81 / 102
第八章《昭平と母国の画策》
【十】
しおりを挟む
ずっと会ってなかったわけじゃない。太陽邸に滞在していたときの方がよほど長い期間離れていた。
──それなのに、どうしてこんなにも泣きたくなるのだろう。
熱くなった目頭に力を入れて溢れようとするものを留める。
「……というか、ここへいらしてて平気なのですか?」
「ああ、平気です平気です。正規ルートで牢をぬけたので」
「正規ルート?」
眉をひそめる紅子に、弥生はにこやかに「はい」と応える。
「皇室警備の人らが言ってた人身売買の証拠っていうのが、信ぴょう性に欠けるものと判断されたってだけですよ」
「……え?」
そんなことが有り得るのか。
仮にも皇室付の警備団だ。そうやすやすと動くことは動けるとは思えない。それなりの証拠があったからあんなにも横柄──いや、堂々たる態度だったのではないのか。
「ええ。証拠っていうのが文書のやり取りとのことだったので、我が警備団に調べてもらったのです。そうしたら、祝い金を賄賂だと言い張っていたことが判明しまして」
「お祝い金が賄賂……ええと、なぜそのような解釈に至ったのでしょう」
こめかみに手をやり唸る紅子に、
「祝い金の額がとんでもなかったからですね。おそらく七兵衛殿はそういった意味合いも兼ねてたのでしょうが、祝い金には上限金額が定められてるわけではないですし、あくまで『大事な娘への贈り物として大御所の家が渡す金額の範囲を出ない』という判断になったんですよ。ちなみにその判断を下したのは祭神の君ですよ」
「祭神の──春の宮様……!ご無事でよかったです──けど、春の宮様がそういった判断をして大丈夫なのですか?」
「春の宮様は皇族の一員ですので、太陽妻より権力は劣れど、皇室付き警備団を動かすことはできるらしいですよ──と、その祭神の君から言伝を貰いまして、『約束は守らせて頂きます』と」
──春の宮様、私に守られてくださいませんか。そして……今度は、春の宮様が私のことを助け出してください。
春の宮を太陽邸に置きざりにしたその日、紅子は春の宮に耳打ちした。
春の宮を留まらせるための言葉だったのだが──……。
耳がじわりと熱を持つ。
「良き友人を得られたようですね」
陽だまりのように温かな笑みを向けられ、紅子の胸が甘く疼く。気取られないよう、赤く色付いた目尻を隠すように俯いた。
「そ、それより……っここに居ては、おちおち話もできないのでは?場所を移動しませんか」
紅子の提案に、弥生は目を瞬き──おもむろに手で口を覆い、視線を逸らした。
「まさか君の方から誘ってくれるとは思っていなくて……面食らいました」
意味深な発言に、紅子は「なっ」と否定を口にしようとする。しかしそれが声に出されることはなく、代わりに、
「……そう、ですね。二人きりになりたいと、思ってなくはないです」
と、ややまどろっこしい言葉を返した。
「え」
予想外な反応だったのか、手を口に当てたまま弥生は硬直した。
そんな彼の反応に、脆い乙女心はパキッと音を立てて悲鳴をあげた。
「ちが……か、からかってるって、わかってましたから。ちゃんと。ほんとに、あの、ノリで返しただけですから。……私、熱気に当てられちゃったみたいなので、お水もらってきますっ」
その場から逃げ出すように駆け出した紅子の手は容易く捕らえられる。
「具合が悪くなってしまったなら、介抱しなくてはなりませんね。遠慮せず、もたれかかってください」
肩に手を回され、さりげなく人気の無い方へと誘導される。優しい声音とは裏腹に、支える手は力強い。
もう二度と離さないでほしいと思うほど、その手の温もりに安堵した。
群衆が垣間見える緑陰に設置されていた長椅子に並んで座る。
肩に回された腕はそのままで、離れる気配はない。
──……少しだけ、なら、許されるかな。
息を止め、弥生の肩に小さな頭を寄せた。
濡れた葉のような緑の香りに、紅子は静かに目を閉じる。
「……安心しきってるところ悪いのですが」
さら、と髪を梳いた指が、意地悪く紅子の耳の輪郭を触れるか触れないかの間合いでなぞった。
小さく声を漏らした彼女に、男は色香漂う笑みを向ける。
「そんな可愛らしいことをされたら、触れたくなるでしょう」
潤む瞳を上げた紅子の頬に手を添え、弥生は吐息ごと呑み込むように深く口付けた。
互いの熱が絡まり、溶けていく。
「……っ!?」
離されたはずの唇が細い首筋を伝い、襟元付近まで降りていき──軽く食まれ、柔い皮膚が吸われた。
チクリとした痛みと共に、赤い痕が真っ白な肌にくっきり浮かぶ。
「?あの 弥生様、なにを……?」
体感したことの無い甘い痺れに、紅子は戸惑いを口にする。
「悪い虫が変な気を起こさないよう、呪いをかけただけですよ」
男は掴みどころのない笑顔で言った。
「それより、戦です。レンとかいう女の方はわからないのですが、太陽妻は正式な実権者である『太陽』になるため、また隣国の領主の目的は単純に領地拡大のために戦を起こすって感じですね」
どこからそこ情報を得たのか、とやぶ蛇になりそうな質問を呑み、
「太陽になるため、夫を殺す……って言ってますよね?」
「まぁそうでしょうね。あの人は権力への執着が異常なので。あ、理解しようと思わない方がいいです。あの人は自分が一番じゃないと気が済まないってだけなので」
言うなり、弥生は立ち上がる。
「ってわけなので、血の気の多い輩が多くこの場にいると思います。紅子さんは私の近くに居てください。じゃないと気が気じゃないので」
差し伸べられた手を見つめた彼女は、その手を取らずに立ち上がる。
「守られるだけは性に合いません。私は私のできることをします」
強気に押され、弥生は「やっぱり」と言いたげに黒髪を搔く。
「……貴方が守られるだけの存在であったら、どれだけ気が楽だったか」
「あら、守られるだけの私に、果たしてご興味があったのかしら」
見透かしたような目に、弥生は苦笑を唇に浮かべた。
──刹那、その目が見開かれる。
その眼球の動きが、紅子にはとてもゆっくりと動いて見えた。
視界の端から黒い影が一瞬よぎり、気づけばそれは、弥生のすぐ側に居て──彼の腹部に、鈍く光った獲物を突き立てた。
「……っいやぁぁぁ!!」
藍の着物が紅の色を吸い込み、じわりと染みを広げていた。
──それなのに、どうしてこんなにも泣きたくなるのだろう。
熱くなった目頭に力を入れて溢れようとするものを留める。
「……というか、ここへいらしてて平気なのですか?」
「ああ、平気です平気です。正規ルートで牢をぬけたので」
「正規ルート?」
眉をひそめる紅子に、弥生はにこやかに「はい」と応える。
「皇室警備の人らが言ってた人身売買の証拠っていうのが、信ぴょう性に欠けるものと判断されたってだけですよ」
「……え?」
そんなことが有り得るのか。
仮にも皇室付の警備団だ。そうやすやすと動くことは動けるとは思えない。それなりの証拠があったからあんなにも横柄──いや、堂々たる態度だったのではないのか。
「ええ。証拠っていうのが文書のやり取りとのことだったので、我が警備団に調べてもらったのです。そうしたら、祝い金を賄賂だと言い張っていたことが判明しまして」
「お祝い金が賄賂……ええと、なぜそのような解釈に至ったのでしょう」
こめかみに手をやり唸る紅子に、
「祝い金の額がとんでもなかったからですね。おそらく七兵衛殿はそういった意味合いも兼ねてたのでしょうが、祝い金には上限金額が定められてるわけではないですし、あくまで『大事な娘への贈り物として大御所の家が渡す金額の範囲を出ない』という判断になったんですよ。ちなみにその判断を下したのは祭神の君ですよ」
「祭神の──春の宮様……!ご無事でよかったです──けど、春の宮様がそういった判断をして大丈夫なのですか?」
「春の宮様は皇族の一員ですので、太陽妻より権力は劣れど、皇室付き警備団を動かすことはできるらしいですよ──と、その祭神の君から言伝を貰いまして、『約束は守らせて頂きます』と」
──春の宮様、私に守られてくださいませんか。そして……今度は、春の宮様が私のことを助け出してください。
春の宮を太陽邸に置きざりにしたその日、紅子は春の宮に耳打ちした。
春の宮を留まらせるための言葉だったのだが──……。
耳がじわりと熱を持つ。
「良き友人を得られたようですね」
陽だまりのように温かな笑みを向けられ、紅子の胸が甘く疼く。気取られないよう、赤く色付いた目尻を隠すように俯いた。
「そ、それより……っここに居ては、おちおち話もできないのでは?場所を移動しませんか」
紅子の提案に、弥生は目を瞬き──おもむろに手で口を覆い、視線を逸らした。
「まさか君の方から誘ってくれるとは思っていなくて……面食らいました」
意味深な発言に、紅子は「なっ」と否定を口にしようとする。しかしそれが声に出されることはなく、代わりに、
「……そう、ですね。二人きりになりたいと、思ってなくはないです」
と、ややまどろっこしい言葉を返した。
「え」
予想外な反応だったのか、手を口に当てたまま弥生は硬直した。
そんな彼の反応に、脆い乙女心はパキッと音を立てて悲鳴をあげた。
「ちが……か、からかってるって、わかってましたから。ちゃんと。ほんとに、あの、ノリで返しただけですから。……私、熱気に当てられちゃったみたいなので、お水もらってきますっ」
その場から逃げ出すように駆け出した紅子の手は容易く捕らえられる。
「具合が悪くなってしまったなら、介抱しなくてはなりませんね。遠慮せず、もたれかかってください」
肩に手を回され、さりげなく人気の無い方へと誘導される。優しい声音とは裏腹に、支える手は力強い。
もう二度と離さないでほしいと思うほど、その手の温もりに安堵した。
群衆が垣間見える緑陰に設置されていた長椅子に並んで座る。
肩に回された腕はそのままで、離れる気配はない。
──……少しだけ、なら、許されるかな。
息を止め、弥生の肩に小さな頭を寄せた。
濡れた葉のような緑の香りに、紅子は静かに目を閉じる。
「……安心しきってるところ悪いのですが」
さら、と髪を梳いた指が、意地悪く紅子の耳の輪郭を触れるか触れないかの間合いでなぞった。
小さく声を漏らした彼女に、男は色香漂う笑みを向ける。
「そんな可愛らしいことをされたら、触れたくなるでしょう」
潤む瞳を上げた紅子の頬に手を添え、弥生は吐息ごと呑み込むように深く口付けた。
互いの熱が絡まり、溶けていく。
「……っ!?」
離されたはずの唇が細い首筋を伝い、襟元付近まで降りていき──軽く食まれ、柔い皮膚が吸われた。
チクリとした痛みと共に、赤い痕が真っ白な肌にくっきり浮かぶ。
「?あの 弥生様、なにを……?」
体感したことの無い甘い痺れに、紅子は戸惑いを口にする。
「悪い虫が変な気を起こさないよう、呪いをかけただけですよ」
男は掴みどころのない笑顔で言った。
「それより、戦です。レンとかいう女の方はわからないのですが、太陽妻は正式な実権者である『太陽』になるため、また隣国の領主の目的は単純に領地拡大のために戦を起こすって感じですね」
どこからそこ情報を得たのか、とやぶ蛇になりそうな質問を呑み、
「太陽になるため、夫を殺す……って言ってますよね?」
「まぁそうでしょうね。あの人は権力への執着が異常なので。あ、理解しようと思わない方がいいです。あの人は自分が一番じゃないと気が済まないってだけなので」
言うなり、弥生は立ち上がる。
「ってわけなので、血の気の多い輩が多くこの場にいると思います。紅子さんは私の近くに居てください。じゃないと気が気じゃないので」
差し伸べられた手を見つめた彼女は、その手を取らずに立ち上がる。
「守られるだけは性に合いません。私は私のできることをします」
強気に押され、弥生は「やっぱり」と言いたげに黒髪を搔く。
「……貴方が守られるだけの存在であったら、どれだけ気が楽だったか」
「あら、守られるだけの私に、果たしてご興味があったのかしら」
見透かしたような目に、弥生は苦笑を唇に浮かべた。
──刹那、その目が見開かれる。
その眼球の動きが、紅子にはとてもゆっくりと動いて見えた。
視界の端から黒い影が一瞬よぎり、気づけばそれは、弥生のすぐ側に居て──彼の腹部に、鈍く光った獲物を突き立てた。
「……っいやぁぁぁ!!」
藍の着物が紅の色を吸い込み、じわりと染みを広げていた。
0
あなたにおすすめの小説
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。
ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。
王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。
そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。
「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。
婚約破棄の代償
nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。
エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる