ツギハギ夫婦は縁を求める

木風 麦

文字の大きさ
47 / 102
第五章《動く心と呪いの石》

【六】

しおりを挟む
 湿った風が頬をすり抜け、しんと静まり返った空間に緑を撫でる音を残す。
「あら、お知り合いでしたの?」
 仲居は目を丸くする。
 昭平は「ええ」と柔らかく笑む。
「出身の塾が同じでして。良き友人です」
 紅子は顔を隠すように俯き、
「本当に……」
 離れてからまだ週を一つしか過ぎていない。
 そんな短い期間で彼を忘れることなどできるはずもなく。
 紅子は唇を噛んだ。
 気を緩めたら目から水が溢れてしまいそうになり、慌てて目元に力を込める。
「こんなに早く再会できるなんて嬉しいです」
 のんびりとした声に、紅子の心臓は締めつけられる一方だ。
「そうですわ。お二人は積もる話もあるでしょうし、お二人で話してきてはいかがです?」
 ぱち、と手を叩いた仲居に、紅子は喉を鳴らす。
 針のむしろのような状況に、生きた心地がしない。

「──紅子さん」

 最近ずっと聞いていた、優しい声。
 その音に導かれるように、紅子はそっと顔を上げる。
「探しましたよ」
 砂利を踏みしめ、彼は大股で彼女のもとに寄った。
 その手を紅子の肩におき、そっと耳に口を近づけ、

 と囁いた。
 瞬時に紅子は目を見開く。
 くるっと仲居に顔を向け、
「ごめんなさい。婚約者がいるのでそういった誤解を招く行動はできません」
 と眉を下げた。
 紅子は宿屋で働いていた元従業員だ。相手を「接客対象」とすぐさま認識し、作り笑顔に見えない自然な微笑みを演出した。
 足を湯から上げ、手ぬぐいで拭きあげる。その紅子の傍らに立った弥生は目を細め、
「人の妻の肌を、そんなにじろじろ見るものではありませんよ」
 口元は綺麗に弧を描いているのに、目は殺気を孕んでいた。
 昭平は「え、はい」と姿勢を正す。
 その間に履物に足の指をかけた紅子は、
「それでは、お先に失礼致します。お休みなさいませ」
 弥生はその隣に立ち二人に軽く会釈をする。そのまま紅子の手をとり、
「それでは、戻りましょう」
 と一歩先へと踏み出した。

 残された翡翠は半目になり、
「見せつけてくれるわね」
 と頬杖をつく。
 その目をぽつんと立ったままの昭平に向け、
「良かったんですの?」
 と言う。
 昭平はかすかに笑い、
「そちらこそ挑発していたじゃないですか」
「見ていたのですか?」
 いいご趣味ですこと、と翡翠は睨みつける。
「私は良いのです。ただあまりに……進展も何もしなさそうだと思いましたので発破をかけただけです。ちょっとした意地悪にもなりましたし」
 そう言った翡翠の目元は赤くなっていた。
 そこから目を逸らして頬を掻き、
「俺……いや、私の方は……良かった……のかな?なんだか紅子さんが不憫なような」
 と苦笑する。
「あんなおっかない人、敵に回したくないんだけどなぁ」
 昭平の呟きに、翡翠は「あら」と口元に手をやる。
「応援しておりますわ」
「仮にも縁談相手に、それを言いますか」
 二人はくすくすと笑いあう。
 丸い月をゆっくりと雲が覆い隠していき、足湯に暗い影を落とした。


***


 星が空で輝く夜道を、弥生たちは無言で歩いていた。
 繋がれたままの手にじわりと汗が滲む。
「あの、助かりました」
 弥生が来なければ、きっと気まずい空気が流れてしまっていただろう。
 紅子が声をかけると、弥生はピタリと止まった。
 乾いた風が、紺の空を吸い込んだ髪を乱す。隠れた瞳が一瞬青く煌めいた。
「あの男が、貴方の想い人なのですね」
 自分で呟いた言葉に、彼は未だ殺意を孕んだかのような鋭い目つきをふっとほどく。
「……そうですか。私が邪魔をしたようなものですね。恨んでいるのでしょう?」
 恨むなんて、と紅子は否定ができなかった。
 どこかでそんな気があったからだ。
 押し黙る紅子に、
「いいんです。ですが……この茶番は、いつか必ず終わらせます」
 眼鏡の奥の瞳が細まる。
「え?」
 夜空を見上げ、弥生は「言葉の通りです」と紡ぐ。
「どのくらい先になるかわかりませんが、私はあなたを手放すつもりでいます。あなたに自由を返します。もちろん謝礼も支払います」
 業務的な言葉の羅列に、紅子は耳に手を添える。

「言ったでしょう?仮面夫婦だと。能力の保護と言いましたが、それが消えてしまえばその必要も無くなるのです」

 温度のない声に紅子は浅く息を吸い込む。
「……それは、用済みだということでしょうか」
 やっと出た言葉に、弥生は躊躇なく「そうですね」と首肯する。
 首筋がひどく冷える。
 手のひらの上で転がされていたというのか。仮面夫婦だなんて勝手なことをそっちから提案しておいて。
 「自由を返す」?
 それでは私が籠の鳥みたいではないか。

──冗談じゃない。

「それなら、私はそれを阻止して見せましょう」
 にこりと微笑む。
 虚をつかれたのか、弥生の瞳が大きく見開かれた。
「どなたかの思い通りになることが癪になりました。私は私のしたいようにします。あなたの苦しむ顔が見たい、というわけでもないですが、悔しがる顔なら見てみたいです」
 ふざけるな。私はまたコマとして扱われた。もう慣れたつもりでいた。けれど、けれどやっぱりそんなの私が許さない。簡単に操れると思うな。
 はらわたの煮えくりそうな感情を抱えながらも、清々しい笑顔を見せる。
 弥生は「ふっ」と噴き出した。
 肩を震わせ笑い続ける弥生は、
「そうきますか。そう……っいや、本当に面白い人ですね」
 と眉を下げる弥生をじろりと睨む。どこまで馬鹿にすれば気が済むのだ。
「そんなおかしなことを言った覚えはありませんが」
「いえいえ」
 と弥生は手を振り、
「素敵ですよ」
 さっきまでの激しい怒りはどこへやら。
 屈託のない笑顔に耐性のない紅子の胸はキュウゥと音を立てる。駄目だ駄目だ。騙されるな、と紅子は自分に言い聞かせる。
 いやでも目が優しいすぎるのだ。まるで愛犬でも眺めるかのような愛しさが滲んでいるのだ。
 悶えているそのすぐ横を、ヒュンッと何かが通り過ぎた。
 紙だ。
 そこいらに出回っているものと比べて厚い。その紙を弥生は拾い、
「ああ。早かったですね」
 書を見るなり、目を弓なりに細める。
「どうやら、有意義な情報を掴んだみたいですよ」
 行きましょうか、と出された手に他意はないのだろう。
 それが自然だとでも言うように、なんでもないことのように出された手。それを意識するのは負けた気がして。
「……はい」
 大人しく手をとる紅子を背に、弥生はひそかに目を伏せた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました

ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。 ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。 王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。 そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。 「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

処理中です...