裏稼業探偵

アルキメ

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case8 女神の断罪

13 死を飲む魔風

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 俺が「あいつ」と出会ったのは、今から十年以上も前のことだ。

 身寄りのない子ども達が集められ、桜花の殺し屋として育てられる施設――俺たちは二人とも、同じ頃にその施設に移されてきた。もっとも、それから初めて言葉を交わすまでには半年ほどかかったのだが。

 その日、午前の訓練を終えて昼休憩を迎えていた俺は、施設敷地内にある庭を歩いていた。庭の隅には大きなクスノキが生えていて、その根元のところにあいつは一人で座り込んでいた。

「よぉ」

 俺が声をかけると、あいつは怪訝そうな顔をして言った。

「……誰?」
「お前の先輩だよ。番号二つ分だけな」

 俺はあいつの近くに座って、また話しかける。

「いつもここに一人でいるよな。ここ、気に入ってんの?」
「……どうでもいいだろ」

 迷惑そうな顔で素っ気ない返事をされた。「お前と話したいことなんかないからさっさとどっか行けよ」、と言外に言われているような気がしたが、俺は気にせず話を続けることにした。

「食堂に来てなかったよな。飯食ってないだろ、お前。なんでよ?」
「……あんたには関係ない」
「まぁまぁまぁ、そーツンケンするなって。体調でも悪いのか? 誰か呼んできてやろうか?」
「……はぁ」

 ため息をつかれた。俺を追い払うのは諦めたようで、渋々答えを返す。

「……食べる気分じゃないってだけ」
「何かあったのか?」

 少し長い沈黙を経て、あいつは答えた。

「…………今日、また一人いなくなってた」
「ああ、そのことか」

 施設では訓練についていけなくなった者、殺し屋として適性がないと判断された者は容赦なく間引かれていった。ある日突然仲間が消えている、というのはよくあることだった。施設の管理者側から詳しい説明がされることはなかったが、要するにそういうことだ。

「仲良かったんだな?」
「……べつに。一、二回話したことがあるくらい」
「なんだ。そんなもん、いちいち気にしてたらやってけないだろ。慣れろよ」
「わかってる。わかってるけど……」

 そう言いながら、うつむいてしまう。

「……ふーん。お前、優しいやつなんだな」
「優しい……?」
「多分そうなんだろ? 俺はそういう風に落ち込んだことないからよくわかんねーけど。……そうだ」

 俺は道具袋に入れていた紙で包んだコッペパンを取りだして、差し出す。昼食の時にとっておいたものだ。

「――やるよ。それだけでも食っとけ。腹空かしたままじゃ残りの訓練、保たないだろ?」
「……これ、あんたのじゃないの?」
「べつにお前にやるために持ってたわけじゃないぜ? えーっと……ほら、とっておいて後でゆっくり食べようと思ってただけだ」
「……いらない」

 向こうがそう言った瞬間、腹の鳴る音が重なった。

「ははっ。強がるのもいいけど、無理すんのはよくねーよ?」
「…………あ、ありがとう」

 恥ずかしそうにしてパンを受け取る。一口かじると、幾らか柔和になった様子で言った。

「……ごめん。あんたのパンなのに」
「いーっていーって。俺はもう充分食ってきたし。それにさ、お前みたいなやつってどうもほっとけないんだよな」
「な、なんで……?」
「俺、ここに来る前はヤクザのところでクスリの受け渡し係やってたんだ。子どもだったら怪しまれないって理由で散々こき使われてた。――まあそれはどうでもいいんだけど、俺の住処のそばに、野良猫たちのたまり場みたいになってる場所があってさ。暇なときにじーっと様子を観察してみるんだけど、そうすっと、野良猫の中にも仲間はずれになってるやつがいるってわかるんだよな」
「ん……?」
「そいつに近づいてみるとさ、めちゃくちゃ怒って爪で引っ掻こうとしてくんの。他のやつらは人に慣れてて逃げようともしねーのに。そりゃ仲間はずれにもされるわってな。でも俺、そういう愛想のないやつほど懐かせてやりたいって思うわけよ。んで、毎日残飯持ってきてエサとしてやってたらそのうちに俺を見つけるだけで寄ってくるようになったんだ。そうなってくると結構かわいく思えてきてな。――まあ何が言いたいかっていうと、お前見てるとそいつのこと思い出すんだって話」
「猫と一緒かよ、私は……。何か感謝して損した気分……」

 そっぽを向いて、ふて腐れたように言う。俺は笑いながら、

「悪い悪い、怒るなよ。――そうだ、まだなんて呼べばいいか聞いてなかったよな?」
「えっ?」
「名前だよ、お前の名前教えてくれって言ってんの。番号で呼び合うのも味気ないじゃん?」
「私は……」

 俺はその時、初めてその名前を聞いた。俺の中で最も大きな意味を持つことになる、その名前を。

「私の名前は…………織江」
「そうか、織江っていうのか。俺はキョウだ。前にいた場所ではそう呼ばれてた。たしかに言ったからな、忘れんなよ?」

 俺は支給品の腕時計を見る。いつの間にか織江もパンを食べ終わったようだった。

「さてと……そろそろ休憩時間終わりだな。ほら、行こうぜ」

 立ち上がって、織江のほうへ手を差し出す。

「あ、ああ――」

 俺の手を掴んで織江も立ち上がった。俺は少し迷う――しかし、勢いに任せて言ってしまう。

「……ま、安心しろって。他のやつはどうだか知らねーけど、俺はここからいなくなったりしないからよ。だから、お前もそうしろよ?」

 今のは少しかっこつけすぎか――と思ったが、織江は小さく笑ってくれたのだった。

「……うん。わかった」




 ――もう少しだ。もう少しで全部終わる。

 凶鳥はかつて金田(かねだ)ビルと呼ばれていた廃ビルの九階に来ていた。テナント内の物は殆ど片付けられてしまっているが、狙撃に使うには問題ない。窓からの視界も良好、風の計測も済んでいる。失敗する要素はない。

 今度こそ、確実に禊屋を始末する。これが最後の機会だ。

 もちろん、相手もこちらの襲撃は警戒しているだろう。それなりの対策はしてくる。そうなると今まで以上に難しいところだが……今回に限っては、むしろ最大のチャンス。凶鳥はそう考えている。

 当然だ。なんてったって――俺はその対策案を全て知った上で、ここに待ち伏せしているんだからな。

 禊屋の立てた計画はこうだ。まず夕桜支社から出せる車の全てを出動させ、一台一台が違ったルートで修道院へ向かう。禊屋はその中の車のどれか一台に隠れるように乗って移動する。相手のスナイパーにはどの車が正解か判別出来ないから、禊屋の修道院への到達を阻止できない。修道院に到達さえしてしまえばそう簡単には手出し出来ないからもう安全――ということらしい。

 なるほどよく考えたものだ。たしかにいきなりそれをやられていたら、こちらには為す術もなかった。車の中のどれか一台を捕まえて禊屋の居場所を吐かせたとしても、その時にはもう禊屋は修道院へゴールインしているだろう。修道院で騒ぎを起こせばアルゴス院をも敵に回すということになり、それは依頼主の望むところではない。

 だが、さすがに俺がその計画を読んだ上で待ち伏せしているとは禊屋も予測出来まい。禊屋が乗ることになっている車も、その車が辿るルートも既に把握済みだ。高さ、見晴らし、人通り、風の通り――諸々の条件を踏まえた結果、この場所が最も狙撃に適している。禊屋の乗った車が通りがかったところを狙い撃って殺す――やること自体はシンプルだ。

 さて……そろそろ準備するか。

 凶鳥は狙撃銃の準備をするために手に持っていたアルミ製のライフルケースを床に置こうとして――止まる。部屋の入り口に気配を察知したためである。

「――ッ!」

 即座に腰のホルスターに差してあった拳銃を右手で抜く。銃声が響いた。

「チッ……!」

 凶鳥が構えるよりも先に相手が撃って、拳銃が撃ち落とされる。速くて正確だ。それだけで相手がプロだとわかった。痺れる右手を振りつつ、相手の顔を確認する。最も会いたくて、そして最も会いたくなかった顔がそこにあった。

「やっぱり来たか……」

 凶鳥は笑う。皮肉としか言い様のない巡り合わせだった。これが笑わずにいられるか。

「ハッ……。なるようになっちまうもんだなぁ……織江」






 作戦上の番号で言うと、十八号車――シルバーのセレナに乗っているのは、乃神とシープだった。珍しく乃神が運転をするというので、シープは助手席に乗っていた。

「禊屋さん、大丈夫ですかね?」
「…………」

 シープの言葉に、乃神は無反応だ。

「あ、すいません。その為の作戦ですもんね。きっと大丈夫だ、うん」

 乃神は相変わらず黙ったまま、車を走らせる。

「ええっと、乃神さん。ルート……こっちで合ってます? どんどん修道院から離れていってるような……」

 シープがそう言っているうちに、乃神は人通りの少ない道の路脇に車を停めた。

「あの……乃神さん? 何で停めたんですか? ここに何か用事でも……」
「もういい」
「はい?」
「もう芝居を続ける必要はないと言ってるんだ」
「あの……何のことだか……」
「……わかった。はっきり言おう」

 乃神は冗談を言っている雰囲気ではなかった。緊張で嫌な汗が滲む。心臓の鼓動が早まる。まさか、そんな――

「シープ。お前は敵のスパイだな?」

 ――どうして?

「悪いが、お前を罠にかけさせてもらった。お前は禊屋の作戦を凶鳥に密告した……そうだな? だが、お前が同席していた作戦の打ち合わせは、お前を通して凶鳥へ偽の作戦を伝えさせるためのものだったんだ。本当の打ち合わせはあれよりも前に行われていた。勿論、お前を除いてだが」

 打ち合わせが二つあった? 罠? 乃神の言葉がぐるぐると脳内を駆け巡る。

「禊屋が立てた本当の作戦はこうだ。まず一つのルートを決めて、その道中で凶鳥が仕掛けてくるように誘い出す。禊屋は静谷と銀狼から助言を貰って、凶鳥が狙撃のポイントとして選びそうな場所を全てピックアップしておいた。あとはその場所を見張っておいて、凶鳥が現れるのを待つだけだ。勿論、禊屋はそのルートとはまったく別の道を、別の車で修道院まで向かうことになっている」
「そ、そんな……」
「今さっき静谷から連絡が入った。静谷には凶鳥が現れる可能性が最も高い場所を見張っていてもらったんだが……当たりだったようだな。ビルに凶鳥が入っていくのを見たそうだ。今頃は向こうもケリが着いた頃だろう。……もう言い逃れは出来ないぞ。偽のルート上に凶鳥が現れたという事実が、お前がスパイであるということを如実に示している」
「…………はぁ」

 シープは深いため息をついた。そして諦めの表情を浮かべて言う。

「……なんで、バレたんですかね?」

 乃神の言うとおり、言い逃れは不可能であると悟った。完全な詰みだ。

「気づいたのは禊屋だ。禊屋の話を借用すると、まず最初に違和感を覚えたのが、車に発信機が仕掛けられていたのを見つけたとき。犯人は名護修一の自宅を爆破する際に爆弾を使っている。俺たちを殺したいのであれば車に同じような爆弾を仕掛けて爆殺すればよかった。それが最も簡単で確実な方法だったはずだ。しかしそうはせず、発信機を仕掛けた上で殺し屋凶鳥をけしかけてきた。今思えばあれは、お前が自分を疑われないようにするための偽装工作だったんだな。本当は発信機など使う必要はなかった。お前が凶鳥に連絡を入れさえすれば、俺たちの居場所はいつでも筒抜けなんだからな。凶鳥がどうやって俺たちの居場所を掴んでいたのかを誤魔化すために、お前は発信機を自分で車に仕掛けた。凶鳥が失敗したときのことを想定して予め用意していたんだろう」

 その通りだった。咄嗟の判断にしては上手くやったと思っていたのだが、探偵の嗅覚は誤魔化せなかったか……。

「勿論、禊屋はそれだけでお前を疑ったわけじゃない。車に爆弾を仕掛けなかった理由だって、説明しようと思えばいくらでも説明できるからな。決定的だったのは、禊屋たちが支社に帰る直前に仕掛けられたという狙撃だ。凶鳥は支社のすぐ近くのビルに潜み、禊屋たちを待ち伏せしていた。だが、おかしな話だ。静谷が車内で警戒していたから尾行がついていた可能性は限りなくゼロに近い。それに車に発信機も付いていないことは探知機を使って確認済みだった。それなのに凶鳥は、禊屋たちの移動ルートを把握しているかのような位置取りで待ち伏せをしていた。それに禊屋たちが乗っている車を特定しておく必要もあったはずだ。あの道は人通りは少ないが、ゼロではない。禊屋たち以外の車が通る可能性だってあった。狙撃銃のスコープ越しに見て、走っている車の中の人間がターゲットかどうかを判別するなどという芸当はいくら卓越したスナイパーでも不可能だろうからな。つまり凶鳥には、禊屋たちの移動ルート、そして乗っている車の車種という二つの情報が必要だったわけだ。その二つの情報を入手することができた人間は、全員で四人」

 乃神は四本、指を立てる。

「その四人のうち誰かが凶鳥へ情報を渡していることになる。四人のうち三人は禊屋、静谷、そして運転手のエッグだ。凶鳥に命を狙われている禊屋は当然真っ先に候補から外れる。更にそいつが凶鳥と通じたスパイであることを考えれば、巻き添えを食わないように襲撃の現場には居合わせないようにしていたはず。そうなると静谷もエッグも候補から外れる。静谷は襲われた禊屋を何度も守っているし、エッグは撃たれて死んだ。残った候補は、シープ、お前だけだ。……早坂の手術が終わった後のことだ。お前はあの時、禊屋に電話をかけ――弁当屋から支社への帰り道の途中であること、そしてその時乗っている車の車種を訊き出した。そうだな?」
「……その通り、です」

 あのラウンジで話したとき……禊屋は既に全て気がついていたのだ。どことなく落ち込んでいたように見えたのは、審問会を前にした緊張のせいだけではなかったのかもしれない……。短い付き合いだったが、それもあの女の子らしいことだとシープは思う。見抜かれて悔しい気持ちはあるが、禊屋への恨みはなかった。

 乃神は拳銃をシープに向けて言う。

「禊屋は今回の事件の黒幕について、キバの事件の黒幕と同一人物だと考えている。お前が夕桜支社に入ってきたのはキバの事件の少し後だった。キバが戌井冬吾の暗殺に失敗したため、黒幕はお前を夕桜支社に差し向けてスパイとして使っていた。一昨日の灰羽根旅団の一件で、情報を相手に渡していたのもお前だな? 何か間違っているか?」 
「……間違ってませんよ。全ておっしゃる通りです」

 こうなっては、今更嘘をついても仕方がない。乃神の言うとおり、灰羽根旅団に予め情報を渡しておき、戌井冬吾と禊屋が殺されるように仕組んだのはシープだった。もちろんそれは乃神の言う黒幕に命令されてのことだったが。

 それにしても……まさか、あの状況から二人とも生き残ってしまうとは予想外だった。「可能なら自ら戌井冬吾を暗殺せよ」との命令も出ていたが、そうする勇気は流石になかった。二ヶ月ほど前までは素人だったとはいえ、既にBランクヒットマンを二人倒し、灰羽根旅団を全滅させるほどの腕前を持つ男だ。見た感じはそんなすごい男には見えなかったが……事実は事実。今まで銃さえまともに握ったことがない自分では敵うはずもない。

「それで……僕はどうなるんでしょう? やっぱり、殺しますか?」
「……随分落ち着いているんだな」
「……そうでもないですよ。怖くて怖くてたまりません。でも、いつかこうなるような気はしていました。僕なんかが今までやってこれただけでも、上等なんです。今更未練もありませんし、死ぬなら死ぬでも……」
「残念だが、お前は殺さない」
「えっ?」
「禊屋たっての希望でな。お前が持っている情報を全て素直に渡すなら、命の保証はしてやれとのことだ」
「禊屋……さんが……」
「だが、抵抗したり情報提供を拒否したりするなら多少痛めつけてもいいことになっている。つまりはお前の返答次第だが……どうする?」

 ……迷う余地はない。シープが乃神の問いに頷こうとした瞬間――轟音と共にとてつもない衝撃が車内を襲った。

 運転席側からワゴン車が激突してきたのだった。





 ――凶鳥と織江は互いに睨み合っていた。凶鳥は左手にライフルケースをぶら下げたまま、織江は凶鳥に向けて右手の拳銃――グロック17の銃口を向けながら。

 織江は一人のようだった。多くの人間が近づいてきていたら凶鳥はその気配に気がつくことが出来る。他に伏兵はないと見てまず間違いない。なぜ織江がこの場所に辿り着けたかはわからないが――どうやら罠にかかったのはこちらのようだった。これが禊屋の差し金だとしたら、想像以上の相手だったことを認めなければならない。

 凶鳥はなるべく自然体を装って織江に話しかけた。

「三年ぶりの再会だってのに、だんまりかよ? 何か言うことはねぇの?」

 織江は無表情のまま答える。

「……死んだと思っていた。ずっと」
「あー……それは……悪かったな。まぁ、こっちも色々あったんだよ。わかるだろ?」
「もう、どうでもいい……」
「……そっか。そうだな」

 互いにもう後戻りは出来ない。今更過去を語る必要もない……か。

「凶鳥。一つ訊きたいことがある」
「つれねぇなぁ。凶鳥だなんて……そんな他人行儀な呼び方すんなよ」
「――ッ!」

 織江は怒りを込めて凶鳥を睨みつける。

「黙れ……! お前の……お前の名前なんか……! とっくに……忘れた……」
「おいおい……お前、それ、結構マジでへこむぞ……」

 言われてみれば、施設を出た頃から殆ど本来の名前で呼ばれた記憶はなかった。

「いいから質問に答えろ! なんで最初からお前の得意な狙撃で仕掛けてこなかった!? 最初からそうしていたほうが禊屋を殺せる可能性は大きかったはずだ」
「うーん、なんとなく……って答えじゃダメだよな。まぁ、そうだな。最初はちょっと隙を作ってやるつもりだったんだ。お前たちにチャンスをやって、そうすりゃ、そのうちお前がこうして来てくれるんじゃないかと思ってな」
「なっ…………」

 織江はショックを受けたような様子で目を見開く。凶鳥は肩をすくませて笑った。

「……なーんてな。嘘だよ。そんなわけねぇだろ、バカ。最初はそういう気分じゃなかったってだけだ。本気を出すまでもねぇってな。……ま、その慢心のせいで今こうして追い詰められてるわけだが」
「相変わらず、ふざけた男だ……」

 織江は続けて、小さく呟くように言う。

「……本当に、あの時に死んでれば良かったのに」
「こりゃまたひどい言い草だな。そんなに俺のこと嫌いかよ?」
「……大っ嫌いだ」
「容赦ないねぇ、まったく……」

 でもまぁ……そうか。お前はそういう女だったもんな。それでいい。いや、それがいい。

 凶鳥は深く息を吐いて、意を決したように言う。

「……そんじゃ、まぁ、そろそろお喋りは終わりにするか。さっさとやれよ。ごちゃごちゃ長く話してても、お互い決心が鈍っちまうだろ?」

 織江が銃の引き金を引けば、それで終わりにすることが出来る。しかし、織江はそうしなかった。

「……いや、お前を殺すつもりはない」
「あん? なんだって?」
「お前の雇い主について話してもらう必要がある。それまで殺しはしない」
「ふーん……」

 織江は依然として銃をこちらに向けたままだが、たしかに殺気は感じない。

「それで、お前は俺が素直に吐くと思ってんのかよ?」
「……いや」

 織江は視線をやや下げて言う。凶鳥は呆れたような気分でため息をついた。

「お前さぁ……もしかして、少し弱くなったんじゃないか?」

 織江は眉をぴくりと動かした。

「……なんだと?」
「昔のお前はさ、もっとこう……ひりつくような気迫があったはずだ。仲間として隣りにいるだけでもゾクゾクきたもんだ。それが今は、こうして向かい合ってても全然怖くねぇ。どうやらナイツに入って、血塗れ織姫の刃は欠けちまったようだな」
「……挑発のつもりか? この状況でそんなことをのたまったところで、無様なだけだぞ」

 凶鳥は大げさに笑って見せた。

「ははっ……この状況? さーて、いったいどんな状況なのかねぇ。――まさか、この程度で俺を追い詰めたとでも思ってたのかよ? この凶鳥を? ああそうだな、近接戦ではお前に分があることは認めよう。だが、俺だって一通りの訓練は受けてきたんだ。こういう事態に備えて、準備くらいしてあるに決まってるだろ?」

 凶鳥はそこで敢えて織江から右上空中へと視線を外す――まるでそこに何かがあるかのように。しかしこれは――視線誘導を兼ねたブラフだ。織江は当然すぐに見抜く。しかし、そこに生まれる一瞬の躊躇こそが凶鳥の狙いだった。

 凶鳥は左手にぶら下げていたライフルケースをそのまま、織江に向かって投げ飛ばした。

「――くそッ!」

 織江は身をよじってケースを回避、同時にグロックを発砲する。凶鳥は上体を伏せながら突進し、弾を避けつつ一気に織江との距離を詰めた。そして左手で織江の右手に握られた銃を押さえ、同時に親指でマガジンリリースボタンを押す早業で瞬時にマガジンを抜き取る。

 そして二発目の発砲――これは銃の向きをずらすように手で押さえていたので当たらない。マガジンからの給弾はなくグロックは弾切れを起こす。凶鳥は空いていた右手でベルトに差していた両刃ハンドナイフを逆手に抜いた。

「チッ……!」

 織江はグロックを捨て、後方へステップしつつ腰の後ろに右手を回す。凶鳥はその距離を詰めつつ右手のハンドナイフを振るった。

 ――二つの刃が打ち合う音。織江が右手で逆手に抜いたカランビットナイフと、凶鳥のハンドナイフとがつばぜり合いのような状態になる。

「テメェ、油断してんじゃねぇぞ!!」

 ナイフを押し合いながら、凶鳥は激昂する。

「何が“血塗れ織姫(ブラッディ・ヴェガ)”だ、俺なんかにやられそうになってんじゃねぇよ!! ここで俺を殺さなきゃ死ぬのは自分なんだぞ!! わかってんのか!?」
「――ッ!」

 織江が目を見開いて息を呑む。その目にはっきりと動揺の色が浮かんでいた。

「『殺すつもりはない』だと? ふざけんな!! こうなっちまった以上、生ぬるい結末なんてあり得ねぇんだよ!! その覚悟があったからここに来たんじゃねぇのか!?」
「…………!」
「この期に及んでまだ迷ってる馬鹿は俺が殺してやる!! それが嫌なら俺を倒してみやがれ!! やれんのかよ!? 今のふぬけたテメェなんかに!!?」
「くっ……うっ……あああああっ!!」

 織江が前蹴りを打ってきて凶鳥は無理やり距離をとらされる。一度仕切り直しの状態だ。

「はぁ……はぁ……はぁ……。わかった……」

 織江は震えた声で言うと、服の袖で目元を拭った。咳払いを一つ、堪えるように前を向く。そして、今度は強い意志の炎を宿した眼で凶鳥を見据え――右手のカランビットナイフを構える。

「本気でやってやるさ……!」

 彼女は叫ぶ。

「この死に損ないが――もう一度地獄に送り返してやるよ、凶鳥!!」

 ――魂を咆哮させる。

「もう二度と――絶対戻ってこれないようにッ! その翼ごとぶった斬ってやる!!!」

 凶鳥は声を出して笑う。

「ああそうだ……それでいい……! そうじゃなきゃな!」

 そして改めてナイフを構え――血塗れ織姫と対峙する。

「“死を飲む魔風(モータル・ゲイル)”凶鳥……行くぜッ!!」

 凶鳥は再び織江に接近すると、フェイントを交えつつナイフを振るう。相手の顔面と胴体を狙って連続で攻撃を仕掛けるが、織江は容易くそれを回避していく。

 六度目の攻撃を相手の左手に捌かれたところで、凶鳥は右足を相手側へ踏み込んだ。ナイフを左側からテニスのバックハンドストロークの要領でスイングするように胴体めがけて突き入れる。しかし織江はこれを右手のナイフで弾き、同時に一歩下がった。凶鳥は更に踏み込んで、もう一度突きを打つ。織江は反時計回りに身を翻すようにして凶鳥のナイフを躱すと――勢いに乗せた左の回転肘を凶鳥の額左側に打ち当てた。

「がっ――!」

 咄嗟に顔を右に向けることで凶鳥は肘打ちのダメージを極力減らす。それでも軽く脳が揺れたような感触がある。まともに喰らっていたら今の一撃で昏倒させられていたに違いない。

 息をつく暇もなく、織江の攻撃が来る。左足を踏み込んできてナイフをフォアハンドにスラッシュする。織江の視線ははじめ凶鳥の左膝あたりを捉えていたが、途中でその刃の軌道が急激に上向きになる。

 下段はフェイントか――!

 首筋を切り裂こうと急襲してきた刃を、凶鳥はギリギリで上体を仰け反らせて回避する。続く返しのバックハンドスラッシュに対して凶鳥は右手のナイフで受け止め、同時に左の肘打ちを渾身の力で織江の右頬にぶつけた。

「うっ――」

 織江が短い呻き声を上げて一瞬怯む。その隙を見逃さず、凶鳥は肘打ちを打った流れで左手に相手の右手首を掴んだ。掴んだ手首をそのまま捻り上げる。これで右手に持ったナイフは使えない。勝った――!

 凶鳥にその思考が過ぎった瞬間だった。織江は更に素早さを増した動きで右足を凶鳥の右膝に乗せると、それを“足場”にして踏切り、左上段の回し蹴りを放つ。

「うおっ……!」

 まともに受けたら首をへし折られてしまいそうな回し蹴り――それを凶鳥は頭を下げてなんとか回避するが、思わず手の拘束を解いてしまった。織江は空中で横に一回転しつつ着地して、再びナイフを構える。

 凶鳥は戦いの中でほくそ笑んだ。血塗れ織姫は以前より衰えたどころか、更にキレを増していたようだ。

 次の攻撃が来る――織江は右足を踏み込むと大振りの動作でバックハンドに斬りかかってくる。一歩下がって躱すと、織江は身体を捻ってそのまま一回転――その勢いに乗せたままもう一度バックハンドで凶鳥の右足元を狙ってきた。凶鳥は咄嗟に右足を上げてナイフを避けるが、織江は切り返して今度はフォアハンドスラッシュの軌道でナイフを振るってくる。凶鳥は身を屈め、織江の右脇を潜り抜けるようにナイフを躱す。

 背後を取った! 今度こそ――

 織江の右サイド後方へ移った凶鳥は、相手の右膝裏を蹴った。織江がバランスを崩しかけたところで、すかさずその右肩めがけてナイフを突き刺すように振り下ろした。

「――なっ!?」

 凶鳥は思わず驚愕の声を上げてしまう。織江は右手に持ったカランビットナイフを瞬時に順手持ちに替え、凶鳥のナイフをギリギリで受け止めていたのだった。殆ど見えない位置からの攻撃をこうも簡単に防ぐのか……!?

 必勝の攻撃を防がれたことで次の動作が遅れた凶鳥は、織江によって左手で右手首を掴まれてしまう。しまった――と思う間もなく、凶鳥の腹に織江の後ろ右肘が突き刺さる。激痛で体勢を崩した凶鳥はそのまま、背負い投げの要領で投げ飛ばされた。壁に背中から叩きつけられた後、床に倒れ伏す。

「あっ……がはっ……」

 一瞬、息が出来なくなる。なんとか呼吸を取り戻しながら、凶鳥は思った。

 強い――! 力量の差がありすぎる。自分の戦闘技術ではとても敵う相手ではない。だが……だが、まだだ。まだやれる……!

 凶鳥の頭を踏み砕こうとして織江が右足を振り下ろす。それを凶鳥は床を転がるようにして回避、起き上がろうとするが――そこへ更に織江の左跳び膝蹴りが襲ってくる。

「ぐっ……!」

 片膝立ちのまま左手でブロック――すかさず右手のナイフで相手の膝を狙うが、直後に相手の右の回し蹴りが凶鳥の左側頭部に直撃する。蹴られた勢いを逃すように右方向へ倒れ込み、そして今度こそ起き上がる。

 凶鳥と織江は、互いに睨み合ったままゆっくりとナイフを構えた。次が最後の攻防になる――凶鳥はそう悟った。おそらく織江も同じだろう。呼吸を整えつつ、機会を窺う。

 そして――凶鳥が動く。距離を詰めつつ、逆手に握ったナイフでフォアハンドに斬りかかる。織江はそれを左手手刀部で相手の手首を抑えブロックした。凶鳥はそのブロックする手を左手で払いのけて今度はバックハンドでスラッシュするが、これも上体を反らして回避される。すかさず織江が逆手に握ったカランビットナイフで斬りかかってくる。凶鳥は相手のフォアハンドスラッシュを左手で防ぎつつ、自らもナイフを斬り上げる。織江の左脇腹をナイフの切っ先がかすめたが、深手にはほど遠い。更に反撃として右膝蹴りを腹に受け、凶鳥はよろめく。

 追い討ちをかけるようにカランビットナイフが振り下ろされる。度重なるダメージで視界がぼやけている。回避する余裕も、上手く捌ききる余裕もない。しかし凶鳥は反射的に左手を動かし――気がつくと、カランビットの刃を直にその手に握り込んでいた。

「――ッ!?」

 織江も流石に驚いた表情を見せる。握力を振り絞ってナイフを握り込んだ左手には激痛とともにおびただしい量の出血が生じるが、攻撃は止まった。

「舐めんなよ……らぁっ!」

 凶鳥は渾身の力で左の回し蹴りを織江の右脇腹に打ち込む。

「がっ……!?」

 蹴りがクリーンヒットして、織江が体勢を崩した。すかさず凶鳥は右手のハンドナイフを織江の首筋めがけて突き立てようとする――しかし。

「へへっ……上等だ……!」

 ――攻撃は防がれた。だが凶鳥は笑う。織江は左手で、凶鳥がしたのと同じようにナイフの刃を握り込んでいたのだ。

 二人は睨み合ったまま互いに両手に力を込める。二人の右手から血が溢れ出し、そして滴り落ちていく。しかしどちらもその手を離そうとしない。

「――ぁあああああっ!!」

 織江は自らを鼓舞するかのように叫ぶと、凶鳥へ向けて力任せの頭突きを放った。それをまともに受けて、凶鳥は後方へよろめく。それで凶鳥は左手をカランビットナイフから離してしまったが、織江はまだ凶鳥のハンドナイフを封じ続けている。直後に織江は右足の蹴りで凶鳥の左脇腹、続けて顔面を打つ。そしてカランビットを振り下ろし――凶鳥の右腕を引き斬った。

「ぐあっ……ああああっ!」

 屈曲する刃によって右腕を抉り斬られた痛みは、それだけで気を失ってしまいそうなものだった。しかし、気力で耐えてナイフを持つ手だけは離さない。

 織江は既にナイフを振り上げている。次の攻撃が来る――防がないと。凶鳥は血だらけの左手を顔の前に掲げる。すると織江は自らの左手で凶鳥の左手――その人差し指と中指を握ると――まとめて躊躇なくへし折った。

「――――ッ!!」

 声にもならない叫びが凶鳥の口から漏れる。続けて織江は凶鳥の指を掴んだまま、その先にある左腕をナイフで上下往復するように二度三度と斬る。鮮血が織江の顔に降りかかる。

 深手を負い、もはや凶鳥の左腕は動かそうとしても動かない。凶鳥は辛うじて動かせる右腕でナイフを振り上げようとしたが、それを先んじて制するように織江のナイフが右手首に突き刺さる。ハンドナイフが音を立てて床に落ちる。

 織江はナイフを引き抜くと、凶鳥の胸から腹へと斜めにかけて二度斬り、そして最後に――胸にナイフを突き刺した。

 ――静寂が訪れる。それで完全に勝負は決したのだった。

 織江がナイフを引き抜くと、凶鳥はそのまま前のめりに倒れかけて――織江に抱き止められる。

「……よく、やったな」

 薄れゆく意識の中で、凶鳥は声を振り絞って織江に伝える。残された時間はあと僅かしかなかった。

「……へへっ……血で汚れたお前の顔も……やっぱいいなぁ」
「うるさい、馬鹿……」

 織江はか細く震える声で言うと、熱を失おうとしている凶鳥の身体を強く抱きしめた。

「俺の……こと……忘れないで……くれよ……」

 凶鳥の言葉に、織江は一度だけ頷く。

「大丈夫……あんたの――キョウのこと、絶対忘れないから」
「なんだ……名前……やっぱり……覚え……て…………よか……………………」

 男は女に抱かれたまま、安堵の思いで、ゆっくりと目を閉じる。急速に光が薄まり、闇が広がっていく。しかし男に恐怖はなかった。もう声を発することは出来なかったが、最後に胸の内で言葉を紡ぐ。

 織江――俺はずっとお前を――――






 シープは街の路地裏を息を切らしながら走っている。行くあてもなく走っている。

 先ほどワゴン車が激突してきた衝撃で、乃神は気を失っていたようだった。何が起こったのかを理解する前に、シープはその場を逃げ出していた。命の保証がされているとはいえ、それが信用できるかどうかは別の問題だ。実際にナイツに捕まったらどうなるかはわからない。それよりは、このチャンスに乗じて逃げ出してしまったほうがいい……そのはずだ。

 走りながら自分の行動に理由を付ける。正しいかどうかは深く考えない。自分が咄嗟にとった行動が間違っていなかったと、後から自分を納得させるためだけに理由を考える。

 それにしても、あのワゴンは何だったんだ? 偶然の事故? それとも……。

「ハイハーイ。そこのお兄さん、止まってくれるかナー?」
「うわっ!?」

 いきなり狭い小道の出口を塞ぐように女が現れ、シープは急停止する。

「あ、あんたは……?」

 見覚えのない女だ。赤いコートを着てフードを被っている。年齢は二十代前半というところ、前髪の部分はピンクのメッシュになっていて、長い三つ編みを肩の前に垂らしていた。

「あたしはねぇ、『グリム』っていうんだ。よっろしくぅ! でもでも、覚えておく必要はないよ。お兄さんはここで死ぬからね」
「え……?」
「いや~、さっきワゴンぶつけた時に死んでくれてたら楽だったんだけど。お兄さんってば逃げちゃうもんだから焦ったよ~」
「し、死ぬって……なんで!? まさかあんた――」

 自分はスパイとして切り捨てられたのか? この女はそのための刺客? しかしグリムは、そんなシープの考えを見透かしたかのように言う。

「ああ言っとくけど、お兄さんのとこのボスが命令したんじゃないよ? そっちは無関係。これはあたしのとこのスポンサーさんの要望でね? いひひっ」

 グリムは長い八重歯を見せて笑う。

「そのスポンサーさんってさぁ、禊屋ちゃんの大ファンみたいなんだよねぇ。だから今日の審問会で禊屋ちゃんが活躍するのを楽しみに待ってたんだ。圧倒的に不利な状況から鋭い推理を披露して、どんどん逆転していく禊屋ちゃん! か~っくいい!」

 グリムは身振り手振りを交えながら陽気に話す。

「でもでも~、スパイのお兄さんが捕まって知ってること全部白状しちゃったりなんかしたら……」

 グリムはそこでシープに顔を寄せてきて、怖気の立つような歪な笑みを浮かべる。

「……そんなの、クソつまんないよねぇ?」
「うっ……」
「だからお兄さんは邪魔なんだよ。ここで死んでね?」
「う、うわっ…………!」

 恐ろしくなって、シープは後ろへ向かって走り出す。そんなわけのわからない理由で殺されてたまるか……!

 なぜか、グリムが追いかけてくる様子はなかった。このままなら逃げ切れそうだ――そう思った瞬間だった。

 シープの行く手を阻むように、小道の反対側の出口から男が現れる。白髪交じりの頭をした三十半ばほどの男だ。男は右手に持ったサプレッサー付きの拳銃をシープに向けると、続けて四発撃つ。

 胸と腹を撃たれて、シープは声も出せずに仰向けに倒れた。

「悪いな。お前さんには同情するが、こっちも仕事なんでな」

 男が倒れたシープに向けて言う。駆け寄ってくる足音がして、今度はグリムの声が聞こえた。

「あちゃー、黒龍(こくりゅう)のおっちゃんに横取りされちゃったか。残念残念」
「お前さんがさっさと仕留めんからだ。悪い癖だぞ。それに俺はおっちゃんなんて歳ではない。――む……いかんな。誰か来る」
「あ~、たぶんさっきこいつと一緒にいたナイツの人でしょ」
「死体を片付けとる暇は……ないな。仕方ない、捨て置くか」
「え~いいの~? 持ち物もまだ調べてないけど」
「無理はするなと言われとるだろう。今はこれ以上死体を増やして大事にしたくない。ここは引くぞ」

 二人の足音が遠ざかっていく。この場を去ったようだ。

 ――痛い。血が止まらない。身体が動かない。声が出せない。シープは自分がもう助からないということを理解した。致命傷というやつだ。

 こんなところで終わりなのか……まともな死に方は出来ないと思っていたが、こんな結末は予想していなかった。……だがこれも、卑怯な裏切り者には相応しい末路なのかもしれない。

 どうしてこうなってしまったのだろう。いつから間違えてしまったのだろう。もうわからない。もうなにも…………




 意識を取り戻した乃神は、シープを探して裏路地へと入っていた。ぶつかってきたワゴン車とシープは、乃神が気がついたときにはいなくなっていたのだ。

「っ……」

 乃神は歩きながら右の側頭部を手で押さえる。ワゴン車にぶつけられたときに頭を打ったらしく、まだズキズキと痛む。眼鏡が無事でよかった……。

 しかし、あのワゴン車は何だったのだろう? 偶然の事故とは思えなかったが……。

 車から少し歩いた先の細い小道に入ったところで、乃神は立ち尽くしてしまった。

「シープ……」

 シープは仰向けに倒れており、既に絶命しているようだった。撃たれたようで、胸と腹に銃創が幾つか見られた。彼の両目は薄く開いたままになっている。

「…………」

 乃神はその傍らで屈み込むと、手でシープの両目を閉じさせてやった。そして携帯電話を取りだして、連絡を入れる。

「――社長。ご報告が……」
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