13 / 14
13.辿り着く場所
しおりを挟む
涙目になりながらも辿り着いた滝は真っ赤に染まっていた。燃えるような赤だ。荘厳で美しいのかもしれないが、今の僕にはその強烈な赤い色は恐ろしい予感を呼ぶだけだった。
辺りを見回す。だが、滝のそばには誰の姿もない。滝の音以外、人の声も足音も何もしない。
彼はここには来なかったのか。それとももう来てしまったのか。全ては遅かったのか。
真っ赤な滝がすべてを飲み込むように轟々と落ちていく。飛沫を上げるあの水面の下に彼はいるのだろうか。
泣き叫びそうになったそのとき、ふいに声がした。
「芳澤……?」
幻聴かとも思えた小さな呟きに僕は大きく首を巡らす。先ほどまでは誰もいなかった場所に彼が立っていた。バッグも何も持たぬ軽装で、朝、僕を送り出した時と変わらぬ姿。
足はスニーカーを履き、しっかりと地面を踏みしめている。怪我や汚れもない。
その姿を見たとき、安堵と共に膨れ上がったのは強烈な怒りだった。
彼のもとへと駆け寄るとがむしゃらに引き倒し、拳を振り下ろす。
「ふざけるな!」
叩きつけた拳は草の生えた地面を叩いた。息を止め、驚いた顔で藤宮が僕を見つめる。
「これ以上僕に喪わせる気かッ。これ以上僕に死を見させる気か!」
「……ッ!」
彼の身体が震えた。こちらの剣幕に見開かれていた瞳が細まり、視線が下へと外されると彼の唇からぽつりと言葉が零れる。
「……ごめん」
聞いたことのない声色だった。弱く、所在なさげな。
その頼りない声に僕の勢いもしぼんでいく。
「こんな……こんなのは最悪だ。いっそ僕を殺してくれた方がいい」
どうせ哀しむ人間もいない。人生を楽しんでいるわけでもない。この先、誰かと結婚して幸せな家庭を作るなんて未来も見えていない。
どうせ死ぬんだったら僕の方がふさわしい。
「やめろよ。そんなこと言うな」
長い睫毛に彩られた瞳を歪ませた彼が、哀しみと悔恨の滲んだ声を吐き出す。
「悪かった。悪かったよ、逃げて」
視線を外し、一言一言単語を繋げるように彼が静かに謝る。
「お前の言う通り、最低だよ。最低な人間なんだ、俺は」
「違う。僕が悪い。僕が悪いのは知ってる。あんなことをして。君を貶めて。僕の歪んだ願望で君を穢した。取り返しがつかないことをしたのもわかってる」
僕は卑しい人間だ。勝手に彼という人間を決めつけて、勝手に反感を抱いて、彼を傷つけることに悦びを見出した。
「許してくれとか言わない。でも、駄目だ。君が死ぬのは」
ぽたり、ぽたりと零れた涙が彼の頬に落ちて伝う。まるで彼が泣いているように。
「これが僕への復讐だとしても駄目だ」
「復讐なんかじゃねえよ。俺は別にお前のこと怒っても憎んでもいないし、お前から逃げたかったわけでもない」
「じゃあ、なんで」
「怖かったんだ。裕真の病気が治ったら、もう俺にはすることがない。弟の為になんでもしたって言えば聞こえがいいけど、実際は自分の力じゃまともに稼げず、親交も大してなかったヤツにみっともなく縋って金出させて、意地もプライドも何もかも捨てただけだ」
初めて聞く彼の本音。そんなふうに思っていたなんて考えたこともなかった。
「退院したアイツに合わせる顔がねえ」
「そんなことない。君の顔をもう見られないことの方がきっと嫌なはずだよ。せっかく手術も成功したのに唯一の肉親を喪ったら哀しむだろう」
一人残される辛さを知っている。親も兄弟も替えのない大切なものだ。両親ととくに仲が良かったわけでもない自分でさえ、その喪失感は大きい。
僕が彼を喪って嘆くのは当然の報いだが、何も知らない弟は可哀想だ。病室で一度だけ会った彼の弟を思う。面立ちはそれほど彼と似てはいなかったが、真面目でしっかりとした子のようだった。
「だから、俺は弱くてろくでもない奴なんだよ。お前が傷つこうが、裕真が哀しもうが、逃げることを選んだんだ」
僕が落とした雫に混じって彼の涙が零れる。
強くて穢れなく綺麗だと思っていた人が崩れる様を僕は間近で見ていた。顔を歪め、瞳を濡らし、己の咎を懺悔する。
僕が思っていたより彼は強くはなかったのかもしれない。脆くて儚くて、ずるい人だったのかもしれない。
それでも、彼は綺麗だと思った。誰かのせいにするのではなく、すべて自分で受け止め己の弱さを嘆く彼の心はやはり綺麗で真っ直ぐなのだと思う。
「悪かった」
持ち上がった彼の指が僕の頬を拭う。
「巻き込んで悪かった」
優しい瞳。涙で濡れながら強くこちらを見る真摯な眼差しと声。偽りなく放たれる言葉。
「俺はお前を利用した。お前がしたことは悪くない。お前がしたことは俺が得た金への対価だ。始めから合意の上だろ?」
そうではあるけれども、そこに僕の醜く歪んだ気持ちがあったことも事実だ。それをわかっていて、何も悪くないと告げる彼に何も言えない。
言葉を返せない僕に彼は微笑んだ。
「ありがとう」
その言葉に、柔らかな笑みに、ぐちゃぐちゃだった感情が一つへと帰結して子供みたいに情けなく弱い声が零れ出る。
「ごめん……なさい」
「なんで謝るんだよ」
「多分、僕は間違えた」
己の気持ちを。己の望みを。
哀しかったんだ。僕に金を求める君が。こんな形で君との繋がりができることが。
欲しかったんだ。
友達になってくださいと。今日は暑いだとか寒いだとか、あの映画が面白かったとか、この料理は嫌いだとか、そんな他愛ない話ができる関係になりたかったと。
そう告げるべきだったんだ。
友達にならお金くらい貸すから。君にならそれが多少大きな金額でも返してくれると信用できるから。利子ぐらい足して返せよと、そんな一言で貸すことができた。
「友達に、なってください」
ぽろぽろと涙を零しながら不細工な声でそう告げると、彼は赤く濡れた目を丸くした。
「なんだよ、それ」
はは、と泣き顔にそぐわない軽快な笑いが漏れる。
「お前、俺より頭いいと思っていたけど結構馬鹿なんだな」
「うるさい」
「友達なんて頼んでなるものじゃないだろ。一緒にメシ食おうぜ、でいいんだよ」
「……じゃあ、ご飯作って。外食はあまり好きじゃないから、君が作ったご飯がいい」
「……」
「……材料費は出すから」
「……いや、うん。わかったよ。お前は不器用でちょっと我儘でだいぶ子供っぽいんだな」
そんなこと知らない。誰かが指摘してくれたこともない。
兄弟もいない。友達だと胸を張って言える存在もいない。一人で生きることに慣れきっている僕は、僕がどんな人間かなんて知らない。
僕と面と向かって、僕という人間をちゃんと見つめてくれたのは藤宮だけだ。
否定も肯定もできずに黙り込む僕に彼は仕方ないなという顔で笑った。二人分の涙で頬を濡らしながら、何もかも吹っ切れたように。
「帰ろうぜ」
促されて僕は身を起こす。手を差し出せば、彼はそれをしっかり握って立ち上がった。濡れた顔を袖で拭い、それから片手で服の汚れを叩き落す。真っ直ぐに立つ彼からはもう悲壮感も強い慙愧の念も見えない。
彼はここにいる。彼の存在を示す確かな感触。失わずに済んだことに改めて安堵する。
気が付けば太陽はもう沈んでいた。西の空に残された夕焼けが夜の始まりを告げている。
「大した山じゃねえけど、早く戻った方がいいな」
今の時期じゃ、寒さもきつくなる。完全に日が暮れてしまう前に急いで戻ろうと僕たちは歩き出す。はぐれないためなのか安心させるためなのか彼は僕の手をずっと離さなかった。
大人にもなって誰かと手を繋いで歩いていることに少し気恥ずかしさも感じたが、しっかりした手の感触と温もりは心強く、来るときはやたらと長く感じた道も疲労感が薄い。
幸い、ほとんど迷うことのない一本道だったので僕たちは足早に元来た道を下りていった。
誰かと出会うこともなく、どうにか完全に暗くなる前に舗装された道路まで出ることができ、バスや電車を乗り継いで僕たちは何事もなかったように二人で家に帰った。
家に辿り着いたのは夕飯時をとうに過ぎた頃だった。
スマホの電源を入れるのを忘れていた彼は弟や友人たちからのメッセージに慌てて返信し、それから僕たちは夕食を後回しにして改めて話し合った。
出ていったままのテーブルの上には彼が残した保険証書やその他一式。それらを見て彼は少し目を歪めるように苦笑し、まとめて隅に移動させると椅子に座った。僕も対面に座る。
こうして彼が向かいに座っていることに僕は随分と慣れてしまった。あと一歩遅ければ、こうして彼が目の前にいることはもうなかったのかもしれないと思うと改めて背筋に冷たいものが走った。
「とりあえず、お互いもう謝罪はなしな」
真っ先に彼が口にする。それぞれに反省しているが、相手を責めるつもりはない。彼の言うことに僕も異存はなかったので黙ったまま軽く頷く。
「金はこれから普通に働いて返すよ。一気には返せないけどちゃんと返す」
彼の返済の意思について疑ったことはないし、別に完済されなくても問題はない。返済計画については彼の好きにしてくれて構わなかったので、こちらもとくに異を唱えることなく了承の視線を送った。
「で、これからなんだけど」
一呼吸置いた後に言葉を続けた彼にそう切り出されて僕の肩に少し緊張が走る。テーブルの下に隠れた指先に力が入った。
昨日までの関係は一度ピリオドを打った。新しく僕は踏み出さなければならない。
「お前はどうしたい?」
藤宮が静かに問う。真正面から僕を見て。
心の奥まで見ようとするかのような真面目な眼差しに、僕はあるがまま正直に答えなければならないと思う。
言わなければ伝わらないこと。聞かなければわからないことがある。一方的に何かを思い、一方的に何かを押し付けるのではなくて、相互的な関係をこれからは築いていきたい。
「僕は……友達として君といたい」
今更図々しいとは思うけど。
「君の作るご飯を食べたい」
もちろんただで作れとは言わない。材料費以外にだって金は出す。なんだったら専属料理人として雇ったっていい。
「できればこのまま一緒に住んでてほしい」
友達としても家政夫としても僕には君が必要で。身勝手な頼みなのはわかっている。だけど、言いたいことは全部伝えなければいけないと思った。
「わかった」
「いいの?」
「別に俺が困ることじゃないしな。ルームシェアってことでいいんじゃないか」
あっさりと承諾してくれる。簡単に望みが叶ってしまい、僕は逆に戸惑った。こんな都合のいい展開はあるのだろうか。あの滝の前で号泣してから世界が一変してしまったようでむしろ不安になってくる。もしかしたら実はあの時もう手遅れで、僕も彼の後を追って滝に飛び込んでこれは死にゆく僕の幻想なんてことはないだろうか。
「まあ、ここの家賃いくらか知らないが完全な折半とかは無理なんでその辺は考慮してもらえれば」
呑気に告げる藤宮はここの家賃を想像したのか若干口元を強張らせている。
「いいよ。家賃なんて。僕が頼んで住んでもらうんだから。むしろ僕が支払う方だよ」
「部屋代と食費を出してくれるのなら別に金を貰わなくても家事くらいはやるよ」
「それじゃあ僕の気がすまない」
「友達としてここに住むんだろ。金を貰う理由がねえよ」
「じゃあ、僕の仕事を手伝って。それに対して支払いをする」
僕は頑として譲らなかった。事務要員としても有能なので家事以外のこともしてほしいのは本音だ。付け加えれば、外で働くより家にいてほしかったからなのもある。
「俺、大したことできないぞ」
「始めは誰でも新人だよ。君は器用で機転もきくから即戦力としては充分だ」
そうかなーと彼は納得いっていない顔をする。当たり前のようにできる人間というのは、その能力に気付かないものだ。
「ま、俺が使えるかは置いといてお前の手伝いをすることに文句はないから別にいいけど」
「ありがとう」
本当にありがとう。そう伝えたい。謝る必要はないというのだから、感謝だけは何度だって伝えたい。
君がいてくれてよかった。君がいなくならなくてよかった。
僕の我儘をきいてくれてありがとう。こんな僕を友達だと思ってくれてありがとう。
君が今僕の目の前にいることが何よりも尊い奇跡みたいなもので、それ以上のことなんて望んではいけないと思うけれど、貪欲な僕の願いまで叶えてくれてどうもありがとう。
後で木内にもそれとなくお礼をしようかと思う。彼がいたから僕は藤宮と再会できたし、今回の件でも事情をよく知らないまま藤宮の所在を掴むために尽力してくれていた。
「お前はしたいことを素直に言えばいいよ。俺は嫌なことは嫌だって言う」
諭すように少し笑いながら藤宮は手を伸ばしてくる。握手でもするのかと思ったら、小さい子にでもするように軽く頭を撫でられた。
どうやら彼の中で僕は小学校に入ったばかりで友達をどう作っていいかわらかない子供のようなイメージになってしまったらしい。
人付き合い初心者で若干厨二病も入った痛い奴なのは認めるが、さすがにそこまで子供ではないと思いたい。
「あ、それと今日から俺のことは洸って呼べよ。俺も祐って呼ぶから」
人懐っこい爽やかな笑顔で告げられて一瞬息が止まった後、今度こそ僕は自分の額をテーブルに打ち付けて幻聴や幻覚でないことを確かめるべきなのではと悩んだ。
後から聞いたところによると、その時僕はなんとも表現のし難い面白い顔をしていたらしい。
こうして僕たちは新しい一歩を踏み出した。藤宮はちょうど更新の時期だったアパートを解約し、少ない荷物を持って僕のマンションに移り住んだ。無事退院した弟は、都心で一人暮らしを始め、バイトをしながら手術にかかった費用を返そうと藤宮に少しずつ金を渡しているらしい。
僕は彼と業務委託契約を結び直し、秘書的な役割を担ってもらうことにした。部屋代や食費の代わりに家事は藤宮の担当で、僕はゴミ出しなどやれることはやるということで落ち着いた。仕事の補佐をしてもらう報酬として僕が支払う金の中から毎月決まった額を藤宮は返済金に充てている。彼が後から借りた金以外の分は、彼のものとして取っておこうと僕は思っている。
お兄ちゃん気質の藤宮は、僕に少し甘くなった。元々冷たいわけでも素っ気ないわけでもなかったが、今はちょっと危なっかしくて不器用な僕のことを近所のお兄ちゃん的な目で見ている部分もあるようで、前よりも包容力が増した気がするし、時折弟に対する扱いみたいなものが混じっているように感じる。
ちなみに月齢でいえば僕の方が上である。だが、一人っ子の僕には、家族のように心配してくれたり世話を焼いてくれたりする彼の心遣いに悪い気はしなかった。
そんなこんなで僕たちの関係はこれまでとは変わりつつ、傍から見るとあまり変化のない形で続くことになった。
僕は今も毎日彼に感謝している。彼が与えてくれるかけがえのないものすべてに感謝している。
そして、この日々がずっと続けばいいと願っている。
辺りを見回す。だが、滝のそばには誰の姿もない。滝の音以外、人の声も足音も何もしない。
彼はここには来なかったのか。それとももう来てしまったのか。全ては遅かったのか。
真っ赤な滝がすべてを飲み込むように轟々と落ちていく。飛沫を上げるあの水面の下に彼はいるのだろうか。
泣き叫びそうになったそのとき、ふいに声がした。
「芳澤……?」
幻聴かとも思えた小さな呟きに僕は大きく首を巡らす。先ほどまでは誰もいなかった場所に彼が立っていた。バッグも何も持たぬ軽装で、朝、僕を送り出した時と変わらぬ姿。
足はスニーカーを履き、しっかりと地面を踏みしめている。怪我や汚れもない。
その姿を見たとき、安堵と共に膨れ上がったのは強烈な怒りだった。
彼のもとへと駆け寄るとがむしゃらに引き倒し、拳を振り下ろす。
「ふざけるな!」
叩きつけた拳は草の生えた地面を叩いた。息を止め、驚いた顔で藤宮が僕を見つめる。
「これ以上僕に喪わせる気かッ。これ以上僕に死を見させる気か!」
「……ッ!」
彼の身体が震えた。こちらの剣幕に見開かれていた瞳が細まり、視線が下へと外されると彼の唇からぽつりと言葉が零れる。
「……ごめん」
聞いたことのない声色だった。弱く、所在なさげな。
その頼りない声に僕の勢いもしぼんでいく。
「こんな……こんなのは最悪だ。いっそ僕を殺してくれた方がいい」
どうせ哀しむ人間もいない。人生を楽しんでいるわけでもない。この先、誰かと結婚して幸せな家庭を作るなんて未来も見えていない。
どうせ死ぬんだったら僕の方がふさわしい。
「やめろよ。そんなこと言うな」
長い睫毛に彩られた瞳を歪ませた彼が、哀しみと悔恨の滲んだ声を吐き出す。
「悪かった。悪かったよ、逃げて」
視線を外し、一言一言単語を繋げるように彼が静かに謝る。
「お前の言う通り、最低だよ。最低な人間なんだ、俺は」
「違う。僕が悪い。僕が悪いのは知ってる。あんなことをして。君を貶めて。僕の歪んだ願望で君を穢した。取り返しがつかないことをしたのもわかってる」
僕は卑しい人間だ。勝手に彼という人間を決めつけて、勝手に反感を抱いて、彼を傷つけることに悦びを見出した。
「許してくれとか言わない。でも、駄目だ。君が死ぬのは」
ぽたり、ぽたりと零れた涙が彼の頬に落ちて伝う。まるで彼が泣いているように。
「これが僕への復讐だとしても駄目だ」
「復讐なんかじゃねえよ。俺は別にお前のこと怒っても憎んでもいないし、お前から逃げたかったわけでもない」
「じゃあ、なんで」
「怖かったんだ。裕真の病気が治ったら、もう俺にはすることがない。弟の為になんでもしたって言えば聞こえがいいけど、実際は自分の力じゃまともに稼げず、親交も大してなかったヤツにみっともなく縋って金出させて、意地もプライドも何もかも捨てただけだ」
初めて聞く彼の本音。そんなふうに思っていたなんて考えたこともなかった。
「退院したアイツに合わせる顔がねえ」
「そんなことない。君の顔をもう見られないことの方がきっと嫌なはずだよ。せっかく手術も成功したのに唯一の肉親を喪ったら哀しむだろう」
一人残される辛さを知っている。親も兄弟も替えのない大切なものだ。両親ととくに仲が良かったわけでもない自分でさえ、その喪失感は大きい。
僕が彼を喪って嘆くのは当然の報いだが、何も知らない弟は可哀想だ。病室で一度だけ会った彼の弟を思う。面立ちはそれほど彼と似てはいなかったが、真面目でしっかりとした子のようだった。
「だから、俺は弱くてろくでもない奴なんだよ。お前が傷つこうが、裕真が哀しもうが、逃げることを選んだんだ」
僕が落とした雫に混じって彼の涙が零れる。
強くて穢れなく綺麗だと思っていた人が崩れる様を僕は間近で見ていた。顔を歪め、瞳を濡らし、己の咎を懺悔する。
僕が思っていたより彼は強くはなかったのかもしれない。脆くて儚くて、ずるい人だったのかもしれない。
それでも、彼は綺麗だと思った。誰かのせいにするのではなく、すべて自分で受け止め己の弱さを嘆く彼の心はやはり綺麗で真っ直ぐなのだと思う。
「悪かった」
持ち上がった彼の指が僕の頬を拭う。
「巻き込んで悪かった」
優しい瞳。涙で濡れながら強くこちらを見る真摯な眼差しと声。偽りなく放たれる言葉。
「俺はお前を利用した。お前がしたことは悪くない。お前がしたことは俺が得た金への対価だ。始めから合意の上だろ?」
そうではあるけれども、そこに僕の醜く歪んだ気持ちがあったことも事実だ。それをわかっていて、何も悪くないと告げる彼に何も言えない。
言葉を返せない僕に彼は微笑んだ。
「ありがとう」
その言葉に、柔らかな笑みに、ぐちゃぐちゃだった感情が一つへと帰結して子供みたいに情けなく弱い声が零れ出る。
「ごめん……なさい」
「なんで謝るんだよ」
「多分、僕は間違えた」
己の気持ちを。己の望みを。
哀しかったんだ。僕に金を求める君が。こんな形で君との繋がりができることが。
欲しかったんだ。
友達になってくださいと。今日は暑いだとか寒いだとか、あの映画が面白かったとか、この料理は嫌いだとか、そんな他愛ない話ができる関係になりたかったと。
そう告げるべきだったんだ。
友達にならお金くらい貸すから。君にならそれが多少大きな金額でも返してくれると信用できるから。利子ぐらい足して返せよと、そんな一言で貸すことができた。
「友達に、なってください」
ぽろぽろと涙を零しながら不細工な声でそう告げると、彼は赤く濡れた目を丸くした。
「なんだよ、それ」
はは、と泣き顔にそぐわない軽快な笑いが漏れる。
「お前、俺より頭いいと思っていたけど結構馬鹿なんだな」
「うるさい」
「友達なんて頼んでなるものじゃないだろ。一緒にメシ食おうぜ、でいいんだよ」
「……じゃあ、ご飯作って。外食はあまり好きじゃないから、君が作ったご飯がいい」
「……」
「……材料費は出すから」
「……いや、うん。わかったよ。お前は不器用でちょっと我儘でだいぶ子供っぽいんだな」
そんなこと知らない。誰かが指摘してくれたこともない。
兄弟もいない。友達だと胸を張って言える存在もいない。一人で生きることに慣れきっている僕は、僕がどんな人間かなんて知らない。
僕と面と向かって、僕という人間をちゃんと見つめてくれたのは藤宮だけだ。
否定も肯定もできずに黙り込む僕に彼は仕方ないなという顔で笑った。二人分の涙で頬を濡らしながら、何もかも吹っ切れたように。
「帰ろうぜ」
促されて僕は身を起こす。手を差し出せば、彼はそれをしっかり握って立ち上がった。濡れた顔を袖で拭い、それから片手で服の汚れを叩き落す。真っ直ぐに立つ彼からはもう悲壮感も強い慙愧の念も見えない。
彼はここにいる。彼の存在を示す確かな感触。失わずに済んだことに改めて安堵する。
気が付けば太陽はもう沈んでいた。西の空に残された夕焼けが夜の始まりを告げている。
「大した山じゃねえけど、早く戻った方がいいな」
今の時期じゃ、寒さもきつくなる。完全に日が暮れてしまう前に急いで戻ろうと僕たちは歩き出す。はぐれないためなのか安心させるためなのか彼は僕の手をずっと離さなかった。
大人にもなって誰かと手を繋いで歩いていることに少し気恥ずかしさも感じたが、しっかりした手の感触と温もりは心強く、来るときはやたらと長く感じた道も疲労感が薄い。
幸い、ほとんど迷うことのない一本道だったので僕たちは足早に元来た道を下りていった。
誰かと出会うこともなく、どうにか完全に暗くなる前に舗装された道路まで出ることができ、バスや電車を乗り継いで僕たちは何事もなかったように二人で家に帰った。
家に辿り着いたのは夕飯時をとうに過ぎた頃だった。
スマホの電源を入れるのを忘れていた彼は弟や友人たちからのメッセージに慌てて返信し、それから僕たちは夕食を後回しにして改めて話し合った。
出ていったままのテーブルの上には彼が残した保険証書やその他一式。それらを見て彼は少し目を歪めるように苦笑し、まとめて隅に移動させると椅子に座った。僕も対面に座る。
こうして彼が向かいに座っていることに僕は随分と慣れてしまった。あと一歩遅ければ、こうして彼が目の前にいることはもうなかったのかもしれないと思うと改めて背筋に冷たいものが走った。
「とりあえず、お互いもう謝罪はなしな」
真っ先に彼が口にする。それぞれに反省しているが、相手を責めるつもりはない。彼の言うことに僕も異存はなかったので黙ったまま軽く頷く。
「金はこれから普通に働いて返すよ。一気には返せないけどちゃんと返す」
彼の返済の意思について疑ったことはないし、別に完済されなくても問題はない。返済計画については彼の好きにしてくれて構わなかったので、こちらもとくに異を唱えることなく了承の視線を送った。
「で、これからなんだけど」
一呼吸置いた後に言葉を続けた彼にそう切り出されて僕の肩に少し緊張が走る。テーブルの下に隠れた指先に力が入った。
昨日までの関係は一度ピリオドを打った。新しく僕は踏み出さなければならない。
「お前はどうしたい?」
藤宮が静かに問う。真正面から僕を見て。
心の奥まで見ようとするかのような真面目な眼差しに、僕はあるがまま正直に答えなければならないと思う。
言わなければ伝わらないこと。聞かなければわからないことがある。一方的に何かを思い、一方的に何かを押し付けるのではなくて、相互的な関係をこれからは築いていきたい。
「僕は……友達として君といたい」
今更図々しいとは思うけど。
「君の作るご飯を食べたい」
もちろんただで作れとは言わない。材料費以外にだって金は出す。なんだったら専属料理人として雇ったっていい。
「できればこのまま一緒に住んでてほしい」
友達としても家政夫としても僕には君が必要で。身勝手な頼みなのはわかっている。だけど、言いたいことは全部伝えなければいけないと思った。
「わかった」
「いいの?」
「別に俺が困ることじゃないしな。ルームシェアってことでいいんじゃないか」
あっさりと承諾してくれる。簡単に望みが叶ってしまい、僕は逆に戸惑った。こんな都合のいい展開はあるのだろうか。あの滝の前で号泣してから世界が一変してしまったようでむしろ不安になってくる。もしかしたら実はあの時もう手遅れで、僕も彼の後を追って滝に飛び込んでこれは死にゆく僕の幻想なんてことはないだろうか。
「まあ、ここの家賃いくらか知らないが完全な折半とかは無理なんでその辺は考慮してもらえれば」
呑気に告げる藤宮はここの家賃を想像したのか若干口元を強張らせている。
「いいよ。家賃なんて。僕が頼んで住んでもらうんだから。むしろ僕が支払う方だよ」
「部屋代と食費を出してくれるのなら別に金を貰わなくても家事くらいはやるよ」
「それじゃあ僕の気がすまない」
「友達としてここに住むんだろ。金を貰う理由がねえよ」
「じゃあ、僕の仕事を手伝って。それに対して支払いをする」
僕は頑として譲らなかった。事務要員としても有能なので家事以外のこともしてほしいのは本音だ。付け加えれば、外で働くより家にいてほしかったからなのもある。
「俺、大したことできないぞ」
「始めは誰でも新人だよ。君は器用で機転もきくから即戦力としては充分だ」
そうかなーと彼は納得いっていない顔をする。当たり前のようにできる人間というのは、その能力に気付かないものだ。
「ま、俺が使えるかは置いといてお前の手伝いをすることに文句はないから別にいいけど」
「ありがとう」
本当にありがとう。そう伝えたい。謝る必要はないというのだから、感謝だけは何度だって伝えたい。
君がいてくれてよかった。君がいなくならなくてよかった。
僕の我儘をきいてくれてありがとう。こんな僕を友達だと思ってくれてありがとう。
君が今僕の目の前にいることが何よりも尊い奇跡みたいなもので、それ以上のことなんて望んではいけないと思うけれど、貪欲な僕の願いまで叶えてくれてどうもありがとう。
後で木内にもそれとなくお礼をしようかと思う。彼がいたから僕は藤宮と再会できたし、今回の件でも事情をよく知らないまま藤宮の所在を掴むために尽力してくれていた。
「お前はしたいことを素直に言えばいいよ。俺は嫌なことは嫌だって言う」
諭すように少し笑いながら藤宮は手を伸ばしてくる。握手でもするのかと思ったら、小さい子にでもするように軽く頭を撫でられた。
どうやら彼の中で僕は小学校に入ったばかりで友達をどう作っていいかわらかない子供のようなイメージになってしまったらしい。
人付き合い初心者で若干厨二病も入った痛い奴なのは認めるが、さすがにそこまで子供ではないと思いたい。
「あ、それと今日から俺のことは洸って呼べよ。俺も祐って呼ぶから」
人懐っこい爽やかな笑顔で告げられて一瞬息が止まった後、今度こそ僕は自分の額をテーブルに打ち付けて幻聴や幻覚でないことを確かめるべきなのではと悩んだ。
後から聞いたところによると、その時僕はなんとも表現のし難い面白い顔をしていたらしい。
こうして僕たちは新しい一歩を踏み出した。藤宮はちょうど更新の時期だったアパートを解約し、少ない荷物を持って僕のマンションに移り住んだ。無事退院した弟は、都心で一人暮らしを始め、バイトをしながら手術にかかった費用を返そうと藤宮に少しずつ金を渡しているらしい。
僕は彼と業務委託契約を結び直し、秘書的な役割を担ってもらうことにした。部屋代や食費の代わりに家事は藤宮の担当で、僕はゴミ出しなどやれることはやるということで落ち着いた。仕事の補佐をしてもらう報酬として僕が支払う金の中から毎月決まった額を藤宮は返済金に充てている。彼が後から借りた金以外の分は、彼のものとして取っておこうと僕は思っている。
お兄ちゃん気質の藤宮は、僕に少し甘くなった。元々冷たいわけでも素っ気ないわけでもなかったが、今はちょっと危なっかしくて不器用な僕のことを近所のお兄ちゃん的な目で見ている部分もあるようで、前よりも包容力が増した気がするし、時折弟に対する扱いみたいなものが混じっているように感じる。
ちなみに月齢でいえば僕の方が上である。だが、一人っ子の僕には、家族のように心配してくれたり世話を焼いてくれたりする彼の心遣いに悪い気はしなかった。
そんなこんなで僕たちの関係はこれまでとは変わりつつ、傍から見るとあまり変化のない形で続くことになった。
僕は今も毎日彼に感謝している。彼が与えてくれるかけがえのないものすべてに感謝している。
そして、この日々がずっと続けばいいと願っている。
0
あなたにおすすめの小説
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
死ぬほど嫌いな上司と付き合いました【完結】
三宅スズ
BL
社会人3年目の皆川涼介(みながわりょうすけ)25歳。
皆川涼介の上司、瀧本樹(たきもといつき)28歳。
涼介はとにかく樹のことが苦手だし、嫌いだし、話すのも嫌だし、絶対に自分とは釣り合わないと思っていたが‥‥
上司×部下BL
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる