裏稼業探偵

アルキメ

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case8 女神の断罪

14 審問会・前編~Red&Black~

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 聖アルゴ修道院――その本館ロビーにある赤い両開きの扉の先には、階段とエレベーターがある。どちらも地下との行き来用であり、その先にあるのがアルゴス院がホストとなって行う私的裁判『審問会』の会場――地下大法廷である。

 地下大法廷の造りや配置は概ね裁判所にある通常の法廷と同じだ。しかし、傍聴席に三百人もの人数を収容出来る巨大な空間と、各所にあしらわれた繊細な装飾とが合わさって、大法廷と呼ぶに相応しい荘厳な雰囲気を醸し出していた。

 一般的な裁判では法廷で争うのは検事と弁護士だが、審問会では赤と黒の二つの陣営に分かれて対決するのが習わしになっている。傍聴席から境界線代わりの柵を挟んで奥に、その対決の場がある。法廷の正面入り口から見て左側の席が赤の陣営、右側の席が黒の陣営ということになっており、双方後ろの壁には陣営と同じ色の垂れ幕がかかっていた。それぞれの席の後ろには扉があり、そこから通路に出て二階の控え室と行き来が出来るようになっている。

 冬吾は今、赤の陣営側の控え室にいた。

「――やはり、緊張していらっしゃるようですね」

 ソファの隣りに座る薔薇乃が言う。彼女は五分ほど前にこの部屋に来ていた。冬吾の様子を見に来たのだという。冬吾は頷いて答える。

「そりゃ、まぁ……緊張しまくりますよ。それにこういう場所って慣れてなくて……」
「心配はいりません。美夜子はこの審問会において、既に何らかの勝ち筋を見出していたようです。その詳しい内容まではわたくしにも教えて貰えませんでしたが……きっと大丈夫。彼女を信じましょう」
「……そうですね」

 禊屋の探偵としての凄さはよく理解しているつもりだ。今回の事件だって、もうとっくに真相に辿り着いているのかもしれない。

「それで、その禊屋は……? まだ来てないみたいですけど」

 冬吾が尋ねると、薔薇乃はやや視線を下げて言う。

「実は、先ほど連絡がありました。ちょっとしたトラブルがあったようで、少し遅れるようです」
「トラブルって?」
「大したことはありません。審問会の時間には間に合うとのことでしたので、ご心配なく」
「そうですか……」

 少しだけ気になったが、薔薇乃がそう言うのなら大丈夫なのだろう。

「ところで、ノラさん。もっと早くお伝えしておけばよかったのですが――今回あなたには、裁かれる被告人としてだけではなく、美夜子の補佐としても法廷に立っていただくことになります」
「えっ……補佐?」
「ええ。せっかくですから、ついでにおさらいしておきましょう。審問会では対立する両組織の命運は、それぞれの審問官に委ねられます。我々は今回赤の陣営なので、美夜子は『赤の審問官・ルージュ』。そして対戦相手である神楽は『黒の審問官・ノワール』として戦うということになりますね。さて、ここからが重要なのですが、審問会のルール上、審問官にはそれぞれ一人まで補佐を付けることが可能なのです」
「それが、俺……?」
「ええ。法廷で審問官のサポートをする役割になります。補佐は必須というわけではないのですが、いて困るものでもないでしょうし。一応、あなたの名前で申請しておきました」
「でも、サポートって言われても……どうすればいいのか……」
「そう気負う必要はないのです。議論を主導するのは美夜子の役割なのですから、あなたはいつも通りそれを支えてあげてください」

 いつも通り……か。そうは言っても、禊屋の推理に貢献できたことなど、殆ど記憶にないのだが。

「わたくしが補佐を務めてもよかったのですが……ここはやはりあなたが適任だろうと。美夜子に任せっきりでは、あなたも気持ちが悪いのではありませんか?」
「それはまぁ……そうですけど」
「それに何より、あなたが隣りにいてくれたほうがあの子は奮起できるはず。――もっとも、これはわたくしの予想に過ぎませんけどね?」

 そう言って、薔薇乃はからかうような微笑みを浮かべた。

 薔薇乃の予想はともかくとして、禊屋に少しでも助力出来るのなら願ってもないことだ。

「薔薇乃さん。事件についてわかってること、俺にも教えてくれませんか? 俺、今朝までの状況しか聞いてないので……」

 自分にどれだけのことが出来るかはわからないが、準備は万全にしておくべきだ。そのためにはまず、禊屋たちが調べたことをきちんと頭に入れておく必要がある。

 薔薇乃は頷いて、

「わかりました。わたくしが聞いている限りのことをお話しておきましょう」

 薔薇乃は今朝禊屋たちが修道院を出た後の調査について話をしてくれた。とくに重要そうな点といえば、叢雲こと名護修一が父の千裕を殺害したと思われる四年前のあの日、二人の待ち合わせ場所である『地下室の夜景』を岸上豪斗が借りていたということ。それにもう一つ、左門寺英仁なるジャーナリストが四年前に追っていた人物こそが、今回の事件の黒幕である可能性が高いということの二点だろうか。

 ――いや、他にも気になる点はある。

「その、スパイだったっていう人なんですけど……殺されたっていうのは……?」
「シープのことですね」

 シープは黒幕によって差し向けられたスパイだった。禊屋はそれを見抜いて罠にかけたが、捕らえて情報を得る前に彼は何者かによって殺害されてしまったらしい。

「黒幕が口封じを図ったのかもしれませんが……それにしては手回しが早すぎて、妙な気がします。何か別の動きがあるような……そんな気がするのですが……わかりませんね」
「織江さんのほうは、大丈夫なんですか?」
「ええ、少し怪我をされたようですが、凶鳥は無事に倒せたと報告がありました。彼女に問題があるとすれば、身体の怪我よりも……」
「なんです?」
「……いえ。なんでもありません」

 薔薇乃はソファから立ち上がって、窓の近くへ行く。その窓からは、法廷内の様子が見えるようになっていた。審問会開始の時間が間近に迫ってきたからか、傍聴席には続々と人が集まり始めている。

 冬吾も薔薇乃につられるように窓の外を見る。すると、冬吾たちから見て斜め右手方向、傍聴席側の壁からせり出した二階部分――特別傍聴席と呼ばれているらしい――に、ガラス越しに和服を着た老人がソファに座っているのが見えた。かなりの老齢で、座りながら杖をついている。特別傍聴席というだけあってガラス越しに見える内装は豪華で、VIPの専用席なのだろうと思われるが、裏社会事情に詳しくない冬吾はそこにいるのが誰なのかわからない。

「あの方が気になりますか?」

 冬吾の視線を読み取って薔薇乃が尋ねる。

「誰なんですか?」
「伏王会の会長――業鬼(ぎょうき)と呼ばれる方です。老齢のため今となっては滅多に人前には出てこられないのですが……今回は珍しくいらっしゃったようですね」
「あの人が伏王会の……」

 そんな大物が見に来るほど、今回の審問会には重大な意味があるということなのだろう。

「神楽は、あの方の孫に当たるとか」
「えっ……それ本当ですか?」
「さぁ。本人に確認してみたわけではありませんが、そう言われていますよ。もっとも、彼女はその血の力に頼って現在の地位に登り詰めたわけではない、というのは言うまでもありませんが」

 それはよく理解している。神楽の力は紛れもなく本物だ。だからこそ薔薇乃も、それに勝てる相手がいるとすれば禊屋しかいないと考え審問官に推薦したのだろう。

「その近くに立っているのは?」

 冬吾は薔薇乃に尋ねる。業鬼の横に、背の高い男が立っていた。目立つ真っ白なスーツに、髪はサイドを刈り上げた上にきっちりと固めてある。年齢は三十半ばといったところか。男は窓ガラスから鋭く冷たい眼光で法廷を見下ろしていた。

「あれは、『鉄風(てつかぜ)』というヒットマンですね。『乱鴉(らんあ)』の名を持つ長刀を得物とすることから、《閃斬剣帝(アルティメイト・ブレイド)》の異名を持つSランクホルダー。誰もが人間離れした戦闘能力を持つSランクのヒットマン達の中でも、とくに最強の呼び声高い人物です」
「あの人が……」
「彼も織江さんと同じく桜花に所属していたヒットマンなのですが、桜花の壊滅後、伏王会に引き抜かれました。今はああして、伏王会重鎮の護衛も担当しているのでしょうね」

 鉄風……か。窓ガラスを二枚挟んでいる上、距離もだいぶ離れたここからでも、その威圧感のようなものが伝わってきそうだった。元Aランクの殺し屋だという織江の動きでも冬吾の感覚では充分すぎるほど人間離れしているように思えるのだが、その上を行くSランクの殺し屋とはいったいどのような戦いをするのだろうか……。

「――あ、もう一方の特別傍聴席にも人が入ってきましたね。あっちはなんて人なんですか?」

 二階に設けられた特別傍聴席は二つある。冬吾たちから見て左側の席に業鬼たちがいる。そして今しがた右側の席にも人が何人か入ってきたのだった。

「あの……薔薇乃さん?」

 薔薇乃は無表情で右側の特別傍聴席を見ていた。少し間を置いてから、薔薇乃は口を開く。

「あそこで今ソファに座ったのが、ナイツの会長――岸上燐道です」
「ってことは……」
「ええ、わたくしの父です」

 考えてみれば、左側の席にいるのが黒の陣営側の重鎮なのだから、右側に赤の陣営側の重鎮が入ることになるというのは自然な論理だ。日本裏社会の二大組織のトップが、あの二つの席にいる。

 それにしても、薔薇乃の父親がナイツのトップであるとは聞いていたが、思っていたより若々しい雰囲気の人物だ。とりわけ美人な薔薇乃の父親なのだから、それが美男子であることには驚かないが。

 それに今の薔薇乃の表情と淡々とした紹介の仕方……もしかして、父親との関係はあまり良くないのだろうか。そうは思いつつも、そこまで踏み込んで訊く気にもなれない。

「父の隣りに立っている老紳士が、鹿野という側近です。ヒットマンではありませんが、長い間父の護衛を務めている方です。わたくしが幼少の頃には、教育係を務めてくださったこともありました」

 薔薇乃の言うとおり、スーツを着た白髪の男性が見える。高齢ではあるが、背筋は真っ直ぐ伸びていた。会長の護衛を任されるくらいなのだから、彼もSランクヒットマンに匹敵するほどの実力を持っているのかもしれない。

 燐道の傍らには、鹿野とは別にもう一人護衛がいるようだった。

「あの、奥のほうにいるもう一人は?」
「あちらは……《暗月天王(あんげつてんのう)》の歌月(かげつ)ですね。ナイツ本部所属のSランクヒットマンです。彼もまたガンマンとしては最高クラスの実力を持っていると言って良いでしょう」

 歌月は見た目四十代後半くらいで、黒縁の眼鏡をかけた男だった。黒いスーツがよく似合っていて、エリートビジネスマンのような雰囲気がある紳士だ。

「――あれ?」

 今、歌月と目が合ったような……気のせいか? まさか向こうから、こっちが見ていることに気がついたのだろうか――と思ったが、一瞬のことだったのでやはり気のせいだろう。

 控え室の扉がノックされてから、修道服を着た廷吏が入ってきた。

「失礼致します。開廷五分前となりました。出廷をお願い致します」
「あの、まだ審問官が到着していないのですが……」

 薔薇乃が言うと、廷吏は簡潔に答える。

「開廷に間に合わない場合は不戦敗ということになります。補佐がいるのであれば、そちらを審問官の代理として立ててください」

 つまり、俺が禊屋の代理として出廷すれば不戦敗という最悪の事態だけは避けられるということか。

 薔薇乃が口元に手を当て、悩むように言う。

「困りましたね……。不戦敗を避けられたとしても、ノラさん一人では神楽を相手に十分も保つかどうか……」
「またはっきり言いますね……」

 悔しいが、強く否定は出来ない。俺と神楽では差がありすぎる。

「ですが、他に方法がないなら仕方ありませんね。美夜子が来るまでの間だけでも――」

 その時、廷吏の後ろから扉が勢い良く開いた。見慣れたカーキ色のコートを着た少女が飛び込んでくる。

「はぁ……はぁ……お待たせ!」
「禊屋……!」
「あーよかったー! 何とか間に合ったみたいだね!」

 ここまで走ってきたのか、彼女は汗だくで息を切らしていた。

「もう大丈夫なのですか?」

 薔薇乃が禊屋に近づいて言う。

「うん、心配いらないよ。こっから先はあたしに任せておいて、薔薇乃ちゃん」

 薔薇乃はゆっくり頷く。

「……わかりました。あなたを信じます。必ず……勝ってくださいね」
「えへへ……あったり前じゃん!」

 禊屋はウインクをして応えた。次に冬吾のほうを見て、

「ノラも、あたしに任せておけば大丈夫だよ。悪いけど、補佐の出番なんてないからね?」
「そう言うなよ。俺に何が出来るかわからないけど……なにか役に立てそうなときは、遠慮なく言ってほしい」
「しょーがないなー、んふふ」

 禊屋は軽く笑ってから、切り替えるように深呼吸をする。

「――よぉし。それじゃあ、行こうか?」
「……ああ!」




 木槌を打つ音が地下大法廷に響いた。

「――静粛に。ではこれより、審問会を開会致します。此度の審問長はアルゴス院を代表して、このニムロッドが務めることとなりました。異議がある者は? …………異議がないようなので、進行します」

 ニムロッドは中央の審問長席――通常の裁判における裁判長の席に当たる――に座って淡々とした口調で言った。審問長……この審問会を取り仕切る立場であり、最終的な裁定を下す存在。

「なお、此度の審問会の模様はアルゴス院院長、マスターバベルの元へと中継されております。私の裁定は時によってマスターバベルの意思を介入させたものになるであろうことをご了承願いたい。これに異議がある者は? ……ないようなので、進行します」

 要するに、アルゴス院のトップに君臨するマスターバベルがどこかでこの審問会を見ていて、場合によってはその進行に口出ししてくる可能性があるということか。とはいえ、三百人近い傍聴人がいるのだ。マスターバベルも身勝手な真似はそうそう出来ないはずだ。

「赤の審問官・ルージュよ。準備は出来ているか?」
「はい、いつでも大丈夫です」
 
 ニムロッドからの問いに、禊屋が答える。傍聴席側から向かって左側に、赤の陣営の席がある。横に長い机は深みのある赤色に塗られており、このことからルージュ側の席のことを赤壇(しゃくだん)と呼ぶらしい。反対側のノワール側の席はというと、やはり黒く塗られた机が置いてあり、その席のことは黒壇(こくだん)と呼ぶようだ。

「では黒の審問官・ノワールよ。準備は出来ているか?」

 『敵』は、腕組みをしたまま目を閉じていたが、ゆっくりと頷いた。一つ結びにした純黒の髪が静かに揺れる。

 一方は漆黒に沈んだような黒髪に黒いスーツ、もう一方は燃えるような赤い髪と、期せずして両者はそれぞれの陣営を背負うに相応しい風体をしていた。

「……無論、とうに準備完了している」

 瞼が開いて、その怜悧な眼が禊屋を捉えた。神楽は、獲物を追い込もうとする狩人を思わせるような微笑を浮かべる。それに禊屋は真っ向から迎え撃とうとするような強気な眼差しで対峙した。

「よろしい」

 ニムロッドが木槌を打つ。

「では両者、存分に討議せよ」

 ついに始まった――! 議論の口火を切ったのは神楽のほうだ。

「ではまず、今回の審問会が開かれた経緯から確認しておこう」

 いわゆる検事による冒頭陳述である。神楽はゆらりとした動きで斜めに構えるように左手人差し指を冬吾に向けた。

「そこに立っている被告人……戌井冬吾という男には、アルゴス院幹部である『キャメル』こと名護修一を殺害した疑いがかかっている。当人は否定しているようだが、ノワール側は、この審理でその疑いが真実を射貫いていたことを明らかにしてみせる所存だ」

 神楽の陳述に、禊屋も対抗する。

「せっかくですから、ルージュ側の主張も言わせてもらいましょう。あたしは今回の事件、ノワールが深く関係していると睨んでいます」
「ほう……?」

 神楽は面白がるように薄く笑う。法廷内から早速どよめきが起こる。初っ端から挨拶代わりの宣戦布告だった。

「あなたは前日に被告人をあの礼拝堂に呼び出していました。そして被告人に会ったあなたは、彼に睡眠薬を盛ってアリバイをなくさせることで濡れ衣を着せたんです」
「私が名護修一を殺した犯人だとでも言いたいのか?」
「いいえ。あなたには会合に参加していたというアリバイがある。どう頑張ってもあなたは被害者を殺せなかった。でも、今言ったような形で真犯人のアシストは出来ました。だから、真犯人とあなたは間違いなく共犯関係にある――と考えてます」
「くっくっく……いいだろう。その不遜極まりない告発、受けて立とう」

 神楽は黒壇に置いてある紙の資料を手に取った。

「お互いの立場が表明できたところで、幕開けの挨拶としては充分だろう。――では次に、事件について簡潔に説明しておく」

 冬吾のような当事者たちにとって事件の内容は既に何度も反復していることだから頭に入っているが、これが審問会である以上は傍聴人たちにもその流れを理解させておく必要がある。事件の状況説明の間はとくに口を挟む理由も無く、禊屋は黙って聞いていた。

 神楽は敵である冬吾でさえ思わず聴き入ってしまいそうになるほど説明が上手かった。簡潔でありながら事件の要点を的確に押さえている。それだけでなく、低めのハスキーボイスがよく通って耳に心地よい。

「――以上のような経緯で、名護修一の遺体は発見された。さて、次は証人を呼んでより詳しい事実を確認してみるとしよう」

 神楽はそこで左手の指をパチンと鳴らして言った。

「遺体発見に居合わせた警備員、アベルとランス。証言台へ上るがいい」

 二人は傍聴席から歩み出ると、正面入り口から見て中央手前側の証言台の前に並んだ。

「証人たちは己の名前と職務について述べるがいい」

 神楽の指示に従って、まずアベルが話す。

「アベルと申します。アルゴス院所属の警備員で、事件当日は午後二時から十時までの間、修道院本館の入り口を警備していました」
「ランス。……右に同じ」

 仕方なく、といった様子でランスも答えた。

「順を追って確認しよう。証人たちは本館を出てから礼拝堂へ向かう名護修一を目撃したそうだな?」
「はい、そうです」

 神楽の質問にアベルが答える。

「夕方の五時ちょうどくらいのことでした。名護様が本館の入り口から出てきて、そのまま礼拝堂へと向かわれました」
「本館のカメラに記録されていた映像にも、四時五十八分に入り口から出ていく名護の姿が映っていた」

 神楽は資料に目を通しつつ言う。

「では、名護が礼拝堂の中へ入ったのを確認したか?」
「はい。確かに名護様は礼拝堂の中へ入られました」
「ふむ。そっちのほうはどうだ?」

 水を向けられ、ランスも頷いた。

「ああ。間違いなく礼拝堂に入ってったよ」
「いいだろう。被害者が最後に目撃されたのは礼拝堂に入っていく姿で、時間は夕方の五時。このことを傍聴席の皆々様にはよく覚えておいていただきたい」

 神楽は更に質問を重ねる。

「その約一時間後――六時頃に私が本館を出て礼拝堂へ向かったわけだが……その間に誰か、礼拝堂の中へ入った者はいただろうか?」

 アベルはかぶりを振った。

「いいえ。名護様が礼拝堂の中へ入っていかれてからは、誰も入っていません」
「間違いないな?」
「礼拝堂の入り口は一つだけで、その扉は私どもの警備場所からほぼ真正面の位置にあります。三十メートルほどの距離はありますが、あの扉を開けて誰かが礼拝堂へ入っていったら、間違いなく目に付いたはずです。私もランスも、そんな人物は見ておりません」
「素晴らしい答えだ」

 神楽は満足気に笑う。

「ここで改めて確認しておこう。私は本館内で行われていたナイツ・伏王会間の会合を終えて、六時頃に礼拝堂へ向かったのだが――」

 そこで禊屋が食いついた。

「待って。あなたはどうして礼拝堂に向かったんですか?」

 神楽は話を遮られたことを不快に思うどころか、むしろ歓迎するかのような楽しげな表情で答える。

「被害者の名護修一とは個人的な約束があったため、礼拝堂で待ち合わせをしていたのだ」
「ふーん……それにしてはおかしいですね」

 禊屋はアルゴス院が用意したという調査ファイルから、証拠品の項目を開いて言う。

「名護さんの服のポケットから見つかったメモ。それには『17:00 修道院礼拝堂 神楽』と書かれていました。でもあなたは会合が終わる六時までは外に出ることは出来なかったんだから、その時間に待ち合わせをするのはおかしいですよね? 結果として、名護さんはあなたが来る一時間も前から礼拝堂にいたわけですし」
「ほう、それはおかしなことだな。私から六時と伝えてあったはずなのだが……相手が間違えたか? いや、もしかしたら私がうっかり伝え間違えてしまったのかもしれないなぁ?」
「そんな理由で納得すると思うの?」
「私が嘘をついているという証拠でもあるのか? ミスではなく明確な悪意を持って違う時間を伝えたという証拠が?」

 禊屋と神楽は数秒睨み合うが、攻め手に欠けると判断したらしい禊屋は別の質問をする。

「じゃあ、その約束ってどんな約束だったんですか?」
「被害者との約束の詳しい内容については、後ほど触れる予定である。今は話を先に進めさせてもらいたいと思うが……審問長?」

 神楽はニムロッドを一瞥して言う。審問長は頷いて、

「わかりました。ではノワールはそのまま続けてください」

 承認を得て神楽は悠々と話を再開した。

「私は六時に護衛のナツメと共に礼拝堂に向かった。しかしその時、礼拝堂の唯一の扉には鍵がかかっていたのだ。その際に証人たちも鍵がかかっているかどうか確認したと記憶しているが、どうか?」

 アベルが「はい」と答える。

「神楽様に呼ばれて私とランスも礼拝堂の前まで移動しました。そして扉の戸を押したり引いたりしてみましたが、まったく開きませんでした。間違いなく鍵がかかっていたと思います」
「礼拝堂の鍵は、管理人のサラが持つ一本のみだそうだな?」
「そうです」
「なるほど。ではその後、遺体を発見するまでの流れを証人の口から改めて説明してもらおうか?」

 アベルが言われたとおりに説明を始める。

「礼拝堂の扉に鍵がかかっていることを確認して、これはどうも様子がおかしいと思いました。礼拝堂の鍵を持っている管理人は別館のほうにいて、戻ってきてはいませんでしたから。つまり、鍵は扉の内側から掛けられていたということになります。中に人がいることはわかっていたので声をかけて呼びかけたり、扉を叩いてみたりもしたのですが、反応はなく……仕方がないので、管理人のサラを呼んで鍵を開けてもらうことになったのです。神楽様の付き添いであるナツメ様がサラを呼んできてくださいました。そしてサラが鍵を開け、礼拝堂の中で名護様の遺体を発見する運びとなったのです」

 神楽は更に証言を促す。

「ふむ……遺体を発見してからはどうなった?」
「神楽様とナツメ様、そしてランスが現場の状況を調べるために礼拝堂の中へ。私はサラと一緒に礼拝堂の外で待っていました。サラが怯えていたためです。その……神楽様が先ほどご説明されていたように、遺体の様子が尋常ではありませんでしたから。そうなるのも仕方がないことだったと思います」

 遺体の状況については冒頭で神楽が説明していたが、冬吾も脳内でもう一度確認しておく。名護修一は拳銃で首と肩の二カ所を撃たれていた。首の傷が原因で死亡し、その後で犯人は遺体の胸から下腹部にかけてをナイフで切り開いている。臓器類は丸ごと体内から取り出されており、遺体の周囲に散乱していた。更に、遺体には礼拝堂内に保管されていた聖骸布のレプリカが巻きつけられていたのだった。

 神楽は次にランスへ質問する。

「ではもう一方の証人に訊こう。礼拝堂の中を調べて、何を見つけたのか? 無論私は同じ場にいたのでそこで何があったか克明に記憶しているが、傍聴席の者たちにも聞かせるつもりで頼むぞ」
「わかってるよ、めんどくせーな……」

 ランスは頭を掻きつつ答えた。

「まだ中には犯人が潜んでるかもしれないってことで、三人まとまって礼拝堂の中を調べて回ったんだ。で、入り口近くに置いてあった掃除用具入れの後ろに男が倒れているのに気がついた。そこのガキだ」

 ランスは冬吾を指さして言う。

「気を失っていたと本人はわめいていたようだけどな、手は血塗れだったし、すぐ側には拳銃も置いてあった。すぐにそいつが殺しの犯人だとわかったよ。他にも人の隠れられそうな場所は全部探したが、そいつ以外に隠れた人間はいなかったぜ」
「よろしい、そこまでだ」

 神楽はそこで証言を切り上げさせ、話題を転じた。

「では次に、その戌井冬吾がどのタイミングで礼拝堂に入ったのかということについて尋ねたい」

 ランスがバトンを戻して、今度はアベルが質問に答える。

「被告人が礼拝堂に入ったのは、三時頃のことでした。その十五分ほど前に神楽様が礼拝堂に入っていかれて、ナツメ様は扉の前で待機していらっしゃいました。被告人は扉の前にいたナツメ様と少し話をした後、礼拝堂の中へ。それから少しして神楽様が礼拝堂からお出になられて、ナツメ様とご一緒に本館の中へと入られました」
「私と被告人とは以前にちょっとした縁があってな。少し話したいことがあって礼拝堂へ呼びつけた。ルージュ側の主張としては、そこで私が被告人に薬を盛ったということだったが……。確かに、私は三時という時間を指定して被告人を礼拝堂に呼んだ。それは認めよう。しかし薬を盛ったなどというのは完全なる言いがかり、私にはまったく覚えのないことだ。事実、被告人がそう言っているだけで他には何の証拠もないではないか」

 ぬけぬけと言う神楽に、禊屋が赤壇を手で叩く。

「じゃあ、あなたは何のために彼を礼拝堂へ呼んだんですか?」
「そう焦らずとも、この後で説明することを約束しよう。しかし説明の都合上、今は話を先に進ませてもらう。それでいいな、審問長?」

 神楽はニムロッドに確認を取る。

「続けてください」

 禊屋は更に突っ込むかどうか迷ったようだったが、まずは神楽の出方を見ることにしたらしい。

 神楽はアベルに確認を続ける。

「被告人が礼拝堂に入ったのは三時。その後出ていくところは見ていないのだな?」
「はい、そうです」
「ではそれから五時に被害者が入るまでの間に、誰かが礼拝堂に入るのを目撃したか?」
「いいえ。誰も入らなかったはずです」
「ふむ、よろしい。もう戻っていいぞ」

 神楽はそこで証言を切り上げ、二人を傍聴席へ戻らせた。

「さて……少し長くなったが、これで傍聴席の皆々様にもよくご理解いただけただろう。被告人・戌井冬吾は三時時点からずっと礼拝堂に入ったままだった。被害者の名護修一が礼拝堂に入ったのは五時であるから、ここで礼拝堂内にいたのは被害者と被告人の二人だけだ。そして六時に被害者の遺体と共に被告人が発見された……。五時から六時の間に礼拝堂から出て行く犯人の姿が目撃されていないということは、犯人はそのまま礼拝堂内に留まったということになる。つまり、犯人は遺体と共に礼拝堂内にいた被告人しかあり得ないということだ」

 神楽の論証に、傍聴席がざわめき出した。「そんなの決まりじゃないか」、「これはルージュ厳しいぞ」、「神理誘導(ゴッドハンド)が出てくるまでもなかったな」などと好き勝手に言い合う声が聞こえる。

 そこへ審問長が木槌を打って、場を落ち着かせた。

「皆様、静粛にお願いします。――しかしノワールよ、今の話では幾つか説明の付かない部分があるように思えます。例えば、被告人はなぜ被害者の遺体にあのような惨い装飾を施したのかということ。それにどうして被告人は礼拝堂の中に留まったままで、逃げだそうとしなかったのでしょうか?」
「それらの問題については、勿論こちらも説明する用意がある」

 神楽はその質問が来ることを予想していたようだった。

「しかしその前に、被告人の動機を明らかにしておこう。犯人のそれらの不可解な行動には、動機が深く関係しているからだ。先ほど後回しにした、私と被害者の約束、そして被告人と礼拝堂で交わした会話についてもここで説明する。まずは被害者との約束についてだが……私は被害者にある物を渡すために待ち合わせをしていたのだ」
「ある……物?」

 禊屋が聞き返す。神楽は頷いて、

「今から二ヶ月ほど前のことだ。伏王会はイエローアローズという窃盗団を捕縛した。若い男四人組の小さな窃盗団だが、近頃この辺りを騒がせていた問題児たちだ。それだけならば伏王会もわざわざ関与することはないが、連中はこともあろうに我々が保有する倉庫から盗みを働いたのでな。少々痛い目を見てもらった。そして奴らの盗品を調べてみると、その中から興味深いものを見つけたのだ。盗んだ当人らに確認してみると、それは今回の被害者である名護修一の別宅から盗み出されたものだと発覚した」

 イエローアローズ……どこかで聞いたと思っていたが、思い出した。たしか、禊屋たちが名護修一の隠れ家でそのマークが描かれているのを見つけたと言っていた。

「イエローアローズによって被害者が盗まれていたもの……それが、これだ」

 神楽は黒壇の下から小さな指輪を取りだした。高級感のある光沢のある銀色、プラチナ製だろうか。石座部分には何か紋章のような刻印がされているようだ。

「実はこれは、伏王会が特定の相手にだけ送る指輪である。特定の相手というのは、伏王会へ多大なる貢献をした外部の者。すなわち組織にとって最大級の信頼の証……ということになる。石座の裏にはシリアルナンバーが記載されており、それを組織の記録と照合すればどの相手に送ったものかというのがすぐにわかるようになっているのだ。さて、ここには『No.23』とある。私はリストをあたって、このナンバーに該当する者を確認した。そしてそこにあった名前というのが……『叢雲』だ」

 神楽がその名前を発した途端、法廷が大きくざわついた。

「叢雲って、あの叢雲か?」
「あの伝説の殺し屋の?」
「叢雲って、死んだんじゃなったのか? 最近全然話を聞かなかったが」
「何年か前に引退したらしいって噂は聞いたことあるけど……」

 ニムロッドが木槌を何度も叩く。

「静粛に……静粛に!」

 法廷が静かになるのを待ってから、神楽はニムロッドに尋ねた。

「審問長。名護修一はかつてのSランクヒットマン・叢雲だったということは、アルゴス院としても認めてくれるんだろうな?」
「はい。彼は今から四年前に殺し屋を引退し、そして叢雲として得てきた貴重且つ膨大な情報を手土産に、アルゴス院へ入ってきました。本来ならば極秘の情報ですが、審理に関係してくるのであれば開示も仕方ないでしょう」

 神楽は満足気に頷くと、更に続ける。

「イエローアローズは名護の別宅に忍び込んだはいいものの、金になりそうなものは殆ど見つけられなかったそうだ。おそらくそこは名護にとって隠れ家のような場所だったのだろうな。他にも叢雲に関係する物品はあったのかもしれないが、ただの窃盗団にその情報の価値がわかるわけもない。目についたものを幾つか盗んで、たまたまその中にこの指輪が含まれていたのだ」

 イエローアローズの存在が、偶然にも神楽と名護を結びつけたということか……。

「さて……これを手がかりに、私は名護修一が叢雲であるということに気がついた。しかし念には念を入れて、この二ヶ月近くは彼の身辺調査を行っていたのだ。その調査では結局彼が叢雲であるかどうかの確信は得られなかったが、その代わりに、もっと興味深い手がかりを得た。先月、十一月二十日のことだ。私は部下に命じて、名護を尾行させていたのだが……彼はその日、墓参りに行っていたらしい」

 十一月二十日に、墓参り……? まさか……。

「名護は花も線香も持ってはいなかった。しかしその墓の前で、ある名前と共に謝罪の言葉を口にしたのだ。まるでその男を殺してしまったことを悔やむかのような言葉をな。その墓には『戌井家之墓』とあった。そして名護が呟いたその名前というのが……『千裕』。すなわち戌井千裕――四年前に死んだ被告人・戌井冬吾の父親である」

 自分も同じ日に墓参りに行っていたが、まさか名護も来ていたとは……。花も線香もなかったのであれば、気がつきようもないが。

「戌井千裕は名護の表向きの身分である刑事としての同僚であり、友人だったそうだ。その後、私は身辺調査の過程で入手しておいた名護修一の連絡先へ電話をかけた。後で確認できるように、その時の電話を録音しておいたものが……これだ」

 神楽はボイスレコーダーを取り出し、掲げてみせた。無線で携帯電話の通話も録音できるタイプのものだ。

「まずはその録音を聞いていただこう。傍聴席の皆々様は、どうかお静かに……」

 そう言って、神楽は人差し指を口元の前で立てた。そして、ボイスレコーダーのスイッチを押す。

『――では、あなたがあの叢雲であるということで間違いないのですね?』

 神楽の声。電話の途中から再生しているようだ。

『あ……ああ、そうだ』

 やや困惑したような名護の声。冬吾にとってはよく知った声だ、聞き間違えることはない。

『そうでしたか。あのようなこそ泥に狙われるとは、災難でしたね。しかし私どものほうで取り返せたのは不幸中の幸いでした。伏王会はあの指輪の持ち主に最大限の誠意を尽くします。盗品の返却をさせていただくのは当然として、もしお困りのことがあれば何なりとご相談を』
『……そうか。まぁ、考えておく』
『返却につきましては、こちらでよい方法を考えておきます。物が物ですから、慎重にことを運ばせてください』
『わかった。そちらに任せる。決まったらまた連絡をくれ』
『はい。――ところで、これは私の興味本位から伺うのですが……』

 神楽はそこで声を低くして問う。

『今から四年前に、戌井千裕氏を殺害したのはあなたなのですか?』
『なっ……!?』
『失礼ながら、ここしばらくあなたのことを調べさせてもらいました。先日、あなたがその方の墓の前で漏らしていた言葉が気になったもので……』
『き、貴様……何のつもりだ……?』
『今申し上げたように、ただの興味本位……好奇心ですよ。しかしあなたが戌井千裕を殺した張本人だとして……そのことを、彼の息子である冬吾君は知っているのでしょうか? ふふふっ……知っているはずはありませんねぇ?』

 神楽は丁寧な口調はそのままに、名護を追い詰めるかのような邪悪な笑みを声に滲ませる。

『なぜ、冬吾君のことを……』
『いえいえ、以前に少しだけ話をしたことがあるというだけですよ。それにしても、思わぬ形で話のタネを得られました。次に会ったときにこのことを話せば、彼……さぞや驚いてくれるでしょうね』
『や……やめろ! それだけは……!』

 名護は焦ったように言って、神楽を止める。

『その反応……ではやはり、あなたが戌井千裕を殺害したのですね?』
『ぐっ……!』
『くくっ……ご安心ください。私は真実を知ることが出来たら、それで満足しましょう。私を突き動かしているのは、ただの好奇心なのですから。……話していただけますよね? 四年前に何があったのかを……』
『…………わかった。話そう』

 名護は重い沈黙を挟んでから、ぽつぽつと語り始めた。

『私は四年前、ある人から千裕を……同僚であり友人である千裕を殺すように命令されたんだ。私だってしたくてしたわけじゃない……千裕は私にとって一番の友だった。しかし、私には断るという選択肢はなかったんだ。仕方がなかった……』
『……あなたに命令を下した人物というのは?』
『それは……それだけは勘弁してくれないか? 頼む……』

 神楽は少しの間を置いてから答える。

『まぁいいでしょう。続きをどうぞ』
『……私には協力者がいた。彼は千裕の弟で――』
『岸上豪斗、ですね?』
『そんなことまで知っているのか……。ああ、そうだ。彼もまた、私と同じように命令されていたのだ。血の繋がりはないと聞いていたが、仲の良かった兄を殺す手助けをするというのは彼にとっても大きな苦しみだっただろう。……彼への仕事は、私が千裕を殺すにあたっての場所を用意することだった。彼は友人の手助けを得て、『地下室の夜景』という店を借りた。その地下はガンショップになっていて防音がしっかりしている。多少の騒ぎを起こしても周囲に気づかれる心配はないということだ。彼のお陰で場所の用意は出来た。私のほうは、千裕を仕事に絡めて何とか言いくるめて、その店で深夜に待ち合わせた。そして深夜の二時ちょうど、あいつが……千裕がやってきたんだ。私は話をしつつ隙を窺うつもりだったが、私の様子がおかしいということをあいつに悟られてしまった。私はもう破れかぶれになって……気がついたらあいつを、用意していた短刀で何度も刺して……殺してしまっていたんだ……。人殺しには慣れていたつもりだったが、あの時の私は素人も同然だった。私は罪悪感で吐きそうになるのを我慢しながら、千裕の遺体を片付け、現場に残った血の跡などを消したんだ。片付けた遺体はその後、車で別の場所に移動させることになっていたが、これは豪斗の担当だった。私の仕事は、そこで終わりだ……』

 神楽はそこで、ボイスレコーダーの再生を停止させた。

「……聞いていただいたとおりだ。名護修一は四年前から不明のままだった被告人の父、戌井千裕を殺害した犯人だった。これは本人による自白である。前もって声紋もアルゴス院によって鑑定済みだ。アルゴス院のメンバーはこの本館へ入館する際には声紋認証を行うことになっている。その際参照される記録と照合した結果、この電話の声は間違いなく名護修一のものであると証明された。これがその検査の結果である。証拠品として提出しよう」

 神楽は黒壇を降り、一枚の紙の資料を審問長へ渡す。ニムロッドはそれを一読し、頷いた。

「なるほど、たしかに……被害者・名護修一の声で間違いないようですね」

 わざわざ声紋の検査までしてあるとは、用意周到だ。被害者本人の証言を記録した物として、あの録音データは証拠としてかなりの力を持っていると言えるだろう。

 まさかこんな形で名護の罪の告白を聞くことになるとは……名護が父の千裕を殺したことも、岸上豪斗がその協力者だったことも禊屋の推理通りだったが、こうして本人の声として聞くと複雑な思いがする。

 ……それにしても、電話の神楽は何を考えてあんなことを尋ねたのだろうか? 指輪の持ち主には誠意を尽くす、などと言っておきながら、後半はまるっきり脅迫だった。まるで神楽は最初から、四年前の真実を名護の口から引き出すのが目的だったかのようだ。

「どう思う、禊屋……?」

 禊屋の意見も聞いてみたいと思い、声をかける。しかし彼女は何かを考え込むかのように、口元に手を当てたまま黙っていた。

「…………」
「……禊屋? どうかしたのか?」
「あっ……ううん。大丈夫、気にしないで」

 禊屋はそこでやっと冬吾の声に気がついたようで、慌ててかぶりを振る。禊屋の様子は少し気になるが……今は神楽の話に集中するとしよう。

 審問官ノワールは被告人の動機を証明にかかる。

「これで、被告人には被害者を殺す動機があったということがおわかりいただけただろう。ついでに言っておくと、昨日私が被害者と会う約束をしていたというのは、彼がイエローアローズによって盗まれた盗品を返却するためだったのだ。私はそれらを一時的にアルゴス院の貸金庫に預け、そして暗証番号を口頭で被害者へ伝えることで受け渡しを行うつもりだった」
「貸金庫?」

 禊屋が尋ねる。

「そう。ここの貸金庫は登録者の申請さえあれば、暗証番号のみで開けられるように設定しておくことが可能となっている。私が貸金庫の暗証番号を被害者に伝えれば、被害者は私の貸金庫を開けることが出来るわけだ。口頭で伝えるようにしたのはとくに意味はない。こういった重要事項を電話越しに伝えるのは私としては抵抗があったというだけのこと。私はちょうど会合に出るため修道院に来る予定があったし、電話を盗聴される危険性もないとは言えないしな。少々回りくどいが、それが最も安全な受け渡し方法だと私は考えた。この指輪もその時に貸金庫に預けたものだったが、事件の証拠品であるということで取りだしてきたのだ」

 神楽は紋章入りの指輪を手に取りながら説明する。

 そこへ審問長が質問を挟んだ。

「しかし、今の電話の内容を聞く限り、被告人は被害者が父親を殺した仇だとは知らなかったはずでは?」
「いいや、被告人には確かに動機が存在していたのだ。昨日、私がその事実を被告人に伝えた」
「とすると、あの礼拝堂に被告人を呼んだのはその為だったと?」
「その通り。私は名護修一こそが父を殺した仇であることを伝え――そして、後でこの礼拝堂で彼と待ち合わせをしていることも教えた。私は会合のために遅れるが、名護のほうは早めに来るかもしれないということも……な」

 今のは聞き捨てならない。冬吾は大声を出して異議を唱えた。

「嘘だ! あんたはそんなこと言ってなかった……!」

 名護が仇であるということだけは確かに聞いた。しかしそれ以外の部分は完全なでっち上げだ!

 神楽は余裕の笑みを浮かべていた。

「まぁ、ルージュ側は当然そう主張するだろうな。その場に当事者二人しかいなかった以上、どのような会話が行われたか客観的に証明することは不可能だ。私はその上で主張しよう。被告人には被害者を殺害する動機があり、そしてそのまま礼拝堂で待っていれば被害者が来るであろうこともわかっていたのだ。そして、この機会を逃せば名護修一を殺すことは出来なくなるであろうということも」
「それはどういう意味ですか?」

 ニムロッドが尋ねる。神楽は禊屋が持っているものと同じ調査ファイルを開いて見せる。

「被害者の持ち物の中に、昨日の夜出発のロサンゼルス行き航空券があった。私は予め被害者から聞かされていたのだが……どうやら彼は、海外へ高飛びをする予定だったらしい。そうしたら、しばらく日本に帰るつもりはなかったのだと」
「なぜ、被害者は高飛びなど……?」
「さぁな。そこまでは私も聞いていない」

 名護はキバの事件の際、冬吾を庇おうとしたせいであの事件の黒幕に目をつけられていた……というのが禊屋の推理だ。命の危険を感じた名護は、海外へ高飛びすることで助かろうとしていた。神楽は理由までは知らないと言うが、本当にそうなのだろうか? 全てわかった上で知らないふりをしているような気がしてならない。

「私はそのことも被告人に伝えておいた。それを知って被告人は、今日を逃せば名護修一に復讐する機会はないと考えたのだろう」

 禊屋がすかさず反論する。

「それは全部あなたの作り話です。あなたが本当にそんなことを言ったって証拠はありません!」
「だが言ってないという証拠もあるまい? まぁもっとも、被告人しか犯人はあり得ないという前提を崩さない限りは、客観的に見て私の証言のほうが信憑性はあると思うが……?」
「…………」

 禊屋は押し黙ってしまう。悔しいが、たしかに神楽の言うことももっともだ。犯人は俺しかあり得ないという前提を何とかしなければ、一方的に相手が有利な状況が続いてしまう。

「しかし、どうも気になるのですが……」

 そこでニムロッドが疑問を呈した。

「ノワールよ。仮にあなたの証言通りだとすると、あなたの行動は……どうにも被告人を誘導しているとしか思えません。動機を与え、犯行の機会があることを教え……まるで被告人に被害者を殺害させることが狙いだったかのようです」
「……くくっ。どう思っていただいても結構だが、私は被告人が知りたがっていた情報を与えただけだ。尊敬していた父親を殺した、憎き仇についての情報をな。その結果何が起こったとしても、私のあずかり知るところではない。事実、私は被告人の犯行そのものには何一つ協力してはいないし、被告人に犯行を勧めたつもりもない。全て被告人が自分の判断で、一人で行ったことだ」
「……なるほど。たしかに、ここはあくまで被告人・戌井冬吾が被害者を殺害した犯人であるかどうかを見定める場。あなたの行動にはいささか怪しいところもありますが……確信的であったという証拠もありません。今回は問題なしと判断しましょう」
「ご理解いただけて感謝する」

 神楽は手の動作付きで丁寧に礼をする。そして説明を再開した。

「では、被告人には立派な動機があったことがわかったところで、今一度被告人がどのような行動を取ったのかを説明していこう」

 神楽は指を鳴らして呼びかけた。

「廷吏、例のものを」

 廷吏によって黒壇の横にホワイトボードが運ばれてくる。なにかの図面が描かれているようだ。神楽は黒壇を降りると、指の背でボードを軽く叩いて言う。

「当時の状況をよりわかりやすく伝えるために用意した。これは礼拝堂内部の見取り図である」

 たしかに記憶にある礼拝堂内部と同じ形だった。扉、椅子の配置、遺体の位置なども描き込まれている。その横には「神楽」、「アベル」、「ランス」といったように人物の名前が記された小さなカードが貼り付けられていた。

 神楽は「戌井」と書かれたカードを手に取ると、礼拝堂の見取り図中央に移動させる。

「昨日の三時、私と被告人は礼拝堂内で話をした後、別れた。私は会合に出るため本館へ向かい、被告人はそのまま礼拝堂内に残ったのだ。被告人はその後、被害者を確実に殺害するために一計を案じたのである」

 神楽は戌井のカードを遺体の近く、講壇の描き込まれた位置に置いた。

「被告人は、この位置に置いてあった講壇の戸の中に身を潜ませていたのだ。なお、その講壇の下部には小さな穴が空いている。写真を用意したので、見ていただこう」

 神楽は二枚の大判写真を掲げる。一枚は外から講壇を写したもので、たしかに下のところに一センチくらいの小さな穴が空いているようだ。もう一枚は講壇の内部から撮影したものだった。先ほど外側から写したその穴を塞ぐように小さな板が釘で打ち付けられている。半分ほど頭が飛び出した釘もあったりと、釘の打ち方は下手くそだ。それとは関係ないが、事件後に撮影された写真なので内部は血で汚れていた。

 そこで神楽は傍聴席のほうを向いて言う。

「証人、ランスよ。その場で構わん、立て」
「な、なんだよ……」

 傍聴席に戻っていたランスが慌てたように立ち上がる。

「一つ確認したいのだが、この穴は貴様が幼少の頃に悪戯で空けたものだそうだな?」
「ああそうだよ。釘を打って板を取り付けたのも俺だ。それがどうかしたか?」
「結構だ。座っていいぞ」
「ちっ……何だってんだ」

 悪態をつきつつランスが座る。神楽は説明を再開した。

「悪戯によって講壇に空けられた穴……被告人はこれを覗き穴として利用した。注意深く見れば、外からでもその位置に穴があると気づくことは出来たはずだ。そこで穴を塞いであった板を外した被告人は、講壇の中に隠れながら入り口の様子を見張っておくことにしたのだ。――そして五時。被害者が私と会う約束のために礼拝堂を訪れた」

 神楽は「名護」と書かれたカードを礼拝堂へ移動させる。

「被告人は穴から様子を窺って、ターゲットがやってきたことに気がついた。そこでおそらく講壇を手で叩くなりして物音を立てたか、あるいは呻き声を上げるなどして被害者の注意を講壇の方へ引きつけた。当然、被害者は講壇の近くへ移動する」

 神楽は名護のカードを祭壇と講壇の間の位置に持っていく。

「被害者が講壇の戸を開けた瞬間、被告人は持ち込んでいたコルト・ガバメントを二発発砲した。前もって計画された犯行ではなかったとはいえ、被告人もナイツに所属する裏社会の人間である。凶器の銃を持ち歩いていたとしても不自然ではないだろう。突然の不意打ちに、被害者は為す術もない。弾丸は肩と首筋に命中し、被害者の命を奪った。弾丸は貫通して祭壇に残っていたため、弾痕の位置などからして犯人がこの講壇の中に隠れたまま発砲したことはまず間違いないと言えるだろう。更に凶器の銃にはサプレッサーが付いていたため、外まで発砲音が響くことはなかった」

 講壇の中から発砲したというのは禊屋の推理と同じだ。それだけに、自分が犯人であるという点だけを除けばかなりもっともらしく聞こえる説明だった。

「――被告人は被害者を殺害した。しかし、それだけでは被告人の恨みは晴らせなかったのだ。被告人にとって名護修一は、尊敬する父親を殺害しておきながら親身に接するふりをして何年も自分を騙し続けてきた憎き相手だ。一度や二度殺したところで、その憎悪が解消しきれるはずもない。そこで被告人は、更なる凶行に及んだのである。講壇の中で、被告人は大振りのナイフを見つけていた。このナイフは元々、礼拝堂の管理人が置いていたものだ。被告人はそのナイフを使って被害者の身体を切り開き、内臓を周囲に散らかすことで被害者に更なる辱めを与えようとしたのである。この作業の間、礼拝堂の扉には内側から鍵をかけておいた。万が一にも、途中で誰かが入ってこないようにしておくためだ。内鍵には被告人の指紋がはっきり残っていることも言い添えておこう。しかし、その行動の結果被告人は自らを追い詰めてしまった」

 神楽は礼拝堂の入り口外側に、「神楽」、「ナツメ」、「アベル」、「ランス」と四枚のカードを移動させる。

「被告人が慣れない解体作業に手間取っているうちに、六時になってしまったのだ。扉の外から呼びかける声で、被告人は外に出るに出られない状態に陥ってしまったことに気がつく。脱出は絶望的だった。そして外の私たちのやり取りを耳で聞いて、すぐに礼拝堂の管理人が鍵を持ってくることを知っただろう。被告人は、そこで一縷の望みを賭けた策に出る。まず、被告人は被害者の遺体に礼拝堂内にあった聖骸布を巻きつけたのだ。なぜそんなことをしたのかというと、遺体の異常性を更に強調させることで注意をそちらに引きつけるためだった。礼拝堂の扉を開けて、真っ先に目に入るのは正面祭壇前に横たわった血塗れの遺体だ。更に聖骸布が巻きつけられているという意味不明の状況。誰もがその遺体に目を奪われる。場合によっては近くに寄って確認してみようとするだろう。被告人の狙いはそれだ。礼拝堂の中に入ってきた者たちが遺体に気を取られている隙に、扉から脱出する……それが最後の策。その為に、扉から近い掃除用具入れの後ろに隠れていた。あの位置はわざわざ回り込むか覗き込もうとしない限りは死角になっているからな。そして、礼拝堂の管理人が到着し、鍵を開ける」

 神楽は「サラ」と書かれたカードを扉の外に移動させた。

「しかし被告人にとっては不幸なことに、外にいた全員が中に入ってはこなかった。サラとアベルは外に残ったままだったのだ」

 扉の外から神楽、ナツメ、ランスの三枚のカードを礼拝堂の中へと移す。

「元々成功率の低い賭けであることは本人も自覚していただろうが、流石に脱出は諦めざるを得なかった。そこで被告人は苦肉の策として、私に嵌められて眠らされていたふりなどをしつつ、発見された……というわけだ」

 図面を使った説明を終え、神楽は黒壇に戻る。

「――さて、これがノワール側が考える被告人の取った一連の行動である。審問長が先ほど提示した疑問の二つにも解答を示せたと考えるが?」

 審問長ニムロッドは頷いた。

「被告人が犯人だとして、なぜ遺体にあのような装飾を施したのか、そしてなぜ礼拝堂内に留まった状態で発見されたのか……なるほど、どちらも筋の通った見事な論証でした」

 ……神楽の説明は完全なデタラメだ。それはわかっている。しかしニムロッドの言うとおり、確かに筋は通っているのだ。どこに異議を挟んでいいものか、見当もつかない。大胆にシナリオをでっち上げておきながら、部分的に判明しているポイントとは綺麗なほど矛盾がない……これも相手が神楽だからこそ成せる業か。

 ――などと冬吾が考えていたときだった。禊屋が赤壇を大きく手で打った。

「黙って聞いてたら、好き勝手に言ってくれるじゃん」

 神楽は肩をすくませ笑う。

「ふっ……何か問題でも?」
「問題大アリだね。――あなたの今の論証には、はっきりした矛盾があります!」

 禊屋は強気に言い放った。

「……面白い。聞かせてみろ」
「もちろん、聞かせてあげますよ。その矛盾というのは、携帯電話の問題です」
「携帯電話?」
「現場から被害者の携帯電話は見つかっていないんです。つまり犯人が外へ持ち去った可能性が高い。外へ出る機会がなかった被告人に、携帯電話を持ち去ることは不可能です」

 禊屋の指摘を、神楽は一笑に付す。

「意気込んでいるようだからと少しは期待してみれば、そんなことか。たまたま被害者が携帯電話を持ち歩いていなかったか、普段から持ち歩かない性格だったというだけだろう。どこに置いてきたかは知らんがな。爆破されてしまった自宅にあったのだとすれば、もう見つかりはしないだろうが」

 名護の自宅が爆破されていたこと――おそらく証拠隠滅か捜査攪乱のためであろうことも――は、既に審問会の冒頭で神楽が触れていた。

「……まぁ、そう返しますよね」

 禊屋も余裕の表情を崩さない。神楽の反論は予想済みだったようだ。

「んじゃ、もう一つの矛盾についてです」

 禊屋は指を鳴らすと、あっさり別の指摘に移った。もう既に神楽の論証に二つも突っ込みどころを見つけていたのだ。禊屋は調査ファイルを開きつつ、

「アルゴス院の調査によると、講壇に残された指紋は、戸の取っ手部分に付着していた被害者のものだけでした。しかしここに被告人の指紋は残っていません。ナイフや銃には指紋が残っているのに――まぁこれは真犯人が彼に濡れ衣を着せるために指紋を残させたんだと思いますけど……。被告人が講壇の中に隠れて被害者を撃ったというのなら、講壇の戸や内部に指紋が残ったはずですよね。これについては、どう説明するつもりですか?」
「それも簡単なことだ。あの講壇はもとより材質的に指紋が残りにくい。内部は全面ざらついた表面の木板で、手袋などをしていなくとも指紋は残らなかったはずだ。それに戸の取っ手についてだが、ああいった丸く出っ張った形なら指を軽く引っかけるだけで開けることが出来る。指紋が残らないような開け方をしたというだけだろう」

 神楽は事も無げに反論を返してきた。逆に禊屋を煽るように言う。

「で? 矛盾とやらはそれで全部か?」
「…………」
「ふん……正直期待外れだぞ、禊屋。こんなつまらん指摘で時間稼ぎするのが貴様の精一杯か?」

 禊屋は髪を一度掻き上げて、深く息を吐く。そして、神楽を真っ直ぐ見据えて言った。

「……そこまで言われたら、やるしかないね」
「……ほう?」
「今のはほんの様子見。じゃーそろそろ、本気出しちゃうよ?」

 禊屋はゆっくりと、しかし法廷中に届くような声で言った。

「――ルージュ側には、真犯人を告発する用意があります!」

 法廷が大きくどよめいた。今まで一方的に攻められるばかりだったルージュがついに攻勢に出たのだ、傍聴人たちも興奮している。

「くくく……いいだろう。そう来なくてはな……!」

 神楽は満足気に笑うと、手を禊屋へ差し出すようにして言う。

「では聞かせてもらおうか……! 貴様が告発しようという真犯人……いったい誰だ!?」

 そして禊屋は、意を決したようにその名前を告げた。

「……礼拝堂の管理人、サラさん。彼女こそが、名護修一さんを殺した真犯人です」
「なに……?」

 神楽は一瞬、初めて不意を突かれたような表情を見せる。しかしすぐに何かに気がついたような素振りを見せ、笑った。

「ふふ……ははは! なるほど……面白い。しかし当然わかっているのだろうな? 貴様の指摘したその人物には強固なアリバイがあるということを。それだけではないぞ。犯人がどうやって礼拝堂に侵入し、そして脱出したのかという問題もある」
「もちろん。両方とも突破してみせますよ。まずは早速、次の証人を呼ばせてもらいます」

 禊屋は傍聴席に向かって言う。

「サラさん。証言台へ上がってください」






「サラ……と申します。この修道院で、礼拝堂の管理人を務めさせていただいております」

 証言台に上がったサラは、かなり緊張した様子で言った。

 禊屋はああ言っていたが、彼女が本当に犯人なのだろうか……? あんな気の弱そうな女性が、あのような残虐な殺しをするとは思えないが……。

「念のために確認しておこう」

 神楽は手元の資料を見ながら言う。

「証人には昨日の事件当時、アリバイが存在する。証人は別館にいて、財団『月光の会』の会長である渡久地友禅殿をもてなしていたのだ」

 神楽が渡久地友禅の名前を出した途端、法廷のあちこちで声が漏れ出した。

「渡久地友禅ってあの……?」
「大物中の大物じゃないか……」
「なんでそんな人が来てんだ? 別館ってなにかあったか?」

 審問長が木槌を叩く。

「静粛に、静粛に……。ノワール、続きをお願いします」
「了解した……。では渡久地殿。彼女のアリバイについて証言していただけるだろうか?」

 渡久地友禅は車椅子に座った状態で、傍聴席の最前列にいた。スーツ姿で、両手には白い手袋を付けている。顔の右半分を仮面で覆った老齢の男は、その異様な容貌にはそぐわない穏やかな口調で話し始めた。

「この身体では立てぬのでな、座ったままで失礼する。サラ君のアリバイについてだが、私が保証しよう。昨日私は別館で売っているワインを買いにきていた。そのついでに食堂で、買ったワインと軽い食べ物、そしてサラ君とのお喋りを楽しんでいたのだ。ま、軽いお茶会のようなものだと思ってくれれば良い。私が別館に来たのが二時二十分頃、その日は買う物がすぐ決まったから、買い物を終えて食堂に入るまではそれから五分もかかっておらん。そして私が帰ったのは五時五十分だったな。時計を見て、もうこんな時間か、となったのでよく覚えている。……どうだ、これで良いかね? 神楽君」
「充分です。ありがとうございました」

 神楽は礼を言って、正面に向き直る。

「これは渡久地殿から許可をいただいているので公表する事実であるが……渡久地殿と被害者・名護修一は血縁関係にある。お二人は血の繋がった親子だったのだ」

 法廷がざわついた。神楽は構わず進める。

「渡久地殿は被害者とは長らく絶縁も同然の状態だったらしいが……それでも血の繋がった息子を失った悲しみというのは計り知れないものがある。その渡久地殿がわざわざ証言してくださった以上、このアリバイは充分信頼できるものであると考えられるだろう」

 神楽はサラのアリバイが信頼に足るものであると印象づけようとしたのだろう。その目論見は傍聴席の反応を窺う限り成功しているようだった。

「渡久地殿に証言していただいたとおり、証人サラには二時四十分から五時五十分の間のアリバイが存在する。名護修一が最後に目撃されたのは五時であり、その後六時に礼拝堂内で遺体が発見された。つまり犯人が犯行を行った時間は五時から六時の間ということになる。更に犯人には、被害者を殺害後に遺体に装飾を施す時間が必要だった。腹を裂き内臓を切除して、聖骸布を巻きつける……少なく見積もっても十五分はかかる作業だ。場合によってはその倍近くかかることも考えられる。別館との移動距離も含めて考えると、証人に犯行はどうあがいても不可能と断じざるを得ないわけだが……ルージュはそうは思っていないようだな?」

 禊屋は腕を組み、不敵に笑ってみせた。

「彼女のアリバイは、たしかに鉄壁のように見えます。でも、あたしはそれを崩すことが出来る」

 審問長が言う。

「よろしい。ではルージュよ。証人がどのようなアリバイ工作を行ったのか、その説明を――」
「出来ます――が。それはとりあえず、後回しにしたいと思います!」

 ロボットのようだった審問長も、その肩透かしには唖然としたようだ。

「……なんですって?」
「言ったとおりです。サラさんのアリバイ工作より先に、明らかにしておきたいことがあるんです」
「……まぁ、それならそれで構いませんが。では何から?」
「まずは、サラさんの動機についてです」

 禊屋は証言台のサラに向かって言う。

「サラさん。あなたのご両親は……十七年前に殺されてしまったと聞きました。本当ですか?」

 サラは表情を曇らせたが、頷いた。

「……はい。両親は死んで……私だけが生き残りました。それが、何か……?」
「そのご両親を殺したのって……叢雲、なんじゃないですか?」
「――ッ!?」

 サラの目に明らかな動揺の色が浮かぶ。

「叢雲……つまり被害者の名護修一さん。彼は、あなたにとってご両親の仇だった。違いますか?」
「そんな……そんなの、何の根拠があって言うんです!?」

 サラは怯えと怒りの感情がごちゃ混ぜになったような様子で叫ぶ。

「叢雲が私の両親を……なんて……あなたの当てずっぽうじゃないですか……。そんな勝手なこと言うなら、証拠を見せてくださいよ……!」
「証拠ならありますよ」
「えっ……!?」

 驚いた表情で禊屋を見つめるサラ。禊屋は赤壇の下から、一冊のファイルを取りだした。

「これは、名護修一さんの別宅から見つけたものです。さっきノワールの話に出てきた、イエローアローズに盗みに入られたって場所ですね。実はあたしたち、そこに辿り着いていたんです。彼が叢雲だってことにも気づいてました。それは、このファイルの内容を見たから。――ここには、叢雲が十八年前から四年前までの十四年間に殺害したターゲットの情報が記録されているんです」
「ほ、本当に……?」
「この中から叢雲の殺しだと判明している案件を抽出して照合すれば、本物だとわかるはずです。筆跡鑑定はまだですけど、名護さんの筆跡とよく似ていたのできっと一致すると思いますよ。そしてこのファイルには、こんな記録が残っています」

 禊屋はファイルの該当ページを開いて、ポンと手の甲で打つ。

「十七年前の十二月……安藤貴保と安藤雪江……通称セイレーンという偽造屋のこと。この二人もおそらく叢雲によって殺されたんだと思います。この二人が、あなたのご両親なんじゃないですか? サラさん……いいえ、安藤星良さん」
「あ……う……」
「調べればすぐにわかることですよ?」

 禊屋は淡々と証人を追い詰める。サラはうつむき、長い沈黙を経て――ようやく答えた。

「そう……です。安藤貴保と安藤雪江は、私の両親です」
「あなたがどこかで名護さんが叢雲だと気づき、両親の仇だと知っていたとしたら……それは立派な動機になりますね?」
「私は……私はやってません! 犯人じゃない! 第一、私がどうやって礼拝堂に入って、そして名護さんを殺した後で脱出したんですか? 私にはそんなこと不可能です……!」
「いいえ、不可能なんてことありません。あなたには出来たんです。それを今から証明しましょう」

 すると、禊屋は傍聴席の方へ向かって呼びかけた。

「ランスさん。すみません、もう一度証言してくれますか?」

 ランスは渋々といった感じでその場に立ち上がる。

「また俺かよ……なんだ?」
「今朝聞いた話の確認です。同じ質問をしますけど、面倒くさがらずに答えてくださいね。四時三十分から四時四十分まで、あなたは本館の中に入っていましたよね? 監視カメラの映像に残っていました」
「ああそうだよ」
「警備のシフトは十時まででした。どうして途中で担当場所を離れたんですか?」
「トイレのついでに、煙草吸ってきただけだよ。それくらいの休憩は認められてんだ。まぁ二人いるうちの一人ずつって決まりではあるけどな」
「わかりました。ありがとうございます。もう座っていいですよ。――じゃあ次は、アベルさん」

 禊屋はテキパキと進めて、ランスの隣りに座っていたアベルを立たせる。

「話は変わりますけど、礼拝堂にあったナイフはあなたがサラさんに贈ったものだという話でしたよね?」
「え、ええ……そうですけど。それが何か?」
「どうしてサラさんにナイフを?」
「それは、今朝も話しましたけど、こうした裏社会に携わる人間が多く訪れる場所で女性一人では何かと危険な目に遭いやすいのでは……と。それで、護身用にと思ってナイフを贈ったんです。まぁ、仕舞いっぱなしで使ってはもらえなかったようですけど」
「……あの。ズバリ訊いちゃいますけど、サラさんのことは、どう思ってるんですか?」
「は、はい?」

 アベルは困惑したような表情を浮かべる。

「んー……つまりですね? あたしが思うに、あなたはサラさんのことが好きなんじゃないかと!」
「なっ……そ、そんなことが事件となんの関係があるんですか!?」

 礼儀正しい印象だったアベルだが、これにはさすがに気分を害したらしい。こんな場でそんな質問をすれば相手が怒るのも当然だ。

 ……禊屋は何を考えているんだ?

「事件とは大いに関係があるんですよ。ランスさんがトイレに行っていた四時三十分から四十分の十分間、あなたは一人だったんですよね? あなたがサラさんに特別な思いを抱いているとすれば、その間にサラさんが礼拝堂に入るのを見ていたのに、黙っていた可能性があります」
「――ッ!?」
「まぁ、アベルさんもランスさんもサラさんと幼馴染みだったようですから、二人ともサラさんを庇って嘘をついた可能性はあるんですけどね? でもあたしがサラさんの立場なら、協力者として選ぶのはアベルさん一人かな、と。協力者は増えすぎても後で口裏を合わせるのが大変ですし、裏切られるリスクも高まる。アベルさんが自分に惚れていると気がついていたなら簡単に言うことを聞いてくれそうだし、裏切られる心配もないと考えても不思議じゃありません」

 アベルは愕然とした表情で禊屋の言葉を聞いていた。

「禊屋さん、あなた……自分が何を言っているかわかっているんですか!? そんな憶測だらけの推理で決めつけたみたいに……サラがそんなことを考えると、本気で思っているんですか?」
「充分あり得ることだと思います」
「見損ないました……あなたがそんな人だったとは……」
「あたしのことなんてどう思ってくれても結構ですよ。――で、どうなんでしょう。サラさんのこと、好きなんですか? どうでもいいはぐらかしはナシで答えてくださいね?」
「そ、それは…………」
「ほら、否定が遅れましたね? 今のが何より雄弁な答えです。やっぱりあなたはサラさんに好意を持っているんだ。だから庇った」
「ち、違う! 私は――」
「はいはいもーいいですよ、座ってください」

 禊屋は畳みかけるような攻勢を仕掛けておきながら、無理やりアベルの証言を打ち切ってしまった。そして正面に向き直って話を続ける。

「さて……これで可能性は提示できたと思います。サラさんは礼拝堂に堂々と、正面から入った。ただし、アベルさんが見て見ぬ振りをしてくれることを知った上で、ですけどね」
「くくく……」

 そこで神楽が笑い出す。

「随分とまぁ……貴様らしくもない、粗っぽい論証だな? 何を焦っている?」
「……何か文句でもあるんですか?」
「ふっ……いいや別に? 証拠はないが、確かに可能性は提示できている。――興味が湧いた。そのまま走れるだけ走ってみるがいい。ただし、少しでも道を逸れたり躓いたりしたら……」

 神楽は真っ直ぐ左の人差し指を禊屋へ突きつける。

「……その時は息の根を止めてやる。精々、気をつけることだ」
「……上等ですよ」
「では続けるがいい」

 禊屋は額に浮かんだ汗を袖で拭ってから、説明を再開した。

「サラさんは礼拝堂の中に入り、講壇の中に隠れて被害者が来るのを待ち伏せしました。この点については、先ほどノワールが言った推理と同じです。弾痕の位置から見て、犯人が講壇の中から被害者を撃ったのは間違いない。ちなみにこの間、被告人はノワールに強力な睡眠薬を盛られて眠らされていました。おそらくサラさんとノワールは共犯関係にあったと考えられます。そして五時、被害者がやってきたところを殺害。その後の遺体の装飾については、単なる捜査攪乱のためでしょう。さっきノワールが言っていたように、強い憎悪の発露という可能性もありますけどね」

 神楽が口を挟む。

「その次が問題だな。証人はどうやって礼拝堂を脱出したと言うのだ? 貴様の推理ではアベルはともかく、ランスは証人の共犯ではなかったな? ランスが五時以降礼拝堂から出ていく人間を見ていないと言っている以上は、犯人は少なくともランスには見つからないようにして礼拝堂を出て行く必要があるが……どう説明するつもりだ?」
「実はそれは、単純なトリックで説明が出来ます。ポイントは三つ」

 禊屋は三本指を立てる。

「一つは警備員の二人が立っていた位置から礼拝堂の入り口までは、三十メートルほどの距離があったということ。そして二つ目が、礼拝堂の扉は二人から見て正面ではなく横向きであったということ。最後の三つ目は、その扉が両開きだったということ。――サラさんは、その扉から外に出ていきました。礼拝堂の唯一の出入り口だから、脱出するにはそこを通らないわけにはいきません。ただしその際、サラさんは扉の左側――つまり修道院本館側の半分だけを開けたんです。それも、すごくゆっくりと……慎重に」

 ……ゆっくりと、扉を開けた?

「扉を開けるだけの動きに五分くらいかけたかもしれません。脳のトレーニングを謳ったテレビ番組なんかで、イラストや写真の徐々に変化していく部分を見つけて答えるってクイズがたまにあります。あれって、変化した後の写真と見比べてみると一目で違うってわかるのに、徐々に変化していくとなかなか気がつかないんですよね。このトリックの仕組みはそれと同じ。サラさんは扉の左側を、ゆっくりゆっくりと押し開けた。ランスさんたちからの位置では、扉が邪魔をしてサラさんの身体は見えません。しかも、あまりにもゆっくりと扉が開くので、ランスさんは礼拝堂の扉が動いているということに気がつかない。サラさんの体格的に、三十センチちょっとくらいの隙間が生まれるほど扉を開けてしまえば、あとは身体を横に滑らせるようにして礼拝堂を脱出できたはずです。ランスさんの位置からは三十メートルも離れているわけですから、そんな小さな違いには気づきようがなかった。でも、扉の隙間を抜けて脱出し、そこで扉を閉めてしまったら自分の姿が目撃されてしまいます。そこでサラさんは、ある物を使いました。おそらく長さ三十センチくらいの、氷でできた棒です。そんなに太くはないやつ」

 禊屋は空中に両手を広げて、三十センチくらいの大きさを示す。

「予めトリックのために作っておいたものを、鞄に保冷剤でも詰めて持ち込んだんでしょうね。サラさんは扉の隙間をすり抜けて外に出る際、その氷の棒をドアストッパーとして扉の間に挟んでおきました。そうして扉を開いたままの状態にして、自分は右側に移動、礼拝堂の壁に沿うように動いてその場を去った。そうすれば扉がランスさんの視界を遮ったままにしてくれるので、見つかる心配はありません。その後は大きく迂回すればランスさんに目撃されることもなく別館に戻ることが可能です。仕込んでおいた氷のドアストッパーは、時間の経過で自然消滅します。扉の圧力がかかるので通常よりは早く溶けると思いますが、なるべく早く溶けるように水筒に入れておいたお湯でもかけたかもしれませんね。氷は少しずつ溶けて開けたときと同様にゆっくりと扉を閉めてくれるのが理想ですが、もしかしたら圧力に負けて氷が途中でぽっきり折れ、一気に扉が閉まってしまうかもしれません。まぁその時はその時で一瞬のことでしょうし、既にサラさんの姿はなくなってるはずなので、もしランスさんに見られても大した問題はありません。……さっ、どうですか? このトリック、仲間に似たようなことを実演してもらいましたけど、わりと簡単に出来たみたいですよ?」

 その方法なら、たしかに目撃されずに礼拝堂を脱出することが可能かもしれない。しかも使ったのは氷の棒だけ。溶けきってしまえば証拠はなにも残らないというわけだ。

「待てよ!」

 傍聴席のほうから声がする。ランスが立ち上がっていた。

「それじゃおかしいじゃねぇか。あんたの推理は間違ってるぞ!」

 ニムロッドが木槌を叩いて言う。 

「傍聴人は無断で発言するのをやめてください。退廷を命じますよ」

 それを禊屋は制止した。

「あ、大丈夫です。――ランスさん。あたしの推理のどこが間違ってるって言うんですか?」
「あんたが今説明した方法だと、サラは扉を開けっ放しにしたままその場を去ったってことになるよな?」
「んー、そうですね。そのまま迂回して別館に戻ったんだと思います」
「扉を開けっ放しにしてあったってことは、サラは扉に鍵を掛けられなかったはずだ。だが俺たちが六時にあの扉を確認したときは、たしかに鍵が掛かってたぜ。これは矛盾ってやつじゃねぇのか?」
「ああ、そのことか……。安心してください、ランスさん。今指摘してもらった問題は、もちろんあたしも考えていてこれから説明するつもりでした」
「な、なにっ?」

 ランスは虚を突かれたような顔をする。

「サラさんは礼拝堂を脱出する際に、鍵を扉の前に落としていったんですよ」
「は……ああん? どういうことだ?」
「あの礼拝堂には普段から人が殆ど近づかないことをサラさんは知っていました。だから扉の前に鍵を落としておいたら、次にその扉に近づく予定の人に鍵を確実に渡せます。ランスさんたちからは距離が離れているので、小さな鍵が落ちてるなんて気づきませんからね。そしてその鍵を渡す相手というのはもちろん、ノワールです」

 禊屋は左手で神楽を指し示した。神楽は黙ってその様子を見ている。

「サラさんと共犯関係にあるノワールは、六時に礼拝堂へ向かって、扉の前に落ちている鍵をさりげなく拾ったんでしょう。そして扉が開かないフリをしつつ鍵を掛けた。その後でランスさんたちを呼んで確かめさせたんだと思いますよ。あとは、ナツメさんにサラさんを呼びに行かせるついでに鍵を持たせておけばいい。サラさんはナツメさんから鍵を受け取って、何事もなかったような顔をして礼拝堂の鍵を開けた……というわけ。どう? これでもまだ矛盾はある?」
「……ちっ」

 ランスは悪態をつきつつ席に座る。今の反論……彼はもしかしたら、サラを助けようとしていたのではないだろうか? 幼馴染みであるサラが犯人扱いされているのを見捨てておけなかったのかもしれない。

 一方、サラはというと、自分が礼拝堂に出入りできた可能性が提示されたことでより一層追い詰められたような青ざめた表情をしていた。

「禊屋……本当にあの人が犯人なのか?」

 冬吾は思わず尋ねた。たしかに禊屋の推理通りなら礼拝堂への出入りはクリアーできるだろう。しかしどうしても、証言台に立っているあの女性が名護修一を残虐に殺し、自分を陥れた悪魔のような人物だとは思えなかった。まさか禊屋の推理が間違っているとは、思いたくはないが……。

 禊屋は人差し指を口元の前で立てると、小声で冬吾に言う。

「大丈夫……ここはあたしに任せておいて」

 質問の答えにはなっていなかったが、冬吾は頷いた。今は彼女を信じよう……。

「……なるほど。氷のドアストッパーに、鍵を、ね……なかなか面白い」

 神楽が不敵な笑みを浮かべて言う。

「では次……これが最後の難関だ。証人サラのアリバイは渡久地殿の証言によって保証されている。貴様はそのアリバイ……どう崩すというのだ?」
「……そのために、実験をさせてください」
「実験だと?」
「今から一人の証人を呼んで、証言してもらいます。ただし、その証言はサラさんには聞かせません。別室にでも隔離しておいてください。その証言が終わったらサラさんを戻し、もう一回だけ証言をしてもらいます」
「それでサラのアリバイが崩せるのか?」
「崩せるはずです」
「ふっ……いいだろう。やってみるがいい。ただしここまでやっておいてもし失敗したら、その時は負けを覚悟してもらうぞ……?」
「……わかりました」
「その言葉、忘れるなよ」

 禊屋はニムロッドの席を向いて言う。

「――というわけです。今言ったように、サラさんを別室へ隔離させてもらえますか? 絶対、この法廷内のやり取りが聞こえない場所に」
「……わかりました。廷吏よ、証人を別室へ」

 廷吏が数人動いて、サラを法廷の外へ連れて行く。禊屋はその様子を途中まで見ていたが、やがて廷吏の中から暇そうにしている者を見つけて声をかけた。

「ねぇねぇ、そこの人。ちょっといいかな?」
「は、はい。なんでしょう?」
「ちょっとお願いしたいことがあるんだけど……」

 そう言って、禊屋は廷吏に何事か耳打ちする。廷吏は驚いたような顔で、

「ええっ!? い、今すぐにですか?」
「そう! なるはやでお願い!」
「わ……わかりました……」

 その廷吏は赤の陣営側後方の扉から法廷を出ていった。

「何を頼んだんだ?」
「うん……ちょっと、念のためにね。出来れば、必要な状況にならなければいいんだけど……」

 そんなぼかしたような言い方をするばかりで、禊屋は何を廷吏に頼んだのか教えてくれなかった。

 禊屋の顔を見て、冬吾はふと気がついて言う。

「禊屋……もしかしてちょっと、疲れてるか?」
「えっ……そう見える?」
「ああ。なんとなく、だけど」
「……にひひ、だいじょーぶ! あたしはキミを助けるためだったら、いくらでも力が湧いてくるんだからさ」

 ピースサインをする禊屋の額には、薄らと汗が滲んでいた。







 しばらくして、サラの別室への移動が完了したという報告がされた。

「――それじゃあ、次の証人を呼びたいと思います」

 禊屋は傍聴席に向かって言った。

「別館の管理人――ヒューイさん。証言台へ上がってください」

 黒い修道服を着た、初老の男が証言台に立つ。白髪頭で眼鏡をかけており、温和そうな雰囲気の男だ。

「あー、えっと……ヒューイと申します。別館の管理人をしております……」

 ヒューイはなぜ自分がここに呼ばれたのかわかっていない様子だった。禊屋が質問を切り出す。

「ヒューイさん……サラさんのことなんですけど。あなたは彼女のことで、何か隠し事をしていませんか?」
「えっ……?」

 まずい、という言葉が表情に表れていた。冬吾の目から見ても、彼が何か隠しているということはわかる。

「わ、私はなにも……」
「……そうですか。まぁ、それなら仕方ありませんね」

 禊屋は一旦引いて、違う質問を投げかけた。

「昨日のあなたの行動についてなんですけど、改めて話してくれますか? 今朝あたしに話したのと同じ感じでいいので」
「それは、構いませんが……それがサラのアリバイとどう関係があるんでしょうか……?」
「……そうですねぇ、それは追々わかるんじゃないですかね?」

 禊屋はあしらうように言って、ヒューイに証言を促した。

「それで、どこから話せば……?」
「渡久地さんを食堂に連れて行った後のことからお願いします」
「後のことから、ですか……。といっても、それから後は私は殆どワインセラーにいたのですが……」
「構いません。お願いします」
「はぁ……わかりました」

 ヒューイは話し始める。

「私は別館内の半地下にあるワインセラーで、品物の整理をしていました。在庫を補充したり、棚の商品を並べ直したり……そんなところです。そうしているうちに五時になっていました。時計の五時の時報が鳴っていたので覚えているんですが、その時にワインを乗せている棚の一つが壊れてしまったんです。釘が古くなっていたせいなんですが、ワインが割れてしまって片付けをするはめになりました。まぁ、片付け自体はすぐに終わったんですが……。その後はしばらく棚を修理するために釘を打っていましたね。少し休憩しようと上に上がってみたら、ナツメさんがちょうど事件のことを知らせに来ていたところでした」
「サラさんはその時、どこにいましたか?」
「ええっと、渡久地さんはもうお帰りになっていたので、食堂で洗い物などをしていましたね。ナツメさんから事情を聞いて、急いで礼拝堂のほうへ向かって行きましたよ」

 禊屋は黙ってヒューイを数秒見つめた後、ニヤリと笑って言った。

「……ありがとうございました。もういいですよ」







 ――サラが緊張した面持ちで法廷に戻ってくる。証言台に立つと、彼女は怯えきったような表情で禊屋に訴えかけた。

「あのっ……禊屋さん。私、本当に犯人じゃないんです。信じてください……!」

 禊屋はサラから視線を外し、少しうつむいて答える。

「……ごめんなさい。正直言って、無理です」
「あ……うっ……」
「あたし、あなたに言いましたよね……容赦しないって。あなたは間違いなく何かを隠しています。そして事実、あなたには動機があって、礼拝堂に出入りすることも出来た。あとはアリバイを崩すだけです。アリバイが崩れたら……あなたは一気に危うい立場になるんですよ? これからの証言、そのあたりのことをちゃんと意識しておいてくださいね」

 ……まるで脅しだ。やはり今回の禊屋のやり方はどこかおかしい……。サラは証言台に手をついて、青ざめた表情をしていた。

「それじゃあ、これからあなたに幾つか質問をします。簡単なことしか訊かないので、安心してください。あなたが犯人じゃないなら、淀みなくすらすらと話せるはずですよね?」
「わ、わかりました……」
「それじゃ、最初の質問です。サラさん、耳は良い方ですか?」
「へ……耳、ですか?」
「はい、耳。聴力は問題ないですか? まぁ……こうして普通に話せてるくらいですから大丈夫ですよね?」
「はい……」
「じゃあ、今朝あたしが食堂でサラさんたちと話した後、帰り際に変な音が鳴っていたのを覚えてますか? ほら、あのダン、ダン、ダンっていう」
「ああ……そういえば、そんな音が聞こえてましたね」
「あれって、なんの音だかわかりました?」
「い、いいえ……」
「実はヒューイさんが半地下にあるワインセラーで釘を打ってたんですよ。壊れた棚を直すために」
「はぁ……それが、どうかしたんですか……?」
「ああいえ、別に」

 禊屋は次々と質問を投げかけていく。

「じゃあ次の質問なんですけど、サラさん、今朝あたしがあることを訊いたときにひどく驚いていましたよね。たしか、渡久地さんと名護さんが親子だってことを知っていたのかと尋ねたときのことです。あの時サラさんは、驚きのあまり紅茶を渡久地さんの膝元に零してしまったんですよね。あの時どうしてあんなに驚いていたんですか?」
「あれは……その、質問の内容に驚いたわけではなくて……急に声をかけられたせいで驚いたというだけなんです……それでうっかり手を滑らせてしまって……」
「ふぅん……そうですか。んー、じゃああと訊きたいことは……何があったかな……うーん。――ああそうそう……これはもしかしたら今朝も同じ質問をしたかもしれませんけど、昨日渡久地さんと食堂で話している間に、変わったこととかありませんでした?」

 禊屋はとぼけたふりをして問いかける。

「……それは、今朝もお答えしました。何にもありませんでしたよ」
「あれ? あはは、やっぱりそうでしたか? すみません。渡久地さんも、何にもなかったって言ってましたっけ?」
「はい……そうでしたけど」
「そうですか……えっと、念のためにもう一回よく思い出してみてくれます? ホントに何にもありませんでした? 普段と変わったこと」
「……いいえ。やっぱり何もなかったと思います」
「……そうですか」

 禊屋はほくそ笑んで言うと、今度は傍聴席に向き直った。

「――皆さん。今の言葉、聞きました? 聞きましたよね?」

 ――聞いた。先ほどのヒューイの証言を直前に聞いていたから、サラの話がおかしいことにはすぐに気がついた。

「き……聞いたって、何を……?」

 サラは自分の失言にまだ気づいていないようだ。困惑したように禊屋に尋ねる。

「最初に、ヒューイさんが棚を直すために釘を打っていたんだという話をしましたよね。実は、その棚が壊れたのって昨日の五時のことだったんです」
「えっ……? あっ……!」
「気がつきましたか? そうですよ。ヒューイさんは昨日の五時から六時の間にも、ワインセラーで釘を打っていたんです。でもあなたは、その音にまったく気がつかなかったみたいですね。聞こえなかったなんて言い訳はなしですよ? 今朝釘を打つ音がしっかり聞こえていたのなら、昨日の音も当然聞こえていたはずです。同じ食堂にいたはずなんですからね」
「そ……それは……」
「あたしはしっかりあなたに思い出すチャンスを与えたんですよ。今朝ヒューイさんが釘を打っていたという話をしたとき、昨日も同じあの釘を打つ音を聞いていたのなら、すぐにそれと結びつけて思い出せていたはずなんです。それにちゃんと念を押して確認しました。――さぁ、もう言い訳なんて出来ませんよ。あなたは五時五十分まで食堂にいたと言ってましたけど、それは嘘です。ヒューイさんが釘を打つ音に気がつかなかったということは、少なくとも五時から六時過ぎ――つまりヒューイさんが休憩に入る時間まで、あなたは別館にいなかったということになるんです!」
「あ……あぁ……」

 サラのアリバイは崩れた。それも事件において最も重要な、五時から六時の時間に別館に不在だったとなれば一気に犯人としての疑いは強まるだろう。

「……もしもなにか弁解があるなら聞きますよ?」

 禊屋はサラを真っ直ぐ見据えて言う。

「私……私は……!」

 サラは追い詰められて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。しかし言葉はそれ以上出てこない。

「あっ……!」

 その時、サラは突然バランスを崩して証言台に突っ伏すように倒れてしまう。……急に身体の力が抜けてしまったかのような倒れ方だったが、いったいどうしたのだろうか?

 法廷中が騒然とする中、審問長ニムロッドがサラに問いかける。

「証人。大丈夫ですか?」
「す、すみません……少ししたら直るので……」

 サラはそのまま証言台の下で座り込んでしまう。度を超した緊張状態のせいで気分が悪くなったのだろうか?

 しかし禊屋は、容赦なくサラを追い詰める。

「五時から六時の間、どこにいたんですか? 本当は食堂じゃなくて、礼拝堂にいたんじゃないんですか?」
「……私は……食堂に……」
「そんなこと言っても、もう誰も信じませんよ。……あなたが別館にいたこと、そしてなぜ釘を打つ音を聞けなかったのかを説明してくれる人でもいるなら別ですけどね」

 その時、傍聴席から声が上がった。

「ま……待ってください!」

 ヒューイが必死の形相で立ち上がっていた。ニムロッドが注意しようとするが、それを禊屋は手を上げて先んじて制止する。そしてヒューイに尋ねた。

「どうしたんですか、ヒューイさん?」
「私は……私は嘘をついていました。一つだけ、黙っていたことがあるんです」
「黙っていたことっていうのは?」
「私は昨日、たしかに五時から六時の間、ワインセラーで釘を打っていました。ですがその途中……一度だけ上に上がったんです。喉が渇いていたので、水を飲もうと食堂へ! その時のことはよく覚えています! サラは……サラは食堂のテーブルに突っ伏して寝ていたんです!」

 法廷が大きくざわめいた。先ほどのヒューイの証言にはまるでなかった部分だ。

「……サラさんは食堂で寝てしまっていたから、あなたが釘を打っている音は聞いていなかったと言うんですね?」
「その通りです……!」

 ヒューイは興奮した様子で頷いた。

「ぐっすり眠っていたようなので、私もわざわざ起こしたりはしませんでした。タオルケットを背中にかけてやったくらいで……」
「寝ているサラさんを確認した時間は、覚えていますか?」
「はい、ちょうど食堂の時計を見たので。五時二十分頃でした」
「五時二十分……その時間に食堂にいたとするなら、サラさんに犯行は不可能ですね……。五時以降に礼拝堂で被害者を殺し、遺体の装飾、扉のトリックを行って別館まで戻ってくる……これを二十分の間で済ませるのは絶対に不可能です。そしてヒューイさんに目撃された後で犯行を行うのも無理。犯人は講壇の中から被害者を撃っている以上、必ず被害者が礼拝堂に入った五時よりも前に講壇の中に隠れていないといけない。どちらにしてもサラさんは犯人ではあり得ないということになります」

 自分の提唱していたサラ犯人説がはっきりと否定されたのに、禊屋は至って冷静だった。そして証言台の横まで移動すると、サラに手を差し伸べる。

「もう、立てますか?」
「え……? あ、はい……」

 禊屋の手を取って、サラはなんとか立ち上がる。すると禊屋はサラに深々と頭を下げて、

「……本当にすみません! あたしが間違っていました。あなたは犯人じゃないです! それにアベルさんやランスさんも、好き勝手なこと言っちゃってすみません!」

 傍聴席の方にも頭を下げる。サラはただただ困惑した表情でその様子を見ているばかりだった。

「……とんだ茶番だな、禊屋?」

 神楽が薄く笑いながら言う。

「あっさりと引き下がりすぎだ。そのヒューイという男が嘘をついている可能性だってあるだろう。今になって急にそんなことを言い出すのだから、充分怪しいではないか」
「うーん……まぁそうですけど。嘘はついてない気がしたので」
「とぼけるなよ。私を誤魔化せると思うな……。貴様、最初からこの展開を狙ってサラを告発したな?」

 神楽の言っていることはよくわからなかったが、それを受けて、禊屋は――

「……んふふっ、だったらどうだって言うんですか?」

 ――会心の笑みを浮かべていた。神楽も笑う。

「ははは! 優しい振りをして、つくづく怜悧狡猾な女だよ……お前は」
「というか、あなただって最初からあたしが何をするつもりなのか気づいてましたよね? あなたなら途中であたしの推理をねじ伏せることは簡単だったと思いますけど……黙って見過ごしてくれていたのはどうしてなんですか?」
「ふん……貴様が建前のためだけに作った空虚な推理など、わざわざ私が切り伏せるに値しない。私の狙いはただ一つ……貴様の本命、本気だよ……禊屋」

 二人はしばらく睨み合っていたが、それを審問長の木槌が遮った。

「ルージュよ。いったいどういうことなのですか? 二人だけで先走って話を進めずに、きちんと説明してください」
「あ……はい、ごめんなさい。わかりました!」

 禊屋は赤壇に戻ってから話し始めた。

「ノワールの指摘通り、たしかにあたしは、サラさんが犯人ではないとわかっていながら彼女を告発しました。本当に悪いと思っています、ごめんなさい……。でも、やむを得なかったんです。サラさんとヒューイさんが隠しているある事実をこの法廷で引き出すことが出来なければ、この審問会であたしに勝ち目はなかった……。だからかなり強引な方法ではありましたけど、それを引き出させてもらいました」
「その事実、というのは……?」

 美夜子はニムロッドの質問には答えず、再び傍聴席に向かって言う。

「ヒューイさん。もう一つ確認させてもらいたいんですけど」
「は、はい……」

 ヒューイがまた立ち上がる。

「あなたが五時二十分に食堂を訪れたとき、眠っているサラさん以外に人はいましたか?」
「……いいえ。食堂のテーブルはまだお皿やグラスが残ったままになっていましたが、サラ以外に人はおりませんでした」

 法廷が俄にどよめき出す。禊屋がどのような結論を出そうとしているのか、察した者が出始めたのだろう。

「そう……あたしは一度、サラさんのアリバイを崩しました。でも、ヒューイさんが新たな証言をしてくれたお陰で彼女は守られた。今朝話をしたときから、ヒューイさんはサラさんが犯人じゃないことを確信しているようでした。だからあたしもこの賭けに打って出ることが出来た。サラさんが追い詰められた状況になったら、ヒューイさんは必ず助け船を出してくれると思ったんです。では、どうして今までヒューイさんはそのことを黙っていたんでしょう? こんなギリギリの状況に陥る前に最初から話してくれれば、サラさんが容疑者扱いされることもなかったのに……。その理由はもうわかっています。ヒューイさんが本当のことを証言すると、ある人物が嘘をついていることが発覚してしまうからです。その人物は、裏社会においてとても強大な力を持っています。ヒューイさんはそれを恐れて、その人物の不興を買うようなことは言えなかった。――いいえ、もしかしたら、その人物から直接口止めされていたかもしれませんね。余計なことを言うな、と。まるで脅すかのように」
「…………」

 ヒューイは黙ってうつむいていた。その態度が何より、禊屋の推理が当たっている証左のように思われた。

 神楽が言う。

「禊屋。貴様は自分が言おうとしていることの意味がわかっているのだろうな? それ以上奥に踏み込むつもりなら……相応の覚悟を背負ってもらわなければ困るぞ?」
「……そんな覚悟、最初っから出来てるに決まってるでしょ」

 禊屋ははっきりした口調で返すと、説明を再開させた。

「その人物はサラさんとヒューイさんを巧みに操って、自分のアリバイを作り上げました。万が一にも、自分が犯人として疑われることがないように。そして、完全なる事件の傍観者を装うために……。それくらい、その人物は慎重で狡猾な性格でした。きっと、正攻法では尻尾を掴むことは不可能だったでしょう。だからこそ、こっちも汚い戦法を取らせてもらいました。その甲斐はありましたよ……その人物のアリバイは、これで綺麗に崩れ去りました!」

 禊屋の声に熱が籠もっていく。

「なぜそうまでして自分のアリバイを作ろうとしたのか……! その答えは……たった一つしかない!」

 禊屋は、その右手人差し指で――力強く、傍聴席のある男を指し示す。

「あなたこそが被害者・名護修一さんを殺し、被告人・戌井冬吾を陥れた真犯人だからですよね――渡久地友禅さん!」

 ハーフ・マスクを被った『影の帝王』は、静かに呟いた。

「――お見事」





 地下大法廷は、開廷以来最大の混乱状態にあった。

「静粛に……静粛に! 騒ぐ者は退廷を命じます!」

 ニムロッドが何度も木槌を打っている。しばらくしてようやく法廷が落ち着きを取り戻し始めると、ニムロッドは言った。

「ルージュよ、あなたは……本当に渡久地友禅会長を犯人として告発するつもりなのですか?」

 禊屋は頷いて答える。

「はい。今度こそ間違いありません」

 そして次に、証言台で立ち尽くしているサラに向かって言った。

「サラさん。これはあたしの勘ですけど……以前にあなたは、渡久地さんから名護さんの正体を聞かされたんじゃないですか?」
「な……なんでそれを……?」

 サラは驚いたような表情で言う。当たっていたようだ。

「名護さんの正体をあなたが知る機会があったとすれば、それが一番考えられることでした。今朝、あなたが昨日渡久地さんと何を話していたかを尋ねたとき、言葉に詰まってましたよね。だから何か言えない事情があったんじゃないかと思ったんですけど……それとも関係があるんじゃないですか?」
「……そうです。私は一昨日の夜、電話で渡久地さんからそのことを教えられました。叢雲という殺し屋が私の両親を殺した犯人であり、そしてその正体が、同じアルゴス院にいる名護さんだと……。詳しくはまた明日話してくださるということでしたので、食堂でお話をすることになったんです」
「そしてあなたは食堂で渡久地さんとお話をしていて、いつの間にか眠ってしまったんじゃないですか? しかも、お話を始めてすぐの内に」
「……はい。でもそれは――」
「ナルコレプシー……ですよね?」
「嘘っ……そんなことまでわかってしまうんですか……?」

 サラは心底驚いたようで、手を口元に当てる。ナルコレプシー……どこかで聞いたことがある気はするが、なんだったか? と思ったら、禊屋が説明してくれる。

「ナルコレプシー、居眠り病などとも呼ばれる病気です。日中でも場所や状況を選ばずに強い眠気の発作に襲われる睡眠障害。あたしはあなたに会いにお弁当屋さんに行ったとき、あなたがその病気である可能性に気がつきました。ほら、サラさん言ってましたよね。自分には重要な仕事は出来ない、って感じのことを。ナルコレプシーは日頃から充分な睡眠を取ることで症状は軽減できるそうですけど、どうしても眠気に耐えられないときもありますよね。だからそんなことを言ったんです。大事な仕事の最中に眠ってしまうかもしれないから」
「それだけのことで……?」
「もう一つありますよ。あの子どもたちが言っていたことです、安藤先生はなにかに驚いたりするとすぐ転んでしまう……。それって、カタプレキシー……情動脱力発作のことですよね。ナルコレプシーの副症状として併発することが多いっていう。激しい感情の動きがあると身体が発作的に脱力して、場合によっては立っていられなかったり転んじゃったりすることもあるっていう症状です。とくに喜びとか幸福感とか、プラスの感情によって引き起こされやすいみたいですね。だから子どもたちが内緒で誕生日を祝ってくれたとき、その驚きと嬉しさから発作が起きて、転んでしまったんじゃないですか? それに、ついさっき証言台の下に倒れかけたのも同じ症状ですよね。あの時は、追い詰められた恐怖の感情が引き金になったんでしょうけど……すいません、ほんと」
「い、いえ……私も大事なことを黙っていて、すみませんでした……」

 禊屋はにっこり頷いて、更に質問を続けた。

「きっとあなたは昨日も眠ってしまって……目を覚ましたときにはもう渡久地さんはいなかったんですよね?」
「そうです……」
「その後、渡久地さんは電話か何かであなたに連絡してきて、口裏を合わせてアリバイを作る提案をしてきた。もちろん自分が犯人だってことはおくびにも出さず、お互い余計な疑いをかけられないようにとか、そんな風に言ってきたはず。違いますか?」
「……違いません」
「あなたがその要求を飲んでしまった心理は、わかる気がします。あなたは渡久地さんから叢雲のことを教えられたばかりで、自分に動機が存在することを意識してしまったんじゃないですか? あなたは鍵を持っていた管理人ですし、密室が存在するこの事件では疑われやすい存在だった。その上動機があるとなったら、自分が犯人じゃないことはわかっていても不安になって当然です」
「おっしゃる通りです……。いいえそれどころか、もっと大きな不安と恐怖が私にはありました。叢雲のことを聞いたとき、私はたしかに名護さんに対して殺意を抱いてしまったんです。それに加えて私には殺人があった時間、意識がありませんでした。そんなことはあり得ないと思いつつも、もしかしたら私は、無意識下のうちに人を殺してしまったのではないか……と。そんな考えが浮かんできてしまって……怖かったんです」

 自分と同じだ……冬吾は思った。自分もあの部屋で一人待つ間、同じことを考えていた。無意識のうちに、殺意を暴走させて名護を手にかけてしまったのではないか……と。冬吾の場合は禊屋が支えてくれたお陰でその考えを払拭することが出来たが、サラにはそのことを相談できる相手もいなかったのだ。そしてその不安と恐怖に浸かって弱ってしまった心の隙を、渡久地に突かれた……。

「きっと、渡久地さんはあなたがそんな状態に陥ることまで見越して、そのタイミングで叢雲のことを教えたんだと思います。より確実にアリバイ偽証を成功させるために。あなたの飲み物か食べ物に睡眠薬を混ぜたのも、そのためでしょう」
「えっ……睡眠薬?」
「はい。あなたは自分のナルコレプシーの症状のせいで眠ってしまったと思っていたんでしょうけど、あたしはそれは違うと思います。だって、タイミングが良すぎますから。きっと渡久地さんはあなたが席を外したとき――例えば食べ物を取りに台所に移動したときなんかにあなたの飲食物に睡眠薬を混ぜたんだと思います。あなたは薬によって眠らされるけど、あなた自身はナルコレプシーの症状を自覚しているから、まさか自分が薬を盛られたなどとは思いもしない。そこまでが犯人の――渡久地さんの狙いだったんですよ」
「そんな…………」

 サラはショックを隠しきれない様子だ。禊屋の推理通りだとすれば、彼女は渡久地のアリバイ工作にまんまと利用された傀儡も同然だったわけで、ショックを受けるのも当然である。

「ありがとうございました、サラさん。もう戻ってくれていいですよ。お疲れさまでした」

 サラを傍聴席に戻すと、禊屋は渡久地に向かって言った。

「……さぁ、今度はあなたの番です。目立たずただの傍観者としてやり過ごすつもりだったのかもしれませんけど……残念でしたね。今回はあなたにもスポットライトの当たる舞台に上がってきてもらいますよ、『影の帝王』さん?」
「くっくっく……!」

 渡久地は余裕の表情で返した。

「――よかろう。こうなってしまった以上は、私も舞台に上がらざるを得まい。しかし調子に乗りすぎないことだな、禊屋君。君は今、獅子の尾を踏んでいるのだぞ?」
「…………」

 渡久地の口調は静かだが、声には聞いているだけで息苦しくなってくるような圧力があった。これが日本裏社会に君臨する黒幕、渡久地友禅……この事件の、犯人……!

 車椅子に座った渡久地を、廷吏が証言台まで移動させる。禊屋は黙ってその様子を見ていた。

「なぁ禊屋……お前やっぱり、体調が悪いんだろ? 顔が赤いぞ」

 冬吾は小声で声をかける。禊屋の顔は熱があるみたいに赤らんでいた。先ほどから顔に汗をかいているし、呼吸もしんどそうな瞬間がある。そんな様子を隣で見せられれば、さすがに気がつく。やはり今朝神楽が言っていたように、禊屋は体調を崩しているのだ。そしてまだ、まったく治っていない。

「……大丈夫だよ。ちょっとキツいけど、まだ保つから。さっさと決着つけて、終わりにしちゃえば大丈夫……!」
「…………そうか」

 無理しないで休んでおけ、とは言えなかった。禊屋がいなくなってしまえばこの審問会で勝つことは不可能になる上、これまでの彼女の頑張りも無駄にしてしまうことになる。歯がゆくてたまらないが、ここは彼女に頼るしかない……。

 渡久地が証言台につくと、神楽が切り出した。

「意気揚々と犯人告発を行ったルージュには悪いが――渡久地殿を犯人とするのはかなり無理があると言わざるを得ない。そもそも被害者の名護修一は、渡久地殿と血の繋がった息子である。それを殺害する動機とはなんだ?」

 禊屋は怯むことなく答えた。

「……残念ながら、それを示す客観的な証拠はありません。しかし一つの予想はあります。名護さんは、渡久地さんのもとで裏の仕事をしていたんだと思います。渡久地さんが名護さんのかつての正体――叢雲であることを知っていたのがその根拠になると思います。叢雲がサラさんの両親を殺していたという記録まで掴んでいたようですからね。しかし、名護さんは渡久地さんを裏切った。以前、被告人がある殺し屋に命を狙われるという事件がありました。その際、被告人の命が狙われているということを事前にナイツ夕桜支社に匿名のメールで知らせてきた者がいたんです。そのお陰でこっちは対策を取ることが出来て、被告人は助かりました。そして今回、名護さんの別宅を調べたところ……そこにあったノートパソコンから、そのメールが送られたという形跡を発見しました。ルージュ側は、それが動機に関わっていると睨んでいます。渡久地さんは何らかの意図があって被告人を抹殺しようとした、しかし名護さんはそれをナイツに密告することで防いだ。そしてその裏切り行為が渡久地さんにバレてしまい、殺された……。今回の計画で被告人が巻き込まれたのは、名護さんを殺すついでに彼をも処分してしまおうという意図があったんじゃないでしょうか」
「ふん……殆どが貴様の憶測ではないか。渡久地殿が被害者を殺害する動機は証明できない……そうだな?」
「それは認めざるを得ません。ただ一つ言えることは、被害者は自分が近々殺されることを予期していました。それは、自分の主を裏切ってしまったためだと。被害者本人からその話を聞かされたという証言があります。その証言者は今日、ここには来てませんけど……」
「それではなんの証明にもなりはしないな」
「でもそれを裏付ける事実はあります。被害者は昨日夜出発のロサンゼルス行きの航空券を持っていました。車にも大量の荷物が載っていた。被害者は命を狙われていることを自覚していたから、海外へ高飛びをするつもりだったんです。それは、あなた自身が証言してくれたことですよね?」

 名護が海外へ高飛びするつもりだったと言っていたのは、神楽自身だ。冬吾の犯行を立証しようとして神楽が持ち出した事実が、そのまま神楽へのカウンターとなったのである。

「くくく……そうきたか。まぁいいだろう。動機についてとやかく言っても始まるまい。最大の問題は、渡久地殿に今回の犯行が行えたかどうかだ。ときに禊屋、貴様――目は見えているのだろうな?」
「もちろん、見えてますけど?」
「それはおかしなことだ。目が見えてさえいるのなら、渡久地殿が今回の事件の犯人などという世迷い言は言えるはずがないのだが。――見ての通り、渡久地殿は足が不自由で車椅子に乗っておられる。そんな人物が、今回の犯行――扉の鍵と警備員二人の視線の壁を越えた二重密室殺人を行えたと、本気で思っているのか?」
「はい。思ってますよ」

 禊屋は真剣な眼差しで答える。

「むしろ、渡久地さんにしか不可能だったと言えます。動機については、正直よくわからないところが多かった。でも渡久地さんがアリバイを偽証していること、そしてこの殺人を実行するための条件を揃えていることに気がついたとき、あたしは犯人を確信したんです」
「いいだろう……では聞かせてみせろ。いったい、渡久地友禅殿はどのように犯行を実行したというのか?」

 禊屋は証言台の渡久地と睨み合う。これがきっと、最後の対決になる――冬吾はそう確信した。

「渡久地さん。あなたは殺人のあった五時から六時の間、アリバイがない……それはもう、認めてもらえますよね」
「ああ、認めよう。しかしそれは、そのまま私が修一を殺したという証拠にはならない。私はほんの少し早く別館を立ち去ったというだけのことだ」
「ほんの少し早く……ですか。具体的には何時頃ですか?」
「そうだな……五時ちょっと前だ。サラ君が眠ってしまったので、私は一人で帰った」
「でも、サラさんはあなたと話し始めてすぐのうちに眠ってしまったと認めてくれましたよ?」
「ふん、それはサラ君の記憶がはっきりしていないというだけのことだろう」
「でも、あなたの動きを証明してくれる人もいませんよね。本当はもっと早い時間に帰っていたかもしれません」
「はっは! それがどうした? 本館前にいた警備員二人は、礼拝堂に出入りする私の姿を見ていないんだぞ? こんな身体の私が、いったいどうやって目撃されずに移動できたというのだ?」
「出来ました。あなたなら出来た。――あなただけが出来た」
「なに……?」

 渡久地の表情が僅かに歪む。禊屋は挑発するような口調で言った。

「もうとっくに種は割れてるんですよ。あなたが使ったおぞましい大魔術の種はね」
「何が言いたい……?」
「渡久地さん。あなたは五年前の事故で足に大怪我を負ったんですよね。大火傷だったと聞いてます」
「そうだが……?」
「その怪我……今、ちょっとだけ見せてくれませんか?」
「――ッ!?」

 渡久地の表情に、一瞬明らかな動揺が走った。しかし彼はすぐに持ち直して言う。

「なぜそんなことをしなければならない?」
「嫌なんですか?」
「好き好んで見せるようなものではない」
「そこをなんとか! あたしが見たいんですよ。お願いします、見せてください!」
「断る……!」
「ふーん、どうしてそんなに頑ななんですか? ちょっとくらいいいじゃないですか。それとも……見せられないわけでもあるんですかねぇ?」
「貴様……ッ!」

 渡久地は審問会が始まってから初めて、怒りの感情を露わにした。審問長ニムロッドが間に割って入る。

「待ってください、ルージュよ。あなたは何をしようとしているのですか? 渡久地氏の足を見ることがそんなに大事なことなのですか?」
「はい。最重要ポイントだと言っても過言じゃありません」
「説明してください」
「今朝のことです。あたしは、事件の話を聞くために別館へ行きました。そしてサラさんと渡久地さんと一緒に、食堂でお茶を飲みながら話をしたんです。その時、サラさんは紅茶のおかわりを持って渡久地さんの席へ運ぼうとしていました。でもあたしが急に声をかけたせいで、サラさんは驚いてティーカップの紅茶を渡久地さんの膝元に零してしまったんです」
「そういえば、先ほどそのような話をしていましたね」
「はい。実はその時の渡久地さんの反応は、明らかにおかしかったんです。あたしはその後でサラさんが淹れてくれた紅茶を飲んだんですけど、舌を火傷しそうになるくらい熱かった。淹れ直してくれたばかりだったから当然ですよね。でも、渡久地さんはその紅茶を膝元に零されたのに、全然熱がっていなかったんです」
「熱がっていなかった……。もしかすると、怪我の影響で足に感覚がないのでは……?」
「その可能性もあります。でも、あたしは渡久地さんのその後の対応も気になりました。渡久地さんは紅茶を拭こうとしてくれたサラさんから布巾を受け取って、自分で膝元を拭いてたんです。最初はサラさんを気遣ったんだろうと思いましたけど、後で別の可能性に気がつきました。あれはきっと、自分の足に触れてほしくなかったが故の行動だったんです」

 禊屋は赤壇を降り、渡久地のそばに歩み寄っていく。

「そこで、あたしは気づきました……」
「なっ……やめろ――!」

 渡久地の制止も意に介さず、禊屋は強引に、渡久地のズボンの裾をめくってみせた。そして露出させた足の部分を指の背で叩く――コンコン、という硬質の――およそ生身の身体からは生じ得ない音が鳴った。

「渡久地さんの足は、実は――義足だということに」

 渡久地の足は肌色のカバーに覆われていたが、よく見ればそれが義足だとわかる。ズボンの裾、それに靴下と靴で覆われていたから、あんな風に脛部分までめくるか手で触らないと気づきようがないだろう。

「くっ……離れろ……!」

 禊屋は突き飛ばそうとする渡久地の手をひらりと躱して、赤壇に戻りつつ言う。

「これで重要な新事実が発覚しました。渡久地さんの両足は義足です。それもきっと、太ももあたりから下全部でしょう。どちらにせよ自立しては歩けないから車椅子なんて使ってるんです」

 赤壇に手をついて、息を吐く。

「渡久地さん。なぜ、そんな風に義足であることを隠していたんですか?」
「…………」

 渡久地は苦虫を噛み潰したような顔をしたが、やがて観念したように話し出す。

「……私は財団の会長として、様々な相手に会う立場の人間だ。交渉ごとも多い。その上で、見た目の特異さはそれだけでハンデになり得る。この仮面は火傷の痕を隠すためのものだが、これはある種相手に畏怖を与えることが出来るからそう悪いものではない。しかし両足がないというのは確実に大きなハンデだ。本人にはその自覚がなくとも、無意識のうちに相手は私に対して『足りぬ者』という認識を持つだろう。それは決して、対面してのやり取りにおいて無視できる要素ではないのだ。同じ自立して歩けないでも、ただ足が不能になっているのと足そのものがなくなっているのでは前者のほうが遥かにマシだ。だから普段は義足を付けている……それだけのこと。とやかく言われる筋合いはないな」
「普段から義足を着用している理由はわかりました。でもまだ逃がすわけにはいきません。徹底的に追い詰めさせてもらいますよ」

 禊屋は一気呵成に攻め立てる。

「あなたは今回、その『足がない』というハンディキャップを最大限に利用して殺人を行ったんです」
「……ふん、どうやったと言うのだ?」
「順番に解き明かしていきましょう。まずは、礼拝堂への侵入方法から。警備員の二人はあなたが礼拝堂に入っていく姿を見ていません。しかし、見られずに入る方法はありました。そして、あなたがいつ礼拝堂に入ったのかもわかっています。それは三時のちょっと前……つまり共犯者であるノワールこと神楽と一緒に入った」

 一緒に入った? どういうことだ?

 禊屋は傍聴席に向かって呼びかける。

「アベルさん。また少し確認させてもらっていいですか?」

 アベルが立ち上がる。先ほどはサラを告発した禊屋に対して憤りを隠せない様子であったが、もう落ち着いたようだ。

「なんでしょうか……?」
「三時前にノワールが礼拝堂に入ったときのことです。あなたは、ノワールは大きなボストンバッグを持っていたって言いましたよね?」
「はい。黒いボストンバッグでした。これくらいの……」
「50リットルは入りそうなサイズと考えていいでしょうか?」
「はい、そのくらいだったと思います」
「ありがとうございます。もういいですよ」

 禊屋はそう言って、説明を再開させる。

「渡久地さん。あなたはノワールの持っていたボストンバッグの中に入って、礼拝堂に侵入したんです。昔と違って今のあなたは痩せていて小柄だから、両足の義足を外した状態ならバッグの中にも充分入れたはず。もちろんそれと同時に凶器であるサプレッサー付きのコルト・ガバメントも持ち込みました。ノワールが礼拝堂に入ったのが二時四十五分なので、あなたはそれまでにサラさんを眠らせ、ノワールと合流しておかなければならない。あなたが別館に来てヒューイさんと会ったのが二時二十分。買い物を終えてサラさんのいる食堂に向かったのが二十五分くらいとすると、サラさんに睡眠薬を盛るための時間の猶予は四十分までの十五分間というところでしょうか。その後で礼拝堂まで移動する時間も必要ですから、五分は余裕が欲しいところですね。サラさんに使われた睡眠薬が被告人に使われたものと同じだったとするなら、それは服用から一分程度で効果が出たはずです。十五分のうちに事を終えるのはそう難しくはなかったでしょう。おそらくノワールは別館のすぐ近くに待機していて、あなたが出てきたところにすぐ合流したんです。そしてあなたはノワールの用意したバッグの中に入った。車椅子と義足はその場でノワールの部下が回収しておいたんでしょう。ノワールは礼拝堂の中に入ると、そこから立ち去るまでの間にバッグを開けて、あなたを講壇の中に隠れさせたんです。そしてノワールは被告人に睡眠薬を盛り、眠った彼を掃除用具入れの後ろへと運びました」

 法廷がどよめく。そんな侵入方法があるとは……。俺があの礼拝堂に入ったとき、犯人は既にあそこに潜んでいたのかもしれないのか……!

「異議あり」

 神楽が禊屋の推理に唐突に割って入った。

「ユニークな推理だが、まだそんなものでは足りないぞ禊屋。――警備員アベル、もう一度立て」

 神楽は再びアベルを立たせると、質問をする。

「私が昨日本館に入った際、荷物のチェックをしたのはお前だったな?」
「はい。私が担当させていただきました」
「その時、私のボストンバッグは空だったか?」
「いいえ。資料のファイルで一杯でした」
「ふむ。では私の付き添いだったナツメは大きな荷物を持っていたか?」
「いいえ。拳銃をお持ちだったくらいで、荷物らしい荷物はなにも」
「わかった。もういいぞ」

 神楽はアベルを座らせると、今度は禊屋に向かって言う。

「聞いたとおりだ。私のボストンバッグには会合で使う予定だった資料のファイルが詰まっていた。それでは渡久地殿をバッグに入れて運ぶなど出来るはずがない。ナツメに持たせていた荷物と入れ替えたということもなかった。さぁ、これをどう説明する?」
「それも単純な方法でクリアーできます。――サラさん。確認させてください」

 傍聴席のサラへ呼びかける。彼女が立つと、禊屋は尋ねた。

「礼拝堂にあった二体の天使像。あれの土台の裏部分には、穴がありましたよね。直径が二十センチ、高さが三十センチくらいの円柱を縦半分に切ったような空洞です。たしか、元はあの天使像を寄付した大富豪が隠し財産を入れておくためのものだったとか。そんな話をしてくれましたよね」
「はい。今はもう何にも使ってない部分ですけど」
「サラさんはたまにする本格的な掃除のときくらいしか、あの中を確認することはなかったんですよね?」
「そうですね……今から二ヶ月ほど前に掃除したので、それきりでした」
「わかりました。もうオッケーです!」

 サラを座らせて、禊屋は神楽からの問いに答える。

「ノワール。あなたはその二体の天使像に設けられた空洞を利用したんです。あなたは事件の前日、礼拝堂を訪れていた。違いますか?」
「ふん。どうだったかな」
「キャップにサングラス、厚手のジャンパーという明らかに変装している人物が一昨日の夕方頃、礼拝堂に入っていくのをアベルさんとランスさんが見ているんですよ。その人物は、大きなリュックを背負っていたそうです。――そうでしたよね?」

 もうわざわざ立たせるのも面倒くさくなったのか、禊屋はそのまま傍聴席の二人へ尋ねる。「そうです」というアベルの返事が返ってくる。

「その謎の人物はきっとノワール、あなたです。リュックの中には、翌日の会合で使う資料のファイルが一杯に詰まっていた。それを予め二体の天使像の空洞の中に隠しておいたんです。講壇の中や椅子の下、掃除用具入れの中などに隠したのでは、サラさんが毎日の掃除の最中に確認してしまう可能性が高い。でも天使像の中まではそうそう調べられることはないと、あなたはわかっていた。おそらく殺人の計画を練るために、あなたは何度かあの礼拝堂に立ち寄ったんだと思います。天使像の空洞を発見したら、その中に目印か何かつけておいて数日後に確認する……そうすれば普段からあの中を管理人が確認しているかどうかがわかります。あなたは昨日、礼拝堂で渡久地さんをボストンバッグから出し講壇の中に隠れさせると、次は前日に天使像の中に隠しておいたファイルを取りだして、バッグに詰め直す。そうすれば、最初からバッグの中にはファイルが入れてあったように思わせることが出来る――これでどうですか?」
「ふっ……いいだろう。続けるがいい」

 神楽の認証を経て、禊屋は次の段階へ移る。

「渡久地さんはそのまま講壇の中に隠れて、被害者が来るのを待ちました。最初にノワールが説明したように、講壇の下部には穴が開いていて、それを塞いである板を外して入り口の様子を窺っていたんです。被害者がやってくると、物音を立てておびき寄せ、戸を開いたところで銃を二発発砲、射殺しました。渡久地さんのその後の行動が、この殺人において最も重要なポイントでした。渡久地さんはあの遺体への悪趣味すぎる装飾を利用して、礼拝堂からの脱出を遂げる大魔術を発動させたんです」
「ッ……!」

 渡久地は下唇を噛んで禊屋を睨む。渡久地が礼拝堂を脱出した方法さえ提示できれば、彼にも犯行は可能だったことが証明出来る。

「犯人が取ったと思われる行動を順番に説明していきます。犯人はまず、扉の内鍵を閉めにいきました。この後の作業中、万が一にも人が入ってこられないようにするためです。犯人には両足がないので、扉までは床を這うようにして移動をしたはずですが、礼拝堂内は狭いので移動にはそれほど時間はかからなかったと思います。また、犯人は当然手袋をしていたと考えられるので、内鍵やその他の物に犯人の指紋は残りませんでした。内鍵を閉めた犯人は再び遺体の近くに戻り、講壇に保管してあったナイフを取り出します。そしてそのナイフで遺体の胸から下腹部までを裂き、内臓を切除しました。この時、内臓は遺体の周囲に散乱させておきます。その後、祭壇にあった聖骸布を遺体に巻きつける作業を行いました。この時重要なのは、聖骸布はゆるく巻きつけるということ。間から隙間が覗くくらいでちょうどよかったんだと思います。その作業を終えると、犯人はまた床を這って移動しました。解体作業中は自分の身体が血で汚れないように気をつけていたか、あるいはレインコートのような衣服を着ておいて移動時は脱ぐなどして床に血の跡が残らないようにしたのだと思います。そうして今度は先にノワールによって掃除用具入れの後ろに運ばれていた被告人の元へ移動し、凶器の銃やナイフに指紋を付けさせる、銃を発砲させ硝煙反応を付着させるなどの偽装工作を行いました。それを終えると、また遺体の元へ戻ります。さて、ここからが犯人の実行した、狂気のトリックの真髄でした」

 禊屋は一呼吸置いて、言い放った。

「犯人は――遺体の切り開かれた腹の中に隠れたんです」

 法廷内は静まりかえっていた。誰もがそのおぞましい光景を想像していたに違いない。

「被害者は身体が大きく、プロレスラーと言われても信じてしまいそうなくらいです。それに対して犯人は小柄で、両足がない分体積はかなり小さい。被害者の内臓を切除したことでできた空洞に身体を収めることもギリギリ可能だったと考えます。聖骸布は遺体にゆるく巻きつけてあるだけなので、少しずらしておけば遺体の中へ入りこむことは出来ました。遺体の中に身体を収めたら、ずらした聖骸布を内側からまた元に戻しておけばいい。犯人はそのように被害者の遺体の中に隠れた状態で、六時がくるのを待ちました。そして六時――会合を終えてやってきたノワールが異変に気がついたふりをして、サラさんを呼んで鍵を開けさせます。そこで遺体は発見されましたが、その中に隠れた犯人が見つかることはありませんでした。理由は大きく二つあって、一つは聖骸布が巻きつけてあったせいで腹の傷口の間から覗く犯人の身体は殆ど見えなかったということ。しかもあの礼拝堂は電灯がついていても妙に薄暗いですからね。もう一つは、遺体とその周囲があまりにも凄惨な状態だったため、その場にいた誰もがあえて遺体をよく観察しようとはしなかったこと。わざわざ内臓が散らかされた場所に踏み入って、腹の傷口を覗き込もうなんてする人はいなかったんです。その後、ノワール、ナツメさんと一緒にランスさんが礼拝堂の中を調べて回りましたが、彼が犯人の存在に気がつかなかったのも仕方がありませんでした。まさかそんなところに人が隠れられるとは思いもしなかったでしょうから。――さぁ、次がトリックの最終ステップです。廷吏さん、そのホワイトボードをこっちに!」

 禊屋は廷吏に指示をして、黒壇の横に置かれていた礼拝堂の見取り図が描かれたホワイトボードを赤壇の横に移動させる。禊屋もそこに移動して言った。

「これからあたしは、サラさん、アベルさん、ランスさんから聞いた情報をもとにその時の状況を再現してみたいと思います。もう面倒くさいのでいちいち確認しませんけど、もし間違ってる箇所があったらサラさんたちは教えてくださいね!」

 そう前置きしてから、禊屋は見取り図と名前入りカードを使いながら解説を始めた。

「遺体が発見された後、サラさんとアベルさんは扉の外で他の三人が調べるのを見守っていました。この時扉は開けっ放しだったそうです」

 サラ、アベルのカードを扉の外へ。神楽、ナツメ、ランスのカードは礼拝堂の内側へ入れる。掃除用具入れの後ろの位置には冬吾のカードがあった。

「ランスさんたちは被告人を見つけ、それ以外に人は隠れていないと決断を下しました。そして、ランスさんが被告人を連れて本館の方へ向かいます」

 ランスと冬吾のカードを外へと移動させる。

「それから残った四人は、その場でアルゴス院の調査班が来るのを待ちました。この時、ナツメさんは外に出ていてアベルさんに話しかけていたそうです。一方、ノワールは一人で礼拝堂の中に残っていました」

 ナツメのカードを外に出す。

「――アベルさん、一つだけ質問をしたいんですけど」

 言われて、アベルが立ち上がった。

「その時、外は風が吹いていて寒かったと言っていましたよね。でも、中があの惨状だったから抵抗があって、サラさんとあなたはそのまま外で待っていた。もしかしてその調査班を待っている間、礼拝堂の扉は閉じていたんじゃないですか?」
「はい。その通りです。ランスが被告人を本館へ連れて行った後、神楽様が扉を閉めました」
「やっぱり。ありがとうございます」

 アベルを座らせ、禊屋は説明を再開する。

「つまりこの時、ノワールは礼拝堂内にたった一人で誰にも見られない状態にあったわけです。おそらく外にいたナツメさんがアベルさんに話しかけていたのは、牽制のためでしょう。話しかけておくことで不意に扉を開けたりしないようにコントロールしていたんです。それだけじゃない、その状況は全てノワールによってコントロールされたものでした。サラさんが過激な光景にショックを受けて礼拝堂の中に入ろうとしないであろうこと、優しいアベルさんがそれに付き合って外で待とうとすること、ランスさんに頼んで被告人を本館へ連れて行かせたこと……皆さんの動きは全て前もって計画されていたんです。皆さんの性格については何度かここに来るうちに把握していたか、事前に身辺調査などをしたのかもしれません。それにもう一つ、重要な行程がありました。ノワールは想定していたキャスト以外の人物は極力事件の発見者にさせたくなかった。発見者が増えれば増えるほどそのコントロールは困難になり、礼拝堂に一人でいる状況を作ることが難しくなるからです。そこでノワールはある仕掛けを施しました。六時に会合を終えると、ノワールはいち早く本館を出ます。その際、ナツメに言いつけて本館ゲートの強制ロックモードを作動させました。これは警備用のシステムで、一度作動するとゲートは閉じ、解除コードを入力するまで誰も出入りが出来なくなってしまうというものです。しかも解除コードを入力しても実際にゲートが開くまでは十五分のインターバルがある。ノワールはこれを利用して、警備員の二人とサラさん以外の人物が遺体発見に関わるのを防止したんです。しかしどうしても監視カメラに強制ロックモードを作動させる瞬間が映ってしまうので、それ自体はナツメさんが勝手にやった悪戯として処理させました」 

 禊屋はいよいよ大詰めにかかる。

「そうして礼拝堂に一人でいる状況を作り出したノワールは、遺体の中に隠れていた犯人を脱出させます。おそらくボストンバッグの中に入っていたファイルは、本館を出る直前ゲートルームにあるロッカーの中に預けていたのだと思います。フレームがしっかりしているボストンバッグなら、中身が空っぽでもそう目立ちはしません。ゲートルームのカメラは確認していないのでわかりませんが、後で映像を確認された場合に備えてファイルを預ける際は怪しく思われないような何らかの工夫をしていたかもしれませんね。ロッカーに預けたファイルは、ほとぼりが冷めた頃にまた回収したんでしょう。ファイルは最初と同じように天使像の中に隠す方法もありますが、現場がアルゴス院に監視されるようになると後で回収することが出来ないのであのロッカーを選んだというわけです。さて、ノワールは最初と同じようにボストンバッグの中に犯人を隠れさせると、遺体の聖骸布の位置などをちゃんと直しました。後で確認したとき遺体の様子が変わっていたらトリックに感づかれてしまいかねませんからね。あとは、外にいたナツメに言いつけてそのバッグを駐車場の車まで運ばせるだけです。犯人はそうやって、共犯者以外の誰にも目撃されることなくこの殺人をやってのけた……――そうですよね、渡久地友禅さん」
「…………」

 渡久地はただ黙って禊屋を睨みつけるだけで、何の反論もなかった。いや、反論なんて出来ないのだ。禊屋の推理には非の付け所がない。渡久地がどのような方法で殺人を実行したかは、事細かに説明された。もう抵抗なんて――

「……ない」

 ――え?

 渡久地がやっと口を開いたのだった。薄笑いさえ浮かべた、余裕の表情だった。

「くくく……そうだ、ないではないか。長々と説明してくれたようだが……そんなことを私と神楽君がやったという証拠は一つもない。どうなのだ? 出せるのか? 私がやったという物的証拠を……!」

 禊屋は痛いところを突かれた、という顔をする。

「証拠は……まだありません」
「そうだろう、そうだろうとも。貴様は今、私にも犯行が可能だったということを提示しただけに過ぎない。それは私が犯人だという証明にはならないのだ。それに貴様は、まだ私に殺害の動機があるかどうかもはっきり示せていないではないか」

 今度は渡久地の言葉に禊屋が黙る番だった。そこへ更に神楽が指摘する。

「……そもそも、おかしな話だ。絶大な権力をお持ちになっている渡久地殿が、なぜわざわざ自らの手で殺人などする必要がある? それも、今貴様が説明したような労力に見合わない方法で……。渡久地殿であれば殺し屋をいくらでも動かせよう。それに相手は引退済みとはいえ、あの伝説の殺し屋である叢雲。不意打ちをするつもりでもそれ相応のリスクは背負わねばならないだろう。そこまでして渡久地殿本人が名護修一を殺す必要性は皆無である」

 神楽の指摘に傍聴席のあちらこちらから納得したような声が漏れ聞こえる。禊屋の推理が間違っているとは思いたくないが、たしかに、神楽の言うことももっともではある……。

 神楽は更に攻め立てる。

「ルージュ側はこれで手詰まりのようだな。しかしどうする? 貴様は結局、被告人の犯行を直接否定する根拠は未だ挙げられていない。勝つ方法があるとすれば、それは真犯人を指摘しその犯行を証明するくらいだが……それは出来なかったようだな。このまま判決に移れば、まず間違いなく貴様の負けだぞ? 今貴様が説明したような馬鹿げたトリックを、渡久地殿が実行したと本気で考える者がいるわけがない」
「…………ッ!」

 禊屋は更に追い詰められる。熱も上がってきているのか、さっきよりもしんどそうに見えた。

 どうにかして助け船を出してやりたい。だが、どうすればいいのか全くわからなかった。

 何が相棒だ……俺は助けられるばかりで、禊屋には何もしてやれない。自分の無力さが情けなくてたまらなくなる。こんな無力感を味わうのは、あの日以来だ。閉じ込められて、目の前であの子が死んだ、あの日の……。

 神楽は禊屋へ、左手の人差し指を突きつけて言う。

「さぁ、決断しろ禊屋。渡久地殿の動機、あるいは殺人を実行したという確たる証拠――そのどちらかでも説明できないのであれば、これ以上の審理は必要ない。判決に移るとしよう」
「ま……待って……! もう少しだけ……」
「……潔くないな禊屋。素直に負けを――」

 その時、二人とはまったく別の声がやり取りを遮った。

「――まだだ」

 声は法廷の入り口のほうから聞こえた。見るとそこに立っていたのは、眼鏡をかけたオールバックの男――乃神だった。

「その男の動機を証明出来ればいいんだろう? ――してやろう」
「乃神さん……?」

 禊屋も驚いたような表情で見ている。乃神は入り口から真っ直ぐ禊屋のほうへと歩いてきた。

 審問長ニムロッドが乃神に尋ねる。

「待ってください。あなたは何なのですか?」
「ルージュの仲間だ。新しい証拠品を持ってきた。これで審理を続けてもらうぞ」
「新しい証拠品とは……?」
「ついさっき、俺たちの仲間だったシープという男が殺された。その男はある者からの命令を受けて、俺たちの内情を密告していたスパイだった。その男が持っていた、携帯電話だ」

 乃神はスーツのポケットから薄汚れたスマートフォンを取り出す。少ししてから、それが血で汚れているのだと気がついた。

「ナイツのメンバーに支給されているものとは別のものだ。おそらくスパイとしての連絡のために使っていたものだろう。勿論ロックが掛けられていたが、うちには電子機器に滅法強い仲間がいる。持っていったら、あっという間にロックを解除してくれた」

 きっとアリスのことだろう。

「ボスから受け取った指令は逐一削除しろと言いつけられているのだろう。メールの送受信フォルダや通話履歴は完全に削除されていて復旧も出来なかった。しかしあのシープという男、肝心なところで抜けていてな。一個、致命的なミスを犯していたんだ。電話会社の留守番電話アプリに、一件だけ削除されていない留守電の音声データが残っていた」

 乃神は渡久地の方を向いて言い放つ。

「――そう、渡久地友禅。あんたがシープに残していた留守電だよ」
「なっ――!?」

 渡久地の顔が驚愕に歪む。

「まずは聞いてもらおう」

 そう言って、乃神はその留守電を再生させた。

『……私だ。凶鳥へ連絡しておけ。二十五日に予定していた名護修一の暗殺は中止。また別の仕事を頼む可能性があるからスケジュールは空けておくように。これを確認したら折り返し連絡せよ』

 ……賭けてもいい。間違いなく渡久地友禅の声だった。

「記録された日付は二十三日の午前零時二十三分。事件の約十七時間前だな。凶鳥というのは今回の審問会に向けての調査中、何度も我々を襲ってきた殺し屋の名前だ。この電話の主はその凶鳥に名護修一の暗殺を依頼していたことになる。つまりその時点で、名護修一への殺意があったわけだ。動機の内容は不明だが、少なくとも動機が『あった』ことはこれで証明できる。……さぁどうだ? 声紋鑑定でもしてみるか、渡久地友禅?」
「ぐっ……くっ……あの……馬鹿者がぁ……ッ!!」

 渡久地は怒りに任せ証言台を右手で叩きつけた。

「死ぬなら一人で黙って死ねばいいものを……! 何も出来ぬ無能が最後の最後まで私の足を引っ張りおって……!」

 乃神はいつもより数倍冷酷な眼差しで、激怒する渡久地を睨みつけていた。

「それはシープや凶鳥を使って我々の妨害をしてきたことを認めるということでいいんだな?」
「黙れッ! そんなことは私は認めていない! 今の電話の内容と、貴様らへの妨害となんの関係がある!? 私が命令したという証拠でもあるのか!?」
「ふん……さかしい男だ」

 乃神は呆れたように言うと、禊屋のほうへ向き直る。

「……俺の仕事は終わりだ。後は任せたぞ」

 そう言い残して、乃神は傍聴席にいた薔薇乃の隣に座った。

「ありがとう、乃神さん……」

 禊屋は小さく呟くと、今度は声を張って言った。

「これで首の皮一枚繋がりました。さぁ渡久地さん、話してくれますよね。どうして名護さんの暗殺命令なんて出してたんですか!?」
「っ…………おのれ……!」
「さぁさぁ、きちんと説明できないと、めちゃくちゃ怪しいですよ? まぁ、暗殺命令なんて出してた時点ですごく怪しいですけど」

 渡久地は禊屋に恨みを込めた視線を送っていたが、やがて舌打ちをしてから話し始めた。

「……修一はたしかに私の元で働いていた。だが、奴の重大な裏切り行為が発覚したのだ。だから殺そうとした。血の繋がった息子だろうが、私に不利益をもたらすなら必要ない……とその時は思った。だがそれは、先ほど貴様が説明した一件とはなんの関係もないことだ。現に電話でも言っていたように、私は暗殺を中止しているではないか。思い直して、取りやめたのだ」
「そんなのあり得ない! あなたは単に別の計画を思いついたから凶鳥に中止を伝えただけ。その別の計画というのが今回の殺人だった。きっと昨日の夜に名護さんが海外へ逃げようとしているのをあなたは知ったんです。だから殺害を早めた! あなたは過去に被告人の命を狙っていて、それを名護さんに阻止されています。だから裏切った名護さんを殺して、被告人も罠にかけようとしたんです!」
「っ……そんなのはただの憶測だ! 神楽君、君からも何か言ってくれたまえ……!」

 神楽は腕を組んだまましばらく考え込んでいたようだったが、やがて静かに言う。

「……ふむ。渡久地殿。認めたくはないことですが、劣勢のようです。あの留守電の音声が出てきたのはマズかったですね」
「くそっ……」
「しかし、まだ手はあります。かくなる上は、アレを使うことの許可をいただきたい」
「……ちっ、やむを得まい」

 渡久地は渋々認める。アレとは何なのだろう? 何か、嫌な予感がする……。

「予感はあったが……よもやこれを使うことになるほど追い込まれるとはな。見事だよ、禊屋。だが……貴様の命運もここまでだ」

 神楽は指を鳴らして言う。

「――ノワール側は新たに主張しよう。渡久地殿が名護修一を殺すことはやはりあり得ない……こと、事件当日に限っては」
「事件当日に限ってはって……どういうこと?」

 禊屋もなにか胸騒ぎを感じているかのような様子で問う。神楽は不敵な笑みを浮かべて答えた。

「まぁ、まずは聞いてもらいたいものがある。これだ」

 神楽は審問会の序盤で証拠として提出したボイスレコーダーを取り出す。神楽と名護の電話でのやり取りを保存したものだ。

「実は名護修一と私の電話には、まだ続きがある。先ほどは審理の流れと無関係であるから途中でカットしたが、今回は最後まで聞いていただこう」

 神楽はボイスレコーダーのスイッチを押した。

『――名護殿。それでは指輪のほうはいいとして……こちらの赤いUSBメモリは何なのですか? 同じくイエローアローズの盗品の中に含まれていましたが』
『赤いUSBメモリ……アレもそっちにあるのか?』
『ええ。念のために、シリアルナンバーを確認させていただきたいのですが……控えは取ってあるでしょうか?』
『ああ、ある。ちょっと待て……よし、言うぞ。E5010807167だ』
『……ふむ。問題ありませんね。それで、こちらは何のデータが?』
『中身を見なかったのか?』
『実は、見ようとしたのですがロックがかかっていて見られませんでした』

 神楽は悪びれもせず言う。

『当然だ。高性能の指紋認証機能付きだからな。叢雲の……私の指紋以外では受け付けない、偽造指紋でも誤魔化せない』
『さぞや重要なデータなのでしょうね。概要だけで構わないので、教えていただけませんか?』

 神楽は有無を言わせない雰囲気で尋ねる。名護は冬吾のことで脅しをかけられたばかりで、神楽に逆らうことは出来ない。

『……私のボスの、秘密に関わるデータだ。それ以上は勘弁してくれ』
『ほう……あなたのボスというと、お父上でもある渡久地友禅殿のことですね?』
『なっ……なぜそれを……さっきは何も……』
『ああ、先ほどの戌井千裕の抹殺命令を出したのもやはり渡久地殿でしたか。いえ、現在のあなたのボスは調査の過程で判明していたのですが、四年前がどうだったかはさすがに確信が持てなかったのでね。ですが教えていただいてすっきりしました』

 冬吾はその会話を聞いて思わず息を呑んだ。渡久地友禅が、戌井千裕の抹殺命令を出した張本人――!

『っ……まったく、油断ならないな。そうだ……私のボスは渡久地友禅……ただし私たちの間に親子の絆などはない。ただ部下と上司という関係があるだけだ』
『ふむ、なるほど……気が変わりました。やはりそのデータの中身、詳しく教えてください』
『……断ったらどうなる?』
『それはやはり……ああいえ、ご想像にお任せしましょう』
『ちっ……。わかった、話す……話せばいいんだろう』
『ご理解いただけて幸いです』
『今から四年前、渡久地友禅の身辺を嗅ぎ回っていたジャーナリストがいた。名前は左門寺英仁』

 たしか、禊屋が会って話した早坂というフリーライターの先輩に当たる人物だ。今は行方不明になっていると聞いているが……。

『私は叢雲として指令を受け、奴を殺しに向かった。だが結局、私は殺せなかったんだ。奴は渡久地友禅のある秘密を見つけ出していて、それを聞かされた私は……自分のボスに疑いを持ってしまった。だから左門寺に協力することにしたんだ』
『秘密とは……?』
『それだけは勘弁してくれ……! いくら脅そうが、無理なものは無理だ! それを喋ったら、今度こそ殺される……!』

 名護の怯え方はとても演技とは思えなかった。本気で渡久地のことを恐れていたようだ。

『……まぁいいでしょう。続きをどうぞ』
『左門寺の話では、渡久地の秘密を記したファイルは左門寺が持っているものの他にもう一つコピーがあって、それはまったく別の安全な場所に置いてあるらしい。念のための保険だと言っていたが、私はそのファイルの在処を記したデータを要求し、受け取った。左門寺に協力する見返りとして、私も担保になるものが欲しかったのだ。そのデータが入っているのが、そのUSBメモリだ』
『左門寺はその後どうなったのですか?』
『左門寺はしばらく逃げ回っていたようだが、渡久地の力には敵わなかった。左門寺は捕まって、拷問を受けた。拷問の最中、左門寺は渡久地にそのコピーファイルの存在を告げたようだ。そしてある人物にコピーファイルの在処を記したデータを託したとも。左門寺にとって、それはせめてもの意趣返しだったに違いない。自分は死んでも、誰かが必ず貴様を追い詰めるぞという呪いを渡久地にかけたんだ。左門寺はデータを託した相手が私だとは決して言わなかった。そして度重なる拷問の末に死んだ……。だが臆病な私は、今もこうしてやつの犬を続けている……情けないことにな』
『あなたは、左門寺を逃がしたことで罰を受けなかったのですか? 一度裏切ったことは気づかれなかった?』
『え? あ……ああ、そうだ。私のことは幸いバレなかった。私が奴の腹心に近い位置にいるから疑われなかったのだろう』

 神楽に尋ねられたとき、名護が不意を突かれたような反応をした気がする……なぜだ?

『ふむ……渡久地殿は左門寺のコピーファイルを必死になって探したでしょうね』
『ああ、それはもう血眼になって探しているさ。あれから四年が経った今でもな。渡久地は左門寺のコピーファイルそのものをSファイル1、そしてそのコピーファイルの在処を示したデータをSファイル2と呼称して探している。しかしどちらも、手がかりすら未だに見つけられないでいるようだ。自分の重大な秘密に関わるファイルだから、部下を使って探させるにも慎重にならざるを得ないというのも大きな理由だろう。渡久地はかなり疑り深い人間だからな』
『なるほど……ではこの赤いUSBメモリに入っているのは、Sファイル2ということですね?』
『そうだ。あと……その中身のことは聞いてくれるな。私には話せない……というか、知らないんだ』
『……知らない?』

 神楽は「何を言っているんだ」、とばかりに声の調子を上げた。

『私はあのデータに指紋認証ロックをかけ、そのまま放置している。中身を閲覧したことはない』
『なぜそんなことを?』
『それは…………』
『どうしました?』
『ああ、いや……そう、それが私の命の担保になると思ったからだ。渡久地友禅は恐ろしい人物だ。その恐ろしさがよくわかっているからこそ、私は奴の元から離れることが出来ないでいる。そのUSBメモリは、いつか奴の矛先が私の方へと向いたときへの備えだ。それの指紋認証ロックは私が生きていないと解くことが出来ない。いざという時、奴との交渉に使える可能性がある。だが私がその中身を知っていたら、奴は私を拷問にかけて無理やり口を割ろうとするだろう。そして口を割ったら用済みとばかりに殺すに違いない。だからあえて見ないようにしていた』
『……それは、しかし。大して意味はないように思われますけどね。渡久地殿がSファイル2をあなたが持っていると気がついた時点であなたは拘束され、ロックを無理やり解かされた後で殺されるのが関の山でしょう』
『……わかっている。しかし何がどう作用して助かる道に繋がるかはわからん』
『なるほど……あなたは自分でおっしゃっているとおり、随分と臆病な人間なのですね。それでいて、自分の生への執着心ばかり強い。左門寺も無念に思っているでしょう、あなたのような人間にファイルの在処を託してしまったことを』
『……そうだろうな』

 ――ボイスレコーダーの再生が止まる。

「――聞いていただいた通りだ。何か質問は?」

 神楽が言う。神楽と渡久地が共犯だとして……二人はいったい何のために手を組んだのだろうか? 神楽がこの電話をかけた時点で、二人は関係を結んでいたのだろうか? それとも……。

 ……いや、それよりも。電話の内容の主題からは外れるかもしれないが、なんとしてでも『あいつ』に聞いておきたいことがある。

 冬吾はやっとの思いで口を開いた。

「証人に……お訊きしたいんですが……」

 渡久地を睨みつける。

「なぜ……戌井千裕を殺せと命令したんですか……?」
「…………」
 
 渡久地は冬吾を一瞥し、鼻で笑った。

「ふん……よく覚えておらんな。四年も前のことなど」
「お前……ッ! とぼけんなよ……ッ!」

 興奮しかける冬吾を、禊屋は慌てて制止した。

「待って! 落ち着いて……今は落ち着かないとダメ……!」
「…………わ、悪い」

 冬吾は苛立ちを抑えきれず髪を掻きむしる。

 何をやっているんだ、俺は……。役に立たないどころか禊屋の足を引っ張ってどうする……!

 神楽は今のやり取りを黙ってみていたが、とくに何事もなかったように話し始めた。

「電話で話していたとおり、名護修一がイエローアローズに盗まれたものは指輪の他にもう一つあった。これだ」

 神楽は赤色のUSBメモリを取り出す。中央部分に楕円形に窪んだ部分があるようだ。電話ではあのUSBメモリには指紋認証機能が付いていると言っていた。おそらくあの部分に指を置いて指紋を認証させるのだろう。

「左門寺という男が調べた渡久地殿の秘密……私には予想も付かないが、このUSBメモリにはそれを記したファイルの在処――通称Sファイル2が記録されているらしい。被害者本人の証言なので間違いないだろう。渡久地殿にとってSファイル2は是が非でも入手したい代物だった。そして名護はそれをよく理解していたということもわかる。さて、ルージュ側の主張によれば、名護は自分の命が狙われていることを薄々察知しており、海外逃亡を図ったのだったな? そこまでする男だ、自らの保身のためにこのUSBメモリの存在を渡久地殿に告げたであろうことは容易に想像がつく。どうなのですか、渡久地殿?」

 渡久地は笑って頷いた。

「ああそうだ。修一は私に連絡してきて、そのUSBメモリを渡す代わりに自分の身の安全を保証してほしいと言った。奴が言っていたことだが、左門寺の呪いというのは的確な表現だ。Sファイルの存在はこの四年間、私にとって最大の悩みの種だった。未だに持ち出されてはいないようだが、どこかに存在している限りはいずれ誰かが見つけ出してしまうかもしれん。だから私は先にそれを見つけて処分せねばならんのだ。私にはなんとしてでもその中に入ったSファイル2が必要だった。だから凶鳥に出していた暗殺指令を撤回したというわけだ、わかってくれたかね?」
「そんな言い訳で納得するはずが――……っ!」

 禊屋は何かに気がついたようにハッとする。

「……まさか、そのUSBメモリって」
「気がついたようだな、禊屋」

 神楽が笑う。

「そう。このUSBメモリは昨日、指輪と一緒に私が名護へ返す予定だった。これはアルゴス院の貸金庫に預けてあったのだ」

 神楽は予め名護がイエローアローズに盗まれたものを貸金庫に預け、その暗証番号を名護に直接会い口頭で伝える予定だったと言っていた。

 神楽は一枚の紙の資料を取り出す。

「私はこのUSBメモリと指輪を取りだしてくる際、アルゴス院の職員二人に同席してもらい、中身を確認してもらった。後ですり替えたのだと言いがかりを付けられても困るからな。これはその時の記録だ。審問長、証拠品として提出しよう」

 審問長は神楽からその資料を受け取った。禊屋にも廷吏を介して同じものが渡される。

「……ふむ、なるほど。職員二人のサインが入っていますね。貸金庫から指輪とUSBメモリを取りだしたのは職員で、この記録を作成する間、ノワールはそれらに手も触れなかったそうです。写真が載っていますが、確かにノワールが見せたものと同じもののようだ。USBメモリは裏側のシリアルナンバーの部分が確認できます。ナンバーはE5010807167……」

 冬吾は禊屋に確認する。

「禊屋、そのシリアルナンバーって……」
「うん……電話で名護さんが言っていたのと同じ……」

 つまりUSBメモリは間違いなく名護の所有物だったということだ。職員が取りだして記録をつけたのであれば、神楽がすり替える余地もない。

 ニムロッドは更に続けた。

「USBメモリの中身を職員が確認したそうですが、指紋認証を求められて中身は閲覧できなかったようです」

 ロックはかかったままだということか……。

「更に貸金庫の記録によると、ノワールがその金庫を契約したのが今から三日前。ここの貸金庫は二回までしか使えないので、今日取り出されるまでは預けられたままだったようですね」

 神楽はニヤリと笑って言う。

「左様。このUSBメモリは貸金庫に預けてあり、誰にも手が出せない状態だった。そして、本来の持ち主に返される前に、その持ち主は死んでしまった……。これがどういう意味かわかるな? 禊屋?」
「渡久地さんがSファイル2を手に入れる機会は、永遠に失われた……」
「そうだ。名護修一が殺されてしまった以上、このUSBメモリにかかった指紋認証によるロックを解除できる人間は存在しなくなったということになる。なお念のために言っておくが、このUSBメモリは高度なセキュリティ技術を売りにしたメーカーの製品で、その中でもとくに評判の高い代物だ。型落ちではあるが、現在でもその信頼性は極めて高い。私の方でもその分野に精通した者に頼んで解除を試みたが、偽造指紋やハッキングのようなイカサマは通用しなかった。万事休すというわけだ」

 USBメモリのロックを解除するには登録された人間の指紋を認証させるしかない。そしてその人間である名護修一は死んで、ファイルを閲覧する方法は消滅した……ということか。

「つまり……渡久地殿が犯人だとした場合。あともう少しだけ待っていれば念願のSファイル2が手に入ったのに、その機会を自ら捨ててしまったことになる。名護修一はどうせ殺すつもりだったにしても、だ……まだUSBメモリのロックが解除されていない段階で殺すというのはあまりに筋が通らない。渡久地殿が昨日の五時から六時の間に名護修一を殺すのはあり得なかったということだ」

 そして神楽は、禊屋を試すかのように言った。

「さぁどうだ、禊屋……この主張を否定できるか、貴様に!」
「…………っ!」

 禊屋は反論できず、黙ってしまう。USBメモリについての記録を凝視して読み込んでいるが、神楽の主張を否定できるような案は思い浮かばないようだった。

「禊屋、USBメモリに登録された指紋は一人だけだったんだろうか? もし名護以外の人でもファイルを開けたら……」

 思いつきを口にしてみるが、禊屋はかぶりを振る。

「電話で名護さん自身が自分以外の指紋では開けないと言ってた。それにほら、ここを見て……」

 禊屋はUSBメモリについての記録資料を見せてくる。職員がPCにUSBメモリを接続しファイルを開こうと試してみたが、指紋認証を求められたため不可能だったという部分に写真が掲載されている。ウィンドウ上に『登録された指紋を認証してください』とあり、その下には『登録指紋数:1』というメッセージが出ていた。

「登録された指紋は一つだけ……つまり、このUSBメモリにアクセスできる人間は間違いなく一人だけだったってことか……」

 禊屋は頷く。

「ルージュ側からは反論はないようだな?」

 神楽が挑発するように言う。禊屋は少し考えてから神楽の主張に打ち返した。

「被害者の名護さんが、本当にUSBメモリのことを渡久地さんに伝えていたとは限りません。渡久地さんがその存在を知らないままであったのなら、昨日の五時から六時の段階で名護さんを殺してしまうこともあり得ます!」
「ふっ……浅い切り込みだ。名護はこういった時のためにSファイル2の入ったUSBメモリを切り札として取っておいたと自分で証言していたのだぞ。ここで使わなかったらいつ使う? 渡久地殿に命を狙われている状況で、あえてこのUSBメモリの存在を黙っておく理由があるというのなら、それを提示してもらおうか……?」
「それは…………」

 禊屋はうつむき黙ってしまう。もう攻めの手は残っていないようだった。

 渡久地は余裕の表情を浮かべている。もう確信した。間違いなく、あいつが犯人だ。それなのに……ここまで追い詰めたのに、まだ足りないのか……!

「――もういいんじゃないかな」

 冬吾にとって初めて聞く声だった。その声は、『傍聴席の二階』から聞こえていた。冬吾から見て右側の特別傍聴席、そこの開いた窓から、スーツ姿の男が後ろで結んだ長い髪を揺らしながら顔を覗かせている。岸上燐道――ナイツの会長だ。

「審問長。ちょっとだけ、いいかな?」

 燐道はニムロッドに尋ねる。審問長は頷いて、「どうぞ」と返した。燐道は更に禊屋に向かって言う。

「君はよく頑張ったよ禊屋君。あの神楽を相手に、大したもんだ。審問会で彼女相手にここまでいい勝負を演じたのは君が初めてだよ。でも、流石にもう限界だろう? 投了してもいい頃合いなんじゃないかな?」
「ちょっ……ちょっと待ってください! あたしは投了なんて――」

 禊屋は慌てたように言う。しかし燐道は顔色一つ変えずに、

「でも、渡久地さんがどうしてUSBメモリの存在を無視して被害者を殺したのか、君には説明できないんだろう? 出来るの?」
「それは……」
「出来ないんじゃあ、もう駄目だよ。何かしら可能性が提示できるなら、べつに続けてもらってもいいんだけどね。君に無理なんじゃ、しょうがない。まぁ人間、諦めが肝心というしね。こんなもんで上等上等」

 燐道はそこまで言って、今度は審問長に向けてあっけらかんと告げた。

「――というわけで、審問長。ナイツはこの審問会を降りるよ」
「なっ――!?」

 禊屋は愕然とする。それは冬吾も同様だった。いや、法廷中が燐道の投了宣言に動揺している。

「お待ちください!」

 傍聴席から別の声が上がった。薔薇乃が立ち上がって、二階の燐道に抗言する。

「何を勝手なことをおっしゃっているのですか!? この審問会に関しては、わたくしに一任されているはずです。わたくしを通さずに勝手に審問会を降りるなどと……いくら会長であろうとも、そんなことは許されません!」
「ふぅむ……というと、あれかい? 君は審問会を降りるという案には反対なんだね? 会長である僕に逆らうことになっても?」
「当然です……!」

 燐道は困ったように手で額を押さえる。

「……薔薇乃、ああ薔薇乃。僕は本当に君のことを大事に思っていたつもりだけど、どうしてこんなに反抗的なのかな。――まぁそこまで言うなら仕方ないね」

 燐道は更に、衝撃的な言葉を続けた。

「では今をもって、岸上薔薇乃の支部長権限を剥奪する」

 それまでと違って、ゾッとするほど冷淡な声だった。

「な……なに、を…………」

 薔薇乃の顔にはっきりとした絶望が表れていた。あんな表情の彼女は初めて見た……。冬吾も、燐道の言葉が聞き間違いであってくれと願う。

 しかし燐道は薔薇乃を見下ろしながら平然として答えた。

「おや、聞こえなかったかな? 君はもう夕桜支社の支社長でも何でもないんだよ。これでもうこの審問会に関しての権限は君にはない。そういうわけで、会長である私が代理として決定しよう。この審問会は、もう終わりだ」

 信じられない……! ここまでするのか、岸上燐道……!

「ちゃんと警告はしてあったはずだよ、薔薇乃。当然、こうなる覚悟も出来ていたんだろう? まさかそんなこともわからないほど馬鹿な子だったなんてことは……ま、君に限ってそれはないか。ははは」

 燐道が嘲笑する。薔薇乃は、ただ苦虫を噛み潰したような表情で相手を睨みつけていた。

「そんな……薔薇乃ちゃん…………」

 禊屋は大変なショックを受けた様子で絶句している。彼女は頭を手で押さえたかと思うと、ふらついて赤壇にもう一方の手をつく。

「それでは、渡久地さん。この度はどうも失礼しました。お詫びはまた今度、色々考えさせてもらいますよ」

 燐道は証人席の渡久地に向かって笑顔で言う。渡久地も軽く手を振り、余裕そうに答えた。

「なに、燐道君。気にすることはない。たまにはこんな余興もよかろう……」

 そういうことか……。燐道は渡久地との円滑な関係を壊したくないからこんな真似をしたのだ。裏社会において大きな権力を持つ渡久地に睨まれるようなことがあったら、ナイツとしては今後かなりやりづらくなるのだろう。この審問会での敗北によって発生する損失よりも、渡久地に喧嘩を売って関係を悪化させることのほうが組織としての不利益は大きい……。つまり燐道は、冬吾や禊屋、そして薔薇乃たちを切り捨てて渡久地を優先したということだ。

 なんてひどいんだ……ひどすぎる。こんなことがあっていいのか……? 渡久地友禅の権力の前には為す術もないのか……?

「……お待ちください」

 薔薇乃が、微かに震えた声で、しかし燐道を力強く睨みつけて言う。

「会長はおっしゃいました……。渡久地氏がUSBメモリの存在を無視して被害者を殺害した理由について何らかの可能性を提示できるのなら、審問会を続けてもいいと。その言葉に二言はありませんね……? ナイツの会長ともあろう方が、このような場で発言したことに責任を持たないはずはありませんね……!?」
「……まぁ、そうだね。でもそれがどうしたの?」
「禊屋がそれを提示出来たならば……お言葉通り、審問会は続けていただきます」
「本当に出来るのかい?」
「出来ます……彼女ならきっと……! ……そうですよね?」

 薔薇乃は一縷の望みに賭けるような眼差しで、禊屋を見つめる。禊屋は、ゆっくりと頷いた。

「……まぁ、やれるだけやってみればいいんじゃないかな。でもあまり長くは待てないよ?」

 そう言い残して、燐道は特別傍聴席の奥に戻る。

「大丈夫なのか、禊屋……」

 冬吾は声をかける。今の『可能性を提示できるのか?』という話のこともあるが、なにより、目に見えてしんどそうな彼女の体調が心配だった。

「……大丈夫。薔薇乃ちゃんが……捨て身で作ってくれたチャンスだもん。絶対……無駄になんか……しない……!」

 禊屋は涙で潤んだ目元を袖で拭う。そして、冬吾へ向けて言った。

「……何があっても、あたしを信じてね」
「え……?」

 何を今更……と思った。しかし、禊屋の今の言葉には何か引っかかるものがあったような……。

 禊屋は冬吾の答えを待たず、神楽に向かい合う。

「――では答えてもらおうか、禊屋」

 神楽が腕組みをして問う。

「渡久地殿がこのUSBメモリの存在を無視して被害者を殺害した理由……それは、なんだ?」

 禊屋は赤壇に両手をついて、話し出す。

「被害者は……あなたへの電話の中で……ある、嘘を……ついています」

 禊屋の言葉が途切れ途切れになる。――様子がおかしい。禊屋はつらそうに片手で頭を押さえて、

「その…………はぁ…………嘘……とは……………」

 ――その時だった。禊屋の身体がゆっくり傾いて――倒れる。

「禊屋!!」

 床に頭を打つ直前でなんとか禊屋を抱き止めた。禊屋の顔は熱で赤く、汗も大量にかいていた。何度か名前を呼びかけてみるが、返事は返ってこない。

「静粛に――静粛に!」

 騒然とする法廷に対し、審問長が木槌を打って言う。

「廷吏、急ぎルージュを医務室へ。――これより十五分の休廷とします。その間に、ルージュ側は今後どうするかをよく相談して決めてください。再開と同時に答えを聞かせていただきます」
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