2 / 92
第一章 天敵婚姻譚
2 【十日前】通りすがりの宮廷付き魔術師
しおりを挟むことの起こりは、地獄の挙式から十日前にさかのぼる。
***
船と人であふれた港の賑わいを、一筋の悲鳴が切り裂いた。
「みんな逃げろぉ! 呪獣が出た!!」
その言葉で、一帯は阿鼻叫喚に包まれた。
船員たちが街へと逃げ、警備兵たちはマスケット銃を手に海へと走る。
彼らを恐れさせたのは、港の岸壁から三十メートルもない場所に現れた怪物だった。
上半身は人の女、海面を打ち据える下半身は魚の尾。
肌は腐った肉のように青じみた灰白色で、細長い四対の腕は蜘蛛のようにわしゃわしゃと蠢いている。尾から頭までで七、八メートルはあろうかと思われた。
呪獣を目にし、兵たちは戦慄した。血走った大きな目は明らかに港の方へ向いていたのだ。
それでも隊長の一声を合図に、一斉に撃ち始める。手応えはあった。青白い体から血が吹き出る。
しかし呪獣は少しもひるむことなくざぶざぶと岸壁へ近づいてくる。
「足止めに徹しろ! 魔術師が、カヴァリエリ様がすぐに到着するはずだ!」
再び隊長の声が響く。
(なんの、魔術師ごときの力に頼るなぞ)
ひとりの若い兵が、新たな弾を装填しながら胸の内で毒づいた。
(神のご加護を)
祈り、青年は同僚の制止を振り切って桟橋まで走った。停泊していた船の陰に入り、狙いを定め、すばやく引き金を引く。
弾は眉間に命中した。おぞましい悲鳴をあげて、魔物の体が水の中に沈んでいく。
「よしっ!」
兵士の一部から歓声が上がった。青年も喜び勇んで、銃口を下げて身を乗り出す。
そのときだった。
部隊長の「銃を下ろすな!」という叱責と同時に、水面からまっすぐ伸びた青白い腕があっという間に青年の首を掴んだのは。
銃が海に落ちる。
引きはがそうと掴んだ魔物の腕はびくともしない。
それどころか、青年を強い力で海の方へ引きずりこもうとする。
仲間の切羽詰まった声が響く。息ができず、体が傾いで死を覚悟した。
――その瞬間、首を掴む魔物の腕が、ボッと青い炎に包まれた。
「っう、うわぁぁぁ!?」
青年の叫びと前後して、炎に包まれた腕が逃げるように離れていく。
身の毛もよだつような叫びが港に響いた。大きな波が立ち、青い炎に包まれた呪獣の巨体は宙に跳ね上がった。
岸壁に尻もちをついた青年が咳き込む。その目は八本の腕を振ってのたうち回る怪物を呆然と見つめていた。
水の上にも関わらず、炎は一向に消えなかった。
誰もが息すら忘れて唖然と見つめる中、とうとう呪獣は海面で横倒しになり、動かなくなった。
炎は海の上で燃え続けた。力尽きた怪物の体が跡形もなく消えるまで。
助かった。
青年が口の中で呟く。そのとき、後ろについた手の先に、小さな軽いものが当たったのに気が付いた。
なんだと思って振り返り。
「足止めご苦労様」
「っ!?」
真後ろに、日傘を差した女が立っていた。それも、人形のように、とびきり華やかな見た目の若い娘が。
レース飾りの日傘の下に、後頭部で結い上げたストロベリーブロンド。青年を見下ろす大きな目は鮮やかな赤。
一瞬光を反射して目を焼いたのは、豊かな胸元にぶら下がった金のロケットだった。
その全身から、ふわりと品の良いネロリの香りが漂っていた。
「こ、ここは危険ですから退避を。呪獣は消えても、心臓から呪いをまき散らすことがあるので――」
「その判断をわたくしがするのだから、そこをおどきなさいな」
鼻白んだ兵の横をすり抜けて、女は岸壁から海に臨んだ。そのすぐ後を、黒ずくめの騎士がついていく。
女は醒めた目で怪物の残骸を認めると、日傘を畳み、その先端で海面をトンとつつく。
するとその場でぶくぶくと泡が立ち、持ち上がってきた水の塊がイルカの頭部を形作った。
「いい子ね、見ておいで」
女が指先で呪獣のいた場所を指し示す。ゼリーのようなイルカは従順に岸壁を離れ、沖へと向かっていった。
魔術だ。
固まった青年の方へ、涼しい顔の女が視線を戻す。
「首を見せてごらん」
「へっ」
「掴まれていたでしょう。呪いが広がる前に、見せてごらんなさい」
今や青年は、この女が魔術師であることはとうに理解していた。先ほど、呪獣を焼き殺した張本人であろうことも。
魔術への反発と命を救われた恩義、そして明らかに身分の高い相手への緊張が重なって、体は動かなかった。
しかし、女は片手で持った扇の先で遠慮なく青年の顎先をくいと上げた。
「なにを……!?」
「まぁ指の跡がくっきり。見苦しいこと」
魔物の手の跡を遠慮なく一刀両断され、青年は呆け、次にはカッと怒りを覚えた。
言い返そうと口を開いたが、声を出すより女の指先が首に触れる方が早かった。
「殺し方もわかっていないのに、勝手に前に出てはダメ。まして銃を下ろすなんて愚かそのもの」
手袋を脱いだ指先で直に触られ、青年の脳裏に先ほど首を掴まれたときの感覚が呼び覚まされる。
けれど、恐怖はすぐに霧散した。女の指先は夏だと言うのにひやりと乾いていて、つるりと滑らかで、強引に引き寄せることはなく、かすかに花の香りが感じられた。
カツン、と何かが桟橋に落ちる音。
手は触れるとき同様に、唐突に離れていった。逃げる魔物と同じように。
「次はお気をつけあそばせ。毎度毎度、優秀な魔術師が通りがかる幸運に恵まれるとは限らないのだから」
そこでイルカが戻ってきた。しゃがんだ女が鼻先を手の平で撫で、何度か頷くしぐさをしてから立ち上がる。
「あの呪獣、見た目の割にたいしたことはなさそうよ」
そう言うと、日傘を開きなおし、もう用はないとばかりに青年から離れていった。騎士が続く。青年は無言のまま、なすすべなく見送る。
その二人に、警備部隊長とその部下たちが追い縋る。
「休暇中にも関わらずのご助力、大変感謝いたしますフェリータ様! あの、ところで、我が隊の一員が何かありましたか?」
「少し身なりを直してさしあげただけですわ。挨拶は今度にして、急いでいるの」
カツカツと、女特有の細いかかとの靴音と、無言を貫く従者を引き連れ、女は港から街へと続く石段を上っていく。
「でも彼、呪獣の腕が触れてしまったわ。あれは“魔女の心臓”を持たない下等獣だったから呪いは受けていないでしょうけれど、大事を取って休養させなさい」
「はっ、仰せの通りに。……しかし、この一帯はあなた様の警護領域ではないはずですが」
「通りがかったのだから無視するわけにもいかないでしょう。そもそもわたくしは“海の総督”、水辺の侵入者を追い払うのは、本来わたくしの役目。……それとも何かしら、ここは今カヴァリエリの縄張りだから出しゃばるなとでも?」
「まさか! いえ、そのようなことは、その……」
「心配しなくても、あの男がここに到着する前に立ち去りますから。二度目になるけど、こちらも急いでますもの」
離れていく上司たちを、青年は無言で見つめる。
その肩を叩いたのは、安堵に目を潤ませた同僚の兵士だった。
「大丈夫か? 助かってよかった、あの方がすぐに来てくれたおかげだな」
「……誰だ? あれが元騎士団で隊長の元上官だったとかいう魔術師か?」
「まさか、カヴァリエリ様は男だぞ、この前来てただろ。……ああお前、田舎から出たばっかだから本当に知らないのか」
青年は首を振った。魔術師はどうも苦手で、情報を意図的に遮断していたから。
そんな青年に、同僚は呆れ、肩を竦めた。
「この島から追い出されたくなきゃ、間違っても“カヴァリエリ様”なんて呼びかけるなよ。あのピンクの髪のお嬢様は“金鯨卿”ぺルラ伯爵のご長女で、宮廷付き魔術師……つまり、国王様お抱え魔術師団のひとり、フェリータ様だよ」
「かわいいんだけど、ちょーっと偉そうなんだよなぁ」と茶化す同僚に、青年は返事をしなかった。
代わりに、白い日傘がどんどん小さくなっていくのを見つめ続けた。
やがて人ごみにまぎれ、日傘が完全に見えなくなる。
ふと、彼女に言われたことを思い出して、波の落ち着いた海面を覗き込んだ。
映り込む己の首に手をやるが、襟が乱れているだけで、“見苦しい指の跡”どころかあざの一つもついていない。
ただ、女が立っていた場所には、真珠のような白い玉がいくつも転がっていた。
60
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
【完結】婚約者は私を大切にしてくれるけれど、好きでは無かったみたい。
まりぃべる
恋愛
伯爵家の娘、クラーラ。彼女の婚約者は、いつも優しくエスコートしてくれる。そして蕩けるような甘い言葉をくれる。
少しだけ疑問に思う部分もあるけれど、彼が不器用なだけなのだと思っていた。
そんな甘い言葉に騙されて、きっと幸せな結婚生活が送れると思ったのに、それは偽りだった……。
そんな人と結婚生活を送りたくないと両親に相談すると、それに向けて動いてくれる。
人生を変える人にも出会い、学院生活を送りながら新しい一歩を踏み出していくお話。
☆※感想頂いたからからのご指摘により、この一文を追加します。
王道(?)の、世間にありふれたお話とは多分一味違います。
王道のお話がいい方は、引っ掛かるご様子ですので、申し訳ありませんが引き返して下さいませ。
☆現実にも似たような名前、言い回し、言葉、表現などがあると思いますが、作者の世界観の為、現実世界とは少し異なります。
作者の、緩い世界観だと思って頂けると幸いです。
☆以前投稿した作品の中に出てくる子がチラッと出てきます。分かる人は少ないと思いますが、万が一分かって下さった方がいましたら嬉しいです。(全く物語には響きませんので、読んでいなくても全く問題ありません。)
☆完結してますので、随時更新していきます。番外編も含めて全35話です。
★感想いただきまして、さすがにちょっと可哀想かなと最後の35話、文を少し付けたしました。私めの表現の力不足でした…それでも読んで下さいまして嬉しいです。
【完結】旦那様、どうぞ王女様とお幸せに!~転生妻は離婚してもふもふライフをエンジョイしようと思います~
魯恒凛
恋愛
地味で気弱なクラリスは夫とは結婚して二年経つのにいまだに触れられることもなく、会話もない。伯爵夫人とは思えないほど使用人たちにいびられ冷遇される日々。魔獣騎士として人気の高い夫と国民の妹として愛される王女の仲を引き裂いたとして、巷では悪女クラリスへの風当たりがきついのだ。
ある日前世の記憶が甦ったクラリスは悟る。若いクラリスにこんな状況はもったいない。白い結婚を理由に円満離婚をして、夫には王女と幸せになってもらおうと決意する。そして、離婚後は田舎でもふもふカフェを開こうと……!
そのためにこっそり仕事を始めたものの、ひょんなことから夫と友達に!?
「好きな相手とどうやったらうまくいくか教えてほしい」
初恋だった夫。胸が痛むけど、お互いの幸せのために王女との仲を応援することに。
でもなんだか様子がおかしくて……?
不器用で一途な夫と前世の記憶が甦ったサバサバ妻の、すれ違い両片思いのラブコメディ。
※5/19〜5/21 HOTランキング1位!たくさんの方にお読みいただきありがとうございます
※他サイトでも公開しています。
いくら政略結婚だからって、そこまで嫌わなくてもいいんじゃないですか?いい加減、腹が立ってきたんですけど!
夢呼
恋愛
伯爵令嬢のローゼは大好きな婚約者アーサー・レイモンド侯爵令息との結婚式を今か今かと待ち望んでいた。
しかし、結婚式の僅か10日前、その大好きなアーサーから「私から愛されたいという思いがあったら捨ててくれ。それに応えることは出来ない」と告げられる。
ローゼはその言葉にショックを受け、熱を出し寝込んでしまう。数日間うなされ続け、やっと目を覚ました。前世の記憶と共に・・・。
愛されることは無いと分かっていても、覆すことが出来ないのが貴族間の政略結婚。日本で生きたアラサー女子の「私」が八割心を占めているローゼが、この政略結婚に臨むことになる。
いくら政略結婚といえども、親に孫を見せてあげて親孝行をしたいという願いを持つローゼは、何とかアーサーに振り向いてもらおうと頑張るが、鉄壁のアーサーには敵わず。それどころか益々嫌われる始末。
一体私の何が気に入らないんだか。そこまで嫌わなくてもいいんじゃないんですかね!いい加減腹立つわっ!
世界観はゆるいです!
カクヨム様にも投稿しております。
※10万文字を超えたので長編に変更しました。
【完結】何もできない妻が愛する隻眼騎士のためにできること
大森 樹
恋愛
辺境伯の娘であるナディアは、幼い頃ドラゴンに襲われているところを騎士エドムンドに助けられた。
それから十年が経過し、成長したナディアは国王陛下からあるお願いをされる。その願いとは『エドムンドとの結婚』だった。
幼い頃から憧れていたエドムンドとの結婚は、ナディアにとって願ってもいないことだったが、その結婚は妻というよりは『世話係』のようなものだった。
誰よりも強い騎士団長だったエドムンドは、ある事件で左目を失ってから騎士をやめ、酒を浴びるほど飲み、自堕落な生活を送っているため今はもう英雄とは思えない姿になっていた。
貴族令嬢らしいことは何もできない仮の妻が、愛する隻眼騎士のためにできることはあるのか?
前向き一途な辺境伯令嬢×俺様で不器用な最強騎士の物語です。
※いつもお読みいただきありがとうございます。中途半端なところで長期間投稿止まってしまい申し訳ありません。2025年10月6日〜投稿再開しております。
死を望まれた王女は敵国で白い結婚を望む。「ご安心ください、私もあなたを愛するつもりはありません」
千紫万紅
恋愛
次期女王として王位継承が内定していたフランツェスカ。
だが戦況の悪化を理由に父王に争いの最前線に送られた。
それから一年、命からがら王都へ戻った彼女を待っていたのは労いの言葉ではなく、敵国・シュヴァルツヴァルトの王太子への輿入れ命令。
しかも父王は病弱な異母妹アリーシアを王妃に据え、フランツェスカの婚約者レナードを王にするという。
怒りと絶望の中フランツェスカはかつて敵将であったシュヴァルツヴァルト王太子・フリードのもとへお飾りの妻として嫁ぐことを決意する。
戦地での過去を封じ、王族としての最後の務めを果たすために。
辺境伯へ嫁ぎます。
アズやっこ
恋愛
私の父、国王陛下から、辺境伯へ嫁げと言われました。
隣国の王子の次は辺境伯ですか… 分かりました。
私は第二王女。所詮国の為の駒でしかないのです。 例え父であっても国王陛下には逆らえません。
辺境伯様… 若くして家督を継がれ、辺境の地を護っています。
本来ならば第一王女のお姉様が嫁ぐはずでした。
辺境伯様も10歳も年下の私を妻として娶らなければいけないなんて可哀想です。
辺境伯様、大丈夫です。私はご迷惑はおかけしません。
それでも、もし、私でも良いのなら…こんな小娘でも良いのなら…貴方を愛しても良いですか?貴方も私を愛してくれますか?
そんな望みを抱いてしまいます。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 設定はゆるいです。
(言葉使いなど、優しい目で読んで頂けると幸いです)
❈ 誤字脱字等教えて頂けると幸いです。
(出来れば望ましいと思う字、文章を教えて頂けると嬉しいです)
今日結婚した夫から2年経ったら出ていけと言われました
四折 柊
恋愛
子爵令嬢であるコーデリアは高位貴族である公爵家から是非にと望まれ結婚した。美しくもなく身分の低い自分が何故? 理由は分からないが自分にひどい扱いをする実家を出て幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱く。ところがそこには思惑があり……。公爵は本当に愛する女性を妻にするためにコーデリアを利用したのだ。夫となった男は言った。「お前と本当の夫婦になるつもりはない。2年後には公爵邸から国外へ出ていってもらう。そして二度と戻ってくるな」と。(いいんですか? それは私にとって……ご褒美です!)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる