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第二話『ぐりとぐら』中川季枝子・作/大村百合子・絵
部室の中に紙を繰る音が響く。
古びた長机をはさんで斜め向かいに座る先輩は今日も物憂げに瞳を伏せて、本を読む。
はらりと黒い艶髪が肩の上を流れて垂れる。それを白磁のような指先がかきあげて耳にかけた。
やがて先輩は艶っぽいため息とともに、手にした本を閉じる。
長い睫毛に縁取られた黒い瞳をぼんやりと窓の外へと向ける。
儚げなその顔はあたかも己の運命が導く先を憂う亡国の王女のようで――
「食べたいわね、カステラ」
机の上に置かれた、横長大判の本を手のひらで愛おしそうに撫でる。
さほど厚みのない白い装丁の表紙には、青い服と赤い服を来た二足歩行の野ねずみが、仲良くひとつの編み籠を下げて歩く姿が描かれている。
『ぐりとぐら』中川季枝子・作/大村百合子・絵。
福音館書店から出版される児童向けの童話、つまりは絵本だ。
「先輩は本当に何でも読みますね」
「文学に貴賤はないわ」
「今日に限って言えば、その言葉には諸手を挙げて同意しますよ」
時折、そうとも言えない本を持ち込むのがこの先輩の悪癖でもある。
それはさておき。
「懐かしいですね『ぐりとぐら』。よく読み聞かせをねだったもんです」
「”のねずみの ぐりと ぐらは”――」
「でも4歳にはすでにひとりで読めるようになっていたそうです」
「ママ、寂しい」
わざとらしくおとがいに手を当てて、物憂げにため息をつく。
そうしているとあたかも独り立ちする愛子を寂しく見送る妙齢の女性のようにも見えてくる。先輩は時折、年齢不詳だ。
「誰かに読み聞かせたくなる気持ちは分かりますけどね」
強引に話を戻す。
「韻が良いというか、思わずくちずさみたくなる魅力がありますよね」
「”ぼくらの なまえは ぐりとぐら このよで いちばん すきなのは おりょうり すること たべること ぐり ぐら ぐり ぐら”」
拍子をつけて、歌うように先輩が口ずさむ。
よく通る落ち着いた声色は耳に心地よく響いて、いつまでも聞いていたくなる。
ちなみに絵本のあらすじは、こうだ。
野ねずみのぐりとぐらはある日、森の奥へとおでかけすると、そこに大きなたまごをみつける。持ち帰るには大きすぎるので、家から料理道具を持ってきて、その場でカステラを焼きはじめる。すると、匂いをかぎつけて森中の動物たちが集まってくるので、みんなで仲良くわけて食べる。
「物語に出てくるお料理って、どうしてこんなに美味しそうなのかしら」
「『トムとジェリー』の穴開きチーズとか、どんなにみずみずしくて甘くて美味しいものなのか、よく妄想していました」
「私は『ちびくろさんぼ』のトラのバターかしら。ハチミツやミルクのように甘くてとろけるものを想像していたわ」
「実際に食べてみると想像と全然違ったりしますよね。知りたくなかったような、知れてよかったような、複雑な気持ちになります」
「それが大人になる、ということなのかもしれないわね。未知のものが減って、知っていることが増えていく。少し、寂しい気もするけれど」
「失った分だけ、何かを得るんでしょうか」
「あら、詩的ね。物語的というべきかしら」
生温かい笑みを向けられる。気恥ずかしくなって顔をそむける。
「ところで、お料理は得意かしら?」
「毎日三食、母に頼り切りです」
「お母様は料理がお得意?」
「どうでしょう、家族の誕生日に焼いてくれるケーキは、毎年みんなで楽しみにしていますが」
「素敵なお母様ね。手強いわ」
「……手強い?」
「やっぱり結婚するなら、料理が上手い女の子が良い?」
「相手との関係性によるのでは? 共働きなら当番制になるかもしれません」
「現実的で夢がないわね。でも、理解のある素敵な旦那様になりそう」
「あの、ところで何の話です?」
「カステラは好きかしら?」
急な話題転換は先輩の十八番なので、今さらもう諦めている。
「甘いものは好きですよ」
「どんぐりのグラッセと、栗のクリームも候補にあるのだけれど」
「どんぐり? 栗の? あぁ、もしかして」
先輩は隣の席に置かれた鞄の中から、フライパンやらボウルやらを取り出して、次々とテーブルの上に並べていった。
「それじゃあ今日も、実践してみましょう。一緒にまたひとつ失って、大人になりましょうね」
・ ・ ・
あらためて机の上にクロスを敷いて、IHのコンロ、フライパン、その他の材料を置きなおす。さすがに学校の備品に直置きするのは忍びない。
「はい、どうぞ」
白い無地のエプロンが差し出される。
「さすがに、忠実ですね」
「実践ですもの」
絵本のぐりとぐらも、料理を始める前に真白のエプロンを身につけている。
「でも、いいんですかね。部室でカステラなんて焼いて」
「コンロは卓上のIHだし、火事の心配もないと思うけれど」
「校則で何かないんですか?」
「校内ではカステラを焼くべからず?」
「そこまでピンポイントではないでしょうけど」
「なら問題ないわ」
明記さえされていなければ、あとはごね通すということだろう。先輩はそういう人で、ここ一年でも前例は枚挙にいとまがない。諦めが肝心だ。
「卵、小麦粉、牛乳、砂糖、バター、それくらいですかね。絵本から見て取れるのは」
「膨らし粉がないから、泡立てているのでしょうね。ボウルはひとつのようだし、共立てね。お料理好きを自称するだけあるわ」
「難しいんですか?」
「別立てという卵白と卵黄を分ける方法があるのだけど、その方がいくらか簡単なのよ」
「さすがはぐりとぐらですね」
「ちなみに、お母様は普段どうされているのかしら?」
「いつも全部一緒にかき混ぜてますね」
「共立てでいきましょう」
先輩が卵を手に取り、割りはじめる。
その作業を横で見守りながら、どうしても聞かずにはおけないことがあった。
「先輩はぐりとぐらが見つけた卵って、なんの卵だと思います?」
「野ねずみの平均的な体長からすると、鶏卵では小さすぎるわね。ひとりで抱えられるでしょうし」
「絵本だとふたりでも手が回ってませんね」
「現存する生物の中で最も大きな卵はダチョウのもので、ざっと鶏卵の20倍以上、これは大きすぎるわね。ガチョウだと3倍くらいだから、少し物足りないかしら」
「どっちも食べられる卵なんです?」
「ダチョウの方は薄味で今ひとつだけれど、ガチョウは風味が豊かで美味しいわ」
当然のように味の感想まで出てくるのが先輩だ。もういまさら驚くに値しない。
「それで結局、何の卵なんですか。それ」
慎重な手付きでトンカチを振るわれる、ラグビーボールよりはいく回りか小さい、深緑色の卵を見やる。
「エミューよ」
「だいぶサイケデリックな色をしてますが、いったい何科の生物なんですか?」
「ヒクイドリ目ヒクイドリ科エミュー属よ。ダチョウをもうすこし小さくしたような二足歩行の鳥で、もちろん卵は食用。鶏より美味しいから、楽しみね」
「なぜその卵を選んだんです?」
「大きさがちょうどよかったのよ」
「色は?」
「残念ながら、全部この色なのよね」
ちなみに、絵本に出てくる卵は白だ。
「まぁ、絵本の世界をあまり深く追求するのも、考えものですよね」
大人になったからこその分別と、せめてもそれくらいの子供心は忘れたくないものだ。
「そうね。でないとすべての前提を覆しかねない、重大な問題に気づいてしまうこともあるわね」
先輩は真剣な表情で、分厚い殻にトンカチを当て、ひび割れた破片を一枚一枚、丁寧にひき剥がしていく。
「ちなみにこれは、無精卵だから」
「……先輩。それいじょうは、いけない」
「そうね。ごめんなさい」
卵は無事に割れた。
透明な卵白とクリーム色の大きな卵黄がボウルにあけられる。
「泡立ては私がやるから、この通りに材料を加えていってもらえるかしら」
「頑張ります」
もうひと回り大きなボウルにお湯を沸かし入れて、砂糖を加えた卵のボウルを温めながら泡立てていく。
「温めるのはやっぱり、泡立ちのためですか?」
「別立てならあまり必要ないのだけれど、共立ては卵黄の油脂がどうしても泡立てを阻害してしまうの。卵白は温かい方が泡が立ちやすいから」
「最初に砂糖を加えたのは?」
「卵は温めると固まるでしょう? その温度を引き上げて、固まりにくくするのよ」
「化学の実験みたいですね」
「錬金術の発展には台所に立つ女性の存在が不可欠だったそうよ」
他愛ない雑談を交わしながら、手順にしたがって、砂糖、小麦粉、牛乳、バターを加えていく。
やがてボウルの中にきめ細かな生地が出来上がる。
バターを塗ったフライパンへと流し込んでいく。
蓋をして、コンロにかける。
「カステラってこうやって作るんですね」
「たいていはオーブンだから、フライパンで焼くのは珍しいわね」
「その場合、パンケーキとはまた違うんですか?」
「パンケーキは膨らまし粉を使うのよ。スフレパンケーキはメレンゲだけれど、食感を重視して油脂はあまり入れないようね」
「色々と違いがあるんですね」
「ちなみに、カステラと材料や製法で一番近いのは、ジェノワーズ、つまりはスポンジケーキね。これもオーブンで焼くのが一般的だけれど」
「フライパンで焼くのは、ぐりとぐら独自ですか」
「私も初めてだから、少し不安ね。直火は焦げやすいし、じっくり焼きましょう」
「後は待つだけですね」
エプロンを外そうとすると、先輩に止められる。
「まだ大事な工程が残っているわ」
「そうですか?」
レシピにはもう何も書かれていない。
「“ぼくらの なまえは ぐりとぐら”。カステラを焼きながら歌うのよ」
「えぇ……」
「“ぼくらの なまえは ぐりとぐら このよで いちばん すきなのは おりょうり すること たべること ぐり ぐら ぐり ぐら”」
・ ・ ・
やがて狭い部室内に、甘く香ばしい香りが漂いはじめる。
蓋を外すと、ふっくらもっちりとした薄黄色の生地があらわになる。
「まさに、ぐりとぐらのカステラですね」
「火も通ったみたいだわ」
指先で軽く表面をつつくが、崩れることはない。
「さぁ、いただきましょう」
机に鍋敷きを置いて、フライパンのままでんと乗せる。
「手づかみなんですか?」
「実践だもの。それにその方が楽しいでしょう?」
毎夜の晩餐ではナイフにフォークで慎ましく食事をしていそうな深窓の佳人が、うきうきとカステラを指で引きちぎる。
真似して反対側をちぎる。
「あちち」
断面からふわりと白い蒸気が立ち上った。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
ふたりで口に運ぶ。
焼き面はしっかりとした歯ざわりがあり、中はしっとりした食感、もちもちとした弾力もある。
バターの香ばしさが鼻を抜け、ミルクと砂糖の優しい甘さが舌の上で溶けていく。
「美味しいわね」
「美味しいですね」
想像していたのとは近いようでまた違う。
でも、これをぐりとぐらたちがみんなでわけて食べたのだと思うと、やはり感慨深い。
「森の動物たちは匂いに誘われてやってこなかったようね」
「そんなフレンドリーなご近所付き合いしてましたっけ?」
「無愛想にしていたつもりもないのだけれど」
「先輩にとってはそうなんでしょうね」
普段から表情に乏しく掴みどころのない先輩は、学内においてミステリアスな高嶺の花として、近寄りがたき存在になってしまっている。
もちろん本人はそんな噂など、まったく頓着していない。
「仲間がほしいのなら、そろそろ部員を増やしてみては?」
春になればまた新入生がやってくる。勧誘にはいい時期だろう。
「あら。二人きりでは不満?」
「そこで僕に聞くんですか」
ほのかに色づく閉め切られたせまい部室の中で、充満する甘ったるい香りに包まれながら、先輩と隣合わせでフライパンからカステラをつまむ。
こんな時間も、これはこれで悪くはない。
「コンロも空いたことだし、紅茶でもいれましょうか」
「いいですね」
森の仲間たちは匂いに惹かれて自然と集まってくるものだ。
それまでは今しばらく、このままでいいのかもしれない。
古びた長机をはさんで斜め向かいに座る先輩は今日も物憂げに瞳を伏せて、本を読む。
はらりと黒い艶髪が肩の上を流れて垂れる。それを白磁のような指先がかきあげて耳にかけた。
やがて先輩は艶っぽいため息とともに、手にした本を閉じる。
長い睫毛に縁取られた黒い瞳をぼんやりと窓の外へと向ける。
儚げなその顔はあたかも己の運命が導く先を憂う亡国の王女のようで――
「食べたいわね、カステラ」
机の上に置かれた、横長大判の本を手のひらで愛おしそうに撫でる。
さほど厚みのない白い装丁の表紙には、青い服と赤い服を来た二足歩行の野ねずみが、仲良くひとつの編み籠を下げて歩く姿が描かれている。
『ぐりとぐら』中川季枝子・作/大村百合子・絵。
福音館書店から出版される児童向けの童話、つまりは絵本だ。
「先輩は本当に何でも読みますね」
「文学に貴賤はないわ」
「今日に限って言えば、その言葉には諸手を挙げて同意しますよ」
時折、そうとも言えない本を持ち込むのがこの先輩の悪癖でもある。
それはさておき。
「懐かしいですね『ぐりとぐら』。よく読み聞かせをねだったもんです」
「”のねずみの ぐりと ぐらは”――」
「でも4歳にはすでにひとりで読めるようになっていたそうです」
「ママ、寂しい」
わざとらしくおとがいに手を当てて、物憂げにため息をつく。
そうしているとあたかも独り立ちする愛子を寂しく見送る妙齢の女性のようにも見えてくる。先輩は時折、年齢不詳だ。
「誰かに読み聞かせたくなる気持ちは分かりますけどね」
強引に話を戻す。
「韻が良いというか、思わずくちずさみたくなる魅力がありますよね」
「”ぼくらの なまえは ぐりとぐら このよで いちばん すきなのは おりょうり すること たべること ぐり ぐら ぐり ぐら”」
拍子をつけて、歌うように先輩が口ずさむ。
よく通る落ち着いた声色は耳に心地よく響いて、いつまでも聞いていたくなる。
ちなみに絵本のあらすじは、こうだ。
野ねずみのぐりとぐらはある日、森の奥へとおでかけすると、そこに大きなたまごをみつける。持ち帰るには大きすぎるので、家から料理道具を持ってきて、その場でカステラを焼きはじめる。すると、匂いをかぎつけて森中の動物たちが集まってくるので、みんなで仲良くわけて食べる。
「物語に出てくるお料理って、どうしてこんなに美味しそうなのかしら」
「『トムとジェリー』の穴開きチーズとか、どんなにみずみずしくて甘くて美味しいものなのか、よく妄想していました」
「私は『ちびくろさんぼ』のトラのバターかしら。ハチミツやミルクのように甘くてとろけるものを想像していたわ」
「実際に食べてみると想像と全然違ったりしますよね。知りたくなかったような、知れてよかったような、複雑な気持ちになります」
「それが大人になる、ということなのかもしれないわね。未知のものが減って、知っていることが増えていく。少し、寂しい気もするけれど」
「失った分だけ、何かを得るんでしょうか」
「あら、詩的ね。物語的というべきかしら」
生温かい笑みを向けられる。気恥ずかしくなって顔をそむける。
「ところで、お料理は得意かしら?」
「毎日三食、母に頼り切りです」
「お母様は料理がお得意?」
「どうでしょう、家族の誕生日に焼いてくれるケーキは、毎年みんなで楽しみにしていますが」
「素敵なお母様ね。手強いわ」
「……手強い?」
「やっぱり結婚するなら、料理が上手い女の子が良い?」
「相手との関係性によるのでは? 共働きなら当番制になるかもしれません」
「現実的で夢がないわね。でも、理解のある素敵な旦那様になりそう」
「あの、ところで何の話です?」
「カステラは好きかしら?」
急な話題転換は先輩の十八番なので、今さらもう諦めている。
「甘いものは好きですよ」
「どんぐりのグラッセと、栗のクリームも候補にあるのだけれど」
「どんぐり? 栗の? あぁ、もしかして」
先輩は隣の席に置かれた鞄の中から、フライパンやらボウルやらを取り出して、次々とテーブルの上に並べていった。
「それじゃあ今日も、実践してみましょう。一緒にまたひとつ失って、大人になりましょうね」
・ ・ ・
あらためて机の上にクロスを敷いて、IHのコンロ、フライパン、その他の材料を置きなおす。さすがに学校の備品に直置きするのは忍びない。
「はい、どうぞ」
白い無地のエプロンが差し出される。
「さすがに、忠実ですね」
「実践ですもの」
絵本のぐりとぐらも、料理を始める前に真白のエプロンを身につけている。
「でも、いいんですかね。部室でカステラなんて焼いて」
「コンロは卓上のIHだし、火事の心配もないと思うけれど」
「校則で何かないんですか?」
「校内ではカステラを焼くべからず?」
「そこまでピンポイントではないでしょうけど」
「なら問題ないわ」
明記さえされていなければ、あとはごね通すということだろう。先輩はそういう人で、ここ一年でも前例は枚挙にいとまがない。諦めが肝心だ。
「卵、小麦粉、牛乳、砂糖、バター、それくらいですかね。絵本から見て取れるのは」
「膨らし粉がないから、泡立てているのでしょうね。ボウルはひとつのようだし、共立てね。お料理好きを自称するだけあるわ」
「難しいんですか?」
「別立てという卵白と卵黄を分ける方法があるのだけど、その方がいくらか簡単なのよ」
「さすがはぐりとぐらですね」
「ちなみに、お母様は普段どうされているのかしら?」
「いつも全部一緒にかき混ぜてますね」
「共立てでいきましょう」
先輩が卵を手に取り、割りはじめる。
その作業を横で見守りながら、どうしても聞かずにはおけないことがあった。
「先輩はぐりとぐらが見つけた卵って、なんの卵だと思います?」
「野ねずみの平均的な体長からすると、鶏卵では小さすぎるわね。ひとりで抱えられるでしょうし」
「絵本だとふたりでも手が回ってませんね」
「現存する生物の中で最も大きな卵はダチョウのもので、ざっと鶏卵の20倍以上、これは大きすぎるわね。ガチョウだと3倍くらいだから、少し物足りないかしら」
「どっちも食べられる卵なんです?」
「ダチョウの方は薄味で今ひとつだけれど、ガチョウは風味が豊かで美味しいわ」
当然のように味の感想まで出てくるのが先輩だ。もういまさら驚くに値しない。
「それで結局、何の卵なんですか。それ」
慎重な手付きでトンカチを振るわれる、ラグビーボールよりはいく回りか小さい、深緑色の卵を見やる。
「エミューよ」
「だいぶサイケデリックな色をしてますが、いったい何科の生物なんですか?」
「ヒクイドリ目ヒクイドリ科エミュー属よ。ダチョウをもうすこし小さくしたような二足歩行の鳥で、もちろん卵は食用。鶏より美味しいから、楽しみね」
「なぜその卵を選んだんです?」
「大きさがちょうどよかったのよ」
「色は?」
「残念ながら、全部この色なのよね」
ちなみに、絵本に出てくる卵は白だ。
「まぁ、絵本の世界をあまり深く追求するのも、考えものですよね」
大人になったからこその分別と、せめてもそれくらいの子供心は忘れたくないものだ。
「そうね。でないとすべての前提を覆しかねない、重大な問題に気づいてしまうこともあるわね」
先輩は真剣な表情で、分厚い殻にトンカチを当て、ひび割れた破片を一枚一枚、丁寧にひき剥がしていく。
「ちなみにこれは、無精卵だから」
「……先輩。それいじょうは、いけない」
「そうね。ごめんなさい」
卵は無事に割れた。
透明な卵白とクリーム色の大きな卵黄がボウルにあけられる。
「泡立ては私がやるから、この通りに材料を加えていってもらえるかしら」
「頑張ります」
もうひと回り大きなボウルにお湯を沸かし入れて、砂糖を加えた卵のボウルを温めながら泡立てていく。
「温めるのはやっぱり、泡立ちのためですか?」
「別立てならあまり必要ないのだけれど、共立ては卵黄の油脂がどうしても泡立てを阻害してしまうの。卵白は温かい方が泡が立ちやすいから」
「最初に砂糖を加えたのは?」
「卵は温めると固まるでしょう? その温度を引き上げて、固まりにくくするのよ」
「化学の実験みたいですね」
「錬金術の発展には台所に立つ女性の存在が不可欠だったそうよ」
他愛ない雑談を交わしながら、手順にしたがって、砂糖、小麦粉、牛乳、バターを加えていく。
やがてボウルの中にきめ細かな生地が出来上がる。
バターを塗ったフライパンへと流し込んでいく。
蓋をして、コンロにかける。
「カステラってこうやって作るんですね」
「たいていはオーブンだから、フライパンで焼くのは珍しいわね」
「その場合、パンケーキとはまた違うんですか?」
「パンケーキは膨らまし粉を使うのよ。スフレパンケーキはメレンゲだけれど、食感を重視して油脂はあまり入れないようね」
「色々と違いがあるんですね」
「ちなみに、カステラと材料や製法で一番近いのは、ジェノワーズ、つまりはスポンジケーキね。これもオーブンで焼くのが一般的だけれど」
「フライパンで焼くのは、ぐりとぐら独自ですか」
「私も初めてだから、少し不安ね。直火は焦げやすいし、じっくり焼きましょう」
「後は待つだけですね」
エプロンを外そうとすると、先輩に止められる。
「まだ大事な工程が残っているわ」
「そうですか?」
レシピにはもう何も書かれていない。
「“ぼくらの なまえは ぐりとぐら”。カステラを焼きながら歌うのよ」
「えぇ……」
「“ぼくらの なまえは ぐりとぐら このよで いちばん すきなのは おりょうり すること たべること ぐり ぐら ぐり ぐら”」
・ ・ ・
やがて狭い部室内に、甘く香ばしい香りが漂いはじめる。
蓋を外すと、ふっくらもっちりとした薄黄色の生地があらわになる。
「まさに、ぐりとぐらのカステラですね」
「火も通ったみたいだわ」
指先で軽く表面をつつくが、崩れることはない。
「さぁ、いただきましょう」
机に鍋敷きを置いて、フライパンのままでんと乗せる。
「手づかみなんですか?」
「実践だもの。それにその方が楽しいでしょう?」
毎夜の晩餐ではナイフにフォークで慎ましく食事をしていそうな深窓の佳人が、うきうきとカステラを指で引きちぎる。
真似して反対側をちぎる。
「あちち」
断面からふわりと白い蒸気が立ち上った。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
ふたりで口に運ぶ。
焼き面はしっかりとした歯ざわりがあり、中はしっとりした食感、もちもちとした弾力もある。
バターの香ばしさが鼻を抜け、ミルクと砂糖の優しい甘さが舌の上で溶けていく。
「美味しいわね」
「美味しいですね」
想像していたのとは近いようでまた違う。
でも、これをぐりとぐらたちがみんなでわけて食べたのだと思うと、やはり感慨深い。
「森の動物たちは匂いに誘われてやってこなかったようね」
「そんなフレンドリーなご近所付き合いしてましたっけ?」
「無愛想にしていたつもりもないのだけれど」
「先輩にとってはそうなんでしょうね」
普段から表情に乏しく掴みどころのない先輩は、学内においてミステリアスな高嶺の花として、近寄りがたき存在になってしまっている。
もちろん本人はそんな噂など、まったく頓着していない。
「仲間がほしいのなら、そろそろ部員を増やしてみては?」
春になればまた新入生がやってくる。勧誘にはいい時期だろう。
「あら。二人きりでは不満?」
「そこで僕に聞くんですか」
ほのかに色づく閉め切られたせまい部室の中で、充満する甘ったるい香りに包まれながら、先輩と隣合わせでフライパンからカステラをつまむ。
こんな時間も、これはこれで悪くはない。
「コンロも空いたことだし、紅茶でもいれましょうか」
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森の仲間たちは匂いに惹かれて自然と集まってくるものだ。
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