で織江から状況を聞かされたあの時、急なことだったので薔薇乃も慌てて銀狼に連絡を入れたのだ。結果としては上手くいったからよかったものの、銀狼にはかなり無茶をさせてしまったようだった。
「――んで、禊屋ちゃんの容態はどうなんだ?」
銀狼は美夜子を心配するような顔で言う。
「また熱がぶり返したようで……今は別室で休んでいます」
「そうかぁ~……可哀想になぁ……。審問会までに良くなってくれりゃいいんだけど……」
銀狼はうつむいてため息をついた。その時、社長室の扉を誰かが叩く。
「静谷です。入ってよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
織江が部屋に入ってくる。織江と銀狼は一瞬だけ目を合わせたが、互いに何も言わなかった。二人の間に過去何があったのか、薔薇乃は聞かされていない。おそらく桜花に所属していた頃に何かあったのだろうとは思うが……。
「お怪我の具合はどうですか?」
薔薇乃が尋ねる。先ほどの襲撃の際に織江は肩を撃たれていたため、治療を受けさせていたのだ。
「ご心配お掛けしました。大したことありません。弾が侵入したわけでもなし、かすり傷みたいなもんでした」
そう言って、織江は撃たれた左肩を軽く動かしてみせる。
「それならよかった。仕事には支障ないと考えても?」
「はい、問題ありません」
すると、銀狼が織江へ向けて言った。
「また凶鳥は来るぞ」
織江は表情を強張らせる。
「多分、次で最後だ。そして、どちらかが死ぬことでしか終わりはない」
「……そんなことはわかっている」
銀狼を睨んで言った。
「お前に言われるまでもない。私があいつを殺して、それで終わりだ」
「……わかってるならいいんだが」
銀狼はそれで会話を打ち切るつもりだったようだが、織江はなおも銀狼に向き合っていた。
銀狼が気まずい雰囲気に耐えかねたように言う。
「な、なんだよ? まだ何か言いたいことでもあんのかよ?」
「…………助かった」
「は……?」
「礼は言っておく…………一応」
「…………お、おう」
織江は深く息を吐くと、そのまま部屋を出ていこうとする。その時、薔薇乃の携帯電話に着信が入った。織江も足を止める。
「――あ、禊屋からですね」
ディスプレイを確認して薔薇乃が言う。そして通話に応じる。
「はい?」
『あ……薔薇乃ちゃん?』
「もう、平気なのですか?」
『うん、心配かけてごめんね。ちょっと休んだらだいぶ楽になったよ』
「あまり無理はされないほうが……」
『ありがとう。でももうあんまり時間ないし、頑張るよ。それで、これからのことについて話しておきたいんだけど……今から言う名前の人たちだけ、社長室に集めておいてくれる?』
「……? わかりました」
美夜子の言い方に少し引っかかるものを感じたが、薔薇乃は言うとおりにすることにした。
美夜子は、夕桜支社内にあるラウンジスペースに一人でいた。最後の作戦会議も終わって、決戦のときは目前まで迫ってきている。
一時間後、審問会が行われる聖アルゴ修道院へ向かう。事件の真相はまだ全てが見えたわけではないが、名護修一を殺害した犯人の目星だけはついている。それを裏付けるだけのはっきりとした証拠はまだ手元にない。しかし、方程式の犯人という変数にその名前を代入すると綺麗に答えが成立するのだ。あとは流れを見つつ審問会を戦っていくしかないだろう。
最大の問題は、相手があの神楽だということ。犯人の目星がついているとはいえ、そう簡単には勝たせてくれないはずだ。
とはいえ、今更不安がっていても仕方がない。今のうちに出来ることをしておこう。
美夜子は休憩用のソファに座りながら、手元のファイルのページをめくる。……あった。最初にぺらぺらとめくっていった際に見た覚えがあったので確認してみたが、やっぱりだ。
美夜子が読んでいるのは、名護の隠れ家で見つけた叢雲のターゲットを記録したファイルである。美夜子が開いたページには写真は貼られていなかったが、二人の名前が記されていた。
『名前:安藤貴保 安藤雪江』
『職業:偽造屋(通称セイレーン)』
『年齢:不明』
その下の備考欄には、今から十七年前の十二月の日付が記載されている。横には「完了」の二文字。偽造屋、主に免許証やパスポートなどを偽造することで対価を得る裏の商売だ。セイレーンというのは偽造屋としての通り名のようなものだろうか。一応、アリスにナイツのデータベースで調べてもらえるようにメールを送っておく。十分も待てば報告が来るだろう。
サラ――本名、安藤星良の両親が殺されたのも十七年前だったとアベルが言っていた。もしもこの二人がサラの両親だったとしたら……。
……そういえば、叢雲関係ではもう一つ気になっていたことがあった。早坂が言っていた、叢雲には以前にも殺し屋を休業していた時期があったという話。その話が正しいのであれば、このターゲットファイルの日付にも空白の時期が存在するはずだ。
改めてファイルに記録された案件の日付を順に確認していく。すると確かに、十八年前から四年前までの十四年間の活動の間に、約一年間、一件も記録されていない期間が存在していた。
早坂の話通りであればその一年間、叢雲はどこかの大組織の護衛として雇われていたために殺し屋としての活動は休止していた……ということになるのだろう。……しかし、この事実が今回の事件と関係しているかどうかはまだわからないというのが正直な感想だった。
ふと背後に気配を感じて、美夜子は振り返った。
「――あ、すいません。お邪魔でしたか?」
癖毛の青年が遠慮がちに言う。シープだった。
「ううん、いいよ。何か用だった?」
「いえ、ちょっと喉が渇いちゃって」
シープはそう言いながらラウンジの隅に置かれたコーヒーメーカーから使い捨てカップへコーヒーを注ぐ。
「あ、そうそう。例の作戦ですけどね、準備は滞りなく終わりました。一応報告しときます」
「そう、わかった」
「きっと大丈夫です。あれならきっと凶鳥を出し抜けますよ!」
次に凶鳥が襲ってくるとしたら、支社から修道院までの移動中だ。それが凶鳥にとって最後のチャンス、仕掛けてこないはずがない。だから美夜子は、それを見越してある罠を仕掛けた。それが上手くいったら、凶鳥の襲撃を回避できる……いやそれどころか状況を一気に好転させることすら出来るかもしれない……。
「あっつ! ここのコーヒーってやたら熱いの出てきません?」
立ったままコーヒーに口をつけて、シープは大げさなリアクションを取った。
「……ねぇ、シープ君。一つ訊いてもいい?」
「はい? なんですか?」
「シープ君はどうしてナイツに入ったの?」
「はぁ……どうしたんです? 急に」
「いやぁ、答えたくないならべつにいいんだけどさ」
「ああそういうわけじゃ……まぁ、大した理由はないんですよ」
シープは照れたように笑ってから話し出した。
「僕の家、母親と二人暮らしだったんです。でもその母親がちょっと厄介な病気になってしまって……頼れる身内もいなくて生活するのですらギリギリだったのに、治療費なんて出す余裕なくて。でもこんな俺を女手一人で育ててくれた唯一の肉親なんで、見捨てるのも気が引ける……みたいな。でも俺、学も技術もなかったから手早く大きく稼げる仕事ってなるとそういう系のものしかなかったんですよね。……結局、母は少し長生きしただけで死んでしまったんですけど。そういう経緯で裏社会に足を踏み入れて……んで、気がついたらここにいた――という感じです」
「……そう。なんていうか……大変だったんだね。こんな軽率な言い方すると悪いかもしれないけど……」
「あーいやいや、僕の人生なんか全然大したことありませんって!」
シープは笑って流そうとする。口ぶりは軽いが彼は彼なりに重い運命を背負ってきたに違いない。
「――さてと。それじゃ、僕もそろそろ準備にかかることにします」
シープはコーヒーを飲み干して、カップをゴミ箱にすてる。最後に美夜子へ向けて言った。
「応援してますよ、禊屋さん。絶対に勝って、ノラさんを助けてあげてください」
「うん……ありがとう」
シープは一礼してから、ラウンジを出て行った。それからしばらくすると、今度は綺麗な金髪の少女――アリスが入ってくる。
「あ、やっぱりここにいた。さっきのメールのこと、調べてきたわよ」
「わざわざ伝えに来てくれたの? よくここにいるってわかったね。メールには書いてなかったのに」
「お姉ちゃんの生息場所って大体決まってるし。ここじゃなかったらバラノの部屋を見に行ってたわ」
「そんな人のことを野生動物かなにかみたいに……まーいいや。それで、どうだった?」
アリスは美夜子の隣りに座って話を続ける。
「データベースを当たってみたけど、たしかに昔セイレーンって名前で呼ばれていた偽造屋がこの街にいたみたい。夫妻でやってた偽造屋ね。音楽教室のあるビルの地下で商売してたから、いつも歌声が聞こえてきたんだって」
「なるほど、だからセイレーンね……」
セイレーンという異名は、岩礁から歌を歌い海を航行する人々を惑わすという逸話を持つ怪物の名前から来ているのだろう。逸話ではその歌声には聞いた者を魅惑し狂わせる力があるという。さすがに音楽教室から漏れ出てくる歌声で狂った人間はいないだろうが……。いや、四六時中聞こえてくるならそれはそれで気が狂いそうになるかもしれない……。
「でも、今から十七年前くらいに夫婦揃って失踪してるみたいね。それ以降の情報はなかったわ」
「とすると、やっぱりこのファイルに記録されてるように十七年前に叢雲に殺されたのかな……」
今となっては調べようもないが、偽造屋セイレーンを邪魔に思った何者かが叢雲に依頼したのだろう。名護修一――叢雲は安藤夫妻を殺害したが、娘の星良は生き残っていたとしたら……。
「――ねぇ」
「ん?」
思考を一時中断して、アリスの言葉に耳を傾ける。
「大丈夫……なのよね?」
アリスは不安そうな表情で尋ねてきた。何が、とは返さない。美夜子は頷いて、アリスの頭を撫でる。
「だいじょーぶ! あたしに任せといて! 凶鳥も神楽も、そして事件の黒幕も……全部まとめてやっつけちゃうからさ。まっ、あたしの実力にかかればよゆーだし?」
「……そう。そうよね」
アリスは小さく笑って、美夜子の頬に手を伸ばす。
「きっとどんな奴が相手でも、禊屋は絶対負けないわ。私が知ってる中で一番賢くて、優しくて、素敵で……最高の探偵さんだもの」
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