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第九章《赫姫と国光》
【五】
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猛威を奮っていた吹雪は、白く輝く大量の雪を残して去っていた。冬の鳥が声高に鳴く朝、緋子は一人、その雪原に跡をつけながら歩いていた。
帰ったら、おそらく気絶するくらいの折檻を受けることになるだろう。
いっそ逃げ出そうか、と思ったこともあった。
けれどその度に村の人間によって阻まれた。とくに年寄り連中だ。連中は、彼女の自由など許さない。
旦那の不貞を知り、当然のように正妻を責めたのもこの老いた村人たちだった。
「夫を繋ぎとめておけないなんて出来損ないの嫁だ」
「家のことも夫のことも子どもの世話だって成立させなければ嫁の意味が無い」
等、無関係なはずの人間から責め立てられた正妻だ。その精神状態で愛人の子を愛するだなんて、到底できるわけがない。
この村人の厄介なところは、自分たちより「下」の人間を作りたがることだった。
自分たちより「上」の豪邸に突然やってきた嫁しかり、その愛人の子どもしかり、「余所者」である彼女たちは格好の獲物だった。
村人たちの目に、緋子という少女は「自分たちよりも格下の存在」であり「自分たちよりも不幸な存在であるべき」人間であり、「存在することを許されていない」者という認識を持っていた。
故に、微笑みかけられたのは初めての経験だった。
ほんのり胸が温かくなった初めての出来事だった。
「……名前、聞けてよかった」
その名を脳内で反芻するだけで、つらい日々を乗り越えられるような気がしてくる。空っぽの心に、とくとくと温かいものが注がれる心地になる。
「ああ、良かった!生きていたのね」
帰り着いて早々、正妻が笑顔で緋子を迎え入れた。
見たこともない晴れやかな笑顔と、聞いたこともない安堵の声だった。
緋子の血管がざわりと落ち着きのない脈を打つ。
通された大客間には、見慣れない顔ぶれが並んでいた。共通しているのは、皆黒の紋付に身を包んでいることのみ。まるで通夜のような雰囲気だ。
痛いほどの視線を感じながらも、緋子は上座に腰を落ち着けている父──秋桐耕作の前に進み出た。そう正妻から指示されたからだ。
理由も教えられずにいきなり仰々しい空間に連れてこられ、父親と呼んでいいかわからない人間の前に座らされ、緋子の脳は嫌悪を叫んでいた。
「贄は見つかった。皆、この娘が逃げ出さないようよく見張っておくように」
唐突に言い渡された言葉の真意をすぐには掴めず、緋子はその場に硬直する。
──にえ、……贄?生贄?私は、神に捧げられるということ?死ぬってこと?
そこで初めて、点と点が結びつく。
通されたのは儀式の打ち合わせのような会合だった。緋子の父親の家系は代々神に供物を捧げることで繁栄を保ってきた一族だった。勿論毎年捧げているわけではない。飢饉のとき、災害が襲ってきそうな年、疫病が流行したとき。これらのときに秋桐家は生贄を捧げる祭事を取り仕切る。例えそれが秋桐家の子どもでなくても、だ。そもそも秋桐の家の子どもが贄に選ばれることなど滅多にない。その理由は単に自分たちの子を贄になど出したくないからである。
だが今回は、その供物に「要らない子」である自分が選ばれたのだと初めて解する。笑顔で迎え入れた正妻の態度にも納得できてしまう。目の上のたんこぶがいなくなるうえ、自分たちに幸福をもたらしてくれる存在となるのだ。嬉しくないはずがなかった。
それならば、と緋子は両手を畳につき、額を寄せた。
「逃げ出しません。足掻きもしません。しかし一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「許そう」
「ありがとうございます。では申し上げます。私の生涯は良いものとは言えません。まともな食事を食べたことなど数える程しかございません。このまま死んだのでは、清らかな魂だけの存在になどなれやしません。どうか、心地よく神の御本へいけるようご配慮を頂けませんでしょうか」
この贄は誰でもいいわけではない。大人ではなく、子どもが良しとされている。その理由は「穢れ」がない、あるいは少ないとされているからだ。
供物となるのは人の魂だ。この魂が穢れていると、幸福どころか神の怒りを買うことになる。
その村人の畏怖の情を、緋子はよくよくわかっていた。
それ以降、わかりやすいほどに村人と正妻の態度が変わった。陰口など叩こうものなら、牢に連れていかれるとわかっていたからだ。一番の理由としては、「自分たちが呪われたら堪らないから」というものだが、そんなことは緋子に関係なかった。
卑しい生活から一変、どこぞの姫と同等の扱いを受けるようになり、最後の「幸福」を味わっていた──はずなのだが。
「──虚しい」
豪華な食事、間食、風呂、と環境はまったくの別物になった。しかしどうにも、心が晴れることはない。もちろん虐げられていた時期とは比べものにならないほどに心は軽い。軽いのだが、すべての事象が空虚に思えてくるのだ。すべてを諦めていたときと同じような心地になるのだ。
「……もう一度、会いたいな」
浮かぶのは、ただ一人優しく接してくれた人。恩人であり、もう二度と会うことのないだろう人。
緋子を知らないということは、この土地の人間ではないと宣言しているようなものだった。良い村とは言い難いこの場所に留まっていることはおそらくないだろう。
けれども会いたくなってしまう。声をもう一度聞きたいと思ってしまう。顔を見たいと思ってしまう。
初めて優しくされたからかもしれない。初めてまともに歳の近い異性と話したからかもしれない。
どちらにせよ、惹かれてしまっていることに変わりはなかった。
緋子は何枚も着物を重ね、雪に沈まないよう深履に足を通す。
白い息を吐き出した彼女は、一面が銀に染まった景色の中へと飛び込んだ。
帰ったら、おそらく気絶するくらいの折檻を受けることになるだろう。
いっそ逃げ出そうか、と思ったこともあった。
けれどその度に村の人間によって阻まれた。とくに年寄り連中だ。連中は、彼女の自由など許さない。
旦那の不貞を知り、当然のように正妻を責めたのもこの老いた村人たちだった。
「夫を繋ぎとめておけないなんて出来損ないの嫁だ」
「家のことも夫のことも子どもの世話だって成立させなければ嫁の意味が無い」
等、無関係なはずの人間から責め立てられた正妻だ。その精神状態で愛人の子を愛するだなんて、到底できるわけがない。
この村人の厄介なところは、自分たちより「下」の人間を作りたがることだった。
自分たちより「上」の豪邸に突然やってきた嫁しかり、その愛人の子どもしかり、「余所者」である彼女たちは格好の獲物だった。
村人たちの目に、緋子という少女は「自分たちよりも格下の存在」であり「自分たちよりも不幸な存在であるべき」人間であり、「存在することを許されていない」者という認識を持っていた。
故に、微笑みかけられたのは初めての経験だった。
ほんのり胸が温かくなった初めての出来事だった。
「……名前、聞けてよかった」
その名を脳内で反芻するだけで、つらい日々を乗り越えられるような気がしてくる。空っぽの心に、とくとくと温かいものが注がれる心地になる。
「ああ、良かった!生きていたのね」
帰り着いて早々、正妻が笑顔で緋子を迎え入れた。
見たこともない晴れやかな笑顔と、聞いたこともない安堵の声だった。
緋子の血管がざわりと落ち着きのない脈を打つ。
通された大客間には、見慣れない顔ぶれが並んでいた。共通しているのは、皆黒の紋付に身を包んでいることのみ。まるで通夜のような雰囲気だ。
痛いほどの視線を感じながらも、緋子は上座に腰を落ち着けている父──秋桐耕作の前に進み出た。そう正妻から指示されたからだ。
理由も教えられずにいきなり仰々しい空間に連れてこられ、父親と呼んでいいかわからない人間の前に座らされ、緋子の脳は嫌悪を叫んでいた。
「贄は見つかった。皆、この娘が逃げ出さないようよく見張っておくように」
唐突に言い渡された言葉の真意をすぐには掴めず、緋子はその場に硬直する。
──にえ、……贄?生贄?私は、神に捧げられるということ?死ぬってこと?
そこで初めて、点と点が結びつく。
通されたのは儀式の打ち合わせのような会合だった。緋子の父親の家系は代々神に供物を捧げることで繁栄を保ってきた一族だった。勿論毎年捧げているわけではない。飢饉のとき、災害が襲ってきそうな年、疫病が流行したとき。これらのときに秋桐家は生贄を捧げる祭事を取り仕切る。例えそれが秋桐家の子どもでなくても、だ。そもそも秋桐の家の子どもが贄に選ばれることなど滅多にない。その理由は単に自分たちの子を贄になど出したくないからである。
だが今回は、その供物に「要らない子」である自分が選ばれたのだと初めて解する。笑顔で迎え入れた正妻の態度にも納得できてしまう。目の上のたんこぶがいなくなるうえ、自分たちに幸福をもたらしてくれる存在となるのだ。嬉しくないはずがなかった。
それならば、と緋子は両手を畳につき、額を寄せた。
「逃げ出しません。足掻きもしません。しかし一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「許そう」
「ありがとうございます。では申し上げます。私の生涯は良いものとは言えません。まともな食事を食べたことなど数える程しかございません。このまま死んだのでは、清らかな魂だけの存在になどなれやしません。どうか、心地よく神の御本へいけるようご配慮を頂けませんでしょうか」
この贄は誰でもいいわけではない。大人ではなく、子どもが良しとされている。その理由は「穢れ」がない、あるいは少ないとされているからだ。
供物となるのは人の魂だ。この魂が穢れていると、幸福どころか神の怒りを買うことになる。
その村人の畏怖の情を、緋子はよくよくわかっていた。
それ以降、わかりやすいほどに村人と正妻の態度が変わった。陰口など叩こうものなら、牢に連れていかれるとわかっていたからだ。一番の理由としては、「自分たちが呪われたら堪らないから」というものだが、そんなことは緋子に関係なかった。
卑しい生活から一変、どこぞの姫と同等の扱いを受けるようになり、最後の「幸福」を味わっていた──はずなのだが。
「──虚しい」
豪華な食事、間食、風呂、と環境はまったくの別物になった。しかしどうにも、心が晴れることはない。もちろん虐げられていた時期とは比べものにならないほどに心は軽い。軽いのだが、すべての事象が空虚に思えてくるのだ。すべてを諦めていたときと同じような心地になるのだ。
「……もう一度、会いたいな」
浮かぶのは、ただ一人優しく接してくれた人。恩人であり、もう二度と会うことのないだろう人。
緋子を知らないということは、この土地の人間ではないと宣言しているようなものだった。良い村とは言い難いこの場所に留まっていることはおそらくないだろう。
けれども会いたくなってしまう。声をもう一度聞きたいと思ってしまう。顔を見たいと思ってしまう。
初めて優しくされたからかもしれない。初めてまともに歳の近い異性と話したからかもしれない。
どちらにせよ、惹かれてしまっていることに変わりはなかった。
緋子は何枚も着物を重ね、雪に沈まないよう深履に足を通す。
白い息を吐き出した彼女は、一面が銀に染まった景色の中へと飛び込んだ。
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