ブルー・リグレット

梓月 霜

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12.落陽

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「ねえ、今日は天気もいいし外でランチでもしない?」
 一般の会社ならもうとうに始業時間を過ぎている頃に起きだした僕は天気予報を確認した後、午前中の家事も一段落している様子の藤宮に声をかけてみた。
「別にいいけど……」
 急にどうしたんだ、という顔で見られる。
 まあ、そうだろう。今まで藤宮を誘ったこともなければ、そもそも仕事関係以外でまともな外出をすることのほとんどない暮らしをしている僕が、ぷらっと出かけようなんて言い出せば不審に思われても仕方ない。
「ここのところずっと家から出ていなかったし、少しは外に出ないとなって。あと、家電も見たいし付き合って。もちろん交通費もお昼代も僕が出すよ」
 家電を見たいのも少しくらいは外出しないとなと思っているのも本当だ。ここのところあまり気が晴れないので、気分を変えたいのもあった。
 藤宮を誘ったのは一人だと出かける気持ち自体がしぼんでしまうのと、家以外の場所で彼と過ごしたいと思ったからだ。
「わかった」
 とくに急ぎの用事もないしということで彼は同伴を了承してくれた。


 二人で家を出て、最寄駅から電車に乗る。家電量販店がある数駅先の駅で降りて、少し早めだがまずは昼食をとることにした。
 近くのコンビニを除けば、二人で出かけるのは初めてで、一緒にいるとやはり藤宮は華のある存在だなと思う。とくにお洒落に気合をいれた服装でもないのに洗練された出で立ちで、髪の色もあるだろうが彼の周りだけ空気が明るいように感じてしまう。それに対し、隣にいる適当に櫛でとかしただけの黒髪に平凡な眼鏡をかけた僕はさぞかし地味に映っているだろう。
「ここでいい?」
「ああ」
 風もなく過ごしやすい陽気なのでランチにはオープンテラスのカフェを選んだ。平日なので店はそんなに混んでおらず、空いているテラス席を選ぶと僕たちはそれぞれ違うランチセットを注文して座った。
「そういえば、前に杉山さんと駅前のカフェにいるの見かけたんだけど」
 あまり愉快でない記憶を思い出した僕は少しだけ迷ってから、以前藤宮と元クラスメイトを目撃したことを口にする。
「ああ。あの時か」
 一瞬だけ何のことかと考えた彼は、すぐに思い至るものがあったようで返事をする。
「なんか、彼氏と行く予定の舞台があったんだけど直前になって彼氏が熱出して行けなくなったんだと。彼氏の名義で取ったチケットで本人確認があるかもってことで雰囲気似てる俺に来てくれないかって頼まれたんだよ」
 いったん言葉を区切って彼はセットで頼んだドリンクを口にする。彼のはカフェラテ、僕のはレモンティーだ。
「推しの舞台でどうしても見たいらしくてチケ代はいらないって言われたんだけどさ、一万もする舞台みたいだし、代わりにカフェ代くらいは出すよってことで寄ったんだよな」
「そうだったんだ」
 話を聞いてみれば、彼らしい理由だった。
 元々僕が不満に思う権利なんてなかったけれど、詳細を知れば尚更ひとかけらも彼が非難される謂れなんてなかった。
 あの時、暗い怒りに支配される前に気軽な調子で尋ねていれば僕らの過ごした時間は少し違っていただろうか。
 遅かれ早かれ僕は彼を凌辱した気はするけれど、あんなふうに暴力的に黒い感情をぶつける形で彼に手を出すことはなかったかもしれない。
「お前とこうしてカフェ来るのとか初めてだよな」
「そうだね」
 日差しを受けて彼の髪は明るく輝いている。根元が黒くなっていることもなく一律に綺麗だ。髪は知り合いの美容院でカットモデルということでタダで切ってもらっていると言っていた。染色も無料か安くやってもらっているのかとずっと思っていたが、どのくらいの頻度で染めれば綺麗に保たれるのだろうかと、一度も髪を染めたことのない僕は考える。
 気になっていることといえば、もう一つ。
「なんだ?」
「いや、前から思ってたけど目の色薄いんだなって。カラコン?」
 髪の色に合わせたかのように瞳の色も茶色い。違和感なく似合っているが、近くで見てもコンタクトが入っているようには見えなかった。
 学生時代の彼の瞳の色がどうだったかは記憶にない。まともに視線を合わせたのはあの雨の日の一度きりで、その時は目の色なんて気にしている余裕はなかった。 
「あー、いや。何も入れてねえ。多分、俺ハーフとかなんだ」
 多分、という微妙な言い方に疑問を感じたのを察した彼は少しだけ逡巡した後、ぽつぽつと自分から話し始めた。
 父親については母親から何も聞かされておらず、名前も顔も知らなければ生きているか死んでいるかもわからないこと。顔立ちはそこまで日本人離れしているわけではないが、髪も瞳も色素が薄いので父親は外国人か、もしくは西洋の血が入った人間なのだろうと思っていること。
 ついでに言えば、弟とは父親が違うと思っているそうだ。
 藤宮が母親のことを悪く言ったことは一度もなかったが、話を聞く限りではろくでもない母親だと思う。未婚で父親違いの子供を産んで、挙句に子供たちを置いていなくなったのだから。
 彼の境遇に同情はしない。だけど、恵まれない育ちの中でまっとうな精神と折れない心を保ち続けた彼の強さは尊敬する。そして、金を無心するくせに髪は染めているのかと侮蔑した自分を反省した。きっと日本人にしては明るすぎる髪の色は彼を困らせてきただろうに。
 高校は公立で物凄い進学校というわけでもなかったから髪の色が多少明るいくらいで厳しく指導されることはなく、彼のような髪色をしている者も薄くメイクをしている女子もいたので藤宮もまた普通に染めているのだと思っていた。
 僕はいつも彼の外側しか見ていなかった。僕の目に映っているものだけで勝手に判断して、彼という人間を決めつけていた。
 遠くから見ているだけでは、何もわかりはしないのに。
「知りたい? 父親のこととか、母親の居場所とか」
「どうだろうな。知らないままでいたい気もするし、会いたいって気もあるのかも」
 不安定に揺れる淡い色の瞳は濁りのない興味や思慕だけを映し、無責任な親への恨みつらみは感じられない。
 どこまでも僕とは違う。
 僕は自分の家が貧乏の一歩手前であることを不満に思っていたし、僕が大した取柄もなく平凡なのは親のせいだと思っていたし、僕が一人だけこの世界に残されたことに憤りも覚えていた。
 彼のように自分の環境を受け入れて、自分の力でできることをしようと卑屈にならずに前を向く強さは僕にない。
「生きてるのか死んでるのかくらいは知りたいかもな」
 道行く見ず知らずの人たちをその薄い色彩の中に収め、彼はそう締め括った。



 そんな会話をしてから二週間後。

 仕事の打ち合わせで午前中から家を空け、午後になって戻ると彼の姿がどこにもなかった。
 今日出かける予定は聞いていない。買い物にでも行ったのかと軽く考えキッチンへ向かうと、いつもは綺麗に拭かれて何も置かれていないダイニングテーブルの上に見覚えのないものが置かれていた。
 手に取って確かめてみれば、それは保険の証書と彼の弟名義の銀行口座の通帳とカード。一緒に置かれていた紙には暗証番号と共に『残った金は弟にやってくれ』と書かれていた。
 他には封をされた白い封筒もあった。宛名には『裕真へ』と彼の弟の名前が書かれている。何が書かれているのか知らないが、おそらく保険金のこととそこから僕へと返済することが内容に含まれているのだろう。
「……っ」
 これらの品が指し示すことは明白だった。嫌な予感ではなく明確な危機感に僕は声をなくす。
 どうして、なんて考えはしない。
 理由なんて一つしか思いつかなかった。
 始めから彼は決めていたのかもしれない。僕が彼の矜持を踏みにじったあの時から。
 すべてが終われば何もかもを清算すると。決めていたから受け入れたのかもしれない。
 ずっと耐えて、耐えて。
 ただの元クラスメイトに。彼と同じ男に。身体を暴かれいいようにされて、それでその後の人生を何事もなかったかのように暮らしていくなんて、そんなことができるとどうして僕は思っていたのだろう。
 甘かったのは僕の方だ。
 彼の覚悟を、彼の決意を履き違えていた。
 被虐され続けた彼が最後に何を決断するかを想像もしなかった僕は愚かだ。
 

 探さないと。そして、止めないと。
 彼はいなくなるつもりだ。僕の前からも、弟の前からも。

 震える指でスマホを操作し電話をしてみたが電源が入っていないようで繋がらなかった。部屋にはなかったので持って行っているとは思うがおそらく連絡はつかないだろう。
 驚くほど僕は彼のことを知らなかった。彼が行きそうな場所の見当など全くつかない。彼がずっと何を考えていたのかもわからない。
 激しく動揺し、焦燥に駆られながらもまずは高校の卒業生の中で藤宮の他に唯一連絡先を知っていた木内に連絡し、彼が向かう先として思い当たるものがないか尋ねた。結局何の情報も得られなかったが、他の友人たちにも訊いて何かわかったら連絡をくれるというので次に僕は彼の弟の入院先に向かった。
 何かの時の連絡先として弟の名前と入院先の病院は聞いてある。
 幸いなことにまだ面会時間内で、彼の弟と会話をすることはできた。今まで一度も訪ねたことがないのにいきなり慌てた様子でやって来て兄の居所について尋ねる僕に、弟も何かを察したのだろう。詳しい事情は話さなくても、真剣な顔で幾つか候補を教えてくれた。
 その内の一つ。彼がいつか行きたいと言っていたという場所には僕にも聞き覚えがあった。
『あの人と行ったことがある、って母さんが言ってたんだ』
 昔、テレビで見た景色に彼の母親が零したのだという。『あの人』は親父のことだと思うと彼は言っていた。
 凄い有名なわけではないけれど、夕日が当たると真っ赤に染まって綺麗だという滝。
 一緒に見ていたバラエティ番組で偶々出てきた滝の映像を見て、彼は心中の読めない複雑な表情をして言っていた。その表情が印象的だったから、僕も滝の名前を覚えている。
 こういう時、人は思い出の場所や所縁のある場所へと赴く。彼が足を向ける場所として十分に考えられた。
 彼がいなくなってから時間は経っているはずだが、夕日を待つならばまだ彼と出会える可能性はある。
 僕は病院に立ち寄ったその足でそのまま、件の滝へと向かった。目的地へはここから一時間と少しで着く。急いで向かえばちょうど日没のころには到着するはずだった。
 
 保険金を貰うなら行方不明のままにはしないだろう。きっと己の死がわかるようにする。たまに観光客が足を滑らせて落ち、近くの沢に流れつくという滝壺は事故死を装うにはちょうどいい。仮に自殺だと判断されても保険に加入してからだいぶ経っているので死亡保険金は下りるはずだ。
 彼の性格から考えて電車に飛び込んだり、ビルから飛び降りたりなど他者に多大な迷惑がかかることはしない。考えられる中で彼がついの場所として選ぶには例の滝は条件を満たしているように思う。
 最寄り駅で電車を降りるとタクシーを捕まえ、車で行けるところまで運んでもらった僕は不安に押しつぶされそうになりながらも山道を行く。
 もし、ここではなかったら。
 彼を見つけられなかったら。間に合わなかったら。
 嫌な想像と時間と共に色濃くなっていく不安に発狂しそうだった。
 絶え間なく足を動かしながらも指先は震え、心臓は運動量に見合わぬ早鐘を打つ。今更振り返っても遅いが高校を卒業してから運動なんて大してしていなかったから体力もあまりない。精神的にも肉体的にも悲鳴を上げながらひたすらに山道を登る。
 早く、早く。気持ちは焦るのに道はどこまでも続いているようにいくら歩いても終わりが見えない。もどかしい気持ちと焦燥感。もっと身体を鍛えておけばよかったという反省とそもそもこんな事態になるようなことをしでかしてしまったことに対する後悔。様々な感情が渦巻く中、必死に前へと進む。
 息を切らしながら歩き続ける僕の上空で、木々の合間から見える太陽は赤く色を変え始めていた。
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