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第五章《動く心と呪いの石》
【二】
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弥生のことだから一流の部屋でも予約しているのだろう、と身構えていた紅子の予想に反し、泊まる部屋は意外と質素な場所だった。
紅子の働いていた宿屋とは異なり、村の宿屋は商人の家を広くしたような造りになっていて、温泉が湧いている、ということを除けば民宿のような宿屋だった。そんな部屋はどこか紅子の過ごした部屋と似た雰囲気で、彼女は好感をもった。
もっとも、領主家で育てられたノアは眉をひそめていたが。
「ご主人様は夕暮れ時にはお戻りになるそうですが、お夕食が運ばれてきましたら先に召し上がってしまいましょう」
「あら、運ばれてはこないわよ」
「えっ!?」
いつもの落ち着きはどこへやら、ノアは素っ頓狂な悲鳴をあげた。
「こちらから行くのよ。囲炉裏を囲んで頂くのですって。楽しみよね」
とにこやかに言う紅子に、ノアは曖昧な表情を向ける。
「まぁ、そうですね。……きっと料理は懐石とかなのだわ。きっとそうよ」
まだ現実を受け入れられない様子のノアは遠い目になっている。
「……囲炉裏囲んで懐石出てきたら、それはそれで驚きだけどね」
と呟いた陽時厘の言葉に、紅子と滋宇は下を向き肩を震わせた。
こほん、と咳払いをし「そういえば」と滋宇が話を逸らす。
「先ほど伝達が入りまして、秋桐様がもうすぐ着くとのことでした」
「あらそうなんですの。お宿のことでご主人様に物申したい……いえ、ご相談がありますので丁度ようございました」
ノアは目を光らせ、ドアのすぐ近くに待機する。
「そんなに気になるの?」
「威厳の問題もありますので」
と眉根を寄せた。どうやら自由なご主人様に振り回されるのが常らしい。
「ここで誰に、威厳を見せる必要があるのです?」
開かれたドアの向こう側から、優しい声音が室内に届く。
ノアはぴゃっと肩を跳ねさせ、長い黒髪を揺らしながら振り返った。その拍子に、下の方で結ばれている髪紐部分が壁にあたり、石がこつんと小さな音をたてた。
「ご主人様」
とノアはじろりと睨めつける。さっきの驚いた反応はなかったかのように強気な態度だ。
「遅いではないですか。仮にも旅行だと言った旅先で若奥様を放っておくだなんて……」
「ノア、それは別に平気です」
紅子は興奮気味のノアを諌める。
「お仕事の最中、私を気にして宿の手配を早めてくださったのです。感謝こそすれど、非難するなんてとんでもないです」
元が仕事をしているだけあって、紅子の意見は仕事優先を認めるものだった。
ノアは「将来の奥様の侍女」として教育を受けたため、仕事に理解を示す紅子の心情を測りかねている。
「いえ、彼女の言う通りですね。放っておくだなんて失礼なことをしました」
すみません、と弥生は頭を下げた。
「ご主人様、この宿をご予約なさったのも何か意図があってのことなのでしょうか」
とノアが口を挟む。
「ああ、それは」
弥生が口を開きかけたとき。
「失礼致します」
玄関先の方で扉を叩く音が静かに鳴る。
その引き戸式の扉を半分ほど開き、中居らしき女性がしゃんとした姿勢で立っていた。
「お食事の用意が整いましたのでお声がけさせていただきました」
精錬された空気をまとった美しい女性に、ノアは口を半開きにした。
そのノアの反応に対し、女性は意味ありげな微笑みを浮かべて視線を逸らし、弥生と紅子を交互に見やる。
「本日は我が宿屋へようこそいらっしゃいました。何かございましたら、なんでもお申し付けくださいね」
女性は笑みを浮かべうなずく紅子をじっと見つめ、ふっと目を細めた。
そんな女性の瞳に捕らえられた紅子は片眉を下げた。歓迎されていない雰囲気が肌を刺したのだ。
一礼して部屋を出ていった女性の姿が見えなくなると、誰ともつかない安堵のため息が零れた。
そんな互いの様子に全員顔を見合せる。
「なんだか……近寄り難い雰囲気の方でしたね」
滋宇は苦笑を浮かべる。
「凛としていて、美しい方でしたからね」
と陽気に答える紅子の隣で、弥生は何故か眉をひそめ、何やら気まずそうな表情をしていた。
「あ……弥生様?」
怪訝そうにする紅子に、弥生は「あ、はい」と唇が弧を描き、
「どうかしましたか?」
と言った。
何かを隠したようなその仕草に、紅子の胸にモヤリとしたものが広がるも、無かったかのように瞬時に消え失せた。
「いえ……その、そう。どうしてこの宿屋をお選びになったのかと、ノアが」
急に名を出されたノアは目を丸くしたが、事情を察したのか首を縦にした。
「そうです。他に良い宿があるように思います。もちろんこの宿も悪いわけではないでしょうが」
「ああ、それは」
ノアの指摘に瞬きをし、ゆったりと腕を組む。
「貴方にぜひ見ていただきたいものがありまして」
と紅子を見つめる。闇を溶かしたような瞳に紅子はつい魅入ってしまい、慌てて視線を逸らす。
「それは、さっきお話していた物語のことでしょうか?それとも」
それとも、別に「何か」があるのだろうか。微かな期待が胸を躍らせた。
脈がだんだん存在感を増していく。小気味よい感覚に、紅子は手を握った。
──誰がお前みたいな奴を好くものか。
反駁に、呼吸がとまる。
暫くは思い出していなかったのに。会ってすらいないのに。どうして心の底では息づいているのだろう。
表情を暗くする紅子を余所に、
「ああ、いや……それもあるにはあるのですが」
弥生は考え込むように口元に手を当て、
「いえ、後でにしましょう。食事が待っているようですし」
と会話を終え、良いとは言えない空気を連れた一行は食事処へと向かった。
紅子の働いていた宿屋とは異なり、村の宿屋は商人の家を広くしたような造りになっていて、温泉が湧いている、ということを除けば民宿のような宿屋だった。そんな部屋はどこか紅子の過ごした部屋と似た雰囲気で、彼女は好感をもった。
もっとも、領主家で育てられたノアは眉をひそめていたが。
「ご主人様は夕暮れ時にはお戻りになるそうですが、お夕食が運ばれてきましたら先に召し上がってしまいましょう」
「あら、運ばれてはこないわよ」
「えっ!?」
いつもの落ち着きはどこへやら、ノアは素っ頓狂な悲鳴をあげた。
「こちらから行くのよ。囲炉裏を囲んで頂くのですって。楽しみよね」
とにこやかに言う紅子に、ノアは曖昧な表情を向ける。
「まぁ、そうですね。……きっと料理は懐石とかなのだわ。きっとそうよ」
まだ現実を受け入れられない様子のノアは遠い目になっている。
「……囲炉裏囲んで懐石出てきたら、それはそれで驚きだけどね」
と呟いた陽時厘の言葉に、紅子と滋宇は下を向き肩を震わせた。
こほん、と咳払いをし「そういえば」と滋宇が話を逸らす。
「先ほど伝達が入りまして、秋桐様がもうすぐ着くとのことでした」
「あらそうなんですの。お宿のことでご主人様に物申したい……いえ、ご相談がありますので丁度ようございました」
ノアは目を光らせ、ドアのすぐ近くに待機する。
「そんなに気になるの?」
「威厳の問題もありますので」
と眉根を寄せた。どうやら自由なご主人様に振り回されるのが常らしい。
「ここで誰に、威厳を見せる必要があるのです?」
開かれたドアの向こう側から、優しい声音が室内に届く。
ノアはぴゃっと肩を跳ねさせ、長い黒髪を揺らしながら振り返った。その拍子に、下の方で結ばれている髪紐部分が壁にあたり、石がこつんと小さな音をたてた。
「ご主人様」
とノアはじろりと睨めつける。さっきの驚いた反応はなかったかのように強気な態度だ。
「遅いではないですか。仮にも旅行だと言った旅先で若奥様を放っておくだなんて……」
「ノア、それは別に平気です」
紅子は興奮気味のノアを諌める。
「お仕事の最中、私を気にして宿の手配を早めてくださったのです。感謝こそすれど、非難するなんてとんでもないです」
元が仕事をしているだけあって、紅子の意見は仕事優先を認めるものだった。
ノアは「将来の奥様の侍女」として教育を受けたため、仕事に理解を示す紅子の心情を測りかねている。
「いえ、彼女の言う通りですね。放っておくだなんて失礼なことをしました」
すみません、と弥生は頭を下げた。
「ご主人様、この宿をご予約なさったのも何か意図があってのことなのでしょうか」
とノアが口を挟む。
「ああ、それは」
弥生が口を開きかけたとき。
「失礼致します」
玄関先の方で扉を叩く音が静かに鳴る。
その引き戸式の扉を半分ほど開き、中居らしき女性がしゃんとした姿勢で立っていた。
「お食事の用意が整いましたのでお声がけさせていただきました」
精錬された空気をまとった美しい女性に、ノアは口を半開きにした。
そのノアの反応に対し、女性は意味ありげな微笑みを浮かべて視線を逸らし、弥生と紅子を交互に見やる。
「本日は我が宿屋へようこそいらっしゃいました。何かございましたら、なんでもお申し付けくださいね」
女性は笑みを浮かべうなずく紅子をじっと見つめ、ふっと目を細めた。
そんな女性の瞳に捕らえられた紅子は片眉を下げた。歓迎されていない雰囲気が肌を刺したのだ。
一礼して部屋を出ていった女性の姿が見えなくなると、誰ともつかない安堵のため息が零れた。
そんな互いの様子に全員顔を見合せる。
「なんだか……近寄り難い雰囲気の方でしたね」
滋宇は苦笑を浮かべる。
「凛としていて、美しい方でしたからね」
と陽気に答える紅子の隣で、弥生は何故か眉をひそめ、何やら気まずそうな表情をしていた。
「あ……弥生様?」
怪訝そうにする紅子に、弥生は「あ、はい」と唇が弧を描き、
「どうかしましたか?」
と言った。
何かを隠したようなその仕草に、紅子の胸にモヤリとしたものが広がるも、無かったかのように瞬時に消え失せた。
「いえ……その、そう。どうしてこの宿屋をお選びになったのかと、ノアが」
急に名を出されたノアは目を丸くしたが、事情を察したのか首を縦にした。
「そうです。他に良い宿があるように思います。もちろんこの宿も悪いわけではないでしょうが」
「ああ、それは」
ノアの指摘に瞬きをし、ゆったりと腕を組む。
「貴方にぜひ見ていただきたいものがありまして」
と紅子を見つめる。闇を溶かしたような瞳に紅子はつい魅入ってしまい、慌てて視線を逸らす。
「それは、さっきお話していた物語のことでしょうか?それとも」
それとも、別に「何か」があるのだろうか。微かな期待が胸を躍らせた。
脈がだんだん存在感を増していく。小気味よい感覚に、紅子は手を握った。
──誰がお前みたいな奴を好くものか。
反駁に、呼吸がとまる。
暫くは思い出していなかったのに。会ってすらいないのに。どうして心の底では息づいているのだろう。
表情を暗くする紅子を余所に、
「ああ、いや……それもあるにはあるのですが」
弥生は考え込むように口元に手を当て、
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